ISSN 0389-5254 2009 No.5 SEP JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOCIATION 操縦士協会のめざすもの (第204回理事会決議) 1. 私達の活動の目的は、 定款に定められた通り 「航空技術の向上を図り、 航空の安全確保 につとめ航空知識の普及と諸般の調査研究を行い、 もって我が国航空の健全な発展を促 進する」 ことです。 2. 私達は、 定款の目的を踏まえ、 将来のあるべき姿として 「安全で誰からも信頼され、 愛 される航空を実現する」 というビジョンを描いています。 3. 私達は、 目的・ビジョンを達成するために下記を基本的指針に掲げて活動して行きます。 航空の安全文化を構築する。 (組織と個人が安全を最優先する気風や習慣を育て、 社会全体で安全意識を高めて行くこと) 地球環境と航空の発展との調和を図る。 航空に携わるものどうしが心を通わせ共存共栄を図る。 第45期 (平成21年度) 重点施策 本協会は、 航空の安全に資する事業を推進し、 航空関係者の知識と能力を育み、 もっ て空の安全と技術向上を目指し、 操縦士の社会貢献を担うと共にその促進を図ります。 また、 諸事業を通じ、 社会とりわけ航空に関心を持つ方々に直接働きかけ、 航空との 出会いと触れ合いの場を提供し、 航空に対する興味と期待に応えていきます。 特に青少 年へは、 社会教育の一部を補完する意味で、 航空という新たな世界を紹介し、 健全な成 長を応援します。 操縦士が技能育成の場を容易に持てる環境を整えます。 訓練用の機材を協会事務所に 確保し、 経験豊富な操縦士が教育にあたります。 これらを通じて技術指導の充実及び資 格の維持に貢献し、 技術者としての雇用安定にも寄与していきます。 ・教育・啓蒙事業 ・改善への貢献 ・技術支援 ・操縦士の風土作り ・適切な事業展開と運営 ・人の和と連帯感の促進 操縦士協会は会員を募集しています。 JAPAは公益法人として国土交通大臣の認可を受けた日本唯一の操縦士団体です。 目的 本協会は、 航空技術の向上を図り、 航空の安全確保につとめ航空知識の普及と諸般の調査研究を 行い、 もってわが国航空の健全な発展を促進することを目的とする。 協会の会員は、 下記のように分かれます。 正 会 員;協会の目的に賛同して入会された方で、 原則として操縦士技能証明をお持ちの方です。 賛助会員;協会の事業を賛助するため入会した個人または法人です。 個人賛助会員は、 満16歳以上の操 縦士技能証明を持たない方で、 法人賛助会員の資格は、 特に定めはありません。 正会員の会費;60歳未満:月額 1,700円 (内訳1,500円:協会運営費、 200円:共済費) 60歳以上:月額 1,500円:協会運営費 個人賛助会員; 月額 1,500円:協会運営費 法人賛助会員: 一口年額 50,000円:協会運営費 入会すると? ①協会機関誌 (AIM・PILOT誌など) の無償入手 ②航空関連商品 (書籍等) の割引購入 ③会員向け、 空港施設見学や講習会への参加 ④協会契約割引施設の利用 お申し込みは別途 「入会申込書」 をお送り致しますので、 事務局までご連絡下さい。 皆様のご入会をお待ち致しております! 社団法人 日本航空機操縦士協会 JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOSIATION TEL03-3501-0433 FAX03-3501-0435 E-Mail [email protected] Home page URL http://www.japa.or.jp/ CONTENTS No.316 4 2009 No.5 SEP 公益事業を考える 84 専務理事 7 白石 特集 千葉 86 シニア・パイロットのエピソード (第27回) 私の思い出 −航空管制官、 航空大学校操縦教官、 試験官、 事故調査官の航跡− 井前 末夫 14 学科試験問題検討会について 豊樹 ハートで飛ばそう! 地球環境問題関連用語の解説 22 24 最終回 88 オススメ!情報ボックス 書籍 & Goods 紹介 90 FAI ニュース Fly with Airmanship ! −3− 山 博茂 奥貫 博 福井 宏己 博行 91 航空気象 中部支部だより アメリカ GA 界における2つの事例 火山灰を回避する運航 −航空路火山灰情報について− 航空気象委員会 96 開催報告 航空安全セミナー開催報告 32 航空史曼陀羅 GA 委員会 その31. スチュワーデス今昔 徳田 忠成 97 開催案内 曲技飛行競技会 38 99 自家用航空機の整備 44 奥貫 博 田頭 勝 得猪 外明 寄稿 報国石川号 湧井 SP (シニア・パイロット) 懇親会のご案内 104 航空局通達 108 JAPA 通信 111 JAPA SHOP 112 FTD 訓練室便り カレン 航空医学 乗員の健康管理にかかわる懇談会開催報告 航空医学委員会 64 103 空の交差点 豪州チョー自家用航空見聞録 60 開催予告 機長への道 「副操縦士の皆さんへのメッセージ」 エアライン委員会 スカイ・レジャー・ジャパン 09インふくしま 第31回 ATS シンポジウム開催のご案内 ATS 委員会 第4回 航空気象シンポジウム スコールの空の下で 55 開催案内 GA:ジェネアビ情報 Aviation Cafe 連載・飛行力学物語 VNAV の理解 FTD 訓練室 その3 柴田 眞 蔵岡 賢治 113 その2 JAPA で飛行訓練を! JAPA のシミュレーター Flight Training Device FTD 訓練室 75 アメリカの GA 航空事情 飛行訓練および操縦資格取得要領 −前号に続く− 脇田 祐三 78 114 JAPA Aerial Photo Exhibition 116 編集後記 安全の分水領 注意散漫 社団 法人 日本航空機操縦士協会 JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOCIATION 公益事業を考える 専務理事 白 萩尾会長のもとに活動する日本航空機操縦士 協会は既に4年目となりました。 先輩たちから 継承した事業を、 粛々と引き継いでいく事は想 像以上に大変なことでした。 事業を円滑に進め 活動を活性化していくためには環境変化に適応 させていかねばなりません。 世界不況、 石油価 格の高騰、 新型インフルエンザの流行など状況 は刻々と変化しています。 身近な問題では、 社 会制度の変更 (公益法人制度改革) と団塊の世 代が定年 (60歳以上) を迎えたことがあげられ ます。 会員確保 法律上の優遇措置が変更されたことを受けて ロス・オブ・インカム制度の給付水準が低下し たことは、 協会員のメリットが少なからず低下 した出来事でした。 さらに、 公益法人制度の変 更は、 会員サービスよりは公益目的事業を優先 した運営を求めています。 また定年を迎えた方々が増える一方で、 退職 に伴い退会していく会員が増えています。 これ までの貢献と役割は、 今後も発揮して欲しいと 判断し、 私たちは終身会員資格の見直しを行い ました。 確信できる公益事業を継続し発展させていく ことこそ、 会員全体の理解を得ることであり、 会員の確保に繋がると捉えています。 社会の役 に立つといった公益的な価値観が、 会員同士で 共有できれば、 各自の満足感に結びつくと考え ます。 厳しい環境ですが、 日本航空機操縦士協会は 50年の歳月を超えて存続してまいりました。 既 4 2009 SEP 石 豊 樹 に、 経済・技術革新・政策の転換・産業構造の 再編といった大きな波に揉まれてきましたので、 何とかなると楽観的に受け止めています。 組織の特徴 今後の事業の目指すものを今一度考えて見ま しょう。 豊かな日本の空を築くことです。 空に 集う人々が明るく安心して過ごせる空間、 社会 が信頼できる航空、 空で営まれる事業が健全で あることが、 私たちの夢といえます。 国民の視 点に立てば、 安全かつ健全な航空の発展が期待 されています。 日本航空機操縦士協会は、 飛行 の種類や事業分野、 組織と環境が異なる操縦士 が参加しています。 三次元の空間、 特異な環境 の中で生きてきた経験と知識を持ち寄ることが できる組織です。 空の信頼性を高めるために、 お互いの意見を交換することが活動の原点です。 操縦士が企画と運営に携わっている団体だから こそ、 皆で話し合っていく機会を提供できます。 事業への期待 組織は制度や人を変えたからといって、 直ぐ に動き出すわけでは有りません。 長期的な視点 と当面の目標も必要となります。 今期の事業方 針に、 普及啓蒙、 相互信頼、 イベントの継続を 掲げています。 AIM−J の発行 当協会が知識の普及を目的とし、 パイロット と管制官が共通の認識を持つための 「ルールで はカバーできない部分の規範」 を解説した刊行 物 で す 。 米 国 FAA が 発 行 し て い た AIM (Airman s Information Manual) の日本版 です。 航空局監修の書物として今後も、 事業は 継続されていくでしょう。 注) AIM の実績 毎年2回発行 国土交通省航空局監修 編 集 AIM-JAPAN 編纂協会 発 行 日本航空機操縦士協会 販売部数 約4,500部 R/T Meeting 月例開催 Radio Telephony Working Group の 研究会議 航空交通管制協会と協力 今年初めて開催に漕ぎ着けた 「事故を斬る!」 参加した組織と共催体制が整い続けることが できれば、 「クランフィールド大学」 が行う講 習から脱皮する時期がくるでしょう。 日本人の パイロットや関係者が外国人講師に代わって 「事故調査の科学的な手法」 を教育する日も、 遠い将来ではありません。 注) 今回企画された 「事故を斬る!」 は事故 調査のさらなる充実を目的として、 平成21年4 月6∼10日に、 東京国際空港内ギャラクシーホー ルに於いて開催されました。 日本航空機操縦 士協会が主催し、 日本航空技術協会、 株式会 社日本航空インターナショナル、 全日本空輸株 式会社、 全日本航空事業連合会、 日本航空 協会、 ㈲日本ヒューマンファクター研究所、 法 政大学、 桜美林大学の協賛により、 国土交通省 航空局が後援しました。 クランフィールド大学が派遣した2名が講師 を務め、 航空事故調査セミナー (Safety and Accident Investigation Course) の短期間講 習が実現しました。 英国クランフィールド大学の紹介 英国クランフィールド大学は、 産学連携の研 究を重要視する大学院大学であり、 2008年の研 究格付け評価において、 ケンブリッジ大学、 オッ クスフォード大学と並び、 英国トップ3研究機 関大学として格付けされています。 また、 英国における航空工学分野の大学院課 程学位 (修士及び博士) の54%が、 クランフィー ルド大学にて授与されており、 クランフィール ド大学という名前は、 イギリス及びヨーロッパ においては、 航空学、 工学及び生化学における 最先端研究機関を意味しています。 その中でも、 工学部エアトランスポート学科 は、 航空経営学及び航空事故調査学の分野にお いて、 その経験と実績をもってグローバルな評 価を享受し、 教育及び研究機関として多くの人 材を世界中に輩出しています。 SLJ (Sky Leisure Japan) スカイレジャー・ジャパンは毎年1回、 全国 各地で開催され、 航空スポーツの楽しさと安全 を一般市民に伝える行事です。 プログラムに飛 行が含まれているので、 構成団体という立場で 参加し、 取り組んでいます。 全国の自家用操縦 士が、 このイベントを通じて広範な交流と情報 交換を進めていくと期待しています。 注) 構成団体: 日本航空協会 全日本航空事業連合会 日本気球連盟 エクスペリメンタル航空機連盟 日本航空機操縦士協会 日本滑空協会 日本模型航空連盟 日本ハング・パラグライディング連盟 NPO 日本マイクロライト航空連盟 日本パラモーター協会 イベント構成 空に関するイベント 各種スカイスポーツ機による展示飛行 各種フライト 体験イベント スカイレジャーに関する体験型イベント 航空機地上展示 スカイレジャー機材の展示 航空スポーツ参加団体展示ブース 各団体の紹介 2009 SEP 5 小型航空機セーフティセミナー ビジネス航空の操縦士が中心となって、 毎年 開催されています。 小型機及びヘリコプター事 故の再発防止を目指し、 各種の講演が企画され、 適切な情報提供がなされているでしょう。 当然 ですが、 関係した操縦士の信頼関係は膨らんで いきます。 注) 小型航空機セーフティセミナーは、 今年で 7回目の開催となります。 平成20年度の内容 ・航空局基調講演 ・管制方式基準改正とその背景 ・ASI−NET (システムの必要性と活用の仕方) ・運輸安全委員会の紹介、 事故統計、 最近の 事故について ・事故より学ぶ (航空機メーカーからの事故 例とその対応:メーカーが推奨する事故防 止) ・航空局講演 ・実地試験について (操縦士としての資質) ・運航審査 (機長の評価の仕方) ・次世代航空機の操縦教育について ・航空機メーカーによる型式移行訓練におけ る教育の着眼点 (または訓練時の事故から の教訓) 平成21年度の内容につきましては、 着々と準 備が進められており、 11月頃、 ご案内させて頂 く予定です。 FTD (飛行訓練装置) 訓練 今年度、 使用機材をバージョンアップします。 サイド・バイ・サイドになった機材を使い、 マ ルチ・クルー・コンセプトに応じた訓練内容を 提供していきます。 60歳を過ぎた団塊の世代が、 教官要員として現在の方々とバトンタッチして いくことになります。 もしかして、 自家用操縦 士のフライト・レビューの研修を担当すること になるかもしれません。 6 2009 SEP 今期の課題となっている定期部門のイベント 機長養成講習会を通じた教育的な取り組みは、 将来の空域運用と航空機の運航システムなどに テーマを拡げ、 操縦士の期待に応える内容を提 供していきます。 現在の ATS シンポジウムや 航空気象シンポジウムなどの取組とのコラボレー ションが整えば、 大勢のエアライン・パイロッ トが楽しみに待っているイベントに発展する可 能性があります。 政策活動の一環となる航空関係者の認識の共有 委員会や懇談会など諸活動を定期的に開催す ることにより、 各組織の担当者が適宜意見交換 を行う事ができ、 操縦士の受け止め方がその後 の論議と方針に考慮されることを期待します。 組織の垣根を越えた対話を進めることが、 検討 段階での幅広い状況把握に繋がり、 徐々に縦割 り的な弊害を緩和できるような環境作りに貢献 したいと思うのですが。 公共の福祉 私見を思いつくままに述べてきましたが、 果 たしてこれらの事業は公益目的に合致している のでしょうか。 第三者はどのように受け止める のでしょう。 空の安全に資する事業であるから公益だ、 私 たちだけが訴えても仕方がありません。 操縦士 のボランティアが支えている私たちの活動を広 く知ってもらうことが大切です。 イベントを通 じて、 事業を PR し、 内部の信頼関係をより強 くしていきましょう。 健全な航空と安全な空を願う公共心を反映し た事業は、 きっと社会の期待に応えることに繋 がり共感を得ると信じます。 大勢の参加が、 公益社団法人の認定要件を整 えます。 皆様のご協力をお願い致します。 特集 (第27回) 私の思い出 −航空管制官、 航空大学校操縦教官、 試験官、 事故調査官の航跡− 井前 末夫 近影 少年時代の夢を実現 徳田:今日は遠いところをお越しいただきまし て、 有難うございました。 早速ですが、 パイロッ トを志した動機をお聞かせください。 井前:昭和7、 8年頃だったと思いますが、 私は 小学生でしたが、 家の近くに川内川という大きな 川がありまして、 そこへ水上機が展示飛行に来た のですよ。 それでね、 父親に連れていかれて木戸 銭を払って見にいったのです。 ローパスや離着水 をやったのを目の当たりにして、 ビックリしました。 やがて日華事変が始まって、 少年倶楽部とい う雑誌に渡洋爆撃や中国での空戦の話が載るよ うになって、 だんだんその気になって、“よー し、 将来はパイロットだ”という訳です。 徳田:まさに少年らしい夢を持たれた訳ですが、 何故、 逓信省航空局の乗員養成所本科生を選ば れたのですか。 大変難関だったと思いますが。 井前:当時は軍も民間も余り意識しませんでし た。 田舎ですしね。 民間養成所なのだと意識し たのは、 むしろ入所してからでした。 それで最 初に目にしたのが、 乗員養成所の募集で、 官費 でパイロットになれるというので応募したので す。 もしその時、 少年飛行兵の募集があれば、 それに行っていたかも知れません。 結果的に全 国で300名採用され、 鹿児島県で6名が合格し て、 私は17年4月に都城地方航空機乗員養成所 に入所したのです。 都城所長は菱沼大佐 徳田:本科生2期生といいますと、 1期生と同 様に3年編入という変則的な形でしたね。 井前:そうです。 この本科生制度は16年4月か ら始まり、 教育内容が、 それまでの操縦生制度 と違いました。 国民学校初等科6年を修了し、 満12歳以上の者が対象でしたから、 旧制2年修 了程度の私は暫定的に3年に編入されたのです。 徳田:都城養成所は17年4月開校でしたから、 2期本科生が最初でしたね。 井前:私たち2期生と4期生が最初です。 です から施設もお粗末なもので、 飛行機もありませ んでした。 半年後に12期操縦生60名が入所して きて、 初めて飛行機も来たような状態でした。 徳田:養成所時代の教育内容についてお尋ねし ます。 教育科目に英語が入っていますが、 これ は当時、 敵性語ではなかったのですか。 井前:一般にはそう言われていたようですけど、 “君たちは将来、 空の外交官になるのだから”と いう訳で、 習いました。 最初の1年間は普通学で、 2年目、 つまり4年生からグライダーをやりまし た。 プライマリーからセカンダリーまでやって、 操 縦適性検査があり、 操縦科と機関科に分かれま した。 運良く操縦科に選ばれ、 18年10月から95 式3型初練の訓練に入りました。 この時点でも、 操縦適性でふるいにかけられて、 機関科へいっ た者もいます。 それで中練 (95式1型 「赤とん ぼ」) をやったのですが、 途中で米子に集まって、 そこでソアラーをやり、 仕上げをやりました。 徳田:卒業時に与えられた資格をお教え下さい。 井前:2等操縦士と2等航空士、 それから2級 滑空士です。 徳田:ところで話は変わりますが、 都城といい ますと、 菱沼一大佐が所長でしたね。 2009 SEP 7 井前:そうです。 菱沼さんについ ては、 親子三代 に亘って知って います。 所長の 息子さんの俊雄 さんは士官学校 から戦後、 日航 へお入りになり ました。 それで、 養成所時代の井前氏 戦後、 私が航大 の教頭をしているときに、 その息子さんの洋さ ん (現・日航機長) が航大に来たのです。 航大 には、 お父さんの敏雄さんと一緒に見えられた ことを覚えています。 徳田:親子三代にわたってパイロットというの は珍しいですが、 不思議なご縁でしたね。 古河の事件 徳田:米子の後に古河に行かれたのですね。 井前:米子から古河高等航空機乗員養成所で双 発高練をやりました。 ここで1等操縦士資格を 取るのです。 20年6月に卒業、 米子時代に陸軍 予備生徒に編入されていましたので、 全員直ち に陸軍予備候補生として、 陸軍航空輸送隊に配 属されたのです。 私は太田の第2飛行隊に配属 されました。 20名ほどのパイロットがいました が、 初仕事は、 米子にあった特攻機に改造した 95式1型の関東特攻基地への空輸でした。 中に は所沢へ行ったあと、 すぐ特攻要員として前橋 で特攻訓練をやった同期生もいます。 幸い8月 15日に終戦になり、 出撃しませんでした。 徳田:古河時代は終戦直前の落ち着かない時期 で、 いろいろな問題があったように聞いていますが。 井前:当時の古河の校風は良いとはいえません でした。 それで、 ある同期が夜、 脱柵事件を起 こしたのです。 それで家に帰ってしまったとこ ろ、 養成所に連れ戻されたのです。 われわれは 寛大な処分を望んだのですが、 その時の所長は 厳しい人で、 すぐ退所処分にしました。 怒った 同期生100名位が、 夜、 無断で養成所を出発、 8 2009 SEP 養成所時代の95式3型初練と共に 東京大手町にある航空局に直訴するために上京 したのです。 結局、 直訴は失敗して、 あらため て日時を決めて東京で合流しようと話が纏まり、 私は鹿児島へ帰りました。 親に本当のことが言える訳がありません。 近 所の人々は、 皆、 そろそろ特攻へでも行かされ る前の休暇ではないか、 などと噂していました。 そうこうしている内に、 古河から 「29ヒヨルト ウボウ ミキカン スグカエレ」 と電報が舞い 込んだのです。 警察も来まして、 帰らなければ 逮捕すると言いますので、 シブシブ帰ったので す。 ところが、 ほとんどの生徒が帰っており、 私は里が遠いこともあり、 2週間後くらいに帰 りました。 それで退所処分の次に重い重謹慎処 分を受けたのです。 これが、 いわゆる 「古河の 2・26事件」 といわれるものです。 徳田:まさに終戦直前の日本の姿の一端を見て いるようです。 井前:この話は続きがありまして、 この時、 生 徒に同情的だった川田幸秋さん (戦後、 航空局 乗員課首席試験官) ら6名の教官が休職、 即、 召集になってしまいました。 生徒の方は13名が 退所処分になり、 8名が満州での飛行学校入隊 を命じられて、 富山の伏木港から船で渡満した のです。 ところが敵潜水艦の餌食になって沈没 し、 7名が亡くなりました。 奇しくも助かった 榊博 (旧姓・花田) 君が帰ってきたので、 事情 が判ったのです。 徳田:大変な話を有難うございました。 当時の 緊迫した状態が伝わってきます。 逓信省航空保安部に就職 徳田:終戦直後のことについてお話し下さい。 井前:我々は輸送部隊でしたから、 終戦直後の 一触即発のような空気はありませんでした。 9 月の初めに19歳で鹿児島の川内へ復員しました。 地元の九州電力川内火力発電所に勤めていまし たが、 22年春ごろ、 野村寛一さん (米子9期、 都城助教) から手紙を貰ったのが縁で、 逓信省 航空保安部に籍を置くようになりました。 私の 長い公務員生活の始まりです。 22年5月10日付 で“逓信省航空保安部大分支所技術員”という 辞令をもらいまして、 各地を転々としました。 最初は大分支所に勤めました。 仕事内容は、 通 信士が受信するデータから天気図を作製し、 雁 の巣飛行場から飛来する米軍パイロットに、 気 象情報を提供したり、 飛行場の維持管理でした。 それから半年ほどして、 板付支所大村出張所 へ移りました。 そこには広田広康さん (印旛10 期、 後、 航空局首席試験官) が所長で、 2人で やりました。 24年6月からは福岡事務所の野母 崎出張所長で、 米軍が 400m くらいの小山の頂 上に設置していたレーダー基地が仕事場でした。 これは米ソ冷戦に対応するもので、 レーダー基 地の保守管理のため、 毎日、 地元から3キロの 道を通いました。 雨が降ると道がぬかるんで、 足元が大変でした。 最初は言葉が分からず困り ましたが、 慣れてくると隊長の大尉どのから 「カミカゼ、 カミカゼ」 と言われながら、 なん とか愉しくやりました。 航空管制官1期生18名、 前列は教官、 中央が大庭哲 夫長官、 後列右から5番目が井前末夫氏 それから1年後に同じ福岡事務所の西戸崎出 張所、 26年10月の講和条約発効に先立って民間 航空が再開され、 福岡保安事務所航務課へと転 勤になったのです。 徳田:米軍の監視下での仕事上で、 問題は起こ りませんでしたか。 井前:英語で不自由しましたが、 福岡航空保安 事務所航務課勤務のときに、 ゲイトパスを取り 上げられました。 当時は、 レッド・パージ、 つまり米軍による 共産党員排斥運動が徹底していましたから、 そ れが理由だと思いますが、 ハッキリしたことは 分からずじまいです。 徳田:大変な時代だったのですね。 航空管制官への道 徳田:井前さんは27年2月から航空管制官への 道に進んでおられますね。 井前:これは講和条約が発効して、 日本もいよ いよ民間航空が再開され、 航空管制官も自主運 用の時代だというので、 当時の航空庁に温存さ れていたパイロットの中から選ばれたのです。 平本久男 (仙台2期)、 世継尚 (米子5期)、 園 山鋭一 (米子4期)、 麻生幸平 (仙台7期)、 平 野公英 (本科1期)、 倉田芳二 (本科1期) と いった方々で、 通信士4名を入れて18名が採用 されました。 前の年に米留された泉靖二さん (米子2期)、 小暮右太郎さん (仙台4期)、 杉 浦弘さん (気象庁出身)、 西郡徹次 (古河助教) さんの4人が教官で、 英語と格闘しながら、 な んとか4ヶ月間の短期訓練を修了しました。 この制度は3期生までが庁内採用で、 28年度 からは学卒者を対象に、 人事院が管制上級職と して採用するようになりました。 御存知のよう に、 46年からは航空保安大学校が設置されまし た。 管制1期の元パイロットたち14名は、 その 後、 パイロットの道 (日航7名、 全日空6名、 航大1名) を進んでいます。 徳田:井前さんは30年4月に、 創立間もない宮 崎の航空大学校へ行かれたようですが、 管制官 は続けられたのですか。 2009 SEP 9 井前:そうです。 本科生10名、 専修科8名、 訓 練機は KAT1 機、 双発ビーチクラフト D18 型 機で、 多分、 日本一小さい大学校だったと思い ます。 私は飛行機免許を持っていませんから、 航大での担当は、 航空管制論で、 同時に実際の 航空管制を兼任しました。 この間、 同期の野原 国治君から、 日航受験の誘いがありましたが、 300時間ほどの飛行経験しかありませんし、“そ の内、 航空局にいても飛行機に乗れるだろう” と思って、 日航へは応募しませんでした。 それで、 再び航空管制官の米留の話が舞い込 んだのです。 米国の現場でジックリ、 航空管制 施設の視察、 研修をしてこいという訳です。 32 年6月から8ヶ月間余に亘って米留しました。 同級生は日本人4名をはじめ、 韓国、 タイ、 ト ルコ、 スペイン、 キューバ、 コロンビア、 チリ の8カ国、 20数名でした。 ワシントン DC、 オ クラホマと移動し、 西海岸のオークランド空港 で OJT をやり、 ジュニア・コントローラー資 格を取得しました。 すでに管制官として日本で の下地が出来ていましたから、 そんなに苦労し ませんでした。 33年3月に帰国しました。 航大の操縦教官時代 徳田:この後、 再び航大へお帰りになった? 井前:9ヶ月ぶりに航大へ帰りましたが、 随分 変わっていましたね。 戦前のパイロット経験者 を対象にした専修科は7期生で終わり、 学生数 は33年度から30名に増員していました。 徳田:そこで戦後初めて操縦桿を握られたので すか? 井前:いえ、 そうではありません。 最初、 航大 へ行ったとき、 管制官をやりながら、 学生の夏 休みを利用して操縦訓練を受けて事業用をとっ たのです。 ですから戦後初の操縦は30年夏でし た。 33年4月からは教官訓練、 そして操縦教育 証明を取得して、 34年10月に入校した第6回後 期生を受け持ちました。 当時の訓練内容は、 先ず尾輪式のパイパー・ スーパーカブで離着陸、 空中操作、 編隊、 基本 航法をやりました。 後半は KAT 機による計器 飛行です。 2年目に入って訓練機は、 ビーチク ラフト D18S 型機で、 われわれが古河で習った 双発高練と同程度であり、 しかも後に前輪式に なったので、 離着陸が大変易しくなりました。 これで計器飛行方式による航法訓練をやったの です。 37年4月には助教授、 それから間もなく 定期の技能証明もとりました。 訓練以外では、 県の要請などを受けて、 えび の高原の遭難者への食料投下、 NHK テレビ放 映の協力、 遭難漁船の捜索もやりました。 航大 の地元対策だったのでしょう。 それから映画撮 影のため、 太平洋のかつぎ屋 という映画で、 小林旭の代役をやって、 橋の上を低空で飛んだ り、 編隊で日南海岸上空を飛んだりしたことも あります。 浅丘るり子が恋人役でしたよ。 それで41年9月、 11回後期生を卒業させ、 13 回後期生の主任教官として担任中、 42年8月に 航空局乗員課に勤務することになりました。 結 局、 航大には12年間在籍していました。 航空従事者試験官の苦労 航空大学校開校時の宮崎空港 10 2009 SEP 徳田:航空局乗員課での試験官の約14年間の苦 労話をお聞かせください。 井前:いろいろな型の小型機に乗れたのはいいの ですが、 42年9月といいますと、 関東地方では 物凄くスモッグが多かった上、 滑走路が桶川に しろ、 龍ヶ崎、 大利根、 館林など、 600×20m の飛行場で離着陸には苦労しました。 視界不良 に加え、 なにしろ滑走路の幅が狭いものだから、 着陸するときなど、 すぐ側に小型機が駐機してい るのです。 試験官になりたてのころ、 例えばセス ナ150型の試験では、 狭いコックピットですか ら、 すぐ左の受験者は緊張していますし、 ひっ つくようにして座っている私も緊張しましたね。 徳田:使用事業免許では、 受験生は千差万別だっ たと思いますが。 井前:これはですね、 よく訓練を担当している 教官に言いました。 相当のレベルになるまで試 験を受けさせてくれるなと言うのですよ。 教官 によっては、 口述にしろ実地にしろ、 試験官が いろいろとコツを教えてくれるから、 というの で中途半端な技量で出してくる。 それで不合格 になっても、 次に合格すればよいという考えで すね。 しかし、 試験官としても不合格にするの は気持ちの良いものではありません。 それで仕 事に慣れると共に、 よく教官と話し合って、 そ んなにひどい受験者はいませんでした。 徳田:航空三社 (注:日航、 全日空、 JAS) を はじめ、 使用事業、 自家用と、 いろいろ試験を されて、 それぞれの違いなどがあると思いますが。 井前:受験生は別ですが、 どこに行っても教官 やカンパニー試験官など、 先輩、 同輩、 後輩と いった繋がりがありますし、 機種の差はあって も、 そういう意味で、 そんなに大きな差を感じ たことはありません。 徳田:航空従事者試験官というのは、 小型機か らジャンボまで、 勉強も大変だと思いますが。 井前:48年3月に日航で DC-8 型の限定をとり ました。 3ヶ月間の学科、 30数時間のシミュレー ターをやりました。 ビーチから直接ジェットで すから、 舵の重さ、 不安定性等が大変で、 難し い飛行機だと思いましたね。 6回後期の那須煌 教官には大変お世話になり、 感謝しています。 それから6年間のモーゼズレイク通いが始まっ たのです。 先ほどの話しではありませんが、 幸 いに所長が同期の古旗秀夫君だったので、 いろ いろな面で世話になったし、 助かりましたね。 徳田:その後、 ロッキードのトライスター1011 型、 次にジャンボもおやりになっていますね。 井前:48年10月からトライスターをやりました。 全日空の第一次要員と共に、 カリフォルニア州 パームデールで訓練を受けました。 二次要員と して同期だった有働武俊君、 文谷辰生君、 河合 長作君が来て、 ホテルで一緒に勉強したもので す。 第三世代機のトライスターは非常にとっつ きが良く、 操縦輪が軽く実機訓練は3回ほどで 終 わ り ま し た 。 DC-8 と 違 っ て 、 Final Approach では5∼7度くらいの Pitch Up でき ますから着陸も楽でしたね。 それから約2年間 はトライスターの試験に張り付いていました。 51年秋からはジャンボの限定変更訓練に入っ たのです。 途中、 目を悪くして訓練を中断しま したが、 52年6月に資格をとりました。 これで ダグラス、 ロッキード、 ボーイングのジェット 輸送機の限定変更を取得したことになります。 結局、 14年間の試験官在任中、 自家用から事業 用、 定期と約1,000回余の試験を担当しました。 徳田:さすがに大変な人数ですね。 再び航空大学校へ赴任 徳田:56年6月から航空大学校の教頭として赴 任されていますね。 井前:試験官という長年の第一線から退いて、 宮崎へ行きました。 教頭職は訓練を担当しませ んが、 航大は様変わりしていましたね。 校舎は 宮崎空港ターミナルの反対側に移転し、 三階建 ての校舎、 体育館、 プール、 運航管理塔、 スプ リンクラー付格納庫、 学生寮等が完備されてい ましたね。 学生数も135名に増え、 前期、 中期、 後期と3回に分かれて入学し、 帯広と仙台に分 校が設けられていました。 徳田:教育内容の流れをお教えください。 井前:当時は宮崎本校で1年間の座学、 帯広分 校で FA200 による自家用4ヶ月間、 本校へ帰っ てビーチクラフト E33 で事業用が8ヶ月間、 仙台分校で双発のビーチクラフト B55 で計器 飛行証明取得に8ヶ月間でした。 計2年8ヶ月 間ですね。 この頃の教官も多彩で、 乗員養成所 出身者以外には、 航大卒業生、 それに自衛隊か らの転入者と、 若返っていました。 但し、 航空業界の不況で、 定期航空会社や調 布や八尾の使用事業会社まで出向いて就職の依 2009 SEP 11 頼をした思い出があります。 時代が変わって、 平成13年4月から行政改革によって航大は特殊 法人になりましたが。 徳田:独立行政法人となって以来、 基本的な流 れは変わりませんが、 期間は2年間とスリム化 していますね。 有難うございました。 不眠不休で事故報告書を作成 徳田:航大の後、 本庁で首席事故調査官をおや りになっていますね。 組織と仕事内容について お聞かせください。 井前:正確には航空事故調査委員会事務局首席 事故調査官といいます。 58年4月からこの仕事 に就きました。 委員会は委員長以下委員5名、 事務局長、 総 務課5∼6名、 事故調査官10名内外で組織は構 成されていました。 事故調査官の顔ぶれは、 操 縦、 検査、 管制、 運航、 無線、 医官 (航空自衛 隊から併任) 等の専門職で、 ほとんどが航空局 からの出向です。 航空事故というのは時と場所 を問わないので、 いわゆる危機管理対策として 24時間ポケベルを携帯していました。 徳田:常時ポケベルというのは厳しいですね。 事務局の仕事内容は如何なものでしたか。 井前:年間10件ぐらいの航空事故が発生してい ましたが、 我々の仕事というのは、 集まってき た資料を元に、 同種の航空事故防止を含めた航 空事故調査報告書を作成することでした。 これ を先ず運輸大臣に報告し、 その後、 公表するこ とが義務付けられていました。 専門用語が多い ものですから、 なかなか解説するのに苦労した ものです。 それに司法当局がこの報告書を鑑定 書として使うこともありましたから、 マスコミ、 警察、 国会関係等、 関係各方面との折衝も、 大 変気を使いました。 徳田:60年8月12日の日航の御巣鷹山事故のと きは、 丁度、 その火中におられたのですね。 井前:そうです。 私は夏休みで家におり、 夕食 後のテレビで初めて知ったのです。 直後に役所 から連絡が入り、 飛んで行きました。 全職員が 出てきましたが、 最初、 事故現場が特定できま 12 2009 SEP せんでした。 対応の仕様がないから、 その晩は 役所に泊まったのです。 それで次の朝早く、 群 馬県御巣鷹山だということが分かって、 航空自 衛隊の入間基地に行ってヘリで現場に急行しま した。 すでに陸上自衛隊や報道のヘリが現場上 空にいましたが、 最初に視界に入ったのは、 「JAL」 とペイントされた片翼が見えるだけで、 後は何も見えませんでした。 近くの村役場に設置された事故対策本部に合 流して、 いろいろな打ち合わせなどをやりなが ら、 事故調査が始まったのです。 事故調査官は 現場に張り付いていますから、 彼らの身の回り の準備とか宿舎の手配などをやり、 パトカーに 先導されて委員長と共に高崎駅へ行って帰って きました。 あと数回現場へ行きましたが、 我々 のやる事は先ほども言いましたように、 上がっ てくる諸々の専門的な調査資料を纏める仕事で すから、 これを土、 日曜返上で2ヶ月間ほどや りました。 しかも、 役所の週末のクーラーのな い所で、 汗だくになりながら真夜中までやりま した。 今でもよく体がもったと思っています。 それで、 いよいよ最終の報告書が出来上がり、 公表の直前の62年3月に定年退職になりました。 徳田:聞いているだけで、 大変だったことが伝 わってきます。 本当にお疲れ様でした。 乗員養成所出身者との絆 徳田:長いパイロット人生で、 飛行中のトラブ ルとか、 ヒヤリハットのご経験はございますか。 井前:航大時代に、 一回だけ双発機で1発エン ジンをフェザーにして降りたことがあれますが、 その他については、 幸いにありませんでした。 徳田:珍しいことですね。 今までお伺いしてい ますと、 戦後、 乗員養成所出身者の方々と共に 歩まれた感を強くしますが。 井前:まさにその通りです。 最初に野村寛一さ んからの勧誘による逓信省航空保安部の仕事か ら始まって、 航空管制官、 航大、 そして試験官、 調査官と、 いつもかつての仲間が周囲にいて、 大変心強く嬉しいことでした。 パイロットは私 の天職だったと思っています。 叙勲時の井前氏御夫妻と桜庭氏御夫妻 (右) 徳田:とくに思い出に残る人はございますか。 井前:竹田 (旧姓・園田) 静雄 (松戸中央1期) さんです。 都城乗員養成所の教官をやっておら れましたが、 戦後は試験官、 航大教官、 それか ら東亜国内航空で YS-11 型の教官と、 5、 6 年前にお亡くなりになるまでの50数年間お世話 になりました。 私がもっとも影響を受けた人で す。 都城出身者が集まって、 竹田さんを囲んで、 よく親睦会をやったものです。 徳田:航大の教え子との思い出はございますか。 井前:いろいろと有りますが、 私が航大で最初 に担当した6回後期の5人の思い出は強いです ね。 