色彩イメージの変遷 - 水越康介 私的市場戦略研究室

色彩イメージの変遷
枚数:
指導教員名:
学修番号:
氏名:
22 枚
水越
康介
06159181
城
寛之
准教授
Ⅰ、研究目的
Ⅱ、中世ヨーロッパにおける色彩
ⅰ、紋章の色彩
ⅱ、高貴な金色
悪しき黄色
ⅲ、黒の流行
Ⅲ、固定化された色彩イメージ
ⅰ、変化する色彩イメージ
ⅱ、変化しない色彩イメージ
Ⅳ、現代社会における色彩
1
Ⅰ、研究目的と背景
人間は他のほとんどの動物と違い様々な色を見分けることができる動物であり、また私た
ちは普段の生活のなかで視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚などの五感を働かせて様々な情報を
得ている。とりわけ視覚が五感のなかで占める割合は約87%以上といわれ他の五感をつか
さどるどの器官のそれよりも圧倒的に多い 1。視覚は人間にとって周囲の環境を認識するた
めの重要な器官であり、色彩はその視覚に直接訴えかけてくる刺激であり、また色彩をみる
ことでヒトは様々な意味やイメージを感じ取ることができるという、ある種不思議な力が色
彩にはあるように感じる。マーケティングの分野においても販売促進活動や企業・人のイメ
ージ戦略、製品開発など様々なところで色彩が関わっている 2。このような色彩は、現代社
会との関わりだけではなく、過去にさかのぼり歴史的にも人間とどのように関わってきたの
かということを考える必要がある。それは人間が積み上げてきた長い歴史も色彩の文化の積
み重ねにより作り上げてきた面があるからである。
ここで考えるのは、個々の色彩にもたれているイメージというものは過去と現代において
変化しているのかということである。現代では色彩は日常生活の中にあふれ、さまざまな場
面で色とりどりの色彩にふれることができる。ファッションにおいてもそのときの自分の気
分で好きな色を選び、着ることができる。そのような中で、色彩イメージは個人の主観で感
じられそこに固定された色彩イメージというものはなく、流動的なもののように感じる。し
かし、過去においては、たとえば中世ヨーロッパのように権力者によって支配され、社会階
級が根強い、市民の個々の主観が尊重されないような時代において、そこには現代のような
流動的な色彩イメージではなく絶対的に固定された色彩イメージがあり、色彩が認識されて
きたのではないだろうか。そこで、色彩が様々な歴史のなかで人間社会にどのように関わり、
どのような意味をもち、そのようなイメージをもたれていたのか、また現代社会においては、
その色彩イメージがどう変化していったのかということを中世のヨーロッパを参考にして
考察していく。
Ⅱ、中世ヨーロッパにおける色彩
中世のヨーロッパでは、政治の領域で世俗の長として国王が頂点に立って統括・統治をし
ていたため、政治的統治は、貴族と民衆、主君と従者、支配者と被支配者といったような社
会的な階級対比構造があった 3。それは天国と地獄、神と悪魔、正義と邪悪といった対比構
造があるキリスト教の世界観にも当てはまる。宗教的・政治的支配者たちは、中世以来それ
ぞれのピラミッドシステムを構築し、権威を主張するため王冠、服装、勲章、アクセサリー
など様々な視覚的なシンボルを創り上げた。字を読むことができない人々が多かった時代に
は、このような視覚に直接働きかけるような外見的なシンボルがとても効果的であったため
である。このような宗教的・政治的なシンボルに、色彩はたいへん重要な役割を担っていた
2
4。それは上述のように視覚に働きかける要素として、色彩はうってつけのものであったか
らであろう。
ⅰ、紋章の色彩
中世ヨーロッパの騎士は、身につけている衣服に紋章をつけている。これは、戦いのなか
で防御用ヘルメットをかぶり視界が制限された状況のなかでも敵味方を識別するために考
案されたものである 5。そして、やがて紋章は戦場だけではなく王侯貴族の身分を示す視覚
的なシンボルとしても用いられるようになった。紋章が発達した背景には、中世における封
建社会の支配のシンボルとして必要であったということがあげられる。識字能力がない人々
が多くいる当時では、視覚に直接訴えかけることのできる媒体というものは効果のあるもの
であった。そして紋章は十三世紀ごろから、キリスト教、各種団体、共同体などのシンボル
としてヨーロッパ中に大きな広がりを見せ、近代初期にかけて一種の社会現象になった。
紋章に使用される色には前述のように敵味方を識別できるようにするために厳密な色彩
規定があり、金や銀などの金属色と赤、黄、緑、青、白などの原色から一色づつ使用されて
いた 6。また、アーミン、北リスの毛皮模様もこのような紋章の色に分類される。毛皮は高
価な貴重品であり、もともと王侯のみが盾に毛皮を貼り付けて使用していたので、紋章にも
これらの色が組み込まれていったのである。そのため毛皮模様の紋章は権威のシンボルでも
あった。
(浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
3
2005 年 p.58。)
中世における紋章に使用する原色の好みについては、中世後半から青が流行し始めた 7。
その背景にはブルボン王朝がユリ紋章に青を多用したことや、青が忠誠を示すシンボルであ
るため、封建時代から絶対主義時代にかけ好まれたことにある。またそのほかにも白色も好
まれた。貴族男性の騎士叙任の儀式には白い衣がつきものであり、騎士叙任式とは、さしず
め今日の成人式にあたる中世貴族社会の男子の慣習である 8。貴族の子弟の多くは十二歳く
らいで自分の家より身分の高い貴族の屋敷に預けられる。そして主人の身の回りの世話をし
ながら行儀作法を学び、あるいは馬や武具の管理を手伝い、そして武芸の訓練をつむ。彼ら
は十五歳から二十一歳くらいのあいだに騎士叙任式をむかえる。騎士は剣をもって馬に乗り、
キリスト教会と女性を守ために戦うことを本分とするため剣と、騎乗のための拍車や鎧兜な
どの武装一式を授与される。そして身を清める沐浴、騎士としての徳目を守る誓い、剣の峰
による首うち、あるいは前夜の教会での祈りなどの儀礼を通して、精神の高揚と倫理の教育
をはかることを式の重要な目的としている。入浴はどんな汚れも残すことなく騎士になるた
