Vol.28(3)

2012 年 12 月
人 間 発 達 研 究 所 通 信
No.131
1998 年 9 月 3 日学術刊行物認可第 430 号
ISSN
0913-7092
Vol.28(3)
人間発達研究所
大津市朝日が丘 1-4-39
梅田ビル 3F
Phone/Fax 077-524-9387
発達保障論誕生 50 年連続学習会第 4 回 話し手 鴨井慶雄さん
発達保障論の再評価
1
――田中昌人氏との関わりを通して――
私は高校の教師になりたかったが,当
田中昌人氏との出会い
田中氏と巡り会ったことは本当に幸い
であったと思う.彼とは 1950 年 4 月に
新制京都大学教育学部 2 期生として入学
した同期生である.3 回生からの専門課
程では 2 人とも教育心理学課程に所属し
た.しかし,私は貧乏学生でアルバイト
に明け暮れており,彼は研究熱心で,中
内敏夫,稲葉宏雄らと学部のときから研
究会を持ち,それぞれが論文を書いて論
評しあっていて,一度参加させてもらっ
たが,レベルが違った.彼は独自の発想
でテーマを持ち,卒論は妊娠中毒症の子
どもの追跡調査,副論文が胎教で,学問
的水準が高く評価され,教育学部助手と
して 2 年間大学に留まることになった.
時は就職難で,大阪で障害児の学校が 3
校たまたま残っていた.私は大阪市立盲
学校に就職した.
当時の盲学校は中心街の爆撃の焼け残
りの校舎で,電灯もとぼしく,雨漏りも
放置されたままだった.そのことで組合
活動に目覚め,2 年目から組合役員に立
候補し,西岡氏と一緒に組合活動の先頭
に立つことになった.
当時,盲・ろう児の就学は 5 割を切っ
ており,それは貧困とつながっていた.
日教組特殊学校部は,盲・ろう学校の校
長会や PTA 協議会と協力して,就学奨
励法制定運動を展開し,1954 年 6 月に
2
組合活動の中で
「盲学校,聾学校及び養護学校への就学
CONTENTS
発達保障論誕生 50 年第 4 回
発達保障論誕生の頃
話し手:鴨井慶雄さん …………1
会員のページ
大震災と看護
武分祥子 …………………………………………………………………5
田中テクスト勉強会に参加して(上)
連載エッセイ「共そだち」第 3 回
成瀬和之
…………………………………11
山本翔太 …………………………………………13
事務局だより …………………………………………………………………………………14
(1)
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奨励に関する法律」が成立,小・中学部
それは賃金・労働条件,卒業生の進路,
児童生徒の教科書,通学費,寄宿舎費な
教育内容の質にまで広げられていった.
どが支給されるようになった.高等部の
非常にいい運動をやってきたと思う.
生徒たちと点字教科書問題改善促進の運
動で街頭に初めて立ち,1956 年 4 月か
3
ら就学奨励法の適用を義務教育でない高
遅れていた障害児教育観
第 1 次大阪教研(1951 年度)に特教
等部まで延長させることができた.
支部から出されたレポートに次のような
日教組の教育研究集会(教研)に参加
文章がある.「特別学級及び特殊学校は,
したのは,第 5 次全国教研(1956 年 1
学校教育という立場から,収容される児
月,松山)からであった.その 6 月には
童には限界がなければならない.如何な
任命制教育委員会法が警官導入のもとで
る重症の欠陥児も収容できるものではな
成立.その翌年には勤務評定制度(勤
い.また教育してもその効果は充分では
評)導入の動きが急速に各府県に広がっ
ない.この限界よりもれた重症あるいは
た.
要治療の心身障害児及び反社会的行為児
「勤評は民主教育を破壊して,教師を
のためには,社会福祉の立場から適切な
権力の支配下におき,軍国主義を復活さ
機関並びに施設が必要であることは申す
せるもの」ととらえる日教組の闘争方針
までもない」.これが当時の常識的な考
のもと,市特教支部などは果敢に闘った.
え方だった.
1958 年 12 月,父母や障害者(卒業生)
第 10 次教研(1960 年度)では,共通の
と教職員で「大阪特殊教育を守る会」を
しhかも困難な問題として「二重障害及
作り,私は第 8 次全国教研(1959 年 1 月,
び低 IQ 児の問題をどうすればよいか」
大阪)で「勤評闘争と民主的な盲教育の
をテーマにして討議した.「盲・ろう・
発展について」を発表した.勤評闘争で
肢体不自由児等の特殊学校では精薄との
勤 務 評 定 制 度 は 形 骸 化 さ せ た が , 1959
二重障害児の指導に,精薄の特殊学校で
年 5 月,大阪では組合幹部が大量に処分
は肢体不自由や難聴児,低 IQ 児の指導
された.私も停職 3 か月の処分を受けた
に絶え間のない努力がなされている」の
が,2 か月半は授業継続闘争をした.
は「一面においてそれは当然のことであ
次の安保反対闘争を通じて,闘いに参
る」が,「ある面においては,無駄な努
加した教職員や障害者の政治的関心や権
力がなされていなかったか.もし現場で
利意識は高まり,権利侵害に立ち向かう
の指導方法以外で問題の原因を探り,こ
本格的な運動が展開されていった.
れを排除できればどうか.私たちの努力
教育労働者としての自覚の高まりは,
はもっと無駄のない効果のあるものとし
劣悪な勤務条件下におかれていた寄宿舎
て生かされるのではなかろうか.その一
の寮母の勤務実態(週 144 時間勤務)等に
つとして,私たちは特殊児童の判別基準
向けられ,教育白書運動が進められた.
を整備し,権威ある判別機関の設置が急
(2)
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務であると考える」としている.
