戦艦大和海上慰霊祭に参加して

寄稿 戦艦大和海上慰霊祭に参加して
吉本
昭
「車いす漕ぎても訪わん吾が叔父の征きて還らぬ南海の島
車いす漕ぎても訪わん吾が叔父の征きて還らぬ南海の島」
ぎても訪わん吾が叔父の征きて還らぬ南海の島」
太平洋戦争で母方の唯一人の叔父をニューギニアで失った私は、車いすの身でも
何とか現地を訪ねたいと願いつつ果たせず、
何とか現地を訪ねたいと願いつつ果たせず、今年遂に叔父の五十回忌を迎える。
今年遂に叔父の五十回忌を迎える。
かねてから私は戦没者の遺骨収集と現地慰霊祭は政府規模として行われて当然で
あり、近年には敵国であった兵士も現地民間人の犠牲者も加えてと
近年には敵国であった兵士も現地民間人の犠牲者も加えてと思うに至ったが、
の犠牲者も加えてと思うに至ったが、
現実には政府(厚生省等)の協力はあるものの遺族(会)や生還者により各戦域で
現実には政府(厚生省等)の協力はあるものの遺族(会)や生還者により各戦域で
小規模に行われて来た。
小規模に行われて来た。その中でも叔父の眠るニューギニアにも続く海上での
その中でも叔父の眠るニューギニアにも続く海上での慰霊
での慰霊
祭なら、
祭なら、船に乗った侭なので参加できるのではと思いつつ、それも果たせず昭和が
船に乗った侭なので参加できるのではと思いつつ、それも果たせず昭和が
終り平成元年を迎えたが、同年は客船元年とも呼ばれ外航客船が相次いで就航。
終り平成元年を迎えたが 同年は客船元年とも呼ばれ外航客船が相次いで就航。
車いす室もあり漸く慟哭の海、鎮魂の島を訪ねられるようになり
車いす室もあり漸く慟哭の海、鎮魂の島を訪ねられるようになり、たとえ観光旅行
漸く慟哭の海、鎮魂の島を訪ねられるようになり たとえ観光旅行
であっても年配の乗客に私と同じ思いの方を多く
であっても年配の乗客に私と同じ思いの方を多く見受けた。
同じ思いの方を多く見受けた。
以後、毎年中国やハワイ迄も戦跡を巡る船旅を重ねることになるが、本年三月始め
戦艦大和を旗艦とする沖縄特攻第二艦隊の最後の洋上慰霊祭が遺族の高齢化で
一年繰上げの五十回忌として行われるのを新聞で知り、叔父の五十回忌供養と
一年繰上げの五十回忌として行われるのを新聞で知り、叔父の五十回忌供養と
しても何とか参加したいと問合わせた処、大和の慰霊塔のある徳之島上陸時の介助
は「旧海軍の野郎共が引受ける」
旧海軍の野郎共が引受ける」と答えて頂き、エレベータのない船内の不自由も
春先の天候不順で日本近海は荒模様でも、
春先の天候不順で日本近海は荒模様でも、特攻に散った人々を思えばと苦にせず
特攻に散った人々を思えばと苦にせず
参加した。
参加した。
昭和二十年四月六日。大和以下
大和以下十隻が出撃した山口県徳山を四月四日に大島汽船
以下十隻が出撃した山口県徳山を四月四日に大島汽船の
十隻が出撃した山口県徳山を四月四日に大島汽船の
サンシャインふじ
サンシャインふじ号で出港
ふじ号で出港。
号で出港。以後六隻に及ぶ各艦の沈没点へ沈没日時
以後六隻に及ぶ各艦の沈没点へ沈没日時に合せて到達
へ沈没日時に合せて到達
すべく航路を辿り、沈没点に至る直前に船内ホールで該当艦艇の慰霊祭を行
すべく航路を辿り、沈没点に至る直前に船内ホールで該当艦艇の慰霊祭を行ない、
当艦艇の慰霊祭を行ない、
同地点に達すると船は汽笛を鳴らしつつ半径五百米の航跡を描いて
同地点に達すると船は汽笛を鳴らしつつ半径五百米の航跡を描いて回り続け、
の航跡を描いて回り続け、
遺族や戦友を始めとする参加者は甲板に出て亡き人々の名を呼びつつ花束や好物
遺族や戦友を始めとする参加者は甲板に出て亡き人々の名を呼びつつ花束や好物
経文等を海に投下するのを繰返して六日に徳之島上陸。翌七日同島「犬田布岬」の
経文等を海に投下するのを繰返して六日に徳之島上陸。翌七日同島「犬田布岬」の
大和慰霊塔での合同慰霊祭に臨んだ。
遺族の最高齢は八十八歳の父親、最年少は高校生、米国在住者もあり、私のように
大和関係以外の遺族、旧陸海軍の生還者もあり、大和で失った弟を偲んで徳之島に
移住して三十五年になる老婦人も居た。大和の乗員三千三百三十三名。生還僅かに
二百七十六名。
二百七十六名。
他の艦艇を合わせると太平洋戦争中の海戦として最多の犠牲者数となり、如何に
悲惨な海上特攻であったかが判る。生還者・
悲惨な海上特攻であったかが判る。生還者・遺族にとっては五十年前のことも
遺族にとっては五十年前のことも
昨日の悲劇として甦り、忽ち現実感を帯び戦後の労苦と合せて胸中を語り、平和を
訴えることになるが、私には合同慰霊祭の前夜(六日)の宴席で生還者の一人が
「カンボジアのUNTAK
「カンボジアのUNTAK 要員に戦死者が出るのではと心配だ」
要員に戦死者が出るのではと心配だ」と呟かれたことが
帰阪した八日にボランテアの中田さんの死が報じられ、
帰阪した八日にボランテアの中田さんの死が報じられ、現実になったことが最も
衝撃的であった。戦争は決して過去のものではない。全面戦争は遠去
衝撃的であった。戦争は決して過去のものではない。全面戦争は遠去かったかの
戦争は決して過去のものではない。全面戦争は遠去かったかの
ように見えるが内戦を含む局地戦争は絶え間がなく、
ように見えるが内戦を含む局地戦争は絶え間がなく、 私達戦争体験者の死亡や
高齢化により戦争体験の風化を嘆いている暇はない。
命のある限り戦争体験を語り平和を訴える心を子孫に伝える努力を今こそ強め
ねばならない。
ねばならない。
非武装の派遣要員が殺傷されたが故に武装した自衛隊が派遣され、殺生し合うよう
なことが万が一にも起きるのなら、
なことが万が一にも起きるのなら、それはもう日本人による戦争の繰返しであり、
平和の礎となったこれ迄の戦争の無数の犠牲者を再び殺すことになり、 私達は
死んでも死に切れないと思うのである。
以上は
以上は平成5年7月
平成5年7月大阪大空襲の体験を
