高所トレーニングにおけるコンディション管理システムの構築

高所トレーニングにおけるコンディション管理システムの構築
~高所での生体応答に基づく安全な体調管理を目指して~
研究代表者
渡部厚一
目
次
要約・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
Ⅰ 研究背景 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2
Ⅱ 目的 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
Ⅲ 方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3
Ⅳ 結果 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
6
Ⅴ 考察 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13
Ⅵ まとめ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 15
謝辞 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 15
参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16
高所トレーニングにおけるコンディション管理システムの構築
~高所での生体応答に基づく安全な体調管理を目指して~
研究者
渡部厚一 (筑波大学)
村瀬陽介 (筑波大学)
白木孝尚 (びわこ成蹊スポーツ大学)
武田剛
(筑波大学)
椿本昇三 (筑波大学)
要約
高所トレーニングは近年多くのスポーツ種目において頻繁に行われるようになり、主要競技会直前に
行われることも少なくない。高所による低圧低酸素負荷への順応の結果、有酸素能力などの向上が期待
できる反面、高所による免疫系の抑制や上気道感染症や胃腸症状の増加が報告されている。唾液分泌型
免疫グロブリンA (SIgA)は粘膜免疫系の主要な免疫グロブリンであり、高強度の運動が SIgA を抑制す
ることが報告されているものの、高所トレーニングや繰り返す低酸素暴露が SIgA に及ぼす影響につい
てはあまり知られていない。一方、現場で応用できる簡便なコンディション管理法に問診票があるが、
個々での評価は認めても、多くの標本から数量客観的に評価した報告もまた認められない。
そこで、高所トレーニングが生体応答、特にコンディショニングに関連しやすい生体応答として、粘
膜免疫システムの指標である唾液分泌型免疫グロブリン A(SIgA)をとりあげる一方、自覚的・他覚的症
状についての問診票を、高所トレーニング経験の有無の影響も含めて総合的に検討することにより、高
所での生体応答に基づく安全な体調管理を目指し、高所トレーニングにおけるコンディション管理シス
テムの構築を目指すことを目的とした。
中華人民共和国雲南省昆明市で 3 回にわたり行った大学生水泳選手対象の高所トレーニングで、唾液
採取による SIgA の変動と、問診票による高所トレーニング中の選手のコンディション特性、また高所
トレーニング経験の差を検討した。
SIgA 分泌速度は高所登山後に減少し徐々に回復する一定のパターンを示した。また高所トレーニン
グ経験があると SIgA 分泌速度低下の程度が少ない傾向であった。SIgA が粘膜免疫システムの指標とさ
れていることから、SIgA が高所トレーニングでのコンディション管理に応用しうる可能性が示唆され
た。
問診票分析の結果、明らかなコンディション不良者4名の疾病症状スコアがコンディションと一致し、
一部で血清 CRP 値も同期したことより、問診票有用の可能性が示唆された。疾病症状は選手1人あた
り一日約 0.6 であり、高山病症状は初回群が経験群に比し高く推移したが、その他に高所経験の差を認
めなかった。高所トレーニング初回経験者の高地馴化に留意しつつ、一方で経験差によらない充分なコ
ンディション管理が必要である。
代表者所属: 筑波大学大学院人間総合科学研究科
