第38号 - 日本山岳会北海道支部

霧プリ㊨
第38号
平成20年4月発行
社団法人日本山岳会
北海道支部
札幌市白石区本道lT日南2
㈱秀岳荘内
鵜日本山岳会北海道支部事務局 電話(090)6266−3365 振替02790−7−16937番 音発行人 長谷川雄助 ○編集人 滝本幸夫
上ポロカメットク山の冬景(撮影:市横井孝悦)
編 r rl吉鶴鈴助淡追i赤イi 大サムi 雑 巻
集
【自 iア新 津岡木田川悼追 岩グ歴 フ姑ハス海 感 頭 譲
後 静然 「イ 刊 宣節和陽舜 山ル ラ娘リ タ外 言 継
記 かの束松ヌ善 哉子夫一平高悼 ・I史 ワ山ンi紀 雪 ・
大 ッ蝦武シ介 んんのんの桓 覚発 卜山旧・i 連 年 議
地七夷四リiのへ死を逝志 者展 レと樺ア 難 を 翳
か1日郎紀 想:を偲去さ の過 ッ 太夕 今事 振 霧
ら ジ誌の行 い;悼んをん 功程 キ )登 日故 り
題
なメ 西浦モ紹 さ さ若さ氏橋i先のiI登(グ行 崩 一 繋
字 坂
のをL L 出;むで悼; 績; ン の山 まか 返
伝聴を ;む; グ 山: でら つ
言く い 旅; て
本 直 行2
lL く
l
0 20 19 181717161514 1●21b 7 6 4∴∴3 2
ー1−
跡的に生還した会員、会友の皆さん
も支部の重要な人材であり、今後、
者はIACの山岳保険の加入を条件
とした。公益事業として北海道支部
独自の自然児学校の継続開催と日程、
けがえのない岳人を失ったのである
〇七年の総会で、これまで支部を
引っ張ってこられた新妻徹さんに代
わって第十代と言う節目の支部長に
事業内容を決定した。あわせて支第
湖周辺台風被害地の植林事業に参加
することとした。南北交流登山は二
活動を基本に則った運営に切り替え
る必要がある。
また、日本山岳会は法人格を持つ
特殊な山岳団体である。登山は本業
とも言えるものであるが、山岳に関
する文学、芸術、学術、自然保護、
更には安全登山啓蒙活動など多岐に
わたる分野で活動することが望まれ
るのである。従って、体調、高齢な
どで山から遠ざかったとしても、何
らかの形で支部活動に関わることが
何かされるのを待つのでは
支部の出直しのために力を尽くして
頂きたい。
この事故により、支部にとってか
この間、事あるごとに滝本幸夫、
就任した。〇七年度は各委員会の事
業を大きく変えることなく、前年か
ら引継ぐ形で進めた。
が、早急に立ち上げた事故調査委員
会において雪崩遭難事故という一点
に絞って、事故の実態、事故の原因、
事故防止対策を検討して頂いた。加
えて、事故発生の間接的な要因とも
進してきた。これは、支部長は最高
責任者として支部運営の要となるも
のであるが、支部運営の方
針は協議体で実施しようと
なく、自らが支部に何かで
京極紘一両副支部長と鈴木和夫総務
委員長の三役で協議しっつ事業を推
月の北九州支部に続いて七月に宮崎
支部が来道することとなった。支部
を挙げての受け入れ態勢を確認する。
そこに新妻前支部長の慰労と評議員
就任を祝う会の計画が持ち上がり、
いうことであり、三役の果
えていただき能動的な行動
れ
る
。
らの山岳会を担っていくことが望ま
ないかと考える。
に対する私たちのなすべきことでは
く、活力にあふれた支部活動に取り
組んでいくこと。これが四人の御霊
悲しみを乗り越え、明るく、楽し
くもまっとうなご意見を多く頂いた。
これが、事故の遠因となっていたも
のであることも真撃に受け止め、早
急に体制を作り直して、山岳会とし
ての本質から離れていた部分を引き
戻し、漫然と前例踏襲になっていた
いえる支部の体質まで切り込んで、
委員会の意見として提示され、故人
に対し支部再生に向けての約束をし
た。更に、今回の事故を契機に、会
員各位から支部の運営に対し、厳し
助できるのであり、支部から
い大きな試練に立たされた
支部は、ここで大きく転換
を図って行かなければなら
ない。支部の体質改善には、これま
での伝統も大切にしながら十分な時
間をかけていき、あわせて古い体質
を脱ぎ捨てて、新たな人材でこれか
かつて経験したことのな
きることはないのか、を考
たす役割を大きくし、常任
委員会という運営機関で実
をして欲しいと思う。
な機能を定着させようとし、
いた三人の仲間も失った。幸い、事
故に遭遇した十一人中七人が自力な
いしは掘り出されて救出された。奇
就いていただき、活躍が期待されて
り、これから支部の重要なポストに
消化して行った。
そこに、突然の雪崩事故が襲った。
司令塔の鈴木委員長を失った。これ
まで何らかの形で支部運営にかかわ
ともいえるスケジュールは、順調に
直ちに実行委員会を設置する。過密
行に移していくというよう
鈴木総務委員長が司令塔と
なって仕切り始めたのであ
。
る
総会後の最初の常任委員会では、
各委員会の年間事業の確認を行い、
盛りだくさんの計画が審議された。
定例山行にはそれぞれ担当するリー
ダーを決めた。オホーツク分水嶺踏
査は、中央分水嶺踏査のノウハウを
活かし、三年ほどかけて綿密な計画
のもとにあらゆる面で前回を上回る
成果を挙げようと、はやる気持ちを
抑え積雪期の到来を待つこととした。
高山植物盗掘防止パトロールの参加
二〇〇七年十一月二十三日。十五
時四十分。その時の一報が凡ての事
まさかそのような事が起こる筈が
の始まりだった。
難事故から今日まで
滝 本 幸 夫
の時間を作った。多くの会員、会友、
関係者が参列して下さった。僕はそ
の時の挨拶で﹁何時までも悲しみの
淵を歩き続ける訳にはいかない﹂と
述べた。しかしそれがある会友から、
早くも﹁事故との決別を意味する言
葉﹂と取られた。僕は四人の岳友の
事は永遠に忘れない。ただ何時まで
も茫然自失として座り込んで居る訳
切り込むベテランの
およその輪郭はそれぞれの頭の中に 顧みればこの事故は一体何だった
出来上がってきたものと思う。 のであろうか。客観的に見れば単な
大局的な見地から理路整然と物事 る雪崩遭難事故。一般の人には既に
を推し進めるであろう佐藤守氏を委 過去の出来事であり忘却の彼方であ
員長に迎え、辛口で
∴∴∴
ろう。しかし僕等には生涯に於いて
重い十字架を背負ったことだけは確
かだ。今はただただ強い喪失感で一
杯である。
12月8日 惜別の会会場
ない。起こりうべき事でもないと思
いながら、時間を追うごとにどんど
んと現実の世界へと引きずり込まれ
日本山岳会北海道支部パーティ上
ていった。
安田成男氏、支部の
あり方論に一家言を
持つ心優しき井後幸
太郎氏に、常任委員
から僕と漆崎隆企画
委員長が入り、それ
に事務処理能力に長
けた樋口みな子さん
が書記に付いた。当
然長谷川支部長もオ
ブザーバーとして参
加している。
会合は毎週のよう
に行われ、その会合
を公式に書き上げた
ただけで十回にも及
ぶ。その間、委員は
それぞれ個別に動い
そして三月末、個々
ているのである。
人が持ちうるエネル
ギーの全てを出し尽
くして作り上げた報告書を出版社に
出稿した。会報﹁ヌプリ﹂ ︵三十八
号︶ と同時にお届けすることとなっ
。
た
−3−
ホロカメットク山にて雪崩に遭遇。
大事故へと発展して行ったのである。
この日を掻いに日常の時間概念が
消失し思考回路が断たれて事故処理
に没頭することとなるのである。
て行っていった。
にはいかないのである。そう出来る
のならそうして居たい。しかし事故
の原因を究明することが四人の ﹁御
霊﹂ に答える全てだと言う意味での
挨拶の言葉とした。その間パーティ
参加者から事情を聞く作業も並行し
インシデントは省くとして︶幹部は
︵二十三日、二十四日、二十五日の
友との別れに会場を行き来した。芽
室にも出向いた。マスコミ対応にも
もしながら、その繰り返しによりお
事故の原因について議論もし又煩悶
ばにべも無いがその間毎日のように
そして十二月二十六日。開催が遅
いと非難された会員への ﹁事故報告
会﹂ の開催に漕ぎ付けたのだ。この
報告会で活発な意見を頂き、事故の
遠因ともなる原因も見えてきた。
年が明けて事故調査委貴会を立ち
上げる。立ち上げが遅いと言われれ
神経を磨り減らし、またメールによ
る無責任な誹誘中傷にも耐えた。警
察の事情聴取、お世話になった関係
団体等へのお礼。早急な事故原因究
明の声。
十二月八日、楽しい要で盛り上が
る筈であった年次晩餐会の日を﹁惜
別の会﹂として四人の仲間との別れ
∴:∴∴∴∴∴∴∴
強
∴
∴∴∴∴∴
∴「∴. ∴∴
∴∴∴
蜜畷綴懸鰯 一一∴:∴油:
∴ 戯 言
∴「
轍
鍛溺 〇〇〇〇g閣 〇日il田圃
繋緩※
線鎌瀬
態騒
∴帰亨 ∴!
