仙台出身の岡鹿門 - 武庫川女子大学リポジトリ

主月
、^
^日子
沙由里
妙子
涼子
<,π
0)は、一柔に勤王の大義を唱えて奔走したことで有名な
岡鹿門﹃観光紀游﹄訳注1その一
一九一
で夕夕くの名士たちと語らい、東アジアの来し方行く末について思索を深めた。﹃観光紀游﹄は、そうした彼の清国での活動の
で、列強の侵略を受け、しだいに半ぱ植民地的な状態ヘと陥りつっあった。鹿門笈一りのない目喜国の見実を見つめ;誤
当時、日本はすでに近代化の道を歩み始め、欧米の先進国を模範として富国強兵策を推進していたが、中国は清王朝の末期
文で記した日記体の紀行文である。
人王暢斎を通訳兼道案内として、清国ヘ誓ち、翌十八年の四月中旬倫国した。﹃観光町"一はこの一年足らずの失行を漢
人物であるが'新後はいくつかの官職を歴任した後、明治十七年五月末、甥の濯(号萬里)を張れに、日本在住中の清国
仙台出身の岡鹿門(名は千仞、字は振衣など。一八二七S
斐崎田川田
跡かかなり詳細に把握できる著作であり、明治初期の漢学者の中国観を研究するための資料として極めて高い価直を備えてい
る。
-65-
甲山冨小柴
﹃観光紀游﹄は、鹿門の旅程に応じて、夫己一﹁航渥日記﹂、巻二二籍日記巻上﹂、巻三﹁殊杭日記巻下﹂、巻四﹁福上日記﹂、
巻五﹁"祭日記巻上﹂、巻六﹁十業日記巻下﹂、巻七之握上再記﹂、巻八﹁奥南日記巻上﹂、巻九﹁奥南日記巻中﹂、巻十﹁奥南
日記巻下﹂と、総序・後序及び各巻頭・巻末の序などから成っている。そのうち、これまでに訳出されたことがあるのは、管
見の及ぶ限りでは、巻五の一部のみである。にもかかわらず、学界における岡鹿門や﹃観光紀游﹄につぃての研究には、すで
にある程度の一希がある。そのことは、この書物が解釈だけで難儀をするような種類のものではないことを物語っているとも
言えるだろう。硫かに日本人の漢文著作であるだけに、適度な和習のおかげで却って読みやすい面もあるのだが、一方、和習
が強過ぎて読みにくくなっているのではないかと思われる箇所もある。また、著者がその博N任せて引用する古典籍や故事
-
0年)
は、いずれもその典拠を確認する必要があるし、著者が清国で接触し面談した数多くの人物につぃてもその経歴等、客観的情
報を掌握しておく必要があるだろう。※岩波欝の新編原典中国近代思想史第二巻﹃万国公法の時代1洋務・変法運動﹄(二0
二一五S 二 二 0 頁 。 高 柳 信 夫 氏 訳 。
三一年度、武庫川女子大学大学院文学研究科日本語日本文学専攻において
以上の考えに苦き、﹃観光紀游﹄を工子一句、その表現の背景も押さえつ需解する作業を行い、謬解した結果ナ飯汪と
いう形で表してみた。作業を行ったのは、私が二0
担当した授業科目﹁国際一需研究﹂の場においてである。作業を行ったメンバーは修士課程の小川智子・冨田沙由里・山岫妙
子・甲斐涼子と私である。作業はすでに巻二﹁一繞日、雲上﹂の半ばまで進んでいるが、紙幅の関係もあり、今回は岡鹿門の
自序、例言、巻一﹁航福日記﹂の浅田惟常序、元田直序、明治十七年五月二十九日の東京出発から同年六月五日の上海到着ま
での日記の部分のみを対象とする。
底本としたのは富士川英郎・佐野正巳編﹃紀行日本漢詩﹄第四巻(汲古書院、一九九三年)影印して収録されている明
治十九年八月二十八日出版(撰著兼出版人は岡千仞)の﹃観光紀游﹄である。この本は文中も文末もいずれも句点で区切り、
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注は割注の形式を用い、序や各日の日記等、ひとまとまりの文章の途中では改行しない本裁の文章である(返り点も施されて
いる)。これに対し、本需で掲げた﹁原文﹂では読点と句点を併用し、注は﹁︹︺﹂に入れて示し、一続きの文章であっても、
意味のまとまりに応じて適宜改行した。また、会話文等は適宜﹁﹂でくくつた。﹁原文﹂中の漢字で、常用漢字表などにょっ
て改められた新字条ある場合は、新字体で表記した。ただし、別体字・俗字等であっても、その使用に可らか釜凹の特色ら
葬甲岳、観
一二年十一月二十一日記す)
しきものが感じられた場合は、それらをそのまま表記した。なお、聾子と判断されたものは、その後に正しいと考えられる字
を﹁<>﹂の中に入れて示した(例陪<随>)。
(柴田清継、二0
本稿作成に当たり、タタくの文献を参老にした。そのうちの主なものを巻末に掲げた。
原文自序
余好遊。弱冠游学江戸、俳佃八州之野。後曾条摂、西至播備、北及雲伯。維新以後、移家東京、亦時游信甲0
、﹂一
出日浴海、航北海道、望粛慎・妹朔於玉具没之問、唱吠豁嗣天下之壮観矣。一日手﹃荘子﹄、至河白海若之問答、嘴然自失、
日﹁余為天下之壮観者、又何異河伯見百川注河、折然自喜、以為天下之美尽在己、而不知有鵬堤一専\萬里、失夫耳後乎﹂、0
葢我邦僻在東洋、謡域偏小、以南北不過四五十里、以東西不出七八百里。試展五洲地図、比較我邦英俄諸大国、又可異燕雀於
ノ'﹂
次春
所宗'藝文史、我之所以唄其英而豊亀九流百家、我之所以問其津而叫
鴻鵠、鶴鶴於鵬鰻乎。方今欧人積巧思、開お旻鴇、激水火行船舶、天枢而赤道數W市、地極而氷海夜国、乾情申兒、無不可流度0
顧中士与我同文国、周 孔 我 道 之 所 祖 、 陌 唐 我 塑
其流、歴代沿革、我之所以挙其詳而論其要、鴻儒名家、我之所以認金白而窮其旨。而不一聳ハ域而可乎0
、y
歳在甲申五月、航上海、游杭殊、聞法虜構難、帰上海。是秋游北京、窮居宍達諸勝、南経保定、出於系、帰上海0
游広東不幸咸璽母、就治香港、療養十旬、至四月東還。紀道路所由、耳目所触、往復諸友、所答問、案日河、掲更概、艸十
-67ー
)
一巻日﹁観光紀游﹂。今栗者、舌報日、﹁欧米﹂。世観是書老、皆将依余游不於竜動及巴勒斯、而於北京及広東也。荘子不
言乎、﹁知東西之相反而不可相無、則功分定矣﹂。夫東西二洋之相反、出於天地之自然者。而論事者、或不知二洋相反、出於天
地之自然、抑将慨其所有、而強其所無、去其所長、而就其所短。此亦不得功分之所定者。然則知東西之相反、而不可相無者、
四孫有所取於余書也。