めの準備であり清らかな身体にかける白い下着は魂も肉体も純潔であるということをあら
わす。その上にまとわせる赤い衣や茶色の脚衣、白い帯と白い帽子は、それぞれ騎士として
の美徳と務めをあらわす。また白い帯はキリスト教の兵士として純潔の義務を忘れないため、
白い帽子は魂の清浄をあらわす。
このような騎士としての尊厳や騎士になったときの証をあらわす色であったため紋章の
色彩として好まれていたのも当然のように思える。
上述のような色彩の紋章は尊厳や権威、高貴なイメージを表す役割を果たしてきた一方で、
それとは対極的に、社会的な差別を示すために用いられた模様として「ミ・パルティ」と呼
ばれる縦に分割された縞模様の色彩があった。
ミ・パルティとは 半分に分けた という意味で左右色分けのデザインの総称(たとえば
縦縞模様)のことである。このミ・パルティは中世の騎士の従者、小姓、奉公人、カーニバ
ルの道化、放浪楽士などが着用することが多く、その由来に関して放浪楽士とのかかわりが
指摘されてきた。また娼婦のしるしとしてもミ・パルティは使用されてきた。それについて
は『色で読む中世ヨーロッパ』では
にぎわった市街や定期市のたつ地域で客を引く彼女たちに対して、十二世紀までは特別の
ことはなかったが、しかし十三世紀後半以降は彼女たちをユダヤ人と同様に穢れた存在とみ
なし、社会から排除しようとする傾向がつよくなったといわれる。十三世紀半ばのアヴィニ
ョンでは、ユダヤ人と娼婦は市場で食物に触れたら必ずそれを買わなければならない、とい
う条例があったという。娼婦に近寄らないためには、娼婦であることが人々にわからなけれ
ばならない。当初は被りものやベールの着用を禁止するといった程度のものであったものが、
やがてはっきりとしたしるしづけとなり、そのしるしに縞模様が選ばれることになったので
ある。
(徳井
淑子『色で読むヨーロッパ』
講談社
4
2006 年 p.149。)
と述べ、またパストゥローは、縞模様と紋章に関して、
縞模様を含む紋章の大半は、悪い紋章か否定的な紋章なのである。文学作品においては、
不忠の騎士、王位簒奪者、出生に問題のある人物(私生児、平民)や、残酷で無礼法かつ冒
瀆的な行動をする者すべてに、この種の紋章が賦与されている。図像のなかでは、こういっ
た想像上の縞(横帯、斜め分割、縦帯など)を持つ紋章は、一般的に異教徒の王、悪魔的存
在、悪徳の擬人化(特に不実、虚偽、狡猾)に与えられている。
(浜本隆志
伊藤誠宏
『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.61-62。)
と、関係を位置づけている。また縞模様はあらゆる図像のなかで視覚的に目立つことや、
これが「差異」や「逸脱」といったイメー
ジを表すのでネガティブなもののシンボルに
なっていると指摘をしている。
ミ・パルティは芸人や娼婦のほかにも子どもたちの間でも着られていた 9。こどもたちの
着ていたミ・パルティは芸人のように派手ではないが、とはいえ大人たちには決して見られ
ないようなミ・パルティを着ていた。そのような柄は十四世紀に特に流行したようで当時の
文書や図像にも確認できる。『色で読むヨーロッパ』では
たとえば、一三一六年に即位したフランス王フィリップ長身王の義理の弟にあたり、アル
トワとブルゴーニュを治めた女伯マオの長男ロべールは、即位の儀式にミ・パルティを着て
出席しており、しかも片側には縞の布を使っている。残念ながら模様の詳細はわからないが、
この頃一六歳と推定されるロべールには、ほかにも同種の服が随分と記録されている。たと
えば、青い布と黄色い布を合わせたミ・パルティで、青い布には赤い筋が入っているもの、
あるいは赤い布と桃色の布を合わせたミ・パルティで、赤い布には金蓋花色の二本の筋が入
っているものなどである。縞ではなく筋と記されているから、細い線条が入ったにすぎず、
芸人の派手でめだった縞柄とは趣が異なる。とはいえ、このようなデザインは大人の貴族に
は決して現れないのであるから、やはり芸人の服との類似を感じさせる。
(徳井淑子 『色で読むヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.158。)
と子どものミ・パルティに対して述べられている。ヨーロッパの歴史では、貴族階級だけ
ではなく商人の間でも、家庭奉公が教育の過程として長らくあった。このことを端的に示し
ているのがことばの使い方にあり、中世末期にフランス語の子ども enfant ということばは、
小間使いや召し使いと同義でつかわれていた。子どもの教育の中心に家庭奉公があり、子ど
も期とは従属・依存という観念と深く結びついていたため、子どもたちは奉公人と同じミ・
パルティを着させられ、また色と柄の類似性の大きさは、成人前の彼らを一人前とみない中
世の意識が作用している。子どもたちは理性を備えた人格の形成途上にある不完全な人間で
5
あり、「不完全な大人」としての子どもの性質に対してそのような意味で貶められた存在で
あったことをミ・パルティが語っている。
縞模様を着た処刑人
(浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 巻頭カラー。)
縞模様を着た笛吹き
(浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.62。)
ⅱ、高貴な金色、悪しき黄色
金色はヨーロッパの宗教的・政治的統治のシンボル的な存在であった 10。それは金色が
もっとも具体的に光というものをあらわす色彩であったからである。紋章官シシルはそれに
6
関して
色を表す主要な金属は金である。その性質において学者たちが述べるところによると、金は
もっとも高貴である。というのは、金はその性質上、あかるく輝き、徳に満ち、さらに医者
が瀕死の患者に最高の活力剤としてこれを投与することなどからもわかるとおり、ひとを力
づける作用をもつからである。加えてこれは至高の光源、すぐれた光である太陽をあらわす。
モーゼの律法には、光より美しいものはないとある。そして聖書の伝えるところによれば、
そのすばらしさのゆえに、正しく聖なるひとは、金と太陽に似ているという。また神の子は、
タボル山上にて使徒たちの目の前で御変容なさり、太陽のごとく金色に光り輝く姿をあらわ