5年7月大阪大空襲の体験を語る会刊
大阪大空襲の体験を語る会刊行の「原爆模擬爆弾投下証言集」
語る会刊行の「原爆模擬爆弾投下証言集」
に掲載された拙文であるが、慰霊航海の模様は当時新聞・テレビで報じられ
に掲載された拙文であるが、慰霊航海の模様は当時新聞・テレビで報じられ、
慰霊航海の模様は当時新聞・テレビで報じられ、ABC
テレビのドキュメント番組でも
テレビのドキュメント番組でも航海に参加者向
でも航海に参加者向に
航海に参加者向に制作されたビデオで
制作されたビデオでも
ビデオでも実況が
実況が
伝えられた。
伝えられた。
戦艦大和の最期
戦艦大和の最期については、
の最期については、大日本帝国の終焉を象徴する歴史的悲劇として
については、大日本帝国の終焉を象徴する歴史的悲劇として、
大日本帝国の終焉を象徴する歴史的悲劇として、
大和乗組の若き通信将校で生還者の
大和乗組の若き通信将校で生還者の 吉田 満著「戦艦大和の最期」によって
満著「戦艦大和の最期」によって、
」によって、
余す処
余す処なく伝えら
なく伝えられている
ているのであるが、昭和24年
であるが、昭和24年同著の初版
、昭和24年同著の初版を病床で
同著の初版を病床で読んだ
を病床で読んだ
衝撃は例えようもなく強烈であった。
衝撃は例えようもなく強烈であった。不沈艦
であった。不沈艦の沈没、負ける筈がないとされた
不沈艦の沈没、負ける筈がないとされた
大日本帝国の終焉
大日本帝国の終焉。世の中に絶対的なものは、何
本帝国の終焉。世の中に絶対的なものは、何も無いと
。世の中に絶対的なものは、何も無いとの思いと、
も無いとの思いと、あまり
の思いと、あまりにも
あまりにも
多数の人命が奪われた悲劇に言葉を失った。
多数の人命が奪われた悲劇に言葉を失った。独特の文語体で一夜にして書かれたと
言われる同書は現代の平家物語であり、戦記文学の最高傑作と
言われる同書は現代の平家物語であり、戦記文学の最高傑作とされ
最高傑作とされる。
される。
大艦巨砲による
大艦巨砲による決戦は無く・航空機による決戦
による決戦は無く・航空機による決戦
太平洋戦争迄、戦艦は世界の海洋
太平洋戦争迄、戦艦は世界の海洋国の国防の絶対的な存在であり、その中でも
大和・武蔵は世界一の超ど級の戦艦
大和・武蔵は世界一の超ど級の戦艦としての建造であったが、その就航と
としての建造であったが、その就航と太平洋
であったが、その就航と太平洋
戦争の開戦が同時期であったので艦名と存在は公表されない侭
戦争の開戦が同時期であったので艦名と存在は公表されない侭、敗戦に至る
開戦が同時期であったので艦名と存在は公表されない侭、敗戦に至る。
、敗戦に至る。
皮肉なことに戦艦が国防の絶対
皮肉なことに戦艦が国防の絶対的存在ではなく、
に戦艦が国防の絶対的存在ではなく、航空機がそれに代わる
航空機がそれに代わるものである
ことを証
ことを証明したのは、
明したのは、昭和16(1941)年12月。太平洋戦争の開戦劈頭
昭和16(1941)年12月。太平洋戦争の開戦劈頭
ハワイ真珠湾
ハワイ真珠湾で米国太平洋艦隊の
真珠湾で米国太平洋艦隊のアリゾナを始めとする戦艦群と、
で米国太平洋艦隊のアリゾナを始めとする戦艦群と、マレー半島
マレー半島沖で
半島沖で
英国東洋艦隊の戦艦プリンオブウエールズ
英国東洋艦隊の戦艦プリンオブウエールズと巡洋艦レパルス
戦艦プリンオブウエールズと巡洋艦レパルスの
と巡洋艦レパルスの両艦を
両艦を航空機に
よって撃沈した日本海軍であった。
よって撃沈した日本海軍であった。
その衝撃は
その衝撃は大
衝撃は大きく、
きく、両艦の航空機による沈没を聞いた英国のチャーチル首相も
両艦の航空機による沈没を聞いた英国のチャーチル首相も
「この上なく驚いた」と大戦回顧録で述べていて、更に開戦3ヶ月後の昭和17年
「この上なく驚いた」と大戦回顧録で述べていて、更に開戦3ヶ月後の昭和17年
2月には英国の東洋最大の拠点シンガポール
2月には英国の東洋最大の拠点シンガポールが陥落して
英国の東洋最大の拠点シンガポールが陥落して、
が陥落して、日本側との和平も検討
日本側との和平も検討
したようだが、間もなく同
したようだが、間もなく同年6月のミッドウエー海戦で
年6月のミッドウエー海戦で日本海軍は虎の子の空母
四隻を米国の航空機によって失い、
四隻を米国の航空機によって失い、以後
を米国の航空機によって失い、以後、
以後、航空機による敗北を重ね、遂に沖縄海上
航空機による敗北を重ね、遂に沖縄海上
特攻として航空機の掩護も
特攻として航空機の掩護も出撃間もない時点までだった
出撃間もない時点までだった大和以下の残存艦艇の
間もない時点までだった大和以下の残存艦艇の
沈没も当然
沈没も当然航空機によるもので
当然航空機によるものであった。
航空機によるものであった。大和を沈めた米国
大和を沈めた米国側の指揮官スプルアンス
提督は「艦隊決戦で沈めたかった」と述べたそうだが、それはもう日本海海
提督は「艦隊決戦で沈めたかった」と述べたそうだが、それはもう日本海海戦に
見る艦隊決戦の郷愁
見る艦隊決戦の郷愁に過ぎ
郷愁に過ぎなかった
に過ぎなかった。
なかった。
航空機対艦船は
航空機対艦船は航空機の圧勝で
艦船は航空機の圧勝で、
航空機の圧勝で、航空機を運ぶ空母と
航空機を運ぶ空母と潜水艦
空母と潜水艦の圧倒的な戦力差が
潜水艦の圧倒的な戦力差が
勝敗を分けた。勝敗は
勝敗を分けた。勝敗は開
勝敗は開戦時の保
戦時の保有戦力により、決まるものでなく、その後の
有戦力により、決まるものでなく、その後の
生産力・補給力による物量と新兵器開発の
生産力・補給力による物量と新兵器開発の技術力
による物量と新兵器開発の技術力と優れた情報力
技術力と優れた情報力であることを証明
と優れた情報力であることを証明
したのが、太平洋戦争である。
したのが、太平洋戦争である。