明治十九丙戌一月於東京芝山禅房病寓、撰之仙台岡千仞
︻注︼①﹁八州﹂現在の関東地方のこと。②﹁喪・妹鵜﹂粛誓旧満洲地域に住んでいたとされるツングース系狩猟民族、妹鞠は中国の陌
唐時代に旧満洲地域に存在した農耕漁労民族であるが、粛慎・翁という曹、ここで蛙礎と北海道対岸の旧満洲地域を指す語として
使われているようである。③﹁﹃荘子﹄ S乎﹂﹂﹃荘子﹄秋水篇、同造濫遊篇、それぞれの冒頭の一段を踏まえる。④﹁燕雀S鵬鵤﹂﹃史記﹄
陳渉世家の﹁"饗安知鴻鵠患哉﹂の語及び﹃荘子﹄道邁鷲冒頭の一段を踏まえる。⑤﹁九流百家﹂もと中国諸子百家の九種の流派の
意。ここでは各種の希深ということ。⑥﹁法虜俳﹂一八八四(明治十七)年、ベトナム領有を意図するフランスと、ベトナムでの
室権を主張すーとの問で起こった戦争。⑦璽だ中国の南部や西南地方の山林地帯で湿気を含んだ暑熱のためにかかる病気。⑧﹁観
光紀游﹂﹁観光﹂は﹁他国の光華をよくみる。共の国の文物制度をみる﹂の意(﹃大籍辞典﹄巻十、三四八頁)。⑨﹁知東西S定矣﹂﹃荘
子﹄秋水篇の句。
訳文自序
私は旅行が好きである。弱冠にして江戸に遊学して、関東地方を俳椢し、その後、京都・摂津を見て回り、西は播州・備州
まで、北は出吉伯耆まで足を延ばした。維新後、東京に転居してからも、信濃・甲斐に出かけたりした。富士山に登って、
太陽が海水を会っつ上るのを見、北海道に航海しては、粛慎・妹鵜を雲海のほの暗い辺りに眺め、それぞれ天下の壮観だと
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感心した。ところが、ある日ネ壮子﹄を手に取り、河伯と北海若の問答のところま黍肌み進めると、荘然自失して、こう言っ
ていた。﹁私が天下の壮観だと思ったのは、川という川が黄河に注ぐのを河伯が見て、すっかり喜び、天下の美観はことごと
く自分にあると考え、鵬の翼がひとたび羽ぱたけば、八萬里も飛び上がり、その後に失笑を起させることを知らなかったのと、
どこが違おうか﹂と。思うに我が国は世界の片隅の東洋にあり、境域はあまりにも狭く、南北は四五十里に過ぎず、東西も
七、八百里を出ない。試みに五大州の地図を広げ、我が国を英・露等の諸大国と比ベてみれば、オオトリ・コウノトリに対す
し
る燕や雀、鵬餌に対するミソサザイと、どこが異なろうか。目下、欧州の人々は巧妙な思考を積み重ねて、機械を開発し、水
火の力を利用して船舶を進ませ、天の中心なら赤道や熱帯、地球の極地なら氷海や夜国、天地の果てまで、航海して行けな
所はない。顧みるに中国と我が国とは同文の国同士であり、周公と孔子は我が道の祖とするところ、陪・唐は我が朝廷の宗と
するところ、翻支史は我々がその花房や花びらを噛む所以、九流百家は我々がその津を問うてその流れを倒む所以、歴代の
沿革は我々がその詳を挙げてその要を論ずる所以、鴻儒名家は、我々がその書を訥してその旨を窮める所以である。その中国
という地域に一度も旅行しなくてもいいものだろ、つか。
甲申五凡船で上海に渡り、杭州徐州を旅行している最中に、フランスが戦禍を起こしたと聞いたため、上海に帰った。
その秋、北京ヘと出かけ、居庸関・八達嶺等の景勝地まで足を延ぱし、南のかた保定を経て、天津に出、上海に帰った。翌春
は広東に出かけたが、不幸にも痛毒に感染し、香港で治療してもらい、百日間ほど療養して、四月に日本に帰ってきた。通っ
た道、耳で聞き目で見た物事、付き合った友人たちと問答した事柄について、その日月を四染めつつ梗概を掲げて、﹁観
光紀游﹂と題する十一巻の原稿をものした。当今、何事かを論ずる者は、口を開けばすぐ﹁欧米﹂七晉う。そのようなご時世
だから、この本を見た世の人々は皆、私の旅の行き先がロンドンやパリではなく、北京や広東であることを奇異に感じるだろ
う。しかし、荘子が次のような豆永を残しているではないか。﹁東と西とは相反しているにもかかわらず互いになくてはなら
ない関係だということを知れば、務めるべき事柄が定まってくる﹂と。そもそも、東西両洋が相反するのは、自然とそうなっ
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ているのであるが、論者の中には、両洋が相反するのは自然とそうなっているのだということが分からず、己にあるものを怠っ
て己にないものを強いたり、己の得意なところを去って己の不得意なところへと向かったりする人たちがいる。そのような人
たちは、定まった己の務めるべき事柄をつかめていない人である。だとすれば逆に、東と西とは相反しているにもかかわらず
互いになくてはならない関係だということが分かる人にして、はじめて私のこの本から何かを汲み取ってくれるであろう。
明治十九年丙戌一月、東京芝山禅房の病寓玉した。仙台岡千仞
原文例言
t
千Wル
ーフ0-
一日疋書命以観光。後以其游渉数省、小分為六徒別標地名、以便検閲。
盲疋游於中士政体風俗、毎有所得、乎札心長将類次県中。既而嬰病東還、至夏兪師荏再於、割手札、ル祭一失、范如
夢中。乃撮最要者数条終篇。
一是游重野成斎安壽風繁下名士、需宴湿東双橋楼。会者百名、皆有送篇。乃取送序、冕紀游。似不失体。
一余不解中語。叙尋常寒喧<喧>、皆待毛頴子。而馬童舟卒皆不解文字。故地名村名、多閥不録。其一二姦者、間渉誤謬、
亦不可 知 。
岡
0。院摩の人。名は安繹。成斎はその号。維新後、文部省の編修官となり、また、東京大学文科大学
やすつぐ
一是書間記中士失政弊俗。人或聳ハ過荏。顧余異域人、直記所耳目。非有意為誹誘。他日流入中士、安知不有心者或取為一秀
之語乎。
明治十九年七村
︻注︼①﹁重野成斎﹂一八二七S-
九
なった。(互)^安述清風L一安述志津馬。清風はその号。一八Ξ五S
一ノー、八四。もと鳥取藩士。明治元年、藩庁に再出仕し、のち中央
政府や岡山県吏として勤務した。③﹁巾超中鼎叩。ここでは中鼎署にょる口繋脚のこと。
訳文例言
一﹁荏見ウτ﹂、という^叩を似!つて名、づけた。後に旅ーテカゞ委女省に渉ったため、六篇に細^刀し、地名を見出しにチ昌げて、千
索・閲覧に便ならしめた。
