高山右近列福祈願公式巡礼記 2011.2.2 ~2.6 メモ

 高山右近列福祈願公式巡礼記 2011.2.2 ~2.6 メモ
溝部司教、大塚司教、日本26聖人記念館長ルカ神父、フランシスコ会ルカ神父、
平林神父他
総勢86名
(関空出発)
2日 ・1時間遅れで、午前11時関空出発~14:30マニラ空港着 待ち時間の間、26聖人記念館館長ルカ神父、京都フランシスコの家ルカ神父と話す
畿内はまあまあ、窓側、台湾を過ぎたあたりからかなりの揺れ
(マニラ着)
・マニラ湾を眼下にして着陸 マニラ国際空港は混雑、ローカル空港的感覚 空港の最期の出口で
係官が金銭を要求 よくあるそうで、添乗員は無視しようとするが、通そうとしないのにで驚く
・空港を出るとさすがに蒸し暑いが、湿度はそう高くない感じ 南国の刺すような暑さではない
「到着後のバスの中での、ガイド、溝部司教様の話]
・バス2号車 ガイドマイク鈴木(元海外青年協力隊員 現地の人と結婚し、41年マニラ在住) ・マニラの名称:ニイラット(城壁部分)のある町 石:石灰岩 1571年スペインマニラに入る
・フィリッピン独立の父 ホセ・リサール 1896年 35才 死亡
・マニラに関係がある福者・聖人日本人 全て司祭(聖トマス西はドミニコ会、それ以外はイエズス会)
188福者:ペトロ岐部・金鍔次兵衛・結城了雪、1987年列聖:聖トマス西(16聖人)、
*金鍔神父は「セブ」も関係有り(セブの修道院で勉強 叙階 )
セブは、フィリッピンではマニラに次ぐ第二の都市、京都・奈良のような古都の感覚
・列福式は大阪で行われる事になるのではないか
・今回のマニラ公式巡礼は、昨年の6月、平田司教と下見をし、計画したものである
・今後もこのようなツアーを行う予定である
(ホテル到着)
・宿泊するホテル「ダイヤモンドホテル」はマニラ湾沿いに建つ、清潔でツインで1人、悠々状態
・ホテル入口のガードマンと犬によるチェックが面倒くさい
・ホテル到着後、部屋に入り着替え、すぐに16:00ロビー集合、バスでイントロムロスへ向かう
・バスは相当使い込まれた韓国製の中古車
(ホテル出発) イントラムロス→旧要塞内を散策→聖アウグスティン教会・資料館見学→教会でミサ→夕食
・ホテル前の広い海岸通りを通って、イントラムロスへ向かう、途中リサール公園を車窓から見て、イントラムロス
の城壁の門を潜り抜け、イントラムロスの中に入る
現在は綺麗になっているが、以前は治安も悪く、観光で行ける場所ではなかったとのこと
概ね良好な街並みであるが、所々劣悪な環境の所も見かけられた
・当時のイントラムロスには、総督官邸、7つの教会、修道院等があり一つの独立した街を形成していた
・バスが門を通り抜け、右折すると直ぐに右近が上陸後パレードをしたゼネラル・ルナ通りに入り、マニラ大聖堂、
聖アウグスティン教会前を通り、右折すると、ヴィクトリー通りに入る この先を左折した所でバスを下車
下車した向かい側に建物がある 修道院?この建物は内藤ジュリアに関係あるかとガイドに質問したことろ、
直ぐに否定された この建物は右近の住居跡とされる場所の交差点の向かい側にあり、マニラに来るまでに
インターネットで調べときに内藤ジュリアの修道院跡と紹介されていたものですが、恐らく間違いであろう 何故なら、内藤ジュリアの修道院跡については、片岡弥吉著の日本キリシタン殉教史(P225)に詳しく記されている
それによれば、修道院跡は日本人村サン・ミゲルにあったそうです ・1614年の禁教令で都の市中を俵詰にされて引き回された日本初の女子修道会ベアタス会のジュリア他14人は、
長崎に送られ、ミゼリコルディアの家などで過ごした後、ジュリアの兄内藤ジョアン、右近達ともにマニラ に追放
された マニラでの彼女らはイエズス会の小教区であった日本人村サン・ミゲルに修道院を建て、修道生活を 送り、マニラの土となった 生活費はマニラの高官夫妻が贈り、ジュリア達は修院での祈りと原住民や日本人の
悩みの相談に乗っていたそうです ジュリアはマニラ到着から13年後62歳で亡くなった
ルシア・デ・ラ・クルスがその後の院長となり、更にその後にテクラが院長「となり、二人はコレジヨ・デ・マニラ
に埋葬され、他のベアタス達はサン・ミゲル教会に埋葬された 1684年同じ場所に、フィリッピン最初の女子
修道会が誕生した それまで、ヨーロッパ人以外の修道会の創立は認められなかった 日本人修道会の存在が
半世紀後にその創立を促す機縁となった