ソロモンの死闘と落日
南洋の果て、
「転進」との悲劇その
南洋の果て、ソロモン群島まで進出した日本軍は「餓島」
ソロモン群島まで進出した日本軍は「餓島」
「転進」との悲劇その
ものの表現を生んだ昭和18年2月の「ガタルカナル撤退」を皮切りに
ものの表現を生んだ昭和18年2月の「ガタルカナル撤退」を皮切りに航空機と
撤退」を皮切りに航空機と
艦船の夥しい消耗戦に耐え切
艦船の夥しい消耗戦に耐え切れず
耐え切れず敗退する
れず敗退する。
敗退する。水平線に沸き立つ雲と空と浮く島が
血に染まった世界の海戦史上、類の無い死闘であ
血に染まった世界の海戦史上、類の無い死闘であつた
であつた。
つた。
ガタルカナル撤退後、
ガタルカナル撤退後、間もなく山本五十六連合艦隊司
間もなく山本五十六連合艦隊司令長官が戦死する。
艦隊司令長官が戦死する。
彼が健在でソロモンでの決戦に若し日本
彼が健在でソロモンでの決戦に若し日本海軍の現有勢力の
健在でソロモンでの決戦に若し日本海軍の現有勢力の総力を挙げ、米豪連合
海軍の現有勢力の総力を挙げ、米豪連合
軍の輸送船団を壊滅させていたら、つまり陸地を占領
軍の輸送船団を壊滅させていたら、つまり陸地を占領せんと
を壊滅させていたら、つまり陸地を占領せんとする兵士に大打撃を
せんとする兵士に大打撃を
与え、
与え、連合国側特に米国民に恐怖心を起こさせたら、彼
連合国側特に米国民に恐怖心を起こさせたら、彼が期待した早期講和
が期待した早期講和も有り
講和も有り
得たのではとの説も残るが、幾つかの勝機をものにしたとしても
得たのではとの説も残るが、幾つかの勝機をものにしたとしても、所詮は
幾つかの勝機をものにしたとしても、所詮は戦局
、所詮は戦局全体
戦局全体
の挽回に至らず、より苛烈な反攻
の挽回に至らず、より苛烈な反攻により敗北。占領政策もより
な反攻により敗北。占領政策もより苛酷で
により敗北。占領政策もより苛酷で報復的なもの
苛酷で報復的なもの
になったであろう。
なったであろう。「戦局苛烈」との当時の報道は米軍を主力とする連合軍の猛反
攻に悪戦苦闘する日本陸海軍の姿を示すもので
攻に悪戦苦闘する日本陸海軍の姿を示すものであった。
の姿を示すものであった。
比島決戦と連合艦隊の壊滅
連合軍最高司令官マッカーサ
連合軍最高司令官マッカーサー
最高司令官マッカーサーは、日本通であったが、
は、日本通であったが、父親の代からフイリッ
父親の代からフイリッピン
フイリッピン
に因縁が深く、
に因縁が深く、利権もあり、開戦初期に「アイシャル・リターン・マニラ」との
利権もあり、開戦初期に「アイシャル・リターン・マニラ」との
言葉を残し、バターン半島の
言葉を残し、バターン半島のコレヒドール要塞からオーストラリアに脱出。
バターン半島のコレヒドール要塞からオーストラリアに脱出。
サイパン・グアムを奪還した連合軍の日本本土への直進論を抑え、フイリッピン
攻略を使命として実行した。日本側は「比島決戦」と呼号。「捷一号作戦」を発令
して連合艦隊の総力を挙げて出動し
して連合艦隊の総力を挙げて出動したが、主力である戦艦「大和」「武蔵」の栗田
「武蔵」の栗田
艦隊を
艦隊をレイテ湾に突入させるべく小沢・西村両艦隊
レイテ湾に突入させるべく小沢・西村両艦隊を
突入させるべく小沢・西村両艦隊を主力に見せかけ、敵機動部隊
を東方海域に誘い
方海域に誘い出し
誘い出し甚大な損害を受けつつも囮艦隊の役割を果た
出し甚大な損害を受けつつも囮艦隊の役割を果たす間に
甚大な損害を受けつつも囮艦隊の役割を果たす間に、
す間に、栗田艦
隊は「武蔵」以下、
隊は「武蔵」以下、多大な犠牲を払いつつレイテ湾頭に到達しながら、何故か
湾内に突入せず反転。更に犠牲を払いつつ空
湾内に突入せず反転。更に犠牲を払いつつ空しく帰投したのである。
しく帰投したのである。2月前に私の
帰投したのである。2月前に私の
叔父を戦死させたニューギニアから
叔父を戦死させたニューギニアからも
たニューギニアからも派遣された
派遣された、レイテ島に上陸させるべき大軍
イテ島に上陸させるべき大軍
を乗せた輸送船団は
を乗せた輸送船団は機動部
団は機動部隊不在の湾内を埋めていた
機動部隊不在の湾内を埋めていた。
隊不在の湾内を埋めていた。その中でマッカーサ
その中でマッカーサー
中でマッカーサーも
震えていたのである。湾内に突入、大和の43糎の主砲を浴びせたら、輸送船団は
震えていたのである。湾内に突入、大和の43糎の主砲を浴びせたら、輸送船団は
壊滅。マッカーサも吹つ飛んでいた筈だと。
「勝利は栗田提督の掌中にあったのに」
滅。マッカーサも吹つ飛んでいた筈だと。
と彼自身が回顧録に書いている。
彼自身が回顧録に書いている。
最早・特攻ある
最早・特攻あるのみ
あるのみ
太平洋戦争の最大の謎とされる作戦の失敗により
太平洋戦争の最大の謎とされる作戦の失敗により連合艦隊は壊滅。遂に戦史に
により連合艦隊は壊滅。遂に戦史に
類のな
類のない神風特別攻撃隊と言う航空機の自爆攻撃が始まる。昭和19(1944)
い神風特別攻撃隊と言う航空機の自爆攻撃が始まる。昭和19(1944)
年10月のことである。「一機一艦をほおむれ」との体当り攻撃は
「一機一艦をほおむれ」との体当り攻撃は、
攻撃は、連合軍を震撼
させたが
させたが起死回生の
たが起死回生の戦局挽回には
起死回生の戦局挽回には至らず、昭和20(1945)年3月
戦局挽回には至らず、昭和20(1945)年3月東京と
至らず、昭和20(1945)年3月東京と
グアム・サイパン間の不沈空母と言う
グアム・サイパン間の不沈空母と言うべき硫黄島を失い、東京・大阪を始め本土
ン間の不沈空母と言うべき硫黄島を失い、東京・大阪を始め本土
空襲が激化、
空襲が激化、私の家も焼かれた。
激化、私の家も焼かれた。4月1日には沖縄に連合軍が上陸。神風特攻隊の
私の家も焼かれた。4月1日には沖縄に連合軍が上陸。神風特攻隊の
