糖尿病に対する鍼治療の一症例 Acupuncture Treatment in a Patient

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全日本鍼灸学会雑誌51巻2号
臨床体験レポート
糖尿病に対する鍼治療の一症例
山田 篤 中村弘典 水野高広 黒野保三
東洋医学研究所®
Acupuncture Treatment in a Patient with Diabetes Mellitus
YAMADA Atsushi NAKAMURA Hironori
MIZUNO Takahiro KURONO Yasuzou
Institute for Research on Oriental Medicine®
key words: Diabetes mellitus, Taikyoku therapy, Kurono-type basic meridian points for total body conditioning
Ⅰ.はじめに
1997年に厚生省が行った糖尿病実態調査では、
主 訴:血糖値が高い
現病歴:平成元年に仕事が変わってから、対人関
我が国の糖尿病患者は予備軍を含めると約1,370万
係や時間に追われたり、ワープロやパソコンの
人と言われ、糖尿病患者は年々急増している 1)。
書類等が横書きから縦書きになったり、今まで
このことから、今後鍼灸院に来院する糖尿病患者
使ったことのない言葉を使うようになったなど、
は増加するものと思われる。また、糖尿病患者に
ストレスがかなり溜まるようになった。そして、
おいては、手術後に血糖コントロールが悪化する
同年9月、Aセンターの人間ドックにて糖尿病
症例が多い2)。
と診断された。
我々は、これまでに多くの糖尿病に対する鍼治
平成4年からS内科に通院して食事療法・運
療の報告3)∼8)をしてきたが、過去に糖尿病患者の
動療法を指導され、経口血糖降下剤(スルホニ
手術後における鍼治療の血糖コントロールについ
ルウレア薬:SU薬)を平成4年から朝晩食前
ての検討は行っていない。
1日半錠、1ヶ月後1錠、2ヶ月後1錠半、3
今回は、人間ドックで糖尿病と診断された患者
に鍼治療を行った結果、血糖コントロールが安定
ヶ月後から2錠服用服用することになり、現在
も服用している。
した。さらに、胃の亜全摘出手術(胃癌)を受けた
平成8年2月7日の血液検査で、空腹時血糖値
後も再来院して鍼治療を続けたところ、血糖コン
(Fasting blood glucose:FBG)が222mg/dlと
トロールが良好に保たれた。そこで、手術後の血
高値であることに驚き、血糖値を下げたいとい
糖コントロールの検討を行ったので報告する。
う希望で、同年2月13日、東洋医学研究所(r)に
来院した。
Ⅱ.症例
既往歴:大腸ポリ−プ(平成4年)
患 者:S.I.(男性) 昭和8年2月2日生(62歳)
社会歴:N市弁護士会事務局長
初 診:平成8年2月13日
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〒464-0848 名古屋市千種区春岡2-23-10 東洋医学研究所®
(平成10年1月退職)
2001.5.1
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臨床体験レポート
家族歴:父―85歳にて死亡(不明)
母―84歳にて死亡(脳血管障害)
4ヵ月後には7∼7.4%となり6%前後で安定した。
日による変動が少ないため、臨床上よく用いら
兄弟―5人(3人糖尿病)
れる血糖コントロールの指標であるFBG11)は、平
子供―2人(健在)
成8年2月7日では222mg/dlが平成8年3月16日には
150mg/dlと低下し、その後多少幅があるが安定し
Ⅲ.要約:
本症例は、運動不足、過食多飲、仕事によるス
トレス等が糖尿病発症の原因と思われ、また、口
た。
なお、鍼治療前後の食事療法、運動療法、薬物
療法の変更はない。
渇等の自覚症状はなく肥満もあることから、2型
平成10年10月に胃癌が発見され、11月11日に入
糖尿病であると推察された。したがって、血糖コ
院、11月24日に胃の亜全摘手術を受けた。手術後
ントロールを良好に保つことを目的とした鍼治療
の平成10年11月27日のFBGは199mg/dlと高かった
を行った。
が、約2週間後の平成10年12月8日では122mg/dlと
低下した。
Ⅳ.治療方法
選 穴:全身調整を目的とした太極療法
平成10年12月16日に退院、翌日に再来院し、鍼
治療を継続した。退院以降のHbA1CとFBGは安定
黒野式全身調整基本穴9)
し、平成12年5月8日のHbA 1C は5.0%、FBGは
中月完期門 天枢 気海 天柱 風池 大杼 肩井
112mg/dlとなった。血糖コントロール基準12)(表
肺兪 厥陰兪 脾兪 腎兪 大腸兪
手 技:単刺術
用 鍼:30mm18号鍼
(セイリン株式会社製滅菌済ステンレス鍼)