、二この旅行では中国の政体や毎弐俗について、何らか得るところがあるたびに、手帳に記録し、日記の中に分類して記すこと
にしていた。ところが、まもなく病に櫂ったため帰国し、一児からいよいよ悪化し、いつの問にか一年が過ぎたころ、手帳を
めくつてみても、記した言昂券らその時々の場面がくつきりとよみがえってくることはなく、ぼんやりと夢の中にでもいる
ような気分だった。そこで最も重要なもののみ数条をかいつまんで、篇を終えた。
一、今回の旅行に当たり、重野成斎と{蓬清条都下の名士に呼'け'軍の双橋学送別会を開いてくれた。参会者は百
名で、比曳込別昇文をしたためてくださった。そこでその中四律を、旅の行程について記す部分の前に冠した。体裁を失っ
てはいないだろ、つ。
一、私は中国の話し"呈を解しないため、日常の挨拶もすベ系を頼りにした。しかし、馬童や聖は文字を解せぬため、地
名や村名には記録しなかったものが多い。記録した、一部のものも誤っているかもしれない。
一、この本には間々中国の失政弊俗を記した。その点で過度なものがあると批評する人もいるかもしれないが、私は盡の人
岡千仞記す
間であり、ただ耳にし目にしたところを記しただけで、誹誘しようという気持ちがあってのことではない。△Z僕中国に流入し
たら、、心ある人煮六石の言として取り入れてくれないとも限るまい。
明治十九年七月
ーフ1-
原文序
遊之有益於学也久矣。歴覧通邑大都、践渉名山大川、道路問関、循仰感慨之所繋、発池於翰墨、以窮其変化、得名於当世
①
而流芳於千歳者、古来騒人額士之所恒也。況復大丈夫生不遇当時、則当凌励宇宙、畔腕人世瓢然軽挙乎塵挨之表。何必区区
乎弛繋一方之為。鹿門岡君夙入昌平賢、精窮経史、退而修国史、訳欧西各史、頗有良史之名、餘暇足跡、遍于天下。
ノ1
①
今茲甲申之夏、将帯国。余需哉游也。君自上海入天津、製京、瑜長城、俳佃韓魏斉魯之間、業山訪斉魯、観孔孟之
遺蹟、歴殷周故娃、出江淮之間、弔漢楚興亡、曹劉勝敗之迹。恒華之巍峩于天外、滄浜之浩秒于地限、与夫鯉鵬之出没、蚊竜
之変幻、凡足以棟耳艮壮士倉夙、以発底短者、悉皆収撹之。乃知於著作之旨、大有所発揮也。蕪米城称﹁太史公行天下、周覧
名山大川、与澁導琢俊交游。故其文疎蕩有奇気﹂。鴫呼、君之游、豈其徒爾者乎哉。
(る
信濃浅田惟常再拝
県
ーフ2-
明治甲申五月
︻注︼①﹁昌平讐﹂江戸幕府直轄の学問所。昌平坂学問所ともいう。②﹁韓魏斉魯之間﹂今の山西・河南・山東名一帯。③﹁殷周故城﹂殷王
一工二)。器はその号。所引の一
朝(紀元前十八S十二世紀)や周王朝(紀元前十二S三世紀)の古址。それぞれ今の河南省と峽西省。④﹁江淮之問﹂揚子江と淮水の流
れている一帯。今の砥省・安徽省一一市。⑤﹁一業城S奇気﹂瓢木城は北宋の妹轍(一 0三九S
は﹁上枢嘉太尉書﹂に見える。太史公は﹃史記﹄の作者司馬灣こと。⑥﹁浅田惟常﹂一八一五S 一八九四。信濃の人。維新後、東宮
侍医を務めた。かつて頼山陽に学び、漢文の著述も多い。
訳文旅行が学問にとって有益なのは昔からのことである。交通の要衝や大都会を見て回り、名山や大河を越え渡り、道が険
しく行き悩むとき、うつむいたり仰向いたりして見えた物、感慨を催した物事を詩文に漏らして、その変化を表現し尽くし、
当世に名を挙げ、永遠に名声を流すのは、古来詩人たちが常にしてきたことである。まして大丈夫は、生きているとき時世に
J、',
合わなけれぱ、宇宙を凌ぎ、人の世を眸呪し、器として塵挨の上ヘあがらなけれぱならない。区々としていつまでも片隅に
停滞しているには及ぱないのである。岡鹿門君は早く昌平讐に入って経学や史学を究め、昌平饗を出てからは国史を修め、欧
<メ
米各国の歴史書を訳し、すこぶる優れた史{永としての名声を挙げており、<永暇の足跡は天下にあまねく行き渡っている。
今年甲申の夏、君は清国ヘ旅立とうとしている。鞭な旅だと私は思う。君は上海から天津に入り、北京を見学して、長城
を越え、韓魏斉魯の間を俳個し、泰山に登って斉魯を訪ね、孔孟の遺蹟を見学し、殷周の古址を経て、江淮の間に出、漢楚の
興亡や、曹操と劉備の勝敗の跡を弔うことにしている。恒山や華山が空の上まで高々とそびえ、青海原が地の果てまではるか
に広がっているのや、かの鯉鵬が出没し、蚊竜が変幻するのなど、およそ耳目を張し、士気を壮んにし、奥に潜んだものを
開いて見せてくれそうなものは、皆っかんで我が物とするであろう。それらが著作登義を大いに引き出し明らかにすること
になるだろうと思われる。一璽城は﹁太史公は天下を巡り、名山や大河をあまねく見て回り、燕趙地方暴傑や俊才と付き
偏辰浅田惟常再拝
合われた。だから、その文章はのびのびとしていて、非凡な気象がある﹂とおっしやつた。ああ、君の旅行は無駄なものにな
るはずがないのだ。
明治甲申五月
原文序
漢士東洋之旧邦、而上古群聖輩出。宜其山川如綴之大、文物声教之美、挙宇内萬国、莫能与之雄也。物久則化、数窮則変。
印度希臘往古文明国、而今皆不能保其旧。鳥知今之漢士果不若漢唐宋明之盛乎。往昔我朝取於階唐、為法。今也取於米於英於
仏於独、而漢土則邊若不聞。顧漢土豈無可取者乎。
我友岡君振衣有所感於此、将一游漢士問其俗。夫大国不易量也。不笈瓢閣公卿悉得其人、江湖布章之士、亦必有雄偉秀傑、
ーフ3-
5
負異才而不遇名。振衣是游、一陛漢以見禹切、膽九疑而慕舜徳、過殷周之城、問三代之避俗、観於娜魯礼義之卿、以尋孔孟之
遺朧、登長城眺大漠、撫秦漢之雄図、望天津之海城、想英仏之遠響、歴覧関映河洛之境、覧古今成敗得失之所由。振衣其有所
嘱然而歎、慨然而興爲。
夫漢士為邦大且旧、故事偉蹟、不可勝紀。況以振衣之富於学、豊於才、又所与交者皆一出ウ腎家、則必能叙其所聞見、以伝
6、
豊後元田直拝序
播乎四方、而聳動彼我之士大夫。不亦偉乎。蓋非天下之壮観、無以発天下之奇文、非天下之奇文、無以済天下之大用。壮乎振
衣、余安可無欣吠返聿以華其行耶。
明治甲申五月
︻注︼①﹁禹功﹂禹の治水の功穎。②﹁膽九疑S舜徳﹂九疑は今の湖南省にある山。舜はこの山に葬られたという令史託﹄五帝稔)。③﹁娜
仙﹂郷は孟子の、魯は孔子のそれぞれ生地。④﹁望天津金昇﹂一八八四年までの天津と英仏とのかかわりとしては、一八五八年、英仏