攻撃に全力が注がれる。
攻撃に全力が注がれる。航空機による特攻のみならず、世界一の戦艦でありながら、
威力を発揮できない侭の「大和」に軽巡「矢矧」駆逐艦「朝霜」
「冬月」
「涼月」
威力を発揮できない侭の「大和」に軽巡「矢矧」駆逐艦「朝霜」
「磯風」「浜風」「雪風」「霞」と開戦以来、幾多の修羅場を乗越えて残った
「霞」と開戦以来、幾多の修羅場を乗越えて残った9隻を
開戦以来、幾多の修羅場を乗越えて残った9隻を
加えての海上特攻が編成される。
日本の国土であり、陸海軍のみでなく官民挙げて戦う沖縄
日本の国土であり、陸海軍のみでなく官民挙げて戦う沖縄を見捨てるなと、
沖縄を見捨てるなと、その
を見捨てるなと、その
海岸に突入し
海岸に突入して
突入して砲台と化してで
砲台と化してでも、上陸した米軍兵士と艦船
も、上陸した米軍兵士と艦船に打撃をとの作戦も、
兵士と艦船に打撃をとの作戦も、
航空機の掩護がなければ覚束ない
航空機の掩護がなければ覚束ないの
護がなければ覚束ないのに、事実上、裸の艦隊での特攻
事実上、裸の艦隊での特攻を
裸の艦隊での特攻を軍令部も陸上
に移った連合艦隊司令部も承知の
に移った連合艦隊司令部も承知の、
承知の、言わば「大和
言わば「大和」
大和」に死場所を与えようとする連合
艦隊最後の出撃命令であった。「祖国の危急存亡の秋
「祖国の危急存亡の秋、
祖国の危急存亡の秋、敢えて危地に赴くは男子の
本懐これに過ぎるはなし」と感じた将兵もあればこそ
本懐これに過ぎるはなし」と感じた将兵もあればこそ、圧倒的な彼我の戦力差は
」と感じた将兵もあればこそ、圧倒的な彼我の戦力差は
一方的な敗北を招くのが
一方的な敗北を招くのが自明であった。
自明であった。それが特攻である。
であった。それが特攻である。
洋上慰霊祭の日々
洋上慰霊祭の日々
サンシャインふじ号の船底
サンシャインふじ号の船底ホールは大和以下10隻の特攻戦没者
船底ホールは大和以下10隻の特攻戦没者(正式名・第二
ホールは大和以下10隻の特攻戦没者(正式名・第二
艦隊沖縄特攻天一号洋上作戦戦没将士)の慰霊式場として
艦隊沖縄特攻天一号洋上作戦戦没将士)の慰霊式場として供花・供物・卒塔婆等が
の慰霊式場として供花・供物・卒塔婆等が
並び色彩と光線の鮮明さに囲まれ、海底にいるような錯覚と厳粛さが漂っていた。
海戦での魚雷
海戦での魚雷・爆弾によって、容赦なく
魚雷・爆弾によって、容赦なく破られ
・爆弾によって、容赦なく破られる
破られる船腹と同じ場所が祭壇であった。
同じ場所が祭壇であった。
そこで、各
こで、各艦の沈没日時
、各艦の沈没日時直前に合わせて慰霊祭が行われ、沈没点に達すると遺族
艦の沈没日時直前に合わせて慰霊祭が行われ、沈没点に達すると遺族と
直前に合わせて慰霊祭が行われ、沈没点に達すると遺族と
戦友は甲板に
戦友は甲板に上がり
は甲板に上がり、波頭の白く立ち騒ぐ海面に向かって、夫の、わが子の、兄弟
上がり、波頭の白く立ち騒ぐ海面に向かって、夫の、わが子の、兄弟
の、恋人の、戦友の
の、恋人の、戦友の名を呼びつつ、花や酒や戒名を記した卒塔婆を投げて泣いた
、戦友の名を呼びつつ、花や酒や戒名を記した卒塔婆を投げて泣いた。
名を呼びつつ、花や酒や戒名を記した卒塔婆を投げて泣いた。
六年前の四十三回忌で初めて行われたことを、
六年前の四十三回忌で初めて行われたことを、同じように
で初めて行われたことを、同じように今一度である。海底の
同じように今一度である。海底の
将兵達の姿
将兵達の姿が
達の姿が白い波頭から立ち上がって
白い波頭から立ち上がってくるようにも見えた。
波頭から立ち上がってくるようにも見えた。「大和」の沈没点で
「大和」の沈没点で
は新聞社の取材機が飛来して
は新聞社の取材機が飛来して旋回したが、
飛来して旋回したが、船の揺れと共に
船の揺れと共に日本海軍の断末魔の海戦
共に日本海軍の断末魔の海戦
の一部を体感したかの如き思いがした。
の一部を体感したかの如き思いがした。駆逐艦「浜風」の生還者
き思いがした。駆逐艦「浜風」の生還者曰く
駆逐艦「浜風」の生還者曰く「
曰く「艦が大きく
艦が大きく
傾斜しつつも
傾斜しつつも対空砲火を撃ち続け
つつも対空砲火を撃ち続けて沈没した
対空砲火を撃ち続けて沈没した」
て沈没した」と。
最初の慰霊祭は駆逐艦「朝霜」
。豊後水道を通過した4月7日。機関故障のため
最初の慰霊祭は駆逐艦「朝霜」
航行が遅れ、
航行が遅れ、応急修理中の九州南西海面で敵編隊と交戦して
応急修理中の九州南西海面で敵編隊と交戦して撃沈され
して撃沈され、
撃沈され、乗組の
329名全員戦死。艦長杉原与四郎中佐。
艦長杉原与四郎中佐。二十一駆逐隊司令・
二十一駆逐隊司令・小滝久雄大佐も乗艦
小滝久雄大佐も乗艦。
二人共無
二人共無謀な作戦に反対したが、「一億総特攻の魁たれ」
一億総特攻の魁たれ」との命令とあれば止む無
しと死地に
しと死地に赴かれたので
死地に赴かれたのであるが、
赴かれたのであるが、慰霊祭で知ることになる50歳位の清楚な姿の杉
原中佐の長女道子さん
中佐の長女道子さんは
道子さんは小滝大佐の子息国雄
小滝大佐の子息国雄さんと
国雄さんと、
さんと、遺児同士のご
遺児同士のご夫婦であ
夫婦であられる
であられる
とのことであった。
私が最も胸
私が最も胸打たれ
最も胸打たれたのは徳之島に上陸して
打たれたのは徳之島に上陸して大和沈没の噴煙が望まれ、
たのは徳之島に上陸して大和沈没の噴煙が望まれ、遺体の漂着
大和沈没の噴煙が望まれ、遺体の漂着
した同島犬田布岬での
同島犬田布岬での「大和」の塔のある
犬田布岬での「大和」の塔のある艦隊全体の慰霊祭
「大和」の塔のある艦隊全体の慰霊祭場
艦隊全体の慰霊祭場で道子さんの母、
竜子さんが
竜子さんが特攻出撃の夫、杉原与四郎艦長との別れを詠まれた歌碑が除幕された
時であった。
黒御影の碑に
御影の碑に白く刻まれた文字は
