第2回シンポ・ディスカッション

ディスカッション
出演:中沢新一(思想家、人類学者)
加藤種男(アサヒグループ芸術文化財団顧問、本芸術祭アドバイザー)
宇梶静江(本芸術祭参加作家)
華雪(本芸術祭参加作家)
吉原悠博(本芸術祭参加作家)
コーディネーター:小川弘幸(本芸術祭プロデューサー)
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小川
今日はパネリストのみなさんと顔合わせをしたくらいで、事前の打ち合わせは特にしていま
せん。先ほど宇梶静江さんが、アイヌの歌や踊りにはリハーサルがないという話をされていま
した。それにあやかるわけではありませんが、こちらも筋書き無しの即興で展開していきたい
と思います。
まず、第一部で「新潟アースダイバー入門」のお話をされた中沢新一さんと吉原さんとは、
以前から近しい間柄で、今日は久しぶりにお会いされたと聞きました。まずは吉原さんから講
演のご感想などいただければと思います。
吉原
中沢さんとは過去 20 年くらい前、私が東京にいた時代に随分お世話になりまして、個展に
は何度も、ロバート・アシュレイとのコラボレーション・オペラ《Dust》も見ていただきまし
た。そんなこともあったので、今、ここ新潟で中沢さんとこういうシンポジウムに同席できる
のは非常に幸せです。
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先ほど、中沢さんが大変長い時間を俯瞰しながら、新潟の歴史をお話されました。私は今、
新発田に住み、新潟というよりも新発田で町おこしをしています。その僕が最初に気になった
のは、沼垂の話でした。沼垂というのが新潟の対岸にある町で、新潟よりも早く発展したとい
う。
沼垂というのは、新発田藩でした。新発田藩というのは大変広くて、沼垂もそうだし、中之
島、長岡市のあたりまでずっと新発田藩でした。そうすると、阿賀野川と信濃川の河口域が全
て新発田藩の文化域だったわけですね。
ここで少し私の作品の紹介をさせていただきますが、今回の芸術祭では『シビタ』という作
品をつくりました。タイトル名の「シビタ」というのは、アイヌ語です。先ほども宇梶さんに
お聞きしましたが、サケが捕れる土地という意味がある。サケが捕れるということは、イコー
ル豊饒な場所ということだと思いますが、そんなことが郷土である新発田と僕の中で重なりま
した。
「シビタ」が、新発田(シバタ)の語源だという説があるからです。他、いろんな思いが
重層した作品です。
小川
次に加藤さん。中沢さんのお話どのようにお聞きになられましたか。
加藤
「新潟アースダイバー入門」では、都市形成というのでしょうか、日本海文化としての都市
の文化が新潟の基になっているという。私は全く新潟に土地勘がない、元々縁がない人間なの
ですが、外から見ていると新潟というイメージを聞いたとき、どうしても農業県というか、農
業の地域だとイメージされやすいですね。でも元々海で、海の民は正に縦横に活動していたと
いう、その都会性みたいなものがここにあるとお聞きして、その点が非常に印象深かった。
また最近、今回の水と土の芸術祭のようなプロジェクトを、お手伝いするという機会が非常
に多くなってきました。それぞれの土地の持っているおもしろさと、そこで開かれるアートプ
ロジェクトがどういうふうに結びついているかということがいつも気になっています。それが
うまく結びあっていると成功する要素があるだろうし、どこでやっても同じようなものをただ
新潟でやったというのではあまり意味がないと思っています。
そういう意味では、吉原さんの作品《シビタ》は、正に新潟でなければできないという意味
で、非常に土地性ということを重んじておられる。その辺は非常によかったと思いました。
その他は、まだメイン会場以外拝見できていないのですが、見た範囲で言うと、海に関係し
た、正に新潟ならではの場所をうまく活用しておられると思いました。あそこで作品を発表さ
れた方々も、その他の会場に行くとそれはそれで新しいショックが得られて面白いと思います。
今拝見した限りでは、すごく今回いいスタートが切れているのではないかと思いました。
小川
今日の中沢さんの講演は、
「水と土の芸術祭」にぴたりと当てはまるものだと思いながら私も
聴いていました。芸術祭の基本理念は、
「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」というもの
ですが、縄文までさかのぼって、新潟の地形的成り立ちから今日に至るまで、すべてのつなが
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りの中に水と土というのがあるということを改めて感じています。
私たちはそれを、アートプロジェクトと市民プロジェクトで発見、発信していこうと考えま
したが、今回シンポジウムを加えて実施したことで、言葉でより伝わりやすくなったと思いま
す。
今日はアーティストの方もお三方、パネリストとしてご参加いただいていますが、芸術祭へ
の参加依頼の話があった時に最初どのように思われたか、また作品プランはどのように組まれ
ていったかというようなことをお伺いしたいと思います。
まず、宇梶さん。いかがでしたでしょうか。
宇梶
この水と土の芸術祭という、大きなテーマの芸術祭に参加させていただいて、本当に感謝し
ています。
私は、日本の先住民族であるアイヌ民族ですが、そのアイヌ民族の伝統には様々な伝統があ
ります。その中でも今回は、叙事詩をテーマにして展示しました。
私の生まれて育った時代では、アイヌ文化などは、戦争のエネルギーだとか様々な心魂の中
で消えつつあったわけです。でもおかげさまで戦後少しずつ自分たちの文化を取り戻し、見直
して展開していきたいという試みがみんなの中で起きてきた。その中で私も育って、考えてき
ました。北海道の浦河という土地から東京に参りました。もう随分昔になりますが、その後様々
な紆余曲折があり、それでもアイヌ文化を継承したいという想いがあり、叙事詩というのをぶ
つけました。アイヌの叙事詩を深く理解しておられるみなさんに応援していただきました。
アイヌの叙事詩というのは、アイヌ民族だけではなくて、日本の文化にとってもなくてはな
らないものだと言われ、様々なみなさんに推薦してもらい、お世話になりました。児童書を出
版している福音館書店から叙事詩を出版させていただいた。その出版社の編集してくださった
方も、アイヌの文化やアイヌ語の意味を深く理解してくださった。本をつくる上で足りない部
すがぬま え み
分をアドバイスしてくれました。また今日も福島から、アイヌ文化を守る会の会長の菅 沼 恵美
さんが駆けつけてくれています。
アイヌ民族は、自分たちの文化にはない戦争というものに巻き込まれました。戦争というも
のはあってはならないと、様々な知人・お友達と一緒に戦争を反対する会に参加したり、アイ
ヌの大切な英知のような叙事詩をみなさんにお伝えしたいと絵本の原画を展示させていただ
き、アイヌの叙事詩や文化についてみなさんとお話したり考えたりしていきたいという気持ち
でおります。実行委員の皆さん方の大変な深いご理解とご努力によって、展示させていただい
ているのをすごく嬉しく思います。
大災害についても、昔のアイヌたちは天候とかその年の虫の泣き方、鳥の泣き方、風の吹き