彼ら全員がハッピー・リタイアし、 日航の 川瀬晃二、 堺谷幸夫、 坂巻忠男君の3人と全日 空の青山洋二、 岡崎正博君の2人が私を招待し て、 航大を訪問したことはとくに嬉しく、 素晴 らしい思い出として残っています。 徳田:最後になりましたが、 後輩パイロットへ のアドバイスをお願いします。 井前:私の経験から、 「継続は力なり」 と 「基 本に忠実であること」 でしょうか。 経験の継続 による技量の積み重ねが重要ということです。 飛行機は理屈では操縦できませんし、 初心者は 勿論のこと、 どんなにベテランになっても、 基 本に忠実であって初めて長持ちすると思います。 徳田:金言だと思います。 今日は長い間、 有難 うございました。 井前末夫氏略歴 大正15年4月23日 鹿児島県川内市生 昭和17年4月 都城航空機乗員養成所入所・2期本科生 昭和19年9月 昭和20年6月 昭和20年7月 昭和20年9月 昭和22年5月 昭和28年4月 昭和30年4月 昭和37年4月 昭和42年8月 昭和55年3月 昭和55年7月 昭和56年6月 昭和58年4月 昭和62年3月 昭和62年4月 平成6年4月 平成13年4月 米子航空機乗員養成所卒 古河高等航空機乗員養成所卒 陸軍航空輸送部第2飛行隊所属 復員 逓信省航空保安部大分支所 航空局技術部航務課管制官 航空大学校講師 航空大学校助教授 航空局技術部乗員課航空従事者試験官 東京航空局保安部先任航空従事者試験官 航空局乗員課首席航空従事者試験管 航空大学校教頭 航空事故調査委員会首席航空事故調査官 定年退職 日本航空協会参与 日本航空協会退職 勲三等瑞宝章叙勲 乗務機種 (戦前) グライダー (プライマリー、 セカンダリー、 ソアラー) 95式3型、 95式1型、 99式 双練、 99式高練 飛行時間300時間 (戦後・主な機種) 双発ビーチ D18S、 E-18、 H-18、 パイパー・スーパーカブ (尾輪 式 ) 、 川 崎 KAT-1 、 T-34 、 富 士 KM-1 、 セスナ150 & 172 、 パイパー PA28、 富士 FA200、 川崎 KH-4 ヘリ、 DC-8、 L-1011、 B747 飛行時間 13,700時間 総計約14,000時間 取材を終えて:井前さんには、 5月中旬の昼 下がり、 埼玉県新座市の御自宅から、 遠路、 御高齢をいとわず操縦士協会にお出でいただ いた。 見るからに御壮健で、 聞くところによ ると、 毎日、 最低2時間はウォーキングをやっ ておられるという。 そして、 我々エアライン の人間だった者から見れば、 行政官として大 変起伏に富んだ興味ある現役生活を、 とても 八十路を過ぎた人とは思えないペースで、 滔々 と語られる姿に圧倒されどうしだった。 心か らお礼申し上げます。 徳 田 2009 SEP 13 「ハートで飛ばそう!」 Fly with Airmanship ! 3 運航技術委員会 山 博行 ・運航技術委員会では、 前号に引き続き操縦技術や経験の伝承というコンセプトで、 操縦の技量向 上につながる考え方や、 ヒントのようなものをまとめてみました。 …………………………………………………………………………………………………………………… 今回は 「安全」 というテーマで始めてみよう と思います。 私が DC10 の副操縦士から機長に昇格したと き、 機長に昇格できたことはうれしい反面、 底抜けに喜ぶことは出来ませんでした。 それは“これから20年もの間、 こんな大きな 機材とお客様の命を預かって無事故、 無違反 ですごせるだろうか”という不安からでした。 【安全とは何か?】 リスク (Risk) という言葉は以前は現在ほ ど頻繁には使われていませんでした。 またそ の訳語もいまだに 「危険」 と訳されています が、 これだけでは英語の持つ意味を正確にあ らわしていません。 この言葉は確率の概念を 含んだ 「危険性」 あるいは 「不確実性」 を意 味しているのですが、 英和辞典にはいまだに 十分に正確な意味が記されていないのが現実 です。 この事からも、 そもそも日本人には確率まで 考慮した危険性の概念が無かったのではない かと思われます。 比較して、 多分に情緒的で安全性を科学的な 言葉で表現してこなかったうえ、 合理主義の 国アメリカが開発した安全科学にくっついて、 リスクという言葉が直輸入されたのでしょう。 日本人には安全性をあらわすのに 「あぶない」 と 「だいじょうぶ」 という2種類の言い方し かないようです。 さらに言えば、 ある対象が 「恐い」 か 「安心」 かで、 安全性の価値判断 をする人が大多数のようです。 ちなみに Webster の英英辞書には、“exposure to possible loss or injury”とあり、 possible (=可能性がある) という確率を含 んだ言葉がつけ加えられています。 最近では金融や医療の分野などで頻繁に 「リ スク」 という言葉が、 失敗した場合の抜け道 を確保するための方便に多用されるようになっ てきている気がします。 −リスクとは ・ 危険率と 訳せたり− 【航空機の安全性】 移動するのに“絶対に飛行機に乗らない”と 日本人は 「危ないことはやらない」 でおしま いですが、 欧米人に言わせれば 「リスクを取 らなければ何もできない」 という国民性の違 いがあるように思います。 日本人は欧米人と 14 2009 SEP いう有名人の話を耳にします。 こういう人たちはなぜ飛行機に乗りたがらな いのでしょうか? “空を飛ぶものは必ず墜 ちる”とか“あんな鉄のかたまりが空を飛ぶ のはおかしい”とか、 彼ら (彼女ら) なりの 理由づけはあるのですが、 我々パイロットに とっては多分に情緒的な言いぶんに聞こえま す。 事故統計でも他の交通機関に比べてダントツ に死亡事故率の低い乗り物だと説明しても、 彼らを納得させられません。 視聴者をテレビにくぎ付けにしたいためなの か、 これでもかこれでもかと言わんばかりに 航空機事故や異常運航の映像が繰り返し放映 されるメディアの風潮が影響しているのかも しれません。 いったいマスコミは視聴者を恐がらせること で、 我々に安全にいっそう励むよう、 お灸を すえているつもりなのでしょうか。 らずして、 心を広く真っ直ぐにして、 きつく ひっぱらず、 少しもたるまず、 …中略…心を 静かにゆるがせて、 そのゆるぎのせつなも、 ゆるぎやまぬように、 よくよく吟味せよ」 緊張しすぎも弛緩しすぎもダメ。 よくよく自 分の精神状態を点検せよという意味かと思え ます。 体系だった心理学の無い時代に、 よくよく自 分の心の有り様が パフォーマンスを 発揮できる条件と 重要視していたわ けです。 現在では心理学 や人間工学などが ずいぶん発達して、 人間の能力の最大 限の発揮法や限界 の研究はかなり進 んでいます。 【安全記録】 しかしながら、 航空機事故が根絶していなこ とも認めざるをえません。 宮本武蔵は戦国末期から江戸時代初期に活躍 した剣豪で、 生涯において60回以上も命懸け の試合をして、 イチローや白鳳も仰天しそう な60戦全勝無敗で討ち死にすることなく天寿 を全うした人です。 その武蔵が60歳のころ、 熊本の金峰山の絶壁 れいがんどう ごりんのしょ にある霊厳洞 という洞窟にこもり、 「五輪書」 という兵法書を著しました。 兵法者とパイロットには 「Survival」 (生き 抜く) という視点で共通項があり、 参考にな る点も多いので、 例を引きながら話をすすめ ます。 生きのこり −Survival 心技体− 【安全理論】 SHELモデ ル 、 お な じ み の CRM 。 最 近 で は Complacency (慢心)、 Threat (脅威) など英語の 直訳では意味のわからない安全理論が次から つぎに輸入されて、 少々へきえきしているの は私だけでしょうか? ハインリッヒの法則に始まって、 −安全理論 フライトの心 その五輪書の水の巻に 宮本武蔵も ヨコ文字ばかりで ちんぷんかん− 「兵法者の心持ちのこ と」 と題して、 「兵法の道において、 心の持ちようは、 常の 心にかわることなかれ」 と前号でふれた 「平 常心」 について述べられています。 つづいて、 「常にも (日常においても) 、 兵 法においても (臨戦においても) 少しも変わ ここで、 もう古典的と言ってもいいくらい古 くなってしまいましたが、 筆者の信奉する座 右の安全理論をご紹介しましょう。 作家の柳田邦夫さんは、 もともとは NHK の 記者をされていたのですが、 昭和40年代に航 2009 SEP 15 空機事故が続き、 新聞各紙が決まり文句のよ うに“パイロット・ミスか? 整備ミスか?” と心ない見出しにかかげていた時代に、 始め て科学的に航空事故を取材して 「マッハの恐 怖」 という本を出版されました。 この本は、 航空工学の専門家ではないジャー ナリストが専門家も納得できる精緻な科学的 著述をした初めての作品です。 我々パイロットもその精密な筆致に驚嘆した ものです。 柳田さんは、 この作品でノンフィクションの 大宅壮一賞を受賞され、 作家としての道を歩 まれることになったのですが、 この時代、 我々 航空人が崇敬できる初めてのジャーナリスト といってもいいでしょう。 その柳田さんが“フェイズ3の目”という著 作の中の 「大脳整理学のすすめ」 の中で、 人 間の意識レベル (精神状態) を5段階に分け て捉える理論を紹介されています。 その表は 次のようなものです。 意識レベルの5段階 Phase 意識の状態 注意力・判断力 0 睡眠、 失神 ゼロ 1 ぼんやり、 疲れ切る、 退屈、 居眠り状態、 酒酔い 注意力はほとんど働 いていない。 信頼性 は低い。 2 普通の生活時、 定例 作業時、 リラックス 時 特別なことに注意を 向けていない。 予測 や創造的活動の能力 は発揮されない。 3 精神活動が活発、 意 識は明快・機敏 注意力が最もよくは たらき、 目配りの幅 が広く、 総合的判断 ができる。 適度な緊 張で、 作業効率がよ い。 4 興奮、 慌て、 驚愕、 パニック 一点集中、 ほかのも のが目に入らず、 判 断停止。 信頼性は1 と同様非常に低い。 この表の Phase からすると、 16 2009 SEP フェイズ −あわてずに Phase 3 の 目をさませ− 【パイロットの Decision Making】 読者のみなさんはフライト中、 【フェイズ3の目】 ク状態、 Phase 2 はへたをすると、 Phase 1 の Complacency (慢心) におちいります。 そして最も望ましいものが、 もちろん Phase 3 であることは間違いありません。 しかし、 人間の能力の限界でこの状態がせい ぜい30分しか続かないことはよくご存じのこ とでしょう。 したがって、 パイロットはそのフライトの Operation 中、 注意力の配分のバランスを常 に考えながらフライトを遂行することになる わけです。 Phase 4 はパニッ 我々が1フラ イト (1 Mission) で大小ふくめて、 いった い何個の Decision Making (D/M) をして いるか数えたことがありますか? あるいは 想像したことがありますか? パイロットでなくても、 日常生活においても、 眠っている以外であれば1時間の間にだって、 何百いや何千の数の D/M をしているはずで す。 例えば路上で正面から歩行者が、 右へよけた 方がよいか、 あるいは左がよいか、 どちらに メリットがあるか、 障害物がないか、 相手が どのタイミングでよけるきっかけをつくるか、 などなど…次の説明の Risk の円の中に入る 前にさまざまな D/M しているのです。 みなさんはこんな経験はありませんか? 飛行機の運航において、 Taxiing 中であれば 停止することもできますが、 飛行中となると Operation のスムーズな流れを断ち切って Holding するなど以外には、 立ち止まるこ とが出来ません。 つまりパイロットは常に先 のことを考え、 フライトの流れを乱さないよ う、 手遅れになる前に D/M を下さなければ ならないというプレッシャーにさらされてい るわけです。 も抜けることなく糸で結びつけていけば Op- 【リスクの円と危険の円】 eration は完遂します。 しかしその図式でい けば、 点が一個でも抜けると、 あるいはその 糸が切れると、 Operation は完成しません。 この図は私たちが、 フライト中リスクを意識 しつつフライトを遂行している図と考えてく ださい。 インベーダーゲームのキャラクターはフライ トの安全をおびやかす危険因子です。 これらの大小の危険因子が、 リスクの円のそ とにあり、 関係ないと思われるときはパイロッ トの意識レベルは Phase 2 でもかまいません。 しかし危険因子がリスクの円の中に入ってき た場合は少なくとも安全性そのものをおびや かす 「危険の円」 に入る前までに Phase 3 の意識レベルでもって、 すばやく問題を解決 するなり回避するなりしなければなりません。 しかも危険の円に入ってしまった場合、 時間 的余裕がないので、 パイロットが Phase 4 のパニック状態になる可能性があり、 絶対に このエリアに入ってこないよう努めなければ いけません。 パイロットが安全性を確保しつつフライトを 遂行するということは、 この図のイメージの ように危険因子に対して適切なマージンを確 保しつつ、 余裕をもって判断をし続けるとい うことなのです。 リスク おおぶね −Risk因子 早めにつぶせば 大船気分− 【点と線・リダンダンシー】 マニュアルに書いてある一連の Procedure はいわば点の集合体です。 それらの点を一個 一つでも抜けると成り立たないようでは、 Operation に リ ダ ン ダ ン シ ー (Redundancy) が無いわけで、 極めて危ういフライ トと言わざるをえません。 また、 航空機の周囲の状況が、 マニュアルの 前提となっている“標準的”であるとはかぎ りませんから、 標準的でない状況ではマニュ アルどおり遂行できない場合もあるでしょう。 つまり、 マニュアルの文言に一言一句たがわ ず20年にわたって Operation することだけ では安全記録は全うできないであろう。 とするならば、 状況把握とともに、 航空機の 持つ飛行特性と性能を良く理解して、 飛行状 況に応じて適切なマージンを確保しつつ、 心 の余裕を保ちながら飛ぶしか安全記録を全う する方法は無いのではないか?と機長になっ たとき私は考えました。 操縦の心 実際のフライトにおいてどのように 「適切な マージン」 を確保しながらどのようにフライ トをしてゆけばよいでしょうか。 パイロットの心の余裕については前述のとお りですが、 飛行機のハンドリングにおける余 裕については飛行特性と性能の余裕を熟知し ていなければなりません。 言いかえると適切な量のマージンを決めるに はパイロットの見識が必要です。 パイロットは操縦にあたって、 次々と変化す るそれぞれの場面で、 その航空機の性能の 「余裕」 を常に勘案しながら Operation をし ていく必要があります。 2009 SEP 17 しかも航空機が基本的に 「止まれない」 乗り 物である以上、“ゆっくり考えてから”とい うことが許されない場合が多いものです。 ここで、 即座に良質な判断を下すには、 記憶 しているだけの知識では役に立たず、 何がど れくらい大事かを理解している 「価値観」 に までに進化したものでなければなりません。 ベテラン (Veteran) とは、 経験を持ってい るというだけではなく、 つちかわれた価値観 (評価基準) をも持っている人をいうもので す。 きな力のかかっているこの Maneuver につ いて正しく理解することが必要だと思います。 Towing Cart が重い機体を押しているとき、 Nose Gear と Towing Bar の間にはとてつ もない大きな力がかかっているし、 万が一そ れが外れでもしたらけが人どころではすまな い話なのです。 今回はエアラインの Operation のなかで、 出発から Taxiing までについて考察してみ たいと思います。 例えば 【Push Back∼Engine Start】 過去この Flight Phase においてさまざまな トラブルが起こっています。 即座に思いつくだけでも、 ・ま だ Push Back 中 に も か か わ ら ず Brake Pedal を踏んでしまって、 Tow Bar がたわ んで外れてしまった。 ・地上整備員との連絡不確実によって、 Chock を乗り上げて Taxi を開始しようとした。 ・まだ整備員が機側にまだいるにもかかわらず Engine をふかして Taxi out しようとした。 ・Thrust Lever が完全に Idle Position にない にもかかわらず、 Engine を Start して過大 な Thrust で Chock を乗り上げてしまった。 ・Parking Brake をセットしたつもりが、 機 体が動き出してしまった。 等々光景を想像するだけでも総髪さか立つ思 いです。 これらのトラブルはさまざまな形で繰り返し 起こっていることを考えると、 「確実な操作 の励行」 を連呼するだけでは防ぎ得ないとい うことがわかります。 我々パイロットはもっと飛行機にとっては大 18 2009 SEP Towing Cart が重量600,000 lbs の B777 を 0.1G (0.98m/sec2) で押し出したと しますと、 60,000 lbs の慣性力と Wheel が 動き出す際の摩擦力、 ざっと270トン以上の 力が Towing Bar にかかっていることにな ります。 【Monitor が大事】 この Block out から Engine Start のあたり は ATC, Cabin, Ground Crew との連絡, Weight & Balance の確認, Engine Start の準備の Procedure など、 Task が集中し両 パイロットが忙殺される Flight Phase です。 よく見られるのは、 不確実な用語によって連 絡のやり直し、 過剰なしゃべりによる Communication と 思 考 の ブ ロ ッ ク 。 結 果 的 に Monitor が不足してしまいます。 Push Back 中に長々とした Takeoff Briefing の 「 つ づ き 」 や FMC に Load さ れ た SID の儀式的確認などをはじめるケースな どが見られます。 繰り返すようですが、 この 場面では機体や地上機材にたいへん大きな力 がかかった Maneuver であることを忘れて はなりません。 「儀式」 に熱中するあまり、 みずからを忙し くさせて、 周囲の観察に目が行き届かず、 重 Engine が Spool Up すると、 Idle Thrust で Towing Bar はさらに 2,000lbs (MD90) ∼5,000lbs (B777) の力が加わります。 これだけの力が前向きにかかっているのです から、 Parking Brake の操作の中途半端は 許されません。 私は何度でも、 自分に言いき かすように 「セットしたな」 とレバーをさわっ て確認しています。 るのが望ましい Speed Control です。 前後方向のGの変化に 気がつくようになるものです。 計器に表示さ れる GS (Ground Speed) を参考にします が、 変化のきざしを体感で自覚できるように なると、 計器に現れる前に Brake Pedal の 踏圧を Modulate させて速度を一定に保つこ ともできるようになります。 このGの変化は路面のアンジュレイション (Undulation) の変化と旋回によるタイヤの Drag の増減の2つの要素によって引き起こ されます。 路面をよく観察することと、 旋回によるタイ ヤ の Drag の 変 化 を 予 測 し て Brake と Thrust の操作をすれば、 乗り心地も良く効 率的な Taxiing となります。 【Taxi Out】 【タイヤの話】 Ground 飛行機は空を飛ぶのが本分ですから、 大なミスの呼び水をまいているようなもので す。 Communication や確認は効率よくすま せ、 機体の動きを落ち着いた目でゆったりと 監視することが大切です。 −しゃべるより Monitor が大事 Push Back− 各 Crew の合図を目で確認して Taxi Out するわけですが、 人間の意識には 「やっ たつもり、 見たつもり」 という錯誤がしばし ば侵入します。 「本当に」 左右 Engine と機 体下部に人員機材が存在しないことをもう一 度 「だれも居ないな」 と Remind して Taxi Out する習慣をつけることをお勧めします。 Thrust Lever の 進 め る 量 は 後 方 へ の Jet Blast を考えて出来るだけ少なく、 1インチ 以内が基本です。 軽い重量の場合は、 Thrust Lever を進める必要もないでしょう。 後方の様子を思い出しながら気をつけて進め ましょう。 機体の重量にもよりますが、 機体が動き出し たら Idle Position の方向にもどして機体の 加速具合を確かめます。 たいていの重量で Idle Thrust でも機体は加速傾向になります。 快適性も考慮して速度が出すぎないよう出来 るだけソフトな Braking で速度を調整しま しょう。 Brake の使用は出来るだけ一定の マイルドな減速率になるよう努め、 旋回の必 要な交差点にきた時に 10kts 程度になってい 機体に慣れてくると、 パイロッ トは地上にある飛行機のタイヤの役割と性能 について、 関心が低いのではないでしょうか? タイヤは言わずと知れたゴムで出来ています から、 表面がドライであればアスファルトの 表面の細かい凸凹 (Texture) に食い込んで 大きな力を発揮しています。 しかし、 路面の状態によっては、 水膜などに よって水上スキーやアイススケート状態とな り、 急激に性能が劣化しとても頼りない存在 となります。 【摩擦係数μ (ミュー)】 復習となってしまいますが、 タイヤの発生す る力をFとするとFは摩擦係数μと Vertical Load (タイヤに掛かる垂直荷重) の積で 2009 SEP 19 す。 機体に揚力Lが発生している場合には機 体の重量WからLを差し引いた値が Vertical Load となります。 Taxi 中は揚力が0と 考えて、 Wheel のころがり (Rolling) 摩擦 係数をμRとすると、 図のように F=μR×W となります。 (ここでは Slope は0%) Icy や Water でμの値が0.1とか0.2とかといっ た場合は、 そもそも摩擦力の総量が不足して いますから切実です。 一旦滑りだすと、 【μR, μB, μC】 摩擦係数にはタイヤがまっすぐ転がるときの Rolling μ R , ブ レ ー キ を 掛 け た と き の Braknig μ B, 機体が方向を変えるときに必 要な Cornering μCがあります。 Ice や Snow の場合、 表面 が摩擦熱で融けて摩擦力がさらに減少し減速 も旋回も出来ずにそのまま滑り出てしまいま す。 特にこの現象で、 外気温が0℃∼−10℃ では、 経験的に最も滑りやすいようです。 さらに Dry や Wet の時でも一旦滑りだすと、 滑り摩擦係数となり、 摩擦力が不足するのは 同じ傾向となります。 −摩擦力 路面しだいで 急低下− 【旋回】 Taxiing 図の左は、 タイヤの進行方向とタイヤの転が る方向が一致しているときは接地面の形状は 左右対称となっています。 まん中の図は Brake を Apply し て 接 地 面 が 変 形 し て Braking Force が発生している図です。 さ らに右の図は、 進行方向に対して (角度が誇 張してありますが) Crab 角を取ったため、 接地面の形状がひずみ、 進行方向に対して直 角な Side Force が発生しています。 これが Cornering Force です。 この Cornering Force と Braking Force に は次の図のように、 補間関係にあり、 例えば 旋回中に強い Brake をかけると旋回に必要 な Cornering Force が不足してしまい、 曲 がりきれず Taxiway を逸脱してしまうケー スが考えられます。 とくに次図の右のように 20 2009 SEP 中の旋回は機体の重心位置を意識し て、 Main Gear が円運動をするように考え て操作すると理にかなったうえに、 スムーズ でお客様にも不快感を与えない旋回となりま す。 この図の右のように Main Wheel を底辺と する2等辺三角形の頂点に Nose Wheel があ り、 底辺を円運動させ、 移動すれば Nose Wheel の奇跡を外側へふくらませなければ ならないことが理解できます。 旋回は重心位置で考えると、 円運動ですから 外側方向への遠心力によるGはどうしてもか かるわけです。 その遠心力のGが変化すると 乗客の体は左右に振られ不快感が増します。 しかも B777-300 のような、 長胴機になると、 最前列と最後尾の座席では重心を支点として 100feet も離れて振り回されているのです。 したがって出来るだけ一定の速度で、 一定の 旋転率でまわることが快適性につながります。 このことは、 Slippery Taxiway でμが小さ く摩擦力の総量が限られている時にも出来る だけ速度一定で、 急な加減速をしないという ことと共通です。 また直線から旋回に入る点では、 横方向にG がかかったことを気づかれないよう出来るだ けスムーズに Steering を切りはじめましょ う。 −Taxiing 慣性感じて Speed Control− と一定速度を保つことはできません。 パイロット センス −Taxi も Pilot Senseの 見せどころ− 【Before Takeoff】 皆さんは Before Takeoff Procedure では何 が重要と意識していますか? 私 は Takeoff Flap と Takeoff Thrust の Setting です。 Thrust が足りなければ加速しませんし、 Flap が出ていなければ尻をするまで Pitch を上げても機体は Liftoff しません。 幾多となく、 Takeoff Flap の忘れが (Check List の項目であるにもかかわらず) 発生し ているのは何故でしょうか? 私にはこの2 つの Item が命取りであるという認識が不足 しているとしか思えません。 “マイプロシージュア”で恐縮ですが、 私は 毎回必ず“Rating○○ Flaps○○”と Call し指をさし、 目視で確認してから Checklist を Order しています。 −Flaps セット忘れで 揚がれない− 次回は Takeoff における力学と性能の 「余 裕」 について考えてみたいと思います。 旋 回 は Main Wheel が 進 行 方 向 に 対 し て Crab Angle を取ることによって、 Cornering Force が発生してこれが遠心力と釣り合っ て、 円運動となるわけです。 このとき Nose Wheel は旋回率を保つのが役 割で Main Wheel が旋回の遠心力に抗する Force の主役です。 ここで各タイヤはある Crab Angle でスキッ ドしているわけですから、 当然直進の時より Drag が増えているので必要に応じて Brake の踏圧をゆるめるか、 Thrust を Add しない 2009 SEP 21 象 気 航空 C TE H Ta l k 火山灰を回避する運航 −航空路火山灰情報について− 航空気象委員会※ 2009年6月12日 (日本時間)、 千島列島にあるサリチェフ・ピーク火山が大噴火し、 北米やヨー ロッパルートに影響を及ぼしました。 また、 最近桜島の火山活動も活発になっており、 今回は航 空機の運航に重大な影響を及ぼす火山灰について、 取り上げることとします。 ●火山噴火の情報源 F機長:6月に噴火したサリチェフ・ピーク火 山には本当に困りました。 特にロシアルート のヨーロッパ線は噴煙高度が高かったので、 貨物を降ろして重量を軽くするなど、 ぎりぎ りの運航をすることになりました。 Y機長:うちは貨物専門ですが、 そのヨーロッ パ線は貨物を降ろしたら採算が合わなくなっ ていましたから、 死活問題でしたよ。 X予報官:今回のサリチェフの噴火は、 火山灰 が圏界面を突き抜けるほどの規模で、 日本付 近では2000年の三宅島以来ありませんでした。 NOPAC ルートやロシアルートのヨーロッパ 線にも火山灰がかかっていたので、 我々もだ いぶ神経質になっていました。 F:最近の桜島は毎日のように噴火していて、 桜島の動向はとても気になります。 X:そうですね。 今日はいい機会なので、 航空 路火山灰情報について勉強しましょう。 O副操縦士:まず質問があります!前から聞き たいと思っていたのですが、 火山が噴火した という情報はどのようにわかるのですか? X:いい質問ですね。 国内の火山の場合は、 気 象庁が国内を4つに分け、 札幌・仙台・東京・ 福岡の各火山監視・情報センターで全国108 ※ 原 22 基 2009 SEP の活火山の活動監視を行っています (図1)。 このうち34火山については、 他機関 (大学な どの研究機関や自治体・防災機関など) の協 力を得ながら、 地震計、 GPS、 傾斜計、 空 振計、 遠望カメラなどにより、 24時間体制で 監視しています (図2)。 この他の火山につ いても、 定期的または必要に応じて現地で機 動観測を行い、 活動状況を把握しています。 O:桜島の噴煙の高さは、 福岡の火山監視・情 報センターで観測しているのですか? X:桜島は鹿児島地方気象台の職員が火山の噴 煙の高さなどを観測しています。 桜島のよう に近くの気象官署の職員が観測している火山 もあります。 このように、 国内の火山につい ては、 現地での観測または火山監視・情報セ ンターによる解析により、 第1報は 「噴火に 関する火山観測報 (図3)」 として、 航空会 社や航空局などに流れています。 F:国外の火山は、 どのようにして噴火の情報 を得ているのですか? X:その前に航空路火山灰情報センター (Volcanic Ash Advisory Center:VAAC) につ いて、 説明しましょう。 ICAO (国際民間航 空機関) のもとで航空機の火山灰による災害 を防止・軽減するため、 世界に9つの VAAC を設置し、 気象庁は東京 VAAC と して1997年4月から、 アジア太平洋地域を担 当しています (図4の赤枠内)。 発足当時、 図1 図2 火山監視・情報センターで監視している活火山 (気象庁 HP より) 火山観測装置 (気象ガイドブック2009より) 図3 東京 VAAC は東京航空地方気象台内にあり ましたが、 2005年10月から本庁で業務を行っ ています。 O:現在、 東京 VAAC は羽田にはなく、 東京 の大手町にあるんですね。 X:はい。 東京 VAAC では、 国内の火山の噴 火に関する情報は、 先ほど説明した 「噴火に 関する火山観測報」 により入手しています。 一方、 国外の火山活動の情報については、 東 京 VAAC 責任領域内の気象監視局やカムチャ ツカ火山噴火対応チーム、 フィリピン火山地 震研究所、 アラスカ火山観測所、 隣接の VAAC (ワシントンやアンカレッジ、 ダー ウィン) などの関係機関から受け取っていま す。 このほか、 航行中の航空機からの火山噴 噴火に関する火山観測報の内容 (気象庁 HP より) 2009 SEP 23 図4 各航空路火山灰情報センターの責任領域 図5 航空路火山灰情報の流れ 火に関するパイロットレポートや静止気象衛 星のひまわり・極軌道衛星の NOAA からの 気象衛星画像も重要な情報源となっています。 F:ここでも自分たちのパイロットレポートが 活用されているとは、 その重要性を再認識し ますね。 X:そうですね。 現地の観測や監視カメラ、 衛 星画像などから判断できない時は、 パイロッ トレポートにより、 火山灰が拡散しているこ とを確認することもありますので重要です。 ●航空路火山灰情報 X:各 VAAC は、 FIR (飛行情報区) ごとに 発表される SIGMET の作成を支援するため、 24 2009 SEP 火山灰雲の最新の実況と予測を示した航空路 火山灰情報を、 テキストと図情報により発表 しています。 航空路火山灰情報は、 各 VAAC や各国の気象監視局に配信されると ともに、 国内外の航空局や航空会社などに提 供されています (図5)。 F:航空路火山灰情報には色々と種類がありま すが、 具体的に教えて下さい。 X:わかりました。 それではまず、 航空路火山 灰情報は何種類あるのかを見てみましょう。 1 航空路火山灰情報 (FVFE01) 2 航空路火山実況図 (VAGI) 3 火山灰拡散予測図 (VAGF) 4 狭域拡散予測図 (VAGFN-GG) 5 定時拡散予測図 (VAGFNR-GG) 全部で5種類あり、 これらの情報は現在、 気 象庁の航空気象情報提供システム (MetAir) でも提供しているほか、 次の東京 VAAC の HP でも閲覧することができます。 http://ds.data.jma.go.jp/svd/vaac/ data/indexj.html F:海外でも見える HP は便利ですね。 必要な 状況になったら、 活用しようと思います。 X:このページの 「参考情報→リンク」 には他 の VAAC のリンクが貼られていますので、 火山灰が東京 VAAC の領域外になった場合 に便利です。 それでは各情報について説明し ます。 「1の航空路火山灰情報」 は、 図6の とおり英語のテキスト文です。 内容は①∼⑲ の番号のように構成されています。 ①電文ヘッダー ②情報名 ③発表日時 ④発表 VAAC ⑤火山名及び火山参照番号 ⑥火山の位置 (緯度・経度、 度分表示) ⑦火山の位置する地域 (国名または地域名) ⑧火山の標高 (ft またはm) ⑨情報番号 (西暦、 年間通番 (火山別)) ⑩情報源 (報告した機関や火山灰の検知に使 図6 航空路火山灰情報 (FVFE01) 用した衛星など、 噴火に関する火山観測報 の場合 「JMA」) ⑪航空用カラーコード (航空向けに用意され た火山活動レベルのカラーコードで、 東京 VAAC では発表しない。 RED、 ORANGE、 YELLOW、 GREEN があり、 不明 は UNKNOWN、 発表しない場合は NIL) ⑫噴火情報 (噴火・火山灰の観測もしくは報 告の日時、 噴煙などの高さ・流向などがあ る場合は記す) ⑬火山灰の観測時刻 (衛星画像による検知時 刻または解析時刻で、 噴火に関する火山観 測報による場合は NIL) ⑭火山灰の実況 (高度範囲、 領域座標、 移動 方向、 速度の順に記す。 高度範囲は 「最 低/最高」 で示し、 「SFC」 (地表)、 「FLnnn」、 「UNKNOWN」 の組み合わせとな る。 火山灰が衛星画像で検知できなかった 場 合 は 、 「 VA NOT IDENTIFIABLE FROM SATELLITE DATA. 」 に 続 き 「 WINDS ABV THE VOLCANO AT dd/HHMMZ FLnnn ddd/vvKT … … FROM JMA NWP MODEL.」 と数値予 報による上層風の情報を記す。 噴火に関す る火山観測報を基に第1報を出す場合は、 画像がまだ入手できていないので、 「IN INVESTIGATING SATELLITE DATA.」 に続き上層風の情報を記す。) ⑮6時間後の火山灰の拡散予測 (「火山灰の 観測時刻」 から6時間後に予測される火山 灰の予測時刻、 高度範囲、 領域座標を順に 記し、 予測を行わなかった場合は 「NIL」。 高度範囲は 「SFC/FL200」、 「FL200/350」、 「FL350/550」 の3層。 火山灰が存在しな い場合は、 「NO VA EXP」) ⑯12時間後の火山灰の拡散予測 ⑰18時間後の火山灰の拡散予測 ⑱記事 (噴火直後で衛星画像解析を行ってい な い 場 合 は 「 WE WILL ISSUE FURTHER ADVISORY IF VA IS DETECTED IN SATELLITE IMAGERY.」 が付加され、 このあと衛星画像で火山灰が 2009 SEP 25 検知された場合は続報を発表する) ⑲次の情報 (次の情報を発表する場合、 予定 時刻を記述。 次の情報がなしの場合、 「NO FURTHER ADVISORIES」) F:基本的な質問ですが、 航空路火山灰情報は どんな時に発表されるのですか? X:発表基準は、 ①噴火または火山灰を確認した旨の情報を入 手した場合 (観測時刻が6時間以上前の現 象は除く) ②衛星画像の監視で火山灰を検知した場合 ③航行中の航空機に火山灰が影響を与えると 認められる場合 に発表します。 噴火に関する火山観測報を入 手しても、 3時間以内に航空路火山灰情報が 発表されていて、 噴煙高度が前の情報より低 いときは、 発表は行いません。 F:発表間隔は何時間なんですか? X:第一報発表後、 続報を遅くとも6時間以内 に発表します。 火山灰が衛星画像で検知され ている間は、 通常6時間ごと (00、 06、 12、 18UTC) に更新しています。 サリチェフ・ ピーク火山のように、 主要航空路に火山灰が 拡がって運航への影響が大きい場合などは必 図7 26 2009 SEP 要に応じて、 発表間隔を3時間ごと (03、 09、 15、 21UTC も発表) にすることがあり ます。 また、 第1報において、 実況の発表を 優先する必要があると判断した場合は、 まず 実況部を発表し、 拡散予測部については続報 として発表することもあります。 続報発表継 続中に、 一連の活動で最大級の噴煙が生じる など著しい噴火活動の変化が認められた場合 は、 定時以外にも発表します。 F:航空路火山灰情報の発表を終了する基準は どうなっているんですか? X:衛星画像により火山灰が1時間以上続けて 確認できない場合は、 その旨を発表し終了し ます。 