・片岡弥吉氏は昭和12年2月ジュリア達の修道院跡を訪ねた その場所はパシグ河の左岸でサン・マルセリーノ街
(この一帯がかつてのサン・ミゲル村)で、高山右近研究家でマニラ在住のマニラ大学教授リべッティ神父が考証
されていた場所であった そこには女子修道会経営のサンタ・テレジア女子学院があり、その中庭には一本の
記念木標が建っている これは昭和12年2月7日マニラで開催された第33回万国聖体大会の日本人参加団
(団長田口芳五郎枢機卿・当時大阪教区司祭)の手で建てられたものである
・昭和12年2月に撮影された、ベアタス修道院跡(サンタ・テレジア女子学院)写真が掲載されている
・イントラムロスを現地ガイドの案内で散策(イエズス会学院 右近の家 聖アウグスティン教会)
(右近の家周辺を散策)
・修道院の前でガイドが説明、右近の住居(サン・ミゲルの家)やイエズス会の学院や聖アンナ教会があった
であろう跡地に面した道路「ヴィクトリー通り」を歩きながらガイドの説明を聞く 多くの人でよく聞こえない
・右近住居の場所は角地にあり、現在は中国人の住居になっているとのこと
また、右近がマニラ上陸後の歓迎の宴が催されたイエズス会学院は第一イグナチオ教会跡地と同じである
と説明され、その場所はヴィクトリー通りを挟んで、右近住居跡の向かい 側(現在マニラ市立大学)に当たる
とのこと
(聖アウグスティン教会 資料館の見学)
・バスに戻り、先程通り過ぎた聖アウグスティン教会に向かう 直ぐに到着下車、正面は写真で見た通り上品な
ピンク色の教会 既に夕方であたりは大分薄暗い感じになっていた 観光用の馬車が並んでいる 聖堂まで
少し説明を受ける このアウグスティン教会は、右近がマニラに上陸した時にパレードで立ち寄り大歓迎を
受けた教会である
(当時の宣教師が記すパレードの様子)
・行進:主聖堂→聖アウグスティン教会→イエズス会の学院→近くの右近に与えられた住居へと向かう
途中、主聖堂に近ずくと全部の鐘が鳴り渡り、入口では聖職者たちが美しい祭服をまとい、オルガンの
響きと、他の楽器の演奏の中に聖堂に導くために待ち受けた 右近は車を降り、教会で祈りをささげた
同じことが、アウグスティノ教会の入り口でも繰り返された
・次に聖堂の横にある資料館をガイドの案内で見学、
入ると直ぐに大きな鐘が眼に入る 豪華な祭具が陳列してある所を過ぎると中庭のある回廊やそれに面した
各部屋に展示されているキリスト教関係の歴史的に価値のある品々等(絵画、彫刻、古い祭壇、祭具、
パレード用の幾つかの種類の豪華な馬車、今でも相当の費用を負担すれば納骨できるらしい納骨堂等)
を見物し、資料館の隣の聖アウグスティノ 修道院の立派な建物と庭を見る (注)私は気がつかなかったのであるが、祭具には教会建設当初から伝わる十字架があり
右近もこれを礼拝したのではないかと思われるとの別の巡礼者の報告もあった)
この資料館の裏によく整備された庭があり、アウグスティヌス会の一際立派な建物がある
ミサまで時間があるので資料館の二階に上がり、展示資料を見る 聖堂と資料館等の全景がわかる模型が
陳列してあり、建物の位置関係を理解する 二階廊下から中庭と聖堂の鐘楼が美しく見える
・途中で、ガイドに聖堂及びこの資料館の建設時期について尋ねると、右近当時の建設の名残を示すもの
は無いとのことであった 右近のいた時期からは相当経過した後の時期、今から約250年間に建て替え
られたもので、第二次大戦で多くが破壊された イントラムロスの中で幸い残った石造建築物では最も古い
ものであることは間違いないが、右近当時のものではないとのことであった (少し残念 しかし、建築材料
や様式で一部残ったものもあったのではと勝手に推測、この教会は世界遺産で、右近当時の建築が
そのまま残っていると説明する人もいるそうです よく分からなかった)
その後、この資料館と聖堂とは二階で繋がっており、両方を結ぶ2階の通路から聖堂の二階部分に入る
すると祭壇に向かって左側には立派なパイプオルガンがあり、 それを目ざとく見つけた同行の音楽得意の
シスターが弾こうとする 中央にはスペインのサンティアゴの修道院で見たのと全く同じ立派な彫刻を施した
椅子が「コ」の字状にずらりと並んだスペース(合唱団の席か?)がある テラス状の所から見ると、眼下には、
立派なシャンデリアに照ら された一階の広い聖堂が広がているのを見ることができる
(なんと次の日のミサでは、シスターがこのパイプオルガンを弾くことを許された)