方で一年の計を立てたものです。今は天気予報とか、科学的なものに頼っていらっしゃる。そ
れはすごいことだと思いますが、昔の人々の深い知恵と身を守っていくということ、愛し合う
ということは、やはり先住民と和人であるみなさんのご先祖様も、共にしっかり考えてこられ
たことだということ。それを改めて感じていただきたいと思いました。そんな考えで参加させ
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ていただいています。
小川
ありがとうございます。宇梶さんの作品はメイン会場の水産会館の二階で絵本の原画となっ
た古布絵を展示しています。また滞在中は来場された方々と触れ合えるように展示室の一角に
畳を敷き、ソファーを置くなどしてくつろげる空間となっています。また宇梶さんが自作絵本
の朗読している映像も流れています。ぜひご覧にいただきたいと思います。
朗読の収録は大変でしたか。
宇梶
そう、寒かったのと、慣れないのとで朗読するのがあんなに大変だということを初めて実感
しました。大倉アドバイザーとスタッフが一生懸命我慢してやってくれて、あとで映したのを
見せてもらったら穴があったら入りたいという気持ちになった。でも一生懸命やりました。
一生懸命やって、大勢の方々と、今育っているお子さん方が自分を大切に生きていくための
少しのお助けをしたいと思います。それは先祖の考え方で、大切な役割をいただいているのだ
からしっかり応対したいと思いながら、なかなかそうはいかないところもあります。でもこれ
から身と心を挺してアイヌ文化をお伝えし、その中から食文化だとか精神文化をお伝えしたい。
今は科学とか、こういう世の中で翻弄されて、すごく悩んで精神科にいかなければならない
ほど追い詰められてしまう人々もいますが、大切に食べ、認め合い、大切に生きるということ
をアイヌの先祖は教えてくださるので、教えてもらったことを私は一生懸命お伝えしたいです。
食については、見えない毒物が回っています。私もひ孫が 3 人おります。この間、ひょっと
ひっくり返って起きあがることができたばかりの 3 人目のひ孫がいます。その子どもたちがも
う、アトピーになりました。そうするとそのアトピーをケアする食物をつくらなきゃいけない。
とれたての野菜は生き生きとしてきれいですが、安心して食べさせることができないものばか
りです。
私たちが育った頃には、農薬もありませんでした。貧しく育ちましたが、先祖の知恵で川に
上がってくる魚や海の魚、山の山菜や野草、海藻などで、何もなくても親たちが育ててくれま
した。年をとって肝臓や心臓が悪いとか、血液の循環が悪いというときに食べ物でケアして、
死ぬまで寝たきりという老人がほとんどいなかったと、元参議院議員の萱野茂先生が書かれて
いました。
昔のアイヌの老人は、死ぬ直前の数日前まで手仕事があったし、やることがあったから寝た
きりにならなかったそうです。メタボになっている者はいなかったと、そういうことを繰り返
し書いておられています。
私も来年は 80 歳になります。できるだけ子どもたちが無事に育っていくように、アトピー
や様々な悪い病気にかかったとき、お医者さんにかかることはもとより、健康でいることを考
えています。
昨日、NHKのエグゼクティブ・プロデューサーで 70 歳を過ぎた方と、これから食べてい
くものについて話しました。彼は、きれいで草のないあぜ道の脇で育ったお米は食べないとい
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います。草が生えないのは農薬のせいであって、あぜに草が生えているところのお米こそが大
事だといいました。私も 19 歳まで農業をやっていたから、あぜの刈り方とか知っていますが、
知らずに食べているのかと思うと怖かったです。
その方に、アイヌのレシピだけを研究するのではなく、現代の子供や女性、病気のお年寄り
たちが、食べたり飲んだりすることで気分がよくなり、胃腸が楽になったりするような食を研
究すればいいのではないかと発破をかけられました。振り返るとそういうことを言い続けてき
ましたが、なかなか実行することが難しかった。経済もない、あれもこれもないという感じで
やってきましたが、天国からお迎えが来る前にそのことを訴え、悩んでいるお母さん方や弱い
人や子どもたちや自分たちを守っていくための食文化を考えていきたいと思います。
例えば河川の水の傍に育った植物、春に採れる植物をいただくことでケアされるということ
があります。アイヌは、春に一番先にできたものによって冬の長い間の疲れを癒せると考えて
いました。だから食べ物も神様で、全て神様として、森羅万象に対して畏敬の念をもっていた
ということ。それは先祖が言ってきたことで、私が考えたことは一つもないのですけれどもね。
先祖が言ったことを訴えしたいと思いました。
小川
続いて華雪さんに伺いたいと思います。華雪さんはこれまでにもご自身の個展やワークショ
ップなどで何度も新潟にお越しいただいています。今回、芸術祭の話があったときにはどのよ
うに受け止めされましたか。
華雪
今、宇梶さんの話を伺いながら頭にふと浮かんだことは、新潟の豊かさについてでした。食
べ物の話から思い出すエピソードがあります。
私は約10年前から、古町の下にある新潟絵屋という画廊でほぼ毎年一回、個展をしてきてい
ます。その間には縁があって、聖籠町の地主であった豪農のお屋敷に建てられた大きな米蔵を
使わせてもらったこともありました。
そうして展示をしていると食べ物をいただくことがよくあるのです。ある時、トラックでや
って来た若い男性が、会場を喫茶店かなにかだと思って入ってきて、作品を見てくださった。
私もたまたまその場にいたのですが、すごく感動したんだけど、自分は今朝採れたばかりの卵
しか持っていない。だからとにかくこの卵を渡したい。受け取ってくれと言われて、箱いっぱ
いの卵もらったことがありました。とても驚きました。
他にも、さっきお話しした米蔵、そこには梅の木が生えていて、梅の季節に展示をした時に
は、いい展示だったといって梅をたくさんいただきました。そして今、私は會津八一が晩年を
過ごした家である北方文化博物館の新潟分館で展示をしています。そこでもやはり梅が採れま
す。現地に通って制作をつづけていたこの2週間の間にだんだん館の方と親しくなっていくと、
日々梅をいただくようになりました。制作して帰ると、いただいた梅干しを漬ける毎日を続け
ていました。
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いい作品だった。いいものを見せてもらった。そう言って、食べ物をいただく。そのたびに
新潟での食べ物のあり方を考えさせられます。そうした食べ物を介した人との触れ合いの豊か
さを新潟に来て、たくさん知りました。そのことを宇梶さんの話から思い返していました。
もう一つ、先ほど、中沢さんは新潟の土地の地形の話をしてくださいましたが、それが私に
とっては非常に懐かしいことでもあり、また今回の自分の展示のきっかけだったように感じら
れました。
というのも10年前、初めて縁もゆかりもない新潟に来た時、頭にあったのは、坂口安吾の『桜
の森の満開の下』という小説の「空が落ちてくる」という一節でした。その空の描写が長い間
