生命の実相 第16巻 人生問答篇「下」

⽣命の實相 第 巻
⼈⽣問答篇﹁下﹂
第⼆章
治す念波の話
に腹を⽴てたところが︑たちまち病気が⼗数年前に逆戻
り し て 激 痛 で 動 け な く な っ た の で ︑﹁ こ れ は 悪 い こ と を
した︑怒るのではなかった﹂と⾮常に後悔して︑⼼を平
静にするように努めてようやく病気を回復したのです
が︑それ以来︑そのフィールド夫⼈は腹を⽴てることが
恐ろしくてとても腹を⽴てられなくなったそうです︒こ
の本は知⼈に貸してありますが取り寄せておいてまたお
いうものが⾃分に流れ込んで治してくれるに違いないと
を受け容れる⼯夫をすれば︑その神秘な﹁治す念波﹂と
神秘な⼒が宇宙に充ちていると仮定して︑その神秘な⼒
神秘な⼒が宇宙に充ちているに違いない︒さてそういう
仮定するならば︑そういう病気を治す念波というような
うに奇跡的に病気を癒やしたという事実が実際あったと
の奇跡のことを考えていました︒キリストがああいうふ
いた⼈がありましたが︑ある⽇聖書に顕われたキリスト
というひどい全⾝神経痛で⼗数年間⼀歩も動けず病床に
に聞いた話としで書いてあるのに︑ミセス・フィールド
を⽣かす⼒がある︒そして︑われわれの吐き出す炭酸ガ
気も外の空気とある程度までつながっていて︑われわれ
ど室の中にある空気のようなものです︒室の中にある空
れ個⼈の内に宿っている﹁治す念波﹂は︑それはちょう
て︑本当に治す⼒を発揮するようになるのです︒われわ
分のうちに宿っている﹁治す念波﹂が清まって⽣気を得
て﹁宇宙に満つる治す念波﹂を受けるようにすると︑⾃
﹁治す念波﹂と結びついているのです︒⼼を素直に開い
この⾃分の内に宿る﹁治す念波﹂は︑宇宙に満ちている
誰 で も ︑⾃ 分 の う ち に ︑こ の﹇ 治 す 念 波 ﹈を も っ て い て ︑
実です︒神の⼤きな⽣かす⼒がこの﹁治す念波﹂です︒
これは事
あり⽶国へ留学などした⽅ですが︑今は商⼤の先⽣をし
念出版として⼀冊ずつ書物を出版されますので︑その書
︱
思って︑安 臥 の形式など⼯夫して︑できるだけ⼼を静か
スなどの毒ガスが穢されると⽣かす⼒が少なくなるか
宇宙に﹁治す念波﹂が充ちている
にして︑宇宙に満ちている﹁治す念波﹂を感受すること
ら︑また⼾障⼦を解放して⼤気を部屋の中へ導き⼊れね
︱
に努めたのです︒すると︑⼀週間⽬にはべットの上で半
ばならぬ︒それと同じように︑われわれの内に宿ってい
物の⼀冊を貰って読みましたが︑その⼈が⽶国にいた時
⾝を起こすことができるようになり︑歩いてみるとボツ
る﹁治す⼒﹂も︑ある程度まで﹁宇宙の治す⼒﹂とつな
あ ん が
ボツ歩けるのですね︒間もなくその⼗数年間の痼 疾 が全
がっていてわれわれを⽣かす⼒があり︑われわれを治す
こ し つ
快したのですが︑ある⽇腹の⽴つ出来事が起こって⾮常
⾕⼝
⾒せしましょう︒
甲南⾼等学校の先⽣で河合という⽅が
(141)
ていられます︒その⼈は⼀⼈⼦供が⽣まれると︒その記
⼭本︵画家︶
︱
16
﹁治す⼒﹂が鈍ってきた時には︑⼤⽣命に向かって⼼を
いろいろの不純な念がたまって⾃分のうちに宿っている
う︒それと同じようにわれわれはわれわれの⼼のうちに
たらわれわれは⼾障⼦を開いて⼤気に解放するでしょ
⼒が鈍ったりするのです︒部屋の中に炭酸ガスが籠もっ
ために︑健康な者も病気になったり︑病気のものは回復
ス が で き て ﹁ 治 す ⼒ ﹂﹁ ⽣ か す ⼒ ﹂ が 濁 っ て く る ︒ そ の
