第64号 - 女性の日記から学ぶ会

I
年部の努力に期待している。
で四、五年かかりそうだが、青
急がれる。まだ始まったばかり
役立てるノウハウを作ることが
内容を目録化し、匙珪云のために
まだ道半ばである。日記資料の
値が深まると確信するが、まだ
庶民の資料は︿忍婬ますます価
一杯である。
援のおかげだと、感謝の気持で
ていることは、含員の皆様の応
を続け、ある程度の成果を上げ
当て保存・活用するという活動
値が薄かった庶民の日記に光を
も二十周年を迎える。︿至李で価
今年拝辞唾の日記から学ぶ今喜
一一
日記の保管場航であるが、創
女性の日記から学ぶ会
代表島利栄子
大和田新田469.123
TEL・FAXO47-459-9464
圏
千葉県八千代市
〒276.0046
演出したいと考えている。ど
部は賑やかに楽しい出会いを
式を感じられるものに、第二
二十年の節目にふさわしい格
誌﹃二十年の歩み﹄を手に、
備している。第一部は記念
お出で頂きたいと一生懸命準
どい﹂は多くの会員の皆様に
六月十一日﹁二十周年のつ
たい。
を出し合って解決していき
ろ問題が出るだろうが、知恵
に宿蓼型ついたと安堵してい
るところである。未だいろい
くことになって、安全な保管
図書館収蔵庫内に預かって頂
資料一部を、八壬塵里挫中央
なか難しい状況の中、貴重な
しいと願い続けてきた。なか
立当時から﹁日記の館﹂がほ
第64号
すように。
うか多くの方にお会いできま
鯵
圃鯉篝砿窯﹂|日︵土曜日︶
の日記である。
葉を代表する企業人の昭和三十年以後
﹁日記を処分したいがどうするか﹂と
いう質問へのアドバイザーの一人に選
日︶に活動が紹介された。読者からの
ばれたのである。続いて重皐新聞千葉
★朝日新聞﹁ひととき﹂欄︵一月十九
た。引き続き、この展示は一月三十日
傍らに展示され、来場者の関心を集め
た。たくさんの反響を頂いた。
県版︵二月九日︶にも大きく紹介され
記、笠原徳日記︶を貸し出した。先の
’二月二十二日、八壬塑里延中央図書
研究への基となった日本兵士の日記の
館でも行われ、好評を博した。なお二
戦時下でキーンが見て感動、日本文学
太塁皐都日比谷図書文化館の﹁ドナル
ド・キーン展﹂金呈云の日記四冊︵西
喜氏︶の日記二百冊が寄贈された。千
★千葉市の永井廉氏から父上へ永井幸
あった。
個人の財産を社会の遺産に﹂の講演も
キーンと日記﹂と並んで、島﹁日記I
月十四日には中津義人氏﹁ドナルド・
高橋洋子・東京都/酒井忠弘・千葉市︵会員数二百三十人︶
高秀開・東京都/永井廉・浦安市/森山沽一・福岡市/
★新入会員︵順不同、敬称略︶
喜美子、目黒早苗、吉田堅ほかの皆様︵順不同、敬称略︶
関根栄、田中順子、とどろき自分史、中川宏美、西安代、二瓶幸子、松本
芳寛、折々の記、川名房子、高橋書店、笹野美枝、佐藤丈了、鈴木千代子、
★ご寄付に感謝します
秋本シゲ子、伊藤久惠、大橋愛子、長田松代、片桐順子、吉川勝子、鎌田
まで。所要時間約二時間半。
会場より八千代市立中央図書館へ。寄託中の日記を見学後、最寄りの駅
○オプション/八千代市立中央図書館見学。貸し切りバスで。
圖○薑/|万門︵記念誌﹃二十年の歩み﹄も含む︶
乾杯十二時半。食事。閉会十四時。
○佐倉市ウイシュトンホテル・ユーカリ︵京成ユーカリが
圓○次第/開場十時半。開会十一時。祝コンサ︲卜十二時十分.
