「戦争報道」 ――放送メディアを中心に - 幼女オメコ40を超えるものが

久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
「戦争報道」
――放送メディアを中心に――
喜久山 顕悟
序章
第1章
ベトナム戦争
第1節
報道体制と報道規制
第2節
ウォルター・クロンカイトの発言
第3節
ペンタゴンペパー
第2章
湾岸戦争
第1節
報道体制 ―プール取材―
第2節
報道規制
第3節
国民は戦争を支持したのか
第4節
湾岸戦争報道への批判
第3章
イラク戦争
第1節
取材規制 「エンベッド」
第2節
情報量が豊富だった戦争
第3節
メディアコングロマリット
第4章
まとめの考察
第1節
報道体制の変化
第2節
報道規制の変化
終章
序章
世論を動かすメディアと戦争は、いつの時代もどの国においても深い関係にある。アメリカにおいてもそ
の例外ではない。アメリカが戦争時の報道規制を敷くようになったのは、ベトナム戦争の敗戦がきっかけで
あると言われている。ベトナム戦争には共産主義から世界を守るというアメリカの正義を訴えた“聖戦”として
介入した。しかし実質戦争には勝利できず、アメリカが第三世界に軍事介入することへ国民が消極的・悲観
的な精神状態に陥った。この状態を「ベトナム・シンドローム」と呼んでいる。敗戦の原因をメディア統制にあ
ると考えたホワイトハウスはその後のグレナダ侵攻、パナマ侵攻、さらに湾岸戦争では厳しい報道規制を敷
くこととなる。
今回のアフガン・イラク戦争でアメリカの中東への軍事介入が長引くのではないかという憶測がアメリカ国
内に流れると、国民は戦争がベトナム戦争化することを恐れた。
本論文では取材の自由が比較的許されたベトナム戦争から、湾岸戦争その後のアフガン・イラク戦争の
それぞれの戦争の報道規制や報道体制の変化を見ることで、それぞれの戦争報道の問題点を指摘する。
その上で、今回のイラク戦争の報道と従来の戦争報道の違いを明らかにし、今後の戦争報道のあるべき
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「戦争報道」
姿を提案していきたい。さらにイラク戦争を支持した共和党保守の人々とメディアとの関わりにも言及しアメリ
カの政治とメディアが世界化していく危険についても言及する。
第 1 章ではベトナム戦争時にホワイトハウスが戦争終結を決意するに至った要因がメディアによるものだ
ったことを指摘し、当時の報道規制と報道体制をみる。第 2 章では湾岸戦争の報道が完全に政府によって
情報の統制がなされていて、アメリカ政府がメディアに勝利したという点を指摘し、その上で湾岸戦争報道
の問題点を指摘する。第 3 章ではイラク戦争の特徴だった「エンベッド」取材の特徴と問題点を検証し、戦
争全体の報道の問題点をメディアコングロマリットの点から指摘する。
代表的な先行研究として藤田博司「アメリカに見る権力と報道」(『公明』1992 年 8 月号)、永島啓「米テレ
ビは「開戦」をどう伝えたか」(『放送研究と調査』2003 年 5 月号)、海部一男「新しい取材体制・残された課
題」(『放送研究と調査』2003 年 5 月号)などがあげられる。これらの論文は、日頃目にすることの少ない海
外メディアの戦争報道を知る上で非常に有益な先行研究だった。
イラクでは戦争終結宣言が出された 2003 年 5 月 1 日以降もアメリカ兵やイラク市民の死亡者が後を絶た
ない状況である。その意味においてまだイラク戦争もイラク戦争報道もまだ終わっていない。また一方、アメ
リカ国内においては、2004 年度大統領選挙に向けた民主党の候補者指名を争う予備選挙の行方が注目
されている。この指名争いの中で、イラク戦争を含めた「外交安全保障」が重要なトピックになっていることに
疑いの余地はない。このようなアメリカ政治、及び研究史の流れの中で、まだ継続中であり結論のでていな
いイラク戦争報道の検証と今後の戦争報道のあり方に言及する本論文は「戦争とメディア」、引いては「政
治とメディア」のあり方を捉え直す点において意義があると考える。
第1章
ベトナム戦争
ベトナム戦争は、史上初めてテレビカメラが戦地に入った戦争だったという点がこれまでの戦争と大きく
異なる。ベトナム戦争は「メディアが終わらせた戦争」と言われている。95%戦争を支持していた国民世論を
反戦運動へと動かしたことがベトナム撤退の大きな要因だった。本章ではホワイトハウスが戦争終結を決意
するに至った原因がメディアによるものだったことを指摘する。
第1節
報道体制と報道規制
ベトナム戦争での取材は、基本的には報道・取材の自由が守られていた。毎日、夕方 5 時のブリーフィン
グで軍関係者は戦況を説明し、報道される内容について軍当局からの検閲はなかった。しかし肝心の情報
となると軍関係者はノーコメントを貫いたため記者のサイドからは発表される情報の信憑性について疑問が
投げかけられた。しかし、一方で記者たちは自分たちで独自取材することが可能だった。これがベトナム戦
争報道の最たる特徴である。
アメリカ三大ネットワークの 1 つ NBC の東京支局の屋代輝彦カメラマンは、当時を振り返って次のように
言っている。「ベトナム戦争時は、まず自分たちで行きたい所を決める。それから、そっちに飛ぶ軍のヘリを
見つける、ヒッチハイクです。現場に行って、現地の司令官にあいさつすると、たいていの所には自由に行
くことができたのです」1。
このように記者は戦場を自分の意思で自由に飛びまわり取材することができた。
この自由な取材はこれまで以上に悲惨な戦争の生の姿を直接家庭のテレビに送り込んだ。その結果アメ
リカ兵が銃弾に倒れる様子やベトナム市民が犠牲になっている生々しい衝撃的な映像が各国に配信され
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たのだ。これが大きな原因となってアメリカ国内に次第に厭戦ムードが広がり、ジョンソン政権が国民の信頼
を失っていくこととなる。
戦地に入ったテレビはその悲惨な状況を撮った映像をベトナムから一度日本に空輸で届けなければなら
なかった。南ベトナムのビエンホア基地と横田基地との間を毎日、米軍専用の輸送機が飛んだ。この輸送
機にフィルムを託し、東京支局で現像のうえ衛星回線を使ってアメリカ本社に伝送していたのだ。従って映
像が本国であるアメリカに届くのは日本から衛星回線を使ってもリアルタイムから 2、3 日遅れることとなっ
た2。
特に 1968 年 1 月のテト攻勢以降、アメリカの三大ネットワークは、これまで以上に悲惨な戦争の生の姿を
伝えることになる。1962 年には全米のテレビ視聴者は、5000 万世帯を超え、1965 年には三大ネットワーク
の番組が全面的にカラー化された3。カラー化された映像は、戦場をよりリアルに伝えベトナム反戦運動を
盛り上げる契機となった。
第2節
ウォルター・クロンカイトの発言
当初ベトナム戦争はニューヨーク・タイムズ紙のデービッド・ハルバースタムも自身の記事で報道している
ように共産主義から世界を守るというアメリカの正義を訴えた“聖戦”として、アメリカ軍の圧倒的勝利に終わ
ると考えられていた。現に当時のアメリカ国民の実に 95%の人々が戦争を支持していた4。テレビ報道によ
って徐々に国民の反戦運動は高まりつつあったが決定的に国民世論を動かしたのは、1968 年のテト攻勢
の報道がきっかけだった。『CBS イブニングニュース』のキャスター、ウォルター・クロンカイトはサイゴンのア
メリカ大使館が戦場になった映像にショックを受けた。ショックを受けたクロンカイトは直接サイゴンに飛んで
取材し、帰国後テト攻勢についての特別番組を報道したのだ。番組の最後で、これは論説であると断った
上でクロンカイトは「我々は、こう着状態という泥沼にはまり込んでいる。・・・ここから抜け出すための、理に
かなったただひとつの道は勝利者としてではなく、民主主義を守るという誓いに忠実に最善の努力をしてき
た名誉ある国民として、交渉の場に臨むことである」とコメントした5。事実上、アメリカはベトナムから撤退す
べきであるとクロンカイトは国民に訴えかけたのだ。番組を見ていたジョンソン大統領は報道担当官のジョー
ジ・クリスチャンにこういったという。「これは転換点だ。もし私がウォルター・クロンカイトの支持を失ったとし
たら、この国の平均的市民の支持を失ったことになる」。これが、メディアが戦争を終息に向かわせた瞬間だ
った。
この番組の中には、アメリカ兵がベトナム人の民家を火炎放射器で焼き払い、穴の中で怯えている女性
や子供を虐殺する光景が含まれていた。これらの現地からの報告は政府や軍の発表されていたものとはか
け離れたものであることを国民に印象付け、ジョンソン政権への支持率も下がっていくこととなる。テト攻勢の
あった 1 月から 2ヵ月後の 3 月 31 日のギャラップの世論調査によるとジョンソン大統領の支持率は在職中
最も低い 36%まで落ち込んでいる。ケネディーから大統領職を引き継いだ当初の 1963 年 12 月に 80%の
支持率があったことと比較すると、ベトナム戦争の泥沼化を国民に伝えたメディアの存在の大きさが改めて
理解できる。
この『CBS イブニングニュース』の放送から 5 週間後の 1968 年 3 月 31 日、ジョンソン大統領は北爆の
一方的停止と大統領選挙への不出馬を表明し、北ベトナムに対して和平交渉のテーブルに着くよう呼びか
けたのだった。
自由な取材により、米兵士とベトナム人の死体や破壊された街の映像などがありのままに報道されたベト
160
「戦争報道」
ナム戦争では、戦争の悲惨さと残酷さをアメリカ国民に伝えた。その結果、ホワイトハウスをはじめとする政
策決定者達は、ベトナム戦争はメディアが終わらせた戦争であったと考えるようになったのだ。