・一階に下りると寄附を要求するかのように物乞い姿の少年の像が向かえる
相当広い聖堂である 撮影しやすいように、長椅子の後方に座り、ミサを待つ
(聖アウグスティン教会ミサ)
・マニラ到着後の2月2日のミサは、聖アウグスティン教会において、大塚司教の司式で荘厳に行われた
右近がマニラに到着した時の様子を思い返しながらミサにあづかる初めての教会なのでお願いごとを
する(亡き森謙三君のシャツを着て祈る)
大塚司教は説教の中で右近の生涯を概括的に説明される 早朝はまだ高槻で、夕方には右近ゆかりのマニラの聖堂でミサとは、まだ心身がマニラの空気観に
馴染んでいない不思議な感覚であった
(夕食)
・ミサ後、バスに乗り、大きな通りに面した中華料理のレストランの二階で夕食を食べる
最初に、随行の司教・司祭・シスター、旅行会社職員等の紹介が行われ、関東組と関西組との顔合わせが
行われた 私の席は、関東から家族で来られた人や単身で来られた人等で座った中華丸テーブルで、
全く知らない人同志であったが隣席の人の気遣いで なごやかに夕食ができた 3日 イントラムロス入場の門見学→大聖堂での公式ミサ→要塞の先端部分を見学→ディラオ広場へ右近像へ献花 昼食→日本人街(内藤ジョアン)→聖トマス大学→公式レセプション
・6時起床 快晴 ビルの谷間から朝日 マニラ湾が一望に見える 広い海岸通りを散策、ジョギングなどして
いる人がいる 多人数が乗る競技用の「レガッタ」(?)、停泊してる 船舶が朝日に照らされて美しい
・予定通り8時ホテルを出発 右近記念ミサを捧げるマニラ大聖堂にマニラ警察の白バイに 先導されて大聖堂 に向かう 皆感激 マニラは交通渋滞が激しいので、これからの予定を時間通りこなすうえで、このことは
とて有難い配慮となった事に、後で気付かされる
・昨日と同じコースでマニラ大聖堂に向かう 途中、フィリピン独特のジムニ-が多く行き交う早朝のマニラの
通勤風景を見、フィリピンに来たのだと実感する
(イントラムロス見学 ポスティゴ見学 大聖堂見学)
・大聖堂に着き下車、早速周辺の見学に向かう 大聖堂に向かって左のイントラムロスの当時の名残が残る
と言われている城壁の前で説明を受け、次に右近が入場したと言われる門(postigo)に向かう
当時の入場の足跡(?)と呼ばれる石の足跡城にへこんだところがある ここを右近が入場してきたとの 説明である
この門の上に上がると、要塞の堀(海)であった所(現在は埋め立ててゴルフ場)が見える
(以前のこの堀跡は、ゴミ捨て場状態で、とても汚かったとのこと)
・この見学後、聖堂へ向う ミサまで時間があるので聖堂内右サイドに展示してある聖堂の関係資料を見学 (第二次大戦で崩壊した教会が戦後再建されていく過程のパネルやマリア様の像や現代的彫刻感覚 のデザインの十字架が印象的であった
・右近がマニラ上陸後パレードをしたと言われるゼネラル・ルナ通りを上手く撮影しようとしたできなかった
(マニラ大聖堂でのマニラの枢機卿による公式ミサ)
・午前9時より マニラ大聖堂でフィリッピンのロサレス枢機卿司式の公式右近祭記念ミサ 今日は右近がこのイントラムロスで臨終を迎える日であり、公式行事としての荘厳なミサ 枢機卿、日本からの二人の司教等による荘厳ミサは品格があり、素晴らしかった
心から全ての人々、右近の列福を祈る ミサ後、祭壇前で記念撮影が行われた (溝部司教英語で説教、マニラの枢機卿は78歳と言う高齢にもかかわらず、気さくに撮影に応じて
おられた)
・マニラ大聖堂は、第二次世界大戦の際に日本軍が立てこもり、アメリカ軍を激しい戦闘が行われた際に破壊
されたが、その後日本の援助もあって、再建され今日に至っている
・日本の援助を示すプレートが大聖堂の壁面に貼りつけてある
・大聖堂前は、広場になっている その前面道路上で、土産物売りが寄ってくる ・右近上陸後、パレードをした「ゼネラル通り」を再度上手く撮影しようとしたができなかった
・大きな銅像(スペインのカルロス王)ある大聖堂前の広場から、逆光の大聖堂を撮影する
(サンチャゴ要塞の核心部分へ向かう)
・サンチャゴ要塞の核心部分に徒歩で向かう
・入口までは広い道で整備されている
・聖堂を出ると直ぐに「役所の建物」(ここにイントラムロスの古地図がある)がある通りに出る
イントラムロスに行く通りと交差する通り、これが右近が港から来たと言われている通りか もしれないと眺める