また、 火山灰が責任領域外に移動する などにより、 隣接 VAAC に情報発表を引き 継いだ場合もその旨を発表し終了します。 Y:6∼18時間後の拡散予測が 「NIL」 という ことがよくありますが、 それはどんな場合な んですか? X:いい質問ですね。 火山灰雲の広がりが衛星 画像で確認されない場合は、 発表しません。 そのような場合は、 航空路火山情報を図示し た 「2の航空路火山実況図 (図7)」 と 「3 の火山灰拡散予測図 (図8)」 も発表しませ 航空路火山灰実況図 (VAGI) 図8 火山拡散予測図 (VAGF) 1ページ目は予測初期時刻と6時間後、 2ページ目は12時間後と18時間後の予測図。 高度は下段から SURF-FL550、 SURF-FL200、 FL200-FL350、 FL350-FL550。 ん。 Y:なるほど、 そういうことだったんですか。 O:衛星画像で火山灰を解析するということで すが、 具体的にどんなふうに行うのですか? X:「差分画像」 って聞いたことありますか? O:昔気象予報士の勉強をしているときに読ん だような気がしますが……。 X:現在の気象衛星ひまわり6号・7号は、 5 種類の画像があります (図9)。 波長が短い ものから 「可視、 3.7μm、 水蒸気、 赤外1、 赤外2」 となっています。 F:差分画像というのはないですね。 2009 SEP 27 図9 図10 気象衛星ひまわり6号・7号による画像の種類と観測している波長帯 (「気象衛星画像の利用と解析」 より) 気象衛星画像で見る火山灰の領域 (画像は気象庁 HP より) 上段の各画像は2009年6月15日 2259UTC で、 図6、 図7の情報源となった画像。 下 段は2009年6月16日 0000UTC の 300hPa 高層天気図 (AUPN30)。 各図の▲はサリチェ フ・ピーク火山で、 可視画像は北西方向に噴煙が流れているのがわかる。 赤外差分画 像の矢印の白い領域が火山灰で、 上層の風に乗って東西に拡散している。 X:はい。 差分画像とは、 「赤外1と赤外2の 温度差を計算した画像を 「赤外差分画像」 と 呼んでいます。 詳しく説明しますと、 赤外1 は波長10.5∼11.5μm 帯を、 赤外2は11.5∼ 12.5μm 帯を観測しています。 石英 (二酸化 ケイ素からなる鉱物) は、 赤外1と赤外2の 波長帯では吸収や散乱の特性が水と比べて逆、 という性質を持っていて、 両者の温度差が正 28 2009 SEP の場合は水滴や水晶で構成される雲で、 温度 差が負の場合は石英を含む物質になります。 火山灰は石英を含んでいますから、 この特性 を利用しているんです。 Y:黄砂も差分画像でわかるんですよね。 X:そのとおりです。 火山灰の実況は、 可視・ 赤外・赤外差分の画像や数値予報による上空 の風などを用いて、 火山灰の拡がった領域を 図11 狭域拡散予測図 (VAGFN-GG) 火山灰の観測時刻から1時間毎に6時間後までの拡散予測図。 高度は下段が SURF-FL180、 上段が FL180-FL550。 解析します (図10)。 噴煙の高度は、 火山灰 表面の温度と周辺大気の温度 (数値予報を利 用) から推定します。 拡散予測は、 解析した 拡散領域を基に作成した噴煙柱を初期値とし、 数値予報 (MSM または GSM) を用いて火 山灰の落下速度を考慮した移流拡散モデルを 稼動させて計算しています。 F:なるほど……。 Y:図7の航空路火山実況図では、 オホーツク 海からロシアにかけての火山灰の TOP は FL320 となっていますが、 すべての領域で FL320 まで拡がっているんですか? X:鋭い質問ですね。 サリチェフ・ピーク火山 のように成層圏まで達した火山灰はゆっくり と落下していきますが、 しばらく漂っている と考えられます。 一方、 対流圏内にある火山 灰は、 火山から離れれば離れるほど風に流さ れ次第に高度を下げていくものと考えられま す。 Y機長の聞いている領域は、 すべての領 域で FL320 に達しているわけではありませ ん。 今のところ、 衛星画像で解析できない火 山灰は、 その高度を飛行しても運航に支障は ないと考えられています。 しかし、 検知でき なくとも薄い火山灰は漂っている可能性もあ り、 衛星画像の分解能 (赤外画像は 5km 程 度) や誤差幅を考慮すると FL320 まで拡がっ ている可能性がある、 ということです。 Y:なるほど、 よくわかりました。 X:今までは国際業務としての航空路火山灰情 報を紹介しましたが、 国内向けの情報が2種 類あります。 その一つが 「4の狭域拡散予測 図 (図11)」 です。 2009 SEP 29 F:この図はいつ発表されるのですか? X:国内の火山において、 航空路火山灰情報を 発表し、 かつ拡散予測を実施した場合、 また は、 国内火山について火山監視・情報センター などから噴火に関する火山観測報を入手し、 その内容が次のいずれかの条件を満たした場 合に発表されます。 ア. 噴煙高度が当該火山に関して直前に発表さ れた狭域拡散予測図の基となる噴煙高度より 高い場合 イ. 噴煙高度が記されており、 当該火山に関し て狭域拡散予測図が過去に一度も発表されて いない場合、 もしくは、 その火山観測報の発 信時刻が、 当該火山に関する直前の狭域拡散 予測図の発表時刻から3時間以上経過してい る場合 図13 30 F:わかりました。 O:先日桜島で火山灰の中を通過した航空機が あったと聞きました。 突然噴火した場合、 そ の火山灰がどこへ向かっていくのかはとても 気になるところです (図12)。 それはどうす ればよいのでしょう? 図12 桜島の噴煙の様子 (2009年7月13日17時32分) 定時拡散予測図 (VAGFNR-GG) 予測初期時刻から連続噴火を仮定し、 1時間毎に6時間後までの拡散予測図。 仮定した条件は 右下の枠内。 領域は、 東日本 (EAST)、 中日本 (MID)、 西日本 (WEST)。 2009 SEP 図14 降灰予報の例 (桜島) 噴火発生 (日本時間20時23分) から6時間先までの降灰予想域を赤色で示す。 X:一つは桜島の 「噴火に関する火山観測報 (図12の写真の時刻に近い)」 の高層風を利用 する方法があります。 火 日 山:桜島 時:2009年07月13日17時21分 (130821UTC) 第1報 現 象:爆発 有色噴煙:火口上2200m (海抜10100FT) 白色噴煙: 流 向:直上 --高層風 1307Z 850-00000 700-21010 500-26020 火口 昭和火口 今年119回目 O:この高層風も数値予報のデータですよね? X:このデータは毎時大気解析なんですよ。 13 日 0821UTC 発表なのに13日 07Z のデータと 1時間ずれています。 予想データならば 08Z を使うはずですよね。 O:なるほど! 確かにそうですね。 X:つまり上空の風は精度が高いほど良いため、 毎時大気解析の850・700・500hPa の風向・ 風速のデータを用いているのです。 F:毎時大気解析はよく見ていますが、 ここで も使われているんですね。 X:はい。 それから突然の噴火を想定した資料 としてもう一つ、 「5の定時拡散予測図 (図 13)」 があります。 火山情報などから噴火の 可能性が高いと判断される国内火山が存在し ている場合、 その火山の噴火を仮定して計算 された火山灰の拡散予測領域 (1時間ごとに 6時間先までを予測) を図示したものです。 発表は概ね00、 06、 12、 18UTC で、 日本を 3つに区分し、 条件を満たす火山全てについ て各領域1枚の図に記載します。 O:へぇ∼、 色々な情報があるんですね。 X:ちなみに、 気象庁は一般利用者向けに 「降 灰予報」 を発表しています (図14)。 O:この図は、 桜島の灰が宮崎空港に積もって きそうだという判断にも役立ちそうですね。 X:はい。 現在のところ、 降灰量までは予想し ていませんが、 将来は量的な予想を発表でき るよう、 技術開発を進めているところです。 F:しかし、 そんな情報が役立つほど桜島が噴 火したら大変なことになるよねぇ∼。 O:確かにそうですね (笑)。 失礼しました。 【参考文献】 航空気象予報作業指針2008年度版 気象庁 気象ガイドブック2009 気象庁 気象衛星画像の利用と解析 気象衛星センター 2009 SEP 31 連 載 航 空 史 ● 曼 ● 陀 その31. スチュワーデス今昔 羅 徳田 忠成 パイロットという職業は華やかなイメージが 強い。 それだけに、 いつの時代でも狭き門であ る。 同じ乗務員でも、 パイロットと仕事内容が 全く違う客室乗務員も、 やはり華やかなイメー ジがつきまとい、 契約社員が当たり前の時代に なっても、 女性の憧れの職業の一つである。 し かし、 時代を遡れば、 いろいろな歴史をかいま 見ることができて興味ぶかい。 今回はパイロッ トと同じ土俵 (飛行機) 上で仕事をしているス チュワーデスの歴史を追ってみたい。 そもそもの始まりは1922年 (大正11年) に、 客室乗務員が搭乗した記録がある。 但しこれは 男性、 つまりスチュワードであった。 第一次大 戦後、 ヨーロッパでは雨後の筍のごとく民間航 空輸送会社が乱立したが、 余剰の航空機とパイ ロットが、 これにたずさわった。 そんな航空会 社の一つであるイギリスのデイムラー・ハイア 航空が、 この年3月26日にロンドン―パリに国 際線を就航させた。 使用機は新鋭のデハビラン ド DH34 複葉旅客機で、 客室は8席であった。 この路線に搭乗したのが、 まだ14才のジャッ ク・サンダーソン君である。 彼は世界初の栄誉 をになったが、 翌1923年の飛行機事故で亡くなっ てしまった。 もっとも仕事内容は小間使い程度 のもので、 ホテルのボーイのような服装で乗客 にサービスするキャビン・ボーイだったらしい。 スチュワーデスの元祖はアメリカのボーイン グ・エア・トランスポート航空 (BAT、 後に ユナイテッド航空と合併) といわれている。 もっ とも当時は、 「エア・ナース」 とか 「スカイガー ル」 「クーリエ (添乗員)」 と呼んでいた。 看護 32 2009 SEP The Original Eight (UAL 提供) 婦資格があることが条件だったが、 応募者 1,000人の中から8人が採用された。 この8人 を記念すべく、 The Original Eight と愛称 されるジャンボ機が1985年まで飛んでいたよう だ。 欧州では BAT とほぼ同時にスチュワーデ スを採用したファルマン航空 (のちエール・フ ランス) に続き、 1934年にスイス航空、 35年に KLM オランダ航空と、 続々と採用した。 なお KLM は世界初のスチュワードを採用している。 38年にドイツのルフトハンザ航空が採用、 各航 空会社は、 まず国内線に採用、 徐々に国際線に 広げていった。 さてユナイテッド航空では、 1930年5月15日 が仕事始めだった。 先鞭をきったのはエレン・ チャーチ嬢であり、 カリフォルニア州オークラ ンド―ワイオミング州シャイアン間で、 ボーイ ング B80A 型3発複葉旅客機に搭乗し、 11人 にサービスしている。 この機体はエアコン付、 レザー製の椅子、 読書灯付と豪華で、 エア・ブ ルマン (空の特等 車) といわれた。 採用条件は看護 婦資格のある25才 以下の独身女性 で 、 身 長 162cm 以下、 それに 52kg 以 下 の 体 重 制限があった。 月 最低10時間乗務を 義務づけられた エレン・チャーチ嬢 が、 月給125ドル (UAL 提供) とよく、 ダークグ リーンで銀ボタンがついたウールのスーツを身 に着けた。 頭にはシャワーキャップと呼ばれた 帽子、 そしてケープをまとった制服は、 なかな かモダンで、 その後30年ほどは 「スカイウエア」 として定着し、 愛用されている。 客室内のサー ビスは基本的に現在と変わらないが、 地上では 乗客の手荷物を持ったり、 チケットの取扱い、 飛行機の格納庫からの出し入れ、 又、 燃料給油 も手伝ったから、 仕事は今よりもはるかに忙し い。 しかし、 すんなりとエア・ナースの搭乗が決 まった訳ではない。 ある時、 運送担当責任者の ステファン・スチンプソンが、 社用でサンフラ ンシスコからシアトル間に搭乗したとき、 副操 縦士が乗客にコーヒーのサービスをしているの を目撃した。 これがヒントになり、 彼は早速、 本社へ帰り、 乗客専用の女性を採用して、 乗務 させることを提案したのである。 ところがパイロットたちは強硬に反対した。 飛行機の運航は、 女子禁制の聖域であり、 女を 乗せるなんてとんでもないというのだ。 何かと 進歩的なアメリカでの出来事とは思えない。 か つての日本軍歌にもある 「女乗せない○×……」 である。 隔世の感がするが、 とくにパイロット のご夫人がたは露骨な敵意を示した。 もっとも、 こちらの反対理由は、 チョット違っていたらし い。 スチンプソンは、 これらの反対を退けて何と か 「エア・ナース」 という名前で女性乗務員を 搭乗させた。 彼女たちは上司の指示どおり、 手 荷物のケアからコーヒー・サービス、 客室の整 理整頓、 悪天候でグランドを余儀なくされてい る乗客の気持ちを和らげたり、 そして勿論、 会 社の宣伝もやりながら、 甲斐々々しく働いた。 スチュワーデス第1号になったチャーチ嬢は、 本来、 航空会社パイロットを志していたが、 こ れが拒否されるや添乗員を目指した。 そして仕 事を開始して一週間後、 シャイアン―ソールト レイク・シティ間に乗務していたが、 ある乗客 が激しい腹痛を訴えた。 診察の結果、 急性の虫 垂炎であることがわかった。 彼女はすぐさまコッ クピットへ行き、 最寄りの飛行場へ緊急着陸し て欲しいと頼んだが、 パイロットたちは冷たかっ た。 しかし、 彼女の熱意に負けた彼らは、 しぶ しぶ緊急着陸し、 その乗客は助かったという事 件が発生した。 これを契機として、 以来、 スチュ ワーデスの必要性が認められていった。 1930年代半ば以降になると、 ダグラス DC-2 型機や DC-3 型機、 ボーイング B247 型機など の全金属製旅客機が現れ、 さらに機体の大型化 に伴い、 アメリカだけでなくヨーロッパの航空 会社も、 男性や女性の客室乗務員が次々と誕生 していった。 日本のスチュワーデス事始めは、 1931年 (昭 和6年) 4月になる。 航空界の風雲児、 相羽有 が1917年 (大正6年) 4月以来、 自ら経営して いる羽田飛行場の日本飛行学校内で、 独立した 東京航空輸送会社を興してエアガールを採用し た。 エアガールという呼称は、 彼の発案による スチュワーデスの和製英語である。 この当時、 日本ではモダンガールとかマネキンガール、 バ スガールなど、 〇〇ガールという言葉が流行っ ていたので、 これにあやかったようだ。 東京芝区の飛行館での1931年2月5日の採用 試験には、 わずか3名の採用に141名の美女が 集まった。 第1次採用試験は、 長岡外史将軍、 松永日本学生航空連盟会長ら、 当時の民間航空 界の重鎮によるものものしい審査の結果、 まず 10名が選考された。 2次試験は3月5日、 大井 町鈴が森海岸にある中島水上格納庫で、 身体検 2009 SEP 33 伊豆下田を離水する中島15式旅客機 (昭和5年) 査のほか、 注意力、 研究心などの厳密な試験が 実施されて、 女学校卒業予定の才媛3人が採用 された。 顔ぶれはフェリス女学校の本山英子 (19才)、 東京府立第一高女の和田正子 (19才)、 錦秋女学校の工藤雪江 (18才) であった。 採用された3人は、 早速、 3月下旬から10日 間、 鈴が森海岸で実地訓練をおこなった。 使用 機の愛知 AB-1 水上輸送機 (6座席) の客席は、 わずか3席だったが、 大変好評だったらしい。 この年4月1日の東京 (鈴が森海岸) ―下田― 清水間に初乗務したのは本山英子、 午前10時20 分に離水、 彼女の第一声は、 「ただいま離水で す」。 但し、 このときは他の2人も同乗してい たというから、 今でいう慣熟飛行のようなもの だった。 そして12時2分、 無事に清水水上飛行 場に着水した。 彼女らは私服で乗務し、 機上での仕事は主に 外界の風景の説明で、 今のようなサービス設備 はなかったから、 手持ちのバスケットからサン ドイッチや紅茶をサービスした。 といっても狭 い機内で立つこともできず、 座ったままのサー ビスで、 エンジン音がうるさいので、 会話は大 声を出したり筆談によっていたという。 勿論、 今のような保安要員としての仕事はないが、 う ら若い女性が乗っていることで機内がなごみ、 乗客に安心感を与える効果は大きかった。 彼女 らの手当は一往復で約3円、 月給16円ほどで、 危険な仕事の割には、 余りにも安いというので、 社長に直談判して30円に跳ね上がったエピソー ドがある。 さらに1936年、 大阪堺市に誕生した日本航空 34 2009 SEP 輸送研究所が、 瀬戸内に飛ばしたサザンプトン 飛行艇 「麒麟」 号に、 エアガールを採用してい る。 海軍払い下げの機体は乗客16人を収容でき る大型機で、 彼女たちは巡航中、 乗客にビール を提供するサービスもおこなった。 それにしても、 女性の最先端職業としての人 気は高く、 ジャーナリストたちは、 「天駆ける 天女」 ともてはやし、 世間の脚光を浴びた。 当 時としては大変なニュースバリューだったが、 ある新聞は社説にまで載せて、 これを非難した。 曰く 「労働を犠牲にし、 エロ味を加味した会社 の巧妙な宣伝で、 エアラインの真のサービスと はいいがたい」。 もう少しユーモアのセンスが あってもいいと思うが、 ともあれ、 乗客のほと んどが男性だったから、 彼らは待合いで女給に サービスされるような気分だったようだ。 彼女たちが再び登場するのは、 日本航空輸送 によって採用された1938年 (昭和13年) 8月に なってからである。 日華事変による中国大陸へ の路線網の拡大、 大型機の導入などによって、 エアガールが登場し、 海外雄飛によって、 その 華やかさが PR されて、 さらに人気がたかまっ た。 この時は、 飯沼正明による 「神風」 号による 亜欧連絡飛行の成功によって人気が高まり、 日 本航空輸送のエアガール10名の採用に、 2,000 名近くが応募した。 東京が9名、 大坂、 福岡、 ソウル、 大連から各2名ずつ採用した。 東京で は保坂嘉弥子、 関口かほる、 山本芳江、 岩田佳 子、 飯島綾子、 加藤千代子、 植松喜代子、 矢島 照子、 藤井瑞枝、 それに半年ほど遅れて及位野 衣の10名が採用され た。 その後、 3期生 まで計37名が採用さ れ、 東京、 福岡、 台 北、 大連支所を基地 として乗務した。 異色の及位野衣は 秋田県出身で、 すで に2等操縦士の資格 を取得していたが、 当時、 女性はプロと 及位野衣さん して働ける1等操縦士資格をとることができな かったので、 エアガールになった。 この経緯は、 ユナイテッド航空のエレン・チャーチと似たと ころがあって面白い。 しかし、 自ら操縦桿を握 りたいという熱意により、 大日本飛行協会のグ ライダー教官として終戦を迎えた。 戦後の彼女は、 航空局に勤務のかたわら、 昭 和31年に事業用操縦士免許を取得、 昭和42年に は日本婦人航空協会理事長に就任、 韓国の女性 航空協会と姉妹提携を結んだり、 日本一周飛行、 アメリカの大陸横断飛行レースに参加するなど の活躍をし、 生涯を航空界にささげた。 昭和61 年4月29日には藍綬褒章を授賞、 昭和51年春か ら半年間続いた、 NHK 連続テレビドラマ 「雲 のじゅうたん」 のモデルにもなった。 平成17年 3月12日、 87歳の長寿を全うして永眠した。 エアガール採用はアメリカと同様に問題になっ たが、 反対する運航部を営業部が押し切ってい る。 つまり有視界飛行の時代であり、 運航部と しては一ガロンでも多く燃料を積みたいことと、 エアガールの占める座席収入を年間に直すと15 万円に相当するという反対理由である。 当時の 東京―福岡間運賃は片道65円で、 しかも全21座 席のうち、 陸軍省5席、 海軍省3席、 外務省2 席が年間契約されていた。 日華事変によって、 福岡から満州、 北京、 上海、 台北と、 航空路が 拡大されるのと平行して、 世界情勢が緊迫する なか、 「エアガールを乗せるとはけしからん」 と怒る、 お堅い軍人もでてきた。 営業部は、 乗客への安心感を提供する意味で、 キャビン内に年間15万円の働く花を飾ったと思 えばよい、 ということで押し切っている。 大型 機になってからの機上での仕事内容は、 今とさ ほど変わらないが、 さらに地上では飛行場の案 内からはじまって、 搭乗案内と搭乗券の回収、 乗客や手荷物の重量を測ったり荷札の添付、 飛 行機への誘導、 手荷物の世話、 搭乗時の注意事 項が書かれたパンフレットの配布、 郵便物の取 り扱いなど、 何でもこなした。 注意事項の内容は、 時代を感じさせて興味深 い。 搭乗前に用便を済ませること、 弁当持参の こと、 できるだけ軽装のこと、 機内では禁煙等々 が書かれてあった。 機内では防音用の耳綿やカ ルミン (清涼錠剤) が配られた。 また高度2、 3千メートルの飛行は、 決して気流がよいとは いえないので、 嘔吐用の袋なども用意しなけれ ばならなかった。 やがてロッキード 14WG3 型や DC3 型など の大型輸送機が導入され、 女性の花形職業とし てのエアガールの仕事も定着していき、 一時は 30名にもなったことがある。 なにしろ銀行やデ パートにも女子社員がいなかった時代だから、 なおさら人気がたかかった。 しかし、 太平洋戦 争突入直前の、 1941年 (昭和16年) 9月には、 輸送力増強という理由で中止になり、 華やかに 飛びまわった乙女たちは、 地上勤務にまわされ た。 とはいっても偉い人専用の 「一号輸送機」 (VIP フライト) では、 一部路線で終戦まで続 いていた。 1945年夏に第2次大戦が終結、 欧米先進国は 間もなく航空会社が営業を再開、 1940年代後半 になると、 世界各国で次々と既存、 新規の航空 会社が設立された。 同時に、 運賃が高額なため に敬遠され気味だった旅行の足として、 飛行機 が一般庶民へ浸透しつつあった。 機種もより大 型化されていき、 ダグラス DC4B 型や DC6 型、 ロッキード・コンステレーションが投入され、 大西洋や太平洋を飛ぶ時代になっていった。 これに伴い、 客室乗務員数も必然的に増加し ていき、 やがて女性の 「花形職種」 として定着 日航スチュワーデス1期生 (日本航空提供) 2009 SEP 35 しようとしていた。 米軍占領下にあった日本は、 しばらくは渡航の自由が制限されるなど、 乗客 は渡航許可を受けた政府関係者や企業の業務出 張者、 または外国人に限られていた。 日本でよ うやくスチュワーデスが登場したのは、 昭和26 年8月に日本航空が設立されてからである。 1期生15名が採用されたが、 採用条件は 「高 校卒以上、 英会話堪能、 身長 160cm 以上、 体 重 52kg 以下、 独身」 であり、 戦後の就職難時 代ということもあって、 応募者1,300名、 87倍 の競争率だった。 眉目秀麗な八頭身美人が採用 されたのが8月20日、 以来、 スチュワーデスは 美人の代名詞になった。 しかし、 英語の素養と いうと、 当時は、 なかなか適任者がなく、 米軍 関係のバーで働いていた女性もチラホラいたよ うだ。 創業したばかりの日航本社兼営業所は、 今の 銀座日航ホテルのところにあり、 木造三階建て のボロ屋だった。 スチュワーデス15名は、 採用 されたものの訓練する場所がなく、 慈恵科医大 の教室や工業クラブを借用していた。 シルバー・ グレイのスーツに白のブラウス、 WAF (女性 兵士) の帽子にロング・スカートといった制服 だった。 サービス実習は帝都ホテル、 緊急脱出訓練は 実機が使われ、 機内サービスは、 フィリピン航 空のスチュワーデスによって指導された。 オー ダー・メイドされた制服を身につけたが、 タイ トスカートのため、 飛行機へのタラップを使用 できず、 幻の制服に終わったエピソードがある。 戦後初の晴れの定期便、 1951年10月25日の羽 田発、 大坂経由、 福岡行き301便に乗務したの は、 第1期生の石井暢子であった。 といっても 当時は乗務規定も曖昧だし、 今のように分業さ れていないから、 大変な激務だった。 営業所前 に集まった乗客をバスで羽田空港まで送迎する バスガールの仕事から始まって、 機内のトイレ の清掃、 機内食の搬入、 機内サービスなど、 何 でもこなした。 月給は約1万円で悪くはないが、 福岡往復が 約10時間、 その前後のバスガールの仕事も入れ 36 2009 SEP 全日空1期生 (中央が北野さん) ると、 1日14時間、 月に120時間から130時間と、 かなりハードな仕事をこなした。 さらに悪天候 などで代替空港へ着陸するときは、 地上スタッ フの仕事もこなさなければならない。 1953年からダグラス DC-6B 型機による国際 線が開始されたときは、 ユナイテッド航空の現 役スチュワーデスが来日し、 英語による猛特訓 が開始された。 予定の初飛行まで2ヶ月間もな いとあって、 大変だったらしい。 当時は、 運航 部門をノースウエスト航空に委託しており、 操 縦輪を握らせてもらえない、 かつての大日本航 空パイロットの猛者たちが、 パーサーとして彼 女らと一緒に乗務し、 アメリカ人パイロットや 乗客に小言を言われながら茶菓のサービスをし た、 苦渋の時代だった。 4年ほど遅れて昭和30年9月に、 全日空の前 身、 日本ヘリコプターがダグラス DC-3 型を導 入し、 第1期生6名を採用したときには、 日航 以上にすごい競争率だった。 試験当日、 会場の 新橋にある飛行館 (現航空会館) に集まった応 募者は1千人にもなり、 その行列が飛行館を二 重に取り巻いて、 その最後尾は新橋駅まで続い たという。 元日本女性航空協会理事長の北野蓉 子氏は、 その難関をくぐり抜けた1期生である。 坂道機といわれた尾輪式の DC-3 型の評判は悪 く、 しかも与圧キャビンでないうえ、 気流の悪 い 3,000m 付近を飛行するので、 いつも乗り物 酔いに悩まされたという。 昭和39年4月に、 他社とともに日本国内航空 (のち日本エアシステム) として生まれ変わっ た富士航空は、 昭和36年10月に1期生5人を採 用している。 冨士航空は、 羽田から高松、 大分、 鹿児島、 種子島、 屋久島、 新潟、 佐渡を飛んで いた。 使用機は CV-240 型機で与圧装置もあり、 環境は整えられていたが、 ハイヒールを履いた ままのサービスに苦労したという。 スチュワーデスとは、 スチュワード:ホール の番人の女性名詞と言われるがその意味は定か ではない。 日航では昭和36年にエアホステス (女主人) と改称したが、 バーのホステスのイ メージが強く、 評判が悪いため、 1966年に再び スチュワーデスに改称している。 その後、 1999 年4月に施行された男女雇用機会均等法により、 日本では男性も含めて客室乗務員、 英語では Cabin Attendant と呼ばれることが一般的に なった。 しかし、 これは厳密には和製英語で、 英語圏では一般的に Flight Attendant とか、 単に Cabin Crew と呼んでいるようだ。 結婚相手として引く手あまたなスチュワーデ スは、 独身であることが条件だったが、 これは 欧米でも同様だった。 しかし、 時代の流れとと もに、 年齢制限や独身であることの足枷が緩和 されていった。 1970年代当初のジャンボ機の導 入によって大量高速輸送時代の幕があき、 航空 輸送の大衆化が浸透していったことで、 スチュ ワーデスの労働条件も、 大きく変化していった。 今まで1機に数人のスチュワーデスしか乗務し なかったものが、 一挙に20人から25人と膨れあ がった。 日航や全日空もワイド・ボディ機を導入し、 大量のスチュワーデスが採用されるようになり、 「アテンション・プリーズ」 とか 「スチュワー デス物語」 がテレビドラマとして人気を博した のもこの頃である。 しかし、 同時に今までの女 性の職業としていつも上位にランクされていた スチュワーデスも、 航空業界の不況と相まって、 その人気は下降線をたどった。 日航での変遷を例にとると、 昭和46年には年 齢制限が35才になり、 同時に女性パーサーやア シスタント・パーサーが誕生している。 ちなみ に日航の女性パー サー第1号は、 13期 生の永島玉枝さん だった。 彼女は日航 の草分け的存在であ り、 60才定年まで乗 務した第1号でもあ る。 そして49年には 上限が45才になり、 さらに結婚による退 ラスト・フライトでの 職制度が廃止され 永島さん た。 続いて6年後の 55年3月には、 ついに男性と同じ60才定年が実 現している。 スチュワーデスが、 かつての高給取りだった 優雅な時代は終わり、 1990年代に入って季節労 働者 (Seasonal Labor) やアルバイト・スチュ ワーデスなどの契約社員が一般的になり、 体力 が勝負の厳しい時代に変化している。 最近の厚 生労働省の調査による客室乗務員の平均年収は、 34歳、 勤続10年で約500∼600万円となっている が、 これはあくまで正社員の場合であり、 契約 社員としては時給1,000円程度で、 年収200万円 から300万円のところもあり、 今でいうところ のワーキング・プアに近いかもしれない。 ちなみに欧米諸国では一般に給料は低く、 外 国資本の航空会社で一番高いといわれているバー レン航空でさえ、 月収で1,500米$から2,000米 $であるから、 他の職種と比較して決して高い とはいえない。 毎年、 GDP で世界をリードし ている中国でのスチュワーデスの人気は高い。 それでも月収15万円ほどだが、 国内の平均的賃 金を考えると、 相対的に高い。 しかし、 未婚、 容姿端麗、 高学歴、 身長は 164cm から 172cm、 体重制限などの厳しい条件が付けられている。 現在、 アメリカでは約25万人の客室乗務員が 働いており、 その大部分が契約社員である。 日 本では日航が7,000人、 全日空が4,000人を筆頭 に、 約1万6,000人が働いているが、 その内、 約1万人が契約社員だから、 今昔の感がするが、 それでもなお狭き門には違いない。 2009 SEP 37 GA:ジェネアビ情報 自家用航空機の整備 奥貫 今回のテーマは自家用機の整備です。 自家用 機であっても、 基本的には事業用機の整備と変 わるところは無いのですが、 実施すべき内容の 管理の面では、 大きな差があります。 事業用機は、 使用事業会社として、 実施すべ き内容が確実に漏れなく実施できるように制度 として定められ、 維持管理されるのに対し、 自 家用機のオーナーは、 自分自身で維持管理を心 がける必要があります。 とはいえ、 整備士としての知識が無い場合、 その実行には無理がありますから、 自家用機の 整備は、 事業会社又は有資格整備士に依頼して 行なうことになります。 米国等の諸外国と日本の自家用機の整備を見 ますと、 米国等では飛行機が好きで飛び続けた い愛好家の多くは、 自分でも機体の整備が出来 るよう、 整備士の資格取得を目指すことが多い のですが、 この日本ではそうは行きません。 自 家用操縦士が飛行機の整備士を取得しようとす ると、 そのハードルは高いようです。 グライダー では整備士の講習会が実施されているのですが、 飛行機では、 これからの課題といった状況です。 しかし自家用機の操縦士であっても、 整備管 理に対する正しい知識は必要です。 その知識が 無ければ機長の出発前の確認の 「当該航空機の 整備状況」 の確認も怪しくなりますから、 今回 のジェネアビ情報では、 航空局のサーキュラー に従って 「自家用航空機の整備」 を紹介します。 38 2009 SEP 博 航空局のサーキュラー 航空機に関するサーキュラーは、 国土交通省 技術部航空機検査課から、 航空機使用者、 航空 機・装備品の製造者、 整備・修理事業者等、 関 係者に対し、 航空法その他関連法規のより詳細 な内容を明示する場合、 航空機安全課の一般方 針を周知する場合、 及び、 技術的な一般事項そ の他必要と認められる事項を周知する場合に発 行される文書です。 「航空機検査業務サーキュ ラー集」 として市販されていて、 その記載範囲 は、 以下の通りです。 1. 航空機等の証明・承認に係る手続・方針等 2. 事業場認定に係る手続・方針等 3. 整備一般に係る手続・方針等 4. 航空機運送/使用事業に係る手続・方針等 5. 運航関係承認に係る手続・方針等 6. その他一般方針等 7. 各種一覧表 3項には 「No.3-024 自家用航空機の整備に ついて」 があります。 また、 1項の 「No.1-001 航空機及び装備品等の検査に関する一般方針」 は、 耐空検査、 予備品証明、 修理改造検査等に は無くてはならない存在です。 運送業者、 使用事業会社等でない場合、 2項、 4項及び5項は直接の関係はないのですが、 そ の他の項には、 航空機の耐空性管理に必要な内 容が記載されていますので、 整備士任せでは無 く、 内容を読んで理解しておくことをお勧めし ます。 航空機検査業務サーキュラー集 (自家用機の整備関係を抜粋) 1. 航空機等の証明・承認に係る手続・方針等 整理番号 件 名 発行年月日 No.1-001 航空機及び装備品等の検査に関する一般方針 H20.10.31 No.1-005 試験飛行等の許可について H19.03.28 No.1-006 自作航空機に関する試験飛行等の許可について H14.03.29 No.1-007 超軽量動力機又はジャイロプレーンに関する試験飛行等の許可について H19.02.01 No.1-023 機体の改造、 装備品の変更等の記録の管理 (変更審査表の取扱い) H17.10.01 3. 整備一般に係る手続・方針等 整理番号 件 名 No.3-001 航空機の整備及び改造 No.3-003 耐空性改善通報の取扱い No.3-010 高度計及び静圧系統の規格及び点検 No.3-011 二次レーダー・トランスポンダー装置の定期点検 No.3-013 小型航空機の排気系統の検査・整備 No.3-014 回転中のプロペラ及びローターブレードによる事故の防止 No.3-015 離陸滑走及び上昇中における操縦者座席の移動に起因する事故の防止 No.3-016 冬季における航空燃料の取扱い No.3-018 滑空機に装備する無線電話用電源装置の装備及び点検要領 No.3-019 航空機の自重及び重心位置の管理 No.3-020 経年ピストン発動機、 プロペラ及びその補記に関する整備 No.3-021 法定検査を行なった場合の航空日誌の記入要領 No.3-024 自家用航空機の整備 (含、 年次点検表) 発行年月日 H19.03.28 H17.10.01 H16.03.15 H16.02.06 H13.02.23 H12.11.27 H15.08.20 H12.11.27 H14.05.02 H13.03.30 H12.09.12 H19.03.28 H16.10.13 6. その他一般方針等 整理番号 件 名 No.6-001 航空機に係る不具合の報告・通報 No.6-002 航空機故障報告制度 No.6-005 旋回計の表示 No.6-006 精密高度計の定義 No.6-007 計器航法による飛行に使用する方向探知機及び VOR 受信装置の取扱 発行年月日 H18.09.28 H18.09.28 H12.12.12 H13.01.26 H13.04.01 7. 各種一覧表 整理番号 件 名 No.7-002 耐空検査員一覧 No.7-006 航空機及び発動機の各型式設計国一覧 No.7-007 輸入航空機に対する特別要件及び特別付加要件 発行年月日 H19.06.07 H13.10.10 H16.07.12 これらのサーキュラーの他に、 以前の整理番号であった TCL- (各種情報)、 TCM- (各種方針等)、 TCI- (各種検査基準等) も、 同じサーキュラー集に含まれています。 特に TCI- 等には、 自家用機 においても、 実際に利用するものがありますので、 目を通して、 理解しておくことが必要です。 2009 SEP 39 自家用航空機の整備 1. 整備の基準 航空機を整備し、 耐空性を維持するためには、 前述の 「航空機検査業務サーキュラー集」 に定 められた内容と共に、 機体、 エンジン、 プロペ ラ、 及び各種装備品について、 それぞれの製造 者からの情報を入手し、 その指示に従う必要が あります。 特に整備の実施間隔及び部品の廃棄 時間等には注意する必要があります。 2. 整備の確認 航空機の整備において、 機体のオーナーや操 縦士等が実施することができる範囲及び有資格 整備士の確認を要する範囲等は、 航空機検査業 務サーキュラー集の No.3-001 「航空機の整備 及び改造」 に定められています。 便利だからと 言って、 機内への装備品の追加等を、 勝手な判 断で実施してはいけません。 独立電源のハンディ GPS 等の持込みは良いとして、 それを機体に 取付けたり、 電源を機体から取ったりしますと、 機体適合性の問題が出てきて、 修理改造に該当 すると判断されることがありますから注意が必 要です。 3. 施設・工具・機器等 航空機を良好な状態に維持するためには、 必 要な施設・工具・機器等を揃える必要がありま す。 また、 精度の確認を要する検査機器等は、 定期的に所定の検査機関で検査をする等、 きち んとした管理体制が必要です。 4. 油脂、 消耗品等 航空機の整備には、 多くの油脂、 消耗品等を 使用します。 それらは、 所定の規格のものをそ ろえておかなければなりません。 例えばグリースは、 車輪ベアリング等の高回 転部分用から、 脚、 操縦系統等の大荷重用まで、 様々な規格があります。 また、 低温で固くなら ない特殊なものもあります。 この辺を間違えま すと、 高高度の低温環境下で、 操縦系統のフリ 40 2009 SEP クションが大きくなって、 操縦に支障といった 状況にもなりかねません。 