れわれが室内に炭酸ガスを吐き出すように⼼の中に毒ガ
⼈を怨んだり憎んだり恐れたりしていると︑ちょうどわ
⼒があるのですが︑⼼が素直に平和に伸び伸びしないで
が 宿 っ て ﹁ ⾃ 分 ﹂ と な っ て い る の で す か ら ︑﹁ ⾃ 分 は 神
その﹁活きている⾃分﹂というものはこの﹁本源の神﹂
いろいろ⽣きた活きをしたり︑物を考えたりしている︒
で︑われわれにはこの本源の神の⽣命⼒が宿っていて︑
⽣命⼒
なものを認めずにはいられないでしょう︒この共通的⼤
物を⼀貫して⽣かしている︑共通的⼤⽣命⼒というよう
各個⼈の⾁体から出る個々別々の⼒ではなく︑全体の⽣
ていることを思えば︑われわれ各個⼈に宿る⽣命⼒は︑
の構造設計までが⼀貰した⼀つの同じ原理ででき上がっ
⼈が真似をしてこしらえたわけではないのに︑その細部
これを称してわれわれは本源の神と呼ぶの
開く︒河合さんの著述にある︑ミセス・フィールドもこ
だ﹂ということになるのです︒この﹁⾃分は神だ﹂とい
ゆ の う
が︑誰も彼も同じ相似の働きをしているのでも知ること
ら来ているということは︑われわれの内に⽣きている⼒
ている⽣命⼒とが︑⼀つの源のいっそう⼤きな⽣命⼒か
の⾃分のうちに⽣きている⽣命⼒と︑他⼈のうちに⽣き
死を恐れようがないのです︒あなたはこの⾁体が死んだ
死 な な い 者 に﹁ 死 ﹂を 恐 れ る は ず が な い ︒死 な な い か ら ︑
す よ ︒こ れ が 解 れ ば ⼈ 間 は 死 ぬ こ と が 恐 ろ し く な く な る ︒
われますが︑⼈間は決して死なない︑⽣き通しのもので
っているからでしょう︒あなたは死ぬのが恐ろしいとい
死ぬのが恐ろしいのは︑この⾁体を⼈間だと思
て来るのです︒
⼼がそこから湧いて来︑⼤きな⾃⼰癒 能 もそこから湧い
︱
れをやったのでしょう︒淘 宮 術 では﹁⼤空に懺 悔 す
う真理がわかり︑そしていっそう⼤きな⽣命に結ばれて
ざ ん げ
る﹂というそうですね︒要するに⼼の⼾障⼦を解放して
いるということがわかると︑われわれはわれわれ⾃⾝の
とうきゅうじゅつ
⼤ ⽣ 命 の 海 原 か ら ⽣ き る ⼒ を 汲 む の で す ︒こ の ⽅ 法 が﹁ ⽣
内に宿っている⼤きな⽣命⼒に信頼することができ︑安
ひと
⾃分のうちに神秘な⽣命⼒が宿っている︑それ
しんそうかん
⻑の家﹂の神 想 観 です︒
︱
⾕⼝
は認める︒それならば 他 の内にも神秘な⽣命⼒が宿って
︱
ができるでしょう︒誰でも胃袋があり︑腸があり︑⼼臓
のち︑われわれの⽣命が﹁⽣き通しの⽣命の海﹂の中に
⾕ロ
があり︑肺臓がある︒その細部の構造設計までも似てい
没し込んで個性が無くなるように思っていられますが︑
いる︑それをも認めなければならなくなるでしょう︒そ
る︒別にある⼈が発明した﹁⼈体﹂という機械を︑他の
い る の で す ︒ ⾁ 体 が ⽣ き て い て は ︑﹁ ⽣ き 通 し の ⽣ 命 の
ても︑依然として﹁⽣き通しの⽣命の海﹂の中に⽣きて
きているのです︒われわれは︑⾁体が滅びても滅びなく
なく⽣命を供給されている
それだからわれわれは⽣
です︒そしてその﹁⽣き通しの⽣命の海﹂から常に間断
今このままでも﹁⽣き通しの⽣命の海﹂に没しているの
われわれが﹁⽣き通しの⽣命の海﹂に没しているのは︑
ている︒霊魂は死の刹那のショックで意識を失うが︑霊
殺する⼈もありますが︑⾁体が死んだ後も霊魂は存続し
