国際交流とスポーツ外交 - 青山学院大学 国際交流共同研究センター

⻘⼭学院⼤学国際交流共同研究センター・⽇本財団パラリンピック研究会 共催
外務省・毎⽇新聞社 後援
国際シンポジウム
国際交流とスポーツ外交
報告書
⽇時 2014 年 12 ⽉ 19 ⽇(⾦)13:00〜18:00
会場 ⻘⼭学院⼤学 総研ビル 12 階⼤会議室
この事業は国際交流基⾦知的交流会議助成プログラムの助成⾦を受けて実施しました。
国際シンポジウム
国際交流とスポーツ外交
目
次
◆セッション1:国家・社会の発展とスポーツ外交
開催にあたって
土山實男(青山学院大学国際交流共同研究センター所長)
・・・1
「Sports and Diplomacy : The Brazilian Perspective」
アンドレ・コヘーア・ド・ラーゴ(駐日ブラジル大使) ・・・3
「Sports Diplomacy in the Seoul and Pyeong Chang Olympic Games」
金雲龍(元国際オリンピック委員会副会長)
・・・9
「近代日本とスポーツ交流—オリンピックと野球を中心に」
池井優(慶應義塾大学名誉教授)
・・・14
◆セッション2:スポーツが育てる人と社会
「よろこびを力に―わたしの社会活動」
有森裕子(スペシャルオリンピックス日本代表、元マラソンランナー) ・・・24
「スポーツ外交と国際交流――韓国の事例」
梁世勳(元駐ノルウェー韓国大使)
・・・29
「国際社会における柔道の役割」
小川郷太郎(全日本柔道連盟国際関係特別顧問)
・・・33
「パラリンピックの意義」
田口亜希(アテネ、北京、ロンドンパラリンピック 射撃日本代表)
・・・37
◆セッション3:総合討論
金雲龍、池井優、梁世勳、有森裕子、小川郷太郎、田口亜希、土山實男
・・・45
司会:小倉和夫(青山学院大学特別招聘教授・日本財団パラリンピック研究会代表)
登壇者プロフィール
・・・56
シンポジウム「国際交流とスポーツ外交」の開催にあたって
土山實男
国際交流共同研究センター
所長
それでは「国際交流とスポーツ外交」と題するシンポジウムを始めさせていただきます。
第 1 セッションの司会を務めます、青山学院大学の国際交流共同研究センターの所長をし
ております土山と申します。どうぞよろしくお願いします。
本日のこのテーマでございますけれども、昨年、2020 年の東京オリンピック開催が決ま
りまして、改めてスポーツをどう考えるかということにつきまして国際交流基金と本セン
ターにご支援をいただいている小倉和夫先生と相談をいたしまして、今年のこのテーマを
スポーツ外交ということにしてはどうかということになり、今日のシンポジウム開催とな
ったわけでございます。
もちろん、スポーツそれ自体やオリンピックのような大きなスポーツイベントをどう考
えるかについては、いろいろな考え方がありますけれども、私どもの考えていることを簡
単に申しますと、こういうことでございます。
ここは青山学院でございます。大学と申しますと、これから正月には箱根駅伝がござい
まして、青山学院はこの箱根駅伝に最近出場するようになりまして、来年は優勝を狙うと
言っておりますけれども、優勝できるかどうかは難しいところですが、この箱根駅伝に青
山学院が出始めて 4~5 年になりますけれども、これをテレビでいろいろ放送してくれるも
のですから、これを PR 費として換算するといくらかかるかということを計算した方がおら
れまして、数千万ではきかない相当な金がかかるということでございます。昨日の日本経
済新聞に出ておりますけれども、東洋大学がいま大学の勢いを伸ばしております。これは
もちろん駅伝だけではありません。学校のプログラム、あるいは東京にキャンパスが戻っ
たことなどがいろいろ成功して東洋大学が強くなっているということでございますが、駅
伝に話を戻しますと、スポーツなり文化活動が日本の理解や日本の外交にどれくらいの力
になっているのかというようなことを考えてみると、いろいろなことが考えられます。
例えば、昔の話ですが、スターリンがチャーチルに、ローマ法王は何個師団持っている
んだと聞いたそうです。ローマ法王の力が非常に強いものですから、もちろんローマ法王
は軍隊を持っておりませんけれども、軍隊があるに違いないとスターリンは思ったようで
す。たとえ軍隊がなくてもローマ法王には外交力があるわけです。あるいは小沢征爾さん
を外交として見るとどれくらいの影響力を持っておられるかとか、いろいろなことが考え
られるのではないかと思います。
そこでスポーツに話を少し戻しますと、例えばいま日本で非常に人気のあるスケートの
羽生結弦さんですけれども、この間、怪我をしても試合に出られました。羽生結弦さんが
ああいう形でスケートをやっているのを見ると、日本への信頼とか日本への理解を強める
1
力になっているのではないかと思います。この間のソチオリンピックでは浅田真央さんが
初め失敗してメダルは取れませんでしたが、彼女が世界に与えた感動というのは非常に大
きなものがありました。
そういう個人のプレイヤーの力もありますし、サッカーワールドカップなり、あるいは
今日いろいろと話をしていただくオリンピックというような大きなイベントになりますと、
このスポーツイベントが持っている社会あるいは世界へのインパクトは非常に大きなもの
があり、こうしたスポーツ外交を中心に本日はスポーツの様々な役割についてご議論いた
だきたいと思います。
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第 1 セッション「国家・社会の発展とスポーツ外交」
(土山實男)
第1セッションで初めにお話をしていただくのは、この間ワールドサッカ
ーがあり、これからリオデジャネイロでのオリンピックを迎えるブラジルのアンドレ・コ
ヘーア・ド・ラーゴ大使です。ブラジルが今度のオリンピックをどう考えておられるか、
また東京オリンピックに対して何を期待されるかということについて、まずお話をいただ
きます。
それから、韓国は 1988 年にソウルオリンピックを行い、2018 年には平昌で冬季オリン
ピックが開催されますけれども、韓国社会にとりまして、この 2 つのオリンピックはどの
ような意味を持ったのか金雲龍さんに話していただきます。とくにソウルオリンピック招
致の際に大きな力を発揮されました金先生にソウルはオリンピックをどんなふうに位置付
けたかについてお話いただきます。
そして最後に、来る 2020 年の東京オリンピックを見すえまして、前の 1964 年の東京オ
リンピックやほかのオリンピックを比較して、改めて 2020 年の東京オリンピックをどう
考えるべきかについて、慶應大学名誉教授の池井先生にお話をいただきます。第1セッシ
ョンは大きなテーマでブラジル、韓国、日本が、それぞれオリンピックなり、他のスポー
ツイベントをどんなふうに位置付けるかという話をしていただき、最後に私からいくつか
質問をさせていただきます。
それでは、まずブラジル大使にお話をいただきます。先ほどちょっと触れましたが、大
使は 1983 年から外交官をされておられまして、さまざまな場所で活躍をされてこられま
した。ブラジル外務省環境問題特別局長を務められた後、2013 年の 12 月から東京でブラ
ジル駐日大使をされておられます。
まずラーゴ大使に 20 分ほどご報告をお願いいたします。
「Sports and Diplomacy: The Brazilian Perspective」※
アンドレ・コヘーア・ド・ラーゴ
駐日ブラジル大使
ご紹介ありがとうございます。最初に招待して下さった主催者に対し、
御礼申し上げます。
ありがとうございます。皆様とこの場を分かち合えてうれしく思います。
土山先生がおっしゃったラインに従って、私からプレゼンテーションをしたいと思います。
※プレゼンテーションは英語でなされたが、ここに記載するのはその日本語訳を国際交流
共同研究センターの責任で修正したものである。
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5 点ばかり申し上げたいと思います。
まずわが国ブラジルについての簡単な紹介をし、その次にスポーツと外交、ソフトパワ
ーの貢献、またスポーツと外交という中での競技大会の役割、さらにブラジルで開催され
ました FIFA ワールドカップ大会、フットボールパビリオン、そしてリオから東京のオリ
ンピック開催へということで締めくくりたいと思います。
まず簡単にわが国を紹介しますと、多くの方がブラジルについてよくご存じかもしれま
せんので、基本的な情報は割愛いたしますが、改めてここで申し述べておきますブラジル
は、ポルトガル語を母国語とする中南米で唯一の国でありまして、大きな面積を持つ国で
す。アメリカ合衆国の大陸よりも面積が多い、つまりアラスカを除くとアメリカの総面積
よりも大きいということです。2 億人の人口のうち 170 万人が日系人です。日系人のコミ
ュニティとしては世界で最大です。10 カ国と国境を接しておりまして、すべての近隣諸国
とは平和裏な友好関係を保っております。
ブラジルは新興経済国と見なされておりました。日本は先進国では第 2 位の経済大国、
そして途上国の世界ではブラジルが第 2 の経済大国です。また、ロシア、中国、インド、
南アとブラジルで構成されている BRICs の一員であります。ただ、プロセスはそれぞれ
国によって違いますし、沿革も違っていて、世銀の統計によると 1980 年ですでに第 7 位
の購買力平価でいうところの経済国になっていました。GDP でも世界第 7 位に今ではな
りました。これからの展望としては、あと 15 年もすれば、ブラジルと日本が世界のトッ
プ 5 の経済国の中に名を連ねるだろうと予想されます。ですので、ますますブラジルと日
本とは水準に近づいていくということ、プレゼンスが大きくなるということです。
過去 40 年間、日本におけるブラジルの見方は、強い外交・経済関係基盤がもとになっ
ています。40 年前は民主主義ではありませんでしたが、すでに極めて強い産業が育成され
ていたし天然資源も潤沢に存在していました。日本人のブラジルイメージは、その頃のブ
ラジルの特色にもとづいています。その後、10 年以上ブラジルは経済危機に見舞われまし
たので、投資先としてそんなに魅力がなかった。その後ブラジル経済は回復しましたが、
日本ではバブルがはじけてしまったので、今度は日本が内向的になって日本がアジア太平
洋の方ばかり注目するようになったので、なかなかブラジルに目がいきませんでした。だ
からこそ、今度オリンピックがブラジルで開催されることによって、スポーツ外交によっ
て日本人の方たちに今のブラジルの新しいイメージを作っていただきたいと思っています。
今のブラジルは非常に強い民主主義国であり、格差も劇的に解消されました。経済は 25
年以上安定していますし、民主主義も強く根づいている。また、過去 10 年間に 4000 万人
が中産階級に参入いたしましたので、人口構成もかなり変わりました。大国のなかでブラ
ジルが唯一格差を解消できた経済国です。ジニ係数はほとんどの国でこの間悪化している
にもかかわらず、ブラジルのジニ係数は改善しています。
またもうひとつ大切なことは、森林伐採を 80%少なくしたということです。ブラジルは
世界で CO2 の排出量を最も削減した国です。CO2 の排出削減幅はブラジルが最高です。
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この劇的に変わった良い環境でスポーツ競技大会を開きブラジルを世界に見せるという意
味で素晴らしい機会になります。
ソフトパワーについて皆様よくご存じだと思いますけれども、ジョセフ・ナイがソフト
パワーを定義しております。それは極めて学術的な定義でありますが、手短に読みましょ
う。
ソフトパワーとは、ある国の価値、開放さ、豊かさを他の国が称賛しその国に学びたい
と思うようになれば、その国が国際政治であげたいと思う成果を獲得できること、と定義
されています。つまり、軍事的あるいは経済的に何らかの業績を獲得したからといっても
大国になれるわけではありません。ブラジルは数十年前から核兵器は憲法で持たないと明
記しております。ですので、日本とともにブラジルもそういうグループに入っておりまし
て、国際政治・経済において建設的で前向きな役割を果たしたいと希望している国であり
ます。その際、大国であるという概念を他国に押しつけることなくやっていきたいと考え
ております。
では、どのようにこのソフトパワーを実現していくかということですけれども、一部の
人々はプロパガンダを通してソフトパワーを行使すると言っていますが、そうではないと
思います。ソフトパワーになるには、その国のことをただ知るだけではなく信じてもらわ
なくてはなりません。例えば日本の「クールジャパン」にもプロパガンダの側面があるか
もしれませんが、作りごとではありません。すでに日本に存在しているものを見せている
だけです。
そうすると、何が今日のソフトパワーになるかといえば、それはある国の生活様式に他
の国の人々が魅了されるということです。だから、アメリカがあんなにパワフルなのです。
アメリカは軍事力、経済力の面でももちろん魅力的ですけれども、ソフトパワーとしてア
メリカは魅力的です。なぜなら、アメリカから強要されなくても、アメリカ人のような生
き方をしたいと他の国の人々が思って、自主的にアメリカの考え方や行動パターンを導入
しているからです。
今日、その国のライフスタイルがほかの国にとっても魅力的になるということを自慢で
きる国は、20 カ国もないのではないでしょうか。何ゆえ私が生活様式とかライフスタイル
を強調するのかと言いますと、それらは文化や政治に強いインパクトを持っているからで
す。
例えば日本の場合を取り上げてみますと、日本人がフランスやイタリアの製品を購入す
る時、日本人はフランスやイタリアに対する憧れを持っており、また彼らのライフスタイ
ルを想像するからです。フランスの製品を日本人が購入する時、パリやプロバンスが思い
浮かぶ、つまり、フランス人が世の中に示してきたフランス的な世界様式にみんなが魅了
されているからです。イタリアの製品に関しても同じことがいえ、日本人が買うのは、イ
タリアの生活様式に魅了されているからです。生活様式というのは衣服やデザインのこと
だけではありません。食事であったり、料理であったり、雰囲気であったり、あるいは生
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活の質であったりします。
日本とブラジルは、その 20 カ国の中に入っていると私は確信しておりまして、両国は
世界の国々に関心を持ってもらえる国だと思っております。
ただ、今までブラジルはそのライフスタイルを十分に活用してきませんでした。日本で
の例を挙げますと、日本人は、大のブラジル音楽好きです。驚くべきことに、実はブラジ
ル音楽の最大の海外市場は日本なのです。また建築、ブラジルの住居、ビーチとか、ある
いはサッカーとか、こういったようなすべてがブラジル的なライフスタイルだと日本人の
皆様は思っておられます。これらのいろいろなイベントは、ブラジルをお見せするチャン
スでもあるわけです。
それでは 3 点目の国際的なイベントについて申し上げたいと思います。国際的なイベン
トを企画するのは、非常に複雑でお金のかかる作業です。ですから、国がそれをやる場合
には、ただ単にそれらを実施するということではなく、より強い目標を持っていることが
必要です。なぜなら、これは本当に膨大なお金がかかりますし、またそれがその後どう使
えるかというようないろいろな疑問も出てくるからです。
いま、ブラジルは特別な状況にあります。今年ブラジルは FIFA ワールドカップを主催
し、またオリンピック・パラリンピックを 2016 年に主催することになっております。我々
はこの二つの大きなイベントのちょうど狭間にいるわけです。日本はラグビー大会を今年
主催されると聞いていますが、ブラジルのワールドカップとそのオリンピックというもの
は、世界の二大イベントです。これは非常に戦略的に重要な判断で、それを組織するという
ことになると思います。なぜかといいますと、さまざまな国のセクターが関与しなければ
いけないからです。
私はこれらの大会の重要性というものを区別して考えています。まず、インフラがさら
に強化されるということ。そして二番目に、その開発のロジックが示されるということで
あります。ひとつがインフラの強化、そしてもうひとつが実際にそれを示すショーケース
という面があると思います。この違いを私が強調するわけは、素晴らしい例として 1964
年の日本の東京オリンピックがあるからです。この東京オリンピックの時には、日本がそ
の新しい顔を世界に見せることができた。それまで日本は戦争と戦後の荒廃で知られてい
たわけですけれども、東京オリンピックは日本がそこから発展して平和な社会を築いたこ
とを示すチャンスとなったわけです。ですから、日本はいろいろなことに成功し、1964
年の東京のオリンピックがそれまでの日本のイメージを変えるチャンスになったというこ
とです。その中にはこちらの窓からも見えますけれども本当に素晴らしい丹下健三さんの
建築もあったわけです。そして新幹線ができました。そのように日本ではさまざまなイン
フラを整備することができたわけです。
これらは戦後直後に作られたものではなくて、1964 年のオリンピックを目指して作られ
たということです。これに日本は非常に成功したわけです。それゆえ世界は日本の発展に
目を見張ったのです。そして、日本はまったく新しい形でそのソフトパワーを使ったので
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す。それまでは日本の製品は安物と見られていました。しかしながら、現在ではハイテク
であるとか、非常に高品質だと評価されています。人々は非常に優しいし、またデザイン
も大変素晴らしいと考えられているのです。
このアプローチは、1992 年のバルセロナのオリンピックにおきましても活用されました。
スペインはイメージを変えたいと思っていたのです。つまりフランコ時代のスペインは、
ヨーロッパの中心にあるにもかかわらず民主主義ではない国でしたし、多くの経済問題を
1950 年代、60 年代、70 年代と経験していました。しかしながら、バルセロナオリンピッ
クによって輝かしいスペインの新しい民主主義を示すことができた。素晴らしい建築もあ
るし、また EU にも加盟しました。バルセロナが世界で最も美しい都市のひとつだという
ことを伝えることができました。ということで、スペインのイメージは大幅に変わりまし
た。要するにかつては世界の大国であったのに、今では二流国になってしまったというス
ペインのイメージを変えることができたわけです。
オリンピック開催をインフラの強化ということにつなげて申し上げました。東京はより
良いインフラを持っていましたが、バルセロナはそのインフラをオリンピックのために完
全に作り替えました。都市の建て替えを行ったわけです。これらを通して国の発展をはか
ることができたということです。
国を発展させるやり方は国によって違います。例えば北京オリンピックでは、中国が非
常に強力な国だということを顕示しました。中国のオリンピックの目的は他の国とちょっ
と異なっていたと思いますが、オリンピックによって強力な国家を示すことが北京では行
われました。
ソウルのオリンピックは韓国が民主主義になる前に準備されましたが、オリンピックが
実際に開催されたのは民主主義になってからで、このオリンピックはインフラをつくると
いう意味におきましても素晴らしい機会でしたし、またそれと同時に新しい社会体制がで
きたということを示すという意味においても意義があったと思います。
ブラジルの場合について話したいと思います。FIFA ワールドカップに関して申し上げ
たいのは、我々にとって大変残念な結果に終わりました。ドイツに大負けをしたからです。
しかしながら、同時に非常にポジティブな面もあったのです。なぜかといいますと、FIFA
ワールドカップの後、ブラジルはサッカーの国だけではないということに―それは我々が
負けたからなんですけれども―気付いたのです。ちゃんとインフラ整備をすることもでき
た。周りから空港の準備ができないんじゃないかとか、いろいろなスタジアムの準備もで
きないんじゃないかといわれていたにもかかわらず、全部準備ができましたし、本当にう
まくいったのです。
スポーツ外交という話ですのでひとつご紹介しますと、
ワールドカップが開かれたとき、
日本で午前四時と早朝だったんですけれども、大使館の前にパビリオンを作り、一日中公
開したんですね。土曜日も日曜日も本当に来たい人には皆来ていただいて、ブラジルのコ
ーヒーや食べ物を食べていただいたり、ブラジルについてのいろんな情報を提供したりし
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ました。今年プリッカー賞を受賞した建築家の坂茂氏にパビリオンを大使館の前に作って
いただきました。これも我々のソフトパワーのひとつです。このパビリオンは全部リサイ
クルされた段ボールで作られており、これはリサイクルされて作られたものです。つまり
サスティナブル(持続可能)です。
40 日間、みなさんに来ていただき、コーヒーを飲んだり、ブラジルの製品などを無料で
提供しました。こうしてブラジルのソフトパワーを示したわけです。いかに我々ブラジル
人がみんなを歓迎するのが好きかということをお見せすることができました。
最後にオリンピックについての我々の考えていることを、ちょっと短いビデオでお見せ
