白瀬中尉と新砕氷船「しらせ」

白瀬中尉と新砕氷船「しらせ」
人物紹介と関連図書展示
平成 21 年 8 月 29 日土曜日
情報・システム研究機構
国立極地研究所
情報図書室
ごかじょう
きっかけと五カ条
しらせ のぶ
ゆりぐん このうらむら
白瀬矗は、文久元(1861)年 6 月 13 日、
秋田県由利郡金浦村(現にかほ市)、
じょうれんじ
じゅうしょく
浄土真宗浄蓮寺13 世 住職 白瀬知道・
マキヱの長男として生まれた。
ちきょう
(幼名一千代のちに知教)
7 歳、8 歳と育つに従い、冒険を好む
生来の気性が進み、少年時代の白瀬は近
わんぱく
きつねが
所でも評判の腕白少年であった。狐狩り、
おおかみたいじ
せんごくせん
にかほ市
そこもぐ
狼退治 、千石船の底潜り等々エピソー
ドが幾つも残されている。
白瀬は 8 歳の時、浄蓮寺を教室としていた近所の寺子屋に入った。
明治 5(1872)年、11 歳の時、白瀬はそこで節斎先生から北極の話を聞き、
探検家を志すようになった
こころがま
五つの戒め
節斎先生は探検家の 心構 えとし
いまし
て「五つの 戒 め」を教え、これを守
しょし
つらぬ
り、初志を 貫 けと教えた。そして白
しょうがい
瀬は 生涯 この五つの戒めを実行し
た。
一、 酒を飲まない
一、 たばこを吸わない
一、 茶を飲まない
一、 湯を飲まない
一、 寒中でも火にあたらない
[参考文献]
『白瀬中尉の南極探検 : 豊田市郷土資料館特別展 / 豊田市郷土資料館編, 2003』
『北洋南極の開拓者 白瀬中尉 / [木村義昌, 谷口善也著], 日本極地研究会』
ちしまたんけん
千島探検
ほんがんじ けいだい
そうりょ
18 歳で上京した白瀬は、浅草本願寺境内にあった小教校(浄土真宗の僧侶
そうしょく
になるための学校)に入学する。しかし『 僧職 になっては探検ができない』
りくぐんきょうどうだん きへいか
のぶ
と軍人をめざし、日比谷の陸軍 教導団 騎兵科に入り、矗と改名。
ごちょう
ちんだい
ふにん
明治 14(1881)年、陸軍教導団を卒業、伍長として仙台鎮台に赴任。
げんたろう
明治 23(1889)年、北極探検の希望を述べる白瀬に対し、児玉源太郎将軍
からふと
きた
は『北極へ行きたいなら、先ず千島なり、樺太なりに行って、体を鍛える
のだな』とすすめた。
ぐんじ なりただ
たいい
こうだ ろはん
ほうこうぎかい
明治 26(1893)年、白瀬は、郡司成忠海軍大尉(幸田露伴の兄)の『報效義会』
どくりょく
による千島探検計画を新聞で知り、 独力 での千島探検を断念し、一隊員と
してこれに加わった。
しゅむしゅ
同年夏、探検隊一行は、千島の島々に分散上陸。白瀬は最北端 占守 島に
えっとう
上陸し、越冬生活の準備に入った。
ぱらむしゅる
しゃすこたん
翌明治 27(1894)年、 幌莚 島、捨子古丹島
の 10 人が死亡・行方不明。同年7月、郡司ら
ざんりゅう
一行は内地に引き揚げるも、白瀬だけは 残留
を依頼され、新しくやってきた 5 人と共に、
しゅむしゅ
占守 島での 2 度目の越冬生活を送るが、内 3
人も病死。明治 28(1895)年 8 月、北海道庁長
官の命で派遣されてきた八雲丸に救出される
せいさん
まで、凄惨な越冬生活を送った。
こっかん
後年、白瀬は自著『私の南極探検記』で『この酷寒の島で送った 3 年間
の生活で・・・もう北極を探検しても大丈夫だという自信を持つことが出
来たのであった』と述べている。
[参考文献]
『極 : 白瀬中尉南極探検記 / 綱淵謙錠著, 新潮社, 1983』
