派遣職員報告書

東日本大震災
被災地派遣職員報告書
仙台市若林区内小学校体育館
(平成 24 年1月)
平成 24 年 8 月富士吉田市
編集:東日本大震災支援室
「被災地派遣職員報告」に寄せて
平成 23 年 3 月 11 日に発生した東日本大震災は、国難ともいうべき未曾有の激甚災害とな
りました。本市では、地震発生後直ちに飲料水やトイレットペーパーなどの救援物資や励ま
しのメッセージを被災地へ送らせて頂くとともに、富士吉田市東日本大震災支援本部を設置
し、被災者の受け入れや被災地への職員派遣のための体制づくりを進めてまいりました。
このような状況の中、平成 23 年 5 月 10 日、宮城県仙台市から具体的な職員派遣の要請が
あり、罹災証明発行のための建物被害認定調査等の業務支援を行うため、6 月 22 日から1
年間、事務職員 2 名を1ヶ月交替で仙台市へ派遣することと致しました。
仙台市全体の建物の被害状況は、平成 23 年 5 月 29 日時点で、地震・津波による一部損壊
以上の建物は 30,688 戸、当初の派遣区である泉区内だけでも、一部損壊以上の建物は 4,914
戸に達しておりました。職員派遣においては、本市の代表として被災地復興の業務を行うと
いう重要な使命を帯びており、精一杯職務に励みこの尊い使命を全うするよう指示をいたし
ました。
今回1年間の職員派遣が終了し、報告書をまとめるにあたり改めて自然災害の驚異を感じ
るとともに、本市においても首都直下型地震や東海地震、さらに富士山の噴火による大規模
災害が懸念されており、今回の大震災は決して他人事ではないと感じております。そして、
富士吉田市の人々の生命財産を守るために、今後も災害対策の充実を一層図っていかなけれ
ばならないことを痛感いたしました。
最後に被災地の皆様に一日も早い復旧、復興がなされることを心よりご祈念申し上げます。
富士吉田市長
堀内 茂
目 次
1
派遣職員一覧 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
2
派遣場所 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2
〈各班活動報告〉
3
第1班活動記録(仙台市泉区役所)・・・・・・・・・
3
4
第2班活動記録(仙台市泉区役所)・・・・・・・・・
5
5
健康推進室(名取市)・・・・・・・・・・・・・・・
10
6
第3班活動記録(仙台市泉区役所)・・・・・・・・・
14
7
第4班活動記録(仙台市泉区役所)・・・・・・・・・
17
8
第5班活動記録(仙台市泉区役所)・・・・・・・・・
20
9
第6班活動記録(仙台市泉区役所)・・・・・・・・・
25
10
第7班活動記録(仙台市泉区役所)・・・・・・・・・
27
11
第8班活動記録(仙台市若林区役所)・・・・・・・・
31
12
第9班活動記録(仙台市役所)・・・・・・・・・・・
34
13
第10班活動記録(仙台市役所)・・・・・・・・・・
40
14
第11班活動記録(仙台市役所)・・・・・・・・・・
44
15
第12班活動記録(仙台市役所)・・・・・・・・・・
47
16
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50
○ 派遣職員一覧
派 遣 期 間
所属 職名 氏名 派遣先
H23年
6月22日(水)~7月22日(金)
都市整備課 課長補佐 堀内義広
安全対策課 主任 九川恵太
泉区役所
1班
7月21日(木)~8月23日(火)
福祉課 副主査 安保 尚
人事課 副主査 高根勇樹
泉区役所
2班
8月22日(月)~9月22日(木)
健康推進室 副主査 上杉彰史
企画財政課 主任 荒井慶悟
泉区役所
3班
生涯学習課 副主査 桑原直之
9月21日(水)~10月22日(土) 税務課 主事 志村佳祐
泉区役所
4班
建築住宅課 主任 神尾祐輔
10月21日(金)~11月22日(火) 管財文書課 主事 石塚新吾
泉区役所
5班
収税課 主査 滝口 昇
11月21日(月)~12月22日(木) 市立病院 副主査 宮野房義
泉区役所
6班
H24年
1月4日(水)~1月21日(土)
新倉南線推進室 副主幹 小俣一孝
富士山課 副主査 加藤大輔
泉区役所
7班
若林区役所
8班
1月20日(金)~2月21日(火)
議会事務局 課長補佐 渡辺三洋
環境政策課 主任 小野伸幸
2月20日(月)~3月22日(木)
下水道課 課長補佐 奥脇正彦
都市基盤部管理本部 課長補佐 小野 直
仙台市役所
9班
仙台市役所
10班 3月21日(水)~4月21日(土)
歴史文化課 主幹 渡辺達也
秘書課 副主任 青山貴博
国保・年金室 副主幹 堀内清
農林課 主任 羽田秀基
仙台市役所
11班 4月20日(金)~5月22日(火)
市立病院 課長補佐 渡辺昇隆
総務課 副主任 澤栁幸司
仙台市役所
12班 5月21日(月)~6月22日(金)
健康推進室 保健師 舟久保美幸
保健師 桑原 静
名取市
8月1日(水)~8月5日(日)
※派遣期間には、富士吉田市から仙台市までの移動日も含む。
※所属及び職名は派遣当時で表記した。
-1-
○ 派遣場所
(1) 仙台市泉区固定資産税課勤務・・・・・・・・・・・・・・・第1班~第7班
(2) 仙台市若林区固定資産税課勤務・・・・・・・・・・・・・第8班
(3) 仙台市健康福祉局健康福祉部社会課勤務・・・・・第9~第12班
(4) 名取市(山梨県福祉保健部保健師派遣)・・・・・・・健康推進室
-2-
○ 派遣職員
第1班
活動記録(泉区固定資産税課)
派遣メンバー
都市整備課 堀内
義広
安全対策課 九川 恵太
6月 22 日朝、庁舎正面玄関前において被災地への出発の挨拶をし、企画管理部長等市の幹部の皆
様に見送られる中、大きな不安と小さな自負を胸に抱き、一路仙台市に向け車を走らせました。
河口湖インターチェンジを午前9時 20 分に通過し、群馬県那須において昼食を摂り、福島県内の
町並みや美しい風景を車窓から眺め、東北自動車道仙台宮城インターチェンジを降り、午後4時過
ぎに仙台市愛子にある宿舎に到着しました。
翌 23 日は、午前9時に仙台市役所へ到着、被災担当である中村係長から被害状況と我々2人が携
わる支援業務の内容について説明を受け、その後、担当者に導かれ派遣先である仙台市泉区役所へ
向かいました。
泉区は仙台市の北部に位置し、人口 20 万人を超える地方都市であります。区内には、サッカーJ
リーグで活躍している「ベガルタ仙台」の本拠地ユアテックスタジアム仙台があります。担当の庄
司固定資産税課長と名刺交換を済ませ、課長から業務内容について再度詳細な説明を受けました。
泉区は、内陸部に位置しているため津波による被害はありませんでしたが、地震の揺れによる建物
倒壊・損壊等の被害が大きく、我々の仕事は、このような被災者に対して発行する罹災証明書の根
拠となる建物被害状況調査を行うことでありました。
勤務日は、月曜日から土曜日までで、毎日8時 25 分、担当職員からその日の調査地区が示され、
我々支援チームを含めた職員が指定された被災地区へ赴き被害世帯を臨戸訪問し、家屋被害状況を
調査しました。
当初は、泉区職員から指導を受け、調査しましたが、早くも4日目からは、我々2人に調査が任
され、派遣期間後半には我々より後から派遣された東京都市長会及び北九州の宗像市職員に調査方
法を指導するほどになりました。
調査状況としましては、我々が滞在しているときには泉区全体で罹災証明書発行申請件数が約
36,000 件ありましたが、泉区職員と支援チーム職員とが力を合わせ精力的に調査を行った結果、約
26,000 件の調査を完了することができました。1次調査では、主に、外観・屋根・外壁・基礎部分
について、2次調査では、家屋の中に入り天井・内壁・床・柱・建具・バスルーム等について被害
状況を調査しました。被害判定は、1%以上 20%未満の被害が一部損壊、20%以上 40%未満の被害
が半壊、40%以上 50%未満の被害が大規模半壊、50%以上の被害で全壊となり、被害の割合に応じ
て認定します。
-3-
被災地へ赴く前は、被災者や泉区職員を励ますつもりで乗り込もうと意気込んでおりましたが、
東北人特有の根性と頑張りを目の当たりにし、逆に励まされて帰って来ました。調査については、
約 1,000 件/月に及ぶ様々な家庭を訪問したわけですが、特に、東北大学医学部心臓外科医宅の訪問
は印象的で、先生の趣味や研究の成果、ご家族の温かさなどに接し感銘を覚えました。我々が被災
地に赴く前日に東北地方が入梅しましたが、早くも7月 11 日には梅雨明けし、観測史上最短の梅雨
期となりました。こうした天候にも後押しされ調査についても傘を携えたのは2日間だけで、滞り
なく済ませることができ安堵しております。
また、仙台市愛子地区にある宿泊所から泉区役所までの通勤手段については、公用車か、電車を
使用しましたが、富士吉田市での通勤実態に身体が慣れていたせいもあり、少々きつい感じがしま
した。また、宿泊所の生活についても、家事を家人に全て任せてきたつけが回り、特に食事や洗濯
で不自由な思いをいたしましたが、日を追うごとに仕事にも宿泊所生活にも慣れ、中盤以降は、独
居生活と自炊を楽しむ余裕さえ生まれました。
今回の「東日本大震災」の発生は、富士吉田市においても決して他人事ではありません。家庭や
地域、事業所、公共機関などが防災対策に関するそれぞれの役割を再認識する中で、発生の確率が
高いとされている東海地震、首都直下型地震、富士山噴火などに対する備えを万全にする必要があ
ります。
「備えあれば憂いなし」。言い古された言葉ですが、今回の被災地への派遣で、この言葉の
持つ重みをこれまで以上に強く感じました。がんばれ東北!がんばれ日本!今後においても、我々
の経験や知識が少しでも富士吉田市や市民の皆様のお役に立てるよう努めて参ります。
現在、第2班が引き続き泉区に赴き、我々同様、家屋被害調査に汗を流しております。市民の皆
様のご支援を心からお願い申し上げるとともに、第2班の安保君と高根君のご健闘を祈ります。
-4-
○ 派遣職員
第2班
活動記録(泉区固定資産税課)
派遣メンバー
福祉課 安保
尚
人事課 高根 勇樹
〈第2班 その1〉
現在、仙台市泉区役所固定資産税課に職員派遣で支援業務を行っている第2班の安保尚と高根勇
樹です。
私たちが勤務している仙台市は、人口百万人を超える東北地方最大の都市で、青葉区、太白区、
泉区、宮城野区、若林区の5区からなっています。
私たちが勤務している泉区は、仙台市北部に位置しており今回の東日本大震災では内陸部である
ため津波による被害はなかったものの、昭和30年代後半から丘陵地で住宅開発がすすめられて形
成された街なので、地盤が緩い土地も多く地震による建物被害が多く出ています。
仙台市の人口1,037,093人に対し、泉区には211,310人の方が生活しており、現
在までに3万件以上の罹災証明の申請があり、今でも毎日200件を超える申請があります。
