ダニエル・アラッス「衣装箱のなかの女」

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ダニエル・アラッス「衣装箱のなかの女」
矢
橋
透 訳・解題
Daniel Arasse, The lady in the chest, translated from French and noticed by
Toru YABASE
――これはピンナップだろうか?
――それ以外のものではないね。純粋かつ単純にピンナップさ。
――それは,貴方がその言葉で何を言おうとしているかにもよるが。
――単純なことさ。美しい裸の女……というか,そのイメージ。見つめる男の欲望をそそる裸婦のイ
メージ,性的対象としての女のイメージ。
――『ウルビーノのヴィーナス』がピンナップか!いやはや貴方ときたら!
――そうさ,ピンナップだよ。それにこの絵の歴史は知っているだろう。グイドバルド〔デラ・ロー
ヴェレ。当時カメリーノ公で後のウルビーノ公〕がそれをティツィアーノに注文したさい,彼の父親は
……
――誰の父親?
――グイドバルドのさ。彼の父であるフランチェスコ・マリア〔デラ・ローヴェレ。ウルビーノ公〕
は,すでに二年まえ同じモデルの肖像画を買っていた。それが,いまはフィレンツェのピッティ美術館
にある『ベッラ』だ。だがベッラは美しい衣装を身にまとっている。そして実際のところ,グイドバル
ドは彼女の裸体の肖像を所望したというわけだ。
――貴方は自分の言っていることを意識しているの?
――いや,何のことかな?
――その話に,ベッドのうえで眠っている犬がグイドバルドの母であるエレオノーラの犬とほぼ同じ
ものだと思われること〔ティツィアーノの描いた『エレオノーラ・ゴンザーガの肖像』には,同種類の
眠る犬が描かれている〕
,さらには絵を買い取る金が足りなかったときグイドバルドが母親に無心して
いることを付け加えれば,まったくのところ,エディプス・コンプレックスの匂いがしてくるじゃない
か!
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――それについては分からない。グイドバルドの両親にたいする感情的関係にかんする資料は,まっ
たく残っていないからね。それにようするに,そんなことは僕にとってはどうでもいいことだ。確かな
ことは,グイドバルドが裸のベッラを,というか服を脱いだベッラを望んだということ。つまり彼にとっ
ては,それがピンナップであったということ。一件落着。
――貴方には驚くよ。でもまあ認めよう。結局のところ絵に言及するさい,グイドバルドがそれを
donna ignuda,「裸の女性」と読んでいるのは事実だからな……
――だからピンナップさ。
――でもやはり,貴方のような美術史家にとっては,そう言ってしまうのはややアナクロニスムの気
があるんじゃないの。
――歯に衣を着せてもいられないさ。ベッドに横たわった裸の女が我々を見つめ,自らの性器をなで
ている。それで,性的な誘いをしていないとは言えないだろう。むしろ,あけすけでさえあるじゃない
か?
――たしかに,彼女の手はね。でもやはり,ピンナップというのは,まったく正確と言うわけではな
い。ピンナップとはその名が示すように,壁にかけられたり留められたりするイメージだ。そのことが
たぶん,ピンナップと『ウルビーノのヴィーナス』の唯一の共通点だろう。絵のほうも,壁にかけるべ
く描かれたわけだからね。だがそれを除けば,あとはずいぶん違っている。まずピンナップとは写真,
ないしは写真に撮られた絵だ。貴方は『リュイ』のアトラン〔ジャン=ミシェル。フランスの画家,デ
ザイナー(一九一三―六〇)〕のピンナップを思い出せる?『リュイ』は読んだことがない?残念だな。
とにかくピンナップとは,無限に再生可能な写真ないしは絵ということになる。この絵の場合はそうじゃ
ない,模写が作られたとしてもね。それに僕の記憶が確かならば,最初はそうした写真は,アメリカ兵
たちが強いられた性的禁欲の手慰みにする一助に供されたはずだ。もう誰が言ったか忘れたけれど,マ
たなごころ
スターベーションとは「心を救う 掌 」だと。たしかもっとも有名なそうしたピンナップの一つは,赤
いサテンのシーツに裸で横たわったマリリン・モンローの写真だった。その後ピンナップは多様化して
いく。遠距離トラックの運転手の操縦室とか自動車整備工の仕事場に溢れていく。いちど,ピンナップ
と車のあいだの関係を考えなければならないだろう。トラック運転手の場合は納得できる。彼らは長い
こと路上にいるわけだから。でも整備工は?彼らは毎晩家に帰って,女房とベッドを見出せるわけだろ
う。なぜ彼らにピンナップが必要なのか?セックスと自動車整備とグリース,この整備工にまつわる三
題噺の落ちはいかに?これは,なかなかよい問題設定だと思うんだが。
――話がそれているぜ。
――そうでもないさ。ようは,僕は『ウルビーノのヴィーナス』が性的興奮剤として使われたとして
も,代用品として使われたとは思わないということ。グイドバルド・デラ・ローヴェレは,欲望を満足
させるのにはほかの方法を持っていたはずだ。申し訳ないけど,この donna ignuda がピンナップだと言っ
てしまうことで,貴方はことを単純化し捻じ曲げていることになる。時代,性的慣習,そうしたイメー
ジが見られる状況が,同様の分析を行うには違いすぎる。
――僕は『ウルビーノのヴィーナス』を分析したわけじゃない。
――それこそ,僕が貴方を批判している点だよ。
――僕が言ったのは,それが何の役に立ったのかということだけだ。つまりは,グイドバルドを性的
に興奮させるということ。そしてそのかぎりにおいて,ティツィアーノによって描かれたとしても,そ
れはピンナップと同様の機能を持っていたということさ。
――分かった。それが性的興奮剤であることは認めよう。実際この人は誘っているからね。セックス・
アピールがある。
――それ見ろ。
――でもそれは,たぶん寝室にかけられるよう描かれた。まさにグイドバルドの寝室に。そして,そ
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のことによって状況はまったく変わってしまう。
――いったいぜんたい,どうして?
――さてさて!貴方も先刻ご承知のように,当時はイメージに魔術的な力があるとされていた。なぜ
夫婦の寝室に美しい男女の裸体画をかけることが勧められていたかも,知っているよね?
――ああ,もちろんだ。女性が受胎のさいそうした美しい肉体を見れば,生まれる子供も美しくなる
というんだ。ついでながら,そのことはルネサンス時代のベッドのうえで行われていたはずのことをい
ろいろと想像させてくれる。でも僕には,それがなぜピンナップと結びつかないかが分からない。
――分かりきったことじゃないか,君。それじゃそれは,結婚生活において見られるピンナップとい
うことになり,さらにはグイドバルドというよりはその妻用のピンナップということになってしまう。
それがずいぶんと特殊なピンナップだということになるのは認めるだろう。
――こんどは貴方がことを捻じ曲げているぜ。この絵がグイドバルドの結婚のさいに描かれたのでは
ないことは,貴方も知っているはずだ。一五三四年に彼がジュリア・ヴァラーノと「結婚」したとき,
花嫁は一〇歳にしかなっていなかった。
――ああ,でも一五三八年に絵が描かれたさいにはジュリアは一四歳で,結婚はこんどは完結されえ
たはずだ。
――分かった。でもとにかく,それはいわゆる「結婚祝のための絵画」ではない……
――そう言っているわけじゃない……
――いずれにせよ,一五三八年のヴェネツィアでは,すでに「裸婦」画の長い伝統が存在した。そう
した伝統は,たぶん一五一〇年以前にジョルジョーネによって描かれたドレスデンの『眠れるヴィーナ
ス』とともに生まれたのであり,その絵は結婚祝のための絵画だ。それはいい。でも一五三八年段階で
は,裸の女を描くのに結婚という理由づけは必要なかった。
――僕は『ウルビーノのヴィーナス』が結婚祝のための絵画だとはいちども言っていない。僕が言っ
ているのは,ティツィアーノが絵を構想するさい,それを結婚というコンテクストにおいて行ったとい
うことだ。
――こじつけだね。
――単なるこじつけじゃない。手に導かれてだ。
――どの手?
――性器をなでる左手。
――そりゃいい。でも,それは単なる性的誘惑じゃないか。
――だがやはり,それはふつうの誘惑ではないんだよ。一九世紀になると,観客はこの仕草にたいそ
う腹を立てることになる。マーク・トウェインでさえ,この絵がおぞましく,かつて見たなかでもっと
も「下劣な」ものだと感じたんだ!そのさいには,彼もユーモアを欠いていたわけだ。善良でいともま
じめなクロウとカヴァルカゼル〔ジョゼフ・クロウとジョヴァンニ・カヴァルカゼルは,ティツィアー
ノにかんする古典的文献である『ティツィアーノ,その生涯と時代』(ロンドン,一八八一年[二版])
の共著者〕は,ティツィアーノに関する分厚い著作のなかで,この左手に顰蹙していない。それもその
はず,一言も言及していないのさ。彼らは右腕と右手,そしてバラの花束は描写しているけど,左手に
は無言のまま。まるで,ウルビーノのヴィーナスには片手しかないかのように!