したいと思います。リオにいらっしゃった方は挙手いただけますか。ありがとうございま
す。お 2 人おられますね。
リオで一番知られているのが、イパネマと、それからコパカバーナです。これらはいず
れも大西洋に面しています。そしてこちらがリオの湾です。これは海に面しているわけで
はなくて、こちらが海、こちらが湾となっています。オリンピックはこの都市の中心部を
使います。こちらのほうは低所得者が住んでいるところです。そして、こちらはバーハ・
ダ・チュジュカで、主なスタジアムが建築されるところです。リオにとって重要なことは、
我々がここを完全に近代化しようとしているということです。そして、リオのこの二つの
地域を結びます。そして地下鉄をより強化します。
しかしながら、我々はこのリオの歴史的な中心部で、失われた生活のクオリティを取戻
したいと考えます。いろいろなインフラの建設が 1970 年代に行われて、リオの最も美し
いところが現在では最も美しくなくなってしまいました。今映し出されているところが、
有名なシュガーローフです。こちらが大西洋のビーチです。ここからリオ湾となります。
ここがダウンタウンです。現在こういった工事がリオの中心地でなされております。
これがいま申し上げたリオの中心部で、これが新たに建造する交通網です。こちらが今
建設中の交通網です。これは 16 世紀に建てられた建物です。新しい美術館もあります。
こちらが観光客を乗せた客船が到着する港でありまして、すべての高架道を撤去いたしま
す。昔使われていた港湾部の施設ですけれども、これは展示センターにいたします。また、
交通渋滞の激しいところには地下道を建設します。70 年代以降、地上でこういったインフ
ラを作ってしまったので、旧市街の外観が損なわれてしまいました。これらの道路すべて、
開発の被害を受けました。そこで今、昔の住宅地や町並みを再建しようとしています。
これまでのインフラ建設によって都市部と港湾地区とが分断されてしまいました。だか
ら、いま、都市にとって最も大切なのは、この機会をとらえて自らを刷新するということ
です。そして、市民のために使いやすいインフラを作るということです。都市開発は競技
大会だけのものではありません。
バーハ・ダ・チジュカの会場でオリンピックのイベントは開催されますけれども、競技
大会や、オリンピックだけが目的ではありません。先ほど申し上げましたとおり、オリン
ピック開催を機会に、リオを 10 年かけてつくりかえることができます。インフラのこう
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いった長期の大プロジェクトを、民主主義国で運営するのは難しいところもあります。な
ぜなら、市長が任期 4 年で二回当選したとしても、始めたインフラの工事は彼の任期中に
は終わらないわけです。ところがオリンピック開催のおかげで、リオデジャネイロの中心
部全体を新たに開発することができますし、オリンピックを住民全体にとって積極的な意
味を持つものにすることができます。
ご清聴ありがとうございました。
(土山)
ラーゴ大使、ありがとうございました。それでは、次の報告を金雲龍先生にお
願いいたします。金先生は多くの方がご存じのとおり、韓国のオリンピック委員会の元会
長、それから IOC の元副会長をされた方でありまして、88 年のソウルオリンピック招致
に大きな力のあった方でございます。今日の話は、主に 1981 年の招致決定から 88 年のオ
リンピックまでの話につきまして、金先生からお話をおうかがいいたします。
それでは金先生、よろしくお願いします。
「Sports Diplomacy in the Seoul and Pyeong Chang Olympic Games」※
金雲龍
元国際オリンピック委員会副会長
素晴らしい大都市東京に招待して下さって、ありがとうございます。2020 年の開催、おめ
でとうございます。スポーツの世界を東京オリンピックが変えることと期待しています。
本日はスポーツ外交、ソウル五輪の事例について話すように依頼されました。ソウルオ
リンピックは、ソウルを世界にお披露目する素晴らしいチャンスになりました。後で質問
があれば日本語で回答したいと思います。
ネルソン・マンデラは、スポーツは世界を変えると言いました。トニー・ブレアも、ス
ポーツには大きな動員力がありメッセージを伝える力があると述べています。また、フラ
ンチェスコ・ローマ法王は、スポーツは宗教の障壁を超越すると述べました。ですので、
スポーツにはいろいろな意味で貢献できるところがあります。つまりスポーツは、人間の
価値観を向上させ、オリンピックの理想、慈愛と友好、そして平和を推進します。
ソウルオリンピックは、分断された国のお披露目のチャンスでもありました。2 回にわ
たって二超大国がオリンピックをボイコットした後の開催となりました。
1981 年にバーデンバーデンで開かれた IOC 総会でソウルに決定した時に、多くの批評
家がしかめ面をしました。それはさまざまな問題があったからです。まだ朝鮮半島は分断
※プレゼンテーションは英語でなされたが、ここに記載するのはその日本語訳を国際交流
共同研究センターの責任で修正したものである。
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されていて、
韓国は途上国とみなされており、北朝鮮からの脅威にもさらされていました。
とくに二超大国のオリンピックボイコットの後でいろんな問題に直面しておりました。し
かし、史上最高の大会のひとつにすることができ、韓国にとっては世界全体に対して我々
の力をお披露目するチャンスになりました。
韓国人の結束と誇りが大きなモチベーションとなりまして、政治、経済、文化、外交、
社会、科学、スポーツの分野におきまして、非常に素晴らしい業績を残しました。1964
年の東京オリンピックもそうでしたが、韓国のグローバル化にとっても、オリンピックは
やはりひとつの布石となったわけです。
開催が決定した当時、例えば、カヌー、近代五種とルージュの三競技の国内競技連盟は
まだありませんでしたし、わが国にはカラーテレビもなかった。漢河は護岸工事もなされ
ておらず、外出禁止令が 12 時から午前 5 時まで布かれておりました。ソビエト陣営の諸
国からボイコットされる危険にさらされていました。
韓国は社会主義陣営と外交関係、文化関係、そして経済関係を持っていなかった。彼ら
の国々がオリンピック参加国の半分を占めていたので、私どもにとって一番大きな使命が、
ソビエト陣営のすべての諸国を参加させるということでした。
正式な外交関係が樹立されていなかったので、オリンピック関係及びスポーツ関係とい
う名目の下で、組織委員会を運営しなくてはなりませんでしたので、非常に緊張しました。
とくに二超大国がオリンピックをした後でしたから、もしソウルオリンピックがボイコッ
トになったなら、大被害にあっていたでしょう。
ソ連及びソ連陣営がボイコットしたなら、
価値が半減してしまうということです。NBC はその時点で、すでにもしボイコットが発
生したら放映権料を半額にせよとソウルに要求していました。合意した後でも、契約を結
ぶのに何カ月もかかりましたし、ソ連及びソ連陣営を参加させるということが、最大の課
題になっていて、努力を傾注しました。
ソ連陣営はソウルの開催に反対していました。開催都市が決まった後になっても、開催
都市を変えろとか、ボイコットすると脅迫していました。また、二国間の関係はなく、多
国間の関係しかありませんでした。しかも、そういった多国間の関係ですら、北朝鮮の抵
抗や抗議によって悪影響を受けていました。
彼らは会場の変更や開催都市の変更を要求したし、1984 年にパリで開催された IOC90
周年の式典の時に、サマランチ会長と盧泰愚大統領の前で、フランスの NOC 会長が開催
都市の変更を要求したのです。彼らは 88 年のオリンピックをバルセロナ、92 年をパリに
変えようという提案をしました。しかしそれには、サマランチ会長が強く抵抗し、拒絶し
ました。
当時はクレムリンの言うなりに社会主義国陣営は気が変わったので、我々は、とにかく
すべての国内オリンピック委員会に参加させようと、あらゆるイベントに彼らを招待いた
しました。そして、最高の条件を整えて参加するように準備しました。
当時は国際競技連盟に登録しているレフリーは韓国に一人もいなかったし、また先ほど
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申し上げたとおり、夏季大会の三競技に関しては国内連盟もなかったので、すべての国際
競技連盟のトップを呼んで条件について議論いたしました。また、ANOC 及び ASOIF の
ミーティングを開催して、ソ連の幹部を含むすべての国々の幹部を招待しました。そして
我々も関係するすべての国際会議に出席して、各国の閣僚を招待して、我々の友好的な姿
勢を見せて、また参加を確実にするための要件を整えました。
また、サマランチ会長の助けを得て、モスクワに行ってソ連共産党の幹部や、外務省、
スポーツ省、航空省、タス通信の人たちと会いました。国家放送委員会の方々とも会い対
話を確立しました。ソ連は代表団として 630 名の認証を求めてきました。その当時の 15
の共和国からの役員たちも来ていました。
その時問題だったのは、ソ連が、全斗煥大統領がソ連船の仁川港での係留を認めない場
合はボイコットすると言ったことです。この船は、選手の回復と追加の役員の宿泊に使わ
れていました。このオリンピック以後、数多くのオリンピックでこの船舶が利用されてい
ました。
それで私は全斗煥大統領のもとに行き、ソ連の選手団は私どもの法律を遵守すると約束
しているということを申し伝えました。大統領はすぐ電話をかけ、ソ連の船の港への係留
を認めました。もしスパイ活動をしたいというのであれば、わざわざこの船を仁川港に係
留して行うことではない、と。しかし、その条件には、想像以上のものがありました。
東ドイツもスポーツ界の前線にいたわけですけれども、
非常に協力的でした。なぜなら、
もう一度オリンピックボイコットが起こったら、オリンピック自体を台なしにしてしまう、
選手たちの能力を発揮する場を台なしにしてしまうということを恐れていたからです。そ
して、1985 年の東ベルリンの IOC 総会において、国家評議会議長ホーネッカーらが、ソ
ウルオリンピックへの参加を肯定的に考えているというサインをくれました。
他にも、私どもが受けた助言は、北朝鮮に対し何か対応すべきだというものです。とい
うのは、北朝鮮はソ連陣営に大きなプレッシャーをかけていたからです。それで私どもは
四回の南北スポーツ対話を行い、どういった条件を北朝鮮に提供できるかということを話
しました。スポーツを北朝鮮とどのように協力的に行えるか、と。
北朝鮮は、そのオリンピックの競技の半分を求めてきました。でも、オリンピックは、
オリンピック競技だけではありません。ジュニアの選手の大会もありますので、国を開放
しなければいけません。そのためには、同じような税関や入管もなければいけませんし、
メディアセンター、輸送、セキュリティ体制、そして選手村も設ける必要があります。こ
れは、競技会場だけの問題ではありません。すごくお金がかかるわけです。そして、かな
りの交渉を行いました。
それで、最終的に四競技を北朝鮮で行なうということにしました。
しかし、北朝鮮はそれを拒否しました。ただ、この交渉によって、ソ連陣営が参加できる
という根拠を与えたわけです。その年の 12 月 21 日から 1 月 10 日までの間に、小さな東
欧諸国ハンガリーから参加の発表がありました。そしてソ連、中国と続きました。これは
1988 年の 1 月 10 日までに起こりました。
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私は、2006 年になってからですが、ゴルバチョフ大統領にお礼を申し上げました。ソ連
が参加してくれたことに対してです。その時、大統領はいやいや、そんなことはと言われ、
ソウルオリンピックは東欧諸国圏の民主化を加速化することにも役立ったとおっしゃられ
たので、それを聞いて私は驚きました。1 万 3000 名の役員と選手、そして 1 万 5000 人の
メディアの人々が韓国を訪れました。
ソウルオリンピック開催のために、テレビの放映権に関して、国際放送機構 OIRT との
交渉が必要でした。この機構には、東欧諸国、アメリカの NBC、そして日本の放送局も
含まれていました。テレビの放映権の交渉というのは、私どもの財源であるのに加えて、
大会のセキュリティを保証するものでした。
NBC と交渉した時、私どものお金で保証してほしいと言われました。というのは、ソ
連がボイコットするおそれがあったからです。そうなったときは、その放送権利の費用を
減額してほしいと。でも、サマランチ会長は、ソウルは安全なところであると支援してく
れました。結果的には、北朝鮮も何もすることができなかったわけです。
結論になりますが、ソウルオリンピックというのは、ソウルの経済的、政治的なお披露
目の場となりました。韓国のさまざまな側面を見せることができました。まだ分断された
国ではありましたし、途上の国でありましたけれども、これはスポーツ外交を通したお披
露目の場となりました。
スポーツは非常に重要な役割を果たします。というのは、私どもは当時、東欧諸国の間
に正式な国交を持っていなかったからです。また、このオリンピックが成功したことでソ
ウルのグローバル化が促進されました。明治維新が日本の国民に対して日本も何かできる
ということを示したように、オリンピックはソウルも努力をすれば何かできるということ
を示したわけです。
ロンドンタイムズのデービッド・ミラーは、韓国人は、お金のセンスはアメリカ人と、
組織力はドイツ人と同じで、そのうえ東洋の文化的な特徴と礼儀を持っていると褒めてく
れました。またサマランチ会長は、こんなに都市、国民、国が、これだけの熱意、善意、
発明性、新規性、また犠牲を払って偉業を達成したオリンピックはこれまでにないと褒め
てくれました。
ソウルオリンピック開催によって、ソ連との文化的、経済的、政治的な関係も樹立され
ました。その後、韓国はこういった東欧諸国及び東側陣営諸国と、それぞれ外交関係を樹
立し、その後グローバル化が始まって今日のソウルに至っています。
2018 年の平昌冬季オリンピックは、まだ準備段階です。長野との共催というようなアイ
デアもあり、理想的ではないかと思ったんですけれども、4 年前に開催が決まっていて、
いま準備が進んでおります。
平昌は朴槿恵大統領の指示もあり、韓国に開催する力もありますし、韓国がきちんとや
るということを私は確信します。ただ、多くのことを IOC と交渉していかなくてはなりま
せん。東京はすでに IOC とやり取りをしておりますが、財政、スポーツの能力、インフラ
12
のための資源もすべて東京はすでに今の段階でそろっている。新聞記事によりますと、二
つぐらいの競技を韓国に渡すべきではないかと論評がありましたが、それはばかげている
と思います。
東京五輪によって、東京は非常に大きなスポーツの中心になるでしょう。1964 年とは大
きく違ったものになるでしょう。1964 年は平和主義国としての日本を世界に打ち出すチャ
ンスになりました。北京の時と同様に、すべての国の首脳を招待したらよいと思います。
そうすれば、やはり政治外交の大きなチャンスにもなります。
また、報道関係の取材陣も来るでしょうし、マーケティング関係者や世界各国の企業の
トップが集結します。つまり 2020 年の東京オリンピックは、日本の力をどのように発揮
するか、また、21 世紀型のオリンピックの素晴らしいレガシーを残すことができるかどう
かを立証するでしょう。IOC がかつての重商主義で崩壊した後に、新しいオリンピックを
開催することができるものと思います。
質問があれば、ソウルについてのみならず、オリンピックの将来についてもお答えいた
します。ご清聴ありがとうございました。
(土山)
ありがとうございました。金先生のお話は、まさしくこのシンポジウムのタイ
トルであるスポーツ・ディプロマシーそのものでありまして、そのショーケースといいま
すか、その成功例が 88 年のソウルオリンピックだったろうと思います。
金先生への質問は、第 3 セッションでフロアから質問いただきますので、第 1 セッショ
ンでは報告の後で少しディスカッションしますが、後でお願いをいたします。
それでは第3番目の報告者の池井先生です。池井先生は、長年慶應大学で外交史を教え
てこられまして、青山学院大学でも数年間外交史を教えていただきました。
『日本外交史概
論』という 2 万部ほど出たテキストブックがございますが、そのほかに池井先生が有名な
のは、野球史のいろいろな書物でございます。
『白球太平洋を渡る』に始まりまして、恐ら
く 10 冊近い本がございます。その中には『オリンピックの政治学』という本もございま
す。今日はとくに、1964 年の東京オリンピックと今度来る東京オリンピックを念頭に置き
ながら、日本がこのオリンピックをどんなふうに考えてきたのかということについて、お
話をいただきます。
それでは池井先生、お願いします。
13
「近代日本とスポーツ交流―オリンピックと野球を中心に」
池井優
慶應義塾大学名誉教授
今、ご紹介にありましたように、慶應を定年になりましてからこの青山学院大学にお招
きをいただきましたので、今日は第 2 の母校に帰ってきた、そういう気持ちでおります。
それでは限られた時間でございますので、お手元にありますレジュメに従って、報告を
進めてまいりたいと思います。
まず、近代日本にとってのスポーツは、いったいどういうものであったか。明治維新に
至りますまで、日本にはスポーツというものはだいたい存在しなかった。武士がやります
剣道、柔道、弓道、馬術があっただけです。庶民がスポーツらしきものといえば、せいぜ
い相撲を楽しむ。これは自らやるよりは、体格の非常に大きい者が大相撲という場でもっ
て、どちらが強いか競う。そういった程度であったわけです。
しかしながら、明治維新以来、日本に学校教育制度が発達をいたしますと、体育が学校
教育の一環として取り入れられます。と同時に、従来の柔道、剣道といったものに加えて、
野球部とかラグビーとかサッカーとかいった外来スポーツが、その部活動の一環に取り入
れられた。また、次第に富裕層の間でゴルフとかテニスが楽しまれるようになった。この
ようにいたしまして、日本国民の間に体位の向上とレジャーという点でスポーツが普及を
していきました。
そして、スポーツが持つ大きな意味は国威の発揚ということです。とくにオリンピック
などの世界大会で日本の選手が活躍をいたしますと、国民が熱狂します。ロンドンオリン
ピックのメダリストたちが銀座でパレードをいたしました時に、何と 50 万人が集まった
ということが、それを何よりも示しているということであります。
第 3 番目は、スポーツを通じて国家の PR ができるということです。日本選手が海外で
活躍をする。そうすると、日本にはこんなに力があったのか、と。有名な話が 1932 年の
ロサンゼルスオリンピックで、背泳で日本の選手が金銀銅を独占をいたしました。ロサン
ゼルスタイムスは何と書いたか。
「もう日本に軍艦はいりません。これから日本は海を泳い
で渡ってくるでありましょう。」(笑)この言葉に示されますように、海外の PR にもなる
し、ましてや日本でもって大会が行われれば、それをメディアを通じて世界にアピールす
ることができるというわけです。
第 4 番目が国際親善に役立つ。特にスポーツの場合、国交のない国との間にもスポーツ
交流ということでもって親善が保てますし、中には政治家がうまくスポーツを親善に利用
する。いい例が岸信介首相です。今の安倍総理のおじいさんですけれども、1958 年にワシ
ントンに日米安保条約改定の下交渉に行きました時に、時のアイゼンハワー大統領とゴル
フをやる。
「グリーン会談」であります。岸・アイクグリーン会談。そしてゴルフが終わっ
た後、スコアはどうですかと聞かれて、
「それは国家機密です。」
(笑)あるいは、アイゼン
14
ハワー大統領がアメリカのメディアに、「日本の総理大臣をどう思いましたか。」と聞かれ
ると、大統領は、嫌なやつだと思っても、ニコニコしてお茶を飲んだり食事をしなきゃい
けないんだけれども、ゴルフだけは気の合った人とやらなきゃ楽しくないんだよ。今日は
楽しかったよ,と答えた。これで、いかに日米関係、あるいは日本の首相と大統領が近し
い仲であるかということを、両国のみならず世界にアピールすることができたわけです。
そして、第 5 番目は経済発展にプラスになるということです。東京オリンピックを例に
後でお話をいたしますけれども、観光収入のみならず、インフラの整備その他でもって非
常に経済発展につながった。と同時に、時の政権の維持と支持拡大につながるということ
です。
さて、それでは時間も限られておりますので、
野球のケースについて触れてまいります。
日本には明治維新以来、海外から多くのスポーツが入ってまいりました。ベースボールは
アメリカ人の教師が大学南校、現在の東京大学、
そしてラグビーはイギリス人が慶應義塾、
サッカーはイギリス人が海軍兵学寮、後の海軍兵学校にもってきました。このようにいた
しまして、外来スポーツというのはだいたい学校の教師によってもたらされまして、それ
が学校教育の一環として普及をしていくということになったわけです。
ですから、日本ではスポーツを外国のように庶民レベルでもって楽しむというところか
らではなくて、教育の一環として行われるようになる。そして、それがマスメディア、初
めは新聞、そしてやがて電波メディアのラジオ、映像メディアのテレビにのせられて、次