の碑に白く刻まれた文字は「山も哭く
白く刻まれた文字は「山も哭く 野も哭く 花もなく この世の
訣れの 夜を星降る 竜子」とあり、
竜子」とあり、言いようの無い
とあり、言いようの無い悲しみ
言いようの無い悲しみが私の身を包んだ。
悲しみが私の身を包んだ。
死地に赴く夫との別れを詠んだ、これほどの絶唱があろうかと。夫
死地に赴く夫との別れを詠んだ、これほどの絶唱があろうかと。夫と
を詠んだ、これほどの絶唱があろうかと。夫との間の三人の
お子さんを島根県の家に残し、別れのために呉軍港を訪れた妻を「子供を頼む
お子さんを島根県の家に残し、別れのために呉軍港を訪れた妻を「子供を頼む」
を「子供を頼む」と
押し返すように夜汽車に乗せ、挙手の礼を送った夫。27歳の妻は耐え切れぬ
押し返すように夜汽車に乗せ、挙手の礼を送った夫。27歳の妻は耐え切れぬ
悲しみに夜
悲しみに夜汽車の窓を涙で
汽車の窓を涙で濡らした。
涙で濡らした。私の脳裏には日露戦争の旅順攻撃に参加した
濡らした。私の脳裏には日露戦争の旅順攻撃に参加した
弟を思う与謝野
弟を思う与謝野 晶子の「君死に給うこと勿れ」が浮かんだが、それにも優る絶唱
との思いがした。晶子の歌
の思いがした。晶子の歌は弟の生還を願い、又、その可能性も残っていた
。晶子の歌は弟の生還を願い、又、その可能性も残っていたが、
は弟の生還を願い、又、その可能性も残っていたが、
竜子夫人の歌の背景は、特攻
竜子夫人の歌の背景は、特攻故に生還を期し得ぬ
歌の背景は、特攻故に生還を期し得ぬ極限の厳しさである。
故に生還を期し得ぬ極限の厳しさである。
反戦歌とされる晶子の歌に応えて、その後の日本が平和であったら、竜子夫人も
詠まずに済んだ悲歌でもある。時代の趨勢は恐ろしく、反戦平和を保ち得ず、
詠まずに済んだ悲歌でもある。時代の趨勢は恐ろしく、反戦平和を保ち得ず、
日中戦争では晶子も夫鉄幹と共に、「廟行鎮の敵の陣」の出だしで全国民が歌う
「肉弾三勇士」を作詞する。
「肉弾三勇士」を作詞する。若し夫妻がこの場に居たら、どのような詩歌を詠んだ
ことか。
私には短歌
私には短歌の
短歌の素養は無いが、万感胸に迫るもの
素養は無いが、万感胸に迫るものを詠まざるを得なかった。
は無いが、万感胸に迫るものを詠まざるを得なかった。
「海ゆかば」歌いつバスの辿り着く犬田布岬の「大和」の塔よ
「海ゆかば」歌いつバスの辿り着く犬田布岬の「大和」の塔よ
特攻の艦隊の霊寄り給う風強かりき犬田布岬
特攻の夫との訣れ偲び詠む歌碑の立ちたり犬田布岬
特攻の夫との訣れ偲び詠む歌碑の立ちたり犬田布岬
波の間に艦船共に沈みたる夫との訣れ彫りし歌碑
艦隊の沈みて過ぎし五十年祈り新たに歌碑(うたぶみ)の立つ
歌碑の幕除かれし瞬間
歌碑の幕除かれし瞬間(とき)
かれし瞬間(とき)に艦影遥か「朝霜
(とき)に艦影遥か「朝霜」のごと
に艦影遥か「朝霜」のごと
半世紀経ても忘れじ特攻の慟哭の海鎮魂の島
「朝霜」には一人の生存
朝霜」には一人の生存者も無かった
」には一人の生存者も無かった。
者も無かった。杉原艦長は「駆逐艦一隻と言え
杉原艦長は「駆逐艦一隻と言えども
言えども重要な
ども重要な
国力。戦果の見込みのない消耗は許されない
」と沖縄特攻を批判されたのであるが、
戦果の見込みのない消耗は許されない。
許されない。
太平洋戦争における日本海軍の駆逐艦ほど、本来の使命である魚雷攻撃以外に艦隊
護衛・兵員・
護衛・兵員・武器弾薬
兵員・武器弾薬・物資の輸送・
武器弾薬・物資の輸送・兵員の救出等々多様な任務を果たした艦船は
・物資の輸送・兵員の救出等々多様な任務を果たした艦船は
なく、鼠輸送と呼ばれたガタルカナル行・キスカ島無血撤退等々、正に獅子奮迅の
苦闘を重ねたが、魚雷・砲弾・爆弾の
苦闘を重ねたが、魚雷・砲弾・爆弾の何れも
何れも一発の直撃弾で沈没させられる消
一発の直撃弾で沈没させられる消耗品化
した存在であった。
した存在であった。「重要な国力」とは船体のみでなく、訓練を重ねた
「重要な国力」とは船体のみでなく、訓練を重ねた乗組員であっ
船体のみでなく、訓練を重ねた乗組員であっ
たが、それを一瞬にして海底の藻屑にするのが、海戦の無残さである。
たが、それを一瞬にして海底の藻屑にするのが、海戦の無残さである。乗組員も船体
さである。乗組員も船体
も、かけがえが無く容易に補充出来るものではない
、かけがえが無く容易に補充出来るものではない。
容易に補充出来るものではない。
乗組員一人一人に肉親との訣別があり、とりわけ一家の大黒柱で
乗組員一人一人に肉親との訣別があり、とりわけ一家の大黒柱でもあった男達を
があり、とりわけ一家の大黒柱でもあった男達を
失ない遺族となった未亡人達の戦後の生活
失ない遺族となった未亡人達の戦後の生活が
の生活が、どれほど厳しいものであったか。
、どれほど厳しいものであったか。
最愛の夫を失い、
最愛の夫を失い、その遺児を育てるには、再婚せざるを得なかったのである。
その遺児を育てるには、再婚せざるを得なかったのである。
竜子さんは
竜子さんは、その著書
その著書「夾竹桃は梅雨を咲きたり」
「夾竹桃は梅雨を咲きたり」で、
で、その苦労を語り尽されている
その苦労を語り尽されている。
されている。
悲惨な戦記と遺族の苦闘記録は戦後三十年、昭和50年
悲惨な戦記と遺族の苦闘記録は戦後三十年、昭和50年頃
は戦後三十年、昭和50年頃まで多く
まで多く書かれ
多く書かれ、
書かれ、映画や
テレビドラマになった作品も多い。
テレビドラマになった作品も多い。零戦・ガタルカナル・ニューギニア・インパール・
神風特攻・人間魚雷回天・戦艦大和・沖縄・広島・長崎・引揚者の記録等々総てが
体験者によって書き続けられたのに、
体験者によって書き続けられたのに、それを読んだのは団塊の世代の人達迄
それを読んだのは団塊の世代の人達迄ではなか
ろうか。以後は所謂「
