100 80 60 50 30 20 10 5 K 日 本 弘 道 会 本誌の購読料は会費︵三、〇〇〇円︶に含まれています。 7∼8 月号 日 本 弘 道 会 発 行 平成26年 金五〇〇円 ︵税込み︶公益社団法人日本弘道会 まずは老醜をつつしむことから ……………………………………………………多田 建次 ─歌子さんのひそみにならいたい─ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 【講話会記録】 ネルソン・マンデラに想う ………………………………………中條 高德 【連載エッセイ】 「日本道徳」再考(四) …………………………………………田中 英道 ─ 教育者の道徳の欠落 ─ 平成二十六年八月三十一日発行 【巻頭の言葉】徳育に見る地方の教育力 …………………………………………土田健次郎 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 美しく老いるということ ……………………………………………………………渡部 昇一 余白の美 ………………………………………………………………………………玄侑 宗久 美しく老いる …………………………………………………………………………山折 哲雄 美しく老いるために …………………………………………………………………小川 義男 ふしくれたる深山木の、見るからに疎ましく凄まじき様なるべからず ………宮崎 哲夫 恒産なければ ・・・・ ……………………………………………………………………木村 治美 会で交わる ……………………………………………………………………………伊藤 克巳 ─美しく老いるために─ 弘 道 特集 緑陰随想─美しく老いるために 弘 道 第百二十二巻第一〇九一号 平成二十六年七 ∼ 八月号 第百二十二巻第一〇九一号 平成二十六年八月三十一日発行 第 1091 号 著作家泊翁の出発 全 12 巻 内 ㈱思文閣出版 定価17,000円 (税別) 第2巻:平成16年12月 既刊 定価17,000円 (税別) 第3巻:平成17年 8月 既刊 定価18,500円 (税別) 第4巻:平成18年 8月 既刊 定価17,000円 (税別) 第5巻:平成19年11月 既刊 定価18,000円 (税別) 第6巻:平成20年11月 既刊 定価18,000円 (税別) 第7巻:平成21年3月 既刊 定価19,000円 (税別) 第8巻:平成24年3月 既刊 定価18,000円 (税別) 第9巻:平成22年10月 既刊 定価18,000円 (税別) 第10巻:平成22年3月 既刊 定価16,500円 (税別) 第11巻:平成23年3月 既刊 定価18,000円 (税別) 第12巻:平成25年3月 既刊 定価17,000円 (税別) 日本弘道会編・発行 第1巻:平成16年5月 既刊 集 西村茂樹全 増補・改訂 西村茂樹の学問的な業績を中 心に、その思想と活動の全貌 を示す画期的全集の刊行完結。 ( 修 静 居 跡 千 葉 県 佐 倉 市 所 在 ) 容 第1巻 著作 第2巻 著作 第3巻 著作 第4巻 著作 第5巻 著・訳 第6巻 訳述書 第7巻 訳述書 第8巻 訳述書 第9巻 訳述書 日 記 第10巻 第11巻 第12巻 西村泊翁先生傳、日本弘道會創立紀事、日本弘道會大意、日本弘道會婦人部設立の大意、日本 弘道會要領(甲號・乙號) 、弘むべき道、日本道徳論、國民訓、國民訓對外篇、儒門精言、國家 道徳論、續國家道徳論、道徳教育講話、道徳問答、修身講話、泊翁修養訓 徳學講義、西國道徳學講義、社會學講義、小學脩身訓、日本教育論、或問十五條 心學略傳、心學講義、初學寳訓、女子寳訓、婦女鑑、泊翁巵言 自識録、續自識録、記憶録、建言稿、往事録、偶筆 讀書次第、東奥紀行、随見随筆、校正萬國史略、萬國通史 萬國史略、防海要論、海防新編、農工卅種家中経済、経済要旨、輿地誌略、数限通論 泰西史鑑 格勒革力道徳學、哈芬氏道徳學、 寧氏道徳學、殷斯婁氏道徳學、求諸己齋講義 理學問答、休物爾氏徳學、査爾斯蒲勒氏要須理學、人學譯稿(査爾斯蒲勒氏) 、希穀氏人心學、 可吉士氏心象學摘譯、泊翁日記 論説1 明治7年から明治27年までの間に、明六雑誌、脩身学社叢説、東京学士会院雑誌など に掲載された西村茂樹の論説を収録 論説2、明治28年以降の論説、教育史、求諸己齋蔵書目録、皇太子御教育建言書 泊翁存稿、樸堂小稿、漢詩・詩文補遺、泊翁書簡、雑文集、年譜、西村茂樹稿本目録、語彙索引 申込先 〒101-0065 東京都千代田区西神田3-1-6 日本弘道会ビル8F 公益社団法人 日 本 弘 道 会 ☎03 (3261) 0009 FAX 03(3288)0956 振替0140-1-4317 明治4年7月、泊翁(44歳)は印旛県権参事に任ぜられたが、しばらくして辞職、 県庁所在地の流山より佐倉に帰った。佐倉に住んで著述を生涯の業としようとし、 住居を修静居と名づけた。この前後における泊翁の主な仕事は『泰西史鑑』の翻訳 と『万国史略』の編さんである。 報 道 言 論 の 公 正 を 求 め る こ と、 社会悪に対し世論を高めること 教育の適正を期すること、道義 の一般的関心を促すこと 自然の美と恩沢を尊重すること、 資源の保存と開発を図ること 政 治 の 道 義 性 を 高 揚 す る こ と、 経済の倫理性を強調すること 世界の形勢を察すること、国家 人類の将来をおもんぱかること 乙 号 ︵社会道徳︶ 日本弘道会綱領 ︵昭五一・一〇・三〇︶ 甲 号 ︵個人道徳︶ 皇室を敬愛すること、国法を守 ること 信教は自由なること、迷信は排 除すること 思考を合理的にすること、情操 を美しくすること 学問を勉めること、職務を励む こと 教養を豊かにすること、見識を 養うこと 財物を貪らないこと、金銭に清 廉なること 家庭の訓育を重んずること、近 親相親しむこと 一善一徳を積むこと、非理非行 に屈しないこと 健康に留意すること、天寿を期 すること 信義を以て交わること、誠を以 て身を貫くこと 会祖西村茂樹先生小伝 礼・福沢諭吉・西周・加藤 日本弘道会の会祖・西村 茂樹先生は、明治六年森有 弘之・中村正直らと相図り ﹁明六社﹂を設立。﹃明六雑 誌﹄を発行して、開化思想、自由思想の啓蒙運 動を精力的に展開いたしました。 身学社﹂を その後明治九年三月には、国民の道義向上を 目指し、さらに国家社会の基礎を強固にするた めの道義教化団体として、﹁東京 創設しました。これが現在の﹁日本弘道会﹂の 前 身 で あ り ま す。 明 治 十 九 年 に は ﹃ 日 本 道 徳 論﹄を公にして、当時、西欧の模倣と追随に終 始していた社会の風潮と政治の在り方を厳しく 批判し、日本道徳の確立を訴えました。 西村茂樹先生は、明治時代における卓越した 道徳学者であり、同時に偉大な国民道徳の実践 家でもあります。明治二十六年、宮中顧問官を 脚して社会道徳の高揚に一身を捧げ、今日の生 除くすべての官職を辞して野に下り、全国を行 涯教育の先駆的役割を果たされました。 ( 1 ) 目 次 ︵第百二十二巻第一〇九一号 平成二十六年七・八月号︶ 日本弘道会綱領・会祖西村茂樹先生小伝⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⑴ �表紙裏�著作家泊翁の出発 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮土 田 健次郎⋮⑷ ― 特集 緑陰随想 │ 美しく老いるために * ― * * �巻頭の言葉�徳育に見る地方の教育力 │ │ 建 次⋮ 美しく老いるということ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮渡 部 昇 一⋮⑹ 余白の美⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮玄 侑 宗 久⋮⑻ 美しく老いる⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮山 折 哲 雄⋮⑾ 美しく老いるために⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮小 川 義 男⋮⒁ ふしくれたる深山木の、見るからに疎ましく凄まじき様なるべからず⋮⋮⋮宮 崎 哲 夫⋮⒄ 治 美⋮⒇ 克 巳⋮ │ │ 村 恒産なければ・・・・ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮木 会で交わる⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮伊 藤 美しく老いるために まずは老醜をつつしむことから⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮多 田 歌子さんのひそみにならいたい ( 2 ) * ― * * ― �講話会記録�ネルソン・マンデラに想う ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮中 條 高 德⋮ ﹁日本道徳﹂再考㈣⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮田 �連載エ�セイ� 中 英 道⋮ 教 ―育者の道徳の欠落 ― �連載�出陣学徒の自省㈠ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮安 嶋 彌⋮ 昭 ―和史回顧 ― �弘道余話�⑹ ﹃新しい礼法﹄について ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮鈴 木 勲⋮ �北 斗 星�台湾のジレンマ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮澤 英 武⋮ �熟年からの健康� 便通と大腰筋⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮松 本 慶 蔵⋮ �読書案内�渡部昇一著﹃名著で読む日本史﹄⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮澤 英 武⋮ 弘道シンポジウム 二〇一四開催要項 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 弘道歌壇⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮松 坂 弘 編⋮ 弘道俳壇⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮河 内 朝 生 編⋮ 会告⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 事務局往来⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 支会だより⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 言葉のひろば⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 編集後記⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ ( 3 ) 復刻 資料 〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰 【巻頭の言葉】 徳育に見る地方の教育力 土 田 健 次 郎 今年の冬、本会の有田支会主催の講演会で話をする機会があった。有田町 教育委員会が後援であり、有田町の町長や教育長も参会された。有田町は九 ( 4 ) 州の佐賀県で、言うまでもなく「有田焼」の陶磁器で全国のみならず世界に 知られている。雪の舞う日であったが、会場は聴衆の熱気であふれ、平素の 支会活動の充実ぶりが感じられた。会祖の西村茂樹は支会活動の重要性を強 調しているが、それを肌で知った一日であった。西山清治支会長、出雲悠司副支会長、金ヶ江重綱 事務局長、また御縁を作っていただいた陶芸家の照井一玄氏をはじめ支会の方々にお礼を申し上げ たい。 そのおりに有田支会の方々のお世話で同朋保育園の『論語』素読教育を見学する機会があった。 素読とは漢文を訓読して声をあげて読み上げる学習方法である。意味をいちいち考えずにとにかく 読んでいく。そのうちに自然に文章を覚え、漢文訓読にも慣れてくる。そうすることで自然と漢文 古典の素養が身につき、文章の表現力も増していくのである。 素読は、国語教育であり、道徳教育であった。漢文は本来中国語であり外国語なのだが、その訓 読は、日本語の一部と化している。昔からよい文章を書くには漢文訓読を習うことが奨励されてき 〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰 〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰 た。また素読で読む漢文の古典は儒教の経書が多い。素読は道徳心をはぐくみ育てる作用も持って いたのである。 今回、園児たちが正座して『論語』の素読を行うのを目の当たりにしたが、溌剌と『論語』の言 葉を唱え、挨拶の作法もきちんとしていて、子供が本来持っている愛らしさと教育によって培われ ている節度がみごとに熔け合っていた。 保育園を運営する同行会の理事長の森山隆子先生の指導がすばらしいのは言うまでもないが、改 めて子供たちの可能性に目を開かれた思いがした。『論語』の言葉を幼児のうちに全て理解できる ことはありえないが、この時期に心にきざむことによって、成長や社会経験の蓄積とともにその言 く ( 5 ) 葉が熟成し、人生の岐路に立った時の自分の指針になるのである。 た このような幼児に素読を教える試みは他でも行われていて、当日の講演会に参加された九州長崎 こ が 県の針尾島の古峨園長御夫妻の保育園でも実践されている。そのほか、孔子を祭る聖廟がある佐賀 県の多久市では小中一貫教育を実施し、『論語』教育に力を入れていると聞く。地方の情操教育の 厚みはたいしたものと言わざるをえない。 教育には、知育、体育、徳育があるが、今の教育は知育偏重である。進学校への合格率や官庁、 有名企業への就職率ばかりで各県の教育の程度を測っている。また体育も話題性に富むため、野球 の甲子園とか駅伝の都大路とかに力を入れる学校も多い。しかし徳育となると、とたんに関心が薄 れる。 もっと徳育の水準の高さを地方の教育力として誇ってよいのではなかろうか。またそれを評価す る土壌を全国に培わなければならないのではなかろうか。 (本会副会長・早稲田大学教授) 〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰 部 昇 一 になる。いや皮膚だけでなく、老臭もあるらしい。 渡 「ヂッジの顔にはなぜ穴がいっぱいあいているの」 と幼い孫娘に訪ねられたことがある。私は別にあば いろいろな面に汚なくなるのである。人間だけでは 美しく老いるということ た顔でもないし、何のことかと思って鏡を持ってこ ない。動物もそうだ。子犬や子猫は実に可愛いらし ――当時三十台 ――を見ても、化粧してないのに毛 孫娘の顔を見ると毛穴などは一つも見えない。つ る つ る し て 輝 く ば か り だ。 孫 娘 の 母 つ ま り 私 の 娘 だった。 というのが正直な感想であった。 た病み犬を部屋の中で飼うのか。汚いじゃないか、 でも、お客になった私には迷惑だった。なんで老い い。しかし老犬の病気になっているのを熱心に看護 ら始まって、皺だらけになり、更に老人しみだらけ させた。つまり私の顔には毛穴が見えるということ 穴などは一つも見えず、つやつやしている。こんな の兆しが現れるや否や、天敵から攻撃の対象になっ している知人がいたが、その飼い主には大切な老犬 ことで私は老醜の意味を悟った気がした。私も幼い 老醜というのは、人間と人間に飼われている家畜 だけのものらしい。というのは野生の動物は、老化 頃は顔の毛穴など見えなかったはずである。 老醜は皮膚に現われ始める。毛穴が見えることか ( 6 ) に美しい。老いたチーターなどは、すぐにハイエナ て襲われるからである。だから野生のチーターは常 た。 た姿は美しかった。私もそうなりたいものだと思っ 感じがする人もいた。田舎の恩師の書斎に座わられ 余嘗て曰ふ、人は年若くして金が欲しくなり、年老 いて名が欲しくなれば、先づ安全なり、其の故は世の 少年輩を見るに、常に色⻝の欲の爲めに金錢を浪費し、 己が身は如何にして此の世を渡らんとするの思慮な し、其の家を破り、身を誤るは皆此の際に在り、此の 時幸に早く心付き、人の生涯は金錢なければ渡ること 能はず、金錢を得るは容易の事に非るを知り、自ら貯 蓄の念を發すれば、浪費の念は自然に消滅し、學問も 着實に之を勉むることを得べし。 老年に至れば、兎 角貪欲に陷り、或は高利の金を貸し、或は萬金を擁し て守錢奴となり、自ら苦しみ、 人を苦しむることあ り。此の時に當り、早く名の惜しきことに心付く時は、 自然に無限の貪慾を恣にするの念を消滅すべし。然れ ども是特に多數に就いて之を言ふ。世間或は少年にし て貪欲なるもあり、老年にして金錢を浪費する者もあ れば、一概には言ひ難しと知るべし。 (明治十四年) ⃝若年と老年 (西村茂樹先生語録より) (本会特別会員・上智大学名誉教授) などの餌食になるからだ。 どうも老醜というのは人間界とそこに引き込まれ た動物だけに限られた現象であるとすると、老醜か らまぬがれて、老いと美を両立させられるのも人間 だけということになる。つまり人間は動物であるけ れども、動物的な面でなく、人間的な面を発揮し続 けることによって、 「老いて美しく」ありうるので はないか。 事実美しい顔の老人というのがいるのである。