新教化部会館落慶捧堂記念式典での 「謝 辞」

生長の家大阪教区栄える会会報
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国と共に吾ら栄え、教えと共に吾ら栄えん!
明治神宮の鳥居の前に立ったとき、
「ああ、ここに日本がある」と思いました。それは表現するのは大変難しいのですが、私の中の日本人の魂が、鳥居と、その背後にある森
との一体の空間の中にあり、そこに魂の表現を見つけた言えばいいのでしょうか。
自分の日本人としてのアイデンティティをそこに発見したというか、
「ああ、ここに日本がある」
と、そのように思いました。一人で明治神宮の参道を歩きながら、
「ああ、日本人である私が今、この鳥居の前で思ったと同じように、世界中の様々な民族にも、それぞれの民
族の魂に触れる何かが必ずある」という実感が、私の心の中に浮かんでまいりました。
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新教化部会館落慶捧堂記念式典での
森 田 征 史
「 謝 辞 」
11月7日
(日)
教化部長
共に真理国家形成への使命を果たそう
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秋・冬季
合併号
Vol.75
大阪教区栄える会会頭
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三代に続く真理の研鑽。
夫婦円満が事業繁栄の秘訣!
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天 皇 国 日 本 の 船 出
万葉の眠りを覚ます太子一族の自決は2年後の
大化の改新の引きがねになった。
共に真理国家形成への使命を果たそう
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生長の家こそ「日本的なるもの」を育む根本教である。
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大 谷 整 一
深まりゆく紅葉の秋も、北朝鮮の拉致被害者の家族に
長が釧路市で講演し、
「北朝鮮への経済制裁は簡単に
とっては、来るべき厳寒の冬を迎える彼地の寒々とした心
はできない。核弾頭やミサイルを日本に的確に打ち込む態
象風景の前に色失せ、どこかできっと生きているに違いな
勢ができているかも知れない。万が一のことを考えるのが
いと我が子の消息を一日千秋の思いで待ちわびる毎日で
安全保障だ。」と述べています。
「無法者を追いめるとい
ありましょう。昭和52年11月、当時13才だった横田
つ暴れ出すか解らないから立ち向かうのは慎重に」とい
めぐみさんが拉致されてから実に27年が徒過しています。 うような及び腰では拉致問題の解決のみならず、核開発
その間、日本政府は国の威信をかけて拉致被害者の
疑惑の解明と停止措置の強制等は到底できない相談で
救出と生命の安全のため強硬な抗議や制裁措置を何ら
あります。27年間の放置と空費がそれを雄弁に物語って
おり、負け犬根性マル出しの弱音を吐く政権与党の幹事
行わず、北朝鮮による国家的犯罪を
「行方不明者の捜索」
長の姿を見てこのままでは日本の独立国としての存在が
にすり替えて、両国の赤十字を窓口に“交渉”するという
危うしと思わざるを得ないのであります。 無責任極まる逃げ腰外交をつづけ、あまつさえ、拉致は存
前野徹氏はその著書
「独立国日本への怒りの直言」
に
在しないと主張する北朝鮮に与野党の有力議員が謝罪
『そもそも独立国家とは
「国土
(領土)を守る」
「国
外交に出かけ、拉致のらの字も引出せないままコメ50万ト おいて、
民の生命を守る」
「国民の生活(財産)を守る」さらには
ンに多額の医療品等必需物資を無償供与するという腑
「国の歴史と伝統文化を守る」という四つの原理原則を
抜け外交をくりひろげて来ました。金正日総書記が拉致を
わきまえなければならない。これらが有機的つながり保守
認めたのは日本の圧力ではなく、アメリカが、イラク、イラ
されてこそ国家は真に独立した国家たりうる。
不幸にして
ン、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指し、フセイン大統領排除のた
我が国の現状はこのどれ一つとして守られていない。日
めイラク攻撃を開始したことの恐怖感からであるといわれ
本は亡国の淵に立たされている。さらに絶望的にならざる
ています。
を得ないのは、そうした状況にあることを国民自身が気づ
先日、外務省薮中アジア局長を中心に拉致被害者調
いていないことであり、政治家、官僚の無責任さ、弛緩は
査団が訪朝しましたが、横田めぐみさんの
“遺骨”
返還の
いうまでもない。』
…と述べ、我が国 に起きている憂慮す
他は特に前進はなく、北朝鮮の情報小出しと不誠実な取
べき現象例を挙げています。即ち、証拠が挙っても「拉致
扱いに業を煮やした拉致被害者の会は、北朝鮮はもはや
事件」を無視した日本政府、北朝鮮の犯罪に対し毅然と
信用するに足る国ではなく経済制裁を発動して被害者の
ふるまったレバノン、
韓国・中国の侵略に屈した竹島、尖閣
消息の解明に圧力を加えるべき時であると政府に要請い
諸島問題、
「尖閣諸島に蘇鉄は生えているか」とご下問
たしました。 これに対し、11月21日の日経新聞には武部自民党幹事 された昭和天皇、謝罪外交によって「日本は侵略国家で
ԙ
ある」という認識が自国民に染み込む、
「何がなんでも北
の潜在意識の浄化は困難であろうと思われます。
方領土を取り返す」という気概の欠如、腰抜け、腑抜けの
「人間神の子」、
「唯神実相」、
「万教帰一」、
「唯心所
「反日」
「
、無日」集団化する政府機関、公約破りの「靖国
現」の真理をお説き下さった大聖師谷口雅春先生は『生
前倒し参拝」
で明らかになった小泉内閣の自虐史観、
“謝
長の家』誌昭和21年7月号『新生の書』において『大和
罪国家・日本には何をしてもよいという周辺諸国の思い上 理念としての日本国』と題しての次の如くお説き下さって
がり、
「反日」
「無日」
「自虐」の巣窟・日教祖が行ったとん
います。即ち
「私の限りなく愛すると云った
『日本的なもの』
でもない亡国授業、
「新サヨク」の共通項は歴史の真実を
とは、日本の国号が過去においてありし如く「大和」であ
軽んじ、日本国家を嫌悪・忌避すること、家族の解体を目
ると云うことである。日本の国旗の標識が○
(マル)
である
指す思想・ジェンダーフリーの絶句せざるを得ない実態等 ように、すべてのものと手をつないで真に丸く、円満完全
を暴き出し、
「目を覆いたくなる日本人の精神の崩壊、この に、○の中が空であるが如く、虚心無我にして、
苟しくも私
ままでは国が滅びてしまう。今こそ力を結集し、再生のエ 心を差し挿まない大調和な心と、それより発し育てられ来
ネルギーを生み出さなければ未来はない!」
と訴えています。 たった大調和の事々物々を指すのであって、好戦的とい
うこととは全く反対
(ウラハラ)
のことを指すのである。今後
私は、このような政治、経済、外交、教育国防等各方面
日本が国連の一員として平和を護って行く上に最も大切
に露呈した迷妄・無気力な嘆かわしい現象は、第二次世
なのは『大和』の理念の培養であらねばならぬ。形の世
界大戦後の国家理念の形成を忘れた経済至上主義・物
質的願望と利己中心主義のあくなき追求により歪められ 界は心の世界の反影であるから、心の世界に『大和』の
理念が、真に『日本的なもの』として、換言すれば、
『日本
た日本人の精神構造(国民の潜在意識)の歪みに起因
していることは間違いないと考えます。そしてこの真因は 本来の姿』として確立せられなければ、形の上にも真に