∴∴
饗躍薫i
∴/∴:∴
//
: ∴∴ ∴
霊
∴
まれ賑やかである。ロバ
が荷車を引きポプラの木
陰を通る風景はカシュガ
ル独特のもので、モスク
の尖塔越しにコングール
打つ丘陵の前に白い山が現れた。ム
言って振り返りながら歩いていたら、
ングしたのにと思うと残念であり、
ちになる。ストックにすがりつくよ
自分の不甲斐なさに暗澹とした気持
人の青年がバイクで休んでいるでは
5,300mのCl 右はコングールチュービ工
スターグ・アタである。
カラクリ湖に到着すると、湖面に
姿を映したムスターグ・アタは素敵
で、これが私達の登る山かと思うと
嬉しくなる。なだらかな尾根が右か
ら頂上に続き、頂からストンと切れ
る。横に北峰が守護神のようにそび
落ちて魚のヒレのような形をしてい
えていてアクセントを添えている。
突然、右足のフクラハギにピーンと
湖の周辺は緑豊かで、パオが散在し
ておりラクダや羊などが放牧されて
いて絵のような光景であった。
さらに荒涼とした丘陵地帯を進ん
で最終村落のスパンに着く。標高は
三七一〇mで、富士山と同じ位の高
さである。アタ山麓に広がる乾燥し
ト製のパオが一〇数棟一列に並んで
た草原であるが、ここにはコンクリー
痛みが走った。﹁あっ﹂と思ったが、
もう痛くて歩けない!休んで様子を
美しい眺めであった。
ゲズ川に沿う道は、荒々
ていた。
見
る
。
みんなにはBCまで往復して高度
順化のプログラムを消化するよう指
示して先に進んでもらう。登山は始
翌日は快晴の空の下、四三〇〇m
のBCまで高所順化のため往復する。
パオを出る。小川を渡り乾燥した草
原の中の路を進むが冷気が気持ちよ
い。それぞれが思い思いにアタを見
上げながら歩き山懐に入って行く。
までのろのろと降りると、なんと一
う痛む足を庇いながら下の無人家屋
まったばかりで、あんなにトレーニ
日射しが強く次第に暑くなってくる
の中はため息にも似た歓
声が上がった。ゲスの検
問所を過ぎ、虎の曙と呼
ばれるロークズの陸路を
に回り込むとコングール
ているのを見つつ、みんなに凄いと
頃、背後の山々が真っ白く横に広がっ
抜けると谷は開ける。南
に眺めながら進むと、波
チュービエ︵七五三〇m︶
が連なっているのを横目
灰色の濁流となる。崩れ
落ちるような氷河の上に
巨大な山が見えるとバス
しい渓谷に入り、流れは
一一一一∴∴一∴∴∴∴
建っていて、私達はそこに泊まる。
パオの前に座り夕日に染まるアタ
や月光に映えるアタを飽かずに眺め
の山が白くそびえていて
∴ ∴
\
∴∵∴∴言.∴∴∴㌻∴::∴
∴∴
欝畿 ∴
∴:/:∴:∴ 一∴∴三三
∵∴∴∴∵∴∴
京 極 紘 一
スバシ村からラクダのキャラバンでBCへ
● 海 外 紀 行
一
出ると、ポプラ並木の道路が延々と
続き、郊外の小さな町に入ると道の
両側に露店が並びスイカ、ブドウ、
桃などの果物やナンが山のように積
饗ノiiノ
ムスク
 ̄誤謀議発議 ̄ ̄、r ̄撥 、__磁
に囲まれたカシュガルの街をバスで
艶
二〇〇七年七月、シルクロードに
そびえる高峰ムスターグ・アタ ︵七
五四六m︶ を登山して来た。ポプラ
湖
∴!
∴一∴∴∴
ないか。さっそく交渉し、荒野をバ
イクの後に乗せてもらってスパンに
戻った。歩かなくて済んだことにポッ
河の末端が迫ってきている。モレー
ン帯にはわずかな草を求めてヤクが
コギリの歯のように連立するパミー
キラキラと光り輝き、かなたにはノ
め七〇〇〇mの手前で残念ながら引
き返した。そして替わりに私達がC
天気が悪くなり風雪模様となったた
覚める。テントの外に出ると肌を刺
すような寒気であるが、満天の星空
である。天の川が南北に走っていて、
真夜中の一時半にトイレのため目
ルの山々が赤く染まって見えて印象
を着用してC2に向う。氷化した斜
3に入ったのである。
れてBCに入った。着いてびっくりー・
面を登りクレバスを数本渡ってハー
プラブーツに履き替え、アイゼン
巨大なカールはカラフルなテントで
フパイプのような回廊を抜け、大ク
レバスを越えて大斜面を登ってC2
的だった。
とする。
痛む足を湿布しパオの前でじっと
埋め尽くされ、その数一〇〇はあろ
に達した。標高は六〇〇〇mである。
放牧されていて、ヒマラヤの牧歌的
な景観に感激しっつロバの背に揺ら
している。望遠レンズでアタを覗く
シャワールーム、トイレ等もある。
うか?世界中から登山者が集まって
来ているのだ。食堂の大きなパオ、
てC2に入ったが、この旦元気な隊
をゆるく登っていく。今日のアタは
回するように川を渡りモレーンの丘
ラスである。
を出し、のんびりとした姿はユーモ
咲き、大きなマーモットが穴から顔
が広がり、小さな黄色い花が所々に
の路をのんびりと進む。前方には押
ここからロバに乗り換えモレーン
に幾本も流れる川は夕日が当たると
が屏風のように連なっている。眼下
て、その向こうにコングールの山々
チャレンジは実らずに終わった。
わり、私の六四才での七〇〇〇m峰
れでムスターグ・アタでの登山は終
ルしながらの下降は苦しかった。こ
一段と重く、風雪にあおられラッセ
を諦め下山をする。
年取った体に撤収したC3の荷は
天になってきたので私達もアタック
冷気が厳しく雪雲に包まれ次第に悪
当ひどく荒れているという。ここも
るように降りてきた。今日も上は相
上部でキャンプしたパーテーが逃げ
りはじめた。明るくなっても止まず、
ところが朝方になると風が強まり
り込み、出発までもう一眠りする。
に興奮を覚えながらシュラフにもぐ
員三名がC3から頂上を目指したが、
実に多くの星が煙めいている。﹁やっ
た、頂上アタックの今日は久し振り
の晴天になりそうだ‖﹂。冷えた体
大勢の登山者が登っている。
このあと私は体調を崩し、心臓の
このあと私はBCに降りて休養し、
鼓動もひどいことからスバシ村に下っ
霞がテントにたたき付けるように降
若い二人の隊員と共に再度登り返し
と上部の尾根を蟻が這うように大勢
の登山者が登っているのか見え、何
も出来ない自分がもどかしく、心の
中は悔しさでいっぱいである。夕方、
隊員達は疲れて戻ってきた。翌日は
休養。でも元気な隊員は、近くにあ
る阿拉克爾という三九三四mのピー
て静養し、再度BCに上がったが、
その間に元気な隊員によりCl、C
回復した私はテーピングした足を
ガレ状の尾根に踏み跡が上に伸び、
クを登ってきた。
2を建設し、C3に向っていた。
姿を見せているが頂は風が強いのか
雪煙を上げていた。行くほどに草原
の美しい平坦地に出る。小川が流れ
三角の氷塔セラックが綺麗に並ぶの
をゆっくりと登った。直ぐ下にBC
パオが数軒あって、チャトマックと
を横目に登って五三〇〇mのClに
庇いつつClへの岩層だらけの尾根
いう所で高度計は四一五〇mを示し
入った。ここからの眺望は、乾燥し
バイクの後部席に跨りラクダ路を迂
ていた。一つのパオに入りお茶とナ
た大地の中にカラクリ湖が青々とあっ
しっぶされたようなアタがあり、氷
尾根上に出るとヤンプラク氷河に
ンをご馳走になりながら休む。
ありその姿が目の前にあった。私は、
で見たシルクロードのキャラバンで
四日目、BC入りである。隊荷を
一六頭のラクダに積み出発して行く
のを見送るが、この光景こそ夢にま
雪でテントが半分埋まる。それでも
冷たい風は雲を飛ばし上部の尾根が
姿を現し、下には雲海が広がってき
たので、出発を決め準備していると、
Clからクレバスを抜けてC2へ
サハリン ︵旧樺太︶ の山旅
新 妻
徹
的としないツアーであったのだから
張り設営する。川の水を汲んで湯を
焚き火でわかし、ゆっくり昼食して
から出発するというので、登頂を目
﹁ダイジョウフ﹂と発音する日本語
転手のボーワがコック長となり、
であった。八月二一日の夕食は、運
くださり、南前衛峰と命名した約三
二〇mのピークは、コマクサの群落
今回は﹁これで良し﹂と納得する。
それでもサブザックに食料と水を入
でくれる。その夜の大雨でテントの
収録しており、その奥にジタンコ山
の鋭い稜線が見えた。ハンター兼ガ
うであり、西方には中央分水嶺を見
︵馬群渾︶ に行くことにする。ジタ
ンコ山の北側は傾斜がゆるく登れそ
たジグンコ山北側のブガチェヴォ
で、ウオッカを何回もグラスについ
ると、見事なお花畑が広がっていた。
れて、急な崖をロープに掴まって登
イドのセルゲイが笑顔でゆっくり歩
いてくれるが、花の名が分からない。
助田夫妻が、デジカメでパチパテと
通訳のアレクセイは一九歳というこ
にひきあげたと聞いたので、
話してみると生家が落合町で
あり、私の祖父母の家から近
ることができた。八月二三日は、ド
ジタンコ山の南前衛峰を背景にして右から2番目筆者
うということになった。
目口協会の ﹁平和の船﹂ で故郷訪
問団の人たちと一緒に、八月二〇日、
稚内から出港した。助田梨枝子さん
が、早速、三五〇部の日本の缶ビー
ルを六本も買ってくる。海外旅行で
免税であり、缶ビール一本が百円な
ので、コルサコフ ︵大泊︶までの船
内は﹁祝前途﹂ のビールパーティの
というから、宗谷丘陵は樺太南端の
り、そのまま北上していることにな
西能登呂︵クリリオン︶岬につなが
位置しており、ユジノサハリンスク
ようになり、助田陽一氏が親戚から
入手した古い落合町内会の地図を見
なから盛り上がった。
目標とするジグンコ山六八二mは、
サハリンの最も細い部分の東海岸に
_熊雛
で、助田氏が日本語を教えている。
目口協会の鈴木泰行会長が同伴して
∴:「 :∴∴ ∴「 i駕i 鰯
中は浸水したが、翌朝の焚き火で体
を乾かし、中標津町から参加した佐
藤実氏の希望で、幼少の頃に生活し
し、海岸にキャンプ用のテントを四
︵旧豊原︶ から車で約四時間で接近
ア協会に入会し情報を収集し
私の祖父母・叔父・叔母が
ていた。
落合︵ドリンスク︶ で生活し
∴/:∴∴
とだけ分かったが、日本語を勉強中
ー6−
る。北海道中央分水嶺踏査が終了し
たら、サハリンの中央分水嶺にアプ
ローチしてみたいと思い、植物園前
にあるNPO法人・北海道日本ロシ
一一∴一一m
∵∴:/∴
ジタンコ山 ︵旧突阻山︶
1−11ミ
溺閲曝露議題
いので一緒にサハリンに行こ
三年間、夏休みには一人で樺
太に旅行したので、大泊や豊
原の記憶もある。助田陽一氏
は小学校一年生の時に終戦で、
幸い経験をして両親と北海道
児気管支喘息に良く、その後、
ており、私は札幌円山小学校
三年生の夏休みに、父と兄の
三人で樺太に行ったが、涼し
い八月の樺太の気候が私の小
サハリン ジダンコ山(旧突阻山)682m
北海道中央分水嶺踏査で何回も宗
谷岬に行ったが、北方約四〇血の海
上に晴天であれば日本領土であった
樺太を遠望することができた。約二
万年前の最終氷河期には、アジア大
陸・間宮︵タタール︶海峡・樺太・
宗谷海峡・北海道は陸続きであった
∴「! ∴/ ∴∴∴∴∴「∴/∴:∴∴ ノ轡
騒懸綴擬態蓬箋顎 //「
リンスクの第一小学校のグランドを
探し、そこに古い泰安殿を見つけた。
そして助田氏の生家のあった場所を
確認できた。
サハリンと呼ばれても、明治三八
年九月五日の米国ポーツマスにおけ
る日露講話条約により、北緯五〇度
以南の樺太は日本領土であった。昭
和二〇年八月一五日の日本敗戦後、
越境して攻撃してきたソ連軍により、
真岡・豊原へ避難しようとした一般
市民は家族を失い、悲しい結末を体
験している。この事実を道庁の赤レ
ンガ資料室で知るたびに私の胸はふ
るえる。これは沖縄の苦しみと同じ
である。ノーベル文学賞作家の大江
健三郎氏は、渡嘉敷島の教育委員会
発行の本からの引用として ﹁自らの
手で自決する道を選んだ。力ある父
や兄が弱い母や妹の命を断った。そ
こにあるのは愛であった。﹂追いつ
めたのは米軍だけか?母親も幼児も
自分で死を選んだのか?愛という言
二〇〇五年七月、いつの目か﹁ヒ
マラヤの青いケン﹂を一度は見てみ
登山愛好者五名、しかも女性ぽっか
成都からはバスに乗り、都江堰
一四日 成都∼臥龍 ︵ウォロン︶
︵トコウエン︶ の治水水利施設 ︵世
界文化遺産︶ の見学を終え、臥龍
︵ウォロン︶ に向かう。ここにはパ
ンダ研究所があり、かわいらしいパ
ンダの寝姿や幼い者同士のじゃれあ
いに目を細めました。生のパンダを
見るのは初めてです。
この夜は臥龍山荘に泊りましたが、
がやってきました。
四姑娘連山は主峰四姑娘山︵六二五
〇メートル︶を筆頭に三、二、大姑
よそ二〇〇キロメートルにあります。
美味しく頂いたが就寝時、ん?何と
夕食時にはピーチュで乾杯!食べ物
は野菜類が多く、珍しさも加わって
大姑娘山は 省都・成都の北西お
り。楽しい山旅になりそうです。
健康一点張りの体が突然崩れ、勤
めていた職場を去りました。時間は
娘山と高度を落として連なります。
たいと思っていたところ、その機会
たっぷりある中、回復すればじっと
て憧れの青いケシと人々の生活。
山麓の花々はどんなに美しく、そし
すでに標高一八〇〇メートルのため
少々肌寒い。そんな中、またしても
は海外の山。それも高い山ではなく、
︵ピーチュ︶ で乾杯!