――そのテクストは知っている。彼らは何も証明していない。一六世紀の観客はそんなに簡単に顰蹙
しない。それに気を悪くするのは,一九世紀のぶりっ子のブルジョワたちだけだよ。貴方は,ピンナッ
プを愛好するブルジョワって知っているかい?
――さあね。公にはたぶんいないだろうが,密かな愛好家は……とにかく,この仕草を一般化するこ
とはできない。それは一六世紀においても,まったく例外的だ。ティツィアーノはそれを二度と描かな
かったし,他の画家もしていない。一五三八年段階でも,それは少々大胆,ポルノグラフィーとの境界
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すれすれだと思われただろう。
――だから言ったじゃないか,ピンナップだって。
――ピンナップはけっしてポルノじゃない。それは裸かしどけない格好をしているが,結局のところ
おとなしいものだ。それは自己顕示し挑発することで充足し,世間に波風は立てない。
――それで?
――ティツィアーノの絵は違う。ある意味たしかに,それは卑猥だとも言える。だがそれは,結婚生
活において認められ勧められてさえいる行為を公の眼にさらし,前景化しているからだ……
――いやいや,貴方は結婚のことしか考えないんだな!
――まあね。だがとにかく,ロナ・ゴフェン〔
『ティツィアーノの女性像』(イェール大学出版,一九
九七年)の著者〕は,一六世紀においては女性のマスターベーションはある種の状況においては容認さ
れ勧告されてさえいたことを完全に立証している。当時の科学は女性が歓喜の状態においてしか受胎で
きないことを主張していて,医者たちは既婚の女性に,子供を持つためには交接に備えて手淫で準備を
することを勧めていたんだ。また,男性側の習慣にかんしてもかなりほのめかされている。ルネサンス
ラ テ ン ・ ラ ヴ ァ ー
におけるラテン的恋人とはどんなものだったのだろうか?ところで,司祭たちもまた……
――何だって,司祭たちも?
――司祭たちもマスターベーションを奨励していたんだよ。というのも,貴方も先刻ご承知のように,
教会人にとって合法化された性の唯一の形態は結婚のうちにあり,それはただただ子孫の再生産を目的
としなければならなかった。よって結婚においては,女性は受胎の確率を高めるために――子の生産を
伴わない快楽のためだけの交接という罪を自ら犯す,またとくに夫に犯させる危険を避けるために――
性的結合の「準備をする」ことができた,というかほとんどせねばならなかったんだ。だから,絵の仕
草は一六世紀においては,不正な行為の準備をするピンナップと同様の仕草とは,考えられも見られも
しなかったはずだ。ロナ・ゴフェンは,右手に体を傾けた女性の姿勢が同種の勧奨に一致していること
を示してさえいる。つまり,この絵は結婚祝のためのものではないとしても,結婚というコンテクスト
のなかで構想された絵画であるということだ。さらに言えば,ここで結婚を暗示しているのは手だけじゃ
ない……
アトリビュート
――分かっているよ。
『ウルビーノのヴィーナス』にかんする陳腐な図像学的「象徴物」のことだろ
う。窓辺にあるミルト,女性の右手に握られたバラの花,奥に置かれた二つの衣装箱,そしてベッドの
うえで眠っている子犬……
――いつもはそうした象徴物は貴方のお気に入りなんじゃないの。貴方のような図像学者には。みん
な貴方のことをそう呼んでいるんだけど。
――図像学者だからといって,僕には眼がないわけじゃない。この場合の象徴物はその名に値する何
も持っていない。衣装箱にかんして言えば,もちろんそれは若い許婚が夫の家に持参金としての衣装を
入れてくる輿入れのための衣装箱を思い起こさせる。だが,高級娼婦だって――この絵の女性はまさに
その一人だ,彼女の住んでいる豪華な邸宅を見ればいい――この種の衣装箱を私室に持っていたことは
確かだ。犬はといえば,それは周知のとおり忠実の象徴だが,同様に色欲の象徴でもある。いずれにせ
よ犬は眠り込んでいて,ティツィアーノはマドリッドの『ダナエ』
〔プラド美術館所蔵,一五五三年〕
では,黄金の雨に変身したジュピターによってダナエが懐妊させられる瞬間にさえ,主人の寝台のうえ
で眠りこけている別の子犬を描いているんだ。よって〈寝台のうえで眠り込む子犬〉は,かならずしも
夫婦の忠実さの象徴というわけではないことになる。
――図像学ばんざい!
――そうさ,まさにばんざいだよ。こうした事物はかならずしも象徴物とは限らないし,いずれにせ
よその意味は明確で単一ではない。結局のところ窓辺のミルトは単なるミルトに過ぎないかもしれない
し,バラは単なるバラに過ぎないかもしれない……
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――そして若い女性は単なるピンナップだと。読めたぞ。それぞれの事物は個別的には,それじたい
明確で議論の余地のない意味を持たない。それはいい。だがそれらを関連づければ,そこに意味をより
明確にするあるコンテクストが編み上げられるんじゃないか。その意味的一貫性が結婚への暗示である
ような意味の網の目が。
――こだわるね。だが貴方は,絵がグイドバルドの結婚祝のために描かれたのではないことを認めた
じゃないか……
――そのことはずっと認めてきているよ。僕はただ,
『ウルビーノのヴィーナス』のイメージ系が結
婚にまつわるものであるなら,ティツィアーノはそれを極めて精妙に扱っていると言えるし,結果とし
て裸の女性の形象はまったく異なったものとなっていると思うんだ。
――それじゃあ,それがピンナップでも結婚祝の絵でもないというならば,いったい何なんだ?さっ
さと言ってくれよ。
フェティッシュ
――偉大なるエロティックな崇拝物だと。マネが『オランピア』を描くために,三二五年後にこの絵
から想を得たというのはどうでもいいことじゃない。もしそれがピンナップでしかなかったのなら,マ
ネはそれを二度も見に行きはしなかったろうし……我々だって今日いまだに議論したりはしていないだ
ろう。
――もう付き合っていられない。貴方は議論を複雑にしすぎるよ。僕としては,偉大なるゴンブリッ
ジの言うところで自足している。つまり絵とは複数の意味を持っているのではなく,たった一つの意味
しか持っていない。それが絵の支配的な意味,意図された意味ないしは主たる意図だ。残りは無駄な解
釈を重ねることにしかならない。我々がいまだに『ウルビーノのヴィーナス』について語っているのは,
それが偉大な絵画であるからだ……
――ティツィアーノに感謝というわけか。
――一点,それがすべてさ。
――ひとつだけ質問させてくれ。マネは『オランピア』を描くにあたって,なぜほかの絵ではなく,
この絵を見に行ったんだろう?貴方が言うようなピンナップならば,ほかにもごまんとあったわけじゃ
ないか。なぜこの絵を求めたんだ?
――それは,僕には興味がない種類の質問だね。僕は占い師じゃないし,占いは嫌いなんだ。
――これは占いじゃないぜ。
――ほかの何だというんだ。貴方だって,マネがこの絵を見ながら考えていたことが分かるとまでは
言わないだろう!マネが図像学や絵画史にかんして無知であったことは確かだ。彼はようするに画家で
あって,歴史家ではなかったのだからね。
――よく言うよ。だがマネはそこにまさに何かを見たんだ。彼に『オランピア』を描かせ,その数年
まえには『ウルビーノのヴィーナス』の小さな模写を描かせるに充分なほど興味を引いた何かを。
――マネの視線を再現できるというの。そう思えるほど貴方もナイーヴではないだろう……
!
!
!
!
――いや。僕はただ絵を見ることを試みたいだけなんだ。図像学を忘れること。絵がどのように機能
しているのかを見ること……
――それは美術史ではない。
――むしろ,美術史学にはそういう習慣はなかったと言おう。たぶん,変化が訪れるべきときなんだ。
美術がかつて歴史を持ち,いまだに持ち続けているとするなら,それはまさに芸術家の仕事,なかんず
く過去の作品にたいするその視線,芸術家が過去の作品を自らのものとする仕方によっているわけだか
ら。もし貴方がそうした視線を理解しようと試みないなら,ある過去の絵画のうちに後世の芸術家の視
線を捉ええたものを再発見しようと試みないなら,美術史のある部分の全体を,そのもっともアーティ
スティックな部分を否定することになる。
『ウルビーノのヴィーナス』の場合,『オランピア』が絵画の
モデルニテ
近代性の誕生に寄与した作品であるだけに,それはより嘆かわしいことになると言わねばならない。そ
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して美術史を研究している貴方が,そうした質問が自分には関わりがないとたかをくくってしまうわ
け?『ウルビーノのヴィーナス』の驚くべき受容史に,そくざに関心がないと言ってしまえるの?だけ
どそれは,貴方たちが絵の「主要な批評史」と呼んでいるものに属しているわけでしょう。分析を行っ
ている者が,批評家でなくて画家であるとしても。
――どっちみち,マネは僕が正しいことを証明してくれるさ。彼もまたそこにピンナップを,こう言っ
たほうがよければ高級娼婦を見たんだ。
『オランピア』において彼は,ヴィーナスを客待ちする娼婦に
してしまったわけだから。
――またしても図像学じゃないか!絵自体を見てくれよ!僕が語りたいのは,絵の構成,その空間,
形象と背景の,形象と見る者である我々の関係のことだよ。
――それについてはすべてが言われている。
――本当かねそれは?