二一廷gez∼≦今科ge∼−=igO/、_=、9.=9e=・・=Ige/ =一=、ge一・==NO
村榮雄日記平野仁蔵日記大島静日
;
平成28(2016)年3月23B
日記ろまん
(1)第64号
’
夕
、ジ
一
壷
一
一
一
﹁
女性の日記から学ぶ会﹂二十年の歩み一
、1lII8IIIII0j0Il0l0100l1l1IiIIll0I90001I0I0l10I9Il0・’011001I0lI006I0IIIl00l0900I010jJ
載4
一
一
一
一
一
大好評を博した。得子さんは時代を駆
けて故郷に錦を飾ったのである。
★青年部の活躍
毫圭紙が語る戦季ご出版を契機吟些恒
願ってきたので、﹁青年部﹂を立ち上げ、
吉田得子日記190711945﹄
でほしいと願っての試みだった。その
また、これまで島宅で保管していた
かることに不安を感じて、適切な保管
場所を探して来た。この度、一部を
日記だが、個人の家で大事な資料を預
平成二十五年八月十四、十五日、N
★ラジオ深夜便と新たな第一歩
HKラジオ深夜便﹁明日へのことば﹂
動は従来通りであるし、またこの図書
で保管して頂くことになった。会の活
定ファンの多い人気番組で、全国津々
館で研究成果を日記展など行うことで
公市垈里辿中央図書館に寄託という形
浦々七十人以上から感動の声が寄せら
二十年もの活動が評価されたことと
市民に提際顛来るのも有難い。これも
に島が出演。︿豆個動を声で伝えた。固
れた。多くは﹁共感した﹂というもの。
せていきたい。
なげるために会員一同さらに心を合わ
に二十年を振り返り、活動を未来につ
現在作成中の﹃二十年の歩み﹄を手
たい。
会員の皆さんと共に心から喜び合い
また日記や手紙の処分に困る高齢の方
が多いことも知った。ホームページは
一日百五十人が訪問。それが数日間続
いた。日記褒供者が五人。入会者が五
人・ラジオ深夜便の力に驚いた。
平成二士ハ年、青年部が当全町蔵の
日記目録の作成を始めた。数年はかか
東京都復興記念館で小薗崇明会員解説
一
連こぐ一
未来I続活動をめざLて
塵
い研究者のT公云が続いた。活動を若い
﹁聞かせてあなたの戦中戦後﹂プロ
層につなげたい、つなげねばならぬと
記を一冊に編集し世に出すのは楽な事
ジェクトを一任することにした。幸い
島利栄子
″JO800888009800880800090111l0180008800000000000901090888000109019008810090888
〃
戸
︽現在︵平成二十三年から二十八年︶︾
ではなかったが、西村榮雄班長の封鑿忌
★吉田得子日記出版
のて信州坂北での合宿も含め根気よ
る。戦争を知らない世代に﹁記録﹂と﹁記
当会には一代にわたって書かれた日
原一徳氏の撮影、編集技術のおかげも
く編集作業を続け、みずのわ出版・柳
あって、平成二十四年﹃時代を駆ける
として成長する姿と継続する偉大さを
目の当たりに学び感動を禁じ得ない。
会が発足して間もなく朝日新聞の紹介
塚本白星兵鈴木千代子さんに取材をか
『時代を駆ける吉田得
子日記1907-1945』
の活動の展開を確信するものである。
りそうであるが、今後の活動を未来に
つなげていくためにはどうしてもしな
平成27年11月11日研修会にて
だいたことである。出版記今堂云は加賀
そ堕侭得子の故郷・岡山県瀬戸内
_雪らβ三
市邑久町で﹁お里帰り日記展﹂を行い
の
一密鍛
一口・”
を出版
ければならない大仕事である。
後、青年部は西村榮雄、松本喜美子、
章
さね、日記塾、つどい等で学びの成果
四百六十二人もの方から協賛金をいた
一
を発表している。その首藝な姿に今後
が出来あがった。有難かったのは
雰雪==1
美辛子さんの講演で盛り上がった。
記事を読んだご子息・吉田堅氏から寄
憶﹂の両面から戦争の実態を深く学ん
その中の一つが吉田得子日記である。
記は十人分を超える。文字を通して人
「ラジオ深夜便」への反響
当会には日記も語り部も豊富に存在す
『吉田得子日記』出版記念会にて
贈を受け、研究班が発足。以来十数名
一
函
′’蒋留{
G
喫
が十三年以上も翻刻作業を続けてい
。。
一一
縁鼠'γ,f。1
ヂ
ヨ
リ ・鍼
た。﹃手紙が語る戦争﹄出版に気を良
一 一
加賀美幸子さんと島代表
くして出版を考えるようになった。
I︲■四一
P
愚謂I陣
明治・大正・昭和を生きた膨大な日
雪
第64号(2)
日記ろまん
平成28(2016)年3月23日
一せの愛.