No.131
しっておきたいとおもいますので,資料
の関係がありましたら,できるだけ御便
4
田中氏との再会
宜計って下さいますようにおねがいしま
田中氏とは 10 年くらい疎遠になって
す.このような機会を与えて下さいまし
いたが,ちょうどその頃,じっくり話す
たこと厚く御礼申上げます.尚,12 日
機会があった.彼は近江学園の中に組合
には奈良教研から同じように招待をいた
を作る話を,私は教育研究運動で悩んで
だきました.各地の動きを力あるものに
いる話をした.
していきたいものです.別送しましたも
当時私たちの中で問題になっていたの
の御高評あおぎたく存じます」.送られ
は,「精神薄弱(当時の呼び名)児も主権
てきた資料は「発達の権利をかちとり差
者としての国民のはずだが,重度の場合,
別をなくすための研究会」(通称「発達
投票にも行けない,つまり主権者として
保障研究会」)のもので,大いに励まさ
の意思表示ができない,そういう人も主
れた.
権者と言えるのだろうか」という疑問に
田中氏は,IQ で類型的に子どもをみ
対して,十分説得力のある説明ができな
ることの非発達性と発達保障の大切さを
いでいたことである.主として知的障害
話された.中身は難しかったが,縦への
児の教育の中で成長・発達がゆっくりで
発達と横への発達,横への広がり,ゆた
なかなか成果を見いだせないでいること
かな人格の形成といった話は,自分たち
へのあせりや確信の持てなさがあった.
のやっていることに大きな示唆を与える
そ こ で , 第 11 次 大 阪 教 研 の 分 科 会
ものだった.この「発達保障」の基本的
(1961 年 11 月 19 日)の講師に来てほし
な考え方に基づく問題提起は新鮮に受け
いという手紙を出したところ,次のよう
止められ,現場での教育実践や教育運動
な返事をもらった(10 月 30 日発信).
に影響を与え,それが少しずつ教研集会
「お便り拝見しました.教科(教研?)
のレポート報告にも反映されていった.
の件,なにしろ施設系統にはニュースが
1966 年 1 月の教研宿泊学習会で,田
入らず,いつかそういうところで実状に
中氏に「障害児教育における発達保障に
ついて話をうかがい勉強したいと思って
ついて」問題提起をしてもらった.難解
おりましたので,日も空いておりますし,
な言葉に戸惑いながらも「新しい発達理
是非うかがいたいとおもいます.講師と
解のしかた」は参加者に目のさめるよう
いうようなものでなく,一緒に考えあう
な感動を呼び起こした.有志でサークル
というような気持で参加させていただこ
づくりを始め,2 月 12 日,「大阪心身障
うと思っています.さいきん特殊教育関
害児発達保障研究会」発足,4 月には,
係もいろいろな動きがでてきております
希望者を募って近江学園で発達診断の学
が,とくに大阪ではどういうことが問題
習のための合宿を行なった.また,1 月
になってきているのか,あらかじめよく
の合宿の速記録を田中氏に手を入れても
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らって,パンフレット『すべての子ども
の健康状態は万全ではなく,全障研の全
の発達の権利をかちとるために』を大
国大会にも出られないことも多かったが,
阪・京都・滋賀発達保障研究会編で発行
挨拶などの文は必ず送って励まし続けら
した.連名にしたのは,パンフの普及を
れ,研究をまとめる活動は惜しみなくな
考えての策であった.
された.一方で,彼は森永ヒ素ミルク中
毒被害者の救済運動などにもかかわり,
5
日教組全国教研の中で
人権侵害の裁判で研究者の立場で証言す
目教組全国教研の障害児教育分科会は,
るなどもしていた.
「差別教育からの解放」という視点が強
調されるようになり,それと共に分科会
7
名も変更されていった.第 15 次全国教
思いを受け継ぐ
彼は弟子たちには厳しかったようだが,
研(1966 年 1 月,福島)のまとめの全体
同年輩の友人に対してはとても丁重な態
会で,「障害児教育研究の全国サークル
度で話をよく聞いてくれた.研究の進展
をつくろう」(のちの全国障害者問題研
とともに発達の系の構造が明らかにされ
究会;全障研)という意見が満場一致で
ていったが,その過程で新たな用語が必
承認された.当時日教組特殊学校部長を
要になった時,どういう表現がよいか考
していた永田一視氏に田中氏を推薦し,
えてほしいと言われたこともあった.そ
第 16 次教研(1967 年 1 月,伊勢)の「心
れに答える力量は私にはなかった.
身障害児教育」分科会の助言者になって
資料の収集と活用には舌を巻く.どこ
もらうことにした(同前,第 16 次教研の
から仕入れるのか,国際的な文書をはじ
「精神薄弱教育分散会」のまとめは,田
め広範な領域の資料を駆使して,鋭い分
中氏の執筆).
析や論評をものにしている.文章の推敲
も徹底していた.ゲラの校正で欄外への
6
全障研の誕生
書き込みがすごかった.この作業を通し
1966 年 7 月に京都で,12 月に東京で,
て考えを練りあげていったのだろう.文
全障研結成準備の合宿を行ない,各府県
学・芸術に対する素養も高いものがあっ
での支部づくりを進めることを申し合わ
た.
せた.1967 年 5 月には,大阪で「第 1
病弱だった幼児期,過酷な戦争の時期,
回障害児・者問題近畿ブロック研究集
また,激しい闘いの日々,全共闘の過激
会」を開いた.そして 8 月,全障研結成
な学生から命までねらわれる厳しさを乗
大会が東京で開かれた.田中氏が委員長
り越え,しかも深夜まで骨身を削った研
に就任し,1980 年まで 14 年間,委員長
究活動が命を縮めることになったことは
としての職責を果たされた.翌年から委
本当に残念なことである.彼が蒔いた種
員長になった清水寛氏とともに,私は副
は実に大きな広がりをもって発展してい
委員長を 8 年続けた.この時期,田中氏
る.晩年,彼がよく口にしていたのは
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「これからは労働権保障の時代だ」とい
んでいきたい.