連合軍が天津港に攻め込み(第二次アヘン戦争)、英仏両国と沽国との刷に天淡太約が往れたこと、翌一八五九年、条約批准女京の
ため天津港に現れた英仏迎合軍を清国か攻撃したため、逝に攻め込まれて占領され、その後結ばれた北京条約にょり、天津港が河夕に開
放され、両国とも天津に租界を置くようになったことなどが挙げられる。そのような英仏の清国侵略の一端を天洋に見る忠一。⑤﹁関峽
一九一六。豊後の人。法律家。明治十三年、来京代一白人組合初代会長蕪ぎれた。
河洛翫﹂今の陵西・哥両省一帯。太古から業まで長安や洛陽等に都が置かれ、長く山の中心地であった。⑥﹁元田直﹂一八二五
、
世界の萬国を挙げても、中国に勝るところはないのも当然である。ところで、物は時問かたつと変化し、物事のことわり
訳文中国は東洋の古い国であり、上古には多くの聖人が輩出した。その自然や境域の広大さ、文物や教化の立派さにおいて
よ
も窮まると変化する。インドやギリシャは往古の文明国であったが、今ではその旧を保っことができなくなっている。しかし、
ーフ4-
どうして今の中国も漢・唐・宋・明時代の盛んさに及ばなくなっていることが分かろうか。往昔、我が朝廷は陪唐から取り入
れたものを手本としたが、今や米・英・仏・独から取り入れるようになり、中国は及びでなくなった観がある。しかし、中国
には取るに値するものがなくなったのだろ、つか。
我が友、岡振衣氏はそのような点に感ずるところがあったため、一一度中国を旅し、その風俗を我が目で見てみょうと思い立
たれた。大国というものは全体像がつかみにくいものである。中央政府の高官にことごとくしかるべき人材が得られているの
はもちろんのこと、江湖の仕官していない人物の中にも、必ず雄偉秀傑で、優れた才能を持ちながら不遇な者がいるだろう。
振衣氏の今回の旅は、長江と漢水に舟を浮かべて禹の功績を見、九疑山を見て舜の徳をN、殷周の古址を通ってΞ代から残
された風俗を見、響の礼義の里を見学して孔孟の綜を訪ね、長城に登り広大な砂漠を眺めて、秦漢の街を心につかみ、
海辺の都市天津を眺めて英仏窪大な計略に思いを馳せ、関峽河洛の地域を見て回って古今の成敗得失の拠って来たるところ
を考えられることになるだろう。そして振衣氏はきっと唱妖一として嘆じ、慨吠一として気持ちを高ぶらせられるであろう。
そもそも中国の国たるや、大にして且っ古く、故事や人々徐大な事跡は枚挙にいとまがない。かてて加えて振衣氏は学殖
に富み、才能が豊かで、しかも交わる相乎が牛日一世の賢士エポ傑となるわけだから、きっと冑ら見聞したところを竺て、四
方に伝播するとともに、彼我の士大夫をはっと驚かせることがおできになるだろう。なんと立派なことではないか。思うに天
下の壮観でなけれぱ、天下のとびっきり優れた文章を生み出すことは不可能であり、天下のとぴっきり優れた文章でなけれぱ、
豊後元田直拝序
天下の大きな役に立つということは不可能なのである。壮んなことですね、振衣氏。私は欣然として一聿を執り、氏の旅立ちに
花を添えて差し上げない で は い ら れ な い の だ 。
明治甲申五月
ーフ5-
原文観光紀游巻一
航渥日記
1
宮城県
、2
岡千仞振衣撰著
姪濯萬里校訂
上海為古張。﹃呉郡志﹄、﹁松江東涛海、旦掘漉、亦謂渥海﹂是也。今多単称日渥。道光廿二年始許欧人納租居市。西連
長江、負殊杭、東南控闌越萬艦劣午、百貨幅湊、為東洋名埠第一。是游擬航香港見王謹︹粕︺、而後歴游四方。会紫
〆、
一八九七。江殊の人。改革派愚家。明治
馨告移居渥上。乃航上海。使館階<随>員楊君惺悟金口>︹守敬︺任満西還。乃伴発、姪需滑。
︻柱︼①﹁﹃呉郡志﹄﹂南宋の范成大撰の地砧。②﹁王詳︹輪︺﹂王輪。紫詮はその字。一ハニハS
五。湖北の人。学者。光緒六(明治十一己年の陽暦四阿末ないし五月初めに来日し、光緒八年元日(明治十五作二月十八日に当たる)
十二年、日本の名士たちに招かれ、東京・大阪・神戸・悦を訪問した。③﹁楊君惺悟︹守敬︺﹂岸敬。馨はその字。一八四OS プ
から駐日公使黎營の随員を務めた。
訳文上海は古四讃である。﹃呉郡志﹄に﹁松江は東の方で海に注ぐ。その辺りを渥誓いい、渥海ともいう﹂とあるのが
それである。今は多く単に渥とのみ称する。道光二十二年に初めて、ヨーロッパ人が租を納めて住みつき商いをすることが許
可された。上海は、西は長江に連なり、一循・杭州を背後に控え、東南は闌越を控え、タタくの船か行き来し、たくさんの商品
が幅湊し、東洋第一の波止場である。今回の旅は、船で香港に渡って王紫詮氏にお目にかかり、それから四方を歴遊しようと
いうものであった。ところが、紫詮氏がお手紙で上海に転居する旨知らせてこられたため、上海ヘ渡ることにした。公使館の
、
- 6-
随員楊惺吾氏が任期満了で中国に帰ることになったため、一緒に出発することとし、甥の濯も私に随行することになった。
^J
一ーノ
、}
﹁0-
原文明治十七年甲申五月廿九日︹光緒十年五月五日︺、憾促発。芝口停車塲雲客南摩︹總︺野口︹之布︺嘉︹毅︺
一'
<3
古山︹貞︺横尾︹東作︺堀江︹復︺及従游諸子。汽車至横波。楊護祖席関衞。会客重野︹安繹︺岩谷︹脩︺日下部︹東
作一波村︹大皿小牧︹昌茜鈴木︹大西華客陳理事︹允皿以下二十二人。張静雁安1其父﹃派亭先生文集一且日、﹁家
君督業保定織洗白院。游北京日、盡柾途一游﹂。先生為桐城派耆宿。乃詰作書通名姓。別諸子。見家春及徒弟、詣三菱会館。
楊君先在。二橋元長赦小輪船、秋月︹胤永一河野︹通之一田辺︹実明一須田︹要︺姪易直楊君男道承送至三菱艦。艦長永野
需延見鞭、饗洋酒。時方夕陽、帆桔林立、楼閣鱗次、富岳祭於天半、特决<快>人意。須突突烟全揚、号篇鳴、諸子
別去。不覚黙然。艦冉冉而動、繋泊諸艦、一斉拍手。蓋表祝意也。
,一
是游三菱社長岩崎君︹弥太郎︺賠乗券。余一窮措大。何意迩好奇如斯人也。
女,ハ、よつ女のり
一九9二。もと仙台蒋士。維誓、
一八八七。もと仙台藩士。維新後の明治三
一八九八。金沢の人。廃誓、文部省・司法省に出仕し、明治↓三年、官を辞して前田