ずっと気になっていたのです。新潟はその安吾が生まれた土地であり、その空はきっと安吾の
中の原初風景の空なのだろうと何となく想像していたのですが、初めて新潟に来て、万代橋の
あたりを歩いていた時、その「空が落ちてくる」という感覚がすんなりと分かったような瞬間
がありました。それはただ空が広大だというわけではなく、本当に落ちてくるという感じでし
た。そして風だとか、新潟万代橋から海のほうを見ると見える河口。あるいは海と信濃川が混
じり合っている景色や、さらに空が見える景色とかに、ものすごく惹かれる自分がいたんです。
どうしてこんなにこの土地に惹かれるのかが知りたくて、絵屋で出会った方にこんな場所に
行ってみたらいいよと教えてもらいながら、新潟に来る度、暇に任せて、町の中を歩き回って
いた時期がありました。それが高じて、今日中沢さんが配ってくださった新潟市の古地図、私
は縄文までは辿りきれませんでしたが、江戸時代の地図と今の地図を見比べながら歩いてみた
り、今はない堀の場所に行ってみたりというのを繰り返していました。
今日、中沢さんが新潟という土地に保たれてきたことを話してらっしゃった。それを聞きな
がら、ひょっとして私は新潟の土地で保たれていないものをずっと追いかけていたのかもしれ
ないと気がつきました。歩いていると堀は消えているわけですし、沼垂と新潟島の距離も変わ
ってきています。万代橋の長さも安吾が生きていた当時には非常に長かった。でも今は、歩い
て計ったら440歩で渡れてしまうくらい短くなっています。海岸沿いも一年前と今年ではまた
形が変わっている。新潟を知れば知るほど、保たれるものを意識するより、さまざまなものが
日々変わっているという感覚の方が強くなっていきました。
今回、水と土の芸術祭への作品プランを考えた時、新潟はすごく自分が惹かれてきた土地で、
10年通ってきたために身近で親しい気持ちが強くある。その場所に対してどういうアプローチ
をしたらいいのか、正直ものすごく悩みました。
私は新潟に暮らしているわけではなく、いつも訪ねては帰っていくというあり方をしている。
とても新潟が好きでありながら、よそ者としてあり続けている自分がいる。
そこで、新潟で過ごしている人々と、よそ者である自分が新潟で過ごす日々のずれを考え、か
たちにしてみようと思いました。そのために「日」という字を繰り返し書くことを考えました。
でもただ書くだけではずれは見えてこないだろうと思い、新潟の人に親しまれている「日」と
いう字がないかと探してみました。すると市内に住んでいる方にとって身近な『新潟日報』と
いう新聞があり、その題字は會津八一によるものでした。じゃあ、まず『新潟日報』の中の「日」
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という字をまねてみようと考えました。その字をまねていく中から、自分と新潟との関係が見
えてくるかもしれないと考えたのです。
さっき中沢さんから新潟の砂浜がどんどん形が変わってきたという話もありました。新潟は
砂浜のように少しずつ変わるものもあるのですが、一日に何度も大きく変わる天候や、自分の
予想を超えて、何かいろんなものが変化し続けている土地だという実感の方が大きい。そこか
ら、ここに暮らす人もまた土地の変化よって変わっていっているような気がする。それを予想
しよう、なぞろうとしたときに、よそ者である私はやっぱりずれてしまう。中沢さんの話を聞
きながら、そういう感覚が、実は今回の制作以前からずっとあったんじゃないかと考えていま
した。そして今日をきっかけに、今回制作した作品の先に、日々変化しながら新潟で保たれて
いるものを自分なりの視点でここからまた考え続けていけたらなと思っています。
小川
はい、ありがとうございます。今の華雪さんや宇梶さんの話をお聞きになって、中沢さんは、
何か思われるところがありますか。
中沢
日和山のあたりの海岸線の地形がものすごく変わっていく時期を見ていたんですね。私が良
く出かけた海水浴場は、関屋の学校町のあたりでしたが、そのあたりにテトラポットが置かれ
るようになって、それがすごいショックでした。テトラポットというのは風景を一変するんで
すけれど、そのテトラポットが設置される前は、海岸の光景が毎年変わるんです。ものすごい
ダイナミックに変わっていた。それで、あのまま削られていったら、日和山がなくなってしま
うと心配したんです、子どものとき。
新潟はものすごく変わりやすいと華雪さんがおっしゃったけれど、本当にそういう土地で、
砂が作っている。私が大学に入った頃、阿部公房原作の「砂の女」という映画が流行っていま
した。
「砂の女」というのは、鳥取の砂丘で撮影していますが、もう周りが日々変わってしまう
わけです。その中に女がいて、蟻地獄みたいに男を待っている。
あれを見ていても、新潟の砂丘がすごいダイナミックに変わってくるという印象が残ってい
て、またそれを止めるためにテトラポットが必要だったわけですが、このテトラポットがすご
い海岸線を殺風景にしてしまったのですね。
そして残念だったのは堀が埋められたことでした。水路や川があると都市はものすごい活性
化します。信濃川はとうとうと流れていますが、それが町中にも入り込んで流れてくる。する
と町の中全体がいつも、さらさらと砂が変化していくみたいに変わっていく印象がありました。
しかも堀の両脇にある柳も、さらさらしている。それがコンクリートで埋められたときのショ
ックというのは、動きが止められたようでした。
僕の今日の話は、とにかく動きが止められたように見える新潟に実は潜在的にはまだ動きが
あるということを言いたかったわけです。
宇梶さん、先ほど私が続縄文の話をしましたが、このあたりにいた人々というのはアイヌと
同じ系統の人ですね。アイヌの方たちが、いわゆるアイヌ民族を打ち立ててくるのは鎌倉時代
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ですけれど、そのころまでこの辺りにはそういう文化がありました。多分、あの写真館の店長
(吉原氏)がその子孫だと思うんです。
宇梶
何十年か前、金沢に行ったときにバスガイドさんが、250 年前にこの地のアイヌが滅ぼされ
たと言っていました。それで金沢にもアイヌがいたんだと。私のおじいさんも、実は加賀の金
沢出身です。それで金沢を親しく感じていましたが、その続きが新潟。多分、新潟の人と私た
ちは血がつながっているのではないかとも思っていました。
鎌倉もそうですね。古文書で残っていますが、やはりその時代にアイヌが滅ぼされたという。
アイヌは全国で、先生のおっしゃっているような形で住んでいたわけですね。
中沢
そうですね。僕は山梨の出身ですが、ほとんど同じです。和人、和人と言われると、なんか
違和感があります。和人ではない、同じだよという。ただこちらは、西のほうからきた権力に
おもねてしまった。下手に生き延びたわけですけれど。
宇梶
日本のいたるところに地名の中に「ト」と付く所がありますね。そこは湖、水のエリアだっ
たということですね。
中沢
新潟はアイヌの地名がすごく多いですよ。
宇梶
そうですか。私の住んでいる木更津も耳という意味です。木更が耳で、津は穴で、耳の穴に
住んでいるという意味。あそこも大和民族に、鉄砲と刀で殺されたあと、鬼泪山といわれ、当