――貴方は実際,誰もが知っていることをもういちど言ってもらいたいわけ?
――まさかということもあるぜ。
――分かった。ではやってみよう。でもかいつまんでね。一五三八年にティツィアーノは,ドレスデ
ンの『眠れるヴィーナス』から着想を得て絵を制作した。ティツィアーノは『ヴィーナス』をよく知っ
ていた。というのも彼自身が,一五一〇年にジョルジョーネが死んだあと,その絵を完成させた(ある
いは加筆した)
からだ。ジョルジョーネはその眠れる裸婦を風景のうちに描いていた。四半世紀後,ティ
ツィアーノは主人公を目覚めさせ(彼以前にも多くの画家が試みたように)ヴェネツィアの大邸宅の寝
台のうえに置くことで,画題を現代化した。だがそのことで,女主人公の定義は曖昧なものとなった。
ジョルジョーネにおいては,そこにいるのはあきらかにニンフかヴィーナスだ――神々,ニンフとサテュ
ロスのみが自然のなかで裸体でいられるから。ティツィアーノでは逆に,その裸婦がヴィーナスである
のか高級娼婦であるのか知るすべがない。僕の意見としては,それは娼婦だ。その寝台はヴィーナスに
ふさわしいものとは言えないから。たぶんマネを捉えたのは,そうした曖昧さだったと思う。その完璧
な美しさにもかかわらず,彼女は理想的な女性ではないんだ。マネは自らの娼婦を描くにあたってそこ
から着想を得,神話を最終的に世俗化した。つまり,全体的構図はそのままとったが,形象と背景の関
係を変化させ,犬を猫に変え,いくつか「現代的な」細部を付け加えた。さて,僕にはこれ以上どうやっ
て論を進められるのか分からない。
――おそらく,よりよく見ることによって。図像学的手法によらないことで。こうご期待。たとえば
貴方は,ティツィアーノでは裸婦は大邸宅にいると言った。
――それは明らかじゃないか。
――ではその場合,どうやって寝台から背景の部屋へと移るんだい?
――「どうやって移るんだい」って,どういうこと?
――二つの場所のあいだの関係はどうなっている?作品のなかで,寝台はどこにある?
――前景に。
――もちろんそうだ。でも奥の部屋との関係は?主人公の上半身の背後にある黒塗りの大きな平面は,
いったい何なんだ?それは何を表象しているのか?さらに,女性の腿と眠る子犬のあいだに見える寝台
のふちを示すぼんやりとした茶色の水平線は,何なんだ?
――分からないよ,僕には。貴方は何だっていうつもりなんだ?
――僕かい?何でもないさ。だがいずれにせよ,この黒い部分は,その垂直の切り込みのうちに
「カー
テンの縁」を見たパノフスキー〔
『ティツィアーノにおける図像学的諸問題』(ニューヨーク,一九六九
年)〕
が望むようにカーテンであるわけじゃない。そして茶色の線はといえば,「舗石の縁」であるのじゃ
なおさらない。あきらかにパノフスキー老は,若いころの自分が書いたことを忘れている。貴方は,描
写の問題にかんする彼の一九三二年のテクスト〔たぶんドイツ語で書かれた論文「造形芸術作品の描写
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と内容解釈にかんする問題」を指す〕を覚えているかい?そこで彼は,「純粋に形態的な」描写は,「石」
「人」
「岩」といった単語を使ってはならないと言っていたのだけれど。
――ああ。そんなことは,僕の興味の枠外だけれどね。
――そう信じるにやぶさかではないよ。パノフスキーは,
「純粋に形態的な」描写は,絵の構成要素
を「完全に意味を剥ぎ取られた」ものとして,平面空間において「複数の意味」を有するものとしてし
か見てはならないと言っている。一九三二年のパノフスキーにとっては,ある肉体が宵空の「まえに」
置かれていると言うことは(グリューネヴァルトの復活したキリストが話題になっているのだけれ
ど)
,――引用しよう――「表象するものを表象されるものに,平面空間の観点からすれば多義的な形
態的所与を,三次元的な単一的な概念的意味内容に結びつけてしまう」ことになる……
――いやはや,なんという記憶力だ!
――僕にとっては,これは最重要の文章なんだ。だが,パノフスキーはのちに『ウルビーノのヴィー
ナス』を描写するにあたって,それを少々忘却していると。
――だがこんどは貴方が,パノフスキーがそのすぐあとで,こうした「純粋に形態的な」描写は実践
においては不可能であると見なしていることを忘れているよ。あらゆる描写は,開始されるまえにおい
てすら,絵のなかの純粋に形態的な構成要素を,表象されるものの象徴に変容させるはずだと。僕の引
用はおおよそのところだけれどね。僕は,パノフスキーにたいするフェティシズムは持ち合わせていな
いので。
――僕はテクストの続きを忘れてはいない。それもそのはずさ。それこそ,パノフスキーの図像学的
アプローチの有効性を基礎づける土台,最初の一押しだからね。だが僕が言いたいのは,いくつかの場
合においては――『ウルビーノのヴィーナス』はその格好の例であるわけだけど――,こうしたあらゆ
る分析に先立つ形態的要素の限定的対象――それは性急に名づけられてしまう――への同一化は,画家
の仕事を理解する妨げになるし,絵じたいから分析を逸れさせてしまうことになる。
――それはちょっと言いすぎじゃないか。僕はパノフスキーの信者じゃないが,彼はやはりティツィ
アーノの大権威,最大の権威の一人だろう……
――彼はたしかに,僕よりよくティツィアーノを理解している。だがこの絵にかんしては,はずして
しまっているんだ。そしていずれにせよ,この垂直と水平の二つの直線は,カーテンの縁でも舗石の縁
でもない。
――どうしてそう言いきれるんだ?
――だって!貴方は一六世紀のヴェネツィア邸宅を知っているだろ。こんなヴェネツィア風邸宅を見
たことがあるか?
――こんなってどんな?この邸宅のどこが悪いんだ?
――たとえば,ベッドを見てみろよ!貴方はそれがヴィーナスにふさわしくないと言ったが,それは
正しかった。貴方が思っている以上にね。もういちど見てみな。ベッドは地面に置かれているようじゃ
ないか。
――貴方は一六世紀に,宙に吊られた寝台があったと言うのか?
――そうじゃない。僕が言いたいのは,二つのマットレスが舗石のうえに直接置かれているようだと
いうことだ。両者はつながっているんだ。
――あ,本当だ。いままで気づかなかった。
――そうすると,
「ヴィーナス」は地面にじかに置かれた二つのマットのうえに寝ていることになる。
――たしかにそう見えるな。だが,それはばかげている。女子学生がワンルーム・マンションで場所
に事欠いて,ベッドを開いて恋人を迎えいれているようじゃないか。滑稽だよ。
――どうして女子学生なんだ?またまた図像学か……だが,まあいいや。たしかにばからしい。絵の
なかのベッドの位置は本当らしくない。
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――まったくだ。一六世紀の寝台はとても丈が高いということからもね。
――オーケー。それじゃ,その縁がちょうど「ヴィーナス」の性器に直角に降りている黒いカーテン
は?それをカーテンと見ようとは,パノフスキーはどうしたっていうんだろうね?その縁には襞がない
し,波打ってもいない。カーテンとしたら,それはむしろ描きそこないだろう。縁,それはまさに幾何
学的線,まったくの直線だ。実際「ヴィーナス」の背後には別の緑色のカーテンがあるんだけれど,そ
れは彼女の頭のうえのあたりで結ばれてからげてある。というわけで,この黒塗りの大きな平面は確実
にカーテンではないと言える。
――それじゃ壁か?
――貴方は,壁とか移動式の仕切りで半分区切られたヴェネツィアの部屋を見たことがあるかい?僕
はないね……何も言わないのかい?