ドーゼ:慢性疾患であるため長期治療型と定め、
補的な治療を行い、ド−ゼは軽度とした
1)と比較すると、HbA1Cは優、FBGは良となり、
血糖コントロールが良好となった。
また、入院中のインスリン療法や経口血糖降下
剤の服用は行っていたが、投薬量は不明であり、
入院前後の食事療法、薬物療法の変更はない。
所見の推移は表2の通りとなった。
治療頻度:週2回以上としたが不定期となった
治療期間:平成8年2月13日∼平成12年5月8日
の1546日間(350回)
Ⅵ.考察
今回の症例は、食事療法や運動療法および薬物
療法を平成4年から行っていたが、血糖コントロー
Ⅴ.治療経過(図1)
ルが不安定であり、鍼治療後も食事療法や運動療
過去1∼2ヵ月間の平均血糖値であるヘモグロビ
法、薬物療法は変化なく、体重が入院前まで76kg
ンA1C(HbA1C)10)は、鍼治療開始から1∼2ヵ月
と変わらないにも関わらず、鍼治療後血糖コント
後の値は8.7∼8.6%であったが、鍼治療開始後3∼
ロールが安定したことから、これまでの全身調整
表1.血糖コントロールの指標と評価
表2.所見の推移
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山田 篤、他
全日本鍼灸学会雑誌51巻2号
図1:HbA1C・FBGの推移
ヘモグロビンA1C(HbA1C)とFBGの推移を示したグラフであり、左縦軸はHbA1Cの数値、右縦軸はFBGの数値、横軸が時間
経過である。
を目的とした太極療法としての鍼治療が糖尿病に
ン療法などの影響も考えられることから病体は多
対して有効であるという報告を支持するものと思
種多様であるため不安定な期間は到底推測できな
われた3)∼8)。鍼治療前の平成8年2月7日ではF
いものと思われる。
BGが222mg/dlなのは、当時、仕事が忙しく、連日
胃の亜全摘出手術(胃癌)を受けた後も継続して
会議や接待などが続き、ストレスが増大したこと
鍼治療を施術したところ、退院以降の血糖コント
が原因だと思われた。
ロールが不安定になることはなかった。入院前後
糖尿病患者では特に手術後の血糖状態が悪化す
の食事療法、運動療法については変化無く、入院
る場合が多く、不安定な状態が続くことが多い。
中のインスリン療法や薬物療法の時期や投与量は
手術後の平成10年11月27日のFBGは199mg/dlで
不明であり、鍼治療のみの効果を見出すことは困
あった。これは、手術侵襲による抗インスリン作
難であった。しかし、手術後の血糖コントロール
用による糖新生の亢進や末梢組織での糖利用の低
の不安定な期間が2週間後には安定し、退院以降
下が起こり、糖尿病患者では一層助長される 13)。
の血糖コントロールが安定したと思われ、全身調
しかし、手術後の血糖コントロールの不安定な期
整を目的とした太極療法としての鍼治療が血糖コ
間は不明である。
(社)日本糖尿病学会の報告14)15)
ントロールに対し何らかの影響を与えていると考
に見られるように直腸癌手術を施行した後の血糖
えられた。
の上昇は手術のみでなく、Carcinoembryonic antigen
Body mass index(BMI)が26.6から退院時の
(CEA)などの各種悪性腫瘍マーカーとの関係
体重が減少していたため21.4となった。この時期
や、腎移植後などに投与されるシクロスポリンA
のBMIの減少は手術により糖尿病状態が悪化し
(免疫抑制剤)には、高血糖増強ないしは催糖尿
たことによるグルコースの組織内への取り込みが
病性の作用があることが示唆されている。さらに、
低下し、インスリン抵抗性が増加したことで高血
手術後に投与される抗生剤や抗癌剤16)、インスリ
糖状態を引きおこしたため、体重の減少を招いた
2001.5.1
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臨床体験レポート
ものと思われる。しかし、FBGの低下は手術後
5)中村弘典,黒野保三.糖尿病に対する鍼治療
の食事療法や投薬およびインスリン療法によりコ
の一症例.全日本鍼灸学会雑誌.1994;44(3):
ントロールした結果である可能性も否定できない
278-82.
が、体重の減少がFBGを低下したことに影響し
6)中村弘典,黒野保三,石神龍代,堀 茂,皆川
たものとは考え難く、退院後の体重は増加し最終
宗徳,鈴木 光.ストレプトゾトシン糖尿病ラ
時所見のBMIは22.4となったことからも理解で
ットに対する鍼治療の効果(Ⅰ).全日本鍼
きるものと考えられる。このことは鍼治療を継続
灸学会雑誌.1996;46(2):80-4
したことから、末梢組織でのインスリンの感受性
7)中村弘典,絹田 章,黒野保三.糖尿病に対
を高め、グルコースの取り込みが改善傾向にあっ
する鍼治療の一症例−インスリン療法による
たと思われ17)18)、生活習慣病の運動療法による
低血糖状態患者−.全日本鍼灸学会雑誌.