『天地一切のも
憲法第九条により国家有事の防衛をアメリカに全託し、自 『平和日本』は確立せられないのである。
のと和解せよ』
『天地一切のものに感謝せよ』
との神様に
身は危険から身を引き、ゼニで解決するという真の意味
よって立教せる生長の家こそ、
真に大和の理念を宣布す
での国防責任を放棄していることが国民総無気力・無責
任の原点であると思うのであります。つまりは占領憲法と るもので、これこそ真に『日本的なるもの』を育て行く根本
(『大和の国日本』P130) 教育基本法の呪縛から解放されていないというところに 教といわなければならない。」
つき当たるのであります。戦後60年の教育は、個人の権 栄える会活動も信仰者集団として産業界の光明化を推
進し、個別企業の繁栄に貢献すると共に、国家社会のあ
利と自由の行きすぎた自己中心主義、日本侵略国家の自
り様を真に「日本的なるもの」の精神に基盤をおく真理国
虐史観、反国家、脱家族の左傾化教育に染め上げられ、
家として形成することに貢献する使命を果たしてゆかね
家族や社会や国家への感謝をわざと教えられていない
ばならないと存じます。
人々が親となり、先生となり、各界の指導者の多数を占め
人
て参りました。日本の伝統・文化・慣習はこれらの人々を大 日本が強く明るく円満な大和の理念に導かれるとき、
きく包み込んであるべき相に浄化してはいますが、なを国 間社会にも自然環境にも真、善、美の姿があらわれて参り
ます。ありがとうございます。 家の精神風土は日本の本来ものに回帰できていません。
(完)
憲法改正と教育基本法の改正により、法規範の面から
精神構造を正してゆくことも大切でありますが、根本的に
は人々を正しい人間観・国家観へと転換がなければ国民
美術看板・屋外広告・ネオン広告
企 画 施 工 ・ リ フ ォ ー ム全 般
Ԛ
カ ン ト ウ 企 画
加 藤 進
本社・三重工場 〒518-0825 三重県上野市小田町1450番地-1
電話 上野0595(23)2481(代表)
茨 城 工 場
〒319-2215 茨城県那珂郡大宮町工業団地5番地-10
電話 茨城02955(3)6181(代表)
大阪府八尾市末広町三丁目七番二十号
井 上 敏 之
携 帯 電 話 〇 九 〇︵ 三 七 一 四 ︶一 一 七 〇
代表取締役社長
TEL〇七二九︵二 四 ︶二九一五
F A X 〇 七 二 九︵ 二 四 ︶二 九 一 六
豊国工業株式会社
KVI税理士法人
代表社員
大谷 整一
〒530-0041大阪市北区天神橋2-5-25 若杉グランドビル
TEL.06(6351)5190 FAX.06(6351)5191
株式会社 関西ベンチャーインキュベート
代表取締役
公認会計士
大谷 康弘
〒530-0041大阪市北区天神橋2-5-25 若杉グランドビル
TEL.06(6351)5195 FAX.06(6351)5196
大阪教区栄える会組織・担当図
教化部長 森田征史
栄える会中央部
顧問 宮澤廣孝
相談役
酒井芳申
篠上 博 鈴木桂祐
吉田清吉 芦田昭二
栄える会会頭
大谷整一
総合企画・情報
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副会頭 春名 誠
副会頭 武市 進
事務局長 井澤賢是
Aブロック長
副会頭 野瀬泰良
Bブロック長
副会頭 幸島邦春
支部長
支部長
北 佐藤雄久
中央 白川靖洋
北なにわ 春名 誠
豊楽 北谷竹生
吹田 橋本 敏
北摂 木槻英夫
廣崎清一 松村 強
Cブロック長
副会頭 佐藤達彦
教区行事対策部長 加藤 進
会員拡大対策部長 住永哲一
Dブロック長
副会頭 山崎隆之介
支部長
研 修 対 策 部 長 武市 進
懇親行事対策部長 新堂充啓
広 報 対 策 部 長 加藤 進
運営委員会
運営委員長 江川洋一
支部長
ひがし 新堂充啓
京阪 富吉直行
門真守口 山田一樹
阪和 山崎隆之介
東大阪 清原起三子
八尾柏原 加藤 進 泉州 平松卓三
阿倍野道場 喜多啓介
堺 住永哲一
Annual Event
栄える会には、一年を通してサクセス・モチベーション満載!
繁栄ゼミナール
繁栄特別ゼミナール
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9月26日(日)ホテルアウィーナ大阪で和歌山県工業技術センタ
ー化学技術部長の谷口久次先生をお迎えして
「廃棄物を宝の山」
をテーマで行われました。棄てるしかなかったものを人類の役
にたつように研究開発された成果に138名の参加者も感動。
10月3日(日)小樽市民会館で繁栄特別ゼミナールが開催されま
した。ゲスト講師の㈱大創産業社長矢野博丈先生に「新たな挑
戦、新たな繁栄」と題して、ご自身の苦しい体験を通して語って頂
きました。
全国から1,200名参加。大阪からは34名参加致しました。
総本山団体参拝
10月13日∼17日総本山団体参拝練成会が行われました。谷口
清超先生の直接指導や奥津城参拝など盛り沢山の行事が行わ
れました。感動5日間に678名が参加。
(内123名が初参加)
新教化部会館披露繁栄講演会
11月28日(日)新教化部会館披露繁栄講演会が開催されました。
「無限供給」と題して森田征史教化部長先生にご講演いただき
ました。素晴らしい新教化部会館に418名参加頂きました。
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栄 え る 会 新 事 務 所( 別 館 1 号 館 3 F )
打合せ机周辺
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新教化部会館落慶捧堂記念式典「謝辞」
教化部長
森田 征史
平成16年11月7日(日)
皆様ありがとうございます。たくさんの皆様にお越し頂きまし
て、今日の佳き日、新しい教化部会館の落慶捧堂の式典を開く
ことができましたことを心から感謝申し上げます。ありがとうご
ざいます。それから吉田理事長におかれましては、
ご多忙の中、総
本山の行事を済ませられ、昨日の夜ご到着いただいて今朝は
早くから会館の中をご覧いただきました。
又、向こうの組織の方
の棟もご覧頂きました。
本当に理事長様ありがとうございました。
さてこの教化部会館ができます時の一番の原資と言います
か、土台となったのは、昭和42年から平成8年までの29年に亘
って会館建設積立特定基金として、
この会館建設の為に、その
間の大阪の幹部の方々、同志の方々、
そして信徒の方々のご努
力で年度末の剰余金を将来の会館を建設する為に積立て
いただいたお金が、実に15億6520万7373円に上つたのです。
このお金が無かったら今日教化部はできていない。昭和42年に
は、教化部長先生は片村四八先生でした。
相愛会連合会会長
が児玉篤先生、白鳩会連合会長が岸本トシ子先生、それから
青年会委員長さんが吉田恭馬先生、講師会長が岡松貞雄先
生、このような方々から始まりまして、そして29年間ずっとお金
を貯めておいて下さったんですね。
その間に最終的には平成8年
までで15億円積立てられたのですが、その最後の教化部長先
生が昭和59年からお勤めいただきました吉倉修三先生でござ
います。
そして代田健蔵先生が相愛会連合会長を、上田千代乃先
生が白鳩会連合会長を、それから畠山正秋先生が青年会の
委員長を、そして秋山国雄先生が講師会の会長様でしたね。
今日、吉倉修三先生もお見えになっていますし、
それから代田健
蔵先生もはるばると宗谷海峡を越え北海道から駆けつけて下
さっています。それから秋山国雄先生は残念ながらお亡くなり
になりましたし、また上田千代乃先生も残念ながらお亡くなりに
なりましたが、先ほどにも話があったように、新しい会館のこのこ
のどこかにいらっしゃいまして、ああ、やっているなと私どもを見