第次第にスポーツというものが、とくに野球が大衆に受け入れられるようになるわけであ
ります。そうなりますと、当然、それを外交と親善の手段に使おうという動きが出てきて
も不思議ではない。その一番典型的な例が、1934 年に読売新聞が呼びましたベーブ・ルー
スです。
すでに朝日新聞は全国中等学校野球優勝大会、今の夏の甲子園ですね、毎日新聞は春の
選抜高校野球、中等野球をやっておりましたので、後発の読売新聞が野球に食い込むとし
たらプロ野球以外にないということで、ベーブ・ルースを招きます。外務省も協力した。
そして、ベーブ・ルースは非常に日本で大活躍をしてくれまして、時のグルー大使が、「ベ
ーブ・ルースは 100 人の大使に勝る」と、その日記に書いたほどの人気であったわけです。
さらには、また親善試合とか、外国人選手が日本で活躍をする。あるいは、イチロー、野
茂、松井秀樹などのように、日本人選手の海外での活躍が非常に日本にとって大きな意味
を持っているわけです。
とくに日本の占領政策をアメリカが施行するに当たりまして、名言が残されておりまし
て、占領をスムーズに行うためには天皇と野球を利用することだ、とくにベースボールを
利用することだ、と。配布した写真にありますように、そのひとつがサンフランシスコシ
ールズというヤンキーズのマイナーチームですが、1949 年に日本に呼んでまいりまして、
初めは占領軍慰問のためという名目でありますが、日米親善でなければいけないというこ
とで初めて後楽園球場でスターズ・アンド・ストライプスと並んで日の丸を掲げてやった。
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そして、マッカーサー最高司令官夫人が始球式をやりまして、その始球式の記念ボールを
明仁皇太子、今の天皇ですね、にプレゼントするということがありました。また 1975 年
に昭和天皇が訪米されました時は、あの世界のホームラン王といわれておりましたハン
ク・アーロン、ちょうど 1 年前に日本の王とホームラン競争をやったということで、日本
でもハリウッドのどんなスターにも匹敵するくらい有名だった、このアーロン夫妻がホワ
イトハウスの大統領晩餐会に招かれるということまでやるわけであります。
このように、野球がスポーツ・ディプロマシーとして国際親善の手段に使われる。国際
交流の手段といたしまして、オリンピックにも参加する。今度東京大会でのオリンピック
種目に野球とソフトボールが復活をするということがしきりといわれております。あるい
はアジア選手権。あるいはワールドベースボールクラシック。さらにはまた開発途上国に
対してコーチを派遣するといった、いろいろな手段で野球というものは役立っています。
それでは、1964 年の東京オリンピックに話を進めてまいります。まず、1964 年の東京
オリンピックは、戦後復興のシンボルでした。1952 年の 4 月に占領を脱して独立をした
わけですが、しかし、独立したといっても、一般庶民の感覚としては、昨日まで占領で今
日独立したから、じゃあどう変わったんだといわれても、あんまり感覚ないんですね。あ
るいは、1956 年の 12 月に日ソ国交回復の結果、国連に加盟をいたします。そして国連ビ
ルの前に日の丸が揚がったということでありましたが、これも国民としてはいまひとつ実
感がわかない。そういう意味で東京でオリンピックをやるということは、まさにこの戦後
復興のシンボル的な意味があったわけです。それは何よりも世界に向けて日本の PR にな
ります。
まず聖火リレー。これはギリシャから旧ビルマに運ばれまして、日本が戦時中迷惑をか
けた国々、マレーシア、タイ、フィリピン、台湾、そして、まだ米軍の統治下にありまし
た沖縄に上陸をいたしまして、ここから 10 月 10 日の東京に向かってリレーされていく。
だんだんに雰囲気が盛り上がってくる。
また、東京のオリンピックによってインフラストラクチャーが整備されたということで
す。東名高速道路、首都高速、新幹線。オリンピックを機会に日本のトイレが水洗トイレ
になったんです。また、
コンピュータによるリアルタイムの記録の集計がこの時行われる。
ということで、日本のイメージが、フジヤマ、ゲイシャの日本から、新幹線と組織の日本
へというふうに大きく転換をしていったわけです。
さらにはまた、オリンピックが開催されるということで、OECD 加盟への引き金になっ
た。要するに、国際的信用というものにつながったということです。
そして、オリンピックを開催したということで、ナショナリズムが盛り上がって、日本
国民はこのオリンピックを機会に非常な自信を持った。当時の池田内閣が遂行していた所
得倍増論、皆さんの月給を 2 倍にしますという、その所得倍増論の掛け声、そのシンボル
として東京オリンピックが、非常に大きな意味を持ったわけです。
そして料理ひとつをとりましても、それまで世界の国々は日本の野菜というのは人糞下
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肥で作っていると見ていたのが、化学肥料で作っていることが知られたし、また、民間警
備会社というものが初めて登場いたしまして、警察に代わって選手村の警備をするといっ
たようなことで、日本のイメージが大きく変わっていきました。
何よりも大きかったのは、オリンピックによるテレビ時代の始まりです。衛星中継が盛
んになりました。さらに小型カメラを活用しての選手や選手を支えるサポーターたちの動
きも同時に見ることができる。テレビ自体も白黒からカラーテレビへとこの時大きく変わ
っていった。こうしたことが、東京オリンピックの大きな意味としてとらえられるわけで
す。
それでは 2020 年は、東京オリンピックはどういう意味を持つだろうかということであ
ります。第 1 は、非常にコンパクトな大会、すなわち、エコオリンピックへの推進です。
選手村を中心といたしまして、半径 8 キロ圏内に 85%の競技会場を配置するコンパクトな
会場配置をやろうではないかということです。
第 2 に、国際親善の手段といたしまして、競技のほかに文化的イベントやライブサイト
などのフェスティバルというものを各地で開催する、すなわち、オリンピックイベントに
乗っかる形で、さまざまなイベントをやろうということです。
そして第 3 に、ワールドカップの日韓共同開催の時に成功いたしました、1 校 1 国運動
の推進です。例えばある小学校に対して、ある国についての関心を深めようというような
ことで、日本ではあまり知られていないような国、例えばコスタリカとか、あるいはウガ
ンダとか、コートジボワールとか、そういう国をひとつの小学校に割り当てて、みんなで
研究して、そこの代表選手を招いてくるというようなことで、国際親善の手段にして学生
レベルに国際交流を広げようということです。
それからオリンピック招致のプレゼンテーションの時に有名になりました「おもてなし」
です。すなわち、観光立国日本、とくにきめ細かい受け入れ方を、この機会に大いに世界
にアピールするということが考えられるわけです。
そして、今回の 2020 年の東京オリンピックのスローガンは、Discover Tomorrow です。
明日を発見しよう、あるいは未来を発見しようということで、最近の技術を駆使をいたし
まして、日本の伝統を演出しようということであります。そして、これからの話ですけれ
ども、アベノミクスが成功するかどうかにもつながってきます。すなわち、日本経済活性
化の手段として、オリンピック開催は大いに活用できるのではないかということで、いま
日本国民はやや自信を失って落ち込んでおりますけれども、この 2020 年の東京オリンピ
ックを機会にもう一度わが日本というものを見直そうではないか,そういうきっかけにな
るということを、我々皆期待しているというわけでございます。
時間になりましたので、ここで終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございまし
た。
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質疑応答
(土山) ありがとうございました。池井先生の話は、まさしく大学の先生のモデルです。
話が非常に整理されており、しかも時間を守っていただきました。
ただいま 3 人の先生にご報告いただきましたが、初めに申しましたように、第 1 セッシ
ョンとしてまだ 10 分ほどございますので、皆様からご質問いただきたいところですけれ
ども、ご質問は第 3 セッションでいただきますので、私のほうから 3 つのご報告に簡単な
質問をさせていただきます。
まず、ラーゴ大使のこのご報告についてですけれども、ラーゴ大使は駐日大使におなり
になる前、ブラジル外務省環境問題特別局長を務めておられまして、ブラジルの環境問題
について造詣の深い方でございます。そこで私の質問は、先ほどインフラの話をされまし
たが、もちろん広い意味では環境もインフラに入るわけですが、ブラジルはこの環境、地
球環境問題に果たす役割が非常に大きいと思いますので、環境を含めまして、今度のオリ
ンピックをどうブラジルの国家づくりに結びつけておられるのかお伺いいたします。
金先生がお話になったソウルの場合にもソウルオリンピックがいろいろな形で外交、政
治の民主化、そして経済発展につながっておりましたけれども、リオデジャネイロオリン
ピックを開催するに当たって、例えば近隣のアルゼンチンであるとか、ラテンアメリカの
国々とどういう関係をこれから強化していくということに、リオデジャネイロオリンピッ
クが使われるとお考えになるかということについてお伺いしたいと思います。アルゼンチ
ンと申しましたのは、アルゼンチンとブラジルは最終的に核を持たないということを決定
しまして、新しい外交関係をいま築いているところだからです。
それから金先生につきましては、金先生のこのお話は、1988 年ソウルオリンピックは外
交、政治、経済の中で非常な大きなターニングポイントでした。と申しますのは、その前
の年に大統領選挙がありました。初めての民主的選挙でありますけれども、そして盧泰愚
さんが大統領に選ばれて、その年にオリンピックが来たわけですが、その翌年の 89 年 2
月にはハンガリーとの国交が開かれ、それをきっかけにしましてソ連、92 年には中国と、
韓国外交が大きく展開していくわけですけれども、民主化、外交、経済の展開にオリンピ
ックが非常な大きな起点になったと私は思いますが、オリンピックをこんなふうに位置付
けられた方はおられるのか、それは誰だったのか、誰がどの時点でこんなふうになさった
のかをお伺いしたい。
言うまでもなく、私がこれをお伺いする背後には冷戦の終結があるわけです。もちろん、
たまたまあの時点で冷戦が終わっていくわけですけれども、あの時、中国においては天安
門事件がある。そしてヨーロッパでは冷戦の終結がある。そういう中で、ソウルが国際社
会の前面に躍り出ていったわけですが、そういうふうにオリンピックをデザインしたのは、
どの時点か、どなただったのかということをお訊きしたい。
それから、池井先生にはオリンピックインフラの関連についてお聞きします。いまこの
会議場の右手のほうに代々木のオリンピックプールの屋根が見えておりますけれども、
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1964 年のオリンピックによって、この青山地域は非常に変わったところでございます。こ
の前の通りの青山通りも大きくなった。そういうオリンピックの恩恵を受けた大学のひと
つがこの青山学院大学です。東京オリンピックの開会式の赤いジャケットをデザインしま
した石津謙介さんの VAN のオフィスもこの青山にありました。それから 50 年経って、今
や青山は世界のファッションのセンターになっております。
ということで、64 年オリンピックが日本の、特にこの青山地域に大きな影響を与えたわ
けですけれども、64 年オリンピックというのは、敗戦からの復興と経済成長、68 年の明
治維新から 100 年、69 年の沖縄返還の成功、70 年の万博と札幌冬季オリンピック、そし
て同年の NPT 調印、要するに日本は核兵器を持たないということを約束した 70 年ですが、
そういうひとつのわかりやすいストーリーをあのオリンピックは持っていたわけですけれ
ども、2020 年のオリンピックにはどういうストーリーを持たせたらいいでしょうかという
ことをお伺いします。それから、3 年前の東日本大震災とどんなふうに関連づけて今度の
オリンピックを考えたらいいのかということの二つを、池井先生にお伺いいたします。
それでは、まず大使からお願いをいたします。
(アンドレ・コヘーア・ド・ラーゴ大使) ありがとうございます。ご質問に感謝します。
また、お二方のプレゼンテーションも非常に参考になりました。
まず、外交政策はいろいろなものを含みます。古典的な安全保障だけではありません。
例えば最初に土山先生が言われたローマ法王は軍を持たないが、外交の力があるというこ
とです。ラテンアメリカ出身のいまのローマ法王は今回アメリカとキューバの関係を改善
するために一役買っています。ですから、外交にはいろいろな力が働きます。ただ、現在
のブラジルにとって、外交は安全保障問題ではありません。なぜならば、近隣諸国とそう
いった問題を抱えていないからです。
土山先生がおっしゃったとおり、ブラジルはアルゼンチンと協定を結びまして核兵器を
持たないということを決定しております。ブラジルは国連加盟国すべての国と国交を樹立
しています。ですので、わが国にとって外交とは安全保障だけではなく、経済であり、貿
易であり、文化であり、科学技術であり、協力であり、また土山先生がおっしゃったサス
ティナビリティ(持続可能性)であります。
サスティナビリティに触れてくださってありがとうございます。サスティナビリティは
わが国の外交政策の中心的ファクターです。リオ五輪は史上最もサスティナブルなオリン
ピックになるはずです。リオの市長はリオオリンピックをカーボンニュートラルにしたい
という目標を掲げました。ワールドカップでは選手の飛行機以外は、つまり政府がやった
ことはすべてカーボンニュートラルでやりました。また、新聞ではあまり記事にはならな
かったんですけれども、
選手を運ぶ航空機に関しては主要なブラジル航空会社の航空機は、
燃料でバイオ燃料を一部使っておりました。ガソリンとバイオと両方使っていました。で
すから、サスティナビリティはブラジルのオリンピックの非常に重要な要素です。ですの
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で、先生からご質問いただいたことを感謝申し上げます。
2018 年のオリンピックとパラリンピックはまたとない機会でありまして、ブラジルとい
う国のいろいろな側面を示すチャンスになります。東京オリンピックのインパクトについ
て、たとえば土山先生がおっしゃったように、青山も良い影響を受けたということを非常
に興味深く拝聴しました。あらゆる側面でオリンピックのそういった社会的、外交的な目
標を実現しなくてはなりません。もちろん平和こそ外交の主たる目的ではありますけれど
も、それだけではなく、サスティナビリティを含めた外交の成果を実現しなくてはなりま
せん。
(土山)
(金雲龍)
ラーゴ大使、ありがとうございました。それでは金先生お願いいたします。
実はソウルオリンピックのアイデアに一番最初に出した方は朴正煕大統領で
す。暗殺される前に、初めてソウルで世界射撃選手権大会があった時、あれはソビエトブ
ロックのボイコットがあり、半分くらいしか参加国がなかった世界選手権大会だったんで
すけれども、それを成功させた直後に、朴大統領がオリンピックをやってみたらどうかと
いう夢みたいな話を提案しまして、国務総理がチームリーダーになって、IOC のメンバー、
体育協会会長、文部大臣、ソウル市長、それに私で、2 回会議をしたんです。しかし、そ
の時は全員が反対でした。経済力が駄目だということで反対されたんです。その後すぐ朴
大統領は 10 月 26 日に暗殺されて、その話はストップしたんです。それからすぐ、全斗煥、
盧泰愚と軍事政権が続きまして、いろいろな面でとても難しい局面に陥ったんですね。
そこで文部大臣が、全斗煥大統領に、この危機を抜け出し、国威発揚をするにはオリン
ピックしかないと言ったと、これは後で全大統領から聞いたんです。国にはお金もなかっ
たし、韓国はまだまだ開発途上国だったんですけど、そういう中で話が始められたんです
ね。それで国をあげて始まった。ソウルオリンピック組織委員会ができますが、これは普
通の組織委員会と違って、盧泰愚大統領が大統領になる前に組織委員長になるとか、全部
軍人たちだったんですね。運営は私もやったんですけど。
それで、とにかく国をあげて国力を全部そこに投入してオリンピックをやろうというこ
とになりました。あの時は北朝鮮の脅威もあり、ソビエトとの関係がまだない冷戦時代で
したから。そういう中でオリンピックに立候補したのですが、国運があったのか、名古屋
に 52 対 27 でバーデンバーデンで勝てたんですね。だいたいソウルは 20 票ぐらいではな
いかと言われていた。うぬぼれていたら絶対に勝てない。しかしソウルが勝って、それか
ら国力をあげて準備をしたんですね。
それで準備を始めてみると、経済もちょっとよくなり始めたし、自信もちょっとつき始
めて、国民の意識が変わっていった。それが民主化にもつながる、そういう結果になった。
実は初めオリンピックをデザインした時は、これができなかったら国は何もできなくなる
という考えでした。始まった後は、国力を上げて成功させるのが基本的なデザインです。
その結果として民主化が来る。それからたまたままた冷戦が終わったので、それに韓国も
20
乗って、北方外交としてソビエトから中国まで外交関係を結び、世界のコーナーから世界
中に飛び出したというわけです。
そういう結果になったのは事実です。あの時一番協力してくれたのは、セキュリティの
こともあり、アメリカでした。開催面では日本も一番協力してくれた。そういうことで、
初めからすべてがデザインされていたのではありません。国をあげてオリンピックを持っ
てきてそれをやらなきゃ何もできないということでデザインをしたということです。国力
をあげて進めたのが民主化です。冷戦が終わって北方外交に発展し、民主化が進み、韓国
は政治外交、経済で世界に出ていった。オリンピックがそういう結果につながったと私は
見ています。
(土山) 金先生、大変貴重なお話をありがとうございました。それでは最後に池井先生、
お願いします。
(池井) 今、まず第一のご質問、2020 年の東京オリンピックはいったいどういうストー
リーを描いていくのかということでありますが、一口で言いますと、次のオリンピックは
多様化の中のオリンピックになるのではないかと思います。
まず、参加国や参加選手が非常に増えますでしょうし、競技種目も増加するでしょう。
これにどういうふうに対応していくか。それには施設をめぐる環境面のいっそうの配慮と
いうものが必要になってきます。
それから第二番目に、1964 年東京オリンピックの時はまったく必要のなかったセキュリ
ティの問題がありますね。とくにイスラム国の問題なんかが出てくると、いったいどうす
るのか。
それから第三番目に、薬物の問題。ドーピングを含めた薬物の問題にどう対応するか。
こうした意味で多様化の中のオリンピックではないかということ。
それから第二のご質問の東日本大震災との関連ですが、これについては招致活動をやっ
ております時も、いったい大丈夫なのかという疑問が各国から呈されたわけでありますけ
れども、安倍総理自身が、その点については私が責任をもって対応するんだからというこ
とを明言され、しかも東京都の計画書では、東日本大震災の復興の一環として、オリンピ
ック・パラリンピックの開催及び準備期間における被災地の支援策を現在計画しています。
東京オリンピック招致委員会のメンバーとして加わっている岩手県、宮城県、福島県の
東北 3 県の知事と東京都が合同で開催した復興専門委員会の中でもいろいろ考えているよ
うです。具体的には、例えばサッカーの予選会場として宮城スタジアムを使うとか、です。
聖火リレーに被災地の住民が参加して、三陸海岸を走ろうという話もあります。競技施設
の建設や改修に被災地の企業を中心に発注しようとか、また、被災地の中高生が大会の式
典や文化イベントに積極的に参加できるようにするとか、あるいは大会期間中に東北を紹
介するイベントを都内各地で開催して、東日本大震災の復興支援をオリンピック・パラリ
ンピックに結びつけようという動きがあるということを、お伝えしたいと思います。
(土山) 池井先生、ありがとうございました。本来なら、ここでもう 2 ラウンドくらい
21
やりとりをして議論を深めていきたいところですけれども、時間が 5 分オーバーしており
ますので、ここで第 1 セッションを終わらせていただきまして、コーヒーブレークとさせ
ていただきます。
それでは 3 人のご報告者の方にもう一度大きな拍手をお願いいたします。ありがとうご
ざいました。
[了]
22
第2セッション「スポーツが育てる人と社会」
(小倉和夫) それでは第 2 セッションを始めさせていただきます。私は青山学院大学で
10 年ほど教鞭を取っておりました関係で今日の司会をさせていただきますが、このシンポ
ジウムも日本財団からいろいろ協力と援助をいただいておりますが、私は日本財団でパラ
リンピック研究会を主宰させていただいておりまして、これからいろいろ 2020 年の東京
オリンピックはもちろんですけれども、パラリンピックが非常に大事じゃないかというこ
とで、その研究をさせていただいております。ここにいらっしゃる皆さん方の中に、これ