祝いを行いました。先ずはビール
大酒店に向かい、中国第一歩の安着
二〇〇五年七月一三日
新千歳空港∼四川省・成都
一行六名は新千歳空港国際カウン
ター前に早々と集合しました。いつ
の旅行も出発前は心躍り、皆いい笑
顔を見せているなか、二二時二〇分
発、飛行機は上海を経由し成都に到
着したのは二一時四〇分。
空港では現地のガイド、李︵リ︶
さんの出迎えを受け、ホテル・安国
いよいよ出発の日を迎えました。
していられる筈もなく、考えること
ゆったりと癒される山旅を求めてお
﹁あまり体力をつかわずに済むフ
りました。
ラワートレッキングはどうだろうか?
でもどうせ行くなら五〇〇〇メート
ル級もいいかも⋮﹂と夢が膨らみ始
びました。そこは噂に聞くお花畑と、
ンシャン・五〇二五メートル︶ を選
め、結果として山も花も楽しめる中
国・四川省、大姑娘山︵クークンニャ
れている。
葉は、このような意味か?問いかけ
は続くでしょう。と朝日新聞に書か
初めての中国のため、ツアーリー
ダーは顔馴染みのK氏︵エベレスト
世にも美しい青いケンにご対面でき
るところ。迷わずそこに決めました。
ろう。私は一一月二三日に他界され
登頂者・札幌在住︶ にお願いしまし
た。参加メンバーは道内に住む熟年
四〇年間ではあったが、樺太で終
末を迎えた日本人の霊は、中央分水
嶺などの静かな山奥に向かったであ
た助田陽一氏の霊も含めて、鎮魂の
山旅を続けたいと思っている。
なく喉がいたい。異国の
空気を喉が最初に反応し
たようです。
一五日 臥龍︵ウォロン︶
ン︶ 峠∼日隆 ︵リーロ
∼巴郎山︵パーローシャ
︶
ン
いよいよ今日は四姑娘
︵スークンニャン︶ 連山
の展望が叶う日でもあり、
そして巴郎山峠では待望
天気は申し分なく良く、
の花々と会える日です。
揺れるバスに身をゆだね
い草原には色とりどりの
ると、早くも沿道や小高
花たちが目につきはじめ
ました。
大きく曲がりくねった
ばらく走るとそこは巴郎山峠でした。
エンジン音が一段と大きくなり、し
ました。そこからは雪をまとった四
峠を下っていくと大きな岩の記念
碑がおかれた四姑娘山駐車場につき
道路をマイクロバスは順調に進み、
峠は四四八七メートルにあり、一
姑娘山が天を突く鋭さで吃立してお
りました。とても雄大な眺めです。
やがて登山基地である日隆の町に
入り、早速ホテル ︵国際大酒店︶ に
時下車して外の空気を吸いました。
眼下にはなだらかに山裾を切り開
き、うねうねと今上ってきたハイウェ
並び、中でも珍しいキノコに目がと
おりましたが、ウオッチングは明日
におあずけです。
まりました。巨大な洗面器ほどの大
きなものや、篇草のような形のもの
の町であり、沢山のお土産屋が立ち
チェックイン。日隆は賑やかな観光
イが見渡せました。大らかな大陸の
風景が展開し、そして足下の岩交じ
りの草原には小さな花の色が見えて
大姑娘山(5.025m)左から3人目撃者
など日頃見慣れないものばかりでし
。
た
午後からは再びバスに乗り双橋溝
の渓谷美を見学しました。
一六日 目隆︵リーロン︶ ∼巳郎山
︵パーローシャン︶峠往復
今日も天気がよく、昨日通った巴
バスで峠に着くと、早速草地の中
郎山峠に行き高所順応を行う日です。
を下り、フラワーウオッチングの開
始です。薄い空気に体を慣らすのが
目的のため、各人のペースでお花畑
の中をうろうろしなから体調を整え
ながら下ります。
岩交じりの草地の中にブルーポピー
なく素材はなんと言うのかビニール
登り始めは傾斜のある広い道が続
製のシロモノです。
き、登り切るとそこには草原が広がっ
の集いに使われるとのことでトイレ
ておりました。町のお祭りなど人々
も設置されておりました。石塔も数
個あり日隆の町を見下ろすことがで
きる長閑な場所です。その先は緩や
かな、本当にゆったりした草原の中
を進みます。
老牛園子までの登山道脇にも沢山
の花が咲き、まったく飽きることが
ありません。出発してから六時間後、
老年園子のBC地が見え始めました
が、予定の場所には黄色いテントが
辞落を作り立てられていたため、私
たちは一〇〇メートルほど高い場所
︵青いケシ︶ を見つけました。やっ
と会えました。そして黄色のポピー、
茎の長い赤いポピー、ピンクや黄色
聞くところによると黄色のテント
は日本の旅行社のものらしく、シー
に張りました。
のサクラソウに似た花やエーデルワ
イス、コイワカガミに似た紫の花、
ズン中は常設されているとのことで
全員体調もよいようで、なんとも
食欲が旺盛の様子でした。
でいられません。
Cは薄ら寒く、もうピーチュは飲ん
三七〇〇メートルの高さにあるB
るようです。
れ、エーデルワイスも餌になってい
り、草は刈ったかのように短く喰わ
テント場はヤクの放牧地の中にあ
し
た
。
などの沢山沢山咲いておりました。
満足な気分に浸りながら高所順応を
終えました。風邪気味も一気に飛ん
だ感じです。
一七日 日隆︵リーロン︶∼ラオニュー
エンツ ︵老年園子︶ BC
日隆のホテルから数分バスに乗り、
登山口に向かいます。出発前に途中
の道が悪いので﹁長靴﹂が必要との
ことで買わされました。ゴム製では
ネパールならば 〝ビスターリ〟と、
BC∼CI︵四三〇〇メートル︶
一八日 ラオニューエンツ︵老年園子︶
となる。Clからはそれまでの草地
芳しくなく、雲が垂れ込める中出発
待望の登頂日を迎える。空模様は
今日はCIに入ります。
登りは遠回りのゆったりした道を
行くが、そこは黄色のサクラソウに
おりました。
じめました。
りの交通量はかなり多くなるが、い
く流れがなくなりました。訊けば大
きな落石で道が塞がれているらしく、
いつ開通するのか全く分からないと
次第にその数は増し、やがては全
つしか渋滞模様となり車が連なりは
目的の山頂を達成し、満足と充実
感に満たされて夜の登頂祝いは﹁北
国の春﹂ で盛り上がり、嬉しさの余
り天と地が逆転?した人もいたよう
で
す
。
のこと。
十三時間に及び車に閉じ込められる
どうしたことだ。それから延々と
二〇日 BC∼日隆︵リーロン︶
とは⋮
元来だ道を日隆まで下ります。持っ
てきた長靴は、ぬかるんだ道で役に
超特急。どこで何を食べたのか、何
からガレ場に変わり、のんびり歩い
ていた光景とは一変します。
花は無く、堆積された岩が累累と
連なり、足場は一挙に悪くなりはじ
め、雨具を着てはいるが寒さが身に
染みます。
歩きはじめて一時間四〇分後、稜
した。
立ち、あっちの花、こっちの花と珍
しい姿をみつけてはカメラに収めま
に着いたのは深夜であり、翌早朝、
をしたのか、とにかく上海のホテル
日隆から成都
まで戻る予定
巴郎山峠を
らず関空に着いたのでありました。
上海を発ち、ショッピングもままな
その後の行動は実に目まぐるしく
石塔のある草原の広場から振り返
線のコルに出ると、一層ガスが濃く
なりはじめました。小休憩し、再び
ると四姑娘山が気高く聾えて望まれ
似た花の群落で埋まっておりました。
見渡す限りの黄色の絨毯。凄い!凄
い!の連発です。
急ぐことば禁物の高所のため、一
足ごとに呼吸を合わせて登ります。
山頂を目指すと硬い残雪の上に達し
ました。慎重に歩を進め、コルから
小一時間で小高い岩がガスに霞んで
ました。
やがて花の数が極端に少なくなり
はじめてきたと感じたが、カール状
の草地が現れて、そこにCIのテン
トが張られておりました。先客のテ
見えたと思ったらそこが山頂だった
のです。色とりどりの旗やテープに
飾られた狭い山頂は記念の写真に収
まるとすぐに後続のパーティに場所
を譲らねばならないほど次々と登っ
寒さもつのり下山開始となるが、
シデントに遭
がとんだアク
前日下山し、
う
か
。
二一日 花はよし、山はよしの山旅
に、まさかのつまずきがあろうと
は誰が予想
し得ただろ
ントも七∼八張りあり、生憎と天気
が崩れ、小雨模様で辺りの景色も望
めません。
食事には気をつけていたはずなの
に、今朝出されたパック牛乳を飲ん
だせいかお腹の調子が悪くなりだし
て来ました。それも日本人ぽっかり⋮
中には携帯酸素を準備した人から、
残念だったのは、、、二ヤコンガが見え
遇してしまい
ろいろ。
なかったことなのです。この天気で
立ち止まり苦しい呼吸に喘ぐ人とい