した。私も電話で何度か話をさせて頂
年∼三十年代に病気の母親から来た書
し、成長に関わっていくことを知り、
ない私には、父親がこんなに娘を心配
蕾寶沁ておられたのでしよ−Z父を知ら
かったのよ・歴史なども全然わかりま
﹁勤労奉仕が続き、勉強どころではな
せつ子様は電話でこう話しました。
驚きと、羨ましさとが入り乱れました。
簡や、自分の日記なども送られてきま
きました。
と静岡県に隣接する山村です。せつ子
鍾愛ロである長野県根羽村は、愛知県
様が飯田高女に入られたのは、昭和
せんよ﹂と。
そして終戦。せつ子様の運命も大き
十八年四月。寄宿舎生活が始まると両
つ子様は母親の介護、就職をしなけれ
たのです。その後母も病気に倒れ、せ
く変わっていきました。父が病死され
い姿、校長先生は、皆を皇国婦人となっ
た。父︵久祐︶は岡崎中学を卒業後、
親からの書簡が届くようになりまし
大きな材木問屋を営み、達筆で細やか
てお願いいたします﹂
てもらいたいと云いましたから、心し
聞き、鈴木せつ子様念︽知県西尾市在
HKラジオ深浦祷陛で、島代表の話を
平成二十五年八月十四日、十五日﹁N
材木商を大きく営んでおりましたが、
校等を卒業されておられます。﹁父が
さん達もそれぞれ優秀な大学、専門学
をにじませてありました。四人のお兄
・明走り書きの様な文面に温かい愛情
活動をする一方、農業、家事に忙しい
つまらんことはありません、石にかじ
弄雪去校を出て無為の日を過ごす様な
︵昭和十八年四月︶
くれぐれもお願いいたしま︷&
国にお報い参らせる様、懸命の御努力、
となり、戦線の兵隊さんと同じよう皇
﹁諸先生の教えを守り立三挫竺睾国婦人
︵昭和十八年四月︶
と共に。二度と多くの人々が苦しむ戦
七十年たってしまったのかという思い
れませんでした。戦後七十年、もう
育てくれた母のことを偲ばずにはいら
父を思い、苦労して私達姉妹を大事に
のではないでしょうか。私も戦死した
ら、せつ子様は女医になっておられた
ばなりませんでした。戦争がなかった
れ、母︵志賀︶は婦人︿晉基寺で地域の
な愛情あふれる文面で励ましておら
住︶から戦中戦後、自分が女学生時代、
子供達それぞれが自分の好きな道で身
長田松代
寮生活をしていたとき両親からきた書
につけたことを生かしたいと学校へ行
の内こんな悲しいことは無いことを御
今日は私としてもお前としても一生
しい時、島嘩些云からお電話を頂き、胸
おりましたが、十九周年の警礪中に忙
時か、お逢いしたいですね﹂と話して
と、飾らない話ぶりに親しみを覚え﹁何
手硫鰐壁諏中、せつ子様のお元気な声
様の期待が大きかったことを感じまし
通知申さねばなりませんが之も戦争の
り甲しあげます
鈴木せつ子様のご冥福を心よりお祈
うして﹂⋮。無念でなりません。
葉が出ませんでした﹁どうして﹂﹁ど
れました﹂﹁え!﹂と云ったきり、言
三月二十一日、ご自宅で突然逝去さ
騒ぎがしました。﹁鈴木せつ子さん
た。その後戦争のため学校は工場と
様子が伝わります。せつ子様の将来を
娘に将来を託し、激励と厳しい叢の
私も泣きます﹂︵昭和二十年五月︶
涙のあるだけ泣いてやって下さい、
戦死。
公報元陸軍々医中尉管沼俊介
為め如何共致す事の出来んことです。
吾星暮鐘去校のマークをつけた勇まし
心と感動を与えられました。
驍と励まし、情のこもるお便りで、感
に父親からの手紙は、一通一通熱心な
達からの葉書も何通かありました。特
母からの封書十一通葉書十二通。兄
父から封書十九通、葉書三十八通・
なってしまいます。
︵昭和十九年一月︶
争があってはならない。この平和が何
二土ハ年三月の宇卿芸で私が資料をお
簡や、兄弟間の手紙などが送られてき、
I
での一人お嬢さん、成績も優秀、お父
時までも続くことを祈るばかりです。
せつ子さんと母(昭和27年)
りついても上級女子医学え入りたいも
ー
き商売の後を継がなかった﹂とせつ子
〃
預かりし読ませて頂くことになりまし
恥q
んです﹂
夕但
一
様が、話しておられました。そんな中
&
た。その後、二︲エハ年に入り昭和二十
隆尋"‐
ゴ
平成28(2016)年3月23日
日記ろまん
(3)第64号
一
島秀光
て居られるのに大びっくり﹂
﹁どうやら晴れたので引移りをはじめ
星土別二時半帰宅、父上すでに死相を
一方ならず﹄︵三月二十五日雨晴︶
ノ、みなノーホッとする。本人の喜び
﹁睦郎は一年の苦労なって合格、先づ
︵二月二十五日暗︶
りずし、カスター
くれぬ故、おいな
く。誰も頓着して
