風 土

風
土
人間学的考察
序
言
この書の目ざすところは人間存在の構造契機としての
風 土 性 を 明 ら か に す るこ と で あ る ︒だ か ら こ こ で は 自 然
環境がいかに人間生活を規定するかということが問題な
のではない︒通例自然環境と考えられているものは︑人
間の風土性を具体的地盤として︑そこから対象的に解放
され来たったものである︒かかるものと人間生活との関
係を考えるという時には︑人間生活そのものもすでに対
1
象化せられている︒従ってそれは対象と対象との間の関
を読んだ時である︒人の存在の構造を時間性として把捉
の初夏︑ベルリンにおいてハイデッガーの﹃有と時間﹄
自分が風土 性の問題を考えはじめたのは︑一九二七年
拒んでおきたいと思う︒
る自然環境としてではない︒この点の混同はあらかじめ
それは主体的な人間存在の表現としてであって︑いわゆ
こ で 風 土 的 形 象 が 絶 え ず 問 題 と せ ら れ て い る と し て も︑
る立場ではない︒我々の問題は後者に存する︒たといこ
係を考察する立場であって︑主体的な人間存在にかかわ
2
する試みは︑自分にとって非常に興味深いものであった︒
しかし時間性がかく主体的存在構造として活かされたと
きに︑なぜ同時に空間性が︑同じく根源的な存在構造と
して︑活かされて来ないのか︑それが自分には問題であ
った︒もちろんハイデッガーにおいても空間性が全然顔
を出さないのではない︒人の存在における具体的な空間
への注視からして︑ドイツ浪漫派の﹁生ける自然﹂が新
しく蘇生させらるかに見えている︒しかしそれは時間性
の強い照明のなかでほとんど影を失い去った︒そこに自
分はハイデッガーの仕事の限界を見たのである︒空間性
3
に即せざる時間 性はいまだ真に 時間 性ではない︒ハイデ
その歴史性が風土性と相即せるものであることも明らか
性も︑かくして初めてその真相を呈露する︒とともに︑
ハ イ デ ッ ガ ー に お い て 充 分 具 体 的 に 現 わ れ て来 な い 歴 史
られるとき︑時間性は空間性と相即し来たるのである︒
そこで人間存在がその具体的なる二重性において把捉せ
なる二重構造から見れば︑単に抽象的なる一面に過ぎぬ︒
の存在として捕えた︒それは人間存在の個人的・社会的
ッガーがそこに留まったのは彼の
があくまでも
Dasein
個 人 に 過 ぎ な か っ た か ら で あ る ︒ 彼 は 人間 存 在 を ただ 人
4
とな るのである︒
こ の よ う な 問 題 が 自 分 に 現 わ れ て 来 た の は ︑ 時間 性 の
綿 密 な 分 析 に 首 を 突 っ 込 んだ 自 分 が ち ょ う ど さ ま ざ ま の
風土の印象に心を充たされていたためであったかも知れ
ぬ ︒ が ︑ ま た ち ょ う ど か か る問 題 が 自 分 に 現 わ れ て 来 た
ために風土の印象を反芻しあるいは風土の印象に対して
注視を向けるということにもなったのである︒だから自
分にとって風土の問題を自覚せしめたものは時間性︑歴
史 性 の 問 題 で あ る と 言 っ て よ い ︒ こ れ ら の問 題 に 媒 介 せ
られることなしには︑風土の印象は単に風土の印象とし
5
て留まったであろう︒が︑右のごとき媒介によったとい
おし︑断片的に発表したものである︒草案の形をそのま
右の草案のそれぞれの個所をその後おりにふれて書きな
取り上げて論じてみたのである︒が︑この書の大部分は︑
立ち入って考究する余裕もなく︑ただ風土の問題のみを
帰って間のない時︑人間存在の時間性・空間性の問題を
る講義の草案を基礎としている︒この講義は︑外遊より
この書は大体において昭和三年九月より四年二月に至
るのである︒
うことは︑ちょうど風土性と歴史性との相即を示してい
6
ま保存しているのは最後の一章のみに過ぎない︒が︑も
ともと一つの連関において考えられたものであるから︑
未だはなはだ不備ではあるが︑ここにひとまずまとめて
おくことに する︒大方 の識者の是正を得ば幸い である︒
昭和十年八月
このたび新版を出すに当たって第三章の内シナの部を
書 き 改 め た ︒ も と こ の 文 章 は 昭和 四 年 ︑ 左 傾 思 想 の 流 行
していたころに書かれたもので︑風土の考察に当時の左
7
者
翼理論への駁論を混じえていた︒今それを洗い落として
昭和十八年十一月
著
純粋に風土の考察に引き直したのである︒
8
9
次
言 ⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝ 一
目
序
風土の基礎理論⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝一二
風土の現象 ⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝一二
第一章
一
人間存在の風土的規定 ⁝⁝⁝⁝⁝⁝三七
モンスーン ⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝六九
三つの類型⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝六九
二
第二章
一
10
三
二
牧
沙
場 ⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝二〇〇
漠 ⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝一三四
シ
本⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝四四三
ナ⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝三九八
モンスーン的風土の特殊形態⁝⁝三九八
一
日
第三章
二
台風的性格⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝四四三
芸術の風土的性格⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝五六六
イ
第四章
風土 学の歴史的考察⁝⁝⁝⁝⁝⁝六 八五
日本の珍しさ⁝⁝⁝⁝⁝⁝五二〇
第五章
ヘルデルに至るまでの風土 学⁝⁝六 八五
ロ
一
11
四
三
二
ヘーゲル以後の風土 学⁝⁝⁝⁝⁝七 八二
ヘーゲルの風土哲学⁝⁝⁝⁝⁝⁝七五〇
ヘルデルの精神風土学⁝⁝⁝⁝⁝七〇〇
第一章
一
風土の基礎理論
風土の現象
ここに風土と呼ぶのはある土地の気候︑気象︑地質︑
として把捉した古代の自然観がこれらの概念の背後にひ
とも言われている︒人間の環境としての自然を地水火風
地味︑地形︑景観などの総称である︒それは古くは水土
12
そんでいるのであろう︒しかしそれを﹁自然﹂として問
題とせず﹁風土﹂として考察しようとすることには相当
の理由がある︒それを明らかにするために我々はまず風
土の現象を明らかにしておかなくてはならぬ︒
我 々 は す べ て い ず れ か の 土 地 に 住 ん でい る ︒ 従 っ て そ
の土地の自然環境が︑我々の欲すると否とにかかわらず︑
我々を﹁取り巻いて﹂いる︒この事実は常識的にはきわ
めて確実である︒そこで人は通例この自然環境をそれぞ
れの種類の自然現象として考察し︑引いてはそれの
﹁我々﹂に及ぼす影響をも問題とする︒ある場合には生
13
物学的︑生理学的な対象としての我々に︑他の場合には
ある︒
ものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題で
れ の 立 場 に お い て 当 然 のこ と で あ る が︑し か し 現 象 そ の
然科学がそれらを自然現象として取り扱うことはそれぞ
、
題となるのは日常直接の事実としての風土が果たしてそ
、ま
、ま
、自然現象と見られてよいかということである︒自
の
る ほ ど 複 雑 な 関 係 を 含 ん で い る ︒ し か し 我 々 に と っ て問
しての我々に︒それらはおのおの専門的研究を必要とす
国家を形成するというごとき実践的な活動をするものと
14
我 々 は こ の 問 題 を 考 え て み る ため に 常 識 的 に 明 白 な 気
候の現象を︑しかもその内の一契機に過ぎない寒さの現
象を捕えてみよう︒我々が寒さを感ずる︑という事は︑
何人にも明白な疑いのない事実である︒ところでその寒
さとは何であろうか︒一定の温度の空気が︑すなわち物
理的客観としての寒気が︑我々の肉体に存する感覚機官
を刺激し︑そうして心理的主観としての我々がそれを一
定の心理状態として経験することなのであろうか︒もし
そうであるならば︑その﹁寒気﹂も﹁我々﹂もそれぞれ
、れ
、自
、身
、に
、お
、い
、て
、存立し︑その寒気が外から我々
単独に︑そ
15
、感
、ず
、る
、﹂
に 迫 り来 る こ と に よ っ て 初め て ﹁ 我 々 が 寒 さ を
り客観が迫り来ることによって初めて生ずるのではな
についての誤解にほかならない︒元来志向的関係は外よ
、向
、的
、関
、係
、
が外にあって我々に迫り来ると考えるのは︑志
、お
、い
、て
、寒気を見いだすのである︒しかもその寒気
ことに
であろうか︒それは不可能である︒我々は寒さを感ずる
、さ
、を
、感
、ず
、る
、前
、
が︑果たしてそうであろうか︒我々は寒
、寒気というごときものの独立の有をいかにして知るの
に
我々に対する影響なるものが当然考えられてよい︒
という志向的関係が生ずることになる︒従って寒気の
16
い︒個人的意識について考察せられる限り︑主観はそれ
自身の内に志向的構造を持ち︑主観としてすでに﹁何も
、感
、ず
、る
、﹂ と い う そ
の か に 向 け る ﹂ も の で あ る ︒﹁ 寒 さ を
の﹁感じ﹂は︑寒気に向かって関係を起こす一つの﹁点﹂
な の で は な く ︑﹃ ⁝ ⁝ を 感 ず る ﹂ こ と と し て そ れ 自 身 す
、お
、い
、て
、寒さが見いだされる
でに関係であり︑この関係に
のである︒だからかかる関係的構造としての志向性は︑
寒 さ に か か わ る 主 観 の 一 つ の 構 造 に ほ か な ら ぬ ︒﹁ 我 々
が寒さを感ずる﹂ということはまず第一にはかかる﹁志
向的体験﹂である︒
17
しかしそれならば寒さは主観の体 験の一契機に過ぎな
この問いは志
な い ︒ 従 っ て 客 観 的 な 寒 気 と 独 立 に 有 る と こ ろ の体 験 と
んでいる︒志向対象は心理的内容というごときものでは
、向
、せ
、ら
、れ
、た
、も
、の
、についての誤解を含
向的関係において志
にして外気の冷たさに関係し得るか︒
︱
し得るか︒すなわち寒さの感じというごときものがいか
はない︒主観的体験はいかにしてこの超越的客観に関係
れ の 外に あ る 超 越 的 客 観 で あ っ て ︑ 単 な る 我 れ の 感 じ で
内 の 寒 気 で あ る ︒ し か る に 我 々 が 寒 気 と呼 ぶ も の は ︑ 我
いではないか︒そこに見いだされた寒気は﹁我れ﹂の境
18
しての寒さが志向対象だというわけではない︒我々が寒
、感
、ず
、る
、とき︑我々は寒さの﹁感覚﹂を感ずるのでは
さを
、感
、ず
、る
、
なく直接に﹁外気の冷たさ﹂あるいは﹁寒気﹂を
のである︒すなわち志向的体験において﹁感ぜられたる
も の ﹂ と し て の 寒 さ は ︑﹁ 主 観 的 な も の ﹂ で は な く し て
、感
、ず
、る
、とい
﹁客観的なもの﹂なのである︒だから寒さを
う志向的な﹁かかわり﹂そのものが︑すでに外気の寒冷
にかかわっていると言ってよい︒超越的有としての寒気
というごときものは︑この志向性において初めて成り立
つ︒従って寒さの感じが外気の寒冷といかにして関係す
19
る か と い う ご と き問 題 は ︑ 本 来 存 し な い の で あ る ︒
かく見れば主観客観の区別︑従ってそれ自身単独に存
︶
ex-sistere
、に
、出
、て
、い
、る
、
そこでこういうことになる︒我々自身は外
ことを︑従って志向性を︑特徴とする︒
ガ ー が 力 説 す る よ う に ︑﹁ 外 に 出 て い る ﹂︵
のである︒かかる意味で我々自身の有り方は︑ハィデッ
、て
、い
、る
、ということにほかならぬ
我々自身が寒さの中へ出
に宿っている︒我々自身が寒さにかかわるということは︑
、感
、ず
、る
、とき︑我々自身はすでに外気の寒冷のもと
寒さを
立する﹁我々﹂と﹁寒気﹂との区別は一つの誤解である︒
20
ものとしておのれ自身に対している︒自己をふり返ると
いう仕方でおのれ自身に向かうのでない時にも︑すなわ
ち反省を待つまでもなく︑自己は我々自身にあらわであ
る︒反省は自己把捉の一つの様態に過ぎない︒しかもそ
れ は 自 己 開 示 の 仕方 と し て 原 初 の も の で は な い ︒︵ も っ
とも Relfektieren
をその視覚的な意味に︑すなわち何も
、射
、すること︑何ものかの
のかに突き当たってそこから反
方から反射においておのれを示すこと︑の意味に解する
ならば︑それは自己が我々自身においてそれ自身あらわ
である仕方を言い現わしたものと見ることもできるであ
21
ろ う ︒︶ 我 々 は 寒 さ を 感 ず る ︒ す な わ ち 我 々 は 寒 さ の う
に 出 る ﹂ の は 我 々 自 身 の 構 造 の 根本 的 規 定 で あ っ て ︑ 志
﹁ も の ﹂﹁ 対 象 ﹂ で は な く し て ︑ 我 々 自 身 で あ る ︒﹁ 外
ら最も根源的に﹁外に在る﹂ものは︑寒気というごとき
我々自身はすでに寒さのうちへ出ているのである︒だか
、さ
、が
、初
、め
、て
、見いだされるときに
見いだすのではない︒寒
移し入れられたる己れをそこにあるものとしてあとから
しこのことは︑我々が己れを寒のなかに移し入れ︑その
我々は寒さ自身のうちに自己を見いだすのである︒しか
ちへ出ている︒だから寒さを感ずるということにおいて
22
向 性 も ま た こ れ に も と づ い たも のに ほかな らな い ︒ 寒 さ
、感
、ず
、る
、のは一つの志向的体験であるが︑そこにおいて
を
、て
、い
、る
、
我々は︑すでに外に︑すなわち寒さのうちへ︑出
、れ
、を見るのである︒
己
以上は寒さを体験する個人的意識の視点において考察
せられたものであるが︑しかしそこで﹁我々は寒さを感
ずる﹂と言い現わしても何ら支障がなかったように︑寒
さを体験するのは我々であって単に我れのみではない︒
、々
、は
、同
、じ
、寒
、さ
、を
、共
、同
、に
、感
、ず
、る
、︒だからこそ我々は寒さ
我
、常
、の
、挨
、拶
、に 用 い 得 る の で あ る ︒
を言い現わす言葉を日
23
我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているという
、の
、我
、れ
、の
、中
、に
、出
、る
、とい
の中に出るよりも先に︑すでに他
て﹁外に出る﹂という構造も︑寒気というごとき﹁もの﹂
いるのはかかる我々であって単なる我れではない︒従っ
ろ の 我 々 で あ る ︒﹁ 外 に 出 る ﹂ こ と を 根 本 的 規 定 と し て
である︒否︑我々であるところの我れ︑我れであるとこ
寒さの中に出ているのは単に我れのみではなくして我々
るという認識は全然不可能であろう︒そうしてみれば︑
能 に な る ︒ こ の 地 盤 を 欠 け ば 他 我 の 中 に 寒 さ の体 験 が あ
こ と も ︑ 寒 さ を 共 同 に 感 ず る と い う 地 盤に おい て の み 可
24
、向
、的
、関
、係
、で
、は
、な
、く
、
うことにおいて存している︒これは志
、て
、﹁間柄﹂である︒だから寒さにおいて己れを見いだ
し
すのは︑根源的には間柄としての我々な のである︒
寒 さ の 現 象 が 何 で あ る か は 以 上 に お い て ほ ぼ明 ら か に
なったと思う︒しかし我々は寒さというごとき気象的現
象をただ一つ独立に体験するのではない︒それは暖かさ
や暑さとの連関において︑さらに風︑雨︑雪︑日光︑等々
との連関において体験せられる︒すなわち寒さは種々な
る気象的現象の系列全体としての﹁気候﹂の中の一環に
過ぎない︒我々は寒風の中から暖かい室内にはいった時
25
に︑あるいは寒い冬のあとで柔らかい春風に吹かれた時
いは波を撫でる風である︒夏の暑さもまた旺盛な緑を萎
な
いは﹁から風﹂である︒春風は花を散らす風でありある
いてのみ体験せられる︒寒風は﹁山おろし﹂でありある
ない︒それはある土地の地味地形景観などとの連関にお
る︒が︑この﹁気候﹂もまた単独に体験せられるのでは
おいてもまず我々自身の移り変わりを了解するのであ
を了解するのであり︑従ってさらに気候の移り変わりに
常にそれらの我々自身でない気象においてまず我々自身
に︑あるいは激暑の真昼沛然とした夕立に逢った時に︑
26
え さ せ る 暑 さ で あ り あ る い は 子 供 を 海 に 嬉 戯 せ しめ る 暑
さ で あ る ︒ 我 々 は 花 を 散 ら す風 に おい て 歓 び あ るい は 傷
むところの我々自身を見いだすごとく︑ひでりのころに
な
樹木を直射する日光において心萎える我々自身を了解す
る︒すなわち我々は﹁風土﹂において我々自身を︑間柄
としての我々自身を︑見いだすのである︒
このような自己了解は︑寒さ暑さを感ずる﹁主観﹂と
し て の ︑ あ る い は 花 を 歓 ぶ 主 観 と し て の ︑﹁ 我 れ ﹂ を 理
解 す る こ と で は な い ︒ 我 々 は こ れ ら の 体 験に おい て ﹁ 主
観 ﹂ に 眼 を 向 け は し な い ︒ 寒 さ を 感 ず る 時に は 我 々 は 体
27
を引きしめる︒着物を着る︑火鉢のそばによる︒否︑そ
もに飲み踊る︒すなわち春の風景とのかかわりにおいて
あるいは花見に友人を誘い︑あるいは花の下で仲間とと
は﹁主観﹂に目を向けるのではなくして花に見とれる︑
入り込んで行くのである︒同様に花を歓ぶときにも我々
我々は寒さをふせぐさまざまの手段に個人的・社会的に
を製造する︒すなわち寒さとの﹁かかわり﹂においては︑
ために労働する︒炭屋は山で炭をやき︑織布工場は反物
人 を 火 の そ ば へ 押 し や る ︒ あ る い は 着 物 や 炭 を買 い 得 る
れよりもさらに強い関心をもって子供に着物を着せ︑老
28
は︑それを享楽するさまざまの手段が個人的・社会的に
実践せられるのである︒同様なことは炎暑についても︑
あるいは暴風洪水のごとき災害についても言えるであろ
う︒我々はこれらのいわゆる﹁自然の暴威﹂とのかかわ
りにおいてまず迅速にそれを防ぐ共同の手段に入り込ん
で行く︒風土における自己了解はまさしくかかる手段の
発 見 と し て あ ら わ れ る の で あ っ て ︑﹁ 主 観 ﹂ を 理 解 す る
ことではない︒
右のごとくして見いださるるさまざまの手段︑たとえ
ば着物︑火鉢︑炭焼き︑家︑花見︑花の名所︑堤防︑排
29
水路︑風に対する家の構造︑というごときものは︑もと
永い間の了解の堆積を我々のものとしているのである︒
きをともにするというだけではない︒我々は祖先以来の
て︑単に現 在の我 々の間に おい て防ぐことをともに し働
かも我々は寒さ暑さにおいて︑あるいは暴風洪水におい
おいて我々自身の自由なる形成に向かったのである︒し
い︒我々は風土において我々自身を見︑その自己了解に
き風土の諸現象とかかわることなく作り出したのではな
ある︒しかし我々はそれを寒さや炎暑や湿気というごと
より我々自身の自由により我々自身が作り出したもので
30
、を
、作
、る
、仕
、方
、の固定したものであると言わ
家屋の様式は家
、方
、は風土とかかわりなしに成立するもので
れる︒その仕
はない︒家は寒さを防ぐ道具であるとともに暑さを防ぐ
、り
、多く防御を必要とす
道具でもある︒寒暑のいずれがよ
るかによって右の仕方はまず規定されねばならぬ︒さら
にそれは暴風︑洪水︑地震︑火事などにも堪え得なくて
はならぬ︒屋根の重みは地震に対して不利であっても暴
風や洪水に対しては必要である︒家屋はそれぞれの制約
に適合しなくてはならない︒さらに湿気は家屋の居住性
を厳密に規定する︒強度の湿気に対しては極度に通風を
31
よくせねばならぬ︒木材︑紙︑泥などは湿気を防ぐには
するものは風土である︒ある地方に特有な着物の様式が︑
い間に社会的に固定したものであるが︑その仕方を規定
、方
、が永
式についても言われる︒これもまた着物を作る仕
表 現 に ほか な ら ぬ で あ ろ う ︒ 同 様な こ と は ま た 着物 の 様
家 を 作 る 仕 方 の 固 定 は ︑ 風 土 に お け る 人間 の 自 己 了解 の
家屋の様式が作り上げられてくるのである︒そうすれば
重の関係において秩序づけられつつ︑ついにある地方の
の防御をも持たない︒これらのさまざまの制約がその軽
最もよき建築材料である︒が︑それらは火事に対して何
32
その地方の文化的優越のゆえに︑風土の異なる他の地方
に移植せられるということは︑家屋の様式の場合よりも
容易に起こり得ることであるが︑しかしいかなる地方に
、の
、様
、式
、が
、そ
、れ
、を
、産
、ん
、だ
、風
、土
、に
、規
、定
、せ
、ら
、
移されようともそ
、て
、い
、る
、ということは決して抹殺されはしない︒洋服は
れ
半世紀の間行なわれていても依然として洋服である︒こ
のことは﹁食物﹂において一層顕著であろう︒食物の生
産に最も関係の深いのは風土である︒人間は獣肉と魚肉
とのいずれを欲するかに従って牧畜か漁業かのいずれか
を 選 ん だ と い う わ け で は な い ︒風 土 的 に 牧 畜 か 漁 業 か が
33
決定せられているゆえに︑獣肉か魚肉かが欲せられるに
る︒魚貝や海草を食うことは我々の祖先が農業を習得す
の様式が一つの民族の永い間の風土的自己了解を表現す
が空腹時において欲せられるものなのである︒この料理
食物に向かう︒パンか飯か︑ビステキかさしみか︑等々
に で き あ が っ てい る 一 定 の 料 理 の 仕方 に おい て 作 ら れ た
う ご と き も の を 目 ざ し て い る の で はな く ︑ す で に 永 い 間
して風土である︒そうして我々の食欲は︑食物一般とい
また菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなく
至ったのである︒同様に菜食か肉食かを決定したものも
34
るよりも前からすでに行なっていたことなのである︒
我々はさらに風土の現象を文芸︑美術︑宗教︑風習等
あらゆる人間生活の表現のうちに見いだすことができ
る︒風土が人間の自己了解の仕方である限りそれは当然
のことであろう︒我々は風土の現象をかかるものとして
捕 え る ︒ 従 っ て そ れ が 自 然科 学 的 対 象 と 異 な る こ と は 明
白 で あ る ︒ 海 草 を 使 う 料 理 の 様式 を 風 土 現 象 と し て 考 察
す る こ と は ︑ 風 土 を 単 に 自 然環 境 と 見 る 立 場 で は な い ︒
い わ ん や 芸 術 の 様式 を 風 土 的 に 理 解 す るこ と は︑ 風 土 が
歴史と離れたものでないことを端的に示すのである︒風
35
土 の 現象に ついて最 も しばしば行な われている誤解 は︑
我々はそれに対して風土 の現象がいかに 人間の自己了解
い︒それはまだ真に風土の現象を見ていないのである︒
化する︑などと説かれるのは︑皆この立場にほかならな
れるのみでない︑逆に人間が風土に働きかけてそれを変
る立場に移しているのである︒人間は単に風土に規定さ
の契機を洗い去り︑それを単なる自然環境として観照す
はすでに具体的な風土の現象から人間存在あるいは歴史
然環境と人間との間に影響を考える立場であるが︑それ
我々が最初に提示したごとき常識的な立場︑すなわち自
36
の仕方であるかを見て来た︒人間の︑すなわち個人的・
社会的なる二重性格を持つ人間の︑自已了解の運動は︑
同時に歴史的である︒従って歴史と離れた風土もなけれ
ば風土と離れた歴史もない︒が︑これらのことは人間存
人間存在の風土的規定
前節において風土の現象は人間が己れを見いだす仕方
二
在の根本構造からしてのみ明らかにされ得るのである︒
37
として規定せられた︒ところでその人間とは何であるか︒
︵
ここに人間と呼ばれるのは単に﹁人﹂
︶ではない︒そ
anthrōpos, homo, homme, man, Mensch
︵一︶
けておかなくてはならない︒
構造の中でいかなる位置を占めるかを︑おおよそ見当づ
一つの規定として説くためには︑この規定が人間存在の
べ き ﹃ 倫 理 学 ﹄ を 見 ら れ た い ︒︶ が ︑ 風 土 を 人 間 存 在 の
ての倫理学﹄の中に描かれている︒詳しくは近く刊行す
立 ち 入 ら な い ︒︵ お お よ そ の 輪 郭 は 既 刊 ﹃ 人 間 の 学 と し
それについての詳しい考察は他の研究に譲ってここでは
38
れは﹁人﹂でもあるが︑しかし同時に人々の結合あるい
は共同態としての社会でもある︒人間のこの二重性格が
人間の根本的性格である︒従ってその一面である﹁人﹂
をのみ取り扱うアントロポロギー︑またその他面たる﹁社
会﹂をのみ取り扱う社会学は︑ともに人間の本質を捕え
ることができない︒人間を真に根本的に把捉するために
は︑個であるとともにまた全であるごとき人間存在の根
本構造を押えなくてはならぬ︒かかる見当の下に人間存
在の分析を行なうと︑それが絶対的否定性の否定の運動
であることが明らかにされる︒人間存在はこの否定の運
39
右のごとき人間存在は無数の個人に分裂する
動の実現にほかならない︒
︵二︶
を た だ 時間 性 と し て の み 把 捉 し よ う と す る 試 み は 個 人意
、即
、不
、離
、が明らかにせられる︒人間存在の構造
時間との相
、源
、的
、な姿において捕えられ︑しかも空間と
間とがその根
ごとき運動の根本構造をなすのである︒ここに空間と時
い ︒ 従 っ て 主 体 的 な 意 味 に お け る 空 間 性・ 時 間 性 が 右 の
、体
、的
、な
、身
、体
、なしに起こるものではな
であるが︑しかし主
る ︒ こ の 分 裂 と 合 一 と は あ く ま で も 主体 的 実践 的 な も の
ことを通じて種々の結合や共同態を形成する運動であ
40
識の底にのみ人間存在を見いだそうとする一面性に陥っ
ている︒人間存在の二重性格がまず人間の本質として把
捉せられるならば︑右のごとき時間性に即して同時に空
間性が見いだされなくてはならないことは︑直ちに明ら
人間存在の空間的・時間的構造が明らかにせ
か とな る で あ ろ う ︒
︵三︶
られるとき︑人間の連帯性の構造もまたその真相を呈露
する︒人間の作るさまざまの共同態︑結合態は︑一定の
秩 序 に お い て 内 的 に 展 開 す る とこ ろ の 体 系 で あ る ︒ そ れ
は社会の静的な構造と考えらるるごときものではなく︑
41
動的な運動の体系である︒否定の運動の実現である︒歴
こ こ に お い て 人 間 存 在 の 空 間 的 ・ 時間 的 構 造
無限的な二重性格も明らかとなるであろ う︒人は死に︑
、史
、性
、は
、社
、
なしには時間性が歴史性となることはない︒歴
、的
、存
、在
、の
、構
、造
、なのである︒ここに人間存在の有限的・
会
社会的構造は不可能であり︑社会的存在にもとづくこと
主 体 的 人 間 の 空 間 的 構 造 に も とづ く こ とな し に は 一 切 の
との相即不離が歴史と風土との相即不離の根柢である︒
は風土性歴史性として己れを現わしてくる︒時間と空間
︵四︶
史と呼ばれるものはかくして形成せられて行く︒
42
人の間は変わる︑しかし絶えず死に変わりつつ︑人は生
、わ
、る
、こ
、と
、におい
き人の間は続いている︒それは絶えず終
、く
、のである︒個人の立場から見て﹁死への存
て絶えず続
在﹂であることは︑社会の立場からは﹁生への存在﹂で
ある︒そうして人間存在は個人的・社会的なのである︒
、土
、
が︑歴史性のみが社会的存在の構造なのではない︒風
、も
、ま
、た
、社
、会
、的
、存
、在
、の
、構
、造
、であり︑そうして歴史性と離
性
すことのできないものである︒歴史性と風土性との合一
においていわば歴史は肉体を獲得する︒もし﹁精神﹂が
物質と対立するものであるならば歴史は決して単に精神
43
の自己展開であることはできない︒精神が自己を客体化
史性の構造は特殊的な実質によって充実せられることに
な﹁風土的過去﹂を背負うのであり︑一般的形式的な歴
間は単に一般的に﹁過去﹂を背負うのではなくして特殊
これが風土性の現われる場所である︒ここにおいて人
格は人間の歴史的・風土的構造として最も顕わになる︒
まさに風土 性なのである︒人間の有限的・無限的二重性
のである︒このような主体的肉体性とも言うべきものが
も の で あ る 時に の み ︑ そ れ は 自 己 展 開 と し て 歴 史 を 造 る
、体
、者
、である時にのみ︑従って主体的な肉体を含む
する主
44
、る
、国
、土
、に
、お
、け
、る
、あ
、る
、時
、代
、の
、
なる︒人間の歴史的存在があ
人間の存在となるのは︑右のことによって初めて可能な
のである︒しかしまたこの特殊的実質としての﹁風土﹂
は︑単なる風土として歴史と独立にあり︑その後に実質
として歴史の内に入り来るというのではない︒それは初
めより﹁歴史的風土﹂なのである︒一言にして言えば︑
、土
、
人間の歴史的・風土的二重構造においては︑歴史は風
、歴
、史
、史
、であり︑風土は歴
、的
、風
、土
、である︒それぞれに孤
的
立せしめられた歴史と風土とは︑右のごとき具体的地盤
からの抽象物に過ぎない︒我々の問題とする風土はかく
45
抽象せられる前の根源的な風土である︒
風土的規定が人間存在の構造において占める場所は右
ようとする努力は︑ついにこの差別における統一を見失
、心
、の差別を明らかに把捉し
しようと努力した︒しかし身
、心
、の
、二
、重
、性
、格
、において把捉
遊離せしめられた﹁人﹂を身
問題とする学問であった︒そこでこの学問は︑間柄から
会的なる人間の二重性格から個人的性格のみを抽出して
ことは明らかであろう︒アントロポロギーは個人的・社
ロポロギーにおける肉体の問題と何ほどかの相似を持つ
のごとくである︒そうすれば風土の問題が古来のアント
46
わしめるに至った︒その最も大いなる理由は身体をその
具体的な主体性から引き離して﹁物体﹂と同視するに至
、神
、
ったところに存する︒かくしてアントロポロギーは精
、と身
、体
、論
、とに分裂し︑前者は心理学から哲学的認識論
論
の方へ︑後者は動物学の一分科たる﹁人類学﹂の方へ︑
あるいは生理学や解剖学の方へ︑発展して行った︒しか
るに現代の哲学的アントロポロギーは︑この分裂を克服
して再び身心の二重性格における﹁人﹂を把捉しようと
企てる︒そこで問題の中心に来るのは︑肉体が単なる﹁物
体﹂ではないという洞察である︒すなわち肉体の主体性
47
である︒しかしそれがアントロポロギーの伝統を守る限
て種々の連帯性が開展せられる時︑それは歴史的・風土
が主体的肉体である︒しかるにかかる動的な構造におい
合一において孤立するというごとき動的な構造を持つの
体なるものは孤立せる肉体ではない︒孤立しつつ合一し︑
構 造 を 地 盤 と し て 成 り 立 つ の で あ る ︒ 従 っ て 主体 的 な 肉
跡してみる︒肉体の主体性は人間存在の空間的・時間的
を最も根本的な問題とする立場に立って同様な問題を追
らない︒そこで我々は人間の個人的・社会的な二重性格
り︑あくまでも﹁人﹂の学であって﹁人間﹂の学とはな
48
的なものになる︒風土でもまた人間の肉体であったので
あ る ︒ し か る に そ れ は ︑ 個 人 の 肉体 が 単 な る ﹁ 物 体 ﹂ と
見られたように︑単なる自然環境として客観的にのみ見
られるに至った︒そこで肉体の主体性が恢復さるべきで
あ る と 同 じ 意 味 で 風 土 の 主 体 性 が 恢復 さ れ な く て は な ら
ぬのである︒そうして見ると身心関係の最も根源的な意
味は﹁人間﹂の身心関係に︑すなわち歴史と風土との関
係をも含んだ個人的・社会的な身心関係に︑存すると言
風土の問題の担っているこの重要な意義は︑人間存在
ってよい︒
49
の構造を分析する試みに対して一つの決定的な指針を与
る ﹂︵ ex-sistere
︶場面なのである︒第二に超越は︑右の
ごとき間柄の時間的構造として︑本来すでに歴史的意義
める地盤としての間柄そのものが︑本来すでに﹁外に出
越 の 場面でなくてはな らぬ︒すなわち自他を見いだ さし
超越でなくてはならぬ︒従って人と人との﹁間柄﹂が超
合一において絶対的否定性に還り行く︑という意味での
そ れ は ま ず 第 一 に 他 人 に おい て 己 れ を 見 い だ し ︑ 自 他 の
造とする﹁超越﹂によってのみは遂げられないのである︒
える︒人間存在の存在論的把捉はもはや単に時間性を構
50
を帯びていなくてはならぬ︒絶えず未来へ出て行くのは
ただ個人的意識においてのみではない︒間柄そのものが
未来へ出て行くのである︒個人的意識における時間性は
間柄の歴史性を地盤としそこから抽出せられたものに過
ぎない︒さらに第三に超越は風土的に外に出ることであ
る︒すなわち人間が風土において己れを見いだすことで
ある︒個人の立場ではそれは身体の自覚になる︒が︑一
層具体的な地盤たる人間存在にとっては︑それは共同態
、方
、方
、り
、︑意識の仕
、︑従って言語の作
、方
、︑さら
の形成の仕
には生産の仕方や家屋の作り方等々において現われてく
51
る︒人間の存在構造としての超越はこれらすべてを含ま
は我々を着物の方向に働き出させるものであるととも
用せられるもの﹂としての道具になる︒たとえば﹁寒さ﹂
に ︑ 我 々 自 身 が そ こ に 出 て 宿 っ て い る 風 土 自 身 も ︑﹁ 使
家というごとき道具となって我々に対立する︒が︑さら
ていた︒寒さにおいて見いだされた我々自身は︑着物︑
我々がいかに外に出ている我々自身を見いだすかを示し
はちょうどこの風土に存するのである︒風土の現象は
か く 見 れ ば 主体 的 な 人 間 存 在が 己れ を 客体 化す る契 機
な く て はな ら ぬ ︒
52
に︑また食物への関心において豆腐を凍らせる寒さとし
て 使 用 せ ら れ る ︒﹁ 暑 さ ﹂ は 我 々 に 団 扇 を 使 わ せ る も の
で あ る と と も に ︑ ま た 稲 を 育 て る 暑 さ で あ る ︒﹁ 風 ﹂ は
我々に二百十日の無事を祈らせるものであるとともに︑
また帆をはらます風である︒我々はかくのごときかかわ
りにおいてもまた風土のうちへ出で︑そこからまた我々
自身を︑すなわち使用者としての我々自身を了解する︒
すな わち風土に おけ る自己の了解は同時に 道具を己れに
、も
、手
、近
、に
、見いださるる物が道具で
人間存在において最
対立するものとして見いださしめるのである︒
53
あるという洞察はまことに教うるところの多いものであ
の連関﹂であるところに︑道具の本質的な構造がある︒
つ﹁するためのもの﹂であるところに︑すなわち﹁ため
くための道具である︒かく﹁何のため﹂を常に指示しつ
えば槌は靴を作るための道具である︒しかしまた靴も歩
の た め に ﹂ に 対 し て ︑ 内 在的 な 関 係 を 持 っ て い る ︒ た と
もの﹂は︑そのものが使用せられる目当てとしての﹁何
、め
、め
、の
、もの﹂である︒ところでこの﹁⁝⁝するた
、の
、
くた
、め
、の
、もの﹂であり靴は﹁は
である︒たとえば槌は﹁打つた
、め
、の
、もの﹂
る︒元来﹁道具﹂とは本質的には﹁⁝⁝するた
54
そうして﹁ための連関﹂は人間の存在から出てくるので
ある︒ところで我々はこのような﹁ための連関﹂を開始
せ し め る 根 元 に 人 間 存 在 の風 土 的 規定 を 見い だ さ ざ る を
得ない︒靴は歩くための道具であるが︑しかし多くの人
間はこの道具なくして歩くことができた︒靴を必要とし
た の は 寒 さ や 暑 さ で あ る ︒ 着 物 は 着 る ため の も の で あ る
が︑着るのはまず第一に寒さを防ぐためである︒だから
﹁ための連関﹂はその終局するところに風土的な自己了
解 を 控 え て い る と 言 わ な く て はな ら ぬ ︒ た と えば 我 々 は
寒さや暑さにおいて自己を了解するとともに自己の自由
55
に も とづ い て ﹁ 防 ぐ た め ﹂ とい う 一 定 の 方 向 を 取 る ︒ 寒
だと言わねばならぬ︒従って道具が我々にとって最も手
道具が一般に風土的規定と密接な連関を持つことは明白
の材料として社会的に見いだされてくる︒かく考えれば
製作せられる︒羊毛︑綿花︑絹というごときものが衣服
あるいは涼しく︑厚くあるいは薄く︑種々の形において
了解が顕わにされるのである︒だからこそ着物は暖かく
って己れを指し示すときに︑すでにそこに風土的な自己
ない︒従って﹁防ぐために﹂から﹁何をもって﹂に向か
さ暑さの契機なしに全然自発的に着物を作り出すのでは
56
近なものであるということは︑風土的規定が対象成立の
最 初 の 契 機 をな す とい う こ とに ほ かな ら ぬ で あろ う ︒
かくのごとく風土は人間存在が己れを客体化する契機
であるが︑ちょうどその点においてまた人間は己れ自身
を了解するのである︒風土における自己発見性と言わる
べきものがそれである︒我々は日常何らかの意味におい
て己れを見いだす︒あるいは愉快な気持ちである︑ある
いは寂しい気持ちである︒このような気持ち︑気分︑機
嫌などは︑単に心的状態とのみ見らるべきものではなく
して︑我々の存在の仕方である︒しかもそれは我々自身
57
が 自 由 に 選 ん だ も の で は な く ︑﹁ す で に 定 め ら れ た ﹂ 有
やかな気分﹂において己れを見いだす︒これは空気の温
風土的負荷もまだきわめて顕著である︒我々がある朝﹁爽
る︒しかしそれらとともに︑またそれらとからみ合って︑
有 る と こ ろ の 歴 史 的 情 勢 とし て社 会 に 一 定 の 気分 を 与 え
め︑従って彼に一定の気持ちを与える︒あるいはすでに
ころの間柄としてそれに属する個人の存在の仕方を定
はない︒我々の個人的・社会的な存在は︑すでに有ると
気持ちは︑必ずしも風土的にのみ規定せられているので
り方として我々に背負わされている︒このような既定性︑
58
、か
、に
、ら
、影響して内
、爽や
度と湿度とのある特定の状態が外
かな心的状態を引き起こしたとして説明せられている現
象であるが︑しかし具体的体験においては事情は全く異
、気
、
なっている︒そこにあるのは心的状態ではなくして空
、爽やかさである︒が︑空気の温度や湿度として認
、識
、せ
の
られている対象は︑この爽やかさそのものと何の似寄り
も持たない︒爽やかさは﹁あり方﹂であって﹁もの﹂で
もな ければ ﹁ ものの 性 質﹂ でもない ︒それ は空 気という
、の
、に属してはいるが︑空気自身でもなく空気の性質で
も
、の
、によって一定のあ
もない︒だから我々は空気というも
59
り方を背負わされるのではない︒空気が﹁爽やかさ﹂の
は︑他人の心的状態に目を向けるというごとき手続きを
心的状態ではなくして空気なのである︒だからこそ我々
において我々自身を了解している︒爽やかなのは己れの
、気
、の
、爽
、や
、か
、さ
、
表現せられるという事実である︒我 々は空
、拶
、として
ものは朝の爽やかな気分が直接に我々の間の挨
さは心的状態の爽やかさではない︒それを最もよく示す
、気
、の
、爽やか
身を見いだしているのである︒しかしまた空
ることなのである︒すなわち我々が空気において我々自
有 り 方 を 持 つ こ と は 取 り も 直 さ ず 我 々 自 身 が爽 や か で あ
60
経ることなく︑直接に互いの間において﹁いいお天気で﹂
﹁いい陽気になりました﹂などと挨拶する︒我々はとも
に 朝 の 空 気 の 中 へ 出 て ︑ と も に 一 定 の 存 在 の 仕方 を 背 負
うのである︒
このような風土的負荷は我々の存在の内にきわめて豊
富に見いだされる︒晴れた日の晴れ晴れしい気持ち︑梅
雨の日の欝陶しい気持ち︑若葉のころの生き生きとした
すがすが
恐ら
気持ち︑春雨のころのしめやかな気持ち︑夏の朝の清々
︱
しい気持ち︑暴風雨の日のすさまじい気持ち︑
く我々は︑俳諧において季を持つあらゆる言葉をあげて
61
も︑なおかかる負荷を尽くし得ぬであろう︒かくて我々
荷が過去を背負うに留まらずまた風土を背負うのである
しその歴史性が風土性と相即せるものであり︑従って負
という ところに︑我 々の存在の歴史 性が見られ る︒しか
あらかじめ有ることであり︑負荷されつつ自由である︑
らずまた自由の性格を持つ︒すでに有ることでありつつ
もとより我々の存在はただに負荷的性格を持つのみな
また風土をも背負うのである︒
れ る こ と に な る ︒ 我 々 は ただ に 過 去 を 背 負 う の み な ら ず
の存在は︑無限に豊富な様態をもって風土的に規定せら
62
ならば︑風土的規定は人間の自由なる発動にもまた一定
の 性 格 を 与 え る で あ ろ う ︒ 道 具 と し て の 衣 食 住 が風 土 的
性格を帯びることは言うまでもなく︑さらに根本的に︑
人間が己れを見いだすとき︑すでに風土的規定の下に立
、己
、了
、解
、の
、型
、とな
っているとすれば︑風土の型はやがて自
らざるを得ないであろう︒種々なる風土における種々の
人間が︑その存在の表現においてそれぞれ顕著な特性を
持つ︑ということは︑存在的には我々に明白なことであ
、土
、の
、型
、が
、人
、間
、の
、自
、己
、
る︒今やその存在論的な究明は︑風
、解
、の
、型
、であるというところに到達した︒そこで必要な
了
63
ことは右のごとき風土の型の発見である︒
しからば我々はいかにして風土の型というごときもの
仕方は︑直接に特殊存在の型を理解せしめるものではな
問わない︒従って存在論的に把捉せられた人間の存在の
を規定するに留まって︑それがいかに特殊的であるかを
ある国土ある時代に特有な仕方においてあるということ
の 仕 方 の 考 察 で は な い ︒ そ れ は 具 体 的 な 人間 存 在 が 必 ず
史的風土的構造一般の問題であって︑具体的な人間存在
上来説き来たった人間存在の風土的規定は︑人間の歴
を見いだし得るであろうか︒
64
い︒それはただかかる理解を媒介するものとして︑存在
的 把 捉 を 方 法上 導 き 得 る に 過 ぎ な い ︒
しからば我々は具体的な人間の存在の仕方を︑すなわ
ちその特殊性における存在を︑把捉するために︑存在的
な認識︑すなわち歴史的風土的な現象の直接的な理解に
向 か わ な く て はな ら ぬ ︒ し か し そ れ が 歴 史 的 風 土 的 現 象
を単に客観的対象としてのみ取り扱うのならば︑上来説
き来たったごとき風土の意義は全然把捉せられないであ
ろう︒そこで我々は歴史的風土的現象の理解に当たって
厳密に存在論的規定の指導を待たねばならない︒すなわ
65
ちこれらの現象が人間の自覚的存在の表現であること︑
問題となる限り︑かくならざるを得ないのである︒
、的
、殊
、認識である︒かくして人間の歴史的・風土的特
、構
、
論
、の把捉は︑存在論的・存在的認識となる︒風土の型が
造
、在
、
仕方を人間の自覚的存在の様態として把捉する限り存
特殊性に向かう限り存在的認識であるが︑その特殊的な
などに従わねばならない︒だからそれは特殊的な存在の
は風土的歴史的現象の解釈によってのみ得られること︑
こと︑従って主体的なる人間存在の型としての風土の型
風土はかかる存在の自己客体化︑自己発見の契機である
66
そこで我々の考察は︑特殊なる風土現象の直観から出
発して人間存在の特殊性に入り込もうとする︒もとより
風土は歴史的風土であるがゆえに︑風土の類型は同時に
、史
、の
、類
、型
、である︒我々はそれに触れることを毫も避け
歴
ようとはしない︒また避けることのできないものである︒
しかし我々はここに人間の歴史的・風土的特殊構造を特
、土
、の
、側
、か
、ら
、把捉しようと試みるのである︒それはこ
に風
の側からの考察が歴史の側からの考察に比して著しく閑
却せられていることにも帰因する︒閑却せられているの
はこの問題が学的把捉にとってきわめて困難だからであ
67
る︒かつてヘルデルは﹁生ける自然﹂の﹁解釈﹂からし
︵昭和四年稿︑六年改稿︑十年補筆︶
に明らかにされなくてはならない︒
真 に 具 体 性 を 得 る た め に も ︑ 風 土 的 特 性 の 問 題 は 根 源的
に取り扱われねばならぬのである︒歴史の世界の考察が
ている︒しかしそれにもかかわらず風土の問題は根本的
険は風土を根本的に考察しようとする者を常に脅やかし
人的想像の産物に類したものとなってしまった︒この危
れはカントが批評したように︑学的労作ではなくして詩
て﹁人間の精神の風土学﹂を作ろうとした︒そうしてそ
68
第二章
一
三つの類型
モンスーン
モンスーンという言葉はアラビア語の mausim
︵季節 ︶
から出たと言われている︒アジア大陸とインド洋との特
殊な関係から︑太陽が赤道を北に超えてよりまた南に超
えるまでの夏の半年は︑南西モンスーンが陸に向かって
69
吹き︑冬の半年は北東モンスーンが海に向かって吹く︒
、熱
、と
、湿
、気
、と
、の
、結
、合
、を そ の 特 性 と す る ︒
ン域の風土は暑
、帯
、の
、太
、洋
、から陸に吹く風である︒だからモンスー
り︑熱
、の
、季節風であ
モンスーンは季節風である︒が︑特に夏
すると言ってよい︒
沿岸一帯は︑シナも日本も︑風土的にモンスーン域に属
作り出しているのである︒広義に解すれば︑東アジアの
るのであるがゆえに︑世界における一つの特殊な風土を
湿気を含み込んだ空気を強い風力によって陸に吹きつけ
特に夏のモンスーンは︑熱帯の太洋において極度にまで
70
我々はこれを湿度計に現わすことのできぬ人間の存在の
仕方として把捉しようとするのである︒
モンスーンのころにインド洋を渡った旅行者は何人も
経 験 す る と こ ろ で あ る が ︑風 の 吹 き つけ る側の 船室 は︑
いかに暑くとも窓を開くことができない︒恐ろしい湿気
を 含 ん だ 風 を 自由 に 受 け 容 れ るこ と は ︑ すな わ ち そ の 室
を住み難きものとするにほかならぬ︒
﹁暑さ﹂よりは﹁湿
気﹂の方が堪え難いのである︒しかもまた暑さよりは湿
、ぎ
、難
、い
、︒窓を密閉した船室の中で︑しかも皮
気の方が防
鞄の中の鉄が錆び塗金が変色するというような湿気に対
71
して︑我々は何をなし得るであろうか︒熱によって乾燥
そ れ は 何 ゆ え で あ ろ う か ︒ 我 々 は そ れ を ﹁ 湿潤 ﹂ 自 身
るところに一倍の力だもないのである︒
自然に対抗する力において弱い︒二倍の力の要求せらる
人間は︑寒国的人間や沙漠的人間のいずれに比べても︑
、抗
、し
、得
、
である︒すなわちモンスーンの湿気は︑それに対
、た
、め
、に
、人に二倍の力を課する︒しかもモンスーン域の
る
、さ
、さ
、を防ぐ手段と暑
、を防ぐ手段との併用
きぬ︒それは寒
配給するというほかに︑対抗の仕方を見いだすことはで
した空気を再び氷によって冷やし︑それを鉄管によって
72
から理解することができる︒湿気は最も堪え難く︑また
最も防ぎ難いものである︒にもかかわらず︑湿気は人間
の内に﹁自然への対抗﹂を呼びさまさない︒その理由の
、然
、の
、恵
、み
、を意
一つは︑陸に住む人間にとって︑湿潤が自
味するからである︒洋上において堪え難いモンスーンは︑
実 は 太 陽 が 海 の 水 を 陸 に 運 ぶ 車に ほ か な ら ぬ ︒ こ の 水 の
ました
ゆえに夏の太陽の真下にある暑い国土は︑旺盛なる植物
によって覆われる︒特に暑熱と湿気とを条件とする種々
の草木が︑この時期に生い︑育ち︑成熟する︒大地は至
るところ植物的なる﹁生﹂を現わし︑従って動物的なる
73
生をも繁栄させるのである︒かくして人間の世界は︑植
、従
、的
、たらしめる︒沙漠
な 力 で あり ︑ 従 っ て 人 間 を た だ 忍
、抗
、を
、断
、念
、さ
、せ
、る
、ほどに巨大
かかる︒それは人間をして対
洪水︑干魃というごとき荒々しい力となって人間に襲い
とである︒暑熱と結合せる湿潤は︑しばしば大雨︑暴風︑
、然
、の
、暴
、威
、をも意味するこ
が︑理由の第二は︑湿潤が自
である︒それは沙漠の乾燥の相反にほかならぬ︒
から人と世界とのかかわりは対抗的ではなくして受容的
死ではなくして生である︒死はむしろ人の側にある︒だ
がわ
物的動物的なる生の充満し横溢せる場所となる︒自然は
74
の乾燥は死の脅威をもって人間に迫るとしても︑人間を
生かすその力によって人間に襲いかかるのではない︒人
間はおのれの生の力によって死の脅威に対抗し得る︒忍
従はそこでは死への忍従である︒しかるに湿潤なる自然
がわ
の暴威は横溢せる力︵生を恵む力︶の脅威であって︑自
がわ
然の側に存する﹁死﹂の脅威ではない︒死は人の側にあ
る︒横溢せる生の力が人間の内にひそむ死を押し出そう
とするのである︒人間はおのれの生の力をもってその生
の根源たる力に対抗することはできぬ︒忍従はここでは
生への忍従である︒この意味においてもそれは沙漠の乾
75
燥の相反にほかならぬ︒
みずほのくに
ても現われる︒季節の著しい移り変わりはこの国土 の宿
、雪
、とし
に湿潤の国土である︒が︑そこでは湿潤がまた大
祖先が直観的に﹁豊葦原の瑞穂国﹂と呼んだように︑特
とよあしはら
得 る ︒ 梅 雨 と 台 風 と を 特 徴 と す る 我 々 の 国土 は ︑ 古 代 の
湿潤はしかしさらに細かにさまざまの特性に分析され
ものが﹁湿潤﹂である︒
、容
、
かくて我々は一般にモンスーン域の人間の構造を受
、忍
、従
、的
、として把捉することができる︒この構造を示す
的
76
命である︒従って受容的忍従的なる特性もここではさら
に 特 殊 な 限 定 を 受 け な く て はな らない ︒ 揚 子 江 の ご と き
世 界 的 大 河 を 持 っ た 南 シ ナ も ま た 湿潤 の 国 土 で あ る ︒ し
かし北方に沙漠を控えたこの漠々たる大陸は︑あたかも
この湿潤を悠々たる揚子江によって表現するかのよう
に ︑ 我 々 と は 著 し く 異 な っ た 仕方 に お い て 風 土 を 現 わ し
ている︒それは何らかの程度に乾燥を含んだ湿潤である︒
我々はだから類型的なる湿潤を固有のモンスーン域に求
南 洋 の 暑 さ は 我 々 日 本 人に と っ て決 し て珍 し い も の で
め る︒そ れ は 南洋 とイ ン ド で あ る ︒
77
はない︒日本の盛夏を知るものは︑かつて経験しなかっ
﹁夏﹂とは一つの気候であるが︑しかしその気候は人
経験するそのままである︒
ている︒特に人間の生活としての﹁夏﹂は︑我々が常に
として見れば自然の与える印象は日本の盛夏のそれに似
た落葉樹の林と︑さほどに異なったものではない︒全体
よく松の林に似ている︒ゴムの木の林も︑我々の見なれ
やや遠く離れ て見るな らば︑ 形と色 とに おいてきわめて
、類
、はなるほど我々に珍しいが︑しかし椰子の林は︑
物の種
たと思われる何物をもそこに見いだし得ぬであろう︒植
78
間 の 存 在 の 仕 方 で あ る ︒ ただ 気 温 の 高 さ と日 光 の 強 さ と
のみでは我々は﹁夏﹂を見いださない︒冬のさ中にまれ
に現われた高気温の日に︑人は﹁夏のようだ﹂とは言う
かも知れぬが︑しかし夏の中にいるとは感じない︒同様
のことは冬のさ中に日本を出た旅行者が南洋に近づくに
ホンコン
当たって経験するところである︒香港を出た翌日あたり︑
船の中の人たちは急に白い夏服になる︒烈しい日光が濃
紺の海を照らし︑寒暖計は上り︑人は汗を流す︒いよい
よ常夏の海にはいったとは誰でもが思う︒しかるにシン
ガポアについた夕暮れ︑町ヘドライヴに出かけた旅行者
79
は︑草木の豊かに生い茂った郊外でにぎやかに鳴いてい
一定の存在の仕方を持つのである︒そうして我々が南洋
﹁ 気 分 ﹂ を 除 い て 夏 は な い ︒ 人 間 は 夏 と し て 限定 さ れ た
の強さよりも一層本 質的な﹁夏﹂の契機であった︒夏の
涼みなどは︑この旅行者にとっては︑気温の高さや日光
らに驚くのである︒旺盛な草木の茂りや︑虫の音や︑夕
じ︑近い過去に日本に残して来た﹁冬﹂との対照を今さ
夏 の 夜 の 町 の 風 景 を な が め た 時︑ 初 め て 強 く ﹁ 夏 ﹂ を 感
ち並んでいる間に涼みの人たちが白い着物で行き来する
る虫の音を聞いた時︑あるいは露店の氷屋や果物店が立
80
に お い て 見 い だ す の は ︑ す でに 久 し く ﹁ 夏 ﹂ と し て 知 っ
ていたその存在の仕方にほかならぬ︒
しかも我々にとって南洋は異境である︒なぜならば
、洋
、に
、と
、っ
、
我々がそこに﹁夏﹂として見いだしたものは南
、は
、﹁
、夏
、﹂
、で
、は
、な
、い
、からである︒我々にとっての﹁夏﹂
て
は︑虫の音がすでに秋を含み︑はずした障子が冬の風を
含んでる夏である︒若葉や筍と百舌鳥や柿との間にはさ
まった夏である︒しかるに南洋にとってはかかる秋 冬春
、で
、な
、い
、単調な気
を含まざる単純な夏が︑言い換えれば夏
候 が 存 す る の み で あ る ︒ 植 物 は そ の 葉 を 変 え る の に 時を
81
定めない︒三月の初めにゴムの木の紅葉と落葉と新緑と
を示さなかったかを理解し得るであろう︒南洋の風土は
我 々 は こ れ に よ っ て 南 洋 的 人間 が 何 ゆ え に 文 化 的 発 展
らない ︒
するにほかならぬが︑南洋の人間はかかる移り行きを知
、分
、の
、移
、り
、行
、き
、として存在
人間が夏として存在するのは気
、り
、行
、く
、季
、節
、としての﹁夏﹂とは同じものではない︒
えず移
、定
、せ
、る
、気
、候
、は︑絶
絶 え るこ と が な い ︒ か か る単 調な ︑ 固
は相並んでいる︒果物も少数のものを除いては年じゅう
青葉とが立ち並んでいるように︑六月末にも四つの季節
82
人間に対して豊かに食物を恵む︒人間は単純に自然に抱
かれておればよい︒しかも人と自然との関係は︑あらゆ
る移り行きを含まないものである︒人間はその受容的忍
従的な関係において固定する︒猛獣毒蛇との戦いもこの
固定を破ることはできぬ︒そこでは生産力を発展せしむ
べ き 何 ら の 機 縁 も 存 せ ぬ の で あ る ︒ だ か ら ま れ に ジャ ヴ
ァにおいてインドの文化の刺激により巨大な仏塔が作ら
れたということのほかには︑南洋は文化を産まなかった︒
そうして文芸復興期以後のヨーロッパ人に易々として征
服され︑その奴隷に化したのである︒
83
、調
、さ
、に堪え得るものは実はヨー
しかし南洋の風土の単
興味を持ち得ぬ人の単調さではなく︑激情に燃えて常に
横 溢 の 単 調 さ で あ る ︒ た と え ば 感 情 の 空 疎な ︑ 何 事 に も
南洋の単調さはしかし内容な き単調さではない︒力の
であろう︒
こり得たかはシナの人間の特性によって理解し得られる
つあるものはシナの商人である︒いかにしてこの事が起
ッ パ の 知 力 が開 発 し た 南 洋 の 富 源 を 今 そ の 手 中 に 蔵め つ
ロッパの人間ではなくしてシナの人間であった︒ヨーロ
84
興奮している人の単調さである︒だからもしその固定を
防ぎ横溢せる力を動かし得るならば︑そこに目ざましい
発展のあることは当然であろう︒
我々はこのことを一つの具象的な姿によって現わすこ
とができる︒ペナンの植物園はシンガポアのそれとは異
も
なり︑小山の渓間に位しているが︑その山にむくむくと盛
り上がっている潤葉樹の感じは︑ちょうど日本で土用の
まっ盛りに︑ただ二三週間︑椎や樫の茂った山に見られ
るあの盛んな力強い感じであった︒ここではそれが年じ
ゅうを通じてである︒しかしそこを去って︑広い椰子の
85
林を抜け︑ケーブル・カーの掛かった山に登り始めると︑
内に含まれている︒いわば﹁時間的な移り行き﹂を欠く
、種
、の
、変
、化
、はこの風土の
とも︑ちょうどそれに相応する種
春であり秋である︒だからたとい季節の移り行きはなく
姿ではあろうが︑欝蒼たる森の真夏に対してはまさしく
びをもって立っている︒これらもまた年じゅう変わらぬ
が︑あたかも日本の庭園におけるごとき枝ぶりや幹のさ
や紅葉がある︒山上はさらに涼しく︑檜や木蓮に似た木
花があり︑その間に淡々として愛らしいゴムの木の新緑
薄のように白い穂を出した草や︑秋草に似た小さい紫の
86
、間
、的
、な
、移
、り
、行
、き
、﹂が存するのである︒それ
とともに﹁空
を 受 容 し 得 る も の に 取 っ て は ︑ 南 洋 の 単 調 さ は ただ 季 節
の単調さであって︑内容の単調さではない︒
インドの人間はかかる受容性において優れていた︒だ
、史
、的
、感
、覚
、の
、欠
、如
、とともに︑恐ろし
からそこには極端な歴
、生
、の
、種
、々
、相
、の
、洞
、察
、がある︒
く豊富な人
イ ン ド は モ ン ス ー ン の 最 も 型 通 り に 現 わ れ る土 地 で あ
る︒そこで季節は︑比較的涼しい乾燥期と︑暑い乾燥期
と︑雨期との三つに分かれる︒カルカッタにおいて涼し
い一月の平均温度は一八・一度であり︑最も暑い三月の
87
平均温度は二八・四度である︒しかしこの地の一年間の
が ︑ イ ン ド の 人 間 の 受 容 性 を 活 発 な ら しめ る 第 一 の も
存するのである︒
持つとともに︑南洋的な生の固定から脱るる機縁もまた
るかに多い︒従って常夏の国として南洋的な生の横溢を
単調である︒しかしまた南洋に比べれば寒暑の変化がは
ばそれは依然として常夏の国にほかならぬ︒季節的には
も ︑ 一 年 の 平 均 温 度 は 二 三・ 九 度 で あ る ︒ 我 々 か ら 見 れ
等しい︒ラホールのごとく寒暑の開きの大きいところで
、の
、平均温度とほぼ
平均温度二四・ 八度は日本の九州の夏
88
のは︑モンスーンによる雨季である︒インドの人口三億
二千万︵全人類の五分の一︶の内︑三分の二以上を占め
る農民は︑モンスーンに頼って耕作する︒特に水の豊か
な局部を除いて︑大部分の地方は︑モンスーンの遅延︑
中断︑雨量の過小過多などのたびごとに︑家庭の食料や
家畜の飼料にさえ困難するほどの凶年に出逢うのであ
る ︒ 頻 々 と し て 起 こ る こ の 種 の凶 年 の た び ご と に 昔 は 饑
饉が起こった︒現在の交通機関はかかる饑饉を防ぐこと
はできるが︑しかし農民の経済的困難を防ぐことはでき
ぬ︒そこで人々は栄養不良に陥り︑身体の抵抗力を減じ︑
89
疫病の流行を引き起こす︒一九一八︱一九年のスペイン
危険はなかった︒人は単純に受容的であり得た︒しかし
あることを見いだす︒島嶼的なる南洋においてはかかる
インドの人間に生を恵むとともにまた生を脅やかすので
ちょうどその条件が︑すなわち暑熱と湿潤との結合が︑
そこで我々は︑インドの自然の力をして横溢せしめる
は存しないのである︒
る生の不安から解放するところの︑自然への対抗的方法
言われている︒現代においてさえもインドの人間をかか
風 邪 の 際 に は ︑ 罹 病 者 一 億 千 五 百万 ︑ 死 者 七 百 五 十万 と
90
、安
、動
、
大陸的なるインドにおいては受容的な関係が常に不
、を含まねばならぬ︒受容的であってしかも動
、く
、という
揺
、受
、性
、
ことは︑受容性を活発ならしめること︑すなわち感
、敏
、情
、活
、である︒そこで自然の力の横溢は人間の感
、の
、横
、
の
、となって現われる︒
溢
インドの人間の感情の横溢は︑その受容的な態度から
出 て い る ︒ 受 容 的 な 態 度 は 同 時に 忍 従 的 な 態 度 で あ る ︒
生を恵む自然が︑同時に︑人間の対抗を圧倒しつくす巨
大な威力をもって迫ってくる︒持続的な暑熱そのものが
すでに人間の対抗力を極限にまで必要とするのである
91
、従
、
が︑その暑熱が湿潤と結びついたとき︑人はもはや忍
化型として現われているのを見るのである︒
規定せられた︒我々はこれが歴史的社会的にインドの文
、史
、情
、力
、的
、感
、覚
、の
、欠
、如
、︑感
、の
、横
、溢
、︑意
、の
、弛
、緩
、として
て︑歴
受容的忍従的なる人間の構造は︑インドの人間におい
意志の統括力を伴なわない︒
縮し弛緩させるのである︒インドの人間の感情の横溢は
、動
、志
、的
、な
、気
、力
、を︑意
、の
、緊
、張
、を︑萎
かくて自然は人間の能
、念
、させる︒
するほかはない︒モンスーンは人間に対抗を断
92
インド文化において歴史的社会的におのれを現わして
、語
、種
、的
、及び人
、的
、にギリシアの人
いるインドの人間は︑言
間と起 源を同じくすると言われるにかかわらず︑その特
性 を 全 然 異 に し て い る ︒﹁ イ ン ド 文 化 を そ の 固 有 の 姿 に
形造り︑その努力に方向を与え︑その理想に魂を入れた
ものは︑インド自身である︒インド・アリヤンの思想に
その特殊性格を与え︑その人生観全体を色づけた地方的
環境は︑ヒマラヤの北西地方とヒマラヤより流れ出づる
Havel, The History of Aryan
大河の谷である︒それはインドの聖地であった︑そうし
て今なおそうである︒﹂︵
93
Rule in India, p. ︶
7.南欧の多島海においてギリシア的﹁人
間﹂が﹁ギリシア的﹂人間として現われた時には︑それ
、士
、でもあった︒
の土地への侵入者征服者として︑一面戦
ここでは侮蔑される︒もとよりインドの人間も︑インド
る︒ギリシア的人間がその一つの長所とする商業の術は︑
、業
、落
、と村
、共
、産
、
には︑それはポリス生活の束縛を忌み︑農
、の
、組
、織
、と が 与 え る と こ ろ の 独 立 を 愛 好 す る 人 間 で あ
体
しかるにインド的人間がインド的人間として現われた時
事詩は︑神々と人間とをすべてポリス的に描いている︒
はすでにポリスの人間であった︒ホメロスの名を負う叙
94
しかし彼らの戦闘は奪掠の戦闘ではない︒彼らの勝利は
、力
、によ
その戦闘力をもってよりもむしろその優れたる知
、の
、片
、手
、に
、は
、鋤
、
って得られた︒片手に剣を持つとともに他
、持
、っ
、た
、戦士が︑その農業的村落的なる共同生活におい
を
ヴェダ
て示した最も卓越せる力は︑詩人哲学者としての智慧で
あ る ︒﹁ ヴ ェ ダ ﹂ は か か る 戦 士 的 詩 人 ︑ 戦 士 的 哲 学 者 の
文化を表現する︒︵ havel, opt cit., p. ︶
5.戦士は同時に祭
司であった︒そうしてその祭るところは自然の神秘なる
力であった︒かかる方向はやがて戦士から祭司を独立さ
せ︑祭司を戦士の上に立たせることになる︒部族的なる
95
犠牲の祭儀において讃歌を歌っていたバラモンは︑やが
期のヴェダには行動的な戦闘好きの人間が現われておら
こさず︑また一部族の戦神ともなり得ない︒きわめて初
ゆる部族を平等に恵む自然の力は︑人間の対抗を呼び起
、部
、族
、の神としては現われなかった︒あら
神々は決して一
白に異なるところは︑戦闘的意力的ならざることである︒
産体の表現である︒それが沙漠における部族的人間と明
こ れ ら は イ ン ド に お け る 部 族 的 人 間 ︑ すな わ ち村 落 共
なった︒
て奥秘なる智慧の保持者︑人間の教師︑精神的指導者と
96
ぬではない︒リグ・ヴェダの歌い手はしばしば神々に戦
勝を祈っている︒しかしその神々は︑リグ・ヴェダにお
い て は ︑ 生 の 窮 迫 を 転 脱 す る ため の意 力 的 緊 張 か ら 生 じ
た の で は な く ︑ あ く ま で も︑ 人間 を 恵 む 自 然の 力 か ら神
話的な姿にまで成生して行ったのである︒多くの讃歌は
﹁神﹂にではなくして﹁自然﹂に︑たとえば太陽神にで
はなくして太陽自身に︑水の神にではなくして流れ行く
水あるいは雲より落つる水自身に︑向けられている︒神
Winternitz,
話的な姿がこれらの自然の力の人格化によって生ずるこ
とを︑リグ・ヴェダの讃歌自身が立証する︒
︵
97
︶だ から神へ
Geshichte d. Indischen Literatur, I. S. 66-67.
、み
、に
、甘
、え
、る
、関
、係
、であって︑沙漠的な
の関係は︑むしろ恵
の富の恵まれることを期待する︒神よ︑もし我れがあら
、だ
、神
、々
、を
、詠
、嘆
、す
、る
、こ
、と
、によって地上
めるのではなく︑た
神への服従を誓い神の命令に従うことによって救いを求
の讃歌者はむしろ﹁神々と睦まじい﹂のである︒彼らは
おけるごとく魂の奥底から湧き出るのではない︒ヴェダ
固い信仰は︑ここには見られない︒神への祈りも沙漠に
バに向けるあの身震いのするような崇敬や︑巌のごとく
る絶対服従ではない︒旧約の詩篇における讃歌者がエホ
98
ゆ る 富 の 主 で あ る な ら ば ︑ 我 れ を 讃 む る 者 に は 喜 ん で恵
︱
むであろう︑恵み深き神よ︑︵ Op. cit., S. 70.