――ああ。貴方の言っていることが正しいことは認めよう。だが,それでどこに行こうとしているの
かが分からない。
――まさにそこだ。これはカーテンでなければ壁でもない。これは既知の何物にも,現実において分
類可能な何物にも妥当しない。何も表象していない。
「舗石の縁」も同様だ。実際パノフスキーがカー
テンと舗石の縁などと言い出したのは,それによって絵のうちに,大邸宅の部屋の統一された表象を見
ることが可能になるからだ。だが,絵は統一されてはいないんだ……
――いや!それには反対だ。おそらく,この絵以上に統一感のある絵は存在しない。たぶん,これ以
上に構築された,明白に構築された絵は存在しない。これらの相補的かつ派生的な二つの構成部分によっ
て。前景には,裸体・水平性・ゆるやかな曲線。後景には,着衣・垂直性・直線。各部分においてもう
一つの部分の支配的な形態的原理が反復されているのを指摘することで,そうした分析を続けることも
できるだろう。さらには,色彩の反転的反復の指摘によっても。僕だって,絵を見ることはできるんだ
よ。それを,この絵が「統一されていない」と言うとは!それはあんまりだ。この絵は,完璧に構成さ
れているんだ。
――そこには微妙な違いがある。それは完璧には構成されていない。それはあからさまに構成されて
いる。これ見よがしと言ってもいい。ほとんど過剰だ。それにしても,貴方はまだ,どのようにして前
景から後景に移動するのかも,形象の背後の黒い大きな平面が何を表象しているのかも言っていない
じゃないか。
――知っちゃいないよ。そんなことはどうでもいい。僕には質問の意味が分からない。
――では僕が言おう,質問の意味をね。この黒塗りの平面を描写する唯一の方法は,それがスクリー
ンだと言ってしまうことだ。
――スクリーンだって?
――形象を提示するためのスクリーンさ。
――アナクロニスムだね。壁とか仕切り壁とかカーテンと言う以上に時代錯誤的だ!
――そうでもない。一五一二年に聖母子と寄進者のいる『聖会話』
〔ウィーン美術史美術館所蔵の別
名『聖母子(ジプシー女)
』
〕で,ティツィアーノはすでにその装置を使って聖母子を際立たせ,彼女ら
の場所と風景のなかにいる寄進者の場所を峻別しているんだ。
――マニャーニ・コレクションの『聖会話』のことを言っているのか?
――それだよ。二六年後の一五三八年に,ティツィアーノは今度は donna ignuda を際立たせるために,
同じ装置を使用したんだ。
――どうやら見えてきたぞ。貴方は,ティツィアーノが「スクリーン」を使って女性の肉体の聖化,
神格化を示していると言うんだろう。そして,スペローニ〔スペローネ・スペローニは,イタリアの詩
人・劇作家(一五〇〇−八八)
〕の『恋愛問答』を引用する。というのも,その著作はティツィアーノ
絵画の熱狂的な賛美を行っているし,彼の絵が「我々の肉体の天国」であるとも語っているから。その
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通りだろう。
――それは間違っちゃいない。それに『恋愛問答』は,この絵の一年後の一五三七年にヴェネツィア
で出版されているんだ……
――そうだ。だけどまさに,
『恋愛問答』でいったい誰が,ティツィアーノの賛美の役を仰せつかっ
ていたかな?それはトゥッリア・ダラゴーナ,ヴェネツィアでももっとも洗練された高級娼婦だ。また
ふりだしに戻った。僕は最初から,その裸の女性は……
――ピンナップだと!またかよ!くだらない。貴方のピンナップと図像学には,とうとうむかついて
きたよ。いま話題になっているのはそんなことじゃなくて,女性の背後のスクリーンのことだろ。それ
はカーテンでも壁でもなかった!それを見てくれといっているんだ。その縁は,カーテンの縁でもなけ
れば壁の縁でもなかった。舗石の縁などないのと同様に!それは純粋かつ単純に縁なんだよ。純粋な縁
であって,何も表象していない。それは絵の二つの部分――裸婦のいる寝台と侍女のいる部屋――の境
界を定めることで自足しているんだ。そのために,縁がヴェネツィアの邸宅の室内で,いったい何に相
当しているのか言うことができないんだ。縁は何も表象していないが,ある機能を担っている。それは
絵の二つの部分を分節している。縁は縁であるかぎりにおいて,あらゆる縁が持っている機能を果たし
ているわけで……
――おいおい。落ち着いてくれよ。早口すぎて,もう言っていることが分からないよ。それは縁だ。
分かった。だから落ち着いてくれ。
――申し訳ない。
――で,結論はどうなんだ?
――その二つの場所は,同一の空間には属していないということだよ。それが結論だ。空間的に言っ
て,それらは連続していず隣接している。そのためにこそ,一方の場所から他方へと「移動する」こと
!
!
!
はできないし,同様に絵の空間的統一性を一貫したかたちで思い描くことも考えることもできないんだ。
実際,『ウルビーノのヴィーナス』
の描かれている場所は邸宅のなかであると言ってはならないだろう。
なぜなら,絵の統一性は空間的統一性ではないからだ。そこには,絵の表層においてのみ並列され組み
合わされた二つの場所があるだけなんだ。
――申し訳ないけど,そこで貴方は少々先を急ぎすぎているんじゃない?遠近法はどうなんだい?奥
の間の全体は遠近法で構成されている。ティツィアーノはそれに,彼の全作品においてもひじょうに例
外的な注意を払ってすらいる。床のタイル張りは入念に遠近法で構成されており,よって幾何学的遠近
法が絵の構成においては決定的な役割を果たしていたはずだ。
――それには同意しよう。
――よし。少なくともその点においては,我々は同意が得られたわけだ。ふう!さて,それじゃ訊く
が,そうした幾何学的遠近法は,
空間的統一性を構築する以外のどんな役割を果たしていると言うんだ?
――僕のほうも申し訳ない。貴方を怒らせたいわけじゃないんだが,そのあたりの事情はもう少し微
妙であるように思う。遠近法はたしかに絵の統一性を構成している。だがそれは,空間的統一性ではな
くて精神的統一性だと。
――ちょっと待ってくれよ。また分からなくなってきたぞ。
――そんなことはないよ。複雑な話じゃないんだ。この絵では,まさに遠近法が空間的統一性を構成
している。だが,それは侍女のいる部屋に限定されているんだ。寝台はそれと同じ空間には属していな
い。遠近法の使用は局所化されている。それは寝台と部屋を,同一の空間的統一性のうちに再編してい
るわけではない。絵の全体にかんしては,遠近法はよって別の役割を果たしている。それは別次元の統
一性――精神的統一性――を構築している。
――どうなることか……
――そんなに長い話じゃないし,こんどはゆっくりと話すよ。規則にかなった遠近法を作り上げるた
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めには――べつに貴方に教えようと言うわけじゃないんだが――二つの点を使用しなければならない。
つまり消失点――それは絵と向かいあった我々の視線の位置を示す――と,距離点――それは我々が理
論のうえで絵にたいしてとる距離を示し,絵の奥部にむけて表面的に形象の大きさが減少していく速さ
を決定する――だ。いいかな?『ウルビーノのヴィーナス』においては,舗石の作り出す線の消失点は
「ヴィーナス」の左手のまうえ,そして彼女の左眼の高さにある。距離点にかんしては,絵の下縁のう
えにあり……
――それは,ヴェネツィアの絵画工房ではありふれたテクニックだが。
――おそらくね。だがそれら二点は,我々,つまり貴方・僕・グイドバルドそして誰にも,絵にたい
するにあたっての精確で計算された位置を与えてくれるんだ……
――貴方は絵がどの高さにかけられていて,それを見るのにどこに身を置かなければならなかったか
分かっていると主張するわけじゃないだろうね?
――いやいや。たんに理論的な位置,絵の幾何学が見る者に示している位置というに過ぎないよ。
――ほっとしたよ。
――その理論的位置は,絵の効果――そして絵の思考,ティツィアーノがこの絵にかんして持ってい
た思考――にとって本質的なものだ。視覚的にいって,我々は裸体のすぐ近くにいる。裸体は奥の部屋
!
!
からは突出している。侍女を見てみろ。彼女らはとても小さい。立っている者も「ヴィーナス」の体の
半分もない。侍女たちは近くにいるような気がするが,とても遠くにいるんだ。というかむしろ,ティ
ツィアーノは奥部の遠近法を使って,一種の錯覚を作り上げているのであって,それによって裸体が我々
のほうに突出して見えるんだ。
――そこまではいい。オーケー。付いていける。
――消失点は,絵と向かいあった我々の視線の高さを定める。それは絵のまんなかよりすこしうえ,
「ヴィーナス」の左眼の高さにあった。だが奥の表象空間にたいしては,かなり低い視点ということに
なる……
――低い?どういうこと?
――立っている侍女にたいしては,我々の視線は彼女の脚のまんなかへんだ。よって彼女にたいして
は,我々はかなり低い位置にいると。実際視線の位置は,だいたい跪いて腕を衣装箱に入れている侍女
の視線の高さにある。そこまではいいかな?
――さきに進んでくれ……
――よし。さて,ベッドが地面にじかに置かれているようだ(ちゃんと「ようだ」と言っているぜ)
とすると,我々はベッドのすぐ近くに跪いていると想定されることになる。
――分かったぞ。我々が左手下のシーツをまくりあげたと言うんだな……
――いや。僕はばかじゃない。絵が見られるためのもので,触れられるためのものではないことは承
知している。だが同時に,この絵はある弁証法のうえで戯れていると思うんだ。つまり触れることと…
…
――弁証法……その言葉はどうも好かないな……
――……見ることのね。実際我々は,跪く侍女が衣装箱にたいしているのと同様に,絵にたいしてい
る。彼女は我々の位置――強調しておくが,我々の行為のではなくて,我々の絵にたいする位置の――
の中継者なんだ。
――はっきり言ったほうがいいと思う。それは,僕が忌み嫌うタイプの流行の迷論だ。今日は,何が
なんでも絵のうちに中継者を見つけなければならないんだ。まるで,絵が我々を必要しているかのよう
に。貴方やお仲間たちは,堪えがたい思い上がりとアナクロニスムに囚われている。僕は歴史家なんだ。
いまの説はたぶんまだしもましだろうが,そうした過去の事実の現代的思考による収奪は堪えがたい。
どうして貴方となんか議論を続けてきたんだろう。というかむしろ,なぜこの哀れな絵にたいして貴方
ダニエル・アラッス「衣装箱のなかの女」
矢橋
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が暴言のかぎりを尽くすのを聞き続けてきたのか!
