(85)改憲拒み続けた吉田首相 2014.11.23 米は「自由のための戦い」求めたが 終戦直後の昭和20(1945)年8月末、後の首相、吉田茂が元駐独大使、来栖(くる す)三郎らにあてた有名なはがきがある。 冒頭、英文で「もし悪魔に息子がいるなら、間違いなくそれは東条だ」と開戦時の首 相、東条英機を罵倒する。東条個人だけでなく「軍なる政治の癌(がん)切開除去」が なり「此敗戦必らずしも悪からず」と軍批判も展開している。 この年の4月、吉田は憲兵隊により拘束されている。近衛文麿元首相が昭和天皇に 「降伏」を直言したいわゆる「近衛上奏文」に関与、軍を中傷したなどの疑いだった。東 京憲兵隊などに約40日間勾留された後仮釈放されたが、吉田はこれを相当恨んだら しい。 先のはがきにも「小生共を苦しめたるケンペイ君…其(その)頭目東条」とあり、吉田 の「軍嫌い」の一因になったことをうかがわせる。そしてこの嫌軍感情が戦後の吉田政 権下で憲法改正-再軍備問題に微妙な影を落としていると言えなくもない。 昭和26(1951)年1月、米国務省顧問のジョン・フォスター・ダレスが特使として来 日した。朝鮮戦争勃発で機運が強まりつつあった講和条約締結に向け、日本側と交 渉するためである。 29日、東京の三井本館でダレスと会談した吉田は早期の独立回復を求め「独立回 復後は、自由陣営の安定と平和のための応分の寄与をする覚悟だ」と述べた。 すかさずダレスが反問する。「寄与とは何か。今米国は自由のため世界で戦ってい る。日本は再軍備して軍事的寄与をしてもらいたい」。憲法を改正し自由主義陣営とと もに戦えというのだ。 だが吉田は拒否する。「日本がまず求めるのは独立の回復であり、いかなる寄与が できるかはその後のことだ」 この議論は「仲裁」に当たった連合国軍のマッカーサー最高司令官が吉田を支持し て終わるが、ダレスはなお再軍備を求める。これに対し吉田は、朝鮮戦争勃発で前年 発足した警察予備隊を、保安隊として拡充することを約束する。さらに独立後も米軍の 日本駐留を可能にする日米安保条約を結ぶことで講和にこぎつける。 保安隊は翌27年10月に発足、さらに29年には防衛庁(現防衛省)のもとに陸、海、 空の自衛隊が生まれ、近代的装備を整えた「軍」に育っていく。 それでも吉田は法的に裏付ける憲法の改正をかたくなに拒否し続ける。例えば吉田 が親しくしていた数少ない旧軍人の一人、辰巳栄一元陸軍中将が後に雑誌『偕行』で 明らかにしている逸話がある。辰巳が改憲を進言したのに対し吉田は「そもそも再軍備 に反対である。従って憲法は改正しない」とし、その理由をあげたという。 (1)諸外国に対抗できる軍備を持つことは財政上不可能で、今は経済力をつけるこ とが先決だ(2)国民の間にみなぎっている反戦、反軍の思想は再軍備に反対だ(3) 近隣諸国に軍国主義が復活したという不安を与える-だった。 しかし(2)(3)についてはたとえそうであっても、必要とあればこれを説得して決断す るのが政治家の役割である。吉田がこれを改憲拒否の理由としたことは、自らの軍へ の嫌悪感にとらわれていたと疑われても仕方がなかった。 もっとも吉田にすれば、占領直後あれほど日本の非武装化、骨抜きのため憲法を押 しつけた米国が国際情勢の急変を理由にその改正を迫るのは、あまりに身勝手に思 えたのも事実だろう。辰巳に対し「5、6年でやすやすと変えるものではない」とも語って いる。 いずれにせよ憲法改正をしなかったことで政府は「憲法は自衛のための戦争や武 力行使まで否定していない」という解釈によって自衛隊を「合法化」せざるを得ず、今 日まで至っている。 むろん、吉田の経済優先政策が後の経済成長をもたらせたものとして評価する声も 多い。 だが集団的自衛権の行使を可能にするためだけでも、大変な労力を使わざるを得 ないのが日本の安全保障の現実だ。あの好機に改憲をしておかなかったツケと思えて ならない。(皿木喜久) ◇ 【用語解説】保安隊から自衛隊へ 昭和29年3月、日米間でMSA(相互防衛援助協定)が結ばれた。米国が防衛面で 援助を行う一方、日本もより一層の防衛力増強を義務づけられた。このため当時の吉 田内閣は保安隊では不十分とし同年6月、防衛庁設置法と自衛隊法の防衛2法を成 立させ、7月1日、防衛庁の下に陸上、海上、航空の3自衛隊が発足した。保安隊の任 務が国内治安の維持だったのに対し自衛隊法は「わが国の平和と安全を守り…」と国 防を第一の任務と定めた。発足時、陸上が13万9000、海上が1万6000、航空が67 00の「兵力」からなっていた。
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