からいろいろご一緒に仕事をさせていただく方もいらっしゃるかと思いますので、どうぞ
よろしくお願いいたします。
第 1 セッションは、極端な言い方をすれば、国際政治という窓からスポーツを見たセッ
ションだったと思います。ですから、ソフトパワーの議論もありましたし、ナショナルイ
メージの議論もありましたし、国威発揚というようなこともございました。安全保障とい
う言葉も使われました。言ってみれば、国際政治という窓からスポーツを見たらどうなる
かという議論だったと思います。
しかし、スポーツという窓から国際社会を見たらどうなるのか。逆の意味もあるわけで
あります。ある意味では、また極端なことを申し上げますと、スポーツの活動をしておら
れる方から国際社会をご覧になったらどういうことなのか。こういう見方も当然できるわ
けです。そこで、この第 2 セッションは「スポーツが育てる人と社会」となっております
が、国際社会で特に活躍、国際場裡で特に活躍されているスポーツマン、スポーツウーマ
ン、アスリートの方々と、それから韓国から、梁世勳さんに来ていただきました。梁さん
は 1988 年のソウルオリンピックの時に第 1 セッションに参加された金雲龍さんと一緒に
いろいろ努力された方です。また、2020 年の東京オリンピック招致活動にもいろいろご協
力していただいた方であります。
有森裕子さんは皆さんご存じのとおり、有名なマラソンランナーでありますし、バルセ
ロナなどオリンピックにも何べんも出られたメダリストでありますが、同時にスペシャル
オリンピックス、これはいわゆる知的障害者の方のスペシャルオリンピックスの日本代表
を務めておられます。
それから小川郷太郎さんは長い間外交官として大使をされた方です。またご自身 6 段の
柔道家であられて、今は日本の柔道界の国際化のために最前線で活躍されておられ、全日
本柔道連盟の国際関係の特別顧問をしておられます。
それから田口亜希さんはアテネ、北京、ロンドンとパラリンピックの射撃の日本代表で
活躍された方で、普段は日本郵船で仕事をしておられます。パラリンピックというのは皆
さんの中でもご存じの方もいらっしゃると思いますが、しかし統計を取ってみますと日本
人のうちパラリンピックについて正確な知識を持っている人は 0.3%であります。それく
らい正確なことを知っている人は少ない。パラリンピックと聞いたことはある人は 9 割以
23
上いるんですけれども、パラリンピックとは何ですかと聞かれて正確に答えられる人は
0.3%。私どものやりました世論調査ではそんな結果が出ております。そういうこともあり
ますが、2020 年の東京オリンピックを目指して、今まで活躍されてきた中でどういうこと
を感じられたか、ざっくばらんにお話しいただこうと思っているわけでございます。
レディファーストというわけでもないんですが、最初に有森さんからお願いいたします。
「よろこびを力に――私の社会活動」
有森裕子
スペシャルオリンピックス日本代表
あの走ってきた有森がいったい何を言うのかと思われるような内容ばかりだと思うんで
すが、このセッションのタイトルは「スポーツが育てる人と社会」ですので、自分のこと
を話させていただきます。私自身、幼少の頃から、スポーツで育ててもらったひとりです。
その自分自身が育ててもらった経緯について、スポーツを通して日頃いろいろなことを考
え、いろいろな出会い、いろいろな機会に感じ、そして学ばせていただけたことをお話し
します。私自身、自分がとにかくひとつ技術を持って、その技術をある意味で特化して、
それで自分を元気にしたかったし、そしてまたそういう自分を通して社会や人を元気にで
きるのではないかと思って今までやってきました。だから、私自身が競技者を辞めたあと
に、自分に何かできるのではと、そういう活動に自然と入っていけたのではないかなと思
っています。
少し私の幼少の頃のお話をしますと、私は両脚股関節脱臼で生まれまして、スポーツと
は無縁ともいえるような状況でしたが、両親のいろいろな思いと支えがあり、また、学校
の体育の先生がそういう私に、自分の持っているものが武器なんだ、ほかの人が持ってい
ない自分自身のものを大事にしろと教えて下さり、私自身を奮い立たせてくださったので
す。
私の落ち込みとか元気のなさを奮い立たせくださったのがいろいろな先生との出会いで
す。スポーツ、体育、美術、音楽、すべての情操教育や人間の感情を豊かにしてくれる先
生方に、私はずいぶん育てていただいた。とくに最初に出会った体育の先生から、お前よ
く頑張るから、頑張ればいつか何かできる、だからあきらめるなと、あきらめたら何もな
いけれども、とにかく自分の持っているものを武器と思って全力で何でもやってみろ、何
でもひとつでいいからと言われたんです。その言葉をもらい、私自身、中学校で何かでき
るかなと、何かしたいなと一生懸命探していたんですが、その機会がなかなかつかめませ
んでした。皆が選んでいるものを、私も選んでいたのではいつまでも自分には手に入らな
い、機会が手に入らない。だったら、みんなが選ばないもの、みんなが嫌がるもの、皆が
まずもって避けるものに空きがある、機会の空きがあるだろうと、そういう発想から、私
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にチャンスが飛び込んできたのが運動会の 800 メートル走でした。
私が長距離を選んだわけではなくて、空きがあったのが 800 メートル走だっただけなん
です。そこの空きを、誰も手を挙げない中で運動会でトライをしたことが、私はこれがで
きるんだと、私に自信をつけてもらうことを教える結果となった最初のきっかけでした。
なので、このきっかけがなかったら、私はスポーツを続けなかったかもしれない。ただ、
自分が結果を出し、そして自分がやったこと、頑張ったことをみんなが見て喜んでくれて、
周りも元気になっていくということが分かってきて、スポーツが持つ素晴らしい力によっ
て自分に自信がついた初めての出来事だったんですね。スポーツってすごいと。スポーツ
で何かできるかもしれないと自分で思った最初の出来事かもしれません。
いい意味でこれしかできないという思いを持って、それから私は走るということを通し
て、とにかく結果を出してやっていこうという、そういう流れになるわけです。
しかし芽が出たのはずいぶん後です。もう皆さんもいつ出たっけって思われるくらい、
長い間芽は出ませんでした。国体もインターハイも行っていませんし、全国都道府県女子
駅伝という一番晴れ舞台になるはずの場も、私は 3 年連続補欠でした。後にも先にも私し
か持っていないような成績を出したのもその当時で、今はそんな選手は多分いないと思う
んですが、本当に珍しい経緯を持っています。
こういう実績というか結果であれば、いい加減にやめてもよかったのですが、でもやっ
ぱり何かスポーツで得られる自分の中の変化、頑張るとちょっとだけ変化する、頑張って
いると誰かが見てくれ応援してくれる。それがどこか自分をまた元気にするという流れが
どうしても捨てきれず、これにこだわってこだわって粘りに粘って、やっと芽が出たのが
リクルートという会社に自ら押しかけで入れてもらった平成元年です。ちょうどリクルー
トの実業団に所属できて、そこから頑張り始めた。
でも、最初はいい目にはあいませんでした。まったくもって相手にされませんでした。
やはり実績、結果を出さないと目にもかけてもらえませんでした。それでも私の頑張りを
何とか支えていただいて、結果につなげてくださったのが、小出監督でした。この小出監
督との出会いが自分の可能性をものすごく大きく引き出してくれた。結果を出せたのがも
う 22 年前になりますがバルセロナオリンピックで、私の名前を世界中に最初に知ってい
ただくことになりました。
そのバルセロナの前に、今日のこのスポーツ外交でいう、いろいろな社会や、世界とス
ポーツをどうつなげるかとか育てるか、スポーツにどういう役割があるのかということを
考えさせられた出来事がありました。それが私がニュースで聞いた戦争、湾岸戦争です。
湾岸戦争がちょうどバルセロナの前だったんです。
ちょうどそのオリンピックの予選会の頃に、湾岸戦争のニュースがかなり頻繁に飛び交
ってました。そんな中で私たちアスリートたちはスポーツをやりますが、大阪国際女子マ
ラソンに出た時、ドイツのカトリン・ドーレという、今でも私の尊敬するランナーが優勝
し私は 2 位だったレースですが、私は彼女の後ろを走っていました。ちょうど 35 キロ地
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点で私がスポンジと給水を取り損ねたんです。スポンジで体に水分を含ませるあの効果と
いうのは絶大で、それを逃すというのは非常にランナーとしてはつらいんですね。
なのに、
取れなかった。その時、スポンジを 2 つ持っていたカトリン・ドーレが私がスポンジを取
れなかったことに気づき、後ろを振り返って、自分が持っていた 2 つのうちの 1 つのスポ
ンジを私に手渡した。後ろを振り向いてスポンジを後ろに回すというのは、これほど無駄
な動きはないんです。普通はしません。してもらった瞬間、感覚的にスポーツって平和な
戦いなんだなって、その時初めて平和ということをスポーツに絡めて感覚として分かった
んです。
私は政治的なことは何もわからない人間ですが、自分のやっているスポーツというもの
が、何か世界につながっていて、そんな中でやっているこのスポーツは、そういう状況の
中でも何かいいものを生めるんじゃないか、表現できるんじゃないか、何かできるんじゃ
ないかというようなことを、すごく意識づけられました。
そうやって迎えたバルセロナオリンピックは、非常に物々しかった。参加できない国も
ありましたし、逆に戦火の中で練習をしてきてやっと参加できた選手もいたり、様々な国、
政治、社会の状況の中で、このオリンピックが開かれている、そしていろいろなかたちで
つながっているんだということをすごく感じました。何かそういうことを考えながらスポ
ーツというものをしなければいけないんじゃないかと。ただ頑張って記録を出したり、自
分がよければいいということではなしに。スポーツはスポーツの場である以上に、それを
迎える国の人たち、国境を超えたいろいろなことが影響しあうものなんだなということを、
自分自身が関わったことでものすごく感じさせられました。
初めての海外レースであり、初めてのオリンピックでもあったバルセロナにそういう感
覚で参加しいろいろなことが新鮮で、私もそれに反応しました。バルセロナはその後私が
スポーツを通して何をしたいか、何を見てみたいかということにすごく影響しました。
ちょっと 2~3 年私は自分のことでてんやわんやしていたんですが、再びオリンピック
の現場に戻り迎えたのがアトランタオリンピックでした。あれはもう自分では奇跡的に戻
れたと思うくらいの大会で、自分の後の人生に影響したんですが、このアトランタオリン
ピックで経験したこと、2 度メダルが取れたことは、自分の中で自分の人生にプラスとな
る要素を確立したと思います。
その 1996 年のアトランタオリンピックでメダルを取った時に、その後活動するきっか
けとなることをある方からいただいた。それがアンコールワット国際ハーフマラソン大会
です。第 1 回目がアンコールワット。
それまで私はカンボジアに行ったこともありません。
カンボジアがどういう状況かも知らなかったし、まったくもって私の生活の中にありませ
んでした。そんな私にアンコールワット国際ハーフマラソンの第 1 回目にゲストで来て走
ってくれないか、と。その時に初めてカンボジアは今こういう大変な状況で、対人地雷で
手足を失っている人がたくさんいて、手足がないことが一番つらいとわかるのはランナー
だからという話をいただき、とにかくチャリティレースに出てくれといわれて、何となく、
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自分がやってきた走ることを生かせるかもしれないと思いました。
私に何かできることがあるという漠然とした考えと、義手義足が必要な人が出てきてい
るカンボジアで、手作りでその義手義足を作っているカンボジアントラストという施設が
あるということをテレビ放送で見た時に、その場を見てみたいという興味もありました。
これはスポーツとは別ですが、でもそれが見られるのなら、じゃ行こうということになっ
た。それが私の、途上国に対してスポーツを通して入った最初の経験です。
1 年目の話をしますと、正直言ってなぜこの国にスポーツを持ってこなければならない
のか疑問に思いました。もうまったくもって走ろうなんて思う人はどこにもひとりもいな
くて、私が走っているとトゥクトゥクがやってきて乗れというんです。走る練習している
からといっても、乗れよと。だから、もう話がつながらないんです。食べるのが精一杯で、
走っている場合じゃないんだと。木陰で休むのが当たり前で、手足がない人が目の前にい
きなり来て、素っ裸で子どもたちが手足のない親のそばで物乞いをしている。
そんな中でマラソン大会をするというのが最初理解できなかったですね。第 1 回目をや
りましたが、参加者はトータルで 600 人くらいで、そのほとんどが日本人で、あとはカン
ボジア人です。二カ国だけです。
第 1 回目は、兵隊さんのように並ばされ、旗を直角に持ち、走る人を見る人々は無表情
で、走っている人たちが手を振らないと手を振り返してくれないという、非常に変わった
大会でした。ヨーイドンってしても 300 メートルくらい走ったら止まってしまうとかです
ね。こんなところでスポーツなんてあり得ないという感覚を持ったのが第 1 回目の大会だ
ったんです。
ただひとつとても気になったのは、その場にいた物乞いの子どもたちの目でした。物乞
いをしながら向けてくる生きていきたいという目が非常に印象に残りました。何て生き生
きした目なんだろうと。と同時に、何てかわいそうなんだろう。この 2 つがものすごく自
分の中に残ったんです。
その後、第 2 回目がありました。1997 年です。皆さんも記憶にある方がいらっしゃる
かもしれません。97 年はカンボジアで内戦が起こるんではないかという非常に政治的に危
ない状況でした。にもかかわらず、第 2 回目をやるから来てくれと言われました。他の招
待選手は全員断っている状況でししたが、自分にやらせてもらえることが何かあるのなら
という思いで、いいですよと言って行ったのが 97 年です。
その 97 年の大会でよく覚えているのは、何をしようとしたかについてです。このアン
コールワット国際ハーフマラソンを使って、当時カンボジアには第 1 首相と第 2 首相がい
て、実質的に第 2 首相のフン・センさんが力を持っていました。でも、その時の順番は第
1 首相ですので、大会には本来、第 1 首相だけ呼ぶのです。が、すでに第 2 首相の、フン・
センさんが力を持ってらっしゃったので、1 人だけ呼ぶとそこでもう何かあって、非常に
危険な状態だったものですから、この大会に 2 人を呼んだんです。そして 2 人を並べて、
300 メートル、テレビカメラに向かって走っていただいたんです。この映像を全部カンボ
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ジア全地域に流しました。2 人がそろったというのは世界的なニュースだったので、この
大会を通して初めてカンボジアは大丈夫なんだというニュースを流すのに使ったのが、ま
さに第 2 回目だったんです。
なので、第 2 回大会は 1 回目と比べものにならないくらいの人が集まり、子どもたちは
もう何かお祭りを見るように楽しみに目を向け、もういろいろなものがこのスポーツイベ
ントで変わったんですね。それを見た瞬間に、私は自分がスポーツをやってきてよかった
なと思いました。オリンピックの時も、もちろんメダルはうれしかったんですが、それ以
上にこのハーフマラソン大会はこういう変化を起こさせる、スポーツはすごいことができ
る、何かできるかもしれないとスポーツのすごさを私自身に教えてくれました。
これがきっかけとなって、私自身がスポーツを使っていろいろな問題を持った国の人た
ちや、何か悪い状況にある人たちを元気にし、自分もそれを通してスポーツを通して学び、
活動できるわけです。呼ばれていくのではなくて、自ら率先して何かできることをしてい
きたいと思って、98 年から、その当時なかったスポーツを通した社会活動や、国際活動を
する NPO 団体、スポーツ NPO ハート・オブ・ゴールドを立ち上げたんです。ハート・
オブ・ゴールドを立ち上げた後、国連の親善大使の声がかかったり、そして今 SON、スペ
シャルオリンピックスの理事長もしています。ハート・オブ・ゴールドはいま一番力を入
れているもので、カンボジアの小学校に対して、子どもの心身の健全化をすすめる教育の
プログラムを行っています。つまり、保健体育教育をカンボジアの小学校に根付かせよう
ということで、カンボジアのスポーツ省、教育スポーツ省と一緒になって、指導要領や指
導書を作り、そして学校で体育授業が行われる流れを作っております。ご清聴ありがとう
ございました。
(小倉)
アスリートのアスリートらしい感覚と感性からのお話をありがとうございまし
た。代々木の体育館にスポーツマンズクラブというのがあるんで、私は非常に憤慨してお
りましてね。あれはアスリートクラブに変えていただかないと、スポーツマンズクラブだ
などという非常に 21 世紀にあるまじき名前で、いったいスポーツウーマンはどこへ行っ
たんだと思うんですね。ぜひ体協か JOC の方にも言っておいていただきたいと思うんで
す。
梁世勳大使にお越しいただいております。先ほどご紹介いたしましたが、1988 年のソウ
ルオリンピック以来、いろいろなことに携わっておられ、東京五輪招致にもいろいろご協
力いただきました。15 分間でプレゼンテーションしていただきたいと思います。よろしく
お願いします。
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「スポーツ外交と国際交流――韓国の事例」
梁世勳
元駐ノルウェー韓国大使
セッション 1 の金雲龍さんのお話と重なるところがあると思いますが、準備させていた
だいた原稿をもとに話をさせていただきます。
本日、著名な皆様、スポーツに興味を持つ皆様の前でお話を述べる機会を得まして、誠
に光栄に存じます。主催者と関係者の皆様に心より感謝申し上げます。
この席に立つ光栄にあずかることができたのは、大阪に本社を置き、銀座に東京支社の
ある Excel Human、EH 株式会社の設立者である深江今朝夫氏のご要望に応えて、2020
年の東京オリンピック招致活動に参加させていただくことができたからです。
深江氏は 20 歳の時、ちょうど東京オリンピック開催の 1964 年に企業を起こし、今年度
で 50 周年を迎えた立派な企業の最高責任者で、スポーツを通した人間教育と博愛をモッ
トーにするオリンピック精神に賛同し、日本オリンピック委員会のオフィシャルパートナ
ーとして長い間オリンピック活動を支援してきた方です。2020 年の東京オリンピックの招
致が決まったとき、大阪のホテルにいた私は深江氏と感激の言葉を交わしました。この方
のオリンピックへの愛情は、限りなく続くものと確信します。
韓国人の私がなぜ日本のオリンピック招致にそれほど熱心なのかとよく言われますが、
ただ私は 10 年近く友情を育んできた深江氏の人間性と哲学に深く感銘を受け、自分の経
験を生かし協力したいと思っているからです。また、韓国の外交官を引退した後、第二の
人生ともいえる引退後の時間での深江氏との出会いの意味を記録に残すため、
『人生第二期
間』と題した本も出版いたしました。
人間が作り上げたものの中で、オリンピックは人種、信仰、宗教、社会、国家を超え、
全人類の差別なき和合と世界平和を成し遂げるスポーツ大会であり、オリンピックは人間
ひとりひとりを幸せと喜びに導く不思議な力を持っています。この大きな意味を持つオリ
ンピックを二度開催することに成功した日本の皆様に、この場をお借りしてお祝い申し上
げます。また、私の韓国外務部の現役時代に、日韓両国に絡んださまざまな問題で論争を
繰り返しながらも、長い間親友として付き合ってきた小倉和夫氏とこの場で話を交わすこ
とができ、大変うれしく存じます。
発展途上国韓国での 1988 年のオリンピック開催は、ほかの大会とは違った意味があり
ました。今まで先進国で開催されたオリンピックはオリンピック精神そのものを高揚させ
るものですが、発展途上国での開催は、その精神はもちろんのこと、国づくりに結びつく
いろいろな政策や目標を成し遂げなければなりません。
国内では国民全員がオリンピック招致と開催の成功を祈り、国民が一致団結して力を合
わせました。大勢のボランティアの献身的な活動に参加することで、見返りを求めない労
働の喜びを感じてもらい、インフラの整備は国のかたちを変え、戦争と貧困に悩んできた
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国民に勇気と誇りを持たせることができました。また、ある程度の国際感覚も持つことも
できました。
それまで国際社会で韓国は分断の国、戦争の国、孤児の国、貧困の国、物乞いの国とし
か映っていませんでした。力のない国は軽蔑の対象になるだけで、決して尊敬の対象には
なりません。平和を築くだけの自由もありません。これが国際社会での韓国の認識です。
しかし、1988 年のソウルオリンピックは、それまで韓国の国民が悩んできた悲しみと弱さ
を克服する原動力になりました。
オリンピックの成功のためにはいろいろな条件がありますが、まずその第一は、安全の