現在の支援業務は、先陣を切って派遣に赴いた第1班の本市職員 2 名(堀内義広・九川恵太)が
行っていた罹災証明に係る家屋調査を引き継ぎ、平成23年7月22日より泉区内の家屋調査を行
っています。
1日の流れは、仮宿舎となっているアパートから派遣先の泉区役所まで、1時間程度かかるため
朝7時10分に車で出勤します。
8時20分より行われる朝礼に参加、その日担当する調査先を告げられます。ノルマは日によっ
て変動しますが、1 日20件前後となっています。
調査内容は家を①外観②屋根③外壁④基礎の4点から住家の損害状況を判断する一次調査とさら
に①外観②屋根③外壁④基礎⑤天井⑥内壁⑦床⑧柱⑨建具⑩装備の10点から住家の損害状況を判
断する調査です。
勤務は月曜日から土曜日までの週6日間ですが、仙台市泉区役所の職員さんたちは最近まで休み
がなかったそうです。当然のことながら泉区役所の職員も皆さん被災者である訳ですから、身近で
勤務状況を見ていると今回の震災による被害の大きさを改めて感じさせられます。
私たちの他にも福岡県宗像市、大阪府堺市など全国から応援チームが来ています。
皆さんは災害の復興支援と罹災証明書の発行業務との関係がピンとこない人も大勢いらっしゃる
かと思いますが、被災市民の方が支援を申請する際の証明書として、罹災証明書は重要なもので、
これがないと今回の災害によって受けた被害に対する支援を受けられないのです。復興に向けて、
仙台市民の方々は余震と闘いながら毎日の生活を続けているので、罹災証明書の発行は急務となっ
ているのが現状です。
被災地である仙台市の震災復興のために業務を支援させていただくとともに、本市の防災対策に
ついても学びたいと考えています。
また、勤務の合間をみて、今後も近況報告をする予定ですのでご覧ください。
-5-
〈第2班 その2〉
今回は、第 2 班が行っている仙台市泉区内での罹災証明に係る家屋調査の様子について、
写真を交えてご紹介いたします。
【私たちの仕事風景です】
罹災証明を申請した世帯の方に確認しながら、
調査の結果は、被害家屋の写真と調査票で区
調査票を記入します。
役所へ報告します。
申請者の方から聞き取りを行います。
調査のために訪問したお宅での一コマです。
夏休みで子どもたちが家にいます。
家族の方と話をするうちに、子どもたちともすっかり馴染んでしまいました。
【地震の被害が泉区内の至るところで見受けられます。
】
泉区松森陣ヶ原集会場前にて
-6-
同集会場玄関アプローチ
同集会場裏側
危険度に応じて青、黄、赤の判定が行われて
います。
私たちの派遣期間も折り返しを過ぎましたが、引き続き被災地のために頑張ります。
8月5日 仙台市泉区派遣職員 安保
尚
高根 勇樹
〈第2班 その3〉
7 月 22 日から始まった第 2 班の仙台市泉区での勤務も、折り返し期間となりました。
被災世帯を訪問して家屋状況の調査を行う業務にも慣れてきた中で、休日である 8 月 7 日(日)
に仙台七夕祭りがあることを知り、身近で見ることができるのも派遣中ならではと思い、また家屋
調査で訪問した世帯の方々からのお祭りに行ってくださいとの声に誘われ、七夕祭りを見物するこ
とにしました。
仙台の七夕祭りは、仙台藩祖伊達正宗公が技芸の上達を願う星祭りとして奨励したといわれ、維
新の変革とともに大正末期にかけて衰退しましたが、昭和初期に商家の有志達が不景気を吹き飛ば
そうと華やかな七夕飾りを復活させました。しかし勃発した戦争で再び七夕飾りは街から消えてい
きましたが、終戦の翌昭和 21 年には商店街に 52 本の笹飾りが立てられ、
「仙台商人の心意気」を見
せて市民を大いに勇気づけたということです。
震災の影響により今回も開催が危ぶまれたものの、「復興と鎮魂」をテーマに 8 月6
~8日に開催されました。全国から支援する七夕飾りが届いたり、被災された方々からの感謝の七
夕飾りがあったりと復興・再生の象徴としてこの七夕祭りが盛大に行われました。
青竹に飾られた巨大なくす玉に色とりどりの和紙、風にたなびく笹飾りなど仙台市が誇る七夕祭
りの様子をご紹介させていただきます。
-7-
スタートは仙台駅です。
駅構内からこんなに大きな七夕飾りが
出迎えてくれます。
駅や会場には高校生やボランティアの会場案内
各商店街、商店が七夕飾りの美しさを競います。
がありました。
避難所の皆さんによる七夕飾りです。
仙台市内の全中学校から集められた千羽鶴。
-8-
(七夕飾り①)
(七夕飾り②)
「鎮魂・復興」への願い
私も願いを書き込みました。
今年の金賞七夕
飾りです。
富士吉田市 仙台市職員派遣 2班 安保 尚
-9-
○ 派遣職員
健康推進室
活動記録(名取市)
派遣メンバー
保健師 舟久保 美幸
保健師 桑
原
静
私たちは、山梨県福祉保健部による東日本大震災被災地への保健師派遣により 8 月 1 日~5 日まで
の 5 日間宮城県名取市にて業務を行ってまいりました。
現地では、仮設住宅に入居されている方の家庭訪問を行い、健康調査及び身体的・精神的ケアを
行ってきました。
ハード面では少しずつ復興を目指そうという動きがある傍ら、被災された方の心の傷は癒えてお
りません。初めて会った私たちに、話しながら大粒の涙を流される方、悲しく辛すぎる思いを必死
にこらえる方、
「自分が生きているのは津波で亡くなった家族が守ってくれたからなんだ」と気丈に
ふるまう方、「自分がしっかりしなければ」と体調を崩しながらも頑張りすぎている方・・・様々な方
にお会いしました。
保健師として今何ができるのか・・・。震災を忘れようとし、ひたすら前を向いてもらおうとする支
援ではなく、当時の状況や今感じている思いをできるだけ多く表に出してもらい、心の奥底に溜ま
っている【様々な想い】の整理につながる支援を心がけて行いました。
現地の状況
名取市は宮城県のほぼ中央に
位置し、人口およそ 7 万 2000
人で、東日本大震災では、死
者・行方不明者が 1000 人を超
える被害がありました。
ゆりあげ
私たちが派遣に赴いた閖上
地区は、漁業がさかんな港町で
あったそうです。高いところに
上ると、数キロ先に は海岸線
が見えるような場所に位置し
ています。
震災から 5 ヶ月が経過してお
りましたが、海岸から数キロに
渡って一面は何もなく、住宅街
であったところに未だ船が横転していたり、大木が倒れていたり、がれきが散在しているなど震災
から時が止まったような状況でした。
- 10 -
ゆりあげ
閖上地区は、市の中でも津波被害が最もひどかった地区です。住民のほとんどの方が津波で家やご
家族を失っています。
津波が襲ってきた方向へ電柱の傾斜があります。
水は 3 階まで押し寄せました。
(海岸から 3~4Km)
がれきが散在し、未だ手付かずのままです。
津波による被害
- 11 -
仮設住宅の様子
ゆりあげ
閖上地区で暮らしていた方のほとん
どが仮設住宅に入居しています。同じ
敷地内にはバリアフリーの仮設住宅も
設置されております。
既にライフラインは通っており、食
品類の調達もスムーズにできる状況で
す。
派遣中には 74 件の訪問、81 件の相談
がありました。
その内容は、問診、血圧測定や受診・
内服の確認、体温計の配布、熱中症予
防のお知らせをし、必要に応じて現地
の保健師に継続支援の申し送りを行い
ました。
その他、電化製品の使い方の説明、携帯電話
の使い方、1 人暮らしの男性へは調理の仕方、体
に不自由がある方には水分の調達などの日常生
活援助も行いました。中には仮設住宅への不満
の訴えもあり、細部にわたる生活の不自由さを
痛感したこともありました。
身体面においては、慣れない土地・空間の中
での生活、家族や財産を失った精神的ショック、
余震の恐怖、将来への漠然とした不安・・・などか
ら、高血圧、睡眠障害、腰痛・肩こりなどの慢
性疾患の発生や悪化を訴える方が非常に多かっ
たです。
精神面においては、PTSD(心的外傷後ストレ
ス障害)の症状の方が多く見受けられました。
実際にお話を伺って、何と言葉をかけていい
のか悩んでしまうような内容ばかりでした。
今後じっくり時間をかけて話を聞き、共有し
ていくことが必要であると感じました。
- 12 -
しかし、前向きな方も多くいらっしゃいました。
高齢者世帯の多いこの仮設住宅には訪問販売の車
両が定期的に巡回します。
スピーカーから発せられる音楽に人々が集い、情報
交換の場にもなっています。人が集まると、会話が弾
み、そこには笑顔がこぼれていました。
「横に住んでいる方、最近外で見かけないのよ・・・
とっても心配だわ」 自分のことのように近所の方を
心配するという、古き良き土地柄がにじみ出ていまし
た。
また自由に使用できる集会場も設置されており、随時催し物が開催されているようです。震災前
から培われていた住民同士の【きずな】や【コミュニティーの活発さ】を痛切に感じました。
自由に集える集会場
私たちが元気をいただきました。
今回の派遣で、
① 普段から健康状態を維持できているか
② コミュニティー(近所)の結びつきを強めておけ
るか
③ 危機管理がきちんとされているか
について改めて考える機会をいただきました。
【助ける側も被災者】という状況の中、保健師として
住民の方と支えあいながら乗り越えていくために、今
何をしなければいけないかを考えながら、日々の職務
にあたっていきたいと思います。
被災された皆様の 1 日でも早い復興をお祈りしております。
- 13 -
○ 派遣職員
第3班
活動記録(泉区固定資産税課)
派遣メンバー
健康推進室 上杉 彰史
企画財政課 荒井 慶吾
仙台市泉区での業務は、第 1 班・第 2
班に引き続き、地震により被害を受けた
家屋を、所有者の申請内容に基づいて被
害状況の認定を行うものでありました。
震災から約半年経過していることか
ら、大規模な被害を受けた建物は、既に
取り壊されているものが多く、調査した
家屋は比較的小規模な被害を受けている
ものが多く見受けられました。
実際に訪問し所有者のお話を伺うと、
地震や津波の爪痕は今も住民の皆様を苦
しめており、津波により家族が流された
などつらい体験からくる精神的な問題・
金銭的な問題等抱え、多くの方が苦しん
でいるのが現状です。
私たちの家屋調査による認定内容によ
り、皆様の善意の結集である災害義援金
の額や各種支援制度の可否が決定されま
す。その責任の重さを認識しつつ、2 人で
常に認定方法や基準を確認しあい、他の
市町村や仙台市泉区職員と話をする中
で、公平で公正な認定について常に考え、
業務を行っておりました。
ただ、罹災家屋の認定は、地震での家
屋の被害状況のみで点数をつけるので、
一定の点数までいかないと、災害義援金
を含めて様々な支援制度を受けることが
出来なくなります。
- 14 -
そのため家屋の被害を免れたとし
ても、津波等により職を失い再就職
先も見つからず生活に困窮している
方、津波の影響により海岸沿いに住
んでいた親戚が引越して来て生活費
が増えている方、地震による精神的
なショックにより通院を余儀なくさ