ていて下さっているに違いないと思います。
ありがとうございます。
平成8年から平成15年までの9年間はと言いますと、
その間は会
館建設の特定の積立て基金を預金しませんでした。
そして指定寄付金として会館に使って下さいよ、と言ってい
ただいた信徒の皆様からの寄付金だけが積立てられまして、
1億6269万3349円というお金をいただきました。そしてこのお金
は我々の教化部の会計の中では普通財産の中に入れさせて
頂きました。そしていよいよ平成15年の3月2日から生長の家の
本部の許可を頂きまして新しいかたちで教化部建設の為の募
金をさせて頂き、
平成16年の11月6日まで、昨日に至りますまで約
1年8ヶ月で8649名の方にご献資を賜りました。
先ほどお話があ
ったような1円のご献資もありました。
ちゃんと名前を書いていた
だいた方にはこの会館の階段の上り口のところで、
プレートの中
にご芳名を、
1円でも記載させて頂いています。8649名の方々に
なんと1年8ヶ月で10億5176万9884円を頂戴したのです。
先ほど申し上げましたこの15億のお金とそれから10億以上
のお金によりまして、
この教化部会館は出来上ったのでございま
す。
本部に提出しました予算としましては、合計しまして25億6
千万の予算でやりたいと、こうゆうふうに申し上げました。実際
の建設のお金は23億8980万円ということでございますが、後は
什器備品その他もろもろの機材等を買わなければなりません
でしたので、そういったものの購入の為に使わしていただきまし
た。平成8年から私が大阪に赴任させていただいて、上林成光
先生とか跡見昌子先生とか繁村幸志青年会委員長とか、
横
木辰雄講師会長とか渡邊泰弘連合会会長とか、跡見昌子先
生は続けて白鳩会連合会長をやって下さいまして、
それから青
年会は小松原清孝さんから蛭本浩介さん、それから講師会は
林部一路子講師会長がやっていただきました、そして栄える会
会頭は鈴木桂祐さんでした。
そして今日ここに並んでいらっしゃいます相愛会の松山恭三
連合会長、それから村上龍子白鳩会連合会長、
それから中井
亮太郎青年会委員長、林部一路子講師会長、そして大谷整一
栄える会会頭、それから香川妙子生教会会長さん方が先頭に
ԝ
立って、お金集めの催促に頑張っていただきました。
ところで、先ほどもお話がございましたが、この建設の話が出
ましたのが平成12年12月のことでございます。この時には「教
化部会館建替えを考える集い」ということで、老若男女の信者
の皆様からいろいろアイデアを出してもらおうというわけで、そし
て中学生の人も入りましてね、こんな教化部を造ってもらいたい
と、いろいろアイデアを募りましたが6回開催されました。
その後「教化部会館建設企画準備委員会」をつくりまして、
どういうものを造ったらいいのか、というその企画を考えてゆく委
員会ですが…これが20回行われました。それからそれがある
程度の形となりましてから、いよいよ本格的に設計図とか、そう
いうものが作り上げられなければなりませんものですから、更に
準備委員会の段階から発展させて「教化部会館常任建設委
員会」
というものを平成15年2月にたち上げまして、今日に至りま
すまで合計36回、ですから最初の「教化部会館建替えを考え
る集い」から数えますと、60回以上の鹿島建設さん、そして教
化部、相、白、青、講、栄える会、新教連を代表される方々の委
員さんによりまして会合を重ねました。これは大変忙しい中での
会合でした。日曜もいたしました。しかし鹿島さんのメンバーさん
は、休みでもどんどん出てきて下さいました。平日は夜の7時から
9時過ぎまでやりました。毎回毎回白熱の討論がありました。そ
して素晴らしい設計図が出来上りまして、この会館が建ち上が
ったのです。
もともとこういう素晴らし会館を是非造りたいなあ、という気持
になりましたのは、昭和27年の「生長の家」誌昭和29年4月号
の”明窓浄机”の中に谷口雅春先生が本部会館をおつくりに
なりますときに、ニューヨークにある国連ビルよりももっと大きな
会館を造りたいと、そこで世界の光明化について話合いたいんだ
と、そういう願いをお持ちになっていらっしゃいました。ですから
私は大阪でも谷口先生のそういう願いが実現できるような、その
大きなロマンの出発点になるような立派な会館を皆さんと一緒
に建てて、そして谷口雅春先生の想いを今日、そて今後の我々
の同志に残して行きたいなと思ったのですね。そして皆さんに
提案をいたしましたが、今日の金額としては25億なんて破格の
金額でございます。大体の10億かそこらがいっぱいいっぱいの
とこなんですが、さらに20億も超えて、25億なんてとんでもないと
考える人もあったかも判りませんけれども、それでも谷口雅春先
生がおっしゃった国連ビルよりも大きな器を作って、大阪はもとよ
り全国の誌友たちがこの教化部会館を見て、希望を持ってくれ
るように、こういう立派な建物で世界を光明化しなければならな
い、日本を光明化しなくてはいけない、また自分を、自分たちの愛
する郷土を光明化しなければならない、という希望の光として、
総合建設工事
設計・施工
一 級建築士事務所
৻ ⚖ᑪ▽჻
雅 一
Ԟ
オリオン建設株式会社
0025
樋 上
大阪市西区京町堀1-6-12 Kライズビル3F
TEL.06
(6448)
6623
(代)
FAX.06
(6448)
6648
東京都港区西新橋3-8-1第2鈴丸ビル6F
T E L . 0(
3 5776)
1 3 1 1 F A X . 0 (
3 5776)
1313
URL http://www.rise-ad.co.jp
E-mail:[email protected]
534
代表取締役
社
長
Ryunosuke Yamazaki
〒 ︲ 大阪市都島区片町一丁目四番十二号
千葉県柏市船戸一六五三︱一
代表取締役社長
山 崎 隆 之 介
TEL〇六
︵六三五三︶一 五 二 一 FAX〇六︵六三五七︶五 一 三四
TEL〇四七 一
︵三一︶
八 一 二四 FAX〇四七 一︵三三︶
八九六八
〒 ︲
277
0802
こういう会館が是非とも必要だと思った訳です。
幸いにですね、大阪というところは非常に恵まれておりました。
先ほどの話にありましたが、大聖師がお隣の兵庫県の住吉に
おられまして、そこで立教の雄叫びを上げていただいたというこ
とは、一番最初に兵庫はもとより、大阪に真理の光が差込んだ、
まさに大聖師が側にいらっしゃったからこそ、大阪に強い強い熱
烈な信仰の炎というものがその立教のすぐあとに灯りまして、今
日まで続いて来ているんだなあ、とこういう感じがする訳です。顧
みすれば本当に現在の時代は先ほどもお話がありましたが、も
う混沌としておりまして、内憂外患…もうどちらに転ぶか分から
ない、まさに仏教で言うところの末法の世ではなかろうかと思う
ほどの大変な時代になって参りました。
戦禍は絶えないし、あるいは飢餓も疫病も至るところで世界
に蔓延しています。それから自然の荒れ狂う状態は、新潟や舞
鶴や豊岡のみならずアメリカでもヨーロッパでも、アジアでも、至
るところで大自然が怒り狂っています。その総ての原因というも
のは、人間の心の中にある唯物論であることは言うまでもありま
せん。その唯物論によって出来上った政治体制、その唯物論
によって出来上った経済体制、その唯物論によって出来上った
教育体制、あるいはその唯物論によって出来上った現代の文
化あるいは世の中の仕組や文明、それを根底から変えて、人間
神の子、唯神実相の根底に立つ政治を、教育を、社会をつくっ
ていかなければならない。これが我々のこれからの為さなけれ
ばならない重大な使命であると思います。
そのような使命を本当に果たすことができるには、
「人間神の
子」の生長の家の素晴しいみ教えが大阪府880万人の40万、