インスリン感受性亢進のメカニズムと同じものと
推察される19)20)。
また、鍼治療により体調が良くなったことによ
り、日常生活が規則正しくなり、食事療法や運動
療法のコンプライアンスが良好になったことが鍼
治療と合わせて退院後の血糖コントロールが手術
1999;49(2):25-30.
8)絹田 章,中村弘典,皆川宗徳,黒野保三.糖
尿病に対する鍼治療の一症例.全日本鍼灸学
会雑誌.1999;49(2):19-24.
9)黒野保三.黒野式全身調整基本穴について.
全日本鍼灸学会雑誌.1983;34(3・4):252-6.
前より良好な状態に保たれたものと推察された。
10)日本糖尿病学会.糖尿病治療ガイド.第1版.
Ⅶ.おわりに
11)日本糖尿病学会.糖尿病療養指導の手びき.
東京.文光堂.2000:7.
糖尿病と診断され、胃の亜全摘出手術(胃癌)
を受けた後も再来院して糖尿病に対して全身調整
を目的とした太極療法としての鍼治療を行った結
果、血糖コントロールが安定した。このことから、
太極療法としての鍼治療が胃の亜全摘手術を受け
た後の手術後の血糖コントロールを良好に保つ要
因の一つになることが示唆された。
第2版.東京.南江堂.1999:96.
12)日本糖尿病学会.糖尿病治療ガイド.第1版.
東京.文光堂.2000:18-9.
13)繁田幸男,杉山 悟,影山 茂,木原信市.糖
尿病治療事典.第1版.東京.医学書院.
1996:361
14)後田義彦,日高博之,松倉 茂.血中CEA
今後、さらに症例を積み重ね糖尿病に対する太
が血糖コントロールに連動して変化した2型
極療法としての鍼治療の有効性を客観的に検討し
糖尿病合併直腸癌の1例.糖尿病.1999;
ていきたい。
42(10):847-51.
15)岡田震一,橋本尚子,尾山秀樹,田中信一
文 献
郎,槇野博史.腎移植後のシクロスポリンA
1)後藤由夫.糖尿病のすべて∼合併症の予防と
投与中に著明な高血糖を来した2症例.糖尿
治療∼.第1版.東京.日本放送出版協会.
1999:6-9.
2)武藤輝一、田辺達三.標準外科学.第5版.
東京.医学書院.1988:59-64.
病.1999;42(7):527-30.
16)日本糖尿病学会.糖尿病療養指導の手びき.
第2版.東京.南江堂.1999:66.
17)近田直人.ストレプトゾトシン糖尿病ラット
3)中村弘典,黒野保三,渡 仲三.糖尿病に対
の末梢インスリン抵抗性に対する高血糖の代
する鍼治療の症例報告(Ⅰ).全日本鍼灸学
償効果.愛知医科大学医学会雑誌.1992;
会雑誌.1983;33(2):196-200.
20(6):605-13.
4)中村弘典,黒野保三,渡 仲三.糖尿病に対
18)三宅一彰,小川渉,春日雅人.インスリンの
する鍼治療の症例報告(Ⅱ).全日本鍼灸学
シグナル伝達経路とインスリン抵抗性.最新
会雑誌.1985;34(3・4):257-62.
医学.2000;55(11):2473-9.
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山田 篤、他
全日本鍼灸学会雑誌51巻2号
19)林達也.生活習慣病の運動療法とインスリン
20)押田芳治,山之内国夫,佐藤祐造.運動とイ
感受性亢進の分子機構.最新医学.2000;
ンスリン抵抗性.糖尿病.1999;42(2):131-3.
55(11):2525-31.
要 旨
糖尿病患者は手術後に血糖コントロールが悪化する症例が多いが、これまで手術後の血糖コントロール
に対する鍼治療の検討をした報告はない。
そこで今回、人間ドックで糖尿病と診断された患者に鍼治療を行った結果、HbA1Cは鍼治療開始から1
∼2ヵ月後の値は8.7∼8.6%であったが、3∼4ヵ月後には7∼7.4%となり、その後6%前後で安定した。FBG
は鍼治療前の値が222mg/dlが約一ヵ月後には150mg/dlと低下し、その後多少幅があるがFBGは安定した。
また、胃の亜全摘出手術(胃癌)を受けた後も再来院して鍼治療を続けたところ、HbA1CとFBGは安定し、
最終時のHbA1Cは5.0%、FBGは112mg/dl、血糖コントロール基準と比較すると、HbA1Cは優、FBGは良と
なり、鍼治療が血糖コントロールに対して何らかの影響を与えたものと思われた。
キ−ワ−ド:糖尿病、太極療法、黒野式全身調整基本穴