スポーツ医学専攻,スポーツ健康システム・マネジメント専攻
-1-
Ⅰ
研究背景
我が国における高所トレーニングの幕開けは 1964 年のメキシコオリンピックに向けた高所対策に始
まるが、高所トレーニングの目的は、高所の低圧低酸素負荷への応答による赤血球増加がもたらす有酸
素運動能力の向上と末梢組織への酸素運搬能の向上であった。水泳競技においても日本代表選手を対象
に 1980 年代より定期的に行われ、特に 2000 年代に入ると主要競技会に向けて毎年行われているほか、
近年、大学やクラブ単位での高所トレーニングも盛んになりつつある。しかし、水泳競技の多くは 100m
~200m 泳、数分以内の運動であることから、水泳競技における高所トレーニングの目的は、酸素運搬
能の強化による有酸素能力の向上のみならず、低圧低酸素負荷を利用しての総合的な競技能力向上にあ
るとも言える。
このように、水泳競技では年間トレーニング計画の一つとして高所トレーニングが位置づけられつつあ
るが、パフォーマンス向上のためには高所トレーニング中のアスリートのコンディション維持が前提と
なることはいうまでもない。特に主要競技会を直後に控えた高所トレーニングでは、アスリートのコン
ディション維持と競技成績が密接に結びつく可能性がある。
一方、高所トレーニング時のコンディションに関して、鼻水や鼻閉、咽頭痛といった上気道症状や腹
痛、下痢をはじめとした胃腸症状などが出現しやすいことがよく知られている。高所トレーニングでは
コルチゾールなどのストレスホルモンの増加が報告されており、これらによるコンディションの低下の
可能性が考えられるが、高所トレーニングが免疫系に与える影響は未だ明らかとは言えない。また、高
所の低圧低酸素ストレスに対する不適応である高山病や高地肺水腫は主に 2500m 以上の登山で生じる
とされるが、Sherpa への調査では高山病症状の一つである頭痛の増悪因子に運動が挙げられており、
水泳選手が通常行っている 1800~2300m の中等度の高度にあっても、高所に加え運動の負荷を課すこ
とにより、高山病症状を生じる可能性は否定できないと思われる。一方、高所の環境として、周囲に医
療機関が乏しいという地理的条件が医学的検査などでの客観的身体的評価を困難としており、現地での
診断は症状により臨床的に行わざるを得ないわけであるが、高山病の症状が感染症状とも重複するため
それらの区別を明確にしにくいという指摘もある。従って、高所トレーニング現場でのコンディション
評価は非常に難しく、アスリートが繰り返し高所トレーニングを行おうとする場合にはトレーニング間
隔や強度の調整にも関わる問題である。
ところで、唾液分泌型免疫グロブリン A(SIgA) は粘膜免疫システムの主要な免疫グロブリンであり、
強度の高いトレーニングにより抑制されることや、運動、加齢が SIgA に及ぼす影響について報告され
ている。しかしながら、高所トレーニングにより SIgA 分泌速度の低下を認める報告はわずかであり、
低酸素や繰り返す低酸素刺激が SIgA に及ぼす影響については明らかではない。また、高所トレーニン
グ現場で施行可能なコンディション評価方法として、従来、心拍数や体重などの変化や、POMS(Profile
of Mood State)などの心理テスト、高地トレーニング中の食事、栄養、睡眠、疲労度、トレーニングの
状態等についての質問紙調査や選手の日誌から判定する方法がとられてきた。しかし、これらを数量客
観的に評価した報告もまた認められない。
-2-
Ⅱ
目的
高所トレーニングが生体応答、特にコンディショニングに関連しやすい生体応答として、粘膜免疫シ
ステムの指標である唾液分泌型免疫グロブリン A(SIgA)をとりあげる一方、自覚的・他覚的症状につい
ての問診票を、高所トレーニング経験の有無の影響も含めて総合的に検討することにより、高所での生
体応答に基づく安全な体調管理を目指し、高所トレーニングにおけるコンディション管理システムの構
築を目指すことを目的とした。
Ⅲ
方法
トレーニング場所は中華人民共和国雲南省昆明市で海抜約 1900mであった。同地で、2006 年 12 月