高く宣言してお
十二日晴風強︶
﹁誕生日と声を
角巾つり﹂︵四月
痛く帰って早速三
る。三軒まはりもちなので大混雑を
呈しておられる。午後四時”壬急に様
ドプリン、イチゴ
ひと言ふささやかなもの﹂
し、とにかく六畳に親子四人枕を並べ
子かはり父上遂に逝かれる。﹃帰って
︵一月十一日金︶
食料を確保すべく畑に野菜などを植
来たか﹄の一望戸をききたかったと心残
けり﹂︵一月三十日︶
えたり料理に精を出したりしてしのい
だ。他人からのもらい物や配給品にも
おごりのおせんべ
クリーム、睦郎の
◆昭和二十三年
い、当時としては
助けられた。
生活状態は少しずつ向上の兆しがみ
なり﹂︵五月十九日
最高のご馳走にて
りなり﹂傘︲二月十八日李企
﹁茄王田、トマトの苗を植えお芋の苗
もわけて頁ふ。田島さん小母さん見え、
卵などいただく﹂︵五月九日曇︶
やりくりをしている。
られるが裁縫、物々交換、内職などで
﹁好天気の満二十五年銀婚式と言ふ
﹁午後借りてきた
﹁お酒の配給ありて父さん大喜び﹂
全ハ月二十九日暗︶
所、世が世ならお芝居か支那料理の卓
徳川夢声のものを
松本喜美子
﹁トウモロコシのパン出来上がる。み
をかこんでと言か所、丁度頂きあわせ
よみ、何ともおか
木暗︶
昭和十五年から二十年までは既に当
なまずい。南瓜や馬鈴薯よりはよしと
満腹す﹂︵二月二十五日金雨止︶
さん、みな相当な出来にて一同大いに
一寸やすんでカステラ作り、おいなり
午前中烏の料理、落花生いり、午後
水晴︾
なり﹂︵八月三日
︵四月十八日月晴︶
﹁ブラウスを縫ひはじめるがミシン甘
たレンコン、数ノ子にておすしなり﹂
松本家にもやや落ち着きが見られ家
く行かずほとノー閉口する。それでも
◆昭和二十二年
言ふ﹂︵八月二十九日暗︶
含員の松本一量実子へ砺本幸の次男の聿毒
によれば太平洋戦争も勝利にわいたの
により読み解きが終わっている。それ
族の誕生日にはささやかな祝飯を作り
やっとこせとブラウスとスカートに曲
しく一人くすノー
の不足、政府や隣組による統制、そし
絆を大切にしている。また喜びと悲し
も半年で戦況は次第に不利になり物資
て空襲や疎開の実態と苦難の日々が日
みが重なった年でもあった。子供二人
﹁砂糖五百匁とお米二升生父換す﹂
︵五月二十七日木蒔喧
記から浮かび上がってくる。
﹁お父さんの誕生日、おさしみで御祝
の+全xロ格、父の死亡である。
りなりに出来上がる﹂
◆昭和二十一年
夫万作︵陸軍太佐︶が外地︵比島︶
◆昭和二十四年
とした日常生活の記述が多い。夫の出
戦後は戦中とは一変して家庭を中心
から帰還し、一家の新生活が始まる。
幸四エハ歳になり体の不調も出始め
郎十五歳であった。
幸四十二歳、長男睦郎十九歳、次男雍
地域江基云への参痂窒言の記述が見当たら
征中の様子や戦争に係わる感想、意見、
﹁父さんより電報あり、浦賀着のよし﹂
事を胸の内にぐっと納めてしまったの
︵一月十日木︶
﹁睦郎をお供に国立に抜糸して頂く、
てプライドがあり戦争に係わる諸々の
﹁八時出発の予定と聞き雍郎十一時頃
傷は順調のよしなれどホウタイをとっ
ないのは不思議である。軍人の妻とし
船橋駅まで迎ひに行き中ノー父さん帰
ではないだろうか。
宅なく、三時壇帰宅、髪を長くして太っ
たあとのはれたお乳のブラノーは少々
も見つけ出してきている。
てきた。料理の腕も大分上がって来た
︵五月四日火︶
・米(10)・芋(11) ・芋(9)・サンマ(10) ・芋(10)・ソバ(11)
・煙草(11)
様子も見える。自分自身の楽し曇聖室
若い頃の松本万作・幸夫妻
昭和二十三年 | 昭和二十四年
・酒(5)
・煙草(2)・薪(3) ・布(4)・砂糖(5) ・パン(1)・粉(2)
・煙草、酒(6)
・メリコン、酒(7) ・もち米(6)
・芋(3)・酒(6)
・イワシ(9)・芋(10) ・酒(8).魚(9) ・パン、衣料(8) ・綿布(7)・芋(9)
’
昭和二十二年
昭和二十年
|
)内数字は月
(
日記に見る配給品
第64号(4)
日記ろまん
平成28(2016)年3月23B
平成28(2016)年3月23日
一九五三年に結婚された。戦中戦後を
話交換手を経て、一八歳で役場勤務、
引用冒頭に記された三つの日付は、
ついて率直に綴られるのも睡喋深い。
空腹の辛さ、頂きものの有り難さ。そ
月二六日︶
夜はライスカレーⅡ”︵一九四五年七
のような中、どうしても苦手な食材に
いものは日記帳だった。少女にとって
の上なし。夜は雑炊に鮒の煮付!