れその費用が生活に重く圧し掛かっ
ている方などおり、皆様の善意の結
集である災害義援金について、罹災
制度の仕組上、地震で本当に困って
いるのが明らかであるのにその方に
お渡しできないケースもあるという
ジレンマと常に葛藤しながらも業務
を行いました。
ただ、仙台市にお住まいの皆様は
とても前向きでエネルギッシュな方
が多く、つらいことや苦しいことも
あったと思うのですが、復興に向け
て皆で力をあわせて、がんばってい
こうとしております。
私たちが、富士吉田市から応援で
来た事を知ると、ねぎらいの言葉を
かけてくれたり、富士吉田市に観光
に来て市内のホテルに泊まられたと
のことで、富士吉田はとても良い町
ですねと褒めてくださる方や、落ち
着いたら富士吉田市まで富士山を見
に来ると言ってくれる方もおり、遠
く東北の地でも人情はなによりあっ
たかいと感じました。
- 15 -
仙台市泉区の職員の皆様を始めとし
て、堺市、高崎市、相模原市、名古屋
市、宗像市、国税局等多くの職員の皆
様とペアを組み、罹災証明に関する仕
事の話から始まり、趣味の話、時には
プライベートな話にいたるまで、話を
しました。
通常業務で他の市町村と同じ仕事を
する機会はなかなか無く、ともに仕事
をしていく中でお互いの信頼関係が構
築され、気軽に会話が出来るようにな
った方もおり、今後行政の仕事をして
いく上で、他の市町村に知り合いがい
ることは大きな財産となったと思いま
す。
万が一富士吉田に災害があった場合
は駆けつけてくれるといってくださる
方もおりまして、多くの市町村の方々
との信頼関係の構築が出来たことが一
番の成果ではないかとも感じました。
地震を始めとした災害は、いつ来る
のかわかりません。災害への備えは起
きてからでは遅く、常に準備し続ける
ことが重要です。いざ災害が発生した
ときには災害は待ってくれることは無
く、悪化の一途をたどっていきます。
我々職員一人ひとりが他人任せではな
く自発的に考え、行動し市民の先頭に
立って、起こりうる様々なケースを想
定することが重要であり、担当課では
富士吉田市役所健康推進室
副主査 上杉 彰史
企画財政課
主 任 荒井 慶吾
無いからといって知らぬ顔をしない
で、職員皆で力をあわせて災害に立ち
向かうことこそ、公務員としてあるべ
き姿なのではと今回の災害派遣を通じ
- 16 -
て自覚しました。
○ 派遣職員
第4班
活動記録(泉区固定資産税課)
派遣メンバー
生涯学習課 桑原
税務課
直之
志村 佳祐
9 月 21 日に上陸した台風 15 号の影響による自然の猛威を目の当たりにしたところから、私たちの
派遣はスタートしました。
仙台に向け高速道路を走っていると、山間部では土砂が崩れたり、木が倒れていることが随所に
見られ、一部の高速道路では通行止めになっている場所もありました。
また調査を開始してからは、地震の影響によってできた外壁の隙間から、雨水が浸透してきたと
いうこともお聞きしました。
仙台市泉区の職員派遣も第 4 班目となり、罹災証明申請
は、仙台市役所とアエラ(駅ビル内)のみで受付を行って
おり新規申請件数は減少している傾向にあります。
私たちは、罹災証明認定調査業務として家屋内を調査する 2 次調査や認定結果
に不服のあった家屋を違った目で再度調査する再調査業務を行っています。
2 次調査や再調査では、実際に被災者立会いの下、外観や家屋内部の調査を行う業務であり、その場
での判断が要求されるため、自分の目で現状を確認し、被災者のお話を伺う中での細かな情報が大
変重要になります。
しかし、震災から 200 日以上が経過し、家屋の修繕を行っているところも多く、調査時に認定が
困難な場合があります。公平な認定となるようにお話を伺い、修繕の明細や修繕前の写真を確認さ
せていただき認定を行っています。
毎日、被災者からお話しを伺う機会があり、業者に修繕を頼んだけれど 3 ヶ月待ちで順番を待っ
ているところや、建築業を行っている被災者は、材料が手に入らないなどといった声をお聞きしま
した。復興が進んでいる中でも停滞している部分もあり震災復興には多大な時間と労力が掛かるも
のであると改めて痛感しました。
派遣期間中に休日を利用して仙台で様々な経験をさせていただきましたので、ご存知かと思いま
すが紹介させていただきます。
未だ爪痕残る海岸線近くの現状
全高 100m の仙台大観音
- 17 -
仙台名物!
「がんばろう宮城・東北」が合言葉
仙台藩主「独眼竜」
松島や ああ松島や 松島や
9 月 22 日から 10 月 21 日までの1ヶ月の業務を無事終了することができました。
1ヶ月という長いようで短い期間でありましたが、その間休日を利用して仙台周辺の観光地やみ
ちのく YOSAKOI まつりに参加することができました。YOSAKOI まつりでは、全国各地から集まった参
加者の方や地元の方からの「日本をひとつに」という強いパワーにじかに触れることができました。
また、津波被害のあった石巻市などを見に行きましたが、廃棄物となったがれきの山やごみの山、
津波で壊れた車が積みあがっている様子などテレビ・写真で見たものとは違い、自分の目で実際に
見て改めて自然災害の恐怖を感じました。
- 18 -
一方で、私たちが富士吉田市から応援できたことを知った方の 9 割が
「静岡県から来たのですか?」
と言われ、山梨県富士吉田市の認知度が低いことを感じました。調査に伺ったお宅には、ぜひ落ち
着いたら富士吉田市に富士山を見にいらしてくださいと、アピールを行いましたが、富士吉田市を
全国的にアピールすることが必要だと改めて感じました。
震災当時の様子、状況などを泉区役所の職員や仙台市本庁の職員から多少お話を伺うことができ
ましたが、市の防災対策マニュアルが通用しないこと、指揮命令系統がスムーズにいかないことな
ど、課題が多々あげられました。1 週間後に自衛隊が対策本部に介入してからようやく指揮系統がス
ムーズになり状況把握や伝達、物資支援などが回ったことを聞き、とても参考になりました。
本市防災を考える上において、今回の災害支援によりできた仙台市との繋がりを大切にし、未曽
有の大災害となった今回の震災を教訓に、東海地震、首都直下地震、富士山噴火などにおける対策
を考える上で、直接防災担当者と話をし、何ができて、何ができないのか、何が必要で、何が必要
でないのか、初動体制の見直しや自衛隊との関係など様々な課題が出てくると思います。災害対策・
復興に際し、様々な人や他市町村職員、ボランティアが業務にかかわる中で知っておくべきことだ
と感じました。
また、職員として対策にあたる中において被災地職員の生の声を聴く機会をぜひ設けていただき、
全職員の意識向上を図ってもらいたいと思います。
- 19 -
○ 派遣職員
第5班
活動記録(泉区固定資産税課)
派遣メンバー
建築住宅課 神尾
祐輔
管財文書課 石塚 新吾
私たちは 10 月 22 日から 11 月 21 日までの間、仙台市泉区役所への派遣業務に第 5 班として行っ
てまいりました。業務内容はこれまでと同じく罹災証明発行のための 2 次調査や再調査です。
出発前に原子力発電所や頻発する余震に関する報道を見聞きしており、そちらの不安もありまし
たが、それよりも業務に対しての不安の方が大きいものでした。事前に資料を読み、また既に派遣
業務を終えて帰ってきている職員から業務内容は聞いていましたが、詳しくは現地で前任者に確認
するつもりでした。派遣先に到着した 10 月 21 日に区役所で前任者より引継ぎを受けましたが、内
容は毎日のスケジュール、デジカメ写真の取り込み方法などで実際の調査に関するものはほとんど
ありませんでした。
「明日から業務が始まるのに引継ぎはこれだけ?」の問いに対して「全件状況が
違うため、あとはやってみなければわからないから」との優しい返答に、実践あるのみ、覚えるし
かないと決心がつきました。
翌日から業務が始まったわけですが、私たちが行った時には既に震災から 7 ヶ月が経過していた
にもかかわらず、伺うお宅の大半の屋根はまだブルーシートで覆われており、修理をしていても応
急処置的なものでした。修理業者さんにお願いしても人手が足りず、なかなか来ていただけないの
だそうです。あるお宅で伺ったところ、屋根の修理が必要な戸数 30 万戸に対して、私たちが伺った
10 月時点で修理がきちんと終わったものはまだ2万戸ということでした。
仙台市に到着したばかりの頃、市内の幹線道路を車で通行した際には、店舗等も多く、また普通
に営業しており、とても被災地には見えませんでした。しかし、実際に調査に訪れてお宅の中を見
せていただくと、すべてのお宅に震災の被害が見て取れました。判定業務では 20%以上の被害で半
壊や大規模半壊、全壊となり、固定資産税の減免や義援金の申請などができますが、20%未満の一
部損壊ではそれらの制度がありません。一部損壊でも被害を受けているわけで、その修理はしなけ
ればならないのですが、これらの制度が使えないため、一部損壊と判定結果を告げるのは大変心苦
しいものでした。それでも仙台市の方はとても優しく、ご自分が大変な時なのに調査に行った我々
の体を気遣ってくださったり、震災当時のお話を聞かせてくださったりしました。住民の方と触れ
合うたび、この方たちのために少しでもお役に立ちたいという思いを強くしました。
以下は調査に行った際に撮った写真の一部で
すが、まだこのような状態が続いていることを少
しでも知っていただきたいと思います。
瓦が落下してしまい、業者さんが来るまでは
ブルーシートで雨漏りを防いでいます。
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写真(左)は調査途中に下水道工事をしていた箇所で撮ったものです。また、右の写真は同
じ場所を付近の住民の方が震災直後に撮影したものです。
家の周りのコンクリート部分ですが、亀裂
床の間の框に太い亀裂が入っています。
が入り家が傾いてしまっていました。
クロスが裂け、内壁も割れてしまっています
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長押が割れ、ずれてしまっています。
長押が縦に割れてしまっています。
ここからは休日を利用して訪れた場所の写真をご紹介いたします。
【若林区】
【若林区】
泉区からほど近い若林区の海岸沿いです。
左の写真と同じ場所から内陸側を撮ったもの
写真右側が太平洋ですが、津波で木が陸側
です。家の基礎しか残っていない状況でした。
に傾いているのがわかります。
【若林区】
【松島】
見渡す限り家が津波にさらわれてしまって
西行戻しの松公園から松島を望みました。
います。
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【松島】
【松島】
西行戻しの松公園のすぐ横の道路です。
遊覧船乗り場のある海岸です。
崩落しており、バリケードで封鎖されてい
震災時は 200 以上ある島が守ってくれて被害
ました。
は小さく済んだとのことですが、それでも