テ レビに出てくる名人と言われるような職人である。 最近も老画家の特番があったが、テレビで放送され たその老顔は実に美しかった。武原はんの仕舞を見 た人は、老を見ず、美しさのみを見たと言っていた。 私も三船久蔵九段の柔道を見たことがある。それは 美しかった。大学では戦前から日本におられたドイ ツ人教授(神父)の中には美しいどころか神々しい ( 7 ) 余 白 の 美 禅宗では修行者の指導に当たる人々を「老師」と 呼ぶ。なかには二十代、三十代からそう呼ばれる人 うか。 玄 侑 宗 久 は、五十五歳、六十歳、六十五歳と恣意的に変更さ ところで「老」とは、後者の区分では「住」に当 たり、生き続けている状態のことである。生き続け なにゆえここに「老」という文字を使うのか、考 えてみよう。 大抵は、「病」や「死」を垣間見ることでついでの もいるが、とにかく免許皆伝になれば、皆「老師」 仏教は人生上の苦しみを、 「生・老・病・死」と 分類した。生まれること、老いること、病むこと、 ように「老」が意識される。ある種の喪失体験とし て い る と、 い ろ ん な こ と が 起 こ る わ け だ が、「 老 」 死ぬことである。 て「老」は認識される、と考えたほうがいいだろう。 である。 一方、人だけでないあらゆる物の発生から死滅ま じよう じゆう え くう での変化は、 「成・住・壊・空」と表現される。発生、 目はかすむ耳に蝉鳴く歯は落ちる雪を戴く老の暮哉 れてきた。つまり年齢そのもので「老」は定義できず、 は単独では意識しにくい。昔から、老人の年齢規定 継続、喪失、そして空っぽ、ということになるだろ ( 8 ) 方も無きが如く、徹底的に奪い尽くされるのである。 話を最初の疑問に戻そう。禅の道場で、指導者を 「老師」と呼ぶ所以である。 い「自然」である。 ずいぶんひどい歌だが、事実だから仕方がない。 要するに人は、 若い頃に獲得してきたものを「老」 と共にどんどん喪失していく。それは逃れようのな は「老」衰によって失うべきものを、雲水たちは修 ざしがある。つまり、雲水たちがどれほど喪失した 数の「就活」入社を斡旋し、大量の失格者を出すの 上に酷いかもしれない。ただ社会システムとして多 た と え ば 禅 問 答 に 何 度 行 っ て も「 鈴 を 振 ら れ 」、 否定される体験は、もしかしたら最近の「就活」以 禅の道場では、いったいどんな修行をしているの か、 「老師」という呼称はそのことに大きく関わっ 行によって無理矢理に奪われるのである。 かを、「老師」はじっと見据えている。そして通常 老「 衰 」 と い う 考 え 方 は そ こ で は 消 え 失 せ、 老 ( 9 ) とは違い、そこには明確な思想と、「老師」のまな てくる。簡単に言ってしまえば、雲水と呼ばれる修 本来、元気でまだまだ獲得すべき年齢の彼らは、 時ならぬ喪失に戸惑いながらも、やがて新たな世界 行者たちがしているのは、あらゆるものを喪失する 体験である。新聞テレビなどの情報から遮断され、 観に開眼する。不完全に見えるものへの愛情、自然 へ の 深 い 認 識、 あ る い は「 わ び 」「 さ び 」 な ど も、 それまで築いてきた人間関係も、入門と共に暫定的 、衣類や好きな品々 喪失を悲しみ反転したあげくの美学だろう。そのよ に失われる。むろん、本や などからも、離れなくてはならない。 うな新たな価値観の体得者こそ「老師」なのである。 「老」を先取りした人、とも言える。 とさえ許されない。まるでそこには人権という考え 話す、書く、見るなど、普段は欲求とさえ呼ばな かった行動まで制限され、入門後しばらくは笑うこ C D れこそが当初から具わっている「仏性」なのだと気 と呼ばれる余白が仏教の説く「空」にも重なり、そ 源であったことにも気づいていく。老荘思想で「虚」 余白になり、その余白こそがじつは無限の対応力の みで埋まっていた部分が「老」によって抜け落ちて 「練」 、老「熟」などと認識し直されている。思い込 淡 」 を Simple Elegance と訳したイギリス人がい たらしいが、それこそ喪失してこそ得られる究極の ばれるあるかなきかの淡い水色に染まると言う。「枯 人間国宝の染色作家である志村ふくみさんは、藍 かめのぞ が健全に保たれた場合のみ、最後に「甕覗き」と呼 になるのだろう。 あればこそ、人は再び無心で見聞きすることが可能 づくのである。 藍 の よ う に、 健 全 に 生 き つ づ け て い け ば、「 老 」 の美は自然に宿る。いや、日本人にとっての美とは、 あらが 喪失に抗おうとする努力は、時に諦念の欠如とし て、醜く見える。 震災で全てを奪われたあとに昇る朝日をそれでも 「綺麗!」と見る人は、すでに立派な「老師」では ないだろうか。 (作家・福聚寺第 世住職) ( 10 ) 美ではないだろうか。 が褒め言葉になり、究極は「枯れてきましたね」な おそらく自然に従う感覚と共に自覚されるのであ 日本文化は、老「成」し、老「熟」してこそ完成 するものと、前提されている。 「不均衡」や「枯淡」 どと讃美されたりする。 見いだす感性である。 る。大切なのは、たぶん喪失による余白に「美」を 世阿弥の言う「真の花」もそうだし、芭蕉の「よ く見ればなずな花咲く垣根かな」などもそうだが、 晩年になっても人は出番を減らしながら見事な花を 咲 か す こ と が で き る。 「 よ く 見 れ ば 」 咲 い て い る、 という密やかな咲き方こそじつは麗しいのである。 しかしなぜよく見たのか、と考えると、おそらく そこには何らかの喪失体験がある。喪失による余白 35 もう手遅れになっているのかもしれない。なぜ、 そんなことになってしまったのだろうか。 いるための条件が、つぎからつぎへと失われてきた。 美しく老いるための環境が廃れて久しい。美しく老 しやっていた。 しかし、いつのまにか平均寿命八〇歳の高齢社会 を実現してしまったとき、われわれは病と老いの難 もなくきこえるようになっていたということだ。 ろ死ぬことを考えるんだよ、という声がどこからと 雄 その背景として、三点ぐらい挙げることができる ような気がする。 老いと病が生と死のあいだに割り込んできて、わ がもの顔にふるまうようになった。それで国の財政 哲 第一、平均寿命が五〇歳から八〇歳まで急速にの びてしまったこと。平均寿命五〇歳のころ、われわ はパンク寸前、眼先のことばかり追いかける政治は 折 れの人生モデルには死生観という言葉があった。こ 身動きできない状態になっている。 山 のいい方には、死ぬことと生きることが背中合わせ 美 し く 老 い る になっている。生きることは死ぬことを引き受ける の分野で、支援やサポートのネットワークをつくれの 第二、右のことと関連する形で、医療、介護、年金 問にとりかこまれて、死の意識をはるかかなたに押 ということでもあった。人間五〇歳になればそろそ ( 11 ) などできるのだろうか。 揺のなかで、はたしてわれわれは美しく老いること るようになっていた。そんな浮き足だったような動 べてくれ、の呼び声が当たり前のことのように生ず ろから、支援の手を差しのべよ、支援の手をさしの なった。気がついてみれば、高齢社会のいたるとこ けれども、 その結果何がおこったか。助けてくれ、 助けてくれ、助けてくれ、の大合唱がおこるように 対応しなければならなかったのもそのためだった。 ろう。 借金して財政が破綻しても、 なりふりかまわず については何とか手を打たないわけにはいかないだ 平均寿命八〇年の現実をみれば、それはそれで当 然のことかもしれない。 だが、 高齢者の危機的な実態 ま だ 若 い、 新 進 の 監 督 が つ く っ た 作 品 と の こ と だったが、なかなか見ごたえがあった。 ンタリー映画を見る機会があった。 ことしの春三月、「なら国際映画祭」というのに 出かけ、「エンディング・ノート」というドキュメ 実には見て見ぬふりをしている。 ことの重要性を知らないわけではないが、しかし現 ということではないか。次世代のために犠牲になる 老人は子どもたちのための肥やしになって、その 成長を下支えするという考え方がみられなくなった しない状況が、あまりにも目につきすぎる。 代が手にしている権威や権限、既得権を譲ろうとは 実態はかならずしもそうなってはいない。高齢者世 れからの世代に譲っていかなければならないのに、 声が挙がるようになった。それがしだいに高くなった。 第三、高齢者世代が、これからの若い世代にたい して何をすることができるのか、何をのこすことが 今日、私を含めた高齢者世代は国や自治体の財政 から多大の恩恵をうけている。その恩恵の多くをこ できるのか、あまり考えようとはしなくなったとい ある大企業につとめる六〇代後半の主人公が、定 年を間近かにして末期の胃ガンを宣告され、余命い うことである。 ( 12 ) の監督が作品に仕上げる形になっていた。 これは実話にもとづいていて、主人公のカメラ好 きの娘さんが撮っていた映像フィルムをもとにプロ 迎えるまでの赤裸な姿を描いていく。 くばくもないと知らされる。その初老の男が最期を ドのそばに座って看取っているのは、長年つれそっ その段階で、教会の牧師はもはや登場しない。医 師の姿も病室にはあらわれなくなる。主人公のベッ 写し出される。 寄せられ、孫を含めた家族との最期の団欒の様子が その老夫婦の最後の語らいの場面を、娘のカメラ が写し出していく。そのとき、ベッドに横たわる主 てきた老妻だけである。 ないけれども、ただ安心してこの世を去りたいとは 人公がその娘にむかって、「お前も、この病室から 告知された主人公が教会の牧師に相談に行くとこ ろからはじまる。自分にはとくに宗教というものは 願っている、という。 し合いの場がすこしずつ深刻の度を増していく。最 表情で そのあと、カメラだけが自動的に映しつづけるな かで、主人公が寄りそう老妻にむかって、穏やかな 出ていってくれ」と告げる。 大の問題が、あといく日もつか、年を越せるのかど 病状がすすみ、同僚や家族たちとの別れの場面が ふえていく。身辺整理がはじまり、担当医師との話 うか、というところにしぼりこまれていく。 はないかと思ったのである。 (本会特別会員・宗教学者) この最後の場面で私は、間近かに迫った死ぬとい う事実そのものが、主人公のこころを浄化したので 「愛している」 と告げる。映画はこうして終幕を迎える。 しかし医師は、それに答えることができない。長 くはないと告げてはいても、やがて来るべきその日 をはっきり知らせることはできないからだ。 アメリカの会社に赴任している長男の家族が呼び ( 13 ) 美しく老いるために 小 川 ために生きる事だと考えていた。丁度、日本共産党 の頃の私は、美しく生きるとは、私心を捨てて公の 私が、ある新聞に書いた文章の書き出しである。そ は今も手元にあるが、「こんな国にするために俺た 員の月収は六〇〇〇ルーブリであった。当時の日記 んの月収三〇〇ルーブリに対し、科学アカデミー会 フルシチョフも貴腐も素敵だったが、ロシアにお ける所得格差の大きい事には驚かされた。メイドさ 男 を除名されて少し経った頃である。 の本当の理由は、八回大会の「宮本綱領」に賛成し 義 大学時代にモスクワを訪れ、フルシチョフ書記長 に貴腐ワインをご馳走になった。 通訳の土方さんに、 なかったためだと思うが、そのベースには、社会主 身分不相応な嗜好品になっている。 「小川君、君は酒が嫌いかも知れないが、これだけ 義体制に対する底深い失望があったように思う。 「 二 十 代 を 美 し く 生 き る こ と は 易 い が、 そ れ を 三十代に持ち越すことは難しい。 」二十九歳の時に は飲め」と言われ、飲んだところが「死ぬほど」旨 ちは戦っているのではない」と書かれている。除名 かった。それが「貴腐」と呼ばれる葡萄酒であるこ その前後の私は、日夜政治活動に挺身し、三十過 ぎまで生きる事はできまいと思っていた。だから、 とは、帰国してから知った。以来「貴腐」は、私の ( 14 ) る。健康に恵まれ、老いによる衰えはほとんど感じ 「三十過ぎまで生きる事はできまい」と思ってい た私も、思わぬ長生きをして、現在は八十一歳であ いたのかも知れない。 公のために「私」を忘れて挺身することだと考えて 政治的帰属とは別に、私は「美しく生きる」とは、 込んでいるゆとりがないのである。 にまで幸福感が伝わってくる。だから私には、老い 布した後の、「慎み深いが」「例えようもなく嬉しい」 した折など、ちょっとした土産を買ってくるが、配 ら八時十分まで、この「少人数ゼミ」は続く。旅行 らしい、育ちの良い高校三年生の表情には、こちら ていない。今も私立中高等学校の校長だから、のん 体力、気力、筋力に衰えはないが、悲しいことも ある。視力が衰えてきた、というより疲れやすくなっ びり老境を養うことも許されない。 せなくてはならない。 のためには、自校を埼玉県第一等の進学校に発展さ 政治の根本的底流を変革することを夢見ている。そ んで、コピー拡大してもらって読んでいるが、それ 気に読んでしまいたいが、あの本の比較的大きな活 が、新聞に出た数日後には、原本が手に入った。一 クリントン夫人が「困難な選択」という本を出し た。大統領選挙の活動資金にするためかも知れない てきているのである。 「早稲田合格百人を目指すタスクフォース」 目下、 を作り、 その先頭に立っている。陣頭指揮ではない、 でも、どうも疲れやすい。石原慎太郎さんが、「眼 今は、教え子達の中から優れた官僚、政治家を輩 出させ、国民に媚びることしか考えられない、現代 陣頭戦闘である。 していた頃、私には全くの他人事だったが、今はそ 精疲労を治してくれたら共産党にでも入る」と述懐 字さえ、私には読み取りにくいのである。秘書に頼 タ ス ク フ ォ ー ス は 七 グ ル ー ブ あ り、 各 グ ル ー プ 十二人で構成されている。火水木金の四回、七時か ( 15 ) やがて筋力も頭脳も衰えてくるのかも知れぬ。 自由に本を読めなくなるのかと思えば、少し悲しい。 れを共感できる。このまま視力が疲れやすくなり、 である。 「老境を美しく生きる」とは、振り返るゆとりも ないほど、厳しく激しく戦い続けることであるのか ある。 (本会参与・狭山ヶ丘高等学校長) も知れない。陣頭における戦死、それが今の私の夢 考えて見れば、それも仕方のないことである。元 気だと言っても、いつまでも生きられるものではな い。やがて自らの存在そのものを失うときも訪れて 来 よ う。 「 美 し く 生 き る 」 と は、 そ の 日 に 際 し て、 これまでの密度高い日々に感謝し、静かに安らかに 世を去る心構えを用意することであるのかも知れな い。 多忙な日々に、ちらとそれが脳裏をかすめる。し かし、今の私に取り、その思いをゆっくりと暖めて いるゆとりなどない。火曜日にはまた生徒たちが詰 めかけてくるし、良いレクチャーを行うためには、 十分な教材研究が必要である。私学相互の葛藤も厳 しい。馬鹿げたバラマキ政治の所産である、「授業 料只の公立高等学校」との戦いもある。美しい生き 方など模索している暇もないのが、今の私の日常で ( 16 ) ひとが満面に微笑を浮かべ横たわっていた。見たこ キチンと揃えられて置かれ、畦の窪みに老人に近い 目に入った。近寄ってみると背負子の脇に、雪駄が ていた時、畦道に背負子がすくっと立っているのが 何んの当てもなく霜柱の立った田んぼの畦道を歩い 昭和二十年、筆者が疎開先の長野県小県郡の国民 学校二年の冬に経験した話である。 その朝は冷えた。 びとの笠白妙に雪つもりつつ」という和歌を添えて に遭遇した事故なら、「深山路に今朝やい出つる旅 以来、いろいろな死に立ち会ってきたが、このと き程の美しい死に顔に出会ったことはない。成年後 生だ」という声も聞こえた。 が、着ているものなんか全然乱れがねえな。いい往 に言い合っていた。「潔癖なタチとは知っていただ 夫 とのない美しい微笑だった。 「おじさん風邪をひく あげただろう。 哲 よ」と云って身体を揺すってみた。固かった。凍っ 崎 ていた。最早、その人が生きていないことは子ども 「美しく老いる」の行き着くところは、「美しい死 を迎える」ことだと誰もが思っているだろう。しか 宮 眼にも直ぐにわかった。 近くの家並みに走って行き、 し、それぞれがそれぞれの事情を抱えながら 懸命 ふしくれたる深山木の、見るからに疎ましく 凄まじき様なるべからず 「人が死んでるよ、 人が死んでるよ」 と告げて廻った。 その生を否定する。まさに理不尽である。 に生き「有終の美」を飾ろうとしても、死は一瞬に 家に帰り着いたと錯覚して寝ちゃたんだな」と口々 集まった大人たちが「これは凍死だあ。あの村の ○○さんだぞ」「大酒呑みだったからなあ。深酔して、 ( 17 ) 死の直前に、まさに死に際に己れの生と死を納得 して瞑目することが、ベストの生涯でなかろうか。 の頃の筆者の顔は、まさに犁老、腐った梨のように 患部へのドレーン挿入の激痛と朝夜二回の抗生剤 の大量点滴に耐えて、秋の終わりに退院したが、そ 肌は黒ずみ深い皺が何本も走り、眼は澱んでいた。 今から六十二年前の一九五二年に黒澤明が発表し 老醜の果ての貌容であった。初めて老いに怯えた。 その後は我流のバイオフィードバックを採用、酒 を呑みジョークを飛ばしまくり、他人様を煙に巻く た「 生 き る 」 と い う 映 画 は、 〈 to live 〉の自己確認 の映画である。志村喬が演じる事勿れ主義の小役人 余命数ヶ月の映像である。家族すらも頼れない孤独 毎日であった。とにかく老醜を振り払うことに専心 の、 癌病死に怯えながらも「死と向き合って生きた」 な老人の死の際の物語である。 に戻りましたね」と云われるようになった。 しかしながら、あの認知症だけは怖い。美しく老 いることの資質が十分で修練も完璧な大先達が、ひ した。その成果かどうかは分からないが、近頃は、「元 渡辺勘治という小心の地方役人は、死を覚悟した あと、地域の子どもたちのために小公園を建設する 更けの公園でブランコに乗り、雪の降るなかで「命 とたびこの認知症に罹病するとみるみる人間が壊れ ことを、生存確認の行動とした。