平成19年3月13日 大東亜会議の意義について 参考資料 朝日新聞記事

平成19年3月13日
大東亜会議の意義について
参考資料
開催日
場所
出席者
発言要旨
朝日新聞記事から抜粋
第一日目 昭和18(1943)年11月5日
東京
日本代表
東条英機首相
中華民国代表
汪精衛(兆銘)行政院長
タイ国代表
ワンワイタヤコン殿下
満州国代表
張景恵国務総理大臣
フィリピン代表 ホセ・ぺ・ラウレル大統領
ビルマ代表
ウーバーモウ首相
インド代表
スバス・チャンドラ・ボース 自由インド仮政府首班
陪席者として出席
1.東條英機首相
米英の帝国主義的世界制覇の野望を完膚なきまで撃滅・暴露すると共に
隠忍自重終に大東亜永遠の安定の為米英に対する宣戦に至る迄の経緯を
説き、ついで大東亜における共存共栄の秩序は道義精神に基くものであると
する基本見解を表明。大東亜新秩序建設に対する決意を述べる。
インド独立に対し、帝国政府はあらゆる協力と支援を惜しまぬ旨披瀝した。
米英の平素唱道する国際正義の確立と世界平和の保障とは畢竟、欧州における
諸国家の分裂、抗争の助長と、アジアにおける植民地的搾取の永続化とによる
利己的秩序の維持に外ならない。彼等の呼号する門戸開放、機会均等主義も
東亜を植民地視する根本観念に発したるものである。
2.汪精衛行政院長
米英の東亜侵略を完全に払拭するには日本の軍事力及び政治・経済・文化
各方面の力に頼ってこそ出来るものである。中国及び東亜をして米英侵略
勢力の桎梏を打破し、その独立・自主を完成せしむると言う抱負を抱いた
国父孫文先生の一生の希望が達成されんとする時、重慶政権は米英の圧力
に押されているが、重慶側の将士及び民衆は国父孫文先生の遺教に帰依して
翻然覚醒するの日の到来するものと確信している。
国父孫先生は逝去に当り遺嘱を同志に遺され、同志よく遺志に従い継続奮闘し、
以ってその貫徹を期せよと謂われた。我等は国父の遺志実現せざるを見、
日支関係の日に悪化するを見て、痛心その極みに達し絶望の深淵に陥らんとし
たのであったが、幸い日本政府は事変を最短期間に打ち切るべき方針を宣布
せられ、その中において日本の目的とするところは中国の興隆を冀い、日本は
中国が東亜建設の責任を分担すべきことを期待し、また日本が中国を援助すべ
きことを決心し、その独立、自主の願望を達成せしむることにあることを闡明
せられた。我々同志は日本がかかる真意を宣布せられたることを聞き、日支
関係の好転並びに国父の遺志を完成せしむる希望の存することを承知したので
あって、これによりまず重慶政権に対し、抗戦放棄、和平回復を勧告したが聴
き容れざりし為、やむを得ず重慶を脱出し、和平運動の為に奔走することに決
したのである。やがて国民政府は南京に還都し、正々堂々日支提携、東亜復興
に最大の努力を致すことになった。
本年1月9日以来日本は中国に対し、早くも租界を還付、治外法権を撤廃し、
殊に最近に至り日華同盟条約を以って日華基本条約に替え、同時に各種附属
文書を一切廃棄されたのである。
3.ワンワイタヤコン殿下
アジアにおける政治的結集を強調、日タイ同盟条約をはじめとする日・タイ
緊密化を説き、大東亜に恒久的繁栄を齎す根本方針は相互の独立と主権を
尊重するにある。
従来の戦争遂行の方針、殊に日・タイ関係の基本方針に準拠した戦争遂行方針
は極めて妥当なるものと信じている。当面の問題として現存する友好関係、
協力並びに十分なる諒解をいっそう増進して物的、心的の力を結晶一体化し、
以って戦争の完遂と大東亜共栄圏の樹立を期すべきものと考える。私の所見
は、大東亜興隆の歴史によって裏書されるものと考える。
日本帝国は八紘一宇の理想に遵い共栄圏を樹立し、正義、公正及び平和の基礎
の上に立つ一家のごとき結束を齎さんとする政策を採り、これが政策遂行に当
ってはタイ・仏印紛争の際の例に見るがごとく平和的手段を用いているのであ