︶
かく
歌う讃歌者は神を恐れてはいない︒恵みに抱かれるとい
うのが彼の信仰の態度である︒かかる信仰の対象として
の神々は︑たとい人格化せられたとしても︑沙漠の神に
おけるごとく人間の人格に絶えず関係し来たる﹁人格神﹂
とはなり得ない︒だからこれらの神々が﹁生を恵む力﹂
として﹁一者﹂と考えられるということは︑すでに早く
リグ・ヴェダの哲学的なる讃歌の内に現われている︒か
かる汎神論的思想はブラーフマナやウパニシャッドにお
99
いてブラフマンとなりアートマンとなる︒それらはその
スの叙事詩さえもかかる性格を持たぬとは言えぬ︒しか
に歴史的物語として著しいのは言うまでもなく︑ホメロ
のうち最も歴史的物語に遠いものである︒旧約聖書が特
神々を讃えるヴェダはまた世界におけるこの種の古典
に坐するのである︒
の ﹁ 有 ﹂ の 説 は ︑﹁ 無 ﹂ を 原 理 と す る 立 場 へ の 反 駁 の 上
れている︒ウパニシャッドの頂点としてのウッダーラカ
的 に は あ る い は ﹁ 無 ﹂ と 呼 ば れ ︑ あ る い は ﹁ 有 ﹂ と呼 ば
、人
、格
、的
、な
、る
、創造原理である︒哲学
深き意味においては非
100
しヴェダは全然この性格を欠くのである︒のみならずそ
れ は ︑ 神 々 の 事 績 や 人間 の 生 活 を 取 り 扱 い は す る が ︑ そ
れ を 客 観 的 に 描 出 す る の で は な く し て ただ 詠 嘆 す る に 過
ぎぬ︒むしろそれはその名の通り︑神々と人間について
の﹁智慧﹂を語るのである︒しかも概念的にではなくし
、情
、的
、に
、︒讃歌︑咒文︑旋律︑犠牲の唱えの四種のヴ
て抒
ェダは︑すべて祭儀の実践に含まれ︑宗教的感情に浸透
、史
、的
、なる旧
された智慧に ほかならぬ︒かくてヴェダは歴
約の物語や彫塑的なるホメロスの物語と著しく異なった
様式を︑すなわち感情の横溢の様式を示 すのである︒
101
かかる詠嘆的智慧はインドの人間の特性の二面を同時
また理解することができるであろう︒
えに結合しやすいか︑あるいは何ゆえに分化し難いかも
できる︒かく差別して理解することにより︑両者が何ゆ
面からは芸術的に︑他面からは哲学的に理解することが
ばしば結合して現われる︒しかし我々は同一の作品を一
接に結合しているようにこの後の文化産物においてもし
、惟
、である︒両者はヴェダにおいて密
他はインド的なる思
、像
、力
、であり︑
に我々に理解せしめる︒一はインド的なる想
102
ヴェダに現われたる想像力はインドの人間の感受性が
いかに鋭敏であったかを示している︒あらゆる自然の力
はその神秘性のゆえに神化される︒日︑月︑空︑嵐︑風︑
火︑水︑曙光︑大地のごとき目ぼしいもののみならず︑
森も野も動物も︑総じて受容的なる人間にある力を感じ
させる限り︑それは神かあるいはデーモンである︒だか
らバラモンの神話の世界の住人は︑恐らく他のいかなる
神話のそれよりも豊富であろう︒しかしかかる多数な
、と
、め
、ら
、れ
、る
、という
神々は︑血統的に一つの家族としてま
こともなく︑また自然現象の関連をモデルとして一つの
103
、一
、さ
、れ
、る
、ということもなかった︒神々の根抵に
体系に統
物
︱
天上に住むもの︑地獄に住むもの
︱
のみならず
描かれている︒神話的想像によって生じたあらゆる生き
わち人間を含めての﹁衆生﹂が︑その共通の生において
、生
、譚
、である︒そこではあらゆる生物が︑すな
ものは︑本
が︑我々にインドの想像力の特性を最も強く印象する
つつ仏教のファンタジーの中にさえ入り込んでいる︒
を左右し得ない︒神々の世界はますます乱雑の度を加え
が置かれるに至っても︑この哲学的なる統一は神々の姿
統 一 的 な る ﹁ 一 者 ﹂︑ あ る い は ﹁ 有 ﹂︑ あ る い は ﹁ 無 ﹂
104
家畜も野獣も昆虫も︑すべて我々の生の場面である︒我々
は今人間にあっても次の世には牛として生きるかも知れ
ない︑また前の世には蛇であったかも知れない︒従って
今牛であり蛇であるものもかつては人間であり︑また他
日人として現われ得るものである︒しからばこれらの衆
生 は ︑ 現 象 的 形態 に お い て さ ま ざ ま に 異 な る に し て も ︑
本質においてはすべて同一でなくてはならぬ︒現象的形
態の相違はただ同一なる生のさまざまの運命を表現する
に 過 ぎ な い ︒ こ こ に お い て 本 生譚 的 想 像 は︑ 人間 の 歴 史
を︑すなわち人間にのみ限られた﹁生﹂の時間的な移り
105
行 き を 根 本 的 に 撥 無 す る と と も に ︑﹁ 生 ﹂ の 空 間 的 な 移
、在
、の
、姿
、は過去の生を残り
いることだけである︒衆生の現
っている︒ただ異なるのは個々の成員がその姿を変えて
、の
、ま
、ま
、また現代を形作
ある時代を形作っていた衆生はそ
、在
、の
、姿
、を決定されているのである︒しからば過去の
て現
、去
、の
、生
、によっ
ている︒が︑同様にあらゆる他の生物も過
る︒現在蛇であることはこれらの過去によって決定され
そうしてさまざまの愛と憎しみを体験して来たものであ
える︒ここに匐う蛇はかつて人であり牛であり鳥であり︑
り行きを︑すなわち生のさまざまの変相を把捉すると言
106
なく含んでいる︒人は歴史的発展をたどる代わりにただ
現 在 の 姿 の 種 々 相 を たど れ ば よ い ︒だ か ら こ の 想像に お
いては︑道を横ぎる蛇のそぶりの内に︑あるいは牛の眼
の表情のうちに︑その人間的なる過去の生をも読み取る
のである︒かくして人間の日常生活は︑直観的にきわめ
て豊富な生に取り巻かれていることになる︒一歩踏み出
して蟻を圧殺したとき︑彼はかつて人でもあった一つの
生の運命に参与したのである︒
かかる受容性の敏活︑感情の横溢が︑本生譚となって
夢よりもはるかに夢幻的な世界を展開する︒文芸的作品
107
としての様式もまたこれに応じている︒がかかる様式の
、に
、顕
、著
、な
、例としては我々はむしろ大乗の経典をあぐべ
特
一する構図への無関心や︑個々の姿の彫塑的な鮮やかさ
まれて行く︒しかしこのような形象の横溢は︑全体を統
はこの形象の横溢に酔わされて︑夢幻的な世界に引き込
響楽にのみ比せられ得るような︑動ける横溢である︒我々
る︒言葉をもって描かれるにかかわらず︑ただ巨大な交
は 人 間 の 直 観 能 力 を 麻 痺 せ しめ る よ う な 形 象 の 横 溢 で あ
重ねられ︑百千万億の菩薩の行動さえも描かれる︒それ
きであろう︒そこには感覚的な形象が無限に豊富に積み
108
に対する無関心によってのみ可能となっている︒すなわ
ちこの様式は総じて﹁まとまり﹂を持たない感情の横溢
の表現である︒人はここに時と所との統一のごときを全
然超越しなくてはな らない︒
かかる様式のさらに具象的な 姿はインドの美術に見ら
れる︒彫刻にしろ︑絵画にしろ︑建築にしろ︑細部の驚
くべき豊富さに比べて構図の統一はきわめて弱い︒たと
えばアマラヴァティやサンチの浮き彫りのごとき︑無数
の人体のさまざまなる姿勢が︑あふるるごとく刻み込ま
れ ︑ 見 る も の を し て ほ と ん ど 昏 迷 せ し め る ︒ だ か ら 全体
109
としては明白さを欠き︑非構造的である︒見るものの心
る︒かかる統一は人間中心主義的な西洋の芸術的統一と
に﹁多における一﹂という普遍的法則を象徴するのであ
数の刻面に分裂させ壁面を無数の凹凸に分解する︒そこ
さね︑建築家は尖塔の上に尖塔をつらね︑その尖塔を無
この動機によって︑彫刻家は極度に多くの形象を積みか
、一
、を象徴するためである︒
させるのは︑あらゆる生物の統
芸術家がその構図中に豊富なる生物のあらゆる形を群集
、の
、鮮
、や
、か
、
を最初の瞬間に力強く打つところの︑あの﹁姿
、﹂は存しない︒これを弁護する学者はいう︑インドの
さ
110
は異なるが︑しかし明らかに一つの統一的原理である︒
西洋風の古典的単純さがないゆえをもってインド芸術の
、統
、一
、をいうことはできない︒インド的統一の視点の下
無
においては︑細部のあの異常な豊富さにかかわらず︑一々
の部分が完全にその所を得︑釣り合いを保っているので
あると︒︵ Havel, The Ideal of Indian Art, p. 111 ︶
ff.なる
ほど人間のみならず一般に衆生の生を一として感ずるこ
とはインド的人間の特徴である︒受容性の敏活は一切の
、抗
、的
、関
、係
、を閉め出そうとする︒しかしちょうどその理
対
由によってこの受容的な統一は︑意力的能動的征服的な
111
統一と異なるのである︒芸術の統一は後者によってのみ
やかなまとまりによって得られる︒しかし衆生の統一と
るとしても︑芸術品の統一は細部の完全な支配︑姿の鮮
によってもそれを表現し得るであろう︒よし群像を用い
能を理解する芸術家は︑ただ二つの形象を結合すること
ずしも無数の形象を群集させるには及ばない︒象徴の機
らゆる生きものの一であることを象徴するためには︑必
、
によって表現せられるということは︑インドの芸術が形
、的
、統
、一
、を持つということとは全然別なことである︒あ
式
可能となる︒インドに受容的な統一があり︑それが芸術
112
いう観念的動機は直ちに細部の支配ではない︒インドの
彫刻や建築に細部の支配の欠けていること︑全体はかか
る細部の集合であって︑真に統一的な全体となっておら
、と
、お
、し
、の
、つ
、か
、ぬ
、︑明白さの
ぬこと︑従って全体として見
欠けたものであることは︑いかなる強弁も覆い隠し得な
い点である︒インド美術の魅力は︑細部の豊富さによっ
て人を引き回し︑酔わせ︑その酩酊によって人を神秘的
な気分にさそい入れるところにある︒もし人がこの芸術
に対して︑全体の姿の鮮やかさをまず要求する態度をも
、れ
、た
、感じ︑頽廃の感じ
っ て 臨 むな ら ば ︑ そ こ に は た だ 崩
113
をのみ受け取るであろう︒まとまりなき感情の横溢はこ
ることである︒我々はそれが全然歴史的認識としてでな
概 念 に よ ら ず し て類 型 概 念 に ︑ あ る い は 比 喩 的 概 念 に よ
覚に︑あるいは直接的理解によることである︒また普遍
情的思惟が哲学に与えた特性は︑推理によらずして直
おいても失われなかった︒
ダに現われている﹁情的思惟﹂の傾向は︑哲学の盛期に
インド的思惟の特性もまたそれにほかならない︒ヴェ
こに最も顕著に現われているのである︒
114
く ︑ 形 而 上 学 的 認識 と し て ︑ あ る い は 生 の 現 象 学 的 認識
として︑働いているという点に︑特に注目しなければな
らぬ︒
人はギリシア初期の自然哲学とウパニシャッドの哲学
との間に多くの類 似を見いだすであろう︒両者はいずれ
も世界の統一を予想している︒そうして﹁初め﹂に何が
あったかを追究する︒そこで答えられるのは﹁水﹂であ
り﹁火﹂でありあるいは﹁無﹂であり﹁有﹂である︒ド
イ セ ン が パ ル メ ニ デ ス ・ プ ラ ト ン 的 思 想とウ パ ニ シャ ッ
ドの思想との本質的同一を説いたのも︑あるいは当然の
115
ことに見えるかも知れない︒しかしながら我々は一つの
め ﹂ で あ る ︒ だ か ら ﹁ 初 め ﹂ に ﹁ 有 ﹂ が あ り ︑﹁ 有 ﹂ が
存しなかった︒彼が求めたのは彼自身をも包む一切の﹁初
い︒しかしその意味の対立的関係もインドの哲学者には
、抗
、的
、関 係 で は な
係としてであって実践的戦闘的なる対
、立
、的
、関係は︑あくまでも観照的関
れた︒もとよりこの対
が見いだされると同じ地盤から﹁有﹂の原理も見いださ
捕えようとしたのである︒だから世界質料としてアトム
、
こ と を 見 落 と し て は な ら ぬ ︒ ギ リ シ ア の 哲 学 者 は 彼に 対
、す
、る
、世
、界
、の﹁初め﹂を求め︑それを論証の道によって
立
116
﹁火﹂となり﹁水﹂となり﹁大地﹂となると説かるる前
に︑この﹁初め﹂はすでにアートマン・ブラフマンであ
る︒すなわち﹁識るもの﹂であり﹁我﹂である︒世界の
根源が﹁我﹂であるとは我と世界の対立の撥無であり︑
そうしてこの理解が本来の意味のインドの哲学の出発点
となる︒哲学者はただこの理解を解きほごすのである︒
それは論証によらない︑また普遍概念をも用いない︒
ウッダーラカはアートマンの宇宙開闢説の神話を全く
に同じ︶があっ
sat, τὸ ὄυ
理論化した人であると言われている︒彼によれば﹁初め﹂
にはただ有るところのもの︵
117
た︒それはアートマン︵我︶にほかならぬゆえに︑また
、の
、形
、に
、
ば ま た 不生 不滅 の ﹁ 要 素 ﹂ で もな い ︒そ れ は ﹁ 火
ここに﹁火﹂と言われるのは﹁転変の原理﹂でもなけれ
、で
、
、あ
、り
、得
、る
、こ
、と
、を自覚する︵見
第一歩はこの﹁有﹂が多
、︶にある︒そうしてこの自覚が﹁火﹂を生ぜしめる︒
る
しからば一者たる﹁有﹂がいかにして多様を展開するか︒
の関心はこの事実から現象の多様を解くことに存する︒
それは﹁見られ﹂また感ぜられたる事実である︒哲学者
﹁我﹂にいかにして到達したかを問うことはできない︒
自ら識るものである︒が︑我々はかかる﹁有﹂あるいは
118
、け
、る
、有
、﹂である︒燃ゆるもの︑輝くもの︑赤きもの︑
お
煮るもの等︑すべて﹁火﹂の比喩によって理解せられ得
るような有り方を持つものが︑ここでは﹁火﹂として指
し示される︒かかる意味で﹁有﹂は多化の第一歩に火と
して限定されるのである︒しかしここでも我々はこの限
定の必然性を問うことができない︒それは太陽崇拝の伝
統に生くる哲学者の直覚にのみ依存する︒次いでこの﹁火
の形の有﹂はさらに多化の可能を自覚して﹁水﹂を生ず
る ︒﹁ 水 ﹂ も ま た ﹁ 水 の 形 に お け る 有 ﹂ で あ る ︒ す べ て
流動的なるもの︑明色を持つものが﹁水﹂として指示さ
119
れる︒この多化の第二歩は日常の経験において親しい例
我々はかかる思惟の仕方がインドの哲学の初期におい
い得るであろう︒
の直接体験を比喩的なる概念によって表現したものと言
、を
、恵
、む
、自
、然
、の
、力
、について
を説くウッダーラカの説は︑生
前の例証にもとづくのである︒かく見れば﹁有﹂の多化
が生ずる︒これもまた雨によってのみ食物の生じ得る目
の 形 の 有 ﹂ が 多 化 の 可 能 を 自 覚 し た 時 ﹁ 食 物 ﹂︵ 大 地 ︶
から生ずる︒雲や雨は太陽の熱から生ずる︒第三に﹁水
証によっている︒汗は︑すなわち水は︑暑さすなわち火
120
て の み な ら ず 盛 期 に お い て も 明 ら か に 存 す る こ と を 認め
る︒仏教の哲学はアートマン︵我︶を原理とする形而上
、よ
、う
、とする︒いわゆる法
学を捨てて現実の生の真相を見
の 如 是 観 ︑ 如 実 観 で あ る ︒ そ の 根本 直 観 は ﹁ 我 ﹂ の 形 而
上 学 を 捨 て る 点 に お い て 無 我 観 であり ︑ 一 切 の 現 実を 流
転と見る点において無常観であるが︑さらにこの一切を
苦と見るところの苦観において情的思惟の特徴を明らか
に示している︒苦はここでは単に経験せらるる苦痛では
、
なく︑かかる苦痛を例証として直観せらるるところの苦
、般
、である︒一切の現実の﹁法﹂としての苦である︒か
一
121
かる直観はそれ自身すでにインドの感情の横溢を示すの
﹁見ること一般﹂である︒かかるインド的思惟の特性は︑
ける視覚機関ではなく︑それを例証として直観せられた
せ ら れ た る 無 常 性 で あ り ︑﹁ 眼 ﹂ は こ れ か れ の 生 物 に お
生物における老と死とではなく︑それを例証として直観
ことを忘れてはならぬ︒たとえば﹁老死﹂はこれかれの
されたる種々の法が︑かかる直観にもとづくものである
かにインド的である︒我々は﹁法の体系﹂において組織
証をもって普遍概念に代えるという仕方において︑明ら
みならず︑その直観の把捉の仕方において︑すなわち例
122
他方に論証的悟性的なる思惟の薄弱を伴なっている︒人
は一つの普遍 概念の下に多くの特殊を下属せしめ︑それ
によって複雑を単純化せしめる︑というごときことを努
、の
、羅
、列
、はしばしば無統制に陥り︑つ
めない︒種々なる法
いにはただ法の﹁数﹂のみが統一の役目をつとめるにさ
え至っている︒阿毘達磨哲学はそのよき例である︒人は
さまざまなる法を五位七十五法に秩序づけることすらも
容易にはなし得なかった︒論理的に最も鋭い竜樹におい
て さ え ︑ 諸 法 無 自 性 の 論 証 は ︑ 五 羅 六 入六 界 を は じ め 阿
、り
、返
、
毘達磨の哲学の羅列する諸法の一つ一つについて繰
123
、れ
、て
、いる︒いわんや論書ならざる経典に至っては︑哲
さ
理由︵因︶と比喩︵喩︶とによって論証するにほかなら
る︒因明の作法は已明の前提より未明の帰結を導き出す
、理
、の形式ではなく︑最初に断案︵宗︶を掲げ︑これを
推
られたるものが比量において明らかにせられるのであ
量︵直観︶にもとづくとせられる︒現量において把捉せ
る点において右の例に洩れない︒比量︵分別推理︶は現
インドに発達した論理学もまた直観の明証を核心とす
描出されるのみである︒
学的思想は全然論理を離れてただ直観的に︑形象的に︑
124
ぬ︒だから新因明の三支作法は形式論理学の推理の形式
、に
、したものであり︑しかも大前提に当たる
をちょうど逆
命題は比喩を含むのである︒比喩はインドの論理学発達
の 最 初 よ り 重 大 視 せ ら れ ︑ 発 達 の 最 高 段 階に 至 っ て もな
お欠くべからざる一項とせられた︒かかる点においてイ
ンドの論理が直観の論理であるということは必ずしも過
言でないであろう︒
インドの哲学がさまざまの輝かしい発展を経た後に結
局密教やインド教の象徴主義に堕して行ったのも︑情的
思惟の当然たどるべき道であったと見られ得る︒インド
125
の人間はその思弁への強い性向にもかかわらず︑再び咒
術の信仰に帰ったのである︒やがて哲学的なる仏教は国
従的態度がそれである︒かかるインド的人間はヒマラヤ
た︒非歴史的非統制的なる感情の横溢としての受容的忍
思惟とがいかにインド的人間の特殊構造を示すかを見
以上によって我々は歴史的社会的に現われた想像力と
いうこともできよう︒
感 情 の横 溢 と 意 力 の 弛 緩 と が 学問 を そ こ に 押 し 殺 し た と
外に放逐された︒ヴェダンタの哲学は祭儀に所を譲った︒
126
、入
、の
、仕
、
を越えてシナや日本に侵入したが︑しかしその侵
、がまた戦闘的征服的ではなくしてあくまでも受容的忍
方
従的であった︒仏教を通じてインド的人間はシナや日本
、き
、つ
、け
、た
、のである︒シナや日本におけるイ
をおのれに引
、き
、出
、し
、た
、のである︒
ンド的なるものをそれらの中から引
それに反してインド自身が沙漠の侵入を受けた時には︑
そ の 侵 入 は 戦 闘 的 征 服 的 で あ っ た ︒ イ ン ド 的 人間 は 内 に
ひそむ沙漠的なるものを引き出さるることなく︑ただ外
から沙漠に 圧倒されて︑一層受容的忍従的になった︒モ
ハメダンの征服は文字通りインドの感情の横溢が沙漠的
127
統一に従ったのである︒インドモハメダンの建築がこの
て好い︒
Havel, Indian Architecture. p. 4 f., 16
せられていることは︑この建築様式の第一の特徴と認め
︶
ff.が︑いずれにしても細部の形象の横溢が古来インド
に現われたことのない厳密な統一によって鮮やかに統制
のある点である︒︵
の円屋根﹂を取ってできあがったものであるか︑は議論
は逆にインドの建築から﹁尖ったアーチ﹂や﹁かぶら形
ザンツの流れをひいたモスクの輸入に過ぎぬか︑あるい
関 係 を 具 象 的 に 示 し て い る ︒ こ の 建 築 様式 が果 た し て ビ
128
モハメダンの征服のあとにはさらにヨーロッパ的人間
の征服が続いた︒しかもインドの人間は最近に至るまで
その戦闘的征服的性格を学び取ることができなかったの
である︒永い間の被征服の状態はむしろ感情の横溢を
弱 々 し い 感 傷 性 に 馴 致 し た か に 見 え る ︒ 南 洋 に ま で進 出
している勇敢なインド人さえも︑多くは従順忠実の化身
のようであり︑その声や表情には常に気弱さを印象する
ところの感傷 性がある︒南洋とセイロン島との間の甲板
乗客としてのインド人が印象するところもまさにそれで
ある︒多くの家族がそこで煮炊きし食事し遊び寝る︒我々
129
はそこで母親がいかに子供を愛撫するか︑小さい兄や姉
下の床几に涼んでいる家族の群れ︑
︱
それらは本来旅
学校帰りの子供︑あるいは夜︑椰子の並木の大きい葉の
を 抱 い て た た ず む 母 親 ︑ 髯 の白 い 老 人︑カ バ ン を 下 げ た
単純な所見︑たとえば椰子の林の中の小舎の前に赤ん坊
な 印 象 は ま た セ イ ロ ン 島 の 瞥 見 か ら も 得 ら れ る ︒ 途上 の
涙を催さしめるほどに感傷的な感情の横溢である︒同様
が団欒するかを見ることもできる︒それは見る人をして
る︒あるいは朝夕の食事においていかににぎやかに家族
がいかに赤ん坊をあやすかを親しく目撃することができ
130
行者の心を特に動かすべき姿ではないにかかわらず︑強
烈 に 感 傷 を そ そ る の で あ る ︒村 の 夜 の 祭 り さ え も ︑ 万 灯
をかざした行列や人ごみににぎわう華やかな気分の内
いにしえ
に︑覆い難き哀調を漂わせている︒感情の横溢が︑ 古
のインドのごとく我々を驚嘆せしめる代わりに︑意力の
不足として︑圧迫への屈従として︑我々の心を痛ませる
のである︒我々は圧抑の事実を全然目撃することなくし
ホ ン コン
ても︑インドの人間そのものが被圧抑を表現しているの
シャンハイ
を感ずることができる︒上 海・香港において︑実にあ
らわに西洋人の勢力が露出しているにかかわらず︑シナ
131
の人間が圧抑されたものとしてよりもむしろ底力の強い
市 場に 現 わ る る 現 代 に お い て も︑ 依 然と し て 受 容 的 忍従
かかる意味においてインドの人間は︑その綿が世界の
る事実にもとづくのである︒
の独立のための戦いを衝動的に欲するに至るのは︑かか
、き
、出
、す
、︒インドを訪れる旅行者が︑そ
な性格を刺激し引
、如
、のゆえに︑我々における戦闘的征服的
服的な性格の欠
の受容的忍従的な特性のゆえに︑言いかえれば戦闘的征
ここに人間の相違を見ざるを得ない︒インドの人間はそ
もの︑事実上の勝利者として感ぜられるのに比すれば︑
132
的である︒無抵抗主義的な争闘がそれを示している︒イ
ンドの労働者の体力はシナ人よりもはるかに弱く西欧の
労働者の三四分の一に過ぎぬと言われているが︑それが
あらた
短時日に 革 まり得ないように人間の特性もまた短時日
には変わり得ないであろう︒それは風土的特性である︒
変革は風土の克服に待たねばならぬ︒しかし風土の克服
がまた風土的なる特殊の道によるほかはないのである︒
すなわち風土の自覚を歴史的に実現することによっての
︵昭和三年稿︑四年加筆︶
み︑人間は風土の上に出ることができる︒
133
二
沙
漠
ころであろう︒同一の風土をあるいは沙漠と呼びあるい
とが本来著しく意味を異にする言葉であること
"desert"
は︑これらの言葉の意味を反省した人の直ちに気づくと
土を言い現わそうとするのである︒しかし﹁沙漠﹂と
ア ラ ビ ア ︑ ア フ リ カ ︑ 蒙 古 等 に 存 す る き わめ て 特 殊 な 風
﹁沙漠﹂という言葉は通例
の同義語として用
"desert"
いられる︒自分もその用語例に従って︑この言葉により
134
は
desertと 呼 ぶ の は ︑ あ た か も 同 一 の 図 形 を あ る い は
等辺三角形と呼びあるいは等角三角形と呼ぶごとく︑そ
の把捉の方向を異にするのである︒そうしてかかる方向
の相違の存し得ることが︑すでに沙漠という現象の人間
的意味を指示していると言わねばならぬ︒
﹁沙漠﹂という言葉は我々がシナから得たものである︒
こ れ に 相 応 す る 日 本 語 は 存 し な い ︒﹁ す な は ら ﹂ は 沙 漠
ではない︒厳密な意味において日本人は沙漠を知らなか
っ た ︒ し か ら ば シナ 語 と し て の ﹁ 沙 漠 ﹂ は 何 を意 味 す る
であろうか︒現代のシナ人は日本からの逆影響によって
135
沙漠を
の同義語とする︒しかし古き用法におい
desert
ては﹁沙漠﹂はゴビの沙漠をその直観的内容とする言葉
ギリシア人が erēmia
として︑ローマ人が deserta
とし
て︑さらに近代人が Wüste, vaste, wilderness
等として把
砂海として把捉した︒
ばただ外からながめた特性において︑すなわち莫々たる
シナ人はかかる風土の外に住む人間として︑この風土を
、れ
、る
、のである︒
あり︑その砂が狂飇によって巻き揚がり流
、海
、で
﹁漠﹂もまた北方の流砂をさす︒それは巨大なる砂
であった︒
﹁沙﹂はしばしば﹁流沙﹂の意義に用いられ︑
136
、む
、
捉したものは︑単なる砂の海ではなかった︒それは住
、の
、の
、な
、い
、︑従って何らの生気のない︑荒々しい︑極度
も
、や
、な
、ところである︒人々はこの風土をその形におい
にい
てではなく︑その生気のなさにおいて捕えた︒それは単
に砂の海であるばかりでない︑突兀たる岩石の露出した
峩々たる山脈であり︑磯の原となれる水なき大河床であ
る︒人はこれらの山河の中にあって︑植物的にも動物的
、む
、も
、の
、の
、な
、い
、世界を見いだした︒あたかも﹁住む
にも住
desertで あ る ︒ し か し 風 土 が
ものなき家﹂が生気なく︑空虚であり︑荒れているよう
に︑これらの風土もまた
137
かく
desertと 呼 ば れ る と き ︑ そ れ は も は や 単 な る 外 的
た︒それは雨量の欠乏によって生じた荒漠不毛の土地で
が地理学的な用語とされたときには︑しかし︑
desert
人は﹁人間と独立なる自然﹂を取り扱うのであると信じ
なる﹁自然﹂の性質ではない︒
な 二 重 性 格 を 持 つ 人 間 の ︶有 り方 で あ っ て︑ 人間 と独 立
あり得るごとく︑ある風土もまた
desertで あ り 得 る ︒
、の
、ではない︑個人的・社会的
それは﹁人間﹂の︵単に人
自然ではない︒ desert
なのはひとと世界との統一的なか
かわりである︒ある家が︑あるいはある町が︑ desert
で
138
の概念を
desert
ある︒が︑この場合にも人はアラビアやアフリカにおけ
る荒漠不毛の土地を直観的内容として
作った︒突兀たる岩石の露出せる荒地は rock desert
で
であり︑砂の海は
gravel desert
sand
あり︑礫の海は
である︒従って沙漠の語はただ sand desert
にの
desert
み当たるのであって一般に desert
に当たるのではない︒
しかも沙漠を
desertの 同 義 語 と す る 我 々 に と っ て は ︑
、石
、の
、の
、の
、沙 漠 ﹂﹁ 礫
、沙 漠 ﹂﹁ 砂
、沙 漠 ﹂ と い う ご と き
﹁岩
滑 稽 な 訳 語 が ︑ そ の 滑 稽 さ を 強 く 意 識 さ せ る こ と もな く
行な われているのである︒
139
吾人がここに﹁沙漠﹂として考察の対象とするのは︑
の社会的歴史的なる性格と離すべからざるものである︒
るのである︒従って人間の有り方としての沙漠は︑人間
かる人間が歴史的にのみ存在し得ることを前提としてい
場合︑人間が個人にして同時に社会であること︑及びか
吾人は沙漠を﹁人間の有り方﹂として取り扱う︒この
である︒
本来の意味における
"desert"であって沙漠ではない︒
沙漠という言葉を用いるのは他に適当の言葉がないから
140
沙漠はその具体性においてはただ人間の歴史的社会にの
み 現 出 す る ︒ 自 然 科 学 的 な る 沙 漠 に 達 す る ため に は ︑ 人
はこの具体的なる沙漠から︑あるいは沙漠的なる人間社
会から︑あらゆる人間的性格を捨象するところの︑抽象
の立場に立たなくてはならない︒自然としての沙漠はか
か る 抽 象 に ほ か な ら ぬ ︒ そ う し て ﹁ 抽 象 ﹂ は 人間 の 力 の
一 つ の 偉 大 な 特 性 で あ る ︒ 抽 象に よ っ て 具 体 的 な る も の
はその内容を明らかにする︒しかし︑だからと言って抽
象的なるものと具体的なるものとを混同してはならな
い︒吾人はかかる抽象的沙漠が人間の歴史的社会的現実
141
、か
、に
、影
、響
、す
、る
、か
、を見ようとするのではない︒むしろ
にい
とによって最も鋭くされるであろう︒このことは沙漠的
し か ら ば 沙 漠 的 人間 の 自 己 理解 は 霖 雨 の 中に 身 を 置 く こ
い︒人間の自覚は通例他を通ることによって実現される︒
も自己を自己において最もよく理解し得るものではな
己解釈の問題であるとも言えよう︒しかし人間は必ずし
し得るであろうか︒沙漠的人間にとってはそれはただ自
しからば吾人はいかにしてその具体的なる沙漠に接近
沙漠を明 らかにしようとするのである︒
逆にかかる抽象の行なわるる地盤としての歴史的社会的
142
、行
、者
、として具体的沙漠に接近し得るこ
ならざる人間が旅
とを立証するものである︒彼は沙漠において己が歴史的
社会的現実のいかに沙漠的ならざるかを自覚するであろ
う︒がこの自覚は沙漠の理解によって可能となるのであ
、時
、的
、な
、沙漠生活
る︒たといこの理解が旅行者としての一
にもとづくとしても︑それが沙漠の本質的理解である限
り 彼 は そ こ か ら 歴 史 的 社 会的 な る沙 漠に ﹁ 入 り 込 ん で生
旅行者はその生活のある短い時期を沙漠的に生きる︒
きる﹂ことをなし得るのである︒
143
彼は決して沙漠的人間となるのではない︒沙漠における
でいるからである︒すなわち青山は﹁故郷﹂に代わり得
かかる風土的なる青山がすでに内生活的なる意味を含ん
可能なのは︑風土的に至るところ青山があり︑そうして
て︑風土に関する立言ではない︒しかし︑かかる表現が
生き方を示すところの一つの智慧の比喩的表現であっ
﹁人間至るところ青山あり﹂とは広い人生への自由な
本質を理解するのである︒
、で
、あ
、る
、か
、を︑すなわち沙漠の
にそのゆえに彼は沙漠の何
彼 の 歴 史 は 沙 漠 的 な ら ざ る 人間 の 歴 史 で あ る ︒ が ︑ ま さ
144
るもの︑何らかの意味で人がそこに落ち着き得るもので
ある︒しからば﹁至るところに青山があること﹂は風土
的 の 意 味 に おい て も 人 間 の 存 在の 仕方 で あ る ︒ か か る 青
山 的 人間 が あ る 時イ ン ド 洋 を 渡 っ て アラ ビ アの 南端 ア デ
ンの町に到着したとする︒彼の前に立つのは︑漢語の﹁突
兀﹂をそのまま具象化したような︑尖った︑荒荒しい︑
赤 黒 い 岩山 で あ る ︒ そ こ に は 青山 的 人間 が ﹁ 山 ﹂ か ら 期
待し得る一切の生気︑活力感︑優しさ︑清らかさ︑爽や
かさ︑壮大さ︑親しみ等々は露ほども存せず︑ただ異様
な︑物すごい︑暗い感じのみがある︒至るところ青山あ
145
る風土においては︑いかなる岩山もかほどに陰惨な 感じ
渉するのであって︑無生物たる岩や土に直接に触れるの
物的なる生を表現する︒そこでは雨風はまずこの生と交
命に包まれているのであり︑従ってその色彩も形貌も植
、象
、本
、的
、に言えば︑山に一
、の
、草
、
非青山的であるとは︑抽
、も
、な
、い
、ことである︒草木に包まれた山は植物的なる生
木
を︒
山的人間を︒従って非青山的なる人と世界とのかかわり
を 見 い だ す ︒ 単 に 物 理 的 な る 岩山 を で は な く し て ︑ 非 青
、者
、
を与えはしない︒ここにおいて青山的人間は明白に他
146
で は な い ︒ し か る に 草 木 な き山 は い か な る 生 を も 示 さ な
い︒雨風は単に物理的に岩の肌に影響する︒だからそれ
は 山 の ﹁ 骨 ﹂ で あ る ︑ 死 せ る 山 で あ る ︒山 の 輪 郭 も ︑ 岩
の尖り方も︑そのどす黒い色も︑すべて死の表現であっ
て生の力を感じさせぬ︒
、す
、惨
、ご
、い
、︑陰
、な
、
かかる草木なき岩山は︑具体的には物
山である︒そうしてこの物すごさ陰惨さは本来的に言え
ば 物 理 的 自 然 の 性 質 で はな く し て 人 間 の 存 在 の 仕方 に ほ
かならぬ︒人間は自然とのかかわりにおいて存在し︑自
然においておのれを見る︒うまそうな果実においておの
147
れの食欲を見︑青山においておのれの心安さを見るよう
、全
、に
、晴れる︒雲の浮かびや
他 の 時 期に お い て は ︑ 空 は完
であって︑日光をさえぎるほどにも至らない︒いわんや
ころでさえ︑ここでははるかに高い空が薄白く曇るのみ
降らぬという︒インド洋にモンスーンの吹き荒れている
においては強い日照にもかかわらず雨は年に四五度しか
﹁乾燥﹂によって捕えることができるであろう︒アデン
かかる人間の存在の仕方の特性を我々は風土的なる
い か え れ ば 非 青山 的 人間 を 見 い だ す の で あ る ︒
に︑物すごい山においてはおのれの物すごさを見る︒言
148
すい日没ごろに︑いかにはるかな地平線にさえも一点の
雲 も 現 わ れ ぬ と い う ふ う な 晴 れ 方 を ︑ こ こ で は 最 も日 常
的な天気とするのである︒しかもその晴れた空は︑爽や
かさを感じさせるあの空色ではなくして︑あくまでも乾
き徹った紺碧であり︑しかも地平線に近づくに従ってそ
の紺碧の色が薄らいで行くということすらも︑ほとんど
ない︑と言い得るほどに少ない︒かかる空に覆われた大
地もまた徹底的に乾き徹って︑湿いを思わせるものは毛
ほどもない︒人工的に町なかに植えた少しばかりの樹木
、燥
、そ
、の
、も
、の
、である︒こ
を除いては︑世界はことごとく乾
149
の乾燥が陰惨な山 となり︑物すごい砂原となり︑巨大な
アデンの陰惨な山は旅行者に対して沙漠の本質を﹁乾
ある︒
と︑荒々しいこと︑これらはすべて乾燥にもとづくので
かくて我々は﹁乾燥﹂を
の本質的規定として
desert
把捉することができる︒住むものなきこと︑生気なきこ
ビア的人間となるのである︒
に遊牧となりコランとなる︑⁝⁝一言にして言えばアラ
る ロ ー マ 人 の 貯 水 池 とな り ︑ 水 を 運 ぶ 駱 駝 とな り ︑ さ ら
150
燥﹂として開示する︒このことは沙漠について語る限り
多くの人々の言い古したことである︒にもかかわらず旅
行者をして事新しく驚異を感ぜしめるのはなぜである
、活
、し
、た
、からである︒
か︒それは彼が初めて﹁乾燥﹂を生
乾燥は湿度計寒暖計によって示さるる空気の一定の湿度
ではなくして︑人間の存在の仕方だからである︒
紅海の沿岸︑特に歴史的に有名なシナイ山やアラビア
沙漠のあたりに至れば︑旅行者は死そのものを印象する
ごときこの風土を生くることによって︑旧約聖書を新し
く読みなおそうとする衝動を感ずるであろう︒選ばれた
151
る民が渡って歩いたのは︑かくも物すごい砂の海︑岩片
す︒地上の物の形を覆いかくす沙漠の夜の闇さえも死の
あ ら ゆ る 生 の 欠 乏に よ っ て ︑ 我 々 の 生 を 根 源 的 に 脅 や か
はない︒しかるに沙漠はその死せる静寂︑死せる色と形︑
れがあるとしても︑我々から海への親しみを奪うほどで
めに︑常に我々に生ける印象を与える︒まれに暴風の怖
きや︑生々たる水の色や︑波間に住む生きものなどのた
海も到底及ぶところではない︒海はその絶えざる波の動
﹁死せる山﹂であった︒かかる沙漠の物すごさは怒れる
の海であった︒彼らがながめたのはあの岩骨のみの山脈︑
152
ご と き 気 味 悪 さ を 含 ん で い る ︒︵ そ の 闇 に 比 べ て 空 の 星
のみが実ににぎやかな︑生々とした印象を与えることは︑
沙漠の夜の第一の特徴であろう︒極度に乾燥せる空気が
星の光を鮮やかに輝かせるばかりでなく︑大小無数の星
の小止みなき瞬きは︑互いに響き合いつつ刻々として移
っ て 行 き ︑ あ た か も 壮 大 な 交 響 楽 を聞 い て い る よ う な 印
象を与える︒このような溌刺とした︑動いている蒼い空
は ︑ 実 際 沙 漠 の 死 か ら 我 々 の 生 を 救 い 取 る の で あ る ︒︶
かくのごとく地上にはただ死の脅威のみの充ちている土
地︑八か月を通じて一点の雲なき空から太陽があらゆる
153
ものを焼きつくし︑日陰においてさえも温度は四十五度
ころどころに︑春の雨に恵まれて緑の草の育つところが
去 っ て ︑ 数 時 間 後に は 跡 を 留 め な い ︒ も し こ の 沙 漠 の と
い︒時たま驟雨があっても︑その水は乾いた河床を流れ
の山から出る川を除いては︑広いアラビアの地に河がな
岸が湿っているに過ぎぬ︒しかもこの両河とアルメニア
えども︑バビロンの平野に出るまでは︑きわめて狭い両
漠がそうである︒エウフラテスやティグリスの河谷とい
る︒シナイ半島がそうである︒シリア・メソポタミア沙
に上るという土地︑そこを選ばれたる民は漂ったのであ
154
な か っ た な ら ば ︑ あ る い は 岩 か ら 出 る泉 や 人 の 掘っ た井
戸などがなかったならば︑総じてアラビア的人間は存し
得ないであろう︒
乾燥の生活は﹁渇き﹂である︒すなわち水を求むる生
活 で あ る ︒ 外 な る 自 然は 死 の 脅 威 を も っ て 人に 迫 る の み
であり︑ただ待つものに水の恵みを与えるということは
ない︒人は自然の脅威と戦いつつ︑沙漠の宝玉なる草地
二〇以下︶
︒
や泉を求めて歩かねばならぬ︒そこで草地や泉は人間の
団体の間の争いの種となる︵創世記一三 六︑二六
すなわち人は生くるためには他の人間の脅威とも戦わね
155
ばな らぬ︒ここに おいて沙漠的人間は沙 漠的な る特殊の
︵二︶自然との戦いにおいて人は団結する︒人間は個人
﹁産め︑殖やせ﹂が死に対する生の戦いの叫びである︒
自然より戦い取ることによって人は家畜を繁殖させる︒
み﹂として待ち望むことはできぬ︒草地と泉と井戸とを
﹁生産﹂は人の側にあり︑従って外なる自然の生産を﹁恵
がわ
る︒死を見ることによって人は生を自覚する︒すべての
存する︒人が自然において見るところのおのれは死であ
、抗
、的
、戦
、闘
、的
、関
、係
、として
かかわりがここではあくまでも対
構 造 を 持 つ こ と に な る ︒︵ 一 ︶ 人 と 世 界 と の 統 一 的 な る
156
としては沙漠に生きることができぬ︒従って沙漠的人間
、然
、か
、
は特にその共同態において現われる︒草地や泉を自
、戦い取るのは共同態における人間である︒しかしこの
ら
、の
、人
、間
、と対立しなくてはな
戦いにおいて人間はさらに他
らぬ︒一つの井戸が他の部族の手に落つることは︑自ら
の部族の生を危うくする︒ここでは人と世界との統一的
な か か わ り が ︑ 人 間 と ﹁ 他 の 人間 世 界 ﹂ と の か か わ り と
、抗
、的
、戦
、闘
、的
、関
、係
、で
なる︒そうしてここでもまたそれが対
あり︑そこからまた人の子を﹁産め︑殖やせ﹂という標
語が生ずる︒人口増殖の神の契約が﹁割礼﹂を人間に課
157
し た こ と は ︑ 沙 漠 的 人 間 の こ の 特 性 を表 現 し た も の で あ
文化的努力に現われる︒それは恵み深き自然に抱かれる
自 然 へ の 対 抗 は 自 然 に 対 し て 人 間 を 際立 た せ る 一 切 の
諸形像である︒
揚所は︑沙漠的人間の歴史である︑歴史的に作られたる
のみ存在する︒従って対抗的戦闘的なる特性の現わるる
抗的戦闘的である︒しかるに沙漠的人間はただ歴史的に
沙 漠 的 人 間 の 構 造 は 右 の ご と き 二 重 の意 味 に お い て 対
る︒
158
態 度 で も な く ︑ ま た 自 然 を 人間 の 奴 僕 と し て 支 配 す る態
度 で も な い ︒ あ く ま で も 自 然に 対 し て 人間 を︑ あ るい は
人工を︑﹁対峙﹂せしめる態度である︒
沙漠においては﹁人間のもの﹂は本来すでに自然に対
して他者である︒夜の沙漠において見渡す限りの大地が
黒く物すごき死の姿である時︑はるかなる地平線に現わ
れた一二の﹁灯火﹂は︑異常な強さをもって人間の世界
を︑生を︑暖かいなつかしさを印象する︒それは海を渡
るとき地平線に島の灯火を見いだした場合よりもはるか
に強い感動を人に与えるであろう︒昔沙漠を渡り歩いた
159
人間が︑たとえばユダヤからヘリオポリスへの長い苦し
行者にとってはアラビアの町の印象がすでにそれを開示
が沙漠において特に愛好せられるのは当然であろう︒旅
理由のみによってすら人間に感動を与え得るとすれば︑
、然
、間
、的
、に
、は
、見
、い
、だ
、さ
、れ
、ぬ
、も
、の
、︑人
、の
、み
、の
、作
、り
、得
、る
、も
、の
、
自
かく人間に属するものが単に﹁人間に属する﹂という
るところである︒
の嬉しさというごときものは︑ただ沙漠的人間のみの知
の夜営地から︑はるかに地平線に都の灯火を望み見た時
い旅のあとで︑もはや都へは一日行程に過ぎないあたり
160
する︒アデンの港を訪れた旅行者は港の左方の平原に海
を 超 え て 見 ゆ る ア ラ ビ ア の 町 を ︑ あ の 突 兀 と し た 岩山 に
も劣らず驚異するに違いない︒低い平原はほとんど陸と
ほそ
は 思 わ れ ぬ ほ ど の ︑ 細 い 茶 褐 色 の 水 平 線 とな っ て 見 え て
いる︒海の水平線と異なるところはただその色彩のみで
ある︒その茶褐色の線の途中に︑ちょうど海に浮いてい
る白鷗のように︑小さい四角な建物の群れが日光に輝い
ている︒その白い壁や角のある形は︑三四マイルのかな
たに小さく見えているにかかわらず︑しかも人間の作っ
たもの︑人工的なるものという印象を強烈に与える︒生
161
命なき自然のただ中に﹁人間のもの﹂が浮かんでいる︑
、幻
、である︒それほど鮮やか
それはほとんど白昼の夢
た何のまとまりをも含まぬ︒しかるに人間の家のみは︑
長い直線を示しはするが︑それは極度に単調であり︑ま
の規則︑あるいは目的を感ぜしめない︒海や平沙は横に
兀 と し た山 は 徹 頭 徹 尾 偶 然 的 な 形 で あ っ て ︑ そ こ に 何 ら
囲の自然において全然見いだし得られぬものである︒突
らでも解くことができる︒この町を形作る形と色とは周
何によってそうなるか︒我々はそれを形と色とのみか
に 人間 の 町 が 周 囲 の 自 然 に 対 立 す る ︒
︱
162
方 形 ︑ 長 方 形 な ど の ︑ 幾 何 学的 に 規 則 立 っ た︑ 完 結 せ る
、間
、の
、作
、り
、出
、し
、
形をもってその中に浮ぶ︒それはまさに人
、形
、である︒しかも自然の持つ形を人間的に活かせたの
た
でもなければ︑また自然の形を克服して人間的に統一し
たのでもない︒明らかに自然に対抗する他者を創作した
のである︒色についても同様のことが言える︒土地は茶
褐 色 で あ り ︑ そ こ に 住 む 駱 駝 の ご と き 動 物 も 全 然土 と 同
色であるにかかわらず︑人間の作ったもののみが純粋な
白色を示している︒かくして人間はその自然への対抗を
町の形に具現したのである︒
163
この特性はそのままアラビア美術として結晶した︒あ
しているように︑ピラミッドは沙漠との関係において生
間ではないが︑しかしピラミッド自身の位置がそれを示
ができる︒古代エジプトの人間は決して純粋な沙漠的人
我々はピラミッドの形をもこの立場から理解すること
然への対抗である︒
か︑それを正しく理解せしめるものは︑沙漠的人間の自
したモスクがいかに著しく夢幻的であり離自然的である
あるか︑あるいはまたあの簡素と力強さとを輪郭に現わ
、工
、的
、で
の華麗なアラビア風の装飾模様がいかに著しく人
164
じたものである︒ニルの河谷に外から襲いかかるかのご
とき沙漠は︑砂の波の無限に続く起伏であり︑何らの規
則をも示さぬ偶然的なうねりに過ぎぬ︒ニルの河谷の内
部においても︑この平野を支配するものはニル河のゆる
く大きいうねりである︒水や田畑の水平面も皆不規則な
曲 線 を 輪 郭 と し︑ 何 の 秩 序を も示 し て お ら ぬ ︒ か か る 不
規則な︑どこにもまとまりのない自然の内に︑ただピラ
ミッドのみはきわめて規則的な︑完結せる三角形をもっ
て︑立体的に︑大きくそびえているのである︒従ってそ
れ は 周 囲 の 自 然 が 全 然 持 たな い 形 と し て ︑ 力 強 く 人 間 の
165
力を感じさせる︒古代エジプト人はそれをもって沙漠に
ラミッドの数倍の大きさであっても︑それによって沙漠
、大
、な
、塚
、が築かれたとするならば︑たといそれがピ
とき巨
て︑ 形のみではない ︒しかしもしここに高塚式古墳 のご
、大
、さ
、であっ
対立して人間の威力を現わし得るのはその巨
、の
、大
、い
、さ
、を必要とする︒空漠たる砂の海に
は︑一定の量
らぬ︒もとよりかかる形も︑沙漠に対抗し得るがために
人間の力の象徴として働き得たのであると見られねばな
、純
、象
、であり抽
、的
、であるがゆえに︑
象的な形は︑それが単
対抗したのである︒だからピラミッドのあの単純な︑抽
166
に対抗する人間を表現することはできなかったであろ
う︒
が︑さらに我々はピラミッドの与える不思議な印象を
も見落としてはならぬ︒ピラミッドは人間の芸術的作品
として︑あまりにも単純すぎる︑と人は考えるかも知れ
ない︒しかしそれはそのあるがままの位置においては︑
優れたる作品にも劣らぬ隠秘を印象するのである︒我々
に現われるのは常にその部分であって︑全体でない︒我々
は常に﹁陰に隠されたもの﹂に引かれる︒かかる印象を
我々はこれほど強く他の物からは受けない︒物は通例
167
我々にその一面のみを示すのであるが︑しかし我々は必
こうとするかも知れない︒しかし沙漠に対抗してかかる
の単純な形を巨大なモニュメントの構造上の必然から解
の表現として必然のものであることを理解する︒人はこ
かかる両様の印象から我々はピラミッドが沙漠的人間
もの﹂を印象し得るのである︒
ドはその芸術的な無内容のゆえにかえって﹁隠されたる
の面を隠されたるものとは感じない︒しかるにピラミッ
おいて︑たとえばミロのヴィナスの一面を見る時に︑他
ずしも見えざる他の面に引かれはしない︒特に芸術品に
168
巨大なモニュメントを作ろうとする意欲そのものがすで
に沙漠的人間を示すのである︒
がしかし︑自然への対抗が最も顕著に現われているの
はその生産の様式である︒すなわち沙漠における遊牧で
ある︒人間は自然の恵みを待つのではなく︑能動的に自
然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るの
である︒かかる自然への対抗は直ちに他の人間世界への
対抗と結びつく︒自然との戦いの半面は人間との戦いで
ある︒
169
かかる戦闘的生活様式は︑遠い古代から回教の時代に
その考え方︑その宗教︑その国家的制度などは︑すべて
、、、、、、、、、、、、
沙
漠
の
民
族
の
生
活
条
件
か
ら
説
明
せ
ら
れ
る
︒
﹂
︵
E. Meyer,
︶それが戦闘的生
Geschichte des Altertums, I. 2, S. 338.
い る ︒ そ う し て ︑﹁ こ の セ ム 族 の あ ら ゆ る 精 神 的 特 質 ︑
特 性 に お い て 共 通 で あ り ︑ 言 語 も はな は だ よ く 類 似 し て
フ ェ ニ キ ア 人 ︑ ア ル メ ニ ア 人な ど は ︑ そ の 性 格 や 精 神 的
ばれているが︑その包括するアラビア人︑ヘブライ人︑
島に住む種々の族は︑創世記の命名に従ってセム族と呼
至 る ま で 常 に 沙 漠 的 人間 の 特 性 で あ っ た ︒ ア ラ ビ ア の 半
170
活様式である︒
まず社会組織としての部族︵ Stamm
︶がそれである︒
部族は紀元前千年の古代から︑現代アラビアのベドゥイ
ネンに至るまで︑沙漠における共同社会の形式として存
在し続けた︒それは単に﹁原始的﹂であるのではなく︑
アラビアの土地と密接に関連せるものである︒形式から
、族
、である
言えば 部族の共同社 会 は同一の祖先から出た血
とのイデーによって結合している︒そこでは一人前の︵す
な わ ち 戦 い 得 る ︶ 男 た ち は ︑ 風 習 道徳 法律 な ど の 固 い 掟
、同
、の
、生
、活
、を営むのである︒が︑
の下に密接に結合し︑共
171
、護
、団
、体
、である︒血族のどの一員
内容から言えばそれは防
反映したものである︒人間は単にその個別態においての
かかる部族の生活はまさしく自然及び人間への対抗を
ある︒
やある泉は︑他の部族との戦闘を賭しても護られるので
所有に属し団体の生活の根本条件となっているある草原
団体の利害が︑従って個人の利害が防衛される︒団体の
義務によって結合するとともに︑またこの結合によって
いうのが︑団体の各員の義務である︒人間はこの相互の
が危険に瀕しても︑それを救け防ぎあるいは復讐すると
172
みは生きることができぬ︒部族の全体性が個別的なる生
を初めて可能にする︒従って全体への忠実︑全体意志へ
、従
、は︑沙漠的人間にとって不可欠である︒が︑それ
の服
とともに全体的行動は人間の個別態における運命を左右
する︒部族の敗北は個人の死である︒従って全体に属す
る各員はおのが力と勇気とを極度に発揮しなくてはなら
、志
、の
、緊
、
ない︒感情の温柔さを顧慮する暇のない不断の意
、が︑すなわち戦
、闘
、的
、態度が︑沙漠的人間にとって不可
張
、従
、闘
、的
、︑戦
、的
、
欠である︒ここにおいて沙漠的人間は︑服
の二重の性格を得る︒それは人間の構造における特殊性
173
であり︑また人間の全体 性の最も強く現わるる一つの様
も人間は過去を捨て去るのではなくして保存するのであ
、展
、す
、る
、を要する︒しかしかかる発展において
のものに発
できない︒ここを去るためには人間は社会的歴史的に他
歴史的現実としての沙漠を同じ意味において去ることは
漠を空間的の意味において去ることはできても︑社会的
な る土 地 で は な い ︒ だ か ら 人間 は単な る土 地 と し ての 沙
成する︒ここでは沙漠は社会的歴史的現実であって︑単
沙漠的人間はかくして社会的歴史的なる特殊性格を形
式である︒
174
る ︒ 沙 漠 的 人 間 が 水 に 豊 かな 土 地に 定 着 し て 農 業的 人間
に転化するとしても︑それはあくまでも沙漠的人間の発
展であって他のものではない︒
我々はこれをイスラエルの族の歴史において見ること
ができるであろう︒沙漠に遊牧せるこの族にとっては水
に豊かなカナーンの地は楽園のごとくに見えた︒だから
永い激しい戦いによってこの土地を獲得し︑そこに土着
して農業を覚える︒沙漠的生活の制限は破られ︑人口は
盛んに増加し始めた︒部族は殖え︑連盟は固まり︑つい
に 王 国 が成 立 す る ︒ そ れ は も は や沙 漠的 な る 部族社 会 の
175
ごとき緊密なる統一を持った社会ではない︒しかしなが
ナーンの風土は社会的文化的に種々の発展を引き起こし
、従
、と他民族︵従って他の神︶に対する
この神への絶対服
、闘
、とは︑依然としてイスラエルの族の特性である︒カ
戦
表現する神は民族の全体性を表現する神となった︒が︑
を一つの民族として実現しようとした︒部族の全体性を
沙 漠 的 人 間 の 性 格 に ほ か な ら ぬ ︒ 人 々 は本 来 の 部 族 社 会
してこれらの文化産物に現われているものは︑顕著なる
を作り始めたのは︑このカナーン土着以後である︒そう
らイスラエルの族がその宗教を確定し︑種々の宗教文芸
176
たが︑しかし発展したのはあくまでも沙漠的人間であっ
て農業的人間ではなかった︒
、散
、せ
、る
、ユ
、ダ
、ヤ
、人
、がいかにその沙漠的性格
人はさらに離
を 持 ち続 け た か を 忘 れ て はな らな い ︒ 離 散 は す でに 紀 元
、団
、組
、織
、をヨーロ
前数世紀から始まっている︒緊密なる教
ッ パ 人 に 教 え た も の は 離 散 せ る ユ ダ ヤ 人 で あ る ︒ 人間 の
全体性の最も強く現わるる沙漠的なる団体様式は︑今や
宗教の名において超民族的なる実現を要求する︒しかし
かかる教団組織を教えたユダヤ人自身はこの教団から閉
め 出 さ れ ︑ あ く ま で も そ の民 族 的 特 性を 維 持 し てい る ︒
177
これを維持せしめたものはヨーロッパ人の迫害である︒
が︑沙漠の外に沙漠が延びたのは右の場合のみではな
しく現代人を魅了しようとしているのである︒
かつてヨーロッパ人を魅了し去ったように︑今やまた新
、従
、的
、戦
、闘
、的
、なる人間生活の様式は︑
ぬ︒のみならずその服
それ自身を保持する必然性を持っていたと言わねばなら
ブルジョア的というごとき歴史的発展を通じても︑なお
ッパの美しい牧場のただ中においても︑またその封建的︑
る︒しからば社会的歴史的現実としての沙漠は︑ヨーロ
しかしこの迫害を呼び起こしたものはユダヤ人自身であ
178
い︒かつてイスラエルの族が農業的人間に転化したころ
に は ︑ こ れ を 沙 漠 的 人間 の 堕 落 と し て 嘲 笑 す る 他 の 群 れ
があった︒沙漠的人間の誇りは荒野の猛獣のように奔放
な そ の 自 由 で あ る ︒ 彼 ら は 生 活 の 安 易よ り も 生 活 の 豪 放
を 愛 す る ︒﹁ 壁 に か く れ 一 人 の 君 主 に 隷 属 す る ﹂ 土 着 的
人間の卑怯さは︑彼らの眼には最も浅ましいものに見え
た︒かかる気風はイスラムの初めになお充分に生きてい
、従
、的
、戦
、闘
、的
、なる︑従っ
たと言われている︒そこでこの服
、志
、的
、なる沙漠的人間が︑再びまた農業地に降り
て特に意
来たって︑開化せる諸国民を征服した︒イスラムの世界
179
沙 漠 的 人 間 の 世 界 支 配 は 現 代 に お い てな お 生 き て い る
征服がそれである︒
︱
その最盛期においても国土は長
の歴史を︑あたかも人類全体の歴史であるかのごと
さ五十里︑幅三十里乃至十五里に過ぎなかったあの民族
さいイスラエルの族
︱
も力強いと言ってよい︒しかし歴史的に見れば︑あの小
現在現実的に生きている点においては︑フイフイ教が最
教 等 は す べ て 沙 漠 的 人間 の 所産 で あ る ︒ 特 に 宗 教 と し て
生じたものを除いて︑キリスト教︑ユダヤ教︑フイフイ
世界の宗教を通観すれば明瞭になるであろう︒イ ンドに
180
くに︑ほとんど二千年の間ヨーロッパ人に思い込ませて
いたあの力ほどめざましいものはないであろう︒沙漠的
人 間 は 他 の 多 く の 人 間 を 教 育 し た ︒ そ れ は 沙 漠 的 人間 が
その特性のゆえに他の人間よりも深く人間を自覚したか
らである︒
、格
、神
、を与えたことにおい
沙 漠 的 人間 の 功 績 は 人 類 に 人
て絶頂に達する︒この種の功績において沙漠的人間に拮
、格
、的
、な
、ら
、ざ
、る
、絶対者を与えた
抗し得るものは︑人類に人
インド人のみであろう︒
181
、族
、の
、神
、にほかならなかっ
しかしこの人格神も初めは部
この
間の平和な共同態が常に新しく築かれて行く重大な契機
食するのである︒かかる犠牲食は部族の生活において人
は神に犠牲をささげ︑そうしてその肉を部族的にともに
猟の獲物や戦利品を受ける︒大きい祭儀においては人間
人間とともに生き︑食事をともにし︑戦いをともにし︑
も多い︒ヤーヴェはただその一つであった︒かかる神は
信仰が出発点であった︒だから部族が多いごとく神の名
の力によって部族の存在と生育が可能になる︑
︱
た︒部族の全体性の内には神的なる力が生きている︑こ
182
であった︒そこでは部族的なる人間の全体性と個別性と
、れ
、と
、し
、て
、は
、自覚されておらぬ︒しかし犠牲食
の関係はそ
を 体 験 し ︑ 神 と 人 と の 血 縁関 係 を 信 ず る と い う そ の こ と
、体
、性
、へ
、の
、帰
、属
、を実践するのであ
において︑まさにこの全
る︒そこで早くから道徳が神の命令として現われる︒神
は 人 間 に 対 し て ﹁ 豊 か な る土 地 と 子 孫 ﹂ と を ︑ あ る い は
﹁敵を亡ぼし疾病をのぞくこと﹂を︑すなわち物質的生
活の安全と繁栄を約束する︒しかしその代わりに人間に
対して衛生的及び道徳的なる命令を守るべき義務を負わ
せるのである︒このことは言い換えれば沙漠における生
183
、体
、性
、の
、自
、覚
、
が部族の全
︵それが神の命令として現われる ︶
︶にほかならぬ︒すなわち部族
Not-wenden
によって他のいずれの場合よりも強烈である︒その特異
、然
、性
、
意味を持つと同じく︑部族神の信仰も沙漠生活の必
単に原始的たるに留まらず特に沙漠的生活の様式として
の特徴であって沙漠にのみ限らない︒しかし部族生活が
神 は 沙 漠 的 人 間 に と っ て 必 然 的 ︵ notwendig
︶である︒
部族の全体性を神として感ずることは一般に原始宗教
す る こ と ﹂︵
ば沙漠的人間にとってはかかる自覚は﹁生の窮迫を転脱
においてのみ可能であることを示すと言えよう︒しから
184
、格
、然
、神
、たらしめた︒神は﹁自
、と
、対
、抗
、す
、る
、
性が部族神を人
、間
、﹂の全体性が自覚せられたものであり︑従って自然
人
、に
、立
の力の神化の痕跡を含んではいない︒自然は神の下
、な
、る
、自
たねばならぬ︒ギリシアの神々はこれに反して外
、
然 の 神 化 ︵ た と え ば ゼ ウ ス ︑ ポ セ イ ド ン ︶︑ あ る い は 内
、る
、自
、然
、の神化︵たとえばアフロディテ︑アポルローン︶
な
にほかならなかった︒部族の全体性を表現する神々は神
話の作られるころすでに﹁英雄﹂の地位に堕とされてい
た︒密儀宗教の神々︑たとえばミトラ︑オシリスの類も︑
自 然 の 力 の 神 化 で あ っ て 人 間 の 全体 性 の 表 現 で は な い ︒
185
、
これらの神々の生まれた土地においては︑多少ともに自
、の
、恵
、み
、が著しかった︒しかし沙漠においては自然は死
然
がわ
、族
、の
、連
、盟
、の名であるとすれば︑すなわちイスラエル
く部
もし学者のいうようにイスラエルが一つの部族の名でな
族が﹁部族﹂の中の大いなるものとなったのである︒が︑
いる︒モーゼを通じヤーヴェの神によってイスラエルの
一的な人格神となったか︒伝説はモーゼの事業を語って
しかしかかる部族神の一たるヤーヴェがいかにして統
たらねばならぬ︒
である︒生は人間の側にのみ存する︒従って神は人格神
186
がヤーヴェを戦神守護神とする戦闘連盟︑宗教連盟であ
るとすれば︵ M. Weber, Religionssoziologie, III. S. 90 ︶
ff.