~2008 年 2 月にわたり大学水泳部選手が計 3 回の高所トレーニングを行った。
トレーニング①:2006 年 12 月~2007 年 1 月の 17 日間
トレーニング②:2007 年 12 月~2008 年 1 月の 21 日間
トレーニング①との間隔:349 日間
トレーニング③:2008 年 2 月
トレーニング②との間隔: 24 日間
の 17 日間
トレーニング①の参加者は全て高所トレーニング初回経験者であり、このうち、大学生水泳選手9名
(男性:女性=7:2)及びトレーニングを行わない健常人同伴者5名の計 14 名を無作為に選定し、倫理的な
手続きを経たのち、唾液採取による SIgA 測定と問診票の評価を行った。
トレーニング②では水泳選手及び同伴者全員に、問診票を配布してコンディション評価した。
トレーニング③では、参加選手はいずれもトレーニング①、②の参加経験があり、トレーニング②と
トレーニング③の 24 日間の間隔をおいて繰り返しトレーニングをおこなうものであった。これらに対
して唾液採取による SIgA 測定を行った(図1)
。
図1:トレーニング計画と唾液採取による SIgA および問診票の評価
3回のトレーニングで測定した唾液採取による SIgA と問診票評価から、次の2つの解析を試みた。
-3-
Ⅲ-1:唾液分泌型免疫グロブリン A の変動
トレーニング①とトレーニング③での唾液測定により、トレーニング①の水泳選手から得られた
SIgA を高所トレーニング初回経験者の群(以下、初回群とする)、トレーニング③の水泳選手から得ら
れた SIgA を複数回群として比較検討を行った。唾液はトレーニング前(day0)、およびトレーニング中
1日おきに 8 回(day2-day16)が採取された。採取手技は、各被検者から早朝空腹時に Salivette
(SARSTEDT AG&Co, Nümbrecht, Germany:図2)を用いて 5 分間安静の後、1秒に1回の割合で1
分間 Salivette の綿を咀嚼することにより綿に唾液をしみこませた。この綿を凍結保存し、帰国後に解
凍ののち遠心分離して抽出し唾液重量を測定することにより1分間当たりの唾液分泌速度(ml/分)を決
定した。採集された唾液に抗 anti-secretory component antibody と anti-IgA antibody を添加し、SIgA
に特異的な enzyme-linked immunosorbent assay(ELISA)法を用いて唾液中 SIgA 濃度を測定した。唾
液分泌速度と唾液中 SIgA 濃度を用いて SIgA 分泌速度(分泌速度)を以下のように計算した。
SIgA 分泌速度(μg/min)=唾液分泌速度(ml/min) × 唾液中 SIgA 濃度(μg/ml)
血液検査はトレーニング①において行うことができた。トレーニング前後(pre および post)とトレ
ーニング中3回(T1,T2,T3)であった。採取された血液検体は 2000G、10 分間の遠心分離ののち、血清
コルチゾール値((RIA 法)と血清 IgA 濃度(TIA 法)を測定し、唾液成分との比較に用いた。
データは mean±SEM で表記し、統計分析には、エクセル統計 2006(社会工学システム、東京)を使
用した。群間には対応のない Student’s t test と Welch’s test を、各群の経時変化については、Tukey
法を用いた分散分析を用い、P>0.05 を有意とした。
図2:唾液採取に用いられた Salivette
Ⅲ-2:問診票の検討
問診票は、大学ラグビー部の合宿でも使用されたコンディション評価用の問診票をもとに高所トレー
ニングの特性も考慮して作成した(図3)。自覚的指標、疾病症状、他覚的指標の3指標で構成され、
自覚的指標として、睡眠状況、食欲、疲労感、自覚されるコンディション(全体的な自覚的コンディシ
ョン)の4項目、疾病症状として、頭痛、腹痛、咽頭痛など 12 項目、他覚的指標として早朝安静時の
脈拍、経皮的動脈血酸素飽和度(SpO2)を選手に毎日記載してもらった。自覚的指標は程度に応じた