された。
(徳井淑子 『色で読むヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.44-45。)
と述べている。
そして、それはキリスト教のキリストを祭る儀式に見て取れる。キリストを祭る儀式には
光をシンボル化したものによって行われてきた。協会ではアドヴェント(待降節とよばれる
キリストの降誕を待ち望む期間)にロウソクを灯し、視覚的に神の誕生日を迎える心の準備
をし、十二月二十五日の深夜にロウソクの灯った協会を一時真っ暗にすることでわかりやす
くシンボル化される。これは冬の復活祭の儀式でも同じような儀礼様式で行われる。また、
協会の東方のステンドグラスにはキリスト像が描かれ、このステンドグラスを通る太陽光線
が時間の変動とともに様々な色調をおりなし、これによって神秘的な神の世界を演出した。
宗教画においても描かれたキリストやマリア、聖人にイコンの光背や背景が金色に描かれて
いる。また、金色は高貴な神の色であるだけでなく、世俗の王の色を表すものとしても用い
られた。王侯貴族は支配の正統性を金色という色で示し(金の王冠など)、権威やその存在
感を誇示することができ、また、それは次代の後継者であるブルジョアにも受け継がれ、彼
らは護符としても用いられた金の指輪やネックレス、イヤリングなどを好んだ 11。
7
金色が多く使われているクラカウ聖母マリア教会とシャルトル大聖堂のステンドグラス
(浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年
巻頭カラー。)
このように金色は、神の色から王侯貴族、ブルジョアと受け継がれ、常に支配のイデオロギ
ーを示すものであった。金色に対する良いイメージは中世文学を代表する「トリスタン」物
語にもみられる。「トリスタン」物語は十二世紀末から十三世紀にかけて複数の作家により
語られ、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」にいたるまで歴史を生きてきた金髪の
イズーと騎士トリスタンの悲恋を語った物語である。トリスタンの永遠の恋人とされるイズ
ーが 金髪の と形容されるのは、彼女が絶世の美女であり、高貴な精神の持ち主であるこ
とを示すためである。『色で読む中世ヨーロッパ』にはその内容について
小鳥が運んできた一筋の金髪をみて、マルク王は、このような金髪の持ち主を妻にしたい
と思い、トリスタンは金髪のイズーを探しにいくことになった…。この物語には、このよう
な経緯があるけれども、そもそも宮廷文学に登場する高貴な女性は皆が金髪である。中世の
人々が金髪を好んだのは、これが北方のゲルマン民族の身体的特徴であり、ゆえに支配者階
級であることを示すと考えられたからである。支配者としての血統をあらわす金髪は、さら
に支配者としての精神の高貴さ、高邁さのシンボルでもある。イズーは金髪でなければなら
ないのである。
(徳井
淑子『色で読むヨーロッパ』
講談社
2006 年
p.52。)
と述べている。
さて、金色がこのような高貴な色として使用されてきた一方で、同系色である黄色は金色
のそれとは全く逆のイメージを持たれていた。それはヨーロッパでは黄色は一般的にネガテ
ィブな色というイメージを持たれ、差別を表す色とされてきたことである 12。そのひとつ
8
の要因として黄色は高彩度で非常に目立つ色であったことである。高彩度で目立つ色ならば
赤や青など他にもあるがなぜ黄色なのであろうか。それは、青は中世のキリスト教社会にお
いて聖母マリアと結びつく色であり、マリア信仰の伸張もあいまって上流階級の人たちに好
まれる色であった。また、赤はキリスト教ではキリストが十字架にはりつけられ打たれた釘
の間から流れた神聖な血を示すシンボル的な色であり、逆に囚人などをイメージさせるネガ
ティブな色という金色と黄色のように相反するイメージをもっている色であったのだが、黄
色の類似色として金色が高貴で神聖なイメージがあり、それと区別するための差別色として
使用されたのである。そしてもうひとつの要素として黄色は民間伝承において「黄色の爪の
斑点は死の前兆である」といったような不吉でネガティブな色としてのイメージがあったこ
とである 13。このような悪い意味ばかりがつきまとう黄色に関して『色彩の紋章』では
薄黄色は黄褐色と同じような状況で生じるが、ただし白にそれほど近くなく、むしろ黒に
傾いている。この色は恐怖や、過度の瞑想や労働などの何らかの災難によって生じる。この
色は、これを身につけている者を裏切り者にみせる。顔色がこのようなとき、良いしるしで
はないが、赤いときもまた病の最悪の状態を示す。薄黄色は自然の多くのものに見られるが、
人工的につくることはできず、そしてすでに述べた通り、この色は裏切り、抜け目なさ、心
変わりを意味し、人をメランコリック(憂鬱)にする。この色からいくつかの美しい色がつ
くられる。とはいえ以上のふたつはいかなる美徳にも、また美しい花にもあてはまることは
なく、何の価値もない野生の多くの花にあてはまるだけである。
(徳井
淑子『色で読むヨーロッパ』
講談社
2006 年
p.133。)
と書かれている。
また、王侯貴族が金色を独占し、その対極として社会の下位層であった人たちに黄色を使
用することで識別をしてきた中で中世以降のヨーロッパでは、特にユダヤ人差別として黄色
を用いた。キリスト教徒にとってユダヤ人は、キリストを死刑にした人間であり信仰上から
も、許すことのできない存在であると考えられてきたこともあった 14。定住地をもてず絶
えず移動することを余儀なくされたユダヤ人は、それを利用する形で早くから商業、貿易、
金融の領域で秀でていたが、そこでもキリスト教徒の抵抗にばかりあっていた。また彼らは、
過酷な労働や社会的にあまり好まれない職業にユダヤ人を就かせて自分たちの社会の中に
受け入れようとはしなかった。そしてユダヤ人と交わることを嫌ったキリスト教徒らは、肉
体的な外見では見分けがつきにくいユダヤ人を区別する方法を考え出したのである。はじめ
はキリスト教会の領域内にいるとき、ユダヤ人の男は先の曲がったとんがり帽子をかぶり髭
をはやし、女は修道尼の服を着る、といったようにキリスト教徒とはっきり区別ができる装