1m20cm の津波が襲い、遊歩道が破壊されて
いました。
【仙台城跡】
仙台城跡から仙台市街を撮影しましたが、ここも崖崩れでバリケードがされていました。
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【仙台城跡】
左の写真が震災前の金のトビ像ですが、震災で
像が落下し、現在は写真のようになってしまっ
ています。
【気仙沼市】
【気仙沼市】
水族館ですが営業はしておらず、手前には
まだ信号が復旧しておらず、警視庁の警察
船が打ち揚げられています。
官が交通誘導をしていました。
また、道路も未舗装でした。
最後に、泉区役所固定資産税課の皆様、住民
の皆様、本当にお世話になりました。私達はわ
ずかなお手伝いしかできませんでしたが、1 日も
早く皆様が心から笑える日が来ますことを願っ
ております。また、落ち着かれましたら是非富
士吉田市にもお越し下さい。お待ちしておりま
す。
【気仙沼市】
海岸付近はまだ瓦礫が散乱しており、汚泥
の臭いが鼻を突きました。
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○ 派遣職員
第6班
活動記録(泉区固定資産税課)
派遣メンバー
収税課 滝口
昇
医事課 宮野 房義
私たち第6班は、11 月 21 日から 12 月 21 日まで泉区役所で業務支援を行ってまいりました。
出発する数日前、新聞で 12 月の 14 日頃までにマグニチュード7以上の余震が15パーセントの
確率で起きるとの分析結果が報道されたことから、これから向かう泉区での業務を不安に思いなが
ら、富士吉田を出発しました。東北自動車道を走っていると、地震によって被害を受けた道路の補
修のためまだ何箇所かで道路規制があり、到着に時間がかかりましたが、少しずつ復興が進んでい
ることを実感しました。
仙台市での業務を始めた早々に、不安の一つである地震がありました。11 月 24 日4時24分頃に
マグニチュード6、12 月 5 日4時20分頃にマグニチュード4.4の地震が発生しました。明け方
の地震のためか、何ともいえないような不安が募りました。たった2回の地震でさえこれだけ不安
になるのですから、東北地方に住んでいる方たちは 3 月 11 日と 4 月 7 日の更に大きな地震を体験し
ていますので、私たち以上に不安に感じていたのではないでしょうか。
調査で訪問したなかには、水はもちろん食料を家の至る所に保管してあるお宅がありました。地
震を体験したことによりこれくらい準備しなければならないことを学んだそうです。私たちの住む
富士吉田市には津波は来ませんが、東海地震や富士山噴火のおそれがあるので、避難場所・避難経
路の確認と非常持ち出し品や食料など、自分自身で準備をしていなかった事を特に反省し、今後は
いつでも対処できるよう備えて行動していかなければならないと思いました。
もう一つの不安要素、泉区での業務は、これまでの班と同様に罹災証明発行のための被害家屋調
査でした。最初の 3 日程は泉区の臨時職員の方や他市の方に付いて調査・判定・説明方法等の指導
を受け、その後は富士吉田の職員 2 名 1 組で調査に伺いました。短い期間の研修で始めは戸惑いも
ありましたが、前の班が作成してくれた引継書を参考に、自分なりの説明・対応等を考えながら調
査・説明を行うことができました。
中盤にも本市職員以外の方とペアを組んで調査をすることができたので、今までの調査の中で気
になった事や問題点、状況等を伺いながら調査・説明方法を再確認し、反省・改善していき、その
後は自信を持って業務を遂行する事ができました。調査した家の評価が、私たちとその被災者(保険
業者等の評価)とで食い違いがあったり、一部損壊と半壊とでは義援金等の支援制度の差が大きいた
め、被災者に説明し理解してもらうことが大変でした。
調査に伺った家で、
「市役所で受付をした時には調査に伺うのは1ヶ月位先だと言われていたけれ
どこんなに早く調査に来てくれたの」と喜んでもらえた事や、
「津波の被害にあわれた家の方たちの
事を思うと自分の家は何ともないくらいだ」など、ご自身が大変な状況の中、他の方を気遣う事が
できる人がいるという事に非常に感激しました。また調査終了後に、私たちに丁寧にお礼を言って
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くださる方もいて、応援に来た私たちへの励みにもなりましたし、少しでもこの方たちの役に立ち
たいと本気で思いました。
一緒にペアを組んで調査に伺った職員の方とは、車の中で、お互いの職場状況等情報交換を行い、
泉区の方からは震災直後の状況について、辛い思いや、大変な苦労をしたという事をうかがい知る
ことができました。また、応援で来ていた他の自治体職員の方々とは一緒に食事等をすることによ
り、特に交流を深める事ができました。
限られた休みの日は、津波で被害を受けた地区の様子を見に行きました。ある程度片付けられて
はいましたが、復興にはまだまだ遠く感じられ、流された方々のことを思うと自然に涙が出てきま
した。これまで被害状況は、テレビ等報道により見てきましたが、本当の災害状況を知るには、や
はり自分の目で直接見て感じなければ分らないと思いました。写真を撮ることもできましたが、被
災者の事を考えると写真は撮れませんでした。被災地の方を心配するのであれば、できるだけ被災
地に来て、直接見て感じることが大事なのではと思います。私も今後、時間と余裕をとることがで
きれば、多くの地区を訪れ、地域の復興を考えて地域に貢献していきたいと感じました。
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○ 派遣職員
第7班
活動記録(泉区固定資産税課)
派遣メンバー
新倉南線推進室 小俣 一孝
富士山課
加藤 大輔
平成 24 年 1 月 4 日、正月気分も抜けきらぬ仕事初めの日、私達が出勤したのは富士吉田市役所で
はなく仙台市泉区役所でした。私事ではありますが、仙台は私にとって学生時代を過ごした第 2 の
故郷でもあり、今回の派遣にあたり、支援業務は当然ですが、とにかく震災から 10 ヶ月経ったいま、
私の知っている町がどうなっているのかを確かめたいという気持ちが強くありました。
思い出のアパートも改修中でした
やっと改修に入った泉区役所
業務内容については、これまで各班より報告があったとおりですので、詳細は割愛させていただ
きますが、私達が行った支援業務は、これまで同様罹災証明書を発行するための被災家屋の調査で
す。この調査は、内閣府の通達により作られた調査票に基づいて建物の被災状況を現地にて調査し、
全壊や半壊、一部損壊などに区分して被災状況を判定するものです。そして、判定結果が「半壊」
以上の場合に災害義援金が支給されます。しかし、実際の現場ではほとんどがこれに該当しない「一
部損壊」という判定にしかなりません。つまり、大部分の人には災害義援金は行き渡らないのです。
さらに、損害割合が 1%でも 19%でもやはり同じ「一部損壊」と判定されることや、地震の揺れで
被災したが、補修すれば住み続けられる賃貸マンションも、津波で流された戸建住宅も同じ「全壊」
と判定されるケースもあるなど、果たしてこれが同じランクでいいものかと首をかしげたくなるも
のもあります。判定結果によっては、支援を求める人に対して、面と向って「これが私達に与えら
れたルールですから」と説明するしかないもどかしさは何とも言いようがありません。やはり、地
震による揺れの被害と津波での流出とを同じ扱いにするべきではないし、もう少し実態に沿った判
定が出せないものか、もう少しきめ細かい義援金が出せないものかと疑問を感じました。何となく
スッキリしない思いを抱えたまま業務を終えましたが、この問題は私達にはどうすることも出来ま
せん。これは非常時に作成されたルールなので仕方がないとは思いながらも、非常時に作ったもの
だからこそ、それが全てではなく、常に現場の声を反映させ、修正していく柔軟さが求められてい
ると感じました。
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ところで、昨年 6 月から 1 ヶ月交代で続いてきた仙台市泉区での支援業務は私達第 7 班をもって
いよいよ終了することとなりました。これはつまり、膨大な被災家屋調査に一定の目途がついたと
いうことであり、これまで支援を続けてきた富士吉田市を含む日本全国の市町村の支援が実を結び
つつあり、微力ながら被災地の役に立てたというある種の成果と言えるのではないでしょうか。し
かし、当然ですがこの業務の終了がイコール復興ではありません。やっと調査に目途がついたと言
うことは、言い換えれば、未だ貰えるはずの義援金すら手にしていない被災者がいるということで
す。この復興のスタートラインとも言える生活再建のための義援金給付事務にすらこれほどの時間
がかかっているのですから、復興までの道のりは言わずもがな。新聞報道等で被災地の現在の様子
が刻々と伝えられ、時とともに瓦礫は片付けられ、一見復興が進んでいるようにも映りますが、そ
の瓦礫は例えば学校のグランドに山積みにされたままとなっており、未だ有効な解決策が見出せな
いでいます。
子供達がいるはずの学校
人影の無い南三陸町
復興していく場所と取り残される場所。車を少し走らせればいくらでも探せる悲惨な現場を目の
当たりにした時、私はただ立ち尽くすだけでした。復興という言葉を軽々しく使っていいのか。こ
れから本当の復興に向かうための事務処理、現場処理は、まだまだともに気が遠くなるほどの歳月
を必要としています。しかし、それを毎日誰かが着実にこなし、少しでも前へ進めていかなければ
なりません。被災地では自治体の職員も被災者であり、住民の要望に応えきれない歯がゆさを感じ
ています。今までもこれからも支援にかかる人手が圧倒的に足りないのです。
仙台空港は立派に復興を果たしました
しかしそこに向う道の途中には…
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軽々しく語ってはいけない光景
決して見慣れてはいけない光景
津波被害のひどかった沿岸部に住む友人宅を訪ねた時に言われた何気ない言葉がずっと頭から離
れません。震災直後から大勢のボランティアが全国から駆けつけてくれたけれど、今はほとんど来
なくなったと。また来てくださいとは言えないし、続けられない理由も分かると言っていました。
誰にだって自分の生活があるのだから。でも少なからず支援を続けてくれる人もいてとても感謝し
ていると。私は仙台から帰った日からずっと考えています。また来るからと言った約束の重さを。
今何を伝え、何をするべきか。今どこで、何ができるのか。これからも果てしなく続くかのような
本当の復興までの長い長い道のりをどう手助けしていけばいいのか、これからも考え続けていかな
ければなりません。
がんばっぺ仙台!がんばっぺ東北!がんばっぺ第 8 班!
