⽣命の實相 第 巻 ⼈⽣問答篇﹁下﹂ 第⼆章 治す念波の話 に腹を⽴てたところが︑たちまち病気が⼗数年前に逆戻 り し て 激 痛 で 動 け な く な っ た の で ︑﹁ こ れ は 悪 い こ と を した︑怒るのではなかった﹂と⾮常に後悔して︑⼼を平 静にするように努めてようやく病気を回復したのです が︑それ以来︑そのフィールド夫⼈は腹を⽴てることが 恐ろしくてとても腹を⽴てられなくなったそうです︒こ の本は知⼈に貸してありますが取り寄せておいてまたお いうものが⾃分に流れ込んで治してくれるに違いないと を受け容れる⼯夫をすれば︑その神秘な﹁治す念波﹂と 神秘な⼒が宇宙に充ちていると仮定して︑その神秘な⼒ 神秘な⼒が宇宙に充ちているに違いない︒さてそういう 仮定するならば︑そういう病気を治す念波というような うに奇跡的に病気を癒やしたという事実が実際あったと の奇跡のことを考えていました︒キリストがああいうふ いた⼈がありましたが︑ある⽇聖書に顕われたキリスト というひどい全⾝神経痛で⼗数年間⼀歩も動けず病床に に聞いた話としで書いてあるのに︑ミセス・フィールド を⽣かす⼒がある︒そして︑われわれの吐き出す炭酸ガ 気も外の空気とある程度までつながっていて︑われわれ ど室の中にある空気のようなものです︒室の中にある空 れ個⼈の内に宿っている﹁治す念波﹂は︑それはちょう て︑本当に治す⼒を発揮するようになるのです︒われわ 分のうちに宿っている﹁治す念波﹂が清まって⽣気を得 て﹁宇宙に満つる治す念波﹂を受けるようにすると︑⾃ ﹁治す念波﹂と結びついているのです︒⼼を素直に開い この⾃分の内に宿る﹁治す念波﹂は︑宇宙に満ちている 誰 で も ︑⾃ 分 の う ち に ︑こ の﹇ 治 す 念 波 ﹈を も っ て い て ︑ 実です︒神の⼤きな⽣かす⼒がこの﹁治す念波﹂です︒ これは事 あり⽶国へ留学などした⽅ですが︑今は商⼤の先⽣をし 念出版として⼀冊ずつ書物を出版されますので︑その書 ︱ 思って︑安 臥 の形式など⼯夫して︑できるだけ⼼を静か スなどの毒ガスが穢されると⽣かす⼒が少なくなるか 宇宙に﹁治す念波﹂が充ちている にして︑宇宙に満ちている﹁治す念波﹂を感受すること ら︑また⼾障⼦を解放して⼤気を部屋の中へ導き⼊れね ︱ に努めたのです︒すると︑⼀週間⽬にはべットの上で半 ばならぬ︒それと同じように︑われわれの内に宿ってい 物の⼀冊を貰って読みましたが︑その⼈が⽶国にいた時 ⾝を起こすことができるようになり︑歩いてみるとボツ る﹁治す⼒﹂も︑ある程度まで﹁宇宙の治す⼒﹂とつな あ ん が ボツ歩けるのですね︒間もなくその⼗数年間の痼 疾 が全 がっていてわれわれを⽣かす⼒があり︑われわれを治す こ し つ 快したのですが︑ある⽇腹の⽴つ出来事が起こって⾮常 ⾕⼝ ⾒せしましょう︒ 甲南⾼等学校の先⽣で河合という⽅が (141) ていられます︒その⼈は⼀⼈⼦供が⽣まれると︒その記 ⼭本︵画家︶ ︱ 16 ﹁治す⼒﹂が鈍ってきた時には︑⼤⽣命に向かって⼼を いろいろの不純な念がたまって⾃分のうちに宿っている う︒それと同じようにわれわれはわれわれの⼼のうちに たらわれわれは⼾障⼦を開いて⼤気に解放するでしょ ⼒が鈍ったりするのです︒部屋の中に炭酸ガスが籠もっ ために︑健康な者も病気になったり︑病気のものは回復 ス が で き て ﹁ 治 す ⼒ ﹂﹁ ⽣ か す ⼒ ﹂ が 濁 っ て く る ︒ そ の