と幸いものになるだろう。
は無理もないが、特別な意味をこめ
下りしばらく
ました。いつも高所では胃腸にくる
ので気をつけていたのだが、なんと
した不注意か。ここは四三〇〇メー
トルの高さにあるため、体調を崩す
午後は何にもすることもなく、明
日の登頂に思いを馳せました。
するとこの辺
ました。
BCに戻ったのは一四時半を過ぎて
て心の中で合掌⋮
下山路は登りに増して慎重な足運
びで下降を続け、Clを通り過ぎ、
一九日 Cl ︵四三〇〇メートル︶
往復∼BC
∼大姑娘山︵五〇二五メートル︶
昭和十三年暮れ、イタリアの登山
掘り出し、マライー二は大型ナイフ
コップで雪塊を、40×50×20m位に
イグルーの
家フォスコ・マライー二が、北大医
でそれを四角に整形し、円の回りに
積み上げる行程を図説している。
十勝岳から大雪山への冬山縦走は
北大山岳部や旭川山岳会で試みられ
ていたが、吹雪に阻まれいずれも失
高 澤 光 雄
学部解剖学講座児玉作左衛門教授の
もとに留学生として来日。翌年二月
十五日に北大山岳部が札幌グランド
ホテルで催した卒業生送別会に出席
し、入部の挨拶をしている。
昭和十五年一月五日、北大山岳部
えている。八島は二月に連載された
新聞記事を見て、自宅で模型を作り、
芦別岳で実験を試みていたのである。
つまり、鋸で雪塊幅で平行に二条
の鋸目を入れ、平行の面を台型に互
い違いに切れ目を入れ、それを雪面
の広い部分から先にスコップで掘り
出し、予めストックで円形を描いて
おいた設営場所の周囲に積み上げる。
その後、一人が円内で、他は円外で
協力し合って整形配列し、積み上げ
ていくのである。何とそれは現在の
方式と変わらず、当時、既に八島が
考案していたのである。
昭和十六年五月四日、北大の今村
昌耕と任官省三は雪洞を作って前進
し、ペテガリ岳の積雪期初登に成功
した。そして厳冬期は同十八年一月
五目、今村と佐藤弘がイグルーを拠
点に達成した。今村は﹃北大山の会
会報﹄十六号で次のように述べてい
雪庇はよく締まってコンクリート
。
る
め雪踏みをして固めてからブロック
果して一月上旬に雪洞を作るだけの
雪が国境稜線に積もっているのか、
今村はイグルーを作った経験は無
心配でもあった。
かったが、ヒントはマライー二の話
である。
で、風の強い国境稜線の尾根ではこ
れに限ると考えていた。作業は堅雪
のブロックを力学的に積み上げてドー
ムを作ればよい。もしだめなら雪洞
をと決心を固めていた。それが見事
に実現し厳冬期初登を成し遂げたの
戦後、昭和二十二年十二月の北大
山岳部の十勝岳合宿で、最終日に硫
黄山ゲレンデでイグルー製作を試み
た。そして翌二十三年一月二十二日
から二月五日にかけて、イグルーを
作って清書岳の初登を果たし、エサ
一行は橋本誠二、山崎英雄、熊野純
オマントッ夕べツ岳にも登っている。
男、木崎甲子郎。この登山記は﹃北
大山の会会報﹄ 二十号で山崎が
断片ILと題し、イグルーの快適さ
﹁イグルーの生活−滑若岳登山の一
を次のように述べている。
な入口を通って暗い穴へともぐり込
を積み、入口も完成する頃になると、
そろそろ腹の虫が騒ぎ出す。外界の
景色を充分に眺めては一人づつ小さ
ばなるまい。天井の最後のブロック
﹁此処CⅡでは今日より登頂を終
えるまで何日聞かの籠城を覚悟せね
テガリ岳を目指したが悪天候で失敗。
人全員で食糧とテント二張は重荷で
無理がある。昭和十六年三月に朝比
奈英三、橋本誠二が雪洞を作ってペ
イグルーを作った理由として、五
サポートの三人は下山した。
のようで、厚いブロックが続々と出
来上がる。それを整形して並べ、吹
雪の中を五人で一時間半で作り上げ、
上に達したものの、あまりの激しさ
で断念せざるを得なかった。
その縦走は失敗したとはいえ、宮
澤はイグルーで安眠できた体験記を
三月二十四∼二十五日の北海タイム
スに連載。その中で八島の発案を讃
を切り出すので、その時間も見てお
かなければならない︶。
しかし、翌日は猛吹雪、十勝岳頂
敗していた。マライー二はヨーロッ
員が日高山脈のペテガリ岳を目指し
たが、雪崩に遭遇し八人が埋没死す
る予定だったが、生まれたばかりの
娘が発熱し、二日遅れて出発してそ
の難を免れた。
た。この登山にマライー二が参加す
るという悍ましい惨事を惹き起こし
パ・アルプスでの冬山経験を生かし、
果敢にも長大な尾根をイグルーで縦
走を企て、宮澤と旭川山岳会の八島
定則と三人で、同年三月十五日に吹
雪の中を出発。八島の熟練したコー
ス取りで美瑛の沢に到着。二時間二
十分でイグルーを完成させた ︵圧雪
されていない山間部や平地では、予
マライーニはこの遭難後、エスキ
モーが短時間でイグルーを作ること
を思い出し、それに頼れば重いテン
トを担がずに登れるので、急斜面の
雪崩防止策になろうと、自宅の庭で
北大予科生の宮澤弘幸と実験を重ね、
手稲山頂上で報道陣に公開。昭和十
五年二月四∼五日の北海タイムスで
﹁冬の山嶽征服にエスキモー式雪小
ストックで円形を描き、宮澤はス
屋の実験﹂と、両者名で連載された。
10
をビニロン製のウィンパーとイグルー
暮れからサポート班を編成せずに現
役二人を伴って、知床岳から羅臼岳
低気圧の通過時に氷の粒を含んだ爆
オブタテンケ山の肩で作ったものは、
十七年の検証﹂として、前記理論を
継承して作り続け、樽前山北コルと
ド﹄を作成。それにイグルーの作り
講習会を催して普及に努めた。平成
五年に札幌市で﹃冬の公園利用ガイ
冬山を目指す山岳団体に呼びかけて
を併用して実働僅か一週間のラッシュ
方と設計図が転載され、楽しげに遊
ぶ子どもたちと写真入りで紹介され
む。中は充分に広い。四畳敦はたっ
ぷりある。一歩中に入ると何と暖か
いことだろう。厳冬期の旦昂山脈国
境稜線上とはとても思えない。暗く
た。今では冬のレクリエーションと
風がイグルーを削って崩壊。ブロッ
して都会でも普及されていることは、
が出ている尾根では、ウィンドクラ
あり得る。上ホロカメットク山人ッ
喜ばしいことである。
タクティクスで達成している。這松
手岩付近では暖気で溶けて崩落。フ
なったので一本のローソクに火を灯
ライを被って難を逃れたが、その原
因は作り方が雑であった。イグルー
クの雪質が悪ければそういうことも
め、スキーの裏面を並べてベルトコ
スト ︵風成雪︶ した良質なブロック
が得られ、ブロックは雪面から一段
しか取れず、広範囲から切り出すた
浮かび上がらせた⋮⋮外の猛吹雪も
す。一瞬四方の氷の壁に反射した光
は暗い穴の中をすぼらしい明るさで
バロメーターはぐんぐん下がって、
は各ブロックが互いに支え合ってい
て、隙間が広がれば、雪が吹き込ん
で崩落につながる。当時は二番目の
な
い
。
基盤ブロックをきっちり積む意識が
なかったので不十分だったかも知れ
わに作ったので、吹き溜まりとなり、
逆に知床岳のポロモイ台地で作っ
た時は、二つ目低気圧の通過で三日
間停滞。この時はイグルーは斜面ぎ
ていた。この時、改めてイグルーの
脱出時は天井部分を残し殆ど埋まっ
すぼらしさを実感した。そしてイグ
ルーは壊れるという危機意識をもっ
ていただきたいと、注意を促してい
。
る
昭和五十三年に新妻徹は札幌山の
会十周年記念誌﹃薄雪草﹄ に、﹁イ
グルー製作と生活﹂として、理論的
な設計値を網羅し、横50×奥行40×
厚さ50脚のブロックが最適と言及。
これをテキストに札幌近郊の山々で
する佐藤弘、撮影=今村昌耕
イ岳頂積にイグルーを建設、サポー
ト班3人が下山後、登撃用具を点検
和18年1月2日コイカクシュサツナ
頂 遥かなるペテガリ岳﹂参照。昭
10∼12頁、今村昌新著﹁厳冬期初登
﹃ヌプリ﹄35号︵平成17年4月刊︶
中ではヒュッテの夜より静かである。
ンベア式で流送、積層式八段のイグ
ルーを強風雪だったが一時間で設営
明くる日も、次の日も又その次の日
も吹雪はイグルーの周囲をあばれ廻っ
し
た
。
﹃北大山岳部々報﹄十三号︵平成
た。シエラーフから目だけ出して天
二年︶ で、米山悟は﹁イグルー研究﹂
を発表。
井を見つめていると時々風の音が聞
こえて、我々の鼓膜をふるわせた。
外はマイナス二十五度、風速二十米
どのようなコンディションの雪ま
㈲どのくらい雪があれば作れるか?