ヤーヴェは伝説の初めよりすでに諸部族を統一している
のである︒そうしてこの事は何らまれなる例ではない︒
最も力強く自覚せられた人格神は︑同じ傾向の諸部族の
神をおのれの内に摂取する︒かくしてヤーヴェは一部族
、漠
、的
、人
、間
、の
、神
、となったのである︒それは
の 神 で はな く 沙
この民族の苦難と多くの予言者の熱信とを通じて︑ます
ます明らかな形に結晶して行った︒しかしその結晶せる
形は︑さらに新しくギリシア風世界における一人の仲保
187
者を通じて︑沙漠を越えて広く人間のうちに入り込んだ
見いだし得たものである︒
あ
ヨーロッパの
﹁人格神﹂は︑沙漠的人間が沙漠的であるがゆえにのみ
愛の神に転化している︒しかしそれにもかかわらずこの
たのである︒もとよりここでは神は︑キリストを通じて︑
人間はその求めつつあった神がここに与えられたと信じ
その地盤に存するかを問うことなく︑
︱
るいは人間のいかなる生産の仕方︑いかなる生産関係が
れが沙漠を通じて現われたと否とにかかわらず︑
︱
、間
、の
、神
、となる︒そ
のである︒そこでヤーヴェは一般に人
188
この人格神がいかに沙漠的であるかを顕著に示したの
はモハメッドである︒彼は当時のアラビアの偶像礼拝に
反抗して﹁アブラハムの神﹂への信仰に帰ることを標榜
Goldzieher, Die
したと言われる︒しかし彼の革命は当時の部族生活と相
反 す る 立 場 で な さ れ た の で は な い ︒︵
Religion des Islams, Kultur d. Gegenwart, I. III. ︶
1.人は
昔と同じく部族の団結を離れては自然の脅威に対抗し得
な か っ た ︒ 部 族 の 全 体 性 へ の ﹁ 服 従 ﹂ は 依 然 と し て沙 漠
の生の可能根拠である︒モハメッドはこの全体性の表現
189
、
たる﹁人格神﹂を新しく活気づけた︒部族への服従を神
、の
、イ
、ス
、ラ
、ム
、︵服従︶として力説した︒彼はその部族の
へ
イスラム
アラブ族の団結﹂を実現した︒
イスラム
た︒そこで服従的戦闘的なるアラブは︑きわめて迅速に
アラブ全体が一つの部族として﹁服従の統一﹂に到達し
による他部族の征服
として戦ったのではない︒彼は戦いに勝ち︑
﹁神 へ の 服 従
︱
この昔ながらの部族間の戦闘を戦ったのであって︑個人
戦闘を始めたのである︒彼が迫害と戦ったというのは︑
イスラム﹂を実現し︑その力によって他の部族に対する
内部において︑かつてのモーゼのように︑この﹁神への
190
沙 漠 の 外 に い で ︑ 当 時 の 文 化世 界の ほ と んど大 部分 を 征
服 し た ︒﹁ ア ブ ラ ハ ム の 神 ﹂ は フ イ フ イ 教 に お い て 服 従
的戦闘的なる沙漠的性格を露出したと言ってよい︒
以上によって我々は沙漠的人間の構造を明らかにし
た︒それは﹁乾燥﹂である︒乾燥とは人と世界との対抗
的 戦 闘 的 関 係 ︑ 従 っ て 人 間 の 全体 性へ の 個 人 の 絶 対 的 服
従の関係である︒このことを我々は古代エジプトの人間
との対照によって一層明白にすることができるであろ
、燥
、と
、湿
、潤
、との奇妙な二重性格を持
エジプトの風土は乾
う︒
191
つ︒そこでは雨はきわめて少ない︒カイロの雨量は日本
下流の広原に
として茫漠たる沙漠の乾燥に従
、色
、は湿潤なる極東や南洋のそれと性質を同
その沃野の緑
に生い育ち︑その間には南洋的な樹木が生い茂っている︒
て︑豊かに潤 される︒畑にはさまざまの穀物野菜が旺盛
アフリカ大陸のはるかなる奥地より流れ来る水によっ
うのは当然である︒にもかかわらずこのニルの河谷は︑
すことのない狭い谷
︱
おいても幅八里をいでず︑上流においては最広二里を越
し て い る ︒ 沙 漠 に 包 ま れ た 細 長 い 河谷
︱
の七十分の一と言われている︒従って空気も極度に乾燥
192
じくするものである︒古来この地を地上の最も豊饒な土
地 と し た こ と は ︑ 決 し て 誇 張 でな い ︒
かくしてエジプトの風土は雨なく湿気なき湿潤であ
る︒乾燥なる湿潤である︒だから古代エジプトの人間は︑
、漠
、ル
、へ
、の
、対
、抗
、とともにニ
、河
、へ
、の
、帰
、依
、をその構造の特性
沙
とする︒沙漠への対抗においてこの人間は沙漠的人間に
似 る か も 知 れ な い ︑ し か し 自 然へ の 帰 依 に お い て 沙 漠 的
人間 とは全 然異な っ た 人間 とな る︒エジプトの 人間にと
ってはニル河が沙漠における部族の全体性に代わるので
ある︒ニルの水量を上 流の貯水池によって人工的に調整
193
している現在でさえ︑増水が通例の高さより五尺低けれ
沙漠において見ることのできぬ知力の発達と美感の精練
、観
、的
、感
、情
、的
、である︒
得ても︑その日常の生活においては静
てエジプトの人間は︑外に対しては意志的戦闘的であり
、動
、的
、に
、観
、照
、す
、る
、こ
、と
、において︑発達した︒従っ
くただ受
て︑すなわち自然に対して征服的に働きかけるのではな
、動
、的
、な
、関
、心
、を中核とし
の文化は︑ニルの増水に対する受
はただニルの恵 み に の み 頼 っ た ︒だ から古 来のエ ジプト
て自然のままに放任した古代においては︑エジプトの生
ば︑デルタ地方には恐るべき荒廃が起こるという︒まし
194
とがここでは特性的となる︒豊かな優しい感情に彩られ
た不死の信仰によって︑人々は情愛の生の永続を願い︑
それを防腐薬についての鋭い知識によって︑すなわちミ
イラとして︑表現した︒王子ラホテップと妃ノフレット
とのあの美しい夫婦像においても︑我々はこの愛情の永
遠を欲する心のきわめて柔らかい表現と生ける人体及び
その表情についての鋭い写実との結合を見る︒かくのご
とき心情の柔らかさと直視の明徹との結合は︑エジプト
の最も特性的なるものとして︑ただ恵み深いニルヘの帰
依の心からのみ理解し得られるであろう︒そうしてそれ
195
らはまさに沙漠的人間の欠如せるちょうどそのものなの
、象
、象
、から引き離された抽
、としての世界空
た︒だから﹁物
間の存在の仕方としての生ける風土として捉え得なかっ
、間
、問
、題
、を置こうとする︒が︑彼はこの﹁空間﹂を人
に空
的特殊自然があるのみであると︒かくて彼は文化の根抵
然は存しない︒ただギリシア的︑アラビア的︑ゲルマン
もって底まで飽和された体験である︒だから一般的な自
シ ュ ペ ン グ ラ ー は い う ︑﹁ 自 然 ﹂ と は 人 格 的 な 中 味 を
である︒
196
間﹂によって西欧のファウスト的精神とアラビアの咒 術
、も
、に
、説明しようとする︒それはアラビア的
的精神とをと
自然とゲルマン的自然との根本的な相違を見のがしたも
のである︒
エドゥアルド・マイヤーははるかに具体的に沙漠の民
、惟
、の
、乾
、燥
、性
、︒沙漠の生活において
族を特性づけた︒ 思
は 実 際 的 な 事 物 に 関 し て の 観 察・ 判 断 が 鋭 い ︒ し か し 利
害打算的であって︑知的観照や感情的陶酔を許さぬ︒沙
、力
、の
、
漠においては静観と受動とは滅亡を意味する︒ 意
、固
、︒必要あるところには︑いかなる成り行きをも恐れ
強
197
ず︑野獣的残酷さをもって︑顧慮なく突進する︒商人と
は必要である︶は生まれなかった︒
い︒文学は乾燥している︒美術と哲学︵ここでも想像力
さを欠如している︒従って想像力の創造的な動きも少な
、情
、生
、活
、の
、空
、疎
、︒心情の優しさ暖か
欠けてはおらぬ︒ 感
ムの諸人傑︒しかしこれらの理想家にも と の特性は
家として現われた︒多くの予言者︑モハメッド︑イスラ
を 知 ら し め る ︒ だ か ら 沙 漠的 人間 は し ば し ば 力 強 い 理 想
、徳
、的
、傾
、向
、
しての成功もこの素質にもとづいている︒ 道
、強
、烈
、︒全体性に対する帰属が人を犠牲的ならしめ︑恥
の
198
、際
、的
、意
、志
、的
、で あ
これらの特性は一言にして言えば実
る︒それは﹁観照的感情的﹂の対蹠をなす︒これ我々が
沙 漠 的 人 間 の 存 在 の 仕 方 と し て沙 漠 か ら 理解 し た そ の も
、質
、﹂
のである︒ただ我々はこれを﹁沙漠に住む民族の性
として捉えるのではない︒具体的には︑沙漠を引き離し
てこの種の民族が存するのではなく︑また人間と独立な
沙漠が自然として存するのでもない︒これらの民族は根
源的に沙漠的人間であり︑沙漠は歴史的社会的現実であ
る︒民族の性質あるいは特性と言わるるものは︑その本
、史
、的
、風
、土
、的
、に
、特
、殊
、な
、る
、存在の仕
質においては︑人間の歴
199
牧
場
方にほかならぬ︒
三
一
︵昭和三年稿︑四年加筆︶
囲い置くところである︒しかるに
は家畜の飼料
Wiese
は ﹁ 馬 城 ﹂ で あ っ て ︑ 牛 込 ︑ 馬 龍 な ど と同 じ く ︑ 家 畜 を
まごめ
ここに牧場というのは Wiese
とか meadow
とかの訳語
である︒しかしこの訳語は全然当たっていない︒
﹁まき﹂
200
のように
Wiese
たる草を生育せしめ る土 地であり︑さらに一般的には草
原である︒がまた草原という日本語は
家 畜 の 飼 養 と の 密 接 な 関 連 を 意 味 し て は い な い ︒ Wiese
に当たる言葉は日本にはないのである︒そこで明治初期
の翻訳者は家畜を思わせる牧場の語を取って草原を意味
さ せ る よ う に 用 い た ︒ こ の訳 語 例 に 今 は 従 う の で あ る ︒
に当たる言葉が日本にないということは Wiese
Wiese
というものが日本にないこ とを意味する︒日本 の草原は
利用価値のない︑捨てられた土地である︒しかるに Wiese
は︑同じく草原でありながら︑畑と同じ意味を持ってい
201
る︒畑が人間の食料を栽培する土地であるに対して︑
は家畜の飼料を栽培する土地である︒畑が耕され
Wiese
畑となっているのに等しい︒だから
を直観的に
Wiese
、常
、に
、広
、い
、れんげ草の畑の花の咲
想像しようと思えば︑非
に直し得られる︒人工的な
は通例畑の輪耕の一
Wiese
段階である︒ちょうど日本の麦畑がある年にれんげ草の
いう点は同様である︒このような
には自然的な
Wiese
ものもあり人工的なものもあるが︑それらはいつでも畑
るに対して
は耕されはしない︒しかし人がその
Wiese
土地を看護し︑そこから栄養価値あるものを採取すると
202
く前の姿を思い浮かべればよい︒もっとも
Wieseの 草
はれんげ草畑のように一種類ではない︒れんげ草のよう
なうまごやし系統の草のほかに日本でいう冬草の類が多
数に混じている︒恐らく十種類から二十種類ぐらいまで
数え得られるであろう︒しかしそれらは皆冬草のように
柔らかい草で︑その上に裸体で横たわることもできるの
である︒緑の Wiese
を絨毯にたとえて Wiesen-teppich
と
呼ぶのも決して誇張ではない︒だからそれが日本の芝生
自分はこのような
をかりに牧場と呼ん
grüne Wiese
と異なることも明らかであろう︒
203
、ー
、ロ
、ッ
、パ
、の
、風
、土
、の
、特
、徴
、を言い現わそ
で︑それによってヨ
自分にこのような考察の緒を与えた人は京都帝国大学
う︒
﹁牧場的﹂であるか︑それをここで考察してみようと思
なのである︒一般にヨーロッパの人間と文化とがいかに
牧場の延長なのである︒すなわち工場もまた﹁牧場的﹂
や機械などの﹁冷徹な現実﹂としての工業も︑実は緑の
は多少感傷的に思われるかも知れない︒しかし鉄や石炭
の牧場﹂によって特性づけるのは一見不穏当に︑あるい
うとする︒近代大工業の発祥の地であるヨーロッパを﹁緑
204
農学部の大槻教授である︒自分たちがモンスーン地方か
いに しえ
ら沙漠地方を経て地中海に入り︑ 古 のクレータの南方
海上を過ぎて初めてイタリア南端の陸地を瞥見し得るに
至った朝︑まず我々を捕えたものはヨーロッパの﹁緑﹂
であった︒それはインドでもエジプトでも見ることので
きなかった特殊な色調の緑である︒ころはちょうど﹁シ
チリアの春﹂も終わりに近づいた三月の末で︑ふくふく
と伸びた麦や牧草が実に美しかった︒が︑最も自分を驚
いにしえ
かせたのは︑古 のマグナ・グレキアに続く山々の中腹︑
灰白の岩の点々と突き出ているあたりに︑平地と同じよ
205
、の
、草
、の生い育っていることであった︒羊は岩山の
うに緑
を回って行くと︑まず初めにモンスーン地域の烈しい﹁湿
我々の国土から出発して太陽と同じに東から西へ地球
二
風土の特性をつかみ始め たのである︒
啓示に近いものであった︒自分はそこからヨーロッパ的
事実を教えてくれたのである︒それは自分にはほとんど
教 授 は ︑﹁ ヨ ー ロ ッ パ に は 雑 草 が な い ﹂ と い う 驚 く べ き
感じは自分には全然新しいものであった︒この時に大槻
上でも岩間の牧草を食うことができる︒このような山の
206
潤 ﹂ を体 験 し ︑ 次 い で 沙 漠 地 域 の徹 底的 な 湿潤 の 否 定 す
なわち﹁乾燥﹂を体験する︒しかるにヨーロッパに至れ
ばもはや湿潤でもなければ乾燥でもない︒否︑湿潤であ
るとともに乾燥なのである︒数字的に言えば︑アラビア
の雨量が日本の数十分の一であるに対してヨーロッパの
雨 量 は 日 本 の 六 七 分 の 一 な い し 三 四 分 の 一 で あ る ︒体 験
、潤
、と
、乾
、燥
、と
、の
、総
、合
、である︒
的に言えばそれは湿
このような湿度の弁証法はもちろん歴史的発展の弁証
、行
、者
、の体験における弁
法ではない︒それはまず第一に旅
、間
、
証法である︒しかし湿潤はモンスーン地域における人
207
の体験として︑一つの文化類型に己れを形成する︒同様
たとえばユダヤ教を内に含むパウロのキリスト教がヨー
から文化史上の事象を解釈することをも許すであろう︒
あるとも言い得られるであろう︒そうしてまたこの視点
ご と き 弁 証 法 は ︑ 世 界 文 化 の 構 造 連 関 に おけ る弁 証 法 で
機となっている︒しからば湿潤︑乾燥︑その総合という
る文化の対立として︑世界文化の構造内に相連関せる契
に歴史的影響のあるなしにかかわらず︑風土的類型によ
文 化 類 型 と な っ て 現 わ れ る ︒ こ れ ら の 文 化類 型 は ︑ 相 互
、間
、の体験であり︑沙漠的なる
にまた乾燥も沙漠地方の人
208
ロッパの世界に成長して行ったとき︑沙漠的宗教として
のユダヤ教の乾燥性は否定せられながらも︑予言者たち
の道義的情熱はますます内的に生かされて行った︒とと
もに︑沙漠に見るを得ない﹁潤い﹂がヨーロッパ的キリ
ス ト 教 の 特 徴 と な り ︑ 愛 の 宗 教 と し て の 優 し み とい う ご
ときものが力強く育てられて行く︒マリア崇拝のごとき
は沙漠的であるよりもより多くモンスーン的であると言
ってよい︒このような乾きと潤いとの総合というごとき
特性は︑ただ歴史的な発展としてのみは説き尽くされぬ
、格
、にもとづく︑
であろう︒それはヨーロッパ的人間の性
209
ということは主張し得られる︑しかしその性格がヨーロ
根本的特性の地盤において太陽の力の強弱︑晴天と曇天
ーロッパを通じての特性である︒南と北との相違はこの
この特性は︑南と北との著しい相違にもかかわらず︑ヨ
、は
、雨
、期
、である︒
漠地域のごとく乾いてもいない︒だから冬
、は
、乾
、燥
、期
、である︒が︑沙
たらす湿潤ではない︒従って夏
規定せられる︒それはモンスーン地域のごとく暑熱がも
そ こ で ヨ ー ロ ッ パ の 風 土 は 湿潤 と 乾 燥 と の 総 合 と し て
いうことにほかならない︒
ッパ的であるということはまさにそれが風土的であると
210
との多少というごとき形に現われている︒雨量において
は大体同様であるにもかかわらず︑太陽の光の豊かな南
方 は 夏 の 乾 燥 の 度 烈 し く 冬の 湿潤 の度 も 高い ︒ し か も そ
の南方の冬はしばしば晴天に恵まれ︑北方の冬はほとん
ど曇り勝ちである︒かかる点から第二義的な意味におい
て ヨ ー ロ ッ パ の 風 土 が 南 と北 と に 分 か た れ る ︒ そ う し て
南は文化史的に言ってまず初めにヨーロッパであった︒
だから我々もヨーロッパ的風土をまず南から考察し始め
よう︒
211
三
南ヨーロッパは地中海の国土である︒ところでこの﹁地
最も深いところでも十二三度ぐらいはあると言われてい
の温度は︑大洋の影響を受けないために︑非常に温かい︒
と著しく異なった珍しいものなのである︒まずその海水
しい舞台の一つであるのみならず︑また海としても大洋
れるものでもない︒従って地中海は文化史上最も目ざま
こでは海は大地を囲むものではなく︑また陸は海に囲ま
陸地に囲まれた海﹂として地球上唯一のものである︒こ
中 海 ﹂ な る も の は ︑ そ の 名 の 示 し て い る よ う に ︑﹁ 三 大
212
る︒潮の干満もきわめて少なく︑新月満月などの高潮時
に お い て さ え も 一 般 に は 〇 ・ 三 メ ー ト ル︑ 最 も 多い ヴ ェ
ネチアでようやく一メートルに達するという︒これらの
現象はジブラルタルの海峡がきわめて狭く︑海水の流動
、に
、控えているという事実に
が自由でない上に︑大洋を西
ももとづくであろう︒なおそのほかに地中海にそそぐ河
水と雨水の量がきわめて少なく︑海水の蒸発を補い得ぬ
程度であるということも︑この海を特殊なものとする一
自分の直接に触れたところによると︑この海は︑三月
つの契機であるらしい︒
213
に も ︑ 五 月 に も ︑ ま た 十 二 月 に も︑ 我 々 が 平 生 海 と 思 っ
していても汗ばむほどであった︒この南国の海岸が我々
植物も生い育っていた︒そうして昼間は外套なしに散歩
ら移し植えたらしい竹の姿も見られ︑その他種々の熱帯
いかにも南国らしい暖かさで︑ところどころには東洋か
から正月へかけてであったが︑このリヴィエラの海岸は
ジェノアのあたりを泊まって歩いたのは︑十二月の半ば
のである︒自分がマルセーユからニース︑モナコを経て
ぎぬが︑しかし自分にとってはかなりに強く感ぜられた
ているものと同じでなかった︒それは漠然たる印象に過
214
の南国の海とははなはだしく趣を異にしているのであ
る︒ニースやモナコあたりの海岸通りが見渡す限りコン
クリートで立派に固めてあるから︑それで感じが違った
のだとは思われない︒この道に添った波打ちぎわの白い
美しい砂が︑今掃き清められたように一点の塵埃さえも
交 じ え な い で ︑ 長 く は る か の 彼方 ま で 続 い て い る ︑ そ の
砂の具合がどうも我々には妙らしく感ぜられるのであ
る︒我々の南国でも︑冬の海となれば︑波打ち際はきれ
いであるが︑しかしもっと﹁潮﹂にぬれているという感
じがあると思う︒海から吹いて来る風でもそうである︒
215
ここでは潮風らしい感じのない乾いた風が吹いて来る︒
た の で あ る ︒ そ の た め に こ こ の 海 水 の 色 の 透 き徹 っ た 化
は考えられぬが︑しかし自分の眼にはついに触れなかっ
った︒そういうものがここの海に全然生育していないと
が見えず︑また貝類の付着しているらしい影も見えなか
渚に 近い海 底や海 底の岩には︑どこにも植物らしいもの
ので︑透き徹った海の水をのぞいて回ったことがある︒
とにかくこの﹁海の感じのない海﹂が珍しく感ぜられた
我 々 の 海 に は も う 少 し 海 の 匂 い が あ る と思 う ︒ 自 分 に は
冬の海には夏ほどの磯の匂いがないとしても︑しかし
216
学的着色らしい感じが特に強く自分の心に烙きついた︒
これを我々の南国の海の複雑な色調を持った水の色に比
べると︑とにかくはなはだしい相違が感ぜられる︒ここ
かん の
り
では冬の海に海女たちが潜り込んで行って岩から海苔を
さざえ
掻いてくる︑栄螺を採って来る︒寒海苔や栄螺の壷焼き
を賞美する人たちは︑都会の真冬の食卓においてさえ強
烈な磯の香をかぐことができるであろう︒が︑そういう
感じは地中海には全然ない︒それは生き物のあまりいな
い︑海草の繁茂しない海なのである︒だから自分にはこ
の南国の海において沖に出漁している漁船を見たという
217
記憶が一つもない︒海はいつもひっそりとして︑ただ一
ぶり りょ う
船を見なかった︒また渚では貝殻の付いた岩︑何らかの
回っても同様である︒島の東でも南でも北でも自分は漁
姿も︑また漁船の影も︑見えなかった︒シチリアの島を
道を車を走らせながら見おろした海には︑海草や貝類の
けた印象は同じであった︒アマルフィへ海岸づたいの崖
幾日かイタリアの海岸を回って歩いた時にも自分の受
ものにとっては︑これは全く死の海である︒
国の冬の海のあの勇ましい 鮪 漁 や鰤 漁 を知っている
ま ぐ ろ りょ う
つの帆影さえもなく︑荒漠たるものであった︒我々の南
218
植物の付着した岩を見なかった︒陸から今海へ持ち込ん
だ岩と︑海水に久しく浸っていた岩とは︑我々の海では
一目して区別のできるものであるが︑しかしシチリアの
海岸で波に洗われつつ隠見している岩は︑今陸上から持
ち込んだばかりの岩と同じように︑何物も付着しないさ
らさらとした岩であった︒我々にとっては湖水でさえも
こんなものではない︒
自分はこれだけを見てからやっと地中海が何であるか
に気づき始めたのである︒それは海ではあるかも知れぬ
が ︑ し か し 黒 潮 の 流 れ て い る 海 と は 同 じ も の でな い ︒ 黒
219
潮の海には微生物から鯨に至るまで無限に多種類の生物
、の
、二
、つ
、の
、町
、の
、み
、が
、地中海での例外であるこ
が︑しかしこ
ルセーユやヴェネチアの魚料理は印象の強いものである
はきわめて当然のことなのである︒旅行者にとってはマ
海沿岸地方に漁業や魚食や海草食が発達しなかったこと
である︒そこには本来﹁海の幸﹂が乏しい︒従って地中
さち
こ と は 決 し て 偶 然 で はな か っ た ︒ そ れ は い わば 海 の 沙 漠
、せ
、た
、海である︒地中海が荒涼な印象を与えた
地中海は痩
、饒
、な
、海であるが︑
どに生物が少ない︒黒潮の海は無限に豊
が生きている︒しかるに地中海は死の海と言ってよいほ
220
とを忘れてはならない︒というのは︑ヨーロッパから地
中海へ流れ込む河らしい河は︑マルセーユの傍のローヌ
河とヴェネチアの傍のポー河とのみであり︑そうしてこ
れらの河口に近い海のみが魚類にとって食物の豊かなと
ころだからである︒海とあれほど親しかったギリシア人
が主として獣肉のみを食ったということは︑右のごとく
見れば理解しやすくなる︒それに比べれば我々の海は黒
潮に洗われるのみならずまた無数の河口から不断に栄養
物を受け取っている︒だから我々の島国が一つの大きい
魚床として世界に比類なき漁場となるのも無理はない︒
221
日本の漁船の数は︑日本以外の世界じゅうの国々の漁船
よりもまず食物を獲る畑であって交通路ではなかった︒
いてのみは正しいのである︒それに比して我々の海は何
山 は 距 て る が 海 は 結 び つ け る︑ と い う こ と は 地 中 海 に つ
路﹂であり︑そうしてそれ以上の何ものでもなかった︒
そこでこういうことが言われる︒地中海は古来﹁交通
然である︒
魚肉と海草とのゆえに獣肉を必需品としなかったのは当
漁夫の総計よりも多いと言われる︒このような漁業国が
の総数に匹敵し︑日本の漁夫の数は同じく世界じゅうの
222
それが最近に交通路としても用いられるようになったま
では︑むしろこの島国を大陸から距てる﹁障壁﹂であっ
た︒だから我々の海の観念を直ちに地中海に当てはめて
はならない︒歴史の舞台としての地中海は我々の考える
ような海ではない︒地中海の航行に関してはすでに﹃オ
、わ
、め
、て
、正
、確
、な
、知識を披瀝している︒
デュッセイア﹄がき
それほど地中海は航海に便なのである︒島が多い︒港湾
が多い︒霧などはなくて遠望がきく︒七か月ぐらいは好
天 気 が つ づ き ︑ 天体 に よ る 方 位 の 決 定 が 容 易 で あ る ︒ 風
はきわめて規則正しく吹いている︒陸風と海風との交代
223
もきわめて規則正しい︒だから地中海は海の民族にとっ
湿潤な海であり無数の生物を繁茂せしめ得たならば︑沿
るということと連関する︒もし地中海が太平洋のごとき
このような地中海の性格は︑それが﹁乾いた海﹂であ
ったであろう︒
しい折衝もこの海が交通路でなかったならば起こらなか
中海は実際に交通路であった︒ローマとカルタゴとの激
岸地方に必ず植民地を作ったギリシア人にとっては︑地
ス︑イスパニアに至るまでギリシアらしい風土を持つ沿
ての子供部屋だと言われている︒イタリアから南フラン
224
岸地方の人々はあれほど動き回りはしなかったであろ
う︒しかるにそれは﹁乾いた海﹂であったがゆえに海の
生物に食を与え得なかったのみならず︑また島々や沿岸
の土地をも痩せしめた︒マルセーユの海の小さい島々は︑
ちょうどアラビアの南端アデンの山のように︑一本の樹
もない赤裸の岩塊である︒海岸の山々もまたそれに近い︒
リヴィエラの海岸では平地には熱帯らしい植物が繁茂し
てはいるが︑その背後に切り立った山々はやはり日本に
は 見 ら れ な い ほ ど 乾 燥 し た 岩山 で あ る ︒ イ タ リ ア の 半 島
では海ぞいに走る山脈は内部の山脈よりもはるかに禿げ
225
ており︑また一定の高さ︵ほぼ三四百メートルであろう
、熱
、の
、季
、節
、︑すなわち海水の蒸発の最も盛んな季
だから暑
アルプス︑アトラスなどの諸山脈にさえぎられてしまう︒
気を潤すことができない︒大西洋からの湿気はピレネー︑
ラビアの沙漠を控えたこの海は︑海水の蒸発くらいで空
に起因する︒南に広漠たるサハラの沙漠︑東にはまたア
、い
、て
、い
、る
、こと
ろがないのである︒そうしてそれは海が乾
通路に面しているという以外に特に海から恵まれるとこ
岸は貿易町としてしか開けない︒言いかえれば海岸は交
か︶より上は必ず岩山になってしまう︒だから一般に海
226
節 が ︑ 沙 漠 の 乾 燥 し た 空 気 に よ っ て 最 も よ く 湿 気 の 中和
、燥
、期
、になる︒
させられる季節であり︑従ってこの地方の乾
地 中 海 と は ︑ 夏 の 太 陽 が 烙 き つ け て い る土 地 に 雨 を 送 る
四
ここで我々は牧場的なるものに出逢うの
ことのできない海なのである︒
︱
、の
、乾
、燥
、
夏
である・ヨーロッパには雑草がない︒それは夏が乾燥期
だということにほかならぬ︒雑草とは家畜にとって栄養
価値のない︑しかも繁殖力のきわめて旺盛な︑従って牧
草を駆逐する力を持った︑種々の草の総称である︒我々
227
が﹁夏草﹂として知っているものはまさにこの雑草であ
、熱
、と
、湿
、気
、と
、の
、
雑草にこの旺盛な生活力を与えるものは暑
種の雑草に占拠せられ︑荒蕪地に化してしまう︒しかし
も︑ もし一二年の間 放置せられ るな らば︑ たちまちこの
て 練 兵 場に で も 繁 茂 し 得 る 草 で あ る ︒ 耕 地 で も 住 宅 地 で
ち に 数 尺 に も の び る ︒ そ れ は 実に 根 強 い ︑ 頑 強 な ︑ 従 っ
芽を出し始め︑梅雨に養われ︑七月に至れば見る見るう
て繁茂する︒路傍︑土手︑あき地︑河原などに五月ごろ
、熱
、と
、湿
、気
、とを条件とし
っても明らかなように︑それは暑
る︒ところでそれが我々に﹁夏草﹂と呼ばれることによ
228
、合
、である︒すなわち梅雨とそのあとの照り込みとであ
結
、の
、乾
、燥
、はちょうど必要な時にこの湿気を
る︒しかるに夏
与えない︒従って雑草は芽ばえることができない︒
イ タ リ ア の よ う に 太 陽 の 光 の豊 か な と こ ろ で夏 草 が 茂
らない︑それは全く不思議のようである︒しかし事実は
まさにその通りなのである︒そのよき例はマレンメン
︵ Maremmen
︶であろう︒これは狭義にはピサとローマ
と の 間 の 海 岸 地 方 を 言 う が ︑ 広 義 に は ピ サ の北 方 よ り ナ
Paludi
ポリ近くまでの海岸全体をいう︒その中にはローマ郊外
の平野カムパニャやローマの東南の海ぞいの平野
229
などの有名な荒蕪地が含まれている︒これらは
Pontine
すでにローマ時代から夏のマラリアで名高く︑従って人
駆逐し得るほどに旺盛でもなく︑またこの土地から牧場
らに生い育ってはいる︒しかしそれらは柔らかい冬草を
のではない︒細い︑弱々しい姿の雑草が︑きわめてまば
れてはいないのである︒もちろん雑草が全然ないという
の広い平野︑湿地及び丘陵地は︑決して雑草に占領せら
うのない荒地に化してしまうであろう︒しかるにこれら
に捨てられた土地は︑日本でならばどうにも手のつけよ
間 は 山 の 上 に 退 却 し ︑ 平 野 に は 住 む 人 がな い ︒ こ の よ う
230
らしい面影を抹殺し去るほどに繁茂してもいない︒十月
から四五月までの間はこれらの土地も羊の放牧地として
立派に役立つのである︒言いかえれば人力を加えない捨
てられた土 地さえもここでは﹁牧場﹂である︒
かくのごとく夏の乾燥は夏草を生育せしめない︒草は
、の
、
主として冬草であり牧草である︒ヨーロッパ大陸の夏
、を覆うものはかかる柔らかい冬草である︒が︑地中海
野
、草
、の
、を夏
、野
、に見ることができぬ︒五月の末
地方のみは冬
になれば南フランスでもイタリアでも野の草が黄ばんで
来る︒ちょうど麦畑が黄ばむときに牧場もまた黄ばむの
231
である︒そこでイタリアの夏の山野は緑であるよりもむ
、の
、湿
、潤
、の意義が見いだされ
ここに夏の乾燥に対する冬
っての麦畑の緑色と同様である︒
再び美しい緑の色を回復する︒それはちょうど我々にと
雨 期 の 始 ま る 十 月 ご ろ で あ る ︒ 牧 場 は 冬 の進 む に つ れ て
夏枯れによって黄ばみ︑それがまた緑になり始めるのは
っては︑まさに草の色である︒だから山野は文字通りに
山 野 の色 の 基 調 を な す も のは ︑ 樹 の 少な いイ タ リア に あ
色があり︑またあまり大きがらぬ落葉樹もある︒しかし
しろ黄褐色なのである︒もちろん山にはオリーヴの銀緑
232
るであろう︒十月の雨はちょうど我々にとっての梅雨で
あるが︑もちろん梅雨ほどに湿潤でなく︑日本の春雨に
似た雨が時々降るという程度に過ぎない︒こういう静か
、熱
、を
、必
、要
、と
、し
、な
、い
、冬草の類が穏や
な秋の雨に恵まれて暑
かに芽ばえてくる︒そうして驚くべきことには︑野原に
のみではなく︑岩山の岩の間にさえもこういう柔らかい
冬草が育つのである︒旅行者に親しいマルセーユのノー
トルダムの丘やローマのティヴォリの山はその手近い例
、化
、し
、な
、い
、
として引かれてよい︒そこには白い石灰岩の風
固い肌が地面の六七分を占めるほどに点々として露出し
233
ており︒そうしてその隙間を右のような柔らかい短い草
全山 がことごとく麦や冬草に覆われてい るというこ とも
の山には豊かに繁茂する︒あまり高くない小山であれば
った︒このように冬草は岩山にさえも育つ︒いわんや土
緑も︑この白い石肌と交錯した冬草の色にほかならなか
だ か ら 自 分 が 初め て 船 か らな がめ て 驚 い た ヨ ー ロ ッ パ の
いは小松︑つつじなどであって︑決して冬草ではない︒
はえるものがあるとしても︑それは頑強な茅の類かある
、れ
、な
、い
、山の肌を持つものもなく︑またその岩間に
ほど荒
が 美 し く 埋 め て い る の で あ る ︒ 我 々 の 国 の 岩山 に は こ れ
234
まれではない︒シチリアの南部のごときは見渡す限りの
ゆるやかな山 々がその頂上に至るまでことごとく緑草に
覆われ︑樹木とてはただ谷間の底の果樹のみであった︒
こ の よ う に 夏 の 乾 燥 と 湿潤 と は ︑ 雑 草 を 駆 逐 し て 全土
を牧場たらしめる︒このことは農業労働の性格を規定せ
ずにはいない︒日本の農業労働の核心をなすものは﹁草
取り﹂である︒雑草の駆除である︒これを怠れば耕地は
たちまち荒蕪地に変化する︒のみならず草取りは特に﹁田
従って日本の住宅様式を決定している
の草取り﹂の形に現われている︒それは日本における最
︱
も苦しい時期
235
時期︑すなわち暑熱の最もはなはだしい土用のころに︑
長を待っていればよい︒日本のように土地が湿潤でない
、然
、と
、の
、戦
、い
、と
、い
、う
、契
、機
、が
、欠
、け
、て
、い
、
だから農業労働には自
、︒農人は耕した土地に小麦や牧草の種を蒔いてその成
る
いる︒隙を見て自ら荒蕪地に転化するということがない︒
、順
、な
、土
、地
、として人間に従って
墾せられればいつまでも従
、ょ
、う
、
放擲に等しい︒しかるにヨーロッパにおいては︑ち
、こ
、の
、雑
、草
、と
、の
、戦
、い
、が
、不
、必
、要
、なのである︒土地は一度開
ど
を意味する︒この戦いを怠ることはほとんど農業労働の
ちょうどそのころを繁茂期とする根強い雑草と戦うこと
236
うね
から麦畑に畦を作る必要もなく一面に草原のように麦を
はえさせる︒麦の間に他の草が混じるとしてもそれは麦
よりも弱い︑従って麦に駆逐せられる冬草である︒この
ような麦畑は牧場と同じに手がかからない︒また少し離
れて見れば牧場と麦畑との区別はつかないのである︒両
者の区別が明白に現われるのは四月末から五月ごろでで
もあろうか︒麦があからみ初めれば牧草は苅り取られて
乾し草にせられる︒やがて麦の収穫が来る︒農業労働に
は防御の契機はなく︑ただ攻勢的な耕作︑播種︑収穫の
みがあると言ってよい︒
237
が︑それは夏の労働と冬の労働との比較ではないか︑
んど小麦に匹敵すると言われているが︑しかしそのわり
いればよいのである︒イタリアでは葡萄の収穫量はほと
ばし初める︒農人はその花が咲き実が熟するのを待って
はない︒夏の乾燥期に入るころに葡萄が芽を出し蔓をの
は持久的なものであって稲の栽培のように急激なもので
栽培であって主要食物の耕作ではない︒しかも果樹栽培
るのである︒地中海地方の夏の労働は葡萄やオリーヴの
、要
、食
、物
、
と人はいうかも知れない︒確かにそうである︒主
、得
、る
、た
、め
、の
、労
、働
、がちょうどそういうふうに異なってい
を
238
に 労 働 は 激 し く な い で あ ろ う ︒ ち っ と も こ の 場 合に は ︑
、虫
、と
、の
、戦
、い
、を 戦 わ ね ば な ら
雑草との戦いの代わりに害
ぬ︒しかし夏の乾燥は昆虫類にとって有利な条件でない︒
日本のように昆虫の多い国から見れば地中海沿岸といえ
ど も 物 さ び し い く ら い に 虫 が 少 な い ︒ だ か ら 果 樹 園に お
、虫
、と
、の
、戦
、い
、は平野におけるマラリアの蚊との戦い
ける害
よりもはるかに軽易なのである︒十数里にわたる平野が
草地として放置せられている地方でも︑山 の麓から山腹
へかけては豊沃な耕地となっている︒たとえばローマ付
近 の ア ル バ ノ の 山 や テ ィ ヴ ォ リ の山 が そ れ で あ る ︒ 山 の
239
斜面は︑冬の雨期にあっては静かな細雨に潤されて緑の
るということにほかならない︒
、然
、が
、人
、間
、に
、対
、し
、て
、従
、順
、であ
安易であるということは︑自
業労働の安易にもとづくのである︒そうして農業労働が
る︒イタリア人が怠け者であるということは︑一つは農
とを楽しむところのきわめてのどかな生活に浸ってい
たちは︑土地の甘い葡萄酒に酔い︑むだ話に時を移すこ
る果樹園となる︒そうしてアルバノやティヴォリの農人
美しい畑地となり︑夏の乾燥期にはオリーヴや葡萄の繁
240
五
夏の乾燥︑冬の湿潤︑すなわち暑熱が湿気と結びつか
、然
、の
、従
、順
、を見いだし
ないということからして︑我々は自
た ︒ と こ ろ で こ の 自 然 の 従順 を 一 層 露 骨 に 示 す も の は ︑
、象
、である︒暑熱と結合した湿気
地上の草よりもむしろ気
は大雨︑洪水︑暴風というごときいわゆる﹁自然の暴威﹂
として己れを現わすが︑湿気が暑熱を離れたところには
このような現象はきわめてまれなのである︒
地中海の雨量は日本の三四分の一であるが︑その雨も
冬の雨期に静かに大地を湿すのであって︑土地を洗うよ
241
うに降るのではない︒もし日本でのように暑熱の大洋に
大雨がいかに少ないかを示す直接の証拠は河の堤防で
雨豪雨が稀有 であることにもとづいてい る︒
だからこれらの耕地が豊沃な耕地であることは︑一に大
ヴの畑も土壌を洗い流されて畑の資格を失うであろう︒
ってその根を枯死させてしまうであろう︒葡萄やオリー
数回の雨によって草の根を洗われ︑それに続く暑熱によ
かではあり得ない︒頂上まで耕されたシチリアの小山は
あったならば︑イタリアのあの斜面の耕地は決して安ら
おいて作られた多量の湿気が豪雨となって陸を襲うので
242
ある︒大雨によって急激に増水する怖れのあるところに
がん じ よ う
は︑堤防は高く頑 丈 に築かれる︒しかし自分はこの種
の堤防をほとんど見たことがなかった︒イタリア第一の
大 河 た る ポ ー 河 は ︑ な る ほど そ の 下 流に おい て は 堤 防 を
持ってはいる︒しかしアルプスの湖水から流れ出て水量
の豊富をもって有名な大河としてはあまりにも貧弱な堤
防であった︒アルプスの雪解けがしばしば大増水を惹起
するにもかかわらず︑しかも堤防はこれでよいとせられ
ているのである︒自分がこの地方を旅行した三月は︑晴
天の日がまれにしかないほどの珍しい雨つづきであっ
243
て︑ポーの流域の洪水は新聞に大きく報道せられていた︒
る︒なるほどこれも洪水には違いない︒浸水した畑や牧
浸されてちょうど大きい雨水のたまりのような感じにな
畑の中へ流れ出ている︒畑や牧場の中の低地はこの水に
音もなく流れ出るような静かさでもって︑堤防を超えて
め て 静 か に ︑ ちょ う ど 湧 き 出 る泉 の 水 が 岩の 縁を越 し て
て堤防の高さの少しく低いところへ来ると︑これらきわ
な︑流れるとも見えぬほどの速度で流れている︒そうし
になみなみと充たされている河水は︑きわめてゆるやか
しかるにその洪水の現場へ行って見ると︑堤防いっぱい
244
場 は ︑ 排 水 の 困 難 の た め に ︑ 全 然荒 ら さ れ て し ま う で あ
ろう︒しかし自分は思わず滑稽な感じに打たれて笑い出
さざるを得なかった︒我々にとっての洪水は︑奔騰する
濁流が堤防を突き破って耕作地に襲い入り荒れ回ること
である︒そのすさまじい感じはここには全然見られぬ︒
何十年来のまれな長雨の際の洪水がこれである︒平年の
穏やかさは推して知ることができるであろう︒
風は一般にきわめて弱い︒たまには︑特に冬期に︑サ
ハラの沙漠からシロッコが吹いてくるというが︑自分の
いた百日あまりの間には一度もそれに逢わなかった︒風
245
、木
、の
、形
、である︒
の弱いことを明らかに示しているのは樹
れている我々には︑このシンメトリーの形がいかにも人
ば幹に必ずうねりがあり︑枝が必ず傾いているのを見慣
正しい笠形を垂直の幹によってささえている︒松と言え
枝を四方へ平等にひろげ︑小枝を均等に繁茂させ︑その
だ下枝を払ったのみでそのほかに人工を加えない松が︑
てのみならず︑野原にも山の頂にも多数に見られる︒た
った︒円く饅 頭 笠式に整った松は︑ただに公園におい
まんじゆうがさ
特 に 著 し く 目に つ く の は 笠 形 の 松 と鉛 筆 形 の 糸 杉 と で あ
それは植物学の標本のように端正で︑従って規則正しい︒
246
工的に見える︒糸杉の垂直に細長くのびた形も同様であ
る︒植木屋が丹念に手入れをでもしたかのように︑小枝
は網のごとく細かに分岐して緻密にしかも整然と外面を
作っている︒これらの目立つ樹のほかにも︑日本の庭園
で檜やひばに植木屋がつけるような規則正しい形が︑さ
まざまの樹におのずからにしてついている︒そこには植
物学の説く通りの規則正しい枝の張り方が認められる︒
、工
、的
、という感じを与えるのみならず︑そ
それは我々に人
の規則正しい︑理屈に合った形のゆえに︑さらに著しく
、理
、的
、であるという感じをも与える︒しかし考えてみる
合
247
とこのような形が人工的に思えるのは我々の国土の不規
的 で あ り つ つ 合 理 的 な 印 象 を 与 え る が ︑ 桃山 時 代 の 襖 絵
かれるシンメトリーの樹の姿はイタリアにおいては自然
い得られる︒ルネサンスのイタリアの絵に背景として描
、然
、理
、的
、と合
、的
、とが結びつくということも言
においては自
、工
、理
、的
、と合
、的
、とが結びつきヨーロッパ
が国においては人
り ︑ 従 っ て 不 規 則 な 形 こ そ 不 自 然な の で あ る ︒ そ こ で わ
、然
、的
、な形なのであ
あるが︑しかしそれは植物にとって自
我々の国においてこそ人工的にしか作り出せないもので
則な樹の形を見慣れているからである︒規則正しい形は
248
に描かれるうねった樹の姿は日本において自然的であり
つつ非合理的な統一を表現している︒いずれも自然の生
の 体 験 か ら 創 作 し つ つ そ の 現 わ す と こ ろ が 異 な っ て来 る
のである︒そうしてこのような区別が帰するところは風
の強弱である︒暴風の少ないところでは樹の形が合理的
、然
、が
、暴
、威
、を
、振
、る
、わ
、な
、い
、と
、こ
、ろ
、で
、は
、自
、
になる︒すなわち自
、は
、合
、理
、的
、な
、姿
、に
、己
、れ
、を
、現
、わ
、し
、て
、来
、る
、︒
然
自然が従順であることはかくして自然が合理的である
こ と に 連 絡 し て く る ︒ 人 は 自 然の 中 か ら 容 易 に 規 則 を 見
いだすことができる︒そうしてこの規則に従って自然に
249
臨むと︑自然はますます従順になる︒このことが人間を
、ペ
、ニ
、ン
、山
、脈
、の
、南
、において︑この特性が著しい︒
なわちア
はその代表的なるものである︒特に本来のイタリア︑す
、理
、的
、な
、自然の姿となって現われる︒イタリアの自然
て合
、る
、順
、い
、︑従
、な
、︑従っ
た︒暑熱と絶縁せられた湿潤は︑明
、期
、の
、乾
、燥
、から理解し
我々は牧場的なる風土の特性を夏
六
産物であることも容易に理解せられるであろう︒
く 見 れ ば ヨ ー ロ ッ パ の 自 然科 学 が ま さ し く 牧 場 的 風 土 の
してさらに自然の中に規則を探求せしめるのである︒か
250
しかるにこの本来のイタリアこそ現代のヨーロッパにと
って真実の﹁発祥地﹂であり︑従って﹁ヨーロッパ的な
るもの﹂の揺籃の地であった︒ここで自然が征服せられ︑
美しい牧場が出現したということは︑やがて北欧の原野
の森林が切り開かれ︑そこにも同じような牧場が出現す
るゆえんとなったのである︒他の言葉で言えば︑この地
で発展したラテン語がヨーロッパのすみずみにひろが
り︑この地で作られたローマ法がヨーロッパの国々の法
がしかし︑このヨーロッパの﹁発祥地﹂は︑それ自身
律 とな っ た︒
251
ギリシアの教育によって初めてかかる発祥の地となり得
特に際立って表へ出ることになったのである︒そこで
にギリシア的風土を探し回ったがゆえにそういう風土が
ゆえんとなった︒言いかえればギリシア人が地中海沿岸
ということがやがてローマ人を引きのばし成長せしめる
町を植えて行ったのである︒そうして彼らが町を植えた
覚をもって特にギリシア的な性格を持つ上地にのみその
とによっても明らかであろう︒ギリシア人は不思議な直
、来
、の
、イ
、
たのであった︒このことはイタリア半島のうち本
、リ
、ア
、の
、み
、が
、ギリシアの植民地の作られた地方であるこ
タ
252
我々は牧場的なる風土の根源をさらにさかのぼってギリ
特に古い文化の舞台であるエーゲ海
シアに求めなくてはならぬ︒そもそもギリシア的風土と
は何であるか︒
︱
ギリシア半島
沿岸は︑山脈の屏風によって西をふさがれ︑細長いクレ
ータの島によって南の海から遮断された特殊の区域であ
る︒だから乾燥の度はイタリアより心はるかにはなはだ
しい︒雨量はイタリアの半分だと言われる︒空気はイタ
リアよりも一層澄み透っている︒雨期である冬の日にさ
え も ︑﹁ 澄 み わ た る 碧 空 ︑ 輝 き 透 る 天 日 ﹂ が ギ リ シ ア の
253
まひる
、朗
、燥
、と乾
、とは
アティカに例を取って言えば︑空気の明
るかにギリシアに及ばない︒
り気がない︒明朗を特徴とするイタリアもこの点ではは
てくる︒潮の色は実に﹁澄徹﹂であり︑野の緑も全く濁
明 に ︑ 調 子 を 鈍 ら せ ら れ るこ とな く ︑ く っ き り と 現 わ れ
色︑山の色︑土の色︑岩の色というごときものが実に鮮
るこの明るさのゆえである︒従ってギリシアでは︑雲の
、気
、を
、含
、ま
、な
、い
、ことから来
い﹂と言われるのは︑空気が湿
言葉によって特性づけられ︑また﹁ギリシアには陰がな
自然の特徴である︒ギリシアがしばしば﹁真昼﹂という
254
次のごとき数字によって理解せられるであろう︒すなわ
ち一年の間に一七九日は好晴︑一五七日は半晴︑陰欝な
日はわずかに二九日である︒もし普通の意味で晴天とい
う言葉を用いるならば︑年に三百日は晴天であり︑一日
じゅう完全に曇る日は年に十日ぐらいだろうと言われ
る ︒ こ れ は 冬 の 半 年 が ほ と ん ど 陰 欝な 日 の み で あ る北 方
の ヨ ー ロ ッ パ と は 実 に 雲 泥 の 相 違 で あ る ︒﹃ オ デ ュ ッ セ
イア﹄の描いている冥界がきわめてよく冬の英国に似て
いることは決して偶然ではない︒ギリシア人がジブダル
タルの海峡を出て英国に漂着したならば︑実際にその陰
255
欝を死の国のものとして感じたであろう︒ギリシアでは
の内二日はかなり烈しい風がぼうぼうと吹いたという︒
てその夜から翌日へかけて微雨が降ったのである︒曇天
ェーに雨宿りするほどの雨があって夕方晴れた︒そうし
他 の 一 日 は ︑﹁ 食 後 月 が 出 た ︒﹂ 残 り の 一 日 は 午 後 カ フ
を 見 渡 し た と き に ﹁ 潮 の 色 が 実 に 澄 徹 で あ っ た ︒﹂ ま た
雨一日である︒しかもその曇天三日の内︑一日は︑朝海
と︑二週間の滞在中に好晴七日︑半晴三日︑曇天三日︑
ギリシアを旅行した安倍能成氏の記録するところによる
陰欝な日は冬の雨期に集中している︒しかしその雨期に
256
恐らくシロッコが来たのであろう︒これがギリシアの最
も陰欝な時期なのである︒従ってギリシアの最も陰欝な
時期も︑我々にとっての最も明朗な時期よりは︑さらに
一層明朗であるということができる︒
このように晴天つづきであるということは︑しかし︑
単調を意味するのではない︒四季の変化はかなり顕著で
ある︒三月には美しい春が始まって六月まで続き︑六月
、の
、全
、然
、降
、ら
、な
、い
、暑い
半ばから九月半ばにかけては通例雨
夏になる︒シロッコがサハラの沙漠から埃を吹き送って
来る日を除けば︑空は毎日一様に蒼く︑烈日は照り輝き︑
257
大地は乾き上がる︒従って草は枯れ泉も涸れる︒しかし
のゆえに樹木の生育に適しない︒草は枯れてもまた芽を
これがギリシアの気候である︒それは夏の烈しい乾燥
吹く日などは冬がどこかへ飛んで行ってしまう︒
らかじめじめした寒い日が混じるのである︒シロッコの
しろ日本の春に近い︒麗しく晴れた小春日和の間にいく
つ︒冬とは言っても日本の冬よりははるかに暖かく︑む
気をもたらす雨期である︒牧場の草や畑の麦が青々と育
び緑になり始める︒十一月末から三月までは︑南風が湿
九 月 に は 爽 や か な 驟 雨 が 来 て 美 し い 秋 が始 ま り ︑ 草 が 再
258
出 す が︑ 山 の 樹 木 は そ う は 行 か な い ︒だ か ら山 は 多 く 岩
山 で ︑﹁ 峨 々 ﹂﹁ 崔 鬼 ﹂ と い う ご と き 言 葉 に よ っ て 形 容
せられるような形をしている︒樹木としては畑に作られ
たオリーヴのほかには時々松︑柳︑糸杉などがあるくら
いである︒そこで最も目立つものは冬草である︒現在で
も土地のほぼ三分の一は牧場だと言われているが︑古代
にはその四分の三まで牧場として用いられた︑あるいは
牧場としてしか用いられ得なかった︒畑地は牧場よりも
い ち じ く
ずっと少なく︑小麦︑葡萄︑オリーヴ︑無花果などの畑
を 合 し て 牧 場 の 半 ば く ら い で あ る と い う ︒ こ とに 小 麦 は
259
少なく︑国内の需要を充たすに足らない︒農業労働の主
、然
、が
、人
、を
、脅
、や
、か
、し
、も
、し
、な
、
を取らなくてはならないほど自
、で
、然
、な
、い
、がゆえに︑従って自
、に
、忍
、従
、し
、て
、恵
、み
、を
、待
、つ
、を
、
か
、し
、な
、い
、︒とともに自然に対抗して不断に戦闘的な態度
要
、
ているということを意味する︒そこでは自然の恵みが豊
、場
、的
、に規定し
このことは風土が生活必需品の生産を牧
り 乏 し く も な い 農 産 物 を 比 較的 確 実に 生 産 し 得 る ︒
環雨期の到来によって︑あまり豊饒ではないがまたあま
の不安定に脅やかされることなく︑規則正しい季節の循
、畜
、と
、果
、樹
、作
、り
、とである︒従って農業は気象
要なものは牧
260
、︒自然は一度人力の下にもたらされさえすれば︑適度
い
、順
、に
、人
、間
、に
、服
、従
、し
、て
、いる︒
の看護によって︑いつまでも従
、産
、を 牧 場 的 た ら し め る の で あ
この自然の従順がまず生
る︒
、用
、をも牧場的たらしめる︒
が︑自然の従順はさらに受
人は牧場の柔らかい草の上で裸で嬉戯することができ
る ︒ と い う こ と は ︑ 自 然 の 刺 激 を 全 然開 放 的 に 受 け 容 れ
てもほとんど危険らしい危険がなく︑むしろ歓びのみを
感じ得るということを意味する︒だからギリシア風の衣
服は自然に対して肉体を守るという趣の最も少ないもの
261
である︒さらにギリシア人が裸体で競技し︑また裸体像
言 っ た よ う に ︑ あ く ま で も 明 朗 な ︑ 陰 の な い ︑﹁ 真 昼 ﹂
せられて起こって来た︒ギリシア的風土の特性は︑前に
うことになる︒しかもそれは特にギリシア的風土に規定
そこで牧場的な文化はギリシアにその根源を持つとい
に規定せられることを意味する︒
り︑従って生活必需品のみならず文化産物もまた牧場的
であるということはやがて創作が牧場的であることであ
において理解せられねばならぬ︒しからば受用が牧場的
を彫刻の様式として作り出したということも︑この連関
262
である︒そこではすべてが露わに見える︒湿気の多い空
気の中では︑晴朗な日にでも濃淡陰影があって︑何らか
﹁ 覆 う ﹂ と い う 感 じ か ら 離れ るこ と が で きな い が ︑ ギ リ
シ ア 的明 朗 は 覆 う も の な き明 る さ で あ る ︒ 従 っ て 自 然の
内 に ﹁ 見 え ざ る も の ﹂﹁ 神 秘 的 な る も の ﹂﹁ 非 合 理 的 な
るもの﹂を求めるという傾向が強まらない︒もちろんギ
リシアにも﹁夜﹂はある︒だからデメーテル崇拝に見ら
れ る よ う な 暗 い 半面 も 無 視 す る こ と が で き ぬ ︒ が︑ ギ リ
シア的なるものとして特に世界史的意義を担っているの
は︑明朗なる真昼の精神である︒そうしてギリシア人は
263
ギリシア的風土と同化することにおいてここまで己れを
る︒かくして自然の内に合理的なる規則を見いだしつつ
睦み合う︒自然との調和と言われるものがそこに成立す
をも隠さない仲は最も親しい仲である︒人間と自然とは
べてを見せている︒隠し事をしていない︒ところで何事
の 隠 さ な い 自 然か ら ﹁ 見 るこ と ﹂ を 教 わ っ た ︒ 自 然は す
リシア的自然が彼らの肉体となって来たとき︑彼らはこ
してただ恵みを乞うていたのである︒しかるに明朗なギ
る も の ﹂﹁ 非 合 理 的 な る も の ﹂ に 脅 や か さ れ ︑ 自 然 に 対
高めたのであった︒彼らももとは自然のうちの﹁見えざ
264
自 然 と融 合 す る と い う ご と き ギ リ シ ア 的 特 性 が 生 じ た の
である︒だからギリシア的風土がギリシア精神の特性と
して己れを現わしたとき︑ギリシア文化もまた初めて芽
ばえて来たと言ってよい︒
もとより我々は︑人間存在から引き離した対象的な風
土 が ︑ 風 土 的 性格 を 持 た な い 精 神 に 対 し て︑ 右の ご と き
影 響 を 与 え た と い う の で は な い ︒ 風 土 は 主体 的 に は 人間
存在の契機として働いている︒そうして人間存在のさま
ざ ま の 契 機 が あ る 時 期 に 著 し く 発 展 し 他 の 時 期に は 下 積
みとなっているように︑風土的契機もまた時には著しく
265
働 き 時に は そ の 力 を 弱 め る ︒ 一 つ の 文 化 が そ の 独 特 な 形
リシア人となった時期に眼を向けなくてはならない︒
という点に存する︒そこで我々はギリシア人が初めてギ
いかなる時期にいかなる仕方で風土的契機が活躍したか
ということの反駁とはならないのである︒問題はむしろ
等しい︒それはギリシア文化が顕著に風土的性格を持つ
のギリシアに 古 のごときギリシア文化がないというに
いに しえ
古 のごときギリシア的真昼がないということは︑現代
いにしえ
しく活躍するのである︒だから現在の晴朗なギリシアに
成に達するというごとき時には風土的契機もまた特に著
266
七
ギリシア的自然は従順であり明朗であり合理的であ
る ︒ し か し そ れ は 初 め よ り ギ リ シ ア 的 な ﹁ 真 昼 ﹂︑ ギ リ
シア的な合理性として現われていたわけではなかった︒
、配
、を
、自
、覚
、し
、︑自然の支配者と
人間が従順なる自然への支
、れ
、自
、身
、の
、生
、活
、を形成し始めたとき︑右のごとく風
して己
土的性格がギリシア精神の性格となったのである︒この
、然
、の
、拘
、束
、か
、ら
、の
、人
、間
、の
、解
、放
、と呼ばれて
自覚はしばしば自
い る ︒ し か し 自 然が 暴 威 を 振 るう とこ ろ で は 人間 の解 放
は こ の 仕方 で は 起 こ ら な か っ た ︒ 自 然 が 従順 あ り ︑ 従 っ
267
て原始時代にすでに技術的な自然への支配が行なわれて
場のひき起こした新しい形勢なのである︒では右のよう
発展や創作欲による芸術の産出︑それらがこの新しい立
るいは人間の創造力の挙揚︑従って知識欲による理性の
競争︑従って権力欲や遊戯欲による人と人との摩擦︑あ
、然
、と
、の
、戦
、い
、か
、
創 設 で あ っ た ︒ そ こ で 自 然 か ら の解 放 は 自
、の
、間
、解
、放
、︑従って︑人
、の
、活
、動
、の
、激
、成
、となった︒人間の
ら
自 然との調和 は自 然の人間化であり人間 中心的な立 場の
この自覚が起こったのである︒だからギリシアにおける
いたからこそ︑自然を人間に隷属せしめるという仕方で
268
な自覚はいかにして起こったか︒
ギリシア語を話す民族が北方よりギリシアの土地に入
り込んで来たのは︑古くは紀元前二千年までもさかのぼ
ると言われているが︑しかし紀元前千二三百年ごろまで
エーゲ海を支配していた文化はこの民族のものではな
い︒彼らの移住は長期にわたる部族的な移動であって民
族的な大集団の移動ではなかった︒遊牧しつつ徐々に半
島に浸透し︑ある土 地に居つけば農業や果樹栽培を覚え
る︒そういう農牧民としての部族生活が半島に移ってか
らも何世紀かの間続けられていたのである︒マレーやハ
269
リソンの語るところによればこれらの部族の宗教はなお
従順な自然の中で平和な農牧の生活を送っていたはず
言われている︒
十 四 世 紀 に 始 ま っ て 数 世 紀 の 間 続 い た 大 移 動 の 時代 だ と
リシア民族は成立しておらない︒それが成立したのは前
に 入 り 込 ん で 来 た と い う だ け で は ︑ ま だ 本 来 の意 味 の ギ
ではない︒従ってギリシア語を話す民族がギリシア半島
し芸術の創作に長じた民族であって︑右のような部族民
シア民族として類型的に考えているのは︑ポリスを形成
トーテム崇拝の段階にあったらしい︒しかし我々がギリ
270
のこれらの民族が︑何ゆえに海へ乗り出し小アジアの海
、口
、の
、増
、
岸にまで移らねばならなかったか︒ベロッホは人
、とギリシアの土地の豊饒でないこととを原因としてあ
加
げている︒この時代の人口の増加というようなことは証
明のしようのない問題ではあるが︑しかしそうであった
かも知れない︒もしそうであるならば︑それはまず部族
と部族との間の争闘を引き起こしたはずである︒土地は
豊饒でないにしても︑自然との戦いに専心しなくてはな
らないような荒々しい土地ではない︒従って食糧の不足
は他部族の牧畜を奪掠する方へ向けられねばならぬ︒か
271
く し て始 め ら れ た 人 間 の 争 闘 が 漸次 熾 烈 に な っ て来 た と
な事件に始まっているらしい︒あるいは向こう見ずの冒
がその女子供や家畜を捨てて小舟を漕ぎ出すというよう
と ︑ 海 か ら の 移 住 は 何 ら か 切 迫 し た 事 情 の ため に 男 た ち
マレーやヴィラモーヴィッツの想像するところによる
われるが︑その事情はこの時に始まるのである︒
である︒ギリシアの中心はエーゲ海そのものであると言
始的な農牧の民は己れを新しく作りかえることになるの
れてくる︒そうして海が生活の舞台となるとともに︑原
、へ
、追
、い
、や
、る
、という情勢が現わ
きに︑初めて農牧の民を海
272
険的な若者たちが進んで海へ乗り出して行くというよう
なこともあったかも知れない︒いずれにしてもそれは集
団的な移動ではなくして︑いわば部族的共同態の﹁断片﹂
が海にさまよい出たのである︒そうしてこれらの﹁断片﹂
は︑必要に迫られておのずから﹁海賊﹂に転化する︒彼
らはいずれかの島︑いずれかの沿岸を襲うて食糧を得な
くてはならない︒陸上の争闘は︑食糧の不足にもとづく
としても︑奪掠によってのみ生きる人々の争闘ではない︒
しかし一度海に出れば︑奪掠のみが生存の基礎であり︑
、士
、へ
、の
、転
、
従って生活全体が争闘になる︒海への進出と戦
273
、とは同一事である︒しかし右のごとき﹁断片﹂はそれ
化
牡 牛 ﹂ が 犠 牲 と し て 殺 さ れ る と き ︑ こ の 牡 牛 の 死 の ため
生 活 が 始 ま る ︒ か つ て は 彼 ら の 家 族 生 活 は ︑﹁ 兄 弟 な る
れる︒ここに昔の農牧の生活とは著しく異なった新しい
の祭儀の混合が行なわれ︑古い伝統が残りなく破壊せら
を自分たちのものにする︒そこで混血が起こり︑異部族
する︒戦って勝てばその土地を占領し︑家畜と女たちと
合し︑豊饒な島や沿岸を襲い得るほどの戦闘団体を結成
で そ れ ら は 他 の 部 族 の ︑ あ る 時に は 他 の 種 族 の 断 片 と 連
自身のみでは有力な戦闘を試みることができない︒そこ
274
に さ め ざ め と 泣 く と い う ふ うな 女 た ちに よ っ て 守 ら れ て
いた︒今や﹁力﹂によって新しい土地に臨んだ彼らは︑
異なった言葉︑異なった祭儀の女を︑しかも彼らがその
夫や親を殺したところの女を︑妻とするのである︒その
妻が︑夫や親の仇である新しい夫に対してどんな復讐を
するかも知れないという危険は︑日夜彼らの生活につき
まとう︒また彼らはかつては自ら畜群を飼い︑その畜群
によって生きていた︒今や彼らは﹁力﹂によって屈服せ
しめた土着人に労働せしめ︑自らはただその成果を味わ
う︒だから彼らの新しい仕事はその﹁力﹂を練って自ら
275
を守ることである︒武器の製作︑武術の練習が彼らの主
はその背負って来た伝統を振りすてて新しく生活の共同
えらんで石垣を囲らし共同の敵に備える︒この中で人々
った︒彼らはある土地を占領するとともに要害の場所を
や祭儀の別よりも敵に対する共同防衛の方が重大事であ
めに団体を結成したとき︑この戦闘団体にとっては部族
部族を異にし祭儀を異にする若者たちが争闘や奪掠のた
もに︑ギリシアの﹁ポリス﹂もまた初めて形成せられた︒
このようにして農牧の民が武士の団体に転化するとと
要事になる︒すなわち武士の生活が始まったのである︒
276
を実現する︒ここにポリスの生活︑ポリスの祭儀が新し
く始まったのである︒だからポリスは海からの移住民を
受けた小アジアの海岸において初めて作られ︑またそこ
においてまっ先に発達したのであった︒
﹁ポリス﹂が作られたときに﹁ギリシア﹂もまた始ま
ったと言われる︒それならば農牧の生活から武士の生活
への転化がギリシアの開始なのである︒そうしてそれを
、へ
、の
、進
、出
、であった︒海へ出るというこ
媒介したものは海
とは土地から離れること︑従って農牧生活からの脱却で
、然
、の
、拘
、束
、か
、ら
、己
、を
、解
、放
、
ある︒人々はこの脱却によって自
277
、た
、︒このことは二重の意味を持っている︒すなわち人々
し
としても︑やがて冒険︑征服︑権力などは食糧よりもは
めに人々が冒険︑征服︑権力などに向かったのであった
の運動の意義を把捉せしめ るに足らない︒食糧を得るた
は︑ただ右のごとき運動の機縁を示すのみであって︑こ
た原因が食糧の不足であったかも知れないということ
、活
、自
、身
、の
、よ
、り
、高
、い
、
品のみを作るところの生活を超えて生
、成
、に向かったのである︒最初農牧の民を海へ追いやっ
形
自由な海の交通路へ出たのみでなく︑また衣食住の必需
は自然を看護してそこから物資を得るという生活を捨て
278
るかに重大な意義を持つものとして生活を支配し始め
た ︒ 畜 群 を 獲 る た め に 争 闘 が 行 な わ れ る 場 合︑ そ の 畜 群
が生命を賭するに価する高貴なものだというのではな
、命
、を
、賭
、す
、る
、と
、い
、う
、活
、動
、そ
、の
、も
、の
、︑それによる征服︑
い︒生
及び被征服者に対する権力︑それらがそれ自身において
貴いとせられるのである︒この生活態度は実用的打算的
な態度とは全然異なっている︒それは命がけの仕事であ
る に か か わ ら ず し か も 遊 戯 の 性 格 を 失 わ な い ︒﹃ イ リ ア
ス﹄に描かれた戦争がその最もよき証拠であろう︒ここ
、闘
、の
、精
、神
、が
にギリシア人の性格の顕著な特徴としての競
279
見られるのである︒
める者を見て我れも同じく種蒔き植え家を斉えんといそ
ゆえに︑技拙き者もその仕事に精進する︒財なき者は富
ある︒ゼウスはこれを大地の根元に据えた︒この女神の
るを得ぬ︒他のひとりは人間にとってはるかに善い神で
神を好まないが︑しかし必要に迫られればそれに服せざ
や争いを奨める﹁残虐なる者﹂である︒人々は皆この女
上にはふたりの争いの女神がある︒ひとりは悪しき戦い
、闘
、を
、是
、認
、
競闘の精神は︑ニイチェも説いたように︑争
、る
、精
、神
、である︒ヘシオドスの歌うところによれば︑地
す
280
しみ︑隣人は互いに幸いを得んと競う︒瓶作りは他の瓶
作りを︑大工は他の大工を︑歌い手は他の歌い手を︑あ
るいは恨みあるいは嫉む︒かかる競争嫉妬をひき起こす
女神をヘシオドスは善き神として讃えたのである︒残虐
な る 戦 い は 単 な る 破 壊 と し て斥 け ら る べ き で あ るが︑ し
かし競争は人をより高きものの創造へ追いやる︒争闘に
よ る 創 造︑ そ れ が 競 闘 の 精 神 で あ っ た ︒ だ か ら ギ リ シ ア
人にとっては︑自ら優らんとする努力を刺激する限り︑
嫉妬は悪徳ではなかった︒名誉心も同様である︒彼らは
他と等しいことを忌み︑常にそれを超えようと努める︒
281
だから人が偉大であればあるほど︑また気高ければ気高
になる︒いかなる天才者も一人で支配してはならない︒
であり︑従ってポリスの生活の永遠の根源を涸らすこと
くてはならぬ︑と︒すなわち最上者の固定は競闘の否定
上 の 者 に成 り 上 が っ て く れば 彼はど こ か 他 の 所へ行 かな
では何人も最上者であってはならない︑もし何人かが最
ルモドロスを追放した際にエペソ人は言った︑我々の間
ともにまたこれが一般に専制を忌むゆえんともなる︒ヘ
れ が ギ リ シ アに 多 く の 天 才 人 を 生 んだ ゆ え ん で あ る ︒ と
いほど︑それだけまた名誉心も強く︑努力も大きい︒こ
282
一人の天才者が現われれば直ちに第二の天才者が欲求せ
ら れ る ︒ も し こ の 競 闘 の 精 神 が 失 われ たな らば ︑ あ と に
はただ憎悪の残酷さや破壊の喜びのみが残るであろう︒
かくのごとくギリシア人の創造は競闘の精神にもとづ
い て い る ︒ そ う し て 競 闘 の 精 神 は 農 牧 生 活 か ら の解 放 ︑
従って物資生産のための奴隷の使用を前提とする︒自然
が従順 であるのみな らず自然を看護する人間の奴隷的従
順があってこそ︑競闘に生きる少数の武士の︑言いかえ
ればギリシア市民の︑生活が可能なのである︒自然が峻
厳 で あ る と こ ろ で は ︑ 遊 牧 の 民 は決 し て 他 の 民 族 の 支 配
283
に甘んずるものではない︒イスラエルの民はその永い奴
少数の人々
︱
すなわちギリシアの市民
︱
が農牧の生
た奴隷を作り出した︒そうしてそれはポリスを形成した
リシアのポリスの形成は他面においてかくまでも徹 底し
て︑原理的には畑を鋤く牡牛と異なるものではない︒ギ
奴隷の生活を形成するものは労働と罰と食物とであっ
牛は貧乏人にとっての奴隷である﹂と言われるのである︒
きた道具﹂として取り扱われている︒だからまた逆に﹁牡
った︒しかるにギリシアの奴隷は︑家畜と同じように﹁生
隷的な境遇にもかかわらずついに奴隷化することがなか
284
活から自己を解放したということにほかならない︒
そこで我々はいうことができる︑牧場はその否定を通
じて特に人間的な創造活動に進展したと︒緑の美しい牧
場︑すなわち従順な自然は︑一方において人間の生に没
頭する競闘の立場を作り出すとともに︑他方において人
、々
、
間 を 自 然 の 中 へ 押 し 戻 し て し ま っ た ︒ 人間 は こ こ で神
、畜
、のごとく生きる奴隷とに分裂
のごとく生きる市民と家
する︒このように徹底した分裂は︑地中海の古代世界を
除いては︑恐らく世界のどこにも起こらなかったであろ
う︒ただわずかに近世の北アメリカにおける黒人奴隷の
285
現象がこれと相似ているかも知れぬが︑しかし黒人奴隷
民について言われるのであることを忘れてはならない︒
というごときことも︑奴隷を使役する少数のギリシア市
シ ア に お け る 自 然 と の 調和 ︑ 人 間 中 心 的な 立 場 の創 設︑
アのあの華やかな文化は創造せられ得たのである︒ギリ
なかった︒そうしてこの徹底的な分裂の上にのみギリシ
ころでは︑人間はかくまで徹底的に分裂することはでき
い ︒ 自 然 の 威 力 や 恩 恵 が 人間 の上 に の し か か っ て い る と
も の で あ っ て ︑ い わ ば ギ リ シ ア の 奴 隷 の コ ピ ー に 過ぎ な
は古代の奴隷の観念に従ってヨーロッパ人が作り出した
286
ベェクによればアテーナイの盛時の人口五十万に対して
市民は二万一千人であった︒かくも多数な奴隷を家畜の
ごとく従順ならしめたところにギリシアのポリスの特殊
な意義がある︒
八
ギリシア人は以上のごとくにして己れをギリシア人に
作り上げた︒だからギリシア人の出現はギリシア的風土
と離すことができないのである︒というよりも︑ギリシ
ア人がギリシア人になるに従ってギリシア的風土もまた
ギ リ シ ア 的 風 土 と し て 己 れ を 現 わ し て来 た と 言 う べ き で
287
あろう︒ギリシアのポリスが作られたということは︑奴
自分はかつて津田青楓画伯が初心者に素描を教える言
の創造が旺然として起こらざるを得ない︒
、
る︒従って﹁観る﹂立場は活動なき停止ではなくして観
、こ
、と
、を
、競
、う
、立
、場
、である︒ここにおいて芸術的及び知的
る
民は市民となったときすでに競闘の精神に充たされてい
﹁観る﹂立場に立つことができる︒しかるにギリシア市
、定
、の
、距
、た
、り
、において﹁ながめる﹂立場︑
き労働からの一
解放せられたということである︒そこで市民は右のごと
隷が作り出されて市民が衣食住の必需に対する労働から
288
葉を聞いたことがある︒画伯は石膏の首を指さしながら
言った︑諸君はあれを描くのだなどと思うと大間違いだ
うち
ぞ ︑ 観 る の だ ︑ 見 つ め る のだ ︒ 見 つめ てい る 内 に い ろ ん
な物が見えて来る︒こんな微妙な影があったかと自分で
驚くほど︑いくらでも新しいものが見えて来る︒それを
この言葉は恐らく画伯自身が理解して
あくまでも見入って行くうちに手がおのずから動き出し
︱
て来るのだ︒
い た よ り も 一 層 重 大 な 意 味 を 含 ん で い る で あ ろ う ︒﹁ 観
る﹂とはすでに一定しているものを映すことではない︒
無限に新しいものを見いだして行くことである︒だから
289
観ることは直ちに創造に連なる︒しかしそのためにはま
然を観た︒そこにはあらゆる物の﹁形﹂が比類なく鮮や
機の到来となる︒ギリシア人はあの明朗な︑陰のない自
そこでギリシア的風土がその無限の意義を発揮する好
競ったのである︒
の 市 民 は ち ょ う ど こ の 立 場に 立 っ て ︑ 互 い に 観 る こ と を
の解放︑従って観の自己目的性を前提とする︒ギリシア
る働きは進展しない︒観の無限の発展は手段的性格から
、粋
、段
、に
、観
、る
、立
、場
、に立ち得なくてはならない︒単に手
、
ず純
、し
、て
、観るのならば︑目的に限定せられた範囲以上に観
と
290
かにながめられる︒しかもその観は互いに競うことにお
い て 無 限 に 発 展 す る ︒ そ れ は 対 象的な る 自 然が 無 限に 精
細に観察せられたということではなくして︑実は観ると
こ ろ の 主 体 が 観 る こ と に おい て 自 ら 発 展 し たこ とに ほ か
ならない︒だから明朗なる自然をながめる立場は直ちに
、朗
、な
、る
、主
、体
、的
、存
、在
、を発展せしめたのである︒そうして
明
それが明朗なる﹁形﹂として︑あるいは彫刻や建築に︑
あるいはイデアの思想に︑表現せられたのであった︒
かかる視点からして我々は︑ある意味でヨーロッパの
運命を決定しているギリシア文化の特性を理解し得るか
291
と思う︒ギリシア人が観の立場に立ったからといって彼
具︑織物︑瓶などの製作は︑前七世紀のころよりイオニ
ア人にとっての労働となる︒武器やその他の金属製の道
仕事を始め る︒すなわち人工的な工芸品の製作がギリシ
ギリシア人は自然の素材にこの﹁形﹂を印刻するという
の生産に随順することであった︒しかるに﹁形﹂を見る
仕事は︑自然に人工を加えるとはいっても︑むしろ自然
、粋
、に
、人
、工
、的
、
こ の 立 場 に おい て 新 し い 職 業 を︑ すな わ ち 純
、物資の生産を始めたのである︒自然を看護する農牧の
な
らは一切の労働をやめたわけではない︒かえって彼らは
292
アの諸都市に旺然として起こり︑アティカやアルゴリス
にも広まった︒これには地中海沿岸がギリシア人の勢力
範 囲 と な り ︑ 新 し い 植 民 地に おけ る 需 要 が 高 ま っ た と い
う理由もあるであろう︒しかし一層重大な理由は︑人工
的に形を印刻するための材料︑すなわち無生物に対する
支配が発展したということである︒優れた陶土や銅鉱や
鉄鉱は一度眼の開いた者には豊富に見いだされて来る︒
海には染料として貴い紫貝がある︒牧場からは羊毛が絶
えず生産せられている︒これらの素材を知的及び芸術的
に﹁形﹂づけること︑それが今やギリシア人の関心を支
293
配 し 始 め た の で あ る ︒﹁ 形 ﹂ を 観 る ギ リ シ ア 人 が そ の 形
でにイタリアの市場をまで支配していたと言われてい
して盛んになり︑そこで染められた織物は前六世紀にす
ア本土に伝えるに至った︒染織工業もミレトスを中心と
の島に栄え︑前六世紀には鉄の鍛接や鋳銅の術をギリシ
は金属に形をつけることである︒冶金術は初めイオニア
き数量によっても察せられるであろう︒それに次ぐもの
たかは︑イタリアで発掘せられたギリシアの瓶の驚くべ
、リ
、シ
、ア
、
を素材に印刻するという活動は︑最も単純にはギ
、瓶
、の製作に見られる︒これがいかに盛大な産業であっ
の
294
る︒かかる製造工業は競闘の精神に煽られてあらゆる都
市に栄え始めた︒市民は手工業者に転化し︑その技術を
子に伝える︒古典時代のかなり遅くまで︑ほとんどすべ
、刻
、家
、はかかる手工業者の家から出たのであった︒
ての彫
ソクラテスさえもそうである︒しかしそれでもまだ手の
足りないほど需要は多かった︒だからこれらの工芸はさ
らに奴隷の使用︑外国からの労働力の輸入によって発展
することになる︒もちろんこれには海外貿易の隆盛が伴
、工
、的
、
なうのである︒かくしてポリスの生活はますます人
、術
、的
、な
、仕
、事
、を中心とし︑それによって地中海を支配す
技
295
るに至った︒この生活様式が特に﹁西洋的﹂としてヨー
、覚
、を
、喜
、ぶ
、︒すなわ
覚をそれ自身のために喜ぶ︑中でも視
る︒感覚が何かのために役立つというばかりでない︑感
、覚
、を
、喜
、ぶ
、と い う こ と を あ げ る こ と が で き
の一として感
る︒人は本来知ることを欲するものであるが︑その証拠
徴となるのは当然であろう︒アリストテレスは言ってい
え 決 定 し て い る ︒ い わ ん や そ れ が 特 に 観 照 的 な 学問 の 特
観る立場は以上のごとくギリシア人の生産の仕方をさ
る︒
ロッパの運命を定める有力な契機となっているのであ
296
ち行為するために見るというだけではなくして︑行為を
、る
、い
、﹂と
、う
、こ
、と
、それ自身が何よ
全然考えない時でも﹁見
りもありがたいのである︒これは﹁見ること﹂が他のあ
らゆる感覚に優ってものを知らしめ︑ものの区別を明ら
かにするからである︒このアリストテレスの言葉は一挙
にして﹁見ること﹂と﹁知ること﹂との実践に対する優
位を言い現わしている︒感覚を喜ぶというギリシア人の
特性さえもが︑感覚的欲望の充足としてではなく︑まさ
に﹁見ること﹂として把捉せられているのであるのみな
らず︑彼は見ることから学問への発展を説くに当たって︑
297
前述のごとき﹁技術﹂に重大な役目を与える︒技術はす
、術
、を発明したも
言っている︒初め普通の知覚を超えた技
たものでないことを意味する︒だからアリストテレスは
、る
、立
、場
、の
、発
、展
、であって実用の地盤から出
はまた技術が観
リシア人にとっては本質的なものなのである︒このこと
き︑ おのずから考察の外に押し出され てしまったが︑ギ
は︑個人意識から出発して学問を考えるようになったと
ただ技術の純化にほかならない︒このような技術の重視
普遍的判断であって︑すでに原因を知っている︒学問は
でに真の知識なのである︒それは経験を通じて得られた
298
のは︑人々から嘆賞せられた︒しかしそれは発明が有用
であったからのみではなく︑その人が他の人々よりも大
層 賢 く ︑ 優 れ て い る と 思 われ た か ら で あ る ︒ そ の 後多 く
の技術が発明され︑そのある者は生活の必要を︑他の者
は生の喜びを目ざしていたが︑後者はその知識が有用を
目ざしていないという理由で︑常に前者よりも賢いとせ
ら れ た ︒だ か ら 最 後 に ︑ 人間 が閑 暇 を 持 ち始 め た と こ ろ
、の
、必
、要
、や
、生
、の
、喜
、び
、を
、目
、ざ
、さ
、な
、い
、学問が見い
において︑生
theōriaの
だされたのである︒この見解は技術における観る立場を
さらに発展せしめて純粋な観の立場すなわち
299
立場に達することを説いていると言ってよい︒かかる
、
た︒ギリシア彫刻の最も著しい特徴は︑その表面が︑内
支配していたとともにまた芸術家を動かす力でもあっ
てそこには一定の秩序がある︑この考えは自然哲学者を
場の中味になる︒自然はすべてを露出している︑そうし
そうして規則正しいギリシアの自然が︑ここでは見る立
中味を獲得する︒あくまでも明るい︑見えぬもののない︑
ところで観る立場の発展は観らるるものにおいてその
の立場は沙漠地方やモンスーン地方においては
theōria
決 し て作 り 出 され ば しな か っ た︒
300
、何
、な
、物
、か
、を
、包
、め
、る
、面
、と
、し
、て
、で
、な
、く
、︑内
、る
、も
、の
、を
、こ
、と
、ご
、
に
、く
、露
、わ
、に
、せ
、る
、も
、の
、と
、し
、て
、︑作られていることである︒
と
、に
、
、広がったものではなくして看者の方へ縦
従って面は横
、凹凸をなすものと言うことができる︒面のどの部分ど
に
の点も内なる生命の露出の尖端として活発に看者に向か
っ て 来 る ︒ だ か ら 我 々 は ︑ た だ 表 面 を 見 るだ け で あ る に
、
かかわらず単に表面だけを見たとは感じない︒我々は外
、において内
、面
、を見つくすのである︒彫刻家はそれを微
面
妙な鑿の触れ方によって成し遂げている︒たとえばパル
テノンのフリーズの浮き彫りにおいては︑衣文を刻んだ
301
鑿 の あ と は ま だ ま ざ ま ざ と 残っ てい る ︒ そ れ は 彫 り 凹め
模作にはほとんど見ることができない︒そこには横にす
わしている︒このような微妙な面の感じはローマ時代の
物の感触とは全然異なった生ける肌の感じを実に鋭く現
る︒それは決して横にすべる面ではない︒そうして毛織
そこまで彫り凹めたという感じをなお鮮やかに保ってい
とは残されていないが︑しかし肌のおのおのの点は鑿が
やかに現われている︒肉体の肌にはそれほど荒い鑿のあ
い︒しかもそれによって柔らかい毛織物の感触は実に鮮
た跡であって決して滑らかな面を作ろうとした跡ではな
302
べ る 面 の み が 作 ら れ て い る ︒ 従 っ て 外面 と内 部 と が 離 れ
てしまう︒しかも様式そのものは外面によってそれの他
者たる内的精神を表現するという立場に達していない︒
だからこれらの摸作の与える印象ははなはだしく空虚な
のである︒しかしこのような空虚な摸作によってもなお
、体
、
伝える事のできる一つの顕著な特性がある︒それは人
、お
、け
、る
、規
、則
、正
、し
、い
、﹁比例﹂である︒ギリシアの彫刻は
に
すでにフィディアス以前からピタゴラス学派の数の論と
密接な関係を持っていた︒比例は彫刻家の重大な関心事
の一つである︒すなわち自然の秩序正しさは芸術家の観
303
、理
、性
、
る立場の中で発展した︒ここにギリシアの芸術の合
い だ さ れ 得 な い も の で あ っ た ︒ そ こ で は 植 物 や山 野 の 形
して不規則的に現われてくる地方においては︑容易に見
このような合理性は︑自然が予料し難いものを内に隠
った︒
すでに芸術家が幾何学的な比例を見いだしていたのであ
則 正 し さ に 導 い た の で は な く ︑ 幾 何 学 が成 立 す る 以 前 に
リシアにおいては︑幾何学の知識が芸術を幾何学的な規
からして数学的学問が発展し出でたのである︒だからギ
、術
、に
、お
、い
、て
、把捉せられた合理性
がある︒そうしてかく技
304
が 不 規 則 的 で あ る の み な ら ず ︑ 人体 も ま た均斉 や 比 例 を
示 し て い な い ︒ だ か ら 芸 術 家 は ギ リ シ アに おけ るご と く
作品の統一を規則正しい形や比例に求めることができ
ぬ︒それに代わるものはいわば﹁気合い﹂の統一である︒
それは予測の許されない︑非合理的な︑従って﹁運﹂に
支配された統一であり︑従ってそこから法則を見いだす
、合
、い
、に
、よ
、る
、技
、術
、が学問に発展しな
ことは困難である︒気
かったゆえんはそこにある︒
我々は芸術や学問におけるギリシアの合理性がヨーロ
ッパの運命を支配した第二の重大な契機であると考え
305
、工
、的
、技
、術
、的
、な傾向から生まれた︒
る︒それはギリシアの人
の芸術的優秀性を伝えずしてその合理性をのみ伝えたこ
自身の発展を始めたのである︒前にローマの模作が原作
格をもって作られたということによって︑合理性はそれ
あ ろ う ︒ し か し か く も 優 れ た 学問 や 芸 術 が 特 に 合 理 的 性
れ は 外 が 内 で あ る と こ ろ の明 朗な 表 現 性に 見 ら る べ き で
、リ
、シ
、ア
、の
、学
、問
、や
、芸
、術
、の
、特
、
能であったのである︒我々はギ
、優
、れ
、て
、い
、る
、点
、が
、合
、理
、性
、に
、あ
、る
、と
、は
、思
、わ
、な
、い
、︒むしろそ
に
うわけではない︒それはギリシア的風土においてこそ可
しかし人工的技術的な傾向がどこでも合理性を産むとい
306
とを言った︒これは芸術のみならず一般の文化について
言えることである︒ローマ人の最も大きい業績は法律に
よる生活の合理化であった︒ギリシアの合理性はローマ
人を通じてヨーロッパの運命を支配するのである︒
九
ギ リ シ ア 人 が 初 め て 己 れ を ギ リ シ ア 人 に 仕上 げ た と き
に は ︑ 無 数 の ポ リ ス が 相 並 ん で 作 ら れ た ︒ し か るに ロ ー
、だ
、
マ 人 が 初 め て 己 れ を ロ ー マ 人 に 仕上 げ た と き に は ︑ た
、つ
、︑ローマというポリスが作り出されたのみである︒
一
この相違は何を意味するであろうか︒
307
ローマがハンニバルの遠征に堪えカルタゴに打ち克っ
ある︒半世紀に近いこの衝突の初期にローマ人は実にみ
、邦
、人
、の
、傭
、兵
、でもって戦っていたので
ぜならカルタゴは異
が世界支配を始めるということはなかったであろう︒な
いハンニバルが勝利を得たとしても︑セム人のカルタゴ
ン的になるかという意味で危機だったのではない︒たと
いる︒この岐れ路は︑世界がフェニキア的になるかラテ
であったと言ってよい︒ベロッホはそれについて言って
だ か ら ハ ン ニ バ ル 戦 争 は ︑ 古 代 史 に お け る決 定 的 な 岐 路
クリシ ス
たとき︑ローマの世界支配の道は開かれたのであった︒
308
じめな戦争をしなければならなかった︒が︑それはロー
マ の 兵 士 が 優 秀 で な か っ た か ら で はな く ︑ 用 兵 の 術 を 知
らない政治家が代わり合って指揮していたからなのであ
る︒ハンニバルが攻め込んで来てからでも︑彼の勝利の
重な理由はローマ軍の司令官の無能に帰せられる︒たと
えばフラミニウスやヴァロのような︑弁舌のうまいデマ
ゴーグに過ぎない人たちが司令官となっていたからであ
る︒それに反してカルタゴの方は軍令が政治によって煩
わされることはなかった︒司令官は永い間用兵の修練を
積んだ専門家であった︒だからイタリアに攻め込んだハ
309
ンニバルも︑その傭兵の組織の仕方や騎兵の訓練の仕方︑
連れ出すことができたのは︑スペインの土人が戦争好き
たからである︒ハンニバルがスペインから優勢な軍隊を
、人
、だっ
たからであり︑一つはフェニキア人が本質的に商
使 わ ね ば な ら な か っ た か ︒ そ れ は 一 つ は 人 口 が 少な か っ
局の原因は傭兵ということに帰着する︒ではなぜ傭兵を
進 し て 行 く 気 魄 が な かっ た ︒だ か らカ ルタ ゴの 敗北 の 結
結局傭兵である︒ハンニバルの軍隊には一路ローマに突
ち克ったのである︒が︑戦いの技術はうまくても傭兵は
さらにはその戦略などにおいてやすやすとローマ軍に打
310
だったのと︑その土地の豊富な 銀鉱をカルタゴ人が利用
し得たことによっている︒だからハンニバルが勝利を得︑
カルタゴが地中海を制し得たとしても︑ローマ人のよう
、治
、的
、に
、支
、配
、す
、る
、こ と に は 手 を つ け な か っ た で あ ろ
に政
う︒そうすればギリシア人は依然としてギリシア国家を
営み続けたであろうし︑イタリアのエトルスキもまた独
、中
、海
、沿
、岸
、は
、さ
、ま
、ざ
、ま
、
立の国として発展したであろう︒地
、民
、族
、の
、さ
、ま
、ざ
、ま
、の
、文
、化
、が
、競
、う
、て
、発
、展
、す
、る
、舞
、台
、に
、な
、る
、︒
の
ローマの世界征服がもたらしたような文化の頽廃は恐ら
く 起 こ らな か っ た に 相 違 な い ︒ た と い 起 こ っ た と し て も
311
よほどそれを遅らせることができたであろう︒しかるに
ではないかと言うかも知れぬ︒しかしこの大王の世界支
ドロス大王の世界帝国の理念がすでにそれを示している
危機・岐路であったのである︒人はあるいはアレキサン
件であった︒だからハンニバル戦争は実際に世界史的な
このことはヨーロッパの運命にとってはまことに大事
空虚な普遍 性がこの時から栄え始めるのである︒
の中に取り入れる︒文化の特殊的な発展が阻止せられて︑
た︒この後彼らは手の届く限りの国土をローマのポリス
ローマの勝利はローマ人を地中海の独裁者にしてしまっ
312
配はギリシア精神にもとるものとして︑たとえばデモス
テネスのごとき人によって力強く反対せられたものであ
った︒また事実上ギリシア人はそれを持続しては行かな
かった︒大王の死後には東はバクトリア︑西はエジプト
や シ リ ア に そ れ ぞ れ 独 立 の 国 家 が 形成 せ ら れ て い る ︒ ギ
リシア文化の地方的な特殊的発展はようやく緒につきか
けていたのである︒だからもしローマ人がカルタゴに敗
北していたならば︑地中海沿岸が一つのポリスに統一せ
られるというようなことは︑恐らく起こらなかったであ
ろう︒
313
と言ってもアレキサンドロス大王の仕事とローマの勃
が︑それはローマ付近の平野と山地における小さい部族
の年月もたっており︑ポリスの組織にも変遷があった︒
する国家にまで発展して来ている︒その間に三世紀以上
マは原始的な部族から八千平方キロメートルの領土を有
ドニアの勃興と同時であった︒もちろんそれまでにロー
、土
、の
、
起こったのである︒すなわちローマ人がその狭い国
、界
、を
、超
、え
、て
、初めてサムニウム人と衝突したのは︑マケ
限
不思議にもこの二つの現象はちょうど時を同じゅうして
興との間に何らの意味の連関もないというのではない︒
314
間 の 結 合 の 歴 史 に 過 ぎ ぬ の で あ る ︒ し か るにこ の 時 に ロ
、外
、へ
、の
、発展というべきものの第一歩を踏み出し
ーマは国
たのであった︒そうしてその﹁統一的国家﹂としての優
勢を利用してまもなくナポリ湾まで領土を広めた︒そこ
で︑五十万の人口と一万二千平方キロメートルの国土を
有 す る 新 興 の 国 家 と し て 初め て ギ リ シ ア の 植 民 地 と の 抗
争関係に入り込んで行ったのが︑ちょうどアレキサンド
ロ ス 大 王 の 東 方 遠征 の こ ろ で あ っ た ︒
このローマの歴史において我々の注意を特に刺激する
点は︑初めに言ったように︑ギリシアのポリスがもとも
315
、元
、的
、に発展しているのに対して︑ローマのポリスが
と多
、初
、の
、水
、道
、
どその時期に︑アピウス・クラウディウスが最
、外
、へ
、の
、進
、出
、を始めたちょう
前述のようにローマがその国
大につれてこの限界をも超えて拡大して行く︒そうして
こで﹁七つの丘の町﹂が成立する︒やがて町は国家の増
ベルとの間の平地が家に覆われ城壁に囲まれてくる︒そ
丘 は す で に 前 六 世 紀 に は 狭 す ぎ て来 た ︒ 付 近 の 丘 や テ ィ
して行く︒だから最古のローマの町であるパラティンの
ベル河の傍の小さな部落を核として︑徐々に増大し展開
、一
、的
、な傾向を有することである︒それはティ
初めより統
316
をローマへ引いたのである︒︵ Aqua Appia, 312 B. ︶
C.