︻注︼①﹁廖︹綱紀︺﹂南希紀。一八二ΞS 一九0九。もと△罷潘士。廃穫は京都府義・東京火学教授・棗"写師範学校教授を歴任
ゆきの"
した。②﹁野口︹之布︺﹂野口之な。一八三OS
家に入り旧藩史編纂に条した。③﹁高橋︹毅︺﹂未詳。④﹁古山︹貞ご古山貞。一八二四S
年、天文暦道御用掛に任命され、同七年、陸軍省に出仕した。⑤﹁横尾︹東作︺﹂横尾東作。一八三九S
官職を歴任し、明治十六年には警視庁巽登、同十七年には四等警視・同庁沿革史編纂委員長を務めた。⑥﹁堀江︹復︺﹂明治九年の﹃新
1くことが多い。号は一六。一八三四S
一九0五。近江の人。明治元年、新政府の官吏となり、この
黎史略﹄(正教合を皮切りに、明而に多くのキリスト教神街係の書物を禦した人物に堀穫(薩瓦)がいるが、あるいはその
人か。⑦﹁岩ハ合︹脩︺﹂尻厭谷飾﹂
ーフフー
頃は工科大学教授兼農商務省技師。能書家としても知られ、次項の日下部東作とともに明治の三筆の一人と称される。⑧﹁日下部︹東作︺﹂
日下部束作。号は胆延寺。一八Ξ八S 一九Ξ一。近江の人。書家。⑨﹁野︹大沸︺﹂淵村大解。徳川時代以来襲われ食刻家の名﹁波
-
一八九五。備前の人。もと正本氏、後に塩見氏を名乗り、名は観侯。大沸はその字。⑩﹁小牧︹凹白業︺﹂小
だ、ー;
一九ニニ。薩摩の人。維誓、開拓使幹事・大臣秘書官等を歴任した。⑪﹁鈴木︹火き築大亮。一八四二S
村蔵六﹂の四但。一八三六S
まさむー︺
牧昌業。一八四三S
九0七。もと仙台藩士。維新後、開拓少主典、同キ典等、曹を歴任した。⑫﹁華客豊事︹允願︺﹂陳允順。明治十五年二月十四日か
ら同十六年二月二日まで横浜正理事官の任にあった。⑬﹁器雁︹泣︺﹂器。一八五三S?。静雁その号。湖北省武昌の人。張裕剣
ふたばLもとなが
一八九四。湖北省の人。﹃聖文集﹄はその著作。⑮﹁三契亙三菱商会の△弓三雋会は明治八年に横浜上河航路を開
の長子。明治十四年、第二代駐日公使黎庶昌の随員として来日。勲粛凹白の器。⑭﹁其父璽デ先生文集﹄﹂張裕剣の号は派(廉)亭。
一八二ΞS
設Lた。⑯﹁二橋元長﹂二橋元長。一八四一 S 一九一五。もと一鼎士。明治十年、東轟籍館(今の国立国会鼎館東京館)の発足当
カーひさ
初、館長となり、その下で鹿門が幹事を務めた。三橋はその後、新潟県参耶等の職を経て、三兆灸社の顧問となり、岩崎弥太郎の信頼を
のみちゆき
一九一六。仙台の人。岡鹿門に師事、仙台藩医学館の助教を務める。
得た。⑰﹁秋月︹胤永︺﹂秋月胤永。一八二四S 一九00。もと厶顎潘士。維新後、左院少議生となり、棗火学予術門・第二尋中学
ニ、0
校などの教師を歴任した。⑱﹁河野︹通之︺﹂河野通之。丁八四二S
維新後、陸軍省に入り、明治七年鹿門と漢堅二米利堅志﹄を刊行した。⑲﹁田辺(実明︺﹂鹿門門下の人物で、﹁宮城県士倫千仞懐﹂
(﹃在臆話記、第二集巻三所収)を撰したこと以外、未詐。⑳﹁姪易直云橋易直。一八五三S 一八九五。十金のとき、叔父の岡鹿円に
一八九七。⑳﹁岩崎君︹弥太郎ご欝弥太郎。一八三四S
一八八五。士佐の人。実恭小。明治Ξ年
従って東京に移り、司法省が招耽したフランス人の博士の下で法学を学んだ後、数県の官吏を歴任した。⑳﹁"男県﹂楊守敬の長男
楊必鈞。道承はその字。一八五九S
に薫凸をWた火坂商会を翌年引き継ぎ、Ξ川商会として独立。三菱商会・ニ"芙船会社と拡張発展させて河運業界に独占的地位を占め、
政藺として三菱財閥の基礎を築いた。
ーフ8-
訳文明治十七年五月二十九日、早朝旅支度を整え、速やかに出発しようとした。芝口の停車場で、見送りに来てくれた南摩
、イ小
小牧・鈴木、清国から来ている陳理事をはじめ、
野口・高橋・古山・横尾・堀江、及び彼らのお供をしてきた人たちと壁一した。汽車が煙仏に着いた。楊氏が関帝祠に送別の
席を用意していた。そこで、見送りに来てくれた重野・岩谷・日下部
し
二十二人の人に会った。そのうちの一人、張静雁氏がその父君の著﹃鰹丁先生文集﹄を下さり、﹁父は保定府の一織書院で督
学を務めております。北京ヘいらっしやつたら、ぜひお立ち寄りください﹂とおっしやつた。張沫亭先生は桐城派の長老で
一髪会館ヘ行った。楊氏が先に来ていた。二橋元長氏が艀を用・薫して下さっており、秋月・、河野・田辺・須田、甥の易直
らつしやる。張静雁氏にお願いして、紹介状を書いていただいた。二十二人の人たちと別れ、{謬や親族および徒弟たちと会
ーー、
1i
楊氏のご子息道承君が三論まで送ってくれた。艦長の永野讓作氏が艦内に案内し、活でもてなしてくれた。折しも夕陽が
照り、高い帆柱が林立し、多くの楼閣が並び連なり、富士山が空の半ぱに高くそびえており、とても喜ぱしい気持ちになった。
まもなく煙突の煙が上がり、汽笛が澄んだ音で鳴り粋き、見送りに来た人たちは去って行った。その眺問、ふと暗然たる思い
に襲われた。船はだんだんと動き出した。碇泊している船々から一斉に拍手の昔が起こった。祝賀の気持ちを表してくれたの
であろ、つ。
この旅行は三菱の社長岩崎弥太郎氏が乗船券を譜田してくださったおかげである。私は一介の系白生である。このような奇
特な方に出会うとは、思 い も か け ぬ こ と で あ っ た 。
原文三十日︹六日︺艦号東京、長五十餘丈、中設食堂。案卓帷帳、瑚礫肢目。 食膳光、粛有定則。左右客室、論嫩器具、
①
、]
﹂)
1、
極為獣。下室乗客二百餘名、男女雑沓。鴻竺男色王帯︹偏︺亦同乗。 竺伝高木氏製筆法、毎歳東航、販蓋一。今
春建籍鴛陽。楊系銘。会苹荒臼書<者>、設祭碑下。鴻氏名翻南。
ーフ9-
二人日、﹁中士風俗、無異日東。唯不若日東専事浄潔﹂。余日、﹁我国近学洋風、競事外観、漸失本色﹂。
就虫主睡。濯日、﹁已達紀海﹂。出視、沿海一一市、鰭戸漁村、歴歴指点。余曾聞艦上望那智深布。問之、日﹁已過﹂。
一九三。漸江省の人。明
︻注︼①﹁俳三︹均金︺﹂明治八年十一月から東京の栗五郎兵(平)衛宅に住み込み製筆伝習に従事し、後、上海に戻って篭嵩を営んだ。
明治期を通じて日本の文人たちと壽の深い人物。②﹁王暢斎︹仁乾︺﹂王仁乾。暢斎はその号。一八三九S
治七年に来日、十年から東京築地入舟町で書籍や文具を扱う商店履雲閣﹂を営み、四十三年に帰国した。③﹁高木氏﹂高木五郎兵(平)