それが完成した夜 短 し 恋 せ よ 乙 女、 紅 い 唇 あ せ ぬ 間 に・・・」 と 口 然からば、何を以て「美しく老い、美しい死を迎 える」ための人格形成の修練とすべきか。筆者は、 解決は、医療の進歩に期待する外ない。 たの認知症の無惨さは、筆舌に尽くしがたい。その ずさみながら穏やかに死んで行った。小心者の〈 to ていく。筆者が仕えた老師・大人といわれた先生が 〉の完結であった。このシーンには涙した。 live 斯く云う筆者も、昨年秋に肺癌を宣告され摘出手 術をした。癌摘出は無事に終わったのだか、胸水貯 留を医局が見逃し、再入院の憂き目に遇った。 ( 18 ) うな文章である。 何を原典にして書いたのか不詳であるが、つぎのよ 母が書き残した色紙の文章をテキストとしている。 すら眠っていた。この母は美人であったが、幼い頃 しくなるのだ。〈美しく老いる〉或いは〈美しく死 せにすること、その努力をしてこそ、自身が人間ら ひとりが幸せになろうと思うな。周りの他人をも幸 筆者の母は、平成七年六月に百二歳で身罷った。 認知症にもならず、最後の三カ月は脳内出血でひた いはそれを超える考え方である。 教に対抗する自力教の〈聖道門〉に近い考え方、或 成就するのだ」ということだろう。他力本願の浄土 を迎える〉ためには、他者のそれも美しくしてこそ 例えば 打ち向かう人の 思わず片微笑みて 心の愁さも 忘れる様なるべし ふしくれたる 深山木の 見るからに 疎ましく 凄まじき様なるべからず 平成三年七月 九十八歳 玉の 大火傷を負った障害者であった。 畢竟、美しく老いることは「自彊不息」或いは「沈飲 些自逍 放歌破愁絶」の修練ではなかろうか。己れが 己れを励まし、自分の愁いは自分でなぐさめられる 意味はこうである。 「例えば、道ですれちがう見知らぬ人でも、お前の も忘れてしまうような雰囲気をもちなさい。節くれ 健全な精神を維持してこそ、美しい死、己れが納得で 優しげな貌を見て、思わず微笑みかえし、心の憂さ だった深い山の孤独な木のように、見るからに異様 きる死を迎えることができるのではないだろうか。 (本会参与・㈱遺珠刊行会社長) で恐ろしいような姿や性根をもってはなりません。 この時九十八歳の母が伝えたかったのは、「自分 呉々も言っておきますよ」 ( 19 ) 恒産なければ…… 木 村 治 美 時間は流れ去るのではなく、積み重なるというと らえかたは、古都の遺跡を見ると実感が湧くだろう。 い出すだろうと、のんびり構える。 西洋の古典の言葉だと見当をつけ、検索したが、 結論は忘れてしまった。老いた証拠だ。そのうち思 「時は流れない。それは積み重なる」 ひところ、ウイスキーのTVコマーシャルで、俳 優のショーン・コネリーが、しきりに唱えていた。 に杜撰になっているところが多くあった。この地に いったようなのだが、ガイドに指し示されて気がつ ローマでショックを受けたこともあった。土地の 沈下により、井戸の石積みを上へ上へと継ぎ足して 出して、はっきり見える。 るゆえに、過去の積み重なりが、ことさら目前に露 時は積み重なる ともあれ、この言葉には卓抜な発想の転換がある。 古来、 時間は流れ去るものであった。 たとえば 『方丈記』 定住し、生活を始めた者の、未来を見据えての意気 さらにギリシャやローマを訪ねると、石の文化であ の冒頭には「ゆく河の流れは絶えずして、しかもも 込みと、ただ受け継いで補修しただけの結果の差は、 ずさん いたのだが、工事の仕方が、時代とともに、しだい との水にあらず」と、 時の流れを無常観で眺めている。 ( 20 ) こんなにも歴然と表れるのかと驚いたものだ。 ご から、頭の中は食べ物の思いで一杯。道徳の話など こえ た 校庭にサツマイモを植え、天秤棒で肥担桶を担い だ記憶は強烈だが、あのあと、収穫されたイモは、 耳に入らなかった。 ちがいが生じるのか。ローマは一日にしてならず。 それこそ風に吹かれて飛んでいった麦わら帽子と同 時間も石積みも、積み重なることにかけては同じ だ。そして積み重ねかたによって、なんという質の そして「老婆も一日にしてならず」である。 の時代も食べ物のことで恨みは買わないほうがよい。 ある老婦人が、笑いながらではあったが、五十年 も昔の話をしてくれた。まだホームに出て駅弁を買 じ、「お母さん、どこにいったのでしょうね」。いつ ウイスキーの話に戻せば、時の積み重なりは、す なわち熟成である。ほかにもチーズやワインなど、 熟成によって味が深くなり、価値を増すものはたく さんある。人間の経年効果もそうでありたい。 う時代であった。友達に頼まれて、山のように弁当 を抱えて列車に戻ると、みんなが手を出して持ち去 この格言を教えられたのは、中学生のころか。当 時は漢文の教養が重んじられ、各教室の正面に額が 心情を思うと、涙が出る。 て。こんな悲惨な話ってある? 恒産なければ恒心なし 掲げられていた。 「誠は天の道也、これを誠にする り、自分の手もとには一個も残らなかったんですっ は人の道也」とあり、朝礼でこれを斉唱してから授 いまなら替わりの弁当はいくらでもある。だれも ガツガツしていないから、こんな状況は起こりにく い。だからこそ、自他ともに試され、訓練される場 そのときの彼女の 業は始まった。 に 出 会 い に く い。 五 十 年 た っ て も 記 憶 に と ど ま る 戦中戦後のあの時代は、折にふれて、学校長や教 頭や担任教師の訓話があった。だれもが餓えていた ( 21 ) タイトルにした恒産とは「定まった財産、一定の 生業」と広辞苑にはある。今月のテーマである“美 あと く、豊かな出来事に遭遇したものである。 まで、一定の生業についているのは難しいことだか 話って、そうはない。昔は、乏しいがゆえに後を引 いまこれを書けば、非常に場違いな話に聞こえよ う。しかし、現在高齢者と呼ばれる人びとは、多少 ら、恒産とは、年金も含めて「定まった財産」とい しく老いたるために”を頭に置くと、老後になって なりともこんな飢えた体験をしてきている。 三食がコンビニ食ということになりかねない。おふ べる物に不自由することはない。うっかりすると、 同居するし、したがって、扶養することを、義務と 親、子、孫の世代間の関わりが強かった。一つ家に しかし、一杯一杯で子育てをしてきた者にかなら ずしも貯えがあるとはかぎらない。一時代前までは、 うことになる。 くろの味が、すっかり袋の味になりかねないと感じ か責任とか考えずに一緒に暮らし、金銭も労力も提 うちの二階の窓から道の向こうを見ると、一年中、 二十四時間、コンビニの幟旗がはためいている。食 ている主婦も少なくないはずである。 面倒をみてもらうのは当たり前だった。 私の、いま思えば愚かな問いに、かれらはとまど いぎみに答えたものだ。 「あら、お淋しいですね。いつ戻られるのですか」 三十年も前だが、友人のイギリス人夫婦が、「息子 が家を出たので、二人暮らしになった」と私に話した。 供しあった。老いた親は、育てた見返りに、子供に 一方、イラクの戦火がテレビに映れば、私たちに は、なまなましく甦える戦争の記憶がある。こんな 記憶をためこんでいるのも、逆説的にいって、私た ちの豊かさの一部だといってよいのだろうか。 三世代家族はなくなる ( 22 ) ㈠自炊し、自活できる者。 階に分かれている。 そう、親のもとに子は二度とは戻らない。そのか わり、イギリスの老人ホームは充実している。三段 「もうおとなですから、帰ることはありません」 ここで、臨時教育審議会の、個の重視、個の自立 などの文言が、脳裏にちらちらする。私たちは、生 親を見送ってきたのだから、と。 と思っている。自分たちだって、そうやって自分の そして、そういう親子関係に甘え、好ましいことだ して考えているに過ぎない。若い家族がなんとかし 族の、そして自分自身の価値観や現実と、とまどい マである「美しく老いるために」にも、社会の、家 活環境や価値観の過渡期を生きている。今回のテー てくれるだろうと、根拠もなくあてにもしている。 自立して生活できる者。 ㈡食事など提供されれば、 これにもいろいろな段階がある。 ㈢ほぼ寝たきりで、介護が必要な者。 入居者はこの段階を順々に移っていく。 つつ対応しなければならない。そしてそのとき、現 るかどうか。 社会の受け皿が充実しているかどうか。 し、このシステムを、人生計画の中に繰り込んでい いないと思う。私たちが自覚的に自分の段階を意識 日 本 の 施 設 で も、 こ れ に 近 い 道 を 辿 る こ と に は なってはいるが、いまもってイギリスほど徹底して どういう子供を育ててきたか、いや、自分がどのよ どのような子供たちが育っているかも、大問題で ある。美しく老いるためには、築かれた夫婦関係や、 いだろうか。 なしが、大きくものをいうことを実感するのではな 中途半端な時代の老人たち 私なども、漠然と意識し、エッセイ教室で描かれる うに生きてきたかさえ、その結果を受け入れること 代の社会保障制度を有難く思いつつも、恒産のある 親の介護の有様を、 「たいへんねェ」と、他人事と ( 23 ) になる。 う、行政としては、その場を提供し、便宜をはかり 収めたといえる。 生涯学習社会とは、「いつ学んでも、 したし、元気な高齢者がふえたので、大きな成果を 「生涯学習社会への移行」は、社会の受け皿も充実 ことはできないので、べつの機会に残しておく。 理 念 と し て 掲 げ ら れ た の が、 「個性重視の原則」 である。この件についての妥当性は簡単にまとめる で、略称「臨教審」の成果を問うてもよい頃合い である。 うしてもう二〇一四年になっている。 二十一世紀なんて遠い先の話だと思っていたが、こ 間、論議した。私も委員の一人だった。そのころ、 あくまでも私たち国民の側にあることを考えて、「生 くに文部省から出されていた。しかし、学ぶ主体は 先ほどの臨教審の話のつづきになるが、二十一世 0 0 紀の方向づけを、「生涯教育社会」にする案が、と とっていく自由も手に入れたのである。 な 人 間 関 係 か ら、 趣 味 や 教 養 を 通 じ て 仲 間 を 選 び このような施設に関係していて、私が一番重要だ と思うのは、学習や習い事とともに、人間関係を豊 の果たす役割も大きい。 盛んである。カルチャーセンターと総称される施設 日本には古来、習い事の文化があった。お茶にお 花、書道、芸事もろもろ。それらが生涯学習として ます、といった趣旨である。 どこで学んでも、学んだことが適切に生かされ、評 涯学習社会」と決まったのである。恒産を含めて、 古 い 話 に な る が、 一 九 八 四 年 に 臨 時 教 育 審 議 会 が 設 置 さ れ、 二 十 一 世 紀 の 教 育 の 方 向 づ け を 三 年 価される社会」とまとめられている。これは多分に 私たちの自己責任はいちだんと重くなっている。 0 0 (本会理事・共立女子大学名誉教授) かに広げることの大切さである。向こう三軒両隣的 文部省的な文言であって、現行の生涯学習とは、と しをとっても、自分を高めるため学びつづけましょ ( 24 ) ― 美しく老いるために ― 会で交わる 伊 藤 克 巳 が交流する場としての会に参加し活動することの良 さにつき述べてみたい。今日本では、核家族化が進 れにこしたことはない。 「美しく老いる」という言 き甲斐を持ち続けながらこの世を全うできれば、こ 迷惑をかけず、人に恥じることもせず、最期まで生 人は、最期は人の世話になることは避けられない が、そこに至るまでの永い高齢期間を、努めて人に 切な役割を果たすように思う。 めには、人の交流の場である会が従前にも増して大 がちだ。このような老人が心身ともに健康であるた り、人との付き合いも減るので、余計に孤独になり 老人も増えている。その上老人は行動半径が狭くな 美しく老いるとは 葉には、さらに、人のためになる善いことをするこ み、社会の高齢化も急速に進む中で、一人暮らしの とで、品格も自ずと磨かれることを願う気持ちも込 められているように思う。 そのためにはなによりも、 い。 私もいろいろな会に属しているが、その中の二つ の実例を見ながら会の利点を考えたい 。庶民的な 話の域を出ないが緑陰号ということでお赦しをえた 心身ともに健全であることが大切だ。 本稿では心身の健康増進に資するものとして、人 ( 25 ) 表を行うことで、会が常に話題豊富、新鮮で面白い 切れないが、だから誰でもレポーターを引き受けら その内容は必ずしも学究的な専門性を持つとは言い 動するのか」 、 な ど の テ ー マ に つ き レ ポ ー ト し た。 との相似性」 「モーツアルトのオペラになぜ人は感 が回ってきたが、 「古事記と西洋の古代文学・伝説 に非ずと真面目にぶった。私にも何度かレポーター を展開した。Bさんは、地球温暖化はCO 2のせい これらを最低三回はみており、その中のマドンナ論 ん映画「男はつらいよ」が四十八本あるよしだが、 で、皆何か語ることを持っている。Aさんは、寅さ を肴に談論風発する。人生長く生きてきた仲間なの 一つは学生時代のゼミ仲間の会。年に四回集まる が、毎回レポーターが特定の題につき発表し、これ ゼミの会 れるボケ防止運動、ラジオ体操などは、健康維持、 につながるし、太極拳、ハイキング、また時に行わ 源氏物語講読などは趣味を楽しみつつ、脳の活性化 なものを楽しむのだが、囲碁、麻雀、手芸、陶芸、 一度集まり、多岐にわたるメニューのうち各自好き 老人、八十歳以上の方も多く参加されている。週に 人々の交流会だ。入会資格は六十五歳以上の健康な もう一つの会は、私の住んでいる横浜市の、ケア プラザの多目的室を借りて行われる、地域の有志の 銀の会 のためにも貴重な会だ。 喧々諤々する機会も減っているだけに、脳の活性化 高齢者が、何らかのテーマにつき自分の考えをま とめ、人に語る機会は減ってゆく、まして何人かで ともなっている。 ものとなり、次回が楽しみとなり、長続きする結果 れるし、聴き手も肩を張らずに聞いて、適度に教養 増進に役立つ。 会で交わる を広め、酒の肴になるというわけだ。またテーマ発 ( 26 ) 知識、情報を交換できる、楽しめる、運動もできる 会は、そこに居場所がある、友を得ることができる、 立っている。そして会の参加者も地域住民だ。銀の 献身的な活動ときめ細かい心遣いがあって会がなり 営しているのは地域のボランテイアであり、彼らの な地域の会がより重要になってくる。会を企画し運 会には、卒業した学校、職場、趣味、地域などの くくりがあるが、高齢になるにつれ、銀の会のよう どいろいろで、員数点検だけでも手間なことだ。お した上で一同を案内される。早く歩く人、遅い人な 前に道筋を実踏し、名所旧跡、昼食の場所など下見 例えば、Cさんはハイキングのリーダー役だが、事 喜んでもらえれば幹事冥利に尽きるというものだ。 りすることなどで脳の活性化につながるし、会員に 受ければ、より多数の人と交わり、会の運営に気配 分にも良いこととなる場合が多い。会の幹事を引き 人のために何か善いことをしたいものだ。それが自 など、地域の交流の場として、会員の心身の健康に かげで快適なハイキングを楽しめありがたいと一同 感謝している。 果たしている役割は大変大きいといえよう。 会という場を活用して、国民一人一人が心身の健 康に努めることは、結果として我が国の介護費用と のような地域で支えあう会が、全国でさらに広がる の数である八十回年間にプレイすることを今年の目 エイジシュートならぬエイジラウンド、すなわち年 最後に、美しく老いるために欠かせない生き甲斐 につき触れておきたい。私のゴルフ友達のDさんは 生き甲斐 ことが望まれる。 標とされた。音楽の分野で、日本ワーグナー協会員 か医療費の削減につながり、高齢化社会を支えてい 善いことをする くという意味で社会の要請にも応えている。銀の会 高齢者には時間の余裕がある。小さなことでも、 ( 27 ) のEさんは熱烈なワーグナー教徒で、東京で行われ る殆どすべてのワーグナーの演奏会に出かけ、演奏 前向きに会に参加することで心身の健康に努め、 人に迷惑をかけず、恥じることもせず、努めて善い なる。 イト詣でも毎年欠かされない。私自身も五十年来の ことを行い、生き甲斐を持ち続けながら、人生を全 を堪能されるし、ワーグナーの聖地ドイツ・バイロ 大のオペラ好きで、これまで見た異なるオペラの演 うしたいものだ。 (本会監事) 目の数は二百四十曲に及ぶ。芝居と音楽の相乗効果 で生まれる感動に涙する醍醐味は何にも代えがたい し、更にはオペラの時代背景とか原典となる文学作 品など、西洋の歴史、文化にまで好奇心が広がり、 興 味 が 尽 き な い。 オ ペ ラ は ま さ に 私 の 生 き 甲 斐 と なっているし、良い趣味に出会えたと喜んでいる。 例えば畑仕事をする、 何に生き甲斐を感じるかは、 ボランテイア活動に人生を捧げるなど、人さまざま だが、趣味に没入するのも、達成感を伴う刺激的な 生き甲斐といえよう。 いずれにせよ、特に高齢者は、心身ともに健康で、 日頃から人と交わりがあるほど、生き甲斐を感じや すいと思われ、やはり会の大切さに思い至ることと ( 28 ) ―― 歌子さんのひそみにならいたい ―― まずは老醜をつつしむことから 私自身が若い世代であれば、このテーマを一般的 に扱うことも許されるかもしれません。しかし現役 多 田 建 次 きても、自らをコントロールすることはできません 自身への切実な課題として、真正面から受けとめる 論じることは、つつしむべきでしょう。まさに自分 なイメージとはうらはらに忘恩をくりかえしたワル ファシストとして君臨つづけたトスカニーニ、温厚 年若いライバルへの嫉妬心にとりつかれたフルト ベ ン グ ラ ー、 フ ァ シ ズ ム を 嫌 い な が ら 楽 団 員 へ は でした。 ことが求められます。ですから以下のことも、自ら ター、きわめつけは権力欲・金銭欲の亡者カラヤン、 を退き、すっかり老人となった今、他人事のように への戒めとして書くこととなります。 