4~5段階の選択式であり、スコアが低いほどコンディション良好、高いほどコンディション不良とな
るように設定した。
-4-
睡眠状況 (1つチェック) 1.快
2.やや快
3.ふつう
4.やや不快
5.不快
食欲 (1つチェック)
1.食欲あり
2.ふつう 3.やや食欲なし
4.食欲無し
疲労感 (1つチェック)
1.疲労感なし
2.疲労感ほぼなし
3.ふつう
4.やや疲労感あり
5.かなり疲労感あり
身体症状 (チェックを入れる、複数可)
1.頭痛
2.下痢
3.腹痛
4.悪寒
5.熱感
6.咽頭痛
7.関節痛
8.鼻汁・鼻つまり
9.吐きけ・嘔吐
10.咳
11.痰
12.めまい
自覚されるコンディション (1つチェック)
1.コンディション良
2.やや良
3.ふつう
4.やや不良
5.不良
図3:使用された問診票
疾病症状について、先行研究の症状頻度をもとに、上気道症状、胃腸症状、高山病症状に関連する症
状項目を抽出した。各症状における各症状項目の出現頻度から重み付けを行い、これらを加算してスコ
アを計算した。重み付けの比率は、上気道症状の場合症状の出現率に応じて、咽頭痛、鼻汁・鼻つまり
が 100%、頭痛、悪寒、咳が 80%、熱感(50%)、関節痛(20%)とした。胃腸症状については、下痢、
腹痛、吐き気・嘔吐について 100%、高山病症状については頭痛(40%)、胃腸症状(40%)、めまい(20%)
とした。
この重み付けスコアについて、トレーニング①では、トレーニング期間中に医療機関を受診したもの、
またはトレーニングを中断せざるを得ない体調不良を示したものについて明らかなコンディション不
良と考えて、血清 CRP 値とも比較して問診票を検討した。
トレーニング②では、水泳選手のうち、高所トレーニング経験が初めてのものを初回群、複数のもの
を経験群、同伴者など運動を行わず高地滞在のみのものを非運動群として、日毎に高所トレーニング初
回群と複数回群の平均スコアを算出し比較した。
統計学的検討について、得られたデータのうち欠損値については各変数の中央値、平均値と最頻値を
もとめ、時系列上の欠損値前後の測定値と対照し、全体的変動の最小となる値を代表値として処理した。
自覚的指標については各群について中央値を示した。初回群と経験群の差について Mann-Whitney’s U
test を行い、P<0.05 を有意とした。疾病症状スコアは、各日の重み付け平均スコアを算出した。脈拍
と SpO2 値については、得られた値は mean±SEM で表記したが、非運動群は平均値のみとした。
初回群と経験群の比較については、Welch の検定を併用し関連のない t 検定を用いて評価し、P<0.05
を有意とした。各群の時間内変動については、Tukey のテストを用いた一元配置分散分析を行った。統
計分析には、エクセル統計 2006(社会工学システム、東京)を使用した。
-5-
Ⅳ
結果
Ⅳ-1:唾液分泌型免疫グロブリン A の変動
解析の対象とした初回群と複数回群のプロフィールを表1に示す。年齢、身長、体重いずれも有意差
を認めなかった。また、トレーニング①とトレーニング③での登山後の累積トレーニング量の比較を図
4に示す。内容は異なるものの登山後の累積トレーニング量はほぼ同等の経過であった。
表1:被検者のプロフィール
初回群
複数回群
( n=9 )
( n=9 )
年齢 (歳)
19.6 ± 1.2
20.3 ± 1.1
身長 (m)
1.69 ± 0.05
1.73 ± 0.09
体重 (Kg) 64.1 ± 4.1
64.9 ± 9.4
value were mean±SD
図4:トレーニング①とトレーニング③における登山後の累積トレーニング量の比較
次に、採取された初回群、複数回群の唾液分泌速度(ml/min)の推移を図5に示す。
-6-
唾液分泌速度は day0(登山前)に比べて、初回群では day2 以降に有意に減少し、複数回群では有意
な減少は day10~day12 のみであった。また、初回群と複数回群の各時点での有意な差は認めなかった。
図5:唾液分泌速度の推移
唾液分泌量の推移
1.600
1.400
唾液量(ml)
1.200