※ 泉区業務終了につき、第 8 班は、さらに被害がひどかった若林区への派遣になりました。
瑞巌寺、右の小さな看板が津波到達地点
津波の威力を物語る象徴的光景
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それでも海へ出る強さ
忘れないこと、継続していくこと
何気ない一言に涙がでます
これまでの派遣職員からのメッセージ
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○ 派遣職員
第8班
活動記録(若林区固定資産税課)
派遣メンバー
議会事務局 渡辺
三洋
環境政策課 小野
伸幸
平成24年1月21日から2月20日まで災害派遣業務で仙台市に行って参りました。
業務内容は、これまでと同様に「罹災証明発行にかかる建物被害認定調査」でありましたが、勤
務地はこれまでの泉区ではなく、若林区でした。
仙台市には5つの区があり、山間部を抱えている泉区に対して、若林区は津波被害を受けた荒浜
地区を抱えており、仙台東部道路から海側の地域は悲惨な状況でありました。
私たちの業務は、建物被害認定調査の2次調査が主でありましたが、被災者の方が2次調査を依
頼するのは、外観のみの調査である1次調査の判定に不服であったり、実際に家屋内も見て、判定
してほしいなどの理由によることが大半を占めていました。
判定には、一部損壊・半壊・大規模半壊・全壊とあり、一部損壊と半壊以上では受けられる支援
が大きく異なるため、要するに最終的な判定結果が直接「金銭」にかかわってくるため、判定には
かなり苦慮しましたし、その結果の是非について、宿舎に帰ってから振り返ってみるケースも少な
くありませんでした。
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調査の際には、津波で親類を失ったとか、実際に津波に遭い、九死に一生を得たなどの体験談も
聞かされ、
「震災の復興需要で盛り上がっている仙台市」という、着任する前のイメージとは 180 度
違う現実に戸惑ったこともありました。
一方では、「山梨県から来たの?」「仙台は寒いでしょ?ご苦労さま」とあたたかく迎えてくれる
家が多く、お互いの方言を交えながら、和やかな雰囲気の中で業務に携わることができたことは、
楽しい想い出のひとつとなりました。
また、休日を利用し、甚大な被害に遭った仙台市若林区を始め、松島町、石巻市、南三陸町、気
仙沼市、陸前高田市の惨状を見てきました。
津波の被害に遭った地区は、ほとんど更地のままで何にもない状態であり、特に南三陸町や陸前
高田市においては、がれきさえ撤去されていない悲惨な現状でありました。一言でいうと、まさに
空襲後の映像を目の前で見ているようでした。
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「百聞は一見にしかず 」とはよく言ったもので、実際に被災地の現状を見ると、所詮私達はテレ
ビで見る映像しか知らないことを痛感させられました。震災から10ヶ月も経つにもかかわらず、
復興とはほど遠い現実、地震と津波という自然災害がもたらしたあまりの光景に言葉を失いました。
今回、1ヶ月間の派遣でありましたが、その間、仙台市の職員の皆さんにはあたたかく接してい
ただき、また同じく派遣として応援に来ていた東京都、愛知県、山形県などの職員の皆さんとの交
流も図ることができ、充実した、有意義なときを過ごすことができました。
また、今回の派遣業務で得た経験から、
「平時からの備え」という意識を持つことが大切であると
感じました。
東日本大震災は、富士吉田市にとって対岸の火事ではなく、万が一に備えて平時から準備してお
くことが災害時に命を繋ぐことになること、また普段からのご近所付き合いが、災害時の助け合い
に繋がることなど派遣業務を通じ、再認識させられました。
この富士北麓地域も東海地震や富士山の噴火の影響を大きく受けることが想定されている地域で
あります。
私達は、これからも優しさといたわりの心をもって、被災地の復旧・復興に心を寄せながら、一
方では一人ひとりが自覚を持ち、万が一に備えておくことを肝に銘じておかなければならないと思
います。
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○ 派遣職員
第9班
活動記録(仙台市社会課)
派遣メンバー
上下水道部管理本部 奥脇 正彦
都市基盤部管理本部 小野
直
私たち第9班派遣職員は、平成 24 年2月 20 日から3月 22 日までの 32 日間、被災地派遣で仙台
市役所に行って参りました。これまで、第1班から第7班までが泉区役所にて、第8班が若林区役
所にて、
「罹災証明発行に係る建物被害認定調査」を行ってきましたが、私たちは被災者からの義援
金申請の内容に関する審査・調査事務を行うこととなり、これまでの被災地派遣の職務とは内容が
違うため、多少不安な気持ちを抱きながら仙台市役所に赴いたことを記憶しています。
2月 20 日に仙台市役所本庁8階にある健康福祉局健康福祉部社会課の広瀬課長を尋ねました。社
会課に入室した際は、職員、臨時職員の方は公務に追われ、誰も会話を交わすことなく、緊張感が
漂う職場であるという印象を受けました。
その後、実際の執務場所となる仙台市役所北庁舎4階の健康福祉局健康福祉部社会課分室に行き
ました。入室した際には職員数の多さに驚きました。災害義援金支給という自治体業務では通常取
り扱うことのない事務に対して、仙台市が多くの職員を投入しているということを改めて認識する
ことができました。
仙台市役所
仙台市役所北庁舎
翌日 21 日の午前中に業務に関わる事前研修が行われました。まずは、仙台市の概要、組織機構及
び所掌事務から始まり、社会課の組織、事務分掌の説明を受けました。社会課は、地域福祉係、保
護係及び災害救助費精算班から構成されており、地域福祉係は私たちが勤務した災害義援金班、災
害援助資金貸付班、生活再建支援金班、弔慰金班などから構成されているとのことでした。各係の
事務量の増加に伴い臨時職員が多数任用されており、社会課全体の職員数は職員、臨時職員を含め
て約 70 名であり、現場では臨時職員が大いに活躍しているとの話を聞きました。
災害義援金班は3グループから構成されており、まずは被災者からの義援金申請書類の内容を審
査する審査グループ、審査グループが審査した申請書のうち、添付書類の不備等から支給を決定す
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ることができない案件について申請内容に関する調査を行う調査グループ、審査グループが支給決
定した申請及び調査グループが調査した後、支給を決定した申請について支給事務を行う支給グル
ープの3グループから構成されていました。研修では、義援金に関連するものとして被災者生活支
援金、被災者資金貸付金等の説明があり、改めて災害に関連する事務量の多さを痛感いたしました。
21 日の午後から実際に業務を始めました。災害義援金班では、調査グループに東京都職員1名、
支給グループでは東京都職員1名及び墨田区職員が1名配属されておりました。本庁8階の社会課
には東京都職員1名、横浜市職員2名が配属されておりました。調査グループに配属された私たち
2人は東京都職員に業務のノウハウを教えていただきながらのスタートとなりました。
調査グループ所属の東京都職員は毎年富士登山競走山頂コースに出場しており、昨年も4時間8
分で完走したとのことでした。毎年富士登山競走の練習のため、自宅がある東京都八王子市から中
央自動車道を利用して富士吉田市を訪れるとのことです。富士吉田市職員が派遣されることを聞い
たとき、私たちと会うことを本当に楽しみにしていたそうです。毎年富士吉田市役所を訪れている
ため庁舎内部にも詳しく、特に庁舎内トイレの配置場所については、富士登山競走レース前に使用
することから、そのほとんどを記憶しているようでした。最初にそのような話を聞き、緊張感、不
安感が解消されましたことを鮮明に記憶しています。
さて、本題に戻りますが、私たちが行うこととなった義援金支給に関する事務について説明しま
す。今回の義援金は東日本大震災の被災者に対し、全国の方から日本赤十字社、中央共同募金会、
日本放送協会、NHK厚生文化事業団に寄せられた義援金、宮城県に寄せられた義援金及び仙台市
に寄せられた義援金を、宮城県災害義援金配分委員会、仙台市災害義援金配分委員会において決定
した基準に基づき配分するものでした。例としては、人的被害(死亡・行方不明者がいる世帯)に
対しては 100 万円が支給されることなどです。私たちが赴いた時には、この人的被害に対する義援
金申請事務についてはほぼ終了しており、私たちが取り扱った申請事務は、住家被害に対する義援
金事務でありました。義援金は住家被害に対して全壊が 100 万円、大規模半壊が 75 万円、半壊が 50
万円支給されます。被災した住家の世帯主に対して災害見舞金として支給されるものです。先ほど
述べたとおり、審査グループで支給を決定することができない申請書が調査グループに回ってきま
す。被災者からの申請書のうち、約9割が即座に支給を決定することができる事案なのですが、残
り1割が支給を決定することができず、調査グループに回ってきます。
住家被害に対する義援金支給の決定を受けるためには次の資料を申請書の資料として添付する必
要があります。
(1) 身分証明書(運転免許証、健康保険証など)の写し
(2) 預金口座通帳の写し
(3) り災証明書
(4) 世帯全員の住民票の写し又は外国人登録原票記載事項証明書
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これらの書類が資料として添付されていれば義援金支給が決定されます。しかしながら、平成 23 年
3月 11 日の東日本大震災発生当時、住民登録をしていない方も多くおりました。このような方々が
義援金申請をした事案を審査・調査することが私たちの職務でありました。住民登録がなされてい
ない世帯に対しては、震災当時に居住の実態を明らかにする資料として公共料金支払証明書(水道・