200万、300万、400万、過半数を超えるようなそういう勢いで拡が
っていかなければ、現在世の中の自壊作用が加速度を速めて
北谷建設株式会社
代表取締役
北 谷 竹 生
箕 面 市 新 稲 2 丁 目 1 番 4 3 号
TEL.0727(23)3431 FAX.0727(23)2961
この地球全体が自壊する方向に向かって行くのであって、この
地球が自壊するのが早いか、私共の光明化運動の炎が拡が
って光りが差込むのが早いか、その重大な岐路にありますとき
に、我々がこの教化部会館を建てて、ここを出発点として、大阪
に、全国に、全世界にですね。尊師谷口雅春先生そして総裁
谷口清超先生がお説きになりますみ教えを広げて行って、人類
はもとより国際間の平和を、国際平和信仰運動という名称によ
って新たなすがたで訴えつづけられていますが、それも実際に
やっていかなければならないという更なる使命を我々は持って
います。
私たちが生あるときにはそれは実現できないかも判らないけ
れども、どうしても全人類を光明化しなければならないというその
志しと足跡を後輩に残す、子供に残す、そして次から次へと炎
が継承されていく連続の生命の中で炎を灯し続けて行けるよ
うな強い信仰をもってこれから頑張って行きたいと思います。
何よりもこの教化部会館をつくるにあたりまして、たくさんの方
々のご献資をいただきました。そしてこのご献資の根底にはで
すね、本当に節約しなければこの教化部会館をつくるお金を貯
められなかったのです。その節約に節約に節約を重ねてこの
教化部会館のために建設資金を貯めて下さった先輩たち、そ
して僅か1年ちょっとで10億もつくって下さった皆々様、そのお陰
で私どもはこういう立派な会館をつくることができましたことを、
心から感謝申し上げます。
そして、私たちの会館を拠点として21世紀に大きな大きな人
類光明化の光を灯して行きたいなとこう思います。
最後になりましたが、こういう話をしておりますときにも、あの新
①一般小口運送お受致します。
ԟ
②ワンルームマンション小口引越
大阪市淀川区西中島2丁目11番29号
TEL.06(6302)5671
(代) FAX.06
(6305)
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しお取り扱い致します。
俣 野 幸 昌
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八九九五
取締役社長
板 谷 運 送 店
東大阪市瓜生堂一丁目八︱一〇
TEL〇七二九︵六一︶五五八七
俣
野
株
式
会
社
大 旺 リ ー ス 株 式 会 社
ダイオーシステム株式会社
そういう被災者の方々に対して私たちは今日、募金箱を三カ
所に置きました。ですからどうぞお帰りになる前にですね、ほん
の志で宜しゅうございますから、新潟の方たちにどうぞ救援募金
をお願いしたいと思います。天皇陛下は直接行かれましたが、
私たちは行かれない。
せめて大阪の地から新潟の人たちに激
励を贈りたい、こういう思いですね。また舞鶴の方の人たち、あ
るいは豊岡の方の人たち、あるいは今後もそういう事が起こりま
したら、すぐさま私たちはなんらかの形で、強い連帯でもって我
々の気持を表して、そして生長の家は教えによって励ましてあ
げたいし、具体的な献金によって励まして行けるような、そういう
運動も是非して頂きたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致
します。
今日は本当に絶好の天気に恵まれて、こんなにたくさん来て
頂いて、遠いところからも来て頂いて、またご来賓の方々もたくさ
ん来て頂きました。日本教文社の社長さん、聖典普及協会の理
事長さん、それから生長の家社会事業団の理事長さん、そうい
う方々も駆けつけて下さりました。心から感謝を致します。これか
ら本当に大阪(教区)は益々元気で頑張って行きたいと思いま
すので、どうど宜しくお願いします。どうもありがとうございました。
(完)
赤帽
環境クリエーターMATANOグループ
産 業 繊 維 資 材 全 般
潟では2万6千人もの人たちが避難所で非常に苦労されている
のですね。
そういう苦しい、辛抱の生活を送っていらっしゃる。
そ
の人たちにですね、
昨日は天皇皇后両陛下がお見舞に行かれ
ました。体育館の中では正座をなさって、手を取り合って慰めら
れました。ほんとうに日本の国というのはいいなあ、とつくづく思
うのですね。
その天皇陛下のご訪問を受けてきっと新潟の人た
ちは立ち上がってくれるに違いない。今約6千名のボランテイア
が行っているそうです。そのボランテイアの人たちも頑張るでし
ょう。
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代表取締役
幸島 邦晴
株式会社
ワン・バイ・ワン
〒578-0903 大阪府東大阪市今米2丁目1番39号
TEL0729-68-1011 FAX0729-68-1013
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三代に続く真理の研鑽。夫婦円満が事業繁栄の秘訣!
先日は北なにわ支部にお になりました。
じゃましました。北なにわ支 結婚する時に世津子さんの親が聞き合せすると
「春名さん
部には、
春号で取材させて頂 のお父さん(故徳雄先生)は気むずかしくて、細かい人やから
いた久原さんを始め、
春名副 大変だ」と言われていたけれども、実際嫁いでみると、とっても
会頭や、青年会時代から生
優しいお父様で、お嫁に来た春名さんの奥さんを娘の様に大
長の家をやっておられる方や 変かわいがられました。朝は居間で、お父様(故春名徳雄先
例会の会場をお借りしてい 生)のご指導の元に神想観、笑いの練習を住込み店員さんと
るホテルコンソルトの経営者 一緒にされて、ご両親共に生長の家を熱心にしておられ「あり
の家族でいらっしゃる栗山さ がとうございます」が習慣になっており、いつでも手を合わせて
ん等、
素晴らしい方が沢山い おられました。世津子奥さんは、一番上のお兄さんに「世津子
らっしゃる支部です。毎月第 はワガママだから嫁に行ったら苦労する」と一番心配されてい
1 土曜日を定例として、夜7 ましたが、結局「世津子はええ星の下に生まれたのか、何処に
ヒツジヤ代表取締役
時からホテルコンソルトで例
会を開き、その後会食をして
親交を深めておられます。そこで今回はいつも仲のいい春名夫
婦のなれそめから、今のお商売の様子まで聞かせて頂きました。
(有)ヒツジヤ
春 名 誠 さ ん
お二人は幼なじみで、小学校も一緒だったんですが、高校卒
業後に小学校の同窓会があり、その役員として再会しました。
併し、その後春名誠さんは、20才で喀血して阿武山病院に入
院します。1年半程入院でしたが院内で誌友会をしておられま
した。その時、奥さん(世津子さん)がお見舞いに。肺の血管の
上に病巣があったお陰で早期発見で大事には至りませんでし
た。奥さんの実家の方は病気がちの人がおらず、病気の怖さ知
らずで、ただ「可哀想」と言う思いでお見舞いに来ておられまし
た。
昭和23年春名誠さんのお兄さんが亡くなられ
「春名家は徳
切れだ」と言われたお父さんの春名徳雄先生は、終戦後の占
領中はアルコール類が自由に手に入らなかったので、商売が出 行ってもみんなにかわいがってもらえるなぁ」と関心される事に
来なくなった料亭を、買い取って十三道場として、誌友会を開催 なりました。
その後栄える会北なにわ支部が発足するに当
し始めました。3と8の日に月6回やって、5の日に青年会をし、当 春名さんは、
講師となり、
お父様からご自分
時200人は集まっていました。その中に奥さんは行っていた事は たり、支部長を拝命する事となり、