第3節
ペンタゴン・ペーパー
さらに追い討ちをかけることとなったのが、ニューヨーク・タイムズ紙が1971 年 6 月 13 日に連載を始めた
“ペンタゴン・ペーパー(国防総省秘密文書)”だった。このペンタゴン・ペーパーはニューヨーク・タイムズが
当時国防総省に勤務していたことのあるダニエル・エルズバーグ博士から提供を受けたものだった。この文
書は、1967 年半ば、国防長官だったロバート・マクナマラの指示で、第二次世界大戦当時からパリ和平交
渉が始まった 1968 年 5 月まで、アメリカがどのようにしてインドシナに介入していったのかが詳細に報告さ
れていた。国民にとって衝撃的だったのは、トンキン湾事件は実は国防総省により作り上げられたものであ
り、アメリカがベトナムに攻めるための口実作りだったことが記されていたことである。
1964 年 8 月2日、4 日に米駆逐艦がトンキン湾で偵察中に北ベトナム軍、哨戒艇の魚雷攻撃を受けたと
して、(アメリカ政府はこれをトンキン湾事件として認識)米軍は5 日、北ベトナムの海軍基地を報復爆撃した。
この事件を契機にアメリカ議会は『トンキン湾決議』でジョンソン大統領に戦争権限を委任することになりベト
ナム戦争はエスカレートすることとなる。
アメリカがベトナム戦争に本格的に介入する原因となったトンキン湾事件がアメリカ国防総省により作り上
げられたものだったことが発覚したことは国民にとって大きなショックだった。ペンタゴン・ペーパーは全部で
47 巻、250 万語に及ぶ大部なものであったが、連載が始まると司法省は「国家の安全保障に関する問題」
であるとして、ニューヨーク・タイムズに連載の中止を求めて連邦地裁に申し立てた。連邦捜査局(FBI)も、
極秘文書の入手経路の調査に乗り出した。連邦地裁がニューヨーク・タイムズ紙に掲載の一時停止を命じ
ると、同月18 日からはワシントン・ポストが同じ内容の文書の掲載を始めた。ニューヨークとワシントンの地裁
で審理が進む中、各地の新聞も相次いで極秘文書の掲載を開始した。かくしてペンタゴン・ペーパーを巡
って、国家利益を名分に真相を隠そうとする政府と、言論・表現の自由を掲げたメディアとが真っ向から対
立することとなる。
この問題の結末は連邦最高裁が 6 対3 で掲載中止を求める政府側の要求を却下、国民の知る権利に軍
配を上げた。この結果、ベトナム戦争の真相に触れたアメリカ国民の間には、政府不信とベトナム反戦の気
運が一段と高まっていったのである。
第2章
湾岸戦争
アメリカ政府はこのベトナム戦争の反省に立って、湾岸戦争では徹底的な報道管制と検閲を行うことを早
くから決めていた。実際には 1979 年に成立した親ソ政権をわずか 2 日で倒した 1983 年 10 月のグレナダ
侵攻や 1989 年 12 月のパナマ侵攻において軍当局による取材規制のマニュアルはほぼ完成しており、湾
岸戦争では軍当局は万全の体制で情報管制を敷いていたといえる。1983 年 10 月のグレナダ侵攻では、
記者・カメラマンの同行取材は重大な作戦が終了するまでは一切禁止され、作戦がほぼ終了した 3 日目の
時点で、少数のプール(代表)取材を認めるというものだった6。これは、作戦遂行時に予想される生々しい
戦闘の模様を映像に収めさせない、ベトナム戦争のときの反省に立った情報管理の一環といえる。
本章では湾岸戦争の報道が完全に政府によって情報の統制がなさており、アメリカ政府がメディアに勝
利したという点を指摘し、その上で湾岸戦争報道の問題点を指摘する。
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第1節
報道体制
湾岸戦争報道で特筆すべきことは、戦争の開始が初めてテレビの生中継で伝えられたということである。
日本時間の 1991 年 1 月 17 日、午前 8 時 35 分 27 秒のことだった。アメリカの ABC テレビのゲーリー・
シェパード記者が、イラクの首都バクダッドから世界に伝えた開戦の第一報がその瞬間だった。1990 年 8
月 2 日、イラク軍がクウェートを占領したことによって始まった湾岸危機は、イラクがクウェートから撤退する
構えを見せず、こう着状態が続いていた。翌 91 年になっても危機打開の糸口は見出せず、次第にクウェー
ト開放を目標とする多国籍軍が、いつイラクへの武力攻撃に踏み切るか、世界中の目が注がれるようになっ
た。このように緊迫の度合いが高まる中で、日本のメディアの対応に関して言えば外務省が報道機関に対
してバクダッドから退避するように勧告した。これを受けてイラクに滞在していた日本の報道機関は、テレビ
局取材班を含めて全員が、開戦前日の 1 月 16 日までにヨルダンなどイラクの国外に退去することとなる。
バグダッドのホテルにとどまったのはABC、CNN など欧米の記者やカメラマン約 40 人だけだった。日本の
メディアが開戦前にして 1 人も残らなかったのは残念に思う。その後、フセイン大統領の命令で、イラク情報
省は、開戦後もバグダッドのアルラシッド・ホテルにとどまっていた西側の報道陣 40 人に対し、国外退去す
るよう命じた。しかしCNN の記者 3 人は国外退去のメンバーからはずされていた。イラク情報省はこの理由
を「CNN は公正で偏見がないからだ」と述べている。フセイン大統領は CNN に対して自己のメッセージを
世界に伝える役割を期待したと考えられる。一方、アメリカ国内外では CNN の報道は、イラク寄りの偏向報
道ではないかという大きな議論が巻き起こすこととなった。
先に湾岸戦争の特筆すべきことは、戦争の開始が初めてテレビの生中継で伝えられたことである、と述
べたがこの生中継はどのようにして伝えられたのだろうか。開戦の第一報を世界に伝えた ABC は、国際電
話回線を使ってその第一報を伝えた。しかし電話局が爆撃による被害を受けたため、速報の 30 分後からリ
ポートを送信できなくなっていた。これに対して CNN は隣国ヨルダンの首都アンマンに通じる地上マイクロ
回線を押さえていたためその後 17 時間にわたって電話による記者レポートを延々と続けられたのである。
その後も CNN は 1 社だけバグダッドに残り報道を続け、視聴者からの信頼を得ることとなる。
それでは、CNN だけ放送を続けられた秘密はいったいどこにあったのだろうか。
この背景には CNN が独自に用意した新旧 2 つの「回線」があったからといえる。古い回線は「フォー・ワ
イヤー」と呼ばれ電話専用回線であり、新兵器は「インマルサット」と呼ばれる国際海事衛星機構の船舶用
電話であった。
「フォー・ワイヤー」は文字通り 4 つの電話回線を使用することに由来する。この通信システムは、電話や
テレックスなどに使われているマイクロ回線から、4 回線を借り切ったため通話者は受話器を上げるだけで
相手と交信できた。「フォー・ワイヤー」はもう30 年以上も前から使われている古典的な連絡方法で、衛星を
利用して伝送するのに比べて非常に低コストで済んだ。CNN は戦争に突入する前からこの方法に着目し
回線を確保していたのである。しかしこの通信方法もそう長く続かなかった。多国籍軍の爆撃は、バグダッド
−アンマン間のマイクロ回線施設を破壊したのである。バグダッドとイラク各地を結ぶマイクロ回線は、主とし
て軍事用の連絡に使われていたからであり、その破壊はイラク軍の指揮・命令系統に甚大な被害をもたら
すことが明らかであったからだ。
次に CNN が使ったのが新兵器「インマルサット」である。インマルサットはいわば移動体通信衛星の1 つ
で、海洋を航行する船舶と地上を結ぶ船舶電話の中継に使われる。この特殊な国際電話回線を使って
CNN は世界の報道機関の中でただ一社だけバグダッドにとどまることが許され、爆撃を受けるイラク側の
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「戦争報道」
状況をフルに伝えることに成功したのである。
CNN は、この特殊な電話回線「インマルサット」を用意していたこと、さらにフセイン大統領の思惑により
CNN だけ国内に残ることが許された、という 2 つの要因が重なったことで、アメリカ国内では CNN の視聴
率が急上昇することになる。アメリカの放送専門誌『ブロードキャスティング』によると、開戦後1 週間の CNN
の 1 日平均視聴率は 7.5%を記録し、三大ネットワークを上回った程である7。
第2節
報道規制
―プール取材―
国防総省は湾岸戦争でも 1983 年 10 月のグレナダ侵攻のような完全な報道規制を敷く予定であった。な
ぜならグレナダ作戦はアメリカにとってベトナム戦争以来、唯一の「文句なしの成功」と軍関係者も認めてお
り、その最大の理由は、報道陣を完全に閉め出した報道規制にあるという見方が強まっていたからである。
しかしグレナダ侵攻の後、ジャーナリスト側から国防総省に反発する動きがあったために、その妥協策とし
てプール制がとられた。このプール制とは取材を希望する社が多数あり、なおかつ時間・空間などの物理的
制約で、全社が取材できないときに行われる。例えば米ロ首脳会談など、世界各国から何百人もの記者が
集まる場合、すべての記者、すべてのカメラマンが会場に入ることは不可能である。プール取材はこうした
時に行われる8。湾岸戦争におけるアメリカ軍によるニュース・メディアの指針には「報道関係でメディア・プ
ールに参加していない者は前線地帯に出ることができない。報道関係者は独自に前線部隊と接触しては
ならない。米軍指揮官は作戦地域に極めて厳格な警備体制を設定するので、許可を受けていない全ての
者は作戦地域から追放される」とある。湾岸戦争ではプール取材以外の全ての取材活動を禁止したのであ
る。