これまで年齢と反比例するように、精神的に衰弱 する人々をたくさん見てきました。そのもっとも象 ……(レブレヒト『巨匠神話』)。 せん。しかし人間は、 それほど理性的でもなければ、 徴的な例が、まったく反省のない 〝退役〟首相たち 人が年をとるにしたがって、人格円満・志操堅固・ 品行方正に成長するのであれば、いうことはありま 賢くもなければ、高潔な人格者でもありません。 においても、自らの責任で後継者を指名し後事を託 の、目にあまる振る舞いでしょう。あらゆる組織体 美の女神につかえ歴史的名盤をかずかず残した名 指揮者たちですら、楽団を思うまま動かすことはで ( 29 ) 事欠きません。日々のニュースにあふれています。 また、高齢化社会の当然の帰結として、犯罪や破 廉恥事件をひきおこして「晩節を汚す」年寄りにも かぎりです。 あまつさえ足を引っぱったりする。往生ぎわの悪い なくしゃしゃり出て、 口を出したり注文をつけたり、 したにもかかわらず、状況の変化をわきまえること の 変 化 に 気 づ く と、 人 は う ろ た え た り、 嘆 い た り 、 誰にとっても自分の老いと真正面から向きあい、 老いを受けいれることはむずかしいようです。肉体 のは、すでに老醜のはじまりです。 うが、それを抑えようとする配慮に思いが及ばない 能が低下しますので、やむをえない面もあるでしょ ごまかしている始末です。老化にともない気管の機 あせったりします。耳が遠くなる、見えにくくなる、 歯が欠ける、白髪がふえる、ハゲが広がる、女性で いう音、楊枝で歯をせせる音、そして痰・鼻水・よ くり・いびき・おなら、食べる時のピチャピチャと ら、白髪は染めればいいしハゲにはカツラがある、 肉体の弱点を道具を使うことで補ってきたのだか 楽天的な人によっては、季節に春夏秋冬があり新 芽若葉もいつしか枯葉落葉となるのだし、古来人は は閉経となる……。 だれ・つば……。老人特有の体臭も、まわりの迷惑 そもそも床屋にいく必要もなくなり洗髪も楽にな ふつう老いで思いうかべるのは、体のタガがはず れて、吹出物のように無粋な音や液がほとばしりで もどこ吹く風とばかりまきちらします。 は向上する一方だし、記憶力の低下はまめにメモを る光景です。 盛大なくしゃみ・咳払い・おくび・しゃっ しばしば 「老醜」 だと叱られました。 私は家族から、 「ごめん」 「失礼」といってその場を取り繕うものの、 とることで事足りる、閉経だってかえって自由にな る、老眼にはメガネ、難聴には補聴器、入歯の抜術 「出もの腫れものところ嫌わず」などとうそぶいて、 ( 30 ) ところが風呂場の鏡に私自身をうつすと、もはやど それでも肉体の衰えは、情け容赦なく迫ってきま す。人の体は、若い時は男も女も美しいものです。 る、などと考えるかもしれません。 肉体が年とともに醜くなっていくのに、どうして 精神だけは衰えないでいられましょう。 には永遠の美を見出し、それにあこがれたのです。 にはもはや絶えて失われてしまった青春の美、さら だらけです。昨夏筋力の衰えから二度転倒し、メガ ヒゲや鼻毛にも白毛がふえる一方、顔ときたらシミ 時あつらえたスーツがあわなくなり、頭髪ばかりか 目をおおいたくなります。胸まわりも肉がおち若い 太股から膝ふくら脛にかけてげっそり筋肉が落 ち、そのくせ下腹だけは西洋梨のようにふくれて、 虫眼鏡でさがしてみても見あたりません。 打ち込んでいたかつてのスポーツ少年の面影など、 はじめは傲慢タイプ。成功体験にもとづく自慢話 をくりかえし、あたりはばからず威張りちらす、高 みましょう。 らでも見つけられます。いくつかのタイプに分けて 老人はどこにでも出没しますので、街を歩けばいく 業のカスが澱のようにたまる一方です。心を病んだ 人生の疲れや心残り、栄光にともなう驕りや心の冷 外からは目に見える形で識別できないだけで、心 のシミも年とともに蓄積されているはずです。長い うあがいてみてもごまかしようのない、醜い体がそ ネをこわし両目のまわりは内出血、今もそのあとが 慢、尊大・狷介な性格の持主です。独善的で他人に こにはあります。中学校や高校で野球やラクビーに 残っています。 ど期待するべくもありません。つい最近も自分の手 たいしては攻撃的、社会的弱者へのいたわりの心な たさ、不遇にともなうひがみや嫉みなど、もろもろ トマス・マンの『ベニスに死す』の主人公は、美 しい貴族の少年に恋をします。その少年の姿に、彼 ( 31 ) つぎは僻みタイプ。心に鬱積してものをかかえこ み、自分で自身に折り合いをつけることができませ の前で目にしたばかりです。 していた 〝 暴走老人〟を、大学病院の自動支払い機 能力の持主もいるでしょうが、多くは老害そのもの 職場にしがみつく。中には余人をもって代えがたい りに励んだり、若者に対抗しようとする。また現場 思いちがいタイプもあります。「まだまだ若い人 には負けない」と思いこみ、肩をそびやかし若づく 違いにもかかわらず、一方的に担当者をどなりちら ん。恵まれた他人を妬んだり恨んだり、不甲斐ない です。頑固を売りにするなども、このタイプに属す や現役にこだわりつづけ、もはやゆずるべき地位や おのれに拗ねたり愚痴ったりする。 の製品にレモン果汁は入っておらず、もっぱらクエ は知らないだろうが、かつて『暮しの手帖』が貴社 合が発覚した時、たまたま家に一本あったため、 「君 います。私自身数年前レモン果汁の賞味期限に不具 知識や技能をひけらかしたり教え諭したりするとい 言ったりする。企業へのクレーマーは、高齢者ほど おしまいは甘えタイプ。自分は長い間職場や国家 社会に全力で尽し貢献してきたのだから、晩年は優 はありませんか。 が国には、「年寄りの冷や水」という警句があるで についていかずに、しばしば醜態をさらします。わ と気持はまだ男盛り女盛りだと思っても、体がそれ よく体の成長に心が追いつかない、体と心のアン バランスが青少年に指摘されます。老人だって、頭 るでしょう。 ン酸だと告発したのだよ」などと、ついつい電話し 遇されてもバチはあたるまい、自分は年をとって体 説教タイプもあります。自らの経験と見識を過信 し て、 こ と あ る ご と に 若 い 人 に 説 教 し た り 小 言 を てしまいました。 力気力も衰えたのだから、まわりからいたわられて ( 32 ) すでに若い世代よりはるかに恵まれた待遇を受けて 院にあふれています。年金・医療・介護・福祉など、 と、甘えを何の疑いもなく口に出す老人は、街や病 当然だし、多少のわがままが許されてもいいだろう 避けたいものです。 老人となって周囲からうとまれるみじめさだけは、 もにあたりかまわず腐臭をまき散らす、ハタ迷惑な 「老いの恥はかき捨て」などとうそぶいて、心身と いるにもかかわらず、彼らから不平不満の声が枯れ 他人の世話になるのですから、元気な内は単に自立 ものがあります。所詮人は、生まれた時と死ぬ時は この言葉の本来の意味はともかくとして、共感する とんど関わりをもたない人生を送ってきましたが、 「受けるより与えるほうが幸せだ」 ある一神教に、 との教えがあるそうです。その宗教とはこれまでほ 荒波になすすべもなくうろたえる中、番頭と店の再 斐の船場の舅姑やボンボン育ちの夫が、戦中戦後の か。気位が高く暖簾の古さとしきたりのみが生き甲 聖子さんの「姥」シリーズ主人公歌子さんでしょう のあらまほしい老人像といえば、文化勲章作家田辺 たちは身近に見いだすことができるでしょうか。私 ることはありません。 するだけで事足れりとするのではなく、他人のため 建をはたして隠退した女丈夫です。 でも、うまく老いを取り込んで、長い残りの日々 を美しく生きつづける「可愛げのある老人」を、私 に自分に出来ることは何かないかと、常に問い続け 的にも肉体的にもそして経済的にも自立し、自分な ることで、 心と体の張りを保ちたいと思っています。 人はいつの年代であっても、一生涯「成長が期待 される」存在です。自身を冷静に見つめ反省するこ りの生活の型をもっている。因襲や旧弊にこだわる 三人の息子との同居をこばみ、海の見える神戸の マンションで一人暮らしに明け暮れています。精神 とは誰にとってもむずかしいことですが、旅ならぬ ( 33 ) ば、気むずかしく口うるさい夫とではなく、女のみ 運動、仲間どうしでのシェアハウス運営、旅といえ ル活動・ボランティア活動・消費者運動・環境改善 わが国では男より女のほうが、うまく老いとつき あっているようです。子育ての終ったあとのサーク 老人像なのでしょう。 ようなヒロインです。田辺さんにとっても、理想の ぽさ」 、九鬼周造のいう「いき」の世界を地でいく なのでしょう。 「垢ぬけしていて、張りのある、色っ 多彩なのは、趣味が多くかつ芸事を教えているから りの人々への思いやりにみちている。日々の生活が 困難をのりこえたことによる自信から、心にゆと りがあり、交友関係は豊かで当然のことながらまわ おしゃれを楽しむ。 おっとりとした気品とユーモアにあふれ、年相応の ことなく、進取の気性に富み、発想が柔軟かつ斬新、 是非ご参加下さい。 グレイトと小泉信三などを、紹介するつもりでおります。 ポジウムの席上で、私が敬愛する人物として、エドワード・ こ と が で き ま せ ん で し た。 来 る 十 月 二 十 一 日 の 弘 道 シ ン 〈追記〉本稿では紙幅の関係で美しく老いた実例をあげる 体例を教えて下されば、これからの晩年のモデルと 例でもフィクションでも結構です。読者の方々が具 歌子さんのような魅力的な老人の男性例は、日本 弘道会の関係者の中にもおられることでしょう。実 トにぶつけがちとなるようです。 スイッチが金属疲労をきたし、心身の歪をストレー まろやかになるはずなのに、実際は男のほうが抑止 を迎えるからでしょうか。本来ならば実社会でもま のまわりのことを何一つしようとしないままに老い となってからも妻におんぶに抱っこで頼りきり、身 (本会理事・玉川大学名誉教授) して学びたいと願っています。 れている分だけ、視野も広く社会性も豊かで人格が でツアーを組む「女子旅」……。 日本の男は、幼い頃から親に甘やかされ、社会人 ( 34 ) 【講話会記録】 ネルソン・マンデラに想う (平成 條 高 德 日総会における講話) 中 年5月 名前は日本人の九割の方が、あの十二月の葬儀で初 から、鈴木さんの求めに応じて五十分間、元軍人だ (拍手)こういうのを従軍看護婦という(笑)。です 悟でまいりました。ですから女房まで連れてきて。 願いだ。絶対にやって見せると。戦場におもむく覚 う哀れな姿で、と考えましたが、会長の鈴木さんの すよね。私もたまたま飛行機の中で転倒し、こうい 皆さん、こんにちは。総会が無事お済みになって おめでとうございます。男の美談というのはありま 「 困 難 に く じ け る 人 も い れ ば、 困 難 で 成 長 す る 人 も ネルソン・マンデラの獄中二十七年間、そのとき の言葉があります。 めて知ったのではないでしょうか。 ベル賞をもらったという事実をほとんど日本人も初 二十七年間、獄にあったというこの事実、それでノー パルトヘイトで戦って、そして九十何歳で死んで、 参 り に 来 た。 世 界 中 の 注 目 が 集 ま っ た。 そ れ は ア めて知ったのではないでしょうか。なんと日本の皇 という任が果たせるかどうか、もう皆さんのほうに いる。挑戦を続け、最期の瞬間まで希望という武器 太子もお参りし、アメリカの大統領は三人連れてお その診断の権利がありますが、頑張ります。 を振りかざす。希望はどんなに鋭い斧でも切り倒す マンデラの決意 31 今日、変わった題でしょう。南ア連邦の大統領の ( 35 ) 26 読みをしている。こういう人は、この優れた日本民 えていかなければいけない。というのは、私は今民 ことはできない。自分はこれをもってアパルトヘイ そのマンデラ自身が言っているのです。「日本と いう国が勝っていたら、私の今日はなかった」と。 族歴史の置き換えという、いいポイントと思うんで 族の中にもたくさんいますね。残念無念。 要するに、第二次大戦で日本が勝っていたら、アパ すよ。私の周辺は全部、次々と旧軍は解散している トをつぶそう。どんなに鋭い斧でも希望は切り倒す ルトヘイトはなくなっていたのだろうと言ってくれ のです。戦った人たち、七十年たつのですから、全 ことができない」 ているのです。ところが、現実をながめてみると、 部次々と解散していって、その意味では日本は日本 ですから、こういう真摯な学びをするあなた方に 叫びかけて、そして皆さんの力でどこからかでも変 七十年たっていまだに我が国が悪いのだ。すべて日 的なものを失って弱体化していくのもやむを得ない。 というか、高齢化した人たちが嘆くことは思想の悪 私の大きな仕事に英霊にこたえる会がある。今、 全国を五ブロックに分けてやっていますが、老体化 本を悪いと言って、いささかも顧みない日本人があ まり多いのを私は嘆きを覚えて怒りに思うのです。 歴史を忘れた民族は滅びると言われています。物 事を歴史に学ぶときに一番大事な点は限りなくその こうじゅん 事案が起きたときまで足を置き換えて、そして見る、 化です。歴史の理解が浅いということです。しかし それを歴史なんかさらさら考えてなく、なぜおれた それからいろいろな社会事象の中で、団塊の世代の う今は二十二~二十三%です。どんどん減っている。 そこに誠実さを求めることを歴史の「公準」と呼ぶ。 たとえば一番重大な犯人だった日教組の組織率、も ちの先輩はそんなけんか早くて……という歴史の浅 ( 36 ) 人が日本民族の中で一番無責任というか、感度が悪 いというか、自虐の心にはまってしまっている。こ こに団塊の世代の人がいたら、あんたはそうではな これを修正するには具体的にはどうしたらいいか。 歴史を忘れない い。そういうふうに邪魔になったものも劣化してき 教えて』という僕の本でも、孫に読んであげてほし 介いただきましたが、 『おじいちゃん戦争のことを 覇を唱えている、相対的な価値は落ちたというもの ではあんな美術工芸品ができているのに、なんと今、 りやすいのは京都の銀閣寺ができたころです。日本 のところにみんな戻りましょう。ちょうど一番分か いから出世する。 (笑) やっぱり歴史を忘れた民族は滅びるというのは間 その人たちだってほとんど現役を去って、そして、 違いないね。たった五百年でいいから、戻りましょ もうゆっくり次の時代に入っているから、今日も紹 うよ。今二〇一四年だから、西暦一五〇〇年くらい ていることは事実です。 びっくりします。 立派な日本民族は、マンデラが言ってるように、日 歴史の浅読みによって起こった間違いを正すこと。 するに一等の国だった。そのころに大航海時代が始 皆さんご存じのように、スペイン、ポルトガルが要 アメリカ大陸の発見は一四九二年ですからあろう はずがない。さて、そのころ、どういう状況だったか、 の世界を握っているアメリカがないことに、若者は さ て、 そ の と き に 一 番 大 切 な こ と は な ん と い っ たって、若い人たちに歴史を教えるということだと 本人が勝っていたらというほどの活躍をした。 まると教わりましたよね。それで、その両国が世界 思うのです。ですから、私が試みているのは、この しかし今申し上げたような実態できているから、 ( 37 ) くわけにはいけませんね。次はオランダ、そしてフ 呼んでいるのです。こんな味のいいことを放ってお 扱いせずに奴隷にした。これを歴史は植民地政策と なのは、ここに住んでいた肌の色のついた者を人間 のだと言って、自分の国に運び込んだ。もっと大切 れはみんなおれのものだ。地上のバナナもおれのも スペイン、ポルトガルが隣のアフリカへ行った。そ イン語、ポルトガル語でないと通じないです。その を制圧。だから今、南アメリカへ行ったって、スペ す。北のほうは北狄(ほくてき)と呼んでいたので の で す。 そ れ は 周 囲 は み ん な 要 す る に 蛮 族 な の で いう思想は真ん中の華、おれの華が大きくて立派な えらいです。江沢民がどうのではないです。中華と うと、すでにもう何千年の昔から、もう自分が一番 が尖閣で盛んにやってくるから、あれはどうかとい やがてイギリスもやられる、ミャンマーもやられ る、インドネシアもやられる。全部やられた。中国 でいたと言えますね。 分の見えるところしかなかった。小さい宇宙に住ん たのです。西のほうを西戎(せいじゅう)といいます。 ランス、イギリスが参加する。 とどの詰まりはこの五百年間は肌に色を持ってい ない白色人種たちが肌に色を持っている国々をすべ それで日本は東にあったから東夷(とうい)といっ す。だから入ってこないように、万里の長城を築い て植民地化してきた歴史なのです。 たのはほぼ同じころですよ。だから五百年を戻って てしまう。我々が黄色のエリアでかろうじて、今様 ように、イギリスに仕掛けられてアヘン戦争で負け さて、それでは現実を皆さんそろえてみたらいい、 た。南の方は南蛮。そしておれが一番だと威張って あのヴァスコ・ダ・ガマという男が喜望峰を発見し いる。これが支那なのです。皆さん東洋史で学んだ 見ると、自分が住んでいる宇宙、自分のエリアは自 ( 38 ) キシコに行くと太平洋が見える。見えるとおれの海 ものでなかった。テキサスもそうです。ところがメ 本がものすごく関係の深いカリフォルニアも自分の ア メ リ カ、 新 し い ア メ リ カ、 だ っ て ア メ リ カ は 一七七六年の誕生だから、この間ですよ。だから日 けです。今、荒れているけど。 に言うなら主権を保っているのは、日本とシャムだ 一気に星条旗の五十番目の星にしたのも、歴史の真 ところが、ご承知のように、一八九二年、ちょっ としたことで若いアメリカはすぐ海兵隊を派遣して、 言ってもいいのではないか。 ているハワイはカメハメハ王朝の領土であり得たと た。歴史にイフはありませんが、もしこの結婚が成 歳だと聞いてびっくりした。それでやんわりと断っ 立していたら、日本人が一番今でも行きたいと言っ だと言っていた。 にお婿さんを欲しいとお願いします。