あったそうですが、奥さんは幼くておぼろげにしか覚えていない の時代になります。昭和50年頃(結婚後20年頃西森先生が会
勝手にバイパスが出
そうです。奥さんがご主人との結婚を決意された時、奥さんと18 頭の頃)心臓の血管が詰まったんですが、
才違う長男が「昭和23年、27年と次々と春名誠さんのお兄さん、 来て手術しないで済むような事もありました。
息子の嫁である世津子さん
お姉さんが亡くなられ、結核が世津子に移ったら実家に帰って その後、お父様お母様はいつも、
「ママー、
ママー」
と呼んで何でも世話をしてもらっていま
来る事も出来ない」と大変心配されましたが、無事結婚する事 の事を
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した。昇天の祈りも全く苦しまず、家で自分のベッドで亡くなられ
たのを見送られました。舅姑とのいさかいは全くなく、生前徳雄
先生ご夫婦は、大変仲良く、そのご両親を見習った春名ご夫婦
も何処に行くにも一緒で、いつも仲良くいらっしゃっています。こ
のお手本は春名徳雄先生ご夫婦でした。
その次ぎの年、平成2年には淀川会館で栄える会大阪教区
一泊研修会をやっていて土曜日春名副会頭が、さぁ行こうと思
うと、少し様子がおかしい、ひざが取られた感じがして、歩くんだ
けどもおかしい、研修中当てられて、立とうとしたら、又ふらつく。
どうにもおかしいので家に帰って次の日、サウナに行ってその時
血管が縮んだ時に留まって、一過性の脳梗塞となり、病院に行
かれました。それから歩くのに少し不自由を感じられるようにな
りました。平成15年4月胃癌となり早期発見で手術をしなくて済
みました。
家が空いたから「買うてくれませんか」
「買うてくれませんか」
と言われ、何軒もつなぎ合わせて今や5軒が一つの家として、店
兼自宅として使われています。部屋が16ありますが、殆ど使われ
ていません。昔は住み込みの店員さんや、子供達もいたのです
が、今では夫婦二人と犬のピピちゃんと暮らしておられます。長
男夫婦の為にはマンションを建てて最上階を好きに使わせてい
らっしゃいましたが、赤ちゃんが出来て幼稚園に行くようになるの
で店よりすぐ近くに居宅を建築し引越されたそうです。
商売の方は、42年間勤務し最後まで残っていた人に、得意先
の殆どをお土産に持たせて、次の会社に就職させ、今では夫婦
とパートさん一人来てもらって、それでまかなっておられます。最
近はインターネットの「カウネット」
(コクヨのオフィス用品通販)と
言うサイトで代金だけ「ヒツジヤ」さんに入ると言う美味しい?商
売をなさっています。あと、カウネットで扱われていないスチール
物やコピー機等はコクヨより直送で十三信用金庫各支店へ配
送されます。小さな商品や、領収書、請求書のみ信用金庫さん
へ配達すればよいようになっており、
マンション関係の管理は頼
もしい長男夫婦がやっておられる、必要な時に必要な仕事量で
生活させてもらっていると言っておられます。最近では大阪教区
栄える会副会頭武市さんのお世話によって作った「ヒツジヤ」ホ
ームページhttp//www.hitsjiya.com/からでも沢山注文が入
るそうです。今では、電動車椅子を縦横無尽に使って、一人で
自由に動き廻って光明化運動に大活躍されています。 ࡟ࡐ࡯࠲࡯ጊፒ⢒ሶ
今年も総本山団体参拝に参加して。
೽ળ㗡‫ޓ‬ጊፒ㓉ਯ੺
例年5日間参加していたのですが、今年は仕事
の都合で後半の参加になりました。
本山に着く
と午後からの行事はすでに始まっており皆さん
奥津城で甘露の法雨を誦げておられました。私
達は遅れてはならじてと、山を一生懸命駆け上
り先生に「只今帰って参りました」
とご挨拶申し
上げました。奥津城の山頂は清々しく、先生の
「よく来たねぇ」
と言う声が聞こえるような風が
吹いています。
総裁先生は今年もお元気でお優しくご指導
輝
く
な
に
わ
繁栄講演会並懇親忘年会
٨ᣣᤨ㧛᦬ᣣ㧔ᣣ㧕
演題「人生を拓く」
講 師
‫ޓޓޓޓ‬2/㧦㨪
教化部長 森田征史先生
٨႐ᚲ㧛ࡎ࠹࡞ࠕ࠙ࠖ࡯࠽ᄢ㒋 懇 親 忘 年 会
PM.6:20∼PM8:30
٨ળ⾌㧛౞
下さいました。今年は初日から5日間好天に恵
まれ献労も心地よい汗にまみれながらする事が
出来ました。道場の絶壁を登って降りると言う
献労でしたが、栄える会のメンバーと一緒に
「あ
りがとうございます」
と唱えながら足場の無い崖
を草を刈りながら、時々ずり落ちながら登って行
きます。大阪にいてはとても考えられない献労
ですが、谷口雅春先生に守られ励まされ無事
怪我もなく、登って降りる事が出来ました。来年
は是非5日間参加したいと思います。
伝
演 題
●日時/1月30日(日)
「心と体の謎を解く」
PM1:30∼
講 師
●場所/新教化部会館(予定) 前国立療養所高松病院院長
畑 中 良 夫 先 生
●会費/500円 栄える会
会員は無料
ԡ
板
新会員の皆様、心から祝福申し上げます。
■堺支部
■北摂支部
村本充雄様
柿原保夫様
村本大哲様
高畑恵子様
藤井志津子様
‫ع‬ਛᄩᡰㇱ
篠原ちり子様
訃 報
繁 栄 ゼ ミ ナ ー ル
言
生前の教勢並びに当会の発展のために
ご奉仕、ご愛行ありがとうございました。
●豊楽支部 土井成治 ●北支部 宮原勇一
歴史紀行
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しょう ぐう
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ᄤ⊞࿖ᣣᧄߩ⦁಴
ᦨ⚳࿁
太子一族の最期
広報対策担当 副会頭
「輝くなにわ」編集委員長
㊁ ἑ ᵏ⦟
(霊園経営者)
じょめい
者がいて、太子ご一族へのあてつけか、秘かに孤児の田村皇子様
を拾い上げ、祖父の代より一族挙げて支えてきた欽明(きんめい)王
(いちべ
聖徳太子、
山背大兄
(やましろのおおえ)
二代に渡る上宮
(しょうぐう) 朝の王位継承者であられた太子一族の上宮王家には一瞥
つ)
もくれず、
わざわざ非蘇我系の田村皇子を御位につけたのだ。
王家の歴史をまとめた連載の最終回としては奇妙な書き出しだが、
宝
その日のために蝦夷は夫と離別して頂いてまで非蘇我系皇女を
皇后の第一子、中大兄皇子
(天智天皇)
の誕生が舒明
(じょめい)即
位3年前の626年だという点を筆者が見落としたため、前回は読者に 田村様に嫁がせていたことになる。もし読者が宝皇女先夫の高向王
皇族ならずとも男性の誇りがあ
勘違いをさせたことを先ずお詫びしなければならない。蘇我蝦夷
(え なら、こんな理不尽を承服できようか。
るならば、
このような屈辱に耐えきれず、
自ら命を絶つやもしれぬ。宝
みし)
によって宝皇后が高向王と離別させられ、田村皇子様に再嫁さ
皇女様再嫁の前後には、
こんな悲劇なドラマがあったかもしれない。
だ
れたのは、少なくとも馬子が死亡する前の625年以前の事だった。
そ
がそれを明らかにする記録は残っていない。
れにつけても蝦夷の用意周到ぶりには舌を捲く。
さて万葉集の研究家であって晩年には教団
「生長の家」
の理事長
舒明天皇の即位が629年、天皇には伯父の娘にあたる宝皇女が皇
を勤められた山口悌治先生は、
著書
「万葉の世界と精神」
の中で、
万
后となられたのは不思議にも1年後の630年。さて田村皇子
(舒明天
葉集には若干古い時代の歌も載せられてはいるが、
特色ある万葉和
皇)
に再嫁のとき、記録によれば宝皇女様は先夫と離別ではなく死別
とある。結婚したばかりの夫婦が死別とはこれいかに。
仮に田村皇子 歌が多数詠まれるのは舒明天皇の時代からだと述べられる。天皇が
様とのご縁談があったにせよ、一時皇太子であられた皇子の父君は 大陸文化の流入に消極的だったとは思わないが、国風文化が華開