――もうすこしいてくれよ。ほとんど終わりかかっているんだ。
――じゃあ,どうかさっさとやってくれ。
!
!
!
――僕が言っているのはただ,絵の構成が理 論 的 に――理論的にという点を強調したいんだが――
ヴィーナスにたいする我々の位置を,侍女の衣装箱にたいする位置と等価なものとして与えているとい
うことだ。実際には,我々は立って一定の距離をとって見ていることは分かっている。そうした位置と
は,絵という装置によって作り出された効果なんだ。
――終わった?
――もう少し。あと二つの結論だけ。最初に,二人の侍女のいる部屋は「絵中絵」として機能してい
るということ。
――どうしてそうなるんだ?帽子からやたらウサギを取りだす手品師のようなやつだな……
――あるイタリアの美術史家が,一九五〇年代にそのことを主張したんだよ。名前は忘れてしまった
が,彼は正しかった。奥の部屋と寝台間の空間的連続性の欠如――貴方をさっき苛立たせた二種の「縁」
の存在がその事実を強調しているわけだが――によって,部屋は一種の「絵中絵」と化しているという
わけさ。
――まあ認めてもいい。
!
!
!
!
!
!
――ところで,我々が想像のうえで――想像のうえでという点を強調しておきたいが――衣装箱のま
えの侍女と同様の位置を絵にたいしてとっていることは,シャステルがこれまたはるか昔に「絵中絵」
にかんして言ったことを,確認させてくれるんだ。
――アンドレ・シャステルに助けを求めるとは!図々しい奴だな。
――それは認めよう。実際には彼は,そのテーマにかんして『ウルビーノのヴィーナス』を話題にし
ているわけじゃない。でも彼はそこで,いままで僕が言ってきたすべてのことよりさらに大胆な,すば
らしい公式を持ち出してきている。シャステルによれば,画家がある絵において「絵中絵」を描いたさ
いには,
「絵中絵」は多くの場合それが描かれている絵の「制作のシナリオ」を提示しているというん
だ。
――シャステルが書いていることは,正確にはそうじゃない。もういちど読みなおしてみろよ。
――分かっている。僕は彼の書いたことを利用しているんだ。二人の侍女のいる部屋は,我々がいま
見ている『ウルビーノのヴィーナス』という絵が構想されたシナリオを示していることを主張するため
にね。
――我に災いあれ!
――どうしたんだ?
――貴方が言うことを聞かねばならないことに。さっぱり訳が分からないというのに。
カッソーニ
――例の大箱,許婚によって持ってこられた結婚のための衣装箱にかんしては,すでに話題にした…
…
――ああ。
――貴方もご存知のように,特別な物語的コンテクストなしに,そのままのものとして提示された女
性の裸像はまず,一五世紀においてそうした衣装箱のふたの内側に描かれたんだ……
――もちろん知っている。貴方が最初にそのことを指摘したわけじゃないからね。ケネス・クラーク
がすでに,裸体にかんする著作のなかでそのことに言及している〔『ザ・ヌード』においてクラークは,
一五世紀に婚礼の衣装箱の内側に伝統的に花嫁の裸像が描かれていたことを指摘しており,それとジョ
ルジョーネの『眠れるヴィーナス』を結びつけている〕。さらにエドガー・ウィントも,『ウルビーノの
ヴィーナス』
にたいするとても美しい描写で始まるテクストにおいて,そのことを示している。彼らは,
絵を解釈するのに訳の分からない迷論を必要としたりはしない真の学者だよ。
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――そう,真の学者だ。だが,彼らは衣装箱のなかの裸像に言及しているが,
『ウルビーノのヴィー
ナス』にかんしてはそれとなんら関連づけてはいない。クラークはドレスデンの『ヴィーナス』を話題
にしているわけだが,その作品とそうした裸像は関係がありそうもない。そしてウィントは注で指摘し
ているだけで,そこからなんらアイディアを引きだしているわけではない。新プラトン主義にかんする
注釈でやけにこんがらがっているけどね。
――それじゃ貴方は,それをどう料理すると言うんだ?
――とても単純なことだよ。あらゆる結婚のコンテクストの枠外で,裸婦の絵を所望した顧客の願い
に答えるために……
――ほらピンナップだろ……
――ティツィアーノは裸婦を,彼女がいる場所に捜しにいった。まず主人公の全体的なポーズは,三
〇年近くまえに自分が完成したジョルジョーネの絵からとった。つぎに,邸宅にあるような寝台のうえ
に寝かせることで都会風「ヴィーナス」を作り出すと言うので,ティツィアーノは結婚のための衣装箱
のふたの裏に女性を求め,舞台前面に置いたというわけだ。
――よく思いついたな。だが何と言うか……論旨が脆弱だ。
――まあ待てよ。
「ヴィーナス」の背後の黒い平面が,跪く侍女が持ち上げている衣装箱のふたの内
部の色を反復しているのも偶然ではない。さらに,絵の全体的構図は二つの場所の唐突な並置によって
やや生硬な印象を与えるけれど,僕はそうした生硬さは,絵を作り出す作業の痕跡を示していると思う
んだ。ある意味でこの絵は設計図のようなもの,ティツィアーノによって描かれた,いかなる物語的口
実をも有さない横たわる裸婦を描いた最初の絵の設計図であると……
――最後の点にかんしては,僕は貴方の意見にじゅうぶん賛成できる。別の理由からだが。ヴィザー
リは,この女性が「幼いヴィーナス」
,una Venere giovinetta であると言っている。またジョヴァンニ・
デラ・カーサ〔イタリアの作家(一五〇三―五六)。宮廷的礼儀の指南書『ガラテオ』で有名〕は,ティ
ツィアーノが一五四五年に描いた『ダナエ』
〔ナポリ,カポディモンテ国立美術館所蔵。まえに言及さ
れたプラドの同名作とは別の絵〕に比べれば,彼女は「テアト会修道女」のようだと思った。じっさい
彼女は,ティツィアーノが後年描く女性のような花開かれた肉体を持っていないんだ。また彼女が,こ
の種のベッドのうえに横たわった最初の裸婦であることも事実だ。ティツィアーノは五〇歳近かったか
ら,それ以前には注文がなかったということだろう。また,やや生硬で知性の勝った構成ということに
かんしても,賛成できる。ティツィアーノは,その後の裸像において同様の構成を繰り返し描くことを
躊躇しなかったのに,そうした生硬な構成は二度ととらなかった。
『ダナエ』の X 線写真は,ティツィ
アーノが仕事の最中に『ウルビーノのヴィーナス』と同様の構成を取りやめてすらいることを示してい
る。そうした一連の事実は正しい。
『ウルビーノのヴィーナス』はティツィアーノの全作品において特
異な位置を占めていて,僕としてはそれが,全ヨーロッパ的な名声をもたらす後年の彼の多くの裸婦の
母胎・坩堝のようなものだと言いたいくらいだ。だが僕はやはり,貴方の衣装箱の話には反対だ。衣装
箱のなかの裸婦,それはフィレンツェにおける習慣であり,なおかつ一五世紀の習慣で,一五三八年に
はかなり時代遅れのものとなっていた。とにかくも,それはヴェネツィア的な習慣ではなかったわけだ。
ヴェネツィアでは衣装箱に絵は描かれない。二人の侍女のいる後景でのように,それらは装飾的モチー
フを彫刻されるんだ。それゆえ,衣装箱・跪く侍女・我々の絵にたいする理論的位置等々から出発した,
貴方のいわゆる『ウルビーノのヴィーナス』の「制作のシナリオ」説は,ここに墜落したわけだ。ほら,
貴方のすべての論証は,実際「理論的」なのさ。それはそれでしかない。貴方は言説を生産しているだ
けで,知を生産しているわけではない。ところが歴史とは,言説・理論でしかないわけではない。
――貴方の言っていることは正解だ。僕は,ティツィアーノがフィレンツェの衣装箱から着想を得た
などと言う必要はなかった――ティツィアーノがそれを見知っていたと考えることを妨げるものは何も
ないけどね。だが,それは重要ではないんだ……
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――何なんだ,
「重要ではない」って。
――僕はそんなことは必要としていないんだ。それは,確証された事実がお好きな貴方を喜ばせるた
めにはいいと思ったんだが,間違っていた。もうこんな親切ごかしはしないぞ。フィレンツェ風衣装箱
なんてどうでもいいんだ。
――どうでもいい?