ここで我々は風土的なるものに連絡する︒ローマを訪
れる人々が古蹟の内の最も印象深いものの一つとして
﹁水道﹂をあげるように︑ローマ人と水道とは離すこと
のできないものである︒が︑何ゆえにかくも水道が著明
なのであろうか︒それは一つはローマの水道が巨大な人
工的構築物であることにもよるであろう︒しかし水道が
、工
、に
、よ
、っ
、て
、自
、
かく大仕掛けに作られたということは︑人
、の
、拘
、束
、を
、打
、ち
、破
、っ
、た
、ということにほかならない︒ロー
然
マは水道によってギリシアに見られないような大都市に
317
発展することができた︒それは同時にローマ人が土地の
ーバイやメガラにもその痕跡はある︒しかしギリシア人
ナイでもヒメトスやペンテリコンの水を引いている︒テ
るほど水道はすでにクレータの宮殿にもあった︒アテー
た︒自分にはこの洞察が非常に興味深く感ぜられる︒な
、の
、制
、限
、に も と づ く の で は な い か と 語 っ
スの大きさは水
亀井高孝氏はギリシア旅行のあとで︑ギリシアのポリ
すでに象徴的に示しているのである︒
を作り出すに至ったことを︑その仕事の初期において︑
制限を破ってギリシアに見られないような巨大なポリス
318
、の
、制
、限
、を覆すほど大きい水道を作ろうとはしなかっ
は水
、定
、さ
、れ
、た
、も
、の
、とし
た︒むしろ逆に︑ポリスの大きさを限
て考えているのである︒アリストテレスはポリスの人倫
的組織としての任務から見てその限界を定めている︒市
民が相互にその特性を知り合い得る程度の人口がちょう
ど 好 い の で あ る ︒ し か ら ば ポ リ ス は 本 質上 大 都 市 と な る
べきものではない︒従って水の制限を破る必要もないの
である︒このようなポ リスの考 え方 は必然にポ リスの並
立を是認することになる︒しかるにローマ人はローマを
一つの国家に仕上げるとともに直ちに水の制限を打破し
319
始めた︒これはローマ人がギリシア人から学び取ったの
、リ
、シ
、ア
、人
、の
、な
、し
、得
、
が︑人工的な水道によってちょうどギ
、か
、っ
、た
、自
、然
、征
、服
、に着手したということは︑ローマ人が
な
、工
、的
、な
、自
、然
、征
、服
、をギリシア人から教わったローマ人
ら人
ケフィソス河よりもはるかに水量の多い河である︒だか
イ タ リ ア は ギ リ シ ア ほ ど 乾い て は い な い ︒ テ ィ ベ ル 河 は
いつくことができたという事情も考慮されねばならぬ︒
きない水の制限の打破を︑ティベル河の側では容易に思
ぬ︒が︑またギリシアにおいて容易に思いつくことので
、有
、の
、天
、才
、を 働 か せ た も の と 見 ら れ ね ば な ら
ではない固
320
ティベル河の傍にいてケフィソス河の傍にいなかったと
いうことにもとづくと言ってよい︒
このようにローマの水道は︑ポリスの制限の否定︑従
、対
、的
、な
、統
、一
、の
、
ってポリスの並在の否認︑言いかえれば絶
、求
、を象徴する︒ここに我々はギリシアにおける﹁多様
要
性への努力﹂に対立して︑ローマにおける﹁統一への努
力﹂を取り出すことができる︒ところでギリシアの多様
性への方向はギリシアの自然にもとづくと言われてい
る︒なぜならここではすべてのものが多様な形に分離し
ているからである︒それならばローマの統一への方向も
321
またイタリアの自然にもとづくと言い得られるであろう
的傾向を示している︒パルメニデスの﹁有﹂もまた明ら
アに住んだ人であるが︑力強く多神教に反対して一神教
リアの所産であった︒クセノファネスはエレアやシチリ
と言えぬであろうか︒哲学においてはエレア哲学がイタ
、方
、的
、な
、特
、性
、が存する
タリアにおいて作られたものには地
推測する︒同じくギリシア人の作った文化の中でも︑イ
我々はそこに何らかこれに類する特性の存したことを
見えるのであろうか︒
か︒ここではすべてのものが一つの原理に帰するように
322
かに絶対的な統一への要求を示している︒ゼノンが多様
性の矛盾を鋭く指摘したのは著明なことである︒文芸に
おいては叙事詩と劇との中間に位するような﹁牧歌﹂の
様式がシチリアの所産であった︒それは叙事詩のように
人物を丸彫りにせず︑また劇のように性格を際立たせな
い ︒ い わ ば 物 語 を 抒 情 詩 的 な 大 気 の 中 へ 融 か し 込 んだ も
のである︒このような哲学と文芸の特性はイタリアの自
然に もとづく とは言えぬであろうか︒シチ リアはギ リシ
アに到底見られぬほど潤いのある緑の美しい国土であ
る ︒ そ こ に 牧 歌 が 生 ま れ るこ と は い か に もふ さ わ し い ︒
323
エレアは今でもギリシアの殿堂の残っているペスツゥム
ギリシアの自然よりもさらに一層従順であったというこ
っ た こ と ︑ 従 っ て 食 糧 を そ こ か ら 求め る 人間 に と っ て は
適度の湿潤のゆえに︑ギリシアよりもはるかに豊沃であ
然のように思われる︒特にこれらのイタリアの自然が︑
哲学が生じたことは︑少なくとも自分には︑はなはだ当
ほかになお特殊な静けさがあったであろう︒ここに有の
の植民市のうちでもまず北辺に近い方で︑風景の秀麗の
は五十里の海を距ててシチリアに対する︒イタリア海岸
に近い海岸で︑東に六千尺のチェルヴァティを負い︑南
324
と︑それが文芸や哲学に一味の静けさを与えたと見るこ
ともできよう︒
このことはイタリアの風土がギリシアよりも一層合理
的 で あ っ た こ と を 意 味 す る ︒ そ こ は ギ リ シ ア と 異な っ て
もと森林に覆われていた︒しかもそれが開墾されて畑と
なり果樹園となり牧場となるに当たって︑人工の支配が
一層有効に行なわれ得たのである︒だから人工的合理的
な自然の支配という点においては︑イタリアはギリシア
に優ると言ってよい︒これがローマ人をして人工の支配
を 無 制 限に 押 し 進 め る と い う 傾 向 を 持 た し め た の で あ ろ
325
う︒だからギリシアの文化がすでに前八世紀のころより
ったことをまでなし得るに至ったのである︒ローマの偉
人間の征服に関しては︑彼らはギリシア人のなし得なか
の表現をなし得なかった︒しかるに合理性による自然と
だギリシアの産物を受け容れるのみであって︑己れ自身
、の
、表
、現
、に関する限りにおいては︑ローマ人はた
およそ生
び取ったのである︒宗教︑芸術︑哲学︑言語︑文字等︑
、現
、理
、工
、性
、をではなくして合
、性
、や人
、の
、喜
、び
、を学
シア人の表
でその影響を及ぼした永い年月の間に︑ローマ人はギリ
イタリアに植え込まれ︑イタリアの生活のすみずみにま
326
大 な 建 造 物 は ︑ そ の 表 現 性に お い て は ほ と ん ど 言 う に 足
、工
、の
、威
、力
、を示している点においては
りない︒が︑その人
ギ リ シ ア を は る か に 凌 ぐ の で あ る ︒瓦 の よ う に 薄 い 煉 瓦
を豊富な天然モルタルで固めた厚さニメートル三メート
ルの壁などというものは︑石に形をつけることをのみ考
えていたギリシア人の思いも及ばぬところであろう︒ロ
ーマ人がギリシアを征服してその豊富な彫刻を己れのも
のとしたときにも︑彼らはそこに合理的な人工の喜びを
見いだしたのみであって︑その豊かな表現性を感ずるこ
とはできなかった︒このような合理的な人工の喜びが人
327
間の事に関して現われるとき︑そこにローマ人の世界史
ローマの教育の下に中西ヨーロッパがおいおい開けて
一〇
千数百年にわたってヨーロッパを支配したのである︒
教会として︑すなわち統一的あるいは普遍的教会として︑
た︒そうしてこのローマの﹁統一﹂が︑後にはカトリク
リアの風土から理解せられる︒ Civitas Romana
はまさに
イタリアの産物であってギリシア的なポリスでなかっ
、一
、へ
、の
、傾
、向
、もまたイタ
かく見ればローマ人における統
的な貢献としての万民法が結晶するのである︒
328
くるに従って︑ヨーロッパ文化の中心もまた漸次中西ヨ
ー ロ ッ パ に 移 っ て 行 く ︒ 近 代 ︑ 特 に 文 芸復 興 期 以 後に 至
れば︑地中海沿岸はむしろ故蹟地に化してしまう︒この
、地
、が
、移
、る
、という契機は顕
ように文化の展開においても土
著に存しているのである︒そこで古代対近代というごと
、化
、土
、の
、相
、違
、が同時にまた南欧と西欧との風
、の
、相
、違
、と
き文
いう視点からもながめ得られることになる︒かかる風土
の相違はいかなるものであろうか︒
ベェクは古代と近代との文化の特性を次のような七つ
の範 疇によって対照している︒
329
代
近
代
精 神 の 支 配
古
自 然 の 支 配
由
自
念
性
論
性
被 東 縛 性
遍
観
面
性
普
論
内
観
性
在
性
主
個
実
面
性
統一への努力
外
観
多様性への努力
客
う︒特にそれは芸術における古典様式とバロック様式と
この対照は細かな点においては種々の異論があるであろ
330
の 対 照 に も 親 近 性 を 示 し て お り ︑ 従 っ て 一 時代 の 文 化 の
内部における二つの類型としても立てられ得るのであ
る︒たとえば古代において︑ギリシア文化対ローマ文化
の対照は︑何ほどか右のごとき範躊によって理解せられ
るものを持っているであろう︒が︑もしローマの精神が
その法律とともに西ヨーロッパに染み込んでいるとすれ
ば︑この類似は当然だと言われねばならぬ︒またイタリ
ア文 芸復興 期に お け る古典様式 がギリシア精神 の復活と
いう意味を持つ限りにおいては︑上記の親近性もゆえな
きことではない︒一般にイタリアの文芸復興期はローマ
331
よりもむしろギリシアの復活である︒ローマ帝国の理念
だから近代の範躊にはまってくるのは︑バロック様式が
、現
、理
、性
、と合
、的
、傾
、向
、とを示している︒
れと同じく顕著に表
れ︑そうしてそこから作り出される美術はギリシアのそ
、誉
、心
、に 動 か さ
や芸術家はギリシア人と同じく烈しい名
、争
、があり︑その諸都市の政治家
おけると同じく烈しい競
であった︒そうしてそれらの諸都市の間にはギリシアに
新しくイタリアに起こった諸都市は︑ Civitas Romana
と
何の似寄りもない︑ギリシアのポリスのような都市国家
はすでに久しくアルプスの北に移っていた︒中世末から
332
始まった以後であり︑そうしてそのころにはイタリアの
諸都市の繁栄は大西洋岸の諸都市に奪われてしまうので
、リ
、欧
、シ
、ア
、の古代と西
、の近
ある︒だからベェクの範躊はギ
代とを対照する意味において︑ほぼ正鵠を得ていると見
てさしつかえないであろう︒
ところでこのベェクの範疇は︑我々から見れば︑ちょ
うどまたヨーロッパの地中海沿岸地方と大西洋沿岸地方
との対照をも示しているのである︒我々はそれを総括し
、リ
、欧
、シ
、ア
、的
、明
、朗
、に対する西
、の
、陰
、欝
、と呼ぶことができ
てギ
るであろう︒しかし我々はこの相違が牧場的風土の中で
333
の地方的相違であることを忘れてはならない︒西欧の陰
なく︑従って温度ははるかに低い︒特に冬の寒さは南欧
しここでは地中海沿岸におけるように太陽の光が豊かで
岸と共通であることによってすでに示されている︒しか
と の 総 合︑ 夏 の 乾 燥 ︑ と い う ご と き 点 に お い て 地 中 海 沿
西 欧 の 風 土 が 牧 場 的 で あ る こ と は ︑ そ れ が 湿潤 と 乾 燥
一一
場的 性格を省みておかなくてはならない︒
い ︒ だ か ら 我 々 は こ の 陰 欝 を 捕 え る 前 に 西 欧 の風 土 の 牧
欝は牧場的風土の陰欝であってステッぺの陰欝ではな
334
に見られない酷しいものである︒このような風土が南欧
と同じく﹁自然の従順﹂を特徴とすると言えるであろう
か︒自分はしかりと答える︒西欧の自然は南欧のそれよ
りも一層従順なのである︒
西欧の冬の気温は日本よりもはるかに低い︒昼中の気
温 が 零 下 六 七 度 と い う の は普 通 の こ と で あ る ︒ ド イ ツ で
は寒い時には零下十七八度くらいにはなる︒しかし気温
、ぎ
、に
、く
、い
、というわけではない︒第一
に比例して寒さが凌
、た
、い
、の
空気の含む湿気が少ない︒だから空気は純粋に冷
であって︑底冷えのする寒さを感じさせはしない︒第二
335
に朝夕の変化が少ない︒だから体が寒さに引き回される
に堪え得るのである︒のみならずこの緊張感が何らか望
ら人間は内から緊張することによって比較的容易に寒さ
はおかないような︑暴圧的な寒さはないと言える︒だか
かし空気を媒介として人間に迫り︑人間を萎縮させずに
さではない︒そこには淀んだ︑冷たい空気はあるが︑し
ならば︑西欧の冬において烈しいのは冷たさであって寒
、さ
、た
、と冷
、さ
、とを区別して考える
いう感じがない︒もし寒
い︒だから寒さが目立って攻勢的に人間に迫って来ると
という感じがない︒第三に寒風の吹きすさぶことが少な
336
ましいものにさえもなる︒ドイツ人は空気の冷たさを
︵清涼とでも訳すべきであろうか︶と呼び︑そ
Frische
の引き締まる感じを喜んでいる︒零下六七度くらいの気
温はむしろこの清涼に属するであろう︒厳寒のころに寝
室を温めないで寝る人も決してまれではない︒もちろん
それは他方に保温の設備の行き届いた室があるからでも
ある︒が︒この保温の設備そのものが湿気少なく風なき
冷たさに対しては︑比較的に容易なのである︒人は凌ぎ
にくい暑熱と湿気を全然考慮に入れることなく︑ただ冷
たい空気をのみ目標として家を建てることができる︒そ
337
こ で は空 気 の 絶 え ざ る 流 通 に よ っ て 湿 気 の定 着 を 防 ぐ と
らしめる︒それは人間の自発的な力を内より引き出し︑
ば 西 欧 の 寒 さ は 人間 を 萎 縮 せ しめ る よ り も む し ろ 溌 剌 た
っているとは必ずしも言えないと思う︒一言にして言え
り簡単なものが多い︒日本よりはるかに多くの薪炭を使
る︒が︑この保温の設備さえもフランスや英国ではかな
は湿気を帯びた暑熱よりもはるかに征服しやすいのであ
出されるまでは室内に淀んでいる︒だから空気の冷たさ
厚い壁によって外界から仕切られ︑人為的に室外に追い
いうような必要がない︒従って温められた空気は乾いた
338
寒さに現われた自然の征服に向かわしめ︑そうしてそれ
を従順な自然たらしめている︒家屋の構造と保温の設備
とは︑人間から寒さへの恐れを全然洗い去っているので
ある︒
このような自然の従順は同時に自然の単調を意味す
る︒我々が通例冬の風情として感じているものはそこに
は存しない︒たとえば寒風が身に沁みるように寒いとと
もにまた日向ぼっこの楽しみがあり︑牡丹雪がふわふわ
と積もるかと思えば次の日は朗らかに晴れて雪解けの雫
の音がのどかに聞こえる︑というようなことは︑湿気と
339
日 光 と 寒 さ と の 合 奏 な の で あ っ て︑ ただ 冷 た さ か ら だ け
が人間の自発性を引き出したということにほかならぬの
ちただ人為的なものにのみあると言ってよい︒それは冬
室内に︑炉辺に︑劇場に︑音楽堂に︑舞踏室に︑すなわ
の従順さを示すのである︒だから西欧の冬の風情はただ
よらない︒このように変化の少ないことがそのまま自然
ない光線が射すだけで︑昨日の雪を解かすなどは思いも
の弱いところではたまに晴れても月光のように暖かさの
度になってもめったに雪は降らないのである︒また日光
では生じない︒湿気の少ないところでは気温が零下十何
340
である︒
︵亀井教授の説によれば︑西欧における﹁機械﹂
の発明もまたこの室内における人間の自発性に帰着する
らしい︒しかし氏はさらにこの自発性を冬の陰欝に対す
る対抗に関係させて考えている︒︶
烈 し い 暑 熱 は こ の よ う に 容 易 に 征 服 され る も の で はな
い︒人は暑熱を寒さのように人為的に防ぐことができな
い︒また暑熱を閑却して人為的なものに没頭することも
できない︒しかも西欧の風土は︑この凌ぎにくい暑熱の
代わりに凌ぎやすい寒さを置き換えたものと言うことが
できるであろう︒それは南欧に見られないような寒い冬
341
を持つとともに︑また南欧のごとき烈しい夏を持たない
ぎない︒真夏でも冬服で通すことができ︑また実際そう
の暑さを感ずる日でも︑気温はせいぜい二十六七度に過
夏は南欧の晩春初夏に過ぎぬのである︒主観的によほど
ドイツでは夏を通じて青々と茂っている︒だから西欧の
刈り取られ︑イタリアでは麦とともに姿を消す牧草が︑
られる麦が︑ドイツでは七月の末から八月の末へかけて
るであろう︒だからイタリアでは五月に黄ばんで刈り取
月のころに当たり︑イタリアの五月が後者の真夏に当た
のである︒イタリアの二月はドイツや北フランスの四五
342
している人がまれではない︒老人などは冬外套をかぶっ
ているのさえも見かけられる︒女は薄い絹の着物の肩に
首のついた毛皮を背負って歩いている︒夏服と称せらる
るものも我々が十一月に着て歩くことのできるものであ
る︒このような夏がきわめて凌ぎやすいものであること
は言うまでもないであろう︒
しかし夏の自然の従順は湿気と暑熱とによる変化のな
いことにほかならない︒それはヨーロッパから雑草を駆
逐 し 全 土 を 牧 場 的 な ら し め た 根本 条 件 で あ る が ︑ 同 時 に
西欧の夏から我々が夏の風情と考えるものを駆逐したゆ
343
えんである︒たとえば夏の朝夕の爽やかさとか︑暑さを
いうことを意味するのである︒日本の農人が鋤鍬を田畑
人が夕暮れにその農具を畑に野ざらしにして家に帰ると
に足を濡らすということがないという事実は︑同時に農
気温の相違が少ないために︑早朝の牧場に出ても草の露
いうだけのことではない︒空気に湿気が乏しく昼と夜の
洋 の 旅 行 者 が ︑ 西 欧 の 夏 の 自 然 を 物 足 り な く 感 ず る︑ と
には存しない︒が︑このことは︑気象の変化に慣れた東
夕立とか︑あるいは蝉の声︑虫の音︑草の露等々はそこ
払って流れて行く涼風とか︑炎天のあとの気持ちのいい
344
から担いで帰り︑ 泥を洗って納 屋にしまい込むのを見慣
れ て い る 我 々 に と っ て は ︑ こ れ は かな り 大 き い 事 実 で あ
さ
る︒夜︑農具を畑に放置してもそれが決して錆びないと
いうようなことは︑恐らく日本の農人の思いも及ばぬ所
であろう︒いわんやドイツにおけるように家から畑への
距離の遠いところでは︑農具の運搬の手が省けるという
ことは少なからぬ労働の軽減を意味するのである︒同様
に虫の音が聞こえぬということは︑夏の夜を寂寞たらし
めるだけではない︒それは一般に昆虫が少なく︑従って
また農作物の害虫が少ないことを意味する︒自分はかつ
345
てベルリン近郊のグリューネワルドやワイマルに近いテ
ここに台風や洪水をあげたことに関連して西欧におけ
から見れば︑比較にならない理想郷であるとも言えよう︒
繁殖が台風︑洪水︑干魃に次いで農作の脅威である日本
は︑初めはほとんど信ぜられないほどであった︒害虫の
日 本 の 夏 山 の 無 限 に 多 い 昆 虫 の営 み を 見 慣 れ て い る 眼 に
蛾が同じ方向に幾つも飛んで行くのを見たきりである︒
匹の蟻をさえ見いだすことができなかった︒ただ一種の
が︑下草のほとんどないこれらの林や森には︑ついに一
ュ ー リ ン ガ ー ワ ル ド で︑ 昆 虫 を 探 し て 歩 い たこ と が あ る
346
る風 と雨とを取り上 げてみよう︒我々にとっては夏の自
然の暴威は台風と洪水とにおいて頂上に達する︒そのよ
うに西欧の夏の自然の温順もまた風と雨との温順に帰着
するのである︒
我々は前にしばしば空気の淀みを語った︒それは冬に
寒風少なく夏に涼風の少ないことを意味するのである
が︑しかしなおその上に﹁淀み﹂としての積極的な意味
を持っている︒それは凝乎として動かない空気であって︑
我々の国土ではまれにしか経験し得られないと思う︒そ
れが特に感ぜられるのは空気の冷たい時あるいは熱い時
347
である︒冷たいあるいは生温い空気が都会を包んで全然
そこは非常に細かな︑粟粒よりも小さい︑そうして粘着
ば︑たとえば北ドイツの土地そのものがそれであろう︒
さらに風の少ないことを客観的に示すものを求めれ
の風土にとっては持ち味なのである︒
いる︒そうしてこのような空気の淀みの方がむしろ西欧
飛行機が空に描いた煙文字は永い間薄れずに形を保って
乱れることなくまっすぐに昇って雲の中に消えて行き︑
は膠着したかのように感ずる︒かかる時には煙突の煙は
流れることのない時︑我々はあたかも空気が凝結あるい
348
性を持たない砂によってできている︒しかもこの細かな
砂が風によって飛ばされない︒日本の海岸で数倍の大き
い 粒 が 絶 え ず風 に 運 ば れ る の を 見 てい る 者に は︑ 実 際 不
思議に感ぜられる︒だからまたこういう砂地に茂ってい
る松の木も︑そろってまっすぐに立っている︒広々とし
た牧場の間に立っている落葉樹も同様にまっすぐであ
る︒一般にドイツの樹木は直立している︑と言ってもよ
い︒このことはテューリンガーワルドのような山林にお
いては一層著しい︒林とは直立せる樹木の並列であって︑
幹と幹とは精確に平行線をなしている︒このような感じ
349
は日本の杉林檜林にもまれである︒自分はいくらかそれ
げられるのは︑すかした場合に一度暴風が来れば樹木が
かの議論を描いている︒すかしてならない理由としてあ
襲山 林 監 督 官 ﹄ の な か で山 林 の 樹 を す か す か す か さ な い
木が根こそぎに倒されるのである︒ルトウィヒはその﹃世
家を倒すほどの大暴風が吹いた時のように︑これらの樹
たまに我々がやや強いと思う程度の風が吹けば︑日本で
圧を受けつつ育ったのでないことを示している︒だから
本としては風の少ないところであろう︒これは樹 木が風
に近いものを吉野の杉林で見たことがあるが︑吉野は日
350
こ と ご と く 倒 れ る か ら で あ る ︒ そ れ ほど 暴風 は まれ で︑
また樹木が風に慣れていないのである︒樹木のこのよう
な直立性はドイツの風景が整然とした感じを与える理由
の一つだと思われる︒フランスではこれほどまっすぐで
はない︒しかしそれでも北フランスなどでは︑牧場や畑
、じ
、よ
、う
、に
、そ
、ろ
、っ
、て
、一方へ
の間に並ぶ一列の楊の木が︑同
、
曲がっているのが見受けられた︒曲線でありながらも平
、し
、て
、い
、る
、のである︒これは風が整然として吹くことを
行
、の
、降
、り
、方
、がまた実に穏やかであ
風の少ないと同じく雨
示 し てい る︒
351
る︒夏の雨でさえも︑日本の春雨のように︑降るともな
度も続けば︑田舎では低地の牧場が水に浸ってしまう︒
排水の設備が小さいのである︒またその程度の雨が二三
して排水するという騒ぎになる︒それほど雨水に対する
道路に水があふれて地下室に浸入し︑消防自動車が出動
ある︒しかもこの程度の雨が半時間も続けば︑都会では
入り口に雨宿りをしていれば︑それで済んでしまうので
がる程度の雨が降るにしても︑その時しばらく人の家の
しない︒きわめてまれに傘の必要な︑ズボンにハネの上
く 降 る と い う 降 り 方 を す る ︒ だ か ら 通 例 は 雨傘 を 必 要 と
352
なぜならば雨水を河まで導いて行く小溝などというもの
は牧場や畑の間には全然ないのだからである︒日本では
広い斜面が両方から流れ降りて谷を形作っている場合に
は通例その谷底に小川を見いだすことができる︒しかし
ドイツあたりではほとんどそれを見ることができない︒
小 川 の 流 れ て い る の は よ ほど の 大 き い 谷 で あ る ︒ 従 っ て
また有名な川が我々にとっての小川に過ぎない場合もあ
よ
ぎ
せんだがや
る︒たとえばワイマルを流れている有名なイルム川は
よ
代々木から千駄谷の谷を流れている小川と同じくらいの
ものである︒河川が国土にとっての排水の設備であると
353
言い得るならば︑この設備もまたきわめて小さい︒ライ
実際西欧の大陸のように土地の傾斜のゆるいところで
かだということなのである︒
が小さいということは︑取りも直さず雨の降り方が穏や
な い ︒ こ の よ う に 都 会 に し ろ 国土 全 体 に し ろ 排 水 の 設 備
た り で は ︑ 堤 防 も な く 牧 場 の 中 を 流れ る 優 し い 川 に 過 ぎ
の水を集めたエルベ河さえ︑ベルリンの南方デッサウあ
きい河ではない︒ザクセンからボヘミアまでの広い山々
ぶからであるが︑しかしそれでも我々を驚かせるほど大
ンが大きいのは﹁ヨーロッパの屋根﹂アルプスの水を運
354
我々の国土におけるごとき猛烈な雨が降ったならば︑そ
の排水は容易なことではなかろう︒ベルリンは海から五
十里離れているが︑海抜はわずかに百尺である︒北ドイ
ツでエルベやオーデルが運河で連なっているように︑フ
ランスでもローヌ︑ロアール︑セーヌ︑ラインなどはす
べて運河で連絡している︒ところどころの運河の堰で水
位を調整しつつ︑地中海から北海までの水行の道が通じ
ているのである︒こういう傾斜のゆるい平原が︑沼沢に
もならず美しい牧場や畑として適度に乾いているという
ことは︑もともと排水の必要が少ないからなのである︒
355
まれに例外的な雨があるとしてもそれは風土の性格を破
すなわち五月上旬から中旬へかけて︑いつ伸びたともな
のである︒そうして我々が新芽の姿に飽き果てたころに︑
ない︒毎日の印象にかつて芽が伸びたという感じがない
るが︑しかしその芽は時計の針のように動きを感じさせ
れている︒落葉樹は四月の初めにはすでに芽を出し始め
の 変 化 の 緩 慢 ︑ 特 に 植 物 の 生 活 の 驚 く べ き 悠長 さ に 現 わ
の変化が緩慢だということなのである︒このことは季節
ところで風雨が穏やかであるということは一般に気象
ることはできぬ︒
356
く新緑の豊かさを示してくる︒これは我々にとっての新
緑とはまるで調子の違ったものである︒ここでは新芽は
日ごとに姿を換え︑一夜見ぬ内に驚くほど成長する︒む
しろ我々の方が新芽の成長に追い立てられるように感ず
る︒このような印象は西欧の新緑からは受けることがで
き ぬ ︒ や が て 夏 に な れ ば よ う や く 麦 が 黄 ば ん で来 る が ︑
七月の末にすでに黄熟した麦は︑静かに直立したまま八
月の末まででも姿を変えずにいる︒これはわが国におい
このような植物の生活はそのまま農人の生活に反映す
ては稲が急激に成長して花を開くまでの期間である︒
357
る︒麦の収穫時は恐らく年中の最も忙しい時期と思われ
れば︑人間にとって最も都合のよいものである︒温順の
こ の よ う に 温 順 な 自 然 は ︑ ただ そ の 温 順 さ か ら の み 見
として自然を従えて行くことができるのである︒
のである︒人間は自然に追い立てられることなく︑悠々
ぐろしく働く日本の農人の生活とはまるで調子の違うも
ることができない︒これは麦の収穫から田植えへと目ま
刈り取りの仕事をしている農人たちの姿はまれにしか見
て続いている︒だから収穫時の広い野原を見渡しても︑
る が ︑ し か し そ れ は 七 月 の 末 か ら 八月 の 末 ま で 悠 々 と し
358
半面は土地が痩せていることであり︑従って一人の支配
す る 土 地 の 面 積 は 広 く し な く て はな ら な い が︑ し か し 一
人の労力をもって何倍もの土地を従えて行くことのでき
るのは︑自然が温順だからである︒昔ゲルマン人が半遊
牧 的 な 原 始 共 産 主 義 の社 会 を 作 っ て い た こ ろ に は ︑ そ こ
は暗い森に覆われた恐ろしい土地であったかも知れな
い ︒ し か し 一 度 開 墾 さ れ ︑ 人 間 の 支 配 の 下 に も た ら され
るとともに︑それはそむくことなく従って来る自然とな
っ た の で あ る ︒ 実 際 西 欧 の 土 地 は 人間 に 徹 底 的 に 征 服 せ
られていると言ってよい︒それは広々とした大陸である
359
にかかわらず︑すみからすみまで人力の支配の届かない
いる︒これらの山地も全然利用され得ないとは言えぬで
い山 地に充たされた我々の国土とは非常な相違を見せて
この事実は人力をもって容易に支配することのできな
と言ってよい︒
る︒だから西欧には利用され得ない土地はほとんどない
のどの部分の樹も馬車で運び出すことができるのであ
傾斜が緩慢だからであるが︑しかしまさにそのゆえに山
まで行なわれ︑道路は絶頂まで通じている︒それは山の
所 が な い ︒ 深 い と 言 われ る山 で さ え も ︑ 植 林 は す み ず み
360
あろう︒しかしアメリカの材木が日本の山の中でさえも
使用せられるとすれば︑日本の山は材木の生産地として
充分な資格を持つとは言えない︒そうしてそれは山が嶮
峻 で 運 搬 が 困 難 だ か ら な の で あ る ︒ の み な ら ず 日 本 の山
には植林が容易でなく︑ただわずかに薪炭を供給するに
留まるものが多い︒しかもこのような山地が日本の国土
の大部分なのである︒だから日本の土地の大部分はいま
だ充分に人間の支配を受けていないということができ
る︒日本人はただ国土の僅小な部分のみを極度に働かせ
て生きているのである︒その僅小な部分も決して温順な
361
自 然 と は 言 え な い ︒ そ れ は 隙 さ え あ れ ば 人間 の 支 配 を 脱
論﹂ではなくして芭蕉に代表 せられるごとき﹁芸術﹂で
すことができなかった︒そこから生まれて来たものは﹁理
かし日本人はこの﹁技術﹂の中から自然の認識を取り出
農芸地に仕上げたのも︑日本の農人の力である︒ただし
かれたカリフォルニアを︑今や世界じゅうの最も豊饒な
ヘルデルによって世界じゅうの最も不毛な土地の例に引
界じゅうで最も優れた﹁技術﹂を与えた︒百五十年前に
強度を高め得る土地である︒このことが日本の農人に世
しようとする︒その代わりにそれは豊饒な︑いくらでも
362
あったのである︒
こ れ を 思 う と 西 欧 の 自 然 の 温 順 は 自 然に 対 す る 人 間 の
﹁作業知﹂の開発と引き離すことのできないものである︒
従順な自然からは比較的容易に法則が見いだされる︒そ
うして法則の発見は自然を一層従順ならしめる︒かかる
ことは突発的に人間に襲いかかる自然に対しては容易で
な か っ た ︒ そ こ で 一 方 に は あ く ま で も 法 則 を 求め て 精 進
する傾向が生まれ︑他方には運を天に委せるようなあき
らめの傾向が支配する︒それが合理化の精神を栄えしめ
ると否との岐れ路であった︒
363
が︑その限りにおいては西欧は一般にヨーロッパ的で
もう夕方らしくなる︒しかるにその晴れた日が非常に少
月ごろには︑たとい晴れた日であっても︑三時ごろには
るために昼間が非常に短いのが第一の原因である︒十二
れ は 特 に 冬 の 半 年 に お い て 顕 著に 見 ら れ る ︒ 高緯度 で あ
西欧の陰欝とは直接には日光が乏しいことである︒そ
一二
向けなくてはならぬ︒
代の精神を捕え得るためには︑我々は西欧の陰欝に目を
あって特に西欧的ではない︒西欧的なるもの︑従って近
364
なく︑暗い曇天の日が続くのである︒自分はかつて五月
に ロ ン ド ン を 訪 れ て ︑ そ の 冬 を そ こ に 送 っ た宮 島 清 君 に
逢い︑ロンドンもなかなか好い天気ではないかと言って
怒 ら れ た こ と が あ る ︒ こ う い う 晴 天 の日 に 逢 う ため に ど
れだけ永い︑欝陶しい冬の日に堪えて来たかを知りもし
ないで︑たまたま五月の晴れた日にロンドンへ飛び込ん
で来て︑のんきなことを言うな︑というのである︒それ
ほどに 冬の陰欝は日本 人にとって苦しい︒雲の深い日に
は一日じゅう電灯の下でなければ書物を読むこともでき
ない︒美術館では薄暗がりのなかでボンヤリと画布に浮
365
いた人物をながめ得るだけである︒電灯をつけない図書
は樹木の土用芽が緑になれないで白色に留まっている︒
さえも︑日光の力は充分に強いとは言えない︒ドイツで
欝 な の で あ る ︒ 太 陽 の 威 力 の 最 も 激 し い 七 八月 の こ ろ に
こともある︒それがちょうど日本の冬の曇り日ほどに陰
日はわずかに二三日で︑あとは薄ら寒い陰欝な日が続く
はなるほど麗らかである︒が︑その五月にさえも晴朗な
それでは夏の半年はどうであるか︒有名な五月の陽気
を感ずる︒つまり夜が明けたという感じがないのである︒
館では大きい窓の側に席を占めてもなお字を見るに不便
366
土地は夏の日にもカラカラに乾くというようなことがな
い︒大都会のアスファルトの上では幾分暑気を感ずると
しても︑田舎や山に行けば夏の日の散歩がちょうど我々
の五月の散歩のような気分なのである︒しかもこの時に
西欧の国土は最も豊かな日光に恵まれている︒そうして
そ の こ と が 陰 欝な 冬 に 堪 え て 来 た 西 欧 人 に と っ て の 非 常
な喜びなのである︒我々にとっては春が来夏が来るとい
うことは樹が芽ばえ花が咲き新緑が茂るということであ
って︑日光の享受ではない︒しかるに西欧人にとっては
それはまず第一に再び日光を迎えるという意味を持って
367
いる︒だから我々が冬のものと考えている﹁日向ぼっこ﹂
い草地に︑上衣や肌着を取り去って上半身を裸にした男
た︒縦の長さは二三キロメートルもあろうと思われる広
の深いのはベルリンのトゥレプトヴの公園の夏であっ
向に乾しているのさえも見受けられた︒特に自分に印象
浴びているのである︒時には赤ん坊を乳母車にのせて日
時にさえも︑人々は日向のベンチに坐してじっと日光を
る︒我々がやや暑さを感じて日陰をえらんで歩くような
する︒夏の公園や広場はこの日光浴の人に充たされてい
を︑すなわち日光浴を︑夏の間に熱心にやっておこうと
368
どもが︑芋を洗うようにいっぱいに散らばって日光に浴
している光景は︑全く自分には珍しいものであった︒真
夏の炎天にそうやって甲羅が干せるのは日光の力が弱い
からでもあるが︑しかし自分はこの光景においてドイツ
人 が い か に 日 光 を 恋 し が り 日 光 を賞 美 し て い る か を ま ざ
まざと見得たのである︒そうしてそれはやがて西欧にお
ける日光の乏しさの表現にほかならない︒
しかしこのような日光の乏しさはただそれだけに留ま
るものではない︒ヨーロッパを北から南へ︑すなわち日
光の強まって行く方向へ旅した者は誰しも必ず感ずるこ
369
とと思うが︑日光の力の強まるに従って人間の気質は漸
と言ってよい︒ギリシアのあくまでも明るい日光の下で
心とファウスト的な心との区別は︑確かに肯綮に当たる
見られる︒シュペングラーの説いたようなアポロン的な
物 を 古 代 ギ リ シ ア の そ れ か ら 区 別 す る 最 も 顕 著な 特 徴 が
の 陰 欝 は 直 ち に 人 間 の 陰 欝な の で あ る ︒ こ こ に 西 欧 の 文
むしろ騒々しいという言葉が当てはまるであろう︒風土
かではあるがもはや沈欝ではない︒イタリア人になれば
は南ドイツではよほどその度を減ずる︒フランス人は静
次興奮的感激的になって行くのである︒ドイツ人の沈欝
370
は︑すべての物の形が彫刻的に際立ち︑数限りなき個々
のものがそれ自身をあらわに示している︒かかる﹁現象﹂
の世界からその個々のものを取り除いた︑一様な︑無限
の空間というごときものは︑容易に取り出せるものでな
い︒しかるに西欧の陰欝な曇り日においては︑すべての
もうろう
物は朦朧として輪郭を明らかにせず︑かかる不分明な物
を包む無限の空間がかえって強く己れを現わしてくる︒
、さ
、への指標である︒そこに内
それは同時にまた無限の深
面性への力強い沈潜がひき起こされる︒主観性の強調や
精神の力説はそこから出て来るのである︒そこでギリシ
371
アの古代が静的︑ユークリッド幾何学的︑彫刻的︑儀礼
的形象と結びつかない純粋の音の世界を見いだしていた
によって唱われる詩の内容を重視したのであって︑視覚
中心的地位を占めてはいたが︑しかしギリシア人はそれ
示しているものである︒音楽はギリシアの教 育において
深さを表 現する動的・ファウスト的な 性格を最も著しく
画︑ゲーテの詩などであるが︑これらはいずれも無限の
的なるものはベートーヴェンの音楽︑レムブラントの絵
楽 的 ︑ 意 志 的 で あ る と 言 われ る ︒ 西 欧 の 芸術 の最 も 代 表
的であるに対して︑西欧の近代は動的︑微積分学的︑音
372
わけではなかった︒見ゆる現象をことごとく消し去り︑
言語の担う表象をも脱却して︑ただ音の律動旋律によっ
てのみ魂を直接に語らしめるというごときことは︑明朗
な ギ リ シ ア の 世 界 に お い て は 不可 能 だ っ た の で あ る ︒ た
だドイツの陰欝の中でのみ純粋音楽の創造という偉大な
事業は成し遂げられた︒またギリシアの美術を代表する
ものは第一にはギリシア的明朗を結晶せしめた彫刻であ
るが︑それに対して近代を代表するレムブラントの絵画
、欧
、の
、陰
、欝
、を
、結
、晶
、せ
、し
、め
、た
、ものと言われ得る
は︑まさに西
のである︒文芸復興期のイタリアの巨匠の何人もが描き
373
得なかったあの薄暗い雰囲気と幽かな光との微妙な交錯
トは︑その主人公が毒杯を手にした薄暗いゴティクの室
き画は描けなかったであろう︒同様にゲーテのファウス
ムブラントといえども︑スペインの光の下では彼のごと
ンの光であった︒画家は見ることにおいて創造する︒レ
ントに劣るとは言えない︒しかし彼の描いたのはスペイ
ヴェラスケスはその技巧の卓越において決してレムブラ
才が西欧の陰欝を通してのみなし得た仕事なのである︒
術の最高峰に位するものであるが︑しかしそれはこの天
は︑精神の無限の深さを表現したものとして︑世界の美
374
から復活祭の野辺へ出てくるように︑西欧の陰欝の中か
ら 無 限 に 深 い も の を 押 し 出 し て く る ︒﹁ 光 を 求 め て 無 限
に 働 く ﹂ と い う 性 格 を こ れ ほ ど 鋭 く 切 り 出 し た例 は ︑ 古
代の文芸のどこにも見られない︒ギリシアの叙事詩が最
も類型的な自然児を描いているとすれば︑ファウストは
最も類型的な精神人を描いているのである︒そうしてこ
の精神人の特性は︑一言にして言えば﹁陰欝の苦悶﹂に
ほかならぬであろう︒眼を転じて学問をながめても同様
で あ る ︒ 西 欧 の 学問 の 代 表 的 な る も の は ︑ 文 芸復 興 期 で
はなくしてバロックの時代に始まった︑力と量との物理
375
学︑あるいはカントに朝宗する当為の哲学であるが︑こ
右のような偉大な文化的創造において己れを展開して
である︒
なし得なかったことをドイツの哲学者になさしめ得たの
力である︒西欧の陰欝はこの点において古代の哲学者の
おいて著しい︒抽象し得るということも一つの偉大な能
に︑個々の内容を捨て去るところの﹁抽象﹂への傾向に
は︑カントにおける空間や形式の概念が示しているよう
静学的物理学や有の哲学に対立するのである︒特にそれ
れらはいずれも動的であり無限追求的であって︑古代の
376
いる西欧の特性は︑神秘的なるものへの共鳴の地盤とし
て︑早くよりキリスト教の最もよき培養基となった︒キ
リスト教が流れ込んだ地方は決して西欧にのみ限るので
はない︒しかも西欧におけるほど深くキリスト教が根を
下ろした地方は他には見られない︒ここでは陰欝から押
し出されてくる深さと抽象とへの傾向が︑まずキリスト
の信仰を通じて己れを現わし始めたのである︒沙漠の自
然の恐ろしさに対抗する民族の宗教であったユダヤ教
は︑本来土地に定着せず︑土地からの抽象を特性とした︒
それがキリストの復活を通じて改新せられたのは︑ちょ
377
うど世界国家が実現せられていた時期である︒従ってキ
えられる︒そこに伝えられる習俗は沙漠の習俗であるに
あ る に か か わ ら ず ︑ 今 や 人 類 全体 の 歴 史 を 語 る も の と 考
れてしまったのである︒旧約聖書はユダヤ民族の記録で
つ︑しかも全然沙漠的︑ユダヤ民族的な考え方に化せら
は超国民︑超土地の宗教としてキリスト教を受け容れつ
、な
、い
、も
、の
、として形成せられた︒だから西欧人
国民宗教で
ヤ民族の宗教であったにかかわらず︑初めより民族宗教︑
象を特性とした︒すなわちそれは沙漠の所産でありユダ
リスト教は土地からの抽象に加えてさらに国民からの抽
378
かかわらず︑今や彼ら自身の習俗とならなくてはならな
い︒彼らが原始 時代以来伝承した祭儀や世界観は︑今や
ユダヤ民族のそれによって置きかえられてしまう︒この
ように完全な精神的征服が何ゆえに可能であったのであ
、欝
、漠
、の
、苦
、悶
、がちょうど沙
、の
、恐
、怖
、と共鳴
ろうか︒それは陰
したからなのである︒意志的人格的な唯一神を西欧人ほ
どよく受け容れたものはなく︑また旧約の予言者たちの
意志的倫理的な情熱を西欧人ほどよく理解したものもな
しかしこのことは前にあげたような偉大な文化的創造
いであろ う︒
379
がキ リス ト教的精神からのみな され たというこ とを意味
近代が古代精神の﹁復興﹂をもって始まるということは
て古代と共通の地盤の上に立っているのである︒西欧の
としても︑本 質においてはそれらは牧場的であり︑従っ
た︒西欧の陰欝は学問や芸術にその西欧的特性を与えた
いてはただロマネスクを通じてのみ発展し得たのであっ
の建築や彫刻といえどもそれらが芸術的である限りにお
シア哲学に乗って神と人とを思索したよ うに︑ゴティク
や芸術は生まれ得なかったのである︒中世の哲学がギリ
するのではない︒キリスト教のみからしては偉大な学問
380
決して偶然ではない︒合理性を尚び人工を喜ぶところの
古代人の遺産を通じて︑西欧人はその陰欝の底にある牧
場的性格を自覚した︒そうしてこの自覚によってのみ特
に西欧的なる文化の創造が成し遂げられたのである︒だ
から偉大な創作に関する限りにおいては︑西欧の陰欝は
合理主義と離れたものではない︒理性の秩序の確立︑理
性による自然の征服︑それが無限の深みを追求する陰欝
の精神を指導し行くところの︑根本方向なのである︒
この点を顧みずしてもし西欧の陰欝にのみ着目するな
らば︑我々はそこに恐るべき陰惨残忍を見いだすであろ
381
う︒中世の都市の刑罰の残忍さは今なお残されている処
、実
、的
、な
、痛みや苦しみを感ぜしめるように表現するの
て現
キリストをでき得る限り生々しく︑陰惨に︑見る者をし
若い健やかな羊飼いである︒しかるに中世人は十字架の
えも︑ラヴェンナの美しいモザイクが描いているのは︑
ストの像を作りはしなかった︒古代の没落期においてさ
ざまざと描いてはいる︒しかし古代人は血みどろのキリ
るほどである︒なるほど福音書はキリストの十字架をま
ている生々しいむごたらしさは我々をして眼を覆わしめ
刑 の 器 具 に よ っ て も 忍ば れ る ︒ 中 世 の 宗 教 美 術 の表 現 し
382
である︒従ってそれは神の子の表現でもなければ神の愛
の表現でもなく︑ただ残虐と苦痛との再現におわってい
る︒いわんや殺伐な地獄絵のごときに至っては︑残虐の
、び
、を 表 現 す る も の と さ え も 言 い 得 ら れ る で あ ろ う ︒
喜
我 々 は そ こ に 西 欧 人 の 野 蛮 性を ま ざ ま ざ と 見 る こ と が で
きるのである︒その印象は中世の武器の陰惨な感じと相
通うものがある︒剣や槍はもともと殺人の道具ではある
が︑しかしその形は必ずしも陰惨な印象を与えるとは限
らない︒日本の刀剣のなだらかな彎曲線のごときは清ら
か な 美 し さ を さ え 感 ぜ し め る ︒ し か るに 西 洋 中 世 の 武 器
383
の形は残忍そのものを具体化したような物すごさを持つ
い て ︑ す な わ ち 宗 教 改 革 へ の 反 動 運 動 ︵ Gegenre︶として行なわれているのである︒元来宗教改
formation
残忍な現象が起こっている︒しかもそれが宗教の名にお
も︑三十年戦争というごとき実に我々の了解し難いほど
フランスでは近代哲学が芽ばえていた十七世紀にさえ
の文化の幕を開き︑ドイツでは宗教改革が達成せられ︑
中世のみがそうなのではない︒すでに文芸復興が近代
な武器をもって戦いはしなかった︒
のである︒ホメロスの英雄たちは決してこのように陰惨
384
、欧
、の
、陰
、欝
、に
、お
、け
、る
、ル
、ネ
、サ
、ン
、ス
、であった︒アルプス
革は西
の南では美しい芸術の華が開いたのに対して︑アルプス
、面
、的
、に
、深
、め
、ら
、れ
、た
、古代精神︑すなわち人文主
の北では内
義が擡頭したのである︒しかるにちょうどその人文主義
者の国土において︑しかもその人文主義への反動として︑
世 界 史 上 に も 比類 の な い 陰惨 な 内 乱 が 惹 き起 こ さ れ た ︒
この内乱によってドイツの国土は至るところ荒廃に帰
し︑ドイツの人口は四分の一にまで減じたと言われてい
る ︒ こ の よ う な 悲 惨 な 相 互 殺 戮 を 人文 主 義 者 の 誰 が 予 測
していたであろうか︒それもドイツ人が己れの信念に忠
385
実であるがゆえだと言えぬではない︒しかし新教と旧教
る︒従ってこの町が三十年戦争の時︑カトリクのティリ
静かな田舎町全体が一つの骨董品のごとき観を呈してい
明から取り残されて︑中世の面影を破壊されることなく︑
町は近代の新しい交通路をはずれたがために︑近代の文
ツの古い自由市ローテンブルグにおいてであった︒この
に打たれて覚えず涙を催したことがある︒それは南ドイ
一つの插話をその故蹟において回想したとき︑その悲惨
義深いものであろうか︒自分はこの戦争における小さい
との対立はかほどまでの相互殺戮を是認し得るほどに意
386
ーの大軍に囲まれて永い間苦戦した遺蹟もほとんどその
ままに残されているのである︒この時の戦いは当時の市
長の巧みな外交によって結局惨害の少ない降服に終わっ
たのであるが︑しかしそこに至るまでの間︑市民は老若
男女を問わず一体となって防戦に努めたのであった︒鉄
砲がまだ充分発達しない時代であるから︑市民は城壁内
に見いだされ得る限りの石や煉瓦をもって戦う︒男はす
べて城壁の上 で︑傷つきながらも退くことなく︑迫り来
る敵に石を投げている︒女たちはその夫や父のもとへ力
限りこの武器を運んで行く︒中には三つ四つの子供が︑
387
石を抱いてヨチヨチと血みどろになった父親のもとへ運
て防戦に努めたというような戦争は︑恐らく日本には一
そうである︒一つの町や村の住民が女子供をまでも加え
行な われるはずであった︒日本 の戦国時代においてさえ
規定せられたものであるにせよ︶を持つものの間にのみ
格︵それが自ら選んだものであるにせよ︑また団体から
思ってみたこともなかったのである︒戦争は戦闘員の資
こういう戦争を自分はローテンブルグへ行くまでかつて
するような戦いをこの城壁において戦ったのであった︒
んで行くのがある︒つまり女子供までがことごとく参与
388
回もないであろう︒だから自分は︑ドイツにおける戦争
がいかに破壊的であるかをこの時に初めて理解し︑そう
して三十年戦争が人口を四分の一に減じたゆえんをもほ
ぼ推測し得たのであった︒西欧の陰欝は戦争にもその特
性を現わす︒それは中世の武器の与えるあの陰惨な印象
と相通ずるものを持つのである︒
しかしこのような陰惨と残忍とが存するからといっ
て︑ 西 欧 人 が 世 界 の 文 化に 寄 与 し た 功 績 は 減 ず る も の で
はない︒西欧の陰欝は右のごとき頽廃にも陥り得るもの
であるにかかわらず︑しかも無限の深みを追求する内面
389
的な傾向として働き︑そうしてまさにその力によって明
って任ずることは︑必ずしも不当ではないであろう︒
に帰着することになる︒西欧が自らギリシアの正嫡をも
績は︑陰欝なる特殊性を通じて発揮せられた牧場的性格
朗な理性の光であった︒そうしてみれば西欧の文化的功
ーロッパから学び取ったところも︑また主としてこの明
忍性によるのではない︒我々の国が最近一世紀の間にヨ
としてこの理性の光によってであって︑裏面に蔵する残
のヨーロッパが世界の文化の指導者となり得たのは︑主
朗な理性の光を再び顕わに輝かし始めたのである︒近代
390
一三
我々はヨーロッパの牧場的風土からしてその文化を理
解 し よ う と 試 み た ︒ し か し こ の風 土 が こ の文 化 の 原 因 だ
というのではない︒文化においては歴史性と風土性とは
楯の両面であって︑その一をのみ引き離すことのできな
いものである︒風土的性格を持たない歴史的形成物もな
け れ ば ︑ ま た 歴 史 的 性 格 を 持 たな い 風 土 的 形 象 も な い ︒
だから我々は歴史的形成物の内に風土を見いだすことも
できれば︑風土的形象の内に歴史を読むこともできる︒
、土
、に
、視
、点
、を
、置
、き
、つ
、つ
、この両方向の考察を雑然と
我々は風
391
して試みたに過ぎぬ︒
が︑我々はこの考察によって次のごときことを結論し
音楽の才能が最もよく自覚せられ︑筋肉の優れた者にお
る︒比論をもって語るならば︑聴覚の優れた者において
最も鋭く自覚の実現せられ得る優越点を提供するのであ
た ︒ と こ ろ で こ の 風 土 的 限定 は ︑ ち ょ う ど そ れ に お い て
を持たない精神の自覚はかつて行なわれたことはなかっ
のみならずまた風土的に限定せられている︒かかる限定
れ を 客 体 的 に 表 現 す る と き ︑ そ の 仕 方 は ただに 歴 史 的 に
得るであろう︒人間が己れの存在の深い根を自覚してそ
392
いて運動の才能が最もよく自覚せられる︒もちろん我々
は こ の 自 覚 が 実 現 せ ら れ た 後に そ れ ぞ れ の 機官 の 優 秀 を
見いだすのであるが︑しかしそれだからといって自覚が
初めて機官を優秀ならしめるのではない︒ちょうどその
ように︑牧場的風土においては理性の光が最もよく輝き
いで︑モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよ
く自覚せられる︒それならば我々は︑音楽家を通じて音
楽を己れのものとし︑運動家を通じて競技を体験し得る
ように︑理性の光の最もよく輝くところから己れの理性
の開発を学び︑感情的洗練の最もよく実現せられるとこ
393
ろから己れの感情の洗練を習うべきではなかろうか︒風
らといって︑風土の特性が消失するわけではない︒否︑
し か し 限 定 を 自 覚 す る こ と に よ っ て そ の 限定 を 超 え た か
はただ風土的限定の内に無自覚的に留まるに過ぎない︒
、視
、するのは風土を超えるゆえんではない︒それ
風土を無
、土
、的
、
至 る の で あ る ︒ ま た か く す るこ とに よ っ て 我 々 は風
、定
、を
、超
、え
、て
、己れを育てて行くこともできるであろう︒
限
また己れの短所を自覚せしめられ︑互いに相学び得るに
を持たしめたとすれば︑ちょうどその点において我々は
土 の 限定 が 諸 国 民 を し て そ れ ぞ れ に 異 な っ た方 面 に 長 所
394
むしろそれによって一層よくその特性が生かされてくる
のである︒牧場的国土はある意味では楽土であるが︑し
かし我々は己れの国土を牧場に化することはできない︒
、得
、す
、る
、ことはできるのであ
しかも我々は牧場的性格を獲
る︒そうしてその時には我々の台風的な性格は新しい生
面を開いて来る︒なぜなら我々が我々の内にギリシア的
な る晴朗を見いだし︑合理的なるものを充分に育て上げ
るときに︑かえってよく我々の﹁勘﹂や﹁気合い﹂の意
義が生かされて来るであろう︒そうして超合理的な合理
性があたかも台風のごとくに我々を吹きまくることをも
395
自覚するに至るであろう︒
かく考えて過去を振り返るとき︑我々の祖先がきわめ
熱烈な関心である︒それは己れに欠けている牧場的なる
を透して徐々に浸入して来たヨーロッパの科学に対する
であることの直覚を示すのである︒第二には厳密な鎖国
ともに沙漠的なるものがちょうど我々に欠けているもの
的なるものの侵入であるが︑それに対する傾倒も恐怖も
とがそれである︒キリシタンの侵入はある意味では沙漠
ぬ︒第一にキリシタンに対する異常な傾倒と異常な恐怖
て敏感に急所を直覚していたことを見いださざるを得
396
ものへの渇望にほかならない︒東洋の諸国の中でこれほ
ど の 渇 望 を 示 し た も の は ど こ に もない ︒ た だ し か し こ れ
ら の 直 覚 に お い て 我 々 の 風 土 が 牧 場に も 沙 漠 に も な り 得
︵昭和三年稿︑十年改稿︶
ないことの洞察が欠けていた︒それが今や我々にとって
の眼前の問題である︒
397
第三章
一
ナ
モンスーン的風土の特殊形態
シ
モンスーン地域を広義に解すればシナの大陸をも含め
影響を受ける限りのシナ大陸がモンスーン地域であると
という点にモンスーンの特質を認めるならば︑太平洋の
ることができる︒しかし熱帯の大洋から湿気を陸に運ぶ
398
言 わ ね ば な ら ぬ ︒ と こ ろ で こ の 影響 は ︑ 直 接 に 台 風 に 見
舞われる中シナ︑南シナの沿岸地方のみならず︑大陸の
奥の方までも及んでいる︒シナの風土を代表的に示して
い る も の は 黄 河 と 揚 子 江 と で あろ う が︑ 少なく と も 揚子
江はモンスーンの大陸的具象化だと言ってよいであろ
う ︒ で は そ の 揚 子 江 は ど んな 姿 を し て い る で あ ろ う か ︒
我々日本人にとっては揚子江の第一印象は実際に案外
シャンハイ
なものである︒船が上 海に近づくにつれてまず驚かさ
れるのは︑十三四カイリの速力の船がまる一日じゅう走
、海
、であることであった︒これは
って行く間︑海が全然泥
399
泥水を吐き出す揚子江が全長約千三百里の大河であっ
、や
、太
、い
、ことだけであった︒しかもそのやや太い地
りもや
ても︑眼に見えるものははるかな地平線が海におけるよ
いる︒すでに揚子江をさかのぼりつつあるのだと教わっ
の 河 口 は ま た こ の 泥 海 と 区 別 が つ か な い ほど 茫 漠 と し て
、海
、は含まれていなかったのである︒ところで揚子江
る泥
たれる︒我々の﹁海﹂の観念の中にはこのような茫々た
かしそれをまのあたりに見ると我々は不思議な感じに打
うことを考えれば︑いかにも当然の現象なのであるがし
て︑ライン河の四倍半︑日本全島の長さよりも長いとい
400
平線は河口に横たわる崇明島と揚子江右岸とを示してい
るのであって︑揚子江の左岸は全然視界の外にあるので
あった︒こうなると我々の持っていた海の観念や河の観
念がぶち壊されてしまう︒我々はたとえば明石海峡にお
いて﹁海﹂を見ていた︒しかるにこの﹁河﹂は大阪湾ほ
ど の 幅 を 持 っ てい る の で あ る ︒ し か も 大 阪湾 の 場 合な ら
ば 須 磨 の浜 か ら 和 泉 の山 が 見 え︑ 堺 の浜 か ら 淡 路 の山 が
見えるが︑ 揚子江 の 場合に は対岸に ただ地平線 があるだ
、口
、の
、姿
、であって揚子江の通
もっともこれは揚子江の河
けなのである︒
401
例の姿とは言えないかも知れぬ︒しかしその河幅が三里
こ の こ と は ま た 揚 子 江 流域 の 平 野 の 性 格 を も 明 ら か に
とになるであろう︒
、臨
、し
、て
、い
、る
、というこ
えれば 揚子江がその流域の平野に君
、を
、は
、さ
、
たる平野を流れる︒ということは︑陸地の方に河
、という印象を与える力がないのである︒これは言いか
む
に 迫 っ た山 々 に は さ ま れ て い る ︒ し か るに 揚 子 江 は 茫 々
る 明 石 海 峡 は 一 里 ほ ど の 幅に 過ぎ な い ︒ し か も そ れ が 岸
っては依然として驚くべき姿である︒我々の﹁海﹂であ
となり二里となり一里となって来た場合でも︑我々にと
402
する︒揚子江を遡航する船が江岸に近づいて︑樹木を見︑
畑を見るほどになっても︑船ぐらいの高さからはこの平
板な平野はいくらも見渡せない︒せいぜい十町か二十町
であろう︒あとはただ空である︒たといこの平野が平坦
なままで百里も千里も広がっているにしても︑我々に見
えるのはただ十町ほどのひろがりに過ぎぬ︒それでは
我々は大平野を見たという印象を受けることはできない
のである︒我々ははるかかなたに遠山をながめて平野の
ひろさを感ずるに慣れている︒遠山の見えるのは十里か
二十里ほどに過ぎないであろうが︑しかしそれでも我々
403
の直観能力に対しては十分な広さである︒しかるに揚子
の大陸的具象化と呼ぶことは必ずしも言い過ぎではな
ばれた︒してみると揚子江やその平野の姿をモンスーン
してその水は太平洋から主としてモンスーンによって運
揚子江とその平野とは水の作り出した姿である︒そう
る︒
こでもまた逆な意味で我々の大平野の観念がぶち壊され
ない︒これが揚子江の作り出した大平野の姿である︒こ
にかかわらず︑その大きさを我々に印象することができ
江 流 域 は ︑ 遠山 も 見 えな い ほど の真に 大 き い 平 野 で あ る
404
、容
、的
、忍
、従
、的
、として規定したモンス
い︒では前に我々が受
ーン的性格は︑ここにどういうふうに現われて来るであ
ろうか︒
揚子江とその平野との姿が我々に与える直接の印象
は︑実は大陸の名にふさわしい偉大さではなくして︑た
、調
、漠
、海
、と空
、とである︒茫々たる泥
、は我々に﹁海﹂特
だ単
有 の あ の 生 き 生 き と し た 生 命 感 を 与 えな い ︒ ま た 我 々 の
海よりも広い泥水の大河は︑大河に特有な﹁漫々として
流れる﹂というあの流れの感じを与えない︒同様に平べ
ったい大陸は我々の感情にとって偉大な形象ではない︒
405
我々の思惟にとってこそ︑揚子江から黄河にわたる平野
る ︒ と こ ろ で こ の 風 土 の な か に 代 々 生 き て来 た 人間 は ︑
、調
、
え れ ば ︑ 我 々 は か か る ﹁ 大 陸 ﹂ と の 交 渉 に おい て ︑ 単
、し
、て
、空
、漠
、た
、る
、お
、の
、れ
、を す で に 見 い だ し て い る の で あ
に
漠たる︑単調な気分としてのみ我々に現われる︒言いか
てシナ大陸の大いさは︑直接にはただ変化の乏しい︑空
じような小さい部分の繰り返しがあるだけである︒従っ
分に過ぎず︑その中をいかに遠く歩いて行ってもただ同
、野
、に入るのはその平野のほんの一部
その中に立つ者の視
はわが国の関東平野の数百倍にのぼる大平野であるが︑
406
かかるおのれをのみ常に見いだし︑それ以外のおのれを
見いだす機会に恵まれないのである︒そこで受容的忍従
、の
、単
、調
、空
、漠
、に
、堪
、え
、切
、る
、と
、こ
、ろ
、の
、意
、志
、の
、持
、
的な性格は︑こ
、︑感
、情
、統
、の
、放
、擲
、︑従ってまた伝
、の固執歴史的感覚の旺
続
盛 と な っ て 現 わ れ る ︒ こ れ は イ ン ド 的 人間 の 性 格 と ち ょ
うど対蹠的なものである︒インド的人間を特にその感情
の横溢において特徴づけるならば︑シナ的人間は特にそ
自分は揚子江の姿のみをもってシナの風土を代表させ
、感
、動
、性
、において特徴づけらるべきであろう︒
の無
407
、河
、に
得 る と考 え た の で は な い ︒ シ ナ 大 陸 の 他 の 半面 は 黄
う特徴は近代に至って揚子江上の汽船や軍艦の姿となっ
、郷
、燥
、で あ り ︑ 黄 河 地 方 は 乾
、地
、で あ る ︒﹁ 南 船 ﹂ と い
は水
古来﹁南船北馬﹂と言われて来たように︑揚子江地方
の観察を補うに留め たいと思う︒
と が で き な い ︒ こ こ に は ただ 間 接 的 な 知 識 を も っ て 前 述
て自分は黄河について何ら積極的な視点をつけ加えるこ
土に関する限り︑直観ははなはだ大切なのである︒従っ
方についての直観的な印象を持たない︒そうして事︑風
よって示されねばならぬ︒しかし自分は黄河及びその地
408
て現われたが︑黄河は水運の発展と全然縁がなかった︒
また揚子江の平野は米作地であるが︑黄河の平野は麦作
、漠
、か
、ら
、出
、
地である︒ところでこれらの特徴は︑黄河が沙
、く
、る
、河
、であるという一語によって言いつくせるであろ
て
、漠
、と
、モ
、ン
、ス
、ー
、ン
、とを媒介する河
う︒すなわち黄河とは沙
なのである︒
、土
、の素性からも言
このことは黄河の平野を形成する黄
えることである︒黄土のきわめて細かい粒子はもと沙漠
で寒気によって作られたという︒それは水のみならず風
によっても運ばれたが︑風によって運ばれ堆積したもの
409
はまた後に水によって運ばれた︒ところでその水がまた
るのであって︑シナにおける沙漠的性格の存在を示すの
しかしそれはモンスーン的性格の特殊形態を形成してい
ー ン 的 性 格 と 沙 漠 的 性 格 と の 結 合を 語 る も の で あろ う ︒
、闘
、的
、な
、る
、も
、の
、をひそめていることは︑モンス
性の奥に戦
、志
、の
、緊
、張
、があり︑従ってその忍従
ない︒彼らに著しく意
か く 考 え る と シ ナ の 人間 は沙 漠的 な る も の と 無 縁 で は
ているのが黄河にほかならない︒
ーンとの合作なのである︒そうしてその合作を具象化し
太平洋から運ばれたとすれば︑黄土地帯は沙漠とモンス
410
ではない︒沙漠的人間におけるごとき絶対服従の態度は
シナの人間には存しないのである︒シナ人の﹁非服従的
、縁
、
性格﹂と呼ばれるものがここに関連する︒シナ人は血
、もしくは地
、縁
、的
、団体の拘束以外にはいかなる拘束をも
的
肯 ん じ な い 人 間 で あ る ︒﹁ 国 家 の 賦 税 負 担 を 肯 ん ぜ ず ︑
兵役の義務に服せず︑命令を無視し︑法律を空文にして
アヘン
賭博に耽り︑鴉片を吸飲する等︑およそ対国家的束縛か
ら逃れて自己の欲するまま奔放にふるまう﹂人間である︒
︵ 小竹文夫﹃近世支那経済史研究﹄二五ページ︶もちろん抵抗
し 難 い 力 に 対 し て は 忍 従 す る ︒ し か し ︑﹁ 表 面 的 に 唯 々
411
諾々︑すこぶる服従的観を呈しても︑面従腹背︑両面詭
香港の九竜側に碇泊した船からながめると︑多数のシ
瞥見した︒それは香港と上海とにおいてである︒
自分は昭和二三年のころに右のごときシナ人の性格を
無 感動 性 が育成 さ れ てく る の で あ る ︒
こそ執れる態度であるとともに︑またこの態度において
無感動性と密接に連絡する︒それは無感動的であるから
、服
、従
、的
、な
、忍
、従
、は彼らの
かった︵ 同上︑二九ページ︶この非
随 の 語 あ る ご と く ︑ 内 面 的 に 容 易に 服 従 す る 性 格 で は な
412
ナ人のジャンクが外国船のまわりに集まって貨物を積み
取っていた︒そのジャンクには幾家族かのシナの労働者
が住んでいるらしく︑四つ五つの愛らしい子供たちが甲
板に群れて遊んでおり︑また若い女や老婆なども帆綱に
とりついて働いていた︒その光景はまことに和気藹々と
したものであった︒ところがその同じジャンクが︑へさ
きにもともにも数門の旧式大砲を据えつけているのであ
る︒それはもちろん海賊に備えるための武器であろうが︑
しかし海賊もまた同じような武器をもって迫ってくるの
であろうから︑結局それは︑このジャンクの貨物輸送の
413
仕事が︑脆弱な木船をもって海賊と砲戦することを予想
としないほどの緊密な血縁団体の中に生きている︒その
ように感じた︒彼らは砲撃の危険の前にさえも離れよう
自分はこの労働者の姿においてシナ人そのものを見る
他の国にあるであろうか︒
遂行しているのである︒こういう労働者が世界のどこか
を家常茶飯事として︑女子供を伴ないつつ︑平然として
働は平時のものではない︒しかもシナの労働者は︑これ
は自分には非常な驚きであった︒砲戦を予想する運輸労
しつつ行なわれていることを示していたのである︒これ
414
まわりには同じように緊密な地縁団体の防壁があるであ
ろう︒従ってあの多くのジャンクは恐らく相互に助け合
まも
うのであろう︒しかしそれ以上に彼らの生命を衛るもの
はないのである︒シナの領海の中で海賊の襲撃に対抗す
るものはただ彼ら自身の力のみであって国家の権力では
ない︒従って彼らは無政府の生活に徹底し国家の保護力
を予想することなしに生きている︒それが彼らの血縁団
体や地縁団体を緊密ならしめるゆえんなのであるが︑ま
た同時にこの小さい団体を超えた強大な力に対して率直
に抵抗を断念し忍従の態度をとるゆえんなのでもある︒
415
メイ ファー ズ
したからといって毫末も危険は軽減せられない︒危険が
からこそ大砲を積んでいる︒それ以上に﹁感情﹂を動か
この生活は営まれ得ないのである︒危険が予想せられる
、能
、料
、的
、な
、危険を恐れ︑予
、的
、に
、心
、を
、な
、や
、ま
、す
、ようでは︑
の可
のゆえにこそ大砲を積んでいるのではあるが︑しかしそ
れる︒そこには一家を殲滅せられる危険があり︑またそ
船に家族をつれて平然として生きている姿となって現わ
てしさを蔵したものである︒この態度が大砲を積んだ木
容的忍従的な態度でありながら︑しかも底しれぬふてぶ
ここにかの﹁没法子﹂という態度が成り立つ︒それは受
416
、感
、動
、的
、であることが
可 能 性に 留 ま る 限 り こ れ に 対 し て無