電気・ガスのうち2種類以上)を添付する必要があります。公共料金支払証明書(領収書)には住
所地が記載されており、震災当時の居住の実態を明らかにする資料としては信頼性が高いため、住
民登録がなされていない世帯については、これらの資料の提出を求めました。審査・調査した事案
としては、仕事の関係から夫婦が別居せざるを得ない単身赴任世帯、住民登録をしていない学生世
帯、り災証明書では住家となっているが固定資産税課税台帳上では、店舗、事務所などの非住家と
なっており、実際に生活の居住実態があったのかどうか不明な世帯など事案が様々でありました。
ちなみに調査グループに回ってくる事案については、震災当時マンション、アパートなどに賃貸
借契約を締結し居住していたという事案が大部分でありました。住家被害に対する義援金について
は建物被害認定調査において、全壊、大規模半壊又は半壊と判定された住家に震災当時居住してい
た世帯主に対して支給されます。基本的には、1居室1配分というのが原則であります。しかしな
がら、夫婦別居世帯等については公共料金の使用量から判断して本当に生活の居住実態があったの
か疑問に感じる事案もあり、1件 1 件で居住実態が異なることから、支給を決定する場合について
は慎重な判断が求められました。このため、様々な事例に対応するため、一定の基準を定めて対応
しました。
例としては、公共料金支払証明書(領収書)が1種類しか提出されなかった場合は、次のような
居住の実態を明らかにするための挙証資料を申請者に求めました。
(1) 他の公共料金の領収書
(2) 震災前後の消印が押印された郵便物の写し
(3) (1)及び(2)も提出できない場合は、申請者本人が震災当時確かに居住していた旨を記載した
申立書やマンション・アパートの場合は賃貸借契約書など
私たちの調査グループでは、審査グループから支給に疑念がある事案について、内容を精査した
うえで申請者に震災当時の居住実態の聞き取り調査を行ったり、先述した挙証資料の提出を求める
通知を発送する事務を臨時職員が行っていました。特に、私たちは臨時職員に電話での聞取り調査
を依頼していましたが、臨時職員の電話対応の巧妙さには驚きましたし、深い感銘をも覚えました。
私たちが仙台市で仕事を無事に遂行することができたのは、臨時職員の方々のサポートがあったお
かげであると認識しております。
ところで、義援金審査調査事務を行っていて少々疑問に感じたことがあります。繰り返しになり
ますが、住家被害に対して全壊が 100 万円、大規模半壊が 75 万円、半壊が 50 万円支給されます。
被災した住家の世帯主に対して災害見舞金として支給されるものです。
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被災した方々に義援金を公平・平等に広く配分するという趣旨は理解できますが、東日本大震災
において多くの日本国民の皆様があの大津波に呑み込まれていく家々をテレビ画面等で視聴し、少
しでも津波で被災した方々のためになればと思い、義援金を寄付したものと考えます。津波で流さ
れてしまい全壊と判断された住家と津波で流されなかったものの全壊と判断された住家で義援金の
額が同額であることに対して疑問が残り、津波で流された住家に対しては、もっと手厚く保護して
あげてもいいのではないかと感じました。手厚く保護することで少しでも津波で被災された多くの
方々が仮設住宅の生活から脱却し、新しい家で復興を目指し新しい生活を始めていただきたい。そ
のような気持ちを抱いて義援金を寄付した方は多いはずであると思っています。
また、マンション・アパートの貸主に対しては義援金が配分されず、借主に対して義援金が配分
されることについても疑問に思いました。地震でマンション・アパートの持ち主は耐震・修繕工事
等で多額の費用がかかるにもかかわらず、義援金が配分されません。マンション・アパートの持ち
主に対しても義援金を支給してもいいのではないかと思いました。しかしながら、震災後の混乱時
にスタートした義援金支給はもう既に始まっており、このような疑問を抱きつつも、県・市の配分
委員会が決定した基準に基づき、毎日申請件数の処理を行ってきました。
派遣当初は慣れない生活に戸惑いを感じましたが、次第に仕事にも生活にも慣れた後は1か月間
という期間ではありましたが、仙台市職員、東京都職員をはじめとした出会いなど意義ある日々を
過ごすことができました。
執務光景
調査グループのみなさんと
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東日本大震災仙台市追悼式
最後に私たちが派遣された期間中に東日本大震災発生1年後の追悼式が仙台市にて行われました
ので、報告いたします。
仙台市では東日本大震災発生から1年となる3月 11 日、犠牲となった方々を追悼し、復興を成
し遂げることを誓うため、仙台国際センターにおいて追悼式典を開催しました。併せて多くの市
民の皆さまにも追悼に参加していただけるよう、各区役所にも献花場を設けて、震災で犠牲とな
られた方々の冥福を祈りました。今年は3月 11 日が日曜日であったため、震災で大切なご家族を
亡くされたご遺族の方、多くの市民の皆様方の参列のもと、追悼式が行われました。この追悼式
については、仙台市総務企画局秘書課(追悼式典・献花場)及び震災復興本部震災復興室が所管
であったため、私たち社会課勤務職員に対しては追悼式への参加は義務付けられなかったものの、
私たちも震災で犠牲となられた方々の冥福を祈るため、自主的に参加いたしました。
まず、追悼式が行われるメイン会場の大ホールについては、遺族の方々だけしか入場することが
できなかったので、別の会場に入りました。会場に入ると受付において1本の菊の花を渡され、菊
の花で飾られた東日本大震災犠牲者の献花台に献花をして冥福を祈りました。午後2時 20 分、仙台
フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリン演奏から始まりました。午後2時 30 分、会場に設営され
た大型テレビの画面から政府主催の「東日本大震災一周年追悼式」が放映されました。
開式の辞、国歌斉唱の後、震災発生時刻の午後2時 46 分、1分間の黙とうが行われました。参列
した方の中からはすすり泣く声が聞こえ、非常に切ない気持ちになりました。その後、内閣総理大
臣式辞、天皇陛下のことばを放映した後、午後3時からは仙台市の追悼式が始まり、大型画面を通
じて会場に放映されました。仙台市長の式辞の後、遺族代表の方が式辞を述べました。その方は年
齢 60 歳で妻と母を津波で亡くしたとのことでした。震災後、なぜ自分自身が助けてあげることがで
きなかったのか、生きる希望も失せ、自分を責め続けたそうです。年齢的なこともあり、精神的に
も体力的にももう一度気力を振り絞って頑張って生きていく気持ちにはなかなかなれなかったそう
です。しかしながら、娘夫婦の孫の誕生を契機としてもう一度頑張ってみようという気持ちになれ
たそうです。
また、復興の誓いとして市内高校生男女各1名、仙台市立仙台高校の男子生徒及び仙台市立仙台
商業高校女子生徒が復興の誓いを述べました。2人ともが同級生が震災で亡くなりましたが、亡く
なった方々のためにも私たちの手でこの街を復興させると力強く誓いの言葉を述べていました。今
後、復興に向けてがんばっていくという強い気概を感じることができました。さらに、市内高校生
による合唱、曲目は「ビリーブ」、「明日という日が」の2曲でしたが、清楚な歌声が会場に響き渡
っていました。復興への歩みは始まったばかりかもしれませんが、力強い言葉を聞き、この若い世
代の方々の力で必ず仙台市は復興すると強く実感した追悼式でありました。
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仙台国際センター
献花台
天皇陛下の御言葉
奥山恵美子仙台市長の式辞
今振り返りますと1か月間という期間は、あっという間に過ぎ去りましたが、貴重な体験・経
験ができたことと思っております。今後一刻も早く被災された方々の復興を心から祈念申し上げま
して報告といたします。
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○ 派遣職員
第10班
活動記録(仙台市社会課)
派遣メンバー
教育委員会 歴史文化課
渡辺 達也
企画総務部 市民協働推進課 青山 貴博
私達第 10 班は、平成 24 年 3 月 21 日
から 4 月 21 日まで、災害派遣業務のた
め仙台市役所に行って参りました。私達
が配属となったのは、仙台市役所健康福
祉局健康福祉部社会課であり、業務内容
は、前班に引き続き義援金の給付に関す
る業務でした。慣れない環境に加えて、
義援金を市民の方に給付するという最
前線である業務に不安を感じつつ、配属
初日に仙台市や全国各地から派遣され
て来た職員の皆さんの前で挨拶した時
のことを今でも鮮明に覚えています。
実際に業務を行うのは、北庁舎 4 階にある健康福祉局健康福祉部社会課分室でしたので、配
属初日も本庁舎で挨拶を行った後、分室へと参りました。分室には多くの職員が配置されてお
り、皆さんは会話をあまりすることなく、目の前の業務に一身に向き合っていました。
義援金の給付に関する業務は、義援金チームと呼ばれる中で、大きく審査・調査・支出と 3
グループから構成されています。私達が配属された調査グループは、審査グループで不備があ
った申請者に対して調査を行い、本人に訂正を依頼し、適正かつ円滑に義援金の給付が行える
ようと働きかけることが主な仕事でした。被災者の方も、様々な生活状況にある中での被災と
いうこともあり、義援金を支払いができるケースとできないケースとの判断にも悩みましたが、
周りの職員の皆様にご指導いただきながら、少しずつですが自分で考えながら処理することが
できるようになってきました。
本庁の義援金申請の受付窓口
勤務していた分室がある北庁舎
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仙台の団結
全国各地から送られているメッセージ