山階宮が指さ ということで、それで明治天皇様にうちのお姫さま すが、日本に来て日本は礼儀正しい、信義の厚い国 でにご報告しますと、たぶん明治十四年だと思いま 楽園ではないですか。あのカメハメハ王朝は、つい にした。したがってフィリピンも同じ年。そういう だからあのハワイとグアムは同じ年にアメリカは手 じ年、一八九二年に、アメリカが手に入れたのです。 ム、これを今のお話のハワイを手に入れたまさに同 ら、沖縄から八千人の米兵を移すと言っているグア それと同じ年に今日本で一番情報が行ったり来た り す る グ ア ム で す ね。 ち ゃ ん と 言 う と お り に し た 実でしょう。作り話ではないでしょう。 された。今度の出雲神社はうまくまとまったけど、 ふうに見てくれば、ちょっと失礼な推測ですが、軍 そうすると自分の海にしたい。太平洋のど真ん中 にハワイといういい島があった。カメハメハ王朝の カメハメハ王朝はまとまらなかった。だって姫が五 ( 39 ) ができあがる。そんな我々のほうから見れば不埒な フィリピン、日本の列島をつなげばアメリカの垣根 かったのです。ところが意に反して、日本が勝てたゆ ください。ほとんど日本の勝利を信じている外国はな 終戦と見ればいい。だからあらゆる記録を調べてみて 事学をやらなくても、あの太平洋にハワイ、グアム、 た 白 色 人 種 た ち の 帝 国 主 義 的 な 侵 略 の 植 民 地 化 の 最 構想で各国が見てきているのです。 ルニクス的転換と呼んで世界はほめ称えている。 えんは何なのでしょうか。勝てた。だから今でもコペ そんな状況に日本はどう対応したかは詳しく申 し 上 げ な く て も、 皆 様 方 に は お 分 か り と 思 い ま す が、一八五三年、ペリーが浦賀沖に来たのです。そ そ し て そ の と き に、 も っ と も 強 い イ ギ リ ス は 、 一九〇〇年の義和団の事件のときに、支那に行った それを指揮したのが会津若松藩の柴五郎だ。それほ のときになんとこの国は二六五年、太平の夢をむさ 田門でちょっと血を流した程度で、あるいは京都で ど日本の軍隊は八カ国の中でも光っていたのに、そ 八カ国の中で日本の軍隊が一番規律が高くて、礼儀 ちょっと血を流した程度で、ちょっと、と言ったら んな事実は今の人たちは何も聞いていない。 ぼっていた。と言ったら叱られるかも分かりません 叱られるかも分かりませんが、フランス革命とかよ 正しくて、支那の連中からも慕われているのを見た。 その国と比較してみて、あまり血を流さずして近代 私が言いたいのは、それをイギリスに評価されて、 一九〇二年に日英同盟を結んであったことです。こ が、鎖国が続いていた。これを見事クリアして、桜 国家ができあがりました。 もちろん譲ってもらってから日本が名前を付けたの れが特に日本海海戦の勝利には深くつながっている。 そ し て、 近 代 国 家 が で き て 三 十 七 歳 の と き、 我 が 国はロシアと戦う、この日露戦争というのは今見てき ( 40 ) かったら、はたして五月二十七日の日本海海戦は勝 ですが、巡洋艦を譲ってもらったのです。あれがな 脅威があったか、ご想像できるのではないでしょうか。 ら、この国家にとっていかに歴史的に、南下策、北の 揮 官 養 成 学 校 の 私 の 外 国 語 は ロ シ ア 語 だ っ た。 だ か 若者は人種差別なんて全然意味が分からないと思い てたかどうかすら疑問ですね。そして、恐るべき日 そしてその講和会議にはアメリカのルーズベルト と親しい、適材である金子堅太郎を派遣して頼みに ます。私の若さで、若さと言っては笑われますが、 本民族は勝てた。 行った。 この明治人たちの才覚。 明治の人は謙虚だっ 私は五月の連休は日本が休みで、カリフォルニアは 特に若い皆さんにお伝えいただきたいですが、ア メリカ大統領が黒人がなっているから、今の日本の た。ですから戦争によって何も得るものはなかった ロシアの南下策は一つの大きな課題だった。私は鈴木 それでもそれをクリアした日本民族はなぜなのか。 それを伝えたい。今アメリカの方の話をしましたが、 ろ事件があったくらいだったのです。 ごく不満で、京橋の交番で火をつけるとか、いろい だから日本国民、とりわけ朝日新聞あたりはものす カリフォルニアなんていうのは、なまじっかなもの ることなのです。人種差別、項目で並べてもいい。 ちょっと先生たちから若者に教えてもらったら分か 私の代でカリフォルニアに行ったら、アメリカは いかに黒人に冷たいか。いつ黒人に攻められるか、 に行って得意先周りをしていたのです。 というけれども、平和というものすごいものを得る。 休みではないから、五月の連休はほとんどアメリカ 会長と士官学校で一緒でしたが、私の第一外国語はロ ではありませんでした。それは日本人を強制的に帰 銀行なんか戦々恐々でした。だからこうしたことも シア語だった。あの英米と戦っている最中の軍隊の指 ( 41 ) 案したのは、人種差別の解消です。講和会議の日本の ち組に回りましたから、パリの講和会議で日本が提 約して、たとえば第一次世界大戦のときは日本は勝 せと言われるとか、あまりにもあったから、話を集 にはこうなのです。 で、今の若者たちは知りませんが、だいたい常識的 ぎで軍隊というものがあまりにもたたかれているの ちょっとでもわきまえてくれれば、今ちょっと大急 年にケロッグというアメリカの国務長官とフランス 命をかけた提案は人種差別のことだったのです。 そのころ世界一般も今私が申し上げている人種差 別にずいぶん不満を持っている人たちがいたから、そ のブリアンという外務大臣が、人類はこんなつまら 近代国家というのはあまりにも戦争をやりすぎて みじめだというので、私の生まれる翌年、一九二八 の会議の結論は十一対五になったのです。それにもか の二人が、されど国家の大きな仕事は領土の保全だ。 ないことをやっていて、大変ではないか。もう戦争 めだと言って採択しなかった事実をあまりにも、我々 そこに住む国民の命を守らなければならない。稼い かわらず、その議長を務めたアメリカのウィルソンと 日本人は知らなさすぎるのではないでしょうか。 たときは、その国の責任において守らねばならぬと はやめようと訴えて、多くの国が賛同しました。そ そんな半端な目で冷たい目で見られている日本、 その上で日本はプラス北からの脅威、ロシアという 決めてあるのです。 いう大統領はこんな大事なことは百%でなければだ 大国が常に不凍港を求めて刻々と日本に迫ってくる だ資産を守らなければいけない。この三つを侵され 現実を、今の若者にちょっとでもいいから想定して したがって分かりやすく言うと、その三つを侵さ れたときは自国の責任できちんとやれよと。これが ほ し い と 思 い ま す。 そ う す る と、 国 と い う 概 念 を ( 42 ) が働きかけてほしいと思います。 チャンスという。チャンスを逃すことなく、皆さん ていきます。大変動のときが今来ています。これぞ よき日本を守って戦ってきた人たちもだんだん消え て先ほど触れたように、悪い層も、我々日本を守る ですから、このへんのことをきちんと教えて、そし それすらやらない人がずっと続いてきたわけです。 ケロッグ・ブリアン協定、世に言う不戦条約です。 右翼のように言われますが、我々は暴れ陸軍と言わ と言われますが、これをなくしてはね。これはすぐ そのときに、なんとしても日本のすばらしいのは 万世一系の権力です。万世一系なんて言ったら古い 方々の立ち上がりを期待したいと思います。 念もありますから、どうぞ西村さんの勉強している ない。それではこの日本は立ち上がれないという懸 きた。そこで、ただ荏苒、時を待つというものでは れたでしょう。七十年前のあの終戦のときに天皇と す。一番接しての実感は、一番だめなのは団塊の世 けれど、若者の目覚めは皆さんの想像よりもいいで そのときに鈴木さんがさっきちょっと言ってくだ さったように、中條塾、私はそこで若者を見ている 七十年前の八月九日にひねもす国家最高作戦会議 を開いて、一日かけたのが国家安全のための必要コ 組み合わせと私は言いたい。 が総理大臣、昭和天皇との組み合わせは神の恵みの いう機能がなかりせば、近衛師団長を殺す程度のも 代です。かわいそうです。被害者です。親が戦いに ストであったかどうかは私は判断できませんが、要 これからの課題 行って帰ってきて、とても余裕がなかったといって するに鈴木総理がおれはポツダム宣言を受諾すると のではすみません。これには七十年前の鈴木貫太郎 いい。だから団塊の世代が出て来たら日教組が出て ( 43 ) 長を殺す程度の乱れですんだのです。 たいと地下壕の御聖断をいただいたから、近衛師団 ではどうしても決めかねる。だからご聖断いただき も多いのです。だから、ひねもす会議をして、我々 です。それでは暴れ陸軍は納得しない数があまりに 言ったらすぐ決まったはずだと。それではだめなの から横糸の紡ぎもしっかりする。日本の特徴は何か 横糸も、わが国は瑞穂の国だから田植えをする。だ は、言い伝えがよく伝わる。縦糸の紡ぎです。その上、 大事にしたか。だから先祖を大事にするということ あのお盆を考えてみたら、いかにこの民族は先祖を 聞いてみると墓にもお参りしなかったというけれど、 それから、家族の縦糸の構築、これは大家族主義 だったからできたのです。この縦糸というのは大事 れは天皇の存在は他国では真似ができないのです。 対的な行司、行司と言っては申し訳ありませんが、こ あれは限りなく続くのではないでしょうか。だから絶 す か ら 相 撲 で 言 っ た ら、 絶 対 行 司 が い な い の だ か ら、 すが、シリアという国は全能もなければ神もない。で うです。だからこの三つが、いや、もうちょっとた もう一つは組織をつくるリーダーをしっかり育て てきたことも大きいと思います。武家の時代からそ れも大事なことです。 恥を残す。そんなことをしたらお隣に笑われる。こ たら先祖に申し訳ない。そんなことをしたら子孫に すぐ分かるのは恥の文化なのです。そんなことをし 張って、横糸を入れて紡ぐのが着物だから。だから といったら、このおべべだ。洋服でもいい。縦糸を です。だからお盆を考えてください。お盆、八月な くさんあります。なんとしたってこの三つは世界に 皆 さ ん、 シ リ ア の 今 の 混 乱 を ご 覧 に な れ ば 分 か り ま んて、私のプランはすっからかんになるくらい忙し 冠たるものだと私は信じるものです。だから、この い。お盆は今お遊びのお祭になっているけれども、 ( 44 ) 点を、さらにいい点を助長していけば、この民族は 限りなく明日につながると信じます。 中條 高德先生のプロフィール 「立志の経営」 、 「小が大に勝つ兵法の実践」 、 「孫から 昭和二年 長野県に生まれる ですから、この状況では私もそう長く命がありそ 陸軍士官学校第六十期生 うもありませんが、みんなで長生きのできる人は長 旧制松本高校を経て、学習院大 生きをして、我々の代で日本が笑われるような日本 学 文 政 学 部 を 卒 業 後、 ア サ ヒ にならないようにだけは皆さんしようではないです ビール㈱入社 か。希望を持って。ネルソン・マンデラのように。 昭和五十七年 常務取締役営業本部長(アサヒ これは西村先生や我々の会の責任でもありますよ。 ビール生まれ変わり作戦の企画 ですから、鈴木さん以下、関係の皆さんに深くそれ 立案、実施指導) をお願いして、お話をちょうど時間になりましたの 昭和六十三年 代表取締役副社長 で終わりにします。本当に皆さん、今日はみじめな アサヒ飲料㈱会長を経て、アサ 格好をして来ましたが、これはいずれの日にかとれ ヒビール名誉顧問 る。歯も直って良き男ぶりになったときにもう一度 平成十七年 本会特別会員 ご挨拶にまいります。では、ご静聴を感謝します。 (主な著書) どうもありがとうございました。 (拍手) の質問状1おじいちゃん戦争のこと教えて」 、 「孫から の質問状2おじいちゃん日本のこと教えて」等多数。 ( 45 ) 「日本道徳」再考(四) ―教育者の道徳の欠落― 「道徳教育」と言うと、子供のことを考え、当然、 上から目線の、しつけのことに話が行くが、私は戦 後の大人が、自ら受けた教育によりどのような結果 田 中 英 道 た例があったからである。誘惑にかかりやすい環境 の歌謡界とか芸能界ならともかく(この校長の事件 れるわけにいかないのである。おとな自身が変わら そ、自らを教育し直さないと、子供たちに説教も垂 の「道徳観」の是非を問う意味で、俎上にのせるべ た、という事態は忍耐力の欠落の問題として、戦後 教育者が、自らを律するのではなく、薬に委ねてい は、 人 気 歌 手 ASKA の 覚 醒 剤 事 件 の 影 で、 あ ま り 話題にされなかった)、当人は教育者である。これ なければならないことになる。 仕事をこなすことができたので使っていた」という を生んでいるか、を分析し、それで「戦後教育」の 私は戦後世代の二人の政治家の失脚について語 り、そこに政治家と道徳の関係を触れてみた。今回 理由であれば、ますますこの人物だけにとどまらな を例外的事例として、片づけることも出来ようが、 は、教師の問題を取り上げてみよう。というのも、 い事態といってよいだろう。常用によって、人間が 是非を問うてみようと、と考えている。大人たちこ 最近、一人の真面目であるはずの小学校の校長が、 荒廃していくということは、承知の上であったのだ。 きであろう。「仕事がたてこんで、集中して大量に 意外にも、禁じられている覚醒剤を使い、逮捕され ( 46 ) 〈連載エッセイ〉 長として復帰不可能な恥ずかしい状態に陥ったこと 対するこの言葉は、ただ自分が「逮捕」という、校 して 「申し訳ない」 と語ったということである。妻に のが、生徒や学校に対し詫びるのではなく、妻に対 後、警察署に身柄を移される際、真っ先に口にした だ、ともあれこの人物は教育者である。そして逮捕 ターネットで、事情がまことしやかに語られる。た むろんこれも、決して週刊誌的な興味から、取り 上げるのではない。こうした事件がおこれば、イン しかしそういうわけはない。日本語の「人間」とは、 う。誰しも、これは確かなことだ、と教えられてきた。 後常識となった「個人主義」の基と感じられるだろ 第二十二章「個人と世界」)と語るとき、これが戦 なければならない」 (J・デューイ『民主主義と教育』 ての事物の概念は、個人のなかに、その起源をもた によって権威づけられているものとは異なる、すべ J・デューイには、個人がもっとも重要だ、とい う思想がある。「すべての新しい観念、現行の信念 に対する面子の問題である。 教育者の態度ではない。 「人」だけではく「間」という言葉をつけ加えてい れ、それが日教組などの教育思想に影響を与えたと まず、あきらかにデューイなどの思想から理論化さ れないことであるからだ。この「個」優先の思想は、 だといわざるをえない。少なくとも戦前では考えら 思想があり、これも戦後の「民主主義教育」の結果 ことには、戦後の教師全体にこの「個」優先主義の ここには教育者としてはあるまじき、個人が公よ りも優先している人格がある、ということだ。この ユダヤ人であることにあるだろう。別に感情的にユ なぜデューイの思想が、とりたてて「個人」を強 調するのであろうか。それはひとつに、デューイが ない。 の生活でも、仕事においても、本質的に変わってい とも同じことなのだ。それは西洋においても常日頃 る。これは日本だけのことではない。西洋であろう であり、それなしには生きられないことを語ってい るのである。そこに共同体の中に生きる意味が重要 考えられる。 ( 47 ) カの「民主主義」と思いこんだ。 育思想も支配しようとした。それを日本人はアメリ 思想を流布させようとした結果である。彼らは、教 これを繰り返させないように、一斉にこのユダヤ人 「ホロコースト」を起こしたと考え、「国家」が戦後、 れた必然的な思想であるからだ。 「国家」がナチの いという、 「ディアスポラ(離散) 」の体質から生ま 長く「国家」を持たず、 「個人」でしか生きられな ダヤ人を人種差別しているのではない。ユダヤ人が た人が、「F尺度」が少ない人として、評価される 反対、大いに反対」の中のどれかに丸をつけさせ る。これを即座に、反対とか大いに反対に丸をつけ る」。これに「大いに賛成、賛成、どちらでもない。 尊敬と従属は、子供たちが学ぶ最も重要な美徳であ のだ。例えばこうした問いがある。「権威に対する そむその人のファッシズム傾向度を測ろうというも 法である。二十数個の項目をつくり、その回答にひ うとした、アドルノら、フランクフルト学派の調査 がつくった必然性だとしたと彼らは考えた。日本で 蛮行である。それは「国家」 、共同体といった組織 これは、誰しも賛成と答えるであろう。しかしこれ 考えを乗り越えて自己を確立しなければならない」。 「若者たちは、時として反抗的な考えを抱くもの だ。しかし、彼らも大人になるにつれて、そうした のである。 はそれを「軍国主義」に置き換えた。日教組がいう、 も「反対」としなければ、F尺度が高くなるのであ ユダヤ人、個々人を捕まえて収容所に送り込むこ とをしたが、それはナチのドイツ「国家」が行った 「道徳教育」そのものが、戦前の軍国主義教育の復 る。ということは、若者の反抗的考えを、大人になっ (永久申し立て)とい Contestation permanente う、私が一九六八年、留学中のパリで聞いた「五月 ても抱いていくべきだ、ということだ。 活と唱えるのも、それ故である。 「F尺度」 という指標を彼らは考えた。これは人々 の フ ァ ッ シ ズ ム 度 を 測 る も の で、 権 威 主 義 に 向 か う、隠れた諸傾向を探りあてるための探知機にしよ ( 48 ) う態度である。 多い。決して他人と同調しない、同意しない、とい 在の大人の多くも、この理論に影響を受けた人々が 家である。