また機体ワックス等では、 不用意に FRP 構 造の機体に使用しますと、 修理の接着剤が効か なくなるといった怖いものもあります。 航空機 に使用するものは、 適当な感覚で使用するので はなく、 機体のマニュアルをよく読んで正しい 製品を使用する必要があります。 5. 作業点検表 航空機の点検等に際しては、 製造者の定めた 整備等の取扱い要領に従って作業点検表を作成 し、 整備を実施し、 その結果を記録することが 必要です。 定時点検の内容は、 一般的には、 25 時間、 50時間、 100時間、 年次点検、 暦日点検、 救命機器等の点検、 飛ばない期間の点検等があ ります。 大きいものでは、 機体の500時間、 1000時間点検、 装備品の限界使用時間での交換、 オーバーホール要求がありますので、 それらの 実施時期の管理表も必要です。 もちろん、 それ らの作業点検表は、 常に最新状態に維持してお く必要があります。 6. 発動機の試運転 整備を実施した後、 発動機の試運転を必要と する場合は、 製造者の定めた要領に従い、 性能 及び機能が適切であることを確認し、 記録する ことが必要です。 基本的には飛行前の試運転と 同じなのですが、 整備確認として実施する場合 はよりシビアにチェックし、 その結果を正確に 記録しておく必要があります。 7. 飛行試験 整備を実施した後、 飛行試験を必要とする場 合は、 製造者又は航空局の定めた要領に従い、 性能及び機能が適切であることを確認し、 記録 することが必要です。 国内で飛行中の多くの機 体には、 航空局が定めた耐空検査更新用の飛行 試験実施要領が定められています。 耐空検査整 備を依頼している整備会社、 整備士は、 必ず保 有していますから、 コピーさせていただくと良 いでしょう。 になりますので、 慎重に状態を見極め、 必要な 整備の範囲を検討する必要があります。 従って、 整備士と航空機製造者との間で調整を進め、 航 空局とも調整して、 作業を進める必要がありま す。 11. 耐空検査時に準備する書類 前述の航空機検査業務サーキュラー集、 No.1-001 「航空機・装備品の証明・承認に係 る手続き・方針等」 に定められています 整備中の飛行機 8. 航空機の装備品及び部品 航空機の部品は、 製造者等の定めた交換時間 等の管理が必要です。 また交換部品のうち、 予 備品証明対象部品については正しい品質のもの であることを示す証明が必要です。 その場合、 新規製造品は、 外国の品質証明で機体への取付 けが可能ですが、 修理品は、 その経歴等を添え て、 予備品証明を取得し、 機体に取付ける必要 があります。 また部品の交換作業は、 簡単なよ うでも整備士の確認が必要なことが多いので、 注意が必要です。 9. 耐空検査時の整備 耐空検査の受検前には100時間点検及び年次 点検を行い、 飛行試験を行って、 性能及び機能 が適切であることを確認することが必要です。 年間の飛行時間が少なくて、 整備士に見ていた だくのは年に1回のみといった機体の場合は、 十分な時間の余裕を見て耐空検査整備に臨むこ とが必要です。 特に野外係留の機体の場合は、 機体の隅々までの腐食管理や、 機体構造内の鳥 の巣の除去等が必要なことがあります。 ここで 時間をかけて整備をすることで、 機体の状態は 良好に維持されます。 10. 使用時間又は経過年数の多い航空機 これらについては、 製造者等によって定めら れた整備のみでは不充分なことがあります。 高 温多湿の日本の環境で、 海の近くの飛行場に野 外係留している場合は、 極めて過酷な腐食環境 12. 記録の管理 航空日誌の他、 以下の管理が必要です。 ・修理改造の記録 ・TCD (耐空性改善通報)、 SB (サービス・ブ リティン) の内容、 適用有無、 実施の記録 ・重量及び重心位置 (飛行規程に記載) ・主要装備品一覧表 (原則として予備品証明対 象部品及び時間管理装備品の管理記録) 13. 飛行規程 飛行規程は飛行安全の原点となるものですか ら、 製造者、 又は航空局通報等を反映し、 最新 の状態に維持改訂することが必要です。 14. 耐空性管理所 機体の定置場を管轄する航空局の航空機検査 官室が該当します。 自家用航空機の使用者は、 担当の航空機検査官室に、 耐空性に係る事項を 随時相談することが出来ます。 15. TCD (耐空性改善通報) TCD は、 航空機、 発動機、 プロペラ、 装備 品等の耐空性維持のために、 製造国等の情報に 基づいて、 航空局が検査、 修理、 交換、 改造等 の指示をするものです。 この通報を受けたなら ば、 指定の期間内に適用有無を調べ、 指示に従 う必要があります。 中には 「次回飛行前に検査 のこと」 といったものもありますから、 TCD が発行されたならば、 その確認が完了するまで は、 飛行を控える姿勢が必要です。 また、 確認 後は、 航空局への報告が必要です。 2009 SEP 41 16. 故障報告 航空機、 発動機、 プロペラ、 装備品、 部品、 救急用具等の故障等を発見した場合は 「航空機 検査業務サーキュラー集」 に従って、 航空局に 報告することが要望されています。 17. 技術資料 航空機の所有者又は整備担当者は、 製造者の 発行する取扱要領、 装備品一覧表、 パーツ・カ タログ、 飛行規程、 技術通報等について、 常に 最新版を入手しておくことが必要です。 エンジンルーム内は良く理解して点検する 18. 整備実施者 航空機の整備実施者を定め、 耐空検査には、 整備実施者及び所有者等が立会い、 航空機の安 全性の維持に努めるべきとされています。 以上の内容は航空局サーキュラー No.3-024 「自家用航空機の整備について」 に述べられて います。 整備管理作業 以上、 延々と記述して来ましたが、 要は、 耐 空性の維持とは、 正しい情報管理と、 必要作業 の実施及び確認となります。 必要な内容を実施 しなければ耐空性は維持できませんから、 整備 士に委託すれば、 実行の手間が費用となって請 求される当然です、 高額なようでも、 委託する 以上は、 仕方がないのです。 整備コスト削減には、 先ずは、 整備管理作業 を自分達の手で実施するのが良いでしょう。 耐 空検査受検書類にしても 「航空機検査業務サー キュラー集」 に従って作成することが可能です。 必要な情報をきちんと管理しておけば、 決して 難しい話ではありません。 また、 製造者等とは、 常にコンタクトが取れるよう、 担当者を決めて おくのが良いでしょう。 日常の整備及び点検検査作業 日常の保守管理は、 既にパイロット自身が行っ ているものと思います。 飛行前後点検、 清掃、 注油・給油等です。 これらの作業は、 スクリュー を緩める程度のことがあったとしても、 特に難 しいものではなく、 パイロットとしての、 通常 の注意力を働かせて実施することで実施可能と 思います。 問題はその先の時間点検です。 25時 間、 50時間、 100時間、 暦日点検等が該当しま す。 これらの作業においても、 有資格整備士の 指導監督のもとに、 ある程度の基本的な知識と 技量の指導を得た作業者が実施することも可能 です。 整備作業の実際 整備会社での耐空検査整備作業 42 2009 SEP 飛行機はごくデリケートですし、 空を飛ぶも のですから、 作業は確実でなければなりません。 作業の基本が出来てないために、 小さなボルト をネジ切ってしまう等のことがありますので、 航空機のボルトやスクリューは、 正しいトルク で締められるようになるまでは、 指導を得て修 行を積むことが必要です。 更に大切なことに、 残留異物の管理がありま す。 セーフティ・ピンや、 ワイヤー等の切れ端 を機内に残留させると、 最悪操縦系統等の動き の拘束といった事態さえもありますから、 残留 異物の管理は極めて重要です。 では、 パイロット等が自分で整備が出来るよ うになるにはどうしたらよいでしょうか。 結論 から言いますと、 整備士を仲間に加える等して、 指導を得ることが必要です。 簡単な作業のよう でも、 正しい作業知識、 作業手順、 機材、 油脂 等の資材の知識、 作業記録等、 航空機の整備に は独特のセンスが必要です。 これらが身に付く までは、 整備士の指導が必要なのです。 各種工 具や計測機材も正しく使えなければなりません し、 並行して機体各部の状態を確実に見て検査 することが必要です。 このようなことが身について作業が実施出来 るようになれば、 分担した内容についての整備 作業を実施し、 その結果を有資格整備士に報告 し、 確認を受けるといったことも可能になるで しょう。 整備は、 確実な実施と確認が全てです から、 中途半端な考えで実施されたのでは困る のです。 同様です。 敷居の高い世界のようですが、 免許は海外で 安価に取得し、 飛行機も中古で、 となれば、 小 型機所有の夢は、 決して不可能ではないでしょ う。 維持費の内、 燃料、 オイル、 定期交換部品 代や、 保険料は多少削減の工夫の余地があると いった程度でしょうし、 駐機費用、 飛行場利用 料金等の固定費用は、 別に議論するとして、 残 るは整備費用等となります。 車でも、 民間車検が広まっているように、 小 型機の場合も、 整備費用を節約する方法はある のでしょうか。 「YES」 と言いたいところです が、 それには条件があります。 前述のように、 航空機の整備には、 正しい知識と技量及び情報 の管理が必要ですから、 先ずは、 そこのところ を理解しなければなりません。 最近、 諸外国では、 より安価に空を飛ぶため の、 ライトスポーツ・パイロットとライトスポー ツ航空機の制度が普及していますが、 その根底 にあるのは、 自己責任の考えです。 即ち、 機体の耐空性の管理は、 自らの責任で 実施というものですが、 そのためには、 パイロッ ト自身が、 航空機の整備管理 (耐空性維持) の 知識を身につけるための方策が必要です。 日本 ではパイロット自身が整備を行うことの普及に は、 まだ難しい面が多いとは思いますが、 この 辺のテーマについて、 もう少し考えてみたいと 思います。 おわりに 時々 「日本で軽飛行機を自家用機として飛ば すにはどれ位のお金がかかるか」 と聞かれるこ とがあります。 私の答は簡単で 「小型飛行機の 場合、 全て車の十倍」 と言うものです。 免許取 得の費用も飛行機購入の費用も、 維持費用も、 それぞれ車の10倍のオーダーと考えて先ず間違 いは無いと思います。 価格300万円の車に相当 するクラスの飛行機は、 3,000万円台、 車の免 許が40万円台ならば、 飛行機は400万円台と言っ た感覚です。 車検に相当する耐空検査の費用も Cessna 社の 「ライトスポーツ航空機」 C162 参照文献等 1. 航空機検査業務サーキュラー集 2. PILOT 誌2002年11月号 3. CESSNA 社 C162 情報 (写真) 2009 SEP 43 ◎寄 稿 スコールの空の下で 朝日航洋、運航部大型グループ・機長 田頭 勝 42歳当時 ●前書き この記録は、 1981年12月25日にシンガポールへ初めての海外出張をして、 12月28日に、 希望と不 安を抱きながら初の国際フライトでインドネシア入りをしたことや、 ATA (Asahi Transna Airways・朝日航洋とインドネシアのトラスナ航空との合弁会社) での数々の仕事に携わった時の体 験や、 現地の方々との交流や話題をもとに書き綴ったもので、 2回目インドネシア勤務が終了して、 メダンを離れる際に、 メダンジャパンクラブの機関紙である“MEDAN 便り”に投稿した原稿を もとに、 編集したものです。 ●初めての国際フライト メダン (MEDAN) より針路を北西に取る。 44 2009 SEP 家並みが途切れると、 幾本もの蛇行した川を横 切りマングローブの樹海に出る。 「高度 500m」。 ここが私の仕事場である。 1987年12月、 今は雨期。 その6年前、 2機の ベル212型双発ヘリコプターを大空輸すること が決まり、 シンガポールを発つ時は、 編隊飛行 を計画していた。 しかし、 リーダー機は無常に も先に飛び立ってしまった。 我々は15分ほど遅 れてセレタ空港を出発したものの、 管制塔より 針路変更を強制され予定コースを大きく離れる ことになった。 それでなくとも単機単独の上に 久し振りに乗る機体ときているので、 不安は増 大するばかりであった。 先行機の2名のパイロッ トを恨めしがってはいられない。 洋上に放り出 されて小さな島々を通過するのであるが、 縮尺 100万分の1の地図での航法はあまり慣れてい ない。 通常使用している地図は50万分の1であ る為、 目の感覚の2倍の時間を要するのである。 20分もすると小島すら見えなくなり、 時たま船の 航跡が目に入るだけである。 ようやく計器や装 置類の扱いも手に入り、 シンガポールらしい無 線局をチューニングすることが出来た。 しかし、 確たる証拠が無い。 なにしろ先行機に完璧な航 法計画を全て積んでしまったのである。 あとは 何も目印がない洋上で、 計画された針路を保持 するしかなかった。 40分後には、 北半球と南半 球を二分する赤道を横切るはずである。 しかし、 行けども行けども海また海。 船すら見つけるこ とが出来ない。 この時ほど地球の円さを恨めし く思ったことはない。 50分後には、 シンガポー ルの管制塔に、 FIR 通過の報告をして、 いよ いよインドネシアの空へ入った。 それから30分 も経つのに依然として陸地らしいものが見えな い。 燃料計は残り2時間を指している。 「今な らシンガポールへ戻ることが出来る……!」。 地図の目分量からすると、 当に陸地が見えても 良いはずであるが、 海の広さをいやという程思 い知らされた。 更に5分ほど飛ぶと、 右前方の 一面のスモークの中に白い雲の様なものが見え てきた。 1時間半経って初めて目に入って来た 変化した物体に、 機首を右に振りたい衝動に駆 られながら、 忍耐強く針路を保持することにし た。 しばらくすると、 うっすらとした海岸線を 捉えることが出来た。 人間は、 思考が限界近くになると、 普段考え もしない色々なことを思い浮かべるものである が、 地上に降り立つとそれが滑稽にさえ思えて 来る。 このフライトは、 私の常識感を180度変 えるのに大変役立ったと言える。 ●バリックパパンへの大空輸 ジャカルタでの仕事も無く、 インドネシア人 の“S”パイロットを訓練していると、 バリッ クパパン (BALIKPAPAN) へ空輸の話が持 ち上がった。 「渡りに船 (いやヘリか?)」 で訓 練を兼ねてジャカルタを発つことにした。 スラ バヤ (SURABAYA) までの5時間は、 のん びりとした観光気分だった。 スラバヤからバン ジェルマシン (BANJIRMUSIM) へのルート は、 パイロットが一番嫌がる魔の海峡がある。 途中に島が3つ・4つあるだけで、 バンジェル マシンへ直接飛ぶと約3時間の距離である。 そ の中のマサレンボという小さな島は、 燃料補給 地として賑わう小さな石油基地である。 我々もその基地をヒットして、 残燃料を見な がら、 出来れば無給油で飛ぶという計画を立て た。 カリマンタンの大地を捉えた時、 空港方面 は真っ黒な雲に覆われていて、 管制塔は 「ヘビー レイン」 を通報して来た。 スラバヤを後にして 3時間、 前方の黒い壁を睨みつけながら、 空港 への最終進入に入った所で、 カリマンタンへの 遠来の友を迎え入れるかの様に、 雲のカーテン が北西の空へゆっくりと移動してくれた。 我々 の機体は遠慮気味に、 水を打ったばかりの滑走 路に舞い降りた。 ここから、 我が社の整備基地があるバリック パパンへは、 一っ飛びである。 山越えをし終わ ると、 雲が低く垂れ込めて来た。 遂に行く手を 塞がれてしまったので、 訓練生の操縦カンを取 り上げて、 モーターボートの様に、 川面すれす れの飛行をするはめになった。 北を目指してい た機首が、 いつの間にか南を向いたり、 東に向 いたり、 何処を飛んでいるのか判らない。 しか し、 もう目的地の近くまで来ているはずである。 幸い途中に木材のキャンプがあり、 そこで翼を 休ませてもらったが、 散々であった。 2009 SEP 45 翌朝も良い天候では無かった。 タラカンを発 つと20分程で低い雲の層に出くわした。“S” パイロットが、 「この辺ではいつものことで、 30分も飛べば抜けることが出来る」 と言うので、 結局 300ft での飛行を続けざるを得なくなった。 1時間経っても依然として回復しない天候に疑 問を持ちながら不時着場を捜していると、 谷間 は勿論のこと、 山頂に至るまで白い雲の壁がそ そり立っていた。 反転して海に出ようとしたが、 既に退路も塞がれてしまった。 一刻の猶予も出来ない。 訓練生から操縦カン を取ると、 垂直降下をすることにした。 日本の 物輸作業で研いた腕を発揮する時が来た。 ヘリ コプターが樹木の中に入ると周囲が急激に暗く なり、 不安が脳裏をかすめた。 「右は大丈夫か?」 と聞いても 「……」。 訓練生は機上誘導をした ことが無く、 緊張して声が出ない。 更に不安が 増大した所で、 突然コーションライトが点灯し た。 「ギョッ!」 とした次の瞬間、 日本語で 「後方 OK です」 の声が流れた。 整備士がたま りかねて客室ドアーを開けて誘導してくれたの である。 やはり日本語は頼もしい。 永いホバリ ング降下の後 「コツン」 とスキッドが地上に触 れて、 やっと大地に足が着いた。 両エンジンを カットすると、 先程の整備士が話しかけて来た。 「ドアーを開けた時に真下を見たら怖かった。 しかしテールローターが木に接触したらヘリが 落ちるかも知れないので勇気を出して誘導した んだ」 と。 促されて、 フッと上を見上げてビッ クリした。 なんとエントツの穴にでも入り込ん だかの様に、 真っ暗なジャングルに白い穴がポッ カリと開いている光景であった。 周囲の何処に も触れること無く脱出が出来るものか。 また不 安が脳裏をかすめていった。 長居は無用である。 今度は私が機長席に乗り変わってエンジンを始 動した。 左側で整備士に誘導してもらう為であ る。 前方および右側ぎりぎりに障害物を捉えれ ば脱出できない訳が無いと読んだからである。 機体が徐々に上昇した。 木の枝1本1本を確認 しながら、 1m ……また 1m と。 手に汗を握り ながら 100m 位上昇すると、 ようやく長いエン トツ状態から脱出することが出来た。 今度は海 46 2009 SEP に向かうと思われる道に沿って自動車の如く、 のろのろ飛行を続けた。 目の前にサッカーグラ ンドを見つけた時、 娑婆に出られたという安堵 感がどっと押し寄せてきた。 翌朝、 村長ほか親切なカンポンの皆さんに深々 とお礼の挨拶を送り、 別れを告げてサッカーグ ランドを飛び発った。 こうしてジャカルタからタラカンへそしてバ リックパパンへの16時間の長い旅がようやく終 わった。 ●メダンへの緊急フライト 一機のベル212型がスマトラ (SUMATRA) の地で作業することになった。 3人の日本人が 出向しているのに、 巡り会わせか、 新しい仕事 の設計が私のところに回ってくる。 ① 初仕事が、 事故機の回収作業でスマトラの 赤道直下のジャプラ空港へ。 ② バリックパパンへの大空輸。 ③ 木材調査でカリマンタンへ。 ④ スマトラの西海岸のブンクル (BUNGKAHLU) へ VIP 輸送。 ⑤ コタバルーでの石炭鉱脈調査。 ⑥ メダンからウジュンバトゥ (UJUNGBATU) の石油人員輸送。 ⑦ マタック (MATAK) 島への大空輸およ び石油人員輸送。 何れも5時間を悠に越える大仕事だった。 そ れだけにインドネシアでのフライトは味わいが 深いのだ。 1ヶ月間に渡り、 ホテルダナウトバを宿泊所 兼事務所として、 メダンよりヘリコプターで約 2時間の、 ジャングルを切り開いたヘリポート へオイルマンを送り込んだ。 私達の勤務体制は、 2週間オンの1週間オフだった。 2回目の勤務 からは、 ジャングルのウジュンバトゥ基地が完 成し、 ついに Orang hutang (オランウータン・ 森の人) の生活が開始された。 ある日、 作業が終わって宿舎でのんびりして いると、 ディスパッチャーからフライトの要請 が届いた。 「病人がいるのでメダンまで飛んで欲しい」 とのことである。 地図を広げて航法計画を立て ると、 30分くらい日没に掛かってしまう。 もしダナウトバ (DANAUTOBA) への直 線コースが飛べれば何とかなる。 途中のグヌン トゥア (GUNENGTUA) で病人を乗せると夕 焼けの空へと飛び立って行った。 あいにく病人 が高々度に耐えられないとのことで、 直線コー スは断念せざるを得なかった。 乗員2名、 乗客 3名と比較的軽い状態であったので、 最大速度 ぎりぎりの 230km/h まで出してメダンを目指 すことにした。 ジャングルで日没になってしま うと完全な計器飛行になる為、 パイロット一人 では危険が多い。 夕焼けの空を飛び、 緊張の闇の中から明かり を発見した喜びで、 最高の一日となった。 大き なタメ息の中に 「平和な時より、 苦悩の中に人 生の喜びとか味わいが有るのではないか」 とい う実感が込められている様だった。 以来、 メダ ンへの緊急フライトは3回を記録している。 日本でも日航機墜落事故捜索時の夜間飛行が 問題になったが、 二次災害の恐れがあることは 事実だ。 であるが故に我々も日頃から訓練を重 ねて心の準備をして置かなくてはならない。 あ る先輩が、 プロとアマの違いを、 「プロは、 い ざと言う時も、 通常と同じ様に振舞えることだ」 と教えてくれた。 我々プロは勝算が有って、 初 めてフライトを実施するのである。 その夜、 一人の人を救うことが出来た後の清々 しさだけが残り、 宝石を散りばめた様なメダン の夜景も、 私の脳裏から一つまた一つと消えて 行き、 心地よい深い眠りに落ちて行った。 ●石油支援飛行10数年 マングローブと海、 そしてオイル。 インドネ シアに来て延べ2年半のフライトタイムは、 約 1000時間。 そのほとんどが石油支援飛行である。 ① スマトラのウジュンバトゥで、 コノコ石油 ② ジャワのスラバヤで、 コデコ石油 ③ 最北の地、 マタック島は、 コノコ石油 ④ グバン (GUBAN) では、 JOB (JAPEX とインドネシア国営石油の共同体) 日本に於いても、 10本に1本の試掘に成功す れば幸運であると聞いているが、 私の場合、 大 きいプロジェクトだけでも6本の出油に立ち会 うことが出来た。 10数年間で6回もお目出度い 時に居合わせた強運を大切にしなくてはいけな いと思っている。 今、 メダンよりパンカランブランダンへ、 そ してマングローブを抜けて悪天候の洋上に出る と、 コンパスの針路を保持して、 忍耐強く掘削 船が現れるのをじっと待つ。 この繰り返しの中 に、 オイルマンとして、 共に喜び合える (出油 に出会う) 日が来るのを待つ楽しみが蓄積され て行くような気がする。 困難を乗り越えて来る 喜びこそ最高の価値をもたらすはずだ。 この1時間半のフライトの中に色々な人生の 生き方が織り込まれているとしたら、 「さらに 充実したフライトを心掛けなくては」 と自らに 言い聞かせよう。 ●お客さんは辛いね? メダンの作業が軌道に乗った頃、 スラバヤの 2009 SEP 47 石油支援作業もスタートした。 3人の日本人パ イロットはフル回転となり、 ジャカルタで6日 滞在する以外は、 メダンとスラバヤに貼り付け になってしまった。 そんなある日、 1人のパイ ロットがヘリコプターから足を滑らせて飛行不 能となり、 休暇で帰ったばかりの私が、 次の日 にメダンへトンボ帰りするはめになった。 忘れられない日 「1982年10月1日」。 不定期なクルーチェンジのため、 勤務交代用 の航空便がなく、 ペリタ (PELITA) 航空の5 人乗り小型ヘリ (ヒューズ500型) が手配され た。 彼らもクルーチェンジでグヌントゥアへ行 くとのことで、 私は後部座席のお客さんとなっ た。 卵形をした可愛いらしいヘリの左手機長席 では、 いかにも若いパイロットがエンジン始動 を始めた。 計器、 スイッチ類を手順に従ってチェッ クしている様子だが、 私としては気になる点が 2つ有った。 ① 姿勢儀が7°ほど傾斜している。 ② ジャイロコンパスをマスターコンパスに合 わせていない。 機は、 ポローニア空港を出発した。 私は連日 の勤務の疲れか、 心地良い振動に、 うとうとし てしまった。 ヘリが大きく揺れ始めたので目を 覚ますと、 もう50分ほど飛んで来た。 ランタウ プラパットの辺りから時折小雨が風防に当たり 始め、 下層雲が広がっている。 この辺の気象は私も良く知っていたので、 こ の時間になると雲の下に出れば良いのにと思っ ていたが、 彼は雲上を飛び続けている。 次第に 48 2009 SEP 中層雲が垂れ込め始めた。 後方を見ると、 まだ 雲の切れ間がある。 パイロットに引き返すよう に要望したが反転する気配が無い。 彼は少しで も早く目的地に着きたいと、 ショットカットコー スを取り山間部へ入って行った。 3回目の反転 要求は命令調に大声で怒鳴っていた。 ようやく 反転の意思を示したが、 「右旋廻?」 ……。 なんと馬鹿な。 機長席が左で、 右旋廻では後 方確認が出来ないではないか。 「何年ヘリに乗っ ているんだ!」。 私が教官だったら 「ビシッ!」 と愛のムチとなる所だ。 案の定、 雲中に入って しまった。 出発前の嫌な予感が的中して、 計器 飛行にならざるを得なくなった。 と言っても根 本の姿勢儀が正しくセットされていないので計 器飛行も困難極まりない。 計器誤差を頭に入れ て飛行すれば出来ないことも無いが、 うっかり 雲中に入るようなパイロットには、 その準備も 出来ようはずがない。 360°の水平旋廻をすれ ば元の空間に出られるが、 緊張すると手足の筋 肉が萎縮するもので、 操縦カンを引き、 機は上 昇して完全に雲の本体に入ってしまった。 当り一面が白一色になり、 高度は2000ft か ら2700ft に上がり、 パイロットはバーティゴ に入った様子で、 今度は急降下で落ちて行った。 機速は超過禁止の 250km/h を悠に超え、 異常 振動が激しく襲って来た。 長い時が流れた様に思えたが、 実際は2、 3 分の出来事だった。 機は数回旋転して、 雲の切 れ間から2、 3回山肌を見た。 「山が近い!……」。 緊張が走った。 それからすぐに雲から吐き出 される様に緑の谷間に飛び出した。 高度は既に 600ft まで降下していたが、 祈りが叶ったのか、 落ちて来た所が幸いにも谷間だった。 山腹の少 し開けたところに分校の小さなグランドが有っ たので、 天候回復までそこで待機することになっ た。 着陸後、 右席に乗っていたフランス人と話 していると彼もパイロットであることが判った。 フランス人、 日本人、 インドネシア人と3人の パイロットが乗っていて、 山中に激突じゃ、 新 聞になんて書かれるか分ったものではない。 悪天候の中を飛ぶのも勇気がいるが、 引き返 すことは更に勇気のいることである。 その決断 点を見失うと命がいくつ有っても足りない。 ●闇と光 悪天候に付き物と言えばカミナリである。 ある日のこと、 日没近くに緊急フライトが始 まった。 作業量は約1時間のスリング (荷物を 吊り下げての飛行) 作業となった。 試掘場への 橋が流された為にトラック輸送が出来ず、 試掘 井戸の圧力上昇が激しく、 危険な状態の中でヘ リに依存するしか無いそうだ。 夜間飛行のミラー使用は禁止されているので、 原則としてスリングは出来ない。 しかし現場に 居る者としては、 人道的に飛行を実施せざるを 得ない。 物輸内容そのものは5m位のパイプと セメント・砂など、 困難なものは無かった。 フ ライトを決断して30分で薄暮状態になり、 この 頃から稲妻が遠くでキラメキ出した。 闇が深く なるにつれて、 キラメキも近づきつつある様に 感じられた。 最終フライトの、 基地まであと10 分の地点で完全に日没を迎え、 遠くに基地らし い光を見つけた時、 愛機の左後方で凄まじい閃 光が走った。 一瞬、 昼間見慣れた地形が眼前に クッキリと浮き彫りにされたかと思うと、 次の 瞬間には何も見えなくなり、 盲目同然になって しまった。 予め計器灯をメいっぱい明るくして おいたので、 数秒後には通常視力に戻ったが、 闇夜の稲妻がこんなに恐ろしいとは思わなかっ た。 この体験のお陰で、 現在運航中の石油支援 飛行では、 ゾーさんの様に目を細くすることに より不安なく夜間の稲妻旅行を楽しむことが出 来た。 く寝ようと宥めていたが、 毎晩のように日本の 家族の話をやらかすので、 私も寝不足が続き、 楽園どころでは無くなった。 彼はノイローゼの 一歩手前だった様だ。 楽園最後の一週間は昼寝 の連続となり、 同じ場所に居ながら、 こんなに も変わるのかと思った。 インドネシアの空に限 らず、 何処の空も二度と同じ顔を見せてくれな い。 何処にも素晴らしい出逢いがあり、 同じ位 の苦しさもあった。 日本を発って、 楽園を求めてインドネシアの 空を飛び周った。 そこには物理的な素晴らしい 変化はあったかも知れないが、 離着陸約1500回 のスマトラの空に、 同じ人生があった様な気が する。 出逢った空で、 最大限に自己の生命を燃 焼させる以外に本当の素晴らしい空とはなりえ ないと感じた。 メダンを離れる2日前の2月14日 (日)。 インドネシア最後のフライトが用意された。 ロクスマウエ (LOKSMAWE) からプルタ ミナ国営石油の総裁をメダンにお連れすると言 う VIP 輸送となった。 これでスマトラ島を完 全縦断したことになり、 インドネシアの素晴ら しい思い出がまた一つ追加され、 有終の美を飾 ることが出来た。 帰り道、 トゥントゥンガン・ ゴルフ場に近づくと、 浅井さんと山田さんが手 を振っているのが見えた。 「今日もスコアーが 良くなり、 次回のコンペこそ優勝を!」 と祈り を込めて手を振りながら、 思い出多き、 紺碧の トゥントゥンガンの空より、 メダン・ポローニ ア空港へ最終進入をした。 《完》 ●やはり 同じ空だった。 出張が3週間目に入ると、 食べるもの、 やる こと全てが単調で夢の国も、 次第に色サメて来 てしまう。 相棒の整備士の様子が変化し始めた のはそんな時だった。 決まって夜の12時を過ぎ ると、 「キャプテン、 もう寝た?」 と話しかけ る様になってきた。 最初は、 明日が早いから早 1988.2.16 紺碧の空 メダンを離れる 2009 SEP 49 ◎寄 稿 報国石川号 とく 作 画 得 猪 大須賀 (1) 昭和5年、 日本中が不況にあえいでいた。 前 年のニューヨーク株式市場の暴落に端を発した 世界不況の波は、 たちまち日本にも波及した。 鈴木商店の倒産や銀行の取り付け騒動をきっ かけに企業倒産、 労働争議が続出した。 日本の主要な輸出商品であった生糸の相場は 大暴落し、 養蚕に依存していた農家は大きな打撃 をうけた。 おりから東北の凶作から娘の身売りや、 欠食児童の増加が大きな社会問題となっていた。 「このままでは日本はどうなるのだろう」 噴出した国民の不満のはけ口が、 移民の奨励 や満州や韓国、 台湾への進出に向けられたのは、 なかば当然の帰結ともいえる。 当時の世界情勢は弱肉強食の時代である。 ロ シア、 アメリカ、 イギリス、 フランスなどは植 民地獲得競争が一段落したあと、 政情不安な中 国の利権を虎視眈々と狙っていた。 日本も満州国に傀儡政権を成立させ、 満州鉄 道を経営して本格的に進出しようとしていた。 その背後には膨大な軍事費が必要だった。 しかし、 その頃の国家予算では軍が要望する 兵器や航空機を充足させることは非常に困難な 状態だった。 窮余の一策として国は各地方の在郷軍人会を 動員して、 広く国民一般からの寄付を仰ぎ、 県 からの支出もあわせて兵器を献納することを奨 励する。 石川県政は混乱していた。 金沢市会議員選挙では民政党が大勝し、 全国 的にも与党である民政党が議席の多数を占めた 50 2009 SEP い 外 ケ 明 イ ので、 県会での多数派、 政友会は 「力なき多数 派」 というねじれ現象が生じていた。 この結果、 民政党系の県当局と政友会の対立 が起こり、 県議会の運営は紛糾し、 県民不在の 状態となったため、 県農民負担軽減期成同盟会 から知事と全県会議員の辞職要求が提起された り、 県政批判県民大会が開かれたりした。 この年、 金沢中町の中村印刷所の争議で、 支 援者と警官隊が乱闘となり、 はじめてストに対 する検挙が行なわれた。 このとき支援にあたっ た朝鮮人労務者を含む150人は金沢市内南端国 道を工事中だったが、 その登録制度廃止を要求 して国道改修事務所にデモをおこない、 まもな くサボタージュに入った。 また能登麻織物組合は半年間の休業を決定し たのに対し職工が反対して騒ぎ、 10月にも大聖 寺の北陸印刷会社で賃下げが4割5分にも達し てストになった。 このような情勢のなかで、 石川県でも満州事 変・上海事件の進展を背景に、 有志の拠金で軍 用機献納の話がまとまり平賀知事、 石川県国防 研究会 (385名)、 その他海陸在郷士官、 陸軍各 軍団長、 各種学校、 各種官公庁、 新聞社などが 募金活動を公布し、 2ヶ月たらずで14万6500円 が集まった。 この資金で陸軍に戦闘機愛国号を献納するこ とになった。 金沢は日露戦争で活躍した第九師団が駐屯す る軍都であり、 陸軍の在郷軍人会の活動が活発 で、 県民にも家族や親戚が陸軍にいる者が多く 陸軍びいきになるのは当然だったともいえよう。 陸軍にだけ献納して海軍になにもしないとい うのは片手落ちだと、 たまたま呉鎮守府傘下の 2府15県共同で海軍機を献納するという計画に 1万円を寄付することとした。 これに異議を唱えたのは、 内務省から任命さ れた平賀県知事である。 もう少し寄付金が集ま れば海軍にも1機寄付が可能だと混乱する県議 会を押し切って決めてしまった。 海軍航空本部長の山本五十六中将は、 早くか ら大艦巨砲主義に異議を唱え、 将来の戦争は航 空機が中心になることを確信していた。 中国や南方への進出には、 優秀な戦闘機と本 土からの空襲が可能な航続距離の長い爆撃機の 開発が焦眉の問題だとして、 予算の獲得に奔走 していた。 このような時期に、 石川県から航空機献納の 申し入れがあったことは非常に有難かった。 石川県でも献納する以上は鈍重なフロート付 の水上機でなく最新鋭の軽快な艦上戦闘機にし たい意向で意見が一致し、 できれば白山姫神社 のお守りが奉納してある航空母艦 「加賀」 に搭 載してほしい旨申し入れた。 そのころ日本の航空機産業は黎明期である。 報国5石川号というのは、 当時海軍に献納され た飛行機は 「報国」、 陸軍の飛行機には 「愛国」 号として番号をつけるのが慣わしだった。 報国1号機はニッケ号と命名され、 昭和6年 日本毛織株式会社及び同社役員、 従業員が献納 したもので、 川西航空機が製作した水上偵察機 だった。 2号が 「報国2兵庫号」 でおなじ川西航空機 の水上偵察機である。 ついで 「報国3呉鎮号」 「報国4呉鎮号」 が海軍工廠で作られた艦上攻 撃機だった。 航空母艦はできたが、 搭載する飛行機は輸入 かライセンス生産によるもので、 完全な国産機 はまだなかった。 「飛行機のエンジンも作れない国が戦争など 出来るわけがない」 機関大尉を退役して、 自ら航空機製造に乗り 出した熱血漢がいた。 後に中島航空機の社長に なる中島知久平である。 中島は苦心惨憺の末、 昭和5年に、 始めての 純国産の艦載機の開発に成功した。 皇紀2590年にあたることから90式艦戦と呼ば れたこの飛行機は翼長9.4m、 機体の全長6.2m、 全高3.2m 全備重量約1.4t、 発動機は 「寿580馬 力」 武装は7.7ミリ機銃2門であった。 最新鋭の戦闘機といいながら翼は複葉・布張 りで、 操縦者は上半身が空中にむきだしになっ て、 羽毛の飛行服を着なければ飛ぶことができ ないという代物だった。 海軍にたいする献納航空機 「報国」 シリーズ は、 初期の段階では、 都道府県が献納した2号 が兵庫県、 5号が石川県、 8号が鹿児島県、 10 号が佐賀県、 11号が北海道と続いた。 山本五十六は空母 「赤城」 に得猪治郎という 面白い大尉がいることを知っていた。 豪傑で大酒 のみで操縦も乱暴だが腕は確かだとの評判だった。 その頃、 得猪大尉は分隊長だったが 「夜鷹分 隊」 と呼ばれ、 昼間は寝ていて暗くなると起き だし、 もっとも危険といわれる夜間の離着艦訓 練をやっていた。 昭和7年春、 得猪大尉は横須賀の航空本部に 呼ばれた。 「6月に金沢で行なわれる報国石川号の命名 式に出席し、 上空でデモ飛行をするように」 と いわれ困ったことになったと思った。 (2) 父得猪治郎は富山県伏木の生まれである。 祖父は日露戦争で第九師団歩兵第七連隊から 旅順に出征したが、 治郎が3歳のとき、 金沢出 羽町の陸軍病院で戦病死していた。 母の静は裁縫学校を経営して治郎を育てたが、 高岡中学4年のとき海兵を受験して江田島へ行っ た。 少尉のとき、 大空を自由に飛びまわる飛行機 にあこがれ、 霞ヶ浦航空隊の練習生を希望した。 口頭試問は士官宿舎の一室で行なわれ、 教頭の 2009 SEP 51 山本五十六大佐も同席していた。 煙草は好むか ハイやります 酒はどうか ハイやります どの位飲むか 黙って首を傾ける 1合くらいか もっとやります 3合くらいか もっとやります それじゃ五合か もっとです 1升飲みか また首を傾ける 1升以上どのくらい飲めるか 友達が貧乏少尉で足りるだ け飲んだことがありません。 従って何升が自分の酒量な のか答えられません。 試験官は驚いたが山本は面白い男がいると思っ た。 金沢へ飛べといわれたとき、 得猪が困惑した のは、 その責任の重さだった。 90式艦戦は赤城 で乗っていたので性能はよくわかっている。 開 発途上の戦闘機で小さなトラブルはしょっちゅ うだったが、 心配してもしようがない。 問題は横須賀の追浜から金沢まで、 どう飛ぶ かということだった。 飛行機の航続距離からみ れば日本アルプスを越えて一直線に飛べない距 離ではない。 しかし山岳地帯の悪気流を考える と自信はなかった。 命名式には大群衆が待ち受 けているのに、 途中で不時着でもしたら切腹し ても間にあわない。 若き日の得猪治郎氏 52 2009 SEP 航空母艦を日本海に回航すれば簡単なのだが、 そうもいっておれない。 