れわれが室内に炭酸ガスを吐き出すように⼼の中に毒ガ ⼈を怨んだり憎んだり恐れたりしていると︑ちょうどわ ⼒があるのですが︑⼼が素直に平和に伸び伸びしないで が 宿 っ て ﹁ ⾃ 分 ﹂ と な っ て い る の で す か ら ︑﹁ ⾃ 分 は 神 その﹁活きている⾃分﹂というものはこの﹁本源の神﹂ いろいろ⽣きた活きをしたり︑物を考えたりしている︒ で︑われわれにはこの本源の神の⽣命⼒が宿っていて︑ ⽣命⼒ なものを認めずにはいられないでしょう︒この共通的⼤ 物を⼀貫して⽣かしている︑共通的⼤⽣命⼒というよう 各個⼈の⾁体から出る個々別々の⼒ではなく︑全体の⽣ ていることを思えば︑われわれ各個⼈に宿る⽣命⼒は︑ の構造設計までが⼀貰した⼀つの同じ原理ででき上がっ ⼈が真似をしてこしらえたわけではないのに︑その細部 これを称してわれわれは本源の神と呼ぶの 開く︒河合さんの著述にある︑ミセス・フィールドもこ だ﹂ということになるのです︒この﹁⾃分は神だ﹂とい ゆ の う が︑誰も彼も同じ相似の働きをしているのでも知ること ら来ているということは︑われわれの内に⽣きている⼒ ている⽣命⼒とが︑⼀つの源のいっそう⼤きな⽣命⼒か の⾃分のうちに⽣きている⽣命⼒と︑他⼈のうちに⽣き 死を恐れようがないのです︒あなたはこの⾁体が死んだ 死 な な い 者 に﹁ 死 ﹂を 恐 れ る は ず が な い ︒死 な な い か ら ︑ す よ ︒こ れ が 解 れ ば ⼈ 間 は 死 ぬ こ と が 恐 ろ し く な く な る ︒ われますが︑⼈間は決して死なない︑⽣き通しのもので っているからでしょう︒あなたは死ぬのが恐ろしいとい 死ぬのが恐ろしいのは︑この⾁体を⼈間だと思 て来るのです︒ ⼼がそこから湧いて来︑⼤きな⾃⼰癒 能 もそこから湧い ︱ れをやったのでしょう︒淘 宮 術 では﹁⼤空に懺 悔 す う真理がわかり︑そしていっそう⼤きな⽣命に結ばれて ざ ん げ る﹂というそうですね︒要するに⼼の⼾障⼦を解放して いるということがわかると︑われわれはわれわれ⾃⾝の とうきゅうじゅつ ⼤ ⽣ 命 の 海 原 か ら ⽣ き る ⼒ を 汲 む の で す ︒こ の ⽅ 法 が﹁ ⽣ 内に宿っている⼤きな⽣命⼒に信頼することができ︑安 ひと ⾃分のうちに神秘な⽣命⼒が宿っている︑それ しんそうかん ⻑の家﹂の神 想 観 です︒ ︱ ⾕⼝ は認める︒それならば 他 の内にも神秘な⽣命⼒が宿って ︱ ができるでしょう︒誰でも胃袋があり︑腸があり︑⼼臓 のち︑われわれの⽣命が﹁⽣き通しの⽣命の海﹂の中に ⾕ロ があり︑肺臓がある︒その細部の構造設計までも似てい 没し込んで個性が無くなるように思っていられますが︑ いる︑それをも認めなければならなくなるでしょう︒そ る︒別にある⼈が発明した﹁⼈体﹂という機械を︑他の い る の で す ︒ ⾁ 体 が ⽣ き て い て は ︑﹁ ⽣ き 通 し の ⽣ 命 の ても︑依然として﹁⽣き通しの⽣命の海﹂の中に⽣きて きているのです︒われわれは︑⾁体が滅びても滅びなく なく⽣命を供給されている それだからわれわれは⽣ です︒そしてその﹁⽣き通しの⽣命の海﹂から常に間断 今このままでも﹁⽣き通しの⽣命の海﹂に没しているの われわれが﹁⽣き通しの⽣命の海﹂に没しているのは︑ ている︒霊魂は死の刹那のショックで意識を失うが︑霊 殺する⼈もありますが︑⾁体が死んだ後も霊魂は存続し