お八つがなかったもんだから空腹こ
いずれも目黒に大々的な空襲が起こっ
いかに日記帳が、そしてそこに綴った
た日を指す。奉誕により少女は多くの
一九四五年七月から八九年までの日
自分自身の足跡の蓄積が大切なもので
ものを失ったが、その中でも一番惜し
記帳、司証ハ三冊が、二○一二年に会に
あったかが、ひしひしと伝わってくる。
元気で和敬つくりを楽しまれている。
寄贈された。一九五一年までは市販
焼かれた口惜しさから再び書き始め
通じて日記を欠かさず綴り、現在もお
ノートに日記が綴られる。続く五年間
られた敗戦前後の日記には、思春期の
惜しさ、しかし尽きせぬ文学への憧慢、
読み解きの班が担当した一九四七年
年八月三日︶
父が沼をかいぼりしてなまずをうん
二九旦
臭くてきらひⅡ”︵’九四五年七月
は唇時文館日記﹄を、一九七二年から
分の日記帳を欠くが、一九五六年から
作家として身を立てることを夢見なが
だはっきりとは現れなかった。
までの記録では、食糧事情の好転はま
居たけど、私は生臭くてⅡ︵一九四五
日記を読み解く班は二○一四年に結
ら、函辱奉に就く輻蜑琴的な将来の可能性
と捕まえて塩焼きにして皆で食べて
成され、敗戦前の日常を綴った第一冊
を見据えた心の揺れが、畑仕事の記録
る。実家を焼かれて学業を断念した口
二○一五年三月十一日、第七八回わ
目から、敗戦直後の一九四七年までの
少女の生活と心情が紙面一杯に綴られ
いわい日記塾にて、飯塚︵旧姓高梨︶
日記を各自が読み解いた。今回の﹁わ
に至る。
とみさんの日記について発表した。担
とともに刻まれる。
は同社の三年連用日記を愛用して平成
当したのは、読み解き班のメンバーで
いわい日記塾﹂が初めての成果報告で
はローマ字でこう記されている。
文章は極めて印象的であった。そこに
第一冊目の日記帳の冒頭に記された
も詩歌集でも良いから読んでみた
つく人∼古典菫墨租が欲しい。随筆で
いやす一つのなぐさめである。︵略︶
書いてゐるが、たまらない寂しさを
今五人の少女の生活を描いた小説を
民の苦難困窮のいばらの八年間も水
あ弊特攻の若桜の死もむだ、我々国
聖戦もへったくれもあるもんか。
から一例を挙げよう。
への不信は随所に綴られる。敗戦の日
六四い耳のい−コ一四奇弄四・く三四言四六匡m一コ己○
庁q六く○一三四写O︽○コQ○く四六の.○コ四﹃四詩○
る者に学間なんざいるものか。女は
古典が読みたい。叔母は﹁百姓にな
い。︵一九四五年七月四日︶
った血潮のぬけて行くのが感ぜられ
泡にきしてしまった。体中のはり切
や血賦、、血隠、、血囲、
かれ、親類を頼って千葉県の東金町
に疎開する。畑仕事を手伝うかたわ
いくら学問があったって家庭に入れ
少女にとって敗戦を招いた軍部と指
る。︵一九四五年八月一五且
敗戦直後の日記には、慣れない電話
m○斤○コ○一ゴ○コ○○尺里︵の吻一﹃づ画茸四
化粧品も何もいらない。た堂書籍さ
る。文学少女が職をもち、どのような
交換手の仕事の苦労もしばしば記され
本人でもあった。
へあれば此れに勝る喜びはない。本へ
心持ちで日々を過ごし、人間関係を構
導者は、将来の文学の夢を破壊した張
本へ焼いてしまった沢山の本が今更
築し、将来を夢見たか。今後の読み解
ふ。︵略︶私は美い着物も髪飾りも
︵三回に亘って家を焼かれ、東京
惜しまれてならない。︵一九四五年
きにより二歩一歩、学んでゆきたい。
ば駄目だ﹂と云ふ。私は反対だと思
はほとんど焼け野原と化してしまっ
十一月八日︶
コ四六四Qの﹃。○一コ口四コ○里言。○コ○一三四
た。私も相当のものを焼いてしまっ
戦中戦後、苦し墜墨響震幅も窺える。
コ二︿表壽一と○.
だ。ああ惜しいかな、日記帳︶
た。なかでも一番惜しいのは日記帳
コ一六六一三旦○筐ユユ四・四四○い二六四コ四
の四コ六四一コ一一之四︹画︽誌の一の○と四六四﹁の
ら、文学での立身を薯見る。戦後は電
月から五月にかけての空襲で自宅を焼
悪化する戦況の心細さと戦後の国家
ある大木めぐみ、荻原利花、柳井三津
あった。
飯塚とみさんは、一九三三年一月七
︵各敬称略︶、田中の計四名である。
田中祐介
一九四五年∼四七年
﹁飯塚とみ日記﹂を読む
’
日、目黒に生まれた。目黒女子商業
学校に在籍していた一九四五年、四
撫
日記ろまん
(5)第64号
第64号(6)
日記ろまん
平成28(2016)年3月23日
一
卿
縦’
毎日出勤も怠りなく出来る。最后の
と海上に行き交ふ舟とを眺めつ夢長
4月最上甲板の機銃座に横、青空
支綱切断されて、石川島吹奏楽団の