コンスタントである。﹂
以上であるが、イグルーの内は殆ど
㈲どのくらいの風でつぶれるか?
で作れるか?
﹃北海道の山﹄八号︵昭和三十五年︶
清水一行が自ら編集発行していた
に﹁山小屋として利用できるイグルー﹂
また、十四号︵平成十八年︶ で、
勝亦浩希が﹁﹃安全な天場﹄イグルー
て理論づけしている。
50関のブロックによる8段式︶ とし
なブロック数は一三〇個︵30×40×
四方の正方形に外接する円で、必要
四人が寝られるイグルーは180撮
㈲作るのに何時間かかるか?
何人まで寝られるか?
㈲本州ではどうか?
高所登山では可能か?
最後に具体的な製作方法として、
と題し、雪中露営を奨励している。
四人用を基にして、イグルー・雪洞・
天幕︵冬用︶ を対比。作業時問、場
所、雪質、居住性、換気、温度、湿
度、雪に対する強度、風に対する強
度、炊事作業、熟練の度合い、必要
用具、それぞれの長所、短所を一覧
表で記した重宝なものである。
また、北大山岳部OBの新妻徹は
この ﹃北海道の山と旅﹄二十二号で
記録を発表している。昭和三十七年
11
謡攫噸雛離離雛離鮭
沼 崎 勝 洋
昭和二十五年夏、佐藤忠雄、小林
年、水野、木村寛人で東大壁第一ルー
ト︵佐藤ルート︶が登られ、次いで昭
和二十八年八月十三日に同壁第二ルー
ト ︵小林ルート︶を当時北大生だっ
た小林年、西信博、木村寛人が完登
した。両ルートとも泡状の岩が多く、
も最小限しか打たなかった。この発
が入りやすかったという。ハーケン
地下足袋なのでフェースの穴に親指
想は自然に実践されただけなのかも
昭和二十五年九月に、赤岩山で第
二回北海道体育大会秋季大会山岳部
演技会が開催され、全道各地の山岳
団体が多数参加したのを契機に、岩
登りをする岳人が多くなった。小樽
山岳会の結成が、これに前後する昭
和二十三年のことである。同会では、
一原有徳、佐藤忠雄等が中心に、常
に清新な発想で手ほどきをし、影響
ト、中リス、Wバンド、奥チムニー
しれない。
十五年四月、上口明、
土田による赤壁の苦
闘は﹁赤岩日誌﹂に詳
しい。昭和三十六年、
ランケの上ロルート、
不動岩稜側壁P2フ
ライミングを楽しんだり、赤岩の話
佐藤忠雄︵故人︶以外は、一緒にク
一厘有徳氏の話
題で盛り上がった者同士です。
ある時期の記録をまとめてみました。
地元クライマーの活躍を中心に、
トとして建った。
横山兄弟ルート。
この壁の初登馨をめ
ざした上口明と横山
兄弟は取付で偶然に
会い、協力して登っ
て上部で分かれ、それぞれのルート
を完登した。
昭和三十八年五月十九日、クリス
タルフェースを宮下弘、北村浩が登
る。上口明、横山兄弟が下部のハン
グにルート工作し、宮下、北村が中
近年吉田和正によりフリーの好ルー
段スラブ、上部ハングを抜けて完登
を果たした。﹁クリスタルフェース﹂
の名の由来は、ボルトの穴を開けて
いる時、キラキラと光る﹁石英﹂が
北大山岳部の越前谷幸平、下沢英二
らが、不動岩稜下部Aフェース・D
な?
僕が最初に岩登りをしたのは三つ
の岩塔なんですよ。昭和六年ごろか
︵一九八四年のインタビューから︶
月、今建一、渡部昭司、伊藤博がガッ
カリ岩北面バンドルート。昭和二十
フェース、東大壁ダイレクト、同壁
昭和四十三年∼四十四年にかけて、
あったことからだとか。
九年十月、今建一、五十嵐太多彦が
三つの岩塔の名称は戦後昭和二十
五年、日本山岳会の北海道支部大会
があって岩登り交歓登山をするのに、
判二十六頁・写真二枚あり、謄写版
刷︶ を作ったんです。それらの説明
ちょっと簡単なガイドブック ︵B5
北西壁大ハングルートなどの大ルー
トを相次いで登った。
れることがなかったこのルートは、
工ルートを開拓。久しく存在が知ら
昭和四十四年十月、小樽山岳会の
中井繁、平山徳行が44フェースに人
昭和二十六年九月、小樽山岳会の
今健一、五十嵐太多彦、古川進次が
三段ルンゼから窓岩側壁。昭和二十
六年十月、同メンバーで大黒岩正面。
昭和二十七年七月、今建一、佐藤忠
雄、川口が函ガレ。昭和二十八年九
クリスタルフェース
E4開拓。今らは後に至峰会として
独立する。
昭和三十四年、小樽山岳会の上口
明、桜陽高校、千秋高校山岳部らが
トビラ側面スラブに、積極的にボル
トを使用してルートを作る。昭和三
12
が大きかった。トビラ、ノーマルルー
を、佐藤忠雄、奥フェースを小林年
が開拓ルート図も印刷された。人と
人とがつながって行く興味深い話で
あ
る
。
探求心の旺盛な小樽桜陽高校の生
徒、小林年、西信博、木村寛人らが
東大壁偵察のための、天体望遠鏡を
調べ、、、、ミズク岩のコルから上部の
持ち出して、大壁のクラックなどを
第三ルートを試登するが、上部ハン
グを越せずに断念する。このルート
は昭和三十三年、札幌山岳会、漆畑
積、清水一行に初登される︵漆畑ルー
ト︶ こととなるが、当時吊り上げの
せなかったと話してくれた。
技術がなかった、アブ、、、も使いこな
下部大ハング(lP目)
札幌店 〒001−0012 札幌市北区北12条西3丁目 TEL札幌(011)726−1235(代表)
ハーケン一枚が三十銭のころです。
端封心,店秀吉革
道の山岳﹂ ︵昭六
代が片道十五銭のころですから高い
ものでした。汐見台から赤岩六鳳は
登山と山スキー用品専門 富無品謂諜慧黙
カラビナなんか一円五十銭で高くて、
載っていました。
歩いて行きました。ハーケンも鍛冶
﹁メガネ岩﹂と言うのがあってね、
旭川店 〒070−8045 旭川市忠和5条4丁目 TEL旭川(0166)61−1930
今にしたらとてもじゃないが、バス
﹁ドリョクの岩﹂
僕らが最初かと思ったら、北大の中
白石店 〒003−0026 札幌市白石区本通1丁目南 TEL札幌(011)860−1111
年︶ にも紹介され
てます。北大山岳
部の部報一号にも
は側面のジエドル
枚三十銭でしょう。ポケットマネー
屋に行って穴のあいたものを作りま
したよ。﹁好日山荘﹂ に頼めば、一
が3円の頃ですからね。小樽から定
山渓までバス片道が一円五十銭だっ
から上部の岩が落
ちて様子が随分変
﹁ガッカリ岩﹂ は
わったようです。
らも登ってますね。また西側のカン
術をマスターする為によくあそこで
それと戦前ですが、東チムニーか
てからの ﹁ガッカリ岩﹂は立派で登
だったもんね。
テ。いま懸垂下降する所ですかね。
海側のバンドからの摩天なんか簡単
たんです。
馨意欲が湧きましたね。今はムガ
︵棚岩︶ も非常に様子が変わってま
北側を回り込んで
の為に盛んに登っていた岩塔を三つ
の岩塔と名付けました。それぞれに
すね。練習場にいいんでいろいろ技
練習をしたものです。それと﹁ベル
いま ﹁メガネ岩﹂ って言わないで
野征紀さんが先に登っていましたね。
いんですがネ。⋮︰
ヘルにつかまっていたのが、何時の
﹁窓岩﹂と言うんだね。懐かしい想
い出です。
ギー岩﹂ の頭にあった岩。よくジッ
間にか無くなっていますね。あれは
﹁ガッカリ岩﹂は姿は立派ながら、
リしたことから﹁ガッカリ岩﹂。
と ﹁ガッカリ岩﹂ は
上部 登響
く写真提供 宮下 弘>
昭和三十年ごろですか⋮⋮? それ
脆く、崩れそうで昔
ク岩﹂は堅そうです
が、かなり崩壊して
ていません。﹁ドリョ
とそんなに姿は変わっ
ルギー岩になりました。当時北大山
ますね。昔の写真も
ありますが、随分と
違います。
思っていましたが、いつの間にかベ
﹁ベルギー岩﹂ には立派な理由が
あるんです。当時ベルギーの皇帝が
登山が好きで岩登り中に墜落死した
新聞報道を見て、弔意をこめて名称
を皇帝名アルベールと名付けようと
登ってみると、以外に簡単でガッカ
リョク岩は努力して登ったからでな
登ったりしました。ガレ西沢を登っ
すね。一つは﹁ドリョク岩﹂ね。ド
名前も付きました。地名の初めなん
て偶然簡単に理由もなく付けたんで
クリスタルフェース(2P目)
岳部は耳岩を通って降りてベルギー
岩を登っていましたね。北海道の最
初のガイドブック田中三時著﹁北海
クリスタルフェース(2P目)
ー13−
トップ宮下 弘 セコンド北村 浩
追悼高橋檀志さん
三月十六日の早朝、長谷川雄助氏
くれた。発車してバックミラーを見
ると、吹雪なのに手を振っている。
完成させるナウ・ハウを持っている。
紙から箱を作る時に、糊を付ける部
分﹁糊代﹂が必要であるが、箱が完
る。桓志さんは北海道支部の糊代の
ような存在であった。﹁星の王子さ
あった。その奥様が他界され、二人
の御子様を男手一つで育てられた努
力は愛情と責任感の深さを示すもの
であり、私は何回も再婚の話を持ち
かけながら、とうとう彼の久野さん
を想う心の深さに触れて、口に出す
ま﹂を著したサン・テグジュペリは
成すれば ﹁のりしろ﹂ は見えなくな
星原信之氏が三月十三日に見舞いに
行かれた時は、ベッドに腰掛けて元
ことはできなかった。
今となってほぞの姿が最後となって
しまった。二月二十七日に入院し、
気だったというのに、その三日後、
﹁昭和の最後のIAC会員で、名前
は桓武天皇の極という字です﹂とい
月に入会。会員番号は10399で、
ので、もうこっちにおいでILと桓
は辛く悲しい。
里塚の火葬場は、彼岸入りの三月
十八日でした。今年は久野さんの十
七回忌にあたります。きっと、久野
さんが ﹁慎一も敬子も家庭を持てた
ウイットがあり、ルームの運営にし
りつとめる立場になってしまった私
が、北海道支部の品格ある星の王子
さまの葬儀委員長を喪主の希望によ