1.000
0.800
0.600
0.400
0.200
0.000
0
2
4
6
8
10
12
14
16
登山後日数(日)
複数回
初回
唾液分泌速度と唾液中 SIgA 濃度により求められた SIgA 分泌速度の推移を図に示す。
SIgA 分泌速度は初回群では登山後に低下し、複数回と比較しても低かった。複数回群の登山後の変
化は登山前に比べて有意ではなかったが、登山後徐々に SIgA 分泌速度が低下し、その後回復する傾向
は初回群とほぼ同様であった。
図6:SIgA 分泌速度の推移
SIgA分泌速度の推移
50
SIgA分泌速度(μg/min)
45
40
35
30
25
20
15
10
5
0
0
2
4
6
8
10
登山後日数(日)
複数回
-7-
初回
12
14
16
図7,図8はトレーニング①前後における水泳選手運動群(Tr)と非運動群(Con)の血清 IgA 値および血
清コルチゾール値の比較である。血清 IgA 値はトレーニング前(Pre)、中(T1,T2,T3)、後(Post)ともに一
貫して運動群で高値を示したが、血清 IgA 値自体のトレーニング前後での変化を認めなかった。
血清コルチゾール値は運動群が非運動群に比べてトレーニング中盤以降(T2,T3)で有意に高値を示した
が、運動群、非運動群ともにトレーニング前後での経時変化は認めなかった。
図7:トレーニング①における運動群(Tr)と非運動群(Con)の血清 IgA 値の比較
Serum IgA
300
280
Serum IgA (mg/dL)
260
240
220
200
180
160
140
120
100
Pre
T1
T2
Sampling Point
Tr
T3
Post
COn
図8:トレーニング①における運動群(Tr)と非運動群(Con)の血清コルチゾール値の比較
Serum Cortisol
Serum Cortisol (μg/dL)
30.0
25.0
20.0
15.0
Pre
T1
T2
Sampling Point
Tr
-8-
Con
T3
Post
Ⅳ-2:問診票の検討
トレーニング①において明らかなコンディション不良を示したものは、水泳選手では上気道症状 1 名
(事例1:登山後第 10~11 日)、胃腸症状 2 名(事例2、事例3、ともに第4~5日)の 3 名であった。
また、同伴者 1 名が第 13~16 日上気道症状(事例4)を示した。問診票の疾病症状と血清 CRP 値の推
移を図9に示す。疾病症状スコアと臨床所見はいずれも一致しており、事例2,事例3の第5日、事例
4の第 16 日では症状悪化時期に血清 CRP 値も上昇していた(図9)。
図9:トレーニング①における体調不良者の疾病症状と血清 CRP 値の経時変化
左上:事例1,右上:事例2,左下:事例3,右下:事例4
青部分:高山病症状、赤部分:上気道症状、黄部分:胃腸症状、青線:血清 CRP 値(mg/dl)
-9-
次に、トレーニング②に参加した大学生水泳選手及び同伴者のうち、選手は 33 名全員から問診票を
回収した。同伴者からは 7 名中 3 名(非運動群:男性 1 名、女性 2 名)の問診票を回収した。33 名の
水泳選手のうち、高地トレーニング初回経験者は 14 名(初回群:男性8名、女性6名)で、前年に引
き続き複数回経験したものは 19 名(経験群:男性 12 名、女性 7 名)であった。
自覚的指標:初回群と経験群は、睡眠状態では第 10 日に、食欲、疲労感、自覚的コンディションに
おいては第 9 日のみ有意な差を認めた以外は、睡眠、食欲、疲労感、自覚的コンディションの項目にお
いて、ほぼ同じ経時推移を示した。ただし、睡眠ではトレーニング後半の第10 日頃から、食欲に関し
ては総じて良好であったが徐々にスコアが高くなり、疲労は登山後第 5 日頃から増加しはじめ第 10 日
頃よりピークを迎える推移を示し、トレーニング開始から1点前後のスコア上昇を認めた。一方、自覚
的コンディションはほぼ一定で全体として保たれていた。非運動群は高地滞在中、トレーニングを行っ
ている初回群及び経験群とは全く異なる経時推移を示した。(図 10)
。