うことだった.このことも忘れるわけに
(この第 4 回学習会は,2012 年 4 月 22
はいかない.彼が考えていた一千年紀規
日に開催しました.文責:嶋村伸子)
模での地球環境,人間社会の動向と行き
先について,問題提起をしっかり受け止
め,彼が切り開いた道を受け継いで,平
和で自由で平等な社会,万人の発達を保
障する社会の実現に向けて手を携えて進
大震災と看護――時代によって変わること,変わらないこと――
武分祥子(飯田女子短期大学)
はじめに
市は,東日本大震災で被災した福島県南
2011 年 3 月 11 日に発生した東日本大
相馬市民を地震直後から受け入れた地域
震災は,周知の通り甚大な被害をもたら
であった.そのため被災者と出会う機会
し,1 年以上を経た現在も東北地方の各
がわずかながらあり,さらに受け入れを
地域は復興の最中である.そして未だな
担当した飯田市職員などからも状況を聞
お福島第一原子力発電所に起因した放射
いたこともあった.このような経過から,
能汚染の実態は不確かであり,直接的な
大災害の直後に着の身着のまま逃れた被
被害だけでなく後世にもおよぶ影響も懸
災者たちの状況,その中で何が看護に求
念されている.そんな状況のなか,東日
められたか,看護の資格を持った者が何
本大震災にかかわる支援はさまざまな方
をしたかということに関心が高まった.
面から現在もなお続けられている.医療
筆者は実際に東北地方に出向き救護活
や福祉に関する救護活動もその支援のひ
動に参加したわけではないが,今回の震
とつである.その救護活動に関しても,
災も含めて過去の大災害で共通した看護
多くの報道や講演,出版物により生々し
とは何かを考えてみたい.そして改めて
い実態や具体的支援,課題が伝えられて
看護の可能性を探ることができればと考
いる.その中で筆者は今回の震災を通し
える.
て,あらためて看護とはなにかを考えさ
せられた.看護教育に携わる仕事柄,筆
1.東日本大震災の看護活動
者の関心は看護をめぐる活動に対してで
東日本大震災の看護を分析する手段と
あり,自分だったら持ちうる知識や技術
して,日本看護協会出版会『ルポ・その
によって何ができるだろうかと思いを巡
時看護は
らした.そして筆者自身が居住する飯田
ート』を取り上げてみたい.この本では
(5)
ナース発 東日本大震災レポ
2012 年 12 月
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No.131
183 人の看護職者たちが「私たちの活動
がわかる.家に帰れず家族の安否すら確
報告書」として,看護職者の立場から体
認できないまま病院で寝泊まりしながら
験したことや思いをもとに手記を執筆し
患者の援助をしていた者,自宅で地震に
ている.この本を今回取り上げた理由は,
遭い家族を残して勤務先の病院に駆けつ
183 人の看護職者の手記を分析すること
け不眠不休で看護を行った者など,被災
から,東日本大震災で展開された看護が
者として,かつ看護職者として役割を懸
分析できると考えたためである.この本
命に果たしてきた様子が手記から伝わっ
は震災から半年満たない半年後の 9 月に
てくる.また,病院のライフラインが停
発行されている.つまり,校正および発
止した中で,燃料や水などの資源を節約
行に関わる期間を差し引いたとしても手
し,あるものをかき集めて炊き出しをし,
記が書かれた看護職者たちによって書か
身の回りのもので工夫しながら保温対策
れたのは震災直後といえ,実体験がその
をしつつ,何とか生活を維持させようと
まま記されているものと推察できるため
対処してきた状況がみられる.
である.以上の理由から,この本が東日
本大震災の看護の分析対象として妥当で
2)不安な気持ちに耳を傾けること
あると考えた.
手記によるとどの看護職者も被災者の
執筆した看護職者たちは,震災当時に
話を聴き,不安な気持ちに耳を傾けるこ
東北地方に居住していた者が多数を占め
とが重要であるとしている.ある看護職
る.資格および勤務先の内訳で多数を占
者は,津波による被災者の心の傷が想像
めるのは,病院の看護職者(看護部幹部,
以上のものであり,その中で多くの看護
准看護師,看護師,助産師,保健師),
職者らが被災者一人ひとりの声に耳を傾
訪問看護ステーションや施設の看護師お
け支えていたとしている.また別の看護
よび職員である.その他に看護系大学の
職者は一人の人間として,被災者の置か
教員および学生,自治体の保健師,被災
れている状況をありのまま教えてもらい,
地域の看護協会幹部,県の看護事務担当
不安な気持ちや思いに耳を傾けたという.
者,日本各地から救護活動に参加した医
このように,多くの看護職者たちが実際
療職(医師,看護師など)である.筆者
に不安な気持ちを傾聴していた事実があ
は一つひとつの手記を読み解き,その中
り,まず被災者に寄り添い話を聴くこと
から看護に関わる内容を抽出し 5 つの視
が援助を行う上での基盤となっていると
点で整理した.以下はその内容である.
いえる.
1)自身も被災者,されど看護職者
3)コーディネーターの役割
手記の内容からは,被災者として自分
今回の震災を通じて,看護を行う上で
自身の生活や家族の心配をしながらも看
の調整を行うコーディネーターの必要性
護職者としての活動を展開していた様子
も語られている.看護職者たちが円滑に
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援助活動に集中できた背景には,現場の
患者のために首まで水に浸かりながらも,
声を拾い現場にとって必要な支援を整理
救助が来るまでバックバルブマスクを押
し,それを活動希望者(看護職者)の支
し続けた病院職員も存在した.普段なら
援と組み合わせる役割を担う人材がいた
ば,当然のように使用していた設備が非
からとしている.また実際にコーディネ
常事態では使用できない.現代の高度医
ーターとして動いた看護職者も存在した.