問題です。ソウルオリンピックの成功には、この安全問題を解決することが必要でした。
北朝鮮からいろいろな挑発がありましたが、韓国・アメリカ同盟を柱とする徹底した安全
保障体制に加え、世界各国からの積極的な協力も得られました。ソウルオリンピックは国
内的にも国際的にも成功した大会と評価されました。
当時、冷戦の中で東西両陣営間にはヘゲモニーとイデオロギーをめぐる争いをやってお
り、二度にわたり相互にオリンピックをボイコットし、当時、半分のオリンピックといわ
れておりましたが、ソウル大会でやっと両陣営の参加が実現したのです。
ソウルでオリンピック大会が開かれる前、1985 年 5 月に世界各国オリンピック委員会
総会 ANOC があり、10 月にアジア大会が開催されました。それで関連スポーツ団体と会
員国の関心を引くことになり、参加国のほとんどがオリンピックに参加することにつなが
りました。ソウルでの ANOC 総会にはソ連をはじめアルバニアを除く共産圏全体が参加
する東西両陣営の集いの場となりました。ANOC 事務総長を務めたポーランドの体育長官
は、ソウル会議の事務局長である私に ANOC 全会員の参加を期待していいと確約してく
れました。ヨーロッパのポーランドとアジアの韓国は、国の存亡を左右する数々の出来事
に遭遇したという歴史的な背景が似ていたため、意気投合したのかもしれません。
私は韓国外務省の局長の肩書を表には出さず、ANOC 総会ソウル会議事務局長を建前に、
韓国とまったく外交関係のない共産国の代表たちと接触し、個人的な交流をはかる一方、
韓国との国交正常化の必要性を強調する場を数多く設けました。その時、すべての国の代
表が直接的あるいは間接的に賛同の意を表明してくれたことに驚かされました。また、韓
国外務部長官とソ連の体育長官、アジア大会中国代表の北京市の副市長との個別会談をそ
れぞれ提案し、それらを実現した結果、ソウルオリンピック参加についてほぼ公式な言質
を得ることができました。
総会に参加した共産各国の長官たちは、それまで北朝鮮経由で聞いていた韓国とあまり
にも違う発展ぶりと豊かさに驚いている様子でした。初めて韓国は国の本当の姿を共産圏
の国々に直接明確に伝えることができました。韓国と国交のない中国は、同盟国北朝鮮の
反対にもかかわらず、86 年のソウルアジア大会に積極的に参加してくれ、大会成功の大き
な助けになりました。
次に、ベルリンで IOC 総会が開かれました。私は ANOC 総会の際、東ドイツ体育長官
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と接触した時に得た感触で、東ベルリンに入国する時に韓国の外交官パスポートを堂々と
東ドイツ入管に提出し、韓国代表団のメンバーの中で初めて入国を認められました。後で
聞いた話ですが、私の同僚たちは外交官のパスポートを持った私が入国できるかどうか賭
けたという話でした。1 人を除いて全員が入国できないほうに賭け、負けたらしいです。
それほど韓国は共産圏では認められない時代でした。
ソウルオリンピックの後、韓国はハンガリーをはじめとする共産国家と次々国交樹立に
成功しました。ソ連も改革、ペレストロイカとグラスノスチを訴えたゴルバチョフ、当時
のソ連共産党書記長と韓国大統領との会談が実現し、国交樹立に結びついたのです。これ
は中国を刺激した最高の外交となりました。
中国とはソウルオリンピックの 2 年後に開かれた北京アジア大会に際し、ソウルオリン
ピック開催で得たノウハウ、通信、コンピュータ技術、選手村のベッド、そして大会用の
車 420 台を教えたり送ったりして中国を支援しました。とくにこの車の支援は後に現代自
動車が中国進出する土台を築き上げる役割を果たしました。私は大統領の非公式特使とし
て 2 年間で 6 回中国に入り、国交正常化の土台を作りました。そして、北京アジア大会の
2 年後、1992 年に両国の間に国交が樹立しました。これらはすべてスポーツがなければ不
可能なことでした。
こうして韓国は世界を舞台に国際交流ができる国になったのです。偏見と政治の壁を超
え、相互に分かちあえる価値を具体的に実現することができるようになりました。東西陣
営が対立する冷戦時代には政治イデオロギーの問題でいろいろな出来事がありましたが、
世界平和と人類和合を提唱するオリンピックは、お互いに自然に接触することのできる最
も効果的な場だと言えます。
たとえ政治的対立があっても、それを和らげ、無言の力で敵同士を衝突させないでひと
つの場に集わせる、このことのできるのがスポーツです。スポーツには国と国、国民と国
民の間で文化、教育、社会、経済、政治の諸分野でスムーズに交流を活発化する力があり
ます。私は東京の韓国大使館で参事官を務めていた時、盧泰愚元大統領に言われて、韓国
外務部から出向の形でソウルオリンピック組織委員会国際局長になりましたが、外務部に
戻ってからもスポーツ担当の局長を務め、いまも国際スポーツとは縁を切れないでおり、
この会議にスピーカーとして参加しておられる金雲龍元 IOC 副会長のからもこれまで貴
重なアドバイスと協力をいただきました。外交官からスポーツ界に関係した経緯もあり、
世の中では人間関係が一番大事なものであること、そして、よい人間関係の始まりはスポ
ーツから生まれてくることを実感してまいりました。
冷戦の終わった時代に生きる私たちには、真のオリンピック精神を世界に広げ、人々が
平和に生きることのできる世の中を作るという使命があります。2020 年の東京オリンピッ
クで、日本は再び世界平和と人類和合に貢献するチャンスを手にしました。日本は戦後、
平和志向の国、世界平和を守る国として知られ、その活躍も著しく、多大な貢献をしてき
た国です。日本がこれまで蓄積してきた経験、ノウハウ、先端技術、インフラ、社会秩序、
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責任、そしておもてなしが生かされれば、どの国の大会よりも立派な大会になるものと確
信します。
大会の成功は、安全保障が第一の条件です。安全を脅かすのは、外部からと内部からの
ものがありますが、外部からの脅威に対しては、最近頻繁に起こるテロに関わる情報収集
と事故・事件防止のための国際協力体制をしっかりと整えていかなければなりません。日
本の内部からの脅威はあまり目立ちませんが、東日本大震災が残した放射能問題は速やか
に解決しなければならない問題です。日本政府と電力会社はいろいろ説明をしていますが、
国際的にも専門家たちのあいだにもいまだに疑問があります。世界で一番安全だと評価さ
れている日本の食料品にも疑いをもつ国もあり、そういう人もいます。
私は日本を信じる一人ですが、噂を作ったり流したりするグループは確かに存在します。
ソウルオリンピックの時も、分断国家である韓国で大会を開催することによって朝鮮半島
と世界平和に貢献すると賛成していたにもかかわらず、開催当日まで南北分断が不安定を
生む恐れがあるので開催地を変更すべきだと主張するグループがありました。2020 年の東
京オリンピックの時にも、放射能問題でこのような嫌がらせをする人がいないとは言い切
れません。
大会運営に関しては、日本は豊富な経験を生かし立派な結果をもたらすものと信じてお
りますが、ここで今年開かれた仁川アジア大会でのいくつかの出来事を述べさせていただ
きますので何かのお役に立てば幸いです。
主催者は、まず予算節約のため、また大会後の施設活用のために、いろいろな努力をし、
ある程度の成果を上げました。しかし、ボランティア教育、選手団輸送、エアコン稼働、
聖火、照明、大会の情報システム、通訳、プレスルーム設備、取材動線の協力などで混乱
も生じました。仁川大会閉会式には北朝鮮政権二番目の責任者三人が突然現れましたが、
これは停滞してきた南北対話の糸口になりました。このアジア大会がなかったらあり得な
い出来事です。
日本が目指すオリンピックの理想は日本の組織委員会で決めることですが、冷戦後のい
ま、何を目標とすればいいのかよく考えなければならないと思います。イデオロギー対立
はなくなっても、宗教上の葛藤、人種的対立、領土問題など、いろいろ衝突の原因は依然
として残っています。大戦争が起こらなくなったとはいえ、局地戦争やテロなど対応など
より難しい問題もあります。このような時代に開かれる 2020 年の東京オリンピックの精
神、理想、価値は何でしょうか。また、参加国が持っている問題、利害の対立、そしてニ
ーズにどう対応するかも難しい問題です。このすべての問題や課題を乗り越えて、東京オ
リンピックが世界平和と人類の福祉を具現する機会になることを心より願っております。
日本が続けてきた世界的な貢献をこれからも変えず、スポーツを通した人道的貢献と途上
国の生活の向上のための努力をされていくと信じています。
和食がユネスコ遺産になるほど日本の食をはじめとする日本文化は全世界的にその価値
を認められています。日本の食文化がオリンピック開催をきっかけとして、世界のより多
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くの人々に健康食として楽しんでもらう世界の文化づくりに育てていただきたく思ってお
ります。
日本全体が一枚岩になって、世界の人々の幸せを目指していただきたく思います。とく
にパラリンピックに力を入れてもらい、身体障害者や精神的障害者がスポーツを楽しむ機
会を得ることによって、希望と自信を持つ機会となるようにしていただきたいと心より願
っております。ご清聴ありがとうございました。
(小倉)
カムサハムニダ。非常に幅広い観点からのプレゼンテーションありがとうござ
いました。
それでは次に小川郷太郎先生、お願いいたします。
「国際社会における柔道の役割」
小川郷太郎
全日本柔道連盟国際関係特別顧問
私は柔道をやっておりますけれども、実は柔道はそんなに強くなくて選手としての実績
もないのですが、ただ柔道を 17 歳で始めて以来ずっと柔道を続けており、柔道歴は 55 年
になります。
外務省に入って外交官として世界中いろいろなところを回りましたけれども、どこの国
に行っても柔道はやってきました。柔道をやることによって、やっぱり私は育てられたな
と思います。練習は厳しいですし、ときどき怪我をして、友だちから揶揄されたりします
けども、それでも 55 年やってきたというのは何かそこに引きつけられるものがあるんだ
なと思います。やってみて、自分の生活態度と精神の持ち方というのが落ち着いているん
じゃないかなと思っています。
先ほど有森さんが、スポーツは人を育てるというお話をされましたけれども、私もカン
ボジアに大使で 3 年いて、有森さんがアンコールワット・チャリティマラソンをされたと
き、私も 3 年間いましたから、毎年参加させていただきました。そういう意味では生き証
人です。来年で 20 年目を迎えるこのアンコールワットマラソン、有森さんが続けられた
おかげで、カンボジアの社会にやっぱりスポーツに対する意識が非常に育ってきて、スポ
ーツを楽しむ人口が大きくなって、これは素晴らしい功績だなとに思っております。
さて、柔道について目を向けますと、柔道は世界の無形文化財だと私は強く思っていま
す。世界中いろいろ行って、どこでも柔道をやりましたけれども、本当にたくさんの国で
柔道をやっています。アフリカなんかに出張しましても、貧しいところで道場もろくな施
設はないし、畳と言えるようなものもないんですが、柔道を熱心にやっている人たちがい
て、練習の始めと終わりには正座して日本語で「先生に礼」というような形で規律を持っ
て練習しております。デンマークにも大使でおりましたが、ああいう小さな国でも、田舎
33
に行っても柔道をやっている人たちが非常に多くいます。
世界で今、200 の国とか地域が国際柔道連盟に参加してますので、本当に柔道というの
は世界的なものになってきていると思います。どうしてこんなに柔道が世界に普及したか
ということを私なりに考えてみますと、やはり柔道が持つ体を育てる体育の効果、それか
ら精神を育てる、あるいは礼儀、相手に対する尊敬の念を身につけることを柔道を通じて
学ぶことが、世界中の柔道をやっている人たちには素晴らしいことだと思われています。
実はフランスの柔道人口は登録されているだけでも 60 万人います。日本は数え方が違
うので比較するのは難しいですけれども、いま日本の柔道界で登録されているのが 17 万
人程度ですから、登録しないで柔道やっている人もたくさんいますけれども、フランスの
柔道人口はすごく多くて、その大部分が若い子どもたちと青年で、なぜそうなっているか
と言いますと、やはり親が柔道を通じて学べるこの精神性、礼儀、あるいは体を鍛えると
いう点が素晴らしいということで、子どもたちを積極的に道場に送って応援しているとい
うところがございます。それから柔道は国際交流とか友好や平和のために非常に有益で有
効な役割を果たせると思います。この 200 カ国や地域に柔道が浸透しているということは、
やはり柔道を通じて世界を結びつける役割を果たしていると思います。
山下泰裕さんが NPO 柔道教育ソリダリティという団体を作っております。私もそこの
理事をやらせていただいていますけれども、その NPO のモットーは柔道、友情、平和と
いうことですけれども、まさにそういう精神を元にして、柔道を通じて心を通じ合いまし
ょうということでいろいろな活動をしています。例えば、イスラエルとパレスチナの子ど
もたちに柔道を教えることをやっております。私は山下さんからちょっと助言を求められ
て、ぜひイスラエルとパレスチナの子どもたちを一緒に練習させてくださいというような
ことをお願いして、そういう趣旨で今も続けておられます。
それから中国はもともと柔道はそんな先進国でなくて、だいぶ後から始めていますけれ
ども、山下先生の NPO の協力もあり、外務省 ODA の予算を使って青島と南京に柔道場
を作り、そこの中国人の柔道を応援していますから、今や柔道が中国の青島や南京を中心
に草の根レベルでどんどん発展しております。
そういう意味で柔道が果たす国際的な友好、
平和というのは大きなものがあります。
日本はもちろん柔道の技術のレベルは今でも世界一です。よくオリンピックで負けたり
して、日本の柔道は駄目だと言われますけれども、これは柔道がこれだけ世界に伸びてき
ますと、必然的によその国でも強い選手が出るのは当たり前なんです。それでも、技術の
レベルでは今も日本が一番ですし、フランスとかいろいろな国から日本の柔道の技術は素
晴らしいということで、
みんな日本から学ぼうとしています。技術は優秀なんですけども、
日本には他方でいろいろな問題が起きています。
そのひとつは、柔道を学ぼうとする人口がどんどん減っていることです。人口全体が減
少しているということもありますけれども、それ以上に柔道は厳しくつらいものと受けと
られており、柔道を学ぼうとする人がだんだん少なくなって、今では日本の大学とか高校
34
の柔道部の部員がなかなか集まらなくて困っているんです。私の出身校の静岡高校は、い
ま柔道部員が一人で、一人じゃ練習にならないからというのでよその学校に行って出稽古
なんかしているような状況にあります。
それから 2 年ちょっと前に中学校での武道必須化が始まりましたけれども、当時それが
始まったということでマスコミが柔道は非常に危険なもので、何年に何人くらい死んだと
いうようなことを言うものですから、ますますみんな柔道は危ないものだということで、
親も子どもたちもちょっと萎縮しちゃうというようなところがあり、非常に問題が大きい
と思います。
それからもうひとつは日本の柔道界が国際的な活動をほとんど何もしてこなかったため
に、いわば柔道外交が不在だということが言えると思います。例えば、国際柔道連盟に本
人の理事が今1人もいないという悲しい状況にあります。それからアジアの柔道連盟の会
長は日本人じゃなくてクウェート人が会長をしております。これはいろいろな国際的な柔
道界での選挙でも、日本にそういう選挙にどう対処するかという知識とかノウハウがない
ので、選挙で完敗しているような状況にあります。やはりスポーツの中での外交というの
は必要です。けれども、日本の柔道界がこれにこれまで全然対応できていないというとこ
ろがあって、非常に大きな問題が生じているわけです。
そういう意味で、ちょっと乱暴な言い方をしますと、世界では柔道がかなり発展して隆
盛している面もあるんですが、肝心の宗主国の日本では柔道がどちらかというと衰退して
いるような面があるというのが現実で、これは何とかしなきゃいけないと思います。
他方、国際柔道連盟につきましては、いま申しましたように、日本人の理事は一人もい
ないという状況ですけれども、国際柔道連盟の会長を今、非常に強力なビゼールさんが務
めておりますけれども、非常に政治力があって、それに対して日本があまりなす術がない
という感じで、見ておりますとビゼール会長が強力な指導力のもとで柔道の大会を運営し
ていますけれども、柔道の競技という面を非常に重視し、試合の運営もランキング制を設
けてランキングの下での国際試合に勝ってポイントを取らないとオリンピックに出られな
いシステムを作ってますので、やはり選手たちがそれに影響されて怪我をしてでも試合に
出たりして、
競技偏重の状況が生じたりしております。やや商業主義的な大会運営もあり、
競技を重視するがあまり、選手たちへの思いやりとか配慮が足りないなという問題もある
ように思います。
それから会長の執行部というようなものができていて、ほとんど独裁体制的な形で物事
をかなり迅速に決めるようになっていますが、もう少しルールを決める場合にも試合運営
の方法を考えるにも、民主的にやったほうがいいんじゃないかなと感じられる面も出てき
ています。
そういう中で、日本としていろいろなことをやっぱりやるべきではないかなと思います。
まず、先ほど申しましたように日本国内で柔道人口が減っているという大きな問題があり
ますので、考えなければいけないのは競技としての柔道と教育としての柔道というものを
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分けて考える必要があるということです。今までは日本の柔道連盟の会長が先頭に立って、
メダル至上主義、金メダルを取れということで、選手を叱咤激励して、力を使ってメダル
取れということばかりやってきました。やはり試合に勝つというようなことを強調するが
あまり、ほかの面がずいぶんおろそかになってきているのではないかなと思います。
世界で柔道が盛んなのは、先ほども申しましたように、柔道の持つ徳育とか知育、体育
というものが大きな要素ですから、日本も教育としての柔道という側面にもっと力を入れ
て、その間のバランスを取るべきです。強い選手を養成すべきで、それは徹底的にやるべ
きですけれども、それだけでなく、やはり青少年を含めた柔道をやる人たちに対する力の
入れ方をもう少し考えなければいけないと思います。
先ほど申しましたように、国際的な発信力、発言力の強化がぜひ必要です。ルールを作
る場合でも、今まではほとんどヨーロッパを中心に決められてきまして、今は国際柔道連
盟が主導してルールを決めていますけれども、そこに日本の発言力というのはこれまでほ
とんどない。日本の力をもっと強めていかなければならないし、そのためにはやはり国際
的な柔道連盟の選挙で勝つ戦略と活動が必要です。
すでに柔道は世界中に浸透して、
国際的な友好と平和を強める役割を持っていますので、
国際交流の手段としての柔道を活用することが大事です。例えばアジア柔道連盟などを中
心に、柔道の途上国へいろいろな形で支援していく。アフリカでも、そういう柔道途上国
に日本がいろいろな支援の手を差し伸べていくということがすごく大事です。
先ほど世界での柔道外交が不在だと申しましたが、ぜひスポーツ外交、柔道における外
交の人材を育成したり強化することが必要だと思います。今まではともすれば、柔道で強
くて実績を残してメダル取ったような人が柔道界の運営に携わってきましたけれども、や
っぱりもっと幅広く国際的な活動をするためには、メダリストでなくてもできますから、
幅広い人材を養成していくことが必要です。例えば JICA、国際協力機構では、青年海外
協力隊を世界に送っており、その中には柔道の指導者もいますし、シニアボランティアと
いうやや年代の上の人たちも柔道指導を世界でしておりますから、そういう経験者も活用
して、どんどん柔道外交を進めていくというのが大事ではないかと思います。
オリンピック・パラリンピックが開かれることになりましたので、日本にとっては非常
にいいチャンスです。柔道はやはりメダルをたくさん取れる分野ですから、選手の強化は
大いに力を入れるべきですけれども、同時に国際交流の手段としての柔道、あるいは青少
年を育成する手段としての柔道、そういう面にも、このオリンピック・パラリンピックの
開催を契機に力を入れていく必要があるのではないかと思います。
政府の支援も大事です。ひとつは学校における柔道教育の見直し。先ほど少し触れまし
たが、柔道は危険だというような発想じゃなく、むしろ柔道は身を守る手段なんだと。多
くのスポーツの中でも、まず負けたり投げられたりするような場合に受け身から学びます
けれども、やっぱりそういう身を守る手段でもあると。それから礼節、規律を養う。そう
いう発想を前に出して、やっぱり学校での柔道教育をやってほしいと思います。外交、ス
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ポーツ外交の支援を政府のレベル、国際交流基金、あるいは外務省などでぜひ支援してい
ただきたいと思っております。すでに国際交流基金ではオリンピック・パラリンピックに
向けてかなりの予算をとってありますから、そういうものも大いに活用してやっていただ