得猪は日本地図を広げて考えた。 岐阜県の各 務原飛行場までは目をつぶっても飛べる自信は あった。 問題はその先である。 琵琶湖を縦断して日本海に出て海岸線に沿っ て北上するのが無難である。 滋賀県にしばしば 大雪をもたらす大陸からの風の通り道があるが、 山岳地帯にくらべればましだった。 しかし、 これは好天で視界がきくことが前提で、 命名式の行われる6月中旬は梅雨で雨天が考え られる。 雲の中に入ればコンパスと高度計だけ が頼りである。 無線もあてにならなかった。 第 一自分のいる正確な場所がわからないのである。 得猪は空母 「赤城」 で偵察訓練にでた際、 濃 霧で母艦の位置を見失い、 燃料不足で山口県の 串木海岸に不時着したことがある。 機体は全損だった。 もし視界が利かなければ日本海を一定時間真 北に飛び東に90度転針して、 能登半島の上空へ 行き低空で金沢を探すしかない。 一番気になったのは、 金沢で着陸する滑走路 の状態だった。 石川県に飛行場はない。 県が考えたのは、 金沢の十一屋にある陸軍の 野村練兵場だった。 得猪は現地を視察に行って驚いた。 野村練兵場は、 第九師団自慢の山砲の部隊が 鉄の車輪をつけた大砲を馬が曳く訓練をすると ころで、 砂利だらけで雨が降ると馬糞混じりの 泥が田んぼのようになって、 とても飛行機が降 りられるものでなかった。 もともと海軍と陸軍の関係はあまり良いもの でなかったが、 海軍の申し入れに対し 「わかりました。 当日までに責任を持って飛行 場を整備します」 と答えたのは、 工兵大隊付の 瀬山工兵少佐だった。 工兵120名が人海戦術で危険な小石の除去に あたり、 スコップで大量の石炭殻を敷き詰め、 ローラーで平坦に均して、 飛行機が着陸出来る 格好だけはつけた。 しかし大量の雨を含んだ場合、 車輪が沈んで着陸できないことは予想された。 たまたま新婚早々の得猪の妻鶴子は、 金沢の 第一高女の卒業で実家が長町にあった。 兄は彫塑家で日展審査員となり、 のちに芸術 院会員になる吉田三郎である。 妻の両親や兄弟の見守る前で着陸に失敗しで もしたら格好が悪いだろうなと思った。 (3) 6月8日午前10時、 得猪は横須賀の追浜飛行 場を離陸した。 天候は曇りである。 見慣れた風 景を眼下にみながら1時間で陸軍の各務原飛行 場に着陸した。 予めこの飛行機を整備できる整備員と燃料は 各務原と金沢に送ってある。 予定では、 ここで 給油してその日のうちに金沢まで飛ぶ予定だっ たが、 金沢では 「連日の雨天のため、 野村練兵 ウ レツ 場雨烈甚だし」 との連絡で断念した。 翌9日、 金沢は曇りとの連絡が入った。 午後0時半各務原離陸、 琵琶湖の竹生島を見 ながら北上、 間もなく日本海に面した越前岬が 見えた。 幸いにも視界がきいた。 海岸線を伝っ ていけばなんとか金沢に行ける。 魔法瓶のコー ヒーを飲んで機首を北東に向けた。 未知の海の上を一人で飛びながら、 得猪は1 年前霞ヶ浦航空隊でリンドバーグと酒を飲んだ ことを思い出した。 大西洋横断に成功したリンドバーグは、 今度 は北太平洋航路の調査のためにニューヨークから カナダ・アラスカ経由でロッキードのシリウス号 という水上機で妻と一緒に霞ヶ浦に飛んできた。 海軍のパイロットの有志で歓迎会が行なわれ たがリンドバーグは謙虚な男で、 ひとりひとりに 酒をついでまわった。 殆どのパイロットはあたり さわりのない賛辞を述べたが、 得猪だけは違った。 「おうリンディか。 よう来たな。 まあ一杯飲め」 29歳の二人は同い年で、 奇しくも生まれた年 はライト兄弟が初めて飛行に成功した年だった。 少し行くと岸壁に白波が砕けるのが見えた。 地図で見比べると東尋坊らしい。 あと30分も飛 べば手取川に続いて犀川の河口が見える筈だ。 残雪の白山が見えてきた。 金石から川沿いに上 がっていけば大乗寺山の手前に第九師団の兵舎 がある筈だ。 金沢市内に入ると、 高い建物がない街で尾山 神社の山門が目についた。 突然飛来した飛行機 に驚いた住民が外に飛び出して見上げているの がよく見えた。 野村練兵場の上空で旋回すると下で旗を振っ ているのが見えた。 高度を下げると予め頼んで あった吹流しが僅かに風向を示していた。 練兵場では100人ほどの関係者が固唾を飲ん で待ち受けていた。 航空母艦の甲板に着艦するのと違って、 でき るだけ機体を水平に保ちながら高度1メートル ほどで這うように進んだ。 一瞬、 車輪は土にめ り込むように見えたが着陸はうまくいった。 石 川県で初めて飛行機が降りた瞬間かもしれない。 エンジンを切って下に飛び降りると、 海軍の 服装をした松山中将に 「得猪大尉只今到着しま した」 と挙手の礼をした。 時間をみると午後2 時だった。 18歳になる平賀県知事の令嬢睦子が大きな花 束を贈呈した。 師団司令部の小川少将が乾杯の 音頭をとり、 報国号と操縦士の万歳三唱をした。 休憩して、 4時から命名式に備えて15分の試験 飛行を行なった。 この日に備えて特別に作られた格納庫に機体 をいれると、 直ちに番兵が警備に立った。 松山中将は得猪を片隅に呼び 「今晩宴会がある。 陸軍も一緒だからあまり 飲むなよ」 と忠告をした。 11日は飛行機の整備が行われ、 寄付に貢献し た団体責任者たちの見学があった。 機体は機密保持のため見学は番兵の厳重な警 備のなか行なわれた。 命名式が行われる12日は梅雨にも拘わらず奇 跡的によく晴れた。 会場には6万名の群集が集 まった。 小学校は休校だった。 広小路から十一 屋にいたる寺町通りは、 徒歩で会場に向う群集 でいっぱいになり、 市電も運行ができず警官が 交通整理にでる有様だった。 当時の金沢市の人 口を考えると約半数が見に行ったことになる。 それほど海軍の戦闘機には県民の関心があった。 2009 SEP 53 ホウテン 県も海軍もこの機会を捉えて宣伝しようとし ていた。 まず 「報国第5号 (石川号) 飛行機命名式に 就いて」 という案内書を5,000部配布した。 東京で準備された石川号の絵葉書4,000枚も 用意された。 さらに会場および訪問先上空で、 宙返り、 錐揉みなどの高等飛行術も披露するこ とになっていた。 式典は尾山神社の宮司たちのおはらい、 降神、 祝詞の儀からはじまった。 ついで平賀県知事の献納の辞があり、 海軍大 臣の謝辞があった。 飛行機を製造した中島飛行 機の中島知久平氏の満面の笑みをうかべた挨拶 もあった。 松山中将が海軍大臣の命名書を読み上げた。 「石川県民の赤誠により献納せられたる90式 戦闘機を報国石川号と命名す。 昭和7年6月12日。 海軍大臣岡田啓介」 第九師団長柴山中将、 前田候爵の祝辞に続い て祝電の披露があった。 玉串奉奠の後、 県の小 中学校代表の 「壮途を送るの辞」 があった。 代 表となったのは 馬場尋常小学校 前川光子 材木町尋常小学校 五十嵐晃 県立金沢第一高等女学校 乙村貴美栄 県立金沢第一中学校 米谷隆正 で金沢放送局 (JOJK) がこれを実況放送した。 54 2009 SEP 得猪は勿論玉串奉奠に加わったが飛行服に着 替えて高等飛行を披露するため観衆が見守るな かで離陸した。 機体がするすると浮揚すると期 せずして観衆から万歳の声があがった。 内容は上昇反転、 宙返り、 横転、 緩横転、 急 横転反転、 背面飛行、 垂直横滑り、 上昇横転、 錐揉み、 垂直降下などで初めて飛行機を見た観 衆は空を見上げて唖然とするばかりだった。 3,000メートルの高度から急降下して、 群集 の頭上7メートルで超低空飛行をやったものだ から人々は肝を冷やした。 一旦着陸した飛行機は、 県民に謝意を表する ビラ1万5千枚を積んで加賀・能登に分けて飛 び立った。 大量のビラで操縦席の中は身動きで きないほどだった。 金沢を出発し、 前後2回に分けて近隣の町々 を約4時間飛行した。 どの町に行っても住民が 手を振っているのが見えた。 得猪は感謝の念で ビラを撒いた。 羽咋では校庭に全生徒が並んで人文字を作っ て歓迎してくれた。 僅か先には得猪が生まれ育っ た氷見から伏木にかけての雨晴海岸の風景があっ た。 そこには年老いた母親がいる。 得猪は飛ん でいきたい誘惑にかられたが時間と燃料が許さ なかった。 得猪は翼を振って別れを告げた。 (完) From the Control Room 豪州チョー自家用航空見聞録 湧井カレン トゥンバ あったあった! 「歩行者は車に道を譲れ」 と ある (写真1)。 こんな看板を見つけると嬉し くなってしまう。 昭和30年代、 モータリゼーショ ンの始まった日本の地方都市の目抜き通りで、 自動車が歩行者を蹴散らしながら走っていたこ とを思い出すのだ。 オーストラリア、 クイーンズランド州トゥン バ市の中心街にある看板であるが、 筋向いの商 店街に渡る道として歩行者に便宜を図っている ものらしい。 車が靴代わりになっているこの国 ならではのもの、 歩行者はいつも弱者、 と言う 観念の我が国とは少し事情が異なるようだ。 写真1 横断歩道の警告 ここトゥンバ市は航空機設計の権威、 増田興 司さんが退職後の余生を優雅に暮らす街である。 増田さんはボーイング777の設計や YSX の研 究に業績のある航空エンジニア、 今は退職後の 余暇に自作単発機を操縦して楽しんでおられる。 本誌2007年11月号記事 「スポーツ航空ばんざい、 定年後にオーストラリアの空を楽しむ」 、 同 2009年3月号 「飛燕巡礼」 の著者でもあり、 本 誌読者にはおなじみでもあろう。 筆者はむかし、 特殊研究機のプロジェクトで一緒に仕事をし、 飛行制御についても氏から多くの教えを受けた。 5月の中旬、 南半球では中秋の時候だ。 かね ての約束どおり増田さんとの旧交を温め、 当地 のアマチュア航空活動を見学するため3日間の 予定で彼の地を訪ねた。 滞在中のケアンズから着替えひと組を持った だけの軽装で、 紺碧の空のもとグレートバリア リーフを眺めながら140分ほどジェットで飛ぶ とブリスベン空港に着く。 迎えて頂いた増田さ んとは、 30年以上の時空を超えての再会である。 トゥンバはここから 130km ほど内陸に入った 人口15万人の内陸都市、 標高 2000ft の峠の両 側に広がる清楚な街である。 ほとんどが熱帯に 属するクイーンズランド州でも唯一の温帯気候 で、 ワイン、 蔬菜、 穀物をよく産し、 交通の要 所として古くから栄えた文化レベルの高い街で あると道々、 氏からオリエンテーションを受け る。 大陸の内部に始めて分け入れる、 アウトバッ クと言う半砂漠をこの目で確かめたい、 と言う 筆者の期待は見事に裏切られる。 200km や 300 km 走ってもまだ Outback には到達しないよ、 と増田さん。 ユーカリはどこでも見る木だが、 トゥンバで は古代松、 Leopard tree, Bottle tree など日本 でなじみのない大木の街路樹が街の歴史を語っ 2009 SEP 55 ているようだ。 街並みは他の街にない欧州のた たずまいを感じさせる。 Toowoomba とはアボ リジニ語で 「水の湧くところ」 と言う意味だと。 中心街にその池は清潔に保存・管理されていた。 写真2 増田興司氏と増田邸 写真3 市民公園の道しるべ 中央の高台は市民の憩いの公園。 クラシック 音楽の盛んな街でもあるらしい、 週末ごとに野 外音楽堂でコンサートを楽しめると。 中心にあ る道しるべはスケールもでかい、 東京へ 7131km、 南極へ 6953km とあった。 居を構えて8年になるこの街に、 増田さんご 夫妻のほかに日本人はいないらしい、 珍しいこ とだ。 日本食レストランが1軒あるが、 嘘っぽ いので行かないとおっしゃる。 何でトゥンバに? 56 2009 SEP という疑問には、 氏の所属する EAA (Experimental Aircraft Association、 米国の組織) の示唆もあったけど、 国内をあちこち見てまわっ て気候、 飛行に適った条件、 奥方の希望などか ら決めたと。 街の中心を少し外れた高台のお屋敷地区に通 じる道は夜になるとゲートを閉じてしまう。 瀟 洒な増田邸はその一画にあるが、 お屋敷を褒め るのは本論ではない。 折から奥方は日本に帰省 中とあり、 スーパーマーケットで 200g のTボー ン・オージービーフ2枚を 11 AU$で仕入れ、 その夜は氏の巧みな調理による二人だけのディ ナーとなった。 普段はお酒を嗜まない氏に地ワ インをお付き合い頂き、 話が弾む。 (1AU$は 約77円) 30年来の越し方を語るには短い夜であったが 翌日は日曜日、 氏の愛機 Jabiru 機 (後述) で 20マイルの距離にある Gatton Airpark (自宅 と格納庫を滑走路に面して配置した航空愛好家 のコンプレックス) のフライ・インに出かけ、 朝飯を食べようと計画を立てた。 写真4 大陸の夜明け 翌朝、 早く目覚めた筆者は、 地平線から登る 朝日をカメラに収める幸運にも恵まれた。 日本では地平線が眺められるのは、 北海道の 一部にあるのだろうか、 快晴である。 陽射しの ある日中は30℃にも上る気温も夜明けは5℃ほ どだ。 100km 先の山並がはっきり見えるのは、 視程がその2倍ほどある証拠なのだろう。 空の交差点 序を決めて近隣の同僚マニアやその家族を招待 する習慣になっているらしい。 たまたま今週は Gatton Airpark の番となったところへ、 増田 さんと筆者が闖入したわけである。 写真5 増田さんの愛機 JabiruJ200 VH-ACZ フライ・イン トゥンバ飛行場のTハンガーに納まる増田さ んの自作機 Jabiru J200 型機 (VH-ACZ 高翼 単葉2人乗り Experimental) については、 氏 が語った制作のエピソードを本誌2007年11月号 記事 「スポーツ航空ばんざい、 定年後にオース トラリアの空を楽しむ」 でご確認ください。 外観はセスナ172に似ているが、 部材はグラ スファイバー製だ。 起きぬけにハンガーから引 き出し、 簡単なプリフライトを行って空中の人 となった。 目的の Gatton Airpark までは15分 ほどだが、 街のオリエンテーションのため飛び 回ったので30分のエンルートとなった。 一般に、 この国の住宅は建屋の3倍ほどの庭 があるのが普通だ。 緑の芝生に青く占めるのは プール、 降水の少ないトゥンバでは雨水を有効 に利用するが、 プールを贅沢とは考えないのだ ろう。 わが国の住のスタンダードとは大きな違 いを感じる。 Gatton Airpark は、 アメリカにあるような 不動産会社が作った人為的な整然さは感じない、 多分に牧歌的だ。 芝地の滑走路に、 各戸から続 く踏み分け道のような誘導路、 ウィンド・ソッ クと石積みの標識が建っているだけ。 戸数はま だ10数軒だが、 増え続けているらしい、 飛行愛 好家の住人には退職者が多いと聞いた。 このよ うなコロニーがあちこちにあって、 週末には順 早朝から住人はタープを張り、 椅子を並べ、 朝食 (豆、 ハム、 野菜とボリュームのあるビー フの詰まった直径 15cm ほどのハンバーガーが フレッシュジュース付きで8AU$) を用意す る。 コーヒー・ヴァンの若夫婦が数種類の熱い コーヒー (3AU$) を準備する。 蔬菜農家は 採りたての野菜を並べ、 産直セールを始める。 頃を見計らって、 あちこちから自慢の自作機で やってくるのがフライ・インだ。 写真6 写真7 Gatton Airpark 製作途中の自作機 タワーも情報サービスもないが、 到着機は個々 に一方送信で位置、 順位を確認しあう、 秩序あ 2009 SEP 57 るインバウンドだ。 なかには見せ場とあってロー パス、 フォーメーション、 ズームアップなど精 一杯のパフォーマンス (一応禁止されているら しいのだが) を見せる輩もいるが、 社交の範囲 として文句をつけることはしない。 参加者には 情報交換と、 自慢話の出来る社交の場なのであ る。 集まってくるマシンは千差万別、 ここでは 市販機 (セスナやパイパーなど) の肩身が狭い、 自作機のほうが威張っている雰囲気である。 こ の国にあるパイプ構造のマイクロライト機は Drifter と言うキット機が多い。 2人乗りで芝 刈り機のエンジンを装備、 他にまったくの自流 機、 欧米のキットも多く見かけた。 興味深いの は、 まったくの個人設計のマシンである。 アイ デアとテクノロジーが一致するマシンの一例を (写真7) に示そう。 この地に8年間住んでいる増田さんは土地の 飛行家とも面識が豊か、 すっかり土地の人であ る。 「ヨシが来てるぞ」 と声がかかる。 「はて、 ヨシとは?」 後刻顔を合わせた 「ヨシ」 は既知 の機長、 田辺義弘さんであった。 「あんたかぁ」 と昨年の但馬空港以来の再会を認めあった。 欧 州便の乗務を終え、 その足で成田から来豪、 そ の朝はご自身の宿舎のあるカブルーチャと言う 街から飛来されたと。 ご自慢のドラゴンフライ 機にはフル装備の計器が光っていた (写真8) さすが定期便の機長だ、 やっと3人に増えた日 本人で話も弾んだのであった。 写真9 増田さんと筆者 (左) さて VH-XXX はオーストラリアの国籍記号 だが、 総重量が 544kg 以下なら UL (ウルトラ・ ライト機) としてグレードを下げた登録ができ るらしい。 個人が RAA 協会 (Recreational Aviation Australia) に 加 入 す れ ば Light Sports 機として Recreational Pilot と言うカ テゴリーで飛ぶことができる。 身体検査基準が 満たなくなった加齢操縦士の便法にもなってい るようだ。 VH-XXX に変えて 19-XXX (自作 機)、 24-XXX (市販機) と言う識別が付され る。 VH のようにN, U, A, T等の類別はな く、 もちろん曲技はできない。 日本にも同様の 規定はあるが個々の用途、 運用範囲、 登録のス ライド制などに細かい配慮がなされていること は嬉しいことだ。 このフライ・インに集まったマシンは75機 〈住人のものは含まない〉と。 コーヒーと朝食 と自慢話と情報交換がひと渡り済むと、 あとは 次回の約束をして三々五々離陸し、 彼らのいつ もの週末に戻っていく。 「タワーのある空港で はこんなにスムースには運ばないよ」 と増田さ んは言う。 飛行機なんかなかった時代には馬や 馬車でやってくる、 社交、 交易、 情報交換はこ のような 「集い」 のカタチで定期的に行われて いたのであろう。 写真8 58 増田さん、 田辺さんとその愛機 2009 SEP 帰路に増田さんのクラブがある Clifton 飛行 場に立ち寄った。 クラブではボランタリとして 空の交差点 毎年1、 2名の地元高校生を選抜、 飛行免許取 得のスカラーシップを出している。 3000AU$ 程度の飛行料金を提供していると。 この日はそ の選抜テストが Drifter 機で実施されていた。 お母さんの付き添いはこの国でも同じことだが、 それは試験と言う堅苦しさはなく、 楽しみの行 事になっているらしい。 コーヒーと焼きたての ソーセージ片手に和気あいあいの雰囲気である。 午後になると日射によるサーマルでトウモロ コシ畑の枯葉が竜巻状に舞い上がる、 それは 2000ft にも及び、 空中で出会うと鳥の集団の ように見える。 思わずエルロンを切るのは日本 で経験しないことだった。 は、 逆の発想のように思えてならないのだ。 筆者の古い大脳皮質に焼き付いて離れない文 言がある。 大昔アメリカで習った航空法だ。 「No person may do XXX unless otherwise YYY」 (ナンビトトイエド XXX ヲシテハナラ ナイ、 スクナクトモ YYY シナイカギリハ)。 昔わが国のお役人が、 筆者と同じように直訳し た結果が、 今の我が国の航空法となったのであ ろうか? 締めくくりを増田さんの以前の記述から拾っ てみよう、 「オーストラリアの空からバンザイ!!」 完 GA 航空事情 飛行を共にしていて、 いっさい話題に上がら ないのがフライトプランだ。 「そんなもん要る んかい」 という程度だ。 制度として存在するの だが、 それは所属クラブのルールによる安全施 策の中のことらしい。 クラブのメンバーに通知 しておくことで互助効果を生むのだと。 9km という数値が持つわが国の意味は何なのだろう。 写真10は増田さんの愛機の計器盤に貼ってあ るデータプレートである。 この飛行機による飛行のリスクはあな た自身が負うものである。 通常の民間商用小型機と異なる安全基 準で飛行を許可したものであり、 民間航 空安全局は試作機の耐空性に関与しない。 写真10 JabiruJ200 VH-ACZ 機の銘板 とある。 「あなたのリスクでお飛びなさい」 と、 いやでも目につく位置に書いてある。 基本的に飛行は自由にできる、 他人に迷惑を 及ぼす、 と考えられる場合に限り制限が付され る。 それが世界に共通する航空法の理念だろう。 まず最初に、 縛りがあって特別に処置を講じた 場合に限って緩め (許可) られる我が国の施策 写真11 ハッピーな職場に居る Aussie カエル 2009 SEP 59 航空医学 乗員の健康管理にかかわる懇談会 開 催 報 告 航空医学委員会 航空医学委員会は、 医師を含んだ JAPA 会 員で構成され、 航空局乗員課と航空医学研究セ ンターの関係者がオブザーブで参加し、 隔月に 開催しています。 主に、 操縦士の健康管理につ いて、 検査する役割、 管理 (サポート) する役 割、 制度と運用を適切に機能させる役割などを 担う関係者が都度のテーマについて意見を交換 しています。 つまり、 行政の立場、 検査機関の 立場、 日常管理の立場、 操縦士の立場にたって、 夫々の受け止め方をお互いに把握する事を目的 としています。 これまで、 P誌を使った健康と医学適性に関 する情報提供や、 加齢乗員の付加検査、 機能喪 失と運航への影響、 新型インフルエンザなど、 都度のテーマについて話し合っています。 情報 交換と相互理解を前提に運営に当たっています。 日 場 目 平成21年5月31日 (日)、 初めての試みでし たが、 エアラインにおいて航空機乗員の健康管 理を行ってい る担当医およ び担当者を集 めた懇談会が JAPA 主 催 で開催されま したので報告 します。 時:平成21年5月31日 (日) 13;30−16;00 所:羽田空港第一ターミナル6F シリウス 的:ライセンス有効期間中の健康管理について 1 エアラインパイロットの日常健康管理について a. わが国の航空身体検査制度とエアラインパイロットの日常の健康管理について 航空医学研究センター所長: 津久井 一 平 先生 b. ライセンス有効期間中の健康管理について国交省からの要望 国土交通省技術部乗員課 航空医学評価官: 田 村 信 介 先生 c. 加齢乗員付加検査制度の経験から 航空医学研究センター検査証明部長: 福 本 正 勝 先生 2 Airline Medical Director Association (AMDA) について 全日本空輸 主席産業医: 3 60 昨今、 航空企業の数が増えたことにより、 各 社で事情が異なっている環境があります。 そこで 医師とスタッフ、 つまり健康管理担当者が懇談 会を通じて意見交換する場を持つ事にしました。 質疑応答 自由討論 2009 SEP 五 味 秀 穂 先生 本懇談会の目的 元来、 航空身体検査は運航における不安全要 素の一つとしての航空機乗組員の Physical incapacitation を最小限にする目的をもって行わ れている。 その有効期間は半年もしくは1年と 設定されている。 しかるにいかなる検査をもってしても5%の例 外的な事象は予測することができないのは医学 の常識となっている。 そのため、 「受検日のみ の検査である航空身体検査と、 継続的な健康管 理の違い」 が存在することを再認識することは、 航空機運航の安全性をさらに高めることになる。 具体的にいえば、 あくまでも航空身体検査は ある時点の健康状態いいかえれば Physical incapacitation の可能性が限りなくゼロに近いこ とを担保するものであるが、 その後の半年もし くは1年の間には前述の予測できない事象が存 在するため、 さらなる安全性を追求するために はその間の健康管理が重要となる。 大手航空会社においてはすでに産業医もしく は社医が常駐し、 多くの経験から乗員の健康管 理ならびに乗務可能かどうかの判断がなされて いる。 一方、 新規航空会社においてはそのノウ ハウが残念ながら入手できているとは言えない 現状である。 そのため、 各航空会社の担当医、 担当者が一 堂に会して、 互いの情報交換を行うことは、 さ らなる安全性の確保のためには重要と考え、 本 懇談会を設けることとした。 この趣旨を説明し、 航空医学研究センターの 津久井一平所長、 福本正勝部長、 航空局の田村 信介航空医学評価官からご出席の快諾を得られ たことは、 本会の開催目的を鑑みても非常に喜 ばしいことと考える。 同時にこの場を借りて、 ご厚情に感謝を表すしだいである。 開催内容 基調講演として、 津久井・田村・福本先生より 上記1−a, b, c のタイトルでお話をいただいた。 津久井先生からは、 わが国における航空身体 検査の歴史的背景と大手航空会社における航空 身体検査と (次回の航空身体検査までの) 日常 の健康管理の重要性がレクチャーされた。 また、 航空医学研究センター、 航空局、 JAPA の協力 のもとに B777 シミュレーターを使用し Physical incapacitation 発生時における CRM の重要性 とシラバス作成にかかわる試みが VTR にて提 示された。 実際に乗員と医療スタッフならびに 行政の三者がこういった試みを行っていくこと の重要性が強調された。 田村先生からは、 行政の立場より航空身体検 査ならびに審査会のシステムが説明された。 また、 パイロットの日常の健康管理の重要性とそれに かかわる各社の社医もしくは産業医の重要性が 強調された。 特に、 指定医と産業医がそれぞれ 責任分担して (各社の都合によっては兼務も可) 点と点をつなぐこと、 そしてそのシステム構築 自体が全体の安全につながることが示された。 福本先生からは、 わが国の加齢乗員の現状と 加齢乗員付加制度、 その結果としての安全性に 関してのレクチャーがあった。 加齢乗員におけ る運航中の Physical incapacitation が皆無で あることは、 少なからず付加検査自体の有益性 が示されたといえる。 続いて、 五味先生より、 米国で毎年開催され ている Aerospace Medical Association に先立っ て開催される Airline Medical Director Association (AMDA) についての紹介をいただい た。 今回の懇談会が、 将来的に AMDA 日本版 に発展していく必要性を感じた。 休憩に引き続きフリーディスカッションが行 われた。 参加者全員での質疑応答があり以下に 要約を紹介する。 ただし、 回答に関しては、 あ くまでも会全体の意見として出てきたもので、 一方的に行政サイド、 航空医学研究センターか ら出てきたものではないことに留意下さい。 1. 外国人乗員の健康管理についてのノウハウは? 質問者の疑問点:身体検査において海外ではやっ ていない検査であったり、 被曝リスクの問題で 拒否される可能性がある。 また、 身体検査と身 体検査の間の健康管理において、 産業医制度が 一般的ではない外国人乗員は管理されるのを嫌 2009 SEP 61 う傾向があるのでは。 外国人乗員も基本的には日本国の企業に属す るので日本人と同じ扱いであり、 日本のマニュ アルの英訳をもって説明するのが一般的。 特に、 採用時の脳波検査、 BMI30 での仕切り、 胸部 X線検査等が問題となることがあるが、 十分な 説明を行うことにより理解は得られる。 会社の乗員健康管理医と指定航空身体検査医 との違いについても、 国によって体制が違うこ とを説明する必要がある。 (医療保険制度が我 が国では国民皆保険が原則であり、 労働安全基 準法により産業医が義務付けられ、 社員の健康 管理を会社が負う必要がある。 海外ではそういっ た制度がある会社はごく一部である) 最終的に、 対立が生じた場合にも、 乗員をサ ポートする立場にあり、 あくまでも個人の利益 につながることを理解してもらうよう努める事 が大切である。 2. (他社での) 審査会症例についての情報開 示について 質問者の疑問点:審査会提出資料の作成におい て、 初めてのケースだとなかなか検査漏れや説明 不足になっているのではという不安が付きまとう。 守秘義務の問題もあり、 難しい点がある。 しかし、 個々の症例の扱いについては近年徐々 にマニュアルの備考欄に織り込まれてきている ので、 それを参照して欲しい。 乗員課や航空医学研究センターへの問い合わ せに対しては、 可能な範囲で説明可能である。 (Face to Face の会合を持てるようになった今 後はさらにそう言った時のコミュニケーション が潤滑にいきそうである) 航空医学研究センターのホームページも充足 してきているので、 参考にして欲しい。 指定医講習会でも症例をあげて説明している ので、 指定医でなくとも事情を説明すれば参加 可能であるので、 いかがか。 3. 審査会指示で、 「定期チェックをしなさい」 62 2009 SEP というのは、 どのように理解すればよいのか? 質問者の疑問点:新規航空会社等においては、 常駐産業医がいるわけではなく、 乗務に支障を きたさずに、 面談管理をするのが困難な場合も ある。 その場合は実際に面談を電話やメールに て対処してもよいものか。 疾患の内容によっては、 担当医が担保できる のであれば、 乗員との定期的な電話での確認も 可能であると思われる。 あくまでも臨床医とし ての知見の範囲でよい。 ただし、 その場合でも一 般臨床レベルでの常識を逸脱しない点が重要で あろう。 あくまでも、 Physical incapacitation を起こさないというのが目的であり、 そのため にできうる限りのチェックを行えばよいのでは。 個々の具体的なケースに関して多くの情報が 交換された。 4. 審査会日程により資格喪失期間ができてし まうが…… 質問者の疑問点:日程による誤差のためフライ トに穴ができるケースがあった。 年に一度という指示の場合、 日時についての 限定はないが、 実施していただきたい。 会社では、 この部分を、 うまく考慮して、 喪 失期間ができないよう調整している。 〈このような質問については当局にあげてい ただきたい。 〉 意外にこういった事務的な問題は見落とされ やすく、 今後の運用上の課題でもあることが確 認された。 5. 加齢乗員制度の今後は、 どうなりそうか? 質問者の疑問点:加齢付加検査における ICAO、 FAA との相違がパイロットからよく質問にあ う。 また、 コスト面でも労力の面でも新規参入 の航空会社にとっては負担である。 ICAO を批准している日本においては、 将来 の改正の可能性はあると思われる。 具体的なこ とはまだ検討中で何ともいえない。 ただし、 現 状の制度で安全が担保されていることも事実で あることは、 乗員に周知する必要はある。 6. 個人的な健康診断を実施した際の会社とし ての管理は? 質問者の疑問点:個人で行ったものを利用して もよいのだろうか。 「報告があった場合は会社のデータとして採 用する。」 「治療を行った際には報告の義務を持たせて いる。」 などの意見があった。 基本的には乗員には申告していただくのを原 則とすること、 また、 疾患があった場合にも、 乗務可能の是非だけにとどまらず、 その疾患の 身体検査に関しての影響、 審査会になった場合 の復帰めどなどを丁寧に説明することなどが必 要であり、 その点をしっかりとすることで、 産 業医と乗員との信頼関係がしっかりとしたもの になり、 安全がより担保されるであろう。 7. 内視鏡を個人的に行った結果、 活動性の潰 瘍 (A2) であった場合は? マニュアル上は不適合であり、 直ちにフライ ト停止としなくてはならないが、 当人が申告し てくれなければわからない。 したがって、 ルール逸脱がどれほど大きなこ とであるかを教育しなくてはいけない。 同時に前述のようにしっかりとした信頼関係 を結ぶこと、 そのためには乗員の最大の不安で ある復帰時期に関してちゃんとした説明をする ことが必要である。 8. アルコールの基準・目安は? 数値基準はない。 したがって、 航空法第70条 の範囲内で各社の判断に任せるしかないので、 その点を考慮する必要がある。 9. 身体検査基準が合格か否かだけでなく、 各 社担当医が実際に行っている基準・アドバ イスにはどのようなものがありますか? 質問者の疑問点:高脂血症や高血圧の投薬につ いて、 その時期は? 脂質異常症や、 境界領域の糖尿病の人に対し ては、 積極的に生活指導を実施している。 いわゆる疾患の一次予防を考慮したアドバイ スを行っている。 特に、 加齢乗員制度に絡ませた教育は有効と 考えている。 その他多くの意見が交換されたが、 薬の服用 によりフライト停止の期間があるものの、 積極 的に治療すべきであろう。 10. 小規模・新規参入のエアラインにおいては、 健康管理部門の大切さを会社に理解しても らうことが難しい… 産業医を筆頭とした関係者すべてが、 乗員の 健康管理の重要さを訴え続け、 会社全体として の健康管理体制を構築していただきたい。 一つの部門 (産業医を中心とした健康管理体 制) が整うことで会社全体が整っていくことが 多い。 よって、 今後も産業医・担当者の皆さん にはがんばっていただきたい。 そのために、 こ う言ったミーティングを継続していきたい。 以上、 誌面には収まらないほどの活発な意見 交換が行われ、 予定時間をかなりオーバーした ことを付け加える。 今後もこのような自由闊達 な形式での懇談会を参加者全員が切望し、 閉会 となった。 結語 指定医における航空身体検査と産業医・社医 による健康管理をする意義について再確認が行 われた。 こういった懇談会を通じて行政としての方向 性や問題点、 航空医学研究センターを中心とす る航空医学に関するノウハウや知識、 各社担当 医を通じての経験や知識が一堂に会し共有でき る機会は有意義であった。 以上 2009 SEP 63 我々パイロットは飛行機の Manual に従って運航しています。 しかしそれ以外に先輩・同輩に 加え後輩からの 「技術の伝承」 で培われた部分が大きいのも否定できません。 一人前の刀鍛冶に なるのは、 少なくとも5年はかかります。 炎に照らされた鉄の色合いなどを見て判断する名工の 一挙手一投足から技術を盗む 「技術の伝承」 で一人前になります。 この新企画は、 刀鍛冶とまではいきませんが、 「技術の伝承」 「技術の研究」 を目指す読者のサ ロンのコーナーです。 皆様からの 「技術に関する情報」 等々、 その他有益な投稿をお待ちします。 編集委員会 連載・飛行力学物語 その3 「安定増大」 事始め、 ヨーダンパーの物語 JAXA 風洞技術開発センター 国産旅客機チーム客員 柴田 眞 日本航空のダグラス DC-8 が、 初めて羽田/サンフランシスコ線に就航したのは、 今から50年ほ ど前の1960年のことです。 いうまでもなく DC-8 は、 ボーイング707と並んで、 当時の最新鋭、 か つ代表的なジェット旅客機でした。 それまでのレシプロ旅客機、 ダグラスの DC-7 やロッキードの スーパーコンステレーションにくらべて、 後退翼を持つ全く新しい形態の旅客機が登場したのです。 これら新形態の旅客機である DC-8 や707を成立させたのは、 もちろんジェットエンジンや後退翼 だけでなく、 関連する多くの新技術の実用化がありました。 今回は、 飛行力学に関連する当時の最新技術として、 ヨーダンパーを話題にしたいと思います。 ヨーダンパーは安定増大装置 (SAS; Stability Augmentation System) の草分け的存在ですから、 「安定増大」 事始め、 といった話になります。 これでは着陸できない ボーイングの B-47 は、 後退翼で6発のジェット爆撃機です。 今の目で見ればかえって当り前の 形をしていますが、 1947年12月に初飛行した時点では、 きわめて斬新、 人々に新しいジェット時代 が来たことを印象付ける機体でした。 この機体を構想している段階で、 ドイツから戦時中の後退翼 の研究資料が入り、 直線翼から後退翼に計画を大変更したことは、 とても有名な話です。 ところが この機体、 飛行試験の初期段階で、 着陸アプローチ時の方向安定が操縦困難なほど不足しているこ とが判りました。 いま想像しても、 ダッチロールを抑えきれない状態で、 しかも初めての自転車式 降着装置の機体を、 滑走路にアラインして着陸させるのはさぞ難しかっただろうと思われます。 64 2009 SEP 強すぎる横安定、 不足する方向安定 飛行機には適度の横安定が必要です。 その横安定は主に、 主翼の上反角および主翼/胴体の空力 干渉による空気力で得られます。 ところが後退翼はそれ自身、 上反角効果を持っているので、 あえ て上反角をつける必要がありません。 というより横安定を適度に保つためには、 下反角を付けなけ ればなりません。 しかし地上におけるロール角は、 ジェット旅客機の場合たとえばエンジンポッド 下面が接触する角度ですが、 実用上ある値を確保しておく必要があります。 そのため下反角を付け ることなど空力屋にとって夢のまた夢、 付けたくもない上半角をある程度は許容しなければなりま せん。 飛行機の方向安定は、 やや強めのほうが“すわりのいい機体”になって好まれるようです。 しか しジェット旅客機の垂直尾翼は、 「エンジンが故障して偏揺れモーメントが発生したとき操縦でき る」 という、 いわば最低条件からほぼ決めてしまいます。 もし空力的な方向安定だけで、 ダッチロー ルのような動特性を満足しようとすると、 どうなるでしょうか。 胴体を延長し垂直尾翼をはるか後 方に取付けるか、 あるいは垂直尾翼面積を何倍かにするという、 現実的に受け入れがたい解しか存 在しません。 このように最近の高性能の機体では、 方向安定はつねに不足気味になります。 この横安定と方向安定について、 図1にまとめ、 ヨーダンパーの必要性を示してみました。 機体 イメージは DC-8-61 です。 