いた時代ではある。国民が詩歌に親しむ文化の浸透があるほど平和
未だ行方知れず、身寄りの無い田村様よりも独身の宝皇女様が高向
な時代であったのは明らかだ。
王様を伴侶に選ばれたのは自然のこと。
ところが蘇我氏の中に馬子に反抗して太子を嫌う蝦夷という異端 だが全く争乱が無かった訳ではない。636年、舒明天皇は百官の司
(つかさ)
たちの礼儀作法が弛
(ゆる)
み出したことを、群臣の長である
大臣(おおおみ)の責任だと蝦夷を非難された。
だが蝦夷には天皇
ご立腹の理由が呑み込めない。群臣たちが上下の隔てなく和気あ
いあいと仕事に励めるのを謳歌したいくらいだった。日が昇らぬ早朝
から百官を集めて仕事始めとなす「朝参」の儀にも、遅刻者が続出
する始末。そのたびに天皇からお叱りを受けたことで嫌気がさしたか
蝦夷は翌年から昇殿しなくなり、自ら
「大臣」
職を有名無実にした。天
皇はそんな蝦夷を懲らしめるため、上野毛形名(かみつけののかた
な)
を将軍にして蘇我の館を攻めさせられた。蝦夷はさんざん上野毛
軍に痛めつけられ、分家の境部
(さかいべ)が滅びたことで大きく傾
いた蘇我家を更に弱体化させるに至った。
舒明天皇と万葉の時代
皇極女帝の即位と新世代の台頭
法起寺、法輪寺からの古道から法隆寺を遠望。山背大兄が命懸けで消失か
ら守った太子建立の法隆寺は残念ながら大化の改新の後に失火で全焼した。
現在の法隆寺は持統天皇並びに藤原不比等の号令で再建されたもの。
舒明
(じょめい)
天皇と皇后との間には中大兄皇子と間人
(はしひと)
(太子生母と同名だが、太子生母は穴穂部間人と呼んで区別する)
皇
女がお生まれであった。また蝦夷の妹、法提郎女
(ほてのいらつめ)
夫
人の胎
(はら)
からは、それよりも早く古人大兄皇子がお生まれだった。
さて舒明天皇が即位されて13年、
天皇は俄かに病に倒れられた。中
大兄皇子には秘かに伊勢の豪族に育てられた大海女(おおあま)皇
子という弟君がおられることを皇后様が明らかにされたのは、このよう
な微妙な時期であった。
上宮王家の山背大兄
(オオエは皇太子あるいは皇太子候補の意味)
Ԣ
ロマンへの扉
【なにわを知る】
確かに山背大兄皇子は有徳かつ頭脳明晰
(めいせき)
、
博学多彩
が所有される様な領地もなく、義兄の古人大兄のように蘇我の威を借
しかし残念ながら理屈が過ぎて、
人情の機微を心得ら
りてのさばることもできず、蘇我の分家、蘇我倉山田がやっと支援し始 の人物である。
品行方正は良いとしても、清濁合わせて呑むことができない。
そ
めた中大兄皇子などよりも、東国の豪族たちがこぞって支援者となって れぬ。
れに比べ若いがよく気が付いて年長者からも可愛がられる入鹿の方
いた大海女皇子の方が、この段階では余程実力者だったのである。
にこそ、女帝は可能性があると考えられた。海外から来ていた僧侶や
美濃、伊勢、鈴鹿などの東国をご自分の味方に繋ぎおくため、中大
学者たち総てをスタッフにつけやるほど、女帝は若き入鹿に魅入られ
兄皇子様が弟の大海女皇子に心を砕かれた事情はよく分かる。だ
るように力を貸された。
がそれにしても中大兄皇子様は、この後に長女、次女
(後の持統女帝)
さて滅んだ物部氏とともに神社施設の神官の地位を独占してきた
お二人のお嬢様方を同時に弟君に嫁がせられ、改新のクーデターか
(なかとみ)
氏だったが、太子の伯父、穴穂部に氏の長の勝海(か
ら23年後の即位のときも、ご嫡男がおられるのに大海女皇子を皇位 中臣
つみ)を殺害されてよりは見る影も無く衰退し、その傍流の末裔、鎌足
継承者を示す「皇太弟」にされているのだ。実の弟を味方にするため
の皇子様に拾われ、ご主人に大
に何故ここまで気遣われ、ここまで自己犠牲を払われたのであろうか、 (かまたり)は女帝の弟君、軽(かる)
唐の兵法を教授することで、やっと食にありつく暮しをしていた。
不思議である。
そんなある日、軽皇子様は中臣鎌足を呼んで皇位奪取への秘かな
古代史研究では異端者の大和岩雄氏の意見を紹介しよう。その著
野望を漏らされた。
「天智・天武天皇の謎」
の中で、
大海女皇子は宝皇女再嫁のとき、既に
「鎌足の知恵さえあれば見果てぬ夢ではなかろう。今大兄皇子様
御腹におられた高向王の御子かとの説である。なるほど、天武天皇
が三方もおられ、皇位を巡って三つ巴の争いが始まろうとする。
さて蘇
(大海女皇子)
は確かにお生まれの年代が記録から抹消されている。
我に目をやれば、
入鹿は蝦夷の意思も確かめず、蘇我系の古人大兄
天智天皇
(中大兄皇子)
と天武天皇(大海女皇子)が種(父親)違い
を露骨に推そうとする。
しかし中大兄と姻戚を結びたい分家の蘇我倉
の兄弟だとするなら、
そして中大兄皇子を立てるために、周囲が「兄」
山田も黙ってはいない。
蘇我も三つ巴の主導権争いよ。汝
(いまし)
の
の大海女を無理に
「弟」にしたのなら、中大兄の異常なほどの大海女
策で皆を疑心暗鬼に陥らせるのじゃ。居たたまれず、刃(やいば)をと
への気遣いにも合点が行こう。
だが「天武天皇は天智天皇の弟ではな
最期に誰が勝ち残ろ
く兄である」とする大和岩雄氏の説はやはり無理があって、そのままに って殺し合い、一人また一人と消えて行くだろう。
うが、自ら刃をとり、高位高官の返り血を浴びた者が御位(みくらい)に
は採用しにくい。ただし大海女皇子は自らの出生の経緯を伏せなけれ
ついた前例はないのじゃ。
その時、皇位を継ぐ者としては番外のこの
ばならぬほど、誕生に公言できぬ秘密がある方なのは間違いないだ
」
ろう。そのことが「立后」が「即位」に12ヶ月も遅れた事情と関係がある 軽皇子様が、棚から落ちる餅を拾うように御位を手にするだろうよ。
中臣鎌足、無言で大きな溜め息をついた後、
皇子にご挨拶をして行
のかも知れないと筆者は秘かに考えている。
方をくらました。
641年10月、
舒明天皇崩御。翌642年1月、宝皇后は、山背大兄や古
643年4月、飛鳥寺の隣に建築中だった飛鳥板蓋
(いたぶき)
官が
人大兄の即位を妨害する形で自ら即位なされた。第35代、皇極天皇
完成し、女帝は仮宮からお移りになった。10月、女帝の並々ならぬご
である。皇極女帝は太子にも実現しえなかった大陸の律令制度に再
を受け、栄達をほしいままにする嫡男への餞(はなむ
び挑戦しようとなされた。そこで女帝は太子のような改革推進者となる 寵愛(ちょうあい)
け)に、蝦夷は勅許も得ずして大臣
(おおおみ)
職を相続させた。この
適任者を探される。律令制度の研究者といえば第一人者は太子ご嫡
ことが増長した入鹿を暴走させることになり、結果蘇我家が僅か2年
男、山背大兄
(やましろのおおえ)
皇子であろう。だが上宮王家が再び
後に滅亡するなどとは、我が子の栄達に浮かれ、周りも先も見えなくな
政治の表舞台に立たれるのかとの期待はあっけなく外れる。女帝が
った蝦夷には知る由もなかった。 選ばれたのは蝦夷(えみし)嫡男の入鹿(いるか)であったからだ。
天皇国誕生の人柱となられた太子一族
天皇弟君、軽皇子様の野望
(おおおみ)
を名乗った入鹿に命じら
女帝が老成して博学なる山背大兄ではなく、知識とキャリアでは全 翌11月には父に代わって大臣
れ、巨勢
(こせ)
や土師
(はじ)
の兵らが古人大兄皇子のお墨付きを頂
く劣る若造の入鹿を行政改革の責任者にされたのは、父の蝦夷を恐
いて、太子一族を反逆罪の疑いで捕縛するため、斑鳩(いかるが)宮
れてのことではない。
確かに律令の研究者としては山背大兄の右に出
る者はない。
しかし改革のスムーズなる実現を望むのなら、説得力と人 を急襲した。山背大兄皇子が、大臣入鹿殿が進める行政改革を似非
(えせ)改革だと愚弄し、それを世間に吹聴しているとの匿名の訴え
望が必要である。山背大兄皇子ではそれが望めないと女帝は考えら
があったからである。
れたのである。
このシリーズに登場された天皇方
応神天皇
̪ 高向王
?