最 も よ き 防 御 法 で あ る ︒ と と も に ︑ ま たこ の危 険 は 十 分
な儲けをもたらさなくてはならぬ︒金銭の蓄積はおのれ
を衛る力の蓄積である︒従って危険を冒すことが最もよ
、算
、と
き防御法なのである︒没法子の態度はこのような打
、感
、動
、とを含んでいる︒それが無政府の生活の強みなの
無
である︒
かかるシナ人の強みを自分は昭和二年二月上海におい
て一層あらわに目撃した︒ちょうどロシアのボロジンが
シ ナ に おい て 勢 力 の 絶 頂 に 達 し︑ 蒋 介 石 軍 が 初め て 揚 子
417
江流域を席巻しつつある時であった︒蒋の北伐軍はすで
ている北軍は共産党弾圧のためにあらゆる非常手段を用
命の危険なしにはシナ町に近づけぬ︒そこで上海を守っ
に動かされようとしている︒ロシア人以外の外国人は生
共産党は全市にわたって煽動に狂奔し︑民衆は今やそれ
も今日あたりは止まるかも知れぬと噂された︒時を得た
郵便局は閉ざされ︑電車は動かなくなった︒電灯や水道
海の労働者は蒋介石軍に呼応して同盟罷工を断行した︒
住宅区域では日夜その砲声が聞こえるという︒そこで上
に上海へ数マイルのところまで迫っており︑郊外に近い
418
い始めた︒嫌疑者は捕えて斬る︒そうして電柱に首をさ
らす︒これからまだどれほどこの種の殺戮が行なわれる
か も し れ ぬ と い う ︒ そ れ に 対 し て 在留 の 外 国 人 が 最 も 怖
れ て い た の は ︑ 上 海 の 外 で上 海 を 防 御 し て い る 北 軍 が ︑
蒋軍に追われて上海へ逃げ込んで来た時の騒ぎである︒
そ う な れ ば そ の軍 隊 が い ず れ の 側 で あ る か な ど は 全 然 問
クーリー
題ではない︒ただ武装した苦力の群れが掠奪強姦殺人等
の暴行をもって町を荒らすだけの話である︒かく外国人
たちは考えた︒そこで彼らは恐怖に慄えながら︑ただた
、家
、の
、威
、力
、が彼らを護ってくれるだろうことに
だ彼らの国
419
のみ望みをかけた︒それに応じて諸国の軍艦は続々上海
港で待期している︒それほどに外国人の間では物情騒然
出 さ な く て は な ら ぬ ︒ そ の ため に は す で に 大 き い 汽 船 が
に保護してくれる本国へ向けてこの物騒な土地から逃げ
りなのである︒最後の手としては彼らは国家の力が完全
ちは語り合っていた︒彼らにとっては国家の力のみが頼
に近い安全な 場所に移さなくてはならぬ︒かく外国人た
手が届くとは思えない︒今夜あたりは家族を租界内の港
けは安全に防げるであろう︒しかし租界外の住宅にまで
に 入 港 し ︑ 陸 戦 隊 を 上 陸 せ しめ た ︒こ れ で 恐 ら く 租 界 だ
420
、の
、
であった︒国家の保護に慣れている外国人たちは︑そ
、護
、の
、圏
、外
、に
、出
、る
、か
、も
、知
、れ
、ぬ
、という可能性の前に烈しい
保
恐怖や心細さを感ぜずにはいられなかったのである︒
もっと正確に言えば
ところで国家の保護の下へ逃げ込むという道を全然与
︱
えられていないシナ人たちは︑
いつ武装した掠奪者に変わるかも知れない危険な苦力の
軍隊によって守られているシナ人たちはどんなにしてい
たか︒なるほど店を閉じている家もあるにはある︒が︑
これは労働者の同盟罷工と同じく蒋軍への同情を現わし
たものであるという︒そうしてこの消極的な表情のほか
421
には︑目前の﹁物情騒然﹂を反映している何らの表情も
っては非常時はまだ起こっていない︒非常時が起こった
っ た ︒ 金 を 儲 け る 機 会 が 与 え ら れ て い る間 は ︑ 彼 ら に と
知れぬというような 不安の感じはどこにも漂っていなか
中していた︒今日にも野蛮な掠奪に逢い生命を失うかも
た為替の取引所にも相変わらずシナ人が雲集し賭博に熱
いる︒そのころ日本の円の相場を支配していると噂され
きのシナ人が︑悠々として往来し悠々として物を売って
し を 毛 ほ ど も示 さ な い ︑ の ん き そ う な ︑ 茫 漠 と し た 顔 つ
シナ人にはなかった︒街頭に立って見ると︑興奮のしる
422
ときにはできるだけ上手にかくし︑かくれ︑あるいは逃
げる︒それならば︑まだ起こらない事に対して感情を動
かし神経を疲らせるのは︑何の益もないむだなことでは
ないか︒かかる感情の浪費をもってしてはシナにおいて
生きることはできない︒かく彼らの顔つきが語っていた︒
国家の保護などということを全然当てにしていないシナ
人にとっては︑その保護の圏外に出るかも知れぬという
可能性のごときは何の刺激にもならなかったのである︒
自分はこの著しい対照に心から驚きつつ上海を立ち去
っ た の で あ っ た が ︑ そ の 後上 海 で は 電 柱 の さ ら し 首 以上
423
に物騒なことはなんにも起こらなかった︒事態はシナ人
シナ人が無感動的であるということは︑シナ人が感情
なかった事態なのである︒
国家に帰一せしめる我々の立場からは︑全く思いもかけ
の生活の強みが見られるであろう︒これは一切の生活を
だ な こ と ﹂ を し て い たこ と に な る ︒ こ こ に も ま た無 政 府
に囚われていた外国人たちは︑確かに﹁何の益もないむ
る︒そうなると市外の砲声におびえて神経を尖らし焦燥
の無感動な態度にちょうど合うように展開したのであ
424
生活を持たないということではない︒シナ人の感情生活
の様態が無感動的であるというのである︒空漠たる単調
さにおいておのれを見いだしている人間は︑変化を求め
て感じ動くことを必要としない︒この点においては︑き
わ め て 変 化 に 富 む 質 的 多 様 性に お い て お の れ を 見 い だ し
ている日本人は︑シナ人の相反の極にあると言ってよい︒
ひ ば り かご
雲雀寵を手にさげて一日じゅう空を見上げているシナ人
の姿は︑日本人の眼によほど不思議であったと見え︑古
く か ら 語 り 伝 え ら れ て い る が ︑ そ う い う 波長 の 長 い 律 動
、じ
、動
、く
、ものとは見えないのである︒
は我々にとっては感
425
が ︑ こ の よ う な 無 感 動 性 は 好 い 側 面 か ら 見 れ ば ︑﹁ 悠 々
ともと彼らは動じないのである︒従ってその態度は道徳
わち物事に動じなくなった腹の据わりなのではない︒も
、克
、し
、て
、到達した境地︑すな
かなあるいは過敏な動きを超
はゆったりしているとも言える︒しかしそれは感情の細
い る ︒ 従 っ て 日 本 人 が こ せ こ せ し て い るに 対 し て シ ナ 人
シナでは農民の間にも商人の間にもおのずから現われて
にとっては︑一つの修練の目標とさえもなるのであるが︑
は︑絶えず何らかの意味において迫る傾向のある日本人
として迫らず﹂という態度となって現われる︒この態度
426
的な功績を意味するのではない︒
我 々 は シ ナ の 文 化 産 物 に おい て も 同 様 の 特 質 を 見 るこ
とができる︒シナの芸術には一般にゆったりとした大き
さがある︒大づかみながらきわめてよく要を得ている︒
とともに半面において感情内容の空疎を感ぜしめる︒繊
、め
、の細かさはそこには全然見いだせない︒この性
細なき
格を代表的に示しているのはシナ近代の宮殿建築であ
る︒それは巨大な規模を持ち︑壮大な印象を与えるが︑
しかし細部はきわめて空疎なもので︑ほとんど見るに堪
とおみ
えない︒ただ遠見の印象だけが好いのである︒しかし芸
427
術としては︑遠見さえよければ細部が空疎であってよい
繊細な感じのものである︒少し下って大同雲崗や竜門な
ほどの力があった︒ロンドンにある顧愷之の画巻も実に
漢代の美術を想像していた自分の考えを粉々に打ち砕く
こなごな
る︒特に玳瑁の小箱に描いてある細画などは︑画象石で
遺物で見ると︑シナの芸術にもずいぶん繊細なものがあ
代表させることは無理かも知れない︒楽浪出土の漢代の
もっとも二千年にわたるシナの芸術をこの種の建築で
無 感動 性 の 一 つ の 表 現に ほ か な らな い で あろ う ︒
というわけではない︒細部をおろそかにするのはやはり
428
どの浮き彫りの中には︑まことに豊醇な︑きめの細かい
芸術がある︒そういう性格は唐代の芸術においてかなり
顕著に現われており︑宋代に至ってもなお失われてはい
ない︒しかしこういう偉大な芸術の性格を考える場合に︑
我々は二つの視点を忘れてはなるまいと思う︒一つはこ
れらの優れた芸術がすべて黄河文化圏の産物であるとい
、れ
、だ
、け
、と
、し
、て
、独
、立
、に
、考
うこと︑そうして黄河的風土をそ
える時には︑見方を変えなくてはなるまいということで
ある︒もう一つは︑右にあげたような芸術の性格が︑宋
、然
、消
、
元以後︑特に明清から現代に至るシナにおいて︑全
429
、し
、去
、っ
、て
、い
、る
、こ
、と
、︑それにもかかわらず先秦の古銅器
失
れらの平凡な作品のみに着目していれば︑それらは必ず
大味なものは多数に存する︒特に優秀な作品を除いてこ
であろうか︒唐代の豊醇な彫刻のなかにも︑大づかみで
、疎
、性
、と通ずるもののあることを感じない
る宮殿建築の空
、
銅器の伝統を感じないであろうか︒また漢の画象石の抽
、性
、大
、や雲崗竜門の大石仏の巨
、性
、のうちに遠見を主とす
象
人はシナ近代の家具や室内装飾の様式のうちに先秦の古
た別個の性格が明らかに存しているということである︒
よ り 漢 唐 の 芸 術 を 経 て明 清 以 後 の そ れ に 至 る ま で 一 貫 し
430
しも明清の作品と縁遠いものではない︒それに反して両
漢より唐宋に至る間の繊細にしてきめの細かい芸術に着
目しつつ︑それと親縁あるものを現代のシナに求めても︑
人は決してたずね当てることがないであろう︒かく考え
、貫
、す
、る
、性
、格
、として無感動性を取り上げ
ればシナ文化を一
ることは一応許されてよいのである︒
同じことは一切経や四庫全書のようなシナ独特の大編
纂事業についても言えるであろう︒こういう巨大な叢書
あるいは集成が古い文献の保存を可能にしそれによって
後代に与えた利益は測り知るべからざるものがある︒し
431
、め
、の細かさ
かしこの功績は必ずしもこの仕事の内容のき
て そ れ は 一 応 完 備 し ︑ 大 小 乗 経 律 論 伝 七 目︑ 惣 一 千 七 十
てはことごとく包括しようとしたのである︒唐代に至っ
われている︒しかしその際にも訳経に関する限りにおい
種の文献の包括に当たってはさすがに厳密な取捨が行な
おいて著作せられたものをも包括するに至ったが︑この
的に取捨整理しようとしたものではない︒後にはシナに
、括
、的
、
来の仏教文献のシナ訳をそれぞれの時代において包
、余
、す
、と
、こ
、ろ
、な
、く
、集成しようとしたものであって︑批判
に
を意味するのではない︒たとえば一切経は初めインド伝
432
六部︑五千四十八巻︑四百八十帙と言われた︒その最初
、典
、分
、類
、
の版刻は宋代である︒もとよりそこには一定の経
、が用いられてはいる︒しかしそれはいわば外から縛る
法
繩であって︑玉石を分かち内面的な整理を遂行した体系
的 な 統 一 で は な い ︒ 従 っ て そ の 外 観 の 秩 序 整 然 た るに 反
し︑内容においては雑然たる材料の山積であると言って
よい︒四庫全書に至ってはこの傾向が極端に現われ︑叢
書としての生きた機能を発揮し得ざるに至っている︒
かかる性格をさらに端的に現わしているのは︑シナに
おいてしばしば現われた統一的な大帝国である︒ヨーロ
433
ッパでこれに拮抗し得るものはただ最盛期のローマ帝国
前に引用した小竹文夫氏の説明によると︑シナの平原
る︑それがシナの本来の姿なのであった︒
政府的であり︑国内の匪賊は常に百万乃至二百万を数え
る︒外観は整然たる大帝国でありながら︑民衆は本来無
、め
、の 細 か な 国 家 で は な か っ た の で あ
の行きわたったき
しかしこの大帝国なるものは︑国土のすみずみまで統治
のみを見ればシナ人はすぐれた政治家のように見える︒
れ︑最後の大清帝国は近いころまで続いていた︒この点
のみであるが︑シナでは秦漢以来あとからあとから現わ
434
は交通が便利であって経済的な相互交渉が起こりやす
く︑秦漢のころよりすでに広大な地域にわたって経済的
統 一 が 実 現 せ ら れ て い た ︒ こ れ は シ ナ の風 土 に よ る 必 然
の形勢なのであって︑古代の封建的割拠のごときはむし
ろ不自然の状態であったと言ってよい︒その証拠は諸侯
、墻
、都
、市
、であり︑その領土を防御するた
の国が初めから城
、為
、的
、に
、長城を築いたことである︒すなわちシナの
めに人
、い
、て
、区
、切
、る
、努
、力
、をしなければ小さい国の併立を
国土 は強
許さないのである︒特に宋代以後になるとシナの全地域
に わ た る経 済 的 な 相 互 滲 透 が 顕 著に 実現 せ ら れ てい る ︒
435
シナの民衆は国家の力を借りることなくただ同郷団体の
た︒で︑官人は通例この権力を利用して私の富を作る︒
専制君主に裏づけされて大きな権力をふるうことができ
は読書人すなわち知識人であって︑武人ではなかったが︑
たが︑宋以後は平民から科挙によって抜擢された︒それ
、人
、は古くは貴族から出
民の国家的組織ではなかった︒官
、僚
、組
、織
、なのであって︑国
ういう民衆の上にのっている官
な ら な か っ た の で あ る ︒ シナ の 国 家 と 言 われ る も の は こ
た︒従って無政府的な性格はこの経済的統一の邪魔には
活用によってこの広範囲の交易を巧みに処理して行っ
436
﹁宋代国家専売 のほか︑ 政府および官吏自身が諸種の経
商に従い︑明清時代文人官僚が口に商人の理財を賤しみ
つつ実際にはその蓄積した富を土地のほか多く経商に投
じたこと顕著なる事実である︒現在シナの官吏のみなら
ず︑学者と称される者でも経商に関係しているもの多き
はむしろ一驚を喫する︒﹂︵ 前掲書三〇ページ︶してみると
国家そのもの︑政府そのものが無政府的であると言わね
ばならぬ︒
最後の大帝国が崩壊して以後︑この官僚は分化して軍
閥や財閥となり︑外国の資本と結びついて致富に努めた︒
437
今度の戦争の起こるまで上海や香港がシナの心臓となっ
なかったのである︒たまたま孫文のような先覚者はこの
して非服従的である民衆は︑それをさほど気にもしてい
いうことにほかならないのであるが︑もともと国家に対
われるものがシナの民衆の上に外からのっかっていたと
よって保護せられていたということは︑シナの国家とい
その銀行が外国の銀行でない場合でも外国の国家権力に
家たちの力が上海や香港の銀行のなかにあり︑そうして
たものと言ってよいであろう︒シナを動かしている政治
ていたという事実は︑シナ国家の無政府性を露骨に示し
438
事 実 を 痛 切 に 感 じ た ︒ 彼 に よ る と︑ 一 九 二 四 年 ご ろ の シ
、全
、な
、植
、民
、地
、に化して
ナは列強の経済力の圧迫をうけて完
い る ︒ 否 ︑ ほ ん と う の 植 民 地 よ り も も っ と 不 利な 立 場 に
置 か れ て い る ︒ し か る に シナ 人 は こ の経 済 力 の 圧迫 に 対
してさほど痛痒を感じていない︒この孫文の認識はまこ
とに正しかったのであるが︑しかし彼と事をともにした
人たちは︑この桎梏からシナを解放するどころか︑一層
深く外国の資本と結びつき︑ついにシナをして世界の資
本 主 義 競 争 の 焦 点 た ら し め るに至 っ た の で あ る︒ こ の 傾
向はシナ人の民族的自覚に幾分貢献したかも知れない︒
439
しかし背後にある動力がシナの植民地化を強化しようと
日本人は明治維新までの千数百年間︑シナの文化を尊
短を補う道をも開くであろう︒
おのれと異なる性格を理解し︑他の長を取っておのれの
限定を超えて進む道をもさとることである︒それはまた
おのれの性格を明らかに認識することは︑その性格の
大の不幸にまで追い込んで行ったように見える︒
たのである︒シナ人の無感動性はついにシナの民衆を最
地性から解放するという正しい方向には向かい得なかっ
するものである限り︑その民族的自覚はシナをその植民
440
敬し︑おのれを空しゅうしてその摂取につとめた︒衣食
住の末に至るまでそうであった︒しかし日本人の衣食住
がシナ人のそれと著しく異なったものになったごとく︑
日本人の摂取したシナの文化はもはやシナのそれではな
い ︒ 日 本 人 が 尊 重 す る の は ︑ 空 漠 た る 大 い さ で はな く し
、め
、の細かさである︒外観の整備ではなくして内部の
てき
すみずみにまで行きわたった醇化である︒形式的な体面
ではなくして心情における感動である︒日本人がいかに
深くシナ文化を吸収したにしても︑日本人はついに前述
のごときシナ的性格を帯びるには至らなかった︒しかし
441
それにもかかわらず日本の文化は︑先秦より漢唐宋に至
しい進展にとってはシナの文化復興は必要である︒徹底
文 化 の 偉 大 さ を 回復 し な く て はな ら ぬ ︒ 世 界 の文 化 の 新
シナは復活しなくてはならぬ︒漢や唐におけるごとき
ろう︒
ナ的性格の打開の道をそこに見いだすこともできるであ
再認し得るであろう︒そうして現在行き詰まっているシ
代のシナに消失している過去の高貴な文化の偉大な力を
ある︒シナ人はこれを理解することによってかえって現
るまでのシナ文化の粋をおのれの内に生かしているので
442
的に外国の植民地に化する方針を固執するごとき財閥軍
閥たちは︑シナ民族自身の敵に過ぎない︒シナ民族はま
ず 自 ら の 足 場に 立 た な く て は な ら な い ︒ そ こ に 偉 大 な る
日
イ
本
台風的性格
人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持ってい
二
シナの復活 が始 まる ︒
︵昭和四年初稿︑昭和十八年改稿︶
443
、土
、的
、類
、型
、によっ
る︒この特殊性は風土の有限性による風
洋 と 豊 か な 日 光 と を 受 け て豊 富 に 水 を 恵 ま れ 旺 盛 に 植 物
ことはできない︒風土のみを抽象して考えても︑広い大
しかし我々はこれのみによって我々の国民を規定する
、容
、
方においてはまさにモンスーン的である︒すなわち受
、・忍
、従
、的
、である︒
的
ーン的﹂と名づけた︒我々の国民もその特殊な存在の仕
はモンスーン地域における人間の存在の仕方を﹁モンス
るゆえに︑風土の類型は同時に歴史の類型である︒自分
て顕著に示される︒もとよりこの風土は歴史的風土であ
444
が繁茂するという点においてはなるほど我々の国土とイ
ンドとはきわめて相似ているが︑しかしインドが北方は
、わ
、め
、て
、
高山の屏風にさえぎられつつインド洋との間にき
、則
、的
、な季節風を持つのとは異なり︑日本は蒙古シベリ
規
アの漠々たる大陸とそれよりもさらに一層漠々たる太平
洋 と の 間 に 介 在し て ︑ き わめ て 変 化に 富 む季 節 風 に も ま
れ てい るのである︒大洋のただ中に おい て吸い上げられ
た豊富な水を真正面から浴びせられるという点において
共通であるとしても︑その水は一方においては﹁台風﹂
、節
、発
、的
、ではあっても突
、的
、な︑従ってその
というごとき季
445
弁証法的な性格とその猛烈さとにおいて世界に比類なき
現われる︒強い日光と豊富な湿気を条件とする熱帯的な
いだされない︒この二重性格はまず植物において明白に
重性格を顕わすものは︑日本の風土を除いてどこにも見
両者を含むのではあるが︑しかしかくまで顕著にこの二
きる︒温帯的なるものは総じて何ほどかの程度において
、帯
、帯
、的
、・寒
、的
、の二重性格と呼ぶことがで
ある︒それは熱
おいて日本はモンスーン域中最も特殊な風土を持つので
、雪
、の形を取る︒かく大雨と大雪との二重の現象に
れな大
形を取り︑他方においてはその積雪量において世界にま
446
草木が︑ここでは旺盛に繁茂する︒盛夏の風物は熱帯地
方とほとんど変わらない︒その代表的なるものは稲であ
る︒しかるにまた他方には寒気と少量の湿気とを条件と
する寒帯的な草木も︑同じく旺盛に繁茂する︒麦がその
代表者である︒かくして大地は冬には麦と冬草とに覆わ
れ︑夏には稲と夏草とに覆われる︒しかしかく交代し得
ない樹木は︑それ自身に二重性格を帯びて来る︒熱帯的
植物 としての竹に雪の積もった姿は︑しば しば日本 の特
殊の風物としてあげられるものであるが︑雪を担うこと
に慣れた竹はおのずから熱帯的な竹と異なって︑弾力的
447
な︑曲線を描き得る︑日本の竹に化した︒
風土のみを抽象して考察した場合に見いだされるこれ
、む
、とともに︑
ほかならぬ︒豊富な湿気が人間に食物を恵
であるという二重性格は︑人間の生活自身の二重性格に
、節
、発
、的
、でありつつ突
、的
、
生活を脅やかす︒だから台風が季
込むのである︒台風は稲の花を吹くことによって人間の
必要な雨や雪や日光は人間の生活の中へ降り込み照らし
、帯
、
、的
、な野菜や︑麦及びさまざまの寒
稲及びさまざまの熱
、的
、る
、な野菜は︑人間が自ら作
、のであり︑従ってそれに
帯
らの特徴は︑具体的には人間の歴史的生活の契機である︒
448
、や
、か
、す
、というモンスー
同時に暴風や洪水として人間を脅
、容
、従
、的
、・忍
、的
、な存在の仕方
ン的風土の︑従って人間の受
の二重性格の上に︑ここにはさらに熱帯的・寒帯的︑季
節的・突発的というごとき特殊な二重性格が加わってく
るのである︒
、容
、性
、は日本の人間においてきわ
まずモンスーン的な受
めて特殊な形態を取る︒第一にそれは熱帯的・寒帯的で
ある︒すなわち単に熱帯的な︑単調な感情の横溢でもな
ければ︑また単に寒帯的な︑単調な感情の持久性でもな
、富
、に
、流
、れ
、出
、で
、つ
、つ
、変
、化
、に
、お
、い
、て
、静
、か
、に
、持
、久
、す
、
くして︑豊
449
、感
、化
、情
、である︒四季おりおりの季節の変
、が著しいよう
る
だから持久性を持たないことの裏に持久性を隠してい
っているのではなく︑依然としてもとの感情なのである︒
る︒癒された時︑感情は変化によって全然他の感情とな
新しい刺激・気分の転換等の感情の変化によって癒され
労は無刺激的な休養によって癒されるのではなくして︑
、れ
、や
、す
、く
、持
、久
、性
、を
、持
、た
、な
、い
、︒しかもその疲
るがゆえに疲
、発
、で
、あ
、り
、敏
、感
、である︒活発敏感であ
に︑はなはだしく活
する︒だからそれは大陸的な落ちつきを持たないととも
、子
、の
、早
、い
、移
、り
、変
、わ
、り
、を要求
に︑日本の人間の受容性は調
450
、化
、に
、お
、い
、て
、ひそかに持久するので
る︒すなわち感情は変
ある︒第二にそれは季節的・突発的である︒変化におい
、の
、感
、情
、に変転しつ
てひそかに持久する感情は︑絶えず他
つしかも同じ感情として持久するのであるがゆえに︑単
に季節的・規則的にのみ変化するのでもなければ︑また
、化
、の
、各
、瞬
、
単に突発的・ 偶然的に変化するのでもなく︑変
、に
、突
、発
、性
、を
、含
、み
、つ
、つ
、前
、の
、感
、情
、に
、規
、定
、せ
、ら
、れ
、た
、他
、の
、感
、情
、
間
、転
、化
、す
、る
、のである︒あたかも季節的に吹く台風が突発
に
的な猛烈さを持っているように︑感情もまた一から他へ
移 る と き ︑ 予 期 せ ざ る 突 発 的 な 強 度 を示 す こ と が あ る ︒
451
日本の人間の感情の昂揚は︑しばしばこのような突発的
しく︑華やかに咲きそろうが︑しかし執拗に咲き続ける
おいてもきわめて適切である︒それは急激に︑あわただ
た︒桜の花をもってこの気質を象徴するのは深い意味に
尚びながらも執拗を忌むという日本的な気質を作り出し
さえ作り出している︒さらにそれは感情の昂揚を非常に
会を全面的に変革するというごとき特殊な歴史的現象を
る︒だからそれはしばしば執拗な争闘を伴なわずして社
の強さではなくして︑野分のように吹き去る猛烈さであ
のわき
な猛烈さにおいて現われた︒それは執拗に持続する感情
452
のではなくして︑同じようにあわただしく︑恬淡に散り
去るのである︒
、従
、性
、もまた日本の人間において
次にモンスーン的な忍
特殊な形態を取っている︒ここでもそれは第一に熱帯
、戦
、
的・寒帯的である︒すなわち単に熱帯的な︑従って非
、的
、の
、なあきらめでもなければ︑また単に寒帯的な︑気
、
闘
、い
、き
、辛抱強さでもなくして︑あ
、ら
、め
、で
、あ
、り
、つ
、つ
、も
、反
、抗
、
永
、お
、い
、て
、変
、化
、を
、通
、じ
、て
、気
、短
、に
、辛
、抱
、す
、る
、忍
、従
、である︒暴風
に
や 豪 雨 の 威 力 は 結 局 人 間 を し て 忍 従 せ しめ る の で は あ る
が︑しかしその台風的な性格は人間の内に戦争的な気分
453
を湧き立たせずにはいない︒だから日本の人間は︑自然
、り
、返
、し
、行
、く
、忍
、従
、の
、各
、瞬
、間
、に
、突
、発
、的
、な
、忍
、
るのでもなく︑繰
返すのでもなければ︑また単に突発的・偶然的に忍従す
うその理由によって︑単に季節的・規則的に忍従を繰り
発的である︒反抗を含む忍従は︑それが反抗を含むとい
明白に示している︒第二にこの忍従性もまた季節的・突
現象としてのヤケ︵自暴自棄︶は︑右のごとき忍従性を
持久的ならぬあきらめに達したのである︒日本の特殊な
ったにかかわらず︑なお戦闘的反抗的な気分において︑
、服
、対
、しようともせずまた自然に敵
、しようともしなか
を征
454
、を
、蔵
、し
、て
、い
、る
、のである︒忍従に含まれた反抗はしばし
従
ば台風的なる猛烈さをもって突発的に燃え上がるが︑し
かしこの感情の嵐のあとには突如として静寂なあきらめ
が現われる︒受容性における季節的・突発的な性格は︑
直ちに忍従性におけるそれと相俟つのである︒反抗や戦
闘 は 猛 烈 な ほ ど 嘆 美 せ ら れ る が ︑ し か し そ れ は 同 時に 執
、れ
、い
、に
、あ
、き
、ら
、め
、る
、ということ
拗であってはならない︒き
は︑猛烈な反抗・戦闘を一層嘆美すべきものたらしめる
のである︒すなわち俄然として忍従に転ずること︑言い
かえれば思い切りのよいこと︑淡白に忘れることは︑日
455
本人が美徳としたところであり︑今なおするところであ
に︑その執着のただ中において最も目立つものは︑生へ
への執着が大きい・烈しい客観的な姿に現われたとき
戦闘の根抵に存するものは生への執着である︒しかも生
露戦争において彼らに強い驚きの印象を与えた︒反抗や
度としてヨーロッパ人を驚嘆せしめたように︑近くは日
の現象はかつてキリシタンの迫害に際しての殉教者の態
現われ方は︑淡白に生命を捨てるということである︒こ
ごとき突発的忍従性にもとづいている︒その最も顕著な
る︒桜の花に象徴せられる日本人の気質は︑半ばは右の
456
の執着を全然否定する態度であった︒日本人の争闘はこ
こにその極致を示している︒剣道の極致は剣禅一致であ
る ︑ す な わ ち争 闘 を ば 執 拗 な 生 へ の 執 着 か ら 生 の 超越 に
まで高めることである︒これらを我々は台風的な忍従性
と呼ぶことができる︒
そこで日本の人間の特殊な存在の仕方は︑豊かに流露
する感情が変化においてひそかに持久しつつその持久的
変化の各瞬間に突発性を含むこと︑及びこの活発なる感
情 が 反 抗 に お い て あ き ら め に 沈 み ︑ 突 発 的 な 昂 揚 の裏 に
俄然たるあきらめの静かさを蔵すること︑において規定
457
方に現われてくる︒
︵1︶
特殊な存在の仕方はまずこの間柄︑従って共同態の作り
わち﹁間柄﹂における人であることである︒従ってその
人間の第一の規定は個人にして社会であること︑すな
的表現において追究してみなくてはならぬ︒
れている場所はない︒そこで我々はこの性格をその客観
あるゆえに︑歴史的な形成物を除いてどこにもその現わ
の国民的性格は歴史においておのれを形成しているので
る︒これが日本の国民的性格にほかならない︒しかしこ
、め
、闘
、や
、か
、な
、激
、情
、︑ 戦
、的
、な
、恬
、淡
、で あ
せられる︒それはし
458
人の﹁間﹂の最も手近なものは︑アリストテレスも指
摘したように︑男と女との﹁間﹂である︒男といい女と
いう区別は︑すでにこの﹁間﹂において把捉せられてい
る︒すなわち﹁間﹂における一の役目が男であり他の役
目が女である︒この役目を持ち得ない﹁人﹂はいまだ男
、っ
、て
、い
、な
、い
、のであり︑男にも女にも成って
にも女にも成
いないものをいくら結合させてもそこに﹁男女の間﹂は
成立しない︒だから男といい女という時にはすでに﹁間﹂
において人を役目づけているのである︒従って﹁人﹂は
独身であることができるにしても﹁男女﹂は互いに相手
459
︵2︶
、め
、や
、か
、な も の で あ
シアの物語 に も見いだせないほどし
︵3 ︶
記の物語るいくつかの素樸な悲恋は︑旧約にもまたギリ
らかに日本的なる一つの恋愛の類型を示している︒古事
であるとともに恬淡なあきらめを持つ恋愛﹂として︑明
る も の は ︑﹁ 激 情 を 内 に 蔵 し た し め や か な 情 愛 ︑ 戦 闘 的
りも豊富な材料によって答えられる︒そこに見いだされ
初めとして︑あらゆる時代を通じて他のいかなる題目よ
せられ てい るか︒それは古事記や書紀におけ る恋愛譚 を
かかる﹁男女の間﹂が日本においていかに特殊に形成
なくしては存在し得ないということができる ︒
460
る と と も に ︑ ま た シ ナ や イ ン ド に 見 い だ せな い ほど な 台
風的激情性︑戦闘的な力強さを持っている︒しかもそれ
が﹁情死﹂において恬淡な静かなあきらめを最も明白に
︵4︶
具体化しているのであ る ︒この素樸さは時代とともに
失われたが︑しかし恋愛に物の哀れを看取する平安朝に
おいても︑また恋愛を宗教と結合した鎌倉時代において
︵5︶
も ︑さらにまた恋愛の根源的な力を謡った足利時代に
おいても︑右のごとき恋愛の類型は明らかに認めること
ができる︒仏教は決して恋愛の位置を貶しはしなかった︒
むしろ煩悩即菩提の思想によって霊と肉との乖離を防い
461
だ︒徳川時代の文芸が好んで主題とした情死のごときも︑
かくして日本的なる恋愛の類型においては︑まず第一
いのである︒
なる恋愛の特性を示しているということには変わりはな
ゆえに他のあらゆる役目を蹂躙するという意味において
、間
、の
、道
、を
、は
、ず
、れ
、て
、い
、る
、としても︑それによって日本的
人
するのである︒たといそれが人間の男女としての役目の
、遠
、間
、を欲する心が瞬
、的
、な昂揚に結晶
のである︒恋愛の永
、定
、定
、において恋愛の肯
、を示している
い︒それは生命の否
単に精神的な﹁あの世﹂の信仰にもとづいたものではな
462
に恋愛が生命的なる欲望よりも優位を持っている︒恋愛
が欲望の手段ではなくして欲望が恋愛の手段である︒だ
からそこでは︑個 人的な る欲望に距てられない間柄︑す
、然
、め
、距
、て
、な
、き
、結
、合
、が目ざされる︒し
、
なわち男女の間の全
、か
、な
、情愛として言い現わされるのは右のごとき全人格
や
的な結合である︒しかし第二に恋愛は常に肉体的であっ
︵6︶
て単に魂のみの結合ではない ︒ 恋愛はその手段として
肉欲を欠くことができない︒そこで人格的なしめやかな
情愛が同時に激情的になる︒全然距てなき結合は離れた
る 肉 体 を 通 じ て 試 み ら れ な く て はな らな い ︒ 魂 の 永 遠 の
463
欲望が肉体において瞬間に爆発する︒そこで第三に肉体
他の型よりも︑一層高き品位を保っているのである︒
恋愛を魂の事件として把捉しつつも肉欲的に執拗である
ことによって示されている︒そこで日本的恋愛の型は︑
、淡
、である
肉体的に把捉している日本人が肉体的に最も恬
死の現象において拡大せられるまでもなく︑恋愛を常に
そこで肉体的な恋愛が恬淡に肉体を否定する︒それは情
合が肉体においては不可能であるとのあきらめである︒
して突如たるあきらめとなる︒すなわち全然距てなき結
的生命を惜しまない恋愛の勇敢となり︑第四にその裏と
464
しかし﹁男女の間﹂をただ右のごとき恋愛の関係にの
み限るのは実は抽象的である︒それは﹁め・おとの仲﹂
として同時に夫婦関係であり︑従って﹁親子の間﹂を含
んでいなくてはならぬ︒しかしこの親子の間は夫婦がそ
の間に産まれた子に対して持つ関係のみではない︒夫婦
が子に対して父母となるとともに︑夫婦自身が親に対し
、女
、婦
、であるとともに夫
、であり
て子である︒だから人は男
、であり子
、であるのである︒子としての役目を持ったこ
親
とのない男女なるものは絶対的にあり得ない︒従って男
女の間はあくまでも夫婦親子の間にもとづくと言わねば
465
ならぬ︒これが﹁家族﹂としての人間の共同態である︒
、と︑殺戮に
妻 と し た ︒ す な わ ち 家 族 か ら 脱 出 し て来 た 男
、を取って
始 的 ポ リ ス を 建 設 し 始 め た と き ︑ 被征 服 地 の 女
、た
、服
、ち
、が︑多島海沿岸の諸地方を征
、して原
た冒険的な男
リシア人の海賊的冒険であった︒その郷土の牧場を離れ
ーン的に明白に相違している︒牧場的文化の始まりはギ
家族としての人の﹁間﹂は︑牧場的︑沙漠的︑モンス
合により家族が成立するのではない︒
して役目づけられるのであって︑逆に男女夫婦親子の集
だから人は家族の全体性において初めて夫婦親子男女と
466
、とが︑ここに新しく家族を
よって家族を破壊せられた女
形成したのである︒ギリシアの古い伝説に残虐な夫殺し
の話が多いのは︑このような史的背景にもとづくと言わ
れている︒だからギリシア人がもと強い祖先崇拝の上に
立ち︑またヘスチアの崇拝を根強く保存したにもかかわ
らず︑ポリスの形成以後においては︑家の意義はポリス
、婦
、の見地か
に対してはるかに軽くなっている︒家族は夫
、某
、の
、子
、としてせいぜい父が
ら把捉せられ︑血統的には何
あげられるだけである︒それに対して沙漠的な家族は︑
祖先以来の血統を背負った伝統的な存在として把捉せら
467
︵7︶
るということがない︒
同じく血統的な存在ではあるが︑しかし部族に解消し去
及び日本における﹁家﹂である︒それは沙 漠的な家族と
心を置いたのは︑モンスーン的な家族である︒特にシナ
の意義を弱めてくる︒家族的な生活の共同に最も強く重
の厳しい制約の下においては︑家族的な生活の共同はそ
牧生活の単位は部族であって家族ではない︒部族の団結
仕方は︑この家族の優位をむしろ﹁部族﹂に譲った︒遊
ム の 裔 ﹂﹁ ダ ビ デ の 裔 ﹂ で あ る ︒ し か し 沙 漠 的 な 存 在 の
れている ︒ 処女から生まれたイエスさえも﹁アブラハ
468
﹁家﹂は家族の全体性を意味する︒それは家長におい
て代表せられるが︑しかし家長をも家長たらしめる全体
性であって︑逆に家長の恣意により存在せしめられるの
ではない︒特に﹁家﹂の本質的特徴をなすものは︑この
全体性が歴史的に把捉せられているという点である︒現
在の家族はこの歴史的な﹁家﹂を担っているのであり︑
従って過去未来にわたる﹁家﹂の全体性に対し責任を負
わ ね ば な ら ぬ ︒﹁ 家 名 ﹂ は 家 長 を も 犠 牲 に し 得 る ︒ だ か
ら家に属する人は親子夫婦であるのみならずさらに祖先
に対する後裔であり後裔に対する祖先である︒家族の全
469
、で
、あ
、る
、ことは︑この﹁家﹂に
体 性 が個 個 の成 員 よ り も 先
は︑そのまま家族としての存在の仕方にも通用する︒こ
我々が日本的なる恋愛の特殊性について語ったこと
ようなものであろうか︒
の 仕 方 は ︑ 家 族 制 度 が す たれ て 行 く と と も に 消滅 し 去 る
の特殊性はどこにあるであろうか︒またこの特殊な存在
として力説せられることによっても知られる︒しかしそ
に 目 立 つ も の で あ る こ と は︑ 家族 制 度 が 日本 の 淳風 美 俗
こ の よ う な ﹁ 家 ﹂ が 日 本 の 人間 の 存 在 の 仕 方 と し て 特
おいて最も明白に示されている︒
470
こでは男女の間ではなくして夫婦の間・親子の間・兄弟
の間が問題であるが︑この﹁間﹂がまず第一に全然距て
な き 結 合 を 目ざ す と こ ろ の し め や かな 情 愛 で あ る ︒素 朴
︵8︶
な古代人は夫婦喧嘩や嫉妬を物語るに際してすでにこの
よ う な 距 て な き 家 族 の 情 愛 を示 し て い る ︒ さ ら に 万 葉 の
歌人憶良の﹁しろがねも黄金も玉もなにせむにまされる
宝子にしかめやも﹂の絶唱は︑日本 人の心を言い当てた
ものとして︑永く人口に膾炙している︒憶良の家族的情
な
あ
愛はかの罷宴の歌においてさらに一層直観的に現われ
まか
る ︒﹁ 憶 良 ら は 今 は 罷 ら む 子 哭 く ら む そ の 子 の 母 も 吾 を
471
待 つ ら む ぞ ︒﹂ こ の よ う な し め や か な 情 愛 は 大 き い 社 会
現せられているのである︒従って第二にそれはしめやか
ていた︒自他不二の理念はこの場面において比類なく実
、己
、心
、を
、犠
、牲
、に
、す
、る
、ことを目ざし
族的な﹁間﹂において利
とは言うまでもない︒あらゆる時代を通じて日本人は家
芸が人の涙を絞ろうとする時にこの親子の情を使ったこ
最 も 根 源 的 な 深 い 力 と し て 描 か れ てい る ︒ 徳 川 時代 の 文
である︒さらに足利時代の謡曲においては︑親子の情は
︵9︶
きる︒熊谷蓮生坊の転心は子に対する愛情にもとづくの
的 変 革 を 引 き 起 こ し た 鎌 倉 時代 の 武 士 に も 見 る こ と が で
472
であると同時に激情的になる︒情愛のしめやかさは単に
陰欝に沈んだ感情の融合ではなくして︑横溢する感情を
変化においてひそかに持久させたものである︒強い感情
が燻しをかけられて静かな形に現われたものである︒だ
から距てなき結合を目ざす力は表面の静かさにもかかわ
らずその底力においてきわめて烈しい︒利已心の犠牲も︑
単 に 便 宜上 必 要 な 程 度 に 留 ま る の で はな く し て︑ あ く ま
でも徹 底的に遂行せられようとする︒そこで障礙に逢う
ごとにしめやかな情愛は激して熱情的になる︒それは家
の全体性のゆえに個人を圧服し切るほどの強い力を持っ
473
ている︒だから第三に家族的な﹁間﹂は生命を惜しまな
めて恬淡に己れの命をも捨てた︒親のためあるいは子の
性は常に個人より重いのである︒従って第四に人はきわ
め に 勇 敢 で あ っ た 武 士 た ち は 皆 そ う で あ っ た ︒ 家 の 全体
高 い 意 義 と し て 感 ぜ ら れ て い た の で あ る ︒﹁ 家 名 ﹂ の た
犠牲にする︒しかもその犠牲 は当人にとって人生の最も
い る ︒ 親 の た め に ︑ ま た 家 名 の ため に ︑ 人 は そ の 一 生 を
いかに強く日本 の民衆の血を湧かせたかがそれを示 して
る︒曾我物語に現われているような親の仇討ちの思想が
い勇敢な・戦闘的な態度となって現われてくるのであ
474
ために身命を賭すること︑あるいは﹁家﹂のために生命
を捨てること︑それは我々の歴史において最も著しい現
象である︒家族のために勇敢であることが必ずしも利己
心にもとづかず︑従って執拗に生を欲するのでないとい
うことは︑しめやかな情愛がすでに利己心の犠牲をふく
むということによっても理解し得られるであろう︒
かくして﹁家﹂としての日本の人間の存在の仕方は︑
しめやかな激情・戦闘的な恬淡というごとき日本的な
﹁間柄﹂を家族的に実現しているにほかならぬ︒そうし
てまたこの間柄の特殊性がまさに﹁家﹂なるものを顕著
475
に発達せしめる根拠ともなっているのである︒なぜなら︑
いる︒
ときイデオロギーよりも一層深い根抵的な位置を持って
殊性なのであって︑それにもとづいた家族制度というご
帯 び て く る ︒ そ れ は ま さ に 日 本 の 人 間 の 存 在 の 仕方 の 特
おいては共同態のなかの共同態として特に重大な意義を
は不適当だからである︒そこで﹁家﹂なるものは日本に
に も とづ く と こ ろ の ︑ よ り 大 き い 人 間 の 共 同 態 の 形 成 に
視点の下に人間を見ることを許さず︑従って個人の自覚
しめやかな情愛というごときものは︑人工的・抽象的な
476
家族制度が現代において徳川時代のごとく顕著に存せ
ざ る こ と は 何 人 も 承 認す る と こ ろ で あ ろ う ︒ し か し 現 代
の 日 本 の 人 間 の 存 在 の 仕 方 は ︑﹁ 家 ﹂ を 離 れ て い る で あ
ろうか︒ヨーロッパの近代資本主義は人間を個人として
見ようとする︒家族もまた経済的利害による個人の結合
として理解せられる︒しかし資本主義を取り入れた日本
人は﹁家﹂において個人を見ず︑個人の集合において家
を見るようになったであろうか︒我々はしかりとは答え
最 も 日 常 的 な 現 象 と し て︑ 日 本 人 は ﹁ 家 ﹂ を ﹁ う ち ﹂
ることができぬ︒
477
として把捉している︒家の外の世間が﹁そと﹂である︒
いだすことができない︒室の内外︑家の内外を言うこと
﹁うち﹂と﹁そと﹂の区別は︑ヨーロッパの言語には見
が﹁そと﹂なる世間と距てられるのである︒このような
てなき間柄﹂としての家族の全体性が把捉せられ︑それ
別は無視せられる︒すなわち﹁うち﹂としてはまさに﹁距
者﹂であって︑外の者との区別は顕著であるが内部の区
夫にとっては妻は﹁家内﹂である︒家族もまた﹁うちの
妻 に と っ て は 夫 は ﹁ う ち ﹂﹁ う ち の 人 ﹂﹁ 宅 ﹂ で あ り ︑
、人
、の
、区
、別
、は
、消
、滅
、す
、る
、︒
そうしてその﹁うち﹂においては個
478
、柄
、の 内 外 を 言 う こ と は な い ︒ 日
はあっても︑家族の間
であり︑第三に国あるいは町の内外である ︒すなわち
、人
、の
、心の内と外であり︑第二に家屋の内外
は︑第一に個
、ち
、と
、・ そ
、に 対 応 す る ほ ど 重 大 な 意 味 を 持 つ の
本語のう
(10)
法は日本 の人間の存在の仕方の直接 の理解を表 現してい
、ち
、と
、・そ
、の用
準とする見方はそこには存せぬ︒かくてう
立が主として注意せられるのであって︑家族の間柄を標
精神と肉体︑人生と自然︑及び大きい人間の共同態の対
(11)
かく言語において表現せられていることは同時に﹁家﹂
るといってよい︒
479
、柄
、と
、し
、て
、
の構造にも現わされている︒すなわち人間の間
、家 の 構 造 は そ の ま ま 家
、屋
、と
、し
、て
、の
、家 の 構 造 に 反 映 し
の
(12)
き結合そのものが襖障子による仕切りを可能にするので
け る こ と を 拒 む 意 志 は 現 わ されて お ら ぬ ︒だ か ら 距 て な
たとい襖や障子で仕切られているとしても︑それはただ
、互
、の
、信
、頼
、に
、お
、い
、て
、仕切られるのみであって︑それをあ
相
ことがない︒すなわち個々の部屋の区別は消滅している︒
表 現 と し て の 錠 前 や 締 ま り に よ っ て他 か ら 区別 せ ら る る
﹁ 距 てな き 結 合 ﹂ を 表 現 す る ︒ ど の 部 屋 も 距 て の意 志 の
ているのである︒まず第一に﹁家﹂はその内部において
480
ある︒しかし距てなき結合においてしかも仕切りを必要
と す る と い う こ と が 他 方 で は 距 てな き 結 合 の含 ん でい る
、情
、性
、を現わしているのである︒従ってそれは家の内部
激
、抗
、性
、を示すとともに︑またそれをことごとく
における対
取り払って一切の仕切りのない恬淡な開放性をも実現す
ることができる︒
第二に﹁家﹂はそとに対して明白に区別せられる︒部
、締
、
屋には締まりをつけないにしても外に対しては必ず戸
、り
、をつける︒のみならずその外にはさらに垣根があり
ま
塀 が あ り ︑ は な は だ し い 時に は 逆 茂 木 や 濠 が あ る ︒ そ と
481
から帰れば玄関において下駄や靴をぬぎ︑それによって
規定しているのである ︒それが人間の存在の仕方とし
いる︒そうして単に外形的にのみならず生活の仕方をも
かくのごとき家が日本においては依然として存続して
われているのである︒
、て
、が露骨に現
外と内とを截然区別する︒そとに対する距
482
とによって距てられている︒その戸は一一精巧な錠前に
個々独立の部屋に区切られ︑その間は厚い壁と頑丈な戸
ることによって明らかになる︒ヨーロッパの家の内部は
ていかに特殊的であるかは︑ヨーロッパのそれと比較す
(13)
よって締まりをすることができ︑従ってただ鍵を持つも
ののみが自由に出入し得るのである ︒これは原理的に
うちそと
ときには︑きちんとしていなくてはならぬ︒一歩室を出
には︑真裸でもよい︒しかし室を出て家族の間に加わる
ことと同様な意味を持つ︒室の中では︑すなわち個人的
戸口から出ることはちょうど日本において玄関から出る
て︑個別的な部屋の内外となるのである︒だから部屋の
に個人の心の内外を意味することは︑家の構造に反映し
、々
、相
、距
、て
、る
、構造と言わねばならぬ︒内外が第一
言って個
(14)
れば︑家庭内の食堂であると街のレストランであると大
483
差 は な い ︒ す な わ ち 家 庭 内 の 食 堂 が す で に 日 本 の意 味 に
の公園も往来も﹁内﹂である︒そこで日本の家の塀や垣
外であっても︑共同生活の意味においては内である︒町
間の社交が行なわれる︒しかしそれは部屋に対してこそ
そこには﹁距てなき間柄﹂ではなくして距てある個人の
家庭内の団欒に当たるものが町全体にひろがって行く︒
人の部屋にまで縮小せられるとともに︑他方では日本の
から一方では日本の家に当たるものが戸締まりをする個
どもいわば茶の間や居間の役目をつとめるのである︒だ
おける﹁そと﹂であるとともに︑レストランやオペラな
484
根に当たるものが︑一方大部屋の錠前にまで縮小したと
ともに他方で町の城壁や濠にまで拡大する︒日本の玄関
、屋
、壁
、と 城
、と
に当たるものは町の城門である ︒だから部
日本人は外形的にはヨーロッパの生活を学んだかも知
うことがないのである︒
れ て い る ︒ す な わ ち ま さ し く ﹁ 家 ﹂ に 規 定 せ ら れ る とい
、て
、に
、お
、け
、る
、共
、同
、に慣
またきわめて社交的であり従って距
、て
、が
、あ
、る
、とともに︑
きわめて個人主義的であり従って距
の 中 間 に 存 す る 家 は さ ほ ど 重 大 な 意 味 を 持 たな い ︒ 人 は
(15)
れない︒しかし家に規定せられて個人主義的・社交的な
485
る公共生活を営み得ない点においては︑ほとんど全くヨ
は依然として﹁家﹂に規定せられているのである︒
い の で あ る ︒ 開 放 的 な 日 本 の 家 屋 に 住 み 得 る 限り ︑ 彼 ら
も家の外として感ずる限り︑それはヨーロッパ的ではな
内﹂との同視がどこに存するであろうか︒町をあくまで
と誰が感ずるであろうか︒すなわち﹁家の内﹂と﹁町の
はいても︑そのままで畳の上にも上がれるはき物である
場所であると誰が感ずるであろうか︒あるいはまた靴を
スファルトを敷いても︑それが足袋はだしで出て行ける
ーロッパ化していないと言ってよいのである︒路面にア
486
かくして我々は﹁家﹂としての存在の仕方が特に顕著
に 国 民 の 特 殊 性 を 示 す こ と を 承 認 しな く て は な ら ぬ ︒ と
、の
、全
、体
、性
、を自覚する道も︑実は家
ころで日本の人間がそ
の全体性を通じてなされたのである︒人間の全体性はま
ず神として把捉せられた︒しかしその神は歴史的なる
﹁家﹂の全体性としての﹁祖先神﹂にほかならなかった︒
それは古代における最も素樸的な全体性の把捉である
が ︑ し か し 不 思 議 に も そ の 素 樸な 活 力 が 国 史 の 展 開 を 通
じて活き続けているのである︒明治維新は尊皇攘夷とい
487
う形に現わされた国民的自覚によって行なわれたが︑こ
のである︒いわく︑日本の国民は皇室を宗家とする一大
せず︑依然として家のアナロギーによって説こうとした
自覚さえも︑学者はそれ自身において理論づけようとは
治時代に他の国民との戦争において燃え上がった国民的
うな現象は︑実際︑世界に類がないのである︒だから明
度文化の時代になお社会変革の動力となり得たというよ
ざ し て い る ︒ 原 始 社 会 に お け る 宗 教 的 な 全体 性 把 捉 が 高
とづき︑この復興は氏神の氏神たる伊勢神宮の崇拝に根
の国民的自覚は日本を神国とする神話の精神の復興にも
488
家族 である︒国民の全体 性は︑同一祖先より出づるこの
大きい家の全体性にほかならない︒そこで国家は﹁家の
家﹂となる︒家のまわりの垣根は国境にまで拡大せられ
る︒家の内部におけると同じく国家の内部においても距
てなき結合が実現せられねばならぬ︒家の立場において
孝と呼ばれる徳は︑家の家の立揚において忠と呼ばれる︒
だから忠孝は本質において一致する︒それはいずれも全
体 性に よ っ て 個 人 を 規 定 す る と こ ろ の 徳 で あ る ︒
この忠孝一致の主張が理論的にも歴史的にも多くの無
理を含むことは一見して明らかである︒家の全体性は決
489
してそのままに国家の全体性ではあり得ない︒家族は直
であったが︑江戸時代においては孝はただ親に対する子
おや
部を尽くしてはいない︒シナにおいては父子の間は﹁親﹂
た ﹁ 孝 ﹂ は 必 ず し も 家 族 の 全体 性に よ る個 人 の 規 定 の 全
である︒また歴史的に言っても︑江戸時代に力説せられ
から人間の構造として家族と国家を同視するのは間違い
である︒連帯性の構造が両者において異なっている︒だ
者は最も低次の全体性であり︑後者は最高の人間全体性
、わ
、り
、である︒前
は精神的共同態として人間の共同態の終
、め
、であり︑国家
接の生活の共同として人間の共同態の初
490
の奉仕的関係のみを意味する︒同様に忠もまた封建君主
、人
、的
、関
、係
、をのみ意味して︑国家の全
とその臣との間の個
体性とかかわるところはなかった︒だから国家の全体性
、皇
、は︑本質的に江戸時代の忠とは
への帰属を意味する尊
異なるのである ︒従って親に対する奉仕的関係が封建
全体 性による個人の規定としての孝と合致するというこ
全体性への個人の帰属という意味における忠が︶家族の
、皇
、
君主に対する奉仕的関係と合致するということは︑尊
、意
、味
、に
、お
、け
、る
、忠
、が
、︵すなわち個人的関係ではなくして
の
(16)
との証明にはならないのである︒
491
にもかかわらず我々は︑家のアナロギーによって国民
に ︑国民としての存在の仕方そのものに同様な特殊性
家としての存在の仕方に最もよく現われているととも
方が可能であったということは︑日本の国民の特殊性が
、の
、殊
、仕
、方
、を通じて人間の全体性を把捉するその特
、な
、仕
、
在
、にほかならぬのである︒そうしてこのような特殊な仕
方
、の
、特
、殊
、な
、存
、
史 的 意 義 を 認め る ︒ そ れ は ま さ に 日 本 人 が そ
の 全 体 性 を 自 覚 し よ う と す る忠 孝 一 致 の 主 張 に 充 分 の 歴
492
、教
、的
、に把捉せら
日本においても国民の全体性はまず宗
の存することを示唆しているのである︒
(17)
れた︒それは神話を通じてのみ理解し得られる原始社会
の事実である︒そこでは人はまだ個人として物を感じ考
え る と い う こ と が な か っ た ︒ 人間 の意 識 は 団 体 の 意 識 で
あり︑団体の生活にとって不利なことはタブーとして
個 々 の 人を束 縛し た︒かか る社 会において 人間 の全体 性
が神秘的な力として自覚せられたのである︒だから神秘
的な力への帰属は全体 性への帰属にほかならず︑宗教的
に何かを祭ることはその祭儀において全体性を現わすこ
rain
とにほかならなかった︒そこで祭り事を司どる者は全体
性の表現者として神的なる権威を帯びて来る︒
493
にな る︒これは原始宗教一般の傾向であ
makerが Zeus
るが︑わが国においては特に模範的に示されている︒天
多数の軍隊を朝鮮にさえ送り得たのは︑かくのごとき宗
らず︑しかも日本国民がきわめて緊密な団結を形成し︑
ある︒武力的経済的には充分組織せられないにもかかわ
、団
、の意味を持ったので
事によって確保せられた一つの教
そこで原始社会における日本国民は︑右のごとき祭り
を最も明白に示している︒
り事がそのまま政治を意味するに至ったことはこの事情
照大神は神にますとともにまた祭り事を司どられる︒祭
494
教的な結紐によるのである︒このことは全国的に一様に
見いだされる古墳時代の遺物がすべて鏡玉剣の崇拝を示
していることによっても知られるであろう︒ところでこ
の教団的な人間の共同態が︑ちょうど家としての共同態
、情
、融
、合
、的
、な
、共
、同
、
と同じく︑個人の自覚を必要としない感
、であり︑そうしてそのゆえに日本の人間の存在の仕方
態
を顕著に現わし得る場所となったのである︒
我々の神話がさまざまの原始信仰の痕跡を示すにもか
、つ
、の
、祭
、り
、事
、によって統一せら
かわらず︑しかも力強く一
れ て い るこ と は ︑ ギ リ シ ア や イ ン ド の 神 話 に 比 べ て 最 も
495
特異な点といってよい︒それに比すべきものはただ旧約
教 団 と し て の 人 間 の 間 柄 が ︑﹁ 距 て な き 結 合 ﹂﹁ し め や
描 写 が ま さ に そ れ を 示 し て い る︒ そ れ は取り もな お さ ず
な︑特に感情的な︑慈愛をもって人に臨む︒天照大神の
己れの意志をもって命令を発することなく︑常に和 やか
威厳をもって人に臨むが︑後者においてはそれは決して
前者においては人間の全体性が峻厳な︑特に意力的な︑
わめて親密であり︑血縁関係において理解せられている︒
とは截然区別せられた︒しかるに日本の神々は人間とき
の神話のみである︒しかし旧約の神話においては神と人
496
かな情愛﹂を特性としていることの証拠である︒ギリシ
アの神々は人間に近い点においては似ているが︑しかし
すでに知力的な︑共和政治的な間柄を反映している︒そ
れはギリシアの民族が一つの祭り事に結合し得なかった
ことを示すのである︒
一 つ の 祭 り 事 に お け る 距 てな き 結 合 は ︑ し か し キ リ ス
トの教会におけるごとき魂のみの結合ではなかった︒こ
れは宗教的であるとともに肉体ある人間の結合であっ
た︒だからそれは超国民的な神の教会としてではなく︑
国民的団結として実現せられ たのである︒神の教会にお
497
いては﹁祭り事﹂はあくまでも魂に関することであって︑
仕方の﹁しめやかな激情﹂という二重性格が示されてい
断乎として怒る神に坐した︒ここに国民としての存在の
いま
われざるを得ない︒和やかな慈愛の神天照大神は同時に
、て
、
き結合は︑肉体ある人間の結合として︑あくまでも距
、お
、い
、て
、実現せられる︒従ってそこに激情的な性格が現
に
なって国家の主権者であられた︒そこで教団的な距てな
王と同じく全体性の表現者に坐すと同時に︑法王とは異
いま
おいては祭り事は他面において政治であった︒天皇は法
地上生活の﹁政治﹂とはならなかったが︑国民的教団に
498
る︒
教団的な結合でありながらしかも超地上的ではなくし
てあくまでも地上的であることは︑右のごとく距てなき
、て
、に
、お
、い
、て
、成立せしめる︒それはこの結合が常
結合を距
、抗
、闘
、を
、含
、む
、こと︑すなわち戦
、的
、であることを意味し
に対
ている︒争闘はすでに神々の間に行なわれ︑神話は戦い
の物語に充たされている︒教団的結合は決して対抗なき
融合ではなかった︒人が我々の国民の尚武的精神と呼ぶ
しかしこの戦闘的性格は日本の国民を数多のポリスに
ものはこの戦闘的性格である︒
499
分裂せしめるごときものではなかった︒戦闘を通じて一
、団
、的
、な国民の結合は︑家のアナ
以上のごとく古代の教
ができる︒
の仕方の﹁戦闘的恬淡﹂という二重性格を見いだすこと
合に転ずることである︒ここに我々は国民としての存在
いということではなくして︑猛烈な戦闘が突如として融
はすべて恬淡であった︒恬淡であるとは戦闘が猛烈でな
、
合への道であった︒それは戦闘的性格の裏面に存する恬
、性
、によって可能であったのである︒神話の物語る戦闘
淡
つの祭り事が実現せられたように戦闘自身が距てなき結
500
ロギーによって解せられ得るような特殊性を持っている
のである︒それは激情的ではあってもしめやかな結合を
含むのであり︑戦闘的ではあっても恬淡に融合するので
ある︒このような特性は︑たとい烈しい争闘の中に対立
していてもなお敵手を同胞として感ずるというごとき︑
きわめて人道的な人間の態度を可能にする︒敵を徹底的
に憎むということは日本的ではなかった︒ここに我々は︑
日本人の道徳思想の産み出されて来る生きた地盤を見る
こ と が で き る ︒ そ こ で は 道 徳 は い まだ ﹁ 思 想 ﹂ と し て 形
成せられてはいないが︑しかし人間の行為と心情は﹁貴
501
あか
すことができる︒第二は人間の距てなき結合の尊重であ
、皇
、心
、として言い現わ
ることを意味する︒我々はそれを尊
それは国民の全体 性への帰依があらゆる価値の根源であ
さはまず第一に祭り事を司どる神において認められる︒
を教団としての存在たらしめた宗教的な信念である︒貴
として選び出すことができる︒第一は国民としての存在
我々はこの特殊な評価から次の諸点を最も重大なもの
しているのである︒
せられる︒かかる評価の内にすでに国民の特殊性が反映
し ﹂﹁ 明 し ﹂ あ る い は ﹁ き た な し ﹂﹁ 卑 し ﹂ と し て 評 価
502
る︒和やかな心情︑しめやかな情愛は︑すべての英雄の
欠くべからざる資格であった︒しかもそれは家族的な直
接の情愛としてのみならず︑一般に国民の間の相互の関
係として把捉せられているのである︒だからそれは一方
、間
、会
、の
、慈
、愛
、の尊重であり︑他方において社
、的
、
において人
、義
、の尊重となる︒第三は戦闘的恬淡に根ざした﹁貴さ﹂
正
の尊重である︒勇気は貴く美しく︑怯儒は卑しく穢い︒
しかし単なる強剛は醜く︑残虐は極度に醜である︒なぜ
ならそこには勇気のみならず執拗な利己的欲望が存する
か ら で あ る ︒ 勇 気 の 貴 さ は 自 己 を空 し ゅ う す る 所に 存 す
503
る︒勇壮な戦闘的性格は同時に恬淡な自己放下を伴なわ
な距てなき結合というごときことが存し得たであろう
か︒個人の存在が強く自覚せられた後にも︑なお国民的
発達した後の時代にも同様に見いだされ得るであろう
ごとき原始信仰にもとづいている︒それは文化が迅速に
、団
、と
、し
、て
、の
、結
、合
、という
に お け る こ の 国民 の 特 殊 性は ︑ 教
は︑神話や伝説を材料として立証され得る︒しかし古代
これらの三者が古代における主要な徳であったこと
よりも重大な価値であった︒
ねばならぬ︒かかる意味において貴さと卑しさとは生命
504
か︒
我々は右に説いたような神話・伝説の時代を︑古墳時
代として考える︒それは壮大な古墳の築造や朝鮮との軍
事 関 係 を 絶 頂 と す る 時 代 で あ る ︒ そ う し て そ の 時代 は ︑
、り
、事
、の
、統
、一
、として宗
全国土にわたるわが国民の統一が祭
教的に力強く実現された時代であった ︒そのように我々
ある︒第一の変革すなわち祭り事の統一の全国的実現が
、二
、化
、の大きい変革は大
、の
、改新で
察することができる︒第
はその後の時代をも︑大きい社会的変革を中心として考
(18)
もたらしたのは︑宗教的な封建社会の組織であった︒封
505
建君主は天皇の宗教的権威によって︑従って鏡玉剣の権
、次
、の
、封
、建
、社
、会
、の
、顛
、覆
、︑中央集権
せられ︑それによって初
危うくしたシナ文化自身が︑新しい政治的統一の武器と
はこの政治の統一の前駆である︒かくして宗教的権威を
なくてはならない︒ミヤケの増置による中央集権の運動
な っ た ︒ こ こ に お い て 祭 り 事 の 統 一 は 政治 の 統 一 を 含 ま
、力
、が地方君主の支配力と
威に変わって武力的経済的な権
うやく原始的信仰の新鮮な活力を衰えしめた︒宗教的権
しかし朝鮮におけるシナ人及びシナ文化との接触は︑よ
威によって︑それぞれの地方の民衆の全体性を表現した︒
506
的国家の形成が行なわれたのである︒大化の改新によっ
てもたらされたのは︑土地公有主義にもとづく国家社会
主義的な社会組織であった︒そうしてこのような断然た
る改革は︑経済的実力に裏づけられた宗教的権威の力に
よって︑小さい内乱さえもなしに遂行せられたのである︒
、三
、倉
、の大きい変革は︑鎌
、幕
、府
、の樹立による封建的組
第
織の再興である︒土地公有主義にもとづく社会組織は︑
人間の私有欲に満足を与えなかった︒力あるもの優れた
るものは︑荘園というごとき﹁公有制度の癌﹂に隠れて︑
私有制度をひそかに発展せしめた︒荘園において養われ
507
た武力的権力が︑ついに将軍とそれに属する守護地頭に
力をひそかに圧倒し始め た︒
変わった︒とともに町が発達し︑町人の経済的実力が武
れ︑一揆の運動によって民衆の中から出た勢力がそれに
、質
、的
、に
、覆さ
のは覆されなかったが︑しかし支配階級は実
が 法律 の 役 目 を つ とめ 始 め た の で あ る ︒
、四
、国
、の大きい変革は戦
、時
、代
、である︒封建制度そのも
第
せられないにもかかわらず︑実際においては将軍の軍令
あ る ︒ 従 っ て 土 地 公 有 主 義 に も と づ く 国 家 の 法律 が 廃 棄
よって組織せられた第二次の封建制度をもたらしたので
508
、五
、治
、の大きい変革は明
、維
、新
、である︒ここで封建制度
第
は再び顛覆せられた︒中央集権的国家は再び形成せられ
、力
、な
、き
、権
、威
、であった天
た︒永い封建制度の間を通じて権
皇の権威は︑依然として将軍 の権力よりも上にあり︑依
然として国民の全体性を表現するものである︑というこ
とが明白に示された︒原始的な信仰は決して死んではい
なかった︒
これらの大きい変革を通じてそれぞれの時代を考察す
るならば︑我々は前にあげた国民の特殊性とそれにもと
づく道徳思想が︑歴史的にいかによく実現せられている
509
、
かを知り得るのである︒教団としての結合を表現する尊
、心
、は︑まさに第五の明治維新の動力であった︒それに
皇
起こし得ず ︑国民の全体性の前に解消し去ったのであ
よって武力的に対抗せる封建君主が何らの分裂をも引き
510
る︒さらに古代における人間の慈愛の尊重は︑第三の鎌
、卑
、の
、道
、徳
、が 模 範 的 に 現 わ れ
ここに善悪ではなくして尊
わち卑しさ︵卑怯︑卑劣︑卑屈︶を恥ずることである︒
現わして来る︒武士道の根本精神は恥を知ること︑すな
、士
、道
、として︑特に顕著に姿を
民衆の中から涌き出でた武
る ︒ ま た 古 代 に お け る貴 さ の 自 覚 は ︑ 第 四 の 戦 国 時代 に
(19)
、悲
、
倉幕府の時代に︑力強い鎌倉仏教の勃興において︑慈
、道
、徳
、として現われた︒距てなき結合は絶対的な自他不
の
二の実現として把捉せられ︑生命をも恬淡に捨てるよう
な慈悲の実行が実践の目標となった︒慈愛の尊重と根を
同じくする社会的正義の尊重は︑第二の大化の改新にお
、地
、公
、有
、主
、義
、として現われている︒それは教団とし
いて土
ての国民の全体性を︑新しく受け容れた仏教と儒教の理
想に よ っ て裏 づ け ︑ こ の理 想を 現実的に国民に おい て実
我々は右のごとき顕著な道徳思想を特に重大視しなく
現しようとしたものである︒
511
てはならぬ︒それはその本質において決して日本特有の
、か
、な
、調和的な融合が言い現わされている︒﹁しめ
静
ただ日本人のみである︒そこには濃やかな感情の
︵1︶ 愛情を﹁しめやか﹂という言葉で形容するのは︑
の特殊性にもとづくにほかならない︒︵昭和六年稿︶
はまさにしめやかな激情・戦闘的恬淡というごとき国民
て自覚せられたものである︒そうしてこの自覚の特殊性
ものではない︒しかし日本において特殊な力強さをもっ
512
513
やかな激情﹂とは︑しめやかでありつつも突如激
情に転じ得るごとき感情である︒すなわち熱帯的
な感情の横溢のように︒単調な激情をつづけて感
傷的に堕するのでもなければ︑また湿っぽく沈ん
もっとも独身という語の通例の用法は︑真に独
で湧き立たない感情でもない︒
︵2︶
立の人を意味するのでなく︑配偶の欠けているこ
とを意味する︒すなわち本質的には相手と相俟っ
て存在するものが非本質的にその相手を欠ける様
態である︒
514
︵3︶
代表的な例としてトロヤの戦争の動機たるヘレ