・要塞入口前には、きれいに飾り付けられた観光用の馬車が沢山待機している
・入口を入るときれにに整備された綺麗な公園を通り抜けていく
・入口にはイントラムロス全体の地図(案内書)が掲げてあった
・入って直ぐの広場は、要塞の核心部に繋がる大きな通路が両サイドの設けられ、中央は芝生や熱帯の植物
や噴水、花壇等が設けられ、国旗も掲揚され、風になびいていた
・第二次大戦の日本軍と米軍の激しい戦闘の場所でもあったここは、大砲や砲弾も通路の横におかれていた
・現地ガイドの説明を聞きながら、しばらく進むと堀とこれに架かる橋が見え、その奥に写真でよく見る城壁と
城門が見えてくる 城門の前で説明を聞き、城門を潜り要塞の核心部に入る その通路の路面には、
人の金属製の足跡が記されているが、これはこの国の独立の父である「リサール」の足跡を記念するもので ある 彼はスぺインからの独立運動の中で捉えられ、この地で処刑されるのである このリサールの足跡を
見て、フィリッピン国民は愛国心を呼び起こされるのであろう 多くの学生が社会見学の一環として訪れて
いる光景を多く見た 学生は制服を着ており、行儀よく整列し、団体行動をしていた この国の人はここで、
建国の心を胸に刻み、後の同朋に伝えていくのであろう
・城門を潜ると、中央にはリサールの銅像がある綺麗に整備された芝生広場があり、右手には独立運動時の
建物跡があり、この跡地にあるリサールが処刑された所まで前記の足跡があり、足跡が建物入口跡に入る
所で止っている ここで彼は処刑されたそうである
・その少し先の城壁から河口が見える所があるが、そこから水を引き込み地下式の獄舎の囚人を水攻めに
したそうである
・広場中央左にある「リサール祈念館」では、リサールに関する展示物を見ることが出来る(この施設の中には、
この要塞で最も古い建築物の一部があるそうであるが、どれか確認出来なかった ここは帰りに立ち寄った)
・そこを過ぎ、広場から少し高い所に上ると要塞の突端部分の石畳の広場に出るが、その手前には水攻めの
地下式の獄舎跡や当時の建物がある
・そしてイントラムロス要塞の突端部分に着く そこは河口で船が行き交い、対岸には中国人街のビルが見える
おそらくここが右近の上陸地点に繋がる場所であったのであろうという思いで周囲を眺め渡す ガリオン船から
迎えの船に乗り移った右近の姿を想像する その広場の突端部分に写真でよく見る見張りの衛兵の詰め所 らしき建物があり、今も衛兵らしき人物がいる時もあるようであるが、我々が到着後姿が見えなくなった
広場の地面に所々に鉄格子が敷かれ、そこから水攻めの地下牢が見える
・そこにしばらく滞留した後、その後リサール記念館を見学し、そこの二階から繋がっている城壁上部の通路に
出て、城壁上部の構造や上からの眺めを楽しみ、スロープ状の下り道を降りる
要塞入り口部分の反対側の城塞上部に上がり、公園全体の景観を確認したりして、来た道を引き返す 途中で結婚式を挙げたカップルの記念の撮影風景に出くわす
・入口で待機していたバスに乗車し、ディラオ広場に向かう
(右近像のあるプラザ・ディラオ比日友好公園へ) PM12:00~
・パトカー先導で、渋滞しているマニラ中心部の道路を、まともにいけば相当時間がかかるところスムーズに
目的地に着く 途中当時の日本人街と言われる場所(内藤如庵ゆかりの地)を通る 右近亡き後の右近の
家族がここで生活伊していたと思うとなんとともしれない感慨 にひたる
・プラザディラオ比日友好公園到着するとその歓迎に驚く さすが公式巡礼団の扱いは違う
ちょっとした外交使節団扱である事に気付く 広場前の交差点では、警察官が交通整理をしていた
まず、バスを降りると、歓迎の「レイ」を民族衣装姿の女性からかけられる
そして、軍の兵士が右近の像の前に、両サイドに別れ、起立して待っていた 右近像の右手にブラスバンドも待機し、演奏していた 左手には若い学生達が待機していた
中央には我々のためのテントも設営されていた
(プラザディラオ比日友好公園概念図)
昼食会場
道路
比日友好公園の碑
道路
兵
兵
テント
テント
士
士
学生達
ブラスバンド顕彰碑
献花
右近の像
道路
オールドパコ駅
この友好公園は、インターネットで紹介されていた写真とは異なり、とても整備されたものとなっていた 宿泊先の
海岸通りのモニュメントと姿が色がとてもよく似たポールが設置され、明るい姿になっていた
右近像の斜め後方には、次のような歓迎の垂れ幕が掲げられていた