みめぐり
衛(顎)のこと。束京日本橋で三百人の職人を擁した簡屋で、製筆界では江戸第一窒商と呼ぱれた人物。④﹁鷺碑﹂蒙恬は中国
戦国時代の秦の将軍。毛糖改良者としても有名。蒙恬碑は、筆問屋の高木寿頴が東京の三囲杣社境内に建てた﹁秦蒙将軍之象碑﹂のこ
と。高さ2m少々、幅1m餘り、渚里使黎庶昌(実は楊守敬)の祭額、楊守敬が﹁撰し弁ぴに書した﹂碑文、円山応挙の筆になる蒙恬
将軍像がある。除一焚は明治十六年四月十六日に行われた。
訳文三十日。船は東京丸という名で、長さ五十餘丈、中に食堂が設けられていた。テーブルや力ーテンが燦然と光り輝いて、
目にまぶしい。食事や船内での行動にはきちんとした規製あった。左右の客室には洗面用の器旦釜収けられ、それらの器具
は極めて辻緑であった。下の船室には乗客二百餘名、男女が雑踏していた。鴻耕Ξ氏と王傷斎氏も同乗している。耕Ξ氏は高
木氏に製筆法を伝授した人で、毎年日本に来て糖婁商っている。今春、隅田川の土手に蒙恬碑を建て、楊守敬氏が銘文を撰
した。以前、都下の書を善くする人々を集めて、その碑の下で除幕式が行われた。漏氏は蒙恬碑の建てられたその場所を藷藝
園と名づ け た 。
この二人が言うことには、﹁中国の風俗は、日本と違いがありません。ただ、日本では何事も汝保を心がけますが、そのよ
-80-
うな面は中国にはあまりありません一。私、﹁我が国は近来西洋の様式を学び、競って外観をよくすることに専念し、しだいに
本色を失いつつぁります﹂。
船室で一睡していると、察﹁紀州淋まで来ましたよ﹂という声が聞こえた。出て見てみると、塩屋の立ち並ぶ漁村がはっ
きりと指させるぐらいに見える。私は以前、船の甲板から那智の滝が眺められると聞いたことがあったので、尋ねてみると、﹁も
う通り過ぎた﹂とい、つことであった。
原文三十一日︹七日︺晨起。己<已>泊在神戸港。与楊君乗小輪船、詣中士公署。館占瓢、欝竜旗。黎理事︹汝逃出
迎。舌人楊錦廷導抵泉亭一浴。錦廷背文双竜、日ヌ秀仕年従荷蘭人、館善応寺、見駅卒文身、学其所為﹂。
黎君饗華饌。饌畢与楊君乗汽車赴大坂、訪山田栄蔵。楊君有古書癖、霧心斎橋書肆、得宋版﹃尚書﹄、大悦、投五十元
購取。
一九0九。貴州省の人。第二代及び第四代駐日公使黎庶昌の﹁従佳﹂
帰祁戸、已日暮。過黎君、暢斎耕三在。理事賦送長篇、 余和答。 飲至三更辞出。錦廷送至海岸。舟燈如日生、瀬気冷然。
︻注︼①﹁黄竜旗﹂清朝の国旗。②﹁黎器︹汝壁黎汝謙。一八五二S
(父の兄弟の孫)。明治十五年八月九日から同十六年二月二日まで杣戸正理事官の任にあった。③﹁舌人欝廷﹂﹁舌人﹂は通訳。楊錦廷
は明治十五年二月ごろから同二十三年末ごろまで祁戸器府の﹁劣白東文翻腎﹂(日木需覺習い)﹁東文翻訳官﹂(B本需訳)を
務めた。④﹁墨﹂温泉業の意か。当時、神戸の諏訪山に前田又吉の響する禦鷲Y﹁常盤楼﹂があった。その類のものを言うか。
⑤﹁鳶寺﹂未詳。⑥﹁山田織﹂当時大阪で銘道館という出版社の﹁常﹂を務めていた山田讐のことか。⑦﹁理事S和答﹂このと
き黎汝禦賦した詩は、﹁甲申五月七貝日本岡君千仭、将游中国、道希戸留飲、詩以送行﹂と題するもので、神戸の漢詩人水越耕南(一
- 81-
一九三一己の編になる﹃翰墨因緑﹄(船井弘文堂、明治十七年十二月刊)上巻に収録されている。黎汝謙の﹃夷牢渓臓吐Ξ(一
一年刊)巻三にも﹁甲申五河七貝日本岡鹿門千将游中国、道希戸、留飲︹岡姦於史学、著有酋戴勺札事・読史紀昇諸書行世︺﹂
八四九S
九0
と題して載っているが、﹃語菌縁﹄所収のものとは何か所か字句が異なっている。原初の形に近いと老えられる﹃飽菌縁﹄所収のも
のを引用しておく。﹁不為五嶽游不信名山高。不作江海行、不知在堂勘。不登韓欧門、詣得知人豪。頴一欝語経千載、古今一轍如同条。
鹿門先生富才藻、眼空八極千層霄。閉戸著坐叢河、抗心希古稽虞姚。"桜大義一籍伐、賢好洞總謡褒。振襟直嫌九州艦、落一従覚山
河揺。胸中塊塁消不尽、乗椎更欲尋周郊。尭封禹跡禽討、呉山楚水窮捜胤。平生壮志小東海、此盆<欲躍義巣。神升赤呉汁征際放懐
独立器蕭。需回首望郷国、捕桑烟点器毛。方今四海同文軌、雄張翻交。白浪如山船如馬、多君此役不雰。他時游熊得路、
紀游詩草応盈超。一方、鹿門が和した詩は、﹁杣戸黎理事招饗、見贈長古一範次部以答﹂と題するもので、彼の﹃観光游草﹄巻上に載っ
ている次のような作品。﹁棚翻黄竜研、層閣倚天高。山気一業翠、海光漾泓瑚。一断千里勢、頓嘗写球。使君大国英、盛名衆所褒。藻
思逐屈宋、道源出虞姚。興来揮筆翰、神采凌青霄。此Π陪盛宴、八珍僻鴛顧余一無能、語翠孟郊。一字一珠涯割腸亊鍵肌。大鵬
萬里翼、鰐鷆一枝巣。何為鵬海域、徒自嘆報蕭。巨鞭器、長風吹鬢毛。使弓糧志、辱収列下交。鰯句軽贈、深蟠口金巳慰労
満酌不敢辞、扶酔上車朝﹂。
コカ、た
訳文三十一日。朝起きると、すでに神戸港に停泊していた。楊守敬氏と艀に乗り、清国の理事府ヘ行った。館は高台に位置
し、黄竜旗が掲げてあった。黎理事が出迎えてくれた。通訳の楊錦廷氏が温泉料亭に案内してくれ、一風呂浴びた。錦廷氏は
背中に双竜の入れ墨をしており、こう言った。﹁私は昔オランダ人の供をして善応寺に泊まったことがあるのですが、そのと
き駁者の入れ墨を見て、まねたのです﹂。
黎氏が中国料理でもてなしてくれた。食事が終わってから、楊氏と汽車で大阪ヘ行き、山田栄蔵氏を訪問した。楊氏は古書
癖があり、心斎橋の書肆を次々に訪ねて、宋版﹃尚書﹄を見っけて大喜びし、五十元出して購入した。
-82-
神戸に帰ったころには、すでに日が一北た。黎氏の所ヘ行ってみると、楊斎氏と逃一氏がいた。理事が長篇尋を詠んでく
れたので、私も和して答えた。真夜中まで飲み続けた後、辞して退出した。錦廷氏が海岸まで送ってくれた。舟の明かりが星
のようで、澄んだ空気が冷やかであった。
原文六阿一Π︹八日而鳴儒。起見淡島、已在北同後是問総称補洋。右翻一備、左松讃、群島碁敷、恬器︽平。欧人
過此、哮賞不已、日﹁山海秀麗、宇内無双﹂。楊君日、﹁長江一一匝多類此問。唯樹木斬伐、山多棄ル、不似此地蒼欝可愛﹂。