では、プール取材にはどういう人がどのような取材活動をすることが許されたのだろうか。湾岸戦争の取材
現場となったサウジアラビアの基地ダーランを訪れた各国の取材陣は開戦直後で 1,000 人を超えていた。
アメリカ軍はサウジアラビアに駐在しているすべての取材陣に対して、戦争取材のガイドラインを守ることを
誓約するサインを求めた。さらに、代表取材団である「コンバットプール」に選ばれたのは、体力テストに合
格したアメリカのメディアに限られていたのだ。つまり 1000 人を超える取材陣のうち、プール取材の特権を
与えられ戦闘部に随行して前線取材することができたのは 7 分の 1 の 150 人弱にしか過ぎなかったのであ
る9。ここで問題であるのはまず 1 点目に記者の自由な取材を制限した『プール制』そのものにあると考えら
れる。2 点目はこのプール制の中身である。先の通りこのプール取材に参加を許されたのがアメリカメディア
の中のさらに大手のメディアの記者に限られていたことである。3 点目はプール制により放送機関のジャー
ナリズムの特質である速報性が損なわれてしまった点である。
表−1 を見ても明らかなようにアメリカ軍による「ニュース・メディアの指針」はアメリカ合衆国憲法に記され
ている報道の自由は軍としても堅持するという建前をとりながら、その報道の自由は戦時においては、実質
的に制約を受けることが確認できる。報道するかどうかの最終決定権を報道機関に与えると明記することで
報道の自由を保障したかたちになっているが、異議がある場合、文書で統合情報本部かペンタゴンと協議
しなければならず、協議しているうちに戦況は刻々と変化していくと考えられる。そのため、実質的に報道機
関から速報性の機能を奪うこととなる。これが、私が 3 つ目の問題点であると先に指摘した理由である。
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表−1
湾岸戦争におけるアメリカの報道規制 ― 抜粋 ―
l
報道関係者でメディア・プールに参加していない者は前線地帯に出られない。報道関係者は独自に前線部
隊と接触してはならない。
l
戦闘が発生した場合、プールの取材材料は、米国・同盟国軍の安全を脅かす情報が含まれているかどうか、
公表前に検閲を受ける対象となる。
l
取材材料の審査は軍当局への批判や軍の当惑をもたらすか否かなどで判断されることはない。
l
取材材料に問題があればそれを当該記者と話し合い、合意に達しなかった珍しいケースでは当該材料を
JIB ダーラン局に至急送付して JIB 部長および適当なニュース報道担当官に審査を依頼する。
l
この時点でも合意に達成できなかった場合は至急情報担当将校に送付され、適当な局長が審査する。
l
これらの素材を公表するか否かの最終的な判断は当該記者の所属する報道機関がする。
第3節
国民は戦争を支持したのか
一方でアメリカ国民はこのプール制を含む政府による報道管制をどのように捉えていたのだろうか。ここ
に興味深いデータがある。湾岸戦争開戦直前の 1 月 15 日の世論調査では戦争支持率はわずか 47%だ
った。しかし開戦直後には戦争への支持率が 85%となり、国民の実に 81%が報道規制に賛成していたの
である。アメリカ国民はむしろ報道規制に賛成の立場をとったのだ。なぜだろうか。
このプール取材を含む報道規制問題が戦争中及びその直後においてアメリカ国内で大きな問題となら
なかった理由を「ニューヨーク・ニュースデイ」のシドニー・シェンバークは、以下のように指摘している。
「開戦前の1 月10 日に、政府の報道規制に反対し、機密保護に関する規則の任意遵守、取材陣の移動
とアクセスの自由の回復を求めた連邦訴訟に大手メディア機関が原告として加わらなかったことが原因であ
る」。
さらになぜ大手メディアが原告として加わらなかったのかについての理由を中村は、「国民だけでなく報
道機関もベトナム戦争やウォーターゲート事件の傷跡を残しているからであると指摘し、非国民のレッテル
を貼られることを恐れ政治的主流派の感情を損なわないようにしたのだ」と指摘している10。
実際にこうした報道規制に対するメディアの反発にもかかわらず、湾岸戦争を通じてのアメリカ国民の政
府および軍への支持率は至上空前の数字を記録し、3 月のタイムズミラー社の世論調査によれば報道規
制を支持する人の割合は実に 81%に上った。
ベトナム戦争下の自由な取材により米兵士とベトナム人の死体や破壊された街の映像などがありのまま
に報道されたことは、戦争の悲惨さと残酷さを国民に伝えた。この結果アメリカ国民は「ベトナム・シンドロー
ム」に陥り、湾岸戦争においてもアメリカ国民は戦争がベトナム戦争化することを非常に恐れた。その結果
国民もメディアも非国民のレッテルを貼られることを恐れ、悲惨な戦争から目をそむけるために、政府による
報道管制を受け入れたと考えられる。
つまり、湾岸戦争では、政府とペンタゴンが「ベトナム・シンドローム」を回避するためにレーガン、ブッシュ
の両政権にわたる長い時間かけて綿密に練り上げたメディア対策を行ったのだ。結果として政府はメディア
規制に成功したのである。
第4節
湾岸戦争報道への批判
ここではまず、時間の経過とともに、戦争中は表面に現れていなかったさまざまな問題を紹介したい。「ミ
ルク工場」、「石油まみれの海鳥」、の 2 つの事例を挙げたいと考える。湾岸戦争報道ではテレビゲームの
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戦闘映像を彷彿させるようなミサイル攻撃を行っていると報道されてきた。こうしたミサイル攻撃をテレビや新
聞は“ピンポイント爆撃”と表現し、軍当局も「多国籍軍の攻撃は、イラクの民間人に被害を出さない配慮を
している」という発表を何度も繰り返した。こういう状況下において CNN のピーター・アネットが米軍のミサイ
ル攻撃によってイラクの「ミルク工場」が破壊されたという報道をしたことは衝撃的だった。世論はアメリカ軍
の発表への疑問を投げかける声と、CNNの報道がイラク寄りなのではないかという声の2 つに分かれた。も
っともアーネット氏が送ってくるイラクからの情報は当然イラク側の検閲を受けているのでイラク側に偏った
報道をしている可能性も考えられた。
しかし戦後になって CNN のアーネット記者が伝えた「ミルク工場」は、その後の調べで、やはりアメリカ大
統領報道官が強弁したような軍事施設ではなかったことが判明するのである。
また、イギリスのプール取材のクルーがクウェートの石油精製施設破壊現場で撮影したとされる「石油ま
みれの海鳥」はイラク軍による環境破壊の象徴的なテレビ映像として強く印象付けられた。しかしこの映像も
その後の調査で、イラク軍が破壊した施設とは別の場所で撮影された疑いが強まり、映像の信憑性に疑問
符がつけられることとなった。
このように、湾岸戦争は“ピンポイント爆撃”や“クリーンな戦争”という印象を国民に与えたがこれらは必
ずしも全てがペンタゴンの発表通りではなく、これらの映像はアメリカ政府の厳しい報道管制の元に演出さ
れたものであったといえる。しかしこれらの問題が明らかになったのは戦争後のことであり、結果としてはアメ
リカ政府がメディアに勝利した戦争ということができる。
戦争終了後、メディア側も動き出した。戦時における報道規制はどうあるべきか、湾岸報道への批判も目
立つようになってきたのだ。
6 月 8 日、ワシントンで湾岸戦争の戦勝記念パレードが、次いで 6 月 10 日にはニューヨークで帰還兵歓
迎パレードが盛大に行われた。さらに 12 日にはホワイトハウスにてブッシュ大統領の 67 歳の誕生日を祝し
て 1000 人を越える著名人が招かれ、そこで大統領の特別演説が模様されることとなった。
湾岸戦争での報道規制問題以来、政府と軍の言いなりになってきた三大ネットワークと CNN は、この演
説の放送を取りやめ、そういう事実のあったことだけを簡単に伝えた。
湾岸報道への批判が徐々に大きくなる中、6 月 25 日には、これら放送 4 社を含むマスコミ 17 社はチェ
イニー国防長官に『戦争報道 10 原則』を要望書として提出した。要望書の内容は「今後ありうるアメリカの
すべての軍事行動について、各社は独自の報道を原則とする。プール取材は米軍が作戦を展開した当初
の 36 時間以内だけに限定する」というものだった11。
繰り返しにはなるが、湾岸戦争下でのアメリカ合衆国憲法に記されている報道の自由は、軍としても堅持
するという建前をとりながら、その報道の自由は戦時においては、実質的に制約を受けることが確認できた。
報道の自由の最終決定権を報道機関に与えると明記することで保障したかたちになっているが、異議があ
る場合、文書で統合情報本部かペンタゴンと協議しなければならず、協議しているうちに戦況は刻々と変化
していくことは自明のことであり、実質的に、報道機関から速報性の機能を奪うこととなったのだ。
湾岸戦争はベトナム戦争と比較してアメリカ政府はメディアに対して勝利したといえる所以はここにあると
考える。
第3章
イラク戦争
湾岸戦争終結後の 1991 年 6 月 25 日に放送 4 社を含むマスコミ17 社によってチェイニー元国防長官
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
に“戦争報道の 10 原則”が要望書として提出されていたが、イラク戦争に先立って行われたアフガン戦争
では「アフガン攻撃は特殊作戦であり、ビンラディンとその中枢のメンバーを捕まえるためには特殊部隊を
送り込むしかない。秘密の保持が必要なため情報管理はやむをえず、メディアの同行は認めない」とする作
戦上の都合とジャーナリスト等の生命の危険を根拠にアメリカ政府はメディアの同行取材を禁止した12。アフ