る。しかしながら日本のかかる平和的手段に国策遂行は、米英が加えて来たっ
た種々の障碍により成功を見ず、ここに大東亜戦争勃発のやむなきに立ち至り、
日本軍の輝きしき大戦果は、牢固たる土台の上に大東亜共栄圏を樹立し得べし
との希望を生み、全アジア民衆の胸を歓喜に満ち溢れさせているのである。
参考資料
開催日
場所
発言要旨
毎日(東京)新聞記事から抜粋
第二日目 昭和18(1943)年11月6日
東京
1.張景恵国務総理大臣
戦争勃発後2年を出ずして今やさきに実現を見たるビルマ・フィリピンの
独立を初めとし、東亜民族は逐次その本然の姿に還り、各々その所を得て
洋々たる将来を望み、数百年来かの貪婪飽くなき米英帝国主義のため失われた
る生気を取り戻しつつある。
満州国がこの十年間、いかなる政策の下に、いかなる成果を挙げたかについて
余はこの機会をかりて二、三の基本問題に触れ御説明したい。
第一に、民族の協和である。わが満州国においては日・満・蒙その他多数の
民族が共存しているのであるが、従来一般に異民族間に見られたごとき支配
被支配、搾取の関係ではなく、相互にその特長を発揮しつつ国家目的の達成
に協力してゆくものである。この点、米英等帝国主義の民族支配とは根本的に
相違するものであって、大東亜各国の共存共栄の方式を示唆するものと思う。
第二には、北辺の鎮護ということである。すなわち大東亜共栄圏の建設には
ひとりわが国の国防を全うするというに止まらず、わが国自体が大東亜北辺の
防壁として、これが遂行にいささかの不安なからしむことが絶対に必要である。
第三には、国民生活の安定と強く正しき国民の錬成である。すなわち政府は建
国後直ちに、従来紛乱を極め収拾最も困難とせられていた貨幣制度を極めて急
速に統一したる結果、物価を安定し、延いては今日のごとき国民生活の安定を
確保するに成功したのである。またこれと平行して行われたのは治安の確立で
あって、建国当時30万の匪賊が国内に横行したるに比し、現在は全く影をひ
そむに至った。
加うるに客年、国兵制度確立せられ、近代兵器の装備を有する精強なる国軍を
創設し、完備せる警察制度と相俟ち、国内の隅々まで国民を安居樂行せしめて
いるのである。
2.ホセ・ぺ・ラウレル大統領
歴史を顧みて私が最も残念に感ずることは、何故かかる大東亜諸民族の会議が
以前に開かれなかったかということである。われわれは従来全くの他人として
生存して来たのである。大日本帝国の偉大なる武力、高邁なる精神の結果とし
て、有史以来初めて大東亜諸民族が一堂に会したこの歴史的事実に、われわれ
心から感銘を感じる次第である。
東亜諸民族が今まで一堂に会し得られなかった理由として、私は次のものを数
えあげたい。
第一、大東亜諸民族、恐らく日本帝国を除く各国は、かつて西洋の魔手に毒さ
れ、殊に米英の方針により衰弱せられ、その積極性・独立性を完全に奪
い去られたのである。東亜諸民族は長く力弱き被征服民族と化したので
ある。これがため積極的にかかる会合を開催する力が無かったのである。
第二、米英の政策として東亜諸民族が分割し、それによって彼が政策を永久化
せしめんとしたのである。この結果、東洋の諸民族は宗教的に政治的に
分離されたのである。近くは我がフィリピンにおいて、宗教その他の方
法をもって東洋の諸民族から離反せしめられたのである。恐らくこのこ
とは中華民国に対してもあてはまるものと思う。理由はいかにせよ、結
果としては東洋の諸民族は米英の分離政策の犠牲となり、互いに分離さ
れたのである。
第三、少なくともフィリピンに限り、米英は日本を憎むべき教育政策を実施し
たのであって、吾々の目に映った日本は帝国主義国家であり、領土的野
心のある国家であって、万一フィリピンが日本と折衝すれば、たちどこ
ろに領土は征服される教えられたのである。吾々はこの教育方針の下に
今まで育ってきたのである。その側面には憎むべき米英の謀略、宣伝政