けたらと思います。外務省も、外交上、スポーツに占める役割というのが大きいわけです
から、ぜひ全世界の日本大使館や大使が先頭に立って、こういうスポーツ交流に力を入れ
ていただきたいと思います。
メディアにつきましては、私もちょっとひとつ希望があります。私が感じていますのは、
日本で人気のある野球やサッカーについての報道は非常に多いんですけれども、もう少し
オリンピック・パラリンピックが控えているのですから、バランスをとってほかのスポー
ツに対してももう少し光を当てた報道をしていただきたいと思っています。
(小倉)
ありがとうございました。梁世勳大使、有森さん、小川さん、皆さんが必ず
言われた言葉に平和という言葉がありましたが、平和というのは平和共存という言葉もあ
りますが、共に生きるということが平和なわけでありまして、共に生きる、つまり共生と
いうことは、実は国と国との間の共生もあれば、男女の共生もあれば、外国人と日本人と
の共生もあるわけですが、健常者と障害者の方との共生もあるわけです。そういう意味で、
パラリンピックで活躍してこられた田口亜希さんに、ご自分のご体験を踏まえてお話を伺
いたいと思います。お願いします。
「パラリンピックの意義」
田口亜希
アテネ、北京、ロンドンパラリンピック射撃日本代表
アテネ、北京、ロンドンとパラリンピックの射撃競技に出場いたしました田口亜希です。
私は今日、パラリンピックの意義ということでお話しさせていただきますけれども、今は
私はこのように車椅子に乗っておりますが、以前は自分の足で歩いておりました。25 歳の
時、突然体中に激痛が走りまして、病院に運ばれた時点で足が動かなくなっていました。
いろいろな検査をしたら、脊髄の中の血管が破裂して、それが中枢神経を圧迫し傷つけて、
胸椎の 4 番、5 番の辺りからマヒが起きたのです。交通事故でよくある脊髄損傷と同じ状
態です。
それまで普通に自分で何も考えず歩いていましたので、いきなり足が動かなくなって、
周りにもそういう障害者という人はいなかったので、これから自分がどういう生き方をす
ればいいのか、自分の人生はどうなっていくのか、働けるのか、結婚できるのか、私には
もう将来がないのではないか、と考えたことがあります。その時、今は再生治療が言われ
ていますけれども、今の医学では脊髄の神経をつけることはできないと言われて、これか
ら一生車椅子の生活だと言われたんです。そのうち、どこかの偉いお医者さんが見つける
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かもしれないけどねと、主治医が言ったんです。私にはすごいショックで、仕事を始めて
4 年くらいたった時で、すごく楽しい時期でしたので、いったいこれからの私の人生はど
うなるんだろうと思い、私はこのままずっと病院のベッドで暮らしてやる、いつか誰かが
脊髄の神経をつなげてくれるのを開発するまで、ずっと病院で過ごしてやると思ってまし
た。
そうだったのですけども、友人が病院に来ていろいろ話をしてくれたり、彼氏の話をし
たり、コンパの話をしたり、そういうのを聞いていると、みんながキラキラしているのを
見て、このまま何もしなくても一日一日は過ぎるんだ、それならば何かしないともったい
ないなと思って、リハビリ病院に行き、リハビリを受けました。
皆さんのリハビリのイメージでは歩くリハビリのイメージがあると思いますが、脊髄は
いったん傷つくともう再生は不可能で、歩くのではなくて、車椅子でどのように生活して
いくかというリハビリです。リハビリ病院に行くと車椅子で、自分で車に乗るにはどうす
るとか、床から車椅子に上がるにはとか、どういうふうにしてお手洗いに乗り移るかとか
を教えてもらうんですが、そうなると本当に気分が落ち込むんです。もういやだと思うん
です。やっぱり自分は何かをしたい、何かやっぱりちょっとでも何かをできるようになり
たいということでリハビリをやりました。前向きには生きようと思うんですけど、精神的
にも、病院を出た後の恐怖感とかがあり、結局 4 つの病院を渡り歩きまして、1 年半の入
院生活を送りました。
入院生活を終わった後に職場に戻りました。もともと私は「飛鳥」という客船の乗組員
をしておりました。しかしそこでは車椅子では働けないというので、親会社である日本郵
船の陸上の社員として働くようになりました。ほぼ 2 年間仕事をしてなかったので、仕事
をできるということはすごく楽しかったのですが、どうしても周りの人と自分を見比べた
り、周りはみんな健常者の方ですので、私だけ何でこんなこともできないんだろうという
思いもありました。
そういう中で何かやりたい、自分の何かできることをやりたいなと思った時に、昔から
興味があった射撃に誘われました。弾の出る射撃は銃刀法に関係してきますので、一番最
初に始めたのはビームライフルという日本独自の競技で、光が出て、10 点が当たれば王冠
がピカピカ光るちょっと楽しい感じのおもちゃのようなものなんですけども、そこから始
めました。それをやりながらも、仕事もしながらですから、先のことを考えるのが怖かっ
た。みんながどんどんいろいろなことを始める中で、私はこれからどうなっていくんだろ
うと思うとすごく怖かったので、自分の中で一週間以上先のことを考えるのはやめようと
思ってました。将来のことというのは考えないでおこう、と。
射撃を始めて、たまたまですけども、多分私についてくださったコーチがよかったのだ
と思いますが、私がビームライフルである程度成績を出すようになったとき、銃刀法の所
持許可を取った射撃を始めてみないかということになり、まず空気銃を始めて、空気銃を
持ったら、今度はこういう試合があるから出てみないかとか、今度こういう選考会がある
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から出てみないかという感じで誘われて、何も全然その時はパラリンピックとかを考えて
もいなかったのですけども、言われるがままに出ていってたら、その選考会で、はい、韓
国の世界選手権に行くことが決まりましたという感じだったんですね。
その時でも自分ではよくわかってなくて、世界選手権に行きましたら、たまたまそこで
入賞し、入賞したら、今度は今でいうアジアパラリンピック、昔はフェスピックと呼ばれ
ていましたが、韓国の釜山で開かれたフェスピックに出まして、そこでパラリンピックに
出る基準点を出したんです。そこで、このまま成績が上がれば 2 年後のパラリンピックに
出られるよと言われて、えっと思って、2 年後かって思ったんですね。
それで、2 年後を目指してやったのですけど、ふと気づいたら、私は今まで一週間後、
先のことを考えるのが怖かったんですけども、もう 2 年後のパラリンピックのことを考え
ていて、じゃあ 2 年後のアテネのパラリンピックだったんですけど、アテネではこれくら
いの成績を絶対出して、次、北京ではこれくらいっていうふうに、2 年後、6 年後という
ふうに考えていました。ある時自分でそのことに気づいて、びっくりしました。いつの間
に私はこんな先のことを考えていたのか、考えるようになっていたのかなと思いました。
もちろん有森さんのように小さい時からスポーツを始められていた方もいらっしゃいま
すけども、私はもう先ほど申し上げたとおり、障害を持ってから始めました。そういう多
分パラリンピアンも少なくないと思うんですけども、スポーツを通して、やっぱり生きる
勇気とか喜び、あと挑戦する気持ちですね、そして目標を持つということを感じたパラリ
ンピアンは、多分少なくないと思います。
先ほど申し上げたとおり、3 回のパラリンピックに出まして、それぞれ素晴らしかった
と思います。一番近いのは 2012 年のロンドンです。すごく盛り上がってましたし、観客
の数もすごく多かったですね。オリンピックは多分すごい人が、観客の方がいらっしゃる
と思うんですけども、パラリンピックというのはなかなか各国でも観客がいないんです。
ロンドンは母が見に来たんですが、チケットが取れずにかなり苦労して取りました。確か
にどこの競技場も観客でいっぱいでした。参加国は 166 カ国、選手は 4280 名、20 競技で
503 種目ございました。日本選手団も 134 名おりました。
日本ではメジャーでありませんが、実はパラリンピックは世界でチケット売上枚数でい
うと、3 番目に大きなスポーツなんです。今まででしたら、私もえっと思ってましたけど、
ロンドンの結果を見ると、競技場に確かにすごい数の観客が押し寄せて、この結果はすご
くわかると思います。1 位はもちろんオリンピックで、2 位がサッカーの FIFA ワールド
カップ、3 位がパラリンピックにチケット売上枚数ではなっています。
ロンドンでは、テレビ放送でもすごく取り上げられました。日本では、従来、夏期、冬
季パラリンピックは NHK で放送を行っていますけども、民間放送局ではほとんど取り上
げてもらえず、NHK も生中継はほとんどなくて、結果のみを放送することが多い。2012
年のロンドンパラリンピックは、イギリスでは BBC 以外に民間放送局のチャンネル 4 が
放映権を取得して、24 時間体制で放送し、チャンネル 4 の開設以来最高の視聴率だったそ
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うです。放送中に、どうしても民間ですのでコマーシャルを入れると思うんですけども、
それを入れることにクレームが相次いだそうです。今年の 3 月に行われましたソチのパラ
リンピック、日本ではスカパーが放映権を取って 24 時間放送を行っていました。
次にイギリスでスーパーの大手のセインズベリーが、パラリンピックだけの公式スポン
サーになりました。このような大手の会社がパラリンピックだけの公式スポンサーになる
ということは大変珍しいことです。セインズベリーはアンバサダーとしてサッカーの元イ
ングランド代表チームのデイビッド・ベッカム選手を起用し、ベッカム選手自身がアイマ
スクをしてブラインドサッカー、全盲の方とか目の不自由な方のサッカーですね、音の鳴
るボールを蹴っているサッカーです、それをベッカム選手自身が体験して、それをドキュ
メントでテレビ放映しました。パラリンピックというものに対して、ロンドンでは皆さん
の興味をすごく引いていました。
今回のロンドンパラリンピックの観客の割合ですが、通常、オリンピックは男性のほう
が多いのに、パラリンピックは 55%が女性でした。考えられるのは、おそらくこういうセ
インズベリーの影響が大きい、女性はやはりスーパーに行きますので、そういう影響も大
きかったと思います。そして、ベッカム選手。やはり女性に人気ですので、ベッカム選手
の影響も大きかったと思います。その他にアンケートで答えられているのは、女性の方が
家族と一緒に見たい、子どもたちを連れて行ってパラリンピックを見たいと言っていたそ
うです。それは、やはり教育的価値があると思われているということです。
先ほど小倉さんがおっしゃったとおり、パラリンピックについてなかなか日本ではご存
じない方もいらっしゃるかと思います。もともとはパラリンピックの原点は 1948 年のロ
ンドン五輪に合わせて、英国のストークマンデビル病院内で開催された車椅子スポーツの
競技会なんですね。その病院にいらっしゃったグッドマン博士が、第 2 次世界大戦で脊髄
を損傷した兵士の治療と社会復帰のためにリハビリの一環としてスポーツを取り入れたこ
とが始まりといわれています。手術よりスポーツをということで始まったそうです。
このグッドマン博士が「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」と
いう言葉を出されています。私、この言葉を知ったのはアテネに出た後なんですけれども、
確かにそうかもしれない、すごく納得のいく言葉です。それはパラリンピアンだけでなく
て、いろいろな方にこの言葉は言えるのではないかと思います。
スポーツにはやはり障害者の自立や社会参加を促す大きな力があって、あと誰もが身近
な地域でスポーツを楽しめるという環境がやはり必要になってくるかと思います。ですの
で、まずパラリンピックを目指せとかいうのではなく、やはりスポーツはいろいろな意味
でいろいろな影響を与えてくれるものっていうことを、私自身感じています。
パラリンピックの語源についてですが、今でこそ皆さんパラリンピックって言ってます
けども、実はこれは 1964 年の東京オリンピック後に開催された、第 13 回国際ストークマ
ンデビル車椅子競技大会の愛称として考えられたものです。パラプレジア、つまり脊髄損
傷による障害者のオリンピックというもので、パラリンピックという言い方は日本で始ま
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ったんです。それを 1985 年に IOC がパラリンピックという呼称を用いることを正式に認
めました。言葉の作り方は違いますが、パラレルオリンピック、もうひとつのオリンピッ
クという考えもあります。ですので、世界でパラリンピックという名前を二回目に使うの
は 2020 年の東京が初めてになります。
よく国際オリンピック委員会、IOC というのはよく耳にされると思います。パラリンピ
ックのほうにも IPC、International Paralympic Committee というのがありまして、IOC
の場合はスイスのローザンヌに本部がありますけども、IPC はドイツのボンにあります。
国際パラリンピック委員会のマーク、オリンピックでいう五輪のマークと同じように、
それぞれ意味がありまして、心と肉体と、魂を表わしています。この名前はオリンピック
は五輪ですが、IPC の方はアギトスと呼ばれています。アギトスというのは、ラテン語で
私は動くという意味です。ですので、自発的に動いていくというのを表しているのかと思
います。
IPC のミッションは、パラリンピックの成功に向けた大会運営を可能にし、それを監督
することと、各国にパラリンピック委員会を確立し、すべての IPC 加盟組織の活動をサポ
ートすることです。その他、女性アスリートや多くのサポートを必要とするアスリートの
ために機会を作ること。教育、文化、研究および学術活動をサポートし、推奨すること。
世界中でパラリンピックムーブメントの継承的なプロモーション、および報道を推奨する
ことです。ドラッグのないスポーツ環境の確立に努めることもあります。また、パラリン
ピック選手が最高レベルの競技スポーツに取り組めるようにすること。そして、世界に感
動と興奮をもたらすことです。IPC もオリンピックと同じく、平和が元にあると思います。
それから、アスピレーションですね。パラリンピックはスポーツを通じて、社会的意識の
向上を促す役割を果たします。パラリンピック運動をすべての人が尊重され平等な機会を
得られる公平な社会づくりの一助にしたいということです。私たちパラリンピアンが思う
のは、やっぱりアクセサビリティ―つまり誰もがアクセス可能な世界を作るということが
やはり大切だと思います。世界の全人口の 10%が障害者で、その数は約 6 億人といわれて
います。ただ、これには妊婦、高齢者の方、怪我をされている方は含まれてませんので、
実際にバリアフリーを必要としている人の数は世界の 2 割になるといわれています。
2020 年に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されるに当たり、まず、バリアフ
リー化を望みます。私たちは障害者と呼ばれているんですけれども、障害がなければ私た
ちは障害者じゃないかもしれないんです。自分たちでスロープを上がれるのであれば障害
者ではないと思います。エレベーターがあれば自分で上まで行けるので障害者ではない、
ですので、私は車椅子の立場ですけども、例えば目の見えない方でも点字ブロックが普通
にあって、そこに誰かが自転車とかものを置いていなければ、彼らは自分で動けますので、
彼らも障害者と呼ばれないかもしれないんです。
バリアフリーの世界にすると、みんながより過ごしやすい世界になります。皆さんは車
椅子用のお手洗いをご覧になったことがあるかもしれませんが、すごく機能的な車椅子用
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のお手洗いがあります。海外とかに行くと、車椅子用のトイレの手すりが片方にしかなか
ったりすると、もう片方が半身不随の人はどうすればよいのかと思うことがありますが、
日本の場合はちゃんと両方に作られていたり、いろいろよく考えられています。
私の経験では、なぜ車椅子用のトイレがあるのか、何で車椅子用の駐車場があるのかと
いうのを学校で先生に教わったことがありません。だから、自分も考えたことがなかった
のです。自分が障害者になってみて、いろいろ理由がわかりました。私も今、車で今日も
来ているんですけども、扉をがばっと開けられないと、車椅子を下ろして自分が降りられ
ないんです。だから、普通の駐車場では無理なんです。それをわかってもらえれば、多分、
悪気があって車椅子の駐車場に健常者の人が車を止めているとは思いませんが、それをわ
かってもらえれば、そこに車を止める人はいなくなると思います。
車椅子用のお手洗いしか私たち車椅子のユーザーは入れないんですけども、そこの車椅
子のトイレで長い間着替えをしている人がいなくなったり、普通のトイレでも、もう少し
扉を広げれば、私たちも使えることもあるんですね。そういう意味でも、2020 年の東京で
オリンピック・パラリンピックを開催するに当たって、バリアフリー化とアクセサビリテ
ィを考えていくべきだと思います。
日本のおもてなしというのは、そこでも発揮できます。
そういうバリアフリー化、日本独自のバリアフリー化がアジアに広がり、それが世界に広
がっていくと、日本がこういう方面でもどんどん世界を引っ張っていく国になれます。
あと最後にひとつ。オリンピックにもエクセレンスとフレンドシップとリスペクトとい
うのがあるように、パラリンピックの「バリュー」というのがあります。パラリンピック
のクレージュ、勇気ですね。困難に立ち向かう勇気という意味ですね。デタミネーション、
強い意志。何かを成し遂げる強い意志。インスピレーション、人々を勇気づける、励ます、
感動を与えるということです。あと、イクォーリティ、平等です。平等な社会の大切さ。
これがパラリンピックの「バリュー」です。
これから 2016 年にブラジルで、そして 2020 年には東京でパラリンピックが行われます
ので、ぜひ皆様にもこちらのバリューというのを感じていただきたく思います。
私たちパラリンピアンも、やってもらうのが当たり前とか、手伝ってもらうのが当たり
前という考えではなく、自分らでできることは自分らでやっていきたいと思っていますの
で、どうぞ皆様のご支援をお待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします。ご清
聴ありがとうございました。
(小倉) ありがとうございました。
私もロンドンのパラリンピックを拝見しましたので、
懐かしく映像を拝見したところですが、田口さんが最後に言われた、障害というのは社会
が作るものだと、つまり、それは初めから存在するものじゃなくて社会が作るものだとい
うのは、まさにそのとおりで、目の見えない方も点字で読めるようにしてあれば、目の見
えない方と目の見える方とのバリアはなくなるわけですから、ある意味では、すべての障
害というのは社会が作っているものであるということも言えるかと思いますが。
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そういう観点もありまして、今日は実はパラリンピアンとオリンピアンのお二人がいら
っしゃるというのは、スポーツの会合ではよくあることですけども、こういうシンポジウ
ムでは必ずしもよくあることではないので、せっかくお二人がいらっしゃいますので、ち
ょっと梁さんと小川さんのお許しを得て、有森さんと田口さんのお二人にお伺いしたいこ
とがあるんです。
それは有名な言葉ですが、オリンピックは参加するために存在すると。参加することに
意味があるということはオリンピックの原点だったわけですが、今や誰もそんなことは言
わないですね。オリンピックは勝つためにあるわけです。
しかし、パラリンピックはどうなんでしょうか。パラリンピックも勝つためにあると言
えるでしょうか。これは非常に重大な問題であって、実はこれは非常に原始的な問題です
けども、実は今のオリンピックとパラリンピックのあり方について考える際に、非常に考
えさせられることだと思うんです。
具体的なことを申し上げますと、パラリンピックの開会式、さっき田口さんがビデオで
見せて下さいましたが、開会式を見ても閉会式を見てもやり方を見ても、できるだけオリ
ンピックに近づけようということに今なってますね。やり方もそうです。競技の仕方、す
べての点についてパラリンピックをなるべくオリンピックに近づける。これがひとつの理
念として国際的には行われているわけです。
それは、しかし、ある程度まで行って、さらにどんどんどんどんその道を行くことがい
いことなのかどうか。どこまで行ったらいいのかですね。有森さんはスペシャルオリンピ
ックスをやっておられます。スペシャルオリンピックスは、恐らく参加すること、むしろ
競技性そのものよりも、参加することに非常に意味を置いておられると思いますが、スペ
シャルオリンピックスはちょっと別としまして、パラリンピックとオリンピックの両方見
た時に、オリンピックの原点であった参加することに意味があるという考え方は、どこま
でどのように現実に選手の参加された方がどういうふうにお感じなのかですね。非常にこ