ネを取って︑古事記のサホ姫と対照せよ︒ヘレネ
の恋は戯れである︒ギリシア人はヘクトル及びオ
デュッセウスにおいて︑夫婦の間の濃やかな情を
︵4︶
ここでは︑世の中という言葉がまず第一に男女
拙著﹃日本古代文化﹄三三二ページ以下参照︒
描いたが︑命を賭するような恋は描かなかった︒
︵5︶
のな か を 意 味 し た ︒
︵6︶ いわゆるプラトニック・ ラブは英国製であって︑
本来のギリシア的恋愛ではない︒日本においても
515
英 米 人 が 伝 え る ま で は プ ラ ト ニ ッ ク・ ラ ブ は な か
現代のヨーロッパにおいて目立って親孝行をし
った︒
︵7︶
最も原始的な夫婦生活の描写としての諾冊二神
ているのはただユダヤ人のみである︒
︵8︶
の国生みの物語をアダム・ イヴの物語と比較せよ︒
夫婦生活は原罪によって始まるのではなくして﹁相
補う﹂ために始まるのであり︑妻の死は罪の報い
ではなくして︑ただ夫の烈しい悲嘆にのみ価する
ものである︒その悲しみは夫自身をもヨミの国ま
516
で行かせるほどに強い︒ヨミの国での両神の争い
また嫉
は︑生と死との対抗の物語であって︑実は夫婦生
︱
活そのものの物語ではないのである︒
妬についてはたとえば八千矛の神や磐の姫の歌を
家庭を最も強調しているのは英人であるが︑し
長門本平家物語︒
見よ︒
︶
英語ではさらに政府党を
在野党を
ins
とい
outs
は本来﹁住みか﹂﹁土地﹂の意味であっ
かし home
て﹁内﹂の意味と関係はない︒
︶
︵9︶
︵
︵
10
11
517
︵
︵
︵
う︒
︶ この構造が風土的であることはいうまでもない︒
たとえば靴をぬがないでもよい所は内として感
錠前と鍵との発達の程度はヨーロッパと日本に
おいて恐ろしく異なっている︒ヨーロッパ中世と
︶
いってくる︒
はいってくる︒はなはだしいのは下駄のままでは
じない︒従って公共の建物では泥靴のままで室へ
︶
いるのである︒
我々はまさに人間存在の風土的特性を問題として
12
13
14
518
︵
︵
いえども︑その錠前と鍵との精巧さにおいて︑現
代日本よりははるかにすぐれている︒それに比す
れば日本のかんぬきや土蔵の鍵などはほとんど原
、境
、に変わっているので
これは現代においては国
始的と言ってよい︒
︶
︶
だからある学者は︑徳川時代の忠の概念が誤っ
監視している︒
ると郊外との交通をさえも︑城門の税関において
の意味を失ってはおらぬ︒イタリアの町は所によ
あるが︑しかし町の城門といえどもいまだ全然そ
15
16
519
︵
︵
たものであること︑従って天皇に対する忠のみが
個人と全体との関係において︑個人が全体に帰
真 の 忠 で あ る こ と を 力説 す る ︒
︶
︶ 拙著﹃日本古代文化﹄中の﹁上代史概観﹂参照︒
としての存在 の仕方にも見いだせる︒
に著しいということである︒その同じ特性が国民
るとすれば︑その特性は個人の全体への帰属が特
である︒家において特殊性が最もよく現われてい
属するという関係を特に強く現わしているのが家
17
古 墳 時 代 は 西 暦 一・ 二 世 紀 の こ ろ か ら 仏 教 の 影 響
18
︵
ドイツにおいては六十年前までそれぞれの封建
を受けるに至った時代までを意味する︒
︶
日本 の珍しさ
ヨーロッパを初めて見物して何か﹁珍しい﹂という印
ロ
もその余風は残っている︒
君主が独立の国家を支配していた︒今日といえど
19
るほかはない︒そこには深い感動を与えるいろいろなも
象を受けたかと聞かれると︑自分は明白に﹁否﹂と答え
520
のがあったが︑しかし﹁珍しい﹂という点では︑途中で
見たアラビアやエジプトの沙漠の足下にも及ぶものがな
か っ た ︒ と こ ろ で 旅 行 を お え て ︑ 日 本 へ 帰 っ て来 て 見 る
と︑この﹁日本﹂というものがアラビアの沙漠にも劣ら
、界
、的
、に
、珍
、し
、い
、ものであることを︑
ないほど珍しい︑全く世
痛切に感ぜざるを得なかったのである︒どういうふうに
珍しかったか︑なぜ珍しかったか︑それをここに問題に
しよう︒
め
元来﹁珍しい﹂という言葉は﹁愛ずる﹂という意味か
ら出たものと言われているが︑しかし日常の用語例から
521
め
、く
、い
、
、通例でな
、﹂︑すなわち﹁ま
の地盤において︑﹁常でな
、である﹂という有り方として現われてくるのである︒
れ
る︒それは﹁世の常に通例にあること﹂を前提とし︑そ
来 の 意 義 は ﹁ 世 の 常 で な い こ と ﹂︑﹁ 稀 有 な こ と ﹂ で あ
には分けておかなくてはならぬ︒珍しいということの本
の で は な い ︒ だ か ら 珍 し い こ と と 愛 ず るこ と と は本 質 的
め
﹁珍しい寒さである﹂という時には決して寒さを愛ずる
め
う 場 合 に は 暖 か さ を 愛 ず る意 味 が 伴な い 得 る に し て も ︑
め
の で な い ︒ た と え ば ︑﹁ 冬 と し て は 珍 し く 暖 か い ﹂ と い
いうと︑愛ずるという意味はこの言葉の本質に属するも
522
常に通例にある有り方がすでに何らかの意味において理
解せられていなければ珍しさが見いだされないととも
に︑またすでに理解せられている通例の有り方のままに
有るものにおいても珍しさは見いだされない︒だから山
野の通例の有り方を草木に覆われるということにおいて
理解していたものにとっては︑沙漠は極度に珍しいもの
であった︒とともに洋風建築の通例のあり方を日本の都
会における洋風建築から理解していたものにとっては︑
その有り方の通りにあるヨーロッパの都会が珍しいもの
でなかった︒これは地理の教科書で沙漠に草木のないこ
523
とを教わってもそれが沙漠の有り方についての理解とな
自分の側においていつのまにか変わって来たのか︑いず
であるのにその通例のあり方として理解していたことが
有り方を持つに至ったか︑あるいは日本の方がそのまま
で 通 例 の有 り 方 と し て 理 解 せ ら れ て い た こ と と 異な っ た
と は ︑ 永 年 そ の 中 に 住 ん で 見 慣 れ て い た日本 が︑ こ れ ま
から日本へ帰ってそれに異常な珍しさを感ずるというこ
ことを言いかえたにほかならぬ︒ところで︑ヨーロッパ
会のあり方についての具体的な理解を与えていたという
らず︑かえって日本の都会の洋風建築がヨーロッパの都
524
れかでなくてはならぬ︒あるいはまた︑そのいずれかで
はなくしてその双方であるかも知れぬ︒というのは︑年
来その中に住んで見慣れていたその通例の有り方がその
ままであるとともに︑その底にこれまで理解せられてい
な か っ た 一 層 根 本 的 な 有 り 方 が 呈 露 さ れ ︑ そ れ が 在来 理
解せられていた通例な有り方に対して︑通例でないこと︑
、れ
、であることとしてつかまれたのであるかも知れぬ︒
ま
手近な例でそれを明らかにしよう︒我々は日常日本に
おいて自動車や電車を見慣れている︒それは西洋から輸
入されあるいは西洋のそれを模して作られたものである
525
が︑しかし我々日本人がそれらのものにおいて珍しさを
ある︒その寸法や重量が実際に小さく軽いのかどうかは︑
電 車 で も ︑ 省 線 の 電 車 に 較 べ れ ば は る か に 軽 小な 感 じ で
り も は る か に ﹁ 貧 弱 ﹂ な 感 じ し か 与 えない ︒ 地 下 鉄 道 の
ことを除いては︑我々が日本で見慣れている街上電車よ
ある︒どの都会の街上電車でも︑窓ガラスの優良である
我 々 は タ ク シ ー の き たな さ や 電 車 の 小 さ さ に 驚 く ほど で
しさを感ず るなど ということも全然あり得ない︒むしろ
う ︒ 従 っ て ヨ ー ロ ッ パ ヘ 渡 っ て そ こ で 自 動 車 や 電 車に 珍
感ずるということは︑今日においては通例はないであろ
526
︵ 恐 ら く そ れ は 実 際 に 小 さ く 軽 い の で あ ろ う ︑ 街上 の ボ
ギー車のごときはヨーロッパのどの町でも見なかった
し ︑ 地 下 電 車 も 天 井 は よ ほ ど 低 い ︑︶ が そ れ は こ こ で は
問 題 でな い ︒ と に か く 我 々 は そ う ﹁ 感ず る﹂ の で あ る ︒
そうしてそこにはもちろん﹁珍しさ﹂の感じは含まれて
おらぬ︒ところで日本へ帰って街上の自動車電車を見る︒
それはまるで麦畑の中を猪が暴れまわるような感じであ
る︒電車が突き進んで来るときには︑左右の家並みはち
ょ う ど 大 名 行 列 に 対 し て 土 下坐 し て い る 平 民 ど も の よ う
に︑いくじなくへいつくばっている︒電車の方が一階の
527
軒よりも高く︑また一軒の間口よりも大きく︑そうして
それが実際に一軒の家の間口よりも大きく軒よりも高い
、い
、った鯨のように横たわり︑そうして
自動車が運河には
じように偉大なものとして現われてくる︒ある小路では
根 の 上 に 空 が 見 え る ︒ 背 の 低 い 自 動 車 で さ え も 時に は 同
がそばにくれば向こう側の家は見えなくなって電車の屋
それが右のような印象を与えるのは当然であろう︒電車
の力を圧倒し去るような勢いをもって突き進んで来る︑
だ ろ う と 思 われ る よ う に 堅固 で︑ し か も そ れ が 木 造 家 屋
もしそれが暴れ込めば家の方がめちゃめちゃにこわれる
528
のである︒ヨーロッパの町々では︑家に比べてはるかに
、た
、め
、の
、﹁道
小さいこれらの交通機具が︑いかにも交通の
具﹂らしく︑従って町や人間に服従した家来らしく︑そ
の も の の 持 つ 意 味 に ぴ っ た り と 合っ た 感 じ を し か 与 えな
い ︒ し か る に 日 本 の 町 で は ︑ こ れ ら の ﹁ 道 具 ﹂﹁ 家 来 ﹂
であるものが人を圧し家を圧し町を圧してのさばり回っ
ている︒自動車や電車そのものがほぼ同じ形同じ大きさ
であるだけに︑この同じものが家や町との間に持つこの
、釣
、り
、合
、い
、が実にいちじ
奇妙な釣り合い︑というよりも不
るしい珍しさを印象するのである︒我々は前にはその不
529
釣り合いを感じなかった︒そうしてヨーロッパに渡って
、け
、て
、い
、る
、こ
、と
、を理解していなかっ
がらもそれが目前に欠
、る
、べ
、き
、釣り合いを理解していな
ということは︑前にはあ
、し
、さ
、として見いだされた
しかるに今この不釣り合いが珍
、る
、
ていなかったとともにすでにその本来の釣り合いをあ
、き
、釣り合いとして理解していたことを示すのである︒
べ
った︒これは見慣れたものにおいて不釣り合いを自覚し
根本的な釣り合いの変化が起こったことには気づかなか
それらのものが小さく感じられたというだけで︑そこに
、来
、の
、釣
、り
、合
、い
、においてながめたときにも︑ただ
それを本
530
たこと︑それが今や本来の釣り合いの地盤の上にその明
らかな欠乏の様態として見いだされたことを示すにほか
ならぬであろ う︒
ここに見いだされた不釣り合いが日本の町のまことの
ありさまであるということは︑我々がもう古くより感じ
ていた日本現代文明の錯雑不統一ということの中にすで
に含まれていたことには相違ない︒しかしかほどにあら
わに︑露骨に︑しかも滑稽なほど珍しい姿で︑ 町々のす
みにまで現われているということは︑実は気づいていな
かったのである︒我々は道路が広げられて自動車や電車
531
の交通が便利になることをただその便利になるという視
一人あての道路面積がほんのわずかですむ︒それを日本
ている︒半町の道路の左右には百戸ぐらいの家が並び︑
いては︑同じような道路をはさんで縦に高い長屋が立っ
に劣らないものである︒ところでヨーロッパの都市にお
その幅員︑その舗装︑すべてヨーロッパの大都市のそれ
、派
、な
、道路を与えられる︒
計画﹂によって次々に新式の立
ることにほかならないのであった︒我々は新しい﹁都市
との間の不釣り合いを道路と家や町との間に押しひろげ
点からだけ見ていた︒しかしそれは自動車電車と家や町
532
の町では︑同じ程度の間口の家ならばわずかに十幾戸で
はさむことになる︒家は平べったく大地に食いつき︑た
だ道路のみがひろびろと空に向かって開いている︒それ
は格好な風の通路を形作り︑塵埃を盛んに巻き上げるこ
とを最も顕著な特徴とする︒こういう道路を屋内の廊下
と同じように清潔にすることは︑塵を運んで来る風が少
なく雨量もきわめて少ないヨーロッパの都市において︑
しかも一人あての道路の面積がきわめてわずかである場
合にさえも︑経済的にさほど軽い負担ではない︒同じこ
とを雨量の多い︑泥の多い︑また湿度の関係で塵埃の産
533
出の豊かな日本の土地で︑しかも一人あての道路面積が
ある︒
それが
い理由のために追い立てられて作っている贅沢品なので
なくして︑人間がその生活を苦しくしつつ何かわからな
、た
、め
、の
、実用的な﹁道具﹂では
道路はもはや人間の交通の
日本の都会の立派な︑恐らく立派過ぎる道路なのである︒
は幾倍か貧弱な家並みを左右に控えている︑
︱
沢きわまる道路が︑広々と空に開いて︑ヨーロッパより
れ ば ︑ そ の 経 費 は 恐 ら く 十倍 で は す む ま い ︒ こ う い う 贅
数 倍 に 上 っ て い る 日 本 の 町 で︑ 同 じ よ う に 試 み よ う と す
534
こういう道路があるということは︑さらに根本的には︑
日 本 の 都 会 の こ の だ だ っ 広 い ︑ 平 べ っ たい 構 造 に も と づ
く の で あ ろ う ︒ ニ ュ ー ヨ ー ク が 高 さ の ため に 病め る 都 会
の 世 界 的 な 例 で あ る な ら ば ︑ 東 京 は 広 さ の ため に 病 め る
都会の世界的な例となり得よう︒東京の︑家屋の密集し
た地面の面積は︑ パリーの何倍かに当たるそ うである︒
たとい同じ面積であっても︑雨量の関係から言えば︑パ
リーのような下水の設備では東京に間に合わない︒それ
がさらに面積の側から何倍かの設備を要するとすれば︑
東京に近代的都市の一つの根本的な資格を与えるために
535
は︑非常な贅沢をしなくてはならぬ︒それは言いかえれ
ろ都会と家との不釣り合いにもとづくのである︒
かも生活はいっこう快適にならない︒それが帰するとこ
になる︒経済的にも心理的にも非常な浪費をしながらし
つまり日本では︑大都会になればなるほど不便なところ
の浪費︒これらはすべてだだっ広さにもとづくと言える︒
ス 管 な ど の 異 常 な 分 量 ︑ 交 通 の ため に 要 す る 時 間 と 神 経
に 留 ま ら な い ︒ 道 路 や 電 車線 路 の 異 常 な 延 長 ︑ 電線 や ガ
性とちょうど背馳しているということである︒単に下水
ば︑このだだっ広いことが近代的都市を成立させる必然
536
なぜこのように自動車や電車に対しても道路に対して
︱
依然として地に食い
もまた都会そのものに対しても不釣り合いな家が︑
︱
実に珍奇なほどに小さな家が︑
ついた姿を都市のまん中に示すのであるか︒人はそれを
経済的な理由に帰するであろう︒日本はまだヨーロッパ
ほどには富んでいない︑だから高層建築が起こらない︑
と言うであろう︒しかし日本の都会がそのだだっ広さの
ため に 浪 費 し て い る 金 高 を 考 え れ ば ︑ 右の 理由 は容 易に
首肯し難い︒地に食いついた小さな家の建築費を数十戸
合算し︑それに敷地の費用を考慮に入れ︑さらに右にあ
537
げたごとき種々な浪費を計上するならば︑堂々たる鉄筋
それを選ばないちょうどその理由が︑日本の﹁家﹂に
る方法を︑どうして選ぼうとしないのであろうか︒
うしてまたそれが初めて都市の意義を発揮するものであ
ろうか︒その方が便利であり︑その方が快適であり︑そ
なぜ人は共同的に公共的に都市を営もうとしないのであ
的に都市が営まれないからにほかならぬのである︒では
済的の力がないからではなく︑ただ共同的に︑また公共
に言い難い︒これらの高層建築が建てられないのは︑経
コンクリートの高層建築といずれが安価であるかは容易
538
あらわれている︑と自分は考える︒そこで家というもの
の有り方がここで問題にな る︒
ヨーロッパの都市の家は︑豪富の人をのぞいて︑個人
が一つの﹁建物﹂を占居するのではない︒建物をはいる
と左右に一戸ずつの﹁家﹂がある︒階段をのぼればそこ
にも左右に一戸ずつの家がある︒五階ならば十戸︑六階
ならば十二戸が廊下に面して存している︒さらに入り口
から中庭へ抜けて他の入り口に行けば︑そこにも階段を
持った同じ意味の廊下が同じ建物の中を上へのびてい
る︒この廊下はいわば道路の延長である︒否︑本来の意
539
、来
、である︒そこでこの往来を通ってどれか
味における往
ることができる︒借り間している人のもとへ書留郵便を
得 る ︒ こ の 点 か ら は 家 の 中 の 廊 下 も ま た往 来 の 資 格 を 得
何の煩いも与えずに︑この室を一つの﹁家﹂として住み
﹁家﹂となり得る︒その家庭に属しない人がその家庭に
わずかに一挙手によっておのおのの室が独立した一つの
の間の通路もまた密閉し得るようにできている︒従って
が︑その室の戸口は鍵で密閉し得るものであり︑室相互
下がある︒室々の戸口がこの廊下に向かって開いている︒
の﹁家﹂の戸口をはいるとする︒そこに﹁家﹂の中の廊
540
届けようとする配達夫が建物の中の廊下の往来を通り︑
家の中の廊下を通って︑その人の室までやってくるのは︑
こ の 往 来 の 意 味 を あ ら わ に 示 し た も の で あ る ︒ 配 達夫 の
みならず書店の小僧でも運送屋の人夫でも百貨店の小使
いでも皆そうする︒日本の家の﹁玄関﹂に当たるものが
ここでは個人の室の中にある︒そうなると往来は個人の
室の前まで来ていることになる︒個人が直接に往来に︑
従って町に接触するのである︒
が︑また逆に考えることもできる︒個人はおのが室に︑
あるいはおのが﹁家﹂にいるままの通常の姿で廊下へ出
541
る ︒ そ こ で ち ょ っ と 帽 子 を頭 へ の せ て ︵ あ るい は こ れ を
の廊下を通って飲食店へ行って食事する︒あるいはカフ
見え冬には暖房の設備がないことだけに過ぎぬ︒人はこ
が あ る ︒︶ た だ そ れ が 屋 内 の 廊 下 と 異 な る の は 上 に 空 が
下 で も 時に は こ の ア ス フ ァ ル ト 敷 き の 通 路 よ り 汚 い こ と
下 よ り も 汚 い わ け で は な い か ら で あ る ︒︵ 建 物 の 中 の 廊
ト敷きの通路は朝水で洗ったものであり︑建物の中の廊
へそのままの姿で出る︒なぜならそこにあるアスファル
おりて建物の入り口からさらにもう一つ外の
︱ ﹁廊 下﹂
省いてもよい︶も一つ外の廊下へ出る︒それから階段を
542
ェーへ行って一杯のコーヒを前にして音楽をききカルタ
を弄ぶ︒それは大きい家の中で︑長い廊下を伝って食堂
へ行きあるいは客間へ行くと何の異なるところもない︒
それは単に一つの室を家とする独身者に限ったことでな
く︑一つの家族としても日常に行なうところである︒彼
らはちょうど日本の家族が茶の間に集まってむだ話をし
たりラディオを聞いたりすると同じ意味で︑カフェーへ
行って音楽をききカルタを遊ぶ︒カフェーは茶の間であ
り︑往来は廊下である︒この点から言えば町全体が一つ
の﹁家﹂になる︒鍵をもって個人が社会からおのれを距
543
てる一つの関門を出れば︑そこには共同の食堂︑共同の
日本には明らかに﹁家﹂がある︒廊下は全然往来とな
である︒
ある︒家がなくしてただ個人と社会とがあるということ
ぬ︒それはつまり﹁家﹂の意味が消失したということで
方 で は 町 全 体 に 押 し ひ ろ げ ら れ る とい う こ と に ほ かな ら
﹁家﹂の意味が一方では個人の私室にまで縮小され︑他
を判然と区切る関門はどこにもない︒ということは︑
しからば廊下は往来であり︑往来は廊下である︒両者
茶の間︑共同の書斎︑共同の庭がある︒
544
ることなく︑また往来は全然廊下となることがない︒そ
の関門としての玄関あるいは入り口は︑そこで截然と廊
下往来の別︑内と外の別を立てている︒我々は玄関をは
いる時には﹁脱ぐ﹂ことを要し︑玄関を出るときには﹁は
く﹂ことを要する︒配達夫も小僧もこの関門を入ること
、そ
、の家﹂で
はできない︒カフェーも飲食店もすべて﹁よ
あ っ て ︑ 決 し て 食 堂 や 茶 の 間 の意 味 を 持 た さ れ な い ︒ 食
堂や茶の間はあくまでも私人的であって共同の性格を帯
日本人はこのような﹁家﹂に住むことを欲し︑そこで
びることがない︒
545
のみくつろぎ得る︒たといどれほど小さくとも︑このよ
それを明けようと欲する人に対してはそれを拒み得る何
つて帯びたこともないし︑またその可能性も持たない︒
御的対抗 的な ﹁へだ て﹂の意志 の表 現としての 性格をか
、を
、か
、け
、る
、というごとき防
襖︑障子であるが︑それらは鍵
うごときことの全然ないものである︒室をへだてるのは︑
別しているが︑しかしその内部においては室の独立とい
あ ろ う か ︒﹁ 家 ﹂ は 截 然 と 外 な る 町 に 対 し て お の れ を 区
る︒それほどの執着を起こさせる魅力はどこにあるので
うな﹁家﹂としての資格を有するものを住居として求め
546
の力もそこに与えられておらぬ︒しかもそれがある意味
の﹁へだて﹂として役立つのは︑それが閉ざされている
ということによって表示されている﹁へだて﹂の意志が︑
他の人によって常に尊重されるという相互の信頼にもと
づくのである︒すなわち﹁家﹂の中にあっては人々はお
のれを護って他に対するという必要を感じない︒それは
言いかえればおのれと他との間に﹁へだて﹂がないこと
である︒鍵は他の意志に対して﹁へだて﹂の意志を表現
するが︑襖障子はむしろ﹁へだてなき﹂意志を表現しつ
つ ︑ そ の ﹁ へ だ て な さ ﹂ の上 に お い て た だ 室 を 仕 切 る も
547
のに外ならぬ︒いわばそれは一つの西洋間の中に置かれ
つい たて
西洋風の長屋においても保存し得るではないかと︒しか
が︑人は問うかも知れない︑このような小さい世界は
の内部における﹁へだてなさ﹂にほかならぬであろう︒
もしそこに魅力があるとすれば︑それはこの小さい世界
どもある︶をもって対抗するのが日本の﹁家﹂である︒
らゆる変形︵その内には高い板塀や恐ろしげな逆茂木な
だてなさ﹂を内に包みつつ︑外の世界に対しては鍵のあ
な 意 味 の 個 人 は ︑﹁ 家 ﹂ の 中 で は 解 消 す る ︒ か か る ﹁ へ
た衝立の意味しか持たない︒鍵をもって護るというよう
548
しこの西洋風の長屋は︑それを作る時に共同的な協力を
必要とするのみならず︑その存立が住人の共同的な態度
を予想するものである︒たとい廊下を距てた隣と互いに
交際をしないような状態においても︑それはなお一つの
組織であって︑暖房の設備︑湯の設備︑昇降器の使用︑
等 々 に お い て 常 に 共 同 的 で あ るこ と は 免 れ な い ︒ そ う し
てこの共同的であることがちょうど日本人を最も不安な
らしめるものなのである︒それは総じて日本における最
も強い﹁へだて﹂が︑家と外なる世界との間に存するこ
とによって顕わにされている︒ヨーロッパにおいては最
549
も強い﹁へだて﹂は過去にあっては町を取り巻く城壁で
において永い間訓練されたと同じこ とを︑日本人は垣根
閉まりである︒従ってヨーロッパ人が城壁の内部の世界
においてはまさしく家のまわりの垣根であり塀であり戸
ではない︒ヨーロッパの町の城壁に当たるものは︑日本
この町が他に対し己れを護り距てる意志を表わしたもの
の一群が他の攻撃を予想して作った防御工事であって︑
て壕と土手をもって取り囲まれたが︑しかしそれは武士
も が 存 し な い ︒ 桃山 時 代 の 前 後に 諸 地 方 の 城 下 町 は 初 め
あり現在にあっては国境であるが︑日本にはそのいずれ
550
の内部のもっと小さい世界において訓練されたのであ
る︒城壁の内部においては︑人々は共同の敵に対して団
結し︑共同の力をもっておのれが生命を護った︒共同を
危うくすることは隣人のみならずおのが生存をも危うく
することであった︒そこで共同が生活の基調としてその
あらゆる生活の仕方を規定した︒義務の意識はあらゆる
道徳的意識の最も前面に立つものとなった︒とともに︑
個人を埋没しようとするこの共同が強く個人性を覚醒さ
せ︑個人の権利はその義務の半面として同じく意識の前
面に立つに至った︒だから﹁城壁﹂と﹁鍵﹂とは︑この
551
生活様式の象徴である︒しかるに垣根の内部の小さい世
そこでは義務の
ものが発達し得なかったのは当然であろう︒そこで人々
でおのれを没却するこの小さい世界においては共同その
って初めてその意義を発揮し得るとすれば︑個人が喜ん
つつそこに生活の満足を感じ得る︒共同が﹁個人﹂を待
意識よりも愛情が先立つ︒個人は喜んでおのれを没却し
ものであった︒夫婦︑親子︑兄弟︑
︱
な態度を引き出し得るごとき自然的な情愛にもとづいた
敵に対するものでなかったとともに︑また容易に献身的
界においてはその共同は生命を危うくするというごとき
552
はおのが権利を主張し始めなかったとともに︑また公共
生活における義務の自覚にも達しなかった︒そうしてこ
の小さい世界にふさわしい﹁思いやり﹂︑﹁控え目﹂︑﹁い
た わ り ﹂︑ と い う ご と き 繊 細 な 心 情 を 発 達 さ せ た ︒ そ れ
らはただ小さい世界においてのみ通用し︑相互に愛情な
き外の世界に対しては力の乏しいものであったがゆえ
に︑その半面には︑家を一歩出づるとともに仇敵に取り
囲まれていると覚悟するような非社交的な心情をも伴な
った︒だから﹁家﹂のまわりの垣根がちょうど城壁と鍵
に当たるのである︒かく見れば﹁家﹂の内部における﹁距
553
てなさ﹂への要求が強ければ強いほど共同への嫌悪もま
﹁洋風建築﹂の何階かの事務所で仕事をする︒そこには
の上を﹁靴﹂でもって歩み︑﹁自動車﹂﹁電車﹂に乗り︑
る ︒ 人 は ﹁ 洋 服 ﹂ を 身 に つ け ︑﹁ ア ス フ ァ ル ト の 道 路 ﹂
は︑それは根本的にはまだ過去の地盤を離れないのであ
は︑すなわち世にも珍しい不釣り合いが存立している間
頑強に都会の地に食いついて平べったく存している間
が︑しかしそれがいかに顕著であっても︑この﹁家﹂が
日本の社会の欧米化は確かに顕著な現象に相違ない
た強いというゆえんが明らかになるであろう︒
554
﹁ 洋 風 家 具 ﹂ が あ り ︑﹁ 電 灯 ﹂ が あ り ︑﹁ 蒸 気 暖 房 ﹂ が
あ る ︒ ど こ に 日 本 が 残 っ て い る か ︑ と 彼 は 反問 す る で あ
ろう︒が︑彼はそこで﹁万年筆﹂をもって書き﹁洋式帳
簿﹂に何事かを記入したあとでやはり﹁家﹂へ帰るでは
ないか︒なに︑その家がまた西洋建てなのだ︑と彼は言
うかも知れない︒なるほどそれは外形だけは西洋風にで
きている︒しかしそこには門があり︑垣根があり︑玄関
があり︑しかも滑稽なことにはその玄関で﹁脱が﹂なく
てはならないではないか︒そこには日本の﹁家﹂として
の資格は何一つ失われておらない︒問題はこの家の大小
555
ではなくしてその有り方にかかわる︒人がもしヨーロッ
もう少し進 んでこの﹁洋服﹂を着た﹁洋館﹂に住む人
ていないからである︒
﹁家﹂が︑根本においていささかもヨーロッパ風に化し
ゆえであろうか︒それはこの西洋建てと言われる日本の
収 入 を 持 っ た 人が ︑ さ ほ ど の 困 難 もな く 住 み 得 る の は 何
長屋のうちのあまり上等でない一軒に住むだろうほどの
その同じ資格を持った家に︑ヨーロッパの都会でならば
とするならば︑彼はとにかく富豪でなくてはならない︒
パの都会においてかかる資格を持った一つの家に住もう
556
を追究してみよう︒彼はその洋館の前庭に芝生を敷き花
壇を作っている︒時には植木屋を入れてその手入れをす
る︒それは彼とその家族とがそこにおいて楽しむためで
ある︒しかし彼は町の公園に対しては何の関心をも示さ
ぬ︒公園は﹁家﹂の外にある︑だから他人のものである︒
それはあらゆる人から﹁他人のもの﹂として取り扱われ
﹁我々のもの﹂としての愛護を受けることがない︒市の
経営であるということはその経営を託された吏員以外の
何人もがそれにおいて義務を感じないということであ
る︒そこで市の公共の仕事が︑市民一般の関心をうける
557
ことなく少数の不正直な政治家の手に放任される︒そこ
病弊のために刻々として危機に近づいて行くのを見て
の種の政治家によって統制される社会が︑その経済的の
ては︑その百分の一ほどの熱心も示 さぬ︒さらにまたこ
のであるが︑公共のことについての政治家の不正に対し
やるようなことがあれば︑その全心情を傾けて関心する
の教育には熱心であり︑子供がもし不正なことを平気で
は感じない︒彼は洋館に住むほどの新しい人として子供
それが﹁家﹂の外のことであるがゆえにおのが事として
でさまざまな不正が行なわれる︒しかし洋館に住む人は
558
も︑それは﹁家の外﹂のことであり︑また何人かが恐ら
く責めを負うであろうこととして︑それに対する明白な
態度決定をさえも示さぬ︒すなわち社会のことは自分の
ことではないのである︒というのは︑この人の生活がい
ささかもヨーロッパ化していないということである︒
洋服とともに始まった日本の議会政治が依然としては
な は だ 滑稽 な も の で あ る の も ︑ 人 々 が公 共 の 問 題 を お の
が問 題として関心しないがため である︒城壁の内部にお
ける共同の生活の訓練から出た政治の様式を︑この地盤
た る 訓 練 な く し て ま ね よ う と す る か ら で あ る ︒﹁ 家 ﹂ を
559
守る日本 人にとっては領主が誰に代わろうとも︑ただ彼
前者においては公共的なるものへの無関心を伴なった忍
よって争闘的に防ぐほか道のないものであった︒だから
ら一切を奪い去ることを意味するがゆえに︑ただ共同に
対して城壁の内部における生活は︑脅威への忍従が人か
き生活をさえ奪い去るごときものではなかった︒それに
られても︑それは彼から﹁家﹂の内部におけるへだてな
得るものであった︒すな わちいかに奴隷的な労働を強い
よしまた脅やかされても︑その脅威は忍従によって防ぎ
の家を脅やかさない限り痛棒を感じない問題であった︒
560
従が発達し︑後者においては公共的なるものへの強い関
心関与とともに自己の主張の尊重が発達した︒デモクラ
シーは後者において真に可能となるのである︒議員の選
挙がそこで初めて意義を持ち得るのみならず︑総じて民
衆 の ﹁ 輿 論 ﹂ な る も の が そ こ に 初め て 存 立 す る ︒ 共 産 党
の示威運動の日に一つの窓から赤旗がつるされ︑国粋党
の示威運動の日に隣の窓から帝国旗がつるされるという
ような明白な態度決定の表示︑あるいは示威運動に際し
て 常 に 喜 ん で 一 兵 卒 と し て 参与 す る こ と を 公 共 人 と し て
の義務とするごとき覚悟︑それらはデモクラシーに欠く
561
べからざるものである︒しかるに日本では︑民衆の間に
もの﹂として感じていること︑従って経済制度の変革と
の態度に示しているように︑公共的なるものを﹁よその
ない︑しかし日本の民衆があたかもその公園を荒らす時
もとよりそれはこの運動が空虚であることを示すのでは
いはまれにしか含んでいないという珍しい現象である︒
の群れの運動であって指導せられるものをほとんどある
大衆の運動と呼ばれているものが︑ただ﹁指導者﹂たち
く人の専門の職業に化した︒ことに著しいことは︑無産
かかる関心が存しない︒そうして政治はただ支配欲に動
562
いうごとき公共的な問題に衷心よりの関心を持たないこ
と︑関心はただその﹁家﹂の内部の生活をより豊富にし
得ることにのみかかっているのであることは︑ここに明
らかに示されていると思う︒だから議会政治が真に民衆
の輿論を反映していないと同じように︑無産大衆の運動
も厳密には無産運動指導者衆の運動であって無産大衆の
輿論を現わしたものではない︒それが顕著にロシア的性
格を示すのは︑ロシアが昔も今も専制国であってかつて
政治への民衆の関与を実現したことがないという事実
と︑日本の民衆の公共への無関心︑非共同的な生活態度
563
との間に︑きわめて近い類似が存するからである︒だか
ると否とを問わず︑情けない姿として︑胸に感じていら
る︒これは諸君が日常目撃して︑それを明らかに意識す
の 前 に う ず く ま っ て い る珍 奇 な 小 さ い 家 の 姿 に ︑ 帰 着 す
局あの最も平凡な街上の姿に︑すなわち猪のような電車
を数え上げることができるであろう︒が︑それらは皆結
我々はなお﹁家﹂にもとづいた多くの﹁珍しい﹂現象
ことはできるであろう︒
運動が﹁家﹂と外との区別にもとづいて起こったという
らここにも日本特有の珍しい現象としての指導者のみの
564
れるちょうどそのものであろうと思う︒︵昭和四年︶
565
第四章
芸術の風土的性格
一
﹁あらゆる時代や民族からさまざまの芸術の形式がわ
絵画が押しよせてくる︒それらは半ば野蛮であるが︑し
みならず東洋からは︑原始的な︑無形式な文芸や音楽や
ものはみなことごとく消え失せてゆくように見える︒の
、類
、則
、の
、区
、別
、とか規
、とかいう
れらに迫ってくる︒文芸の種
566
かし今でも長いロマーンや二十フィート幅の絵画におい
こ
てその精神の戦いを戦いきるというような︑そういう民
︱
族 の 心 た く ま し き 活 力 に 充 た され た も の で あ る ︒
、則
、から離れ︑批
ういう無支配の情勢において芸術家は規
評家は価値を定めるにただ一つ残された標準として彼自
身の個人的感情に頼るということになる︒そこで︑公衆
が支配者になる︒巨大な展覧会場や︑さまざまな劇場や︑
このような趣味の無
また貸し本屋などに押しよせてくる群衆が︑芸術家の名
︱
声を作ったりこわしたりする︒
支配状態は︑いつでも︑現実の新しい感じ方がこれまで
567
の形式や規則を破り去って芸術の新しい形式が生まれ出
年近くたっていた︒十九世紀絵画の絶頂としてのセザン
から三十年︑トルストイの﹃戦争と平和﹄からでも二十
るとそのころはもうフローベルの﹃マダム・ボヴァリー﹄
いたのは今からもう四十年前であった︒しかし考えてみ
ディルタイが﹁詩人の想像力﹂の初めに右のごとく書
や美術史︑文芸史の生ける任務の一つである︒﹂
の間の健全な関係を再び打ち立てることは︑今日の哲学
て長続きするはずのものではない︒芸術と美学的思索と
ようとしている時代を示すのである︒しかしそれは決し
568
ヌももうおのれの様式を完成しつつあった︒ディルタイ
が待ち望んだ﹁芸術の新しい形式﹂はすでに生まれてい
たのである︒現代はこれらの形式をもすでに過去の形式
と見るほどに移り変わっている︒そうして芸術の種類の
差別や規則が無視されていることはとても四十年前の比
ではない︒ことにこの四十年の間には︑人類の歴史が始
まって以来いまだかつて現出したことのない新しい世界
の姿が成り立った︒世界の交通は著しく容易となり︑政
治と経済とは全世界を通じて敏活に影響し合う︒そのよ
うにあらゆる文化は互いに交錯し︑染め合い︑響き合う︒
569
古いヨーロッパの文化世界においても︑ギリシア・ロー
ようと試みた問いは︑我々にとっても依然として新鮮な
てはまるであろう︒そうしてそのゆえに︑彼自らが答え
葉は︑四十年前の時代によりもむしろ現代に一層よくあ
べている︒この混沌の状態に対してディルタイの右の言
で一色に塗られてはいるが︑同じようにそこに肩をなら
の古い伝統を持った東洋趣味も︑ただ異国的という興味
が百貨店の飾り窓を占領する︒日本︑シナ︑インドなど
た︒アフリカの怪奇な野蛮趣味や石器時代の幼稚な趣味
マの芸術圏が主導的な地位を占める時代はもう過ぎ去っ
570
意 味 を 持 つ で あ ろ う ︒﹁ 人 間 の 本 性 に 根 ざ し 従 っ て あ ら
、族
、
、と時
ゆるところに働ける芸術創作力が︑いかにして民
、と に よ り 異 な る 種 々 の 芸 術 を 作 り 出 す か ︒﹂ こ の 問 い
代
は人類のつくり出すさまざまな文化体系に現われた精神
生 活 の 歴 史 性 の 問 題 に ふ れ る ︒﹁ 創 作 力 と し て 同 じ 形 に
現 わ れ る 人 間 本 性 の 同 一 性 が い か に し て そ の 変 易 性︑ そ
の歴史的本質と結合せられるであろうか︒﹂
この問いは明らかに二つの問題を含んでいる︒
﹁とき﹂
によって異なる芸術と﹁ところ﹂によって異なる芸術と
の問題である︒もとより﹁ところ﹂によって異なる芸術
571
も︑それ自身の内部において﹁とき﹂により異なる様式
式を規定したか︑従って﹁ところ﹂の相違が芸術の形式
の相違が著しかった時代に︑いかにその相違が芸術の形
事情のゆえに︑かつて世界がいくつかに別れて﹁ところ﹂
つのところ﹂に化したように見えるというちょうどその
のみがあらわになってもくる︒しかしながら世界が﹁一
ころ﹂に化したように見え︑従ってただ﹁とき﹂の問題
化の接触が著しいときには︑世界はあたかも﹁一つのと
特殊性を規定する︒また現代におけるごとく全世界の文
を持っている︒両者は密接に交錯して具体的な芸術品の
572
のいかなる深みまで関与するものであるか︑ということ
の反省が︑一層容易にされるのである︒それによって逆
に ︑﹁ と こ ろ ﹂ の 相 違 を 無 視 し た 芸 術 品 が ︑ 実 は 単 な る
移植であって︑その﹁ところ﹂の生活の深みから生い育
ったものでないことを示し得るかも知れない︒特に我々
東洋人にとっては︑その永い特殊な芸術の伝統を捨て去
っ て 顧 み な い の で な い 限 り ︑﹁ と こ ろ ﹂ の 相 違 が 関 心 の
中心とならざるを得ないであろう︒ヨーロッパにおいて
さえも︑美術史文芸史等の研究から出た最近の芸術学が︑
初めには﹁とき﹂の問題を根柢として考え国民的特殊性
573
のごときを第二次の問題としたに反して︑ようやく﹁と
による特殊性を問うことにもなるであろう︒
出することにしよう︒この問いは精神生活の﹁ところ﹂
により異なる芸術を作り出すか﹂という問いをここに提
じ人間の本 性に根ざした創作力がいかにして﹃ところ﹄
も の で あ ろ う ︒ 我 々 は こ の 方 向 に 問 題 を せ ば め て ︑﹁ 同
したように見えるという最近の情勢にかえって促された
特殊性を論ずるに至ったのは︑世界が一つのところに化
ろ﹂との相違に等しく場所を与え得るごとき芸術意志の
こ ろ ﹂ の 問 題 の 重 要 さ を 自 覚 し 始 め ︑﹁ と き ﹂ と ﹁ と こ
574
問題をかく限ると︑それは恐らくディルタイが目ざし
てはいなかったろうと思われるところへ入り込むことに
な る ︒ デ ィ ル タ イ が 自 然 主義 時代 の文 芸を 前 に し てか か
る芸術の規則を明らかにする芸術論を求めたときには︑
確かにこの文芸の理論は幼稚であった︒いな︑その後と
いえども︑自然主義は理論的には幼稚に留まった︒そう
してその幼稚を脱しようとする理論的な努力は︑自然主
義に対する反動とともに起こり︑現代の芸術の先駆をな
した︒芸術はただ一回的な偶然的なものを表現すべきで
ない︑法則的なものを表現すべきである︒季節や天候に
575
よって異な る風景は︑ただ移り行き消え去る現象の姿に
自身の芸術論にも影響されているのであろうが︑しかし
象 喩 に 過 ぎ ぬ ︒﹂ こ の よ う な 理 論 は ︑ 恐 ら く デ ィ ル タ イ
家 が 自 然 に 仕 え る の で は な い ︒﹁ す べ て 感 覚 的 な も の は
要事である︒自然は体験から作られるのであって︑芸術
ご と き 芸 術 的 体 験 の 現 実 が表 現 さ れ る こ と こ そ 第 一 の 重
自 然 に 忠 実 で あ る こ と は も は や 問 題 で はな い ︑ ただ 右 の
い て で は な く ︑ 芸 術 的 体 験 の 深 み に おい て つ か ま れ る ︒
目ざすべきものである︒そうしてそれは単なる視覚にお
過ぎぬ︒その風景の不変なる構造︑組み立てこそ画家の
576
結局︑偉れた芸術品を産み出す代わりに︑形而上学とな
り 認 識 論 と な っ て し まっ た ︒ 形 而上 学 的 核 実を し て 自 然
物 象 の 表 面 的 性 格 に 打 ち 克 た しめ よ う とい う 目標 が い か
に誇らしいものであるにもせよ︑現代ヨーロッパの芸術
がかかる仕事をなし得たとはどうしても考えられない︒
ディルタイが欲したように芸術論が作品に伴なって盛ん
に な っ た と き に は ︑ 四 十 年 前 と は ま る で 逆 な 関 係 に おい
て依然として芸術と美学的思索とが﹁健やかに﹂相伴な
ってはいない︒ディルタイはこの両者の健やかな関係を
ゲーテ・シラーの時代の模範によって考えているのであ
577
るが︑そのねらいはみごとにはずれたと言わなくてはな
術のあるものにあてはまることであろう︒自然主義に対
、術
、
、を忘れればよい︒現代ヨーロッパの芸
ヨーロッパの芸
、論
、が︑ただわずかの修正をもって︑いかによく東洋芸
術
る 他 の 目標 が 強 い 意 義 を 持 っ て 現 わ れ て く る ︒ 人 は ただ
恐らくディルタイにとって重大でなかったろうと思われ
ーロッパをただ一部分とする世界全体を見渡したとき︑
どうかも今のところ疑問であろう︒その代わりにこのヨ
を当たらしめるほど旺盛な芸術的生産力を持っているか
らない︒現代のヨーロッパが近い将来にこの﹁ねらい﹂
578
、動
、や漠然とした無限に遠
する﹁憎しみ﹂と﹁呪い﹂の反
、感
、などから生まれたと言われる新しい芸術論が︑何
い予
ゆえにそれと縁遠き古い東洋芸術にあてはまるのか︒総
じてかかる芸術の特殊性や︑それを産んだ精神生活の特
殊 性は 何 で あ るか ︒
こ の 問 題 が 東 洋 の 芸 術 を ﹁ 原 始 的 ﹂﹁ 無 形 式 ﹂﹁ 半 野
蛮 ﹂ と 呼 ん だ 四 十 年 前 の デ ィ ル タイ に 存 しな か っ た こ と
は当然である︒が︑今日といえども︑はたしてその事情
は変わっているであろうか︒彼が﹁東洋﹂によって何を
意味したかは知らぬが︑しかし半野蛮でありながらそこ
579
に そ の 民 族 の ﹁ 心 た く ま し き 活 力 ﹂ を 認 め し め た長 い ロ
そこばくの人々はまさにこの﹁原始的﹂な生活の姿のゆ
所であり︑依然として﹁半野蛮﹂である︒東洋を恋うる
わ か る で あ ろ う ︒﹁ 東 洋 ﹂ と は ﹁ 原 始 的 活 力 ﹂ の あ り 場
パ的なるもの﹂が意味せられているかはこれによっても
っ た ︒﹁ 東 洋 ﹂ の 語 に よ っ て い か に 漠 然 と ﹁ 非 ヨ ー ロ ッ
てさえもたとえばドイツの小説家ヘルマン・へッセがや
洋 ﹂ の 偉 大 な 精 神 を 讃 え る と い う こ と は ︑ 大 戦 後に お い
たかも知れない︒ところでドストエフスキーにおいて﹁東
マーンは︑トルストイやドストエフスキーのそれであっ
580
︱
えにそれを恋うるにほかならぬ︒彼らはいう︑
あま
りにも忙しいこの﹁文明﹂の生活のどこがありがたいか︒
何事か意義ある仕事をでも追うて行くように急がしく駿
せ 交 う 無 数 の 自 動 車 は ︑ つ ま る とこ ろ 生 活 に 疲 れ た も の
を墓場に追い立てているのである︒意義もない報道をさ
も一刻を争う重大事であるかのように目まぐろしい電気
文字で現わしたり︑生活をせき立てることにしか役立た
ないジャズの音楽で踊ったり︑せめてその間は静かな私
すべてそこには生活の深さ︑美しさ︑
の生活に落ちつけそうな時間をさえもラディオによって
︱
かき乱したり
581
柔 ら か さ が 失 わ れ ︑ た だ 機 械 化 され た 存 在があ るに 過ぎ
に 対 し て 抱 く 憧 憬 で あ っ て ︑﹁ 東 洋 ﹂ の 生 活 の 積 極 的 な
パの生活に苦しむものが﹁ヨーロッパ的ならざるもの﹂
ないではない︒しかしそれはただ機械化されたヨーロッ
我 ら は ヨ ー ロ ッ パ 人 の あ る 者 が 抱 く こ の 憧憬 を 理 解 し 得
示している︒そこにこそ﹁生活﹂があるではないか︒
︱
かな健やかな生活が人間生活の本来の深さ美しさを開き
よい︒いわゆる醇化された文明の代わりに太古以来の静
アフリカやアジアや太平洋の遠い島々に旅をしてみるが
ぬ︒一度このような文明的都会生活の忙しさを離れて︑
582
理解に根ざしたものではない︒ヨーロッパ的でないこと
がどうして直ちに﹁原始的﹂であり得よう︒たとえば日
本の生活のごときはその﹁原始性﹂を失っている点にお
いてはむしろヨーロッパ以上である︒ヨーロッパ人がそ
の生活の機械化にかかわらずなお多分に保っている﹁子
供らしさ﹂のごときは︑日本人には到底見られない︒そ
の点においてはヨーロッパ人の方がむしろ原始的活力に
富むとも言われよう︒とともに衣食住の一切の趣味に現
われた﹁渋み﹂や﹁枯淡﹂への愛好︑あるいは日常の行
儀における﹁控え目﹂や﹁ゆかしさ﹂に対する感じ方の
583
ごときは︑ヨーロッパ人の理解し得ざるほどに洗練され
るだけの重要さにおいては認められないであろう︒
ころ﹂によって異なる芸術の特殊性の問題も︑その値す
で あ ろ う ︒ そ う し て こ の 理 解 が 充 分 で な い 限 り は ︑﹁ と
として感じているヨーロッパ人の︑理解し得ざるところ
いながらもなお心の底においてヨーロッパを世界の中心
る ︒ か か る こ と は ︑﹁ ヨ ー ロ ッ パ 的 な ら ざ る も の ﹂ を 恋
はむしろヨーロッパの方が野蛮であるとも言い得られ
本は今追随の最中であるが︑しかし趣味や道徳において
たものである︒機械化という意味での文明においては日
584
二
我々が問うのは︑人間の本性に根ざし従ってあらゆる
ところに同様に働いている芸術創作力が︑いかにして﹁と
ころ﹂により異なる種々の芸術を作り出すかである︒そ
こで我々は︑ 異なる芸術がどう異なっているか︑ そ
の特殊性が﹁ところ﹂の特殊性とどう関連しているか︑
あるいはかかる特殊性が芸術創作力をどう規定するか︑
という二つの問いに分けて考察を進めよう︒
まず︑種々の異なっている芸術がどう異なっているか
を︑問題にする︒それには我々はその相違の最も著しい
585
ものを捕えればよい︒ヨーロッパの芸術の代表的なもの
合理的美学の大成者としてのライブニッツも︑感覚的な
理的なこと﹂にもとづくとするデカルトの考えを受けて︑
における美的なよろこびは﹁合理的なこと﹂あるいは﹁論
芸術の本性として認められたことであった︒感覚的印象
と﹂を選び出そう︒それは近世の哲学が始まるとともに
ここに自分は最も重要な視点として﹁規則にかなうこ
よい︒
も著しい特徴の下に比較し︑その相違を明らかにすれば
と︑東亜の芸術の代表的なものとを︒そうしてそれを最
586
よ ろ こ び を 感 官 知 覚 の う ちに 隠 され て い る ﹁ 悟 性に かな
うこと﹂から導き出そうとした︒詩の形式の論理的性格︑
特 に 多 様 な る も の に お け る統 一 が ︑ 詩 の 与 え る 美 的 な よ
ろこびの根拠である︒秩序から美が出る︒そのように音
楽における音の秩序正しい響き︑舞踏における規則正し
い運動︑詩における長短の綴音の規則正しい連続︑すべ
て秩序正しさが美的のよろこびをもたらすのである︒視
覚芸術における﹁比例﹂のよろこびもこれにほかならな
い︒芸術的創作は︑思惟の構成的な統一によって宇宙の
秩序を把捉する能力と相並んで︑構成的な形作る試みに
587
かくて美と
よってかかる秩序を持った対象を模倣し︑いわば神のご
︱
このような合理的美学は十七世紀のヨーロッパにおけ
もとに立つことになるのである︒
が合理的なものであるに従って︑おのずから﹁規則﹂の
の自由な創造力によって表現するときに︑この世界連関
、る
、︒そうしてそれをそ
とした感情において︑感覚的に見
ある︒芸術家はこの世界連関を︑論理的にではなく溌剌
であり︑芸術とは調和的な世界連関の感覚的な現わしで
は 感 覚 的 な るも の に お け る﹁ 論理 的な るこ と ﹂ の 現 わ れ
とくに或るものを創造する能力である︒
588
る︑特にフランスにおける合理主義的な社会状態や人間
の 態 度 を 反 映 し て い る ︒ し か し な が ら こ の 時代 の 合 理 主
義的な色づけを洗い去り︑美や芸術の領域の独自性を認
め る に 至 っ て も ︑ 芸 術 に おい て 合理 的な もの規 則 的 な も
のを認める傾向は決して消えては行かなかった︒十八世
紀 の 経 験 主 義 的 な 美 的 印 象 の 分 析 に お い て も ︑﹁ 多 様 の
統一﹂や﹁シンメトリー﹂や﹁比例﹂や﹁同じき構造を
持つ部分の結合﹂などは︑依然として美的効果の要素で
、合
、が芸術品とな
あるとせられる︒たといかかる要素の集
るのではなく︑美的効果自身が本来統一的なものである
589
と反駁せられるにしても︑右のごとき美的形式原理を前
、
っても︑かかる統一や秩序を天才の創造力の上に立つ芸
、の
、法
、則
、としてもちろん認めているのである︒ただ多様
術
統一や秩序というごとき抽象的定理に代わらせるとは言
生きた歴史性の分析から得た概念をもって多様における
、験
、の
、深
、み
、への注目が著しく増した︒しかし芸術の
ざる体
分 析 を 始 め た と き に は︑ 単 な る 合理主 義 の 明 ら かに し 得
から出発し心理学を事実の解釈に利用して美的創造力の
おいて芸術学における歴史的方法が人間の創作力の考察
代 と 同 じ く 認め る 点 は 反 駁 せ ら れな か っ た ︒ 十 九 世紀 に
590
の統一とかシンメトリーとか比例とかの原理に従って作
、と
、め
、か
、た
、において現われる作
品をまとめる場合にそのま
品 の 個 性 ︑ すな わ ち そ の ﹁ 様 式 ﹂ の 歴 史 性 が 関 心 事 と さ
れ たにほかな らぬ︒また心理学的方 法が美意識の研究に
深入りして行ったときには︑統一性の原理はその根拠を
宇宙の合理的な秩序においてではなく心生活の統一にお
いて見いだした︒しかしかくして考究したのは美的形式
原理をいかに基礎づけるかという問題であって︑形式原
理そのものの普遍妥当性が疑われたわけではなかった︒
芸術の本質を﹁感情にかなう形式﹂というごとき点に認
591
め︑美的形式原理から独立に考察しようとする試みは︑
ときことによってのみ得られているかどうか︑そこには
う か ︑﹁ つ り あ い ﹂ が 果 た し て シ ン メ ト リ ー や 比 例 の ご
が果たして規則的なことによってのみ得られているかど
、と
、ま
、り
、﹂
ころで︑揺らぐべきではなかろう︒しかし﹁ま
原理とすることは︑いかなる芸術を眼界に引き入れたと
ようとするのである︒もとより芸術が多様の統一を根本
形式原理のうちにさえも食い入っていることを問題にし
、と
、め
、か
、た
、の特殊性が右のごとき
我々はここに作品のま
ようやく最近に至って現われたものである︒
592
確かに疑いがある︒そうしてこのような疑いが起こると
起こらないとは︑理論があとを追うている芸術の作品そ
のものの特殊性に基づくに外ならぬ︒
ヨーロッパにおける芸術作品の代表的なるものは︑規
則にかなえることを問題とせざるを得なかったほどに合
理的な色づけを持ったものである︒偉大なギリシア人の
天 才 が ︑ 一 方 に 数 学 的 学問 を 出 発 さ せ る よ う な 素 質 を 持
ちつつ同時に模範的な芸術を作り出したということが︑
一つにはこの傾向を産み出したのであるかも知れない︒
593
ギ リ シ ア の 芸 術 は た し か に 世 界 に 冠 た る ほどに 優 れ た も
特殊な様式として明らかにする前に︑まずこの芸術の優
うな形式的原理にもとづいたまとめかたを芸術の一つの
リシアの芸術の優れているゆえんがこのような模範的な
、と
、め
、方
、にあるとは考え得ないのである︒だから右のよ
ま
属するものと考えられやすい︒しかしながら自分は︑ギ
、と
、め
、か
、た
、は︑従って芸術の本性に
におけるこのようなま
ンメトリーや比例によって得られている︒模範的な芸術
まとまりは規則的なことによって得られ︑つりあいはシ
のであるとともにその合理的な 性質に おいても著しい︒
594
れているゆえんがどこにあるかを顧みておかなくてはな
らない︒
例をギリシアの彫刻に取る︒ポリュクレイトスの﹁ド
リュフォロス﹂は古来人体比例の規準︵カノン︶として
有名な も のである︒ピュタゴラス学徒が数 学的関係に無
限 に 深 い 意 義 を 認め ︑ 音 楽 や シ ン メ ト リカ ル な 物 象な ど
の 持 つ 魅力 を 数 学 的 関 係 に 帰 し て考 え よ う と し てい た 時
代に生まれたこの彫刻家は︑人体の絶対的に妥当な比例
を 求 め て こ の カ ノン す な わ ち 抽 象 的な 比例 の 規 則 に 到 達
し︑それをこのドリュフォロスの像に具体化したのであ
595
ると伝えられている︒このような比例の﹁研究﹂が果た
ギリシアの原作にのみ見られるあの生き生きとした︑鮮
の写しと同じく︑印象のはなはだ稀薄なものであって︑
であろう︒しかるにこの作品は︑他のローマ時代の種々
るのならば︑充分原作の面影を伝えていると言ってよい
ナポリの大理石の写しは︑もし事がこの比例にのみ関す
は今その原作を見ることはできないが︑ヴァティカンや
然としたものであることは認めなくてはならない︒我々
しこの作品がこのような伝説にふさわしいほど比例の整
して創作の力となり得たかどうかは疑問であるが︑しか
596
やかな︑心にしみ透るような力を持ってはいない︒幾何
学的な比例の完全さは決して胸を打つ力とはならないの
である︒それに対して自分はローマのテルメ美術館のい
わゆる﹁商業銀行のニオベの娘﹂を比べてみたい︒それ
はニオベの若い娘が背中にアポロの矢を射込まれて︑両
手でそれを抜こうとあせりつつ片膝を地につこうとする
瞬 間 の 姿 を 捕 え た も の で あ る ︒ 頭 は 仰 向 き ︑ 衣 は肩 か ら
落ちてほとんど全身をあらわにしている︒作の年代は五
世紀の中葉︑パルテノン以前であり︑従って女体の裸像
としては今まで知られた限り最も古いものであると言わ
597
れる︒そこでこのような裸体の︑しかも烈しい異常な運
ご と く 言 い あ ら わ す こ と が で き る で あ ろ う ︒﹁ こ の 作 品
って心にしみ透ってくる︒我々はこの特性を簡単に次の
ころがないのである︒それは実に生き生きとした力をも
秀さをあらわに示している点では︑ほとんど間然すると
綻﹂を持っているといわれる彫像が︑ギリシア芸術の優
ある︑と評せられている︒ところがこの﹁固さ﹂や﹁破
現われ︑特に右腕のごときは解剖学的に不可能な姿勢で
アルカイックな固さと未熟とのほかにさまざまの破綻が
動の問題を解こうとした大胆な試みのゆえに︑そこには
598
は 内 な る も の を 残 り な く 外に あ ら わ に あ ら わ し て い る ﹂
と ︒ こ こ で は 内 な る も の は 外な るも の で あ る︒ 我 々は こ
の作品のあらゆる点においてそれを感ずる︒この彫刻は
、面
、に
、ひ
、ろ
、が
、っ
、て
、い
、る
、﹁面﹂か
内に何ものかを包みつつ表
、か
、ら
、盛
、り
、上
、が
、る
、起
、伏
、で成り立
ら成り立つのではない︒内
つのである︒その起伏は実に微妙をきわめたもので︑た
とえば乳房から下腹部へかけての起伏のごときは︑ただ
あえぐ心をもってそれに従うほかいかんとも名状し得る
道はない︒そうしてこの微妙な起伏は内なるものを残り
なくあらわにしているという点で︑何ものかを限界づけ
599
る﹁輪郭﹂という印象を与えない︒起伏は横より見れば
られる︒このことを我々は彫刻家の鑿のあとからも裏づ
のみ
すなわち内から外に流露するいのちのリズムとして感ぜ
流れる動きの変化としてでなく︑ただ起伏の変化として︑
像を一周してみると︑その起伏の線の千変万化は︑横に
腹 部 へ か け て の 無 限 に 微 妙な 起 伏 の線 を 注 視 し つ つ こ の
ら流露しているいのちである︒だから試みに乳房から下
わした線ではない︒一々の点を連続させているのは内か
ら盛り上がった点の連続であって︑横に流れる動きを現
相連なって線となるには相違ないが︑しかしそれは内か
600
け る こ と が で き る ︒ た と えば 右 足 を 覆 う て 流れ てい る 衣
のひだは︑我々が通例衣の重さの印象から上より下へ﹁流
れる﹂ものとしてのみつかんでいるものである︒しかる
にそこに残っている顕著な鑿のあとは︑明らかに凹凸を
作 る こ と を ね ら っ て 上 よ り 下 へ と 流れ る面 に 捕 われ て は
い な い ︒ 無 雑 作 に 彫 り く ぼめ た と こ ろ は ︑ 凸 部 と の 間 の
滑らかな連絡などをほとんど顧慮しておらぬ︒明らかに
そこには︑肉体におけるとは種類の異なるいのちではあ
るが︑同じく内より外に流露するいのちをあらわにしよ
う と す る 努 力 が あ る ︒ だ か ら 肉体 に ま と い つ き 肉体 の ふ
601
くらみをあらわしていながら︑その肉体と全然性質の異
このような特質を自分は総じてギリシアの原作に認め
感じを強くあらわしているのである︒
面を流れる感じを奪い去り︑柔らかに内から盛り上がる
志向のあらわなものであって︑それが肌から滑らかに表
て看取することができる︒それも常に凹凸を作るという
ではないが︑しかしなお細かい線としてあるいは点とし
る︒肌の面に残された鑿のあとは衣紋におけるほど露骨
れらはローマ時代の写しなどに到底見られないことであ
なるものであることが実によくあらわにされている︒こ
602
ることができた︒それは多くの場合間然するところなき
シンメトリーや比例と結合して存する︒たとえばルドヴ
ィチの王座におけるいわゆる﹁ヴィナスの誕生﹂はシン
メトリーの美を模範的にあらわしたものと言えよう︒海
より生まれるヴィナスと解せられている乙女を︑左右の
岸に立った二人の娘が身をかがめて引き上げようとして
いる︒ヴィナスを中心にして左右の女の姿勢はほぼ同じ
く︑衣紋もまた同じように流れる︒ヴィナスは両手を左
右にひろげて︑左右から同じように出した女の手のささ
えるにまかせている︒左右の女の他の手は同じように下
603
に垂れて今やヴィナスを包もうとする乾いた衣をささえ
ろに引いた足︑その足の下に踏まれる円い小石︑女の肩︑
あらゆる細部もまた厳密に均斉を保つ︒左右の女がうし
相対しているのは実に美しい︒これらの均斉に伴なって
ふくらみがからみ合う三本ずつの腕のふくらみにのびて
は左右の女の膝の鈍角に対応する︒特にヴィナスの乳の
まれ︑ヴィナスのあげた腕と胸とによって作られた鈍角
上 に あ る ヴ ィ ナ ス の 首 の 円 み は 左 右 の 女 の胴に よ っ て 包
肢体などは相対して厳密に均斉を保つのである︒中心線
ている︒この六本の腕の交錯や左右の女の三つに折れた
604
腰︑膝を流るる衣文︒確かにこれは厳密なシンメトリー
のゆえに強く鮮やかさを印象する作品の好例である︒し
かしながらこの作品の優秀さの核をなすものは依然とし
てこのシンメトリーではなくして︑シンメトリーにまと
められているおのおのの物の姿の︑内なるものをあらわ
に外に出している刻み方である︒いかによく物の姿が内
よりもり上 がる起 伏としてつかまれていることだろう︒
片 す み に き ざ ま れ て い る あ の 円 い 小 石 さ え も ︑︵ こ れ は
日本では到底見られないほどの柔らかい円みにまでこす
り上げられた小石である︑そうしてたとえばローマの公
605
園 の 路 上 な ど で 普 通 に 目 賭 し 得 る も の で あ る ︑︶ そ の 小
その単純さにもかかわらず︑内なるものをあらわに外に
やり方である︒いわんやあの単純な肉体の刻み方には︑
の﹁内なるもの﹂をいかによくあらわにするかを心得た
いた衣との︑あの著しい刻み方の相違も︑それぞれの衣
ナスの高くあげた二の腕に覆いかかっているニムフの乾
濡れてぴったりと密着している柔らかいヒトンと︑ヴィ
らわにした起伏としてつかまれている︒ヴィナスの体に
ではなく︑我々がかかる小石において持つ触覚を外にあ
石さえも内を現わすことなき無生なるものの表面として
606
起伏させるに充分な力量がうかがわれる︒総じてこの種
、き
、彫
、り
、は︑微妙な起伏をもって内なるものを
の優れた浮
ふ
あらわにするコツを心得ていた者のみが︑製作し得たの
であるとも言われよう︒
は
この彫み方の特徴はパルテノンのフリーズや破風の彫
刻においても強く感ぜられる︒何人でもこれらの彫刻に
おいてはその衣文の美しさに打たれざるを得ないのであ
るが︑この衣文が鑿のあとの明らかに見わけられる荒い
刻み方のものであって︑そこでは滑らかに表を流れる面
を刻み出そうとは決してしていない︒凹みのつけ方など
607
はただ凹ませればよいという無雑作なやり方である︒し
その衣を通じて現わされている肉体の起伏とは︑実に明
ついている場合でも︑そのからみついている衣の起伏と
女の群像︶のごとく︑柔らかい衣が豊醇な女体にからみ
タ ー ﹂︵ 三 人 の グ レ ー ス と も 言 わ れ る 首 の と れ た 三 つ の
そこにからみ合っている︒あの有名な﹁タウシュウェス
肉体における起 伏の感じとは実に鮮やかに区別されつつ
かに示している︒だからこの衣文における起伏の感じと
て︑ただこの起伏の仕方のみが関心事であることを明ら
かもその凹みの﹁度合﹂についてはきわめて細心であっ
608
ら か に 感 じ わけ るこ と が で き る ︒
ギリシアの彫刻のすぐれているゆえんは︑この﹁内な
るものを外にあらわにする﹂という点に存する︒それは
外にあらわなるもののほかに内なるものが存せぬことで
ある︒ローマ時代のうつしに至ってはこの特性は残りな
く失われた︒模作家は内よりの起伏としての面を平面的
にひろがる面として受け取り︑それを丁寧に模写する︒
、む
、面と
面は滑らかにきれいになるが同時に何ものかを包
、
な る ︒ と こ ろ で 粉本 た る ギ リ シ ア の 彫 刻 は 何 も の を も 包
、な
、い
、ものであるから︑何ものかを包むという意味を持
ま
609
った面が何ものをも包まずして立つことになる︒これが
に規則にかなうことを重大視するものとなった︒このこ
あ る と き に も ま た 浅 ま し い も の で あ る 時に も ︑ 同 じ よ う
かくてヨーロッパ的なる美術は︑それが優れたもので
る︒
の生命から抽離されて意義を持たせられるに至るのであ
の言葉の担い手に過ぎなかったこれらの形式がその中心
のゆえに感嘆されるようになると︑本来は生きたいのち
かかる模作がその幾何学的に正確な比例やシンメトリー
模作の持っている強い空虚な感じのもとである︒しかも
610
とは建築についても文芸についても同じように言えると
思う︒ギリシアの神殿建築の偉大さは︑それが石という
材料を徹底的に生きたものにしているところにある︒そ
れ は 機 械 的 な 構 造 で は な く し て有 機 的 な 全体 で あ る ︒ 細
部はこの全体の生命において生きている︒しかしギリシ
ア人はこの生きたものを幾何学的に正確な形において作
り上げた︒数学的な規則にかなうことがこの建築の生き
た感じを作り出しているのではないにかかわらず︑かか
る生きたものが数学的な規則にかなう形において完成さ
れたということのために︑ここでも規則にかなうことが
611
それ自身として意義を持たせられるに至った︒そうして
なった多くの駄作をさえも作り出した︒
として重んぜらるるに至った︒そうしてかかる規則にか
形作ったがために︑かかる規則にかなうことが詩の本性
人がこれを厳密な律格や統一の規則に従った形において
まはあらわに直観的な姿に表現された︒しかしギリシア
性に存する︒人間の心のさまざまなるありさまや働きざ
た︒またギリシアの文芸の偉大さはその鮮やかなる直観
リシア人のそれのように生きたものはついに作れなかっ
同じ規則にかなう建築をその後多数に作ってみたが︑ギ
612
すべてかかることは︑ルネサンスにおけるギリシア文
化の復興とともにヨーロッパにおいて著しく目立って来
た こ と で あ る ︒ が ︑ 近 代 の 学 問 が ギ リ シ ア の 学問 の 伝 統
を受けつつその芸術的あるいは解釈学的な側面よりも数
学的な側面を強調しこの側においてめざましい発達を遂
げたと同じく︑これはまさにギリシアの芸術における数
学的な側面をのみ強調することであった︒そうしてそれ
が近代ヨーロッパの文化の特殊性にほかならぬのであ
る︒だから美的形式原理を自覚しそれにもとづいて作品
をまとめるということも︑この特殊性との連関において
613
理解せられなくてはならぬ︒近代ヨーロッパ人は確かに
さて以上のごとく規則にかなうことを特徴とするヨー
かったと言ってよい︒
った方向において果実を結ぶだろうことには思い及ばな
素質を持った民族を刺激した場合に︑そこに彼らと異な
した︒だからギリシア人の芸術的天才が彼らと異なった
、象
、性
、の
、愛
、好
、という彼ら自身の素質に応じて咀嚼
それを抽
はそれを実際的なローマ人の手を経て受け取り︑さらに
ギリシア人の教化のもとに育ったには違いないが︑彼ら
614