ガン戦争におけるプール同行が許されたのは実際に空爆が始まって 3 ヶ月以上たった後のことで、この戦
争は史上最も取材できなかった戦争、『見えない戦争』と評価できる。また、アフガニスタン戦争が『見えな
い戦争』と称されるもうひとつの理由として土地が険しく従軍取材が困難だったからことが上げられる13。
イラク戦争では、「エンベッド」(embedding)といわれる同行取材が行われることとなったのが特徴的だっ
た。この同行取材が許されたことは、湾岸戦争の規制された報道体制からベトナム戦争のような自由な報道
ができる体制へと揺り戻ったことを意味するのだろうか。本章ではこの点について検証したい。
第1節
取材体制
「エンベッド」
湾岸戦争でのメディア規制の成功を受けてアフガン戦争でも厳しい取材規制体制がしかれた。これに対
してイラク戦争では同行取材が許可され、国防総省は開戦前の 3 月中旬の時点で 662 人のジャーナリスト
が同行取材に参加することを認めていた14。このような大規模な同行取材が認められた前例はなく、2003
年 5 月 1 日の戦争終結宣言まで延べ 800 人以上のジャーナリストがアメリカ軍の同行取材に参加した。内
2 割が外国人ジャーナリストだった。湾岸戦争では徹底的なメディア管制を敷いたのに対して今回のイラク
戦争ではなぜこのような大規模な同行取材が認められたのだろうか。理由は 3 つ挙げられると考える。1 つ
は、ベトナム戦争後、採られてきた取材規制に対するメディアからの批判・不満がかつてないまでに高まっ
ていたこと。2 つ目にこれまで、メディアに対する取材規制をあまりにも徹底したため、すぐれた戦果が十分
に伝えられなかった、と国防総省が考えたこと。3 つ目は戦争がますます情報戦の様相を帯び、イラク側か
ら行われると予想される情報操作に対抗するためにも、むしろ大規模な同行取材を認めたほうがよい、と軍
部が判断したこと15。総じて言えるのは国防総省が、間違った情報が流れる前に事実を伝える必要があると
考えたため大規模な従軍取材を認めたということだろう。ABC 放送のキャスターで今回のイラク戦争で第三
歩兵師団に「エンベッド」取材した経験を持つテッド・コペル氏はこのことについて「国防総省が、報道の重
要性を認識していたのだろう。開戦前からペンタゴンがすべての出来事を報道させるべきとの結論に達して
いたのです。」とコメントしている16。
次に今回の大規模な同行取材「EMBEDDING」とはどのような取材体制で、前回の湾岸戦争とはどのよ
うな点が違ったのだろうか。
「エンベッド(embedding)方式」(埋め込み)は2003 年 2 月 3 日、アメリカ国防総省によって従軍取材ル
ールとして発表された。同省はイラク戦争で、一線の兵士と共に寝泊りする従軍取材を許可。従軍記者は、
基本原則(Ground Rules)への署名を義務付けられたのだ。
このエンベッドというのは、ジャーナリストが部隊の一部として兵士と起居を共にしながら部隊に同行し戦
場での取材を行うことを意味する軍事用語で、今回のこの措置で同行取材記者は、軍服は着用しないが
NBC ギアと呼ばれる核兵器・生物化学兵器から身を守るとための装備を貸与されるなどの便宜が図られた。
また、この同行取材計画の実施に先立っては、同行を予定しているジャーナリストに対する国防総省主催
の 1 週間にわたる訓練も何回か行われたという17。
国防総省が発表した 10 ページに及ぶ Public Affairs Guidance には、「目的」、「方針」、「手続き」、
166
「戦争報道」
「基本原則」、「安全確保」等 6 つの項目に分かれてその従軍取材ルールが記されていた。この中から重要
と思われるいくつかの点を取り上げたいと考える。
まず、「方針」では以下のように記されている。
この地域に平和と安定をもたらす我々の戦略の成功は、我々の民主主義的な理念を長期間にわたって
支持することによってもたらされる。我々は、いいことであれ悪いことであれ、他の勢力がうその情報や歪曲
した情報を伝える前に、事実を伝えることが必要である18。
同行を受け入れる部隊に対して、同行するジャーナリストが取材しやすいようにし、また、取材した結果が
タイミングを失わずに報道されるようにするために移動・運搬にできるだけ便宜を図ること。さらに、取材結果
を送信する上で、商業通信設備の利用が困難な場合には、軍の通信設備を使用させてもよい19。などとし、
同行取材者に対しては最大限の便宜を図るように指示されていることがわかる。
「基本原則」では、まず同行取材をするメディアに対して、事前にこの「基本原則」に同意するよう要求する
と共に、「基本原則」に違反した場合は同行取材の停止もありうると述べている。しかし、「基本原則」は同時
に「メディアが軍事作戦を取材する権利」について認識しており、同行する部隊についての報道内容が否
定的なものであってもその報道を阻止する意図はない、としている。
最後に、指摘したいのは検閲についてである。「手続き」の中の項目R に「報道内容に関する一般的な検
閲はない」と明記されている。一方で「安全確保」の項目では、「検閲は編集に手を加えるものではなく、報
道内容の取り扱いに注意を要する情報、あるいは機密扱いの情報が含まれていないことを確認するためだ
けに行われる」と検閲をすることがありうることとを示唆している20。
つまり、取材の結果は基本的には検閲されない、としながらも機密情報には当たらないが、取り扱いに極
めて注意を要する情報に関してはその使用・報道は規制されうる。ということなのだ。
湾岸戦争時の「プール取材」による厳しい報道規制と比較すると今回の「エンベッド」取材が認められたこ
とは、「過去ベトナム戦争後 30 年間近くに渡って続いてきた国防総省と報道機関との悪い関係に終止符を
打つ『歴史的な転換』だ」と国防総省は発表してきた21。メディア側も、イギリスの公共放送 BBC のジョン・シ
ンプソン氏が「エンベッド」はある程度評価できる22。と前向きなコメントをしている。ベトナム戦争ではジャー
ナリストがかなり自由な取材や報道ができたことで、アメリカ政府や軍にとっては思わしい結果を生まなかっ
た。その失敗に懲りて、1991 年の湾岸戦争では徹底的な報道規制を敷くことになった。そういった意味で、
今回のイラク戦争で国防総省が「エンベッド」取材を受け入れたことは評価すべきことである。
しかしその一方で「エンベッド」取材の問題点も存在した。ここでは 4 つの問題点を指摘する。1 つ目は、
「エンベッド」が同行部隊の指揮官のコントロール下に置かれることから、場合によっては報道が厳しく規制
される可能性があるということである。これは、国防総省が事前に提示した従軍取材ルール、「Public
Affairs Guidance」にも明記されていることである。2 つ目は、部隊と長期間起居・行動を共にすることによ
って、同行取材者が部隊との一体的な心情に支配され、ジャーナリストとしての主体性・客観性が失われか
ねない、ということである23。この問題に関してイギリス公共放送 BBC の記者クライブ・マリー氏は、「従軍記
者をやっているうちに彼らとの仲間意識を持つようになった」と振り返っていることからも理解できる24。BBC
放送は、今回のイラク戦争でも中立的な立場で報道したという評価を世界的に受けている。FOX テレビ等
アメリカのメディアが「米軍」のことを「我が軍」と呼ぶ報道をする中、BBC は「イギリス軍」のことを「我が軍」と
は呼ばず「イギリス軍」と呼んだ25。その定評のある BBC の記者が部隊と寝食を共にするうちに仲間意識が
芽生え、ジャーナリストとしての主体性・客観性が失われかねないという問題点を指摘しているのである。3
167
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
つ目は今回のイラク戦争報道では数多くの「エンベッド」取材からの情報や映像が流されたけれどもそれら
の映像はイラク戦争全体の中の一部にしか過ぎず、その映像が戦争の全てであるような印象を視聴者にあ
たえたことである。
4 つ目は今回のイラク戦争での「エンベッド」による取材が認められたのは空母と南部戦線のみであり、地
中海上の空母や特殊部隊が展開した西部・北部の戦線では何が起こっていたのかが、いまだに明らかで
ない点である。
以上、今回のイラク戦争の特徴であった「エンベッド」取材の評価できる点と問題点の両方を指摘した。
第2節
情報量が豊富だった戦争
前回の湾岸戦争で目覚しい活躍をしたのが CNN だった。湾岸戦争を機に CNN が世界の多くの視聴
者を獲得しその信頼を得たことは前章で述べたとおりである。今回のイラク戦争報道では、中東の衛星テレ
ビ局の活躍が目覚しかったといえるのではないだろうか。特にカタールの衛星ニュースチャンネル、アルジ
ャジーラの活躍を中心に検証していきたいと思う。アルジャジーラの活躍は一昨年のアフガンのタリバン攻
略の時、中東唯一のニュース専門チャンネルとして独占映像を世界に配信したのは記憶に新しい。それで
はアルジャジーラとはどのような放送局なのだろうか。
アルジャジーラは本部をカタールの首都ドーハの北部に置き、1996 年に中東初の衛星ニュースチャン
ネルとして発足したテレビ局である。中東を中心にした広範囲な取材ネットワークと欧米からアジアまでほぼ
世界全域をカバーできる配信ネットを誇っている。視聴者は350 万人と言われ、今回のイラク戦争で欧米の
視聴者が新たに加わり現在の視聴者は世界で 800 万にも上るといわれている26。
アルジャジーラの特徴はアラブの声を発信することにある。これまでイラク国内のバグダッド、南部のバス
ラ、北部のモスルなど7 人のスタッフしかいなかったが、今回のイラク戦争でスタッフを総勢 40 人に増やし、