THE CTY OF MANIRA
warmly welcoms(暖かい歓迎)
BISHOP FRANCIS XAVIER OSAM MIZOBE (司教 フランシスコ・ザビエル溝部脩と代表団)
& DELEGATION
3 FEBRUARY 2011.THURSDAY 12:00 NOON PHILIPPIN ZAPANESE FRIENDOSHIP PARK(PLAZA DILAO)
(2011 2月3日 午後12時 比日友好公園 プラザ・ディラオ)
・ しばらくするとマニラ市長が車で到着し、セレモニーが始まった
さすが公式巡礼団に対する接遇は、外交使節に対する接遇であった
・セレモニーは、両国の国歌演奏と右近の像への献花で始まった、最初に溝部司教、後にマニラ市長の献花
が行われた
・その後で、それぞれのスピーチがなされ、マニラ市長から溝部司教にマニラ市民の鍵、ハマキなどの記念品
の贈呈がなされた その後、溝部司教からマニラ市長に返礼の品が渡された
プロフェッサーペドロ(フィリッピン右近記念財団責任者)も出席
・マニラ市長が気軽に「フォト」「フォト」と言って、気軽に記念写真の撮影に応じ、何回も記念撮影が行われた
民族衣装を着たマニラ市の女性職員も記念撮影に気軽に応じていた
・右近の像は、背景に教雑物が多くきれにな写真になりにくいため撮影がなかなかうまくいかなかった
この友好記念公園には、多くのモニュメントがあり全てを丁寧に把握することは出来なかったが主な物を
記述すると次のとおりである
①右近像
②右近像横の顕彰碑
③公園前の公園名を書いた石碑
④各種銘板(摩耗して読みにくいものもあった)
(後日談:溝部司教はこのような立派な歓迎式典とは予想されていなかったとのことで、マニラ市が比日友好の
機会として重要視していたためと述べておられる)
(歓迎昼食会)
・友好公園の前の三差道路の向かい側の「Philipp Columbian Association」という建物のなかの大きなホール
で、マニラ市国際部長(元マニラ市長の娘)主催の歓迎昼食会 バイキング形式の昼食会
・マニラ市国際部長が挨拶 ルカ神父が挨拶 プロフェッサーペドロ(フィリッピン右近記念財団責任者)も出席
・白バイの先導が凄い、なんと道路を、逆走しているではないか!!
(内藤如庵の住んだ旧日本人街(アダムソン教会)に行く)
1621年 三千人の日本人マニラ郊外ディラオに日本町復興
・当時、相当大きな日本人街が形成されていたそうである(2000人?)
この時代にこんなに大きな日本人街が形成され、その統治に総督は手を焼いた 右近の役割を期待した
そうである 恐らく、その役割を内藤ジョアンが果たしのであろう
残った右近の家族や内藤ジョアン達はどんな気持ちで生活していただろうか
( マニラに残った右近の孫が元気であることを宣教師が記述したものもあるそうであるが)
・教会横の内藤如庵記念碑があり、日本語で内藤ジョアンの足跡が記されていた
・聖堂で祈る ・多くの学生に会う
(サントトーマス大学に行く)
・26聖人記念館館長 ルカ神父による右近の講義 大学の聖堂で行われた
・右近の小さな像-見ることが出来なかった-大学の中庭にあるとのこと
毎年右近のためのミサが上げられているとのこと
・大学は若い学生の熱気であふれ、グランドでは思いもいにスポーツをする学生で一杯
・聖トマス修道会の私立大学 医学部もある総合大学 1611年イントロムロスで創立 1700年頃の地震で、この地に移転してきた 広大なキャンパス
(マニラ湾に面した日本のODA援助で開発された地区のショッピングモールでの買い物)
・希望者のみ 乾燥マンゴーをスーパーで買うぐらい マニラ麻の衣装は結構高い
・日本のショッピングモールと変わらない 豊かな市民も結構いるのだと思う
(公式レセプション)
・場所はイントラムロスの聖アウグスティン教会前の観光案内にも紹介されている
「カーサマニラ」の一角にある、コロニアル風のお洒落なレストラン「バルバラ」の二階で盛大に催された
・マニラ補佐司教パビリオ氏(サレジオ会員で溝部司教の知り合い)出席の公式夕食会
・フィリッピン民族衣装を着た女性のダンス(ローソク、バンブーなど)等の余興あり
・大塚司教様の挨拶とパビリオ補佐司教の答辞があった
・多少狭苦しかったが、内装もテーブルも洗練されていて心地よかった
・右近が、この晩餐会の場所の直ぐ近くで病死したこの日に、大聖堂でのミサ、右近像への献花がなされ、