ても、図書委員会の委員長としても
誠実な態度で根気強く、目立たない
仕事を無言で執行してくれました。
夏の自然児学校の装備類のチェック
日甜の最後の勤務は、十勝幌尻岳
のよく見える清川農場長でしたが、
﹁カチポロがきれいですよ。日甜の
うとしない ︵聞けば、ニコニコして
えて育てているのに、自分から話そ
切り出している。イグルーの上に登っ
楽しく教えてくれる︶。雪でイグルー
を作成する時は、無言でブロックを
てフロックを積み上げていく派手な
目立つ仕事はしない。指名されると、
くり眺めてください。
︵新妻 徹︶
野霊園から好きだった空沼岳をゆっ
追求した岳人﹁桓志﹂六十七歳。滝
う思って静かに合掌しました。義理
と人情、自由と平等、情熱と理想を
志さんを呼んだのでしょう。私はそ
うユニークな自己紹介はユーモアと
ructibi︸ity︶ を主張したのであろう
ンデストラクティビリティ ︵inlのSt
や整理、支部だよりの発送など、一
﹁大切なものは見えない﹂ というイ
よる逝去であった。
つ一つ頭の下がる思いで一杯です。
日本山岳会には昭和六十三年十二
桓志さんは高橋忠五郎・シズ様の
第七番目の御子息として昭和十五年
六月七日に中川郡美深町で誕生。美
深厚生小学校、厚生中学校を経て名
寄農業高校農業科に通学した。私は
昭和三十三年九月十六日付で北大農
学部から名農高の教諭として道教育
委員会の発令を受けたが、その時、
桓志さんは名農高の三年生で、剣道
研修会館で合宿しましょう﹂と道東
地区の会員・会友のたまり場を提供
してくれたり、高山植物は種から植
﹁食道癌による急激な気道閉塞﹂ に
部員であった。桓志と呼び捨てにし
たり、桓志君と呼んだりしていたが、
日本剣道連盟の四段の免許状を持つ
武士道を基調とした好青年であった。
日本甜菜製糖株式会社に就職し、美
幌、東京、常呂、帯広、士別と転勤
し、登山は東京勤務の時に覚えたら
しい。昭和四十二年九月二十四日に
久野︵ひさの︶様と結婚され、昭和
四十三年に長男の慎一君、昭和四十
五年に長女の敬子さんに恵まれ、札
幌の原料課長の頃は家庭訪問と称し
て日甜の社宅にうかがい夜遅くまで、
奥様と三人で楽しく談笑したことも
14
から﹁つよしサンが、桓志さんが⋮⋮﹂
という電話があり、何回も聞くと
﹁午前二時半に呼吸がとまった﹂ と
の卦報であった。検査と称して菊水
の札幌国立癌センターに入退院をく
りかえしており、私が六階のナース
センターに行ったときは不在で、
﹁帰宅して留守電やFAXを見て来
ると言ってましたよ﹂と看護師さん
が言うので﹁本当に検査なんだなァ﹂
と思って彼に会えないで帰ったこと
NHK文化センター新札幌教室の
が三回もあった。
夏山登山のサポートを三年間も担当
し好評で、冬のスノーシュー教室の
に厚別のマンションを訪問したが、
打ち合わせで平成十九年二月十二日
私の車にスノーシューを積み込んで
高橋 桓志氏
/ ㌶㌘// 〟−/−∵っ︰∴−/〟㌶㌶/㌶㌘∴
宴で盛り上がった。そんなこともあっ
て支部は五カ月後にめでたく誕生し
たのである。
を同行者から原稿を募って掲載。淡
川氏の ﹁夕張岳 その周辺と登山小
史﹂ の連載が評価され、昭和五十三
年度﹁岳人﹂会報賞を受賞した。
昭和五十三年六月十六∼十七日に
実施した北海道支部十周年記念登山
のペテガリ岳では、医務担当として
私は昭和五十六年から四年余、東
京本社に転勤。翌年八月十四∼十五
日に東京本部の広谷光一郎、関口周
也両氏の呼び掛けもあって、富士山
に一緒に登る機会を得た。淡川氏か
らは頻繁に山便りが送られて来た。
翌年の賀状には﹁マウント・ケニヤ
m︶ に私は高山病にやられながら登
時半 ポイント・レナナ ︵4985
︵高澤 光雄︶
であり、唯々冥福を祈るのみである。
を出展して貰い、その閲覧に来られ
て大変喜んでくださった。
その後、体調を崩されて入院。平
成二〇年一月二〇日、八十五歳の生
涯を終えられた。私にとっては温情
に浴した掛け替えの無い五十三年間
最後にお会いしたのは、平成十七
年五月から六月にかけて催された、
秀岳荘創業五〇周年記念﹁山の道具
の移り変わり展﹂ であった。展示で
は山の道具を使って登山中の写真を
公募。淡川氏は北海道美術作家協会
写真部門の会員であり、多くの秀作
立ちました﹂とある。
りました。同行の早川氏はピークに
り 4270m、四日 三時発、九
山、三日 マッキンダーキャンプ入
200m、二目 3000mまで下
参加。下山後、佐藤テルさん ︵旧姓
中村、名誉会員︶ の背中にダニが食
い込み、その駆除治療に当たった。
﹃ヌプリ﹄十三号に ﹁鵬程萬里−
羅臼岳と硫黄山−﹂、二〇周年記念
に昭和五十六年一月一日登山開始4
誌﹃ヌプリ﹄に﹁ポロポロ山﹂と題
ザック、テント、登馨中のザイル等
を撮られている。その中からヤッケ、
私との初対面は昭和三〇年十二月
である。連日の残業で突然肺が痛く
なって呼吸困難。札幌医科大学付属
病院で診察を受けると突発性自然気
胸であった。山の本を携えて結核病
棟に入院、主治医が淡川氏だった。
二年後の八月、当時流行っていた
が降ったら濡れればいいさ〟 と、古
して登山開発史を執筆された。
淡川氏は蔵書家でもある。深田久
弥さんが没後、外国書は国立国会図
書館へ。和書は市場に出され、﹃山
岳﹄戦前全揃、製本されて深田蔵書
票が全巻に貼られた貴重本を淡川氏
が入手された。早川氏が帰国して復
刊された﹃第二次野帳﹄ に、淡川氏
は ﹁﹃山岳﹄抜粋﹂ と題して、十回
にわたって北海道に係わる文献を紹
西堀栄三郎作詞の ﹁雪山讃歌﹂ 〝雨
い背広のチョッキ一枚で濡れながら
介している。
五十三年元旦に頂上に立った。
ないか、航空写真で調べたり、晩秋
に源流を稜線まで登って偵察。淡川
氏をリーダーに小島豊会員らと昭和
彼との登山で最も印象に残ってい
るのは旦品山脈神威岳で、ソエマツ
川から登った南西尾根である。当時
はまだ未踏ルートで雪崩の危険性が
旭岳から黒岳へ縦走。下山してホッ
トした瞬間、身体を冷やしながら歩
いたので病気を再発。家に着くなり
病院に直行、淡川医師は命を取り留
めてくれた恩人である。
早川禎治会員が昭和四十七年にガ
リ版刷りの﹃野帳﹄を創刊。紀行文
や山岳文化史的な文章を募って掲載。
自ずとより高度な山を目指すように
なる。翌年暮れから積丹半島最高峰
の余別岳集中登山を実施。早川民ら
は西海岸から、淡川、高濡らは北海
岸、中野武司会員らは東海岸から登っ
昭和五十年に早川氏はバングラデ
て目的を果たした。
シュにボランティア活動で赴くこと
になり﹃野帳﹄は休刊。淡川氏は自
分でガリを切って﹃続野帳﹄として
復刊。旦晶山脈や夕張山辞の登頂記
15
関の
一去を悼む
淡川舜平氏が日本山岳会に入会し
たのは昭和四十四年一月で会員番号
六六四二番、推薦者は塩田良仲、深
田久弥の両氏。この年の七月二〇日
に北海道支部は再発足するのだが、
その当時、深田氏は本部の支部担当
理事で、北海道に登山で来道の都度、
札幌に立ち寄って会員集会を催し、
支部再建を強調された。
塩田氏は名古屋で東海支部設立に
参画。札幌に転勤となり札幌駅前の
ビルに事務所を構え、そこに若手会
ているまりや医院に会場を移し、酒
員が度々集まって、支部設立の話し
合いがなされていた。淡川氏はその
時に入会されたのである。
同年二月八目、本部から広谷光一
郎常務理事、関口周也、堀川英司郎
両氏が来札され、支部設立の懇談会
が催され、終了後、淡川氏が開業し
淡川 舜平氏
助田陽一さんを
偲んで
嚢
猿的胴$  ̄ ̄ ̄“‘“
カメトック山の雪崩遭難事故の第一
報を受けたのは、街で買い物を済ま
せ帰宅した午後五時ごろ適所の記者
からの電話でしたが、その時点では
事故の詳細はわからなかった。
その後TVのニュースで行方不明
者助田陽一さん、重傷者助田梨枝子
さんの名前が出たときには全身の力
が抜けただ呆然と立ち尽くし何も出
来ませんでした。
しばらくして気を取り戻し、取り
霊一一月中旬に人間ドックの検査に
急ぎ現地に行く用意を始めたが、英
た。早く陽一さんに会おうという思
日手術の予定になっていた。
ひっかかり、急遽二六日入院、二八
といつも考えておりましたがこんな
おもわず声をかけたが冷たい身体か
ら返事はない。あまりにも惨い現実
に直面し、ただ合掌するのみだった。
雪崩遭難事故は遠い別世界の出来事
下から掘り出された。すぐかけより
り、親の死に目に会えなかった陽一
さんがとても可哀想であった。
陽一さんは八月に六二年ぶりに生
地であるロシアサハリン州のドリン
スク ︵旧落合村︶を訪れている。今
思えば亡くなる前に見ておきたかっ
たのかなと、なにかしら因縁らしさ
ものを感じました。その折に頂いた
お土産のウオッカが我が家の棚に飾
られているが、当分の問この酒は飲
陽一さんとの最後の山は一一月一
む気にはならない。
山でした。陽一さんの自宅から目の
〇日﹃六華山の会﹄ の納会登山の剣
である。山を見るたびにその頂にい
前に見える山、いつも登っていた山
つもいるような気がしてならない。
ています。
く、今後の教訓として我々の登山も
充分安全に注意をしていきたいと思っ
陽一さんの死を無駄にすることな
に話が出来る気さくなところがあり、
最後に安らかにお眠りいただけま
すようにご冥福を心からお祈りいた
します。 ︵田島 祥光︶
冬山を始めたのもこの頃からでした。
又お酒が大好き、無類の世話好きで
多くの人から好感をもたれた。