いをすることが義務付けられていたが、次第にそれが守られないようになった。するとキリ
スト教徒とユダヤ人の男女の間でお互いがユダヤ人かどうかがわからないといった問題が
起こってきた。教会では、この問題を解決するためにイギリスのユダヤ人はモーセの十戒を
9
記した黄色の布か上着を着用させられ、また中世ヨーロッパの神聖ローマ帝国では、強制的
に黄色の帽子をユダヤ人にかぶせることを法令で決めた 15。これは、着用する衣類の格好
で区別をつけるよりも視覚的にわかりやすい色彩を着用することを定めたほうが誰にとっ
てもわかりやすい判断材料であると考えられたためであろう。そしてこのユダヤ人差別の黄
色はナチス時代にピークを迎えることとなる。人種主義を標榜するナチスは、差別をするシ
ンボルをユダヤ人の歴史から見出した。ドイツのユダヤ人識別に関する警察命令には
1、六歳に達したユダヤ人は、ユダヤの星をつけることなく公的な場所に姿をあらわすこと
を禁ず
2、ユダヤの星は、黄色い生地製で黒字の「ユダヤ人」なる文字つきの、手のひら大の黒く
縁取りした六角星とする。これは良く見えるように衣服の左側の胸にしっかり縫い付けて着
用すべし。
(浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.36。)
という内容が述べられている。
これをつけたユダヤ人はのちに強制収容所へと送られた。このようにナチスにおいて色彩は、
人種差別のシンボルとして効果的に悪用されてきたのである。
ダビデの星をつけているユダヤ人
(浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.37。)
中世以降のヨーロッパでは上述のように、神聖なものと悪しきものとを、同系色の色彩や
対立する色彩を用いてあらわしてきた。ここにおいて色彩はその正邪を視覚的にあらわすた
めの役割を担い、また政治的な支配体制を保持するためのシステムにも組み込まれ、封建社
会の階級制度を固定化する機能を果たしてきた 16。そしてこの正邪の判断基準はその当時
の環境、主にキリスト教的倫理観に依存していた。黄色が中世ヨーロッパにおいてネガティ
ブな色をあらわす一方で、中国では中国の国土を象徴する、また階級の高さをあらわす高貴
10
な色と中世ヨーロッパと比べまったく逆のイメージをもたれている。それは陰陽五行思想と
呼ばれる思想が春秋戦国時代の中国の世界観となっていたためである 17。そこではまず、
万物は陰と陽の二極に分けられ、夜と昼、寒と暖、北と南、月と太陽というように二元論の
考え方をもっていた。そのなかで、五行は自然・社会を「木、火、土、金(鉱物・金属)、
水」の五つの要素によって解釈される。前漢時代では、さまざまなものがこの五行にあてら
れるほど全盛したといわれる。五行説にも陰と陽の関係があり、「木から火を生み、火から
土を生み、土から金を生み、金から水を生み、水から木を生む」という陽の関係と「木は土
に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つ」という陰の関係とが
あった。そのいずれも五行の循環により万物を説明するのである。そしてこの五行説を基本
として、色彩、方位、時季、あるいは人体の臓器、儒教の道徳などが、それぞれになぞられ
てきたのである 18。
(21 世紀研究会
『色彩の世界地図』
文藝春秋
2003 年 p.22。)
上の図のように、この五行の中で土は方位に入っておらず黄色をあらわす。そして東西南
北の中央に位置する、つまり世界の中心にある色であるとされたために、黄色は皇帝色とし
て高貴な色とされていたのである 19。色彩はその場における文化や時代などの環境の影響
を大きく受け、その色彩の持つ意味合いが変わってくるものなのである。
ⅲ、黒の流行
11
中世の黒は邪悪な色でもあった。たとえば黒いというフランス語の形容詞は文学作品の中
で「汚い」、
「醜い」、
「危ない」というようなことばと組み合わされ、またそれらを強調する
ように使われてきた。そのほかにも負の感情をあらわすときにおいて(たとえば嫉妬、絶望、
不安、悲嘆などである)比喩として使われることもすくなからずあった 20。また、西欧文
化における黒色のイメージや多様な機能と意味について『ヨーロッパの色彩』では
[1]死の色として
◎地獄、悪魔、暗闇。
◎服喪、葬儀
―――
喪服、黒布
◎不幸の色(「暗黒の日」などというように)。
[2]過ち、罪、不正直の色として
◎純潔と処女性の象徴である白の反対―――汚いもの、穢れたもの(垢、ほこり)の色
◎憎悪の色。黒旗。アナーキー。ニヒリズム。黒服(イタリアのフォシストの制服)。暴力、
ファシズム、全体主義。
◎処罰、刑務所、独房、物置部屋[フランス語で「黒い部屋」という]
[3]悲しみ、孤独、メランコリーの色として
◎暗澹たる思い、陰欝な考え、悲観。
◎黒の好きな若者たち
◎年寄り、老年、終わりの色(これに対し白ははじまりの色である)
。
◎恐怖の色。暗黒映画。暗黒小説。暗い雰囲気。
[4]厳格さ、現世の楽しみの放棄、宗教の色として
◎修道会聖職者と教区付き在俗聖職者の服。「カラス」
◎謙遜、控え目、節度の色。
◎プロテスタントの厳格。清教徒の厳格主義―――ヘンリー・フォードは黒い車しか売ろう
としなかった。
◎信仰、凝り固まった信心の色。
[5]エレガンスと現代性の色として
◎黒い衣服、黒ネクタイ、黒いドレス。
◎儀式用の盛装。ぜいたく品。奥行きの深さと富
◎黒(または黒と白)を好むアーティスト。デザイン、アヴァンギャルドなど。洗練された
贈り物用のパッケージ、包装。
(ミシェル・パストゥロー/著
パピルス
野崎三郎
石井直志/共訳『ヨーロッパの色彩』 東京:
1995 年 p.72-73。)
というように述べており、[1]∼[3]までのイメージとしてそのほとんどがあまり良い意味
でとらえられてるとは言い難い。
12
衣服の色として用いるならば、黒い羊毛の自然色が清貧、謙譲などの意味を持っていたた
め修道士の衣の色として使われる程度であった 21。しかし、このようにあまり好ましくな
いイメージを持たれていた黒は十四世紀末頃から変化を見せ始める。それは王侯貴族などの
権力をもっている人たちが黒い衣装を身にまとうようになり、黒は美しい流行色として認識