療における設備は多くの人命を救い,医
避難所での実際の活動としてある看護
療という仕事をより充実させたが,災害
職員は,①避難者の応急処置,②高齢者
時には役に立たないものとなる弱点を兼
の介護,③体育館や各教室の巡回健康チ
ね備えていることが明確になったといえ
ェック,④健康相談,⑤重症・要医療の
る.
搬送者をピックアップ,⑥要医療・要介
護者の避難所エリアの確保と調整,⑦救
5)慢性疾患と高齢者
1)
.これらの内容を
東日本大震災では,津波の被害も甚大
みても,救護すべき人々の選出,調整な
で着の身着のまま逃げた被災者たちも多
どコーディネートといえるものが包含さ
かった.そのため,身の回りの生活必需
れているといえる.看護職者は救護の現
品を持ち出せない者たちも少なくなかっ
場において看護の知識や技術だけでなく,
た.その生活必需品のなかにでとくに不
それを実施する準備段階,看護技術を提
足したものが,慢性疾患をもつ被災者の
供する為に必要な基盤整理から関わって
薬であった.高血圧症,糖尿病,心臓病
いたことが伺える.すなわち,看護の対
など慢性疾患の治療を受けていた者も多
象の把握や準備も救護の場ではまず必要
数おり,看護職者たちは薬の手配にも困
であることが示唆されている.
窮したと記している.慢性疾患は直ちに
護外来を挙げていた
命に別状はないが,被災しさらに体調を
4)高度医療の弱点
崩したときには,重度化する可能性が大
看護職者をはじめ医療者が困難を感じ
きい.内服管理や普段の生活の中で養生
たことは,医療設備が整っていたからこ
をしているからこそ状態は安定し日常生
そ生じた困難であった.それは,重篤な
活が送れるのである.
患者の生命維持のための人工呼吸器やモ
また超高齢社会の今日,今回の被災者
ニター,人工透析などといった現代の医
で多数を占めたのも高齢者であった.高
療に不可欠で,電気や酸素の供給がない
齢者は慢性疾患に罹患している割合は高
と動かせない高度な器械・機器類である.
く,さらに身体機能の予備力も成人より
災害モードに切り替わり事なきを得た病
も衰退している.よって大災害における
院もあったが,津波による浸水から逃れ
過酷な生活環境や過剰なストレスによっ
ることで精一杯の患者や看護職者も存在
て,身体バランスが崩れることは必然で
した.そして停電の中,人工呼吸器装着
ある.手記においても,要介護者の容体
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の悪化,過酷な環境下における体調の崩
命や生活を維持させていく上で不可欠な
れが指摘されていた.
活動が含まれているのではないかと考え
東日本大震災において,「看護は,何
る.そしてさらに歴史上の大災害にもそ
もなくても生きてさえいれば,いつでも,
ういった普遍的な看護がみられるのでは
どこでも,どんな形でも提供することが
ないかと予想する.職業として確立する
できます」と看護の原点に返ったような
以前の看護をみることで,あらためて真
気持ちを抱いた看護職者も存在した
.
の看護とは何かを検討する.
2)
この言葉が表しているように,自らも被
災しながらも看護職者としての役割を遂
2. 歴 史 に み る 大 災 害 と 「 看 護 な る も
行した点や被災者らの不安な気持ちに耳
の」
を傾けることを重要として援助にあたっ
1)本稿で扱う大災害と看護の範囲
ていた点は看護にとって大切な原点とい
災 害 と は ,「 台 風 ・ 洪 水 ・ 地 震 ・ 大
えるものであろう.そして,何もないと
火・伝染病などによる災難(と損害)」
ころから生活を整えていくことの必要性
とされる.災いとは「人間社会にとって,
にも多くの看護職者らが気づき,水や食
ありがたくない,自然の出来事.わざわ
料,衣服といった生活物資を調達し,さ
い」とされ,災害,災難,天災,人災な
らに被災者の幅広いニーズに応えていた.
どがある.また,戦争による災害を戦災
この点はまさに看護の基盤となっている
ということ
生活の視点であるといえる.
えたいと考える.そして現在の職業とし
3)
より,戦争も災害として捉
その一方で,現代を反映した特徴的な
て確立された活動に限定した看護だけで
点も明らかになった.その一つは医療設
はなく,看護の原点と呼べるものまで広
備の進歩である.医療設備の進歩は看護
くとらえ「看護なるもの」として看護と
職者を含めた医療従事者の業務を効率的
考えられる活動を分析したい.
かつ,より科学的なものにはした.しか
したがって,記録に残る大地震や戦争
し,その一方でその設備自体が無いと治
などを大災害とし,その中で行われた
療ができない,加えて停電しては器械・
「看護なるもの」を扱うことにする.大
機器類自体が動かせない事態も発生した.
災害において,そこで必要を迫られて実
また,服薬が中断し体調に悪影響を及ぼ
施した活動のなかで人間の生命や生活を
すような過酷な生活環境は,病状が悪化
維持させるために行われたものを捉えて
しかねない.今回の被災者には慢性疾患
論じていく.
の者や高齢者が多数おり,避難場所での
生活困難が生命の危機に直結することに
2)歴史的な大災害と「看護なるもの」
留意しなければならない.