時の先住民は鬼にされました。青森の祭りじゃないけれど、鬼がすごく素敵な若い衆と闘って
いますよね、ねぶたという祭りで。あの鬼はアイヌだそうで、お祭りもよく考えて参加しない
と自分がやられた所に喜んで行っていたりしていると、そういうふうに思っています。
中沢
ねぶたというのは元々死者の祭りで、死んでいる人をよみがえらせるためにやっている。だ
から、確かに先住民を滅ぼすという要素と、その人をよみがえらせるというのが両方含まれて
いるから、よくよく気をつけて参加しないと。
宇梶
幽霊や霊魂が出るとか、精霊が出るとかいう。その言葉だけだと気持ち悪いようですが、ア
イヌにとっては深い意味があります。物語としての意味があるのですが、言葉だけで押さえよ
うとすると難しいものです。幽霊なんていうのは、多分いい物だと思います。今はいろんな病
気が作りだされてきますが、そういう風に作られたものがすごく多いですね。私が和人と言っ
たら、困ると言ったけれど、他に言いようがないわけですね。
中沢
ヤマトンチュー。
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宇梶
ヤマトンチューの大和というのは滅ぼしたから嫌いですけれどもね。
中沢
大和、いやですよね。
宇梶
いやですよね。大和撫子なんて一番いやですね。あれは、男を戦争に行かせて、女をひどい
目に会わした。男の子が生まれると兵隊さんになれと、大きくなったら兵隊になると男の子に
言わせて、女の子には、大きくなったら看護婦になると言わせた。ひどい目に会わされるのが
大和撫子なので、その言葉が大嫌いですね。国を代表しているかもしれないけれど、よくあん
な名前をつけたものだと腹が立ちます。それから学校の六三制(義務教育)では、成績を五段
階評価しますね。多分、中沢先生は 5(最高点)だったと思うけれど、私は 1(最低点)だっ
たと思うんです。
中沢
いろいろありますよ、それは。
宇梶
そうですか。その成績評価だと、一がつけられた人は大して役に立たないというように、大
人になっても官庁に入れないし、大学にも行けないという感じになりますが、アイヌはそうい
う差をつけることをしなかった。それは叙事詩が伝えています。
中沢
私は、成績は良かったのですが危険な子と言われました。あいつは絶対犯罪者になると。だ
から、和人にもいいやつはいますよ。
宇梶
叙事詩のことですけれど、なんで鳥とか動物とか虫とかを使うのかといえば、熊捕り一番だ
とか、鹿捕り一番だとかというと、その人にレッテル付けることになる。そういう感じを無く
すために、アイヌは動物とか虫とかを物語の主人公にしました。人に差を付けずに、価値判断
をしっかりするということが大事です。子供たちに、お前にはお前の価値がある、生まれてき
た意味がある、お前はそういう知恵を持っているじゃないかと伝える。それがすごいという教
育が必要だと思います。お前は点数悪いからこうだ、あれよりもブスだからどうだというのは
絶対に人を成長させません。アイヌは動物とか虫に反省させ、自分たちを育成していくという
教育をしていた。そのことに気づいたとき、叙事詩はすごいと思った。
昔は、人から「犬来た」と言われたこともありました。言われて周り見ても犬がいない。自
分のことを言われていて、気分が悪くなりました。でも今は、そう言った人たちは自分たちの
言葉の意味が分かっていなかったのではないかと思う。差別されたことによって、少し考える
力を与えてもらったようです。
中沢
犬って言われる人たちは、叙事詩や神話のいい伝えでいうとすごく豊かな人々が多いです。
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フランスだとブルターニュ地方の人たちは、ものすごく差別を受けた。パリでも、ブルターニ
ュ人と犬お断りと張り紙が貼られていたりしました。でも今は、ブルターニュの文化の高さが、
実はフランス文化の古代を担っていますね。私は犬がすごく好きなので、
「犬」とか言われるの
は褒め言葉かとも思う。
宇梶
そうですか。アイヌはもともと「あえいぬ」なんです。
「え」が入る。中沢さんが分かってく
ださる、例えばそういうことが「あえいぬ」、人間という意味です。ただ人を指して人間だと言
うのではなく、分かりあうことができるということ。言葉を持って、自分たちを表現できる存
在を人間という意味で「あえいぬ」と言ったのですが、差別言葉で「え」を取って「アイヌ」
になったわけです
教育は、本当は一人一人の価値があって、わけがあって生まれて、尊いということを教えな
ければならない。ただ点数が良い、数学や英語ができるから偉いという考えはやめてほしいと
思います。
小川
加藤さんこれまでの話、どうのようにお聞きになりましたか。
加藤
なぜアイヌ文化を今回の芸術祭で採りあげたのか。それはいろいろな理由がありますが、先
ほどの中沢さんの講演でも新潟とアイヌ文化とのつながりについて上手に触れられていました。
もう一つ大事な理由は、東日本震災後(以降、大震災)であるということ。今回、メイン会
場の作品は一見、大震災を意識していないかのようですが、みなさん相当意識されたのだと思
います。大震災は、大きな破壊や被災をもたらしたけれど、それを抜きに今後の時代を考える
ことはできないということです。
芸術祭のメイン会場の水揚場では、例えば大友良英×飴屋法水たちの『Smile』で廃屋がで
き、その中ではかそけき音、という感じの音がする仕掛けがしてあります。その音が何となく
いいのです。外界の光や音だけではなく、場合によっては人も入り込めるような、半分外に開
かれている建物の中に作品はつくられました。そういう場合、全てを思い通りにすることはで
きません。美術館のように閉鎖され、隔離された状態とは違う。むしろそういう閉鎖的な状態
では、世の中がもう成り立たないということなのかもしれませんが。
それからメイン会場の入り口の所には、wah document というグループが秘密基地のような
ものをつくりました(『おもしろ半分制作所』)。みなさんもぜひ中へ入って、くまなく探検して
いただきたい作品です。建物の中に中庭があったり、木が生えていたりします。外界を家の中
に取り込む、あるいは家の中がそのまま外になって、家が外に開かれていく感じの秘密基地で
す。でも危なくて、天井やいろんなところにぶつかりそうな所がある。危険ですが、すごく面
白い。
大震災以後、自然と人間の生活は切り離せないし、自然を完全にコントロールすることはで
きないという気付きがあったと思います。宇梶先生が言われたように、森羅万象にカムイ(ア
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イヌ語で神格を有する霊的存在)がある、そういうことをきちんと考えなくてはこれからはや
っていけない。それが今回、宇梶さんに参加していただいた理由だと思っています。
若い wah document の作品、あるいは大友良英×飴屋法水たちの『Smile』、あるいは雨が降
ってくる原口典之の『新潟.景 12』という作品も、面白いです。雨の中、傘を差して濡れなが
ら見て歩くものですが、そういう作品にも全部、今日のテーマである「遊ぶ術」という、近代
のアートがややもすると失ってきた諧謔の精神が含まれている。
かいぎゃく