『白瀬中尉の南極探検 : 豊田市郷土資料館特別展 / 豊田市郷土資料館編, 2003』
『私の南極探検記 / 白瀬矗著, 皇国青年教育協会, 1942』
国内での資金集め~南極上陸まで
ていこく
明治 43(1910)年 1 月、白瀬中尉は南極探検の費用 10 万円の補助を帝国
ぎかい
議会に要請したが、3 万円に減額された上、結果的に補助金を支出されなか
った。当初の計画は大幅な変更を強いられたが、新聞社の報道や、国民の
熱狂的な応援による募金活動により、渡航費用 14 万円のほぼ全額が集まっ
なんこう
せきさいりょう
た。船の調達も難航した。最終的には千島遠征に使用された 積載量 200t の
木造帆船を買い取り、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施して、
かいなんまる
東郷平八郎により「開南丸」と命名された。
同年 11 月 29 日、
白瀬中尉一行 27 名を乗せた開南丸は東京を出港したが、
きせい ちゅうしょう
航海中に 29 頭のうち 17 頭の犬が寄生 虫症 のため死んだ。さらに、船内
での隊員間の不和が起こる。明治 44(1911)年 2 月 8 日ニュージーランドの
ウェリントン港に入港、2 月 11 日に南極に向け出港したが、氷に阻まれ
たちおうじょう
立往生 の危険が増した為、オーストラリアのシドニーに引き返し 5 月 1 日
に入港した。
からふとけん
その後、探検用の樺太犬を国内から連れてきた隊員を加えた隊は、再び
南極を目指しシドニーを 11 月 19 日に出港。翌年 1 月 16 日に南極大陸に上
かいなんわん
陸し、その地点を「開南湾」と命名した。開南湾は上陸、探検に不向きで
たなごおり
あったためロス棚 氷 ・クジラ湾より再上陸し、1 月 20 日に極点に向け出発
した。探検隊の前進は度々のブリザードもあり困難を極め、28 日に極点到
達を断念。南緯 80 度 5 分、西経 165 度 37 分地点そばに探検隊名簿及び協
ほうめいぼ
やまと ゆきはら
力者の芳名簿を入れた銅製の箱を埋め、日章旗を掲げ、同地を「大和雪原」
と命名して、隊員一同「万歳万歳万々歳」と唱和した。この地は氷上であ
り大陸ではないが、白瀬中尉はこれを知らずに死んだと言われている。
[参考文献] 『南極観測船ものがたり : 白瀬探検隊から現在まで
/ 小島敏男著, 成山堂書店, 2005』
なんきょく
たんけん
南極探検から帰国後の活動
ちょうじり
大正元(1912)年帰国した白瀬が確認すると、寄付金の 帳 尻 が合わず、数
し と ふ め い き ん
万円の使途不明金があった。そのため、隊員の給金を、白瀬が自分で借金
こうえんあんぎゃ
し、渋谷の自宅から軍服、軍刀まで売り払い、全国各地へ映画と講演行脚に
と
出かけるという生活が 20 数年続いた。南極で撮ったフィルムを持ち、
満州、
朝鮮、台湾にまで出かけた。借金は約 4 万円、現在の金額でおおよそ 1 億 4
千万円から 2 億円近かったといわれている。
その後大正 10(1921)年に千島の養狐場で仕事をすることになり、20 数年
しんちる
うるっぷ
ぶりに千島、新知島、よく 11(1922)年には得撫島に移り、大正 13(1924)年
6 月まで赴任していた。
しっぴつかつどう
執筆活動
あんぎゃ
行脚で忙しい一方で、帰国後翌(1913)年 1
なんきょくたんけん
月に博文館から「南 極 探検」を出版する。そ
の 12 月には、白瀬隊の公式記録とも言える
なんきょくき
「南極記」が成功雑誌社から出版された。そ