あって︑死んだら⾁体はないから病気はないと思って⾃ 同じような出来栄えの絵ができるのです︒現界で病気で て も ︑⾃ 分 の ﹁ 念 ﹂ と い う ⼿ 法 が 変 わ ら な い 限 り は ︑ 絵であるから︑いくら現界︑幽界︑霊界と画 布 を変え というものはわれわれ⾃⾝ではなく︑われわれの描いた 体﹂という精 緻 な絵が描かれる︒しかし要するに﹁体﹂ せ い ち 海﹂の中に溶け込んでいないと思ったり︑⾁体が滅んで 界で意識を回復すると︑なんでも周囲が⾒えるものだか カンバス から初めて﹁⽣き通しの⽣命﹂と⼀つになれると思うの ら﹁ ⾃ 分 は ⽣ き て い る ﹂と 思 う ︑そ う し て そ の 次 に は﹁ ⾃ テクニック はまちがいです︒われわれは今も︑これからも︑永遠に 分は病気だった﹂と思う︑すると﹁⾃分は病気だ﹂とい インド⼈にはいろいろ神通⼒を発揮す こころ ﹁⽣き通しの⽣命﹂の中に⽣きてそれに繋がっているの う念によって︑その霊魂体に病気をあらわす︒先⽇もそ ︱ です︒それならば︑この﹁⾁体の死﹂ということはなん ういう例がありました︒ある霊媒に⼗七年前に亡くなっ え か き であるかといいますと︑あなたは画 家 ですが︑⾁体とい た⼈の霊魂があらわれて来ましたが︑依然として⼗七年 え か き うものは︑われわれの﹁⽣命﹂という画 家 の描いた絵の か 前の臨終の苦しみを継続して苦しんでいました︒ が ⼭本︵医博︶ ︱ ⼀つです︒⾁体が死ぬということは︑その絵の⼀つを終 わるということであって︑画 家 ⾃⾝が死ぬことではない のです︒われわれは⼀つの絵を書き終わったら︑また他 る者があるようですね︒僕の知っている外⼈に⼲葉中学 カンバス テクニック の画 布 に描くのです︒⾁体はわれわれが﹁現界﹂とい で英語教師をしていたロビンソンという英⼈がありまし こころ う 画 布 に 描 い た 絵 で す ︒わ れ わ れ は﹁ 念 ﹂と い う ⼿ 法 たが︑この⼈は正直な男で決して嘘を告 くような男では カンバス で﹁現界﹂という画 布 に絵を描く︒それがわれわれ⽩ ない︒⻑らくインドにいたのですが︑インドの婆 羅 ⾨ の カンバス カンバス きょく つ ⾝の現実の⾁体であり︑現実の境遇であります︒それが ⾏者には︑これから何年間﹁ 定 ﹂に⼊るといって︑静 テクニック カンバス カンバス 終 わ っ た ら わ れ わ れ は 画 布 を 変 え て﹁ 霊 界 ﹂と い う 画 布 坐する︒すると世話役が⼝になんの薬液か知らないけれ バ ラ モ ン 法 で絵を描くのです︒画 布 ちが じょう に同じく﹁ 念 ﹂という⼿ ども注いでくれる︒本⼈は精神統⼀の 極 ︑もう脈搏も こころ が 異 っているから絵の表現も 異 う︒⼀⽅は現界という 呼吸も触 知 しうる程度にはない︒いわゆる仮死状態と カンバス ちが 粗い画 布 に描くから﹁⾁体﹂という粗っぽい絵ができ いうべきものですが︑それを⽯棺に納めて何年何⽉何⽇ カンバス しょくち る︒⼀⽅は霊界という精練された画 布 に描くから﹁霊 ド⼈が⼀度﹁定﹂に⼊って再び甦るという事実を疑って が出張して銃剣をつけて護衛する︒だから英国⼈でイン が集まって来る︒その混雑を警戒するために英国の官憲 すのですが︑その時はまるでお祭り騒ぎで多 勢 の観衆 に埋めて置く︒⼀定の⽇ 限 が来るとその⽯棺を掘り出 これを開くと書いて︑何年か⼀定の時期が来るまで地下 容れるために時代および国々によっていろいろちがう神 