ロッパの芸術に対して︑我々は︑合理的な規則をそこに
見いだし得ぬような作品を東洋の芸術の内に見いだす︒
、と
、と
、ま
、り
、はある︒そうしてそのま
、ま
、
もとよりそこにもま
、は何らかの規則にもとづいてもいるであろう︒しかし
り
その規則は数量的関係というごとき明らかな合理的なも
のではない︒ではそれはいかなる性質のものであろうか︒
この問題への橋渡しとしてここに庭園芸術の例を取ろ
う ︒ 庭 園 芸 術 は 古 典 時 代 の ギ リ シ ア 人 が 模範 を示 し て お
、
かなかったものであるが︑ヘレニズムの時代の東方の大
615
、市
、には公共的な庭園が芸術的技巧をもって作られるに
都
こ と が 庭 園 の 問 題 に と っ て は 重大な 意 味 を 持 つよう に 思
飾であった︒かくローマ人によって完成せられたという
るものあるいは中心となるものは常に建築的彫刻的の装
めて規則的にまとめられ︑その框となるもの骨組みとな
壇やまた規則的な形をした掘割りや池などによってきわ
るが︑人工的に形をつけた樹木や幾何学的な形をした花
、楽
、場
、にほかならなかったのであ
ろ種々の設備を持った遊
発 達 し た ︒ も っ と も そ れ は 純 粋 の 庭 園 とい う よ り は む し
至り︑ローマ帝政時代には皇帝の別業などにおいて一層
616
われ る︒
元来ギリシア人が庭園を芸術的に作らなかったのは︑
狭いポリスの生活がそれを要求させなかったからであ
る︒しかしギリシア人は自然の風景に対して無関心であ
っ た の で は な い ︒﹁ か つ て い か な る 民 衆 も ︑ 外 界 の 美 に
ついて古いギリシア人ほど深い印象を受けたものはなか
った﹂とブチャーも言っている︒このことはギリシアの
ポリスが多くの場合美しい見晴らしを持った場所に位置
を占めていることによっても裏書きされるであろう︒ア
テンのアクロポリスが雄大にしてまた明媚なながめを持
617
っていることは有名であるが︑イタリアにおける植民地︑
測 せ ざ る を 得 な い ︒ た と え ば タ オ ル ミ ナ は 海 辺 よ り 見上
う と こ ろ に ︑ 我 々 は こ れ ら のポ リ ス の 建 設 者 の意 図 を 推
から︑特にこのながめ美しき場所をのみ選んでいるとい
以上に必要条 件を充たすいくつかの近接した場所のうち
必要条件であったかも知れない︒しかし同様に或るそれ
辺からある距たりを持った小高みということは︑防衛の
と 野 と の な が め の き わ め て美 しい 場 所を 選 ん で い る ︒海
ントゥム︑セジェスタのごとき町々は︑いずれも海と山
たとえばペスツゥム︑タオルミナ︑シラクサ︑アグリゲ
618
げた場合には決して特に防衛に都合よき位置とは見え
ぬ︒むしろこのような中途半端な場所を選んだことに不
審を抱かせるほどである︒しかし︑ひとたびこの町の位
置までのぼって見ると︑我々はそれが必然であったこと
を感ずる︒下方には砂の白い山裾の磯辺が美しく彎曲し︑
その上にはヨーロッパとしては珍しく優美な姿をした白
いエトナが大らかにかかっている︒このまとまったなが
めは︑町の位置を四五町移すことによっても崩れるので
あ る ︒ も と も と 荒 れ た 感 じ のない ︑ 自 然の ま ま で す で に
手 入 れ の 届 い て い る よ う な 平 野 や 海 辺 を 持 っ たこ の 国土
619
では︑ただ適当な位置から適当に限界づけてながめるこ
ケストラとの間で我々は日常の会話と同じ高さの声でや
劇 場に おい て も︑観 覧 席 の 最 も背 後の 高い ところ とオ ル
ミナの劇場はいうまでもなく︑かなり大きいシラクサの
まず我々を驚かせるものである︒比較的に小さいタオル
できる︒この劇場は音響学的に実に巧妙な構造によって
さらにこれらのポリスの劇 場を証拠としてあげることが
る︒これだけの証拠でまだ不充分であるならば︑我々は
シア人はポリスの位置の選定によってやっているのであ
とによって︑風景はまとまったものになる︒それをギリ
620
すやすと会話することができる︒しかもそれが蒼空の下
でのことである︒しかしそれよりも一層強く我々を驚か
せたのは︑観覧席から見晴らせる風景であった︒タオル
ミナの劇 場はローマ時代の増築が幾分それを妨げるよう
になってはいるが︑しかし観覧席から見ると︑演技の演
ぜられる世界を区切っている神殿の上には︑ちょうど額
縁にはめられたように︑遠い海と白い磯とエトナの優美
な姿とがくっきりと現われている︒わりに開いた土地で
あるシラクサにおいても︑劇場は南に海をうけた斜面を
選んで︑美しい平野と海と岬とがまとまって見晴らせる
621
ようになっている︒セジェスタの劇場に至っては神殿の
を集中させるために舞台をできるだけ外界の印象から引
るのである︒このような劇場のつくり方は︑演技に注意
初めて人はこの土地の持つ最も開闊な大きい風景に接す
何人も考えないであろうが︑劇場のある個所まで登って
がめているときには︑これが海の見える土地であるとは
ェスタの神殿のほとりにあって周りを取り巻く山々をな
所を選んで︑海に向かって開いた形に作ってある︒セジ
ラの谷のかなた十マイルのところにはるかに海を臨む場
丘よりもはるかに高い小山の絶頂の︑しかも美しいガゲ
622
きはなすというやり方とはちょうど正反対である︒あた
かも昔の日本人が祭りの日には見晴らしのよい高みへ上
って︑そこで食い飲み踊ったと同じように︑ギリシア人
は宗教的祭儀から出た劇を自然の美しさの与える晴れ晴
たか
れしい昂まった気分において味わおうとしたのである︒
すべてこれらのことは風景の美しさがギリシア人にとっ
て欠き難いものであったこと︑そうしてポリスの生活は
この自然との合一をさまたげるようなものではなかった
ことを立証する︒ギリシア人はこのような風景の愛以上
にさらにこの風景を理想的に高めようという要求は持た
623
なかった︒
しかるにローマ人は︑その発明した円形劇場や公衆浴
娯楽機関を彼自身のものとしてそこにそろえたのであ
ものにも著しく現われている︒皇帝は都会のもつ一切の
工のよろこびが︑都会を離れた皇帝の別業というごとき
ローマ人の仕事を象徴するものであるが︑このような人
せしめない自然の制限を︑人工の力で打ち破ったという
ローマの水道は︑古代の都市を一定の大いさ以上に発達
人工的なものの内に享楽することを特徴とした︒有名な
場などが示 してい るように︑風景の美を顧みない でただ
624
る︒神殿︑劇場︑浴場︑図書館︑スタディウム︑ポイキ
レー等︒そうしてその一つとして全然人工的に︑幾何学
的な形を持った庭園がつくられた︒だから庭園において
人が喜んだのは︑自然を支配する人工の力のよろこびに
ほかならぬ︒この伝統を恐らく受けているであろうと思
われる近代のイタリア人も自然の風景のうちに規則的な
るものをそそぎ入れることによって庭園の芸術を作っ
た︒ちょうどそれが博物学的な自然研究の興味のもとに
動物園や植物園の作られる時代であったためでもあろ
う︑造園はただ幾何学的な規則にかなうように自然を区
625
切るということのほかの何ものでもなかった︒人はロー
にわたって並列されたりあるいは種々の技巧 をもって組
って庭園全体を支配していること︑及び直線的に数十間
面を利用した石段が同じくその強い幾何学的な印象をも
直線や円の道路をもって地面や植物を区切ったこと︑斜
ろ で こ の 庭 園 が 庭 園 と し て賞 讃 さ れ る の は ︑ 幾 何 学 的 な
位するものであり︑土地は豊饒︑水は潤沢である︒とこ
はカムパニヤのはるかなる野を見おろした絶好の斜面に
ンス時代の最も美しい庭園の一つとして賞讃する︒それ
マ郊外ティヴォリにあるエステ家別荘の庭園を︑ルネサ
626
、泉
、が人工の支配を庭のすみずみに
み合わせられている噴
まで感じさせることなどである︒それは確かに自然を人
工的にしたとは言えるであろう︒しかしそれによって自
然の美しさが醇化され理想化されたと言えるであろう
か︒直線的に並列した並み木が直線的な道路を立体的な
角度の正しい溝に仕上げているということは︑このよう
な幾何学的な物の形を石の代わりに木でもって作ったと
いうことにはなるであろう︒しかしそれによって群生す
、し
、さ
、が醇化されたのではない︒イタリアでは
る植物の美
自 然 の ま ま の 松 や 糸 杉 が 実に 規 則 正 しい 形 を し てい る の
627
ではあるが︑その規則正しさをさらに純粋化するという
化し理想化したが︑しかし人工化はしなかった︒かかる
本的に異なるものであろう︒ギリシア人は人体の美を醇
ギリシア人が人体の規則的比例をあらわした仕事とは根
然より離れる感じである︒人工化の感じである︒これは
工的に取り去るならば︑そこに高められるのはむしろ自
在する規則を思わせる︒その不規則的な部分をさえも人
ている不規則的な部分のゆえに︑かえってよく自然に内
ぎぬ︒自然のままの規則的な樹の形は︑わずかに伴なっ
ことは︑樹の形を幾何学的にするというだけのことに過
628
点より言えば︑人工を加えない自然のままの牧場やオリ
ー ヴ 畑 が ︑ た だ 適 度 に 框 の 中に はめ ら れ さ え す れ ば ︑ ル
ネサンスの庭園よりははるかに美しいと言えるであろ
う︒たとえばティヴォリに近いハドリアヌスの別荘は︑
それの廃墟としての魅力を別にしても︑一定の框の中に
入れられた自然の景色として︑エステの庭よりもはるか
に強く我々の心を捕える︒ローマの昔この別業に一切の
ローマ風建築がそろっていたときにはそれは人工的のも
のとして意味があったであろう︒今その人工が崩れてそ
のあとに麦畑があり緑草の原がありオリーヴが野生して
629
いるときには︑人工よりも美しい自然がそれ自身の美し
かに優るものであるが︑しかしそこに加わる芸術的創作
ぬ︒それは自然の美を活かす点において人工庭園にはる
近代のイギリス庭園あるいは自然庭園なるものは︑ただ
、然
、の
、ま
、ま
、の 風 景 を 一 定 の 框 に 入 れ た も の に ほ か な ら
自
に お け る 自 然 庭 園 と 同 一 様式 で あ る と 解 す る が︑ し か し
化理想化を見いだす︒ヨーロッパ人はこれをヨーロッパ
それに対して我々は日本の庭園において自然の美の醇
は自然の美を殺すことにほかならぬであろう︒
さを発揮する︒しからば人工的な庭園を作るということ
630
力はきわめて弱い︒我々はミュンヘンの自然公園の美し
さを正直に承 認する︒しかしそれが美しいのは南ドイツ
の田舎の牧場や落葉樹や小川が美しいのと同じであっ
て︑それが芸術的に作られているからではない︒しかる
、然
、の
、ま
、ま
、ではないのである︒ヨ
に日本の庭園は決して自
ーロッパの自然が自然のままでも決して荒れた感じにな
らないのに対して︑日本の自然は自然のままの形におい
ては実に雑然と不規則に荒れ果てた感じになる︒ヨーロ
ッパの牧場ほどに整然とした感じの緑草の原を作るため
には︑日本においては除草や草刈りや排水の配慮や土の
631
固まり方などについて不断の注意手入れを怠ることがで
、護
、す
、る
、こ
、と
、によってかえって自然
らぬ︒人工は自然を看
のをかぶせるのではなく︑人工を自然に従わしめねばな
人工的に秩序立たしめるためには︑自然に人工的なるも
に つ い て の 全 然 異 な っ た 原 理 を 見 い だ さ しめ た ︒ 自 然を
まとまりを作り出すという努力が︑日本人をして造園術
る︒かくのごとく無秩序な荒れた自然のうちから秩序や
ためにも日本においては数十倍の人間の努力を必要とす
定の框にはめることによって得られるほどの効果を得る
きぬ︒だからヨーロッパにおいて自然のままの風景を一
632
を内から従わしめる︒雑草を︑あるいは一般に るもの︑
むだなるものを取り除くことによって︑自然はそれ自身
のまとまりをあらわにする︒かくて人は無秩序な荒れた
自 然 の う ち に 自 然 の 純 粋 な 姿 を 探 り 求め た ︒ そ う し て そ
れを庭園において再現したのである︒この意味において
日本の庭園は自然の美の醇化理想化にほかならぬ︒仕事
そのものの意義においてはギリシアの芸術と規を一にす
ると言ってもよい︒
、と
、ま
、り
、か
、
さてかくしてできあがった庭園はいかなるま
、を持っているであろうか︒簡単なものになると︑それ
た
633
はただ杉苔の生い育った平面に一本の松︑あるいは五七
、妙
、に
、起
、伏
、す
、る
、柔
、ら
、か
、な
、緑
、で
、あ
、る
、︒その起
盛り上がって微
そろえられた芝生のような単純な平面ではない︒下より
ほかならぬ︒しかもこのように生いそろうた杉苔は刈り
ある︒それはただ看護によって得られた人工的なものに
、生
、い
、そ
、ろ
、う
、ことのないもので
ままではこのように一面に
なものに過ぎぬとも言えよう︒しかしこの杉苔は自然の
べき多様さを持たない︑従って本来統一されている単純
丈 の 庭 ︑ 玄 関 先 ︑ 桂 離 宮 の 玄 関 先 な ど ︒︶ そ れ は 統 一 す
の 敷 き 石 が あ る き り で あ る ︒︵ た と え ば 大 徳 寺 真 珠 庵 方
634
伏のしかたは人間が左右したのではない自然のままのも
のであるが︑しかし人間はこの自然のままの微妙な起伏
が実に美しいものであることを知って︑それを看護によ
って作り出したのである︒従ってこの起 伏する柔らかい
緑と堅い敷き石との関係にも庭作りは非常な注意を払っ
︱
ている︒敷き石の面の刻み方︑その形︑その配置︑
面を平面にし形を方形にするようなことも︑幾何学的な
シンメトリーとして統一を得るためではなく︑苔の柔ら
かい起伏に対する対照のためである︒従ってその配置は︑
苔 の 面 が 細 長 い 道 で あ る 時に は直線 的に ︑苔 の面 が ゆ る
635
やかに広がるときには大小相呼応して参差と散らされ
えない種々の形の自然石︑大小の種々の植物︑水︑
︱
が 複 雑 と な れ ば な る ほ ど 著 し く 目 立 っ て来 る ︒ 人 工 を 加
ように見える︒このようなまとめ方は庭を構成する物象
ためには規則正しいことはむしろ努めて避けられている
が合っているのである︒そうしてこの﹁気﹂を合わせる
と同じように︑苔と石と︑あるいは石と石との間に︑
﹁気﹂
て統一されている︒ちょうど人と人との間に﹁気が合う﹂
、合
、い
、におい
情に訴える力の釣り合いにおいて︑いわば気
る︒それは幾何学的な比例においてではなく︑我々の感
636
これらはすべてできるだけ規則正しい配列を避けつつし
かも一分の隙もない布置においてまとめられようとす
る︒たとえば池の形は長方形とか十字形とか円形とかい
うごとき規則正しい形をできるだけ避けるとともに︑ま
た漫然と無秩序な自然の池を模したのではない︒磯辺と
か川の岸とか池の渚などにおいて自然がまれにまた部分
的に示している美しい姿を模範として︑これを総合して
一つの美しい全体に︑しかも人工的の印象を与えない全
体に︑まとめ上げるのである︒だから優れた庭の池は︑
決 し て 一 目 で は そ の 全 体 の 形 を 捕え しめ ず︑ い かな る方
637
向からながめても常にそこに新しいまとまりのある姿を
その落葉樹も新緑の色に濃淡遅速があ
鈍い銀を底から光らせる新芽もあり︑また松のように盛
樹 と い え ど も 裏 金 の よ う な 輝 き を 持 っ た新 芽 も あ れ ば ︑
り紅葉の色に薄い黄色から深紅までの開きがある︒常緑
い落葉樹と︑
︱
らぬ︒比較的に変化の振幅の少ない常緑樹とそれの大き
季の変化を通じての色彩のまとまりが作り出されねばな
ったものの取り合わせがここでは重大であり︑従って四
作られている︒また樹木にしても種々なる性質形状を持
感ぜしめるように︑無限に複雑な面を具えたものとして
638
夏に近づいて美しい緑青の芽をそろえるものもある︒こ
れらの種々の樹をそれぞれの位置にそれぞれの大いさに
、り
、変
、わ
、り
、つ
、つ
、調
、和
、
布置し︑季節の移り変わりに従って移
、保
、つ
、まとまりを作り出し得なければ︑優れた庭とはな
を
ら な い ︒ こ れ ら を も 人 は 自 然 の ま まな る山 野 の あ る 個 所
に偶然に現われている調和を模範としそれを偶然ならざ
る全体にまとめるのである︒このような複雑なまとめ方
はすべて幾何学的な規則正しさによってはなし得ないも
のである︒そこに何らか規則があるとしても︑それは人
間 が 合 理 的 に は つ か み 得 な い も の に ほ か な ら ぬ ︒だ か ら
639
日本の造園術において規則として考えられていること
た淡い竹幹が左の縁に沿うて立つ︒その他の大部分の画
する四五の竹葉が墨をもって描かれている︒それを受け
る絵画である︒長方形の画面の上部左寄りに濃淡を異に
は︑恐らく庭作りがそこから多くを学んだろうと思われ
庭園のまとめ方に最もよく似たまとめ方を持つもの
術の特殊性へ渡って行くことができるであろう︒
庭 園 芸術 に お け る か か る 相 違 か ら 我 々 は 容 易に 他 の 芸
式を模範とすることである︒
は︑実は規則ではなくしてすでに作られた一定の庭の様
640
面 は 空 白 で あ る が ︑ そ の ただ 中 に ︑ 竹 葉 の や や 下 に ︑ 濃
く描かれた一羽の雀が飛んでいる︒かかる絵の構図には
シンメトリーというごときことはいかなる意味でも認め
、り
、合
、い
、が
られない︒しかもそこには寸分の隙間もない釣
感ぜられる︒何ものも描かれざる空白が︑広い深い空間
として濃い雀の影とつり合い︑この雀の持つ力が︑淡い
竹 葉 の う ち に 特 に 際 立 っ て濃 く さ れ た 二 三 の 竹 葉 の 力 と
相呼応する︒こうしてそれぞれのものが動かすことので
きない必然の位置を占めている︒このような気合いとし
てのつり合いの関係によって︑物象がただ片隅に描かれ
641
て い る よ う な こ の 画 面 を も豊 か な ま と ま り あ る も の と し
そういうもの
、ど
、の
、い
、い
、
紅梅の木の形とそれに面する水や築山の間のほ
、ど
、の
、い
、い
、つりあい︑あるいは咲き乱れた
どの間の実にほ
その上の梅の花の配置や︑その中にとまった雀の位置な
において不規則に画面の横から突き出た梅の枝の形や︑
のまわりに人の群れている小屏風絵︑
︱
のとまった小画︑梅花が水に面して立つ屏風絵︑御所車
い襖絵屏風絵にも︑非常に多く認められる︒梅の枝に雀
小さい画帖の絵にも︑足利桃山から徳川へかけての大き
て感ぜしめるのである︒この種のまとめ方は宋元舶載の
642
色や線の調和︑あるいは御所車を画面の端に寄せて︑人
物の向きを巧みに配合しつつ空白である他の側に向かっ
、ど
、の
、よ
、さ
、は一目して明瞭
すべてこれらのほ
、ど
、の
、い
、い
、動
て漸次人の群れを薄め減らして行く構図のほ
︱
きかた︑
であるが︑しかしこのほどのよさの基礎となっている規
則を我々は見いだすことができない︒それはただ直覚的
に得られた︑そうして一分も動かすことのできない﹁気
合い﹂である︒
このような絵画のまとめ方の特殊性は︑工芸品を通じ
て我々の日常生活に親しいものとなっている︒西洋皿や
643
コーヒー茶碗のあの規則正しい模様に対して︑日本の皿
性を示している︒
か与えないインキ壷やペン皿に対して︑明白に右の特殊
いかに高価な金属を用いていてもただ機械的の感じをし
た︑しかも実に鮮やかにまとまったニュアンスの芸術は︑
硯箱のごときものになる︒あの極度に規則正しさを離れ
こ と だ ろ う ︒ そ れ は 芸術 的 に 高 め ら れ れ ば 光悦 や 光 琳 の
いかに無意識的に日本風の感じとして承認せられている
則正しい模様以上に妙味のある︑見飽きのしない模様が︑
や茶碗の︑一見でたらめのようでありながら︑しかも規
644
が︑絵画のまとめ方の特殊性はこのような﹁気合い﹂
に よ る も の の み で は な い ︒ そ れ は 空 間 芸術 と し て 一 目 に
見渡せる場合のまとめ方︑すなわちシンメトリーや比例
に代わるものとしてのまとめ方であるが︑我々の絵画に
おいてはさらに時間的な契機を入れた特殊なまとめ方が
重要な位置を占める︒すなわち絵巻物のまとめ方である︒
西洋の絵画においては物語を題材とした続きものを描く
場合でも︑続いているのはただ物語の内容だけであって︑
絵 自 身 は 一 々 独 立 し た 構 図 を 持 つ か ︑ あ るい は 一 々 独 立
しつつ装飾的な大きい全体にまとめられているかであ
645
、図
、そ
、の
、も
、の
、が時間的に
る︒しかるに絵巻物においては構
の種の絵のおのおのの部分は︑それだけ切り離してもま
ごとき美しさを感じさせられることがある︒もとよりこ
まるというごとき移り変わりによってしばしば胸を打つ
似たものである︒我々はこの集まっては散り散っては集
結ぶというごとく︑それはむしろ音楽の展開のしかたに
徐々に単純に帰りつつきわめて簡素な構図をもって局を
組み合わせによる極度に複雑な構図となり︑やがてまた
てそれが徐々に複雑の度を加えつつついに無数の物象の
展開し行くように作られている︒物静かな構図に始まっ
646
た絵としてまとまった構図を持ち得るであろう︒しかし
それは本来展開し行く全体のある一定の部分として作ら
れ た も の で あっ て ︑ そ の 部分 の意 義 は 全体 に おい て 初 め
て充分に発揮される︒伴大納言絵巻のごとく一つの物語
を題材とするものはもとよりであるが︑鳥羽僧正筆と称
する鳥獣戯画 巻のごとき︑あるいは雪舟の山 水長 巻のご
とき︑全然題材の束縛を受けないものにおいても︑全体
としての構図の展開は確かに主要事とされている︒構図
の移り変わりに従って筆調もまたおのずから移り変わっ
ているごときは︑展開し行く全体についての充分な理解
647
を示すと言えよう︒しかしこの展開の仕方においても
いてはおのおのの句は一つの独立した世界を持ってい
芸の一つの特殊な形式﹁連句﹂に連れて行く︒連句にお
この種の特殊なまとめ方を思うとき︑連想は我々を文
いる生の統一的展開のほかにないであろう︒
きものを求め るならば︑ 非合理的なる契機に充たされて
して一つにまとまっているのである︒それはもし比すべ
くして常に他の姿に移りゆく展開であり︑しかも全体と
とができない︒それは同じテーマを繰り返す展開ではな
我々は音楽におけるような規則的なるものを見いだすこ
648
、な
、が
、り
、があり︑一つの世界
る︒しかもその間に微妙なつ
が他の世界に展開しつつ全体としてのまとまりをも持つ
のである︒この句と句との間の展開は通例異なった作者
によって行なわれるのであるから︑一人の作者の想像力
が持つ統一は故意に捨てられ︑展開の方向はむしろ﹁偶
然﹂にまかせられることになる︒従って全体としてのま
とまりは﹁偶然﹂の所産であるが︑しかもそのために全
体はかえって豊富となり︑一人の作者に期待し得ぬよう
な曲折を生ずるのである︒しかしながら﹁偶然﹂がどう
して芸術的な統一を作り出し得るであろうか︒ここでも
649
答えは気合いである︒しかも人格的な気合いである︒一
葉の連想によって次から次へ並べられる︒内容の論理的
的には何のつながりもないように見えるものが︑ただ言
てい る︒かけ詞による描写のごときがそれ である︒内容
連句以外にも日本文芸はこれに類似した特殊性を持っ
人の全然思い及ばなかったものであろう︒
ちにおのおのの体験を表現する︒かかる詩の形式は西洋
つつ製作において気を合わせ︑互いの心の交響呼応のう
は得られない︒人々はその個性の特殊性をそのままにし
座の人々の気が合うことなしには連句の優れたまとまり
650
な脈絡に従って描写するやり方に比べると︑これはまさ
しく非合理的のはなはだしいものである︒しかもこのよ
うな連想による言葉の羅列が︑全体として強く一つのま
とまった情調を浮かび出させる︒なぜならばそれは言葉
の知的内容から見て脈絡のないものであっても感情的内
容から見て互いに相つながっているものだからである︒
人はこの種の描写の代表的なものを太平記や近松の戯曲
の道行きなどにおいて容易に見いだし得るが︑さらに現
実 の 直 写 を も っ て聞 こ え た 西 鶴に おい て さ え も 著 し く 目
立つものであることに気づかねばならぬ︒西鶴は確かに
651
その作品のところどころを連句の呼吸で描写した︒前句
見いだし得ると思う︒はるかにギリシアの伝統を引いて
も︑茶の湯においても︑歌舞伎においても︑それぞれに
この種の特徴は気合いの芸術としての能楽において
特性によってのみ可能とさるるものであろう︒
のでなくただ気合いにおいて言葉の脈絡を感ずるという
一種の点描法も︑知的内容において合理的な脈絡を見る
に代えている場合が少なくない︒このような言葉による
呼び起こし︑かかる句の連鎖をもって事件の率直な描写
の言葉の感情的内容が︑その知的内容と独立に次の句を
652
いる仏教美術においてさえ︑それはいくつかの適例を持
っ て い る ︒ 元 来 日 本 人 は 芸 術 的 な 国 民 と し て 世 界に 許 さ
れているものであり︑また実際内なるものを直観的な姿
においてあらわにするという能力には優れた国民であ
、る
、こ
、と
、において感じたのに対
る︒しかしギリシア人が見
、ず
、る
、こ
、と
、において見たという相違は見
して︑日本人が感
のがすわけに行かない︒そうしてこの特殊性においては
日 本 は シ ナ や イ ン ド と 共 通 で あ る ︒ ただ 異 な る の は 気 合
いによるまとめ方であって︑その点から見るとインドの
芸術はまた全然異なったものになる︒裸像が混沌として
653
そ
群がっているようなアマラヴァティの浮き彫り︑尖塔が
︱
我々は﹁規則にかなうこと﹂を視点として東西の芸術
は言い得ると思う︒
感覚を酔わせることによって得られるものであるとだけ
ぬが︑ただそれが合理性を圧倒することによって︑また
もない︒われわれはそれが何であるかを言うことはでき
でないとともにまた右に言うごとき気合いによるもので
れらに見られるまとまりは合理的な規則にもとづくもの
混沌として集まっているようなヒンドゥの殿堂︑
654
を比較してみた︒そうしてそれが西洋の芸術の性格であ
るとともに東洋の芸術の性格ではなかったことを明らか
にした︒我々はなおこのほかにもいくつかの視点を選ぶ
こ と が で き る で あ ろ う ︒ 特に ﹁ 人間 中心 主 義 ﹂ の ご と き
を ︒ し か し こ こ に は 問 題 を 簡 単 に す る ため に た だ 右 の 一
つの視点を保ちつつ次の問いに移ろう︒右のごとき特殊
性は﹁ところ﹂の相違とどう関連しているであろうか︒
三
﹁ところ﹂の相違と芸術の特殊性との関連の問題は︑
﹁と
ころ﹂を地方的に細かくすればするほど様式の微細な部
655
分 の 問 題 と な り ︑﹁ と こ ろ ﹂ の 相 違 を 大 き く す れ ば す る
育する︒雨量は大体においてヨーロッパの三四倍ないし
って︑あらゆる植物が水と日光とに恵まれつつ旺盛に発
るインド︑シナ︑日本にあっては︑暑熱の候が雨季であ
め る も の は ︑﹁ 湿 気 ﹂ で あ る ︒ モ ン ス ー ン の 影 響 を 受 け
東洋と西洋との土地としての相違を最も顕著に感ぜし
とになるであろう︒
地の相違との関連は︑この問題を最も郭大して見せるこ
点から言えば右に明らかにした芸術の相違と東西洋の土
ほど芸術の性格の深みに関して来るように見える︒この
656
六七倍であり︑空気中の湿気もはるかに多い︒これに対
してアラビア︑エジプト等の近東は極度の乾燥地帯であ
って︑特殊の条件のない土地はすべて沙漠となり︑全然
植物に包まれない骸 骨のような山野を現出している︒つ
まりヨーロッパから見れば東洋とは湿潤と乾燥との両極
端である︒冬を雨季とするヨーロッパは︑雨量が少ない
上にその雨によっても空気中の湿気をさほど多量ならし
めない︒夏の乾燥期は地中海沿岸においては緑草を枯ら
すほどであるが︑しかしそのために根強い雑草を繁茂さ
せず︑やがて十月の雨とともに柔らかい弱い牧草の成育
657
を可能にする︒日光の弱い中北ヨーロッパではそれほど
の濃淡などによるのであって植物の形が温順であるから
のは︑変化に富んだ 小規模の起伏や鮮やかな色彩や大気
れ雑然として立つ︒日本の風景が優美であると言われる
の 植 物 は 旺 盛 に 成 育 し て い る と と も に ま た荒 ら び ひ ね く
や大雨や洪水などが植物を迫害する︒だから湿潤な東洋
が豊富に植物を恵むとともにまた同じ原因によって暴風
異なったものにする︒湿潤な東洋においては日光と水と
こ の よ う な 湿 気 と 日 光 と の 関 係 が 自 然 の風 貌 を 著 し く
の乾燥さえもなく年を通じて柔らかい草が茂っている︒
658
、物
、の
、形
、にのみ着目して言えばそれはむしろ
ではない︒植
、々
、し
、い
、乱れた風景である︒それに反してヨーロッパで
荒
は︑日本のごとき根強い雑草がはびこらず︑従って柔ら
かい牧草が穏やかに大地を包み︑樹木は風の苦労を知ら
、順
、な
、感じであ
ない整った姿で立っている︒それは実に温
る︒人がここから秩序正しさを感ずるのはいかにも自然
なことであろう︒
湿気はまた大気の感じを著しく異なったものにする︒
日本において我々が日常に触れている朝霧夕靄︑あるい
は春霞などの変化に富んだ大気の濃淡は︑一方では季節
659
や時刻の感じあるいは長閑さや爽やかさの気分というご
、調
、さ
、が確かにヨーロッパの特徴である
この単
寒暖計はヨーロッパの一日にも気温の高低のあることを
と言えよう︒これはまた気温の変化とも密接に関係する︒
晴天︑
︱
、調
、調
、に
、陰欝な曇り日︑南欧の特徴である単
、に
、晴朗な
る単
を与えるほどの変化には富んでいない︒北欧の特徴であ
り出しはしても︑それによって我々の気分に細かい濃淡
の乏しいヨーロッパの大気は︑単調な靄あるいは霧を作
として︑非常に重大な役目をつとめている︒しかし湿気
ときものとして︑他方では風景自身の濃淡のおもしろみ
660
示 し て は い る が ︑ し か し そ れ は ただ 物 理 的な 事 実 で あっ
たと
て︑我々の気分の上には決して顕著でない︒湿気と温度
︱
との相関関係から起こるあのさまざまな現象︑
えば夏の夕方の涼しさ︑朝の爽やかさ︑秋には昼間の暖
かさと日暮れ時の肌寒さとの間に気分を全然変化させる
ほどの烈しい変化があり︑冬でさえも肌をしめるような
そういう変化に富んだ現象を我々はヨーロッパ
朝の冷たさの後にほかほかとした小春日の暖かさが来
︱
る︑
に お い て 経 験 す る こ と が で き な い ︒北 欧 の 夏 の 暑 さ は 冬
着でも堪え得るほどの穏やかなものには相違ないが︑し
661
かし日が暮れても爽やかな涼しさがあるわけでなく︑夕
まに晴れた日があって日当たりのいい個所に行っても︑
三度も零下十度も気分の上でいっこう変わりがない︒た
淀んでいる︒我々の肉体を緊縮させるという点では零下
れば昼間も夜と大差なく零下何度の大気が静かにじっと
ことによりその単調の苦しさを脱れようとする︒冬にな
パ人でさえもさすがにそれには堪え兼ねて土地を変える
る単調な一つの夏の気分である︒単調に慣れたヨーロッ
けでもない︒少しく誇張して言えばそれは数か月にわた
立が来てからりと気が晴れるというような変化があるわ
662
その日光はちょうど月光と同じように何の暖かさもない
ものであり︑従って日陰と日向にいささかの変わりもな
い︒それは北を遮った日向がほかほかと暖かいのに一歩
外に出れば寒風が肌を刺すというような日本の冬より
も︑かえって堪えやすいのみならず︑また進んでこの寒
さを征服しようとする人間の意力を刺激するものでもあ
ろう︒だから人はこの単調さを︑人工的に作った暖かい
世界で人工的なさまざまの刺激によって克服することに
こういう気候の特性は︑人が自ら自覚している以上に
努力する︒
663
我 々 の体 験 の 深 み に か ら み 合 っ て い る も の で あ る ︒ 植 物
ような変化を示さない︒紅葉もまたそうである︒八月に
月たてばかなり変わりもするが︑決して我々の胸を打つ
うな感じを与える︒新芽は育っているに相違ないし︑一
るにヨーロッパの新緑はちょうど時計の針を見まもるよ
り 出 す ま で は ︑ 実 に あ わ ただ し い と 思 う ほ ど 早 い ︒ し か
を増す︒柳が芽をふいたと気づいてからそれが青々と繁
ゆくばかり見まもるひまもないほど迅速に︑伸び育ち色
見る新緑は︑春をまちかねた心が鮮やかな新芽の色を心
でさえも顕著にそれを示している︒日本において我々が
664
はもう黄ばんだ葉がからからと音をさせている︒しかし
艶のない黒ずんだ緑は相変わらず陰欝に立っている︒そ
うしていつ変わるともなく緑の色が徐々に褪せて弱々し
い黄色に変わって行く︒十月下旬にあらゆる落葉樹の葉
が黄色になるまでの間︑かつて我々の目を見はらせると
いうことがない︒夜の間の気温の激変で初霜がおり︑一
夜の間に樹の葉が色づくというようなあの鮮やかな変化
は決して見られない︒植物におけるこのような気候との
関連は︑移して我々の心の姿とも言い得るであろう︒我々
はヨーロッパ人の中に身を置いた時我々自身がいかには
665
なはだしく気分の細かな変化を必要とする人間であるか
の持続性である︒それに比して我々は︑夏の日に蝉の声
ただ気分の単調に慣れているというだけの︑いわば気分
るであろうような︑根深い人格的な落ちつきではない︒
ない︒もとよりこの落ちつきは︑偉い禅僧が獲得してい
性に富んでいるほどには決して気分の細かな変化を求め
れるイタリア人ですら︑その言葉の抑揚や身ぶりが変化
ている︒ヨーロッパ人のうちで最も興奮性に富むと言わ
ちょうど樹の芽が落ちついていると同じように落ちつい
に驚かざるを得なかった︒単調になれたヨーロッパ人は
666
を聞かず秋になっても虫の音を聞かぬというようなこと
にさえ著しく淋しさを感ずるほどに︑日常生活にさまざ
まの濃淡陰影を必要とする︒ヨーロッパの近代文明を実
に忠実に移植している日本人が︑衣食住においては結局
充分な欧化をなし得ず︑きものや米飯や畳に依然として
執 着 し て い る とい う こ と は ︑ そ れ が 季 節 や 朝 夕に 応 じ て
最もよく気分の変化を現わし得るという理由にもとづく
のではないであろうか︒
気候の特性はただに気分のみならずまた実用的な意味
に お い て も 人 間 の 生 活 を 規 定 す る ︒ 最 も 著 し い 例 に つい
667
て言えば︑ヨーロッパの農業は雑草との戦いを必要とせ
く台風と暴雨というごとき人力のいかんともし難い自然
たつと炎天の水田に田の草を取り︑その息をつくまもな
に比べれば︑旬日の間に麦を刈って田を植え︑しばらく
九月の初めにもまだ悠々としてそれを続けている︒それ
れる︒七月の終わりに悠々と麦刈りをやっている農人は︑
は︑黄熟してからでも静かに一月ぐらいは立っていてく
気の関係からうねを作る必要もなく一面にバラ蒔いた麦
立 て ら れ る こ と も な い ︑ は な は だ 悠長 な も の で あ る ︒ 湿
ず暴風洪水の憂い少なく季節の迅速な移り変わりにせき
668
の威力の前に心を悩ませるという日本の農人の労働は︑
そのめまぐろしさと烈しさとにおいて到底同日の論でな
いばかりでなく︑自然と交渉する態度においてもおのず
から異ならざるを得ないであろう︒単調にして温順な自
然に征服的に関係するヨーロッパ人が︑土 地のすみずみ
を ま で 人 工 的 に 支 配 し ま たそ の支 配を 容 易な ら し め る た
、心
、に
、機械を考えるに対して︑徹底的に征服すると
めに熱
いうごときことを人間に望ませないほど暴威に富んだ自
然からその暴威の半面としての潤沢な日光と湿気を利用
して豊かな産物を作り出そうとする東洋人は︑人工的な
669
手段を思うよりもむしろ自然自身のおのずからなる力を
は︑すでに人間はその自然の特殊性をおのれの特殊性と
の自然に対立するものとしておのれを見いだした時に
何人も否定し得ないところであろう︒人間が外界として
性が人間の生活の特殊性となって現われることは恐らく
かくのごとく自然と人間との交渉において自然の特殊
う︒
られるような技術との相違となって現われるのでもあろ
な 性 格 の 著 しい 技 術 と ただコ ツ を のみ 込 む事に よ っ て 得
巧みに捕え動かそうとする︒かかることがやがて合理的
670
しているのである︒あくまでも晴朗な︑乾燥のゆえに濃
淡のないギリシアの﹁真昼﹂の明るさは︑やがて現象が
湿気のない暖かい大気や柔ら
残るところなくおのれをあらわにしているという思想と
︱
なる︒自然の温順さ︑
かな牧草や表面の滑らかな石灰岩は︑やがて自然に対し
て自らを守るという趣の少ない解放的なギリシアの衣と
な り ︑ 裸 体 の 競 技 と な り ︑ 裸 体 像 の 愛 好 とな る ︒ そ れ は
自 然 現 象 が 原 因 と な っ て白 紙 の ご と き 人間 の 精 神 に 特 殊
な 結 果 を 引 き 起 こ し た と い う 意 味 で は な い ︒ 人間 は か つ
て 周 囲 の 自 然 か ら 引 き 離 され た白 紙 の 状 態 に い たこ と は
671
ない︒ギリシアの真昼の明るさは初めよりギリシア人の
文化産物に関する︒我々が初めに単純に﹁湿気﹂として
方にも︑世界観や宗教の形式にも︑総じて人類の一切の
術の特殊性の問題に関するのみならず︑物質的生産の仕
神的構造の相違を意味することになる︒それはただに芸
かくて東洋と西洋というごとき﹁ところ﹂の相違が精
であると見られなくてはならぬ︒
はその自然においてある人間の精神的構造に属する問題
ギリシア人の合理的傾向であった︒だから自然の特殊性
明るさであり︑ギリシアの自然の規則正しさは初めより
672
言い現わしたことは︑ただ単に気象学の問題とさるる現
象ではなく︑一方に峻厳な人格神の信仰を産んだ乾燥な
、漠
、生
、活
、の極度に意志的実践的な生き方︑他方にあらゆ
沙
、物
、の一であることを信ずる湿潤な地方の極度に感情
る生
的冥想的な生き方︑そうしてその両者に対して人間中心
的 な 知 的 静 観 的 な 生 き 方 を 区 別 せ しめ る精 神 的 構 造上 の
一 つ の 原 理 で あ る ︒ も と よ り こ れ ら は 歴 史 的 影響に よ っ
て他の﹁ところ﹂にも移され得るものに違いない︒たと
えば沙漠生活の生んだ旧約聖書が千年にわたってヨーロ
ッパ人を呪縛し︑同じ沙漠から出たコランが現在のイン
673
ド に 強 い 勢 力 を 持 っ て い る ご と き ︑﹁ と こ ろ ﹂ の 特 殊 性
﹁ところ﹂の特殊性が精神的構造の特殊性を意味するご
さてしかし我々の問題はただ芸術の特殊性に関する︒
よって特殊性の理解が無意義にされたとは言えない︒
な光を添えたということはあるかも知れないが︑それに
の理解を欠くことがかえってこれらの文化産物に神秘的
の理解なくしては正当に理解し得られぬものである︒こ
もかかわらず︑旧約聖書とコランとは沙漠生活の特殊性
が絶対的のものでないことを示している︒しかしそれに
674
とく︑それはまた芸術の従ってまた芸術家の想像力の特
殊性をも意味するのである︒芸術創作力そのものは人間
の本 性に根ざしたものとして﹁ところ﹂の相違により本
質を二三にするということはないであろうが︑しかし具
体的にある芸術家の創作力として或る﹁ところ﹂に現わ
れ る 限 り ︑ そ の ﹁ と こ ろ ﹂ の 特殊 性を お の が 性 格 と せ ざ
るを得ぬ︒ポリュクレイトスが比例の正しい人体彫刻を
作ったとき︑それは確かに彼のうちにあって表現を迫る
体験が外に押し出されたものにほかならなかった︒彼の
日常寓目する人間の肉体は彼の想像力によって作りなお
675
され︑高められ︑類型化され︑そうしてたとい現実には
そうしてこのような規則正しさが想像力のはたらきを導
したものは︑人体における微妙な数量的関係であった︒
想像力の変形︵メタモルフォーシス︶のはたらきを刺激
、情
、を動かし︑彼の
経 験 に おい て意 味 深 い 形 とし て 彼の 感
な が ら ポ リ ュ クレ イ ト ス に お い て は︑ そ の豊 富な 人体 の
推古仏を作った時にも変わる事はないであろう︒しかし
の作者が胴体の細長い︑人らしい筋肉を持たないような
間 の 姿 と し て 外 に 押 し 出 され て来 た ︒ こ の 過 程 は 推古 仏
存せずとも彼の体験においては溌刺として生きている人
676
く と い う こ と は ︑ 彼 の 寓 目 す る 人体 が 人 類 の う ち で 最 も
規則正しい形を持ち︑しかも周囲の温順な自然がこの人
、然
、の
、中
、心
、として感ぜしめる
体を裸で遊戯せしめそれを自
よ う な も の で な か っ た な らば 恐 ら く 起 こ り 得な か っ たこ
と で あ ろ う ︒︵ も し こ の よ う な 整 っ た 人 体 が ホ メ ロ ス に
結実した騎士時代の永い間の体育によって作り上げられ
、誉
、険
、欲
、︑冒
、欲
、を中枢とする騎
たというならば︑さらに名
士時代の生活がエーゲ海沿岸地方のごとき温順な自然の
内にでなく︑たとえば自然の脅威の物すごい沙漠のなか
で ︑ 可 能 で あ っ た か ど う か を 問 題 と せ ね ば な ら ぬ ︒︶ 芸
677
術家がその体験において規則正しさに動かされるのは︑
に お い て 何 を 求 め て い る か を 反 映 し たこ とに もな る で あ
相違が現われて来たのを見る︒それはちょうど人が自然
のいずれが著しく目立っているかによって芸術に著しい
かくて我々は自然の合理的な性格と非合理的な性格と
するインドの自然の力と姿とから理解し得られる︒
た︒そうしてそれは人に秩序を感ぜしめないほどに横溢
の想像力はこの規則正しさとは最も縁遠いものであっ
種であり同じく裸形に近い風俗を持ちながら︑インド人
その体験が自然の規則正しさを含むからである︒同じ人
678
ろう︒ヨーロッパにおいては︑温順にして秩序正しい自
然 は た だ ﹁ 征 服 さ る べ き も の ﹂︑ そ こ に お い て 法 則 の 見
いださるべきものとして取り扱われた︒特にヨーロッパ
的なる詩人ゲーテがいかに熱烈な博物学的興味をもって
自然に対したかはほとんど我々を驚倒せしめるほどであ
る︒人はその無限性への要求をただ神にのみかけて自然
にはかけぬ︒自然が最も重んぜらるる時でも︑たかだか
神の造ったものとして︑あるいは神もしくは理性がそこ
に現われたものとしてである︒しかるに東洋においては︑
自然はその非合理性のゆえに︑決して征服され能わざる
679
もの︑そこに無限の深みの存するものとして取り扱われ
通路をさし示されていることを感ずる︒偉れたる芸術家
見ることによって︑無 限に深い形而上 学的な るものへの
あり得たことであろう︒人はかかる自然に己れをうつし
は東洋の自然の端倪すべがらざる豊富さを待って初めて
従って自然観照は宗教的な解脱を目ざした︒かかること
、き
、る
、こ
、と
、が彼の関心事であり︑
かった︒自然とともに生
宗教的に自然に対したが︑そこに知的興味は全然示さな
る詩人芭蕉は︑単に美的にのみならず倫理的に︑さらに
た︒人はそこに慰めを求め救いを求める︒特に東洋的な
680
はその体験においてかかる通路をつかみ︑それを表現し
ようとするのである︒それがよし風景画であっても︑彼
は そ の 体 験 に よ っ て 風 景 の 内 の ﹁ 法 則 的 な も の ﹂﹁ 不 変
なる構造﹂を捕えようとするのでは決してない︑あたか
も 偉 れ た る 禅 僧 が そ の解 脱 の 心 境 を 単 純な 叙 景 の 詩に よ
って表わすごとく︑風景を単なる象徴として無限に深い
ものを現わそうとするのである︒もとより自分はかかる
事を東洋の芸術家のすべてがなし得たというのではな
い︒ただ東洋の自然の荒々しく不規則であってしかも豊
富な姿から最も意義深きものを学び得た芸術家の﹁気合
681
い ﹂ のな か に は ︑ ヨ ー ロ ッ パ の 芸 術 に 求 め る こ と の で き
敢におのれを解放したかに見えるロシア的日本人たちで
そこに根をおろしている︒かかる過去の伝統から最も勇
知らず識らずに依然としてその制約を受け︑依然として
がら自然の特殊性は決して消失するものではない︒人は
然の特殊性を圧倒し去ろうとするかに見える︒しかしな
つになったように見える今では︑異なる文化の刺激が自
これらはすべて過去のことである︒そうして世界が一
たいのである︒
ないかくのごとき志向が強く現われていることを指摘し
682
さえも︑その運動の気短い興奮性においていかによく日
本の国民性を示していることだろう︒変化に富む日本の
気候を克服することは恐らくブルジョアの克服よりも困
難である︒我々はかかる風土に生まれたという宿命の意
義を悟り︑それを愛しなくてはならぬ︒かかる宿命を持
つということはそれ自身﹁優れたこと﹂でもなければ﹁万
国に冠﹂たることでもないが︑しかしそれを止揚しつつ
生かせることによって他国民のなし得ざる特殊なものを
人類の文化に貢献することはできるであろう︒そうして
またそれによって地球上の諸地方がさまざまに特徴を異
683
︵昭和四年︶
にするということも初めて意義あることとなるであろ
う︒
684
第五章
風土学の歴史的考察
一 ヘルデルに至るまでの風土学
風土の問題は歴史家の直観においては常に有力に働い
ている︒古代においても近代においてもそうであった︒
従って歴史の議論はいつもそれを当然の問題として取り
扱っていた︒それをそうでなくしたのは近代の歴史哲学
685
なのである︒
近世においてこの問題を特に取り上げたのは︑歴史学
た︑というところに︑非常に大きい意義が認められる︒
だ自然科学の基礎づけにのみ努力していた時代に起こっ
それが自然科学の力強い勃興の時代︑従って認識論がた
それを風土との連関において考察したのである︒しかも
おのおのの国民おのおのの時代の独自の価値を承認し︑
に導かれた歴史叙述︑などが流行していた時代に︑彼は
ど啓蒙時代の合理主義的な文化解釈︑悟性的な目的概念
精神科学の上に新時期を画したヘルデルである︒ちょう
686
彼以前にあっては自然環境と歴史︵あるいは運命︶との
連関の問題は︑自然科学的な見方と精神科学的な見方と
の無自覚的な混淆の下に取り扱われていた︒彼はこの混
淆に打ち克って︑それを精神科学的な問題として立てよ
うとしたのである︒
そこで彼以前の風土学を概観して彼の仕事の意義を明
らかにしたいと思う︒
古代においては近代の歴史論の主要問題たる﹁発展﹂
の観念がなかったと言われる︒その代わりに種々の国民
の特殊性に関しては充分に眼が開けていた︒そうしてこ
687
の特殊性は主として風土の特殊性に制約せられる
場合からの帰納によって︑健康と病気との法則を立てよ
、験
、に
、現
、わ
、れ
、る
、ま
、ま
、の人を捕え︑個々の特殊な
けつつ︑経
ただ彼は︑これらの材料を前にして︑抽象的な原理を斥
実ではない︒彼以前にすでに医学や生理学は存していた︒
いコスのヒッポクラテス︵ Hippokrates, 460
︱ 377
︶で
ある︒もちろん彼が﹁医学の祖﹂であったというのは事
それを一つの理論にまとめたのは︑医学の祖として名高
スにおいてもすでにこの考えは散見している︒ところで
と考えられていたのである︒ヘロドトスやツキュディデ
688
うとしたのである︒しかし彼は特殊から出発しつつも自
然哲学者の普遍化の方法を学び取ることを忘れなかっ
た︒特殊を普遍的条件の下に類別するのが彼の主たる努
、土
、所
、や場
、に特に注意を
力であった︒そこからして彼は風
払 う に 至 っ た の で あ る ︒ 彼 の名 に よ っ て 伝 わ る 多 数 の 著
︵1︶
作中 ︑ 彼の作として疑いのないものはわずかに四五に
過ぎないが︑そのうちに風土を取り扱った﹃空気と水と
ところ﹄︵ De aëre, aquis, locis
︶が含まれている︒この
書は彼の著作中最も興味深いものと言われ︑それによっ
てヘルデルは彼を﹁風土に関する主要著作家﹂と呼ぶに
689
)
Littré, 1839︱
至ったのである︒
(
︱
61. 10 vol.仏訳を添う︒
ヒッポクラテスによれば︑風土は暑さ寒さ︑その変化
︱ 7. 3 Bde.
︱ Kühlewein, 1894, 1902.
︱
Kühn, 1 26
︱独訳書︑ Upman,
Eremerius, 1859︱ 63. 3 Bde
︱ 99. 3 Bde.
︱日本訳︑ヒ
1847. 3 Bde ; Fuchs. 1895
ッポクラテス全集︒
1
、れ
、る
、ことによって民
結果する︒だから風土の特殊性に慣
乾燥は呼吸の難易︑血行の遅速︑肉体の弛緩活発などを
の多少などによって︑人体に影響する︒また空気の湿潤
690
族の特殊な性質ができあがるのである︒たとえば根気が
続くか続かぬか︑怠惰であるか活発であるか︑興奮しや
すいか冷静であるか︑勇敢であるか怯儒であるか︑とい
う ご と き ︒ 同 様 に 土 地 の 特殊 性略 美 的 の 側 か ら ︑ あ るい
は食物の特殊性として︑人々の心情や肉体の特殊性に連
関する︒かかる見地からして彼はアジア人とヨーロッパ
人を比較した︒これはアリストテレスの﹁市民の特性﹂
の論︵ Politica, VII, ︶
7.に関係あるものとして有名であ
る︒アリストテレスによれば︑北方の寒い風土やヨーロ
ッパにおける民族は活発勇敢ではあるが知力と技術とに
691
おいて欠けており︑アジアの民族は知力技術に富んでは
って言いつくされていると言ってよい︒気候の変化は肉
通に考えられていることは︑すでにヒッポクラテスによ
風土の人間に及ぼす影響というごとき意味で今でも普
差のない風土にもとづくと考えるのである︒
心情を持っているのは四季の変化が乏しく寒暑ともに大
ッポクラテスもまたアジアの民族が戦争を好まず静かな
て︑勇気と知力を兼ね備えている︒この考えと同じくヒ
において中間であるごとく特性においても中間であっ
いるが怯儒である︒しかるにヘラスの民族は︑
﹁ところ﹂
692
体を刺激し︑肉体の刺激は精神を興奮させる︒しかもか
く興奮させられる精神が歴史の原動力である︒だから気
候風土は国民の特性や運命を規定する︒明らかにここに
は風土が人間の外なるものとして前提せられ︑風土現象
の本質が何であるかは問われておらぬ︒そうしてこのよ
︶や︑前一
Polybios
うな風土観がいわば常識として古代人を支配した︒前二
世紀の有名な歴史家ポリュビオス︵
世紀に大部な 地誌を書いたストラボー︵ Strabo
︶などす
べてそうである︒しかしこの考え方はいわば自然環境が
人間の歴史や運命を支配するという所に帰着せざるを得
693
ない︒従ってかかる支配をなし得るものがただ神のみで
Jean Bodin, De la
て異なるものである︒だからそれぞれ特殊な風土を持っ
よって規定せられる︒しかるに自然的素質は風土によっ
よれば︑人間︵個人︑民族︶の行為は﹁自然的素質﹂に
︶によって風土の問題が再び取り上げられた
république
時にも︑根本の考えは古代と変わらなかった︒ボダンに
十六世紀の末にフランスのボダン︵
おいては︑全然捨て去られることになったのである︒
すべて神の意志にもとづいているとする中世の世界観に
あるとする立場︑すなわち一切の歴史や土地の特殊性が
694
た国土はそれぞれ特殊な民族の性格を示している︒特に
、働
、の
、仕
、方
、の
、相
、違
、がひ
重大なのは︑風土の相違によって労
き起こされ︑それが強く自然的素質に影響するという点
である︒たとえば豊沃な土地においては努力の必要が少
なく従って肉体や精神の能力が発達しない︒しかるに痩
せ た 土 地 は 人 の頭 と 体 を 緊 張 さ せ 従 っ て 種 々 の 能 力 ︑ 技
術︑学問等を発展させる︒痩せた土地の民族が産業的商
業的になるのはそのゆえである︒ところでかく労働の仕
方が異なるに従って異なった能力が発展するとすれば︑
人間の天賦︑傾向などにも特殊性が現われざるを得ない︒
695
以上のボタンの考えは風土の人間への影響を考える限
Montesquieux, De l'esprit
、の
、肉
、体
、的
、性
、質
、に
、対
、す
、る
、風
、土
、の
、生
、理
、
説いたのは主として人
、的
、な
、影
、響
、であって︑風土の人間存在における意義では
学
指示 した最 初 の人のご とく言われているが︑しかし 彼の
︶よりも進んでいると言われている︒モン
des lois. 1748
テスキューはしばしば歴史における地理的要素の意義を
は二百年後のモンテスキュー︵
点においては全然新しいのである︒またその点において
響 の 仕 方 に つい て ﹁ 労 働 の 仕 方 ﹂ を 媒 介 と し て 導 入 し た
りにおいて古代と異ならないのであるが︑しかしその影
696
ない︒もちろん彼はそこから出発して種々の国土におけ
る地方的社会的条件がいかに法律・制度の発達を規定す
るかを論じ︑従って種々の国土における国家形式の相違
を必然のものとして示そうとしたのである︒しかし風土
は あ く ま で も 自 然 科 学 的 対 象に 過 ぎ ず ︑ そ の 影 響 は 生 理
学的影響に留まった︒ボダンが風土を人間の労働活動の
規定としたことは︑これよりも一歩を進めているのであ
る︒
十八世紀末のドイツの文化史家の間には︑幽かながら
︵1︶
もこの方向への進展が見られる︒シュレーツェル に と
697
っては︑風土は民族に形をつけるもの︑民族をさまざま
さとが歴史的の諸文物を規定するものとなった︒広い土
一層一般化的な見方が加わって︑人口の密度と土地の広
めるものなのである︒またアーデルング に おいては︑
︵2︶
然との戦いにおいて互いに結合し︑種々の社会を作らし
、間
、を
、し
、て
、自
、然
、を
、征
、服
、し
、変
、
に影響するのみでない︒実に人
、さ
、せ
、る
、さ
、ま
、ざ
、ま
、の
、態
、度
、に
、い
、で
、し
、む
、る
、も
、の
、︑すなわち自
化
るのみでない︒また空気の湿度や温度によって人の性情
そ れ は た だ に ﹁ 食 物 の 種 類 ﹂ に よ っ て 人 の 身 心 に 影響 す
の労働の仕方・生活の仕方に押しつけるものであった︒
698
地を占有して任意に広がることのできる民族は︑谷や島
の民族ほどに︑あるいは沙漠に取り巻かれた民族ほどに︑
強 度 の 文 化 を 作 る こ と が で き な い ︒な ぜ な ら 限 ら れ た 土
地における人口の増加は生活を困難にし人間をして緊張
せしめるが︑人口の増加とともに外に広がって行ける場
合にはかかる事がないからである︒この考え方は十九世
紀の人文地理学の先駆をなしている︒似寄った地形によ
って民族の類型を分け︑文化発達の段階を定めるという
やり方である︒しかしそれでは同じ地形における民族の
互いに異なっている特殊性を理解することはできぬ︒
699
700
︵ ︶
August Ludwig von Schlözer, Weltgeschichte nach
ihren Hauptteilen im Auszug und Zusammenhang,
1785.
Johan Christian Adelung, Versuch einer Geschichte
der Kultur des meschlichen Geschlechts, 1782.
︶は右にあげた文化史家たちと時
Herder
ヘルデルの精神風土学
ヘルデル︵
二
︵ ︶
1
2
Geschichte zur Bildung der
を同じゅうして出たのである︒風土に関する彼の思想を
示しているものは︑
Auch eine Philosophie der
Menschheit, 1774
Ideen zur Geschichte der Menschheit, 1784
の二著であって︑シュレーツェル︑アーデルングなどの
著書と相前後して現われた︒が︑彼において顕著に現わ
れているのは︑彼が風土を歴史に関係させて説くときに︑
、
それを自然科学的な﹁認識﹂の対象としてではなく︑そ
、に
、る
、お
、い
、て
、内
、的
、な
、も
、の
、の
、現
、わ
、れ
、て
、い
、る
、﹁ し
、し
、﹂
れ
701
︵
︶として取り扱っていることである︒彼のね
Zeichen
いで地球上の動植物の組織︑その中での人の組織の特性︑
まず天体の世界における地球の位置から説き起こし︑次
類史の構想﹄は︑当時の自然科学的知識にもとづいて︑
まず一般的に彼の方法について考えてみよう︒彼の﹃人
視さるべきゆえんが存するのである︒
︶を作る
aller menschlichen Denkund Empfindungskräfte
こ と で あ っ た ︒ こ こ に 彼 が 風 土 学 の 歴 史 に おい て 特に 重
らっているのは︑風土の精神︵ Geist des Klima
︶を捕え
る こ と ︑ 人 の 思 惟 力 感 受 力 全 体 の 風 土 学 ︵ Klimatologie
702
従って人の存在の意義に説き及び︑そこから種々の民族
の特性に論じ入って行くのである︒しかし彼がかく自然
科 学 的 知 識 を 利 用 し た と し て も ︑﹁ 自 然 ﹂ は 彼 に と っ て
は﹁認識﹂の対象界としての自然ではなかった︒彼は﹃人
類 史 の 構 想 ﹄ の 序文 の 中 で 言 っ て い る ︒﹁ 自 然 は 独 立 自
わざ
存のものではない︒神がすべてのものにおいてその業を
現 わ し て い る の で あ る ︒ ⁝ ⁝ 我 々 の 時代 の 多 く の 書 物 に
ひく
よって自然という名を意味のない卑いものに考えるよう
になっている人は︑それの代わりにあの全能な力・善・
智慧を考えるがよい︒そうして人間の言葉が現わし得な
703
、え
、ざ
、る
、も
、の
、を た だ 心 の 中 で 名 づ け る が よ い ︒﹂
いあの見
て自然の経験とアナロギーとを離れた空中旅行に過ぎぬ
それが神なのである︒だから彼は形而上学的思弁を目し
た︒自然及び人類の運命の内に現われた無限に深い神秘︑
ながら彼のいう神は教義の教えるままの神ではなかっ
無計画であったとは考えられぬからなのである︒しかし
く も 整 然 と し た 秩 序 を 作 っ た神 が ︑ 人 類 の 歴 史 に お い て
彼 が 人類 史 の 哲 学 を 作 ろ う と し た の は ︑ 自 然に お い て か
︶だから彼にとっては︑万有引力も物
︵ Ideen, I, S. XVI.
、の
、わ
、ざ
、であった︒
理的化学的な種々の法則も︑すべて神
704
という︒人は﹁自然における神の歩み﹂を聖書として︑
そ れ を 直 接 に 読 む こ と を 学 ば ね ば な ら ぬ ︒﹁ 自 然 の 大 い
なるアナロギーは︑あらゆるところで自分を宗教の真理
に導いた︒しかし自分はそれを骨折って押えつけねばな
らなかった︒なぜなら自分は宗教の真理をあらかじめ頭
に置いて観察してはならない︑ただ歩一歩と忠実に﹁隠
されているところの︑働く神の現在﹂からしてさして来
る光を捕えねばならないのだからである︒﹂
︵ do., S. XV.
︶
かくして彼は自然の底にある神秘なるものを︑あえて神
とは名づけずに︑考察する︒生物において彼の見いだす
705
神 秘 は ︑﹁ 生 け る 有 機 力 ﹂ と 名 づ け ら れ て い る ︒ 彼 は 動
do., II, S.
ている︒理性の能力というごときものは︑この肉体を道
︶かかる生の力は我々すべての内にある︒我々自身
85.
は知らずとも我々の肉体の内にはそれが溌刺として生き
あることは疑うわけに行かないのである︒﹂︵
において何であるかも知らぬ︒が︑こういう力がそこに
自分はこの力がどこから来るかは知らぬ︒またその内部
か︒生ける有機力がそこにあるとほか言えないであろう︒
い う ︑﹁ こ の 奇 蹟 を 初 め て 見 た も の は 何 と 言 う で あ ろ う
物が母胎内において創造せられる過程を叙述したあとで
706
具として働いてはいるが︑しかし肉体を充分に知る力さ
えもなく︑いわんや肉体を作ったものではない︒精神的
思惟といえども肉体の組織や健康に依存するのであるか
ら︑我々の心情に起こるあらゆる欲望や衝動が動物的な
暖かみと離し難いものであることは当然であろう︒これ
、然
、の
、事
、実
、なのである︒こ
らは何人も疑うことのできぬ自
れの承認が最初の哲学であったごとく︑またそれは最後
の哲学でもあるだろう︒ところでかくのごとき生の力は︑
ただ﹁神秘﹂を指示した名に過ぎない︒我々はいかにし
てそれに接近し得るのであろうか︒学問の方法はまさに
707
この通路によって定まるのである︒彼はそれが﹁認識﹂
るように︑個々の綴り文字はなるほど言葉に属してはい
ところで全体の意味はわからない︒ちょうど言葉におけ
している︒その個々の部分をいかに丹念に解剖してみた
ぎ な い ︒ し か も そ の 形 態 は 一 つ の 統 合 せ ら れ た 全体 を な
︶である︒︵ do., II, S. 93.
︶人について言
︵
Dolmetschen
すがた かたち
えば︑その 姿 形 はただ内部にある衝動構造の外皮に過
、、、、、、、、
は︑上述のごとき生
け
る
自
然
の
解
釈
︵
︶である︒
Auslegen
、に
、見
、え
、る
、形
、に
、現
、わ
、れ
、て
、い
、る
、精
、神
、を
、通
、訳
、す
、る
、こ
、と
、
目
によって達せられるとは考えなかった︒彼の目ざす学問
708
るが︑しかし意味を持つのは綴られた全体としての単語
であって︑個々の文字ではない︒だから外に現われた形
Physiognomik
姿 に お い て 内 な る も の を 指 示 す る こ と ︵ deuten
︶︑ 文 字
の連結からして意味を理解すること︑それがここでは学
問の方法になる︒彼はこの方法を比論的に
︵ 人 相 学 ︶ Pathognomik
︵情相学︶などと呼んでいる︒
︵生理学︶ Pathologie
︵病理学︶に対して physis
Physiologie
や
の真の意味を捕える学問の意である︒それは
pathos
認識の立場に対して理解の立場を宣揚する︒しかもそれ
は決して根拠なきことではない︒我々は日常生活におい
709
てすでにかかる人相学を使っている︒慣れた医者は病人
ヘルデルの主張する﹁人間の精神の風土学﹂は︑上述
方 法に ほ かな ら ぬ の で あ る︒
日常生活的人相学情相学を学問的に純粋にしたのが彼の
示されている精神を理解しているのである︒このような
、相
、学
、的
、な
、眼
、を使って︑形姿に開
すな わち我々は普通に 人
の人の心に渦巻いている感情を理解することができる︒
しまう︒もっと一般的には︑人の顔つきを見ただけでそ
の顔つきやそぶりから子供好きであるか否かを見破って
の態度や顔つきを見てその病気を直覚する︒子供は相手
710
、釈
、の
、方
、法
、によって︑人間の日常生活的な姿か
のごとき解
ら神秘的な生の力の諸形成を見いだそうとする︒それを
、法
、論
、的
、に
、明 ら か に 自 覚 し て い た と い う の で は な
彼が方
い︒むしろ彼自身がその芸術家的な素質によって遂行し
たところの﹁解釈﹂の技術そのものの内に︑この方法が
示 さ れ て い る の で あ る ︒ だ か らそ れ は 時に は 材 料 の豊 富
に 圧 倒 され て 迷 い 出 し ︑ 自 然 科 学 的 民 族 誌 的 な 叙 述 に 陥
ってしまうこともある︒にもかかわらずそれが精神の風
土 学 と し て 興 味 深 い の は ︑ 風土 や 生活 の 仕方 を単 な る 認
識の対象として取り扱わず︑常にそれを主体的な人間存
711
在の表現と見る態度 が一貫していることである︒
それではヘルデルは風土についていかなる意味を解釈
い
は世界の中心になりかかっているあのカリフォルニアの
ラビア人や︑世界の端のカリフォルニア︵と言っても今
ずアジアの草原におけるモンゴールや︑沙漠におけるア
、土
、化
、し
、て
、い
、る
、という点に論を導いて行く︒ま
て己れを風
に︑この同一の人類が地上のあらゆる﹁ところ﹂におい
、一
、の
、人
、類
、で あ る と い う こ と を 観 察 し た 後
がらしかも同
彼は人類が多種多様な姿において地上に現われていな
し出だしたであろうか︒
712
、け
、る
、生
、活
、の
、姿
、に
、お
、
ことであるが︶の土人などを︑その生
、て
、描写し︑そうしてあらゆる国民がその土地と生活の
い
仕方とによって性格づけられていることを︑すなわち風
土 的 で あ る こ と を ︑ 示 そ う と す る ︒﹁ そ れ に よ っ て ︑ そ
の国土との密接な連関において形成せられている感性的
な 民 族 が ︑ そ の 国 土 に 忠 実 で あ り ︑ そ の 国土 か ら 離 れ 難
く 感 ず る︑ と い う こ と の 理由 が まず 明 ら かに な る ︒ そ れ
は彼らの肉体や︑生活の仕方の性質や︑子供の時から慣
れている娯楽や仕事などが︑言い換えれば彼らの心の全
眼界が︑風土的だからである︒彼らからその国土を奪う
713
ことは︑彼らからすべてを奪うことにほかならぬ︒﹂
︵
do.,
︶
II, S. 70.