明治維新以降の日本は、そういう 諧 謔 の精神を忘れたつまらない国になったように思いま
す。全てをまじめにやらなくては駄目で、アートもただまじめにやるだけで、批評精神に富ん
だユーモアを忘れたところがある。それが世の中をつまらなくしていると思っています。そう
いう意味で遊びというのはすごく重要ではないか。
今回の芸術祭では、そういう遊びの要素があちこちに出てきて、楽しいのですが、ああいう
作品を作っているアーティストは覚悟をして遊んでいいます。危険な要素は、物理的なものも
含めてあちこちにありますが、そういう点も含めてそれを覚悟の上で遊んでやろうという意気
込みもあるわけです。そのとき、今回の芸術祭の企画そのものを提案した新潟市や、このプロ
ジェクトを今回進めていく側には、果たしてその覚悟を受け止める覚悟はあるのだろうかとい
うのが心配です。もちろんあるからやられたのですが、もう少し覚悟しろよと言いたいところ
も見受けられました。
例えば今日も、オープニングのテープカットがありました。市長の素晴らしいスピーチの後
でテープカットをやりましたが、そのスピーチとテープカットをやっている後ろでもずっと人
が動いていました。これから始めるぞというときに、人がちょろちょろと動いていていてはい
けない。そしてアーティストの一部は、すごくナイーブになっているようでした。そこをもう
少しケアしてあげないと、今後大変ではないかと思います。
だから今日、私からみなさんにお願いしたいことは、今からでも遅くないので、ぜひお手伝
いをしていただきたいということです。もう作品は完成したから手伝うことはないように見え
るかもしれませんが、実はこれからの方が厄介です。お客様がいっぱいお見えになるとき、会
場は危ないものだらけなので、ちょっとここは危ないですよ、とか注意喚起をやっていただけ
るといいのではないかと。そういう体制づくりができるとアーティストたちもきっと安心する
だろうと思います。今日は、「ぜひ手伝ってください」とお願いしようと思って参りました。
なんでそんなことを私がお願いしているかといえば、私は今回の「水と土の芸術祭」に応援
団として来いと言われたからです。私はよそ者だし、新潟に住んでいるわけでもありませんの
で、たまのお手伝いでいいですかと言ったらそれでいいということでしたので、ディレクター
も一人紹介致しました。その竹久ディレクターの働きは、今回すごくよかったと思っています。
いい作品ができましたので、後はみなさんからも応援していただけるといいなと、心からお願
いしたいと思います。
小川
加藤さんは当芸術祭のアドバイザーというお立場でもいらっしゃるので、まさにアドバイス
- 11 -
とみなさんへの協力の呼びかけを頂きました。
芸術祭は今日初日を迎えました。これから 164 日間にわたってアーティストの作品を預かり、
みなさんにご覧いただくためには、管理や案内など様々な場面で大勢の人手が必要です。ご鑑
賞の後は、受け入れ側としても御用力いただけたらと思います。
最初にお話いただいた吉原さんは『シビタ』という映像作品をつくられました。改めて今回
の作品についてお話いただけますか。
吉原
作品のタイトルは『シビタ』です。その名の由来については先ほども話しましたが、信濃川
をテーマに作品をつくりました。信濃川の全長は 367mで、新潟から長野県千曲川と名前を変
えて、甲武信岳に源泉があります。
『シビタ』の制作にあたり、分水や水害の跡や水力発電所な
どの物語ある場所、新潟から始めて自分が気になるいろんなポイントを撮影しながら遡上しま
した。
私は実を言うと、川を主題にした作品を今まで 5 点ほどつくっています。まず地元の新発田
川の映像を 2 本。父の写真を基にした加治川の映像。そして新川。新潟大学の近くにある、内
野の近くにある新川をテーマに撮影しました。
どの作品も山の上から河口まで、新川ですと鎧潟から日本海に向かって撮りましたが、
『シ
ビタ』は、その逆に遡上しました。日本海から山のほうにさかのぼっていったわけです。なぜ
かというと、今回作品を発表するにあたって考えたキーワードがいくつかあり、その一つが「さ
かのぼる」ということでした。上から水が流れ落ちてくる、その川を逆にさかのぼりながらい
ろんなものを探していこうという気持ちがありました。さかのぼりながら徐々に山に向かって
いく。山に向かったり、平地に向かったりします。川というのは、先程のお話のようにアイヌ
の文化の中では生物、生命体としてとらえている。森羅万象全てのものが生命体であるという
発想がアイヌ文化にあるわけですが、信濃川も生命体としてとらえてみようと思いました。
そして日本海側から上がるにつれ、いろんな川が交差したりくっついたり、また離れたりす
る。そこをまた人間がダムで堰き止めたりしているわけですけれども、それらもある意味、生
命体と捉えることができます。もっと言えば、川が中心にあってボディとしての陸地がある。
まるで女性器と同じように、海の民が海から山の中にどんどん入り込んでいくという発想があ
るのかもしれないと、自分の中でいろんな妄想が広がりました。例えばサケが山の上に卵を産
み、海に行ってまた戻っていきますね。サケもやはり同じようにさかのぼっていく、そのサケ
に自分を重ねながら、カメラでいろんなものをとらえていきました。
また、どうしても伝えたかったことは、
「水との闘い」でした。新潟にいれば、水との闘いに
よって掘削されて豊穣な土地ができあがったことはみなさんご存じだと思います。僕も、小学
校や中学校でもその話を聞きました。
信濃川の大河津分水、新可動堰が昨年完成し通水されました。その分水工事がいつから始ま
ったのかというと江戸時代です。どうして分水工事が必要だったのかについてはみなさんご存
じですね。新潟は平板な海抜 0m以下地帯で、縦に長い土地です。その縦長の土地に阿賀野川
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と信濃川が伸びて、陸の方は長野県などにつながっていくわけですが、その途中にスポンジの
ように山がある。山の中に雨が降ると、そのスポンジに水がたまって、一気に平板な新潟平野
に水が流れ出て、押し出していくわけです。だから洪水が起こりやすい。
分水工事というのは、その川の流れを 2 つに分けて海に放流する事です。5 年程前、偶然に
も大河津分水工事に、百年前の吉原家の先代がかかわっていたということを知りました。それ
を知ったとき本当に感動しました、それが、きっかけになり新潟にとっての川の物語を伝えた
いという気持ち強くなり、川をテーマにした5作品を作ったのです。
私は 20 代で東京に行き、ある意味で放とうに暮らしていた頃、中沢新一さんにお会いしま
した。東京で郷土のことをすっかり忘れて作家活動をした挙げ句、自分の実家である写真館を
閉じる計画まで立てたこともあった。でも実家の蔵の中に、大河津分水の推進運動をした人物
の写真があるのを見つけてすごいショックを受けました。これは何かしないといけないという
気持ちになった。一気に吹き出すものがあったのです。急に地元や、新潟の新発田のことがす
ごく気になるようになった。そんなことがいろいろ交差しているときに、水と土の芸術祭参加
の話をいただいたので、これはやはり川をテーマにした作品を作るべきだと考えたのです。こ
のような機会を頂けて非常にありがたいと思っています。