されるようになったことである。『色彩の紋章』では黒を基調とした男性の服装に関して
第一に男は、なにはともあれ白く美しい下着をきるべきである。白色が清潔で、そこに罪
の汚れがないように、ひとが貞潔、潔白で、清い心の持ち主であることを示すために、この
色でからだをすっかり被うのである。緑なし帽もしくは頭巾は赤いスカーレットでなければ
ならず、これは慎重さを意味する。というのも赤がこのうえもなく穏健な色であるように、
慎重は他のいかなる徳目にもまして人生を穏やかにし、かつ抑制する美徳であるから。帽子
は学識を示すベール(青色)でなければならないのは、天空は青色であり、その天空にある
神に学識が由来することを示すためである。かくして学識は慎重のそばにあるといえる。上
着は黒がよかろう。それは男の身体と心に囲われるべき高潔な心を意味する。脚衣は灰色が
よく、完璧の域に到達できる希望を意味する。紐も同じ色がよく、勤労を示す。というのも
幾ばくかの財を得たいのなら、まず勤労がどうしても必要だから。靴下留めは仕着せに従っ
て白か黒で、これは断固とした意志を意味し、希望を表す脚衣に取り付けられる。靴は通常
は黒で、飾らない態度を示す。
(徳井淑子 『色で読むヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.183。)
と述べている。下着は白、上着は黒、脚衣は灰色、靴下留めは白か黒、靴は黒で、無彩色
でまとめられている。引用にある紐とは脚衣を上着に結びつける紐のことである。紐の色は
脚衣に合わせて灰色が勧められモノクロでまとめられている。そしてこの後にカラフルな色
の装飾品に対して
手袋は黄色で、自由と快楽を示す。帯は菫色でなければならず、愛と礼節を意味し、ひと
の身体はこれで巻かなければならない。外套は、くすんだタンニン色がよかろう。それは、
われわれが常にまとっている苦しみと悲しみを意味している。長衣は、品行のよさをあらわ
す淡紅色がよい。最後に、財布は緑。というのも緑色が人の視線をひきつけるように、同じ
ように財布は多くの商売を助ける金貨や銀貨をひきつけるべきだから。
(徳井淑子 『色で読むヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.184。)
と言及している。ここで注目するのは黄色の手袋、タンニン色の外套、そして菫色の帯で
ある。黄色やタンニン色は黒と同じように忌み嫌われた色であるが、このように中世末期に
なると衣服の色として登場してくる 22。そしてこれらの色は黒や菫色と同様に悲しみをあ
らわす色でもあったという共通点がある。このような黒や黄褐色が流行したのは、色の持つ
13
意味が悪い意味から良い意味へと転換したというわけではなく、両者とも持っている悲しみ
の色というイメージが価値をもたれるようになったためである。言い換えれば悲しみの感情
に対する価値がマイナスからプラスに転じたということである。中世末期では人々は悲しみ
の色としての価値を発見し、またそのため黒という色が好まれるようになったのである。
十五世紀がこのようなメランコリックな心情に共感した時代であったことは涙文が流行
したことにもみてとれる。涙文とは、しずくの形をした模様で十三世紀のアーサー王物語を
起源にもつ 23。本来は物語の中の紋章であったが中世末期の貴族が文学の中のアーサー王
の騎士たちを自らの手本とし、「涙の泉の」と冠した武芸大会をブルゴーニュ公フィリップ
善良公が催したことによって涙文は多用されるようになり、衣服や宝飾品などさまざまなも
のに使われ、中世末期の人々の生活の場を彩るようになった。フィリップは、彼の肖像画の
なかで黒の衣装を着て描かれていることが多い。フィリップについては『色で読むヨーロッ
パ』に
フィリップが黒いビロードに涙模様をちりばめた、いかにも美しい装いをしたある日のこ
とが、ブルゴーニュ家の実績を記した年代記作家ジョルジュ・シャトランによって伝えられ
ている。彼は肖像画や写真挿絵のなかでいつも黒装束で描かれているように、黒の流行を牽
引したひととして知られている。シャトランによれば、彼が黒い服を着るようになったきっ
かけはやはり喪服であった。一四一九年、フランス王家との確執のなかで父公、ジャン無畏
公が暗殺されたとき、惨殺に衝撃を受けたフィリップは、その悲しみを一生忘れまいと以後
も黒い服を着続けたというのである。
(徳井淑子 『色で読むヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.192。)
と述べられている。涙模様はその後かなわぬ恋を嘆く「愛の悲しみ」をテーマとする抒情
詩の流行とともに、つらい恋心のシンボルとして流行を拡大していき、その後アーサー王物
語ばかりか抒情詩のジャンルにおいても文学的シンボルとして機能するようになった。この
ような悲観の気持ちが流行していき、メランコリックな心情は人々の中で美しい、価値のあ
るものへと変化を遂げていった。
そして黒の流行がこの後次第に広まっていったのはプロテスタントの禁欲的な思想に支
えられたためである 24。『色で読むヨーロッパ』によると
ルターやカルヴァンなど新教の活動家の思想において聖像破壊論は良く知られているが、
あまり知られていないものに色彩破壊論と呼ぶべき色彩倫理がある。明るい色や暖色系の色
を不道徳として避け、黒や灰色などの衣服の色として勧めるという色彩の倫理観である。明
るい色や暖色系の色を不道徳としてみなすのは彼らの判断であるが、これらの色を服装から
排除することには原罪に関する意識が根底にある。聖書によれば、人が服を着るようになっ
たのは、アダムとイヴが神の掟に背き、禁断の木の実を食べて自らが裸であることを知って
14
しまったときからである。つまり、衣服は原罪を思い起こさせるものであり、したがって派
手な色は控えるべし、というのがプロテスタントの教えである。
(徳井淑子 『色で読むヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.16。)
と書かれている。このようなプロテスタントの思想に支えられて黒い服というものが市民
社会の中に根付き、男性のスーツなどは黒や灰色などの暗い色調のものが主流になった。
黒衣をまとったフィリップ善良公