アメリカ軍への「エンベッド」、地元カタールのアメリカ軍前線司令部のプレスクラブにもスタッフを置くなど万
全の取材体制をとっていた27。
アルジャジーラの放送で特徴的だったのは、決してアメリカのメディアでは流れなかった爆撃によって病
院に担ぎ込まれるイラクの子供の姿や、路上に流れる鮮血など生々しい映像を多く流したことである。今回
のアルジャジーラの戦争報道でアメリカ国防総省が激怒したのが、3 月 23 日に報道されたアメリカ兵の遺
体と、イラク側の捕虜になった米軍へのインタビューの映像である。アメリカ当局はこの映像はジュネーブ協
定第 13 条28に違反するとしてアルジャジーラを批判した。しかし後の 2003 年 7 月 24 日にアメリカ側がフ
セイン元大統領の長男ウダイ氏と次男クサイ氏の遺体写真を複数公開したことを思い起こすと、アメリカもジ
ュネーブ協定第 13 条に反しているわけで、アメリカの言い分として、「やられたからやり返すのだ」という主
張がまかり通るとするならばこれは鼬ごっこに過ぎず、大人の政治ではないと考える。アルジャジーラのサイ
ード・シューリー副編集長は、「我々の使命は入手した情報をすべて流すことにある」といっている。これに
対してBBCのジョン・シンプソン、ABCのテッド・コペル氏もアルジャジーラの放送は中立的で偏りがなかっ
たと擁護している。
アメリカ当局からアルジャジーラへの逆風はこの事件を機に強さを増すこととなる。3 月 25 日、ニューヨー
ク証券取引所からアルジャジーラの記者の立会場への立ち入りを禁止されている。取引所側は保安上「信
頼できる」メディアに限定したと説明している29。さらにアメリカだけでなくイラク側からも風当たりが強くなるこ
ととなる。イラク情報相は 4 月 3 日に突然アルジャジーラのバクダッド駐在の記者 1 名に国外追放、同社の
168
「戦争報道」
別のイラク人記者 1 名に取材活動の禁止を言い渡したのだ30。このイラク情報相の措置を不服としたアルジ
ャジーラは、「イラク側から説明があるまでイラク国内での全ての報道活動を停止する」と自身の番組の中で
発表した。これを受けイラク情報相は 4 月 4 日にバグダッドでの取材停止を言い渡していたアルジャジーラ
に再び活動することを認めたのだ31。イラク情報相はなぜ、突然アルジャジーラのバグダッドでの取材を禁
止し翌日にはこの措置をあっさりとひっくり返したのだろうか。
この背景にはイラク政府がイラクの国営テレビを国民や兵士の士気を高めるために利用してきたことが関
係していると考えられる。サハフ情報相は 3 月 22 日の会見で「バグダッド進軍とされている映像はバグダッ
ドとは何の関係もない。米軍がハリウッド制作の映像を流しバグダッドと言っているだけだ」と米メディアがイ
ラク幹部の死亡や都市の陥落について、虚偽の情報を流していると批判した。サハフ情報相は 4 月 9 日の
バグダッドが陥落するその直前まで世界中のメディアに対して強気な発言を繰り返した。アルジャジーラは
このようなイラク当局にとって都合の悪い報道をしたことが先の事件につながったと考えられる。では、アル
ジャジーラはどのような報道をしたのだろうか。
3 月 29 日の報道番組でバグダッドの大統領宮殿と情報相が攻撃を受けたことを世界に配信したのだ。こ
の報道に激怒したサハフ情報相はアルジャジーラの記者に対し「今度このような報道をしたら殺すぞ」と脅
迫したという32。この直後にイラク政府は突然、アルジャジーラのバクダッド駐在の記者 1 名に国外追放、同
社の別のイラク人記者 1 名に取材活動の禁止を言い渡している。その後、イラク側はこの処分を取り下げる
ことになるが、その時イラク側はアルジャジーラのサイード・シューリー副編集長に電話で「よし、わかった。
この問題は解決できる。しかし親米的な態度を2 度ととらないよう記者たちに伝えてくれ」といったという33。イ
ラク政府がアルジャジーラを通してイラクに有利な情報を全世界に発信したいと考えていたことがうかがえる。
イラク政府が戦争を報道するメディアに直接介入しようとした重要な事件だったのではないだろうか。
メディア対策を重視していたのはアメリカ政府も一方で同じだった。アメリカ軍は中央カタールに置いた中
央軍司令部におよそ 2000 万円をかけてメディアセンターを作っていたのだ。このメディアセンターはハリウ
ッドの制作会社が作ったものである。アメリカ軍はこのカタールの中央軍司令部から毎日記者会見を開き最
新の戦況を発表した。しかしその発表の中には軍当局が情報操作を行っていたのではないかと指摘されて
いる情報もある。その例が「ジェシカ・リンチ上等兵19 歳の救出劇」である。アメリカ中央軍ブルックス准将の
会見によるとジェシカ・リンチ上等兵は3 月 23 日にイラク南部で捕虜になった。リンチ上等兵は多くのイラク
兵を倒したすばらしい兵士で、敵の銃弾を浴びて重体である。それにもかかわらずイラク側はまともな治療
をしていないと発表。アメリカ側の武勇談とイラク側の非道さを強調した。米特殊部隊が 4 月 2 日に収容先
のイラクの病院から救出した際も、自動小銃で武装した部隊が突入し、リンチさんをヘリコプターで搬送する
米軍映像が繰り返し放映され、国民の緊迫感をかきたてた。しかし、実際にはその後の BBC テレビの報道
が明らかにしたとおり、リンチ上等兵の体に銃創がなかったことや、イラク側は可能な限りの治療をしていた
こと、病院にイラク兵は1 人もいなかったので救出劇は危険でなかったことなどの内容が明らかになった。ワ
シントン・ポスト紙も4 月 17 日にリンチ上等兵周辺や国防総省、イラクの病院関係者ら数十人に取材した特
集を載せ、リンチ上等兵の部隊は道に迷った末にイラク軍と遭遇し、慌てて交戦したため味方の車両同士
が衝突した。リンチ上等兵の重症はこのときの衝突事故で負ったものであり国防総省の発表は演出である、
と結論付けている34。また、BBC の放送では、リンチ氏はイラクの治安当局によって病院に運ばれてきてお
り、アメリカ軍が突入する前日にイラク兵は全員リンチ氏の入院する病院から撤退していたようだ。従って病
院にアメリカ軍の精鋭部隊が投入されたのは大げさであったとコメントしている。
169
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
国防総省はこの一連の事件の作戦を記録した全ての映像の開示を拒否している。さらに国防総省のホ
イットマン副次官補は取材に応じ、アメリカ軍がこの救出の際、病院でイラク側の抵抗を受けたのか、やリン
チ上等兵の怪我の様子についてはノーコメントを貫いている35。今も真相は明らかにされていない。しかし
現在ではこの救出劇については、ABC のコッペル氏もアメリカ政府が戦争支持の世論を高めるため意図
的にジェシカ・リンチ上等兵の救出劇を使ったという見解を示しているとおり、国防総省による演出であった
という見方が強い。
このような戦場の生の映像やジェシカ・リンチ上等兵の救出劇を報道することができたのは放送取材機器
のデジタル化により取材、伝送システムが画期的な進歩を遂げたことがあげられる。前線の情報が大量にし
かもリアルタイムで視聴者に届けられ、最前線における戦闘場面のテレビ中継までもが可能となったのだ。
12 年前の湾岸戦争における最新の取材危機は、重さが 30キロもあるインマルサット用の電話、それに映像
を、衛星を利用して伝送するための 1 トン以上もあるフライアウェイが必要だった。
しかし今回のイラク戦争では、デジタル・カメラ、映像編集機能を備えたラップトップの電脳、ビデオフォン、
衛星電話など、取材・編集・伝送機器一式全部でもわずか45 キロ程度でおさまったという36。イラクのフセイ
ン宮殿をアメリカの第三歩兵師団が戦車で突入していくまさにその瞬間を取られた FOX テレビの映像もこ
の取材機器の画期的な進歩の恩恵である。
イラク側もアメリカ側も綿密なメディア対策をとっていたことが分かった。軍当局にメディアは利用されてい
るだけなのか。情報の取捨選択、必要な情報を過不足なく伝えられているかを検証する必要があると感じる。
そういった意味で今回のイラク戦争ではアルジャジーラ(カタールの衛星ニュースチャンネル)やアルアラビ
ア(UAE)、アブダビテレビ(UAE)、など中東からも様々な情報が世界に流れたことは評価できる点ではな
いだろうか。さらに情報量が多かったという点では、これはこれまでの過去の戦争時にはなかった新しい局
面を迎えているといえる。ただしその個々の映像が戦争全体の中でどのよう意味を持つのかが非常にわか
りづらかったという点が問題として残ったように思う。
第3節
メディアコングロマリット
最後にルパード・マードックが率いる FOX テレビ報道の問題を中心にメディアコングロマリットの危険に
ついて言及したい。
今回のイラク戦争では軍事力の行使の戦争である以上に、メディアを通じた情報戦争の側面が強かった
ように思う。戦争とメディアはいつの時代にも深い関わりを持つ。政府や軍は可能な限りメディアを味方につ
けようとするのはいつの時代も同じである。メディアは戦争に対してある程度の距離をおきつつ、自立した判
断をしながら戦争報道をしてきた。
今回のイラク戦争でのアメリカのメディアやジャーナリズムには、情報を軍に依存する傾向が顕著に見ら
れたように感じる。特にFOX テレビ、三大ネットワーク、CNNなどのテレビ報道は熾烈なスクープとライブの
報道競争を繰り広げる中で、競って「エンベッド」報道に勢力を傾けた。その先導役を担ったのは、メディア
王といわれて世界にメディアコングロマリットの帝国を作ってきたルパード・マードックである。彼が率いるニ
ューズ・コープの傘下にある FOX テレビは、特に今回のイラク戦争で保守的な立場を強調した報道が目に