かくのごとく人類が己れを風土化していること︑国民
とする方法である︒他は︑人間生活そのものが風土的で
に考察して︑その後に両者の間の因果関係を見いだそう
一は︑人間と風土とを引き放し︑それらをおのおの独立
とである︒その方法は大体二つに分かたれ得るであろう︒
、土
、と
、人
、間
、と
、の
、関
、係
、を明らかにするこ
い︒そこで問題は風
る︒人間は常に風土的に特殊な姿においてしか現われな
の心も性格も風土的であることは︑与えられた事実であ
714
あるという具体的な姿を重んじ︑人間から引き放した風
土︑風土から引き放した人間というごとき抽象的なもの
を問題とせず︑人間の生の構造の契機として風土を考察
する方法である︒第一の方法においては風土は人間存在
から抽出され︑単に客観的な自然現象になる︒そうして
そ れ が 同 じ よ う に 自 然 現 象 化 され た生 理 学的 人体 に 対 し
て物理的生理的心理的な影響を与え︑それによって具体
的な特性を持つところの風土人が現われると考えられ
る︒ヘルデルは明らかな自覚をもってではないが絶えず
こ の 方 法 の 不 充 分 で あ る こ と を 指 摘 し つ つ︑ 前 掲 の 第 二
715
の 方 法 に は い っ て 行 く の で あ る ︒﹁ 風 土 と は 何 か ︒ そ れ
数 の 事 情 が 地 方 的 規 定 と な っ て︑ 相 隣 る 土 地 に も 全 然 反
い︑風が多い︑山に近い︑高原である︑谷である等の無
る場所が風土において同等であるとは言えない︒海に近
めてもむだである︒太陽との関係において全然同等であ
風土の根柢を地球の構造やその自転公転などの法則に求
かに風土の説明に不充分であるかを指摘する︒あらゆる
という章︵ do., VII, S. ︶
3.が取り上げているのはこの問
題である︒その中で彼はまず当時の自然科学的知識がい
は人の肉体と心霊との形成にいかなる影響を与えるか﹂
716
、遍
、的
、法
、則
、などは到底求め難
対の風土を現出せしめる︒普
、地
、に
、固
、有
、
い ︒ 風 土 と は 極 言 す れ ば 地 球 上 の そ れ ぞ れ の土
、︑唯
、一
、の
、も
、の
、なのである︒それは鋭敏な観察によって
な
叙述することはできても︑普遍的な結論に到達せしめる
ものではない︒それに対してこの風土から影響を受ける
とされている人体が︑また生理学的な一般法則にのみ従
う も の で は な い ︒ 熱 を 受 け 取 り ま た 送 り 出 す 仕方に お い
て︑動物には種々の特性があり︑人類にも地方的に相違
がある︒体熱よりも暑い風土には生活し得られない︑な
ど と い う の は ︑ 温 帯 地 方 の 人 体 に つ い て の︑ すな わ ち す
717
でに風土的な人体についての︑生理学的法則に過ぎない︒
れを引きしめるということは︑我々に知れわたった経験
き 難 い 問 題 で あ る ︒ 暑 さ が 人体 を だ ら け さ せ ︑ 寒 さ が そ
れば︑精神的構造に対する風土の影響のごときは一層説
人体の生理学的構造についてさえもこの通りであるとす
いうことは︑危険この上もないやり方と言わねばならぬ︒
理学的実験における因果関係のごとく単純に取り扱うと
不 明 瞭な 人 体 に 対 す る 風 土 の 影響 を ︑ あ た か も 簡 単 な 物
も知られていないことの方が多いのである︒このように
いわんや人体の生理については︑知られていることより
718
ではあるが︑しかしそこから種々の生理学的現象を説明
し︑ひいては民族の特性やその精神的活動の特性を結論
するというごときことは︑到底許されない︒かかる方法
、の
、
によって人間の精神の風土学に達するには︑我々は今
、こ
、ろ
、あ
、ま
、り
、に
、物
、を
、知
、ら
、な
、さ
、過
、ぎ
、る
、︒そこでこの︑自然
と
科 学 的 に は 到 底克 服 さ れ 得な い 因 果 関 係 の 混 沌 を ︑ そ の
具体的な生きたままの姿において捕え︑その構造契機と
しての風土の意義を捕えようとする方向が︑歴史哲学者
としてのヘルデルによって選び取られることになる︒生
、然
、の
、解
、釈
、がそれである︒
きた自
719
このヘルデルの見当はまことに正しいと言ってよい︒
ろうところのものを︑今は直覚的方法によって解釈する
で達していないゆえに︑未来に徐々に認識され得るであ
、ら
、か
、に
、さ
、
の生ける神秘は︑自然科学的な認識によって明
、得
、る
、ものなのである︒ただ我々の認識がいまだそこま
れ
こ と が で き な か っ た の で あ る ︒だ か ら 彼に よ れ ば ︑ 自 然
然と異なることを力説しながら︑その区別を徹底させる
己 の 用 う る ﹁ 自 然 ﹂ の 概 念 が 自 然科 学 の 対 象 と し て の 自
法の相違として把捉したわけではなかった︒従って彼は
し か し 彼 は そ れ を 自 然科 学 的 方 法に 対 す る 精 神 科 学 的 方
720
の で あ る ︒ か か る 考 え に よ っ て 彼 は 結 局 自 然科 学 の 対 象
たる自然に解釈の方法を適用するごとき誤謬に陥った︒
たとえば﹁空気﹂は︑寒さ暑さによって我々に影響する
のみならず︑また我々に知られざる種々の力の貯蔵所で
あ る ︒ 空 気 中 に は 電 流 が 流 れ て い る ︒ し か し 我 々 の体 が
それといかに関係するかをまだ我々は知らない︒我々は
空気を吸って生きている︒が︑我々はその中にある生命
の糧が何であるかをいまだ知らない︒ある地方の空気は
種々の病毒を持ち︑他の地方の空気は健康をもたらす力
を持つ︒しかし我々はそれが何のゆえであるかを知らぬ︒
721
等々︒しかもこの知られない一切の力が空気中に存し︑
るものではないということ︑従って空気を生けるものと
立場での仕事である限り︑人間の精神の風土学に寄与す
ときことが明らかにされて行っても︑それが自然科学的
と言われるものはマラリアの蚊の仕事であったというご
たとえば空気中の生命の糧は酸素であり︑空気中の病毒
彼は︑彼のいう所の秘密がいかに発見されて行っても︑
として︑その生ける資格において取り扱われる︒この際
空気は︑その秘密のいまだ認識せられない﹁生けるもの﹂
、き
、気
、て
、い
、る
、︒それが空
、の
、秘
、密
、である︒かくて
そうして生
722
して取り扱うというごときことが彼の本来の目標とは合
致しないということを理解していなかったのである︒し
かし彼が自ら理解せずしてしかも実際に遂行した空気の
取り扱い方は︑空気が単に客体的な対象ではなくして︑
人間が己れの生をそこにおいて見いだすものにほかなら
ぬことを示している︒空気が生けるものとなったのは人
間が空気において己の生を見いだすからなのである︒空
気の秘密とは実は人間の生の秘密であった︒
空気について言える事は︑水︑日光︑土地の形・性質︑
そ の 土 地 の 動 植 物 ︑ 産 物 ︑ 食 料 や 飲 料︑ 生 活 の 仕方 ︑ 働
723
き方︑着物︑娯楽の仕方︑その他種々の文化的産物の一
る︒﹂︵ do., II, S. 84.
︶
かかる見地からヘルデルは人間の精神の風土的な構造
し難い︑特に一々離しては到底現わし得られぬものであ
るところの︑微妙な素質を作り出す︒それは非常に表示
その風俗や生活の仕方の全体の姿において見いだされ得
ならぬ︒
﹁風土は︑ある国土に根ざした民族においては︑
らの一切を含む日常生活の全体の姿から見いだされねば
生 の 開 示 と し て ︑﹁ 風 土 の 絵 ﹂ を 形 成 す る ︒ 風 土 は こ れ
切について言うことができる︒それらはすべての人間の
724
、覚
、が
、風
、
を明らかにしようとした︒まず第一には︑人の感
、的
、で
、あ
、る
、︒人がその日常生活において出合うものの特
土
性は︑同時に感覚の特性になる︒たとえば﹁味覚﹂につ
い て 言 う と ︑ 水 が 乏 し く 植物 も 少な い 土 地に お い て ︑ か
かる環境から食物をもぎ取るというごとき烈しい生活を
している国民にあっては︑食物はただ食欲を充たし餓え
を脱れ得れば足るものとして︑味を問わず種類を問わず
ただ貪り食われるがゆえに︑味についての繊細な感覚の
ごときはほとんど発達しておらない︒しかるに豊かな恵
まれた地方において自由に好むものを食し得る国民は︑
725
饑餓の脅威を受けないがゆえに︑食欲において恬淡であ
ヨーロッパ人が何物をも見得ないほど遠方の煙を見︑物
覚﹂も同様である︒広漠たる平原や沙漠に生きる民族は︑
至るまで風土的にさまざまの相違がある︒
﹁視覚﹂や﹁聴
ほとんど無感覚に近い国民から最も鋭敏に感ずる国民に
細な味覚が発達する︒同様に皮膚の﹁触覚﹂においても︑
るとともにまた水の味をも味わい分けるというような繊
の が 見い だ さ れ る ︒ そ こ で き わめ て 刺 激 的 な 食 物 を 欲 す
油︑いい匂い︑いい味︑色合いのよさ︑というごときも
り︑また小食であり︑同時に厳密に種類をえらぶ︒いい
726
音 を 聞 く こ と が で き る ︒ 明 る い 光 の 国土 で は 視 覚 が 繊 細
に発達し︑暗い陰欝な国土では聴覚が鋭敏に発達する︒
そ こ で ヘ ル デ ル は い う ︑﹁ 種 々 の 地 方 や 異 な っ た 生 活 の
仕方における人の感覚を観察すればするほど︑自然があ
らゆる所においていかに恵み深いかが見いだされる︒あ
る官 能が満足 され得ない ところでは︑ 自 然はそれを刺激
せずして静かに眠らせておくのである︒また自然が官能
を開いたところでは︑それを満足させる手段もともに与
えられている︒﹂︵ do., II, S. 116.
︶
、像
、力
、が
、風
、土
、的
、で
、あ
、る
、︒すべての感性的民
第二には︑想
727
族はその国土において感受せるもののほかは表象や概念
世界を作り上げる︒暑い国の人にはサンタ・クローズを
は漁夫と異なった眼で自然を見︑異なった仕方で想像の
強く子供の心に浸み込むことは言うまでもない︒羊飼い
る︒この場合それぞれの民族の生活の仕方と精神とが力
こに彼らの現在見ているものが説明されたことを感ず
せられる︒子供は言い伝えられた伝説を熱心に聞き︑そ
す る の で あ る ︒ の み な ら ず 想 像 力 は 伝 承 の 力 に 強 く 影響
風土的に限定せられている︒それがさらに想像力を限定
になし得ない︒従って表象の仕方︑把捉の仕方において
728
作り上げることはできない︒
、践
、的
、な
、理
、解
、が
、風
、土
、的
、で
、あ
、る
、︒それは生活
第三には︑実
の仕方の必要から生じ︑民族の精神︑伝承︑習慣を反映
する︒人々が果実を取り︑獣を狩り︑魚を捕え︑家畜を
養い︑穀物を植えることによって生活する場合︑彼らは
これらの物との交渉においてすでにそれらを理解してい
るのである︒この理解がなければ彼らは餓えなくてはな
らぬ︒ところでこの理解は︑それぞれの相手に従って異
なっている︒同一の相手が風土的に異なるのみならず︑
いずれの物を相手とするかが風土的に決定せられている
729
のである︒そこで遊牧の民は家畜とともに生き︑家畜か
に重大なのは人と人とを結びつける愛情である︒男女の
生活の状態とその組織とによって規定せられている︒特
、情
、や
、衝
、動
、が
、風
、土
、的
、で
、あ
、る
、︒それらは人間
第四には︑感
制との発展し来たるゆえんがある︒
自由は自覚せられない︒そこに恐るべき専制主義と奴隷
させ︑人々を土地に縛りつける︒従ってこの生活からは
し て 農 業 の 生 活 は ︑﹁ 我 れ の も の ﹂﹁ 汝 の も の ﹂ を 発 見
生活そのものから自由の自覚を発生せしめる︒それに対
らその実践的な理解を発展させる︒そうしてその遊牧の
730
婚 期 は風 土 に よ っ て 異 な っ てい る ︒ そ れ は 男女 の 愛 を そ
れぞれに異なったものたらしめる︒女の取り扱い方︑特
に女を享楽の手段とするかあるいは人格として尊重する
かというごとき相違は︑多く風土にもとづいている︒古
いドイツ人が女の美しい性質︑怜俐︑貞節︑勇敢︑信実
などを認めたのはその一例である︒友愛もまたその結合
の仕方において風土的に異なっている︒
、福
、も
、ま
、た
、風
、土
、的
、で
、あ
、る
、︒幸福はヘルデルにと
最後に幸
って特に重要な概念であるが︑彼においては文明あるい
は文化は必ずしも幸福を意味しない︒ただ素朴な︑健や
731
かな生の歓びこそ︑真の幸福なのである︒
﹁肉体 の健康 ﹂
︱
do., II, S. 163
︶ここにヘルデルは彼独
167.
特 の 人 道 ︵ Humanität
︶の観念を明示する︒人が何人を
も支配せず︑また何人にも支配せられず︑自及び他に対
である︒﹂︵
彼の存在が彼には目的であり︑目的はその存在そのもの
、の
、た
、め
、に
、存在するかを問わない︒
歓ぶのである︒彼は何
す 静 か な 感 情 ﹂﹁ こ れ ら に よ っ て ︑ 生 け る 者 は そ の 生 を
え る 強 き 注 意 力 ﹂﹁ 我 々 の 生 を 愛 と 喜 び と に よ っ て 充 た
理解︑活発な想起・すばやき決断・よき結果などを伴な
﹁ 感 覚 の 健 や か な 使 用 ︑ 生 の 現 実に 際 し て の 溌 刺 と し た
732
して幸福であれと思う︑それが人道である︒かかる人道
の見地よりすれば︑上記のごとき健やかな存在の理解の
あるいは静かな愛の感情の代わりに技
代 わ り に 種 々 の 小 面 倒 な 学問 や 綱 渡 り 的 な 技 術 を 発 達 さ
︱
せることは︑
巧的な意志規定を自覚することは︑人々を毫も幸福たら
し め ず 従 っ て 人 道 に 寄 与 す る と こ ろ が な い ︒﹁ 静 か な 喜
いつく
そういう野蛮人
びをもって妻子を 慈 しみ︑己れの部族に対しても己れ
︱
の生に対してもただ控え目に働く︑
の方が人類愛に興奮する人々よりも一層真実な人間だと
思う︒人類愛などと言っても︑単なる名に過ぎない人類
733
の影に有頂天になっているのであり︑そういう愛に生き
gebildete
これが我々を幸福ならしめる自然の関係で
ある︒国家が我々に与え得るものは人為的な道具である
ちと仲間
︱
に 人 道 に 合 す る ︒﹁ 父 と 母 ︑ 夫 と 妻 ︑ 子 供 と兄 弟 ︑ 友 だ
べ て の 人 が 静 か な 生 を 楽 し む 小 さい 団体 の 方 が ︑ は る か
れ︑殺されるというごとき状態よりも︑国家なくしてす
を つ け た ば か 者 が 栄 え る た め に 多 数 の 者 が 餓 え ︑ 圧抑 さ
︶なのである︒﹂︵ do., S. 170.
︶かかる見地からは
Schatte
国家もまた重大でない︒大きい国家において一人の王冠
る人は現実の人ではなくて教養ある影︵
734
が︑しかしそれは一層本質的なものを︑すなわち我々自
身を︑奪い取ってしまう︒﹂︵ do., S. 172.
︶かかる立場か
、世
、界
、を
、荒
、ら
、し
、回
、っ
、て
、い
、る
、ヨ
、ー
、ロ
、ッ
、
らしてヘルデルは︑全
、人
、に警告する︒ヨーロッパ人の﹁幸福﹂の観念をもっ
パ
て他の国土の住民の幸福を量ってはならない︒ヨーロッ
パ人は幸福という点において決して最も進歩しているも
の︑あるいは模範となるべきものではない︒ただヨーロ
ッパ特有の一つの類型を示しているに過ぎないのであ
る︒世界の各地方には︑人道の見地から見て決してヨー
ロッパに劣らない幸福が︑それぞれの土地の姿において
735
存している︒すなわち幸福は風土的なのである︒
ヘルデルの風土 学の内容は大体右の通りである︒彼は
の方法である︒彼はそれを方法的自覚においてよりもむ
つところの特殊な意義が存する︒まず第一にはその解釈
ある︒ここに彼がドイツ観念論の歴史哲学に対峙して持
づいて︑個々の国民の価値個性を極端に力説したもので
土 学 ﹂ は ︑ 自 然と精 神 と を 区 別 し な い 自 然の 概念に も と
以上によって明らかなように︑ヘルデルの﹁精神の風
が︑しかしこれらの問題は風土的には取り扱わなかった︒
さらに進んで言語︑芸術︑学問の問題に立ち入って行く
736
しろその詩人哲学者としての警抜な才能によって実現し
た︒彼が歴史において求めたものは︑人類のさまざまな
る生の表現の直観である︒特殊的なるものを生ける個別
それらの生ける全体を把捉するのが彼の目標で
者たらしめるところの特性的なるもの︑全然個性的な形
︱
成︑
あった︒第二には国民の個性の尊重である︒彼にあって
、れ
、自
、身
、の
、特
、殊
、性
、に
、お
、い
、て
、独自の意義を持ち︑
は国民はそ
人道の実現として完成せるものたり得るのである︒だか
ら個々の国民の姿をば︑人類の究極目的への発展の単な
、後
、継
、起
、の秩序においてのみ見る
る一過程として︑ただ前
737
、在
、の
、
のは︑彼の極力排斥するところであった︒それは並
、序
、において把捉せられなくてはならない︒従って彼は︑
秩
対して︑個々の民族の個性を平等に尊重する︒かくして
国民を世界精神の意志の道具︵すなわち選民︶と見るに
、定
、の
、
究極目的の見地が国民の間に優劣を見︑あるいは特
なものをその静的構造においてながめようとする︒
︵三︶
場に対して︑彫刻的に︑あらゆる方向から状態的恒常的
よ う と す る ︒︵ 二 ︶ 国 民 を そ の 劇 的 動 作 に お い て 見 る 立
立場に対して︑静的な︑美しい︑生の﹁有の秩序﹂を見
︵一︶弁証法的運動におけるごとく生起を主導的に見る
738
国民は︑その歴史的な業績においてよりも︑特殊な唯一
的な仕方で実現した特殊な生の価値において︑すなわち
国民性の実現としての生の価値において︑世界史の対象
とせられる︒
Rezensionen
かくのごときヘルデルの歴史哲学に対していち早くそ
の 弱 点 を 指 摘 し た の は カ ン ト で あ っ た ︒︵
von Herders Ideen zur Philosophie der Geschichte der
︶これはまずヘルデルの方からカント
Menschheit, 1785.
に当たり散らしたゆえでもある︒カントはちょうど認識
批判の仕事を終えて︑倫理学への移り行きとして︑歴史
739
哲学の問題を考えていたところであった︒この鋭い方法
である︒﹂︵
︶﹁表現を活気
WW., Cass. Ausg., IV, S. 179.
情や感受で受け取る巧みさと結びついて︑働いているの
用いる場合には︑大胆な想像力が︑わからない対象を感
アナロギーの発見に満足する敏感な智慧︒しかもそれを
はなくして︑一所に永く留まらない理解力に富んだ観察︑
における論理的な正確や︑原則の注意深い区別・保持で
、的
、で
、な
、い
、こ と を 指 摘 す る ︒﹁ 概 念 規 定
デルの方法論が学
したのである︒まず前掲の第一の特徴に対しては︑ヘル
論者が昔の聴講生であったヘルデルに方法への反省を促
740
あらしめている詩人的精神が︑時々著者の哲学に食い入
って︑同義語を説明に代わらせ︑比喩を真理とする︒哲
学の領域からいつか詩の国に移行するゆえに︑両者の限
界や領分が全然乱されている︒﹂︵ do., S. 195.
︶これは批
判哲学者カントとしては誠にもっともな批判であるが︑
しかしヘルデルの取り扱おうとした世界がちょうどカン
トの見落とした対象界すなわち歴史的世界であったとい
うことも考えてみなくてはならぬ︒カッシーラーも言っ
、念
、の
、欠
、
ているように︵ XI, S. 245.
︶ヘルデルにはその概
、にもかかわらず大きい全体直観がある︒だからこの詩
乏
741
人哲学者が直観より直接に概念へ︑ 概念より直観へ とい
哲学は彼の目的論の体系に属するものであって︑第二・
の立場の相反者を見いだしたのであった︒カントの歴史
第二の特徴については︑カントはちょうどここに己れ
である︒
を擡げざるを得なかった︒その萌芽がここに見られるの
もた
るとともに︑歴史的世界の理解の問題は方法論的にも頭
後具体的な現実︑個性的な現実の解決が問題となり来た
られない具体的な理解は存しているのである︒カント以
うふうに移行しているその考え方の内にも︑カントに見
742
第三批判において充分に基礎づけられるのであるが︑し
Idee zu einer allgemeinen Geschichte in
かし如上のヘルデル批判や少しくそれに先立つ歴史哲学
的 小 論文 ︵
Weltbürgerlicher Absicht, 1784. Beantwortung der Frage :
︶において︑彼はそれまで動
Was ist Aufklärung ? 1784.
いていた﹁有﹂の領域から﹁当為﹂の領域へ移ったこと
を明らかに示している︒彼によれば厳密な意味における
﹁歴史﹂は︑出来事の一定の系列をただその時間的な継
起あるいは因果連関において把捉するに留まらず︑それ
、在
、的
、目
、的
、の
、観
、念
、的
、統
、一
、に関係させる時初めて成立
らを内
743
するのである︒自然法則の妥当性は︑所与の自然が法則
、史
、哲
、学
、の
、原
、理
、は
、倫
、理
、学
、の
、内
、に
、求
、め
、ら
、れ
、る
、
る︒しからば歴
、か
、は
、な
、い
、︒かかる立場においてカントは初めて﹁歴史﹂
ほ
かるに行為は﹁自由 ﹂ の地盤に おい て行な われ るのであ
の 系 列 で は な く ︑﹁ 行 為 ﹂ の 系 列 に お い て 成 立 す る ︒ し
めて可能となるのである︒ところで歴史は単なる出来事
の で な く ︑ か か る 意 味 目 的 を 前 提 と す るこ とに おい て 初
既定の事実や出来事があとから意味や目的を持ってくる
う洞察によって示された︒それと同じく﹁歴史﹂もまた︑
を 持 つ の で な く 法 則 の 概 念 が 初 め て 自 然 を 構成 す る と い
744
を 見 い だ し た ︒﹁ 人 類 の 精 神 的 歴 史 的 な 発 展 は ︑ 自 由 の
思 想 の 深 化 発 達 に ほ か な ら ぬ ︒﹂ 自 己 解 放 の 過 程 ︑ 自 然
的 束 縛 か ら 自律 的 意 識 へ の進 展 ︑ そ れ が 出来 事 の 真 の 意
義である︒かかる歴史観がようやく内に熟しつつあった
カントは︑ヘルデルにおける﹁並在の秩序﹂に対して﹁前
後継起の秩序﹂を強調し︑人間の状態の価値ではなくし
て究極目的に規定せられるその存在自身の価値︑従って
人類 の 不断の進 歩を 主 張せざるを得なかっ た︒これ もま
たきわめて当然の主張である︒特にこの対立の背後には
カントの倫理的原理とヘルデルのそれとの対立がある︒
745
すなわち人間の全体的規定と幸福との対立が︒この点に
て捨て去る彼の立場のゆえである︒だから彼においては
性格︑自然的素質というごときものをすべて偶然事とし
人においてただ理性者としての本質をのみ見︑その個性︑
斥を是認せしめるものではない︒この排斥が必要なのは︑
トの主張が正しいということは︑直ちに並在の秩序の排
しては不可能なものなのである︒しかしながらかくカン
として掲げるものはカントのいわゆる人間性の原理なく
のであることは言うを要しない︒彼が最も人道的な幸福
おいてヘルデルの幸福原理が到底カントに敵し得ないも
746
﹁人類の性格﹂とは人が理性者であるという最も普遍的
な 規 定 を さ す の で あ っ て ︑ 個 別 者 の 特 殊 の 個 性 を意 味 す
るのではない︒ここがちょうどドイツ浪漫派の思想家た
ちのカントを離れた急所であった︒しかしカント自身に
いく ば く
お い て も 個 性 の 捨 離 は 幾 何 か の 不斉 合 を も た ら し て い る
と考えられる︒彼は﹁世界市民的見地における普遍史の
構 想 ﹂ の 中 で 言 っ て い る ︒﹁ 生 物 の あ ら ゆ る 自 然 的 素 質
は一度は充分に合目的的に発展すべきよう規定せられて
いる﹂のであり︑そうしてそれは﹁隠されたる自然の計
画﹂によって導かれているのである︒しからば並在する
747
種 々 の 国 民 の 自 然 的 素 質 の 相 違 とい う ご と き個 性 の 問 題
﹁ 自 然 全体 の 合 目 的 性 ﹂ と し て 意 義 づ け た が ︑ し か し 前
道徳的主体としての人の見地から与えられるところの
らぬ︒彼は後にはかかる自然目的を摂理から引き離し︑
風土とさまざまの特殊民族とを作ったかが問われねばな
あるならば︑神は何ゆえにさまざまの地方とさまざまの
はしばしば論ぜられているところであるが︑もしそうで
るいは﹁世界の創造主﹂を言い換えたものに過ぎぬこと
ではなかろうか︒この書における自然目的が﹁摂理﹂あ
も︑何らか自然目的にもとづくものと考えざるを得ない
748
掲 の ﹃ 構 想 ﹄ に お い て は ︑﹁ 自 然 ﹂ は 人 類 に 理 性 や 自 由
、え
、た
、ものであり︑また人類がその動物的な有り
意志を与
、し
、
方を超える一切の所行を全然自発的に行なうように欲
、ものなのである︒自然がかく与
、え
、す
、また欲
、る
、ものであ
た
るならば︑ある国民には道徳的努力を刺激するような環
、え
、︑他の国民には義務と傾向性とが調和しやすい
境を与
、え
、る
、ということも︑単なる偶然とは考え
ような環境を与
、し
、︑従ってそれによ
られない︒自然は風土的な相違を欲
、し
、た
、のである︒言いかえれば人間の道
る個性の相違を欲
が種々の形態において実現せられることを欲したのであ
749
る︒それならばヘルデルのいわゆる﹁並在の秩序﹂もま
へー ゲルの風土哲学
たものとしてドイツ観念論に強い影響を与えたものであ
カントの道徳的史観は﹁出来事﹂の深き意義を指示し
三
できぬのである︒
う︒風土的特性と人類史の使命とは離して考えることが
た自然の目的として承認せられなくてはならないであろ
750
るが︑しかしヘルデルの力説した﹁並在の秩序﹂もまた︑
種 々 な 形 に 生 き 残 っ て︑ 全 然 消 え 去 り は し な か っ た ︒ フ
ィヒテにおいては国民の個性の力説として︑シェリング
に お い て は 生 け る 自 然 や 価 値 の完 成 の 主 張 と し て︑ さ ら
にヘーゲルにおいては精神の現われであるところの自然
の 特 殊 性 が 民 族 の 文 化 的 形成 に 貢 献 す る こ と の 承 認 と し
て︑それぞれこの問題への関係を保っている︒
フィヒテはその歴史観の根柢においてはカントを継承
する人である︒彼においても歴史の究極目的は理性の自
由にほかならない︒しかしカントが価値の普遍性をのみ
751
重んじ︑特殊をその事例としか見ないのに対して︑フィ
では個人の上に﹁真に現実的な全体個性︑真の具体的普
は孤立せる一見本として抽象的普遍に対立したが︑ここ
としての全体者の一成員である︒カントにおいては個人
の成員とする全体者であるとともに︑またそれ自身人類
である︒国民はまさにかかる価値個性として︑個人をそ
の価値個性において︑またそれを通じてのみ現われるの
説するに至った︒価値全体性としての全体者は︑ただ個々
感じによってのみ知られるような︑個々の価値個性を力
ヒテは︑理論的に根拠づける事のできない︑ただ直接の
752
遍﹂が見いだされた︒フィヒテが﹃ドイツ国民に告ぐ﹄
︵ Reden an die deutsche Nation
︶において力説したのは︑
、神
、的
、自
、然
、は ︑ 人
こ の よ う な 国 民 の 個 性 な の で あ る ︒﹁ 精
類 の 本 質 を ば た だ 極 度 に 多 様 な 度 合 い に おいて ︑ 個 別 者
に︑また全体的な個別性に︑すなわち種々の民族に︑現
わすのである︒⁝⁝この国民の特性は︑己れの眼には見
えないものであるが︑しかしそれによって国民が根源的
つな
な生の源泉と絡がるのであって︑そこにのみ国民の現在
及び将来の品位︑徳︑業績が保証せられる︒もしこの特
性が混合や摩擦によって鈍らされるならば︑その国民は
753
、神
、的
、自
、然
、から離れて行くのである︒﹂︵
精
Lask Ges. Schr.,
︶かかる法則は︑それが
︵ Fichte, Schriften, VII, S. 381.
あるということはわかるが︑しかしその下に立っている
民性と呼ばるるものを徹頭徹尾規定するのである︒
またこの根源的なものの発展の法則が︑一つの民族の国
、然
、的
、な
、緊密な全体に結合させる︒
人間の群れを一つの自
遠 の 世 界 に お い て ︑ 従 っ て ま た 時間 的 な 世 界に おい て ︑
︶すなわち国民の生命はその特性である︒国民
I, S. 266.
、る
、特
、殊
、な
、法
、則
、の
、下
、
は神的なるものの自己開展におけるあ
、立っている︒この特殊な法則をともにすることが︑永
に
754
、念
、的
、に
、明
、ら
、か
、に
、さ
、れ
、得
、る
、も
、の
、で
、な
、い
、︒
個人には決して概
、覚
、するのは﹁歴史﹂に
国民あるいは民族がその統一を自
よってである︒共同の行動や苦悩︑すなわち︑支配者︑
土 地 ︑ 戦 争 ︑ 勝 利 ︑ 敗 北 等 を 共 同に す る こ と︑ それ が 人
間の群れを民族として自覚させる︒しかしこれなき場合
、而
、上
、的
、存
、在
、の力によって
にも︑ドイツ民族のごとく︑形
民族の統一の概念を保ったものもある︒これはドイツの
国民性の著しい特徴とせられている︒しからば民族の特
、歴
、史
、的
、の
、意
、義
、を持つことになるであろう︒それは
性は超
歴史的展開の内に具体化せられるが︑しかしそれ自身の
755
、而
、上
、的
、な
、精
、神
、的
、自
、然
、の 内 に 有 し て い る の で あ
根拠を形
ての自然ではなくして﹁生産性﹂としての自然を見いだ
と の 統 一 か ら 出 発 し た 彼 は ︑﹁ 生 産 せ ら れ た も の ﹂ と し
、然
、であった︒カントの第三批判における自然と自由
に自
て 直 接 の 直 観 へ 導 い た の は︑ 価 値個 性 で はな く し て ま さ
シェリングにおいては︑彼を超越論哲学から引き離し
特殊法則﹂として︑存するのである︒
自然の内に︑従って彼自身のいわゆる﹁神的な るものの
が︑しかし我々の風土の問題はまさに形而上的な精神的
る︒フィヒテ自身はこれを風土として理解していない
756
したのである︒自然を客観として生産するフィヒテの自
、体
、と
、し
、て
、の
、自
、然
、
我 が ︑ 今 や こ の 生 け る 自 然 に 移 され︑ 主
になる︒従って自然は精神なのである︒合目的者におい
ては形式と実質︑概念と直観とは融け合ってしまう︒こ
れこそ観念的なるものと実在的なるものとが絶対的に合
一 す る と こ ろ の 精 神 の 性 格 で あ る ︒ だ か ら あ ら ゆ る有 機
体には何らか象徴的なものがある︒あらゆる植物はいわ
ば心霊の込み入った姿である︒我々の眼前に日常起こっ
ていることは︑明らかに自然の生産力が合目的的に形成
し つ つ あ る こ と を 示 し て い る ︒﹁ 生 ﹂ と は こ の ﹁ 現 象 に
757
おける自律﹂である︒通例の自然の見方においては︑個々
によって︑規定せられている︒この理念は課題︑要求と
、で
、
の方が先なのである︒自然の内にある個々のものはす
、あ
、ら
、か
、じ
、め
、全体者によって︑すなわち自然一般の理念
に
れ る ︒﹁ 我 々 ﹂ が 自 然 を 知 る の で は な く し て ︑﹁ 自 然 ﹂
いて︑すなわち生自身の内的統一において︑明らかにさ
﹁生﹂であり﹁生産性﹂である︒それは直接の直観にお
、工
、
なすと考えられるが︑しかしこのような自然は全然人
、な も の で あ っ て 実 在 的 な も の で は な い ︒ 真 の 現 実 は
的
の分離した物的要素が機械的に結合されて一つの体系を
758
、造
、成
、的
、な
、力
、︑形
、の
、原
、
いうごときものではない︒それは創
、であって︑生
、自
、身
、に
、お
、い
、て
、己
、れ
、を
、現
、わ
、す
、︒人が物を分
理
別し反省して認識する以前に彼自身の自然を了解してい
るのは︑彼が自然と同一だからである︒このような了解
は︑純粋直観あるいは創造的想像力がすでに古くより発
明 し て い る と こ ろ の 象 徴 的 言 語 に おい て︑ 明 ら か に 示 さ
、然
、を
、反
、省
、的
、に
、考
、え
、る
、度
、を
、少
、な
、く
、す
、れ
、
れている︒我々が自
、す
、然
、る
、ほ
、ど
、︑自
、は
、一
、層
、わ
、か
、り
、よ
、く
、我
、々
、に
、話
、し
、て
、く
、れ
、る
、︒
ば
このような﹁生ける自然﹂の概念は︑ヘルデルのそれに
はなはだ近いと言ってよいであろう︒たといシェリング
759
の主たる関心が︑かかる自然における生の段階系列を自
の﹁精神の風土学﹂を新しく押し進める道が開けるであ
を 前 述 の 価 値 の 問 題 と 結 合 し たな ら ば ︑ そ こ に ヘ ル デ ル
ながりを示しているように思われる︒もしこの自然哲学
得 る こ と を 認 め た 点 に お い て ︑ 並 在 の 秩 序へ の 若 干 の つ
ものとのみ見ず︑完成せるものがいかなる時にも出現し
わち一切の有をただ自由への進歩の通路として暫定的な
かかる生の形成に﹁芸術的な完成﹂を認めたこと︑すな
るにあったとしても︑なお彼がヘルデルの流れを汲んで
由 へ の 徐 々 た る 近 寄 り と し て 前 後 継起 の 秩 序 に お い て 見
760
ろう︒
へーゲルはまさにこの結合を示しているのである︒た
といそれがある程度のことに過ぎなかったとしても︒
若きころのヘーゲルの主たる関心は﹁歴史﹂であった︒
そうしてそのころの民族宗教に関する論文のごときは︑
Nohlm Hegels theologische Jugendschriften, S.
ff. ;
明らかにヘルデルの精神において書かれている︒
︵
Dilthey, Schriften, IV, S. 28 ︶
ff.が︑やがて彼の側では彼
よりも若いシェリングの華やかな仕事が始まる︒悟性的
3
な範躊に反抗して直観の権利を主張し︑物理的世界を精
761
神的なるものの現われとして説くのである︒この影響の
よい︒
も自然規定性を軽視しなかったのは︑当然の事と言って
ヘ ー ゲ ル の 歴 史 哲 学 が ︑﹁ 発 展 ﹂ を 中 心 思 想 と し な が ら
体 系 を 形成 し た の で あ る ︒こ のよ う な 歴 史 的 背 景を 持 つ
という一点において出合い︑相ともに助けて知的直観の
﹁歴史﹂から出発したヘーゲルとは︑世界全体性の認識
味 深 い も の に な る ︒﹁ 自 然 ﹂ か ら 出 発 し た シ ェ リ ン グ と
成立した︒二人の交際は体系形成の時期において一層意
下にヘーゲルの神秘的汎神論とも呼ばるべき根本思想が
762
ヘーゲルの体系は彼自身の探求の旅を反映している︒
初 め 歴 史 的 現 実 か ら 出 発 し た 彼 は ︑ こ の 現 実 の 根 柢に 存
する理法へと迫って行った︒そうしてそれが把捉せられ
た 時 に ︑ こ れ を 抽 象 的 一 般 的 な 論 理 と し て 仕上 げ た ︒ そ
こで次にはかかる論理が自然や歴史を通じていかに己れ
を 実 現 し て 行 く か の 段 階 を た ど る こ と に な る ︒﹁ エ ン チ
ュクロペディー﹂における体系がそれである︒従って彼
示しているとせられるの
すなわち絶対的精神が己れを有限性の
の論理学が﹁思惟の根本形式﹂を示すとともにまた﹁現
︱
実の構造﹂を
︱
内に実現する規定の連関を
763
も︑ゆえなきことではない︒歴史的現実としての己れを
というふうに解せられるのは︑右のごとき考えにもとづ
行 を 含 ま な く て はな ら な く な る ︒ 思 惟 が 現 実 を 産 み 出 す
、性
、化
、への進
関係そのものがすでに自然や精神における個
さらに己れに還って精神となると考えるならば︑論理的
それ自身の規定に従って︑まず他者として自然になり︑
すなわち絶対的理念に朝宗するところの観念の体系が︑
関を無視して単に思惟の根本形式に過ぎない論理学が︑
、い
、
展開し来たる論理は︑もと歴史的現実の理法として見
、さ
、れ
、た
、ものだったのである︒しかしもしこの体系的連
だ
764
くのである︒我々はヘーゲルの考えがそうであったとは
思 わ ぬ ︒ ヘ ー ゲ ル に おけ る ﹁ 精 神 ﹂ は ︑ 観 念 と し て 己 れ
を自覚するとともにまた己れを客体化して自然となり︑
さらにこの自然において己れを実現しつつ文化を形成し
、体
、的
、な
、る
、も
、の
、である︒だから思惟や観
て行くような︑主
念も精神には違いないが︑それだけが精神なのではない︒
物質もまた精神なのである︒論理はこのような精神の働
き方なのであって︑単なる思惟形式ではない︒かかる意
味において論理は精神の働きであるところの現実の構造
を示すのである︒
765
ヘーゲルの歴史哲学は右のごとき体系において一定の
を 頂 上 と す る 概 念 が ︑﹁ 自 然 ﹂ に お い て 己 れ の 完 全 な 外
外面化とその克服とを含んでいるのである︒絶対的理念
ことができない︒だから歴史はそれ自身すでに幾層もの
、面
、性
、に
、お
、け
、る
、実
、現
、という契機を欠く
うしてこの自覚は外
ら ぬ が ︑ し か し そ れ は 同 時に ﹁ 精 神 の 自 覚 ﹂ で あ り ︑ そ
で あ る ︒ 歴 史 は 彼 に おい て も ﹁ 自由 へ の 発 展 ﹂ に ほ か な
内で︑その第三段階たる人倫の中のさらに第三段階なの
精神哲学の中の︑さらに第二段階としての客観的精神の
場 所 を 占 め て い る ︒ すな わ ち精 神 の 発 展 の 第 三 段 階 た る
766
的客観性を持った後に︑この自己外化を止揚して己れ自
身 に 還 っ た 時 ︑ そ れ は 精 神 と呼 ば れ る ︒ し か る に 精 神 の
本性は自己示現︑自己啓示である︒そうしてこの自己啓
、然
、を
、彼
、の
、世
、界
、と
、し
、て
、
示 は 精 神 の 客 観 性 の 定 立 すな わ ち自
定立することにほかならない︒だから精神の第一段階た
る主観的精神のさらに第一段階たる﹁心﹂は︑まず第一
に直接の自然規定 性において現われるのである︒すなわ
ちそれは︑その全体性において﹁地理的な部分世界﹂の
、
自然を表現し︑従って人種の相違を形作るところの︑ 特
、な
、自
、然
、精
、神
、として︑分かれて現われている︒この相違
殊
767
は自然の﹁偶然性﹂の中に入り込み地方精神とも呼ぶべ
、理
、的
、及
、び
、風
、土
、的
、規
、定
、である︒
自然性を現わす︒それが地
の現実性を持っている︒個々の民族の全体性は直接的な
、々
、の
、特
、殊
、な
、民
、族
、に
、お
、い
、て
、そ
も︑人倫的精神それ自身は個
説かれるのである︒︵ Encykloädie, § 299
︱ § 312.
︶
同様に客観的精神の第三段階たる人倫的精神において
神を直接態として︑そこから主観的精神の論理的発展が
傾向︑性能︑などの内に現われる︒このような地方的精
働き方︑体格︑素質︑さらに内面的な知的及び倫理的の
き特殊者になる︒そうして諸民族の外面的な生活の仕方︑
768
かく規定された民族はそれぞれの精神生活の特殊な発展
段階において存在し︑その段階の中でのみ己れを把捉す
る ︒ そ こ で 人 倫 的 精 神 が ︑﹁ 並 在 ﹂ 及 び ﹁ 前 後 継 起 ﹂ の
秩序における一定の規定の下に︑個々の個体として自己
を現わしたもの︑それが民族だということになる︒言い
換えればそれは﹁特殊な民族としての精神﹂なのである︒
このような特定の民族精神はその特殊原理に規定された
彼自身の現実の発展︑すなわち﹁歴史﹂を持つのである
、定
、さ
、れ
、た
、精神であるというまさにそ
が︑しかしそれは限
の理由によって︑普遍的な世界史に移って行く︒そうし
769
て 世 界 史 に お い て の ︑ す な わ ち 精 神 が 世 界精神 に な っ て
︱
do., § 442
さるべきものであるとともに︑またその発展を可能にす
、殊
、性
、は︑精神の発展において克服
ある︒しからばこの特
族精神を契機とするがゆえに精神の発展があり得るので
に個々の民族として現実的なのであり︑この現実的な民
︶
§ 449.
かくのごとく精神は︑その特殊性においてあるがゆえ
、つ
、の
、契
、機
、︑段階となるのである︒
いての︑一
︵
個 々 の 民 族 と し て の 特 殊 性か ら 己 れ を 解 放 す る運 動 に お
行く所行においての︑さらに言い換えれば人倫的実体が
770
るものでなくてはならない︒その意味においてこの特殊
性は必須のものである︒さらにそれが地理的風土的に規
定せられているとすれば︑この規定性もまた必須のもの
でなくてはならない︒しからば民族精神の内に止揚せら
れた契機として含まれている地方的精神もまた﹁偶然的﹂
ではなくて﹁必然的﹂でなくてはならぬであろう︒そこ
でもし﹁心﹂の風土的規定性が﹁必然的﹂として認めら
れるということになれば︑エンチュクロペディーにおけ
る精神現象学は風土的な色彩を帯びなくてはならなかっ
たのである︒
771
ヘーゲルの﹃歴史哲学﹄の序論に含まれている﹁世界
Geographische Grundlage der
な外的な姿において︑世界史の内に現実に現われる︒こ
、実
、的
、に
、存
、在
、す
、る
、民
、族
、としてのさまざま
精神の理念は︑現
、質
、必
、然
、的
、に
、根
、柢
、をなすのである︒
てはならない︒従って本
関は精神がそれにおいて動くところの地盤と見られなく
神の自然連関は確かに外面的である︒しかしこの自然連
るいはその個々の行為する個性から見るならば︑民族精
︶は︑よほどそれに近いことを言ってい
Weltgeschichte
る ︒﹁ 人 倫 的 全 体 ︵ す な わ ち 人 倫 的 精 神 ︶ の 普 遍 性 ︑ あ
史 の 地 理 的 根 柢 ﹂︵
772
、間
、の
、
の現実的な存在の側面は︑自然物の有と同じく︑時
、に
、あ
、る
、と
、と
、も
、に
、空
、間
、の
、内
、に
、あ
、る
、のである︒世界史的な
内
民 族 が 背 負 っ て い る ﹁ 特 殊 原 理 ﹂ は ︑ 同 時に 自 然 規 定 性
として彼自身の内にある︒かかる自然性の姿に己れを現
、々
、に
、
わすところの精神は︑その特殊な姿を別
︶並べている︒なぜなら個別は自然性の
︵ auseinander
、然
、の
、相
、違
、は
、︑
、精
、神
、が
、己
、れ
、
形式であるから︒このような自
、展
、開
、す
、る
、特
、殊
、な
、可
、能
、性
、と見らるべきものであってそこ
を
に地理的根柢を与えるのである︒我々が念とするのは︑
土地をば﹁外面的な地方﹂として知ることではなく︑か
773
かる土地の子としての民族の性格・類型と精密に連関せ
、き
、方
、を決定するとすれば︑自然類型の意
界 史 に おけ る 働
が そ の 地 方 の 自 然類 型 と 連 関 し つ つ 同 時 に そ の 民 族 の 世
違﹂は︑もはや決して﹁偶然性﹂ではない︒民族の性格
神が己れを展開する特殊な可能性﹂としての﹁自然の相
︵ WW., IX, S. 98 ︶
f.ここに我々は﹁精神の風土学﹂の
立派なプログラムを見いだすと言えないであろうか︒﹁精
み 入 り そ こ で 地 位 を 得 る そ の 仕 方 に ほ か な ら な い ︒﹂
る﹁地方の自然型﹂︵ Naturtypus der Lokalität
︶を知るこ
、族
、の
、性
、格
、はまさしくその民族が世界史に歩
とである︒民
774
義はまさに本質必然的である︒もちろんヘーゲルが上記
の 文 の す ぐ あ と で 言 っ た よ う に ︑﹁ 柔 ら か い イ オ ニ ア の
空はホメーロスの詩の優美さに多くを寄与したが︑しか
し そ れ の み で は ホ メ ー ロ ス を 産 み 出 す こ と は で き ぬ ︒﹂
しかし精神がこの芸術を産み出したときに︑この芸術に
あのような特殊な姿を与えたのは︑自然類型なのである︒
、然
、は
、人
、間
、の
、一
、
ヘーゲルもその点は明白に認めている︒自
、の
、自
、己
、解
、放
、の
、運
、動
、の
、最
、初
、の
、立
、脚
、点
、と
、し
、て
、︑
、そ
、の
、文
、化
、産
、
切
、の
、特
、殊
、性
、を
、規
、定
、す
、る
、︒自然があまりに優勢である時に
物
は︑かかる自然として己れを外化している精神をして︑
775
己れに還らしめないことさえもできるのである︒
︵
do., S.
︶
121.
、つ
、の
、自
、然
、類
、型
、を分
かかる見地からしてヘーゲルは︑三
い ︒︵ 二 ︶ の 平 野 に は 農 業 と 大 国 家 と が 発 達 し ︑ 文 化 の
て強い刺激を与えるが︑それ自身においては発展し得な
は遊牧の生活と族長政治とがあり︑時に文化世界に対し
海 と 直 接 に 関 係 す る 海 岸 の 国 土 ︒︵ 一 ︶ の 高 原 に お い て
河の貫流し潅漑する河谷の平野︒移り行きの国土︒
︵三 ︶
︵ 一 ︶ 広 い 草 原 や 平 地 を 持 っ た 水 の な い 高 原 ︒︵ 二 ︶ 大
けて︑それを世界史の考察において常に働かせている︒
776
中心地になる︒所有︑君主と奴僕の関係︑などが著しい︒
︵三︶の海岸国土は︑世界の連関を現わすようにできて
いる︒海ほどよく結びつけるものはない︒そこで商業が
発達する︒が︑また海は非規定的なもの︑非限局的なも
の︑無限なもの︑などの表象を与える︒そこでそれを己
れ の 内 に 感 ず る 人 々 は ︑ 限定 を 超 え て 外 へ 延 び 行 く 勇 気
を育て上げる︒征服欲冒険欲が湧き上がってくる︒とと
もに市民の自由 が自覚され るのである︒
歴 史 は ︵ 一 ︶ の 高 原 に お い て 始 ま り ︑︵ 二 ︶ の 平 野 に
お い て 普 遍 的 な る も の へ の 反 省 に 醒 め ︑︵ 三 ︶ の 海 岸 に
777
おいてこの反省を発展せしめる︒アジアには︵一︶の高
から始まって西に終わると言われている︒すなわち東洋
けたことになる︒だから世界史は太陽の運行と同じく東
見られるのであり︑西洋はただそれの発展をのみ引き受
の始まりや普遍者への反省の開始は︑東洋においてのみ
顕著な対立を有せざる︑両者の中間である︒そこで歴史
等は︵三︶であり︑中欧北欧は高原と河谷というごとき
然となったものが存する︒地中海のギリシア︑イタリア
の 海 岸 及 び ︵ 一 ︶︵ 二 ︶ の 融 合 し て 移 り 行 き の 温 和 な 自
原と︵二︶の平野とが結合して存し︑ヨーロッパには︵三︶
778
、人
、の
、人
、が 自 由 で あ る こ と を 知 る の み で あ る
ではただ一
、干
、の
、人
、々
、が自覚し︑
が︑ギリシア︑ローマの世界では若
、べ
、て
、の
、人
、が自由を自覚する︒
ゲルマンの世界に至ってす
これがヘーゲルの世界史の根本思想なのである︒
ヘーゲルの世界史が内容的に言ってもはや用うべから
ざるものであることは何人も異論のないところであろ
う ︒ 世 界歴 史 の 研 究 は 彼 の 没 後一 世 紀 の 間 に 迅 速な 発 達
を示 してい るからである︒特に東洋のことに開 しては彼
の時代の欧州人ははなはだしく無知であった︒それは何
よりもよく彼自身のシナやインドに関する記述を見れば
779
わかる︒だから上記のごとき世界歴史の見方は︑そのま
自 然類型の意 義をもさらに深く反省 しな くてはならなか
ねばならなかったであろうし︑またそこに取り出される
彼はこれらの文化の地理的根柢についてさらに深く考え
の 充 分 な 意 義 を 理 解 し 得 るよ う な 時 代 に あっ たな ら ば ︑
だし得るのである︒もし彼にしてシナ文化やインド文化
く て は な ら な か っ た と こ ろ に ︑ 我 々 は 充 分 の意 義 を 見 い
ら︑しかも欧州以外に眼を放ってその自然類型を考えな
史をあくまでも欧州文化の歴史と見る立場に立ちなが
まではもはや何の意味もない︒しかしながら彼が︑世界
780
っ た で あ ろ う ︒ 従 っ て 彼 の 揚 げ た 自 然類 型 を 比 較的 効 果
薄きものたらしめたのは︑世界史に対する彼の眼界の狭
小のゆえであって︑自然類型の意義が少ないからではな
い︒彼は理論的には地理的根柢の意義を強く把捉してい
たが︑しかしそれを現実によって充分に充実することが
できなかったのである︒我々はヘーゲルのごとく欧州人
を﹁選民﹂とする世界史を是認することができない︒欧
州人以外の諸国民を奴隷視するのはすべての人の自由の
実現ではない︒世界史は風土的に異なる諸国民にそれぞ
れその場所を与 え得なくてはな らない︒
781
四
ヘーゲル以後の風土学
ヘーゲル以後においてまず注目すべきはマルクスであ
って捨てられたものに属する︒ヘーゲルにおいて﹁精神﹂
精神哲学︑特にその一部分たる歴史哲学はマルクスによ
証法を︑ヘーゲルから得たのである︒だからヘーゲルの
み受けついだと言われている︒言い換えれば方法を︑弁
形式を全然捨て去って︑ただ論理学的合理的な形式をの
る︒マルクスはヘーゲルにおける形而上学的目的論的な
782
が占めていた位置は︑今や﹁物質的生産過程﹂あるいは
﹁社会的生活過程﹂というごとき経済過程によって占め
られる︒ヘーゲルにおいて精神の自己外化であった﹁自
然﹂は︑今や精神から切り離され︑自然科学的対象とし
ての自然に変容されてしまう︒にもかかわらず︑ヘーゲ
ルの弁証法がその形而上学的な性格のゆえに持っていた
魔力は決して捨てられてはいない︒ヘーゲルはそれを最
初歴史的現実の理法として見いだしたのであるが︑マル
クスの物質はまさにこの理法にもとづくところの物質な
のであって︑単なる自然科学的物質ではないのである︒
783
だ か ら そ れ は 精 神 か ら 切 り 離 さ れ な が ら し か も 精 神 が与
特定の自然基底の上に︑歴史的伝承︑言語︑性格の特徴︑
関する諸論文︵ Neue Rheinische Zeitung, 1848
︱ 49.
︶に
見られる︒彼は国民を定義して︑土地︑気候︑種族等の
このマルクスの風土に関する見解は︑彼の﹁国民﹂に
て用いているゆえんも容易に理解せられるであろう︒
がヘーゲルの﹁ブルジョア社会﹂の概念をそのまま取っ
ける自然﹂なのである︒この点に注目すれば︑マルクス
浪漫派の衣裳を自然科学の衣裳に脱ぎかえただけの﹁生
えたところの活力を保持している︒言い換えればそれは
784
などを同じくしつつ︑歴史的社会的発展過程によって生
、然
、基
、底
、
じた大衆的形成体であるとする︒ここに明白に自
、史
、的
、社
、会
、的
、発
、展
、との二つの契機を認め︑物質的生産
と歴
過程が人間と自然との共働として自然に規定せられるこ
と ︑ 従 っ て 生 産 の 仕 方 が 地 理 的 空 間 の 自 然 的 条 件に 依 存
することを承認している︒しかしながらこの自然は︑人
間存在から引き離された時には︑何ら歴史的発展に関与
することなきものである︒ただそれが労働力及び技術と
結合して経済過程の一要素となった時にのみ︑それは史
的 発 展 に 参 与 す る ︒ た と え ば 豊 沃 な 風 土 は そ の豊 か な 天
785
産物のゆえに貧痩な風土よりも多くの人口を養うであろ
のごとき風土的規定を脱して来た︒資本主義産業に至っ
しかしマルクスは考える︒生産の仕方の進歩は漸次右
る意味において物質的生産過程を規定するのである︒
一契機にほかならぬことは明らかであろう︒風土はかか
ここに自然基底と言われるものが︑人間の経済的存在の
時に初めてその特殊の影響を歴史に与える︒かく見れば
のである︒従って豊沃な風土は技術的能力と結びついた
のではなく︑人間が農業を発明習得した時にのみ起こる
う︒しかし農業への発展はこの自然の条件が引き起こす
786
てはどこでも同じ形態であって︑地方的限局はほとんど
なくなる︒そこで現代において重大なのは歴史的社会的
発展のみである︒この考えはしばしば無批判的に信奉せ
られているが︑しかし同じ機械を使っていればどこでも
産 業 は 同 じ で あ る と 考 え る の は ︑ 機 械 も手 工具 も同 様 に
道具であると考えるのと少しも変わりがない︒それは誤
謬 で あ る と は 言 え な い で あろ う が︑ し か しい さ さか も具
体的な事態を理解させない︒近代産業において︑紡績業
は何ゆえに特に英国において栄えたか︒紡績には一定の
湿度が必要であり︑そうしてそれがちょうど英国の風土
787
に お い て 見 い だ さ れ る か ら で あ る ︒ 日 本 が明治 以 後 あ ら
れもあるかも知れぬ︒しかし最も重大なのは社会の風土
気が英国のそれよりも烈しいということであろうか︒そ
業とはいかな る風土的相違を持つであろうか︒日本 の湿
らである︒しかしそれならば英国の紡績業と日本の紡績
に お け る 気 温 と 湿 気 と の 結 合 が 人 体 に 堪 え 難 い も のだ か
を有するインドにおいて旺盛な発達を見ないか︒インド
ったからである︒では何ゆえに綿の産地でありまた湿気
業のみが長足の進歩をしたか︒日本の湿度がよき条件だ
ゆ る 近 代 産 業 を 学 び 取 ろ う と し た 時︑ 何 ゆ え に 特 に 紡 績
788
的 特 性 と し て の 家 族 生 活 の 特 殊 形態 で あ る ︒ 日 本 の 紡 績
職 工 は 年 ご ろ の 娘 に よ っ て 形成 せ ら れ て い る ︒ そ れ は 家
庭から出て来て︑数年間働いて︑また家庭へ帰って行く︒
こ の 流れ を ち ょ っ と せ き 止 め さ え す れ ば ︑ 任意 に 何 パ ー
セントかの職工を減ずることができる︒またこの不断の
流動は︑賃金を高給にまで押し上げることがない︒これ
を英国の紡績職工に比すれば︑全然別物であることがわ
かるであろう︒後者は幾人もの家族を養う大の男が︑長
年の勤務によって熟練職工として高給を取っているので
ある︒それらは容易に解雇することのできない︑また能
789
率を高めることを欲しない︑強い力として経営者に対立
質的生産過程にのみ留まらないからである︒風土的規定
はそれに尽きない︒なぜなら風土的規定の働く場所は物
土的規定は決して弱まってはいないのである︒が︑問題
を数え上げることができる︒物質的生産過程における風
会の風土的な特殊形態がいかに特異な性格を作り出すか
我々はなお他のあらゆる近代産業の部門にわたって社
りがないなどと言えば︑それは大嘘になるであろう︒
のである︒かかる事態の下に紡績業は日本も英国も変わ
する︒しかもその能率は日本の小娘の半ばにも及ばない
790
は 人 間 存 在 の 構 造 に 属 す る が ゆ え に ま た 人間 存 在 の 全面
にわたって働いている︒それは階級の対立が激化したか
ら と い っ て 消滅 す る よ う な も の で は な い ︒ 日 本 が 地 理 的
に 特 殊 な 位 置 を 持 っ て い る と い う 単 純な 事 実 で さ え も ︑
対立せる両階級︵?︶に同一の烙印を押している︒ブル
ジョアがアメリカを鵜呑みにすると全然同様にプロレタ
リアはロシアを鵜呑みにする︒遠い離れたものを美化し
て見るという点において両者は共通であり︑その点にお
いてヨーロッパの諸国民の有せざる性格を共同的に持っ
ているのである︒同様に日本人の著しい敏感性︑テンポ
791
の 早 い 感 情 の 動 き ︑ 陰 気 さ を 印 象 す る 疲 労 性︑ な ど の 特
言っているからである︒同じ経済的境遇がプロレタリア
、
プロレタリアが政治的支配を獲得した後には︑己れを国
、的
、民
、階
、級
、に
、高
、め
、︑己れを国
、に
、構
、成
、し
、な
、く
、て
、は
、な
、ら
、ぬ
、と
民
存在の深い根を知っていたように見える︒なぜなら彼は︑
しかしマルクス自身は自然基底に規定せられた国民的
あろう︒
産過程にのみ着目する立場からは解くことができないで
って︑階級の別には関せない︒これらのことは物質的生
徴も︑季節の移り変わりの烈しい日本の風土の表現であ
792
からその国民的特性を洗い落としてしまったのであるな
ら︑右のごとき言葉は全然無意義である︒現在﹁国民﹂
と呼ばれているものはブルジョアの独占であってプロレ
タリアを参与させぬ︑ということと︑プロレタリア自身
にも国民的特性が存するということとは︑同視せられて
はならない︒マルクスはその戦術上の必要から前者を主
張しつつ︑内実は後者を承認していたのである︒だから
、民
、は
、
こそ︑プロレタリア全体が国民を構成したとき︑国
、に
、国
、民
、に
、な
、る
、︑などと説き得たのである︒しかし何ゆ
真
えにプロレタリアが国民を構成しなくてはならぬか︒彼
793
の答えは恐らく最初に掲げた国民の定義の外に出ないで
91, 2 Bde. ; Bd. I in 2. Aufl.
︶である︒その主要な著書は︑
Fr. Ratzel
︱
Anthropogeographie, 1821
88, 3 Bde. ; 2 Aufl. 1894, 2 Bde.
Politische Geographie, 1897, 2. Aufl. 1903.
1899.
︱
Völkerkunde, 1866
︵
大成して人文地理学を作り上げたと言われるラッツェル
マ ル ク ス に つ い で 注 目 す べ き は︑ ヘ ル デ ル の考 え 方 を
との二つの契機のほかにない︒
あろう︒すなわち︑答えは自然基底と社会的歴史的発展
794
Die Erde und das Leben, eine vergleichende Erdkunde,
︱ 2.
1901
などであるが︑これらを特徴づけているのは地理学を人
間生活に密接に結びつけるという努力である︒彼は国家
とその領土との間の関係を追求して︑この両者の関係が
本来認められていたものよりもはるかに深いことを見い
だした︒従って国家はその発展のあらゆる段階において
自 然有 機体 と 見 ら れ れ ば な ら ぬ ︒ も っ と も 単な る有 機体
としては不完全な状態に過ぎないのであって︑より高い
段階に至ればむしろすでに精神的人倫的なものに化して
795
いるのであるが︑しかし重大なことは国家がまず第一に
、土
、及
、び
、そ
、れ
、に
、属
、す
、る
、民
、衆
、の
、国
、家
、的
、組
、織
、であるという点
領
転変には着目するが︑その生の依存せる大地の転変を忘
まさに生の空間であることを明らかにする︒人々は生の
空間が単に一様の広がりというごときものではなくして
Lebensraum, 1901.)を取るべきであろう︒この書におい
て彼は生物学的なる﹁生﹂と地球空間との連関を論じ︑
られた土地の一片である︒﹂ (Politische Geographie, S. 4.)
こ の よ う な 考 え の 基 礎 理 論 と し て は ︑﹃ 生 の 空 間 ﹄ (Der
で あ る ︒﹁ 国 家 は 人類 の 一 片 で あ る と と も に ま た 組 織 せ
796
れている︒しかし地球の表面は絶えず変わっているので
ある︒たとえば気候帯︑陸と海などの情勢は常に変化す
る︒ところでこの変化は生と関係なき空間的変化という
ご と き も の で は な い ︒ そ れ は 生 の 根 柢︑ 生 の 条 件 の 変 化
である︒すなわち生の空間の変化である︒一様の広がり
、的
、性
、
としての空間には変わりはないとしても︑空間の内
、は著しく変わってくる︒その変化とともに新しい生の
質
、
形式 が生起 する︒かかる変化の内の最も重要な ものは陸
、水
、と
、の
、連
、関
、である︒すなわち湿潤︑乾燥等の転変であ
と
る︒湿潤から生が生じ︑乾燥は生を殺す︒しかも我々の
797
見 渡 し 得 る 時 間 の 範 囲 内 に おい て︑ 地 球 が 一 様 に 水 に 覆
空間征服である︒かくして生物はすべて空間と結合せら
母の占める近接空間を獲得する︒衣食住の活動はすべて
展して行く︒嬰児は乳を求めて母の方へ動く︑すなわち
それは空間征服である︒あらゆる生物の生はかくして発
らぬ︒さらに双葉は幾抱えもある大木に成長して行く︒
樫が双葉を出す︒それは空間的にひろがることにほかな
、間
、征
、服
、である︒
で﹁生﹂の特徴は運動であり︑運動は空
と水があり︑その連関が変わっているのである︒ところ
われていたなどと考え得る理由は一つもない︒いつも陸
798
れているが︑そのゆえにまた逆に空間が生に働きかける︒
生の空間は無数の特殊な︑大小の︑生の空間に分かたれ
ている︒そうしてそれに応じてそれぞれの生の形式が生
起 す る ︒ こ の よ う な ﹁ 生 の空 間 ﹂ を 考 え た とこ ろ に ラ ッ
ツェルの最も鋭い洞察が見られるであろう︒しかし上述
の概観によっても明らかなように︑彼の取り扱う﹁生﹂
はあくまでも生物学的な生であって︑主体的な生ではな
い ︒ ま た 地 理 学 者 た る 彼に 主 体 的 な 生 を 問 題 と せ よ と い
うのは無理でもあろう︒しかし彼が深い意義を認めてい
るヘルデルの要求には︑主体的な生への促迫が含まれて
799
いたのである︒そこでもし主体的な生の立場から﹁生の
である︒
(Rudolf Kjellén)
彼は﹃生の形式としての国家﹄ (Der Staat als Lebensform,
において︑ラッツェルの仕事を引きついでいる︒
1921.)
国家学者ルドルフ・チェルレン
ないであろうか︒そこで問題となるのはスウェーデンの
ではラッツェルのあとにこの入り口を通り抜けた人は
我々をこの本来の問題の入り口まで連れて行く︒
のはちょうどそれなのである︒ラッツェルの生の空間は
主体的な空間となるほかはないであろう︒我々の求める
空間﹂を問題とすればどうなるか︒それは生ける空間︑
800
、性
、的
、︑理性的なるも
彼によれば国家は個人と同じく﹁感
の﹂である︒単なる法の主体ではなくして︑生ける有機
体︑超個人的な生物である︒それを彼は﹁国土及び民族﹂
(Reich und Volk)として把捉する︒国土としての国家を
論ずるのが国土学
であり︑民族としての国
(Geopolitik)
家を論ずるのが民族国家学
である︒国土
(Ethnopolitik)
学は国家を地理的有機体として取り扱う︒国土は国家の
身体である︒従って国家には地理的な個性がある︒もち
ろ ん 国 家 が 逆 に 国土 に 影 響 す る こ と は あ る が ︑ し か し 国
土なき国家はあり得ない︒ちょうど個人において身体の
801
危 害 を 加 え る こ と は ︑ そ の 人 の 所有 物 を 害 う こ と で はな
に把捉すべき拍車を感ずるのである︒
我々は国家の人格に属する国土の主体性をさらに明らか
体と考えることがすでにそれを明示している︒ここでも
立場を離れてはいないのである︒国家を生物学的な有機
ごとく見えるであろう︒しかし彼は決してラッツェルの
のような考えは国土の主体性について一歩を進めている
、土
、は
、国
、家
、の
、人
、格
、に
、属
、す
、る
、︒こ
えることにほかならぬ︒国
に︑領土に危害を加えることは国家そのものに危害を加
くしてその人自身を︑その人格を︑害うことであるよう
802
の運動であった︒一九二八年﹃国土学
(Geopolitik)
しかしチェルレンが現実において拍車をかけたのは国
土学
雑誌﹄ (Zeitschrift für Geopolitik)が創設せられたときの
宣 言 は こ の 運 動 の 傾 向 を 明 ら か に 示 し て い る ︒﹁ 国 土 学
は政治的過程が大地に縛られていることの学である︒そ
れ は 地 理 学 の 広 汎 な 根 柢 ︑ 特 に 政 治 的 空 間 有 機体 と そ の
構 造 の 学 と し て の 政 治 的 地 理 学 の 根 柢に 立 脚 す る ︒ ⁝ ⁝
国土 学は 政治 的行動に武器 を与 え︑ 国家生活に おい て指
導者たろうとする︒従ってそれは実際政策を具体的に指
導し得る技術論になる︒⁝⁝国土学は国家の地理的良心
803
た ら ん と 欲 し ︑ ま た た ら ね ば な ら ぬ ︒﹂ こ れ に よ っ て も
家
Karl Haushofer, Erich Obst,
de la Blanche, Pinon, Brunhès, Vallaux.英 国 で は
などである︒
Mackinder, James Fairgrieve
歴史
Otto Maull, Richard Henning, Hermann Lautensach.
政治学者 Arhur Dix.
フランスでは Vidal
Walter Vogel.
は︑ドイツでは地理学者
国土学的な傾向を有する学者としてあげられているの
の風土学はそこから多くを期待することはできない ︒
明らかなように︑ Geopolitik
は国土学であるよりもむし
ろ﹁領土政策﹂︑ひいては殖民政策に近いのである︒我々
804
、土
、の
、心
、理
、学
、的
、研
、究
、としてヘルパッハの著
なお最後に風
をあげておくべきであろう︒
Willy Hellpach, Die Geographische Erscheinungen, Wetter
und Klima, Boden und Landschaft in ihren Einfluss auf das
Seelenleben. 1923.
この書は自然科学的心理学の立場から︑天候︑気候︑土
地︑景観というごとき﹁自然現象﹂の意義を明らかにし︑
それと心生活との因果関係を明らかにしようと試みたも
のである︒それはその立場の研究としては興味深いもの
であるが︑しかし立場そのものはこの論文の初頭にあげ
805
たヒッポクラテスと同様である︒それが具体的な風土現
の名 をあげたのは︑
的な傾向を有する学者の一人として Vidal de la Blache
に
Richard Henning, Geopolitik, 1928
げていたかを少しも知らなかった︒前文末尾に︑国土学
当時︑フランスの人文地理学がいかに躍進的な発展を遂
自分は地理学のことにはきわめて暗く︑前文を草した
︵昭和三年十一月︱四年一月 ︶
的な人間生活に対して持つ関係と等しい︒
象 に 対 し て 持 つ 関 係 は ︑ 一 般 に 自 然科 学 的 心 理 学 が 具 体
806
拠ったのである︒しかるにそれよりも六年前にすでにこ
のヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュの
Principe de
が出版されていた︒また同じ年に
Géographie Humaine
は Lucien Febvre
の La Terre et l'Évolution Humaine
も刊
行され︑ラッツェルの方法に対するきわめて鋭利な批判
とともに︑人文地理学の向かうべき正しい道が指示され
ていた︒もし当時自分がそれらの書に親しむことができ
た の で あ っ た ら ︑ 風 土 学 の 歴 史 的 考 察 は よ ほど 違 っ た も
その後これらの書は飯塚浩二氏の努力によって日本語
のになったろうと思われる︒
807
に移 され︑ 岩波文庫 として出版され た︒
プ ラ ー ジ ュ 著 飯 塚 浩 二訳 ﹃ 人文 地 理 学 原 理 ﹄上 下 二
巻︑昭和 十五年︒
フ ェ ー ブ ル 著 飯 塚 浩 二訳 ﹃ 大 地 と 人 類 の 進 化 ﹄ 上 下
二巻昭和十六・七年︒
の風土学のねらいは必ずしも人文地理学と同じではない
しかしこの書の第一章において述べているように︑自分
的考察は︑全く無くもがなの感に襲われるのであるが︑
まれたとなると︑自分の乏しい知識による風土学の歴史
の二書がそれである︒これらの書が広く日本において読
808
のであるから︑そのための暗中模索の記録として︑前文
は原形のままに保存することにした︒
なおこの書以後に到達した風土学的な考えについて
は︑近刊﹃倫理学﹄下巻を参照されたい︒そこではこの
︵昭和二十三年十二月︶
書の第一章に述べたプランを幾分体系的に展開してみた
のである︒
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