図 10:トレーニング②における問診票自覚的指標の推移
左上:睡眠状態,右上:食欲,左下:疲労感,右下:自覚されるコンディション
赤:初回群,青:経験群,黄:非運動群
- 10 -
疾病症状項目:選手1日1人あたりの疾病症状平均スコアは 0.64±0.03 であった。重み付けスコア化さ
れた上気道症状及び胃腸症状は、初回群と経験群でほとんど違いがないのに対して、高山病症状はスコ
アが小さいものの初回群が経験群に比べ一貫して高い推移を示した。上気道症状は、高地登山直後と下
山直前がやや多めであるものの明らかな傾向を認めなかった。胃腸症状もほぼ一定していたが第7日頃
まではやや少ないようであった(図 11)。
図 11:トレーニング②における問診票疾病症状項目の推移
左上:睡眠状態,右上:食欲,左下:疲労感,右下:自覚されるコンディション
赤:初回群,青:経験群,黄:非運動群
- 11 -
他覚的指標:SpO2 について、運動群における初回群と経験群との比較では第 2 日に初回群が経験群よ
り低い SpO2 を示した。脈拍数は、第 2 日が第 3 日以降に比べ高い脈拍数を示したが、初回群と経験群
の間で差は認められなかった(図 12)。
図 12:トレーニング②期間における SpO2 の変化(左)と脈拍数の変化(右)
左上:睡眠状態,右上:食欲,左下:疲労感,右下:自覚されるコンディション
赤:初回群,青:経験群,黄:非運動群
- 12 -
Ⅴ
考察
Ⅴ-1:SIgA の変動について
1900m という通常行われる水泳トレーニングの高度が、粘膜免疫の指標である SIgA に及ぼす影響と、
SIgA に対する反復トレーニングの影響を解析した。運動に加えて低酸素ストレスが加わると、運動ま
たは低酸素単独よりも、より強く免疫機能へ影響することが観察されており、高所トレーニングによる
低圧低酸素負荷が SIgA の減少を誘発しうるとされている。一方で、競技会前に高強度のトレーニング
を行っても細胞性免疫の指標においてほぼ変化を示さないという報告もある。本研究では、唾液分泌速
度とともに高所トレーニングにより SIgA の低下を認めた。Tiollier ら(2005)の報告を支持する結果と
なり、少なくとも高所トレーニングに SIgA が影響を受けることが分かった。
血清 IgA 値についてはトレーニング①における運動群と非運動群いずれにおいても高所負荷による
経時変化は認めなかったものの常に運動群は高値を示していた。血清 IgA 値については、継続的な運動
の要因が低酸素の要因よりも強い影響を及ぼす可能性が示唆される。
血清コルチゾール値は高所トレーニング期中~後期にかけて、運動群が非運動群より高い値を示した。
各群でのトレーニング前後の変動に有意差は示さなかったが、コルチゾールなどのストレスホルモンの
増加が高所の低酸素負荷に加え、運動の負荷が加わることにより優位となる可能性が考えられた。
高所スポーツや高所トレーニングに対する免疫について、高所への登山が感染症を増加させることや、
上気道感染症や胃腸症状が登山後 8-14 日後に多いことが報告されており、そのメカニズムとして、高
所に長期滞在することによるグルタミン合成率の慢性的な低下による胃腸粘膜の萎縮や細菌の移動、エ
ンドトキシン血症などが引き起こされるという。
感染症や高山病に関連する非特異的な症状は、それぞれが類似していることより、急性高山病症状と
のオーバーラップを生ずることもため、明確な結論を引き出すのは困難であり、その他の理由として高
所で認められる感染症のほとんどは臨床的に診断されており、その診断を指示する客観的なデータに乏
しいことが挙げられている。しかしながら、今回認められた SIgA の減少や血清コルチゾール値が局所
や全身の免疫系に強く関与するとなれば、感染症発症との因果関係を説明する指標となり得よう。本邦
における高所トレーニングの研究には地理的条件や標本数など研究限界の要因が多数存在するが、コン
ディション管理システムの構築を目指すためには、今後も継続したデータ集積の必要性が示唆された。
繰り返すトレーニングに関して、4300m の間歇的な低酸素負荷でも、持続的な高地滞在とほぼ同様の
