ネルソン・マンデラ大統領 平成26年2月 昨年12月5日、南アフリカ

ネルソン・マンデラ大統領
平成26年2月
昨年12月5日、南アフリカ共和国の元大統領、ネルソン・マンデラが95歳で亡くなり、世
界中の人々がその死を悼みました。マンデラは、南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離
政策)に敢然と立ち向かい、27年にも及ぶ投獄生活中も不屈の信念で闘い続け、ついにアパル
トヘイトを打破した人です。そして、全人種の自由を実現し、全人種の和解と融和の大切さを説
き続け追い求めた偉人でした。
まず、南アフリカ共和国のアパルトヘイトですが、国民を白人、有色人種、黒人に分け、人種
間のかかわりを絶つことを国の政策としました。人種差別を法律で認め、進めたことが特徴です。
その結果、異人種間の結婚も恋愛も禁止、公共施設やバスや電車も白人用と黒人用に分け、黒人
には身分証の常時携帯を義務付け、違反者をすぐに投獄できるようにするという徹底した差別が
行なわれました。もちろん黒人の選挙権は奪われ、国土の9%の劣悪な居住地に人口の70%を
占める黒人を押し込めるという、基本的人権の尊重の根底となる自由権・平等権を無視した政策
が続きました。
マンデラは、苦労して弁護士となり、黒人として初の弁護士事務所を開設しました。差別され
ている同胞達に関わる中で、自然に反アパルトヘイト活動にのめりこんで行きました。始めは非
暴力の活動を進めていきますが、政府当局の暴力的な弾圧に対抗するために、武装闘争に移って
いきます。しかし、1962年反逆罪で逮捕され、終身刑の判決を受けます。その後、ロベン島
刑務所を中心に27年間も拘束されることになります。獄中の生活は大変厳しく、看守達は黒人
政治犯の人間性を破壊し、抵抗運動の意欲を削ぐためのあらゆる卑劣な手段を使いました。
その後黒人達の武力闘争が激しくなり、鎮圧を強める政府に対してさらにテロ攻撃を激化する
などの悪循環から国内は内戦寸前の状況になりました。そして1976年のソウェト事件をきっ
かけに、国際的な反アパルトヘイトの風潮がたかまり、世界各国は南アフリカ共和国への経済封
鎖に踏み切り、それによって南アフリカ経済は悪化の一途をたどっていきます。そんな中、黒人
達によるマンデラの釈放を求める声が日に日に高まり、国家存亡の危機を危惧した白人の政府で
も、危機回避の切り札として、マンデラの釈放を秘密裏に進める動きが出てきました。
当時の白人達が恐れていたことは、黒人が権力を握った後の報復でした。白人の全財産の没収、
ダイヤモンド鉱山や銀行・企業の国有化などの政策を進める黒人達と白人の対立から内戦に発展
することでした。マンデラの釈放により現実味を帯びてきた将来への不安を感じた白人達が、大
挙して国外に移住するという状況が続いていました。
当時のデクラーク大統領が初めてマンデラと会談したとき、マンデラの顔からは怒りの表情は
消え、その口から出てきたことは、南アフリカ共和国の全人種が自由を確保され、全人種の和解
と融和の上に立った「虹の国」の建設という理想でした。デクラーク大統領は、「マンデラになら
この国の将来を託すことができる。」と確信し、マンデラもまた、デクラーク大統領を「共に仕事
ができる男だ」と感じたそうです。
マンデラは1990年に釈放され、デクラーク大統領により、アパルトヘイトを進めるための
全ての法律が撤廃されます。新しい国づくりに協力した2人に、1993年ノーベル平和賞が授
与され、次の年行なわれた全人種による総選挙で、マンデラは大統領に選出されます。そして現
在もいろいろ課題を抱えながらも、南アフリカ共和国は、国として安定した運営が行なわれてい
ます。他のアフリカ諸国のような政治的な混乱を回避できたのは、マンデラ大統領の大きな功績
であると言えます。
さて、マンデラが武力闘争から、全人種融和による虹の国の建設へと方針を変更したのはなぜ
でしょう。それには、27年間に及ぶ長い獄中での生活が大きく関わっています。
ロベン島の刑務所では、人間性を破壊されるような卑劣な生活が長く続きました。刑務所の生
活の中にもアパルトヘイトは行なわれ、黒人の囚人達は、衣・食・住全ての面で差別されていま
した。家族との面会も手紙のやり取りも厳しく制限されていました。マンデラは待遇改善を反ア
パルトヘイト闘争の一環として位置づけ、粘り強く闘っていきます。
その戦いを、彼は白人の看守達に対して、憎むことでなく敬意を示すことから始めていきます。
マンデラは、自伝の中で当時の活動をこのように回想しています。
「私は常に、担当の看守たちに愛想よくふるまおうとしてきた。敵意は自滅につながる。看守で
あっても考え方が変わる余地はあるのだから、あらゆる手段を尽くして揺り動かしていくべきな
のだ。」
「看守達も、私たちのことをテロリストか革命主義者だと思い込んでいる。しかし、私達が穏や
かに非人種差別主義や平等を求める気持、富の再配分などについて説明するとわかってくれる人
もいた。白人の看守達を偏見のない人たち、自分の味方、仲間に変えることができるのであれば、
南アフリカ中の白人を変えることができる。」
「マンデラの名もなき看守」という映画は、マンデラの活動に揺り動かされていく看守を紹介
しています。主人公は、マンデラの考え方に興味を持ちもっと知ろうとしますが、国家権力の壁
が立ちふさがります。人間として最も基本的な「知る権利」を求めると、自分も家族も危険にさ
らされる、アパルトヘイトにより黒人だけでなく、白人達も縛られている。看守は、それに気づ
かず、差別に加担してきた自己を恥じ、次第に差別や偏見の檻から抜け出そうとしていきます。
マンデラの言葉です。「抑圧された人々が解放されるのと同じように、抑圧する側も解放されな
くてはならない。他人の自由を奪う者は、憎しみの囚人であり、偏見と小心さの檻に閉じ込めら
れている。わたしがもし誰かの自由を奪ったとしたら、自分の自由が奪われたときと同じように、
わたしは真から自由ではないのだ。抑圧される側も抑圧する側も、人間性を奪われている点では
変わりない。自由になるということは、自分の鎖をはずすだけではなく、他人の自由を尊重し、
支えあえる生き方をするということでもある。」
釈放後の記者会見の言葉です。「獄中にいる内に白人に対する怒りは薄れていき、制度に対する
憎しみが膨らんできた。わたしが敵にさえ愛情を覚える一方で、互いに対立させる制度に憎悪を
感じていることをわかってほしい。どういう新体制の下でも白人層の果たす役割は大きい。自由
な国にする前に、国が崩れてしまっては何にもならない。白人を追っ払ったりすれば、国は荒廃
するだろう。白人達にも安心して暮らしてほしいし、この国の発展に尽くしてきた白人達の功績
を、私達が高く評価していることを知ってほしい。」
南アフリカ共和国では、大統領としてマンデラが推進した、差別の完全撤廃、貧困層に向けた
住宅の建設、公共事業による雇用の創出、初期医療と教育の無償化、土地の再配分など、富の公
正な再配分、社会福祉政策の充実などによる「虹の国」の建設が今でも進んでいます。実現には
まだまだ長い道のりです。私たちも、マンデラのメッセージを自分のこととして、お互いに理解
しあい、思いやりの心を持ち、差別のない明るい社会を作るために頑張っていきましょう。
これで、きらめき広場の時間を終わります。