(徳井淑子 『色で読むヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.193。)
Ⅳ、固定化された色彩イメージ
これまで、中世ヨーロッパにおける人間の歴史においての色彩について見てきた。
中世人は、眼に見えるあらゆる事物にメッセージを読もうとし、色彩もその例外ではなか
った。連帯、従属や帰属、そして権威を示すためのしるしとして機能する一方で、ユダヤ人、
娼婦、芸人、楽士、道化などの人々を、コミュニティから分かつために彼らにしるしをつけ
る、つまり人を排斥する際のしるしとしても扱われていた。また、子どもたちに対しても、
理性を備えた人格の形成途上にある不完全な存在として、彼らと同じように黄色や緑をつか
ったミ・パルティを使い、排斥された人々の傍らにいた。このようなある種の人々を区別し、
排斥するための色の使い方をされたのは、中世社会が色彩をつかった表示に熱心であったか
15
らであり、騎士たちの自らのアイデンティティや、共同体の市民としてのアイデンティティ
も、すべて色彩に頼っていた社会なのである 25。物語文学にでてくる騎馬試合の場面にお
いて登場する匿名の騎士は、よろいの色によって赤い騎士、白い騎士、黒い騎士と呼ばれて
いるのも色が個人のアイデンティティになっていることの証ともいえる。ベネディクト修道
会士が黒僧、フランチェスコ会士が灰僧、シトー会士が白僧と呼ばれていたのも同じである
26。中世人にとって色にはすべて意味があり、そのような社会であったからこそ排斥の色が
有効なのであった。
これまで金色と黄色、紋章とミ・パルティなどについてみてきたが、それぞれに共通して
いること、それは、その意味合いは違えど、ある色彩に対して固定化されたイメージをそれ
ぞれに持っているということである。このような固定化された色彩イメージは、宗教、政治、
社会規範、心理的な背景などによって決定されている 27。王侯貴族や支配者、社会階層の
一部がその社会制度や文化と深く係わり合い、色彩を用いることで自分の権力や権威を主張
したり、身分や社会階層の識別を行うことである色彩に対して固定的なイメージを植えつけ
てきた。しかし、このような色彩に対する固定化されたイメージはいつでも同じではなく、
社会制度の変革や日常生活における価値観の変化、宗教的権威の衰退などの社会的・文化的
な変動により崩壊したり新たに創られたりする。現代社会においては、固定化された色彩イ
メージが崩れたものの他に、記号化され時代の変化に関わらず普遍的なものもある。
ⅰ、変化する色彩イメージ
上述のように社会的・文化的な色彩のイメージはそのときの時代環境の変化などで可変し
ていく。中世ヨーロッパの紋章の色彩において縞模様が従者や不忠の騎士など社会的な弱者
に使用されネガティブなイメージを持たれていたことは述べたが、現代では縞模様はそのよ
うな意味だけではなく、衣服などのファッションやサッカーのユニフォームなど差別的な意
味ではない目立つ色彩として様々なものに用いられている。このような、キリスト教の倫理
観に根ざした色彩イメージの変化は、ヨーロッパ近代初期においてもみられる 28。プロテ
スタントの倫理的教義に基づくルターは、ヨーロッパ近代初期においてカトリック批判を行
い、その一環としてモノトーンの白黒図版パンフレットを用いてローマ教皇を攻撃した 29。
そしてルターと同じくプロテスタントの倫理教義に基づくカルヴァンやツヴィングリがそ
れを徹底し、カトリックの多彩な色彩を批判した。ルターたちのこのような行動は、カトリ
ックの定式化した色彩の概念を揺れ動かした。また、十九世紀にニーチェが「神は死んだ」
と述べ、神の死をあらわす無神論を主張しキリスト教の価値観を崩壊させる衝撃を与え、こ
のことはキリスト教的な考えに基づく色彩イメージにも影響を及ぼした 30。宗教的色彩イ
メージは時代が移り変わっても本質的な中身はあまり変わることはないが、宗教が衰退する
と同時にその色彩イメージも衰退していくものなのである。
結婚、葬式などの儀礼、祭礼といった人々の人生における大きなイベントにおいて扱われ
16
る色彩、巫女さんや神官の装束や慶事における紅白などは、固定化された色彩イメージが現
代社会において崩壊しているなかで、慣習化され存続しているが、このような慣習化された
色彩イメージは、異文化とふれあうことや、社会階層意識の変化などによって部分的に変容
していったりもする。
現代の結婚式においてよくみられる花嫁の白いウェディングドレスとベールは花嫁の純
潔の象徴としての役割を担っている。これは現代でも同じである。しかし、イギリスのヴィ
クトリア朝時代初期、中期では、結婚に要する費用をすべて花嫁の父親が負担をしていたこ
とにより、父親の財力や社会的地位が結婚式や花嫁のウェディングドレスに象徴される時代
であった 31。ヴィクトリア朝初期、中期においてウェディングドレスとベールは、花嫁の
純潔をあらわすと同時にステイタスシンボルとしての意味があった。だが、ヴィクトリア朝
中期から後期になると、産業革命のあと、新たに発達を遂げた産業や商業によってミドルク
ラスの人々は裕福になり、それまでの質素な暮らしぶりから一転し、派手な生活様式が次第
に浸透していき、ヴィクトリア朝後期になると財力を蓄えたミドルクラスはより増加し、そ
して個人の社会的地位がその人の財力で測られるようになると、ウェディング選びにみられ
た花嫁の父親と夫の職業や財産の微妙なバランスは消えてしまった 32。それによってウェ
ディングドレスとベールにはステイタスシンボルとしての意味が薄らいでいき、花嫁の純潔
としての意味だけが残ったのである。このように慣習化された色彩イメージは継承される過
程で変容したりもする。
ⅱ、変化しない色彩イメージ
社会ルールや国際ルールとなっている色彩イメージは、時代や社会の変化、様々な人たち
の価値観の変化に関わらず普遍的なものである 33。たとえば赤、黄、青(緑)の交通信号
である。これらはそれぞれ赤が危険、警告、黄が注意、青(緑)が許可、指示といった意味
をもっている。青(緑)が許可の意味を象徴するようになった理由は『色彩の魔力』による
と
緑が許可の意味を象徴するにいたった経緯は、西欧世界で緑を赤の反対色として考えるよ
うになったことが起因している。危険、禁止色としての赤とその対立色としての緑、そこか