付いたように思う。
1980 年代以降、アメリカではメディアが次々と巨大メディア複合企業に飲み込まれ、その傘下に入ってき
ているというのが現状である37。メディアコングロマリットとは、地上波テレビ・ネットワーク、系列テレビ局、ケ
170
「戦争報道」
ーブルテレビ・システム、番組供給事業者など、一連のテレビ関連の事業から、映画・ビデオ製作、新聞、
出版、インターネット、さらにはテーマパークやプロスポーツチームまで、メディア事業に関わるほとんどの分
野の仕事を傘下に収めている巨大メディア複合体のことである。
その総売上高は最大の AOLタイム・ワーナーの場合、2003 年上半期だけで 200 億ドルを超えるという。
年間売上高は、ベトナム一国の国内総生産(GDP)に匹敵し、アフリカ大陸の大半の国のそれを大きく上回
るというから非常に大きな組織であることが理解できる38。
テレビや新聞の報道がこの巨大なメディアコングロマリットによってどのような問題が生じるのか、ここでは
2 つの問題点を指摘したい。1 つ目は利益を最優先するためメディアの公共的役割が二の次になってしまう
ということである。巨大メディアコングロマリットの一部になった三大ネットワークでは 90 年代以降、経費削減
のため、海外や国内の取材体制を大幅に縮小する動きが出てきた。企業であるため、利益を最優先するの
は自明のことである。従って手間と暇のかかる調査報道やドキュメンタリー制作費が削られることとなったの
だ。
2 つ目は巨大メディアコングロマリットを牛耳る者がその影響力を最大限に活用しようとするために、客観
的な報道ではなく偏向報道になってしまう恐れがあるということである。今回のイラク戦争でもブッシュ政権
の方針を支持し、保守派の主張を強力に展開した FNC や FOX テレビがルパード・マードック率いるニュー
ズ・コープの傘下のテレビ局であったことは偶然ではないのである39。
これを理解する前に、「ニューズ・コープ」とはどのような組織なのだろうか。そしてルパード・マードックと
は何者なのかについて言及したい。
オーストラリア出身のメディア王ルパード・マードックがオーナーを務める「ニューズ・コープ」は1997 年に
110 億ドル、2001 年には 136 億ドルの総売上を記録している40。
「ニューズ・コープ」はFOX テレビ、Bスカイ B(衛星)、Star TV(衛星)、ケーブルテレビのフォックスニュ
ースやフォックス・スポーツ、フォックス・ファミリー・チャンネル、映画では 20 世紀フォックスを傘下にもち出
版物では the times , New York Post, Harbor Callins, さらにスポーツ球団のロサンゼルス・ドジャーズ
を傘下に押さえるなど世界をまたに駆けて展開する巨大情報資本となっている。1996 年には日本へも上
陸してテレビ朝日の株式の 21.4%を取得して筆頭株主となり日本のメディアを一時震撼させるという出来事
もあった。結局マードックは「日本への上陸は時期尚早」という理由で朝日新聞社に持ち株を売却した41。
1990 年代に入りルパード・マードックはさらに影響力を強めることとなる。1997 年秋、アメリカ最大級のシ
ンクタンクであるケイトー研究所の理事にマードックが就任したのである。ケイトー研究所にはメディア界のも
う1 人の大物がいた。米国最大のケーブル通信会社テレコミュニケーション(TCI)の CEO であるジョン・マ
ローンである。両者のビジネス上の利害は、衛星テレビ、ケーブルテレビ、番組配信などのテレコムベンチ
ャー事業の展開で一致していた。彼らの目的はシンクタンクを使ってテレビと電話通信の規制緩和を促進
させる活動を展開することだった42。
2003 年 6 月 2 日に決定された FCC(連邦通信委員会)のメディア保有規制ルールの見直しは、大幅に
「規制緩和」の方向へ舵取りされることに決定した43。「規制緩和」、つまり「小さな政府」は共和党政権の伝
統的な旗印のひとつであるため、ブッシュ大統領がこのような政策に踏み切っても不思議ではない。しかし
この背景には先に述べたルパード・マードック氏やジョン・マローン氏の所属するケイトー研究所のロビー活
動を見逃すわけにはならない。今回の FCC のルール見直しの一番大きな点を指摘したい。それは、一資
本が所有するテレビ局の放送視聴率が全米テレビ視聴者の 35%以上に達することを禁じた、「35%キャッ
171
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
プ」の「45%」への緩和である。このルール変更で一番恩恵を受けるのが「バイアコム」とルパード・マードッ
ク率いる「ニューズ・コープ」であるといわれている44。なぜならこの2 社の直営テレビ局のサービスエリアは、
既に全米視聴者のほぼ 40%に達しており、事実上「違法状態」にあったからだ。裁判所によって FCC 決定
まで特例を認められていたが、もし現行のまま「35%キャップ」が維持されれば、直営局を一部売却する以
外の手段がなかったことを考えるとケイトー研究所のロビー活動は欠かせなかったのではないだろうか。
ルパード・マードックは共和党系の保守的なシンクタンク、ケイトー研究所の理事長に就任することで自社
の FOX テレビを含む「ニューズ・コープ」がより世界で影響力を持てるよう FCC のメディア保有規制を改正
させたことになる。本来のメディア側の役割は第四の権力として政治を「監視」することにある。しかし、マー
ドックは政策決定過程に直接かかわった政治活動をした。これが、現在アメリカが抱えているメディアコング
ロマリットに関する問題として先に挙げた 2 つめの問題点である。ルパード・マードックは今回のイラク戦争
で保守的な愛国主義的な報道番組を報道し続けた。
この先さらに「ニューズ・コープ」の巨大メディアのコングロマリット化が進むとすると、世界が直面する問題
はアメリカのメディアのコングロマリットによる共和党寄りの保守的な偏向報道が世界の大部分をしめ、世界
がメディアからアメリカ化されるかもしれない、という危険を含んでいる。これは当然アメリカが今回のイラク戦
争の大儀としていた「イラクの民主化」であり、その先の目標である中東全域の「民主化」、ひいては世界の
民主化と共通するところであるのではないか。
つまり、今世界は、アメリカメディア界とホワイトハウスが一体となって世界をアメリカ化しようとしているという
危険を我々は察知しなければならないのである。
今や放送衛星を使えば、世界中のあらゆる地点からあらゆる地点に向けて「映像・音声」による交信が可
能となった放送メディアにとって、個々の国益を超えた包括的なジャーナリズムを構築していくことは必要な
ことである。 このような国際情勢の状況下にあってメディアコングロマリットが進むことは偏向報道という点に
おいて大きな危険性を持ち本来のジャーナリズム機能が低下してしまう危険性を持っているということを重
ねて指摘しておきたい。
第4章
まとめの考察
本章ではこれまで時系列的に見てきたベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争のそれぞれの報道の特徴を
報道体制、報道規制など横軸の視点からわかりやすく考察する。
第1節
報道体制の変化
ベトナム戦争では、史上初めてテレビカメラが戦地に入った戦争だったという点において非常に意味深
い戦争だった。ベトナム戦争は初めてのテレビの戦争だったのだ。しかし当時映像はフィルムであったため、
それをベトナムから一度日本に空輸で届けなければならなかった。現像する手間も必要だったため映像が
本国であるアメリカに届くのは日本から衛星回線を使ってもリアルタイムから 2、3 日遅れることとなった。
これに対して湾岸戦争では、ABC 放送が世界初の開戦生中継に成功した。その後は新たなニュース
CATV の CNN が台頭してきた。CNNは「フォー・ワイヤー」と呼ばれ電話専用回線や「インマルサット」と呼
ばれる国際海事衛星機構の船舶用電話を駆使することで世界中の視聴者の信頼を得た。ホワイトハウスや
イラクのフセイン大統領が CNN を見て軍の作戦の成功を確認していたといわれているほどである。
イラク戦争では、放送取材機器のデジタル化により取材、伝送システムが画期的な進歩を遂げたことがあ
172
「戦争報道」
げられる。前線の情報が大量にしかもリアルタイムで視聴者に届けられ、最前線における戦闘場面のテレビ
中継までもが可能となったのだ。12 年前の湾岸戦争における最新の取材機器は、重さが 30 キロもあるイン
マルサット用の電話、それに映像を衛星を利用して伝送するための 1トン以上もあるフライアウェイが使用さ
れていた。
しかし今回のイラク戦争では、放送機材全部でもわずか 45 キロ程度だった。イラクのフセイン宮殿をアメ
リカの第三歩兵師団が戦車で突入していくまさにその瞬間を捉えた FOX テレビの映像もこの取材機器の
画期的な進歩の恩恵であった。
また今回のイラク戦争では中東の衛星テレビ局の活躍が目覚しかったことも特徴の 1 つである。特にカタ
ールの衛星ニュースチャンネル、アルジャジーラは中立的な立場で報道しイラク戦争報道の中心的な役割
を果たしたといえる。アルジャジーラ(カタールの衛星ニュースチャンネル)やアルアラビア(UAE)、アブダ
ビテレビ(UAE)、など中東のテレビ局が今回のイラク戦争ではたくさんの映像や情報を世界に発信したと
いう意味において、これまでの過去の戦争時にはなかった新しい局面を迎えたといえる。
第2節
報道規制の変化
ベトナム戦争では、記者は自由に取材する場所を選ぶことができ戦地を自由に取材、報道することがで