一つ付け加えると、私は東京にも長くいたので、どうしても東京と新潟の関係も考えてしま
います。東京の 1/3 の電気をまかなう柏崎刈羽原発、JRを動かす宮中ダム、水との闘いの歴
史を描こうと思って始めたプロジェクトですが、撮影の興味は少しずつかわっていきました。
例えば、信濃川の近くにある高圧線の立ち並ぶシーンにも惹かれた。東京へ電気を供給する新
潟を見て、新潟と東京の関係を考え直したところもありました。
「大かまぼこ」に展示していま
す。ぜひご覧になってください。
小川
吉原さんの『シビタ』は、エンドロールの最後に作品を先祖の誰々に捧ぐというメッセージ
が出てきます。見てグッと込み上げてくるものがありました。以前、吉原さんとお会いしたと
おおたけ よ も しち
きに、大 竹 与茂 七 の話で盛り上がりましたね。その話も少しお願いします。
吉原
与茂七というのは、大竹与茂七で新発田の中之島にいました。
「与茂七大火」という大火事が
ありましたが、新発田で大きな火事があると「与茂七大火」と言って、与茂七の恨みによって
火事が起こったという風に言われました。
どういうことかというと、中之島に与茂七の大竹家と星野家とがあり、両家で結構いさかい
がありました。ある時洪水が起こって、与茂七が裏山の木を黙って切って、洪水を防いだ。正
しい事をし義民と言われました。しかし、そのお金は、大庄屋星野家から借りて、、、でも返し
た時に証文を取らなかった。そのことを大庄屋が新発田藩の上部に伝えて、与茂七は裁判にか
けられてしまった。住民のために与茂七は洪水を防いだのに、無実の罪で首を切られて死んで
しまう。処刑される時、与茂七が何といったかというと、
「七代七生まで恨み殺してやる」とい
う言葉をはいて、刑場ので斬首された。その後、本当に次々恐ろしい事件や火事が続き、江戸
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時代後期ころ、新発田の諏訪神社に五十志霊神という霊をなぐさめる碑を立てたという話があ
ります。新発田も昭和 10 年に大きな大火がありました。その火事は、与茂七の恨みによる大
火と言われています。
小川
今回の作品には、阿賀野川流域に発生した新潟水俣病の第一次訴訟をテーマにしたものもあ
ります。藤井光さんの『わしたちがこんな目にあって、あんたたちは得をした』という映像作
品ですが、与茂七の話はそこにも出てきます。新潟水俣病は、四大公害病事件の中でも一早く
提起された裁判せした。当時、弁護士団幹事長として関わった坂東弁護士の語りによれば、被
害者が原告となることに二の足を踏む理由の一つとして、
「金のないやつはお上に楯突くな」と
言い残したとされる与茂七のことも背景にあったと言われています。
吉原
与茂七のようにはなりたくないから、自分はしゃべらないということですね。
その後も与茂七のことをいろいろ調べています。与茂七は中之島に住んでいましたが、先祖
は新発田の長の役割をつとめたこともありました。そのとき塩止事件というのがあった。会津
藩と新発田藩の確執があって塩止事件が起こり、その責任をとって中之島に越してきたらしい
のです。だからある意味で外様、あとからきた人なので、それも確執の原因でしょうね。
小川
ではその続きはまた別の機会に。もう時間がなくなってききました。今回の芸術祭は「私た
ちはどこから来て、どこへ行くのか」という基本理念のもと開催され、昨年の東日本大震災を
受けたものでもありましたが、アートプロジェクトのテーマを「転換点」としました。そして、
この連続シンポジウムの共通テーマとして「自然との共生」を掲げております。その関連の中
でみなさまから一言ずつお話をいただき、締めとしたいと思います。
宇梶さんは、東日本大震災のあと「大地よ」という詩をお書きになりましたね。その詩は展
示会場にも飾ってありますけれども、そのときの思いについて、震災を受けての話をいただけ
ますでしょうか。
宇梶
震災については遠くにいる人もみんながショックを受けましたよね。私もショックを受けて、
どうしたらいいかすごく苦しみました。若い人方もみんなそうだったようですが、心を痛めた。
がれきの海の中で、被災した人々がすごく大変な思いをして家族を捜している、それは映像や
新聞などでしか知ることができませんでしたが、泣いてばかりいられない、神はきっと見てお
られるに違いないと思えました。
アイヌの年寄りたちは、事ごとに大地や震災について話をしていました。例えば、私が子ど
ものときは囲炉裏の周りで小さなセレモニーがあり、村の近くの子どもたちやおばあさんたち
が集まってきて、話ながら飲んだり食べたり、歌ったり踊ったりする。そこで震災や自然につ
いて話していた。子供たちにそういうことを聞かせながら、育てていました。
アイヌでは、この地球をお母さんだと思っている。セレモニーでお祈りするときには、水の
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ことを「ワッカ」、火のことは「アベ」、風は「レラ」と言います。それから大地は「モシリ」
(国)で、神なる大地「カムイモシリ」と呼ぶ。そして風と水と火と大地の四つを一つの大き
な要素として、様々なものに感謝しながらお祈りをします。
「ワッカウシ」という水を司る神、
「アベウシカムイ」という偉大なる火のおばあさん、「レラウシ」風の神。気持ちのいいそよ
風もあれば、大風になって雨に嵐ということもある。嵐のとき、弱い植物はみんな駄目になっ
てしまうけれど根元に酸素が入って、その力で生きていく。そういうことを「酸素」という言
葉を使わずに伝えていました。そういう力を神がくれて、そして生きる。土の下で生きている
ものたちはそうして生き延びる、それは神の意思だということを話していた。私たちは藁葺き
の屋根の家に住んでいましたが、たまたまカラスが来ると、そのカラスの泣き方でその日を占
いました。今日は、ごちそうをくれる人がくるとか、借金を取りに来るとか、親たちが判断し
ていた。
そういう話をしていたので、
「大地」の悪口を言われることが、アイヌとしては辛いのです。
牛でも人間でもそれぞれの役割を持って生まれていて、地球さんも大きな役割を持っている。
それがちょっと動いたら大津波になったりする。人間は、魚も捕れるし、家を建てるにもいい
と思って住むけれど、そこで被災すると悲しいことに、津波を憎み、自然を憎いと思う。そう
いう人を悪いとは思いません。憎だろうし、みんなさらわれて辛いのだろう。だけど大きな意
味で、そういうことを日頃から考えたことがあるのだろうかも思い、悩みました。
そんな時、去年の 3 月から関西で展示会やってくれと言われていたので行ってきました。そ
こでホテルに泊まって、寝ようと思ったら「大地」という言葉が出た。瞬間的に神がらんらん
と降りたように、大地という言葉が出てきた。ウーって出てくる言葉を書いて、それでも終わ
らずに勝手に手が動いて、手を合わせて祈りました。だから自分が書いたのか、誰が書いたの
か分からない。
その詩を次の日展示会場に持って行って見せたら、インターネットに載せていいかと聞かれ
た。そしてインターネットに載せたら、ハワイやその他の国からも連絡が来て、翻訳されたり、
国際会議にも持って行ってくれる人が出てきたりしました。