ろうか。以後は所謂「過保護世代」自分達の祖父母の時代の苦闘を家庭でも、学校で
以後は所謂「過保護世代」自分達の祖父母の時代の苦闘を家庭でも、学校で
も教えようとせず、学ぼうともせずの姿勢が、金銭崇拝・
も教えようとせず、学ぼうともせずの姿勢が、金銭崇拝・物質本位・人命軽視等々
物質本位・人命軽視等々の
等々の
風潮を招き、日本は戦争による亡国以外の亡国の危機に
風潮を招き、日本は戦争による亡国以外の亡国の危機にも陥っていると思う。
それでも戦艦大和と、その艦隊の沖縄特攻
それでも戦艦大和と、その艦隊の沖縄特攻ともなれば、かってテレビドラマ化された
の沖縄特攻ともなれば、かってテレビドラマ化された
辺見じゅん原作「男たちの大和」が昨年
辺見じゅん原作「男たちの大和」が昨年映画化され
昨年映画化され、
映画化され、既に四百万以上の人が見たと
言う。早くもそのDDVも発売される。
言う。早くもそのDDVも発売される。実物大の大和のロケセットが最近まで見学の
早くもそのDDVも発売される。実物大の大和のロケセットが最近まで見学の
対象となり、呉市に「大和ミュージアム」もオープンしている。
対象となり、呉市に「大和ミュージアム」もオープンしている。戦争を知らない世代
「大和ミュージアム」もオープンしている。戦争を知らない世代
も、それらを見ることによって「大和」とその艦隊の実像を知り、
それらを見ることによって「大和」とその艦隊の実像を知り、戦
「大和」とその艦隊の実像を知り、戦争の悲惨と平和
争の悲惨と平和
の尊さを肝に命じて
尊さを肝に命じて反戦平和を訴えて欲しい。
反戦平和を訴えて欲しい。
映画「男たちの大和」を製作した
映画「男たちの大和」を製作した戦争を知る世代の佐藤
製作した戦争を知る世代の佐藤 純弥監督は戦争を語り継
純弥監督は戦争を語り継ぐ
語り継ぐ
責務として「単なる反戦映画でなく、沖縄への海上特攻を無駄な死とすること
責務として「単なる反戦映画でなく、沖縄への海上特攻を無駄な死とすることも
ことも
英雄視することもなく、あの時代を短く生きた人々の思いを、様々な別れのシーンを
盛り込んで伝えたかった。
」と語っている。
「大和」と言えばアニメの
「大和」と言えばアニメの「宇宙戦艦ヤマト」しか
アニメの「宇宙戦艦ヤマト」しか知ら
「宇宙戦艦ヤマト」しか知らない
知らない世代も
ない世代も、それを
世代も、それを本物の
、それを本物の
「大和」と
「大和」を含む
大和」と、その
」と、その艦隊のあったことを知
、その艦隊のあったことを知る糸口にして
艦隊のあったことを知る糸口にして欲しい。
る糸口にして欲しい。
大和」を含む
旧海軍の
「大和」を
旧海軍の技術と人材が戦後の日本の産業
技術と人材が戦後の日本の産業発展
人材が戦後の日本の産業発展に大きく寄与した
発展に大きく寄与したのである。
に大きく寄与したのである。
海底に眠らせた侭にせず
海底に眠らせた侭にせず、
た侭にせず、敬愛と慰霊の心も加えてアニメとして
敬愛と慰霊の心も加えてアニメとしても
アニメとしても再生せざるを
再生せざるを
得なかったのが作者の松本零士氏の心境である。
得なかったのが作者の松本零士氏の心境である。
映画やアニメに加えて吉田 満氏の「戦艦大和の最期」を一人でも多くの人に読んで
頂きたい。読まれざる現代の平家物語であってはならない。その白眉は
頂きたい。読まれざる現代の平家物語であってはならない。その白眉は「
その白眉は「大和」
大和」乗組
の若冠二十一歳の臼淵
の若冠二十一歳の臼淵 磐大尉の遺言
大尉の遺言「進歩ノナイモノハ決シテ勝タナイ
の遺言「進歩ノナイモノハ決シテ勝タナイ 負ケテ
目覚メルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ 軽ンジ過ギタ
軽ンジ過ギタ 私的ナ
潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ
潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニ
ドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ オレタチハ
ソノ先導ニナルノダ 日本ノ再生ニサキガケテ散ル
日本ノ再生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」である。
明治以来の大日本帝国の終焉を、その象徴たる
明治以来の大日本帝国の終焉を、その象徴たる「大和」
その象徴たる「大和」沈没と
「大和」沈没と運命を共に
沈没と運命を共にすることに
運命を共にすることに
直面して
直面して「総員死に方始め」と祖国のため、故郷
総員死に方始め」と祖国のため、故郷の
死に方始め」と祖国のため、故郷の親兄弟姉妹
親兄弟姉妹・
姉妹・妻子・
妻子・恋人を守る
ために、敵わぬことを知りつつ身命を捧げようとする男達に、その死が無駄でない
ために、敵わぬことを知りつつ身命を捧げようとする男達に、その死が無駄でない
ことを「日本が新しく生まれ変わるための先導になって散るのだ
ことを「日本が新しく生まれ変わるための先導になって散るのだ」
散るのだ」と冷静に説き、
静に説き、
「大和」の後部副砲射撃指揮官として敵機来襲後、間もなく直撃弾を受け戦死したの
である。
「臼淵大尉、直撃弾に斃ル
「臼淵大尉、直撃弾に斃ル 智勇兼備の若武者、一片ノ肉 一片の血ヲ残サズ
死ヲモッテ新生ノ目覚メヲ切望シタル彼、新ノ建設へノ捨石トシテ捧ゲ果テタル
死ヲモッテ新生ノ目覚メヲ切望シタル彼、新ノ建設へノ捨石トシテ捧ゲ果テタル
カノ肉体ハ アマネク虚空ニ飛散セリ」と。
アマネク虚空ニ飛散セリ」と。
辛うじて海面に投げ出された少数の兵士達の姿を「初霜」救助艇ニ拾ワレタル
救助艇ニ拾ワレタル砲術士、
ワレタル砲術士、