こうやって描いてみると、 何となくセピア色の昭和を思わせるから不 思議です。 機体の基礎形そのものは最新のエアバス A340 とほとんど同じでも、 細部がいろいろ異 なるからでしょう。 日本航空の DC-8-32 の初号機 JA8001 「FUJI」 が就航したのは、 「三丁目の夕 日」 の東京タワーが完成した1958年の年末から一年半ほどのときでした。 図1 横安定と方向安定 2009 SEP 65 モーゼスレークからの一本の電話 ここで話を B-47、 そしてヨーダンパー開発に戻すことにしましょう。 シアトルから東に I90 で カスケード山脈を越え 300km ほど行くと、 モーゼスレーク (Moses Lake) という湖、 そして同 じ名前の町があります。 飛行試験や訓練飛行をする飛行場があるので、 航空関係者にはちょっと有 名なところです。 B-47 の開発飛行試験は、 ここで実施されていました。 着陸進入時の方向安定を改善するため、 多くの設計変更案が検討された結果、 ヨーダンパーを開 発し装備することになりました。 そのころダンパーの技術は、 理論も応用も産声を上げたばかりで、 現実の必要性が先行している状況でした。 そのような状況下で、 ヨーレートを検知して方向舵を動 かすヨーダンパーの開発が始まったのです。 ヨーダンパーの設計パラメータとしては、 ゲイン (利 得、 gain) とオーソリティが重要です。 ゲインはあるヨーレートに対して方向舵をどれだけ動か すか、 オーソリティは最大舵角の何割までダンパーが動かすことを許容するかです。 飛行中にゲインを変えるため可変抵抗器を操縦席に持ち込み、 テストパイロットがベストだと思 う値に調整しました。 それと並行してオーソリティは 1/4 が適当と判断されていきました。 この ように決められていった結果が、 モーゼスレークからシアトルにいた設計チームへの短い一本の電 話で伝えられ、 最初のヨーダンパーの重要な設計要素が確定したといわれています。 羽田空港整備地区に保存駐機中の JA8001 MU-300/T400 の垂直尾翼 モーゼスレークで決められ、 かつ B-47 のハードウェアで実行されたことがもうひとつありまし た。 ダンパーの作動を、 パイロットの手や足に‘返さない’ということです。 すなわちダンパーは あくまでも縁の下の力持ち、 正常に作動しているときは、 パイロットに存在さえ感じさせないとい う原則です。 機械的な操縦系統の場合、 これはかなり難しい技術課題です。 なぜなら理屈では設計 できても、 実際にはガタや摩擦を完全にゼロにできないからです。 それで方向舵とヨーダンパーを 舵面としても分離してしまうという考え方が出てきます。 三菱重工が開発した MU-300 というジェットビジネス機があります。 1978年8月に小牧で初飛 行したこの機体は、 その後1985年12月にビーチクラフトに事業譲渡され、 ビーチ Model 400 66 2009 SEP Beechjet という名称になりました。 航空自衛隊ではビーチクラフトが製造した機体を逆輸入し、 T-400 練習機として輸送機や給油機など大型機のパイロット養成に使用しています。 図2に MU-300 の尾部を示しました。 方向舵の上にある小さな舵面がヨーダンパーで、 操縦系統とダンパー が舵面として分離されていることが判ります。 航空自衛隊の T-400 は米子市郊外の美保基地に配 属されているので、 いちどオープンハウスのときにでも見てきたいと思っています。 図2 方向舵とヨーダンパー おわりに、 技術の流れ ヨーダンパーを草分けとして開発された安定増大装置 SAS は、 その後の航空機の高性能化とと もに、 機体成立の基本を構成する技術となりました。 そしてさらに操縦性増大装置 (CAS; Control Augmentation System)、 フライバイワイヤー (FBW; Fly By Wire) へと発展して、 現代の操縦 システムがあります。 ここで一言、 自動操縦装置や FMS (Flight Management System) とは分 けて考えるべきと、 書いておきたいと思います。 オーパイや FMS は、 パイロットの代役を勤める いわば運航的なシステムです。 それに対して SAS、 さらに CAS や FBW は、 航空機の飛行制御の 根底にある技術と表現できるでしょうか。 物語のはずが、 少し理屈っぽくなりすぎました。 今回参 考にした主な資料は次のとおりです。 ・航空宇宙工学便覧、 第2版、 日本航空宇宙学会編、 丸善 1992 ・Airplane Stability and Control, Malcolm J. Abzug and E. Eugene Larrabee, Cambridge Aerospace Series, 2002 ・MU-300 の開発について、 池田 昭、 日本航空宇宙学会誌、 1983年3月 DC-8-61 2009 SEP 67 VNAV の理解 その2−Approach B767 機長 蔵岡 賢治 VNAV の理解、 その1では、 主に Descent Phase について述べました。 FMS 機材が導入され た当初、 DME−DME、 DME−Radial、 Localizer のよる Position Update が Approach でも行わ れていましたが、 最近は、 GPS による Position Update が主となり、 Approach での Position も 正確になっています。 今回は VNAV の Approach について述べます。 VNAV には Approach Phase (単に Approach とも書かれている) があり、 B767 や B777 の VNAV は、 この Phase に入ると VNAV PTH となり、 Level Flight してでも VNAV の Path に 強制的に Capture させ、 以後、 登録された高度や登録された3度などの Path より下方には降下し ません。 VNAV は機種毎に異なりますが、 この稿を参考に、 他機種の方々も含め、 VNAV の利用方法 を研究する一端となり、 その有効利用に少しでもお役にたてたら幸いです。 〈VNAV Approach Phase と VNAV PATH Mode〉 図−① ILS は二つの3度 Path のすり鉢 図−①、 ILS の VNAV には、 通常、 RW には50ft と3度 Path、 FF には3度 Path と3度 Path の高度および170kt が登録されている。 従って、 CF (コースフィック) が At Constraint (高度制限) の場合は、 そ の高度を維持して3度 Path に Intercept する。 CF が At or Above Constraint の場合は、 CF を3度 Path で通過する。 いずれも、 CF 以降、 RW 50ft に3度 Path で降下し、 3度 Path の下方に降下させない Logic になっている。 68 2009 SEP なるほど! CF が At or Above Constraint の時は、 3度 Path で通過する 高度が判りません。 FF (ファイナルフィックス) の設定は170kt ですが、 240kt から170kt の減速は、 FF∼CF 間での減速と、 その分差引いた減速 Path で行わ れますね。 それらを考えると、 CF を170kt、 CF が At or Above の時は At Constraint にした方が Path を掴み易いようですね。 図−①、 でも判ると思うが、 Localizer Approach で、 Localizer+VNAV で 降下すれば、 VNAV Path は、 Barometric Path3度で Threshold を50ft で通 過するが、 ILS と殆ど変らない。 Lateral Control に Localizer を使用するので LNAV+VNAV で実施する RNAV Approach より正確と言える。 実際の検証 でも、 まるで ILS と言える状況だった。 そして VNAV は最も低い EOD (End of Descent) の WPT (ILS では50ft) 通過後は、 その高度を Level Flight する。 Localizer Approach で VNAV を使用する事を考えても良いと思う。 図−② VOR/RNAV は一つの3度 Path のすり鉢 図−②、 VOR/RNAV Approach の VNAV Path は、 通常、 MA (Missed Approach Point) に3度 Path と3度 Path の高度、 または RW に50ft と3度 Path が登録されている。 従って、 CF から FF の間は Direct Path、 FF を通過 したら、 FF の高度を維持し、 3度 Path に Intercept して、 DA または MDA を 3度 Path で通過し、 MA まで降下する。 MA 通過後は、 その高度で Level Flight する。 RNAV Approach では、 通常、 FF が3度 Path の高度になっている。 2009 SEP 69 なるほど! FF の設定は170kt ですが、 ILS と同じく、 240kt から170kt の減 速は、 FF∼CF 間での減速と、 その分差引いた減速 Path で行われますね。 VNAV で3度 Path を降下し、 DA/MDA では、 既に着陸 Path の姿勢になっ ている分 Stabilized Approach が期待できます。 DA/MDA から Missed Approach しても、 3度 Path 以下には降下しませんね。 Step Down 方式で FF から VDP まで十分な距離があれば良いのですが、 実際 の運航では距離が短く、 FF から降下し、 MDA で Runway を探す、 着陸態勢を 作る、 Checklist を行う等々、 余裕が取れない Approach が多いですね。 過去、 FMS 機材で、 VNAV を使った Continuous Descent Final Approach (VNAV Approach) の導入の際、 Non Precision Approach は、 MDA に早く 降下し、 Runway を探す! Step Down 方式の固定概念が強く、 多くの Pilot の抵抗が感じられた。 固定概念が強すぎると、 時に進歩を遅らせる弊害をもたら す。 FMC はより安全のために Version Up を繰り返して来ている。 我々Pilot も Version Up が必要ではないだろうか? VNAV のより一層の理 解が今求められている。 図−③ 70 VNAV Approach Phase 2009 SEP 図 − ③ 、 Descent し て き て Initial Approach Fix が 近 付 く と 、 FMC は Descent Phase から Approach Phase となる。 Approach Phase になると、 FMC は Path 優先の Mode となり、 機が Path の下にある場合は、 FMC は強制的に Level Flight し Path に Capture させ、 以後 Path を維持し RW や MA まで降 下する。 かなり強力な Mode で、 Approach Phase で Path より下に降下するには、 VNAV 以外の Mode にしなければならない。 過去、 Approach Phase は、 RW∼FF 間の短距離であったが、 問題点を鑑み Version Up してきた結果と言 える。 Approach Phase が延長された当初、 実際の運航で、 例えば Flap Up から Flap1に Down した時 Level Flight するので戸惑いました。 でもそれを判って Descent を Plan すると、 Path をしっかり守ってくれるので安心とも言えます。 VNAV の Approach Phase は、 Approach の最初の WPT から、 または Runway から12nm 以内の WPT に Direct to 等々、 種々の条件でなりますが、 実際 の Operation では、 殆どが Flap Down で始まる、 と考えて良いですね。 VNAV の Path と SPD Intervention した Speed を守る Phase ですね。 Approach Phase は、 FMC に登録された STAR や Approach 以外でも、 航空 会社特注の過去問題があった Tailored Approach、 例えば、 Visual Traffic Pattern でも Flap Down で確実になる。 Version Up してきた結果と言える。 GPS Position が更に正確になり、 この強力な Mode の Approach Phase との 複合で、 Non-Precision Approach の Continuous Descent Final Approach に CAT−程度の精密進入が、 今後期待できるだろう。 天気の良い日に、 Tailored (会社特注の) Visual Traffic Pattern で Approach Phase を検証してみたが、 VNAV の FD はしっかり3度 Path 降下を指 示していた。 2009 SEP 71 〈VNAV 機能の紹介〉 図−④ VNAV の Path Logic VNAV を使ってくると Flight に役立つ機能を発見する事が多い。 FMC に登 録された3度 Path は何処まで延長されるのか?を考えた事はないだろうか。 例えば、 図−④の3度 Path が登録された、 ILS は FF、 VOR/RNAV は MA、 の 手 前 の WPT の At Constraint や At or Above Constraint な ど の ALT Constraint を全て Delete して高度を見ると、 3度 Path が240kt の速度制限が ある10000ft まで延長される事が判る。 今度、 At or Above Constraint の3度 Path の通過高度を確認してみたら良い。 WPT の3度 Path 高度を知ると Approach に使える場合がある。 72 2009 SEP つまり、 10000ft から VNAV PTH であれば3度 Path で降下できる訳ですね。 勿論、 減速 Path はなく、 VNAV で降下中、 Flap Down すれば強力な Mode の Approach Phase となり、 強制的に Level Flight してでも3度 Path に Capture させるので Descent Phase では使い難い Mode ですね。 3度 Path の Approach には有効な場合も多いと思いますが、 どの様に使うの か判りません。 何か具体的な例はありますか? 図−⑤ VNAV と Approach 例えば図−⑤、 羽田 LOC-W Rwy34L Approach では、 KAIHO 4000ft から あたかも3度 Path 降下の様に見えるが実際は違う。 MA に3度 Path 高度230ft と3度 Path が登録されている場合、 D8.7は2780ft、 KAIHO は5130ft となる。 この Approach では Final の D8.7から3度で降下する方が Stabilized し易い。 この時、 Path が登録された MA と KAIHO の間の WPT の高度を Delete し Small Font にして、 D8.7に表示された高度2780ft と170kt を入力し Large Font にすると、 そこから VNAV PTH で3度降下できる。 これなど Approach Phase が強化された結果と言える。 高度変更だが Path 変 更ではない。 3度 Path の高度をチョット見る時にこの機能を確認して欲しい。 Path が登録された VORDME Approach も同じだ。 2009 SEP 73 えー!! B767 や B777 の最新の FMC にはそんな機能もあったのですか! すると、 図−④や⑤で、 登録された3度 Path は、 途中の WPT が Small Font の時 At Constraint の高度 または At or Above Constraint の WPT まで 延長される、 と言う事ですね。 そこに170kt を入れれば WPT の手前に減速 Path も作られる訳ですか!! 今まで At or Above Constraint の WPT の通過高度が、 さっぱり判りません でしたが、 Small Font にして確認すれば3度 Path の高度が掴め、 Flap などの Configuration の Plan や Stabilized Approach のため Final を長くする場合に 使えますね。 Large Font にし VNAV PTH で降下して、 Chart 記載の Descent Rate を Monitor すれば良い、 と言えますね! 今度、 At or Above Constraint の3度 Path の通過高度を確認してみます。 VNAV は、 Path 優先の VNAV PTH と Speed 優先の VNAV SPD の二つの Mode があります。 VNAV を理解する、 或いは、 VNAV を使いこなす、 ためには VNAV の Path がどのようになっ ているか? を理解する必要があります。 VNAV について、 2回に分けて書きましたが、 VNAV の、 Descent Phase と Approach Phase、 VNAV PTH と VNAV SPD、 二つの Phase と Mode、 いずれの知識も、 VNAV を使いこなし、 今後拡充されていく RNAV Descent や RNAV Approach には必要な知識です。 日頃から使い慣れ、 その限界を実運航で多く体験する事も必要でしょう。 過去、 VNAV Approach 導入に携わった小生も、 Version Up してきた FMC を年とった今でも運航で使いこなす事 ができるよう、 日々使っています。 FMC が必要不可欠な航空機が多くなってきた現在、 この稿が、 これから育つであろう若き Pilot の方々の研究の発端になり役にたてば幸いです。 (VNAV を、 食わず嫌い! と言ってはいられない時代となってきました。) 日本の Approach Chart は、 計器飛行の設定基準にのっとって各 Fix (WPT) の高度は最低高 度が記載され、 3後 Path の高度は記載されていません。 過去の Non-Precision Approach の事故 例や経験から、 3度等の一定角降下の Approach が世界的な流れとして安全上も叫ばれています。 Pilot の立場から、 図−⑤の Approach Chart の様に、 Vertical Profile を判り易い様に変更し ましたが、 3度 Path の高度と Fix (WPT) の最低高度が記載されていれば、 VNAV や Vertical SPD の一定角降下の Approach、 或いは Step Down 方式の Approach、 何れにも有効と言えます。 国によっては、 日本の設定基準と異なり、 3度 Path で設定された高度が Approach Chart に既 に 取 入 れ ら れ て い ま す 。 RNAV Approach の み な ら ず 、 VORDME Approach な ど の Non-Precision Approach にも3度 Path Approach が可能な設定基準や Chart を望む次第です。 74 2009 SEP 新連載 アメリカの GA 航空事情 −前号に続く− 「飛行訓練および操縦資格取得要領」 エアーアコード・フライングスクール校長 Cirrus SR-22 2008Model 最新の小型機は、 そのほとんどがグラスコク ピットであり、 胴体やウイングデザインを一新 させ、 機体の軽量化を図るために強化プラスチッ クを多用、 プロペラ効率の向上等による Technically Advanced Aircraft (写真上) が一般 的になっている。 70年代の小型機にはインターカムセットは装 備されておらず、 オーバーヘッドスピーカーと ハンドマイクを使って ATC とコミュニケーショ ンをおこなっていた。 エンジン音に負けないよ うにスピーカーのボリュムを上げると、 簡単に スピーカーボードが破れてしまい、 轟音を奏で る代物である。 結果的に耳に神経を集中させ、 スピーカーの音量を低く抑えておこなった当時 の聞き取りは、 私のヒヤリング能力を向上させ たと思っている。 ハンドマイクの取り扱いも、 操縦操作だけに 集中する基礎訓練には支障が無かったものの、 仕事量が多くなる航法訓練や計器飛行訓練では 工夫を要した。 交信が始まるとマイクロフォン を片手に掴んで応答操作をするために、 パワー 脇田 祐三 操作を含む他の操作を、 その間、 ストップせざ るを得ないからである。 各自それぞれが工夫し ていたが、 応答の早さやマイクロフォンの取り 方一つで、 パイロットの技量が計られた時代で もあった。 初等練習機では、 もっともポピュラー なセスナ C-152 等、 主に二人乗り小型機に搭 載されているライカミング製 (O-235) 4気筒 110馬力エンジンの排気音は甲高く、 難聴防止 策としてイアープラグと呼ばれたスポンジを耳 に詰め込んで教習をおこなった。 また、 コント ロールタワーのあるクラスD空港 (当時は Airport Traffic Area と呼ばれた) では、 離 着陸時にタワーとの交信が頻繁となり、 ラジオ を聞き易くするために、 エンジン回転をできる だけ押さえて飛行する要領や工夫が、 自然と身 に付いたものである。 小型機の製造が中止されていた83年当時のリ セッション時代から、 回復に向かった85年頃、 Sigtronics、 Telex 及び DavidClark といった 会社が低価格のインターカムセットを作成し、 ヘッドセットと共に、 中古機市場への販売に力 を注いだ。 今ではインターカム装備は小型機で も標準装備になっているが、 普及には時間を要 した。 私が初めてヘッドセットを付けて教習を 行ったのは88年に入ってからだった。 与圧シス テムの無い小型機にとって、 耳を完全に被せる ヘッドセットで騒音を遮断し、 インターカムを 通して搭乗者と容易に会話ができるアイデアは 画期的であった。 教習に際しても、 大きな声を 出し合わなければならなかった会話が、 ヘッド フォンから直に声が伝わるので、 聞き違いが少 なくなった上に、 声のトーンで訓練生/教官双 方のテンションが把握できる効果もあった。 さ らに操縦桿に取り付けられたトランスミッショ 2009 SEP 75 ン・スイッチはプッシュホンとも呼ばれ、 指の 操作だけで送信が可能となり、 交信中も、 支障 無く両手は操縦操作に使えるので、 それまでハ ンドマイクを使っていたパイロット達は“水を 得た魚”のように腕を上げたものである。 ショルダーハーネス (SH) についても、 パ イロット及び搭乗員に離着陸時の着用が義務づ けられたのは78年初期である。 しかし、 それ以 前に製造された航空機への装備は適用外となっ たため、 現在でも SH が装備されていない機体 は、 自家用機に数多く見られる。 先日、 55年式 ボナンザに搭乗する機会があったが、 SH が装 備されておらず、 席に着くと上半身が軽く感じ て不安を感じたものだ。 FAR (連邦航空法) の改訂と GA の対応 90年代に入り、 サイズや規定がばらばらだっ た米国内の Air Space も ICAO に準じて改正さ れ、 TCA (Terminal Control Area) は Class B に変更された。 不定期国際便が乗り入れ、 国 内便等で忙しい空港等に指定されていた ARSA (Airport Rader Service Area) は Class C と され、 定期便乗り入れが少ないが、 アプローチ を必要とされる空港に指定されていた TRSA (Terminal Rader Service Area) は、 指定空 港の数が少ないことから既定のままであり、 タ ワーコントロールを有する空港 ATA (Airport Traffic Area) は、 Class D に変更された。 同時にクラスA、 B、 C空域内とその上空1 万フィート、 及び (ハワイとアラスカを除く) 48州全域の2,500フィート AGL 以下を除く高 度1万フィート以上を飛行する航空機に、 トラ ンスポンダーモードCの装備と使用を義務付け (FAR-Part91-215) 、 過 密 す る 国 際 空 港 周 辺 (TCA1&2, ARSA) に限られていた規定が、 他 の空域及び航空路へも拡大された。 トランスポ ンダーモードCを使う事によって、 航空機から 発信された気圧高度をレーダーが捕捉し、 海抜 高度に自動変換してスクリーン表示されるため、 管制レーダー上の三次元表示が可能になった。 IFR の飛行のみに制限されている完全管制 空域クラスAは、 高度1万8千フィートから始 76 2009 SEP まり、 上限は6万フィートである。 自家用機の 飛行方式はもっぱら VFR であり、 1万フィー ト以上は概ねクラス E Airspace であり、 Controlled Airspace (管制圏) 内であった。 しか し、 VFR 航空機には ATC ラジオコミュニケー ションの確立/維持義務はなく、 今まではクラ スA以下を飛行する航空機の高度を ATC は全 く把握できなかった。 更に、 一万フィート以上を飛行する航空機に スピード制限はなく、 VFR に求められる気象 条件も視程5sm、 雲の上下1,000フィートおよ び雲との距離を1sm を保つことができれば、 飛行可能であった。 飛行方式に関係なく、 気象 条件が許す限り、 他の航空機への回避義務はパ イロットに求められているが、 管制官が IFR 航空機とのセパレーションを計ることができて も、 VFR 方式で飛行している航空機の高度を 把握する事ができなかったし、 コミュニケーショ ンも確立されていない未確認飛行物体の状態だっ た。 したがって TCAS を装備していない当時 の航空機を運航するパイロットにとって、 ミッ ドエアーコリジョンの危険性は高かった。 改正 により、 航空路上の飛行や計器飛行方式で飛行 する航空機への安全を図りながら、 アクロバッ ト機やビンテージエアークラフト等、 トランス ポンダーを装備していない飛行機や、 電気系統 を持たない航空機 (グライダーやバルーン等) へ、 辛うじて1万フィートまでの自由空域を確 保したのである。 Airspace の改訂は名称、 サイズ、 規定にま で及んだので、 多くの GA パイロットを戸惑 わせたが、 事前に AOPA は FAA と協力し改 訂内容をダイアグラムやパンフレットにして、 会員やフライトクラブ及びスクールへ無料配布 したのみならず、 各所でセミナーを開催して予 想される混乱を回避した。 (当時のパンフレットと同じダイアグラムや説 明書の改訂版、 下記 HP より入手可。) http://www.aopa.org/asf/publications/sa02.pdf http://flash.aopa.org/asf/kbyg/swf/flash.cfm また、 インターカムセットやモードCの搭載 基準も FAA がメーカーに取り付け要領の徹底 を促し、 Avionics Mechanic 有資格者が機体毎 に 、 Major Repair and Alteration (FAA Form 337) に記載することが義務づけられた。 大きな修理や変更を行った時に提出する書類で あるが、 備品取り付け扱いとして、 取り付けた 機材の種類、 シリアルナンバーを含む機種、 取 り付け方法を書類に記載し、 航空局へ郵送させ て無検査で搭載完了の簡潔化を図った。 同時に ICAO に準じた改訂は ATIS にも及 んだ。 当時のアメリカ ATIS フォームは独自 の SA (Aviation Weather Observations) な いし SP (Unscheduled Special Observation) 形式を基にして、 独自の雲低基準を使い、 温度 も華氏で伝えられていた。 機体に装備された機 材の進歩と共に、 それまでのラジオ交信を使っ た伝達方法からファックスやディスプレイ方式 が採用され、 伝達内容を正しく伝えるための共 通化に伴い、 METER や SPECI (Selected Special Weather Reports) に改訂され、 ATIS フォー ムに準じて置き換わった。 1991年、 捕獲兵士救出のためにデザートストー ム作戦と命名し、 ブッシュ大統領はイラクへ戦 線布告した。 その時、 パトリオットミサイルが 初めて実戦で使用され、 砂漠の中で活動するヘ リの航法援助や兵士の位置確認に、 GPS が活 躍した事が連日テレビや新聞で報道されて脚光 を浴びた。 軍事目的で78年に最初の GPS サテ ライトが打ち上げられたが、 その時、 「性能の 改善を図りながら24個のサテライトを使って全 地球をカバーし、 3次元による位置確認が可能 となる」 と謳われた。 95年のフル稼働を目指す最中、 93年に入って GPS は民間への SA (selective availability) として、 部分的な使用が認められた。 FAA で は直ちに法的整備と共に機材を選定管理し、 携 帯式等の VFR 航法用と IFR 航法用では巡航 用とアプローチ用に選別、 GPS の Accuracy に対処しつつ運航への保全を図り、 業界へはア ビオニクスの進展を期待した。 ADF に変わる Non Precision Approach と し て GPS Ap- proach を各地の空港に設定し、 航空機には既 存の航法装置をバックアップとして装備してい なければ使えなかった初期のレシーバーは、 瞬 く間に高精度に進化し、 メイン航法装置として の役割を果たせるまでになった。 FAA を含む 議会の要請により99年に SA は解除された。 それにより、 サテライトからの航法データー の精度が向上したのみならず、 GPS 機能は多目 的に使用可能で、 符号や矢印によるデーター表 示から、 MFD (Multifunction Display) 画像 による表示に進化し、 航法のみならずウェザー レダーや TCAS との組み合わせも可能になった。 したがってウェイポイントを設けて、 エンルー トからアライバル時の Approach Fix への誘導 を容易にし、 混雑も和らげる成果を上げている。 A News という業界誌の本年6月29日発行の 記事に、“NextGen”と題した興味ある記事が 掲載された。 それによると、 「経費節減は路線時 間短縮が不可欠」 と掲げる大手航空会社の要望 に対応し、 FAA が構想する次世代プログラムは、 GPS の広範な機能を活かす目的からも、 ATC System を今の地上援助施設を使ったコントロ ラーとパイロット間による (ラジオ&レーダー) 直接伝達方式から、 ADS-B (Automatic Dependent Surveillance-Broadcast) が入力され たデーターを軸に、 サテライトを介して航空機 の流れをマネージメントする構想を説明している。 2018年を目処に移行を図り、 2025年に完了さ せる予定である。 それにはトランスポンダーモー ドSを含めサテライトが、 受信可能な送信装置 及びディスプレイ式受信装置の搭載が航空機に 不可欠であり、 GA がスムーズに対応できるか が、 今後の課題となりそうだ。 新世代航空機、 Technically Advanced Aircraft はスピードのみならず、 信頼性及び快適 性も格段に進歩し、 すでに ADS-B 対応した機 体も存在している。 GPS を含め、 それ等を取 り扱う操作手順はメーカーが提示したシラバス に依る所が大きく、 GA パイロット訓練も基礎 からの再構築に迫られている。 次回は主題にしている 「飛行訓練」 をお伝え します。 2009 SEP 77 “安全の分水領” 注 意 散 漫 フライト・セーフティ・ファウンデーション(FSF) 発行のエアロセーフティワールド誌 2009年 4 月 号 より 訳 不注意 上空からの中継に大忙しだった TV 局の取材 ヘリコプター2機は、 フェニックス上空で空中 衝突してしまう。 2007年7月27日、 警察官が追跡している現場 上空で、 この模様を取材中のテレビ局の取材ヘ リコプター5機が飛行していた。 しかし、 2機のユーロコプター AS350B2 は 空中衝突し、 ダウンタウンの公園に墜落してし まう。 この事故でリポーターを兼ねていたパイロッ ト2名、 および撮影をしていたカメラマン2名 も死亡し、 ヘリコプターは2機とも大破した。 この事故について合衆国運輸安全委員会 (NTSB) は、 最終報告書の中で事故原因につ いて、 飛行中、 他のヘリコプターを発見したな らこれを回避する努力を怠ってしまったと書き、 さらに“何とかテレビ局の取材をより良いもの にしよう、 というパイロットの責任感も不注意 を誘い込んでしまったのかもしれない”と書い ている。 “このような取材飛行を行う場合フェニック ス周辺で ENG (Electronic News Gathering= ヘリコプターに TV 用中継装置を設置し、 空 中から取材を行なう飛行) に従事するパイロッ ト達が予め取り決めていた方式に従わなかった ことも、 事故を招いた原因の一つである”と報 告書は述べている。 空中衝突事故の発生した現地時間12:46当時、 78 2009 SEP 佐藤 裕 気象状態は VMC で、 警察のヘリコプターが ATC に対し、 地上で展開されている、 おそら く盗難車と思われるピックアップ・トラックで 逃げる犯人を追跡しているパトロール・カーの 支援に加わる、 と告げた23分後に発生している。 この23分間後にわたり、 取材ヘリコプター5 機も ATC に連絡し、 この追跡現場へと向かう。 予め取り決めてある方法どおりではないが、 これら6機のヘリコプターは航空機相互間で交 わす周波数で、 自分の機体の位置、 そして行動 予定を連絡しあっていた。 チャンネル3、 そしてチャンネル15の中継を 行っていたヘリコプター2機にはオーディオ・ ビデオ記録装置が搭載してあり、 事故調査の段 階でこの装置に記録されていた情報も調査され ている。 12:38、 チャンネル15のパイロットは他のパ イロット達に、 現在2,200フィートを飛行して いる、 と一方送信し、 チャンネル3のパイロッ トは2,000フィートを飛行している、 と送信を。 (図−1) チャンネル3とチャンネル15の音声記録によ ると12:41.02、 チャンネル15を操縦していた パイロットは“間もなくキンダ・パークの右側 へ到着する”と送信している。 12 : 41.18 、 チ ャ ン ネ ル 3 の パ イ ロ ッ ト は “OK、 すぐ移動します”と送信を。 12:41.22から12:41.26の間、 チャンネル15 のパイロットは“チャンネル3の機体は? …どの位離れている? …なんてことだ!”と 送信している。 チャンネル15のパイロットは“チャンネル3、 ヘリコプターの位置 で、 チャンネル3のパイロットは 12:46.43頃“犯人は車を乗り捨 てて、 走り出したように見える… 別の車を盗もうとしているんじゃ ないかな? …警官達が取り囲ん だ、 捕まった…”そしてこの3秒 ほど後、 突然意味のわからない言 葉を残し、 チャンネル3の送信は 途絶えてしまった、 と NTSB の 報告書は書いている。 チャンネル15のパイロットの放 送は12:46.03に始まり“容疑者 は車を止めた…車を捨てて走り出 した、 警官も走って追っている… 容疑者は別の車のドアを…警察官 も追いつき、 その車のドアを…な 空中衝突する直前、 ポジション・リポートに高度は含まれていなかった。 んてことを”と送信している。 図−1 しかし、 このリポートは突然途 切れてしまい、 NTSB 両ヘリコ ちょうど君の真上だ、 15は君の真上にいる”と プターが空中衝突したのは12:46.18頃、 と推 送信する。 定している。 チャンネル3のパイロットは、 どの機体がチャ ンネル15なんだ? と送信し、 これに対しチャ 2機のヘリコプターは共にシティ・パーク内 ンネル15のパイロットは“君の真上にいる”と に墜落し、 この様子を目撃した別のヘリコプター・ 答えている。 パイロットは ATC に、 空中衝突の発生したこ とを通報している。 12:41.34頃、 チャンネル3のパイロットは、 現在2,000フィートで飛行している、 と送信。 2006年9月、 飛行時間は12,579時間、 と報告 12:42.25頃、 チャンネル3のパイロットは しているチャンネル3のパイロットが回転翼航 チャンネル15のパイロットに、“OK, 君の機 空機の事業用操縦士のサーティフィケイトを取 体が見えた”と伝え、 チャンネル15のパイロッ 得したのは1987年8月24日。 トもこの3秒ほど後“良く見えているよ”と応 このパイロットは回転翼航空機の教育証明も 答している。 持ち、 セカンドクラスの航空身体検査証明を持っ ていた。 この一連の交信は空中衝突する4分ほど前に このパイロットはチャンネル3の仕事を受注 交わされ、 2人のパイロットが自分の機の位置 した際、 バックアップ用パイロットで、 この仕 及び行動予定を連絡しあった最後であった。 事はパートタイムとして雇われていた。 ヘリコプターからの映像記録を見ると、 この この仕事に関するチーフ・パイロットは、 事 4分間の間にも両ヘリコプターとも位置を変え 故を起こしたパイロットについて、 1月2日か 続けている。 