効果を示すと示唆する研究もあるが、白血球数などの指標を含め免疫学的な指標には影響を及ぼさない
というものであった。 今回、トレーニング複数回群の SIgA 低下は、トレーニングにより同様の時間的
推移をとり、初回群に比べて軽度である傾向を認めた。繰り返すトレーニングでのコンディション指標
に対して SIgA の評価が寄与しうる可能性も示唆された。また、先行の報告や高所トレーニングの経験
知などを含めて、高所トレーニングでは登山直後の1週目や高所初回経験者でのコンディション管理が
最重要と考えることができると思われる。
Ⅴ-2:問診票の検討
前述の通り、高所トレーニングのコンディションの特徴として、感冒や胃腸症状などのコンディショ
ン不良を生じやすいことが報告されており、症状の原因として感染症や、高地不適応として生ずる高山
病がある一方、これらの症状は重複するため原因の鑑別が難しいとされている。特に我が国では、高所
トレーニングの拠点が国内にほぼ存在しないことに加えて、地理的条件自体や現場への医療サポートが
- 13 -
困難なことから、内科的疾患の予兆を考慮したコンディション管理のための問診票は有用と考えられる。
そこで、高所トレーニングにおける問診票によるコンディション評価の有用性と高所トレーニング経験
による差についても検討することを目的とした。
参加した水泳選手は、ほぼ 1 年間隔の同時期に同じ滞在地、滞在施設において、同地で過去に行われ
た合宿での経験知や研究結果をもとに同じ指導者よりトレーニングが処方されており、トレーニング概
念や内容の詳細はやや異なるものの、環境条件や運動負荷条件については比較的同じ条件でトレーニン
グが行われているものと考えられた。
トレーニング①においては、特にコンディション不良の目立ったものについて検討した。問診票を配
布した 14 名のうち、明らかなコンディション不良を示したものは、運動群 9 名中3名、非運動群 5 名
中 1 名であった。学生における上気道症状の頻度と罹病期間の調査から、年 3 回の罹患があるとすると、
2 人がこの合宿で罹患することになりやや多いことになる。また、症状項目では疾病に関して症状頻度
の重み付けをすることにより、個人の症状を明確に捉えることができ、血液所見の変動とも一致するこ
とが分かった。4事例のうち、事例1及び事例4の登山初期では 3 日目をピークとした血清 CRP 値の
上昇は認めない上気道症状があり、特に事例1では高山病症状が重複していた。血清 CRP 値は全身性
の炎症所見を表し、一般に全身性の感染症の場合に上昇することが多い。逆に、高所不適応として認め
られる高地肺水腫では、初期には炎症が出現せず、症状の進行とともに生じてくるとされている。疾病
症状の分析と血液学的検査の併用でコンディション不良の機序についても明らかにできる可能性が示
唆された。
次に、高所トレーニングのコンディション特性について、標本数から統計学的検討ができないものの、
自覚的指標のいずれの項目においても運動群と非運動群で全く異なった推移を示した。このことは、高
所でトレーニングを行う場合、コーチなどの非運動群の自覚的指標と、アスリートなど運動群の自覚的
指標に乖離が生じる可能性を示しており、アスリートを個別によく観察してトレーニング計画を立てる
必要があることを示唆していると考える。一方運動群のなかでは初回群と経験群で大きな違いを認めな
かった。今回の自覚的指標の問診で経験差を評価できない可能性がある反面、経験に関係なくコンディ
ション評価を行い、トレーニング計画を立てる必要性があると思われる。
疾病症状について、選手1日1人あたりの疾病症状平均スコアは 0.64±0.03 であった。このことは、
2人のアスリートのうち1名は何らかの疾病関連症状を訴える可能性があることを示しており、1 項目
が通常 2 日連続した場合には疾病の発症も考慮に入れる必要があるかもしれない。また、今回の研究で
は、高山病症状で初回群が経験群に比較して一貫して高い傾向を認めた。高山病は通常標高 2500m を
越えて生じやすいと言われていることから、水泳選手がトレーニングを行う 1800~2300m 付近の高度