大変な記念すべき日となった
4日 ケソン市ノバリチェス墓地巡礼→昼食→サントドミンゴ教会でマリア像見学・ミサ→マニラ湾ディナークルーズ (ノバリチェスの墓地へ)
・墓地はケソン市の「聖心修道会」というイエズス会系の修道院の施設の中にあります イントラムロスの聖イグナチオ教会墓地に埋葬されていた遺骨を大二次大戦後ここにもってきて、納骨した
とのことです(大戦により教会自体が相当な被害を被ったため)
・曇り(夜 雨?) 予定通り出発 パトカー先導でケソン市(大マニラの範囲である)のノバリチェスまで約1時間
30分パトカー先導の効果絶大で、予定よりかなり早く到着
添乗員さんの話では、マニラの交通渋滞は激しく、まずこんなことは無いそうである
・ハイウエイ道路に面した入口をバスで入っていく しばらくすると両手を大きく広げたイエズス様の白い像が
迎えてくれ、コロニアル風のお洒落な建物と広い芝生がある所に出る そこを更に進むと建物裏に出る
そこから十字架の道行の小道を進んだ先が墓地である 広大な敷地に修道院、青少年のための施設等が
あるそうである 熱帯性の植物が生い茂り、地表に向かっていく筋もの根が伸びている独特の形の大木が
何本もある
・十字架の道行の緑のトンネルを抜けると、綺麗に整備された墓地の入り口に出る
墓地の周りの樹木も手入れがされており心地良い空間が確保されている
墓地は、いわゆる少し大きめのコンクリート製のコインロッカー式の墓地で、目指すお墓は 向かって右手に
ある 目的のお墓の前に献花されていた
イグナチオから持ってきた遺骨が納めれているお墓は二つあり、上部の「57人・・・」のお墓に右近のものは
納骨されいる可能性が高いということである
(上)
(下)
✝
✝
IHS
IHS
Here Lie 57men(1864-1927)
Here Lie 30men(1864-1927)
unknown to men] but known to unknown to men] but known to
God In1945 their remeins were God In1945 their remeins were tronsferred from the war-torn tronsferred from the war-torn
shurch of San igunatio manila
shurch of San igunatio manila
人には知られていないけど、神には知られている人が入っている
墓地には、既に椅子が用意されていて、早速①溝部司教の墓地の説明、②献花
③プロフェッサーペドロ氏の説明(溝部司教が通訳)がはじまる
【プロフェッサー・ペドロ氏の説明】 エル ミデ ペドロ
・ペドロ氏は、元国立文書館長で、現在教皇庁の歴史調査委員会のメンバーで、右近列福の重要な
証言者でもある また、フィリッピンの高山右近記念財団の責任者でもある
(右近研究に係るようになった理由)
・4人のプロテスタントの日本人が、右近関係の資料収集のため、当時、国立文書館長であったペドロを
訪ねてきたが、関係文書はなかった
・費用は惜しまないので是非探してほしいと要望されたが、忙しいと言って断った もともと経済学が専攻で、
全く知らなかったし、関心がなかった
(まず資料収集をした)
・「ウコンドノ」という形で残っているのがわかった 「ナガサキ」とか
・各地のイエズス会関係の資料を持っている所に照会をかけた
ロンドン、ジョウジタウン(米)、バチカン、シンガポール:セ―ラホール→高価な資料を持っていた
マカオの文書で残っていた(盗まれた?)
(右近の遺骨について)
・聖アンナ教会 → 聖イグナチオ教会Ⅰ → 聖イグナチオ教会Ⅱ → ノバリチェスへと動かされた
(サンホセ学院の説明はなかった)
第2次大戦で聖イグナチオ教会は破壊されたのでイエズス会の歴代管区長等の遺骨とともに
聖イグナチオ教会Ⅱの遺骨をここに移した (サンミゲルの内藤のものも)
クリプタと言う地下室にあった爆弾入れの箱にまとめて入れて、ノバリチェスに持ってきた
地下室の住みついた貧しい人に盗られる危険性があったのでそうした
・聖アンナ教会、聖イグナチオ教会Ⅰは地震で倒壊した サンホセ学院もなくなった
・聖イグナチオ教会Ⅱでは、右近、内藤のものも、イエズス会は確認したが、1945年の日米の戦闘の際の
アメリカ軍の爆撃で崩壊した
・(日本軍に弾圧された「フアリナ サントス?」という右近研究者がいた?)