(1)クリミア戦争におけるナイチンゲ
ールの看護活動
こうした大災害のような危機的状況の
戦争における看護を考える上で,クリ
なかで行われた看護のなかに,人間の生
(8)
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ミア戦争におけるナイチンゲールの看護
No.131
第 1 次世界大戦(1914 年~1918 年)に
活動(1854 年~ 1856 年)を取りあげる.
おけるマリー・キュリーの活動は看護に
この時のナイチンゲールの活動について
とって興味深いものである.マリー・キ
は,看護として取り上げるべきか否か様
ュリーは放射能の研究でノーベル賞を受
々な見解がある.しかし,ナイチンゲー
賞した物理学者であるが,その一方でポ
ルの著作や後世の研究者による彼女のク
ーランドを祖国にもつ者として社会的な
リミアでの業績から考えた場合,看護と
活動も行っていた.その一つがレントゲ
して位置づけられる一定の業績があると
ン車(小型の馬車)を戦場で走らせ,外
考える.
科的治療に貢献していたことである.彼
彼女の強みは 19 世紀イギリスの特権
女はレントゲンの操作ができたため,兵
的階級出身者であること,知人による政
士の身体のどの部分に弾丸やその破片が
治的な力を活用できたことである.さら
あるのかを明らかにすることができた.
にイギリス陸軍の衛生制度改革の一端を
これは当時の最新の医療設備を活用する
担っていたためにかなりの範囲の実権を
ことで,戦時の治療を妥当なものにし兵
持っていたと想像できる.当時としては
士の痛みや後障害を最小限にした例であ
最高水準の教養と財力を兼ね備え,他の
るといえる.このことを「看護なるも
人材を活用するだけの地位や全体を見渡
の」として扱うことはやや乱暴ではある
す能力を兼ね備えていた人物でもあった.
が,結果的に傷病者の苦痛を軽減させた
それが戦地での悲惨な状況下でも物事を
という点において,看護に通ずるものが
冷静に見定め,必要なことは何かを判断
ある.そして最新の科学技術を人類のた
し調整する能力や他者へ指示する統率力
めに有効活用したという点を,後世の私
を発揮することに繋がったと考える.
たちは彼女から学ぶべきである.
実際にナイチンゲールが行った看護は,
清潔(洗濯)と滋養に富んだ食事を準備
(3)日本の大災害における救護活動
したこと,病院での秩序を整えたこと,
①会津戦争における女性の働き
家族のための対策(産院,仕事),兵士
幕末の会津戦争の物語は時代小説をは
や看護師の留守宅の配慮に至るまで,生
じめさまざまな書物で登場するが,その
活や救護の運営にかかわる隅々まで気を
中で女性の働きも同時に描かれている.
回している.したがって,ナイチンゲー
瓜生岩(商家の女性)や山本八重(のち
ルの戦場での看護は生活に関わるあらゆ
の新島八重)ら女性たちが行ったことが
る事柄を整えることであったと解釈でき
「看護なるもの」として捉えることが出
る.
来る.その内容は具体的には,城内での
水汲み,握り飯作り,負傷兵の手当,孤
(2)マリー・キュリーの戦地における
児救済事業である.つまり,衣食住を中
医療活動
心とした生活を整えること,傷病者の処
(9)
2012 年 12 月
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No.131
置をすること,子どもや年寄りの世話を
12 月まで救護活動を行ったという.彼
することが実際に行われていたことであ
女の救護活動は現地に出向いたという事
る.看護という職業がなかったこの頃,
実は残っているものの,実際の活動内容
女性たちが中心にその役割を担っていた
は明らかになっていない.しかし,約 2
ことがわかる.
か月間現地で被災者と生活をともにしな
がら,他の医療チームとともに看護活動
②濃尾大震災における看護活動
を行ったことは容易に推察できる.看護
1898 年 10 月の濃尾地震はマグニチュ
職者としてまず,自分のできる範囲で動
ード 8.0,震度 7 に匹敵する規模で,岐
くこと,プロとしての使命を果たすこと
阜県西部から愛知県を中心に甚大な被害
の意志の強さを彼女の行動から感じとる
をもたらした明治期の巨大地震である.
こと出来る.この一人でも遂行しようと
その当時日本に登場した写真や石版画に
する逞しさやプロとしての役割意識は今
より,地震による災害の悲惨さが新聞な
日の看護で学びたい点である.
どで全国に報道された.報道されること
により,各地から多くの団体や人々が救
3.看護にできること――その活動の可
助活動に参加した.そのなかでも,医療
能性――
による救助活動が大きな役割を果たした
東日本大震災での看護活動および歴史
といい,赤十字や大学病院などの団体ば
的な「看護なるもの」からみえてきたこ
かりでなく,個人の医師や看護師などが
とは,大災害に直面したとき看護職者は,
ボランティアで医療装備を携帯し駆けつ
まず,いのちを護り生活を維持するため
けた記録が残っている.国内初の天災時
に衣食住を整えることから着手していく
の看護活動といわれ,日赤,慈恵医院,
点である.それと同時に,不安に耳を傾
京都看病婦学校,同志社病院,近隣の病
け,治療に対してだけでなく,今起こっ
院などから大量の看護婦が医師とともに
ている問題を考え,整理し,それを解決
救護活動を行った.濃尾大震災において
するために調整しようと行動する.つま
は,日本赤十字社で養成された看護婦の
り,大災害において,生活の再構築を目
第 1 回生が参加したことも記録として残
指しコーディネート役としても動こうと
っている.