わたし
なんきょく た ん け ん き
して、最後の著述になる「 私 の 南 極 探検記」
が昭和 17(1942)年皇国青年教育協会より出版
された。
[参考文献] 『雪原へゆく:わたしの白瀬矗/白瀬京子,秋
田書房, 1986』
『白瀬中尉の南極探検,豊田市教育委員会,
2003』
南極探検後援會編
東京 : 南極探検後援會
東京 : 成功雑誌社 (発売),
1913.12
しらせ
ちゅうい
ば ん ね ん
白瀬中尉の晩年
おも
探検を想い出す白瀬は、昭和 2(1927)年 6 月、アムンゼン(ノルウェー)
ほうち
の来日時に報知新聞社を訪れ、会見を求めている。ノルウェー代理公使邸
の一室で行われたその対面では、「オウ、開南丸、開南丸」とアムンゼン
あくしゅ
ゆかた
なつ ばおり
が手を差し伸べ、白瀬は握手を交わしつつ、洗いざらしの浴衣に夏羽織と
きょうぐう
いう出で立ちで、両者の 境遇 の違いをまざまざと見せつけた。
とうじ たくしょく
また、当時 拓殖 大学生であった木村氏が語るには、昭和 10(1935)年頃
かまた
蒲田に住む白瀬を、友人谷口氏と探し当て、初めて訪ねていった。「学生
うそ
は嘘を言わないから好きだ」(谷口氏談)と言って、ご夫妻で大歓迎された
おおくまこうしゃく
こうえんしゃ
とのことである。また、「南極探検は、大隈 侯 爵 を始め全国の後援者のお
けんそん
かげであった」と謙遜した話し振りでしたとのことで、それから白瀬を会
長とする「日本極地研究会」が発足するのである。
親交を深めた木村義昌氏、谷口善也氏は共著で、「白瀬中尉探検記を刊
行する。
その後白瀬一家は、知人を頼り、転居を重ね
せんぎょ
ていたが、昭和 21(1946)年豊田市の鮮魚店「魚
十」分店に間借り先を見つけた。しかしわずか
ちょう
17 日目の昭和 21(1946)年 9 月 4 日、白瀬は 腸
へいそく
閉塞のために急死する。85 歳であった。
東京 : 大地社, 1942 発行
[参考文献] 『雪原へゆく:わたしの白瀬矗/白瀬京子, 秋田県:秋田書房, 1986, p.309-』
『白瀬中尉の南極探検,豊田市教育委員会,2003 年.p.78』
しらせ
ひょうが
ゆらい
白瀬氷河の由来
しらせ ひょうが
白瀬氷河は、昭和基地の南約 80km に位置し、ドームふじを頂点として、
リュツォホルム湾に流出する氷河流である。
1936-37 年の Lars Christensen(ラルス・クリステンセン)探検隊により
初めて確認され、Instefjorden(インステフジョルデン)と命名された。そ
の後、日本南極地域観測隊により 1957-62 年調査され、改めて大きい氷河
しらせ
であることが確認された。白瀬
のぶ
矗中尉にちなんで、白瀬氷河と命名され、
現在公式名とされている。
その全体の規模は、長さ 700km・最大幅 500km・流域面積 20 万 k ㎡と広
大ながら、河口部では幅が 10~20 km と狭い。そのため河口部では流速が
年間 2.7~3.0km と南極大陸でもっとも流れが速いのが特徴である。
[参考文献]『南極・北極の百科事典/国立極地研究所編,丸善, 2004, p.230.』
『Geographic names of the Antarctic / compiled and edited by Fred G. Alberts
2nd ed. Arlington, National Science Foundation , 1995, P.671』
『南極大図鑑 / 国立極地研究所ほか監修. 小学館 , 2006, p.85』