天武天皇
宝皇女・皇極・斉明天皇
武烈天皇
̪ 息長広媛
手白香皇女
欽 明 天 皇
天智天皇
孝徳天皇
舒明天皇
彦人大兄皇子
継体天皇
持統天皇
問人皇女(孝徳天皇皇后)
̪ 古人大兄皇子
敏 達 天 皇
安閑天皇
蘇武法捉所女
尾張皇子
橘女王
̪宣化天皇 ̪石媛皇女
推 古 天 皇
堅塩媛夫人
菟道見蛸皇女
↪ ๮ ᄤ ⊞
膳部郎女
春米女王
上宮(聖徳)太子
渡来人ソガ
穴穂部問人皇女
̪ 穴穂部皇子
蘇我稲目
小姉君夫人
̪᧪⋡⊞ሶ
ᒰ㤗⊞ሶ
̪ 崇峻天皇
ಷ⥄ฎ㇢ᅚ
̪ 蘇我蝦夷
蘇我馬子
※印の人物は変死者、自殺者、
あるいは殺害された者である。
※ 山背大兄皇子
石寸名(用明天皇嬪)
̪境部摩理勢
ԣ
㓶┙
蘇我倉山田石川麻呂
河上郎女(崇峻天皇妃)
法提郎女(欽明天皇夫人)
̪ 蘇我入鹿
それを聞いて山背大兄皇子はこうおっしゃった。
兵士らは皇子の言には耳を疑い、顔を見合わせた。自ら投降されても
「そのようなことを口にした覚えは誓ってないが、
入鹿が進める改革が
拷問による取り調べが待っている。
幼き子供たちであっても容赦はない。
全くの似非改革だというのはその通りだ。我が国を氏姓制度を廃して
揃って華奢(きゃしゃ)なお体である。ひとたび拷問を受けるなら、自白
律令国家、即ち父上の提唱なされた『天皇国日本』とするならば、先
なさる前に皆息絶えるであろう。
そんなことも分からないほど皇子様
ずは国土と人民を国家に帰属させねばならぬ。即ち豪族たちが私有
は世間知らずであったのかと。
する領地領民の総てを国家に返上させねばならない。これはもう改革
だが何時までお待ちしても、
ご一家は姿をお見せにならなかった。
や
ではなく、血で血を洗う革命なのだ。陛下には悪いが豪族の長などに
がてそのお堂から突然煙が上がったかと思うや、屋根まで真っ赤な炎
できることではないのだよ。」
に包まれた。
慌ててお堂に駆け寄った兵士らが燃え盛る炎の影に見
数十人の奴(やっこ)
たちが必死に防戦する間、上宮王家の方々は
たものは、
首を絞められ息絶え、床に置かれた幼き子供たちの遺体と、
裏の矢田山の山道に身を隠して平群(へぐり)の谷へと落ちのびられ
お堂の梁にひもをかけ、首をつっておられたご夫婦に、ご兄弟たち、そ
た。ご家族がいずれかの宮殿に隠れたと思い込む兵らは、ひとつひと
して大きくなられたお子様たちの遺体であった。
つ建造物を焼き払った。四日も経てば広大な斑鳩(いかるが)宮も跡
欽明王朝の正統なる皇位継承者、上宮王家一族自決の報に入鹿
形も無く焼け野原となった。次に兵らは隣の法隆寺の山門を叩き壊し、 は茫然自失となり、事前に何ひとつ聞かされなかった蝦夷は半狂乱に
境内に侵入するや、
無数のお堂の周りに焚き木を積み上げ始めた。太
なって入鹿の愚行をなじったが、時既に遅しと言うべきだった。気がつ
子の英知と労苦の結晶である飛鳥文化の歴史遺産を何の躊躇(た
くと蘇我は天下を敵に廻していた。中大兄皇子も入鹿や古人大兄に
めらい)もなく焼却するかのように。
は激しい増悪と敵意を感じられるとともに、太子一族が全員自決してま
そこへ山背大兄ご一家が飢えに苦しみながら、
ひょっこりと戻って来 で何を訴えたかったのか、その意味を心して考えられることになった。
られた。どうやら誰.一人救いの手をさしのべなかったようだ。皇子様に
は春米(つきしね)妃と7名のお子様たち、それに加え皇子様ご兄弟
エピローグ 天皇国日本の船出
やその子供たち、合わせて23名ものご家族が皇子様に従っておられ
たと言う。平群
(へぐり)
からお戻りになろうとするとき、
山背大兄は幼い
上宮王家の自決から2年後の645年6月、蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮に
お子様から、何故戦わないのか? と尋ねられ、次のように答えられた。
て、緻密なクーデター計画を練っていた中大兄皇子、
中臣鎌足らによっ
「吾らの命を長らえるため、召使や領民たちが敵と戦い、命を無くすこ
て女帝の面前で暗殺された。
大化の改新の発端となる乙巳
(いっし)
とがあるならば、あの世で仏様やお父上に合わす顔がないからね。
だ
の変である。蝦夷は遂に蘇我の滅亡の日が訪れたことを悟り、息子入
から戦わぬと決めたのだよ。」
鹿の首が晒される飛鳥寺山門を見下ろす甘樫岡の邸宅に火を放って
だが夫人や成人したご兄弟には腹中を明かされ、このようにおっし
自殺した。古人大兄皇子も吉野に逃げたが、中大兄が差し向けた兵に
ゃった。
追いつかれ斬殺された。皇極女帝は一連の事件の責任をとられる形で
「斑鳩宮が炎上した上は、
御父上の著作や収集物が残される法隆
寺だけは何としても焼失を免れさせたい。だからこれから再び斑鳩に
退位を宣言され、中大兄皇子に禅譲しようとなさったが、固辞されたた
戻ろうと思うのだ、氏姓制度を廃止させ我国を真の律令国家とする使
め、
中大兄を先ずは皇太子にされ、弟君の軽皇子様に御位を譲られた。
命が吾らにあるならば、
ここで命を惜しんで節を曲げるは如何なものか。 第36代、孝徳天皇である。
今まさに
『天皇国日本』が誕生する陣痛が始まったのだ。
この国を父上
孝徳天皇は我が国で始めての年号
「大化」
を制定され、都を難波に
が理想とされた独立国家にするためにも、
ここは吾らが生きるべきか、
死
移された。翌646年1月、改新の詔(みことのり)が宣布された。その崩
ぬべきか、よく考えねばならぬ。陛下ご自身と陛下がお生みになった二
御の後、
655年には皇極女帝が再び即位なされて都を飛鳥に戻された。
人の皇子様に、
あるべき国体について真剣にお考え頂けるなら、
吾ら喜
第37代、斉明天皇である。
乙巳の変から23年後にして中大兄皇子こ
んで誕生する天皇国日本の人柱と成ろうではないか。」
と天智天皇が即位なされ、
壬申の乱を経た時に弟の大海女皇子が即
ご家族と共に法隆寺に戻られた皇子様は境内を固める寄せ手の兵
位なされた。
らに告げられた。
(おおきみ)の称号を廃して、初めて自
「身支度したら捕らわれようほどに、しばらくの猶予を下され。
それま 大海女皇子はこれまでの大王
そして歴代の天皇方に和
では国の宝が詰まったこれら御堂には火をつけること無きよう固くお約 ら天皇と称され、国号を日本国と定められた。
(しごう)
を贈るように官僚や学者たちに命じられた。初
束願いたい」
とおっしゃりながら、ご家族とともに小さなお堂に入られた。風と漢風の諮号
代の磐余(いわれ)
の大王
(おおきみ)
には自ら
「神武」
の諮号を贈られ、
一方ご自分の諮号には「天武」をお選びになった。
我が国の総ての領土人民が豪族たちの手から離れ、
国家のもとに
帰属する
「公地公民の制」
が緩やかに全国に拡がり、
律令制度が完成
の域に達したことを示す
「大宝律令」が天下に発布されたのは、天武
天皇の次に即位された皇后(天智天皇次女)の持統天皇が、孫の文
武
(もんむ)
天皇に譲位され、自らは太上天皇となられた平城京遷都直
前の702年のことである。
さて天武天皇に大王の称号や国号の変更を提案なされたのは、兄
君の天智天皇
(中大兄皇子)
であったと言われる。では中大兄皇子様
に、太子の言霊による「天皇国日本」
の理念を一体誰が伝えたのだろ
うか。後に宮殿内では百済
(くだら)
語を公用語にされる程の異国かぶ
れと陰口たたかれるバサラ青年だった皇太子が、
太子が残された古文
天下に大化改新が号令された難波宮大極殿の跡。中大兄や鎌足らによる命懸けの
書を読み漁ったとは考えにくい。聖徳太子が理想とされた国家像を説
偉業の成果を横取りする形で軽皇子様が孝徳天皇として即位なされたのだが、その
き明かすメッセージを中大兄皇子様にお伝えしたのは、
入鹿が大臣とな