――そう。事が生じているのは,絵のなかだから。横に広がり凸状のやわらかい曲線を持った衣装箱
は,寝台のうえに横たわる女性の曲線に呼応している。そして両者が結合されているのは,衣装箱が前
景の裸像の衣装を入れているからでもある。ついでながら言っておけば,ウルビーノのヴィーナスが「裸
だ」と言うべきではないだろう。彼女は「脱いだ」のだ……
――すばらしい発見だな!からかっているのか?
――とんでもない。『ウルビーノのヴィーナス』は,ヨーロッパ史上初の裸婦ではない。だがそれは,
脱いだ女性の絵画第一号ではありうるだろう。そのようなものとして提示され,そうであることに意識
的な。彼女は裸というよりも剥き出しになった女性,イギリス人流に言えば nude というよりも naked
なんだ。彼女はそのことを意識しているが,そこにうしろめたさはみじんも感じていない。原罪前後の
裸体を隔てるあの恥の感覚を知らない,あらゆる善きキリスト教徒を苛むあの感覚を……
――脈絡をはずしているぜ。
――そうでもない。だが,閑話休題。かくのごとくに前景に剥き出しの女性の肉体を置き,後景には
衣装箱のなかの服をまえにかいがいしく立ち働く侍女たちを示すことで,ティツィアーノは,自分が衣
装箱の中身が隠蔽機能を有していることを示しているのだと示唆している。そうした結婚用の衣装箱が
典型的に女性的な事物だということを,強調する必要すらない。その女性が衣装箱のなかから裸で出て
きたと言いたいくらいだ。だから,衣装箱の曲線と肉体の曲線が形態的に呼応していることは,偶然で
はないんだ……
――衣装箱としての女性,女性としての衣装箱ってか!
――そうは言っていない。
――貴方がもし貴方の……何と言っていいのか……ご高説を支持するようなテクストをひとつでも発
見できたなら,首をくくってもいいよ!
――賭けはするなよ。それはきっと,どこかにあるはずだ。ところで貴方は,ヴェネツィアでこうし
た彫刻された衣装箱を何と呼んでいたか知っている?「棺おけ箱」と呼んでいたんだ。年若い許婚の衣
装箱にしては,奇妙な名前だとは思わないか?
――棺おけ女!人食い女!貴方は自分の言っていることが分かっているのか?
――言っているのは貴方だけれど。
――そうだ。もう貴方には,自分の妄言を僕になすりつける道しか残されていない。
――そうはしないでおくよ。みんな貴方のことは先刻ご承知だからね。誰もそう言っても信じないだ
ろう。
――それもそのはずさ。僕は貴方の言説について思ったことを,洗いざらい言ってしまおう。マスター
ベーションしているのは絵のなかの人物じゃなくて,貴方自身だよ。知的マスターベーションこそが,
貴方のしていることだ。貴方は屋上屋を架すってやつで,単純なものをいたずらに複雑にしているだけ
だ。
――そうかな?
――そうだよ。
『ウルビーノのヴィーナス』はエロティックな絵画で,その性的な誘いは明瞭だ。衣
装箱はかならずしも〔グイドバルドの〕結婚への暗示ではないし,結婚関係一般への暗示ですらない。
モデルにかんして言えば,彼女はすでにティツィアーノによって描かれたことがあり,
『ウルビーノの
ヴィーナス』じたい他の顧客のためにも模写されることになる。つまりその裸の女性は絵画において,
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現実に高級娼婦が演じていたのと同じ役割を演じているわけだよ。彼女は,眉一つ動かさず顧客から顧
客へと流通していく。僕は断固主張する。署名してもいい。これはピンナップ以外のものではない。貴
方のすべてのすばらしい論証によっても,僕の意見は変わらない。
――ピンナップにかんしては,よしとしよう。僕は,貴方にその言葉を放棄させることに絶望した。
だがそれがピンナップであるとして,ティツィアーノがそれを少々変わったかたちで絵画化しているこ
とは認めろよ。最初っからまた始めるわけにはいかないが,白黒はっきりさせることがお好きな貴方と
しては,寝台と部屋が同一の空間には属さないこと,パノフスキーが「カーテンの縁」や「舗石の縁」
と言っているのは誤りだということには同意するよね。
――同意しよう。でも貴方は,そうしたディテールから引き出したご高説において,かぎりなく遠く
に行ってしまったと。
――オーケー。では貴方のピンナップを,別の角度から扱ってやろうじゃないか。
――取り扱いには,じゅうぶん注意しろよ。
――左手の動きのこと?
――ああ?
――それは,ドレスデンの『ヴィーナス』と同じだろうって?
――そう。
――だが,その意味は変わっている。
――たぶんね。
――たしかに。
――どのように?
――ジョルジョーネでは,ヴィーナスは眠っている。彼女の動作は無意識的だ。たぶん夢を見ている
んだろう。こなたではヴィーナスは目覚めている。彼女は自分のやっていることを認識しており,我々
のほうを見つめている。
――まあいいだろう。
――つまり彼女は我々を見つめつつ,自分の体に触れている。
――俗には流れないでくれよな。
――歯に衣を着せてもいられない。そう言ったのは貴方だ。というわけで,彼女は我々を見つめつつ,
自分の体に触れている。触れられることを期待しながら。
――ばか!
――いやいや。僕は絵の語るところに留まっているよ。
――ほう?
――そうさ。彼女が自分の体に触れているのは,さし貫かれること,そしてなろうことなら孕まされ
ることを期待しているからだ。
――まあいい。
――だが我々……というか絵の受取人であるグイドバルド・デラ・ローヴェレがこの絵とセックスを
始めたとしたら,まるでばかだろう。
――現実に起きたことだ。プリニウスが語っている。『クニドスのヴィーナス』〔ギリシアの大彫刻家
であるプラクシテレスが,クニドスという都市に残した有名な彫像。プリニウスは件のエピソードを『博
物誌』の第三六章で語っている〕に想い焦がれ,夜,像に快楽の刻印・しみを残してしまったという若
者の話を……
――その比較には痛みいる。一本とられた。だがそれは,『クニドスのヴィーナス』が彫像であって,
まさに絵ではないことを別にすればだ。分かっただろう。結局は同意できるだろう。
――だとしたら,驚くがね。
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――いやいや。貴方は,ティツィアーノもグイドバルドもばかじゃないことは分かっている。
――認めよう。
――よって,この絵は裸婦に触れることを誘いながらも,またただ眺めなければならない立場に我々
を留めおくんだ。でなければ,我々は狂っているということになる。
――オーケー。
――よって,この絵は触れる欲望を刺激しつつ,眺める行為に自足することを強いている。
――幸いにもね。
――そのとおり。だが,たんに視覚的欲望だけじゃないが……
――何だって言うんだ。
――大したことじゃないよ。
――まったく貴方には,大したことじゃないが多すぎるよ。うんざりしてきた。
――重要なこと,
『ウルビーノのヴィーナス』を比類のない絵にしていることは,それが古典的絵画
のエロティシズムじたいを構成しているものを絵画化していることだ……
――それだけのことなのか?
――……触れることから見ることへと移行すること,触れることを見ることに代替すること,見るこ
とをほとんど触れることと同一化するが,それでも見るだけで触れないでいること。見る,ただ見るこ
と。そして僕は,この絵がマネの興味を惹いたのは,それが絵の前面において見つつ自らに触れる形象
を顕示することで,そうした視覚の独占関係を強調していたからだと考える。マイケル・フリードは読
んだ?
――また一人別のお助けが!彼がどうしたっていうんだ?僕の知るかぎり,フリードはルネサンスに
かんする著作を書いていない。どうして僕が彼を読まねばならないんだ?『ウルビーノのヴィーナス』
とどんな関係があるというんだ?
――『オランピア』と,マネのティツィアーノの絵にたいする視線にかんしてだよ。
――とうとうおいでなすったな。
――そう。とうとうね。フリードによれば〔『マネのモダニズム』(シカゴ大学出版,一九九六年)〕,
一八六〇年代にマネは,絵は見られるために制作されるという,絵画の「基本的慣習」に取り組んでい
た。
――そんな凡庸な事実を発見するために,新世界から来た預言者の光臨を待たねばならないというの
か!ほんとに……
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――皮肉を言うのは早すぎるぞ。フリードが言うのは,マネが絵画の用いていた演劇的構成を変えよ
うとしていたということだ。マネは,遠近法を用いた配置と文学的主題に基づく古典的な演劇性を否定
した。彼は,ただ絵画にのみ基づく演劇性を追及したんだ。フリードによればマネは,観客に自己顕示
する,観客を見つめることに自足するような絵画を制作しようとした。フリードの言葉を引けば,マネ
は,絵画表面の各部分が面と向かって観客を見つめるようにした。それが,フリードがマネの絵画の facingness〔面前性〕と呼ぶものだ。
――翻訳家がんばれ!