配属当初、調査グループは、仙台市の職員、東京都の職員、そして富士吉田市の職員で組織
されていました。仙台に来たばかりの何もわからない私達に、実際の業務を通じて丁寧な手ほ
どきをしていただいたことに感謝しながらも、早く業務を覚え、少しでも戦力にならなければ
ならないと自分自身に言い聞かせ、身の引き締まる思いがしました。
私達の班は、派遣期間が市役所でいうところの年度をまたぎ、人事異動で多くの職員の入れ
替えがありました。加えて私達同様に、全国から派遣されてきた職員も 3 月 31 日で派遣が終
了する人が多くいたため、職場の環境・雰囲気は大きく変化しました。職員の入れ替えが多く
ある中、別れがあれば出会いもあり、横浜市・墨田区・台東区などの新しい派遣職員の方が加
わり、新体制でのスタートとなりました。通常、市役所の業務では、これだけの様々な地域の
職員と一緒に仕事をする機会はなく、全国から復興の一助となるべく志をもって仙台市にやっ
てきた職員の皆さんと共に仕事をさせていただいたことは、大変貴重な経験となりました。ま
た、仕事以外の部分でもお互いの地域の話題や、プライベートな話題まで多くのことを話し親
交を深めました。
特に、今回の仙台派遣では震災当時、市役所で勤務していた職員の生の声を聞けたのはとて
も貴重な経験でした。事実、震災当時は市役所ですらなにが起こっているか把握できない中で、
迅速な対応を行うことは大変難しかったそうです。大規模な震災が起こった時には誰かを頼り
にするのではなく、「自分の身は自分で守る」といった気持ちが一番大切だと多くの方がおっ
しゃっていたことが印象に残っています。それには、日頃から一人一人が災害というものにつ
いてよく考え、まずは身近な備えから行っていくことが何より大切だと思います。
私自身も今回の経験を経て、市の職員として災害というものに今後どう向き合っていくかと
いうことについてもう一度よく考え、今回の経験を自分の職務に生かしていきたいと思いまし
た。
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義援金チームの皆さんと
調査グループの皆さんと
また、休みの日を利用して、被災地を視察に行ってきました。
震災から 1 年以上過ぎた現在でも、その爪痕はくっきり残っており、多くの方が支援を求め
ている現状がありました。遠い地ではありますが、こういった現状がいまだに続く限り、被災
地のためにできる支援を継続して行っていく必要性を強く感じました。
被災地の様子
市役所付近の様子です。津波によって建物がほ
津波の威力を思い知らされられます。
(陸前高田
とんど流されてしまっています。
(陸前高田市)
市)
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市街地には未だ多くのがれきが残っていまし
仙台市の海沿いの地区も、津波により跡形もな
た。
(陸前高田市)
く流されていました。
(仙台市若林区)
津波で被害を受けた商店街の方々が集まり、復
石巻市の海岸沿いの幼稚園です。震災か一年を
興村をオープンしていました。屋台村は多くの
経て、前に踏み出そうとしている様子が感じ取
人達で賑わっていました。
(気仙沼市)
れました。
(石巻市)
震災の恐ろしさ、そしてそれに立ち向かう人の絆の強さをあらためて感じました。
- 43 -
○ 派遣職員
第11班
活動記録(仙台市社会課)
派遣メンバー
国保・年金室 堀内
農林課
清
羽田 秀基
私たちは被災地派遣第11班職員として、4月20日から5月22日まで仙台市役所(健康福祉
局健康福祉部社会課)へ義援金申請に係る申請書の調査事務に携わって参りました。
4月20日の午後1時頃に仙台市役所に到着し、担当者に導かれ健康福祉局長へ挨拶をすませた
後、私たちが携わる義援金申請調査業務の内容について説明を受けました。
通勤は、仙台市泉区松森字斉兵衛にあるアパートを毎朝7時20分頃出発し公用車にて泉区役所
まで約20分。区役所から泉中央駅まで徒歩5分。泉中央駅から仙台市役所がある勾当台公園駅ま
で地下鉄で20分かかります。駅より徒歩3分程度で仙台市役所に到着となります。富士吉田では、
車通勤が普通であり、地下鉄の朝の通勤ラッシュは、最後まで慣れることはできませんでした。
業務については、仙台市役所の北別館4Fに執務室があり、審査グループ、調査グループ、支出
グループに分かれており、義援金支給事務に携わる職員は、仙台市職員9名、他市町村職員4名、
富士吉田市職員2名、臨時職員14名の計29名で申請の受理(とりまとめ)から支払いまでの業
務を行っております。
義援金支給事務の主な流れについては、各区役所で受け付けをした申請書を市役所でとりまとめ、
審査を行い義援金の支給となります。
私たちが直接行った業務は、受理した申請書の内容に不備等がないかを審査及び調査を行い、不
備等がなければ支出グループへ支払を依頼するといった業務となります。
震災より1年が経ち義援金支給件数もピーク時よりもかなり減ってはいるものの支給事務そのも
のは、まだまだ、急務となっております。
また、支給開始から1年が経過していることから、過去に受理された申請書と支払台帳とを突合
し、支給されていない方がいないかなどのチェック作業も行われております。
義援金については東日本大震災の被災者に対し、全国の方から日本赤十字社、中央共同募金会、
日本放送協会、NHK厚生文化事業団に寄せられた義援金、宮城県及び仙台市に寄せられた義援金
を、宮城県災害義援金配分委員会、仙台市災害義援金配分委員会において決定した基準に基づき配
分するものです。
皆様方から集められた義援金を適正且つ公平に分配する業務に携わることができたことは、私た
ちの大きな糧となると考えます。また、1ヶ月間という短い期間ではありましたが、私たちを支え
てくださった仙台市役所職員の皆様方をはじめ、同じ業務に携わっていた東京都区役所・横浜市の
職員の皆様方には、本当にお世話になりました。
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また、仙台市内でひときわ目をひいた言葉がありました。
『がんばれ東北』・『がんばれ宮城』・『ありがとう』
街のいたるところにメッセージボードがあり、市民一丸となって復興へ向かっているという印象
を受けました。また、仙台市でも震災の復興計画を策定しており、その中で『100万人の復興プ
ロジェクト』と銘打ち、100万市民が一丸となって復旧・復興に向けて取り組むため10の復興
プロジェクトを打ち立てております。とても印象に残ったので紹介します。
1
『津波から命を守る』津波防災・住まい再建プロジェクト
津波により甚大な被害を受けた東部地域の再生に向けて、適正に処理したがれき等も活用して
県道塩釜亘理線等をかさ上げし、堤防機能の付加や海岸防災林の整備など、津波に対するさまざ
まな減災対策を講じます。
2
『安全な住まいの土台をつくる』市街地宅地再建プロジェクト
地すべりや擁壁崩壊などの甚大な被害が発生した市街地の丘陵地区等の宅地について、宅地復
旧関連事業等による復旧を推進するとともに、国の支援制度の対象とならない宅地については、
早期再建を促進するため、復旧費用の一部助成など本市独自の支援制度を創設します。
3
『一人ひとりの暮らしを支える』生活復興プロジェクト
被災された方一人ひとりの暮らしの復興に向けて、関係機関と連携しながら、雇用・就労等の
経済基盤確立や恒久的な住まいの確保など、総合的な生活再建支援を進めます。
被災された方々が、安心して生活再建に取り組むことができるよう、心と身体の健康の確保に向
け、一人ひとりの状況に合わせたきめ細かな支援を進めます。
4
『力強く農業を再生する』農と食のフロンティアプロジェクト
農業用施設の復旧や除塩など、営農再開に向けた取り組みを加速するとともに、東部地域を「農
と食のフロンティア」として復興するため、農地の集約・高度利用や法人化などの農業経営の見
直し、市場競争力のある作物への転換や6次産業化の促進などの取り組みを支援します。
5
『美しい海辺を復元する』海辺の交流プロジェクト
津波被害の軽減効果もある海岸防災林を整備し、美しい海浜景観を再生します。 多くの市民
が海や自然と再び触れ合うことができる魅力的な交流ゾーンとして、本市の貴重な自然環境であ
る蒲生干潟や井土浦等の東部海岸の再生について、国・県等の関係機関と連携して取り組みます。
6
『教訓を未来に生かす』防災・仙台モデル構築プロジェクト
未曾有の災害を経験した都市として、その教訓を生かした取り組みを進め、防災に関する「仙
台モデル」を構築するとともに、学都の知的資源との連携により防災に関する知を集積し、国内
- 45 -
外へ発信していきます。 震災時の課題を踏まえた避難所の運営や機能の見直し、自助・共助を
促進するための普及啓発活動や「地域防災リーダー」の育成、学校での新たな防災教育などに取
り組みます。
7
『持続的なエネルギー供給を可能にする』省エネ新エネプロジェクト
新市街地形成が予定される地区において、民間資本との協働によりエコモデルタウン事業に取
り組み、特定のエネルギーに過度に依存せず、かつエネルギー効率の高い都市を目指すとともに、
非常時にも安心な都市づくりを進めます。
多様なエネルギー源の確保を目指し、大規模太陽光発電事業等の誘致を推進するなど、次世代エ
ネルギーの拠点づくりを進めます。
8
『都市活力や暮らしの質を高める』仙台経済発展プロジェクト
復興過程で生まれる新たな需要や先駆的プロジェクトを推進力とし、地域企業の取引拡大と競
争力の強化を図るとともに、成長性のある企業の立地を促進し、雇用の拡大に取り組みます。
9
『都市の魅力と復興の姿を発信する』交流促進プロジェクト
さまざまな国際会議など、コンベンションの誘致により仙台・東北の復興を国内外に積極的に
発信するとともに、大型観光キャンペーンを展開し、東北への交流人口の回復を力強く牽引しま
す。規制緩和や特例措置などの支援策を最大限に活用しながら民間活力を積極的に呼び込み、都
市の魅力を高める施設等の誘致を目指します。
10
『震災の記憶を後世に伝える』震災メモリアルプロジェクト
アーカイブ機能を有するメモリアル施設を整備し、震災の脅威と復興への取り組みを後世に継