一八九九。謹の人。﹁田島﹂は明治の初め、噐で私塾符煮繁口を開いていた田島条
猶記余游姫路日、与亀山・羽田・田島・塘諸友、泛舟誕艇、割鱸為鯆、森飲三日。屈指廿年、不知諸友存没、為之愉然。
0
このときのぎ鹿門晩年の回顧録﹃在N越第ご尖﹂五の文久元(一八六一)年六月六、七Πの条に記されており、そこでは、﹁羽
︻注︼①﹁屯山﹂は屯山小工号は節宇。一ハニニS
力
田﹂は﹁羽根田﹂となっている。また、﹁塘﹂ではなく、﹁堤キ之介﹂について次のような記城がある。﹁堤孝之介儀至。亦同空戈孝之
ノハ先人以儒業よ女掘。号他ル有他山染、二U行^。
訳文六月一日。,夜明け前に出航した。起きてみると、淡路島はすでに背後にあった。この辺りは播磨泌と肌霖する。右に藝
備に相対すれぱ、左手は豫讃を撫でることになる。群れなす島々が碁冶のように点在し、穏やかな波が熨のように平らに広がっ
ている。ヨーロッパ人がこの辺りを通ったとき、﹁山海の秀脆なること、{于内並ぶものがない﹂と﹂褒め称えてやまなかったと
いう。楊氏が言うには、﹁長江一曹も、この辺りに似ている所が多いのですが、ただ、樹木が律され、禿山が多いため、
この辺りのように木々のよく生い茂った美しさはありません﹂。
-83-
今も覚えているのは、私が姫路に遊んだときの事で、亀山・羽田
田島・塘の諸友と海に舟を浮かべ、鱸を割いて鯆とし、
Ξ日間大いに飲んだことである。指を屈すれば二十年前の事である。 彼らは今も元気でいるのやら。そう思うと、悲しくなっ
7
原文二日︹九日︺防長諸山、腕挺起伏。忽見粉壁千家擁山脚。此為赤間関。休輪下乗客。山陽南海二道、至此而尽。其西連
峯際天。為豊筑諸山。海峡漸艦、波濤山起。臆室動揺、殆不勝坐。転出大洋。駛走餉時、不復見陸地。此為玄海洋。時見両肥
山髪。転針東指、進入峡 間 。 沿 岸 崟 轡 秀 出 、 一 洗 人 目 。
②
申牌達長崎港。丸山子堅︹鑑一小舟出迎、日﹁待Ξ日﹂。子堅官鹿児島、百里出迎、友誼可感。与楊君上岸、詣中士公署、
一九一六。信券人。鹿門が大学助教であった時の教え子。維新後、明治四年
見余理事︹鏘︺。壁間書幅,楊君廿年前所書贈。詔日午餐。
是夜子堅招歌妓張宴。尽酔而寝。
︻注︼①﹁丸山子堅︹錨︺﹂丸山鏥。子堅はその字。一八四二S
飯田県学校教授、七年山梨県権少属、九年鹿児島県六爲などを務めた。②﹁余理事︹竺正しくは余瑠。明治十年十二月五日から同
十一年六月二十九日まで長崎副理事官を、同年六河三十Bから同十六年二月二日まで長崎正理事官を、それぞれ務めた。
訳文二日。防長の山々がうねうねと起伏している。千軒もの家々の白い壁が山の篦を取り巻いているのが見える。ここが赤
問関である。船を停め、乗客を降ろす。山陽・南海の二道はここまでで、西には連峰が天にも届かんぱかりの姿を見せており、
それらは豊筑の山々である。海峡がしだいに狭くなり、波濤が山のように立ち、船室が動揺し、ほとんど座っていられないほ
-84-
どであったが、転じて大海原に出て、しばらく進むと、もはや陸地は見えなくなった。この辺りを玄海泌という。折しも両肥
の山並みが見えた。針を転じて東を指し、峡問に入って行った。沿岸の峰々は秀でていて、人の目をさっと洗ってくれるよう
な感じである。
午後四時ごろ、長崎港に着いた。丸山子堅が小舟で出迎えてくれ、﹁三日問お待ちしました﹂と言った。子堅は鹿児島で官
職についており、はるぱる出迎えに来てくれたのだ。その友誓私を感動させてくれた。楊氏と上陸し、清国の理事府ヘ行き、
余理事にお目にかかった。壁間の書幅は、楊氏が二十年前にきて贈ったものであるという。翌日の午餐を約束した。
三日︹十日︺晨与子堅観台湾西南二役戦死碑。大石巍然。重野成斎撰文、岩谷一六書字。極為巨観。過小曾根乾堂、
この夜子堅が藝妓を招いて宴を張ってくれた。私は思う存分酔っ五た。
原文
余又1罰。
赴余君之期。楊君及西岡宜軒︹途明︺先在。饗誤。命車出観。議坂路登一酒楼。楼占邱嶺、老欝屈、緑陰満地。倚欄鵬
望、港内全勝、瞭如縮写図。一崟秀出、日玉女。宜軒更指一峯日、﹁是為眉山↑。﹁大海中分玉女崟、蛾眉翠黛為誰容﹂。此句妙
処、在湊合山名。人皆知有玉女峯、而不知有眉山。進洋饌。宜軒有送詩。
、ーノ
忽聞本艦号砲、倉皇辞別。子堅送至艦上。婿月在波、燈火人語、凉色可掬。已出港口、唯見候燈熊照海。我游自此域外。
如何不顎一。
一九一二。佐賀の人。維新後、官命を受けて洋行し、その後、明治八年、判W任ぜられ、大審院判事
一注︼①﹁小曾催堂﹂一ハニハS一八八五。誹は豊明。讐はその号。簑刻家。事条としても活躍した。②﹁西岡宜軒(途明︺﹂西岡濫明。
宜(宜)軒はその号。一八三五S
-85-
を務めた。明治十七年当時は長崎控露院長。③﹁大海S為誰容﹂日田の僧、峯月(?S 一八0五)が国東半島の沖に浮かぶ姫島の美
景を詠んだ﹁姫島i中の句。④﹁玉女峯﹂如島のこと。⑤﹁候燈﹂船舶の出入の安全を図るために、港の入口に設けた灯台。
訳文三目。朝、子堅と台湾・西南二役戦死者案碑を見た。大きな石が高くそびえ、重野成斎の撰文岩︽口一六の書になる。
極めて堂々として立派なものであった。小曾根乾堂氏を訪れ、久開を叙した。
余氏との約束に赴くと、楊氏と西岡宜軒氏がすでに来ていた。中国料理でもてなしてくれた。車を命じ、外の見物に出かけ
た。坂道を登り、ある酒楼に入った。楼は丘の頂に位置し、老松が蟠屈し、緑陰が地面を覆っている。欄の前から眺め渡して
みると、港内のあらゆる景色が、縮写図のように一目瞭然である。その中で一っの峰が秀でており、玉女とNれているとい
0
う。宜軒氏がまた別の峰を指さし、﹁眉山といいます﹂と教えてくれた。﹁大海中分す玉女宏夫蛾眉盡、{誰劣にか容
づくれる﹂。この句の妙は、山名を合わせたところにあるが、人はみな玉女峯の存在は知っているものの、眉山は知らない
西洋料理が出された。宜 軒 氏 が 送 別 の 詩 を 詠 ん で く れ た 。
にわかに三菱隣号砲が聞こえたので、あわただしく草一した。子堅が甲板ま区ってくれた。美しい月が波問に映り、燈
火が人のように語りかけ、涼しさか十分に感じられる。港口を出てしまうと、候燈が明るく海を照らしているのが見えるだけ