常に批判するべきだ、ということで、現 を馳せたマルクーゼもアドルノも、この学派の理論 クフルト学派の教育理論の反映である。そのとき名 革命」の標語がある。これなどは、明らかにフラン 何レモ自国ノ安全堅固ノ基ヲ為スニ非ザル者ナシ」 故ニ其徳育ノ条目ハ忠ナリ、孝ナリ、尊王ナリ、愛 ニシテ、世界ノ為ニ之ヲ教育スル者ニ非ザルナリ、 人民ヲ教育スルハ、己ガ国家ノ為ニ之ヲ教育スル者 職アリ、人民ハ国家ヲ保護スルノ天職アリ、国家ガ 「凡ソ国家ハ人民ヲ以テ成ル者ニシテ、人民ナケ レバ国民ナキナリ。故ニ国家ハ人民ヲ養育スルノ天 していた。 国ナリ、信義ナリ、誠実ナリ、勉強ナリ、節倹ナリ、 この「F尺度」については、また別の機会に述べ るが、ともかく、権威とか共同体を批判して、個人 全く反対の立場である。西村がこれを論じたとき、 ところで、このエッセイのテーマのひとつである 西村茂樹は、国家主義教育を主張する。戦後教育の 重の生んだ背景となったのである。 に、戦後教育が、世界中で、この「個人の権利」尊 考える思想を与えられた。実はこれがユダヤ人の思 後は、国家は戦争に駆り立て、国民を守らない、と のみを尊重するような態度は否定するのである。戦 義」で自国の文化にアイデンティテイをもたせる教 これは近年であれば、「グローバリズム」に対して、 ナショナリズムを主張することであり、「多文化主 が一人でも、それに対して反抗させる、というのが、 (「世界主義と国家主義」)と。 文部大臣は西園寺公望で、 「世界主義」を主張して 想であることをすでに述べた。彼らは常に「ファッ 戦後教育の方法に利用されていったのである。ここ いた。すでに今日と同じグローバリズムを述べてい シズム」国家がユダヤ人を排撃したことを忘れない。 育に対応するであろう。「民主主義」教育で、個人 たのである。これに対して西村は、次のように反論 ( 49 ) れを「ナチズム」同様に、考えたのがアメリカ占領 ごく当然なナショナリズムがあっただけである。そ いは「軍国主義」には「反ユダヤ主義」はない。し ズム」を生み出すわけではない。日本の「国家」或 家主義」そのものが「反ユダヤ主義」や「ファッシ ヤ主義」がそこで火を噴いたのである。しかし「国 国民が選択したものであり、ただ伝統的な「反ユダ 決して「国家主義」「愛 だが、「反ユダヤ主義」は、 国主義」から生まれたものでもない。ナチはドイツ があったら自分だけ逃げだすことを教えた戦後の教 家主義をもって隣国日本に対峙しているとき、戦争 中国や朝鮮二国が、彼らなりのナショナリズム、国 説いた西村茂樹の思想は今でも通用するのである。 である。それに収斂していく、日本国家のあり方を 各国はそれぞれの伝統と文化の連続性の中に生き ている。それは我が国では、天皇に象徴されるもの ある。 問うてみることはしない。彼らの欺瞞性は明らかで ないのか、愛国主義がないのか。彼らには、それを 政策であったのである。 たが、それはユダヤ人がつくったものだったのだ。 ない。しばしばこれが進歩的欧米人の思想と思われ 必須である。覚醒剤を飲んで逮捕され、妻に真っ先 れにしても個人さえ保てなくなる状態になることは 個人だけを考える校長によっておこなわれる教育 は、国も民も滅びるか、他国に支配されるか、いず 育は、虚構の教育であることは明らかである。 日独伊同盟を結んだおかげで、日本もとばっちりを に、申し訳ないと語る校長を生んだ戦後教育そのも 「国家主義=ファッシズム」とし あれもこれも、 て非難することは、全くの誤謬といわなければなら 受けることになった。それが、日本の健全なナショ のが、誤りであったことは、明らかだ。 (本会特別会員・東北大学名誉教授) ナリズムさえ否定しようとしたのである。 ユダヤ人が、パレスチナ人を追い出して作った国 家、イスラエルには、そのようなナショナリズムが ( 50 ) ―昭 和 史 回 顧 出陣学徒の自省(一) ― 私の子どもの頃は、日露戦争はわずかに二〇数 年前のことであった。しかし今は、先の開戦から 七〇年を過ぎている。私を育てた恩師、上司、ま た先輩、友人も殆どがすでに鬼籍にある。私の場 合も残り時間は少ない。生き残りの証言としての この文も、今の出版界では「商品」にならない。 このたび日本弘道会の御好意により、「弘道」誌 に分割掲載することができた。 (二〇一四・四・七) 〔細目次〕 安 嶋 彌 一 はじめに(本号) 四 敗戦 二 弱小の日本(次号以降) 五 近代の戦争 三 開戦への道 六 課題 (筆者略歴) 大正十一(一九二二)年、石川県に生れる。昭 和十九年東大法学部卒。海軍予備中尉。二十一 年文部省に入省、五十年文化庁長官、五十二年 東宮大夫、平成元年退官。以後修養団理事長、 日本工芸会会長、前田育徳会理事長、日本赤十 字社常任理事、学士会副理事長等を歴任。現在、 日本弘道会顧問、共立女子学園理事等。 ( 51 ) 〔 連 載 〕 入り、アメリカの初空襲の機影を見た。その後のミッ ドウェイの敗戦のことなどは知る由もない。戦は始 の世代も若く、戦争に参加した人のものは少ない。 全部に目を通すことはできないし、また、その著者 書店に行くと、日本の近代史、特に先の戦争に関 する出版物が多く平積みにされている。とてもこの のようにいった(クセノフォーン「ソークラテース 当然として応じた。ちなみにソークラテースは、次 た。こうした中で私は成人を迎えた。学徒出陣にも う危機感から、戦争に背を向けることはできなかっ 一 はじめに 戦中派の私などとは、やはり見方にずれがある。 の思い出」岩波文庫)。 まった以上は勝たなければならない、祖国危しとい 昭和七年私が小学校四年生の頃、第一次上海事変 が起こり、地元金沢の第九師団に動員令が下った。 人々を咎め立てするのと、どれだけ相違があると 「法律は廃止されることがあるからというので、 国法にしたがう人々を劣等視するのと、平和が結 骨や、また凱旋の将軍をも迎えた。戦死者の公葬は 君は思うか。それとも君は、戦争の際、すすんで 私どもは連日、停車場で日の丸の小旗を振って出征 盛大をきわめた。その頃自分がこの一連の戦争に参 祖国のためにつくそうとする人々を、非難するの ばれるからというので、戦争において軍律を守る 加しようとは、思っても見なかった。旧制四高三年 か。」 兵士を見送った。そして白布に包まれた戦死者の遺 のときに「大東亜戦争」が始まった。その朝の不安 「いや、非難などしない。」 今日、先の戦争は、無謀な戦争であって、不正で あったという。しかしこれは、結果を知ってからの には大きなものがあったが、ハワイやマレー沖の戦 十七年、四高の新年式において私は、生徒代表とし 言説であって、もし勝っていたら何というのであろ 果 を 見 て、 あ る い は と 希 望 を 抱 い た。 明 け て 昭 和 て聖戦の完遂をいった。同年四月、上京して大学に ( 52 ) る。 日ソ戦は起らなかったか、答は見つからないのであ 植民地はそのままであったか、 中国はどうなったか、 どう出たか、欧州の戦局はどうなったか、アジアの のような事件が起らなかったかどうか、アメリカは また、ハル・ノートに従って日本が中国から撤兵 していたら、木戸孝一が心配したように、二・二六 ろうか。孟子は「春秋に義戦なし」といった。 うか。一体、戦争の正否、善悪とは何をいうのであ きことであろう。 恥ずべきことではない。反戦活動もせず、私は反戦 とにしたいという気持を抱くが、しかしその協力は、 文化人が戦争中の協力を隠し、あるいはなかったこ た。それは疾しいことではない。戦後多くの学者、 戦争に協力したが、大多数の国民もまたそうであっ 母国同士が争うことは、珍しいことではない。私は た。また戦争には、個人の道徳や心情では割り切れ ない。戦争には国民の、それなりの共感と同意があっ 気持を禁ずることができない。また戦争で命を失っ なければならぬと感じるものの、やはり無念という 私もおおむねそう思い、個人として応分の責を負わ 昭和四七年の日中共同声明もこれを明記している。 たとするのが通説であり、政府見解も同様である。 学小史」中公新書) 、戦後は、先の戦争は誤りであっ たものだ」と洩らしたというが(熊野邦武「日本哲 していたのである。武山海兵団では、朝日に輝く白 入った。今思えばそのとき、戦争はすでに山場を越 中を何か空しい気持で帰途についた。そして海軍に 「 蝶 々 夫 人 」 を 唱 っ た。 私 は 暮 れ 早 い 晩 秋 の 夕 闇 の われた。学部長の末弘巌太郎が挨拶をし、三浦環が 七〇年ほど前の昭和一八年一一月、小石川の植物 園で東大法学部緑会主催の学徒出陣「壮行会」が行 〇 であったなどと、したり顔をすることこそ、恥ずべ ないものがある。外国の人との間に友情があっても、 万延三年に生れ、昭和二十年に亡くなった三宅雪 嶺は、玉音放送を聞いて「軍人はつまらぬことをし た先輩、友人らの死を「無駄」と見ることにも忍び ( 53 ) より生還、戦後かれと、あの戦争のことを語り継ご 私の海軍の同期で、接触のあった人物といえば、 「戦艦大和」を書いた吉田満(電測、 日銀監事、「大和」 ○ あった。 そして冬前にそこで果てる覚悟をしていた。 戦時には九十九里浜の南端、太東の見張所の所長で て勝浦と御前崎の見張所(レーダーサイト) に勤 務し(そこには、いずれも一級灯台があった)、敗 姿で睨みをきかせていた。私はその後、電測士とし んだ、厚木の三〇二航空隊の小園安名大佐が半長靴 をした。時に二三歳。そこでは、敗戦後も抗戦を叫 空指揮所に勤務し、警戒警報や空襲警報を出す仕事 なった。少尉任官の後、私は横須賀海軍鎮守府の防 ことを知ったという。のちに私はレーダーの担当と 線でアメリカのレーダーを入手し、数歩遅れている では開戦の直前に完成していたが、フィリッピン戦 ダー(電波探信儀)は当時の最新兵器であり、日本 雪の富士に向って、 日々「海ゆかば」を唱った。レー これらの人々のほとんどが鬼籍にある。 橋川文三は、健康上兵役に服さなかったらしい。今、 敏夫(駐英大使)、藤原弘達(評論家)などがいた。 積重行、和辻夏彦、福田敏一、森嶋通夫、庄野潤三 隣のハンモックで寝ていた。また面識はないが、穂 命を失った若者もいる。松本は、舞鶴海兵団で私の まま「大和」で戦死)のように、世の中に出る前に、 大名誉教授)、中塚昌胤(電測、NHK副会長)ら 也(対空、東大名誉教授)、宮川知章(空技、東北 り呉に帰投)、内田忠夫(通信、東大教授)、脇本平 乗組んでいたが、豊後水道で触雷し、航行不能とな 長)、小島英敏 (電測、経企庁次官)、宮岡公夫(航 海、日本郵船社長、かれは大和護衛の駆逐艦・響に 測、会計検査院長)、中村祐三(会計検査院事務次 駐タンザニア大使、「大和」より生還)、鎌田英夫(電 長官)、松永信雄(特、駐米大使)、浅羽満夫(対潜、 (電測、サントリー社長)、中橋敬次郎(特、国税庁 も同期。陸軍には三日月章(東大名誉教授)、山崎 がいる。この外、松本素道(航海、東大経済在学の うではないかと話し合ったことがある)、鳥井道夫 ( 54 ) ビアなどで独裁政権が崩壊すると、国民は元指導者 望も異ってくる。近くでは、イラク、エジプト、リ る人の位置が変るに従って、過去の見方も未来の展 であるとすれば、それは絶えず書き変えられる。見 などは一瞬である。クロオチェ ( 「歴史の理論と歴 史」岩波文庫)がいったように、歴史は常に現代史 にすぎない。まして百年にも満たない私どもの人生 さて人類の誕生といっても、四六億年の地球史か ら見れば、旧石器時代を含めてもたかだか四百万年 ○ の牽牛星、織女星なども同じ。そういう形なり、こ 西洋人は天体に星座というものを見る。大ぐま座、 さそり座、白鳥座、オリオン座などである。東洋人 今日、未来を予想することはさらに困難である。 な情況である。世の中の変化に加速度のついている めていた社会主義革命の運動も今や火の消えたよう 想したであろうか。かつて北に向かって展開してい ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体、中国の抬頭を予 昭和二一年という時点において誰が防衛省の設置や の銅像は、今は殆んど撤去されている。体制が変る たのは当の国民であった。毛沢東もこれに近い。そ の物語にもなる。歴史という巨像は、見方によって 本の歴史も、忠臣逆臣の物語にもなれば、階級闘争 れにまつわる物語は、人間の想像の産物である。日 た自衛隊も、今は南西に向かっている。熾烈をきわ 自衛隊の海外派遣(PKO)を、あるいはその後の の巨像を足蹴りにした。しかしその独裁を支えてき と評価が一転するのである。 評価も変わってくる。 かつて朝鮮戦争が起ったときマッカーサーは、ア メリカ上院において、戦前の日本のアジア政策は正 相貌を異にするのである。現実が変化すれば、その 一九六五年ヴェトナム戦争において、アメリカの 北爆が始まると、戦争は間もなくアメリカの勝利に いてはホメーニ政権は半年も持たないという外交筋 しかったと証言した。彼は日本の主権を代行しては 終ると言った軍事専門家の話、またイラン革命につ の話を聞いていたが、結果は全く逆であった。また ( 55 ) もなく、ジョージ・F・ケナンも次のように述べた 天智などの飛鳥時代以来のことでもあった。戦後間 ティークの真実を理解したのである。それは斉明、 じ め て、 明 治 以 来 今 日 に 続 く 東 ア ジ ア の ゲ オ ポ リ あろう。 入りを避けたアメリカの態度の曖昧さによるもので 今日の北方四島や竹島や尖閣の問題も、戦争直後深 てアメリカは対アジア政策を誤ったといえる。また はずの中国を対抗勢力としてしまった。結果から見 る。人文、社会科学における、普遍的、客観的立場 砲撃戦の場合は、標的が明確に見え、しかも自か らの位置を隠蔽できる位置を選ぶのが常道とされ ○ ( 「アメリカ外交五十年」岩波同時代ライブラ リー) 。 「われわれは、十年一日のごとく、アジア大 陸 に お け る 他 の 列 強、 な か ん ず く 日 本 の 立 場 に 向 かっていやがらせをした」 、 「われわれは、われわ の極東外交を顧みるとき、われわれは、疑もなく、 払うことを拒んできた」 、 「半世紀にわたるアメリカ 日本国に、また昭和、平成の時代に生を享け、それ 評価としては、単なる願望となり易い。私どもは、 ないのである。従って、現実の判断あるいは歴史の なるものも、多く自からの立場を韜晦している。時 われわれの感情的性向に根ざしている奇妙な現象を ぞれ特定の人生を歩んできたという事実は、運命的 れの要求していること(註 中国の門戸開放と領土 保全の原則)が、日本の国内問題の見地からみて、 見出すのである」と。 よって影響を受ける。学者はこれを「存在拘束性」 代を越え、国境を越えた抽象的な位置などはあり得 思えば、アメリカは、多数の人命と莫大な国幣を 費やしながら、先の戦争によって何を得たのであろ というが、これを免れることはできない。私は、先 いかに重要な意義をもっているかについて、考慮を うか。日本の軍国主義を打倒し、沖縄と横須賀に強 の戦争を論評する場合にも、こうしたバイヤスの自 である。人の意見、ものの見方は、この立ち位置に 固な基地を得たとしても、自国のパートナーとなる ( 56 ) 非難することが果して唯一の能事であろうか。 らぬ点は多々あった。それを、したり顔で批判し、 遺産、肩車に乗った上でのことである。先人にも至 から開放されている。しかし、それは先人や父祖の い。単純な厭戦ともいえる。私どもは今、飢寒の憂 心を軽視し、結果からする勧善懲悪史観に陥りやす 帝国主義といった立場を強調するの余り、先人の苦 争の悲惨、平和の貴さ、民主主義、反軍国主義、反 覚が必要と思う。しかるに近現代史家の多くは、戦 たはずもない。従って以下には、戦後学び知ったこ に近代史、戦争史の一般を改めてなぞることはしな 何であったのかと、以下反省的に述べてみたい。故 戦争の時代を生きた者の体験、実感を、それは一体 の資料や論文に目を通しているわけではない。ただ 私は政治史、外交史、政治学、国際関係論等を専 攻する者ではない。従って当然参照すべき、すべて ある。 説し、愁嘆する。地謡も同じ。本稿の位置もこれで である。後場には後シテの亡霊が現われて前場を解 とも少なくはない。 (本会顧問・修養団特別顧問) い。また、二〇歳代の一青年が国政の枢機に通じ得 歴史は、政治、経済、社会における「勢力」の変 化の軌跡である。 「社会力学」の表れである。しか しこれは、過去のすべてを肯定し、讃美することで もなければ、また否定し、非難することでもない。 私は先の戦争を過ったものと考えるし、讃美はもと より、肯定するものでもないが、やはりその経過の 中に身を置いて考えなければならない。当時の人々 が今日に比べて愚鈍、蒙昧であったわけではない。 歴史は複眼的に見なければならない。複式「能」で いえば、敗戦前が「前場」であり、敗戦後が「後場」 ( 57 ) 五十年前の東京オリンピックを迎 えるに当り、日本弘道会はこれを契 機に国民のモラルを高めることを期 待して提言をしているが、それ以前 に、国民の礼法を研究しこれをまと めて冊子にして広く提唱していた。 昭和二十七年三・四月号の「弘道」 は、裏表紙一面を使って『新しい禮 法』の広告を出している。 第一章「容姿」から第三十一章「外 国人に対する心得まで」の目次を掲 げ、その下に囲みで、日本弘道会礼 法 調 査 委 員 会 が、「 全 く 新 し い 構 想 のもとに、新礼法要項を調査、発表 したこと」 、 「内容については、外国 の礼法も参考とし、宮内庁、外務省 等の意見を求め、完備したものたら しめております」と宣伝している。 昭和三十四年七・八月号の「弘道」 では、五年後に東京オリンピックが 決定したことを受けて「国民もまた 応援観衆一般人として、禮儀節度を 守り、国際親善に寄與しなければな らぬ。特に外国人に対する態度にエ に多数注文がありましたが、更に家 チケットの徹底をはかることが大切 庭、職場等でも是非御申込みねがい である。本書は松平信子先生を中心 ます」と、美智子様ブームをあげて に外国禮法を参考として外国人に対 上手に宣伝している。 