あって︑死んだら⾁体はないから病気はないと思って⾃
同じような出来栄えの絵ができるのです︒現界で病気で
て も ︑⾃ 分 の ﹁ 念 ﹂ と い う ⼿ 法 が 変 わ ら な い 限 り は ︑
絵であるから︑いくら現界︑幽界︑霊界と画 布 を変え
というものはわれわれ⾃⾝ではなく︑われわれの描いた
体﹂という精 緻 な絵が描かれる︒しかし要するに﹁体﹂
せ い ち
海﹂の中に溶け込んでいないと思ったり︑⾁体が滅んで
界で意識を回復すると︑なんでも周囲が⾒えるものだか
カンバス
から初めて﹁⽣き通しの⽣命﹂と⼀つになれると思うの
ら﹁ ⾃ 分 は ⽣ き て い る ﹂と 思 う ︑そ う し て そ の 次 に は﹁ ⾃
テクニック
はまちがいです︒われわれは今も︑これからも︑永遠に
分は病気だった﹂と思う︑すると﹁⾃分は病気だ﹂とい
インド⼈にはいろいろ神通⼒を発揮す
こころ
﹁⽣き通しの⽣命﹂の中に⽣きてそれに繋がっているの
う念によって︑その霊魂体に病気をあらわす︒先⽇もそ
︱
です︒それならば︑この﹁⾁体の死﹂ということはなん
ういう例がありました︒ある霊媒に⼗七年前に亡くなっ
え か き
であるかといいますと︑あなたは画 家 ですが︑⾁体とい
た⼈の霊魂があらわれて来ましたが︑依然として⼗七年
え か き
うものは︑われわれの﹁⽣命﹂という画 家 の描いた絵の
か
前の臨終の苦しみを継続して苦しんでいました︒
が
⼭本︵医博︶
︱
⼀つです︒⾁体が死ぬということは︑その絵の⼀つを終
わるということであって︑画 家 ⾃⾝が死ぬことではない
のです︒われわれは⼀つの絵を書き終わったら︑また他
る者があるようですね︒僕の知っている外⼈に⼲葉中学
カンバス
テクニック
の画 布 に描くのです︒⾁体はわれわれが﹁現界﹂とい
で英語教師をしていたロビンソンという英⼈がありまし
こころ
う 画 布 に 描 い た 絵 で す ︒わ れ わ れ は﹁ 念 ﹂と い う ⼿ 法
たが︑この⼈は正直な男で決して嘘を告 くような男では
カンバス
で﹁現界﹂という画 布 に絵を描く︒それがわれわれ⽩
ない︒⻑らくインドにいたのですが︑インドの婆 羅 ⾨ の
カンバス
カンバス
きょく
つ
⾝の現実の⾁体であり︑現実の境遇であります︒それが
⾏者には︑これから何年間﹁ 定 ﹂に⼊るといって︑静
テクニック
カンバス
カンバス
終 わ っ た ら わ れ わ れ は 画 布 を 変 え て﹁ 霊 界 ﹂と い う 画 布
坐する︒すると世話役が⼝になんの薬液か知らないけれ
バ ラ モ ン
法 で絵を描くのです︒画 布
ちが
じょう
に同じく﹁ 念 ﹂という⼿
ども注いでくれる︒本⼈は精神統⼀の 極 ︑もう脈搏も
こころ
が 異 っているから絵の表現も 異 う︒⼀⽅は現界という
呼吸も触 知 しうる程度にはない︒いわゆる仮死状態と
カンバス
ちが
粗い画 布 に描くから﹁⾁体﹂という粗っぽい絵ができ
いうべきものですが︑それを⽯棺に納めて何年何⽉何⽇
カンバス
しょくち
る︒⼀⽅は霊界という精練された画 布 に描くから﹁霊
ド⼈が⼀度﹁定﹂に⼊って再び甦るという事実を疑って
が出張して銃剣をつけて護衛する︒だから英国⼈でイン
が集まって来る︒その混雑を警戒するために英国の官憲
すのですが︑その時はまるでお祭り騒ぎで多 勢 の観衆
に埋めて置く︒⼀定の⽇ 限 が来るとその⽯棺を掘り出
これを開くと書いて︑何年か⼀定の時期が来るまで地下