あの詩は不思議で、私であって私じゃないという感じでした。いい詩は、大体ウウウウと震
えている間に書いたものが多いのですが、多分、先住民である私に神が、お前の手を借りて発
表してやるということでやってくれたのだろうと思っています。その時思ったのは、地球さん
も寝返り打つことがあり、大地震や大津波が起こるということです。そして私が生まれた 1933
年の 3 月にも、同じところで何千人と死にました(昭和三陸地震)が、三陸というのはそうい
うことが幾度もありながら人を引き寄せている。魚は捕りやすいし、住みやすいけれども、津
波も行きやすい、魔性の地だとも思います。
小川
「大地よ」という詩は、心にのこる素晴らしい詩ですね。宇梶さんの展示スペースの一番奥
にありますので、みなさんにご覧いただきたいと思います。そこにはアイヌの文化を紹介する
パネルもあって、アイヌのみなさんの生き方が自然との共生の正に手本というか、学ぶべきと
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ころが本当に多いなと思いました。
では華雪さん。
華雪
さっきはまねるという話をしましたが、ちょうど大震災の時、私は東京にいました。そ
の一週間後には京都に行かなければいけなくて、随分迷って行きました。京都には私の実家が
ありますが、そこで人と会って話していたとき、字を書く時間をつくってほしいと友人に言わ
れました。少し戸惑いましたが、では何かやってみようとあてどなく字を書く会をしました。
そこに20人くらい人が来てくれた。みなさん京都に住んでいる方ばかりだったので、直接的に
地震や原子力発電所(以降、原発)の事故について、実感がない方ばかりでしたが、字を書き
ながら、いろいろな話をしました。
その時は思っていることをそれぞれメモして、そこから一つ字を考えて書き、どうしてそれ
を書いたのかを話しました。字を書くということは、その人の思いを一つにまとめることにな
りますし、それを話すことで心から何かを放して、手放していく時間にもなったようでした。
ワークショップに来られた方は被災地に出向いて何かするということができないけれど、何
かしなければという思いを抱えている人が多かったです。私自身も、現実的に被災地に行くこ
とができずにいましたが、答えを求めるのではなく、ただ話す時間を持つということの良さに
気付きました。
今までは、字を書いて何か答えを見出すような形で制作してきました。でも書くことで初め
て人と話して、人との違いが見えてくる。人にも書いてもらって話してもらうと、またそこに
差異が見えてくる。そこで出てくる言葉というのが、その人のまだ言葉にならない、言葉にな
ってもつたない言葉だったりしますが、それが積み重なっていくと何か一つの形を成していく。
そういうことが分かりました。
芸術祭期間中も、ワークショップをやりたいと思っています。老人ホームでもやりたいです。
長く生きて来られた方たちといっしょに字を書く中で、そこでどんな話が出てくるのかという
ことに関心があります。またそこからどんなことを思い考え、つながりが出てくるのか、見出
したいと思っています。
小川
華雪さんのワークショップにぜひご参加いただきたいと思います。
では、吉原さん。
吉原
そうですね。以後と以前では全然見え方が違ってきています。僕自身も変わったと思います。
私は普段、写真館の仕事をしていますが、写真館の中には古い写真がたくさん飾ってある。ま
ずその見え方が変わりました。すごく特別なものに見えてきた。それから、古い遺影写真を持
ち込む方が増えてきたようです。家族との関係性とかそういうものを大切にしようという気持
ちが強くなっているのだろうと思いました。
小川
ありがとうございます。では加藤さん。
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加藤
大震災のあとはいろんなことを具体的に、アクションを起こさなくてはいけないと思ってや
ってみました。個人的な思いは数限りなくありますが、それは脇に置いておいて、変わったと
思ったのは、原発について語ってもいいという状況になったことです。
私も半ば企業の人間ですので、企業内で原発を語るということはそれまで、全くできません
でした。今でも容易ではないですが、ゲリラ的にしか議論ができず、義論そのものが企業の中
では無理でした。行政の中でも恐らく無理だったろうと思います。そうやって我々は問題を無
視してきたところがありました。
でも大震災後は、難しいところもありますが、大分語れるようになりました。これは大きな
変化だと思っています。そもそも誰かがどちらかに決めるということは間違いで、みんなで議
論しなければならない事だと思います。
そういう意味で、今回の芸術祭で新潟水俣病について扱うアーティストがいたことは非常に
よかったと思います。自然と対峙するときにも、アイヌではたくさんタブーがあって、草木一
本踏むについてもいろいろ考えますね。それは素晴らしいことです。そして我々が、自分たち
がつくりだしたものについて語れないというのは、本来、あり得ないことだとも思います。
我々の社会の有り様を、我々自身で語り合わなければならない。今回はそういうきっかけを
提案して、その課題解決も提案するわけでは必ずしもありませんが、どこにモヤモヤと厄介な
問題があるのかということをアーティストはいつも鮮明にしてくれる。だからそういう仕事を
見て、我々は語り合っていきたい。そういう意味でこのプロジェクトは価値があると思います。
先ほどは応援をお願い申し上げましたが、まず一番の応援は、怪我しないように上手に見て
いただくことです。自分の体をいたわりながら、ぜひご覧いただきたいと思います。よろしく
お願いします。
小川
はい、ありがとうございます。
では、最後に中沢さんからお話いただきたいと思います。
中沢
私は以前、芸術人類学研究所という、芸術というのを人間の全体の営みの中に結びつくよう
にできないかと思って研究所をやっていました。でも美術大学で、美術をやっている学生たち
を見ていて、これでは駄目だと思った。自分のつくる作品に愛を持つのはいいけれども、それ
以上に出て行かないようでした。宇梶さんから見ると、本当に現代人の、日本の現代に住んで
いる人間の少し追い込まれたような精神構造の中から世界を見ている。もちろんよい萌芽はあ
りますが、そういうアートだけでは駄目なのではないかと考えるようになっていました。
そして美術大学を辞めました。そしてこれからは、自然と社会がつながって、実際にお互い
を変えていくような環境をつくっていかないと駄目なのではないかと思って、大震災前から、
「野生の科学研究所」をつくり始めました。
「野生の科学」とは何かというと、私は「自然」という言葉を使いたくないので「野生」と
言っていますが、科学と野生(自然)とにループをつくり、現在の科学自体を変えていく。そ
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ういう運動を始めないと、人間はどうしようもないところへ追い込まれていくと思えた。そし
てそういう試みは、おそらく芸術にもかかわっているのだと思います。今後の科学はどの方向
へ変わっていくべきか、それを考えたかった。科学を芸術化すると言ってもいいのですが、今
現在の芸術ではないものを探る試みですね。個々のアーティストがやって、作品を愛する芸術