渡り、曇盾は社長の振る斧の一撃に
︵ママ︶
勝利者は健康体の所有者にある事を
炎熱のさ中、よく勤めたものだと吾
間と言ふ石川島入社以来の最高・・・
8月今月の簔倒時間は二百二十四時
りして現場に戻った
午后は甲板上の作業をホンの申訳許
に動く船上に涼風を浴び乍ら休憩。
6月海上、波平かなる面をゆるやか
るを得ない
の低さに菱憎念霜心か︶をつかさざ
つら自国の貧弱さ、自国民のレベル
して余りにも懸隔甚だしきに、つら
川島工場と思ひ比べ、日本船と比較
に船台上から、返り出した
5月過日琴婆寺が造船所で竣工した魚
ひ度い位な設備と製作とを、此の石
8月米船に入りて、其華麗とまで云
吹奏曲と共に一万噸の巨体は滑らか
8月朝食はすゐとん。弁当はパン。
船がかくも速やかに海の幸を我等に
閑に過す
夕食は又すゐとん。・・・却って、
が配られる︶
濁すとは︵註叩船主から作業員に鰹
よく銘記すべし
我々一人暮しの者には便利だ
米の炊事よりも万事手取り早くて
乍ら、感梢深し
終さねば、自分としては気が済まぬ
気で休む。・・・兎に角やる丈やり
なり、恰も煙窒掃除に油を塗りまく
むとか云ふので、その間は今日の代
8月H氏︵棒心︶明日から日曜迄休
8月責任ある者が何の遠慮もなく平
やうな恰好で八時間を働き・・・午
取組んで汗になり、油になり、煤に
附月五時十五分起床。配給米の雑炊
休みに幾年振りかで海の泳ぎを試み
6月蒸し暑い一日中を船室の機械と
と甘藷とを朝食として填爽?と出勤
今日丈は出勤も作業も苦にならぬ
﹁日記ろまん第六十号﹂に昭和
側月未だ薄明、暖かき床を抜けて活
8月今日は楽しい給料日である:・
ニナ年の敗戦の日から再就職までの平
りに自分が主となって、一番骨を折
野仁蔵日記をスケッチした。今回は翌
り、且つ責任を持たなければならな
7月朝の中に揚錨機組立を終り午后
くなる
動のスタートを切る。人生とはこれ
からは焼く様な暑さ。取付穴を依頼
二十一年の日記から見える氏の﹁働く
した瓦駈屋の手伝に引廻はされ、二
この事の反覆であるのだ
時頃の炎熱下滝の汗を流して右往左
①通勤時も、②仕事中も、よく言わ
,▲マリ60Ⅱ0U6000日マリ00■0■凸U0.■IⅡOf0FII■9■▼011■●。■■■・8■■・■ⅡⅡⅡⅡ0.日Ⅱ
それ丈興味あり、得る所も大
n月組立は面倒で厄介な仕事だが亦
行ったものシ、終日火あたり
側月南洋丸と云ふ署い名前の船に
ゐたが、気分が何とも晴れぬ故休む
Ⅲ月出勤か、休みかと頻りに迷って
ぐに亦流れ出す汗の始末に窮したも
幾回か水道の水を馬の様に呑み、直
往
みが味ひ得る快感
のだ
節丸甲板を往復する事六回。長い梯
れる日本人の勤勉・忍従・責任感など
7月午前中、現場、作業場の第一大
子を上下する、其回数を一直線に延
かでも、健在である事を確認出来よう。
が、氏にあっては、戦後の混乱期のな
﹁反溌﹂や﹁拒絶﹂よりも、勤労の喜び、
長したならば、相当な山登り位の距
7月大型船の進水と云ふので工場全
ようだ。このことについては、別の機
など﹁健全な潜濤醤の方が勝っている
離にも
一日作業しへトヘトに疲る︵註轆江
員何れも緊張と喜びとの色に滿ち滿
考えてみたい。
会に、③仕事を終って、として取上げ、
ちて居るやうに思はる
令一尺准弄雀備のベルが幾回か響き
7月全弧灯翌日︶丁度四時、社長の命
夏嚥代の工事蒻鶉砺者・里鐡の鍬は一
金豐琴来りて本変不機嫌の様子
4月掻関の自云口悪しき所ありてM氏
貫三百句e
3月争袈認詣修理。二貫目ハンマーで
②仕事中
福な事は此の世にあり得ない
地で出勤屋涯康で働らく﹂是ほど幸
旭月三四日休んだだけだが久しい心
を緊張させて出勤するのは勤め人の
例月一夜の休息で活力を恢復し精神
の記述から見てみよ︸兎この年は停年
7月欠勤者も相当多い。幸ひ自分は、
いそと済して出勤
しく働けるぞと、朝食の支度もいそ
5月グッスリと睡れ.:今日は楽
て
に疲れる。午迄の時間が馬鹿に長く
5月朝飯が少ないせいか出勤後直ぐ
かき気分不燃品強いて出勤す
4月風邪にて鼻汁出で、昨晩は汗を
①出勤時
0▲■▲▼60▲■000今■0■﹄日■bりり6匹■0■PG■■■リリ▲U060●り■9Ⅱ。■0■10・qq0●■0.0■■・日■・■■
︵日記は原文のまま︶
工娼勿の初年度である。
までの長い勤め︵石川島造船所・造機
事﹂についての振舞いと所感を、数日
村松洋一
昭和二十一年︵こ
平野仁蔵日記
「
平成28(2016)年3月23日
日記ろまん
(7)第64号
﹁坂本栄子日記﹂