ら許可色としての緑の象徴が生じてきた十九世紀を通じて、緑は許可、通関免状、自由を象
徴する色となった。
(浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.227。)
とされている。またそのほかにも、人間として自然に長年囲まれたなかで生活してきたこ
とで培われてきた万人共通の認識として 安心 というイメージが緑色には含まれているよ
うな気がする。日本で緑色は、細かく分けていくと柳色、裏葉色、木賊色、蓬色、若竹色、
17
青竹色、萌黄色、若苗色…などなどこのほかにも実に様々な日本独特の色名を持つ緑色がた
くさんある 34。色名が多いということは、すなわち人々の暮らしに溶け込んで結びついて
いるということの証拠であり、緑色がいかに愛されてきていたということがわかる。また中
世ヨーロッパにおいても緑色に対するイメージは良いものばかりである。『色彩の紋章』で
は
緑色は、乾きと湿り気の中間にある物質にあって熱さによって生じる。しかし葉や果実や
木々からわかるようにこの色は乾きよりむしろ湿り気のほうに傾いている。そのために緑色
は黒っぽい。緑色はみていて楽しく、目に大きな歓びをもたらし、そして両眼に緑を眺める
ように促し、力をつけ、さらに眼が疲れたときは回復させてくれる。この色はいつも陽気で、
青春の色である。木々、野原、葉、そして果実をあらわす。石ではエメラルド、碧球、メデ
ィア石、緑石英にたとえられる。いずれも貴石である。この色は美、歓び、愛、快楽、永続
を意味する。
ひとの身につけられた緑は陽気と楽しみを意味する。旗や幟では戦闘からの開放と歓喜を
意味する。子どもでは若さ、女性では愛。絵画の技としては、他の色を引き立たせる。
(徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.101-102。)
と述べている。中性ヨーロッパにおいても緑は自然と結びつきがあり、それゆえ色彩イメ
ージが良いものばかりなのである。
また、交通信号の色は何色でも良いのではなく、CIE(国際証明委員会)といわれる組織
で規定されている。外国においては青(緑)信号は赤、黄、緑であるが、日本では色弱者に
配慮をして CIE の規定された範囲内で、できるかぎり青にみえるような緑色を採用してい
る 35。
このような国際的ルールをもっている色彩イメージは社会体制や時代が変化をしたとし
ても普遍的なイメージをもつ。なぜならばこのように固定化された色彩イメージを変えたと
したら、様々なところや場面で大きな混乱が生じるだろうし、そのようなリスクを冒してま
であえて変えようとする必要性はあまりないからである。
Ⅳ、現代社会における色彩
中世ヨーロッパのような封建的な社会制度やキリスト教の宗教的な強さが支配していた
時代では、社会階級の高い王侯貴族や聖職者が頂点に立ち、民衆に色彩の固定化されたイメ
ージを植えつけてきたことにより、民衆にとっては色彩に関して密接に関わりあうことがあ
まりなかった。しかし現代社会においては、過去のような色彩の固定化されたイメージは崩
壊し(それは社会制度や身分制度が変容していくなかで、そのシンボルであった色彩のイメ
18
ージも薄れていくことによる)、一般の人々が色彩に癒しを求めたり、自分の気分を身に着
けるものなどで色彩に反映させたりと、人々が色彩と様々な形で個人的に深く関わるように
なった。つまり、現代社会は一般の人たちの個々の色彩感覚が、固定化された色彩と深く関
わりあう時代になってきたのである。また、染色技術の発達などにより、それまで表現する
ことができなかった微妙なニュアンスの色彩なども表現できるようになり、色彩を自由に選
択する幅が広がってきたことも一般の人々色彩感覚が研ぎ澄まされ、関わってくるようにな
った要因なのであろう。そしてこのような染色技術の発達も色彩の固定化されたイメージを
崩壊に一役かっているように感じる。日本や中国の歴史にみられる紫色を例にとると、紫色
は当時紫草の根を色材として使い色をとっていた。そしてその紫草はあまり採取することが
できなく、当時としてはとても希少性のあるものであった。希少性のあるものは価値があり、
当然権力者の手に集まっていく。それは金やダイヤモンドにしてもしかりである。そんな希
少性があるため権力のある者に愛された紫色も、染色技術の発達により希少性がなくなって
いってしまった。大量に生産することができるようになった紫色は世間に出回り、権力者の
シンボルとしての意味合いが薄れていったのである。中世ヨーロッパにおいてもそれは同じ
で『色で読む中世ヨーロッパ』には
赤紫色を指す英語の「パープル」purple、緋色を指す「スカーレット」scarlet は、今日
では色名として使われているけれど、本来は織物の名称である。パープルは俗に貝紫と呼ば
れ、地中海でとれる一種の貝の分泌液で染めた毛織物、スカーレットはケルメス染料といっ
て、カシの木に寄生する虫から得られる染料で染めた毛織物、どちらも鮮やかさと堅牢度の
高さを誇った優れた染織品であった。染色の質を材料の質に頼らざるをえない時代であるか
ら、美しい色は限られ、ゆえにパープルの赤紫やスカーレットの緋色は高価で高貴な色とし
て権力者の色となった。
(徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.21。)
と、記載されている。
歴史において固定化された色彩イメージは崩れ、現代では個人の主観が尊重され、自分の
意向を色彩に反映させる時代になってきた。そして様々な人の価値観や感情が飛び交う中で、
類似・共感されるものが新たな色彩イメージの構築へつながっていく。デザイナーやカラー
プランナーが流行色を作り出す過程において、一般の人たちの色彩動向を無視することがで
きないように、今日においては、様々な人たちの様々な価値観や感情の中にある共感性が色
彩に反映されていく時代なのである。
19
1
下川美知瑠 『図解でわかるカラーマーケティング』 日本能率教会マネジメントセン
ター
2
2003 年
p.68。
下川美知瑠 『図解でわかるカラーマーケティング』 日本能率教会マネジメントセン
ター
2003 年 p.42。