である。私の旅もここから先は域外である。どうして暗然たる気持ちにならないだろうか。
四日︹十一日︺初発横浜、乗客二百餘名。至袖戸、十減五六、至赤馬関、十減七八、至此井中外諸客、二三十名。艦室
f
原文
与楊君囲碁。余極低手、楊君亦不入格。披公所謂﹁勝固欣然,敗亦可笑一者。楊君金石学、優為一家。東游以後、就好
)
闌{^
捜索階唐古書、考証同異、大有所得、日﹁<恋目貴国四年、無涓粥国。唯為契周羅古書、刻﹃古逸叢書﹄二十六種、
(
事家、
-86-
)
、
﹁正北見一黛架=。朝鮮南彊高山﹂。
一八九七。明治十五年二月
購得陌唐逸書百餘筐。此外参考古書、撰﹃日本敷倒録﹄二十巻。 此皆宋元諸儒所未夢見。故難嚢一条然、不少悔﹂。余示松崎
6
傑堂粂刻書目。楊君悦甚、日詔書材料、不可少此書﹂。艦人日
︻注︼①﹁岐公S可笑﹂﹂﹁披公﹂は蕪東披、すなわち殊拭。その﹁観棋﹂詩の句。②﹁契厶﹂黎省。一八三七S
十四日から同十六年二河二日まで第二代駐日公使を、同二十一年一月二日から同三十四年一打二十九日まで第四代駐日公使を、それぞれ
務めた。桐城派に連なる文人でもあった。③弓古逸業ご二十六種﹂黎庶昌が、中国本士では早く亡び、日本にだけ残ってい奔物を
集めて編ん益響。いずれも彼が日本に在勤中に収染し、それを楊守敬が校正して、日本で原形そのままにル對して刊行した。収められ
S
一八四四)は氾後の人、鰯子老。ここでいう
盲物は総司二十六種。④﹁﹃日本訪書録﹄二十巻﹂﹃日本訪1盡三十巻のことか。楊守敬が一古逸叢点に収められたものをはじめ、
日本で嘱目し奨古亨すべて記録したもの。⑤﹁倫繰芋書目﹂倫際竺一七七一
﹁書目﹂は、中国では亡侠し日木に残存していた哲本古籍の書名を辺呈が記し、鮪単にその特色を挙げた﹃擬刻書目﹄一繰﹂のこととぢぇ
られる。
訳文四日、横浜を出た時は、二百餘名の乗客がいたが、神戸に着くと、その五、六割に減り、赤問関に着くと、さらにその
七、八割に減り、長崎を出た今は、国内外のもろもろの乗客を合わせても、二三十名で、船室内はひっそりとしている。楊氏
と碁を打った。私はひどいへぽ系、楊氏も及第と言うほどではない。東契言うところの﹁勝てぱもちろん嘉しいけれど、
負けても笑うことができる﹂というやつである。楊氏の金石学は優に工永をなすものであったが、日本に来て以後、好事家か
ら古書を捜し求め、同異を考証して、大いに得るところがあった。楊氏が言うことには、﹁私は生苗で四年間の役人生活をし
ましたものの、国のためになる事は、ちっともできませんでした。ただ、黎公のために古書を博捜し、﹃古逸業昌二十六種
を製作すべく、階唐の逸書百餘筐分を購入しました。そのほか、古書を嬰口して、﹃日本訪書録﹄二十巻を撰しました。これ
-87ー
はいずれも宋元の諸儒の夢想だにできなかったことです。ですから、懐の中が寂しくはなりましたものの、少しも悔いてはお
りません﹂。私は松崎傑堂が集めて刻した書目を見せてあげた。楊氏はとても喜び、言うことには、﹁珍しい本を探し求めるの
に、この本はなくてはならないものですね﹂。
船員が教えてくれた。﹁真北に雲のような黒い筋が見えますが、あれは朝鮮の南端の高山です﹂。
原文五日︹十二日︺怒波山揚、微覚舷暈。徒移艦上、始復。至午後海水陽。楊子江東洋第一大河、末流能濁海水、若干
里其為巨澤可知。見一島蜘挺亘十数里問其名無知者。茅坤尋雄肩図﹄、﹁長発海処、有永子山﹂。恐此島。艦已進江口。
四望無際、不知其行江中、暹見旗幟林立。此為呉湘砲臺。至此始望両岸。一水自東南而注、為黄浦江。自此至上海、半日程
以潮澗碇泊。小輪船来迎。楊君要同載。余以日噛期明日上岸。
︻注︼①﹁茅坤﹃篠篇図﹄﹂茅坤ではなく、明の鄭若曾が編纂した姦瓢鼎﹄という書物かある。それを言うか。永子山は、その位置と大
きさから、現在の長興島と推測される。
訳文五日。奴繍が山のように盛り上がり、かすかに目まいを覚えた。甲板に移ったら、ようやく治まった。午後になると、
海水が濁ってきた。揚子江は東洋一の大河で、下準は若于里にわたって海水を濁すのである。水の集まりとしてのその巨大
さが知られる。腕艇と十数里も続く島があったので、その名を尋ねたが、知る者はいなかった。茅坤の霽際篇図﹄に﹁長江
の海に注ぐ処に永子山有り﹂とある。その永子山がおそらくこの島であろう。艦か河口に入った。しかし見渡す限り、果てが
なく、川の中を進んでいることに気付かないほどである。はるか向こうに旗幟が林立しているのが見える。呉泓砲台である。
-88-
ここまで来て初めて、両岸が見えてきた。東南か鳥轡込む川がある。黄浦江である。ここから上海までは半日の航程である。
村上
潮か引いたため、碇泊した。艀が迎えに来てくれた。楊氏が一緒に乗りましょうと誘ってくれた。しかし、日暮れ時であっ
たから、私は翌日上陸することにした。
参考文献
単行本山田栄編輯兼般﹃脩道館事務殺止邑(一八八三年)。釜耕嘉宗堺N称﹄(船女文堂、一八八四年)0
繁次郎﹃私撰投票岩手県里尋貝列伝﹄(哲進堂、一八八九年序)。村田誠ソ編輯﹃神戸開港三十年史﹄(開港Ξ十年紀会六
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エーツ 編 集 ﹃ 明 治 大 正 人 物 事 典
ソシエーツ、三0
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三年)等。
(やまさき・たえこ
一、とみた・さゆり
(おがわ・さとこ
(しぱた・きよつぐ
本学大学院生)
本学大学院生
本学大学院生
本学大学院生)
本学教授)
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清国布教について1松本白華・北方心泉を中心に﹂(1C1S次世代国際学術フォーラムシリーズ第二輯﹃文化交渉にょる
変容の諸相﹄、二0
川女子大 学 紀 要 ( 人 文 ・ 社 会 科 学 ) ﹄ 第 五 十 八 巻 、 二 0
(力い・りょうこ
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