今●■●仏吾・●■■■■■■●■●凸■・・・谷・巳●白合●町・・・■■●・●■●■吾■■各各●■・・■●
を読む
中野祐子
。◆■申、凸●申◆ひ●●。●巳G■■■■守り叩の由●■由由■■申申甲申■■申自。●申ひ骨◆早巳e■■■
二十日に結婚式を挙げる。彼女の仕事
やっと夫が職場へ再勤する。その後
天国が表座と栄子さんが語っている。
あり、同じ頁には彼への返信の下圭冒き
何度も繰り返し、翌二十三年四月午込
意。毒凌手付、解約を壼睾情により
最後に終わる。この頃住宅建築を決
政より星エナキ﹂の手紙が第五信を
思息崎自分の至らなさがひしひしと
た二人の気持ちを振り返り彼の努力を
残っている。﹁去年の今頃苦難と戦っ
最後に栄子さんの次の壹栞が印象に
現代人形美術展﹂で朝日新聞社賞を受
の。継続は力なり、四士年﹁第十八回
型を移し、布で貼るという本格的なも
ゑ油土で人形の型を作り、木にその
すっかり魅了され、人形作りをはじめ
そんな時デパートで人形展を見て
た家の建て替えが出来る。
る。生活も安定した三十四年念願だっ
は銀座﹁山葉グリル﹂別室へ勤め始め
た三十年、更に家を改築するため彼女
二十七年には長女も生まれ一休みし
も夫婦で次々と増築を重ねていく。
のことは毎日書かれているが、夫の仕
事や就職の話は書かれていない。
弓坂本政明﹄素晴らしき理想の夫、
◆二十一年一月一日
良いパートナァを得られたと思ふ。彼
◆二十二年二月三日
﹁バンド辞メル﹂
◆五月三十一日
彼女は変わらずメイドを続ける。
リン買う﹂
﹁コノ頃政明楽団二入ル。ヴァイオ
と接するとき常に自分の知識のまずし
さを痛感し、一生懸命、それに近ずか
うとするはげみを受ける。常に知識を
の彼に追いすがらうとする努力こよな
求め、真実をさぐる生活。常に数歩先
い事と思ふ。︵略︶﹂
奏旅行に行くようになる。
政明はマスターとあちこち地方へ演
レ・ジード、ツルゲーネフ、トルスト
◆七月二十日
記述通り、モーパッサン、アンド
イ、夏目漱石、谷崎潤一郎ほか多数の
﹁政明より第三速達着ス。金ナキ政
︲エハ歳の昭和十八年五月から二十四年
かる。
があるため、その前後の事情がよく分
若松町に貸地五十坪︵坪三百円︶を契
コヨ川ソ﹂
十月までの六冊。二冊半は多感な女学
◆二十一年四月七日坂本より来信
約。同時に東星摘院で四月八日男児を
痛感される。日記は良きものである﹂。
て彼からの手紙はノートに縫い付けて
本を読み、感想文を書いている。そし
生時代、友との旅行記や短歌などが、
﹁二月十四日付並び、三月八日付お
出産。離職。
栄子は昭和二年八月生まれ、日記は
の三冊半は、ほぼ毎日書き込まれてい
た為と思います。︵略︶・経済封鎖や何
手紙本日落手。全部検閲のかかって居
◆二十三年四月十九日
彼は牛全でており、なかなか結婚が
間に夫の両親と親子三人へ気兼ねない
配給の砂糖を即日転売し八百円、両
て漸く一緒に暮らせるようになり九月
される。
坂本栄子さん、平成二十二年ご逝去
生きた姿に多くのことを学んだ。
夢の実現に、愛を貫き、精いっぱい
蓉舅四十七年に坂本栄子人形塾淳開く。
る。日記帳の形態はノートを二段に区
やかやと思はしくない問題ばかり重な
思いつくままに書かれているが、後半
切り、上段枠は日付順に出来ごと、仕
り店の方も輸送の関係とかでまだ出来
出来ない。その上、疎開者は衷皐へ戻っ
と、売れるものは全て転売し借金の返
親を引き取った時は布団を千円で売り
邊さんより土地の金をすっかり済ませ
いた﹁ラグーザお玉﹂の似顔絵が挟ん
記帳に縫い付けてあったり、彼女が描
てはいけないという決まりがあり、八
済や建築費に当てる。大事な高級懐中
ず、ずつつと困難と憂うつの連続です。
であったりと情報いっぱいの資料だ。
そんな中、ロシア大使館に勤める彼の
方ふさがりの悩みが延々と綴られる。
時計は、お金が出来たら買戻しをする。
てから家を建ててくれと、金策をしな
二十年五月の空襲で焼け出され群馬
又建築資材入手など度々の困難を乗り
舷皆
﹁昨日建副筵終わったと。しかし田
溢れる素直な気持ちを書いている。
事、その日の行動を。下段枠は心から
他に新聞記事の切り抜きを貼り付け
に疎開するが、十二月三十一日、遊び
知人から話があり、とんとん拍子に話
越えて﹁五月七日、四坪のバラック一
たり、便菱三枚から四枚位の手紙を日
に行っていた宝黒の伯母の家で山忠言
アマサン︵メイド︶に行けることになっ
が進み彼女は八月三日、中将の家へ、
ければならない事、父に相談する﹂
という衝撃の翌日から彼女の揺れ動く
た坂本氏とその日に結婚の約束をする