する.看護を行うためには,看護が行え
筆者の勤務地である長野県飯田市にも
るように身辺を整えなければならないが,
濃尾大震災の救護活動に個人で参加した
その整えること自体が看護に位置づけら
看護職者が存在した.小沢槇という女性
れるのではないかと筆者は考える.これ
が 1891 年(明治 24 年)に現在の飯田市
を言い換えれば,生活を整えるために
主税町で産婆を開業した.さらに 1898
「何でも行うこと」であり,時代に寄ら
年 10 月に濃尾地震が起こった際には,
ず普遍的な看護の基本であろう.加えて
濃尾地方へ負傷者救護のために出向き,
看護職者がジェネラリストの側面を持つ
(10)
2012 年 12 月
人 間 発 達 研 究 所 通 信
と筆者が考える所以である.「何でも行
No.131
3.災害,災い,戦災については,三省堂
うこと」は看護の強みであり,可能性な
「新明解国語辞典
のではないかと思料するところである.
した.
第四版」を参照
<参考文献>
エドワード・クック著,中村妙子訳,ナイ
おわりに
ティンゲール
東日本大震災は筆者にとってさまざま
そ の 生 涯 と 思 想 Ⅰ,
時空出版,1993 年.
なことを深く考える契機となった.大災
日野秀逸,フロレンス・ナイチンゲール上
害における看護には何が求められるのだ
巻,労働旬報社,1990 年.
ろうか,可能性は何かを今回考察した.
飯田下伊那に於ける看護教育の歴史
その中で,時代を経ても普遍的な生活者
准看護学院改築記念
としての視点,またコーディネーターと
院
飯田准看護学
1980 年.
亀山美知子,近代日本看護史Ⅰ
しての役割の可能性を導き出した.この
飯田
日本赤十
字社と看護婦,ドメス出版,1983 年.
ように看護の可能性を模索しながらも,
亀山美知子,近代日本看護史Ⅱ
筆者は被爆者 2 世として福島第一原発の
戦争と看
護,ドメス出版,1984 年.
ことはずっと懸念し続けるだろうし,日
川島慶子.マリー・キュリーの挑戦
本国民として今後の復興がどうなってい
科
学・ジェンダー・戦争,トランスビ
くのか行方を気にし続けるだろう.しか
ュー,2010 年.
しながら,自分自身でできることを見極
日本看護協会編集部編,ルポ・そのとき看
め,身近なところから実行すべきだろう.
護は
まずは看護師を目指す学生たちとともに,
ート,2011 年.
ナース発
東日本大震災レポ
下 伊 那 医 業 史 , 小 林 郊 人 編 , 甲 陽 書 房,
看護の可能性を熟考していくことがその
1953 年.
第一歩ではないだろうか.今後意識して
(たけぶ
取り組んでいく.
さちこ)
<注>
1.「ルポ・そのとき看護は
ナース発
東
日本大震災レポート」197 頁.
2.同上 168 頁.
ず参加させていただいています.これま
で読んできたテキスト順に若干の感想を
田中テキスト勉強会に参加して(上)
述べながら,それらを貫くものを私なり
成瀬
和之(京都)
に探ってみたいと思います.
最初に読んだのが『障害のある人々と
田中テキスト勉強会に初回から欠かさ
創る人間教育』です.
(11)
2012 年 12 月
人 間 発 達 研 究 所 通 信
No.131
序「歴史的課題を前に」は「二一世紀
な財政負担を将来の電気料金に加算しつ
を迎えた日本の教育の個々の営みは,各
つ,それだけにとどまらない心理的負担
方面で教職員,保護者,ボランティア,
をふくめて覚悟し,目的に応じた各種の
乳幼児,児童・生徒・学生,青年期以後
クリーンなエネルギーシステムを開発,
や高齢の人たちの多彩な努力によって,
建設しながら,それを実行することが求
時代的な制約のもとにありながらも貴重
められいるという事態になっているので
な成果をあげることができています」と
す」
始まります.教育の主体というと,とも
この本は 2003 年に発行されているの
すると教職員あるいは保護者に限定して
ですが,田中先生の洞察力には唸らされ
考えがちですが,田中先生のとらえ方の
ます.
幅の広さに冒頭から驚かされました.
ではどうすればいいのでしょう.少し
さらに,第二部第二章第二節「国際連
後の 312 ページで田中先生は読者にこう
合社会権委員会からの提案と勧告」など,
呼びかけています.
国際法とそれに基づく国連の諸機関の勧
「これまでどおりの生き方では事態は
告が数多く引用されていて,文字通りグ
悪くなります.先送りはできません.こ
ローバルな考察に,また驚きました.
れからの 50 年間で必ずその基礎を達成
極めつけは,第二部第四章第二節
して,新しい時代の人類としての生き方
「2050 年までに避けて通れない問題の
によって解決していかなければならない
解決と障害防止の闘いの前進を」のとこ
課題があることをまず自覚したいと思い
ろです.平和や民主主義,地球環境問題
ます.それを新しい時代の人類の発達保
な ど に つ い て 書 か れ て い る の で す が,
障の課題として取り組み,それを達成し
308 ページ~ 309 ページに原子力発電所
ていくことが,これからのかけがえのな
の問題についてこう書かれています.
い人生の課題としてあることに共同して
「しかし,利潤のための使用計画だけ
いく時代を迎えていると考えます.それ
で,後始末がなにも考えられていなかっ
を嫌だからと知らないで過ごすのでなく,
たのです.……(中略)……財界の大御
さらに深く知りつつ連帯した力でこれま
所である東京電力では,会社ぐるみの改
での人類の発達障害を改め,人類史の発
ざんが長年行われていたことが明るみに
達を保障していく人として自らを発達さ
出て,2003 年 には原子力事業自体に停
せる新しい生き方をしていくことが 21
止措置がとられなければならない事態と
世紀前半の課題になると思いますが,ど
なっています.……(中略)…… 21 世
うでしょうか」
紀前半には日本列島は大地震活動期に入
冒頭の「教育の主体」となるべき私た
り,とくに中部電力の浜岡原子力発電所
ちこそが発達の主体ともなるべきことを
は世界で最も危険な場所にあることが指
田中先生は期待されているのですね.