3 浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.30。
4 浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.31。
5
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.57。
浜本隆志
6 垣田玲子 『一発合格!カラーコーディネーター2級
式会社ナツメ社
完全攻略テキスト&問題集』 株
2009 年 p.50。
7 浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.59。
8 浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.41-42。
9 徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
2006 年 p.161。
講談社
10
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.34。
11
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.34。
12
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.34。
13
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.34。
14
21 世紀研究会
『色彩の世界地図』
文藝春秋
2003 年 p.159。
15
21 世紀研究会
『色彩の世界地図』
文藝春秋
2003 年 p.159。
16
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
17
吉岡幸雄
『日本人の愛した色』
新潮選書
2008 年 p.58。
18
吉岡幸雄
『日本人の愛した色』
新潮選書
2008 年 p.59。
19
21 世紀研究会
20
徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.182。
21
徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
講談社
2006 年
22
徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.185。
23
徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.192。
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徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.16。
2005 年 p.64。
明石書店
『色彩の世界地図』
文藝春秋
20
2003 年 p.24。
p.182。
25
徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
講談社
2006 年 p.206。
26
徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
講談社
2006 年
27
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.216。
28
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.65。
29
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.65。
30
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.219。
31
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.223。
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浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.223-224。
33
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
明石書店
2005 年 p.225。
34
吉岡幸雄
『日本人の愛した色』
35
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
p.206。
2008 年 p.108。
新潮選書
2005 年
明石書店
p.229。
参考文献
浜本隆志
伊藤誠宏『色彩の魔力』
徳井淑子 『色で読む中世ヨーロッパ』
シシル〈Sicille〉/著
伊藤
2005 年。
明石書店
講談社
亜紀
2006 年。
徳井
淑子/訳『色彩の紋章』悠書館
2009
年。
ミシェル・パストゥロー/著
ピルス
野崎三郎
石井直志/共訳『ヨーロッパの色彩』 東京:パ
1995 年。
21 世紀研究会
吉岡幸雄
『色彩の世界地図』
『日本人の愛した色』
文藝春秋
新潮選書
2003 年。
2008 年。
下川美知瑠 『図解でわかるカラーマーケティング』 日本能率教会マネジメントセンター
2003 年。
梶田清美
『スピード合格!色彩検定3級』
高橋書店
垣田玲子 『一発合格!カラーコーディネーター2級
会社ナツメ社
2007 年。
完全攻略テキスト&問題集』 株式
2009 年。
評価
色彩やデザインは、マーケティングの範疇でもありますが研究が難しい領域でもあると思
います。多くの書籍は、事実の確認だけに留まっていて、so wthat?といいたくなります。
そうした中で、評価の変化に注目することは、色彩やデザインを研究の俎上に載せ、新しい
アイデアの源泉になると思います。色彩やデザインの評価の相対的性格を捉え、その意味を
問うていくことがこれからもできそうです。
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