容れるために時代および国々によっていろいろちがう神
る︒そのために︑神はその各種各様な⼈間が救いを受け
び時代によって習慣や⾵俗や思想にいろいろ変化があ
⽅は⼀つであるけれども︑地上の⼈間の⽅は︑国々およ
を包容して救って下さるものこそ本当の神である︒神の
こそ︑本当の神である︒あらゆる空間とあらゆる時間と
偏 鄙 な世界にさえも救いの⼿のとどいている神であって
へ ん び
いるものは⼀⼈もない︒⽯棺を掘り出して蓋を開くと︑
となってあらわれなければならぬのです︒旧約時代の神
にちげん
依然として棺の中のインド⼈は﹁定﹂に⼊った姿勢をし
とキリストの神とは︑⼤いに変わっている︒これは神が
になるのは︑神に関
⽣⻑の家の神さまを祈るのと︑キリストを礼拝
容的な神ならば︑⾃⼰のうちにすべての神仏を包容して
な神だとお考えになっている傾きがあるからです︒全包
おおぜい
て坐っている︒それに世話役が⼝を聞かせてまたなんの
進化したためではなく︑⼈間が進化したために神がそれ
あら
薬か知らないが︑⼝に含ませ︑それからマッサージのよ
に相 応 しい姿で 顕 われられたのである︒時代が変わって
ふ さ わ
うなことをすると︑数年間呼吸をせずに仮死状態に這 ⼊
きて今までの宗教では迷信臭くて⼊れぬという⼈のため
するのと⼼のうちに⽭盾をお感じ
少しも⽭盾を感じない神でなければならぬ︒⽣⻑の家の
い
っていたそのインド⼈の⾁体が柔かくなり︑呼吸を吹き
に同じ⼀つの神ではあるけれども顕現を 異 にしてお顕わ
トの神と﹁⽣⻑の家の神﹂とが互いに相容れないように
お考えになるのは︑キリストの神を全包容的な神とお考
する考え⽅に偏 寄 りがあるからです︒個⼈の⼈間霊は
神さまは︑どの神を拝んではならぬとは仰せられない︒
えにならないで︑他の神と対⽴的に存在するような⼩さ
別として︑救いの神は⼀つだということが本当に⾃覚で
どの神も同体であるから︑どの神を通して拝んでもよい
は
返して再び以前と同じ⼈間⽣活に帰って来るのです︒こ
れ に な っ た の が ︑﹁ ⽣ ⻑ の 家 の 神 ﹂ で あ り ま す ︒ キ リ ス
﹁みんな⼀体﹂の信仰を語る
こと
れなどはおもしろい現象だと思いますね︒
第三章
そ れ い さ い し
祖 霊 祭 祀 の形式
き て い な い か ら で す ︒神 は イ ス ラ エ ル だ け の 神 で は な い ︒
と仰せられています︒排他的な神は︑本当の神ではなく
五
⽇本だけの神でもない︑キリストが出て来られない前に
て執着をもった⼈霊の顕現であるか︑そうでなければ本
︱
も⼈類は救われたのである︒それまでは⼈間を救わずに
当の神をば信者が勝⼿に⼈間的に解釈して︑⼈間同様排
⾕⼝
放って置くような神ならば本当の神ではない︒イエスの
他的に伝えるのです︒この点においてキリストの神の神
かたより
まだ⽣まれない以前や︑イエスの名の及ばないどんな
髄を伝えているのは﹁⽣⻑の家﹂です︒この点において
仏 教 の 本 当 の 神 髄 を 伝 え て い る の は ︑﹁ ⽣ ⻑ の 家 ﹂で す ︒
︱
な
み
な
⽣⻑の家⼤神であるとすると︑キリストの
⾔いかえると⼀つの救い
⼀切包容のすべての宗教の神髄をつたえるために神界に
︱
顕われられた⼀個の天使が
み
の霊波が
聖 名 と⼀緒に⽣⻑の家⼤神の聖 名 を称えても⼀向⽭盾を
感じないのは当然ではありませんか︒
⽣命の實相 ⾕⼝雅春 ⽇本教分社