ら2007年7月5日の間に79回飛行を行い、 飛行 時間は124時間に達していた、 と話している。 地上の盗難車両が停止したのは12:45.43頃 このパイロットはアリゾナ州スコッツデール 2009 SEP 79 に拠点を持つウェストコア・アビエーション社 でフルタイムの仕事もしていて、 運航部門のディ レクターとして、 チャーター飛行も行っていた。 飛行時間8,006時間のチャンネル15のパイロッ トの飛行経験は全てヘリコプターによるもので、 AS350B2 では907時間飛行し、 1990年12月7日 に回転翼航空機の事業用操縦士免許を取得して いる。 このパイロットもセカンドクラス航空身体険 査証を持ち、 色弱の特例が付いている。 NTSB はこの件について、 色弱が今回の事 故に結びついた、 とは考えていないと話してい る。 このパイロットは2005年10月、 チャンネル15 の仕事を請け負っている U.S.ヘリコプター社 に入社している。 このパイロットはチャンネル15のフライト専 従で、 毎月平均45時間ほど飛行し、 U.S.ヘリ コプターの行っているほかの仕事には従事して いない。 チャンネル3のヘリコプター計器盤近くには、 チャンネル3が現在放映している画面、 ヘリコ プターに同乗しているカメラマンが撮影中の映 像、 そしてパイロット兼リポーターが選択する 映像2つ、 これら4種類の映像を映し出す ENG のモニターが装備してある。 チャンネル3のヘリコプターには、 パイロッ ト用ヘッドセットに他機に関する警報を音声で 流すとともにガーミン社製 GNS430 ナビゲー ション・ユニット上に、 衝突コースに他の航空 機が存在する場合、 20∼30秒間その航空機の位 置を表示する、 L−3コミュニケーション社製 スカイ・ウォッチ SKY-497 トラフィック・ア ドバイザリー・システム (L-3 Communications SkyWatch SKY-497) が装備してある。 “ こ の ヘ リ コ プ タ ー が 半 径 1,216 フ ィ ー ト (371m) ほど、 高度600フィート (180m) ほど で多くの取材用ヘリコプターの描く円周の中に 加わった途端、 警報音を発生した”と事故報告 書は書いている。 80 2009 SEP このシステムのハンドブックには、 警報音を 聞いたパイロットは、 接近してくる航空機を視 認し、 航空規則に示す優先権に従はなくてはな らない、 と書いてある。 ただし、 衝突コースを横切っただけの航空機 に対しても警報音を発生するので、 場合によっ ては警報音を作動させないようにする必要があ るかもしれない、 とハンドブックには書いてい る。 チャンネル3ヘリコプターを運行しているセ クションのチーフ・パイロットはこのシステム について、 この日の朝早く飛行したが、 正常に 作動していた、 と事故調査官に話している。 そして彼は、 空中衝突事故の発生した当時、 狭い空域内に多数の航空機が飛行しいていたの で、 他機との交信の妨げにならないよう、 警報 音の音量を絞っていたのではないか、 とも付け 加えた。 チャンネル15のヘリコプターに、 トラフィッ ク・アドバイザリー・システムは搭載されてい なかった、 と事故報告書。 航空機相互間の交信、 機内に搭載してある TV スクリーンのモニター、 さらにパイロット 兼リポーターは他の送受信機でフェニックス管 制塔の交信をモニターしながらテレビ局のニュー ス部門と3台目の無線機で交信し、 カメラマン とも機内通話装置で話をする、 という忙しい時 を過ごしていた、 と事故報告書は書いている。 十分な交信。 レーダーの録画記録によると、 チャンネル15 のヘリコプターは、 空中衝突をする2秒前、 高 度2,000から2,200フィートで右上昇旋回をして いる; レーダーの録画記録に残されている同ヘリコ プターの最後の映像によると、 2,300フィート を飛行している。 これと同じ時間、 2,000フィートで飛行して いたチャンネル3ヘリコプターは右へ旋回する: レーダーの録画記録には2,100フィートで飛行 している同機の映像が残されている。 トは各取材ヘリコプターと交信しあい、 各機の 飛行している位置を確認しあわなくてはならな い、 と話していると報告書は書いている。 墜落したヘリコプター 調査の一部として、 NTSB の代表者はフェ ニックス ENG ヘリコプター・パイロットから 事故当時の事情聴取を行っているが、 カーチェ イスを取材していた両ヘリコプターのパイロッ トとも、 十分に交信し合っていた、 とこのパイ ロットは話している。 そしてパイロット達は事故当時、 1機を除き、 全てパイロット兼リポーターとして飛行してい て、 例外の1機のみテレビ局の雇ったリポーター 兼カメラマンが中継をしていた、 と話している。 そしてパイロット達は事故調査官に、 機体の 塗装のせいで、 砂漠地帯や野菜畑にまぎれてし まい、 しばしば機影を見失うこともあった、 と 話した。 そしてパイロット達は、 メイン・ローター及 びテイル・ローターを良く視認できる色分けに ペイントし、 発光ダイオード (LED) を使用 する衝突防止灯に変え、 ヘリコプターを発見し やすくするべきである、 とも話している。 事故を起こした両ヘリコプターとも、 これら の装備をしていなかった。 そして彼は、 例えば取材現場がビル火災のよ うに移動しない場合、 ヘリコプターは現場を中 心に一定の取材飛行を行い、 今回のカーチェイ スのように現場が移動するような場合、 パイロッ そして彼は、 各ヘリコプターとも、 機体相互 間の間隔をより広く保ち、 他のヘリコプターの 動向について、 その間隔 (セパレーション) カ メラマンからパイロットに伝えるように伝えて おかなくてはならない、 と話したと報告書にあ る。 しかしこれら両名のパイロットとも、 危険な 状態に陥る可能性など、 まったく予感すること なく、 空中衝突してしまう。 事故を起こしたパイロットは2人ともフェニッ クス周辺で様々な AS350B2 ヘリコプターでの 飛行、 及び ENG に携わる飛行をしていた、 と 事故報告書。 両名ともヘリコプターを操縦しながらリポー トをこなす、 経験豊富なパイロットであった。 経験豊富なパイロットたちといえども、 この ように同時にすべきことを多く抱えた状態にお いては、 最も重視すべき点について、 注意の配 分がおろそかになってしまっていたのではない か、 と事故報告書は書く。 録音されていた音声についても調査したが、 事故を起こした両パイロットとも共通周波数を 使用し、 機体相互間で交信を行っていなかった が、 この件について事故を目撃した他の ENG ヘリコプター操縦士に事情を聴視したところ、 彼らはお互いを視認していたためではないかと 話している、 と報告書。 チャンネル3、 及びチャンネル15のパイロッ トが、 事故当時どの程度の作業をおこなってい て、 この作業量の多さが他のヘリコプターに対 する注意を阻害してしまったのかに関しては、 突き止めることは出来なかった、 戸も書いてい る。 現場上空を飛行しながら中継及びリポートを 行う、 といった多くの作業を同時にこなしてい たこれら両パイロットとも、 互いのヘリコプター の位置及び飛行しているコースを確認し続ける 2009 SEP 81 ことが困難な状態に陥っていた、 と考えられる、 とも付け加えてある。 12:45 43 (チャンネル3)、 12:46 03 (チャンネル15) から衝突するまで、 これらの パイロットは、 地上で起きている追跡劇に関す るリポートをそれぞれの局に送り続けていたが、 この間、 地上の出来事に注意を奪われてしまい、 空中衝突防止に不可欠な他のヘリコプターとの 間隔とか高度差に対する注意力が薄れていた可 能性も否定できない。 残されている事実は少ないのだが、 地上で発 生している事件 (カージャック) 中継の ENG に関する作業が、 他の航空機を発見したなら、 これを回避する、 という原則を阻害したことは 間違いない 多数の航空機が飛び交う現場上空で飛行する ENG パイロット達にとって、 他の航空機に対 する注意をする、 ということは飛行には関係し ない中継作業等よりも重要な、 パイロットに課 せられた義務である、 と事故報告書は書いてい る。 NTSB は報告書に NASA の ASRS に寄せら れたリポート、 空中衝突しかけた ENG ヘリコ プターに関するリポート18件の内1つを書いて いて、 このリポートは、 中継に集中するあまり、 不注意から警察ヘリコプターに向かって降下し てしまい、 危うく空中衝突しそうになってしまっ た、 という内容である。 フェニックスで発生した空中衝突、 そして ASRS に寄せられた、 空中衝突しそうになっ てしまった ENG ヘリコプターの場合も、 多数 のヘリコプターが飛行していた中で発生してい る、 と書いている。 安全委員会は今回の事故について、 チャンネ ル3及びチャンネル15ヘリコプターのパイロッ トは両者とも、 空中衝突するまで、 地上で繰り 広げられてる追跡劇の取材、 及び局へのリポー トに集中するあまり、 ヘリコプター同士が接近 しすぎていることに気づかなかったことが原因 82 2009 SEP である、 と結論している。 事故の結果 この事故後、 チャンネル3そしてチャンネル 15は飛行方法を改善する。 現在、 チャンネル3でニュース取材をするヘ リコプターにはパイロット2名が乗り込み、 1 人は操縦に専念し、 もう1名が現場のリポート を担当するようになっている。 チャンネル15のヘリコプターに乗り込んでい るパイロットは、 局へのリポートを行わず、 カ メラマンが映像を撮影しながらリポートをする 方式に改められている。 この空中衝突事故調査の後、 NTSB から出 された多くの安全に関する改善勧告を受け、 HAI (Helicopter Association International) は新たに、 航空取材に関する安全マニュアル (Broadcasting Aviation Safety Manual) を 作成した。 連邦航空局 (FAA) に対しても10項目に上 る、 ENG 飛行に関する安全勧告を行い、 この 中には、 パイロットに対するワークロードが低 い、 と判断される状態を除き、 パイロット以外 のものを同乗させて現場のリポートをさせるこ と、 ENG 取材に従事するヘリコプターのブレー ドを、 視認性の高い塗り分けにする上、 視認性 の高い衝突防止灯の装備を義務付けること、 と、 という勧告が含まれている。 このほかの勧告として、 ヘリコプターのコク ピットに装備する、 他機との接近を警報するエ レクトロニック・トラフィック・アドバイザリー・ システム (Electronic Traffic Advisory System) に関する基準を作成し、 ENG に従事す るヘリコプターには装備を義務付けること、 そ して毎年 ENG 飛行に従事する関係者を集めて 会合を開き、 安全に関する検討を行い、 取材飛 行中に必要な最小限の航空機相互間の水平間隔、 高度差を決定させるとともに、 この間隔を HAI のセイフティ・マニュアル及び FAA の アドバイザリー・サーキュラーにも明記するこ と、 という項目もある。 2003年に行った勧告と同様な、 連邦航空規則 パート91、 121、 135に従って運行を行う航空機 のうち、 エクスペリメンタル及びカテゴリーを 限定されていない航空機以外のタービン・エン ジンを装備する航空機で、 フライト・データ・ レコーダー及びコクピット・ボイス・レコーダー を装備していない機体には、 墜落時の衝撃にも 耐えうる強度を持つフライト・レコーダー・シ ステムの装備を義務付けるべきである、 という 勧告も含まれている。 ユーロコプター AS350 は1977年11月、 ア エロスパシャル社が AS350B として販売を 開始した 5/6 座席の小型多用途ヘリコプター である。 アエロスパシャル社のヘリコプター部門と MBB (メッサーシュミット・ベルコウ・ブ ローム) 社のヘリコプター部門は合併し、 1992年ユーロコプター社となる。 出力 478KW (641shp) のターボメカ・ア リエル 1B ターボシャフト・エンジンを装備、 このレコーダーは、 コクピット内の音声、 コ クピット周辺の映像及び機外の映像が記録され る方式の機材が望ましい、 とも NTSB は勧告 している。 2004年以降、 NTSB はこの勧告について、 航空輸送の安全性向上に関するリストの最重要 項目として掲げている。 この文書は2009年1月28日に発行された国家 運輸安全委員会 (NTSB) の事故報告書、 2007 年7月27日、 アリゾナ州フェニックスで発生し た NTSB/AAR-09/02、 KTVK-TV の ENG 取 材ヘリコプター、 N613TV ユーロコプター AS 350B-2と U.S.ヘリコプター社所属、 N215TV ユーロコプター AS350B-2 の空中衝突事故、 か ら引用した。 ファイバーグラス製3枚のブレードで構成さ れているメイン・ローター・システムを装備 する当初の AS350 から、 さまざまなバージョ ンが開発されている。 最新の AS350BA はより長いメイン・ロー ター・ブレードを装備し、 最大離陸重量も増 加している。 1989年に製造承認を受けている最新モデル の AS350B2、 1997年にフランスで製造承認 を受けた AS350B3 がある。 AS350B2 は 出 力 546KW (732shp) ア リ エル 1D1 エンジンを装備し、 海面上での最 大 巡 航 速 度 は 134kts で 最 大 離 陸 重 量 は 2.250kg (4.960lbs)、 スリングを行う場合に は 2.500kg (5.512lbs) となっている。 AS350B3 は 出 力 632KW (847shp) の ア リエル 2B エンジンを装備し、 海面上での最 大 巡 航 速 度 は 140kt で 最 大 離 陸 重 量 は 2.250kg (4.960lbs)、 スリングを行う場合に は 2.800kg (6.173lbs) となっている。 2009 SEP 83 学科試験問題検討会について 千葉 理事 JAPA の事業の一つである 「学科試験問題 検討会」 を紹介します。 皆様、 御存じのとおり、 航空界の発展は航空 機をはじめ、 それをとりまく環境において目を 見張るものがあります。 新しい技術をもとに開 発された航空機、 事故防止のために開発された 装置、 また通信航法機器の発展により新しい航 法や進入方式が設定され、 関連する法律や規定 が制定または改定され続けています。 航空界で 働く者にとって、 日々知識の習得や習熟が安全 運航の維持に必要不可欠なものとなっています。 これから航空従事者を目指す者にとって必須 である知識を確認する航空従事者学科試験問題 の内容を、 常に調査、 検討する必要があり、 ま たその内容を充実させることは航空の安全につ ながるもの、 と考えます。 「学科試験問題検討会」 は 「航空従事者技能 証明学科試験問題標準化調査」 について国土交 通省からの受託事業です。 事業は調査、 検討事項として航空法に定める 航空従事者資格に係る技能証明学科試験問題の 標準化に関するものです。 その内容は航空従事者資格に係る技能証明学 科試験のシラバス及び過去試験問題精査、 標準 問題の作成、 試験問題管理様式の調査、 検討及 び本データの提出となっています。 航空従事者学科試験は航空工学、 航空気象、 空中航法、 航空通信、 航空法規の5科目で構成 され、 さらに定期運送用、 事業用、 自家用、 計 器飛行証明等があり、 それぞれ問題の難易度に 応じて細分化されています。 平成17年度から年 に6回 (1月、 3月、 5月、 7月、 9月、 11月) の試験が実施されるようになり、 受験者にとっ ては良い環境が整えられました。 84 2009 SEP 博茂 学科試験科目の分類 航空工学 航空気象 空中航法 航空通信 航空法規 航空力学 航空機構造 航空機装備 動力装置 無線工学 航空計器 重量・重心位置 大気の物理 大気の運動 高層気象と気象障害 気象情報 航法 運航方式に関する一般知識 人間の能力及び限界に関する一般 知識 航空交通業務 管制業務 国際法規 航空法及び施行規則 航空業務・運航方式 〈設立と経緯〉 平成10年から3年間にわたって航空局乗員課 は 「航空従事者技能証明等学科試験問題の標準 化に関する調査委員会」 を設置し、 検討を行い ました。 その報告書の提言により、 今後も学科 試験問題は適切に維持管理されることが望まし いという結論に至りました。 さらに平成13年8 月期の学科試験から問題の持ち帰りができるよ うになり、 平成19年以降には試験問題が航空局 のホームページ上で公開となりました。 これに より、 試験問題の透明性が高くなり、 これまで 以上に公正な内容になったと言えます。 平成14年に学科試験問題標準化のためのワー キンググループの設立を航空局から依頼され、 受託事業として 「学科試験問題検討会」 が始ま りました。 委員は JAL、 ANA、 JAS、 滑空協 会、 気象委員会、 GA 委員会と幅広く航空に関 係する分野から選任され、 学科試験問題に関す る調査、 検討が行われてきました。 以下に時系 列的に示しておきます。 平成10年 1998年 航空局 「航空従事者技能証明等学科試験問題 の標準化に関する調査委員会」 を設置。 ↓ 平成13年8月 2001年 試験問題の持ち帰り可能となる。 ↓ 平成14年 2002年 JAPA は 「航空従事者技能証明学科試験問 題標準化調査」 を受託し、 「学科試験問題検 討会」 を設ける。 ↓ 平成17年 2005年 航空局 「航空従事者技能証明学科試験問題の 標準化に関する調査研究委員会」 を再設立する。 ↓ 平成18年 2006年 学科試験年3回から6回実施となる。 ↓ 平成19年11月 航空局ホームページ 2007年 試験問題を掲載する。 これまで検討会で取り上げられた主な内容 *学科試験問題をデータベース化して管理体制 を整備する。 *最終的には FAA のようにいつでも学科試験 が受験可能な体制をターゲットにする。 *年間の試験回数を増やす。 〈今後の課題〉 試験回数は前述のとおり年6回実施されてい ます。 データベース化についても確実に前進し ています。 FAA や諸外国で実施されているよ うな、 いつでも受験できる体制が確立されるこ とが望まれます。 近々、 MPL 資格の法制化が予定されていま す。 これを機会に資格試験はこれまでどおり科 目毎で行うことがよいのか、 科目の区分けを廃 止して資格毎の試験とするほうがよいのか等も 今後検討される課題であると考えます。 〈最後に〉 今年度の学科試験検討会委員は航空局乗員課 首席試験官を監事として JAL、 ANA、 朝日航 洋、 東邦航空、 中日本航空、 滑空協会、 GA 委 員会、 航空大学、 桜美林大学、 東海大学、 法政 大学等から委員が選出され担当科目毎にご尽力 を賜っています。 誌面をお借りして各委員の方々 には感謝の意を表し、 お礼を申し述べたいと思 います。 《学科試験問題検討会委員の公募》 PILOT の資格を取得する為の学科試験の問 題は航空局の乗員課試験官により作成されてい ます。 試験問題の内容が充実したものにするた めには、 一般の PILOT の意見も、 考慮される 必要があると考えます。 JAPA 会員の皆様の中で、 航空従事者とし て航空業務に携わってこられた経験を生かし、 「学科試験問題検討会」 の委員として活躍して みたいという方は JAPA 事務局までぜひご一 報下さい。 お待ちしています。 JAPA 学科試験問題検討会事務局 (斎藤) TEL 03−3501−0433 E-MAIL [email protected] 2009 SEP 85 地球環境問題関連用語の解説 24 4年にわたり継続し100項目の地球環境問題関連用語の解説を試みたこのシリーズも、 今回で最 終といたします。 新聞紙上に地球環境の記事が載らないことのない今日この頃ですが、 今後は、 話 題性のある用語が出るたびに、 新しい担当者で解説あるいは紹介をしていきたいと思います。 今回は、 過去に開設した用語のリストを紹介することで終わりにします。 地球環境問題関連用語の解説(1) 2005 No.6 NOV 1. 地球の温暖化 2. 温室効果ガス 3. 気候変動枠組み条約締結国会議 (COP) 4. 京都議定書 5. 排出権取引 6. クリーン開発メカニズム 地球環境問題関連用語の解説(2) 7. BOD 8. COD 9. 環境ホルモン 10. ダイオキシン類 11. PCB 地球環境問題関連用語の解説(3) 12. EPR (拡大製造者責任) 13. PPP (汚染者負担の原則) 14. 環境基本法 15. 3R 地球環境問題関連用語の解説(4) 16. ISO14000シリーズ 17. エコプロダクト 地球環境問題関連用語の解説(5) 18. 音の3要素 19. 騒音の一般的分類 20. 騒音規正法 21. 騒音基準適合証明 22. 航空機の騒音源 地球環境問題関連用語の解説(6) 23. デシベル (dB)=フォン (Phon) 24. LA (Weighed Sound Pressure Level) 86 2009 SEP 25. Ldn (Day-Night Average Sound Level) 26. Lden (Day-Evening-Night Sound Level) 27. ジェット機の騒音指標 地球環境問題関連用語の解説(7) 29. 航空機騒音の測定点 30. ICAO 基準と FAA 基準 31. チャプター2 (ステージ2) 基準 32. チャプター3 (ステージ3) 基準 33. チャプター4 (ステージ4) 基準 地球環境問題関連用語の解説(8) 34. 航空機騒音の測定点の図 35. チャプター3騒音基準値 36. 離陸騒音 37. 側方騒音 38. 進入騒音 39. チャプター3/4の3測定点騒音の累積グラフ 地球環境問題関連用語の解説(9) 40. エンジン換装 41. 航空機騒音地図 (Noise Footprint) 地球環境問題関連用語の解説(10) 28. Cut Back 42. 低公害車 (クリーン・エネルギー車) 43. 水素航空機 地球環境問題関連用語の解説(11) 44. 電気自動車 45. 天然ガス車 46. 燃料電池自動車 47. メタノール車 48. ハイブリッド車 49. トランスヒート・コンテナー 地球環境問題関連用語の解説(12) 50. 窒素酸化物 (NOx) 51. 硫黄酸化物 (SOx) 52. 光化学スモッグ 53. 酸性雨 54. CO2削減目標 地球環境問題関連用語の解説(13) 55. 運航環境 56. パイロットは地球環境に貢献できるか 57. チリも積もれば 58. 使用機材 (乗務機種) 地球環境問題関連用語の解説(14) 59. 飛行計画 60. 搭載燃料 61. Burn off Fuel 地球環境問題関連用語の解説(15) 62. 離陸推力 63. 騒音軽減離陸方式 64. SID 65. 上昇速度 地球環境問題関連用語の解説(16) 66. 巡航高度 67. 巡航速度 68. Winglet 地球環境問題関連用語の解説(17) 69. Jet Stream 70. Speed Brake 71. Delayed Flap/Delayed Gear 72. CDA (Continuous Descent & Approach) 73. Tail Wind Landing Capability 地球環境問題関連用語の解説(18) 74. 洞爺湖サミットでの G8 首脳宣言 75. 「環境・気候変動」 76. ESD 77. Sustainable Development 78. Sustainability Science *サミットの首脳宣言で感じること *地球環境問題に取り組む上での哲学 *地球環境改善に役立つ画期的革新技術 *パイロットの体験する環境・気候変動の現象 *IR3S とは 地球環境問題関連用語の解説(19) 79. 環境関連技術 「愛・地球賞」 100件 80. *コージェネレーション:CHP 81. DHC (District Heating and Cooling) 82. *地球シミュレータ 83. *海洋温度差発電 地球環境問題関連用語の解説(20) 84. 海洋エネルギー 85. 海洋温度差発電 (OTEC) 86. 海洋バイオマス研究コンソーシアム 地球環境問題関連用語の解説(21) 87. Greenhouse Gas (温室効果ガス) 88. Green Economy 89. Green New Deal 90. Carbon Offset (カーボン・オフセット) 91. COP (Carbon Offset Plants) 92. GOAST (温室効果ガス観測技術衛星) 地球環境問題関連用語の解説(22) 93. COP10 94. MOP 95. 生物多様性とは 96. 生物多様性に迫る危機 97. 絶滅の恐れのある日本の野生動物 地球環境問題関連用語の解説(23) 98. 「国際航空からの CO2排出抑制に関するセ ミナー」 講演タイトルと講演者 99. ICAO サーキュラー303, AN176 100.SAS のグリーン・アプローチ 地球環境トーク・セッションの企画 地球を職場にしている国際線乗務のパイロッ トと、 宇宙を仕事場としてきた宇宙飛行士に よる 「地球環境の現状 (仮題)」 というセミ ナーをぜひ実現させたいと考えています。 運航技術委員会 岩瀬 健祐 2009 SEP 87 オススメ! 情報ボックス 書籍&Goods紹介 編集委員会 このコーナーでは、 書籍紹介を始めとして航空に関するお勧めグッズ等を紹介しています。 読者の皆 さんも、 是非、 フライトで使用している便利グッズや、 パイロット仲間に紹介したいグッズ、 書籍など の情報を、 編集委員会までお知らせください。 もちろん、 ステイ先などでの飲食店情報なども大歓迎です。 のりもの倶楽部 市ヶ谷店 〒162-8616 新宿区市谷本村町2 3 イカロス出版株式会社事業部 飛行機のモデルは様々なサイズ及び塗装の旅 客機から軍用機まで、 とにかく数が多い。 旧塗 装の旅客機等、 懐かしい物も多い。 T E L :03−3267−2724 (店舗電話番号) FAX :03−3267−2855 (注文受付24h) 営業時間:11:00∼20:00 年中無休 URL:http://www.norimono.cc/ 今回は、 航空関係の多くの書籍を制作販売し ているイカロス出版事業部の直営売店 「のり もの倶楽部」 の紹介です。 圧倒的な数の航空関係書籍と各種グッズ 88 2009 SEP ネット販売は便利でも、 細部は実際に見るの が一番。 ぜひお店を訪問され、 お気に入りを手 に入れることをお勧めしたい。 RNAV 方式の設計と原理 著者:中西善信 発行:鳳文書林出版株式会社 〒105-0004 東京都港区新橋3 7 3 T E L :03−3591−0909 FAX :03−3591−0709 E-Mail:info@hobun.co.jp U R L :www.hobun.co.jp/ 振替:00130-7-5699 定価:本体価格3,800円+税 わ が 国 に お い て 、 平 成 19 年 に 広 域 航 法 (RNAV) の国際的指針となる 「ICAO PBN マ ニュアル」 の最終ドラフトが完成した。 RNAV の導入は、 航空局において策定した 「RNAV ロードマップ」 に示す第二段階、 「RNAV 導入・ 展開時期の中期的対応」 として、 空域容量の段 階的増大と運航効率の更なる向上を目指す時期 にある。 RNAV (広域航法) は、 空域の容量拡大や管 制処理能力の向上のためのツールとして不可欠 なものとなっている。 しかし、 その 「RNAV」 の語が意図するところは、 ここ数年で劇的に変 化してきている。 長年、 RNAV は 「VOR 等の配置に制約され ない任意の経路を設定・飛行する航法」 として 一般に認識されていた。 しかし昨今、 RNAV に対する考え方が大きく転換され、 任意の経路 が飛行できることに加え、 「航法精度要件を規 定する」 あるいは 「航法仕様を定める」 ことが セットで RNAV に求められるようになってき た。 このような流れを受け、 2007年に ICAO に よって 「ICAOPBN マニュアル」 の最終ドラフ トが完成され、 RNAV の新たな時代が始まっ た。 本書は、 著者中西善信氏によって完成され、 「飛行方式設計入門」 の続編であり、 前著で触 れることのできなかった RNAV 方式の設定基 準をそれぞれの方式の設計において適用すべき ルールをひとところにまとめることを目指し、 PBN 概念の説明に多くのページを割き、 設計 の基準も、 DME/DME や GNSS といったセン サ ー 別 で 語 る の で は な く 、 RNAV1 や RNP APCH といった 「航法仕様」 別に解説されて いる。 本書は RNAV 方式に的を絞ったもので、 基 準の背景にある 「考え方」 に対する理解を重視 した構成で、 とにかく難解になりがちな専門的 内容を初心者にも分かり易いソフトな語り口で 丁寧に解説している。 また基準の根拠となる数 字的知識も随所に盛り込まれ、 より深い知識の 習得も可能にしている。 筆者の長年の経験に裏 づけされた解説は説得力に富み、 その内容は方 式設計の初心者から専門的技能を有する経験者 までの読者層を限定しない内容となっている。 筆者は、 「飛行方式設定基準」 策定のための 航空局作業のほか、 ICAO 飛行方式パネル等数 多くの国際会議に参画、 飛行方式設計者の訓練 に関する国際基準等の策定等に深く関与され、 実際の方式設計業務の現場においても後進の指 導・育成にも努められている。 本書は、 RNAV の最新解説書として航空関 係者必携の著で是非多くの方々に熟読吟味して 頂きたい。 2009 SEP 89 ews FAI N FA I ニュース Federation Aeronautique Internationale 本誌9月号発行の頃は、 各種競技会も残すと ころわずかとなり、 来年へ向けての取組が始動 する頃になります。 航空スポーツ各部門の選手 及び関係者は、 意見や要望等を積極的に日本の デレゲート、 又は JAPA にお伝え下さい。 それらの情報は、 FAI の各部門に伝えられ、 E-Mail 網等で委員間の情報交換の後、 10月か ら11月にかけて実施される各部門の年次総会で 最終調整され、 議決されることになります。 では今月の各部門の報告です。 ロータークラフト (ヘリコプター) ロータークラフト競技の常連国は、 オースト リア、 フランス、 ドイツ、 イタリア、 ニュージー ランド、 ロシア、 スイス、 イギリス、 日本等で す。 ワールド・チャンピオンシップは、 オリン ピックにも相当するレベルの競技会ですので、 航空スポーツが盛んな諸外国では、 国家の威信 をかけてチームを構成し、 参加してきます。 日本は、 これまでに、 課目優勝の実績があり ますが、 参加には、 国内での事前練習の後、 機 体を持ち込んでの参加となりますので、 時間的 にも、 費用的にも、 大変な苦労があります。 次回のワールド・チャンピオンシップは、 2011年に、 ロシアにて開催の予定で、 参加のた めには、 既に準備が必要な段階です。 小型の R22 ヘリコプターでも参戦可能ですので、 ロー タークラフト競技に興味のあります方は、 JAPA に連絡をいただければデレゲートより、 競技関係の情報を提供させていただきます。 GAC:ジェネラル・アビエーション(飛行機) FAI のジェネラル・アビエーション競技は、 ラリー飛行と精密飛行競技であったのですが、 現在は、 RED BULL エアレースも、 ジェネラ ル・アビエーション競技として扱われています。 90 2009 SEP 奥貫 博 レシプロエンジンの小型機を使用して、 所定の コースを早く正確に飛ぶことを競うものですか ら、 ジェネラル・アビエーション競技と言う訳 です。 今年の RED BULL エアレースは、 前半 を終了し、 後半は以下の3レースです。 日本の 室屋選手の健闘が期待されます。 ④ブタペスト (ハンガリー) 8月19−20日 ⑤ポルト (ポルトガル) 9月12−13日 ⑥バルセロナ (スペイン) 10月3−4日 国内での FAI 方式試行の着陸競技会は、 今 年も12月の6日、 7日に枕崎空港で実施の予定 です。 詳細は次号でお知らせします。 エアロバティックス (FAA-CIVA) 各地で開催されている世界選手権及びヨーロッ パ選手権もそろそろ終わりに近づきつつありま す。 今年日本からは、 チェコ共和国ホシンで開 催された WGAC (グライダーアンリミッテッ ドの世界選手権) にただ一人、 梶智就さんが参 加しただけにとどまりました。 その結果は、 総 合で34人中24位、 67.83%で、 初めての世界選 手権参加にしてはまずまずの成績でした。 梶さ んは、 5つのプログラムのうち Unknown2 で は7位をとるなど、 この1年間で着実に力をつ けてきており、 このまま練習を続けていけば、 いずれは上位を狙えるものと思います。 その他の選手権で特筆すべきことは、 今年の 飛行機のアンリミッテッドの世界選手権が、 1960年以来の歴史のなかで初めてモータースポー ツ・サーキット (F1 イギリスグランプリでお 馴染みの 「シルバーストーンサーキット」) で 開催されたことです。 サーキットは、 選手、 関 係者、 観客にとってベストな環境であり、 この 試みはこれからのエアロバティックス競技会の 開催場所に、 大きな影響を与えることでしょう。 中部支部だより アメリカ GA 界における2つの事例 中部支部 1. はじめに 私が初めてオシコシを訪ねたのは2000年 (平 成12年) 7月で、 とにかく飛行機漬けの1週間 でした。 その時は素直にアメリカの航空文化の 層の厚さとスケールの大きさに圧倒されて帰っ てきました。 それが病み付きになり、 2007年に 続き今回3回目の訪問となりました。 また、 数年前に友達になったJ氏はプロのパ イロットで2回目から現地で合流して同行して くれていますが、 今回もオシコシの後、 彼が新 居を構えた New Mexico 州の Albuquerque に 移動して、 アメリカに於ける、 生活の中に溶け 込んだ GA の素晴らしい一面を体験させてく れました。 そして、 これも是非広くご紹介した いと思い、 今回の旅行記を書いてみることにし ました。 2. オシコシでの3日半 AirVenture OSHKOSH は EAA (Experimental Aircraft Association) によって1974 年より始まって今回は第35回目といいます。 そ もそも1953年に Milwaukee で行われた航空ショ ウに参加したことが始まりと聞きましたが、 そ れから数えると56年、 Wisconsin 州オシコシに 移ってからでももう40年ほどになるはず。 途方 も無く長い歴史があるわけで、 しかも毎年行わ れていて、 もう3年先まで予定が決まっていま す。 因みに2010年は7月26日∼8月1日、 2011 年7月25日∼7月31日、 2012年7月23日∼7月 29日となっています。 さて、 今年は、 この不況下にあって日本から眺 福井 宏己 めている限り開催を危惧していましたが、 会期 は例年も通り1週間 (今回は7月27日 (月) ∼ 8月2日 (日))、 期間中に集まる飛行機は1万 機以上、 入場者は50万人以上と、 全く変わりま せん。 出展や展示機の内容も見劣りしません。 改めてアメリカの底力を感じます。 今年はコン トロールタワーが建て替えられ、 会場のレイア ウトも所々変わっていましたが、 新装なったブ ラウンアーチが迎えてくれました。 ① 会場の構成 メイン会場 メインゲートを入ると両側に大きな4つのハ ンガーがあって、 色々な航空関係グッズが各社 の展示ブースで展示即売されています。 そこを 通り過ぎるとその先に各社の航空機が展示され ています。 今回の目玉は A380 とホワイトナイ ト2でしょう。 勿論各航空機メーカー (セスナ、 パイパー、 シーラス等々) や関係機器メーカー (ライカミング、 ベンディックス、 ガーミン等々) が自信の最新鋭機 (器) を展示しています。 ② ホームビルトエリア メイン滑走路 (18R-36L) に向かって左 (北) 2009 SEP 91 側がホームビルトエリア、 所謂自作機集団のエ リアで、 百数十機が展示されており、 大編隊と なって会場上空をデモンストレ−ションします が見事なものです。 ③ ウォーバードエリア ホームビルトエリアの北側にウォーバードエ リアがあります。 第二次大戦機を中心にピカピ カに磨かれた軍用機が展示してあります。 ボー イング?の複葉機から P51、 果てはミグ戦闘機 まで展示してあります。 P51、 T6、 T34、 T28 などは編隊で上空をデモフライトしています。 パークしています。 賑やかに展示やエアショウ が繰り広げられているメイン会場を遠目に見な がら、 ここには不思議な静寂とゆったりした空 間があります。 ⑦ ④ ヴィンテージエリア 中央右 (南) 側にあります。 1900、 10年代の 飛行機がピカピカに磨かれて飛んで来て、 その まま展示されます。 体験搭乗出来るフォードト ライモーター機ですら1929年製です。 ヴィンテー ジ機は一目数十機というところでしょうか。 戦 後、 航空再開された辺りの飛行機も沢山ありま すが、 私が好きなセスナ195は日本に飛べる機 体は1機もありませんが、 ここにはずらりとあ るのです。 パイパートライペーサーもズラッと 並んでいます。 ⑤ ウルトラライトエリア ヴィンテージエリアの南はウルトラライトエ リアです。 ここは日本でもおなじみの ULP が 展示してあり、 自作ヘリも含めて、 ユニークな 機体が展示してあります。 自作ヘリは盛んにデ モフライトをしていました。 ⑥ 水上機基地 (Sea Plane Base) 水 上 機 基 地 は バ ス で 10 分 ほ ど 行 っ た 湖 (Lake Winnebago) にあり、 沢山の水上機が 92 2009 SEP フォーラムとワークショップ AirVenture の素晴らしいところは、 数百の フォーラムが行われることです。 沢山のフォー ラム館があって、 そこで短い物は15分くらいか ら、 あらゆるテーマでの講演が行われます。 更 に飛行機の工作法 (リブの製作、 羽布の縫い方、 ドープのかけ方、 板金加工や溶接等々) の講習。 幼児に対する教育、 啓蒙に至るまで様々な分野 に実にきめ細かく、 幅広くイベントが繰り広げ られています。 ⑧ EAA 博物館 これは恒久施設です。 これだけでも日本の航 空博物館以上の規模と素晴らしい展示物のある 施設です。 ⑨ エアショウ エアショウは毎日14時30分頃から始まり、 各 種のアクロバットが繰り広げられますが、 異色 だったのは Twin Beech が赤と黒の派手な塗装 で登場し、 いきなり緩横転を打ち、 スモークを 引きながらループを含め次々にマニューバーを 披露したこと。 それはもう、“Crazy!”としか 云い様がありません。 ウォーバードや自作機の 編隊飛行、 軍用機の展示飛行、 その間を縫って フォードトライモーターの体験搭乗 (有料:$ 55)、 ベル 47G の体験搭乗 (有料:$40) など が行われており、 更にその間を縫って個人機の フライトが行われています。 だと思います。 仕事は様々で年齢も様々です。 入口での入場券販売を初め、 会員登録等も担当 しています。 駐車場の誘導係、 トロッコの運転、 場内の清掃、 案内所でのガイド役、 販売店の店 員、 果ては到着機やエアショウの為に離着陸す る飛行機の誘導 (Follow me) など殆どの仕事 ⑩ 体験搭乗 フォードとベルに乗ってきました。 B-17 に も乗れる様ですが料金が高いので余り利用者は いないようです。 フォードは主滑走路から、 ベ ルはパイオニア空港 (博物館脇) のグラスラン ウェイから発着します。 特にヘリからは写真を 撮るのには最適です。 ⑪ その他 何でもあり、 と云う感じです。 マーケットに はジャンク屋さんもあって、 EAA も自らジャ ンク品を売っています。 ここだけで飛行機が1 機出来てしまうくらいです。 支えるもの 大きなイベントで且つ1週間という長期間で すからこれを支えるのも大変です。 しかし、 色々 な組織や機能が緊密に連携を取り見事に運営さ れていきます。 ① ボランティア 大きな原動力になっているのがボランティア をこなしています。 更に、 管制官 (タワーには The most busy control tower of the world の掲示あり) も FAA の有資格者ではあるけれど当期間の仕事 はボランティアだとか。 ② クリーン部隊 会場には大きなゴミ箱がいくつも備えてあり、 その間を大きな専用トラックが巡回しています。 この作業は専門業者のようでした。 細かいごみ はボランティアが箒と塵取りを持って歩き、 す かさず拾い集めます。 ですから会場内は大変き れいで清潔です。 ③ 医療支援 大勢の人が集まりますから、 医務室があって、 医師と看護師が常に待機しています。 医務室前 のテラスに出て常に臨戦態勢です。 ④ 給水 夏の盛りですから水分補給が欠かせません。 この辺りは水が良くて、 飲むことができます。 私も1本目のミネラルウォーターを飲み干した 後は、 その水飲み場で空瓶に補給しましたが、 方々に有るのでついには持ち歩く必要を感じま せんでした。 ⑤ トイレ 水を飲めばトイレです。 これは日本にもよく ある簡易トイレが方々にあり、 不自由はしませ ん。 ⑥ 燃料補給 燃料補給については会場中をタンクローリー が何台も巡回しており、 フライインした機体で あろうと、 展示飛行機であろうと迅速に給油に 応じています。 また、 スモーク用のオイルまで 供給していました。 2009 SEP 93 皆様も機会を作って体験されることをお勧め します。 3. New Mexico・ SANDIA AIRPARK の体験 楽しみ方 これはもう各自の好みや気分で如何様にも楽 しめます。 老いも若きも。 身体が多少不自由で もお構いなし。 レンタルのシニアカーのような 物に乗って会場を練り歩きます。 また、 会場を トロリートロッコやバスが場内を巡回しており、 それらを上手く使うことにより効率よく体力の 消耗を抑えながら楽しむことが出来ます。 しかし、 一番の楽しみはフライインとキャン プでしょう。 先に期間中1万機が集まると書き ましたが、 その大部分が個人的にフライインし て来る機体だと思います。 ボナンザクラブとか パイパークラブ等と称して一画を占めているグ ループもあります。 そしてその多くの人々が機 体の脇でキャンプをします。 そのためのシャワー 室や炊事場も何箇所か用意されています。 展示 施設は17時で閉館になりますが、 キャンパーに はそれからが又楽しい時間のようです。 夜の、 近隣との語らいは勿論、 コンサートやシアター でのイベントもあるようです。 但し、 周囲が飛 行機だらけですから、 花火やキャンプファイヤー は禁止だそうです。 日本からももっと参加を 色々書いてきましたが、 AirVenture はその 規模が大きくて、 私は毎回3日∼3.5日の滞在 ですが、 1週間居ても時間は足りないでしょう。 フォーラムまで覗いていたら尚更です。 この規 模のイベントを毎年実施するのですから、 全く 目を見張るアメリカの底力です。 94 2009 SEP 7月30日の午後、 オシコシを後にして同行の J氏の住むニューメキシコのアルバカーキに移 動しました。 翌日は飛行機がエンジンランアップしている 音に起こされました。 時計を見ると6時少し過 ぎです。 暫くして音が近付いて来るようです。 「タクシーしてるんか?」 と思いテラスに出て みると家の脇の道路を単発機が走っているでは ありませんか! 暫くしてその機体は一旦隠れ た家の陰から姿を現すと R/W27 から離陸して 行きました。 「いやー参った参った!」 と云う 感じ。 それは信じられない、 ありえない光景で した。 ここは Sandia Airpark というところで、 平 均1区画1エーカー (約1200坪余) の土地が約 100区画ある団地で、 団地の北側には5000ft× 37ft (09/27) の滑走路があります。 現在の入 居数は約40軒。 殆どの家は小型機を所有してい ます。 ここには TWR が有りませんので VFR 専用ですが、 滑走路灯があるので24時間運航で きます。 各家からはハンガーから TAXIWAY へ出て R/W へ向かいます。 ここには又オシコシとは違った空がありまし た。 午後、 やや遅めの昼食は郊外のメキシコ料理 店で4家族8人が一緒に取りました。 私を除い て男性4人は全てパイロット。 婦人も無類の飛 行機好きか、 飛行機の仕事に携わっているとの こと。 食事中の話題は 飛行機! 。 その後、 夕刻からJ氏宅でパーティ。 そこで延々と話が 弾みます。 その内 「あれも呼べ!」、 「彼にも電 話しよう」 と云って総勢14人になってしまいま した。 そして、 話題はやはり 飛行機! 。 よ くもまああきないものです。 因みに当日集まっ た連中が所有している機体は C172、 C182、 RV7 (自作機)×2、 パイパーコマンチ、 パイ パーカブ、 ムーニー、 モーターグライダー、 ジャ イロコプターなどでした。 翌朝は珍しく霧でし たが、 10時頃には又何時もの抜けるような青空 になりましたので 「行こうか」 と準備を始めま した。 C172 (N3034U) をハンガーから引き出 し、 エンジンを掛けてタクシーを始め、 R/W09 エンドに着くとそこに無人のガソリン スタンドがあり、 クレジットカードを料金機に スルーして給油を始めました。 燃料も入りプリチェックも完了したのでいよ いよ R/W09 より出発。 北の方にある山を回り、 飛行場へ戻って AirPark 上空をゆっくりと3 回くらい旋回して、 今度は R/W27 から着陸。 お よ そ 35 分 の フ ラ イ ト 、 高 度 は 8500ft 、 TAS100KT でした。 上空から見ると各家のハンガーが皆タクシー ウェイにつながっているのが判ります。 聞いて みると共益費のようなものが、 年間僅か$200 だそうです。 さて、 こうしている内にも飛行機やヘリコプ ター、 モーターカイトが飛んだり降りたりして います。 皆自分のペースで休日のフライトを楽 しんでいるようです。 8月3日月曜日、 いよいよ帰国の日です。 7 時までには ABQ 空港へ行かなくてはならない ので5時前に起床。 すると5時半頃ランナップ 音が聞こえてやがて離陸して行く音がしました。 朝の身支度が忙しいので確認しませんでしたが、 後で聞くと金曜日のパーティのメンバーの1人 とのことで、 彼は何時も5時半に C182 で通勤 しているとのこと。 天気が安定しているので通 勤に問題無いし、 車で通勤すると2時間半も掛 かるのでとても便利だ、 とのことです。 ここでは皆がこんな環境で航空を楽しんでい るようです。 オシコシが GA の有るべき姿や 将来像を表現しているとすれば、 この Sandia AirPark は日常生活に溶け込んだ飛行機、 GA の現実が感じられます。 これは私が体験したほ んの一断面に過ぎませんし、 既にご存知の方、 体験済みの方も多いかと思いますが、 私がこの 目で見た最新の実態を是非ご紹介したくて拙文 にまとめさせて頂きました。 (完) (平成21年8月記) 2009 SEP 95 開催報告 航空安全セミナー開催報告 GA 委員会 航空安全セミナーは GA 委員会主催で、 科目に特化したテーマ設定を行い、 年4回開催を目標 に定期的に行っております。 7月号でご案内しました、 第36回航空安全セミナーは、 「計器飛行」 をテーマに2009年8月1日 (土) 13時30分∼17時の間に航空会館にて開催しましたので報告します。 今回のセミナーでの講師は法政大学教授の渡邉さんにお願い致しました。 皆様ご承知のように、 渡邉教授は航空大学校教官、 首席航空従事者試験管、 首席運航審査官を歴 任され、 常に試験、 教育等に関わってこられ、 現在は法政大学教授として、 航空操縦学専攻課程の 学生の方々の操縦教育等を担当されておられます。 今回のセミナーでのテーマの選定は、 会員の皆様から要望をお聞きし、 計器飛行に関する智識習 得を今年度のテーマとしました。 セミナーでは計器飛行証明を取得したいがどのように取り組んだ らよいか分からない、 計器飛行証明を取得したがその後の教育を受ける機会がないという方を含め、 総勢30名の方が参加されました。 講義では計器飛行とはどのような飛行なのかをわかりやすく説明して頂き、 続いて計器進入方式 を中心に講義して頂きました。 計器飛行のための施設の概要や具体的な利用方法、 ILS 進入におけ る DH での RWY の見え方などの解説があり、 これらの知識がまず自分自身で充分に整理され、 技量の確立ができていなければならないなど、 厳しい指摘もありました。 その後の質疑応答では普 段疑問に思っていることなどが積極的質問され、 闊達な意見交換の場となりました。 セミナーでの アンケートでは、 計器飛行証明保有者の方々からも 「知識レビューが出来て良かった」 との回答、 他にも次のような回答を頂き、 セミナーの効果が感じられました。 *IFR で飛行するには、 何が重要なポイントなのか理解できました。 *ALS 末端でのクロスオーバーとの関連からくる目安距離、 ILS のビーム電波の仕組みなど 理解出来た。 *時代の流れとともに、 パイロットの資質が問われていることが良い勉強になった。 アジアゲートウェイ構想、 羽田空港再拡張など、 日本国内の空域も益々輻輳すると思われますの で、 航空管制の必要性が重視されます。 「自分一人の空ではないことの認識」 を再確認して頂き、 国際化する世界の中で、 適切な管制用語によるコミュニケーション・ループを心がけていくことが 重要と考えられます。 小型航空機パイロットの皆様も、 運航の安全性向上のため、 計器飛行方式を是非勉強して下さい。 管制方式を理解すると、 フライトがさらに楽しくなるはずです! 今後も航空安全セミナーを更に充実させたいと考えていますので、 定期航空パイロットの皆様か らも、 小型航空機操縦士へのアドバイス、 ご示唆などございましたら、 お聞かせいただければ幸い です。 なお次回、 第37回航空安全セミナーでは、 最新の G1000 を利用した運航のご紹介を予定し ていますので、 会員の皆様方には、 ふるってご参加ください。 96 2009 SEP 開催案内 曲技飛行競技会 開催案内 曲技飛行機及び曲技飛行パイロットの増加を考慮し、 将来の曲技飛行日本選手権開催を視野に入 れた競技会を試行することで、 各人の技量向上を啓蒙し、 曲技飛行実施時の安全確保を推進する。 また審判団等との意見交換により技量確認を行い、 安全講習を兼ねることを目的とする。 併せて、 曲技飛行用飛行機の安全確実な着陸技術を身に付けるため、 着陸競技会を実施する。 1. 日時 (案):平成21年11月14日∼15日 (13日を練習日とする予定) 13日 AM フライイン/ブリーフィング/PM 公式練習 (10分/1スロット) 14日 競技会1日目 (10分/1スロット) 15日 AM 競技会2日目/ディブリーフィング&表彰式/PM フライアウト 2. 場所:福島県 ふくしまスカイパーク 3. 競技の内容:曲技競技:下図参照 (プライマリー ∼ スポーツマンクラス 程度の内容) 着陸競技:次ページの図参照 4. 参加機体:曲技飛行の実施が承認された飛行機であること エクストラ300/200 ピッツ S2B FA200 C150/152エアロバット スーパーデカスロン WACO 等 時間的に可能ならば、 通常の機体での、 着陸競技のみの参加も可とする。 5. 安全対策:飛行開始前にパイロットブリーフィングを実施し、 参加者の安全対策確認の署名を得る。 6. 連絡先等 実務担当:室屋義秀 090 2221 3708 支援組織:有限会社パスファインダー [email protected] 福島市北沢又日行壇7 48 024 558 8318 担当:青島信介 エアロバティックス競技科目の案 2009 SEP 97 競 技 空 域 の 案 ・競技空域は1000m×1000m/下限高度 3000Ft (MSL)/上限高度 5000Ft (MSL) ・4隅にマーキングを設置 (の予定) 合せて、 曲技用飛行機の確実な離着陸操作習得を目指し、 着陸競技の試行を計画中。 FAI 方式の着陸競技は、 Super Wings 主催の枕崎 空港での着陸競技方式に準じて実施の予定。 (PILOT 誌2009年5月号の GA 部会活動報告参照) 98 2009 SEP 開催予告 平成21年度 機長昇格を目指す方々へ、 JAPA からの特別企画 機長への道「副操縦士の皆さんへのメッセージ」 エアライン委員会 エアライン委員会では、 以下の通りセミナーを開催致します。 このセミナーは、 航空局より運航審査官、 航空従事者試験官をお迎えし、 審査・試験制度概要、 および審査や試験の着眼点などを中心にスクール形式で行われます。 もちろん質疑応答の時間もあ りますので、 普段疑問に思われている事など運航審査官、 航空従事者試験官に直接伺える良い機会 です。 過去に参加した皆様の声を紹介します。 ・笑いありの講義で機長昇格の道筋についてもわかりやすい説明でした。 ・かなり具体的に突っ込んだ話をしていただいたので参考になりました。 ・チェックに対しての考え方が良く理解できた。 ・オーバーアシスト等、 詳しい具体的な話が聞けてよかった。 ・試験や審査に対する考え方が大きく変わったと思います。 ・昇格へ向けての心の持ち方を学びました。 今後の訓練を楽しめるよう頑張ります。 開催予定 (各開催とも13時∼17時) 第21回 福岡県 10月6日 (火) 第22回 沖縄県 12月11日 (金) ※会場は申込者宛に連絡を致します。 ※別途指導者層を対象としたセミナーを開催する方向で調整中です。 申し込み 問い合わせ 03−3501−0433 [email protected] 事務局まで 皆様の参加をお待ちしています。 当セミナーは、 長年親しまれた 「機長養成講習会」 の名称を変更し、 今後、 副操縦士に昇格した ばかりの若い世代の皆様にも参加しやすいセミナーとして運営いたします。 2009 SEP 99 開催予告 スカイ・レジャー・ジャパン 09インふくしま 「地上と大空を結ぶ航空公園」 を目指して! 平成21年10月17日∼18日 於、福島県 ふくしまスカイパーク(福島市) 入場無料 スカイ・レジャー・ジャパンは毎年1回、 全国各地での開催により空を安全に楽しむ姿を伝え、 21回 目を迎えます。 また、 ふくしまスカイパークは、 農道離着陸場として、 例年、 航空と農業をカップリン グしたイベント 「スカイアグリ」 を開催し、 地域の皆様に親しまれてきました。 今年のスカイ・レジャー・ ジャパンは、 福島市ならびにふくしまスカイパーク指定管理者のふくしま飛行協会の全面的な支援のも と 「スカイ・レジャー・ジャパン09インふくしま」 を、 「スカイアグリ」 と同時開催いたします。 参加諸団体による飛行イベント (9:45∼15:30) ・グライダー、 モーターグライダー ・自作航空機 ・ジャイロコプター ・自家用航空機 ・熱気球 ・ハング・パラグライダー ・マイクロライト航空機 ・パワードパラグライダー ・模型航空機 各種展示飛行 (9:45∼15:30) ・小型機やグライダー、 ヘリコプターの演技飛行 (地元福島の Deep Blues のエアロバティックス飛行等) ・福島県警・防災航空隊などによる協賛飛行 ・協賛団体によるビジネス航空機の展示飛行 体験イベント ・熱気球体験搭乗 (係留)7:30∼ ・ハンググライダーシミュレーター ・パラグライダーふわり体験 ・ラジコン航空機操縦体験 ・Uコン体験 ・ゴム動力模型飛行機教室 ・紙飛行機教室 ・ヘリコプター体験搭乗 有償 ほか 航空機地上展示 スカイレジャー機材の展示、 参加団体展示ブース、 開催地周辺の農 産物のとれたての味覚の紹介、 販売等。 問い合わせ先 〈スカイレジャージャパン事務局〉 日本航空協会 航空スポーツ室内 スカイ・レジャー・ジャパン09インふくしま実行委員会 〒105-0004 東京都港区新橋1 18 1 航空会館 Tel:03 3502 1209 Fax:3503 1375 URL:http://www.aero.or.jp/koku_sports/slj-top.htm 〈スカイアグリ事務局〉 ふくしまスカイパーク新観光事業実行委員会 〒960-8251 福島市北沢又字日行壇7 48 ふくしま飛行協会内 Tel:024 558 4200 Fax:558 1001 URL:http://www.ffa.or.jp/fsp/ ・今回は、 会場の都合から、 小型機のフライインはありません。 ・会場内に駐車場はありません。 臨時駐車場および JR 福島駅からのシャトルバス (有償) になります。 主 催:スカイ・レジャー・ジャパン 09インふくしま実行委員会 構成団体:日本航空協会以下航空スポーツ関係諸団体 全日本航空事業連合会 ふくしまスカイパーク新観光事業実行委員会 後 援:国土交通省、福島県、福島市(予定) 特別協力:福島県警察航空隊、福島県防災航空隊(予定) 特別協賛:「空の日」 「空の旬間」 実行委員会、 空港環境整備協会、 日本航空、 全日本空輸、 東京海上日動火災保険 (予定) 100 2009 SEP 開催予告 第31回 ATS シンポジウム開催のご案内 安全で効率の良い運航と航空管制 ATS 委員会 恒例の ATS シンポジウムが10月24日に開催されます。 1979年に第1回が開催され、 今年は31回 目になります。 ATS シンポジウムは 「安全で効率のよい運航を求めて、 パイロットと管制官が交流を図り共通 の認識をもつこと」 を目的に、 操縦士協会と管制協会とで共催しているものです。 操縦士協会の ATS 委員会では、 ATS に関する研究活動を続けています。 日本の管制のあるべき 姿、 管制方式基準の解釈、 管制方式の問題点と解決策、 日常運航における航空管制の諸問題等々を 検討しております。 このような活動の積み重ねの中から、 広くパイロットと管制官の間に問題を投 げかけ、 議論し、 あるいは啓蒙が必要と思われるテーマを取り上げています。 皆様のご参加をお待ちしております。 尚、 今回の会場は例年とは異なりますので、 お間違えないようお願い申し上げます。 ●日 ●会 ●講 2009年10月24日 (土) 午前10時−午後5時 全日空 講堂 羽田空港第1ターミナル1階 (北側) 「基調講演」 国土交通省航空局管制保安部 管制課長 堤 清 氏 ●解 説 「管制方式基準改正」 国土交通省航空局管制保安部 管制課 航空管制調査官 井本 岳史 氏 ●研究発表とパネルディスカッション ・研究発表 IFR による Visual Flight ・パネルディスカッション IFR による訓練飛行 周回進入と IFR による Visual Flight 主催 後援 時 場 演 航空交通管制協会 国土交通省航空局 日本航空機操縦士協会 *参加希望の方は、 当日会場受付にお越し下さい。 写真付き身分証明書携行して下さい。 2009 SEP 101 開催予告 第4回 日 会 主 航空気象シンポジウム 時:平成21年11月20日 (金) 13:00∼17:00 場:全日本空輸 講堂 (羽田空港第1ターミナルビル1F) 催:社団法人 日本航空機操縦士協会 財団法人 航空交通管制協会 後 援:気象庁 (予定) 参 加 料:無料 講演内容:1. 気象庁基調講演 2. (仮題) 偏西風のはなし (筑波大学 田中 博 教授) 3. (仮題) 飛行機の揺れについて 4. ディスカッション 102 2009 SEP SP (シニア・パイロット) 懇親会のご案内 シニアパイロット会員の皆様、 平成21年の懇親会のご案内を差し上げます。 今年は、 少しお堅い話で、 杉山 蕃氏による 「日本の防衛問題について」 という講演 を企画いたしましたので、 お楽しみにご参集ください。 開催場所は、 数年前間まで開催しておりました 「航空会館」 8階の 「スエヒロ」 で、 時間は1200から1430までの間です。 昨年とは場所、 及び時間を変更しておりますのでご 注意ください。 会費も安くいたしましたし、 簡単な昼食も用意しております。 皆様のご参加を心から お待ちしております。 記 日 時:平成 21 年 10 月 17 日 (土) 受 付 開 始 11:30 懇親会 12:00∼14:30 場 所:東京都港区新橋1−18−1 航空会館8階 「スエヒロ」 TEL:03−3502−3855 (JR、 地下鉄、 バス 「新橋」 駅から徒歩5分) 講 演:杉山 蕃 氏 (元統合幕僚会議議長) テーマ 「日本の防衛問題について」 会 費:5,000円 申 込 締 切:10月7日 SP 会幹事:手塚精三、 三神武雄、 大島梓、 泉田誠男、 田中一男、 川久保剛 上杉美治、 赤星珪一 以上8名 参加申込要領 参加申込みは 「PILOT」 誌9月号に綴じ込ん である返信用はがきをご利用ください。 または、 操縦士協会に直接電話/FAX をし ていただいても結構です。 (E-mail でも可。) 社団法人 日本航空機操縦士協会 SP 会担当 電 話 03−3501−0433 FAX 03−3501−0435 E-mail [email protected] 2009 SEP 103 航空局通達 104 2009 SEP 2009 SEP 105 106 2009 SEP 2009 SEP 107 通信 理事会通信 7月10日に第196回常務理事会が開かれました。 隔月開催してきた理事会が10月と4月の2回となった代わ りに常務理事会の開催数が増えることになりました。 「今までのやり方に囚われずに、 機能的な会議にして行 きたい。」 会長挨拶が新しい運営を現しています。 終身会員の特典として、 パイロット誌とパイロット手帳は無料で配布すること、 AIM−J は販売価格を 2000円とすることを確認しました。 会員情報です。 6月末に仙台空港にある海上保安学校宮城分校に入会説明に行きました。 海上保安学校宮 城分校は海上保安庁唯一の海上保安庁内部での航空機職員養成機関として昭和63年10月に設立されました。 回転翼の Pilot の養成は宮城分校で、 固定翼は防衛省委託で訓練を行っていて年間卒業生は約10名程度です。 また新たに法人会員で、 崇城大学とフジドリームエアラインズが入会しました。 これで法人会員は38団体と なりました。 委員会活動を会員の皆さんに伝えていくために、 パイロット誌に委員会活動の紹介と具体的な取組みを掲 載することとし、 これまで以上の頻度と内容の充実を図るつもりです。 教育・啓蒙関係の活動は、 航空安全講習会 (7月4日)、 航空教室 (6月28日大阪、 7月12日北海道) が開 催されました。 7月24日 (金)、 電子航法研究所の 「出前講座」 が開催されました。 運航技術委員会が呼びかけたもので、 電子航法研究所が他団体に対し研究の一部を紹介すると共に、 意見交換を行い総合理解を深めようという企 画です。 今回は1. トラジェクトリ管理について2. GBAS の概要と最近の研究動向3. ヒューマン・エラー 防止のための音声分析技術4. 第48次南極地域観測隊越冬報告といった内容でした。 航空局の要請を受けて、 「航空機の操縦士技能証明制度等のあり方検討会」 と 「航空身体検査証明の有効期 間に関する検討会」 に委員あるいはオブザーバーを派遣しました。 MPL と定期的な訓練を受けない操縦士に 対しての技量維持、 身体検査証明の有効期間などが議題となります。 7月16日に安全会議、 航空連、 日乗連と今後の操縦士に係る技能証明制度等について意見交換を行いまし た。 色々な組織と意見交換を行う事は必要だと受け止めていますし、 今後も機会があれば情報交換を行うつ もりです。 FTD の更新を計画しております。 12月更新を目途に作業を進めており、 11月から訓練室の改修並びに新機 材を導入し、 航空局承認申請のための準備に取りかかります。 本誌でもご案内していますとおり FTD 訓練室 では、 体験搭乗を会員の皆様に提供しておりますので、 お申込みをお待ちしております。 108 2009 SEP [活動報告] −平成21年7月− 7月3日 事故を斬る! (英国クランフィールド大 7月25日 航空気象委員会 学講習)フォローアップ MTG 7月27日 協会創立記念日 法務委員会 7月29日 ヘリコプター委員会 編集委員会 第2回技能証明制度等のあり方検討会 7月4日 航空安全講習会 (宇都宮) 7月7日 航空身体検査証明審査会 −平成21年8月− 7月8日 ヘリ待避要請協議 (JAPA、 消防庁) 8月1日 航空安全セミナー 「計器飛行関連」 (GA 7月9日 技量維持連絡会 航空保安研究センター理事会 委員会) 8月4日 第2回 RNAV/RNP に係る連絡会 航空身体検査証明の有効期間に関する検 討会 航空身体検査証明審査会 8月7日 SP 会幹事会 第196回常務理事会 8月8日 ATS 委員会 顧問会 8月13日 FAI 関連会議 7月11日 ATS 委員会 8月17日 編集委員会 7月12日 夢は叶う Yes I Can (航空教室)千歳 8月18日 航空医学研究センター理事会 (書面稟議) 7月10日 7月13日 滑走路誤進入防止対策推進チーム会議 8月19日 出塚会計事務所 (月次検査) (平成21年第1回) 8月20日 GA 委員会 航空保安無線システム協会評議員会 8月22日 航空気象委員会 第1回学科試験問題検討会 8月25日 編集委員会 7月16日 乗員養成検討委員会 8月26日 将来の航空交通システムに関する研究会 7月17日 航空保安大学校講義 (訓練監督者特別研 (第4回) 修) ヘリコプター委員会 7月14日 フライトテスト委員会研修 7月22日 出塚会計事務所 (月次検査) 7月23日 経理委員会 8月27日 技量維持関連会議 (JAPA) 8月28日 運航技術委員会 航空大学校卒業式 空港安全技術懇談会 (H21 第1回) 協会制度検討会 7月24日 経理委員会 8月29日 航空安全講習会 (青森) 航空管制定期連絡会議 航空医学研究センター評議員会 (書面表 決) [活動計画] −平成21年9月− 9月1日 航空身体検査証明審査会 9月4日 編集委員会 9月2日 技量維持関連打ち合わせ 第2回航空身体検査証明の有効期間に関 する検討会 9月8日 機長養成講習会 (大阪) 第3回技能証明制度等のあり方検討会 2009 SEP 109 9月11日 第197回常務理事会 9月25日 航空保安大学校講義 (レーダー専門研修) 9月12日 9月16日 ATS 委員会 運航技術委員会 9月26日 航空安全セミナー 「計器飛行関連 G1000k 航空安全講習会 など」 (GA) 第57回 「空の日」 (表彰・記念式典等) 航空気象委員会 ・航空平安祈願大祭 ・日本航空協会航空関係者表彰式・記念 祝賀会 ・第57回 「空の日」 記念式典 (大臣表彰・ 祝賀会) 9月17日 乗員養成検討委員会 9月18日 航空保安大学校講義 (無線科:システム 9月24日 経理委員会/協会制度検討会 9月29日 飛行場証明制度研修 (航空機安全運航支 援センター) 講義:小型機の運航 滑走路誤進入防止対策推進チーム (第2 回) RNAV/RNP 連絡会小型機 WG (第1 回) 9月30日 航空保安大学校講義 (レーダー専門研修) 統制官課程特別研修) 飛行場証明制度研修 (航空機安全運航支 航空安全委員会 援センター) 講義:航空機運航の基礎 航空医学問題懇談会 ヘリコプター委員会 110 2009 SEP JAPA SHOP 品 名 定 価 会員価格 送料 一般価格 送料 AIM−JAPAN AIM−JAPAN 英語版 学科試験スタディーガイド パイロットガイダンス TAKE-OFF 安全飛行への招待 ヘリコプター操縦教本 第2版 航空気象 (新刊) 区分航空図501∼506各 3,500円 3,500円 3,500円 3,500円 3,500円 3,500円 2,500円 2,600円 3,150円 送料込 3,150円 送料込 3,150円 送料込 3,150円 送料込 3,150円 送料込 3,150円 送料込 2,250円 送料込 2,340円+280円 3,500円+380円 3,500円+380円 3,500円+420円 3,500円+380円 3,500円+380円 3,500円+380円 2,500円+380円 2,600円+280円 区分航空図507 ターミナル航空図253、 254 首都圏詳細航空図 パイロット手帳 PILOT 誌 手袋 ライセンスケース 空中衝突 3,100円 2,600円 3,000円 1,200円 800円 5,000円 3,800円 2,300円 2,790円+280円 2,340円+280円 2,700円+280円 1,080円+280円 720円+240円 4,500円+280円 2,800円 送料込 2,070円+380円 3,100円+280円 2,600円+280円 3,000円+280円 1,200円+280円 800円+240円 5,000円+280円 3,800円 送料込 2,300円+380円 お買い求めは操縦士協会もしくは、 お近くの販売店をご利用ください。 直販の場合は代金先払いとなりますのでお近くの郵便局よりお振込みください。 (お振込前に必ず在庫確認をお願いいたします。) 振込口座:郵便局00180−9−88490 社団法人 日本航空機操縦士協会宛 お問い合わせ先:TEL 03−3501−0433 FAX 03−3501−0435 E-Mail:[email protected] 2009 SEP 111 便り 室 練 訓 FTD シミュレーターで飛んでみませんか!? (FTD の体験搭乗を無償提供) FTD 訓練室 FTD 訓練室の企画として、 機関紙等を通じてご紹介しております飛行訓練装置 (FTD) の体験 搭乗を会員の皆様に提供いたします。 (1会員一回とさせていただきます) FTD 概要 型 式:SS21型 (日本 BTA 社製) 仕 様:単発 (C172型)、 双発 (BE58型) 及び数種類の機種を選択できます。 受付期間 今回の募集は、 平成21年12月までの期間限定で行ないます。 搭乗時間は約1時間です。 ご希望の方は 「FTD 体験搭乗2009年」 と明記し、 下記事項を記入の上、 事務局までお申込下さい。 会員番号: お 名 前: 連 絡 先:携帯、 メールなど 希望日時:都合上、 希望日時を3通りお知らせ下さい 申 込 先:JAPA 事務局 FAX03-3501-0434 又は [email protected] まで なお、 申込状況によっては、 希望する日時で対応する事が出来ない場合もございますので予めご 了承願います。 多くの会員の皆様のご搭乗を心よりお待ち申し上げております。 112 2009 SEP 2009 SEP 113 JAPA Aerial Photo Exhibition B747-200B JA8131。 2階部分が -300 よりも短い。 (2006年10月 成田国際空港) 国内最後の航空機関士搭乗機 B747-300 型。 2009年7月15日18時50分、 夕闇の迫る成田国際 空港 RWY16R をソウル・仁川国際空港に向け力強く離陸。 (山田泰正氏撮影) クラシック・ジャンボ B747-200B と -300 の写真です 114 2009 SEP あなたが写した 航空機の写真が 表紙 に! 編集委員会では、 PILOT 誌の表紙を飾る皆様からの航空機の写真を 募集しています。 尚、 応募写真は編集委員会で審査の上、 掲載いたします。 下記応募要領をご了承の上、 ふるってご応募ください。 ・写真はカラー・白黒・Digital Data を問いませんが、 原則として 投稿者が撮影されたものに限ります。 撮影日時・場所・説明等の 添書きも添付してください。 尚、 Digital 写真の場合はできるだけ大きな画素数で撮影したも のとして下さい。 ・応募写真の取り扱いは日本航空機操縦士協会に属し、 お返しでき ませんのでご了承ください。 ・PILOT 誌の表紙に採用させて頂いた場合、 謝礼として3万円 (複数写真で表紙構成となった場合は分割)、 表紙に掲載とならな かった場合でも優秀な写真は本誌に掲載し薄謝を進呈いたします。 ・住所、 氏名、 年齢、 職業、 電話番号、 E-Mail Address 等を明記 してください。 ※個人情報に関しては当協会で厳重な秘守扱いと致します。 送付・お問合せ先 社団法人 日本航空機操縦士協会 編集委員会 〒1050003 東京都港区西新橋1−18−14 TEL 03 (3501) 0433 FAX 03 (3501) 0435 E-mail:[email protected] JAPAN AIRCRAFT PILOT ASSOCIATION 2009 SEP 115 編集後記 ●7月31日、 若田光一さんが、 138日におよぶ 国際宇宙ステーション滞在ミッションを終え、 STS 127で無事地球に帰還しました。 直後の 記者会見にも出席できた健康管理にただ敬服 するのみです。 ぜひ、 ISS 滞在中のエピソードがきけるよう JAXA 広報と慎重に交渉中です。 (KEN) ●生活習慣病という表現があるが、 逆に良い生 活習慣は百薬にも勝る。 バランスの良い食生 活と適度な運動、 そして良い人間関係は、 心 身の健康の元となる。 良い生活習慣を、 飛行 安全の原点と心がけたい。 (奥貫) ●いよいよディーゼルエンジンの多発機 (ダイ アモンドエアクラフト式42型) が日本の空を 飛び始めました。 欧米諸国に遅れること数年 ですが今後国内で機数がどれだけ増えるか楽 しみです。 (K. A) ●働くことが美徳で遊びは罪悪であるという考 え方は正しいかどうか精神論者にうかがって みたい。 (RYU) ●鳥の嫌がる食品芳香剤を霧状にして散布し、 鳥衝突を避ける新兵器 Bird-B-Gone が米業 界誌に。 同じ空域を使う限り無くならないト ラブル、 時間差で棲み分けるのもエコですか、 「トリサンアチラ」 とでも言うのでしょうか。 (カレン) ●大量高速輸送時代の雄、 旧型ジャンボ機が去 る7月31日で姿を消した。 8,000時間以上の 飛行を共にした私としては、 一抹の寂しさを 感じる。 (徳田) ●JAL の B747 が退役して、 航空機関士が乗 務する旅客機は日本の空から消えた。 B737 はとっくに2人乗りだったが、 B767 導入に 際して3人乗りにするか、 2人乗りにするか 今月の表紙は、 この7月に就航を終了した日本 航空の Boeing747-300型です。 航空機関士が乗 務するクラシック・ジャンボとも言われる機体 です。 同型機の中から、 惜別の想いを込め、 華 やかな Resocha 塗装の機体を選んでみました。 長い間、 日本の空を、 お疲れ様でした。 (奥貫) でもめたのは何だったのだろう。 (T.A.) ●夏も終わり CB、 台風の季節も終了。 メデタ シ。 (T. O) ●30歳台の機長昇格で乗った Classic B747 も 退役となった。 一抹の寂しさと時代の変遷を 感じる。 そしてまた昨今の政界のチェンジに よる航空界への影響は… (編集長 蔵岡) No.316 2009年 9 月号/平成21年9月発行 発行 社団法人 日本航空機操縦士協会 (Japan Aircraft Pilot Association) 〒105-0003 東京都港区西新橋1−18−14 TEL 03 3501 0433 (代) ホームページ FAX 03 3501 0435 E-Mail:[email protected] 振替口座/00180 9 88490 116 2009 SEP URL http://www.japa.or.jp/ 禁無断転載 落丁・乱丁本がありましたら お取替えいたします 編集人 蔵 岡 賢 治 発行人 白 石 豊 樹 定価 印 刷 800円 (税込) 株式会社プリカ
© Copyright 2024 Paperzz