――ああ,いい訳を見つけてほしいね……そして,そうした facingness,絵と観客が面と向かうこと
モデルニテ
が,絵画の近代性の誕生だと。
――そのことは認めてもいい。それは僕の専門領域ではないからね。それがティツィアーノとどうい
う関係がある?
――いま言いますよ。フリードはまた,こうしたマネの探求はエロティックな古典的裸体画に,特別
な支えを見出しえたと考えている。というのも,そうした裸体画は,他の何よりもこれ見よがしに自己
顕示する――男性観客の視線の対象として――主体を前提としているからね……
――やはりピンナップだ!僕は正しかった。
――その話はパス。
――で,ティツィアーノはどうした?
――いま言いますって。フリードはティツィアーノには言及していない。だが,我々が『ウルビーノ
のヴィーナス』にかんして語ってきたことからすれば,マネがその絵のうちに見出しえたものを理解す
ること,また同時にティツィアーノの仕事をよりよく理解することが可能になるだろう。
――そうした手法は手品もどきでしかなく,美術史の方法ではない……
――ひとつ質問していいかな。ウルビーノのヴィーナスはどこにいる?
――フィレンツェの美術館に。
!
!
――僕が言いたいのは,
「ヴィーナス」の形象は,邸宅のなかでないとしたらどこにいるのかという
ことだよ。
――いい質問だな!彼女はもちろん絵のなかにいますよ。
!
!
――冗談言うなよ。絵のなかなんかにいない。知ってのとおり,絵には内部は存在しない。絵のなか
に入ることなんてできない……
!
!
――分かったよ。絵のうえにいる。それで?
――近い!「絵のうえに」とは,どういうこと?
――そのままのことだけど。
――がっくり。別の質問をしてみよう。彼女はどんな空間にいる?
――絵の空間に。
――それは事実じゃない。というのも,絵の空間とは遠近法によって統御されている空間であり,寝
台はそこに属していないことはすでに見たからね。
――こだわるね。
――そう。だって,それこそが『ウルビーノのヴィーナス』の効果と,マネがそこに見たものの根本
だからね。
――さあ,どこにいるんだ。言ってしまえよ。
――「ヴィーナス」は,明確に画定され結合された二つの空間――侍女のいる部屋という虚構の空間
と,我々が絵を見ている部屋という現実の空間――のあいだに位置する,寝台のある明確な場を占めて
!
ま
いる。だが寝台のある場は,それら二つの空間のいずれからも逃れている。それは「二空間の間」を占
めている。
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――そうした居心地の悪い専門用語は,勘弁してもらえないだろうか?
――じゃあ寝台の場,あるいは(裸体の)場としての寝台と言ってもいいが,それが二つの空間のあ
いだに存在するとでも言おうか……
――そのほうがありがたいね。
――……で,そうした場・寝台は,キャンバスの表層以外のものではない……
――ほう。貴方の言うことを聞いていて,ボスキーニが一七世紀から〔マルコ・ボスキーニは,一六
七四年刊の『ヴェネツィア絵画の豊かな鉱脈』という著作のなかで,ティツィアーノの弟子であるパル
マ・イル・ジョーヴァネからの伝え聞きとして,ティツィアーノの晩年の創作過程を記している〕,ティ
とこ
ツィアーノが本格的に描きだすまえに絵に施した下塗りにかんして,
「床」という言葉を使っていたこ
とを思い出したよ。
――それはいただきだ!上手いこといくぞ。
『ウルビーノのヴィーナス』において,「ヴィーナス」の
とこ
寝台は,そうした〔ティツィアーノの〕床,つまり裸婦がすぐ近くに見え彼女が我々を見つめてもいる
あの絵画表面を表していると。そこで僕は,ベンヤミンとそのアウラの定義――「近づくことができな
いもののユニークな出現」
〔『複製技術時代の芸術』〕――を思い出すが。
――おいおい。それはまたいったい何なんだ?
――パス。絵の話に戻ろう。絵の女性は,我々を絵の表面から面と向かって見つめている。どこに場
所を変えようと,貴方は彼女の視線のもとにある。フリードがティツィアーノではなくマネにかんして
たしか言っていたように,彼女は我々をその視線――じっと動かず威圧的な視線――の支配のもとに捉
えている。それこそ,マネが見たものだった。そして,それこそマネが変えたものでもあった。マネに
おいては,絵の表面全体が見る者を面と向かって見つめているんだ。侍女は薄暗い奥から前面に出てく
るし,眠っている犬は雄猫になって……
――あるいは雌猫だが……
――……見る者のほうに向かって毛を逆立てている。
――それは瑣末なことだろうが。
――そう。だがそれは,絵の全般的な原理を形象化している瑣末事だ。観客を見つめる表面を作り出
すという原理のね。マネはあらゆる遠近法を廃している。その絵には,いかなる奥行きもない。絵はそ
の全体が表層と化しており,そうした企図はある微細な変更によって確実なものとされている。微細で
はあるが決定的な変更によって。マネは注意深く,ティツィアーノが我々の視点と女性の性器と奥行き
のあいだに作り上げていた直接的関係を解体したんだ……
――どの関係のことを言っているわけ?絵との,それとも性器との?
――見てみればいい。ティツィアーノにおいては,遠近法は我々の視線を,性器をなでる手の正確に
鉛直上に設定している。そしてそうした位置は,奥の部屋を断ち切る黒い平面の縁を示す垂直の線によっ
て強調されている。マネは,こうした集中性を解体した。彼もまた,ほとんど同じ位置に垂直の帯を描
きこんでいる。だがその帯は右手にずれ,もはや性器を指示してはいない。マネは,ティツィアーノが
表面と奥行きのあいだの分節化において集中させたものを,表面において「分散」させたんだ。奥行き
を表面に折りたたんだわけだ。そうして絵の表面全体が,我々のほうに面と向かうことになる。もはや
我々の視線の位置が,絵の内的構造や我々の絵との関係を決定づけることもなくなる。フリードは正し
モデルニテ
かった。近代性の一つの形式が生まれたんだ。
――そのことは認めよう。マネにかんしては,よしとしよう。僕は何も言わずに聞いていた。専門分
野ではないからね。だがティツィアーノにかんしては,率直に言って,貴方の言ったことに何の意味が
あるわけ?
――分からないかなあ?
――分からないね。マネが貴方の言ったように,ティツィアーノを自らの血としたことは認めよう。
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岐阜大学教育学部研究報告
人文科学
第5
1巻
第2号(2
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マネがティツィアーノの絵のうちに,貴方が言ったようなものを見ていたことも認めていい。そうであっ
てならない理由はない。でもそれが,ティツィアーノと何の関係があるんだ?それがティツィアーノの
絵の理解に,何をもたらしてくれると言うんだ?歴史的に見て,それが理解できない。
――歴史的に見るにもいくつかの仕方があると思うんだ。
――そうなの?
――まず言いたいのは――貴方には自明なことだろうが――,マネがティツィアーノを自らの血とし
アプロプリアシオン
たことは,ティツィアーノの絵がそうした我 有 化を可能にするものを持っていたこと,その絵がマネ
!
!
!
の見取ったものを潜在的に含んでいたことを示している。さらに別の言い方をすれば,絵が青写真とし
ての性格を有していたということだ。
『ウルビーノのヴィーナス』は貴方が言ったように,まさに裸婦
!
!
の母胎なんだ。だがそれは,ただティツィアーノの作品中でだけそうなのではなくて,マネが絵画史の
うちに導入した革命によってもそうなわけだ。同時に,
『ウルビーノのヴィーナス』が『オランピア』
に変容した過程は,ティツィアーノがたぶん意識することなく,その後数世紀にわたって古典的絵画の
真のエロティシズムの発条となったものを作り上げたのだということを,理解させてくれる。マネが解
体したのも,そうしたエロティシズムであったわけだが。それはピンナップのではなく,絵画のエロティ
シズムなんだ。
――ずいぶんのご発展だな!
――ああそうさ。
――どうしてそう言える。
――マネは,ティツィアーノの絵を「平面化」しただけじゃない。その絵が観客とのあいだに作り上
げていたエロティックな関係を断ち切ったんだ。
――それは分かった。だがどうして,それがティツィアーノのエロティシズムに光を当てられると言
うんだ?
――左手に戻ろう。
――どの左手?
――『オランピア』の。見てくれ。手はもう性器をなでていない。それは観客に向けて,決然と腿の
うえに置かれている。それは隠している。というか,穴をふさいでいる。オランピアは我々を見つめて
いるが,
「いじって」はいない。ティツィアーノでは……
――そのことはもう繰り返し言ったじゃないか。彼女は自分の性器に触りつつ我々を見つめている,
彼女は我々を見つつ自分の性器に触っている等々と。
――そうだ。そして,
「ヴィーナス」はそうした仕草によって,我々がばかでないかぎり,彼女を見
つめることしかできないことを示しているとも僕は言ったし,貴方も同意してくれたよな。
――そうだ。だがそうしたことすべては,とても平凡な事実だ。ようするに,それは絵画だというこ
とだよ。誰かが言ったように,その女性は見られるために制作されているんだ。そして,なぜそのこと
で,
『ウルビーノのヴィーナス』が古典的絵画のエロティシズムの母胎ないしは青写真になるのか分か
らない。貴方は,またしても誇張している。貴方は理屈をこねくり回すのが好きで,自分で楽しんでい
る。それだけさ。
――楽しいことをやめることがあるか?まあ冗談はよそう。僕がそう言うことを正当化してくれるの
は,この絵のなかで遠近法が演じている役割による。貴方は,そうした点においても『ウルビーノのヴィー
ナス』はティツィアーノの作品中でも例外的であることを,認めてきたよな?