洩ラシテ言ウー 救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危険状態ニ
救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危険状態ニ
陥ル、更ニ収拾セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ藻屑トナラン
陥ル、更ニ収拾セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ藻屑トナラン シカモ船ベリニ
カカル手ハ イヨイヨ多ク
イヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル、
多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル、
ココニ艇指揮及ビ乗組下士官、用意の日本刀ノ鞘ヲ払イ、犇メク腕ヲ、手首ヨリ
ココニ艇指揮及ビ乗組下士官、用意の日本刀ノ鞘ヲ払イ、犇メク腕ヲ、手首ヨリ
バッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス セメテ、スデニ
救助艇ニアル者ヲ救ワントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ敢エナクノケゾッテ
救助艇ニアル者ヲ救ワントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ敢エナクノケゾッテ
堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン
堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン
剣ヲ揮ウ身モ、顔面蒼白、
脂汗滴リ、喘ギツツ船ベリヲ走リ廻ル 今生ノ地獄絵ナリー。
今生ノ地獄絵ナリー。
惨酷極まる戦場の描写は、最初に本書を入手した時も今も
惨酷極まる戦場の描写は、最初に本書を入手した時も今も涙なくし
戦場の描写は、最初に本書を入手した時も今も涙なくしては
涙なくしては読
ては読めない。
あの戦争にどれほどの数の臼淵大尉が居たのだろうか、そして、味
あの戦争にどれほどの数の臼淵大尉が居たのだろうか、そして、味方に切り捨て
どれほどの数の臼淵大尉が居たのだろうか、そして、味方に切り捨て
られる兵士がどれほど
られる兵士がどれほど居たのか、
どれほど居たのか、生
居たのか、生還できれば戦後の荒波から家族を支え、新生日本
できれば戦後の荒波から家族を支え、新生日本
の建設に大きく貢献しただろうに。洋上慰霊祭の遺
の建設に大きく貢献しただろうに。洋上慰霊祭の遺族の中には「息子が、親父が大和
洋上慰霊祭の遺族の中には「息子が、親父が大和
沈没時に乗組んでいたと後日知らされただけで、
沈没時に乗組んでいたと後日知らされただけで、乗組に至る経過
乗組に至る経過も最期の模様
に至る経過も最期の模様も
も最期の模様も何も
判らない」と語る人々が
判らない」と語る人々があった。非情極まりない
あった。非情極まりない立場に置かれた侭の遺族同士
非情極まりない立場に置かれた侭の遺族同士語り合
立場に置かれた侭の遺族同士語り合
うしかなかった。
慰霊航海から帰って13年を経た
慰霊航海から帰って13年を経た今日に至るも
13年を経た今日に至るも遺族同士の
今日に至るも遺族同士の交流は続く。
遺族同士の交流は続く。豪華客船ふじ
丸で本年四月、13年振
丸で本年四月、13年振りに洋上慰霊祭が行われ小滝道子さんは「
四月、13年振りに洋上慰霊祭が行われ小滝道子さんは「今一度父に会いに
りに洋上慰霊祭が行われ小滝道子さんは「今一度父に会いに
行く」
行く」と参加された。母堂の杉原竜子さんは米寿を迎えて健在である。
参加された。母堂の杉原竜子さんは米寿を迎えて健在である。今回の洋上慰
母堂の杉原竜子さんは米寿を迎えて健在である。今回の洋上慰
霊祭の模様は広島テレビが番組を制作。
霊祭の模様は広島テレビが番組を制作。関西方面は朝日テレビの深夜番組で伝えられ
たが、
たが、今や靖国神社の戦没者への弔意
今や靖国神社の戦没者への弔意を失なうこと甚だしく
靖国神社の戦没者への弔意を失なうこと甚だしく、小泉総理の参拝が
を失なうこと甚だしく、小泉総理の参拝が
韓国・中国の批判に曝され、政争論議の具となるばかりで
韓国・中国の批判に曝され、政争論議の具となるばかりで、戦没者の肉親
政争論議の具となるばかりで、戦没者の肉親に対し
、戦没者の肉親に対し
心からの、
心からの、慰霊と鎮魂を続けているのは、
慰霊と鎮魂を続けているのは、残り少ない遺族のみで
残り少ない遺族のみで私もその一人で
遺族のみで私もその一人である。
私もその一人である。
平成5年の洋上慰霊祭当
平成5年の洋上慰霊祭当時、靖国神社には既にA級戦犯が合祀されていたが
時、靖国神社には既にA級戦犯が合祀されていたが「大和」
既にA級戦犯が合祀されていたが「大和」
の生還者が問わず語りに「戦犯として刑死した人も、同胞であることに違いないから、
心を広くして合祀を受け容れている。
」と呟かれたのが耳に残っている。
心を広くして合祀を受け容れている。
特攻で九死に一生を得た
特攻で九死に一生を得た人でさえ同胞として赦すと
九死に一生を得た人でさえ同胞として赦すと言わ
人でさえ同胞として赦すと言われるなら
言われるなら、
れるなら、遺族としても受け
容れたい思いがしたのだが、昨今の風潮は「靖国で会
容れたい思いがしたのだが、昨今の風潮は「靖国で会える
思いがしたのだが、昨今の風潮は「靖国で会える」
える」とのみ、言い交わして
果てた無名兵士をも、
果てた無名兵士をも、参拝すべきでない
参拝すべきでない対象
べきでない対象であるが
対象であるが如き
であるが如き誤解
如き誤解を招いてはい
誤解を招いてはいまいか
を招いてはいまいか?