する心得も助言しており、この際是 非活用を願います」と宣伝している。 また、昭和三十三年八月号の「弘 道」では、会告で「新しい禮法講習 松平信子氏は、礼法調査委員会の 会」を芝公園日本女子会館で三日間 副委員長であり、故松平貴族院議長 開 催 す る と し て、 講 師 に 徳 川 義 親、 夫人であり、永らく女子学習院で礼 川島次郎、松平信子氏らと共に文部 法の実地指導も担当されて斯界の第 省初等中等教育局長の内藤譽三郎氏 が「道徳教育について」講演するこ ととしている。 な お、 内 藤 局 長 の 講 演 は、 当 時、 特設道徳を設けることで、道徳教育 の問題が大きな社会問題となってい た 時 期 で も あ り、『 新 し い 礼 法 』 も 一 人 者 で、『 新 し い 礼 法 』 の 研 究・ この機運に役立ったものと思われる。 普及に貢献された。 昭 和 三 十 年 代 は、 日 本 弘 道 会 が 昭和三十四年五・六月号の「弘道」 最も活発に活動した時期である。オ では、裏表紙一面の広告の中で「松 リンピックを迎えてのモラルの提唱、 平信子先生は、皇太子殿下の御教育 『 新 し い 礼 法 』 の 刊 行、 そ し て、 道 にも当られ、現に東宮職参與、又新 義六団体の一員としての活動などで たに東宮妃になられた正田美智子様 の禮儀作法の御教育にも当られます。 ある。 これまで全国の女子高校から授業用 道義六団体の活動は次回に譲る。 〈弘道余話〉⑹ 『新しい礼法』について 鈴木 勲 ( 58 ) ンのこと。展示物の提供は北京政府 元・明・清と歴代の皇帝コレクショ 紫禁城の別名で、故宮博物とは宋・ かれている。故宮とは北京の王宮・ 六月から三ヶ月間、東京国立博物 館で「国立故宮博物院特別展」が開 対し、日華議員懇談会や民間有識者 たらどうするか。尻込みする政府に 中国が「盗品を返せ」と要求してき 北の故宮博物院展が実施された場合、 介石による収奪品である。日本で台 故宮博物院展実現への道のりは容 易でなかった。中国からすれば、蒋 の国」として、台湾独立路線に舵を 李総統は初めて「台湾と中国は別々 しかし、台湾人、李登輝総統の時 代 に な り、 大 陸 反 攻 は 断 念 さ れ る。 び紫禁城に戻る、というわけである。 には、台湾の故宮博物院文物は、再 の位置付けはどうなるのだろう。大 切った。となると、故宮博物院文物 た。中華民国政府が北京に戻った暁 でなく、台湾の国立故宮博物院であ る。アジア初の故宮展―「神品至宝」 二百三十一点が陳列されている。十 陸へのノスタルジアは蒋介石ととも に台湾に渡ってきた外省人だけのも のだ。そして今は外省人の馬英九政 権である。 らの出品物は提供者に返す、という などが後押しして、三年前、外国か 国が台湾を併合するための“人質” 、 張 す る 根 拠 を 失 う。 故 宮 文 物 は 中 たせば、故宮コレクション所有を主 なんでもない。台湾が完全独立を果 中国は東京の故宮博物院展に沈黙 している。考えてみれば、意外でも や 南 宋 官 窯 青 磁 な ど、改 め て 日 本 文 法律ができ、ようやく難題がクリア ( 59 ) 月からは福岡の九州国立博物館での 巡回展となる。 大 人 気 の 翠 玉 白 菜、名 筆 家 の 手 本 になった書聖、 王義之の 「蘭亭序」 、蘇 軾(蘇東坡)の「行書黄州寒食詩巻」 、 化との深いつながりを実感できる。 された。 唐代山水画、 北宋の汝窯 「青磁輪花碗」 終戦後、蒋介石の中華民国政府は 共産党との内戦に敗れ、台湾に逃れ いか。 台湾のジレンマである。 台湾にとって厄介な預かり物ではな 台湾では、蒋介石の国民党政権時 代、 大 陸 反 攻 を 唱 え て、 学 校 で は た。故宮コレクションの逸品も台湾 に運ばれ、 台北に「国立故宮博物院」 もっぱら大陸中国の歴史を教えてき 澤 英 武 が設立された。 台湾のジレンマ の快通で気持の良い日を送っていた のような事は消失し、一日一回の便 申し上げました。六十歳頃からはそ は何度もトイレに通ったことは既に 私は子供のころは神経質で試験の 日などは落着かず、便意を催うして 使っている故、そこが発達している 来私達一般人の使用しない筋肉を 勢で歩くのですね、その基本は、元 座に堪え、そしてすり足で見事な姿 能楽師は軽々と飛ぶし、長時間の静 会があり、これには啓発されました。 作」なる安田登氏の文庫本を読む機 大 腰 筋 と 私 は 一 応 納 得 し て い ま す。 抵抗を感ずるところがあり、それが をしながら押して参りますと、やヽ て 臍 の 一・五 セ ン チ 下 の 部 位 を 呼 吸 されているそうです。この本に従っ その重要な筋肉を能楽師の方は実践 で、手で直接さわる事は出来ません。 能楽の基本は「すりあし」にもある の で す が、 こ の 一 年 前 位 か ら 逆 に 便秘に悩まされるようになりまし に異常はないのですが、元来の感染 通に戻ってしまったのです。体全体 が、 こ の 頃 ま た 二、三 日 に 一 度 の 便 主張されています。 吐く事から始まり、吸うのは後だと 介しているのです。特に呼吸は先ず ので、可能だと云う事を図入りで紹 術相談役) ( 長 崎 大 学 名 誉 教 授、 結 核 予 防 会 学 良くなりました。 二日に一遍は快通便も戻り、姿勢も 動すると、一日一回は無理としても とめですが、この事を頭に入れて行 康法とは違うのです。私の今回のま 腿部の筋肉のみを発達させてゆく健 これはいわゆるボデイビルディン グとは違う発想ですね、腕や胸、大 あります。 事は良く知られていますが、これも で す が、 仲 々 う ま く ゆ か な い の で す。それで幼い頃冷い牛乳を飲むと 直ちにトイレにかけ込んだ事を想い 出し、毎朝家内と愛飲するコーヒー に約一〇〇㎖位の牛乳を入れてのん 専門医である私には便一グラム当り だところ便通は一時整ったのです 一千億個もの細菌がいることが頭に 骨盤と大腿骨をつなぐ筋肉ですの 私達の使われない大切な筋肉は大 腰筋と呼ばれ、脊骨の腰椎部分から 残って気になるのです。 その頃「身体能力を高める和の所 ( 60 ) 大腰筋を静かに動かし活性化すると 松本 慶蔵 た。そこで以前申し上げましたヨー (40) グルトも飲みその改善につとめたの 便通と大腰筋 点を挙げている。 本の歴史が分かる名著」として十六 そして、 その“虹史観”にかなう「日 「 虹 を 見 る 」 ― 国 民 の 共 通 認 識 と し て の 歴 史 を 著 者 は そ う 表 現 す る。 明治になって欧米留学した学者か ら、日本史研究に新たな光が当てら (一九〇六)年だった。 て、全四百二巻の完成は明治三十九 で を 幕 府 に 献 上。 編 纂 は 続 行 さ れ 五( 一 七 二 〇 ) 年、 二 百 五 十 巻 ま (一六五七)年の作業開始から享保 ければならない。 敗戦後、日本歴史は戦勝国史観と 共産主義史観の餌食となった。著者 戦勝国史観そのものも対象とされな しかし、教育・歴史研究の分野では 大東亜戦争の歴史は敗戦国への極 東 軍 事 裁 判 史 観 の 押 し つ け で あ る。 の大著を出版している。 は、多くの歴史家から無視されがち 著者は日本最古典の、『古事記』『日 本 書 紀 』 が 記 す 天 孫 降 臨 の 神 話 を、 大陸民族とは異なる海洋民族、日本 人の原点と考える。皇室をめぐる貴 な何点かの歴史資料を名著として紹 介している。伊藤正徳の『軍閥興亡 史』、徳富蘇峰の『近世日本国民史』、 『東條英機宣誓供述書』などである。 素行の『中朝事実』の尊王思想に受 徴が「武士の勃興」であることを論 と絶賛している。原は日本中世の特 を「目からうろこの連続の歴史絵巻」 れる。渡部は原勝郎の『日本中世史』 るはずの東條英機の証言を利用した 和史を書いた人で、最重要文献であ たかが分かる、ところが、戦後、昭 連合国側にとって不都合な真実だっ を推す。東條供述書を読めば、何が とりわけ、著者は、正しい歴史を 知る第一歩として東條の宣誓供述書 け継がれてゆく。 証した。さらに、西洋人が納得でき 人がいなかった、と指摘している。 ( 61 ) 人社会を描く『栄華物語』や壮大な 叙事詩『平家物語』に、日本文化を 彩る感性を見る。 「 大 日 本 は 神 国 な り。 天 祖 始 め て 基を開き…」 で始まる北畠親房の『神 渡部はまた、漢文で書かれた頼山 陽の『日本外史』も取り上げている。 る書き方で、ロンドン、ニューヨー 皇正統記』の歴史観がその後、山鹿 江戸時代のベストセラーである。 クの出版社から数百頁に及ぶ日本史 澤 英武 日本史編纂の大事業に乗り出し た の が 徳 川 光 圀 で あ る。 明 暦 三 『名著で読む日本史』 渡部昇一著 育鵬社 2014 年 1200 円(税別) 弘道シンポジウム 二〇一四 「美しく老いるために」 開催要項 ます。 十月二十一日(火)神田学士会館にて 一、日時及び会場 この過去に経験のない高齢化社会の進展に伴い、社会保障 費の拡大とそれに伴う国民負担の増大、 年金給付水準の低下、 ・後 援 文部科学省・日本道徳教育学会 三 テーマ 「美しく老いるために」 ・ 四、開催の趣旨 役割について、先生方からご提言を頂き、ご参会の皆様と共 と向き合う家族やそれを取り巻く社会、国家等が果たすべき 高齢期における人生をより心豊かに、 こうした状況の中で、 より美しく営んでいくために、人々が歩むべき道筋と高齢者 図る上からも益々重要になってくると考えられます。 人の生活を充実させるためだけでなく、社会全体の活性化を て主体的に生きていけるような人生設計を描くことは、個々 きています。一方、 退職後の長期に亘る余生を生きがいを持っ しており、高齢期を迎える人々の心には不安や焦燥が生じて 老人福祉施設の不足、単身老人の増加等様々な問題が顕在化 ・日 時 平成二十六年十月二十一日(火) 十二時三十分~十六時三十分 - 我が国は、世界に先駆けて急速に長寿社会となりつつあり ( 62 ) │ │ ・会 場 学士会館二階大講堂(二〇二号室) 二十八 千代田区神田錦町三 三二九二 五九三六 ☎〇三 二、主催・後援団体 - ・主 催 公益社団法人 日本弘道会 - 五、講師等 に考えたいと思います。 (休 憩) ・追加提言(各五分以内) ・提 言(各十五分以内) ・総括 一六 三〇~閉会 七、記録の公開 ・質疑応答・ディスカッション *基調講演 ・パネリスト(五十音順) 梶田 叡一先生(奈良学園大学長) ) ・講 師 渡部 昇一先生(上智大学名誉教授) *シンポジウム 三〇~開会 ) 佐藤 達夫先生(東京有明医療大学長 土田健次郎先生(早稲田大学教授 ) ・コーディネーター 三〇~受付開始 多田 建次先生(玉川大学名誉教授 六、当日のプログラム 一一 一二 ※総合司会 木屋野 正勝先生 (読売新聞東京本社社友) シンポジウムの記録を本会会誌「弘道」に掲載する。 八、参加方法等 ・参加者 本会役員・会員、友好団体会員、関係学会会 員、教職員、企業関係者、一般市民等 ・参 加 費 無料 ・申込方法 ハガキ、電話、ファックス、又はメールによ り左記にお申し込み下さい。 〇三 〇〇六五 東京都千代田区西神田三 一 六 〒一〇一 公益社団法人 日本弘道会事務局 三二六一 〇〇〇九 電話 〇三 三二八八 ・申込期限 平成二十六年九月二十六日(金) 〇九五六 [email protected] ファックス - ( 63 ) : Eメール - - - ・主催者代表挨拶(鈴木勲日本弘道会会長) ・来賓祝辞(文部科学大臣) 一二 五〇~基調講演 (休 憩) 一四 〇〇~シンポジウム - - - : : : : ▼投稿短歌 蛍レクイエム(その二) 東 京 都 松村早苗 糸 ひ かげ わりなくも惹かるるままにもとほれば時空のはてを 吾も蛍火 明けゆくを惜しみ翳らふ蛍児と幾転生の未来約せり うつつなる身にはあまりにせつなきを追へば蛍の薄 明に消ゆ (未だ行方不明の方々に捧ぐ) を潤す (花と生花の先生) 散歩道美しき花見つけては携帯電話で写て楽しむ 紫陽花 千葉県 砂見茂博 わが花壇に亡き叔父植えし紫陽花が今年も家族の心 照りそふ 年老いて生花教室閉じたれど先生お元気と聞きて嬉 愛しき 仏壇にとりわけ見事な花手向け早世されしご子息偲 しき ぶ ともし へ ほたるご 読み返すたびに目頭熱くなり「レモン哀歌」は愛の はかなし 絶唱 (智恵子抄) 個体こそなけれど智恵子は常に我と共に生きると光 なづみつつやがて消ゆらむ蛍児の灯つめたく燃えて さき 身を借りて君はをさなき姫蛍 前の世の名は忘れ候 かな 吾がもとへ帰りきたりし玉の緒かゆらぐ蛍のかくも 忘れがたき東日本大震災を く よ たましひを焼べて蛍とならむ夜はわきて恋しき人へ 松 坂 弘 編 指先へ伝ひのぼりて飛びたてば形見になびけ光跡の ( 64 ) 弘 道 歌 壇 高々と咲きいそぐ桐の花あふぐ犬四手ときそふその で 太郎悟る 高さよし いぬし 心病みし人をかくまで愛し得るか至純の情を尊く思 夜の闇に羽交締めされゐるけものらをふとしも思ふ * ▼感 想 松坂 弘 ひらめく われの眼の高さに昼間泳ぎゐし熱帯魚は夢に来ては 硝子窓ごし う *新仮名遣い 藤波 長野県 千曲次郎 あまたなる藤波は風にゆれ初めここにし我も揺れ初 めたり あまたなる蝶の群がる様にして藤波は風くるたびに 魂かとぞ見る も音せず 長野県 鹿浜樟夫 雨蛙 夜もすがら啼きあかしゐる蛙らのその楽しみは啼く を思い浮かべました。 松村さんの作品を読みながらふと和泉式部の詠ん だ和歌 にありしや 恋の悲しみを詠んでいます。 出ていった魂かとみえることだ、という内容で、失 沢の蛍も、恋に生きた私の身からふらふらと抜けて 物思いにふけっていると、目の前を飛んでいるあの ・ものおもへば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる 夜もすがら喉ならし飽かぬ蛙らの夏の短きいのちを 式部は中古時代に活躍した女流歌人です。この歌 は、私を捨てて去っていったあの人のことを思って おもふ * ▼選者近詠 松坂 弘 高さを競ふ しろはな 十三階われ天にある思ひもて白雲木の白花見下ろす ( 65 ) 松村さんの歌は、東日本大震災で亡くなっていっ た方々を追悼する作品です。亡くなった人、行方不 来る死者ら ・放射能が近づく気配 稲妻に影さらほれてよろめ ます。被災から三年半も経過しているのに復旧復興 ・被災地に残る桜の咲けるさま映して画像にあふぐ くわれへ が遅々としています。政府は一体何を考えているの 人見ず 温井松代 こと ・福島に在る係累に言及び人は見えなきフクシマ危 明の人への鎮魂の思いを切々と詠んでいて心に響き でしょうか、怒りを禁じ得ません。 ふ ・この国に被災するなく生かされていくばく抱ふ負 なる惟ひを ( 66 ) 砂見さんの作品は身辺の出来事やささやかな発見 を大切にしそれを短歌に読み込んでいて微笑ましさ と懐かしさがこもっていて大いに共感しました。高 村光太郎の詩集『智恵子抄』は私も高校生のころと 大学生のころと二回夢中になった事が思いだされま 日(年末号は休載のため十月は除く) 作品提出期限 偶数月の 千 代田区西神田三─一─六日本弘道会ビル八階 公益社団法人日本弘道会「弘道」編集部宛 〒一〇 一 〇〇六五 10 す。 さて、本誌の前号でも紹介しましたが歌壇の総合 誌には今もって東日本の震災について詠んだ作品が 取り上げられています。以下に、紹介しましょう。 おわ ・震災に泣く人、潤う人あるを憶良在さばいかに歌 わん 波汐國芳 た ・目つむれば暗き海より海草のゆらゆら揺れて起ち - ね ぎ 奥出雲 石原みちを 川崎 鋸南 川崎市 小林 三郎 芦ノ湖や流るる喜雨を禰宜渡船 え ぼ し く ず りゅうすい 夏烏帽子箱根の杜の久頭 龍 水 ◎神佛の磐境の山夏祓ひ (註) 箱根権限社夏の神事 帆柱に生徒の白衣夏鍛錬 ろうるい あふ 緑差す弥撤の蝋涙器に溢る ◎金婚の青空を背に桐の花 豊島区 梅雨明くや天地の暗さ一掃す ◎独り居や着替えし浴衣に悦の境 大夕立怒濤となりて越ゆる河岸 か がん (註) 星霜の八十年を経し感動 河 内 朝 生 編 柴田 孤岩 練馬区 かきつばた 大田区 鏑木 雲州 雲南市 勝部 桃友 杉並区 加藤志偈夫 光琳のひかりありけり燕子花 友遺作のラーゲルの絵や敗戦日 ◎パリー祭スタンダールの“赤と黒” (註) 思い出遙か青春の哀歓 太陽に憧れもてるしやぼん玉 蟻の道厳しき掟守り抜く ◎清らかな瞳に病なき羽抜鶏 もり (註) 酷暑に耐える生命力 はなさかき 榊 香りの重き宮の杜 花なおらい き に剪る境内の濃紫陽花 直た会 ちあおい ◎立 葵 散り敷く参道晴れ近し (註) 梅雨明けを待つ神域 うらだな 裏店に子等の笑顔や金魚売り 奈良唐古 山岡 成光 桑の実の色をけむ深めし山のさ畑 なか ◎境内の立木煙れる梅雨最中 (註) 荘厳の度高める豪雨 ら つぶて 道具屋の暗き灯火螻蛄 礫 け キトラより高松塚へ道おしえ ( 67 ) 弘 道 俳 壇 (註) 百寿目ざし意気軒昂 はり ◎燕の子母待つ納屋の太き梁 (註) 旧家の屋根裏に雛鳥の生命力 横浜市 いのちあるもの皆動く梅雨の夜 尾俣セツ子 世田谷区 新里 昭子 中に咲きて街の花 山帽子雨 たわわ な ◎青梅の撓に生りし日子の生る は 隆司 大野 鎌倉市 三隅田海堂 町田市 おお 横浜市 立石 健三 渡邉 東洋 川崎市 菱の花 クまリじークの水の面覆ひし いさり 南風吹くや海鳴に揺る漁小屋 つく し がらす ◎筑紫野の畦に巣立のカチ烏 (註) カササギの雛鳥 伸昭 武田 横浜市 木下 勝実 蒲 しょう ぶ 入るる花 菖 水郷に艪を漕たわぎ わ え み の青梅撓に妻の微笑 名も木 くどう ◎木道に響く歌聲水芭蕉 (註) 尾瀬ヶ原の初夏 う だち 品川区 山名加寿雄 横浜市 紫陽花や卯建を競ふ美濃街道 しめ りなる奈良の旅 鐘の音の梅雨湿 ◎梅雨晴間山菜狩りの霧ヶ峰 (註) 信州の豊かな山系 せ ぶりやまてんざん 背振山天山遙か麦の秋 しゃくなげ 楠花や女人高野の磴の道 石 ◎子等唱ふ声思い出に更衣 (註) 記憶に遠き情景 出港の汽笛くぐもる梅雨の街 ( 68 ) (註) 吾子出生の思い出 くぐ る水槽世界金魚美し 藻を潜 梅稔る苑の豊かな色の中 さま ◎梅雨に入る苑の木の相花の色 (註) 彩り豊かな梅雨の庭 じゅうやく 十薬の花に埋もれし野の地蔵 故郷へ年忌の旅や梅雨晴間 ◎診療を待つ眼に美しき熱帯魚 (註) 待合室の無聊の眼に ふぜい 明け初めし列島浸す梅雨しげし ◎涼風や永き勤を終へし宵 情を伝ふ色 花菖蒲江戸の風 ‼ (註) 一筋の永年勤続記念の日 もや 靄深き由布岳見えぬ梅雨の旅 ◎更衣祖父の遺愛の白絣 (註) 記憶に鮮明な尊顔 はず 松戸市 中川 弘喜 五十嵐とみ子 船橋市 湯浅 康右 む一色更衣 新作に弾 紫陽花に小さき眸の犇めける け あざな ◎蹴るボール糾ふ如し麦の秋 (註) 記憶に遠き青春の日 のぞ く薄暑かな 格子戸に阿弥陀を覗 夕日入れ紅き真珠となる金魚 ◎鳩くくと庭に来ている走り梅雨 足立区 (註) 季節の使者として鳥の聲 はな (註) 背景にある森の深さ 八王子市 蛇消ゆるだんだら坂の馬籠宿 香にたどるか過去や泰山木の花 ◎箸立てに嫁した子の箸窓若葉 (註) 折々の想いに 松木 荒川区 昌子 飯田孝三 船橋市 重永 泰彦 濃く夏来る 野に山に色彩さを んさん 燦空の青 花桐に光り燦 ◎薔薇五月画展準備の画架立つる (註) 趣味の油彩画に心急く 浅草に戻る賑ひ夏つばめ まなこ 青くぬる 麦秋の木馬の眼 ◎牡丹百咲いて吉祥天女像 (註) 寺苑の日の輝きと人の群 - くち の華となる 餌に寄りし金魚の唇た つ き 窓若葉雨の含みし生活の音 ◎梅は実に子供の国の水車小屋 次回の作品提出期限 (註) 鮮明な思い出の情景 安田のぶ子 - ( 69 ) ‼ 偶数月の 日(年末号は休載のため十月は除く) 一 〒二七四 〇八一八 船 橋市緑台一 三 一 四〇 河内朝生 - 10 - 横浜市 梅雨晴間眼の馴れていく坐禅堂 音楽堂取り巻く梅雨の傘の列 ◎裏門に押し寄せてゐる若葉寒 月) (紹介者) 髙倉 弘 白鳥 正 ⎠⎞ 会 告 年 名 (東京都) 2213 ◎御寄付者芳名(平成 匿 7 6 2 お名前の上の○印は新入会員の方です。 