山の付き合いはちょうど十年にな
るが、想い出は数限りなくあり、中
でも新妻先生の宗谷岬から襟裳岬ま
での主脈南下縦走のうち旦昂山脈は
ほとんど助田夫妻と一緒の行動で、
陽一さんとの出会いは一九九七年
八月、六花亭社名変更二〇周年記念
﹃北の十名山走破﹄ に参加した時か
らでした、陽一さんは途中参加なが
ら、岩尾別の宿では﹁最初から参加
しているような顔をして酒席の輪の
中にいた私である﹂と感想文に書い
ているように、初対面の人でも気軽
ませんでした。
身近な所で起きようとは夢にも思い
その事を心配した妻とは山には入
らず現地対策本部までという約束を
して、まだ真暗い午前三時に出発し
現地につくとまわりが騒然として
いで頭がいっぱいでした。
おり自分の病気のことなどすっかり
忘れ捜索隊に加わった。十勝岳温泉
駐車場から急ぎ足で約三〇分、富良
野岳と安政火口の分岐点に到着した。
そこはデブリの末端でテントが二張
ありその一張りの中に痛々しい変り
たわっていた。
果てた仲間三人が心肺停止状態で横
午前八時、一一〇人にもおよぶ人
海戦術の捜索が始まった、私は写真
班としてデブリの上部で仲間二人と
捜索隊が少しずつ上がってくるのを
待っていたが、ここまで来るのに相
手応えがあった。きっと陽一さんに
当な時間がかかると思っていた。そ
のうち太田さんがゾンデ棒で足元を
探り出した。すぐに何か感触があり
私も代わって探りを入れたが確かに
又日本山岳会創立百周年記念中央分
水嶺踏査の道東地区の距離は一七〇
山ほどありましたが、完全踏査出来
たのも陽一さんがいたから出来たと
思います。中でも武利岳のテン場か
ら平山方面に踏査に向かう早朝、お
間違いない。午前八時五六分、我々
の様子に気づき警察と自衛隊がかけ
母さんが亡くなったとの知らせが入
つけすぐその場所を掘り始めた。か
たくしまった雪を掘り出すこと二〇
いうつ伏せの陽一さんが二mの雪の
分。ピッケルのついたザックを背負
16
田圃醗
「
一一月二三日あの衝撃的な上ホロ
∴∴ ∴∴∴ ∴∴∴∴ ∴一一一:∴∴一∴
東北旅行 助田陽一氏(右)
調和舗則嫡細
れていて、暫くしてから、若くて遣
最初にお兄さんの貞信さんが入会さ
したね。もう四〇年も前になります。
入れてくれたロイヤルティの味は、
簾沼での大昼食会。君が丹精こめて
の山歩き。リンドウが咲き乱れる真
今でも味覚として残ってますよ。
野幌森林公園の散策も三人だった。
山登りではなかったけれど、澄江先
生にとっては極めて珍しいびと時で
しい君が入会してきました。︵入会
年次昭和四〇年・会員番号四七番︶
てくれました。
澄江先生は ﹁滝本さんはいい弟分
で、君とのエーデルワイス時代の山
そしてすぐに会の中枢として活躍し
僕は君の入会と同時に公務員の宿
命である転勤で帯広の地を離れたの
メチャクチャに君のお世話になった。
僕が田中澄江さんの山登りのお手伝
﹁海老名さん、元気?﹂と電話がか
鶴岡節子さんへ
くやりました。
かってくるような気がしてなりませ
︵さん︶ をお持ちね﹂ と目を細めて
君を見ていましたっけ。僕等は澄江
先生を僕等のかあさんだと言って三
人で笑い合いました。
﹁先輩、ゴルフあまり上手じゃあ
和四十八年頃から澄江先生がご病気
になるまでの二十年以上に亘って二
人でお世話しましたね。道南、道北、
道央とつまり全道何処へでも、君は
縦横無尽に車を馳ってくれました。
引き受けてくれました。君は頑固で、
昨年、僕等の念願の総務委員長を
ないよ﹂そうだ、ゴルフもいっ時良
﹁和夫君だってあまりいい格好じゃ
合っていますよ﹂
りませんね。山に登っている方が似
僕の中で忘れられないのは、ウエ
ンシリや空沼登山と野幌森林公園で
理路整然としていなければ動かない
プルートの下山は緊張の連続でした
と沢山あったよね。悔しいのは残さ
れた皆んなも同じだよ。又何処かで
逢おうよな。合掌 ︵滝本 幸夫︶
鶴岡節子さん(中央)
冬山の季節がやって来て雪を見て
そして、お手製のおいしいお漬物
いきました。
行った事等いくつもの思い出がよみ
がえってきます。貴女はいつも健脚
で私達の先頭をきって元気に進んで
をラッセルしなから、ネオパラ山へ
て三角山の奥を歩き回った事、深雪
いると、一緒にスノーシューをはい
。
ん
信じられなくて、いつものように
節子さん、早いもので、貴女が突
然の事故で私達の前から去ってから
もう二ケ月になりますね。私は、貴
女のいない事がいまだに本当だとは
の語らい。
人だった。職場の近くの喫茶店で口
説き落としたことが正に昨日の事の
ようで懐かしい。これで支部は盤石
な筈でした。
君に安らかにお眠り下さいと言う
いをするようになったからです。昭
大いに﹁人生﹂を語ったものでした。
和夫君!あまりにも今回の出来事
はいたずらが過ぎませんか。君から
見たら大先輩の僕に、君の ﹁お別れ
の会﹂ の弔辞を読ませたり又いまヌ
プリ掲載の君への ﹁追悼文﹂を書か
登りは僅かでしかないけれど、後年
﹁お別れの会﹂ の弔辞は、未だに何
をどうお話したのか記憶にないので
すから。その時僕は何か夢遊病者の
ように君の遺影の前に立ち、君の懐
かしい笑顔を眺めていただけのよう
な気がするのです。
思えば君と出合ったのは、帯広エー
デルワイス山岳会の道銀のルームで
た。氷のトンネル目指してエスケー
ウエンシリ岳は急峻な中央稜を小
雨の中、二人で本当に苦労をして、
重い?澄江先生を担ぎ上げました。
こんな荒々しい山へ登れたのは鈴木
さんのお陰と澄江先生はご機嫌でし
言葉は似合わない。さぞや悔しかっ
ただろう。和夫君。これからするこ
が、僕等は絶妙の連携をした。想い
出深い山登りでした。
空沼岳は珍しく澄江先生と三人で
ー17−
せたりと、僕はこの事実にどう対処
していいのか言葉もありません。
自国内岳にて 田中澄江さんと
更に難しい山に挑戦するという、体
力、気力も充実してきた一番楽しい
休憩中、北西側に落ち込む岩壁でボ
ルダーリングを始めたのだ。十月に
れ意識があったのか、目をクリクリ
に参加できず、変わりに奥さんが見
学に来られて中赤岩の奥リスを登っ
たことに、一歩先を越された、出遅
行った小樽、赤岩での岩登り講習会
をおろそかにしていたかというと、
登山だった。﹁八の会﹂ のメンバー
〇三年十一月十五日。グループの
納会山行時、八剣山が彼との最初の
玉堂蒜さ′鴫II”
想い出
そうではなくてご主人や子供さん達
それでいて、山歩きばかりで家庭
時期だったのでしょうね。
いるアイヌネギを山の神様に頂いて、
を何よりも大切に考えていましたね。
をたくさん持ってきては私達を喜ば
せてくれましたね。初夏には、仲間
内で恒例になっていた美唄山の登山
がありましたね。途中に沢山はえて
頂上でのジンギスカンにいれて食べ
させて正に歳を忘れた中年腕白坊主
東京と函館で研究生活を送っている
私は以前より﹁脱登山道﹂を提唱
して忠実に登ったのであった。
がなく、本人から話してこない限り
の中にも宣哉さんの好奇心と、闘争
心に火を付けたのは間違いなかった。
さらに驚いたことに彼は、山頂での
ミングと研修や訓練、実践で確実に
ライ、、、ング、アイゼン装着のクライ
そして大雪縦走、旦品の沢登り、ク
夏冬通して私と随分山行を共にした。
の更迭や組織の再編合理化、拓銀破
綻による金融崩壊、と幾多の社会変
革の嵐を切り抜けてきた人と知り、
大いに納得したものでした。その後
は好奇心、冒険心旺盛な人柄もあり、
殆どない。そのため宣哉さんからも
奥さんからも仕事や家庭の事には触
れないでいたが、講習会や訓練山行
中の呑み込みの早さや、研究熱心さ
は並みの人ではないと感じていた。
一年程過ぎた頃、他会員から、百貨
店の丸井今井に勤務している事を知
らされ、年齢も私と同じである事か
ら、一時傾きかけた職場、息子社長
私は山中問の私生活には殆ど興味
して、ハイキングより少し冒険的な
そのものだった。
で送ってあげる優しいお母さんでも
が、忙しくて帰省出来ない時には好
物を沢山詰め合わせてクール宅急便
その人の家庭環境や職場の話には触
れない。勿論、自分の事も聞かれた
ら話すが、自ら進んで話をする事は
六名で南口から入山した。山頂をほ
ぼ東西に連なる岩稜を登山道から外
ありました。
いわよる登山道から外れて、登りた
い山に自由にルートを求めると言う
山登りの楽しみを伝えながらグルー
プをリードしてきた過程があり当然
種も同じ、色も同じ紺で貴女はマニュ
偶然でしたが、乗っていた車の車
アル車、私は操作の易しいオートマ
の行動であった。
アル車でなくては﹂といっていた貴
じ、貴女らしいなーと思ったもので
女の言葉に車に対するこだわりを感
。
す
﹁えぇ!!ここを行くの﹂と驚き
車でした。﹁運転を楽しむならマニュ
息子さんの自慢話もよく聞きました
るのが楽しみでした。ご主人の定年
後は一緒に山歩きを楽しみたいと
﹁今から準備よ﹂と言って時にはご
主人も交えてジンギスカンを堪能し
たこと も あ り ま し た ね 。
昨年六月、私にとっては初めての
芦別岳に登った時、貴女は難しい本
谷コースを、私は易しい新道コース
を行きました。頂上で、全員が合流
した時、﹁よく頑張ったね。﹂と握手
をしてくれたあの笑顔は初登頂の思
い出と共に私の脳裏にはっきりと焼
きついています。私はそれ程体力も
ないので、難しい山は避けていまし
たが、貴女は宮に上へ上へと目指し
しています。
今年も又、雪解けを待って恒例の