きた。結果、ベトナム戦争はメディアが終わらせた戦争といわれるようになり、ホワイトハウスはベトナムに負
けたのではなく、メディアに負けた戦争だったと認識することとなる。
アメリカ政府はこのベトナム戦争の反省に立って、湾岸戦争では徹底的な報道管制と検閲をおこなった。
具体的には重大な作戦が終了するまでは一切の報道関係者をシャットアウトし、作戦がほぼ終了した時点
で、少数のプール(代表)取材を認めるというものだった。これは、作戦遂行時に予想される生々しい戦闘の
模様を映像に収めさせない、ベトナム戦争のときの反省に立った情報管理の一環といえる。アメリカ政府は
湾岸戦争では見事情報管制に成功したのである。
湾岸戦争でのメディア規制の成功を受けてアフガン戦争でも厳しい取材規制体制がしかれた。しかしメ
ディア側の反発が強かったためその妥協策としてイラク戦争では「エンベッド」という同行従軍取材が許可さ
れた。これはジャーナリストが部隊の一部として部隊と起居を共にしながら部隊に同行し戦場での取材を行
う方法のことを意味する。
終章
報道規制という点から考えると、ベトナム戦争が理想的な戦争報道だったのではないだろうか。ジャーナ
リストが自由に取材する場所を選ぶことができ戦地を自由に取材、報道することができたからだ。本来ジャ
ーナリズムは政府から独立した第四の権力『ウォッチング・ドッグ』として政府を監視する役割を果たすべき
であるという考えにも合致する。その意味において今回のイラク戦争の「エンベッド」取材は先に指摘したい
くつかの問題点を含んでいるため手放しに評価することはできない。しかしこれまでの戦争報道と比較して
明らかに新しい局面を迎えている点は評価できるのではないだろうか。
さらに今後の戦争報道のあり方として、メディアが軍にこの「エンベッド」取材をやめてしまわないようにで
きる限り、前線への取材を求めていくことが大切になってくると考える。今回のイラク戦争報道では戦争の断
片的な映像はたくさんあったが全体像をつかめないという問題点があった。今後は戦争の全体像を捉える
ためにも、メディアが得た情報を余すことなくすべて伝えるという報道姿勢が大切になってくるのではないだ
173
久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
ろうか。
一方で報道体制の点からは、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、と時代を経るごとに報道機材が画期
的な進歩を遂げ、中東のアルジャジーラの活躍など多面的な報道素材を得られる環境になってきている。
メディアコングロマリットは世界のネットワークを結ぶという点でメリットは大きい。しかし、今後アメリカを中心
にますます進むと考えられるメディアコングロマリットはメディアによる世界報道のアメリカ化、つまり偏向報
道の危険性というマイナスの要素も含んでいることを指摘したい。
イラクの民主化の先に見られるブッシュ政権の中枢を担うネオコンの最終的な目的は世界の民主化、世
界のアメリカ化であるといわれている。世界のアメリカ化の良い、悪いの議論は別として、現在のアメリカでは
メディアと政治が一体となって世界をアメリカ化する方向に進む危険性をもっていることも確かなのである。
最後に罪のない多くの人が命を落とす紛争やテロ、戦争といったものがなくなり、「戦争報道」そのものがな
くなることを祈り結びに代えたい。
1
朝日新聞社会部『メディアの湾岸戦争』p.21
ニューヨークタイムズ『ベトナム秘密報告書(上)』杉辺利英訳、サイマル出版、1972 年
3 NHK 資料『ベトナム戦争』p.568
4 同上、p.567
5 同上、p.567
6 Winter, James.1992.Common Cents.Black Rose Books
7 『テレビが伝えた戦争』p.339
8 小泉哲郎『メディアの作法』
9 The New York Times Magazine,3/3/91
10 中嶋弓子「報道管制を好んだアメリカの世論」『世界』1991 年 5 月号
11 『テレビが伝えた戦争』p.343
12 メディア・ウォッチ団体「FAIR」のホームページ
13 同上
14 『総合ジャーナリズム研究』NO.185
15 海部一男「新しい取材体制・残された課題」『放送研究と調査』2003 年 5 月号
16 『メディアはどこへ向かうのか』NHK、200310 月 25 日放送
17 海部一男「新しい取材体制・残された課題」『放送研究と調査』2003 年 5 月号
18 国防総省のホームページより「Public Affairs Guidance」
19 同上
20 同上
21 同上、24/07/2003
22 『メディアはどこへ向かうのか』
23 Columbia Journalism Review May/ June
24 『メディアはどこへ向かうのか』
25 朝日新聞、2003 年 4 月 24 日
26 アルジャジージャ以外にも UAE(アラブ首長国連邦)のアルアラビアテレビや同じく UAE のアブダビテレビ、レバノン
の衛星放送局 LBC(Lebanese Broadcasting Corporation)など近年多くの中東衛星テレビ局が存在感を増してきて
いる。『総合放送ジャーナリズム』NO.185、p.50
27 『メディアはどこへ向かうのか』
28 ジュネーブ協定第 13 条には「暴行、脅迫ならびに侮辱および公衆の好奇心から保護しなければならない」とある。
29 『総合放送ジャーナリズム』NO.185、p.50
30 同上、p.52
31 同上
32 『メディアはどこへ向かうのか』
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「戦争報道」
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同上
朝日新聞、2003 年 4 月 23 日
『メディアはどこへ向かうのか』
海部一男「新しい取材体制・残された課題」『放送研究と調査』2003 年 5 月号
藤田博司『総合ジャーナリズム研究』NO.186、p.20
同上
同上、p.21
柴山哲也『戦争報道とアメリカ』PHP 出版、2003 年、p.129
同上、p.131
同上、p.140
田近東吾『新・調査情報』TBS、7・8 月号、p.57
同上
【参考文献】
<一次資料>
*
http://www.defendamerica.mil/
*
http://www.cpj.org/
*
http://www.mediachannel.org/ownership/
*
http://www.cato.org/
*
http://www.cnn.com
*
ニューヨークタイムズ『ベトナム秘密報告書(上)』杉辺利英訳、サイマル出版、1972 年
*
ニューヨークタイムズ『ベトナム秘密報告書(下)』杉辺利英訳、サイマル出版、1972 年
<二次資料>
*
藤田博司「アメリカに見る権力と報道」『公明』1992 年 8 月号
*
中嶋弓子「報道管制を好んだアメリカの世論」『世界』1991 年 5 月号
*
桂敬一「湾岸戦争とジャーナリズム」『国際問題』1991 年 8 月号
*
三浦規成「世界のテレビは『湾岸戦争』をどう伝えたか」『新放送文化』1991 年、No.22
*
「米・同時多発テロと報復戦争=海外編」『総合ジャーナリズム研究』2002 年、No.179
*
永島啓「米テレビは『開戦』をどう伝えたか」『放送研究と調査』2003 年 5 月号
*
海部一男「新しい取材体制・残された課題」『放送研究と調査』2003 年 5 月号
*
太田昌宏「存在感増す中東衛星テレビ」『放送研究と調査』2003 年 5 月号
*
クリストファー・ディキー「くすぶり続ける湾岸報道批判」『News week』1992.6.18
*
今村庸一『光と波のジャーナリズム』サイマル出版、1993 年
*
武田徹『戦争報道』筑摩書房、2003 年
*
小森義久、近藤紘一『国際報道の現場から』中公新書、1984 年
*
村上和巳他『戦争報道の舞台裏』軍事同盟研究会 2002 年
*
野坂昭如「戦争とジャーナリズム」『創』2003 年 7 月号
*
クレイ・チャンドラー 『メディアと政治』明石書店、1999 年
*
フィリップ・ナイトリー『戦争報道の内幕』時事通信社、1987 年
*
五十嵐武士『アメリカの社会と政治』有斐閣、1995 年
*
海部一男『イラク戦争と放送メディア』日本放送出版会、2003 年
*
柴山哲也『戦争報道とアメリカ』PHP 出版、2003 年
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久保文明研究会 2003 年度卒業論文集
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・喜久山顕悟
えー、現在 2004 年 2 月 4 日 AM7:00 です。無事卒論が書きあがろうとしています。また徹夜です。確か三田祭論
文のときもそうでした。
昨年、諸先輩方の卒業論文やその中間発表などを拝聴して、果たして自分にできるのだろうかと不安でした。不安と
いうより卒論に取り組んでいる自分が全くイメージできなかった、と言う方が正しいかもしれません。
兎にも角にもそんな自分が卒業論文を曲がりなりにも書き上げたわけです。この 2 年間、久保先生をはじめゼミの仲
間には感謝の気持ちでいっぱいです。
おそらく、ゼミに入っていなければ僕は三田の図書館に入ることは試験前にノートをコピーする(本当は禁止)以外に
なかっただろうと思います。それが、今では三階の雑誌棚の横にあるソファーで居眠りするほど図書館と仲良しになった
のです。
さて、反省点として資料収集に関して言えば、特に一次資料がまだ不足している点です。もっと良き資料が見つかれ