まいか?。
戦没すれば靖国に祀られるとの悲痛な常識は、敗戦日本の夥しい戦没者に対する
最低の処遇に過ぎず
最低の処遇に過ぎず、遺族達
に過ぎず、遺族達の心は癒されず、生還者と共に洋上
、遺族達の心は癒されず、生還者と共に洋上慰霊・現地慰霊・
の心は癒されず、生還者と共に洋上慰霊・現地慰霊・
遺骨収集等々を重ねて反戦平和を訴えつつ
遺骨収集等々を重ねて反戦平和を訴えつつ自らの
反戦平和を訴えつつ自らの死を迎え、
自らの死を迎え、戦没者と共に
戦没者と共に永眠
と共に永眠す
永眠するの
である。本文の冒頭に「大和」とその艦隊
ある。本文の冒頭に「大和」とその艦隊の沖縄
本文の冒頭に「大和」とその艦隊の沖縄特攻五十
の沖縄特攻五十周忌を遺族の高齢化から
特攻五十周忌を遺族の高齢化から
一年早めて洋上慰霊祭とされたと述べたが、大和の遺族会の事務局長 手島さんは
沖縄特攻以前の「
沖縄特攻以前の「大和」
大和」の乗組員であったが、誠心誠意、
の乗組員であったが、誠心誠意、遺族会の運営に当られ、
遺族会の運営に当られ、
自らがガンに侵されているのを知り、洋上慰霊祭を一年早められたと船内で聞いた。
海軍の戦闘帽を被り、元気一杯に見せかけた手島さんは船内行事を海軍用語を使って
アナウンスされ、各艦の沈没地点ではメガホンを持って甲板に
アナウンスされ、各艦の沈没地点ではメガホンを持って甲板に立ち
ホンを持って甲板に立ち「さよ
立ち「さよう
「さようなら!」
を連呼された。
艦内の休息を意味
の休息を意味する
意味する「煙草
する「煙草盆出せ」との
「煙草盆出せ」との海軍
盆出せ」との海軍用語
海軍用語が
用語が、ユーモラスにも聞こえたが、
戦時の乗組員にとっては、正に束の間の休息を意味するもので
戦時の乗組員にとっては、正に束の間の休息を意味するものであった
を意味するものであった。
あった。慰霊航海では
対空・対潜警戒も必要の無い、本当の休息を告げるもの
対空・対潜警戒も必要の無い、本当の休息を告げるものだった。
を告げるものだった。
手島さんは、その休息を余命僅かな身で過ごし、間もなく戦没乗組員との
手島さんは、その休息を余命僅かな身で過ごし、間もなく戦没乗組員との永久の
戦没乗組員との永久の眠り
永久の眠り
に就かれたのである。
に就かれたのである。慰霊航海の参加者
のである。慰霊航海の参加者・
慰霊航海の参加者・「大和」と、その艦隊の沖縄特攻の生存者
及び遺族250名余の内、今どれほどの方が健在であろうか。
大日本帝国終焉
大日本帝国終焉の叙事詩を読もう!
帝国終焉の叙事詩を読もう!
大日本帝国終焉の叙事詩とも呼ぶべき
大日本帝国終焉の叙事詩とも呼ぶべき「戦艦大和の最期」の
の叙事詩とも呼ぶべき「戦艦大和の最期」の著者
「戦艦大和の最期」の著者吉田
著者吉田 満氏は、
昭和49(1974)
昭和49(1974)年「臼淵大尉の場合
(1974)年「臼淵大尉の場合」
年「臼淵大尉の場合」「祖国と敵国の間」を加えて「鎮魂戦艦
大和」として講談社より刊行。日本銀行の要職に
大和」として講談社より刊行。日本銀行の要職にあ
日本銀行の要職にあられたが
られたが、
たが、「、昭和54
「、昭和54(197
昭和54(197
9)年
9)年、早逝された。
早逝された。享年56歳。
された。享年56歳。
前記作品以外の著作も加えた吉田 満全集 上・下巻が昭和
上・下巻が昭和61
昭和61(1986
61(1986)
(1986)文芸春
秋社から刊行されている。一連の作品を読
秋社から刊行されている。一連の作品を読んで頂き、これまでの「大和」や「連合艦
んで頂き、これまでの「大和」や「連合艦
隊」の映画・テレビドラマ等を含めて希望があればコピーを提供
」の映画・テレビドラマ等を含めて希望があればコピーを提供したい
ーを提供したい。
したい。
昭和62(1987
昭和62(1987)
(1987)年に杉原 竜子さんが刊行された「夾竹桃は梅雨を咲きたり」
平成7(1995)
平成7(1995)年に小滝
(1995)年に小滝 国雄さんが刊行された「鎮魂・駆逐艦 朝霜」も
頂いて手元にある。
「大和」
大和」と、その艦隊の沖縄特攻
と、その艦隊の沖縄特攻については
の沖縄特攻については、
については、私如きが書き尽くせるものではない。
私如きが書き尽くせるものではない。
その沈没した海が叔父の果てたニューギニアに至ることに思いを馳せ、
その沈没した海が叔父の果てたニューギニアに至ることに思いを馳せ、洋上慰霊祭に
参加したのに過ぎない。その模様を13年も経てから長いだけの拙文に認める
参加したのに過ぎない。その模様を13年も経てから長いだけの拙文に認めるのは、
認めるのは、
我れながら怠惰に過ぎる
我れながら怠惰に過ぎると思う
怠惰に過ぎると思うが
と思うが、その間に世界情勢は悪化を辿り、
その間に世界情勢は悪化を辿り、ミサイルを交え
辿り、ミサイルを交え
んが如き昨今の内外の情勢に対して、
んが如き昨今の内外の情勢に対して、反戦平和の
外の情勢に対して、反戦平和の訴えのための
反戦平和の訴えのための命
訴えのための命題として、大日本帝
として、大日本帝
国終焉の悲劇の叙事詩でもあり
国終焉の悲劇の叙事詩でもあり、
の叙事詩でもあり、現代の平家物語とされる「大和とその艦隊
現代の平家物語とされる「大和とその艦隊の沖縄
大和とその艦隊の沖縄
特攻」
特攻」を伝え続け
を伝え続けるべきと思う。世界の終焉を招かぬために
続けるべきと思う。世界の終焉を招かぬために、どんなに微弱な立場で
るべきと思う。世界の終焉を招かぬために、どんなに微弱な立場で
も反戦平和を訴え続けねばならない。
反戦平和を訴え続けねばならない。
総ての戦没者に合掌しつつ
総ての戦没者に合掌しつつ
平成18年7月記す
平成18年7月記す