摘されています.……(中略)……莫大
(なるせ
(12)
かずゆき)
2012 年 12 月
人 間 発 達 研 究 所 通 信
スをしてくださいました.
連載
調理実習終了後,保護者からは「家で
「共そだち」 第3回
社会福祉法人
No.131
は子どもが嫌がる食材を園ではどのよう
に工夫 し てい る のか がわ かっ た」,「食
桃郷
児童発達支援事業つくしんぼ園
は毎日のことで悩むことが多いが,他の
発達相談員 山本翔太
お家でもみんな食のことには苦労してい
るんだ」といった感想が出てきました.
多くの療育施設で,子どもへの支援だ
その他にも,「他のお母さんといろんな
けではなく,保護者に対する支援にも力
話がで き た」,「お母 さん同 士 の交流 関
を入れて取り組まれているのではないか
係をよりよくするために良い機会だっ
と思います.つくしんぼ園でも保護者へ
た」という感想も挙げられました.
の支援の一つとして「保護者教室」を実
近年,子育てに不安を抱えたお母さん
施しており,発達相談員や保育士による
が増えてきていると言われています.ま
学習会,先輩保護者の話を聞く機会など
た,両親が共働きのため保育所へ通う子
毎月様々なテーマを設定して取り組んで
どもたちも増えてきています.以前,保
います.
育所に子どもを預けている一人のお母さ
先日つくしんぼ園の保護者教室では初
んから「子育てに不安があっても,なか
の試みとして,園の調理の先生に担当し
なかその不安や悩みを他のお母さんたち
ていただいて調理実習をしました.以前
と話し合う機会が少ない」ということを
から,連絡帳や懇談などで食事に関する
お聞きしました.各地で子育て支援セン
家庭での様々な悩みが保護者から挙げら
ターの整備などはすすんでいるものの,
れていたことや,最近給食の献立に関す
働くお母さんたちはなかなかつながり合
るお母さん方からの質問が増えてきたこ
う機会が無いという現状があることを感
とが背景としてあります.
じました.
当日は,5 ~ 6 人ほどのグループに分
つくしんぼ園でも就労されているお母
かれ,調理の先生の指導のもと 4 品のメ
さん方は多くいらっしゃいます.だから
ニューをつくりました.完成後は自分た
こそ,今回の調理実習のように,日々悩
ちでつくったものを試食しながら,お母
んでいることをみんなで共有し,食のプ
さん一人ひとりに普段のお家での食生活
ロである調理の先生がお母さん方に様々
のこと,食事の際に工夫をしていること,
なアドバイスをしてくださったことは子
好き嫌いのことなど困っていることをお
育ての中でとても役に立つ機会だったの
話ししていただきました.その上で,保
ではないかと思います.また,感想の中
護者の悩みや苦労していることに対して,
から,楽しい体験ができたからこそ保護
調理の先生が「ピーマンは湯通しをする
者同士の関係がより深まったというお話
と苦味が消えるよ」など様々なアドバイ
が出てきました.そのようなお母さん方
(13)
2012 年 12 月
人 間 発 達 研 究 所 通 信
No.131
の思いを通して,保護者支援の中でわが
を共有し合うことや,お母さんと調理の
子の理解を深めるために発達の学習をす
先生など普段はなかなか接点を持ちにく
る,先輩保護者の悩んできたことなどを
い人同士が交流する機会も大切なことだ
聞く機会はとても大切なことです.しか
と実感しています.
し,時には今回のような“楽しい”時間
(やまもと
の子ども第 29 号,鹿児島子ども研究センタ
人間発達研究所通信への投稿募集!
ー
字数:1200 字~ 7500 字まで
鹿児島子ども研究センターブックレット編集
期日:5 月 20 日(2013 年 6 月発行)
委員会,2012,子どもの願いを真ん中に―
投稿ご希望の場合は 2 月末までにお知
―鹿児島からの発信――,南方新社
らせ下さい.