る︒そのために︑神はその各種各様な⼈間が救いを受け び時代によって習慣や⾵俗や思想にいろいろ変化があ ⽅は⼀つであるけれども︑地上の⼈間の⽅は︑国々およ を包容して救って下さるものこそ本当の神である︒神の こそ︑本当の神である︒あらゆる空間とあらゆる時間と 偏 鄙 な世界にさえも救いの⼿のとどいている神であって へ ん び いるものは⼀⼈もない︒⽯棺を掘り出して蓋を開くと︑ となってあらわれなければならぬのです︒旧約時代の神 にちげん 依然として棺の中のインド⼈は﹁定﹂に⼊った姿勢をし とキリストの神とは︑⼤いに変わっている︒これは神が になるのは︑神に関 ⽣⻑の家の神さまを祈るのと︑キリストを礼拝 容的な神ならば︑⾃⼰のうちにすべての神仏を包容して な神だとお考えになっている傾きがあるからです︒全包 おおぜい て坐っている︒それに世話役が⼝を聞かせてまたなんの 進化したためではなく︑⼈間が進化したために神がそれ あら 薬か知らないが︑⼝に含ませ︑それからマッサージのよ に相 応 しい姿で 顕 われられたのである︒時代が変わって ふ さ わ うなことをすると︑数年間呼吸をせずに仮死状態に這 ⼊ きて今までの宗教では迷信臭くて⼊れぬという⼈のため するのと⼼のうちに⽭盾をお感じ 少しも⽭盾を感じない神でなければならぬ︒⽣⻑の家の い っていたそのインド⼈の⾁体が柔かくなり︑呼吸を吹き に同じ⼀つの神ではあるけれども顕現を 異 にしてお顕わ トの神と﹁⽣⻑の家の神﹂とが互いに相容れないように お考えになるのは︑キリストの神を全包容的な神とお考 する考え⽅に偏 寄 りがあるからです︒個⼈の⼈間霊は 神さまは︑どの神を拝んではならぬとは仰せられない︒ えにならないで︑他の神と対⽴的に存在するような⼩さ 別として︑救いの神は⼀つだということが本当に⾃覚で どの神も同体であるから︑どの神を通して拝んでもよい は 返して再び以前と同じ⼈間⽣活に帰って来るのです︒こ れ に な っ た の が ︑﹁ ⽣ ⻑ の 家 の 神 ﹂ で あ り ま す ︒ キ リ ス ﹁みんな⼀体﹂の信仰を語る こと れなどはおもしろい現象だと思いますね︒ 第三章 そ れ い さ い し 祖 霊 祭 祀 の形式 き て い な い か ら で す ︒神 は イ ス ラ エ ル だ け の 神 で は な い ︒ と仰せられています︒排他的な神は︑本当の神ではなく 五 ⽇本だけの神でもない︑キリストが出て来られない前に て執着をもった⼈霊の顕現であるか︑そうでなければ本 ︱ も⼈類は救われたのである︒それまでは⼈間を救わずに 当の神をば信者が勝⼿に⼈間的に解釈して︑⼈間同様排 ⾕⼝ 放って置くような神ならば本当の神ではない︒イエスの 他的に伝えるのです︒この点においてキリストの神の神 かたより まだ⽣まれない以前や︑イエスの名の及ばないどんな 髄を伝えているのは﹁⽣⻑の家﹂です︒この点において 仏 教 の 本 当 の 神 髄 を 伝 え て い る の は ︑﹁ ⽣ ⻑ の 家 ﹂で す ︒ ︱ な み な ⽣⻑の家⼤神であるとすると︑キリストの ⾔いかえると⼀つの救い ⼀切包容のすべての宗教の神髄をつたえるために神界に ︱ 顕われられた⼀個の天使が み の霊波が 聖 名 と⼀緒に⽣⻑の家⼤神の聖 名 を称えても⼀向⽭盾を 感じないのは当然ではありませんか︒ ⽣命の實相 ⾕⼝雅春 ⽇本教分社
© Copyright 2024 Paperzz