アチェ アチェの歴史 マラッカ海峡沿いのスマトラ島北西端に位置し、アラブ、インド 社会に開かれていたアチェは、独自の歴史と文化を営んできた。現 在のインドネシア領域でもっとも古く(9 世紀)、イスラームに改宗 したといわれ、「セランビ・メッカ(メッカのベランダ)」と呼ばれ ている。15 世紀には独立した王国「ナングロー・アチェ・ダルサラ ム」が存在、スルタン・イスカンダル・ムダの時代(1607 ∼ 1636 年) には、ジョホール、パハン、ケダ、ペラックを包括する王国として 全盛期を迎えた。また 16 世紀以降、マラッカ海峡最大の国際貿易と して、コショウや金の貿易で栄えていた。 19 世紀に入り、イギリスのスマトラ進出を警戒したオランダが、 スマトラ東海岸への干渉を拡大し、1873 年にアチェに対して宣戦布 告する。これに対し、アチェは徹底的に抵抗した(アチェ戦争)。トゥ ンク・ティック・ディ・ティロらウラマー(イスラーム学者・指導 者)はジハード(聖戦)を叫び、民兵を組織してゲリラ戦を展開、トゥ ク・ウマルらウレーバラン(領主層)もこれに加勢する。しかし、オ ランダ人イスラーム研究者スヌック・フルフローニェの提言をもと に、オランダは積極攻撃に転じ、1904 年、アチェ戦争は終結した。 41 年 12 月 19 日、日本軍がマレー半島ペナンを占領、藤原(F)機関が対北スマトラ工作を開始すると、ウ ラマーの組織である全アチェ・ウラマー同盟(PUSA)は日本軍上陸に協力し、各地で対オランダ反乱を起こ す。ウラマーは、日本軍進行をオランダからの解放ととらえたが、コメ徴収による食糧危機や労務者使役な ど、その軍政は過酷なものであった。 45 年 8 月 15 日に日本が無条件降伏し、つづいて 8 月 17 日にスカルノとハッタ(のちのインドネシア共和国 初代正副大統領)がインドネシア共和国独立宣言をおこない、対オランダ独立戦争(∼ 49 年)がはじまると、 アチェは、ジャワ島以外の反オランダの拠点として多大な貢献をした。アチェ商人は、ゴムや石油の輸出、ペ ナンでの交易を通じて資金を集めた。 アチェの紛争 アチェの紛争は、19 世紀のオランダ植民地支配 戦をはじめる。以後、スハルトが退陣する 98 年ま への抵抗戦争にさかのぼることができる。インド でに 1 万 2000 人が犠牲となったといわれる。98 年 ネシア共和国独立戦争に多大な貢献をした歴史か の民主化・改革の流れで、国軍の人権侵害が問題 ら、スカルノ初代大統領は、アチェに「特別州」の となり、アチェでもDOMが解除された。しかし、GAM 地位を与えるという約束をした。しかし、これが の勢力拡大とともに、治安維持作戦も強化された。 反故にされたことから、アチェは 50 年代半ば、各 2000 年、ワヒド前大統領は GAM との対話路線を 地で起きていた反乱に参加する。アチェが特別州 打ち出し、何度か停戦合意が結ばれるが、国軍の となったことで、反乱は終結するが、米国や日本 支持を得られず挫折。ワヒドが失脚し、国軍に近 の投資、援助を受けておこなわれた天然ガスの大 いメガワティが大統領に就任すると、政府はア 規模開発によって周縁化が進んだことから、76年、 チェに特別自治権を与えるいっぽうで、国軍を動 自由アチェ運動(GAM)がアチェの独立を宣言。こ 員し、独立派に強硬姿勢で臨んだ。 れに対して、インドネシアは国軍を投入、武力鎮 02年12月にスイスのジュネーブで結ばれた停戦 圧に乗り出す。GAM 最高指導者ハサン・ティロはス 合意が、03 年 5 月の東京会談で破綻すると、政府 ウェーデンに脱出、亡命政府を樹立した。 はアチェで軍事戒厳令を布告、04 年 5 月には非常 89 年、GAM が再び蜂起すると、スハルト政権は外 事態(民事戒厳令)に引き下げられたものの、依 国資本・援助による開発を守るため、アチェを軍 然として暴力事件が多く発生し、現在までに約 事作戦地域(DOM)に指定し、本格的な GAM 掃討作 3500 人以上の死者が出ている。 破綻した和平 【ワヒド大統領時代】 2000 年 5 月「 「人道的停戦の合意」(6 月から実効) スイスのNGO「アンリ・デュナン・センター(HDC)」 (のちに人道的対話センターと改名)が仲介。GAM を交渉相手として認定(これまではGAM存在その ものを認めず)。 →破綻後、 「対話を通じた平和」で一応は協議が つづけられる。 01 年 4 月「 「アチェ問題に関する大統領令第 4 号」 協議をつづけながらも、アチェ問題解決に軍事 力を用いるよう方針転換(3 月のエクソン・モー ビル操業停止を受けての措置)。 【メガワティ大統領時代】 01 年 7 月 政権誕生→国軍の支配力より強大に。 02 年 8 月 政府、GAM に対して最後通牒を出す。 → HDC がアンソニー・ジニ(米国退役将校、中東和 平に携わっていた)をアチェに派遣。 →最後通牒がラマダン(断食月)後に延期 いがなされる。 02 年 11 月 国軍、GAM 包囲作戦開始。 03 年1∼ 4 月 反 CoHA、反 JSC の組織的デモ、襲 02 年 12 月 3 日 「アチェ和平・復興支援準備会合」 撃事件などつづく 米国、日本、世銀の呼びかけで、24 の国・機関 JC) 03 年 5 月 18 日 )会合」 「共同評議会(JC が参加して、東京で開かれる。 