のみでは一般的に高山病発症の可能性は乏しいと考えられる。しかし、高所に加えて強い運動負荷が加
わった場合に高山病症状が出現しうる可能性も想定し、特に初回群では登山直後の順応期におけるコン
ディション変化を十分に評価する必要性あろう。
SpO2 や脈拍数の他覚的指標は2日目に変化を認めたのみであった。登山直後の影響であり、本研究
の高度でのトレーニングでは、高所馴化に関連したこれらの指標は数日で回復しうると考えられた。
本研究の限界と展望については、同時期に同地滞在で行われた日本人による高地トレーニングとして
は最大数に近い対象者数であったと考えられ、比較的均質な標本が得られたと考えられる一方で、標本
数としては必ずしも十分ではなく、より多くの標本による検討が必要と考える。さらに、高地トレーニ
ングと対比した平地での同問診票の感度についても今後の検討が必要である。
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トレーニングにおける身体のコンディションを推定する方法として、問診票は古くより広く現場で使
用されている。実際、POMS などの心理テスト、高地トレーニング中の食事、栄養、睡眠、疲労度、ト
レーニングの状態等についての質問紙調査や選手の日誌から判定する方法がとられてきたが、これらを
定量的に解析したコンディショニングの研究報告は比較的少ない。問診票の応用研究は、有疾患者にお
けるリハビリテーショントレーニングでの自覚的評価、スポーツトレーニングにおける心理的尺度とし
てのコンディション評価や種目特性との関連、教育現場や社会的身体活動における自覚的評価などで認
めるが、高所トレーニングのコンディショニングについて問診票より分析した報告を認めない。その原
因として、身体のコンディションを疲労の一面として捉えており、そのため体重の変化、練習日誌によ
る主観的変化、血液データをもとに検討しても具体的評価が難しかったことが挙げられる。
しかしながら、特別な器具や準備を必要としない、短時間で評価できる問診票の利点は、普段の練習
環境と異なることが多い高地トレーニングでは特に有利であると考えられる。今後は同様の問診票を用
いて高所トレーニングのみならず様々な場面で検討し精度を高めていく必要がある。
Ⅵ
まとめ
高所での生体応答に基づく安全な体調管理を目指し、高所トレーニングにおけるコンディション管理
システムの構築を目指すことを目的として、大学生水泳選手対象の複数回の高所トレーニングで、唾液
採取による唾液分泌型免疫グロブリン(SIgA)の変動と、問診票による高所トレーニング中の選手のコン
ディション特性と高所経験差を検討した。
SIgA 分泌速度は高所登山後に減少し徐々に回復するパターンを示した。また高所トレーニング経験
があると SIgA 分泌速度低下の程度が少ない傾向であった。SIgA が粘膜免疫システムの指標とされてい
ることから、SIgA が高所トレーニングでのコンディション管理に応用しうる可能性が示唆された。
問診票分析では、明らかなコンディション不良者4名の疾病症状スコアがコンディション不良時期と
一致し、血清 CRP 値とも同期した。疾病症状は選手1人あたり一日約 0.6 であり、高山病症状は初回
群が経験群に比し高く推移したが、その他に高所経験の差を認めなかった。高所トレーニング初回経験
者の高所馴化に留意しつつ、一方で経験差によらない充分なコンディション管理が必要である。
今後も生体応答と問診票を用いたコンディション評価を高所トレーニングのみならず様々な場面で
検討し、精度を高めていく必要がある。
謝辞
本研究に助成をいただいた財団法人上月スポーツ・教育財団に深く感謝申し上げます。また、研究の
機会とご協力をいただいた筑波大学体育会水泳部競泳チームの皆様にも感謝申し上げます。
本研究の一部は、第 19 回日本臨床スポーツ医学会学術集会(2008 年 11 月、千葉)において「繰り返
す高所トレーニングが唾液分泌型免疫グロブリン A に及ぼす影響」の演題で発表した。
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