承します。 市民との協働による仙台・東北の復興の姿を広く発信する仕組みづくりや、復興事
業に学都の知的資源や民間のノウハウ・資金などを導入できる仕組みづくりを進めます。
【仙台市HP 仙台市復興計画より引用】
震災の恐ろしさを知っているからこそ、また、そこから復興していくことを官民一体となって推
し進めていく『100万人の復興プロジェクト』。震災を完全に防ぐことよりも、いかに減災する
かの街づくり。また、震災に対する市民の意識づくり。市民一人ひとりが防災に対する意識を高め
ることが減災につながるのではないでしょうか。それは、東日本大震災で被災した市町村民だけで
なく、それを教訓としなければならない個々人が意識を高めることが大事ではないでしょうか。
最後に、仙台市は富士吉田市より土地面積や人口数も桁外れに違う大都市です。そしてそのよう
な仙台市が平成23年3月11日に震災を受けました。今、仙台市は大きく動いています。そして
生きています。1年経った今、新たな力強い一歩を踏み出している仙台市へ、『がんばれ仙台』。
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○ 派遣職員
第12班
活動記録(仙台市社会課)
派遣メンバー
市立病院管理課
渡邊
昇隆
企画総務部総務課
澤柳 幸司
私たち第 12 班は、平成 24 年 5 月 21 日から 6 月 21 日までの 1 ヶ月間、富士吉田市からの最後の
被災地業務支援活動のメンバーとして、仙台市にて勤務をおこなって参りました。
仙台市に近づくにつれ、高速道路では、震災により傷んだ道路の舗装工事を行っている箇所がみ
られるようになり、いよいよ被災地に来たと強く実感したことを記憶しております。
私たち第 12 班につきましても、2 月より派遣されていた第 9 班から第 11 班に続き、仙台市役所健
康福祉局社会課の災害義援金班の調査グループにおいて、災害義援金の申請書類に関して、義援金
の配分を受ける資格があるかどうか、判断するための審査を行いました。また、あわせて、すでに
処理済の申請に関して、申請書の欠如、重複申請等が無いかどうか確認するため、支給台帳と義援
金申請書を突合する業務にあたりました。
私たちが携わった災害義援金は、全国各地から日本赤十字社等の 4 団体、宮城県及び仙台市に寄
せられた義援金を、宮城県災害義援金配分委員会、仙台市災害義援金配分委員会において決定され
た基準に基づいて、被災日時点において仙台市に住んでいた方や世帯主に対して配分するものでし
た。申請書を提出した方が平成 23 年 3 月 11 日時点で、仙台市に住んでいた方や世帯主であったか、
また、添付書類が揃っているか、支給条件に該当するか、二重申請ではないかなどの調査を行い、
交付の決定をすることが私たちの業務でした。私たちの判断により、申請者に義援金が配分されな
いこともあるため、とてもウエイトが重く、責任を感じる業務でした。
私たちが勤務した時には、災害義援金の申請者に対し、すでに約 95%以上の災害義援金が配分さ
れている状況で、昨年 9 月に 500 件近くあった災害義援金の申請件数は1日 20 件ほどに減少してお
り、だいぶ落ち着いた感じはありました。しかし、二重申請や書類不備、居住状況に疑義のある申
請書が増加し、義援金の支払い決定について判断に迷う場面が何度もあり、調査グループ内にて一
件の申請内容について話し合う場面が数多くあるなど、義援金を支給する難しさを感じたこともあ
りました。
初めて訪れた仙台市は、想像以上の大都市でしたが、緑の多い美しい街でした。震災から 1 年が
経過した仙台は、市内の中心部をみると大きな震災がなかったのではないかと思わせるくらいの賑
わいがあり、震災で大きな混乱が起きたことが想像できないくらいでありました。しかし、周辺を
注意深く見てみると、ビルやマンションの補修工事が行われていたり、舗装工事や水道・ガス管工
事が行われているなど、震災の傷跡をまだまだ見ることができました。また、私たちが勤務してい
た仙台市役所北庁舎の壁にも、地震による亀裂が走っていたり、敷地内の一部が歪んでいる場所も
あるなど、被災地を襲った巨大地震の大きさを実感いたしました。また、仙台市の中心部から海岸
に近づくにつれ、まったく異なった光景を目にしました。一面に広がる田畑は、津波が入ったこと
による塩害により作物は耕作できず、枯れた雑草が生えているのみでした。住宅地も倒壊した家屋
がところどころ建っているのみであり、家屋の基礎部分だけを残した景色が一面に広がっていまし
- 47 -
た。直接仙台市の海岸部(若林区)を訪れるまでは、これほどまでに被害がひどいものと想像して
いなかっただけに、その状況には言葉を失いました。仙台市海岸部では震災から 1 年が経過し、瓦
礫の撤去なども進んでいるとのことでしたが、震災直後の状況は想像を絶するものであったろうと
思いました。仙台市若林区だけなく、被災地の現状を見るため、休日を利用し気仙沼市、塩竈市、
石巻市、名取市、亘理町、福島県相馬市、福島県南相馬市などに足を運びました。
率直な感想は、被害は想像以上でした。広大な範囲の地域が津波にのまれ、海岸線から 6 キロも
離れた海が見えない場所にまで津波が入り込んだ場所もあり、被害の甚大さを改めて感じました。
また、福島第一原発の事故による放射線のホットスポットとなっていた飯舘村にも足を運びまし
た。放射線は眼に見えないものであり、南相馬市や飯舘村周辺を通ることは少し抵抗がありました。
南相馬市や飯舘村周辺に広がる広大な田畑については、耕作が行われておらず、雑草が生えており、
手入れがされていない状態でありました。飯舘村は避難解除がされたにもかかわらず、現状では空
家となっている家屋が多く、周辺をパトロールする車両が巡回しておりました。国道から見える飯
舘村内にあるお墓に眼をうつすと、雑草が長く伸び、手入れがされていない状況であり、とてつも
なく寂しい感じを受けました。飯舘村を通り過ぎ、山を越えた川俣村に入ると田畑では耕作がされ
るなど平穏な景色が目に映り、同じ路線沿いではあるものの、山を隔てた飯舘村とのかけ離れすぎ
ている様子を目の当たりにし、マスコミで流れる情報よりも想像以上に深刻であることが肌で感じ
られました。
今回の業務がすぐに現在の職務に活かせるわけではありませんが、被災地の現状そして、被災し
た場所に直接足を運び、さらに義援金に関する業務を通して、災害後にやらなければならない業務
に携わることができたことは、とても大きな経験になりました。また、実際に勤務され被災された
仙台市の職員の皆さんから話を直接聞けたことも大きな財産となりました。私たちの町も富士山の
噴火や東海地震、首都直下型地震などの災害にいつ襲われてもおかしくないと言われています。何
か起きたときに何もできないという体制でなく、想定外の中でも、動ける体制作りをしていかなく
てはいけないと強く感じましたし、仙台に行ったことで災害に関する意識を強く持つことができま
した。
最後になりますが、仙台市の皆様や、私たち同様に他市町村から派遣されて来た職員の皆様には、
滞在中、震災時のお話を伺ったり、業務について非常に親切に教えていただくなど、大変お世話に
なりました。本当にありがとうございました。
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海岸沿いに大量の瓦礫が山積み
支給済み台帳の一部です
仙台市の海水浴場
津波を受けた石巻市立病院と倒壊した家屋
津波を受けた松
津波による被害を受けた石巻の小学校
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○ あとがき
平成 23 年 3 月 11 日 14 時 46 分、宮城県牡鹿半島の東南東沖 130 ㎞ の海底を震
源とする東北地方太平洋沖地震が発生しました。マグニチュード 9.0、観測された
最大震度は7、震源域は岩手県沖から茨城県沖までの約 500 km と非常に広範囲に
及び、日本周辺における観測史上最大の地震となりました。また、この地震により
場所によっては波高 10m以上の大津波が発生し、犠牲者は 1 万 8000 人を超えるな
ど、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらしました。
全国市長会から被災市町村に対する人的支援のための職員派遣依頼があり、富士
吉田市では 2 名の事務職員を 1 ヶ月交替で 1 年間仙台市に派遣することを決定いた
しました。東北地方では、まだ余震もある状態の中での慣れない業務内容や富士吉
田市から約 500 ㎞も離れた見知らぬ土地での勤務となり、派遣職員の苦労や緊張は
相当なものとなりました。
最初の現地における仕事は、被害家屋認定調査で、各家庭を回り家主に聞き取り
を行うものでした。その中で本市職員は、訪問先で遠くから支援にきてくれている
ことに感謝され、とても温かい言葉をかけていただきました。被災者を励ますつも
りで訪問したのが、逆に職員の方が励まされる場面があったり、また、現地職員の
方々には、業務をはじめその他いろいろとお世話になりました。不安を抱えながら
の派遣でしたが、1 ヶ月の勤務を終えた頃には被災地の皆さんに多少なりとも貢献で
きたことやふれあえたことに満足感を得て帰ってきました。
復興に向けての業務という同じ目標の中、第 1 班から第 7 班まで勤務させていた
だいた泉区役所固定資産税課の庄子薫課長さんをはじめとする職員の皆さん、第 8
班の勤務先であった若林区役所固定資産税課の皆さん、そして第 9 班から第 12 班ま
での勤務先の仙台市役所健康福祉局健康福祉部社会課分室の皆さんには、本市職員
への業務指導等大変お世話になりました。
震災が発生してから 1 年半近くになりますが、被災地の復興にはまだまだ先が見
えません。今後も引き続き私たちが復興に向けて何ができるのか考え、実行してい
くことがとても大切だと考えます。最後に被災地の全ての皆様が不自由のない生活
ができる日が、一日も早く来ることを心よりお祈りいたします。
平成 24 年 8 月
- 50 -
東日本大震災支援室職員派遣担当