れは抽象的な問題ですけど、現実的な問題でもあると思いますので、お二人にお伺いしま
す。
(有森)
私自身の個人的な考え方になると思うんですけど、当事者の本人たちがどう臨
むかが一番大事だと思います。パラリンピアンの場合も、それが競技性なものなのかどう
かということは誰かが決めるものではないと感じています。
スペシャルオリンピックスはちょっと違います。違うところは、当事者のアスリートは
知的に障害を持っているので、私自身、スペシャルオリンピックスに参加してみて、彼ら
が勝ちたいと言えば勝たせたい、参加したいと言えば参加させたい、私としては彼らが頑
張ることを応援したい。それぞれの思いやそれぞれの価値を実現することを手伝いますと
いうスタンスが最終的には私が持つべき最低限のものなのかなと思います。
確かに参加することに意味があるという人もいると思うんですが、多分、自分たちは何
かできるアスリートとして参加しているはずなので、そこがどのレベルにあるかとか、ど
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うあるべきかということは、当事者以外の人が考えることではないのではないかというふ
うに考えます。
(小倉)
ありがとうございました。田口さん、何かコメントありますか。
(田口)
すごく難しい問題なんですけども、私もアテネに出た時に、私ではないんです
けど、ほかの選手が JPC の人に目指しているのは何位と問われた際、
「もうここに来れた
だけで幸せです」と言ったらすごく怒られたんです。
「そうじゃなくて、上を目指せ」と言われました。私はそれまでそういう競技というもの
を本当にやったことがなかったので、それまで私も参加することに意義があると思ってい
たんですけども、ただ、確かにもっと上を目指すという気持ちも大切だと思います。有森
さんがおっしゃったとおり、パラリンピックに出る人もオリンピアンとまったく変わりは
なくて、自分が何を目指してきたかだと思うし、メダルを取りたいということもあるでし
ょう。私はアテネの時は、どちらかというとここに来れただけで嬉しかった。来たことが
自分の最終地点というわけではないですけども。北京、ロンドンと考え方がどんどん変わ
っていくんです。ですので、それぞれみんなが思うところがあって、それでよいのではな
いかと思います。
ただ、わかっていただきたいのは、先ほどの映像を見てもそうなんですけど、車椅子に
乗った足のない子が、かわいそうな子が何か頑張っているなと皆さんは思われるかも知れ
ませんが、本人たちはそう思ってやってはいないのです。健常者と同じではないですけど
も、自分たちのできる能力を最大限に生かせる場所、そこがパラリンピックです。そこで
自分たちが自分たちの一番よい成績を上げられるということを目指しているということだ
けは、わかっていただきたいと思います。
(小倉)
ありがとうございました。この次に総合討論のセッションがありますので、小
川さんと梁さんには次のセッションでまた意見を言っていただきたいと思います。このセ
ッションは時間が来ましたので、ここで終わりにさせていただきます。ありがとうござい
ました。
44
第 3 セッション「総合討論」
(小倉和夫)
それではせっかくいろいろご議論がありましたので、最後に取りまとめる
という意味ではなく、いろいろな観点からもう一度改めて感想を含めて、登壇者の方にコ
メントしていただきたいと思います。同時に、できればフロアの方々からもご質問をいた
だきたいと思います。できるだけその時間を長く取りたいと思いますので、最初 4~5 分
ずつご発言願いたいんですが、私がとくにどなたに質問をするということはいたしません
が、私が今までのご発言を聞いていて、いくつかお伺いしたいことがありますので、アト
ランダムに申し上げますので、それらの問題についてはどなたでも結構ですし、またある
いは違った問題でも結構ですので、登壇者の方からコメントをいただきます。
ひとつは選手の方、アスリートの方と社会との関係です。これが第 2 セッションの一つ
テーマでしたが、アスリートのキャリアが終わった後、社会との関係でキャリアパスと申
しますか、スポーツの選手のキャリアパスをどのようにこれから育てていくのか。例えば
女性コーチ。女性のスポーツのコーチは非常に少ないんです、いまの日本では。ましてや
障害者スポーツのコーチの方というのはもっと少ないんです。障害者スポーツの選手がコ
ーチや監督になる、そういうことも大事なんですが、実はほとんど女性チームの監督は依
然として男性が多いですね。なぜ日本ではそうなのか。これをどう直していくのか。そう
いったアスリートの方々のキャリアパスの問題についてどのようにお考えか、あるいは韓
国においてはどういうことになっているかです。
二つ目は、スポーツは国のイメージの高揚、改善に役立つということを池井先生もおっ
しゃいましたが、それは確かにそうだと思うんですが、しかし考えてみますと、オリンピ
ックに関してだけ言えば、そういうことができる国は世界でせいぜい 10 カ国か 20 カ国で
はないのか。と言いますのは、北京オリンピックに参加した国は、約 200 カ国、正確に言
うと 195 くらいだったと思いますが、だいたい 200 カ国です。そのうちメダルを取った国
は約 90 カ国から 100 カ国です。まして金メダルを取れた国は 40 カ国くらいです。
つまり、オリンピックに参加する国の半分はメダルを 1 つも取っていない国。ましてい
わんや金メダルを取った国というのは、全体の 4 分の 1 か、5 分の1であるという状況で
すね。そういう時にいったいオリンピックのあり方としまして、果たして多くの貧しい国
がオリンピックに参加して、どのような意味があるのか。今のような状態が続いていけば、
いつまでたっても今のような状態が続くということは、果たしていいことなのか。これを
是正するとしたら、何が必要なのか。
三つ目は、ソウルオリンピックは金雲龍先生や梁世勳先生も言われましたが、素晴らし
いオリンピックだったと。これはスポーツの大会としてもともとそうですが、東西の和解、
45
韓国の外交、いろいろな意味で大変な金字塔、エポックメーキングなオリンピックだと思
いますが、しかしあの時代から相当変わったのはテロの問題です。ドーピングとかの問題
もありますが、いま大変な問題はテロリズムです。
いったいオリンピックをやって平和平和と言いますが、オリンピックをやるとかえって
平和は乱れるんじゃないか。テロの格好の襲撃の対象になりますね。こういう状態という
のをどのようにこれから乗り越えていけばいいのか。この点について、ご意見があれば承
りたい。
もうひとつは、小川さんが柔道の話をされました。まさに日本の柔道は危機に瀕してい
ると私は思います。ちょっと極端なことを申し上げますと、逆に柔道も危機に瀕している
のではないか。世界の柔道もですね。というのは、柔道の持っていた本当の精神、そうい
ったものが実は失われつつあるのではないか。例えばカラー柔道着論争から始まって、そ
もそも無差別級というのがありますが、あれはあった方がいいのか、ない方がいいのかと
か、そういう問題を全部考えてみると、柔道が国際化して世界のスポーツになった、小川
さんの言われる世界の文化遺産になったにもかかわらず、実は柔道は壊れてしまった。極
端な言い方をしますとですね。つまり、その両方の面、つまり柔道のよさを守りながらど
んどん国際的にこれを普及していくにはどのように考えたらよいのかということをお伺い
したい。
そういうようないろいろな点を考えさせられるご発言があったと思いますので、今のよ
うな点についてでも結構ですし、または全然違った点についても結構ですが、お一人 5 分
くらいで、金雲龍先生からお願いします。
(金雲龍)
商業主義とプロフェッショナリズムの話が出ましたが、経済の発展とともに
大きくなってきて、アマとプロの区別がつかない時代になった。それから経済発展ととも
にオリンピックが国威発揚の場になった。今や実際、国の投資がなくてはオリンピックも
招致できない、メダルも投資がなくては取れない。上位 10 カ国を見れば、全部ものすご
く投資をしているアメリカ、中国、ロシア、ドイツ、韓国、日本、フランス、イギリス、
こういう国でしょう。そういう世の中になったので、これから、IOC はお金を儲けたら、
それで途上国に援助し、選手も IOC が金を出して参加させるようにするようにする。まだ
そこまではいってない状況ですが、IOC をどう建て直すか、これからの課題だと思います。
テロの問題は、ミュンヘンの時もあったし、ソウルの時はアジアゲーム直前に飛行場爆
発事件があったし大韓航空機が落とされたりしました。オリンピックが大きいメッセージ
を発する行事になったためにオリンピックもテロの被害を受けます。
アトランタの時、私はコーディネーションコミッションでセキュリティを担当していま
した。今、ISIS とか何とか新しい問題が出てきましたから、IOC としてはプーチンやイギ
リスがやったように、テロに備えてセキュリティを整えなければ駄目じゃないかと思いま
す。
(小倉)
ありがとうございました。さっきのセクションで時間がなかったので、梁さん
46
と小川さんに特にご発言を求めなかったので、もしコメントがありましたらどうぞお願い
します。
(梁世勳)
いくつかのご質問について申し上げたい。まずメダルのことです。現在はど
の国がどのメダルをいくつとったというふうに表示されていますが、それを国別ではなく
て、できればヨーロッパ、アジア、アメリカというふうに地域にしてもよいし、年齢でわ
けてもいいですし、あるいは性別にしたらどうか。それがまずひとつ。
テロはこれからもなくならない、もっと激しくなるのではないかと思われます。言うま
でもなく、IS とかもある。テロがなくならないとしても、テロをある特定の国や選手団に
向けたテロとして扱わないで、テロは全人類の敵ですから、例えば国連の安保理事会で決
議案を出すとかしてテロリストにもっと厳しく対処したらどうですか。
もうひとつは、オリンピックとパラリンピックが今どんどん似ていくようなところがあ
りまして、これを例えば一緒にする方法はないのか。まずオリンピックの閉会式とパラリ
ンピックの開会式を一緒にするとか、ある種目、例えばバスケットボールとかスイミング
を選んで、一緒にするわけですよ。できる種目だけ選んで、2020 年の東京オリンピック大
会で、それを試みたらどうでしょうか。
(小倉)
ありがとうございます。では、小川さん。
(小川郷太郎)
先ほど小倉さんからいくつか質問があったんですが、それについて私の
感じたところを申し上げたいと思います。
最初は、まずキャリアパスの問題を指摘されまして、確かにこれ非常に大きな深刻な問
題だと思いますけれども、この問題に対処するに当たって、二つのことを考えました。ひ
とつは選手のレベルです。どの競技でもオリンピック級になる選手として育成し、強化訓
練が行われていますけれども、やはりそういう競技に参加する選手に対して、その競技、
技を強化するために力を注ぐだけではなしに、やはり選手たちに現役が終わった後、生き
ていく道をどう選ぶかということを考えさせるための指導・教育が必要ではないかと思い
ます。
一例だけ挙げさせていただきますと、私は三井住友海上の顧問をさせていただいてます
けど、あの会社は女子の柔道のピカイチの選手を何人も抱えていまして、例えば北京のオ
リンピックで金メダルを取った上野雅恵とか、銅メダルの中村美星とか、今でもメダルを
取っているような選手が何人もいるんです。そこで監督をされている柳澤先生という方は、
常に選手たちは柔道だけやるんじゃなくて、もうちょっと社会に出て役に立つような人間
になることを考えろって常日頃言っておられて、実際に練習を相当たくさんやりますけれ
ども、いわば座学のようなものを課して、いろいろな外部から人に来て話をしてもらって、
私もそれを頼まれて話をしたことがありますけども、その後に選手たちにそれを聞いて思
ったこと、考えたことを文章に書かせて提出させたりやっています。
それから選手たちに休みがある時には、本屋に行って自分の好きな本を買ってきて読ま
せて感想文を書かせたり、英会話をやらせたりしていまして、そういう教育をしています
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から、柔道の練習や稽古だけではなくて、別のほうにも意識を持つような人を育てようと
しているんですね。
柔道を創始した嘉納治五郎師範という方は、柔道の訓練のひとつが社会に有益な人間に
なれということを非常に重要な要素として教えていたのですけれども、ただスポーツに強
いだけではなく、社会に出て活動できる人間を作ることも、指導者と選手本人たちにとっ
て意識すべき大事なことと思います。各競技の連盟が選手たちを育成して強くするだけで
はなく、キャリアパス、つまり現役を終わった後何をするかということも考えながら育成
して現役が終わっても彼らを助けることをやっていく必要があると思います。一流選手を
終えた人たちが青少年を育てるためにいろいろなところに行って教えるシステムを作って
いくということが大事ですから、本人とその連盟が意識した対策をとっていくことが必要
です。
それからスポーツは国の威信をかけてメダルを取ることを皆さん目指しますけれども、
取れない国が非常に多いというのも事実です。強い国はまだメダルを取れない国を強化す
るということにも努力すべきではないでしょうか。これはキャリアパスにも関係しますけ
ども、現役を終わった選手がそういう国に行って指導するというのもいいと思います。山
下さんが中国で柔道の指導をしようとしていた時に、日本の中には「山下さん、そんなの
やめなさいよ。中国が強くなるのを助けるなんてとんでもない」ということを言う人たち
がいましたけれども、山下さんは信念で指導して、そういう選手も育ってきているという
実績がありますから、やはり強くない国の指導に日本が協力していくということは、スポ
ーツ全体のレベルを上げることでもあるし、日本の選手にとっても刺激になるから、そう
いうことも日本が一生懸命やるべきだろうというふうに思います。とくに現役を終えた選
手たちにそういうところで働いてもらうということもいいと思います。
先ほど柔道は危機に瀕しているという話があって、実際、そうだと思います。それで日
本の柔道人口が減っていて、非常に深刻な問題です。先ほどカラー柔道着の問題もあると
いうご指摘がありましたけれども、私自身はカラー柔道着というのは柔道の本質的な問題
に関わるものではないと思っています。青い柔道着を導入しようとした時日本は反対しま
したけれども、結果的にはやっぱり見て非常にわかりやすいですね。どっちがポイント上
げたのかわかりやすいし、色を入れたからといって柔道の本質が変わるものではないと思
います。
むしろいま柔道でも問題なのは、例えばルールがいろいろ変わってきて、柔道の試合で
タックルばかりする技が増えてきて、これは柔道着を着たレスリングじゃないかと揶揄さ
れましたけれども、そういう状態を改善するためにルールを変えてきましたけれども、他
方で今まで使われていた立派な技ができなくなるようなルールになったりしていますから、
もう少し細かいところを日本が考えて、その辺のルールはこうすべきではないかと発言し
ていくことが必要です。
あるいは、柔道の試合は礼節を重んじるべきですが、負けた人が負けたままずっと寝そ
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べっているとか、勝つと大騒ぎしてガッツポーズをするとか、行儀が悪い。これは相手に
対して失礼ですから、礼節を正しくする方向に持っていくために、これは柔道の本質です
から、日本が役割を果たしていくということが大事だと思います。
(小倉)
ありがとうございました。それでは池井先生と土山先生にお話しいただき、最
後にお二人のレディーズにお話ししていただきます。池井先生と土山先生、どうぞ。
(池井優)
二つ申し上げたい。ひとつは指導者の育成ですね。これはやっぱり子どもを
どうやって指導するかというところから始めないといけないので、どうしても日本では根
性論とか、野球に道がついて野球道とか、そういう発想が非常に強いですね。
具体的な例を申し上げますと、アメリカでテッド・ウィリアムス・ベースボールキャン
プ・フォー・ボーイズという、子どものための野球学校に体験入学をしたことがあります。
そこへ来ている子どもは、皆野球が下手なんですね。くればうまくなるだろうと思ってや
ってくる。
アメリカは軟式がありませんから、全部硬式なんです。キャッチボールすると、みんな
怖いですね。怖いとどうするか。みんなこうやって顔背けて取ります。そうすると、コー
チが「おい、ちょっとお前持ってろ」と言って、腕時計をひょいと投げるんですね。子ど
もはびっくりして両手で取ります。
「おい、見たか。いま腕時計、大事だから両手で取った
んだろう。ボールも両手で取れよ」と。その子どもは言う。
「だって、腕時計痛くないけど、
ボール痛いもん」。「あ、そう。じゃあ痛くないボールでやろう」。それで新聞紙を丸めて、
ガムテープで貼って、「キャッチボール怖くないの、痛くないな」。次に、テニスのボール
にして「痛くないな、怖くないな」
。そして硬式のボールにする。30 分の間にもうボール
を怖がらなくなるんですね。
次はゴロです。硬式のゴロというのは怖いですね。みんなもう顔背けている。そうする
と、コーチが言います。
「お前たち、ボール怖いか」。「怖いです」。さあ、日本のコーチな
らどうするか。
「お前らボール怖くて野球できるか」。もう泣きべそかきながらあざ作って、
それで根性で残ったのがレギュラーになるんですね。
向こうのコーチは発想が違います。
「お前、ボール怖いんだろう。今、ノックするから全
部逃げろ。絶対取るな」
。で、20 球 30 球ノックする。「よく逃げた。だけど、このボール
はお前たちに逃げてもらいたいと思っているのか。取ってもらいたいんじゃないのかな」。
子どもたちも「それはそうだ」。ボールを取ります。「お前たち、ボール取ってもらってボ
ール喜んでる。投げてもらえばもっとうれしいんだよ」。ボールの気持ちに託して子どもた
ちを追い込んでいる。
なるほど、こういう教え方があるんだなと思って、僕はまさに目からうろこが落ちる思
いだったんですね。聞いてみると、野球のコーチにもいろいろランクがあって、リトルリ
ーグを教えるコーチ、高校のコーチ、大学のコーチ、そして最高は大リーグのコーチ、監
督になるんですね。自分の力量を知っているから、どのレベルでもって自分は教えたらい
いかということはわかるし、いいコーチはベストコーチ・オブ・ザ・ディストリクト。要
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するに、その地域で最下位のチームを 3 位にまで引き上げたコーチなどをちゃんと表彰す
るというようなインセンティブがあるんですね。そういう意味で、日本でももっとコーチ
に対する収入とかリスペクトをいろいろなレベルで考えていくことがまず必要だ。
もうひとつ簡単に申し上げます。開発途上国から参加して、メダルにまったく縁がなく
て、どういう意味があるんだろうということがあります。けれども、日本が最初にオリン
ピックに参加いたしましたのが 1912 年ストックホルム大会です。この時、選手はたった
二人しか参加しないんです。マラソンの金栗四三さんが惨敗するんですね。途中で気を失
う。そこから彼は何を学習したかというと、まず靴。地下足袋で走っていたんですが、そ
れを金栗足袋という新しい靴を開発し、かつまた暑さ対策ということで、日本マラソンの
父となって、箱根駅伝の創設にも関わっていった。自分の敗戦から学んで、それを母国に
帰って生かすということで、意味があったのではないかということでございます。
(小倉)
なるほど。ありがとうございました。土山先生、どうぞお願いします。
(土山實男)
私の話は必ずしも小倉先生の先ほどの質問に対する答えじゃないんですけ
れども、今日二つのセッションで素晴らしいお話をお伺いしまして、思ったこと、考える
ことが二つございます。
ひとつは、
これだけスポーツイベントが、特にオリンピックとパラリンピックですけど、
ものすごく大きな規模になっているということと、それから有森さんがやっておられるよ
うなスペシャルオリンピックスのようないろいろなスポーツプログラムが増えてきますと
これらをつなげていく人や組織が必要ではないかと思うんです。日本にもスポーツ省をつ
くれというような話をときどき聞きますが、そういうこともあるかもしれない。それには
もちろん文科省だけでなく文化庁も外務省も関係しますし、インフラということを考えれ
ば国土交通省なり何なりも入るかもしれませんし、先ほど話に出たテロとかセキュリティ
のことを考えれば防衛省も関係するかもしれません。それらを総合してスポーツを通して
社会運営と国際交流を考える組織がこの国には当然必要であるにもかかわらず、いまだに
できていないというのはやはり問題ではないかと思いますね。
それから先ほど田口さんがおっしゃられた話の中で、アクセサビリティについて触れら
れた。参加に関わる話がありました。パラリンピックにはパラリンピックに参加できる方
がおりますけども、私が聞いた話に、女性のエイズ患者の方だけのサッカー大会があるん
だそうですね。何かの病気を持っておられる方が、例えば一緒にスポーツ、この場合では
サッカーですが、をすることによって生きる意味を持つ、と。
それから病気ではありませんが、これから日本は老齢化社会に入ってまいりますので、
退職された方が、2、30 年生きられるわけですが、彼らが有意義な人生を送るために、い
ろいろなことができると思いますけど、スポーツがあるんじゃないかと思うんです。です