東京で開催される。インドネシア政府が、GAM に 02 年 12 月 9 日 CoHA) 「敵対行為停止の合意(CoHA )」 対して、独立要求の取り下げ、特別自治の受け 信頼醸成期間、武装解除期間、平和ゾーン構築 入れ、即時完全武装解除などを要求し、協議は などが決まる。CoHA 実施状況の監視として、共 破綻する。 同治安委員会(JSC)が結成される。JSC はイン 03 年 5 月 19 日 2003 2003 年大統領決定第 28 号 ドネシア政府、GAM、海外(タイ、フィリピン軍 アチェで軍事戒厳令が布かれる。当初6カ月の予 など)から成る。 定だったが、結局 1 年に延長された。 03 年 1 月 「インドネシア支援国会議(CGI)」 アチェ和平・復興への国際支援について話し合 戒厳令下の状況 犠牲者の数 03年5月からはじまったアチェの軍事作戦には、 10 兆ルピア(1 円= 75 ルピア程度)が費やされて いる。5 万人の国軍兵士および 48 台の戦車、6 機の 戦闘機(F-16、ホーク) 、6 機の爆撃機(ブロンコ) 、 10 機の輸送機、6 機のヘリコプター、15 隻の戦艦 (燃料輸送船、戦車上陸船など)が動員され、これ までの死者数は、民間人 662 人、GAM2879 人、国軍・ 警察 159 人となっている(国軍発表) 。 国家人権委員会は、アチェで集団埋葬地が発見 されたと報告しているが、虐殺当事者と考えられ る国軍が掘り起こしたことで、人権団体からは「証 拠隠滅」と批判されている。人権団体はもちろん、 政府系の国家人権委員会すら、アチェの人権侵害 状況を調査することは困難であり、その被害は完 全には明らかにされていない。 レイプ 03 年 8 月には NGO「アチェの友」が、100 人の女 性が国軍によってレイプされたという報告書を国 家人権委員会に提出した。しかし、ほとんどの場 合、犠牲者が恐怖のため法的措置をとることがで きていない。 かけられて逮捕されている。たとえば、女性活動家 わずかに、ビルン県で中学 3 年生、北アチェ県で のチュッ・ヌル・アシキン、 「アチェ住民投票情報 避難民の女性4人へのレイプ事件が裁かれたが、兵 センター(SIRA) 」議長のムハンマド・ナザル、 「イ 士は約 3 年の短い懲役刑を受けただけだった。 ンドネシア環境フォーラム(WALHI) 」のバスタリ・ ラデン、 「反軍事主義活動家協会(HANTAM) 」のムハ 域内避難民 政府は、GAM と住民を分けるため、住民を強制的 に避難民キャンプに収容した。03 年 8 月ごろまで に、域内避難民は 4 ∼ 5 万人にのぼった。アチェ州 社会局によれば、その多くは、劣悪な健康状況にお かれ、食糧や医薬品も不足していたが、人道支援は 汚職のため、円滑に実施されなかった。 さらに帰還した避難民は、家が焼き討ちに遭い、 家畜や家財などが略奪されていたという現実に直 面しなくてはならなかった。 市民生活の規制 アチェ住民にのみ、特別な身分証明書の携帯が 義務付けられた。 「紅白身分証明書」と名づけられ たこの証明書の取得には、時間もコストもかかっ た。検問の際、証明書をまだ取得できていない住民 は、GAM メンバーとの嫌疑をかけられ、暴行を受け たり、逮捕されたりする。 活動家の逮捕 これまで人権状況改善や、紛争の平和的解決に 取り組んできた活動家が、GAMメンバーとの嫌疑を ンマド・ビン・ムハンマド・トイブ、 「ピープル・ クライシス・センター(PCC) 」のフスニ・アブドゥ ラとマフユディンなど。 04 年 9 月末には、米国人権団体ヒューマン・ラ イツ・ウォッチが、アチェの政治犯への拷問につい て報告書を作成している。 民兵組織の結成 04 年 9 月、 「アチェの友」は、19 の民兵組織が国 軍の指揮下にあることを懸念する声明を発表した。 声明では、国軍が、独立問題をめぐって人びとが殺 しあった東ティモールでの戦略を模倣していると 訴えられている。 外国人規制 外国人のアチェ入域は、非常に厳しく制限され ている。ジャーナリストは外務省、人道支援をおこ なう NGO は国民福祉担当調整相からの推薦状を得 て、入管局長の許可書を取得する必要がある。ま た、許可書を取得し、アチェに入域できたとして も、州都バンダ・アチェから出ることは困難であ り、行動の自由は規制されている。 日本政府による支援 和平プロセス支援 ・02 年 12 月 日本、米国、EU および世界銀行が 「アチェにおける和平・復興に関する準備会 合(東京会合)」開催 ・03 年 5 月 日・米・EU がインドネシア政府と GAM との和平協議を東京で主催 →交渉は決裂し、インドネシア政府はアチェで 軍事戒厳令を適用、GAM に対する軍事作戦を 開始 復興支援(戒厳令が布かれたことで頓挫) ・1000 万ドルを準備(との報道) うち 500 万ドルは、WFP を通じて、国内避 難民(IDPs)支援、うち 120 万ドルは、監 視にかかる経費の支援に ・治安が回復したら、GAM 社会復帰、職業訓 練、草の根無償で学校建設などを予定 ジャワ島の刑務所に移送されるGAM交渉担当者 (資料作成:佐伯奈津子)
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