ば論文内容のボリュームが増しただろうと思います。私は入ゼミ当初からアメリカのメディアと政治の関係に興味を持っ
ていました。入ゼミ論文も「大統領選挙とメディア」についてでした。自分の興味のあるテーマを卒業論文としても扱うこ
とができ、また先生からも随時アドバイスを頂きながら論文を書くことができたことに感謝しております。
あと僕のすべきことは、今晩の「打ち上げ」で皆さんと楽しくお酒を飲むことです。
そうです、「打ち上げ」までが「卒論」なのです。お家に帰るまでが遠足であるように。
楽しみです。
喜久山顕悟君の論文を読んで
【小池和雄】
アメリカの戦争報道に着目した点は大変面白く興味深い。またベトナム戦争から、湾岸戦争、そしてイラク戦争と時系
列的に取り扱っているのもこの論文の面白みなのであろう。それぞれの戦争における報道の体制とその規制のあり方、
進化の具合などが見て取れた。法廷の記録などを出したり、「メディアによる表現の自由」対「政府による報道規制」の
構図が大変明確に記してあったと思われる。
またメディアの側に立ったアメリカ政府への批判のような主張も全体として読んだとき一貫していて理解しやすい。あ
まりにもアメリカ政府がメディアの力を恐れて、それを押さえ込むために四苦八苦していると表現しすぎではあるが、これ
はおそらくオリジナリティであり、このような批判もあるべきだと私は感じた。
しかし全体として見た時に少々概念的な言葉が多いようにも感じる。たとえば、ベトナム戦争を終わらせた原因はメデ
ィアにあると筆者は述べていたが、果たして本当にそうなのか、と感じてしまう。根拠づけが明確でないように思える。こ
の部分だけは他メディアからの引用ではなく、実際の論拠が必要となってくると思うのである。訳された文献ではなく、
自身で英語の文献に当たってみるというのもひとつの手段であろう。見たところまだ英語の文献がないようなのでまだ改
良の余地はある。英語の一次資料の知識、データなどを重ねていけばもっと根拠のある、深みのある論文になるのと同
時に、どこを特に主張したいか、など明確になると思われる。
第 4 章についてだが、ただ単に序章、第一章、第二章、第三章同じことを要約しているだけというならばこれはあえて
章にする必要はないと思われる。内容の反復ではなく、新しい観点からの考察であったりすれば存在してもいいとは思
うが、今のままだと意義がない。終章が短い分、多少手を加えて終章に盛り込むのも可であると思われる。
加えてイラク戦争についてだが、アルジャジーラの報道体制というのはそこまでこの論文において、重要性を見いだ
せない。この論文はあくまでもアメリカの報道体制、そしてその規制を批判している論文であり、ベトナム戦争のたとえ残
虐であっても事実を報道したスタイルが正しいスタイルである、と主張する上でアルジャジーラは正直必要ない。
ここからは文法的なミステイクについて。
序章の 8 行目、「行われた」は「行った」である。第1 章第 1 節に「はじめてのテレビの戦争であった」とあるが、一体全
体何のことなのかがよくわからない。第 2 章前説の部分で、「なさていて」というミスタイプがあった。第4 節では大統領特
別演説は「模様された」のではなく、「催された」。第3 章第 3 節に出てきた、「カト研究所」は「CATO研究所」もしくは「ケ
イトー研究所」とした方がいいと思われる。
【山中麻里江】
この論文は戦争とメディアの関係について論じており、アメリカの歴史の中での戦争をメディアの影響力という視点か
ら論じている点で個人的に非常に面白く感じました。また、構成がベトナム戦争から湾岸戦争、そしてイラク戦争と時系
列的に比較している構成はとても分かりやすく読み進めるにあたって論文の流れが確認しやすく、論証したい点が明ら
かであった点でよく構成されている論文だと思いました。論文全体を通して常に何を論証したいか、指摘したい点、問
題点などが述べられており、各々の章や節の関係が捉えやすかった。
また、実際の記者のコメントを織り込むことで真実味を帯びた論文になり、論文から「戦争」というものがひしひしと伝
わってくるような感じさえしました。そして、ベトナム戦争においてメディアの報道規制がなかったことによって戦争のあり
のままの姿をアメリカ国民に伝えたことでベトナム戦争の終結を決定付けるにつながったことはメディア、戦争、政治の
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「戦争報道」
強い結びつきと影響力を裏づけ、立証できていると思いました。これらを立証するために表などの事実を使っている点
も非常に良いと思いました。
次に喜久山くんの論文の改善点をいくつか挙げるとすれば、戦争を報道するメディアというものを取り上げて考察す
る中で、その裏にある政権や政治の動きにも多く目を向けることでなぜ戦争を引き起こす国家同士、または国家とテロリ
ズムが影響されるのかをさらに明確に立証できるのではないかと思う。ベトナム戦争の例ではこれらがよく考察できてい
るように感じたが、湾岸戦争とイラク戦争の例ではさらに掘り下げて考察することができるのではないだろうか。また、第
2 章第 2 節と同章の第 4 節で使われている文章が非常に似ていたので、少し言い回しを変えたほうが読み手にとって
読みやすい文章になるのではないかと感じた。
最後に参考文献についてだが、一次資料が少ないように思ったのでこれから一次資料を読み進め、戦争報道の生
の声を考察することよりで一次資料と二次資料のバランスのとれた内容の論文になると思う。
人類の歴史が始まってから争いごとや戦争は絶えることなく歴史に刻まれてきた。今日では国家対国家ではなく、国
家対テロリズムという相手を特定できない新しい形の戦争にまで発展している。喜久山くんも論文の最後に述べている
ように、それを報道やメディアというものの影響力をうまく利用することで引き起こさせない、または早く終結することがで
きればいいと強く思った。
最終稿提出まで約 2 ヶ月ですが、2 年間のゼミの集大成となる卒業論文を書き上げられるように頑張りましょう!
【小原康平】
現代において放送メディアはもはや国家を中心とした主体間の意思決定にさえ決定的な影響力を行使しうる存在と
して認識され、そのあり方が常に問われる状況にあります。本論文はこの放送メディアを戦争報道という視点から捉え、
その歴史的態様を比較する事においてその「あり方」に独自の見解を盛り込んでいます。戦争報道が密接に関連し影
響力を行使したとされる戦争を 3 つ取り上げ、それぞれの戦争報道の特徴を分析すると共に比較検証し、最終的に放
送メディアがどのような変容を迎えてきたのか総括する。本論文の最大の特徴はその明快な目的にあるといっても過言
ではありません。また、それぞれ検証するベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と時系列的に順次論述する論文形態は
極めてわかりやすいと言えるでしょう。加えて、イラク戦争での戦争報道について言及するならば、現地では現在もまだ
問題の解決を見ていない混沌とした情勢であるだけに、研究と分析の意義が大きく、確たるオリジナリティーを主張出
来ていると言うことが出来ます。
論文について改善すべき点があるとすれば、全体的に、節を整理し項を増やして議論の流れを細分化する必要があ
るのではないでしょうか。それぞれの章分けが明確である反面、各節内の議論は放送メディアの技術的側面、報道規
制の側面、報道体制の側面、更には歴史的経緯の説明に政府の見解など、微に入り細をうがつ議論が混在しているた
めに、各章の戦争報道の実態を比較し難い状況が生まれていると言わざるを得ません。3 つの事例をより比較しやすく
し、時代を経た変化の様相を明確にするには、各章の各節を一律に揃えるなどの処置も有効的かと思われます。具体
的には、第 2 章第 1 節の戦争の「生中継」の技術と CNN の視聴率に関する記述、第 3 章第 1 節のアフガン戦争とそ
の報道体制の記述、同様に「エンベッド」取材の問題点の記述などはそれぞれ独立した焦点を持っております。また、
アルジャジーラの放送とジェシカ・リンチの救出劇も同じ「情報量の多さ」を示す事例かもしれませんが、明らかに異なる
資料内容でもあるので連続した議論として捉えるには少し無理があります。それぞれ新たに項を構成するなどの処置を
施すなどしては如何でしょうか。
さて各章の改善点では、まず第 2 章第 2 節では「コンバットプール」には体力テストに合格したアメリカのメディアのみ
が参加可能であったとありますが、この 150 人が具体的にどのような放送メディアに所属していたのかなどの内訳が明
示されると、プール取材の実態により近づけるのではないでしょうか。同様に「戦争報道10 原則」や第3 章第 1 節の「基
本原則」などに関しても、詳しい内容の記述があると良いと感じました。第 2 節の題名ともなる「情報量の豊富」な戦争と
の記述がありますが、題名からだけでは単純に量的な問題なのか、それとも情報の質的な内容を含めての「豊富」さな
のか、判別しにくい状態にあると感じます。議論の流れから察するに「情報源がより多角的」な戦争という意味合いも含
まれている気がしますが、これについてはより明確な基準を設けるべきではないかと思います。第 3 節のメディアコング
ロマットに関しては、イラク戦争報道との直接の関連性を具体例で示す事が出来れば尚説得力が増すでしょう。
全体を通して以上の点を指摘させて頂きましたが、総じて事例がよく比較検証された、非常に高度な内容であったと
思います。最終提出までに更なる進化が見られることを期待しています。
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