美唄山登山をいつもの仲間達と計画
ている人でした。ピッケル、アイゼ
ンの使い方などは、本も読んで勉強
その時、千の風になって私達の周り
を吹き回って一緒に楽しんでくれる
事と信じています。
スカンもありますよ。貴女はきっと
勿論、アイヌネギの入ったジンギ
したり、講習会にも参加したり、自
宅でできるトレーニングをひとりで
黙々と積み重ねて、着実に力を伸ば
していましたね。山スキーの腕を上
げるには、基礎スキーの技術がちゃ
んと身についていなくてはと、今シー
︵海老名名保︶
へ行く時はいつも一緒ですからね。
﹁さようなら﹂ はいいません。山
している話も聞いていましたよね。
ズンはスキースクールに入る予定に
力がつく程に山登りが楽しくなり、
18
登山技術を身に着けてレベルアップ
IACに入ったのも﹁八の会﹂ で
していった。
は物足りない不足分をより充実した
事故。自然を決して甘く見ていた訳
ではないが、こんな結果になり申し
訳ない気持ちでいっぱいです。ただ
私たちにできる事は反省を生かし隙
のない、より一層の安全登山を目指
し、亡くなられた四人の意志を汲ん
で、オホーツク分水嶺踏破をやり遂
げ、仏前に報告する事だと思います。
日に亀田半島先端部の恵山を出発し、
日誌﹄を参照に、一五〇〇㌔を超す
距離を大きなザックを背負いながら
のテント生活。二〇〇四年八月二〇
て聞き書きもしている。そして、最
ている−と嘆いている。
この旅行中で地元の有識者に逢っ
ベキュウの残骸などでゴミの山となっ
二年後の八月一日に宗谷に到達。延
べ八十二日間歩き通した見聞記であ
後の感想として﹁われわれの文明の
﹃乱暴狼薙﹄ ぶりである。和人の蝦
夷地でやった場所請負制度なるもの
は先住民族の生業をうばうだけでな
。
る
いる。アイヌモシリは北海道と名を
く、民族そのものを否定した。それ
はこの地の自然破壊と一体となって
和人とのコミュニティを丹念に記録
していることである。これをテキス
し、いぜんとして自然破壊に執着し
先住民族を排除しっづけるこの社会
あらため近代社会の一員として新し
い時代にあるとだれでもいう。しか
登山を目指し、私を頼ってその門を
叩き仲間になった。それだけに私の
主張する登山感に賛同してくれる良
き理解者の一人だった。
かりではなく、アイヌびとの生活や
この武四郎の日誌に惹かれた理由
として、ほぼ北海道全域をカバーし、
山や川などの地理を記録しているば
トに自然と人間との関係をもういち
皆んな高い空から私どもを見守って
ようなら。安らかにお眠りください。
下さい、とお願いするのみです。さ
ど考えなおすべきだとして、一五〇
をみれば、乱暴狼籍はつづいている。﹂
︵中村 毒舌︶
の総会で決まり、翌月のGWに早速、
〇四年から始まったIAC創立百
周年記念行事の一つである日本列島
中央分水嶺踏査で、北海道は三年の
歳月をかけて、独自に地元の分水嶺
を踏査した。その後、次の目標を大
雪山から知床岬への踏査計画が昨年
年前と比較し、変容を明らかにする
﹁アイヌモシリ先行﹂
たカムイエクウチカウシ山を日高側
三人で多くの山を歩いた。当時、登っ
の古文書や測量図を解読して発表。
また著書として一九九五年に﹃知床
記 自然と人との出会いについて考
える﹄近代文芸杜。翌年﹃後方羊蹄
と硫黄山の原名について﹂を、多く
第六十四年︵一九六九︶ に﹁羅臼岳
ていたオブカルシの聖地は、放棄さ
﹃アイヌモシリ紀行﹄ はこうした旅
山登攣記﹄北の野帳社。二〇〇年に
﹃傷ついた自然の側から 手稲山紀
行﹄中西出版などがある。
海外で旅を続けることも多く、二
〇〇二年にネパールから英文﹃ネー
パール花図鑑﹄、翌年は ﹃カイラス
巡礼﹄を中西出版から出している。
が開通し、カムイ、、、ンタラと称され
また、未開だった積丹半島へは、
海岸の岩壁を馨じ登ったり、最高峰
の余別岳に三方から厳冬期集中登山
を行ったりもした。今では舗装道路
れた漁具類、プラスチックの箱、バー
出し、新しく舗装道路が延びている
だ
け
。
と十勝側の双方から眺めて追懐。太
田権現登山口に在った古い地蔵は、
十年前の奥尻島の大地震と津波で流
早川禎冶会員は、かつて ﹃山岳﹂
と締め括っている。
松浦武四郎の
﹃東西蝦夷日誌﹄をいく
早川福治著
二〇〇七年四月二十六日発行
中西出版㈱、四六判、二七八頁
定価一六〇〇円十税
本書は松浦武四郎著の ﹃東西蝦夷
三〇年ほど前に、淡川舜平会員と
ことにあった。
いました。
根北峠から知床岬へ三〇血を越す踏
査旅に行った。漆崎裕子さんの支援
を受け、私、漆崎隆、鶴岡節子、そ
して君の四人だったが、節子さんの
不調で途中下山しました。しかし、
再挑戦に意欲まんまんで語る宣哉さ
んの頭の中には、既に終点の知床峠
到着までを視野に入れた夢を描いて
この時、同時進行で起点の三国山
から東進。二十四・二二血を踏査し
た鈴木和夫さん外三名もいた。
今回、宣哉さんの想い出を書きま
したが、陽一さん、和夫さん、節子
さん、それぞれの楽しかった想い出
が沢山浮かんできます。皆んな、知
床への夢を描いて走り出した矢先の
を通じて、先人をいとおしみ自然愛
護の精神を強く訴えている。
︵高澤 光雄︶
﹁自警メッ叢㌣
静かな大地からの伝言
小野 有五著
二〇〇七年十二月発行
北海道新聞社、四六判、三二頁
定価一六〇〇円+税
科学者、小野有五さん ︵北海道大
学大学院環境科学科教授︶ は﹁北海
道の森と川を語る会﹂の代表である。
北海道高山植物盗掘防止ネットワー
ク委員会や知里幸恵記念館を作る連
動、千歳川放水路問題、サンル川に
ダムを作らせない運動など、さまざ
く自然が残っているはずの地で自然
が破壊されていく様子を身近に見て
自然保護をめざした活動を始めたと
六年に北海道に移り、日本で最もよ
聴くことを学びたいと語る。
生命や日常生活を脅かしていること。
たという。
すぐには聴き取れない。自然の声を
自然のメッセージは、隠されていて、
第一章﹁母なる地球と向き合う﹂
には、地球の危機はすでに私たちの
いう。あとがきに﹁自然について研
究するだけではなく、自然や環境を
守るための科学をつくりたいと思っ
第二章﹁アイヌモシリに生きる﹂
には若い命と引き替えに﹁アイヌ神
話集﹂を残した知里幸恵の記念館を
つくる運動や、アイヌの歴史や文化
の見直し、平等実現についての道筋
についての論考を収めている。口絵
にカラーで日本や北海道の歴史をア
て北海道大学にきたのも、森林の生
える限界で、木を伐らない工夫をし
イヌの側に立って見直した年表がユ
に出会ったからであった﹂。とある。
なから生きているヒマラヤの人たち
見て、歩いて、考え、行動する科学
者を私は小野さん以外に知らない。
いつも市民の目線で、平易な言葉で
ニーク。
伝えてくれるので多くの市民がその
である。小野さんが日本山岳会会員
隊列に加わった。私もそんなひとり
さんの優しさと強さに共感します。
弱い者の立場に立って考える小野
ことだった。
であることを知ったのはずっと後の
るなら、なおさら、せめてこれだけ
ことをやっていきたい﹂。﹁そうであ
めいめいがめいめいにしかできない
すぎない。せめてつかのまの時間、
めに開発局がつく嘘の数々。御用学
者たちの微慢さを心がはりさけるよ
うな想いで科学的に論破している。
第四章﹁自然のまなざし﹂ には、
詩のような魂の言葉の数々が続く。
﹁私たちはみんな、自然のなかを循
環するもの、自然のかすかな息吹に
第三章﹁サンル川にダムは必要か﹂
には自然科学者としての面目躍如と
している。何が何でもダムを造るた
本書は北海道民医連新聞に二年間
連載したエッセー﹁自然のまなざし﹂
に新たな書き下ろしと北海道新聞と
雑誌に発表した文章を加え、昨年一
二月に発刊された。
テーマは多岐にわたっているが特
に、アイヌのこと、サンルダムの問
スが遡上する川として後世に残すこ
と、アイヌ民族の奪われた権利を回
題に多くの紙面を割いている。サン
ル川をダム開発から守り、サクラマ
然としていないので私たちは親しみ
復し、完全な平等を実現することは、
この一〇年来の著者の夢であり続け
まな市民運動の先頭にいつも小野さ
んの姿がある。優しい笑顔で、学者
をこめて有五先生と呼んでいる。
東京生まれの小野さんは、一九八
という意志を貫き通したい。生きて
いる限り、守るべきものを守り、少
しでも、ほんとうに良いと信じられ
る方向へ、世界を変えていくための
力になりたい﹂。小野さんの凛とし
た決意に励まされる。
五感をとぎすまして聴く生きもの
たちの声、大地からの語りかけが胸
︵樋口みな子︶
にしみわたっていくのを覚えました。
圃囲回国
ヌプリ第三十八号をお届けいたし
ます。本来であるならば本号は頁を
増やして全文を上ポロカメットク山
での雪崩遭難事故の報告に当てると
ころでありますが、偉い五十頁にも
及ぶ ﹁上ポロカメットク山雪崩遭難
事故報告書﹂が同時に出来上がりま
したので、本号での報告は割愛いた
しました。﹁海外特集﹂が最初の企
画でありましたが、やはり追悼文が
多くなりまして、はなはだ中途半端
られません。
な特集になってしまいました。追悼
文が増えるのは誠に悲しい限りです。
皆様のご冥福を心から祈らずにはい
さて本年はひたすらに鎮魂の年に
なりましょうか。公式山行を全てフ
リーズして亡き岳友の御霊よ安らか
なれと祈るばかりです。 ︵滝本︶
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