砕氷艦しらせ(初代)について
さいひょうかん
砕氷 艦「しらせ」(艦番号:AGB-5002)は昭和 57(1982)年 11 月 12 日
しゅうこう
に 就航 した、海上自衛隊に所属する砕氷艦である。先代の砕氷艦「ふじ」
なんきょく ちいき かんそくきょうりょくこうどう
の後を引き継ぎ、 南極 地域観測 協力 行動として第25次より毎年南極圏
に南極地域観測隊を運び、砕氷・輸送・ヘリコプター輸送などを行ってき
た。なお、「しらせ」という艦名は一般公募されたもので、海上自衛隊に
しらせ ひょうが
よる説明では「白瀬氷河」にちなむものとされている。海上自衛隊の慣習
上、自衛艦の名称には名所旧跡の名を使用し、人名は使用しないことから
の説明だが、「白瀬氷河」は白瀬中尉にちなんでつけられた名称であるこ
とから、「しらせ」という艦名が間接的にせよ白瀬中尉に由来する、と言
えるだろう。第 49 次南極地域観測協力行動を南極への最終航海として平成
20(2008)年 7 月 30 日に除籍となり、自衛艦旗返納行事が行われた。
「しらせ」に関するエピソードとして、昭和 60(1985)年 12 月(第 27 次)
にアムンゼン湾でビセット(砕氷できず、氷海に閉じ込められること)され
たオーストラリア観測船「ネラ・ダン」号を救出している。また平成 10(1998)
年 12 月(第 40 次)には、同オーストラリア観測船「オーロラ・オーストラ
リス」号をプリッツ湾でビセット状態から救出している。「オーロラ・オ
ーストラリス」号については、「しら
せ」退役及び後継艦の建造の遅れによ
り、文部科学省がオーストラリアから
チャーターし、第 50 次日本南極地域
観測隊を南極に送り込むのに利用さ
れた。
南極昭和基地付近へ
接岸した砕氷艦しらせ(初代)
[参考文献]
『南極大図鑑 / 国立極地研所ほか監修, 小学館, 2006』
『南極観測船ものがたり : 白瀬探検隊から現在まで / 小島敏男著, 成山堂書店,
2005』
砕氷艦しらせ(2 代目)について
砕氷艦しらせの 2 代目(艦番号:AGB-5003)は、平成 21(2009)年 5 月 20 日
こうけいかん
に就航した。先代しらせ(艦番号:AGB-5002)の老朽化に伴い、後継艦とし
ぞうせんまいづるじぎょうしょ
て平成 19(2007)年にユニバーサル造船舞鶴事業所で起工、平成 20(2008)年
4 月 16 日に進水式が挙行された。
新船は基準排水量 1 万 2700t、全長 138m と先代より一回り大きいサイズと
かもつ せきさいりょう
なり、貨物 積載量 が先代よりも約 100t 増加(約 1100t)し、ヘリコプターも
先代より大型のものが 2 基搭載されている。乗艦できる観測隊員の数も 60
たいき おせん ぼうし そうち
人から 80 人に増え、大気汚染防止装置を持つディーゼル機関や、万が一船
体に大きなダメージがあっても重油漏れを起こさないよう、船体を二重構
造にするなど、環境に最大限配慮したエコシップとなっているのが特徴で
ある。
既に決定している本吉洋
一隊長、工藤栄副隊長兼越冬
隊長を含め 62 人で構成され
なんきょく ちいき かんそく
る第 51 次の 南極 地域 観測
きょうりょくこうどう
協力 行動は、平成 21(2009)
年 11 月 10 日出港から開始予
定となっている。
舞鶴にて砕氷艦しらせ(2 代目)出港の様子
[参考文献] 『月刊ポプラディア, ポプラ社, 2008 年 6 月号』
『南極大図鑑 / 国立極地研究所ほか監修, 小学館, 2006』