(墓を開けて確認することの可能性について)
・マニラ大司教の許可があれば可能である
司教協議会で協議することになる その時には報告する
・墓の中には赤いリボンで包まれたものが入っていると言われている
サンボアンガ教区の司教レデマス師が当時の状況について書いている それが正しいと思う
・右近が列福されれば、マニラで最初の聖人となる また、「”日本人か”」
・右近の伝記は6年後に、フランスで印刷された
スペイン語 モレホン 英語・ポルトガル語に翻訳 コピー:チースリク
(来日したことがある)
・ペドロ夫妻を高槻市が招待し、日本に行ったことがある 資金が相当額集まったので記念財団を設立し、
聖トマス大学に寄附(右近顕彰基金) 年に一回右近の記念ミサをしている
・右近の遺骨(指の骨)があると言う金沢にも行った
このプロフェッサーペドロの話の後、同氏へのお礼がなされた
(事前に、ホテルで、溝部司教に右近の遺骨について、ラウレスの記述について質問をした)
(溝部司教の質問事項)
①サンホセ学院とはそもそも何か、右近が亡くなった当時はどこにあったのか
②右近の遺骸は、サンホセ学院に移されたのか、移されなかったのか
ラウレスの記述は間違いで、第一イグナチオ教会に一緒に移されたのか
③第二イグナチオ教会とはどこにあったのか
この疑問について、同司教に訪ねたところ、プロフェッサー・ペドロの方で説明してもらうと回答された
が、ペドロ氏の墓地での説明では明確でなかった
(疑問点)
・ラウレスが言う、屋根が崩壊した聖アンナ教会の近くに建てられた新教会とは恐らく、
ペドロ・プロフェッサーが言う第一イグナチオ教会であろう
・しかし、ラウレスは、その第一イグナチオには右近の遺骸は移され無かったと明確に指摘し右近の
遺骸だけサンホセ学院に移されたとしている また、ラウレスは、第二イグナチオ教会やそこの
遺骨がノバリチェスの墓地に移されたことを認識してないように思える
(ラウレスの墓に関する記述)
・イエズス会学院の聖アンナに捧げられた教会の主祭壇の近くに埋葬された
・それから間もなく、聖アンナ教会の屋根が崩壊したので、1620年~1632年の間に聖イグナチウス
の名誉のために、新教会が近くに建設された 右近の遺骸を除く遺骸がそこに移された ・右近の遺骸は殉教者と看做されたため、新教会ではなく、サン・ホセ学院の聖堂(右近の絵が
描かれた美しい石棺)に埋葬された
・1767年イエズス会解散・市の大司教館に委託・資料散乱し失われる サン・ホセ学院は今日まで存続し、市の郊外にある しかし 右近の遺骸はない
また、イグナチウス教会は1852年、1863年、1880年の地震の際にひどく損傷し、アメリカの
フィリッピン領有後取り壊された地所と建築の残りは、アメリカ植民地省の所有となり、兵舎となった
(参考)(関根和美氏の考え)
右近の遺骸:聖アンナ教会 → サン・ホセ学院 → 同学院1895年大地震のため崩壊 → アメリカ統治下時代の軍のバラック建設の整地の際に、右近の遺骨を発掘 →
1888年完成の第二イグナチオ教会に移された → 第二次大戦で第二イグナチオ 教会破壊 → ノバリチェスの墓地へ
「小豆島新聞藤井社長が同氏に見せた資料」
「夕刊フジ」(1988年(昭和63年)9月Ⅰ日、2日に大きく掲載
「高山右近の遺骨マニラ・ケソン市で発見」という大きな見出し
興味深いのは、関根氏が第一イグナチオに移されず、サンホセ学院に移された
として、そこから、右近の遺骨は発掘され、第二イグナチオ教会に移されたと整理していることである
この説明の根拠を知りたいものである
その後、溝部司教による右近の聖性・霊性についての講和があり、黙想と祈りの集いが30分ぐらい行われた
熱帯の何ともいわれぬ熱い空気感が体中にまとわりつくような感じが漂う中ではあったが、周りは背の高い樹木
に覆われ清潔感のある空間であった 溝部司教の熱い思いが伝わってきた
(昼食)
・白バイ先導で予定より早く着く
・広い通りに面したレストランで、入口に食欲をそそる豚の丸焼きのロールが回っている、
見かけはあまり良くなかったが、中は清潔で明るく料理は大変種類が多く、どれもおいしく、 ご馳走攻めの
状況であった 入ると直ぐに「いらっしゃいませ」の声で、寿司カウンターが目に飛び込んできた
日本料理もたくさん並べてある フィリッピン料理も種類が多くどれもおいしそう 特に地元ガイドお勧めの
フィリッピン料理はどれもおいしかった これまでの食事のなかで最もおいしいかった
(聖ドミニコ教会のマリア像 ミサ)
・マリア像 正面祭壇に向かって左側にレプリカが置いてある
(右近が日本から持ち帰ったマリア様とのこと)
・本物のマリア像を出しくれる
・本物かどうか(焼失した、壊れた等 しかし、修復したとのこと
・1603年にドミニコ会が島津に上陸した時に持ってきたもので、その後、日本に持ち帰ったと言われている
・ドミニコ会 ロサリオ管区は 国際的に独立した管区
・16聖人 友永神父、西神父はマニラのロサリオ管区で学び司祭となる
・マニラのドミンゴ教会 右近の当時からのロサリオ管区の教会であったかどうか?