後も皇太子との主導権争いが続き、7年後、皇太子が鎌足や間人皇后まで連れて飛
鳥に還ってしまわれると百官の司たち皆飛鳥に逃げ帰ってしまい、一人王宮に残され
った頃、一族の滅亡を予感された山背大兄皇子その人であったと考え
た天皇はついに悶死されたと伝える。これも因果応報と言うべきか。
るのが自然なのではないだろうか。 (上宮王家の悲劇 完)
Ԥ
輝 く な に わ 編 集 後 記
編集委員長 野瀬泰良
合掌 いよいよ私の機関誌「輝くなにわ」の編集活動を一旦休止す
フランスのロレーヌ県がある日隣国ドイツに占領され、明日からアルザ
る時が来たようでございます。思えば、あれは5年前の8月の暑い日曜日
ス県と名を変え、公用語をドイツ語にしなければならないという日に、学
でした。数ヶ月前に思うところあって教区の籍を自分が住む奈良に移し
校での最後のフランス語授業を受けようと大人たちまで小学校の教
ておりましたので、大阪の栄える会にも脱会のお願いを表明しておりま
室に殺到した、という実話を描いた小説「最後の授業」はご存知の方も
したところ、往時の会頭、松村強様がその日自宅までお越しになり、脱
多いと思います。こんなことをしていると小説のロレーヌの人達のように、
会をお許しになるどころか、私を機関紙の編集責任者に任命してお帰
日本語を粗末にしてきたことを後悔する日が遠からず来るのではないの
りになったのです。長らく編集・発行の担当副会頭をなさった千布先生
でしょうか。こういう訳で、発行費をご献資くださる方々のご愛念に応え
が体調を崩され、以来機関紙は一年余り休刊になっていましたので、
る自身が持てなくなりましたので、
「機関誌」スタイルの「輝くなにわ」は
あの日、松村会頭がなんとしてでも復刊したいものだとおっしゃった折に、 一旦休止させて頂くことになりました。
つい私があいづちを打ったことから身に余る大役を引き受ける羽目にな
機関誌に対するご意見の中に、私が連載しました歴史小説に対す
りました。
るものもありました。面白いのはあれだけだ、などとおっしゃる方もおれば、
往時、松村会頭や片岡事務局長のご協力を得て、印刷関係では岸
日本の古代史や中世史が生長の家とどんな関係があるのか、編集を
田様という素晴らしい相棒にも恵まれ、
「なにわ」を「輝くなにわ」と改め
私物化するのも程々にせよ、という厳しいご意見もございました。私はそ
まして、10月には復刊第一号の秋季号を発行できる運びとなりました。
れにもめげずに連載を続けました。その理由は次の通りでございます。
以後、土井綾様や、須藤前事務局長が編集を手伝ってくださることに
私たちは中心帰一に生きる大切さを学んでいます。大聖師は死を
なり、3ヶ月毎の発刊が続けられる体制が整いました。平成12年春季号
覚悟して湊川の戦いに挑んだ楠木正成を、中心帰一への生き方の典
から「機関紙」は新聞の体裁を改め、カラー2色刷りの表紙を付けた
型だと絶賛されたと聞いています。正成は個の生命を捨ててかかって、
「機関誌」となりました。栄える会は教団の外郭団体として外部の方々
後世の「武士道」にも繋がる臣や士といった「仕える者のあるべき生き
への伝道を主たる使命とするものであり、発行目的に外部への伝道や
方」を世に示しました。世の中には果たすべき自らの使命をも忘れて、
会員拡大が加えられることなり、そのツールとしての姿に変身したので
例えば会社の上司を、先代や前任者とは方針が違うの、カリスマ性
す。数年後には土井様や須藤様に代わって山崎育子様が取材や原
に欠けるのと眉間に皺を寄せ、口角泡を飛ばして批判する人がおり
稿制作をお手伝いくださるようになりました。
ますが、少なくともそれは生長の家の生き方とは違うのではないかと、正
編集者にとって喜ばしいのは皆様からの読後感を承ることでした。そ
成の生き方と比較していただいて気づいて頂きたかった訳でございます。
して編集者がプレッシャーを感じたことは、この機関誌が会の予算だけ
また正成の中心帰一思想への殉死は、イエスが磔刑による死を選
では発刊することができず、発行部数から言っても広告効果などゼロ
択してでも人類にアガペの愛の教えを広げたいと、
「一粒の麦、地に
に等しい広告掲載料を名目に年間2万円から4万円を献資くださる30
落ちて死なば永遠の生命を得る」とおっしゃった言葉にも通じます。
社ほどの会員様のご愛念によって経費の7割が賄われている実情でし
そして後の大化の改新の引き金にもなった聖徳太子長男の山背(や
た。前号にて休刊を予告しましたところ、それは残念だ、なんとか同じ編
ましろ)の自決にも通じています。我が国が律令国家、即ち真の意味の
集スタッフで発行を続けられないのか? とのご意見も頂戴しましたが、 「天皇国日本」となりましたのは、
その言霊を発せられた聖徳太子の国
中にはそれはけしからん、会費は同じだけ取りながらサービスは低下さ
を思う愛念と、その尊き理念の顕現のために、二十数名のご家族の生
せるのか、などというお叱りも受けました。もしも発行費の総てを会費で
命を犠牲にされた山背大兄皇子の涙に負うところがいかに大きかった
賄えるのであれば、このご意見はもっともでございます。またそうなら私
かを
「上宮王家の悲劇」を通じて知っていただきたかったのです。
達はどんなに気が楽に編集ができたでしょう。この5年間は編集部には、
このようなことも知らずして、我々は「天皇国日本実相顕現」などと軽
尊いご献資に応える内容に果たして仕上がったのだろうか、と自問する
々しく口に出してはいけないし、大聖師が最も神の国、実相世界に近
いのが、天皇を中心者とするこの日本国なのだと説かれた国の幸福な
日々でございました。
最初の頃は会員拡大に使うからと事務局にやって来られ、まとめて
国民として、いかにして「天皇国日本」が誕生したのかも知らずして、自
持って行かれる方もいらっしゃったけれど、それもだんだん無くなりました。 分を愛国者などと漠然と考えてはならないと思うからであります。
また原稿を書いてくださる方もめっきり少なくなりました。しゃべるのは良 5年もの間、皆様のご愛読、広告料のご愛行に対し心から感謝申し
いが、書くのは駄目、などと平気でおっしゃる方も増えました。
「毎回楽し
上げます。又未熟な私をこのような大役を与えて下さいました大谷整一
みに読んでいます」とおっしゃっる方と内容についてお話をしてみると、 会頭にも深く感謝申し上げます。 再拝
読んでおられたのは「見出し」だけだった、ということも珍しくありません
でした。私たちは日常「日本語」で会話しながら、実に「日本語」のきち
んとした文章を読まなくなり、きちんとした文章を書かなくなりました。
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機関誌「輝くなにわ」協賛広告スポンサーの皆様、長らくのお付き合いをありがとうございました。
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相・栄合同全国大会、全国幹部研修会、特別繁栄ゼミナールの
奉納金、旅費の一部を助成します。
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繁栄ゼミナールや真理研修会などの行事に無料もしくは一部
負担で参加ができます。
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中央部編集の七宝の塔毎月と機関誌「輝くなにわ」を年4回発行して
います。ホームページにも各行事予定、行事報告など掲載しています。
会員の皆様の事業とご家族の繁栄祝福祈願祭。
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