3 お 名 前 の 下 の 括 弧 内 の 数 字 は 会 費 納 入 最終年度です。 自 平成 年 月 日 ◎会費領収報告 至 平成 年 月 日 1 こ の 報 告 を も っ て 領 収 書 に 代 え さ せ て いただきます。 金、一万円也 6 2626 河内 朝夫 (紹介者) 福賴 敬二 和頴 光子 兼折 右慈 佐久間秀子 (宮城県) 西澤 啓文 ㉖ (群馬県) 前田 勇㉕㉖ (埼玉県) 発智金一郎 ㉖ 谷本 良平 ㉖ (千葉県) ㉖ 新里 小藤 計 ㉖ 鈴木 正敏 ㉖ 銚子支会 名分 ㉖ 保治 米田 耕司 ㉖ 日髙 靖輝 ㉖ (東京都) 大内 ㉖ 昭子 ㉖ ㉖ (一般)教職員生涯福祉財団 浩幸 古賀 喜博 ㉖ 関口 昌子㉔㉕ ○宮下 弘充 ㉖ 真辺 将之 ㉖ ○馬場しづ子 ㉖ ○飯田 孝三 ㉖ 石川 正郎 ㉖ 谷口 泰三 ㉖ 師 俊紀 ㉖ 大平 恵理 ㉖ 高岡 浩二 ㉖ 松本淳一郎 ㉖ 近藤 下岡有希子 奈良 威 ㉖ 小島 兼隆 ㉖ 下岡有希子 下岡有希子 下岡有希子 下岡有希子 下岡有希子 下岡有希子 下岡有希子 下岡有希子 下岡有希子 下岡有希子 佐久間秀子 佐久間秀子 八代 美穂 増田 正実 間々田英示 永瀬 大 長妻 美孝 中村 功 古矢 浩祥 益子 泉 城川 早苗 大島 惠子 秋山 里和 石垣 紀雄 真木 泉 佐々木寿洋 (入会者) 6 下岡有希子 26 藤井 浩 佐々木初朗 ◎新入会員芳名(敬称略) 年 月) (支会名) (平成 野 田 岩 手 島 根 安 房 安 房 安 房 野 田 野 田 野 田 野 田 野 田 野 田 野 田 野 田 野 田 野 田 野 田 40 26 4 ご 不 明 の 点 は 本 部 事 務 局 会 員 会 費 の 係 までご連絡下さい。 飯田 孝三 馬場しづ子 宮下 弘充 (入会者) 6 ( 70 ) ⎝⎛ ◎新入会員芳名(敬称略) 年 月~7月) (平成 (府県名) 東 京 都 東 京 都 東 京 都 26 (神奈川県) 篠﨑 昭彦 ㉖ 山口 眞弘 ㉕ (新潟県) 今成 卓而 ㉖ (山梨県) 小木曽照行 ㉖ (京都府) 8月 日(水) : ~ *養源寺において会祖の墓参 出席者 鈴木会長、生平理事、白鳥嘱託、近藤嘱託、大 澤事務局長、小島俊夫、秦きぬ代、堤佳子 8月 日(火) *弘道フォーラム二〇一四を安房支会(千葉県館山市)で 開催(九~十月号で報告) 10 植田 清宏㉕㉖ (大阪府) 00 誤 せん け たかのり たか ぎ ごんぱち ……受けた。 正 せん げ たかのり 千家尊紀 ごんぱち …… 受 け た 高 城 月照寺 げっしょう じ 高城権八が…… 権八が…… げつしょう じ 行目 月 照 寺 たか ぎ 弘道 一〇九〇号の記事に次のような印刷上の誤りが ありました。お詫びして訂正いたします。 ◎ 5 下野 厚子 ㉖ (広島県) 赤松 泰伸 ㉖ 正木 啓介 ㉖ 箇 所 6 河野富士雄 ㉖ (愛媛県) 11 頁上段 行目 千家尊紀 頁下段 35 行目 頁上段 35 ( 71 ) 13 26 38 の偉人」に関する資料開発が行われていることと重ねあわ 話し合い、支会体制のさらなる安定化と会員 総会では平成二十五年度事業の報告と決算 の承認、二十六年度事業と予算の承認を柱に 平成二十六年六月十四日(土)、日本弘道 会岩手支会総会・講演会を開催しました。 総会・講演会実施報告 と話されましたが、「教えるべきことは教える」という言 支 え に な る 道 徳 教 育 を 重 視 し て い か な け れ ば な ら な い。 」 ければならない。その意欲を持ち続けるためにも、精神的 一人が能力を高め、他国に秀でた技術、創造力を発揮しな 人口減少の中で、日本の活力を維持、伸張させるというこ 人の発掘がさらに進むに違いないという気持ちを強くもち せ、子供の生きるための鑑として、身近なところにいる先 相互の資質向上を図るための研修の充実を図 葉とともに印象強く心に残りました。 《岩手支会》 るという提案に沿って活動することを確認し とであれば、一人一人の担う責任は大きくなる。国民一人 ました。また、八木先生は結びとして「高齢化・少子化、 合いました。 しぶりに会った会員同士の交流を図ったり、くつろいだ雰 講演会後には、八木先生を囲んで懇親会を持ちました。 講演内容や教育の動向に触れて個人的に話を聞いたり、久 囲気の中で和やかにひと時を過ごしました。 講演会は、昨年に引き継ぎ、麗澤大学教授であり、教育 再生実行会議委員でもある八木秀次先生をお迎えして、演 題「教育再生に向けた道徳教育の在り方」について講演い (岩手支会事務局長 馬場英彦) ただきました。その内容は、今年度から小中学校で使われ ることになった『私たちの道徳』(『心のノート』改訂版) の意義とその活用、「道徳」の教科化、日本人としての精 神 的 な 支 え に な る 道 徳 教 育 な ど で し た。『 私 た ち の 道 徳 』 =お手本)に触 に つ い て は、 ロ ー ル モ デ ル( role model れた話があり、岩手に関係するものとして、三・四年生用 に「ふるさとを愛した歌人 石川啄木」が、五・六年生用 には、 「 世 界 の 人 々 と つ な が っ て 新 渡 戸 稲 造 」 が あ る と いう紹介がありました。道徳教材として県内各地で「郷土 ( 72 ) 言 葉 の ひ ろ ば ―――― ・ ――――― お元気に御活躍の事、いつも心より 敬しております。前に「日本道徳論を 読む」 、そして此の度は亦「時事小言」 をお贈り下さり日頃の御友情に感謝感 謝で御座います。何れにも共通する基 ります。 庄司昊明 していただきました。詳細については、 担当係りの方で編集作業中です。いず 前夜、雨の「出雲縁結び空港」にご到 れ、支会会員・全国の各支会をはじめ、 着。講演会終了後は寸暇を惜しみ、大 関係の方々にご送付できることと存じ 博物館」や「月照寺(松平家菩提寺) 」 鈴木勲様 ―――― ・ ――――― いつも優れた内容貴重な「弘道」編 集、ご送付頂き、心の安らぎを覚えて 等を駆け足で廻り、支会とのご縁を深 鈴木 会長 公益社団法人 日本弘道会 勲 先生 平成二十六年六月三十日 島根支会長 荒木光哉 御礼に併せ、今後共よろしくお願い を申し上げます。 ます。 める良い機会ともなり、感謝しており 量の銅剣・銅鐸が発掘された「荒神谷 ま す。 土 田 先 生 に は、 ご 多 忙 の 折 り、 皆様のご尽力にご期待と感謝の気持 ちをお伝えします。 います。 内海靜雄 横浜市 導き下さい、会長先生のご活躍をご期 ―――― ・ ――――― とてもよい勉強になり、ありがたく 思っております。本年度もよろしくお 待申し上げております。 幹は西村茂樹先生。先生は現代の日本 の知識層にも余り知らないという数が 平成二十六年度の支会総会・講演会 が去る六月八日に開催されました。 半田市 宮田力松 ―――― ・ ――――― 多いと思いますが、明治維新の第一線 政治家の中では可成り意識されていた 方と思います。例へば福沢諭吉と並び 称され乍ら奔放な実務政治家連にとり 苦手とされる存在だったと思います。 国粋ではない愛国の精神を道徳観に依 「 古 典 と 道 徳 教 育 」 を テ ー マ に、 豊 富 総会後の講演会では、日本弘道会の 副 会 長・ 土 田 健 次 郎 先 生 を お 迎 え し、 を今やっと衣食が足りはじめた日本が な資料をご準備の上、含蓄ある講話を り強烈に主張・位置付けした西村精神 教科に織り込むべき時期と待望してお ( 73 ) ついて右のように確定し、選挙権等に ですが、今回の改正ではまず投票権に 一体的に進めることとされていたもの 密接な関係があり、改正前はこれらを もこの投票年齢は選挙権と成人年齢に 下げられることになりました。そもそ 〇歳以上」から「一八歳以上」に引き 投票の年齢は、施行から四年後に「二 律」 ( 国 民 投 票 法 ) が 改 正 さ れ、 国 民 ⦿「日本国憲法の改正手続に関する法 が晴れることを願ってやみません。 い解決を願ってきた家族の沈痛な思い 役割が正当に果たされて、少しでも早 り、期待が高まっています。我が国の 題が、今度こそ解決へという場面に入 ⦿長い間の懸案である北朝鮮の拉致問 は万全の備えが望まれます。 も起こりうることであり、安全確保に 津波注意予報が発令されました。今後 本 大 震 災 の 余 震 で あ る 地 震 が 発 生 し、 が発生し、沈静化すると翌日には東日 編集後記 ⦿七月としては過去最大の台風第8号 べき使命でもあると思われます。 課題の一つであり、本会会員の分担す ること、これは生涯学習社会の大きな にしていくようなコミュニティをつく のを目指し、社会の文化を高め、豊か あるいは個人として互いに価値あるも に、人々が、共同体として一つのもの、 うな地域社会の絆や善き人間性をもと す。東日本大震災に際して示されたよ ュニティの再生が課題になると思いま 地方の産業振興に合わせて、地域コミ れています。おりしも次の内閣改造で 表になり、地方での人口減少が報じら ⦿住民基本台帳に基づく人口調査が発 ではないでしょうか。 の本質的な議論が十分に行われるべき なによりも先に我が国の青年について 措置を講ずることとしたものです。一 連載が始まります。ご期待ください。 ⦿本号から、本会顧問の安嶋彌先生の ヒントになることを願います。 ポジウムがこの大きな課題を克服する 執筆いただいた諸先生のご意見やシン 再びこのテーマを取り上げます。今回 大半がそうであるからといわれますが、 関心の高いテーマに見えましたが、実 八歳以上とするのは、各国の選挙権の ⦿次号は千葉県館山市での弘道フォー 国 の 見 る 所 に よ っ て 異 な っ て も よ く、 感しました。秋の弘道シンポジウムは、 青年の成長の状況、青年への期待は各 編集人 糟 谷 正 彦 発行人 鈴 木 勲 は 言 っ て い ま す。 大 切 な 着 眼 で あ り、 ラムの内容をお届けします。 (昌) は地方創生担当大臣を置くと安倍首相 東京都千代田区西神田三 一 六 老いるために」は肩のこらない誰しも ⦿本号は緑陰号で、テーマの「美しく TEL 〇三(三二六一)〇〇〇九 FAX 〇三(三二八八)〇九五六 振替口座〇〇一四〇 一 四三一七 公益社団法人 日 本 弘 道 会 郵便番号一〇 一〇 〇 -六五 平成二十六 年八月三十一 日印刷 平成二十六 年八月三十一 日発行(定価五〇〇円) 発行所 - 東京都千代田区神田神保町三ノ一〇 (株)共立社印刷所 印刷所 - - ( 74 ) 際は大変難しいテーマであることを痛 ついては今後速やかに必要な法制上の - 著作家泊翁の出発 全 12 巻 内 ㈱思文閣出版 定価17,000円 (税別) 第2巻:平成16年12月 既刊 定価17,000円 (税別) 第3巻:平成17年 8月 既刊 定価18,500円 (税別) 第4巻:平成18年 8月 既刊 定価17,000円 (税別) 第5巻:平成19年11月 既刊 定価18,000円 (税別) 第6巻:平成20年11月 既刊 定価18,000円 (税別) 第7巻:平成21年3月 既刊 定価19,000円 (税別) 第8巻:平成24年3月 既刊 定価18,000円 (税別) 第9巻:平成22年10月 既刊 定価18,000円 (税別) 第10巻:平成22年3月 既刊 定価16,500円 (税別) 第11巻:平成23年3月 既刊 定価18,000円 (税別) 第12巻:平成25年3月 既刊 定価17,000円 (税別) 日本弘道会編・発行 第1巻:平成16年5月 既刊 集 西村茂樹全 増補・改訂 西村茂樹の学問的な業績を中 心に、その思想と活動の全貌 を示す画期的全集の刊行完結。 ( 修 静 居 跡 千 葉 県 佐 倉 市 所 在 ) 容 第1巻 著作 第2巻 著作 第3巻 著作 第4巻 著作 第5巻 著・訳 第6巻 訳述書 第7巻 訳述書 第8巻 訳述書 第9巻 訳述書 日 記 第10巻 第11巻 第12巻 西村泊翁先生傳、日本弘道會創立紀事、日本弘道會大意、日本弘道會婦人部設立の大意、日本 弘道會要領(甲號・乙號) 、弘むべき道、日本道徳論、國民訓、國民訓對外篇、儒門精言、國家 道徳論、續國家道徳論、道徳教育講話、道徳問答、修身講話、泊翁修養訓 徳學講義、西國道徳學講義、社會學講義、小學脩身訓、日本教育論、或問十五條 心學略傳、心學講義、初學寳訓、女子寳訓、婦女鑑、泊翁巵言 自識録、續自識録、記憶録、建言稿、往事録、偶筆 讀書次第、東奥紀行、随見随筆、校正萬國史略、萬國通史 萬國史略、防海要論、海防新編、農工卅種家中経済、経済要旨、輿地誌略、数限通論 泰西史鑑 格勒革力道徳學、哈芬氏道徳學、 寧氏道徳學、殷斯婁氏道徳學、求諸己齋講義 理學問答、休物爾氏徳學、査爾斯蒲勒氏要須理學、人學譯稿(査爾斯蒲勒氏) 、希穀氏人心學、 可吉士氏心象學摘譯、泊翁日記 論説1 明治7年から明治27年までの間に、明六雑誌、脩身学社叢説、東京学士会院雑誌など に掲載された西村茂樹の論説を収録 論説2、明治28年以降の論説、教育史、求諸己齋蔵書目録、皇太子御教育建言書 泊翁存稿、樸堂小稿、漢詩・詩文補遺、泊翁書簡、雑文集、年譜、西村茂樹稿本目録、語彙索引 申込先 〒101-0065 東京都千代田区西神田3-1-6 日本弘道会ビル8F 公益社団法人 日 本 弘 道 会 ☎03 (3261) 0009 FAX 03(3288)0956 振替0140-1-4317 明治4年7月、泊翁(44歳)は印旛県権参事に任ぜられたが、しばらくして辞職、 県庁所在地の流山より佐倉に帰った。佐倉に住んで著述を生涯の業としようとし、 住居を修静居と名づけた。この前後における泊翁の主な仕事は『泰西史鑑』の翻訳 と『万国史略』の編さんである。 100 80 60 50 30 20 10 5 K 日 本 弘 道 会 本誌の購読料は会費︵三、〇〇〇円︶に含まれています。 7∼8 月号 日 本 弘 道 会 発 行 平成26年 金五〇〇円 ︵税込み︶公益社団法人日本弘道会 まずは老醜をつつしむことから ……………………………………………………多田 建次 ─歌子さんのひそみにならいたい─ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 【講話会記録】 ネルソン・マンデラに想う ………………………………………中條 高德 【連載エッセイ】 「日本道徳」再考(四) …………………………………………田中 英道 ─ 教育者の道徳の欠落 ─ 平成二十六年八月三十一日発行 【巻頭の言葉】徳育に見る地方の教育力 …………………………………………土田健次郎 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 美しく老いるということ ……………………………………………………………渡部 昇一 余白の美 ………………………………………………………………………………玄侑 宗久 美しく老いる …………………………………………………………………………山折 哲雄 美しく老いるために …………………………………………………………………小川 義男 ふしくれたる深山木の、見るからに疎ましく凄まじき様なるべからず ………宮崎 哲夫 恒産なければ ・・・・ ……………………………………………………………………木村 治美 会で交わる ……………………………………………………………………………伊藤 克巳 ─美しく老いるために─ 弘 道 特集 緑陰随想─美しく老いるために 弘 道 第百二十二巻第一〇九一号 平成二十六年七 ∼ 八月号 第百二十二巻第一〇九一号 平成二十六年八月三十一日発行 第 1091 号
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