心と感情が日々綴られていく。
る目を養恥以上の原則を心に刻み、
点を大事にする④日記の虚実を見分け
感謝する②個人の財産を社会の文化遺
産にする③研究者ではなく生活者の視
四原則というのがある。①日記筆者に
下で書かれた十一人の手紙をまとめて、
にまとめ上げた。日記だけでなく戦時
日記190711945﹂として一冊
成一エエハ年﹃時代を駆ける吉田得子
と書いた吉田得子日記は多くの会員が
三日坊主を自認する人には以下の提
ことは健康によいようである。
言をしたい。
箇条書きでまとめる。
①﹁箇条書き日記﹂一日四、五行の
②褒不しいこと日記﹂厭なことは書
平成二十四年﹃手紙が語る戦争ごとし
の哀しかったこと。二行目は嬉し
③﹁一日三行日記﹂一行目はこの日
十五年の歳月をかけて翻刻したが、平
提供を受けた日記に、また日記筆者に
て出版した。日記に︸忠亭に根気よく向
いこと。
かったこと。三行目は明日やりた
かない。
敬意を表し、一巻庭お付き合いさせて
き合い、自分たちが学ばせてもらうと
活動は日記塾、日記展、会報発
もらうことに勤め続けた。
いう姿勢を貫いているつもりである。
護日記、闘病日記、献立日記健康日
代の日記家計簿日記、育児日記、介
私は﹁日記は日付が書いてあるもの
いるかと思う。多いかもしれない全◇。
会員であっても、書いていない人も
④﹁貼りまぜ日記﹂切符、値札、葉
三十年ほど前から、女性の暮らしに
記、当用日記連用日記などいろいろ
★日記を書くことも
行、出版物発行などだが、全国で会員
二亘一工ら口提供された史料は三千点
佳笘小を当てた聞き書きをしてきた。そ
続ける。体重、便通食事、歩数、
⑥自分ならではのデータを取り記し
以上となっている。日記と言っても一
んな中でお年寄りから日記の処分に
ある。最近はパソコン上でブログとい
日記の効用は①頭脳の活性化︵認知
たところの﹁人間好き、歴史好き﹂の
哀楽まで立ち上ってくる。直に触
香り、挟
挟ま
まれ
れて
てい
いる
る栞
栞や
や花
花びびらら
、、メモ
な
ら、
、書
書い
いた
た人
人のの
などから
人人
間間
性性
やや
、、
|喜怒
⑥家族から尊敬されるなど多い。な
いている人は男性には多いかもし
服などなど。健康の記録として書
血圧、眠り、夢へ会った人、着た
に違いない。
年先には皇星呈な資料を残すことになる
る。日々の生活を豊かにしながら、百
書く楽しみも持ってほしいものであ
皆さんも読むことと同時に、日記を
の﹁一日五十字の奇跡﹂が起こる。
整理上手になる。全てよいことずくめ
気持ちが落ち着く。文章も上達する。
一日五十字を書くだけで、飛躍的に
苦でなくなるだろう。
以上お試しあれ。きっと書くことが
れない。
にはともあれ、高齢の人は日記を書く
もちろん一句でもよい。
⑤﹁五七五日記﹂、俳句風に書く。
りつける。
雲﹃地図、切り抜きなど何でも貼
困っていると相談を受けた。私自身が
う日記が流行っている。が、当会では
い生活④感性を磨く⑤漢字を忘れない
症予防になる?︶②備惹録向灘塗︽りよ
知人に声をかけて、平成八年﹁女性の
れ、学ぼせてもらうことは多いの
成十五年まで雲星二続けられた松崎
岡山の女性が明治・大正・昭和
を続けているが、まだ終わらない。
なら何でもOK﹂だと考えている。
八歳からずっと日記を書いて来たの
字の色、力、ノートや筆記用具の状態、
日記から学ぶ会﹂を立ち上げた。﹁現
の日記も提供頂き、含旱b男性が
次第に女性の日記に限らず男性
である。
のありようを探一且と大きく出た。有
さるのだろうか?心配ではあった。が、
し、信仰など様々なデータが盛り
宗子日記には、農村の習俗、暮ら
松本の農家の主婦が戦中から平
五分の二を占めるようになった。
冊と日記を提供頂けるようになった。
会員が時々確認し合っている墓禾の
込まれている。十五年以上も研究
根気よく信頼関係を作り一冊、また一
てプライベートな日記を提供してくだ
名人ならいざ知ら李益冨通の人が果たし
用しながら、次代に譲り渡す女性文化
存する日記など資料を収集・保存・活
乗りを上げてしまった。転勤族で歩い
手書きにこだわっている。刻まれた文
島利栄子
磯制功。
で、日記を捨てがたく思2気持ちも十
■●毎e酢◆●耳■■合合己■■●むら■■。●甲■■●■◆■分与◆由■■由申■●申◆申や由車●■心申●
一日五十字の奇跡
秀
分に理解でき、﹁私に任せて!﹂と名
★動機
pi鼻以吃
★世界でオンリーワンの溝勤
一
第64号(8)
日記ろまん
平成28(2016)年3月23日