から、先ほど池井先生がおっしゃられたように、たとえスポーツがうまくなくてもいいん
ですが、スポーツを通して子どもを教えたり地域の活動に参加するなりして、それまでの
仕事を辞めた後に楽しく生きる意味をどのようにして持つかということを考える場合に、
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スポーツをどんなふうに生かしたらいいのだろうかということです。これはパラリンピッ
クでもないし、先ほどのエイズ患者たちのサッカー大会でもない。ですけど、これから老
齢化社会に入る中で、スポーツの持つ役割が意味を持ってくるのではないかと思いますの
で、その辺を皆さんどうお考えになるかお伺いしたいと思います。
(小倉)
ありがとうございました。最後に大きな問題を提起していただきました。確か
にスポーツの持つ力というものを、社会および個人のレベルでどのように考えて、それを
生かしていくかということは非常に大きな問題なわけであります。それでは有森さんと田
口さんにどうぞコメントしていただきたいと思います。
(田口亜希)
先ほどのキャリアパスについてですが、いま JOC が始めているアスナビ
の話があります。オリンピックの選手が競技を終えた後どうするか、スポンサーをつける
とかいろいろなことが論じられています。その時今は経済もよくなったので、パラリンピ
アンを雇おうという会社も出てきているようですけど、実はパラリンピアンはスポンサー
がついている選手もいますけど、私も含めてみんな自費が普通です。反対に、仕事をして
ないとパラリンピックを目指せないというのが実情です。私も今、月から金までフルタイ
ムで働いてまして、練習は週末です。
ですので、仕事を持っているパラリンピアンが多いということが一方にあり、企業がい
ろいろ支援の仕方を言ってきてくれているというのが他方にありますが、いま始めている
のは現役選手の時は、試合や遠征のお金とか、生活費とかを出してもらい、選手を終えた
後も会社で働けるようにするというのは大切だし、そういうのがあれば選手も競技に打ち
込めると思います。私も今、仕事を辞めるのはすごく不安なんですね。終わった後、どう
やって食べていくのかというのが。後のことが約束されているというのは、選手にとって
はいいと思います。
それからパラリンピアンが、第二の人生としてコーチとかをやったらどうかという件で
すが、今までパラリンピック選手のコーチは、スポーツ選手とかリハビリの先生とか地元
クラブの人がやっていましたが、これからパラリンピックもどんどん変わっていきますの
で、やはり私たちの時代のものが次のパラリンピアンを育てるように自分たちが頑張らな
いといけないと思います。そういう意味でも、JPC も含めてコーチ教育といいますか、そ
ういうことをやっていかないといけないように思います。
あとオリンピックやパラリンピックを開けない国とか、メダルの件ですが、この間びっ
くりしたんですけど、世界にはまだオリンピックやパラリンピックの存在すら知らない国
や、そういうことを目指すことができない国というのがあると聞いて本当に驚いたんです。
だから私はまだ幸せなんだなって思います。確かに障害を持ちましたが、パラリンピック
を目指そうといって、出られた。これからも 2020 年に向けてやっていきたいと思ってい
ます。
こういうのがあったらいいなと思ったのは、この間、サッカーのワールドカップの、コ
ートジボワール戦の時に、日本の電機会社がコートジボワールに行ってテレビで彼らの試
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合を見られるようにしたということですが、それってすごいって思いました。だから、こ
れからの日本の役割というのは、そういうこともやっていかないといけないと思います。
パラリンピックやオリンピックを目指すかどうかは本人のやる気と能力次第かもしれない
ですが、それを選択肢として与えられるということが大事ですので、そういう途上国の人々
がサッカーやオリンピックをテレビで見て、こういう選手になりたいとか、こういうスポ
ーツを自分もしたいと思ってもらえるだけでもいいですから、そういう協力を私たち日本
はやっていく必要があると思いますし、それが 2020 年で終わらずに 2020 年以降も続けら
れるシステムを作っていくべきだと思います。
(小倉)
なるほど、ありがとうございました。有森さん、どうぞ。
(有森裕子)
今日はいろいろ考えさせられましたが、私ずっと日本の中のスポーツ、自
分もスポーツやってきたんですが、今こうオリンピックなどいろいろ話をしてきて、スポ
ーツをなぜやるのとか聞かれた時、スポーツがあるからやるというだけではなくて、スポ
ーツをやるイクォール社会に生きていくということが言えるのではないか、つまりスポー
ツはあくまでも社会の中の活動のひとつであって、スポーツだけがぽつんとあるのではな
いはずなんです。だけどスポーツというものに求めるものが何か社会とかみ合わないと、
社会に受け入れられなくなってしまう危うさを持っている。
例えばマラソン選手は、世界にたくさんいるんですが、マラソンだけやっている人って
いないんですよ。マラソンはあくまでも自分の生活のひとつであって、医者であったり、
レストランを経営しているとか、仕事をちゃんともっている。そういう人がマラソンをや
っている。オリンピックにも出てくる。彼らはマラソンだけで、スポーツだけで食べてい
こうという発想じゃない。スポーツはあくまでも自分の生活の中のひとつであり、自分は
自分で立ち位置を考え表現していくわけで、そういったところがまだ海外と日本の間に差
があるようにときどき感じます。
だからはやりのスポーツで力をつけると、それ一本になってしまい社会性を失ってしま
うというところがある。例えば、今のマラソンがまさにそうです。マラソンをやると、も
う道は全部マラソンランナーのためにあると思って歩いている人にどけよという言葉を平
気で吐いてしまう。この辺は、すごく大事なこととして考えなきゃいけない。スポーツは
社会の中のひとつであり、それをやる自分も社会の一人なんだという意識を持って、スポ
ーツをやる。指導者が生徒や選手を育てる時、そこは外さないはずなんです。競技ができ
ようができまいが、ルールを守り、人とのコミュニケーションの大切さ、思いやることの
大切さ、そしてリスペクトすることを教えます。究極的に一番必要なことを教える手段が
スポーツだという、そういうスポーツの教え方を、そろそろ小学校くらいのスポーツキャ
ンプで教えていくことが、大事だということはすごく感じます。
あと指導者についていうと、女性だけでなく、いま現場の指導者が少ないんです。指導
の資格の研修を受ける人がものすごく減ってきている。そのわけは、指導の資格を取って
も、生活につながらないからです。資格をとって、海外の何とかの国際大会に出て審判で
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きたからといって、生活の何の保証にもならない。現場も別にたくさんあるわけではない。
そういう中で、指導者になることを望まないという人が結構多い。
女性の場合もっと大変で、ただでさえ仕事もないのに、指導者になってどうなるのって
ことになる。やはり指導者、審判、そして競技者を含めて、何かのスポーツに専門的に携
わりたいと思った時、それは現役でも現役を終えた時でもそうなんですが、保証が何もな
い。
とくに競技者の場合、オリンピアンやメダリストですということで、できることはいっ
ぱいあるはずなんです。
例えば海外に行って何かアピールしたり、子どもたちを教えたり、
ものすごくできることがあると思っている。けれども、それに時間を費やして、それを終
えた時に、体はもうボロボロなわけですね。体が健康で引退する人なんて、ほとんどいな
い。だいたいどこかが痛くなって、どこかが故障して、もう無理だよねという状態で終わ
って、でも実績はあるので何かできることがある。だけれども、そのことに対しても体に
対しての保証も何もない。保険も何もない。アメリカのように、例えばアスリート年金と
かに入っていたりするといいですが、そういう保証が何もない中で、実際スポーツに関わ
っている人たちがたくさんいる。いい役割を持てるし、やれることがありますから。そこ
ら辺のスポーツがどういう価値を持ち、スポーツに何ができるかを、政府でよく考えてい
ただかないといけない。これほど人間の育成に影響を与えるものはありません。その中身
と手段はスポーツと文化です。アート、ミュージック、スポーツは一緒なんです。ここに
お金と、保証と、思いと、時間を国が考えて下さらないと、そこに関わろうとする人たち
は不安で仕方がない。
(小倉)
大変基本的な話をしていただいて、ありがとうございました。いろいろな側面
の話が出ましたので、ここでフロアの方から質問なり、コメントなりお願いしたい。先ほ
どいまフロアからオリンピックを成功させるためにどうしたらいいかという質問がありま
した。これはどのオリンピックのことを言っているかにもよるんですが、有森さん、いか
がですか。
(有森)
やることはたくさんあると思うんです。しかし、まだ組織がまとまっていない
というところがあるので、その組織がまずでき上がることが成功に向かう一番の条件です。
と同時に、パラリンピックでいうと、先ほどバリアフリーの話がでましたが、バリアフリ
ーで今一番の問題は、メンタルのバリアフリーがまったく日本の教育でなされていないか
ら、ものはあっても使い方や使わせ方を知らないということです。これからおもてなしを
する場合、そういう部分をひとつずつ組み立てていかなければいけないと思います。まず
は組織がきちんと立ち上がっていくということが大事だと思います。
(質問者) せっかくの機会ですから、金雲龍先生にお伺いしたい。先々週アジェンダ 2020
が発表になりましたが、今日の国際スポーツの問題点について、どう改善していくべきと
お考えか、また将来の見通しをお伺いしたいと思います。
(金)
今の国際スポーツは、昔のオリンピックと違って、経済発展とともに、商業化、
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プロ化、大規模化し、それがごちゃごちゃに肥大化したんです。先ほどオリンピックとパ
ラリンピックを統合するという話がありましたが、実際それは難しいですね。今、オリン
ピックも 28 種目、350 のメダルでまとめていますが、それも今やりたくないという。冬
のオリンピックなんかは、いろいろな国がもうやりたくないといって抜け出していく状態
です。
数年前まで韓国がいろいろな種目・競技を韓国に持ってきましたが、その後中国が持っ
ていき始め、この頃はオイルマネーで、中東の国がワールドカップとか陸上選手権大会と
か、オリンピックもやりたいといっています。実はブラジルオリンピックも予選でブラジ
ルが落ちるかもしれなかったところ、カタールを落とすためにロゲがブラジルを押し上げ
て、ブラジルに行ったんです。そういうふうに、21 世紀になって昔のオリンピックとは違
い、お金をかけないと招致もできない、メダルも取れない。中東の人口 50 万の国がオリ
ンピック招致に乗り出して、IOC もフラフラになっています。FIFA もそうだ。そういう
状態ですから、これからこれを全部まとめていくのはそうたやすいことではないと思いま
す。
(質問者)各方面の方々の貴重なお話を聞けて、大変刺激を受けました。これからオリン
ピックに向けて、オリンピックに学生をつなげられないかと思っています。オリンピック
に学生を巻き込むことができないかと思っているので、その方法などをお聞きしたい。
(小倉)スポーツをしてもらうことが非常に大事ですが、スポーツを現場で見ていただく
ことです。とくにパラリンピックの種目とか、オリンピック種目でも見られていない種目
がたくさんあります。ですから、スポーツの現場を見ていただく、と。もちろんスポーツ
をやるに越したことはありませんが、まず現場を見るチャンスを学校なりいろいろなとこ
ろが増やしていくということが、ひとつ大事なことだと思います。
いろいろ今日ご議論がありましたので、もしパネリストの方の中で特にご意見があれば
言っていただきたいんですが。どうぞ有森さん。
(有森)
せっかく学生さんがいらっしゃるので、競技を見に行くのと同時に、ボランテ
ィアに参加することを学校でも単位を出したりしているので、そういったことになるべく
アンテナを張って率先して出ていってもらいたい。
とくにパラリンピックには健常じゃない人たちも応援に来ます。体の不自由な人も何が
できるかを学ぶことができます。そういう健常者のスポーツではないスポーツの現場にボ
ランティアで来て、何ができるかを勉強したりすると、得るものも大きいし、手伝える場
も増えると思います。
スペシャルオリンピックスでいうと、スペシャルオリンピックスの世界大会というのは、
パラリンピック・オリンピックの前年なので、その前年の世界大会に行ってみると、オリ
ンピック・パラリンピックの手伝いをまず先に学べるので、そういうボランティアがいま
非常に盛んになっているし、昔に比べるとその機会も増えているんですね。だから、そう
いうところにもっともっと足を運んで、応援する現場で生まれるエネルギーを肌で感じて
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もらい、それによって自分が何をすべきかが分かってくると思うので、ぜひそういうエネ
ルギーをどんどん感じていただきたい。
(小倉) どうもありがとうございました。今日の議論は非常に多岐にわたりましたので、
とくにここで取りまとめをすることはいたしませんが、やはり有森さんをはじめいろいろ
な方がおっしゃったように、日本社会におけるスポーツの価値がいったい何なのか、それ
をどう社会に生かしていくのか、あるいはそれに参加していくということが社会的にどう
いう意味を持つのかということが大事です。このことを日本人自身がよく考え、またこの
ことをスポーツをやる方だけじゃなくて、いろいろな方が考えることが必要だ。
その上で、今日のこのシンポジウムの国際交流とスポーツ外交というテーマに即してい
えば、スポーツを国際社会においてどのように日本が使っていくのか、また、スポーツの
ためにどういう外交を展開したらいいのか、です。スポーツによる外交もあると思います
し、スポーツのための外交もあると思います。それからスポーツ、世界のいろいろなスポ
ーツ界、さっき小川さんも言ってましたが、いろいろな競技団体における日本の存在が薄
れているということもありますから、そのいろいろな世界のスポーツ界の中で、日本がど
のように外交を展開していくかということもよく考えなければいけないと思います。
しかし、いろいろな方がおっしゃったように、日本だけのことを考えてもいけない。ま
だまだ多くの国がオリンピックにも参加できないような、あるいは参加しても十分な活躍
ができないような国はたくさんありますから、そういう国にやはりどのようなことをして
あげられるか。また、それを国際社会全体としてどうするのかということも考えていかな
くちゃいけないのではないか。本日のシンポジウムが教えてくれたのは、こういうことじ
ゃなかったかと思います。
最後に、パネリストの方、青山学院大学、日本財団、毎日新聞社、国際交流基金、いろ
いろな方々にご協力いただいてこのシンポジウムができましたので、改めて感謝申し上げ
たいと思います。土山先生、最後に一言いただきたいと思います。
(土山)
青山学院大学でスポーツ外交について話をするのは、今回が初めてでありまし
て、これをきっかけにしてこういう分野の議論を深めていきたいと思っております。国際
交流共同研究センターという場所でやりましたので「国際交流とスポーツ外交」というこ
とで今回はシンポジウムを開催しましたが、スポーツ外交にもいろいろな側面があるとい
うことが今日のお話のおかげでよくわかりましたので、今後どういうところに焦点を置い
て、何を議論し、これからスポーツ外交として何が展開できるかということを考えてまい
りたいと思います。
今日はどうもありがとうございました。
[了]
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登壇者プロフィール(登壇順)
アンドレ・コヘーヤ・ド・ラーゴ(Andre Aranha Correa do Lago)
駐日ブラジル大使。1983 年ブラジル外務省入省。マドリッド、プラハ、ワシントン DC、ブエ
ノスアイレス、ブリュッセル(EU 代表部)などに外交官として勤務。2011 年にブラジル外務
省環境特別問題局長。2013 年から駐日ブラジル大使。
金雲龍(Kim Un Yong)
国際オリンピック委員会(IOC)元副会長。延世大学卒。同大学から博士号取得。韓国 IOC 委員、
世界テコンドー連盟(WTF)会長、韓国オリンピック委員会(KOC)委員長などを歴任。1988
年のソウルオリンピック招致など多くの韓国の国際スポーツ事業に関わった。
池井優(Masaru Ikei)
慶応義塾大学名誉教授。慶応義塾大学法学部卒。同大学教授、コロンビア大学客員教授、青山
学院大学国際政治経済学部教授などをつとめた。日本外交史専攻。『日本外交史概説(第三版)』
(1992 年、慶応義塾大学出版会)など外交史の著書の他に『白球太平洋を渡る』(中央公論社、
1976 年)や『オリンピックの政治学』
(丸善、1992 年)など野球やスポーツについての著作も
多い。
有森裕子(Yuko Arimori)
スペシャルオリンピックス日本理事長、日本陸上競技連盟理事、国連人口基金親善大使。
日本体育大学卒。元マラソン選手。バルセロナ五輪で銀メダル、アトランタ五輪で銅メダル。
2016 年の東京オリンピック招致の際にはアンバサダーをつとめた。現在、母校の日本体育大学
で客員教授をつとめている。
粱世勳( Yang Sei Hoon)
ソウル大学政治外交学科卒。韓国外務部に入り、駐日韓国大使館参事官、ソウル五輪組織委員
会国際局長、外務部情報文化局長、駐ホノルル総領事、駐ノルウェー大使などを歴任。退官後、
慶応義塾大学訪問教授などをつとめた。著書に『ある韓国外交官の戦後史』
(すずさわ書店、2007
年)がある。
小川郷太郎(Gotaro Ogawa)
全日本柔道連盟国際委財団法人エイ・エフ・エス日本協会理事長、三井住友海上火災保険顧問、
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日本国際フォーラム政策委員。東京大学法学部卒。駐カンボジア大使、駐デンマーク大使など
を歴任。著書に『世界が終の棲み家—新しい日本のかたち』
(文芸社、2008 年)など。
田口亜希(Aki Taguchi)
客船「飛鳥」の乗組員をつとめていたときに精髄損傷で両足が不自由となり、車椅子の生活を
余儀なくされたのを契機に射撃に取り組む。パラリンピック射撃日本代表選手として、アテネ、
北京、ロンドンのパラリンピック大会に出場し、アテネでは第 7 位。日本郵船勤務。
小倉和夫(Kazuo Ogoura)
青山学院大学特別招聘教授、日本財団パラリンピック研究会代表、国際交流基金顧問。東京大
学法学部、ケンブリッジ大学経済学部卒。駐ベトナム大使、駐韓国大使、駐仏大使などをへて、
国際交流基金理事長をつとめた。著書に『パリの周恩来』
(中央公論社、1992 年、吉田茂賞受賞)、
『吉田茂の自問』(藤原書店、2003 年)
、『グローバリズムへの反逆』(中央公論新社、2004 年)
など。
土山實男(Jitsuo Tsuchiyama)
青山学院大学国際交流共同研究センター所長、国際政治経済学部教授。同大学前副学長。青山
学院大学卒。ジョージ・ワシントン大学大学院、メリーランド州立大学大学院修了、Ph.D。国
際安全保障専攻。著書に『安全保障の国際政治学ー焦りと傲り(第二版)
』(有斐閣、2014 年)
、
Japan in International Politics (共編、Lynne Rienner, 2007)、Globalizing Northeast Asia、(共
編、United Nations University Press, 2008)など。
57
2015 年 2 月発行
発行者
青山学院大学 社会連携機構 国際交流共同研究センター
〒150-8366 東京都渋谷区渋谷 4-4-25 総合研究所ビル 3 階
TEL: 03-3409-6591
FAX: 03-3409-6590
URL: http://www.jripec.aoyama.ac.jp/
E-mail: [email protected]
非売品・禁無断転載及び複製
Copyright 2015 青山学院大学 社会連携機構 国際交流共同研究センター
Joint Research Institute for International Peace and Culture (JRIPEC)
Institute for Social Collaboration, Aoyama Gakuin University
国際
際シンポジウ
ウム 国際交
交流とスポーツ
ツ外交
報告書
報
⽇時
時:2014 年 12 ⽉ 19
1 ⽇(⾦)13:00~1
18:00
場所
所:⻘⼭学
学院⼤学総合
合研究所ビル 12 階⼤
⼤会議室
青山学院
院スクール・モットー
地の塩
塩、世
世の光
The Salt
S of the E
Earth, The Light
L
of the World
(マ
マタイによる福
福音書 第 5 章 13~16 節より)
Jointt Research Institute ffor Interna
ational Pea
ace and Cu
ulture