策がある。武力、経済力を以って日本を征服出来ないと見た米英は、日
本を完全に隔離する政策を執ったのである。以上の理由によって東亜の
諸民族は今まで一堂に会する機会はなかったのである。
3.ウーバーモウ首相
インド及びビルマ国が長年苦しんできたこの悲惨の状態は、これを体験してき
たわれわれ以外に想像はつかない。闘争は最も悪辣、非人道的な英国に対して
であり、無防備の国民としてその精鋭な武器の前に涙を呑んで屈服していた。
現在私の持っている世界観は、武器を持つ者に最後の勝利を見出すのであって、
無防備なものは精鋭な武器を持つものにはかなわない。ビルマ、インドの英国
との戦いは人と武器の戦いであった。この永い闘争のうち数多い指導者が生れ
た。その一人にスバス・チャンドラ・ボース閣下を数えることが出来る。閣下
は新興インドを代表する大人物、偉大なる指導者であると言明したい。
私はボース氏が再度東洋に現われ、英国に対する闘争を継続されたことを喜ん
でいる。閣下の闘争にアジア十億の民が同情を表した以上は、インド独立の成
功を疑わない。私は自由インドなくして自由アジアなきことを断言する。
4.ボース氏謝辞
会議に列して思うことは近代世界史上の国際会議である。ナポレオン戦争後開
かれたウイーン会議、クリミア役後のパリ会議、或いは近くはヴェルサイユ会
議、大東亜に米英の勢力を永久に維持するべく開かれたワシントン会議、米英
の勢力を世界に確立せんとする国際会議。これらは大東亜会議と趣きをはなは
だしく異にしている。大東亜会議は戦利品の分割に関する会議ではない。弱小
国を犠牲にする陰謀の会議でもない。解放された国家の共存共栄、自主独立、
相互援助、互恵等の会議である。この会議が日本の国で開かれたことは偶然で
はない。旭日が東に昇ると同然に過去の貪欲、残虐を改むべきものは東洋より
出ずることを確信する。インドは国際主義を根本とする。仏教を中心に東の国
と早く接近し、また中世以後回教徒の勢力がインドに来たるや、インドの普遍
主義、国際主義は西方の民族と交流した。しかしこれは欧州人のインド征服を
容易にした。我等は誤れる国際主義と正しき国際主義を知り得た。私は同時に
この苦しみのうちに、東洋の団結と結集の成、不成功は指導国家の方針が正義、
道義に基づくかどうかによって定まることを学んだ。大東亜共栄圏が正義に基
づくものであるので、必ず成功することを確信する。
史実
昭和18(1943)年11月7日以降の各国の状勢
1.日本
昭和20(1945)年無条件降伏
2.中華民国
昭和13年(1938)年日本の支援で汪兆銘を首班とする国民政府樹立
昭和20年(1945)年崩壊
3.タイ国
独立継続維持
4.満州国
昭和20(1945)年 崩壊
5.フィリピン
昭和18(1943)年 独立 ホセ・ぺ・ラウレルが大統領に就任
昭和20(1945)年 米国統治下に戻る
昭和21(1946)年 独立
6.ビルマ
昭和18(1943)年 独立 ウーバーモウが国家元首に就任
昭和19(1944)年 独立政権崩壊
昭和20(1945)年 ウーバーモウは日本に亡命
昭和23(1948)年 1 月 4日 独立
7.インド
昭和22(1947)年 8月15日 独立
インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース、右にはガンディー、
左にはジャワーハルラール・ネルーの肖像画が掲げられている。
関連史実
フランス領インドシナの解体と独立
昭和20(1945)年3月 9日
3月12日
4月 8日
昭和20(1945)年8月
昭和32(1957)年
私的総評
ベトナム
カンボジア
ラオス
インドネシア
マラヤ連邦
独立
独立
理想とした大東亜共栄圏の実現を果せなかったが、日本が欧米宗主国を力で
排除した結果、独立を見、現在の各国の目覚ましい発展の礎を造ったと
考える。
以上