ではなくて、そういう外へ出て行かないアーティストやアートのあり方を解体していかなけれ
ばいけない、そして科学も変えていかなければいけないと思いました。
「野生の科学」というのはそういう意味があり、その研究所をつくる準備段階で、大震災が
起こりました。大震災によって、日本人の意識はやはり根底的に変わりましたね。そしてアー
トも、今まで下らないと思えていたものが、実際下らないものになっていった。
自分の創造された内面とかではなく、人間の心自体が自然とつながっている。そこにつなが
っていかなきゃいけないはずなのに、アートはもう変な方向にいって、いろんなところで行き
詰まってしまった。だから科学もアートも変えていかなきゃいけない、新しい方向に踏み出し
ていかなきゃいけないというのを強く感じたわけです。
後ろから見えない力で押されたようでした。原発というのは一体何なのかとことん究明しよ
う、本を書かなければと思っていたら神がかりになって。2 週間くらい変な状態になってパー
っと書き上げた。変なものができましたが、普通の状態では絶対書けないからと思って、神が
かり作品としてそのまま出版しました。
1930 年頃ヨーロッパで起こったシュールリアリズム運動は、大変すばらしいものだと思って
います。その考え方はこうですね。現実の世界と夢の世界があり、夢というのはつくりだされ
たアーティストの世界でもある。先ほどの「遊び」の話の逆のようでもありますが、現実と遊
びというのを分離してはいけないのだろうと思えています。アートは、遊びとしてはやっては
いけない、そういうことを多分、シュレアリストたちは考えていた。現実と夢は相互に入れ子
になって、夢が現実をつくりかえたり、現実がまた夢をつくりかえたりすることがある。そう
いう入れ子のような空間を作って、芸術作品は、現実を実際変えていかなければならならず、
またその現実が夢の中に入ってくる。そういう考え方は、何度もアートの中でよみがえってい
かなければいけないと思っています。
ヨーゼフ・ボイスというドイツのアーティストも、同じ考え方を持っていました。人間が、
記号を使って人工物をつくって、その中にアートを閉じ込めることを拒否したわけです。そし
て自然と人間の間にループをつくって、このループをつくる行為そのものをアートだと捉えま
した。夢想・思考していること、現実にはないことを考えることをアートの中に閉じ込めるの
ではなく、現実への通路をつくって現実を変えていくようにしなければならないとやっていま
したけれど、僕が今やろうとしていることは、そういうシュールリアリズムやヨーゼフ・ボイ
スの考え方に非常に近いものがあります。
そして私は「グリーンアクティブ」をつくりました。単なる環境問題を越えて、人間のあり
方全体をつくりかえていかなきゃいけないと思った。それを何て呼べばいいのか分からなかっ
たので、とりあえず「緑」と呼びました。人間の思想全体が向かっていく方向として、今まで
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はレッド(社会主義・共産主義を象徴する色)というのもありましたが、レッドだけではもう
どうしようもなくなってきていると。ただ赤の人もいいことを随分考えたと思います。思考で
つくり出すことと現実を渡り合わせて、現実を変えていくにはどうしたらいいかと考えた。
ただそこには、自然との通路がありませんでした。自然への通路がないために、人間の世界
だけで理想を実現しようとして最悪のものをつくってしまった。だから赤は緑に変わっていか
なければならないし、21 世紀はそちらに変化を遂げていかなければならない。左翼だ、右翼だ。
保守だ、革新だと対立するのはもう意味がないと思います。人間全体が向かっていく方向は見
えていても、どうやって一人一人が一歩踏み出していくかということです。私は政治とかあま
り好きではないですけれど、一から勉強するつもりで、とにかくその方向で突っ走ってみよう
と思っています。
人間が向かっていく方向というのは、大体もう見えてしまっているのだと思います。大震災
後、日本人は決定的にそれを見てしまった。でも見てはいても、本当に一歩踏み出す勇気はな
かなか出てこないようです。今まではそれが日本文化のいいところでもありました。つまり集
団第一で、個々の人間の意思より集団の意思が優先するということです。しかしそれが今、最
大の足かせになっている。だからこそ、これからアーティストの存在は大きくなるのだと思い
ます。
アーティストというのは、集団の中で埋没できない人たちです。個人性が非常に強くて、浮
いちゃっている変な人でもあり、人の言うことを聞かない人でもあります。でもそれが大事で
す。
話し難いことといえば、私はこの間福井県の大飯原発があるところでシンポジウムをやりま
した。大飯町の人は原発について話せないのです。そういう文化が土台にあって、ヨーロッパ
人みたいな個人主義ではなく、個人を越えたものに何か高い価値を置こうとした日本文化には、
いい面もありますが、現実を変えようとする時には、むしろそういう集団を壊していくために
どうするかということになる。その意味でアーティストは大切な存在だと思っています。
アーティストの吉原さんを見ていると面白いですね。昔はテクノにはまって、東京でつくっ
ていて、「吉原君、新潟でしょ」なんて言うと怒った。そういう人が変わって、新発田の町の
中でこれからどうやっていくのかすごく興味があります。単に埋没していくのか、市会議員に
なっていくのか分かりませんけれども、新発田という地域の中に足を着地させるのはすごく大
事です。だけど集団に埋没しないようにしてほしい。人の言うこと聞かないというのはものす
ごく大事なことです。むしろもっと悪い人になって、ハッと気がついたら世界が変わっていた
というようなものをつくり出してもらいたいと思っています。
吉原
なるほど。
中沢
日本人は今、結構覚醒していると思います。でもまた発言なかったり、行動できなかったり
していますが、最近の首相官邸前のデモなんかを見ると、普通の人が参加していますね。そう
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いう変化が表れている。有名人が前へ出るというより、無名な大衆が叫ぶという、そういうこ
とは大事だと思います。今までの大衆はノーと言わなかったけれど、ようやくノーと言い出し
た感じがします。新潟でもそういう動きがあったようです。立場上言えない人も沢山いると思
いますが、心の中はやはり変わっている。それの変化をどう表現するかというと、まずは選挙
です。だから「グリーンアクティブ」では、今まで投票しなかった人たちを投票場に向かわせ
たいと思います。でもいまはまだ受け皿がないことが問題ですね。どう、吉原君。立候補して
みては。衆議院とか?
吉原
衆議院はちょっと。
中沢
あ、じゃあ参議院くらい。
吉原
賛同していますけどね。
中沢
ちょっと考えてみましょう、とそんなことも考えている最中です。
小川
気がついたら時間を大幅に過ぎておりました。今日は、今が「転換点」だと改めて意識する
ことができました。ありがとうございました。
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