・マリア像の前でミサをあげる
・結構時間があったので、皆は、教会のなかの土産物屋で、買い物をしたり、回廊に囲まれた中庭を散策する
(夕食 ディナークルーズ)
・昨日行ったショッピングモールがある方向の港に停泊している船を借り切って、夕食バイキング形式
2階がメイン会場でそちらの方が、盛り上がっていた
・我々は一階で、食事の種類も少なく、あまりおいしくなかった
・マニラ湾で亡くなった方を身内に持つに人が、海に向かって献花をされた
・湾内の同じ所をぐるぐる廻る中での食事で、途中、花火もあって、盛り上がっていた
5日 セブ島へ
・5時モーニングコール 5時30分朝食 6時15分出発
・しかし、飛行機が相当遅れる 約二時間遅れ
待ち時間の間、溝部司教と右近の事に着いて、色々とお話しをすることが出来て良かった
国内線 大型ジャンボ 座席はゆったり 溝部司教が私の横の座席に座られ、話しをすることができた
・到着後、 独特の日本語を話す現地ガイド 南国の太陽 暑い ・バスの中で昼食(予定より到着が遅れたので、レストランでなく、車中での昼食となった)
車中からの街並の景色は、熱帯の熱いネットリとした空気感、車とバイクの喧騒・排ガスなど、想像した
美しい海岸線と南国の花に囲まれたリゾートの感じは全くなかった
・マゼラン上陸地点(セブ島の対岸の小島マクタン島 マクタンシュライン)→ フィリッピン最古の教会
(サントニ・ーニョ教会)ミサ・巡礼参加者洗礼→博物館 →マゼランクロス→聖ペドロ要塞などを見学
・マゼラン上陸地点:記念の建物、公園、刀を持った現地人(マゼランと戦った英雄ラプ=ラプか?)の像、
恐らく、これはフィリッピン人の民族意識を高揚させるためのものなのであろう 心意気が伝わってきた
フィリッピンの人は暖かくフレンドリーだが、非常に誇り高い人達だそうです
マゼランは世界航路を発見した、誰でも知っているスペインの大航海時代の英雄であるが、現地の人に
とっては、フィリッピン植民地化の端緒となった征服者であり、むしろ、国を守るため彼らと戦い死に至ら
しめた同胞こそ英雄なのである 庭に何故かサンタクロースの像、熱帯の海岸散策、空は美しいが、想像
したような美しい海岸ではないことに落胆した 沖縄の海の方が何倍も美しい なんとか絵になる作品に
しようと撮影に頑張ったがいい構図を切り取ることは難しかった
・フィリッピン最古の教会(サントニ・ーニョ教会)でのミサ 溝部司教司式 背景に黄金色の聖画・彫刻等で装飾物で囲まれた祭壇、現地の人も参加したミサは素晴らしかった
荘厳ミサ、民族衣装を着た現地の人の奉納-芳しい香りに包まれた献香・南国の華やかな花など-
巡礼団参加者(女性)の感動的な洗礼式が行われた
・ミサ後、向かい側の博物館を見学し、広場に行き、その中央にある有名な「マゼランクロス(大きな十字架)」
を見学した そこから少し離れた所にある聖ペドロ要塞向かった 要塞はスペインがフィリピンに要塞を築い
た当初の状況が良くわかるもので、恐らく右近がいたマニラのイントラムロスもよく似た状態にあったのであろう
要塞内にはレストランもあり、結婚披露パーティが行われていた
・その後、離れた所にある土産物店に、長時間案内される これは今回の旅で唯一嬉しくなかったことであった
・宿泊したホテルは、立派で、エントランス・ロビーは中国風の飾り付け 中国人の観光客向けか
・夕食はホテルのバルコニーでミニバーべキュウ 四国の信徒の方たちと同席した 京都のお茶の先生のお話し、四国の信徒の方の共同体の現状を説明されたお話しが印象的であった
・翌朝、朝日を撮影しようと思い、屋上に出るが、適当な撮影スポットがない 部屋の窓から撮影したが駄目
・ホテル周辺の集落の状況は、決して美しいという状態ではなかた 富と極端な貧困が混在している街である
ことが直ぐに分かった
6日 帰国
関空での最後の別れの際に、溝部司教が私に「あなたの言う通りにします」と言われたのがとても印象的で
あった それはどういう意味であったのか 私には意味深いものに思え、敢えて問い返すことはしなかた
れて大聖堂