――ああ。だがそれが,絵画のエロティシズムとどのような関係が?
――貴方にはまた満足がいかないことだろうが。
――それでも怒らないでいることはお約束しよう。
――アルベルティは読んだだろう?オーケー。じゃあ,彼がナルキッソスを絵画の創造者としている
ダニエル・アラッス「衣装箱のなかの女」
矢橋
透
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〔
『絵画論』第二巻〕ことは,覚えているだろう?
――アルベルティは,
「詩人の詩句」をとったと言っている。
――言っているね。だが,いまだに問題の詩人は発見されていない。僕の見るところでは,そんなも
のは存在しない。さらにアルベルティは,
「親しい者たちのあいだで」そのことを語っている。つまり
それは私的な言葉であって,学問的な言葉ではないわけだ。実際それは,彼の空想・創作なのさ。だが
それは,ある動機を伴ったものであって,その直後に彼が宣言していることに合致している。アルベル
ティは,プリニウスのように絵画の歴史を書いたのではなくて,絵画にかんする斬新な批評的検証を行っ
た。つまり新たな描写技術を創設したんだ。
――Avanti! Per favore!〔どうぞ,さきに進んでくれ〕
――そうした新たな描写技術の創設が遠近法であったことには,同意してくれるよね?よし。それゆ
えアルベルティは,遠近法を絵画の基礎とし,ナルキッソスを絵画の創造者にした。言葉を換えれば,
ナルキッソスを絵画における遠近法の創造者,遠近法的絵画の創造者にしたわけだ。
――見事なご高説。それ以上のものではないが。
――邪険になるなよ。ナルキッソスと遠近法は,もちろん鏡をつうじて関連づけられる。ナルキッソ
スが自らの姿を見つめる水鏡,世界の鏡としての表象平面。
――分かってるよ。
「絵画とは,泉の表面をこのように抱擁する技術以外のものであろうか?」だろ。
――貴方はその文が奇妙だとは思わないか?
――いや。何で?
――やはり,泉の表面を「抱擁する」というのは奇妙だろう?
――奇妙かな?何が奇妙なんだ?アルベルティは,自分が書いていることを理解していたと思うけど。
アンブラッセ
――まさに。
「抱擁する」という言葉は自然なようでいて,じつは選びぬかれた言葉だ。それはまず
ブラ
腕,つまりアルベルティが第一巻で書いているように,絵のあらゆる遠近法的構成の基礎となる尺度を
暗示している〔
『絵画論』第一巻で,遠近法の基礎的単位としての「ブラッチャ braccia」(イタリア語
で腕の意味であると同時に,長さの単位でもある)が言及されている〕
。だがその語はまた,それが意
味することを直接語ってもいる。つまり「抱擁すること」
,腕に抱くこと,体と体をくっつけること,
さらには接吻すること。
――イタリア語ではそうではないが。抱擁するは abbraciare で,接吻するは baciare だ。
――たしかに。
――それに,抱擁することはまさに,ナルキッソスがエコーに拒絶したことじゃないか……
――それはまた,彼が水鏡に映った自身の映像とのあいだに交わせなかったことでもある。ナルキッ
ソスはそれに,触れることも唇を合わせることもできなかった。そして彼は映像を失ってしまった。映
像は彼から逃れてしまった。ナルキッソスが絵画の創造者であるのは,彼が欲望するが触れることがで
きないし,また触れてはならない自身の映像を喚起するからにほかならない。彼はたえず,そうした映
像を抱擁しようとする欲望と,それを見るために距離をとる必要のあいだの矛盾に捉えられている。ア
ルベルティが創造したのはそうした絵画のエロティシズムであり,まさにそれをティツィアーノが『ウ
ルビーノのヴィーナス』において演出して見せたと。
――貴方が言ったことは面白い。それを聞いて,スペローニの『恋愛問答』の一節を思い出した。そ
の語り手は,またもや高級娼婦のトゥッリア・ダラゴーナなんだが。彼女はそこで,なぜ恋人たちがつ
ねに見る欲望と触れる欲望に引き裂かれているのかを問うている。なぜ彼らは抱きあっているときには,
体を少し離し触れ合うのをやめて見つめあうのか?なぜ見つめあうとすぐさま,また抱きあって互いに
体をぴったりと寄せあうのか?それは,とてもチャーミングなテクストなんだ。
――そのようだね。
――結局のところ,絵画のエロティシズムの力学において,遠近法に重要性を与えることで……
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岐阜大学教育学部研究報告
人文科学
第5
1巻
第2号(2
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――おや,こんどは貴方が,僕のように語り始めたぞ……
――貴方は,例のアメリカ人女性批評家の説を引き継いだわけだな。彼女は『ウルビーノのヴィーナ
ス』における「遠近法的インサート」説を提示し,そこにアルベルティ的装置における,触れることか
ら見ることへの移行のある種の象徴を見たわけだが。
――メアリー・パードの?まさにそうだ。彼女の書いていることはすばらしい。僕は,どうしてもっ
と早くひとりでそれに考えつかなかったか残念に思う。
『ウルビーノのヴィーナス』がその演出によっ
て我々に説いているのは,まさにそうした触れることから見ることへの移行・後退なんだ。跪いた侍女
は触れているが何も見ていない。我々は見ているが触れることはできない。ところが,絵の女性は我々
を見つつ自分の体に触れている……
――ピンナップだ。まさに僕が言っていたことじゃないか。ピンナップだ。
――ああ,シャルル!あきらめたよ。絶望的だな。貴方は何も見ようとしない。
訳者解題
ここに訳出したのは,フランスの美術批評家ダニエル・アラッスが二〇〇一年五月ド・ノエル社から
に刊行し話題となった,On n’y voit rien(
『人は〔絵に〕何も見ていない』)という挑発的な題名を持っ
た美術エッセー集中の一章である。
著者のアラッスはパリの社会科学高等研究院に所属し,間違いなく現在フランスでもっとも旺盛な著
述活動を行っている美術批評家のひとりである。彼の代表的な著作はまずなんといっても,美術関係の
名著を集めるフラマリオン社のシャン叢書にいち早く入れられた『ディテール』
(一九九二年)である
が,ほかにマニエリスムやダヴィンチにかんする著書も大きな評価を受けた。On n’y voit rien は,その
アラッスが初めて一般読者向きに書いた書であり,そこではここで見られるような会話体や手紙・フィ
クションといったさまざまな読者にとっつきやすい形式によりながら,西洋美術史上の代表的絵画を
巡っての新しい美術批評のアプローチを紹介する,きわめて面白くかつ刺激的な内容となっている。
そこで紹介される新しい美術批評には,本章ではロナ・ゴフェンに見られるような社会学的な美術史
学もあるが,なんと言ってもアラッス自らも深い影響を蒙っている絵画記号論的アプローチがもっとも
アトリビュート
大きく取り上げられている。それは,絵画を象徴物の閉じた記号体系と見なしスタティックな分析に終
始する図像学的アプローチに,絵画を制作者から見る者へのコミュニケーション行為として見るダイナ
ミックな分析を対峙する。このエッセーでも,美術史の巨匠パノフスキーでさえもが「カーテン」や「舗
石」といった「表象されるもの」に安易に同定してしまった,
『ウルビーノのヴィーナス』の背後の黒
い平面をスクリーンと見なし,またこれまで単純に前景と同一の空間にあると想定されてきた,侍女た
ちのいる空間を「絵中絵」として,それが「制作のシナリオ」を示しており,見る者の絵への対処をあ
る意味で規定していると考えるあたり,その見事な例証となっていると言える。こうしたアラッスの批
評的態度はその脱領域的スタイルともあいまって,彼の師にあたるルイ・マラン(一)やユベール・ダ
ミッシュとも,また彼の同僚であり最近邦訳も相次いでいるジョルジュ・ディディ=ユベルマンなどと
もあきらかに共通するものを有しており,新しい美術批評の流派・ムーヴメント(高等研究院派?)の
ようなものを形成しつつあるような観もある。今後も注目していきたい。
(一)アラッスとも共通するマランの美術批評の特徴にかんしては,以下の拙稿を参照していただけれ
ばと思う。ルイ・マラン『崇高なるプッサン』矢橋透訳,みすず書房,二〇〇〇年,「訳者後記」。また
矢橋透「近代形成装置としての絵画――ニコラ・プッサン『ピュラモスとティスベのいる嵐の風景』を
巡って」
,
『みすず』
,二〇〇二年一〇月号。