末永恵子,2012,死体は見世物か,「人体の不
思議展」をめぐって,大月書店
寄贈本
立命館大学産業社会学会,2012,立命館産業
(記入例)著者名
所
発行年
表題・書名
社会論集 第 48 巻,第 1 号,立命館大学産
発行
業社会学会
寄贈者(著者と発行所が同じ場合は省
保育研究所,2012,保育の研究
略)敬称略
松 本 博 雄 ・ 常 田 美 穂 ・ 川 田 学 ・ 赤 木 和 重,
国大会報告集 in しが,きょうされん
2012,0 1 2 3 発達と保育――年齢から読み
茂木俊彦,2012,子どもに学んで語りあう,
解く読み解く子どもの世界――,ミネルヴ
全国障害者問題研究会出版部
ァ書房
全国障害者問題研究会,2012,障害者問題研
奥住秀之・白石正久
No.2,全国障害者問題研究会
版部
保育問題研究 No.255,新読書社
保育研究所,2012,保育白書 2012 年版,全国
2012 年 7
保育団体連絡会,ちいさいなかま社
月 No.83,ひとなる書房
丸山啓史・河合隆平・品川文雄,2012,発達
西原由美(文)・豆塚猛(写真),2012,西原
海
編著,2012,自閉症の
理解と発達保障,全国障害者問題研究会出
全国保育問題研究協議会編集委員会,2012,
ひとなる書房,2012,現代と保育
第 24 号,保
育研究所
きょうされん,2012,きょうされん第 34 回全
究 Vol.40
しょうた)
保障ってなに?,全国障害者問題研究会出
いのちのメッセージ,全国障害者問題
版部
研究会出版部
北九州市立総合療育センター,2012,北九州
日本セガン研究会,2012,セガン研究報,第
市立総合療育センター年報
Ⅲ期第 1 号,日本セガン研究会,清水寛
平成 23 年度版,
北九州市立総合療育センター
黒田学・よさのうみ福祉会,2012,福祉がつ
なぐ地域再生の挑戦,クリエイツかもがわ
全国保育問題研究協議会編,2012,困難をか
鹿児島子ども研究センター,2012,かごしま
かえる子どもに寄り添い共に育ち合う保育,
(14)
2012 年 12 月
人 間 発 達 研 究 所 通 信
全国保育問題研究協議会,新読書社,滋賀
No.131
16 日 人間発達と集団コース
保育問題研究会
発達保障実践論コース
高瀬慶子・東内瑠璃子,2012,新版
保育の
24 日 紀要合評会
探求――子どもの要求を土台にして――,
7 月 1 日,29 日 発達診断セミナー事
新読書社,滋賀保育問題研究会
務局
宍戸健夫,2012,保育の散歩道,新読書社,
6 日,20 日 発達基礎理論研究コー
滋賀保育問題研究会
ス
平野喜三,2008,なんで?どうして?誰がこ
7 日,28 日 運営委員会
んなことを!,滋賀保育問題研究会
8 日 個人の発達の系概論コース
岐阜大学地域科学部図書紀要委員会,2012,
岐阜大学地域科学部研究報告
12 日 田中テクスト勉強会
第 31 号,岐
14 日 実践記録の書き方コース
阜大学地域科学部
発達診断各論コース
東北福祉大学,2012,東北福祉大学研究紀要
紀要合評会(神戸)
第 36 巻,東北福祉大学
20 日 発達相談研究会
(2012 年 9 月末まで)
21 日 発達保障実践論コース
発達診断法開発プロジェクト
活動報告
5 月 11 日,18 日,25 日
紀要合評会
運営委員会
8 月 1 日 紀要編集委員会
9 日 紀要編集委員会
3 日,24 日 運営委員会
発達障害研究会
9 日,10 日 人間発達と集団コース
10 日 田中テクスト勉強会
10 日 田中テクスト勉強会
20 日 個人の発達の系概論コース
18 日 発達保障実践論コース
26 日 発達診断各論コース
発達診断セミナー事務局
6 月 1 日 2011 年度下半期会計監査
22 日 発達障害研究会
発達相談研究会
23 日 発達診断法開発プロジェクト
2 日 発達診断各論コース
25 日 公開事例検討会
3 日 発達診断セミナー事務局
発達診断各論コース
実践記録の書き方コース
26 日 個人の発達の系概論コース
7 日 田中テクスト勉強会
9 月 1 日 学齢期の学力と発達を考える
8 日,15 日 運営委員会
研究会
9 日,23 日 発達診断法開発プロジ
個人の発達の系概論コース
ェクト
6 日 田中テクスト勉強会
9 日,23 日 発達基礎理論研究コー
8 日 発達基礎理論研究コース
ス
9 日 個人の発達の系概論コース
10 日 個人の発達の系概論コース
15 日 人間発達と集団コース
(15)
2012 年 12 月
人 間 発 達 研 究 所 通 信
15 日,16 日
発達保障実践論コー
発達基礎理論研究コース公開集中講義
ス
日時 2013 年 1 月 26 日(土)
22 日 発達診断セミナー事務局
会場
23 日 発達診断法開発プロジェクト
大津市ふれあいプラザ大会議室
(大津市・明日都浜大津 5 階)
28 日 発達相談研究会
内容 田中昌人氏の映画と解説
29 日 発達診断各論コース
新規会員の方
No.131
『ゆきちゃん,ひろちゃん,が
んばれ,がんばれ』(1980)
到着順
『一次元の子どもたち』(1968)
井上
悦子さん
谷口
幸子さん
真殿
仁美さん
稲田さやかさん
『夜明け前の子どもたち』(1968)
講師 荒木穂積氏(立命館大学)
(10 月末日まで)
連続講座「発達障害の子どもへの発達
寄付を頂きました
支援と集団づくり」(仮)
悟司さん
中村
隆一さん
講師 楠凡之氏(北九州市立大学)
田中きよむさん
松原
巨子さん
日時 第 1 回 2013 年 3 月 17 日(日)
白石恵理子さん
松谷
文子さん
西島
5,6 歳を中心に
第 2 回 2013 年 5 月 19 日(日)
9,10 歳を中心に
お詫びと訂正
第 3 回 2013 年 7 月 21 日(日)
通信 No.130(2012.9)に下記の誤り
思春期を中心に
がありました.訂正してお詫びいたし
会場 滋賀県大津市内
ます.
p2
誤「発達の高次化における階層-
段階理論」
→
参加希望の方は詳細を人間発達研究所
正「可逆操作の高次
までお問い合わせ下さい.
化における階層-段階理論」
p4 紀要編集委員
欠落・追加
人間発達研究所
渡部昭男(神戸大学)
〒 520-0052 滋賀県大津市朝日が丘
編集後記
1-4-39 梅田ビル 3 階
土偶を見に行きまし
TEL/FAX
077-524-9387
た.未解明の縄文時代,エネルギー
E-mail
[email protected]
あふれる作品を前に,当時の精神世界,
URL
http://www.j-ihd.com/
発達の世界はどんなだったか,人類はこ
年会費
5,000 円
れからどんな発達・進化を遂げるのか,
振込口座 (郵便)01010-7-32709
思いを馳せました.今号はいかがでした
加入者名
か?
※学生の会費割戻しはお問い合わせ下さい.
講座お待ちしています.(N.S)
(16)
人間発達研究所