조용기목사님 설교-일본어 번역

日時: 2010年 1月 10日
題名: 助け主
主日礼拝 説教
聖霊様
説教: チョー・ヨンギ牧師
御言葉: ヨハネの福音書 14章 25~26節
「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなた
がたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い
起こさせてくださいます。」
ハレルヤ~! 隣にいらっしゃる方々に「聖霊が来られました。」と挨拶してくださ
い。
<序論>
私は皆さんと共に『助け主
聖霊様』という題名をもって、恵みの御言葉を分かち
合おうと思います。
三位一体の神様の中で、一番理解されず無視されるお方が聖霊であられます。空気
なしでは私たちが生きることができませんが、目に見えないので関心がなく無視する
ようにです。私たちが息をせずにどのように生きることができますか。しかし空気は
目に見えません。空気なしでは生きれないように、聖霊なしでは霊的に生まれ変わる
こともできず、生きることもできません。イエス様も、人は、新しく生まれなければ、
神の国を見ることはできませんとおっしゃいました。私たちが意識して呼吸をすれば、
肺の深い所まで空気を吸うことができます。一度呼吸をしてみましょう。フー 空気が
目に見えませんが、私たちの中に入って来て出て行きました。聖霊様も同じです。聖
霊様も空気です。しかし聖霊様は呼吸をして迎え入れるのではなく、私たちが御言葉
によって迎え入れるのです。聖霊様を認めます。歓迎します。迎え入れます。頼りま
す。入って来てください。そうすれば聖霊様が皆さんの内に入って来られるようにな
るのです。
アメリカの世界的なリバイバル講師だったムーディー(Dwight Lyman Moody)牧師先
生は、小学校だけを卒業し、教会の主日学校の教師として一生懸命奉仕して、主の召
しによって偉大なリバイバル講師になりました。イギリスとアメリカを両手に掴んで
揺さぶる主のしもべです。ある日、神様の御言葉を証しして出て来ると、ある女性の
聖徒が「牧師先生! 牧師先生! 牧師先生が神様の御言葉を一生懸命に伝えてくださ
るのに、私は一時間ずっとうとうとして座っています。牧師先生の御言葉は素晴らし
いのに、恵みがありません。今から牧師先生に恵みがあるようにしてくださいと祈り
ます。」と言って帰って行きました。ですからその言葉を聞いて、どれほどショック
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を受け、嫌な気がするではありませんか。「どうして私のために祈ると言うのか。自
分のために祈らないで… 恵みがないのは自分が恵みを受け取れないからそうなのであ
って、私に恵みがないのか。」しかし心の片隅に「牧師先生を聖霊で満たしてくださ
い。」という言葉がどういう言葉なのかよく分かりませんでした。それでよく分から
ないながらも「神様、聖霊で満たしてください。」と切に切に祈って叫び求めました。
彼の年34歳の時、11月のある日、ニューヨークの街を歩きながら「神様、私も聖霊で
満ちるようにしてください。」と言うと、突然天から火の塊が落ちました。路上で火
の塊が落ちて来たので、背の高いD.L.ムーディー牧師先生が、その場でピョンピョ
ン飛び出すと、人々が集まって来て見物し始めました。どうにもならなくて早く友だ
ちの家を探して、友だちの家に飛び込みました。部屋を一つ借りて神様の御前で祈る
のですが、聖霊の火がどれほど注がれるのか、後には耐えることができなくなって
「神様! 手を離してください。このままなら私は死んでしまいそうです。もう注ぐの
を止めてください。」と叫びました。彼はその時、神の御霊の満たしを受け、その後、
御言葉でアメリカとイギリスを揺るがす世界的なリバイバル講師となり、数千万人を
主の御前に導いた偉大なるしもべとなったのです。彼が聖霊の満たしを受ける前には、
御言葉を伝える時、聖徒たちをうとうとさせた牧師だったのに、聖霊を受けるやいな
や、世界を変える偉大な神様のしもべになったのです。聖霊なしには霊的に生まれ変
わることも、生きることもできないだけではなく、力のある働きもすることができま
せん。私たちはまず聖霊で満たされる時、初めて私たちの祈りも、私たちの伝道も、
説教も、リバイバル聖会も神様の御業が起き始めるのです。
<本論>
1. 人格を持っておられる聖霊様
したがって私たちは、聖霊が人格を持っておられる神様であるということを、心の
中ではっきりと知らなければならないのです。人格を持つなら、知性と感性と意思を
持っていなければなりません。すなわち、知、情、意を持っていてこそ人格になるの
です。今、チョー・ヨンギがここに立っている時は人格者ですが、死んで倒れてしま
えばその後は死体であり、人格者ではないのです。知性も感性も意思も離れてしまう
ので、人格者ではないのです。聖霊様は人格の構成要素を全て持っておられます。私
たちが聖霊様を無生物として考えては絶対にならないのです。聖霊様は、私たちがつ
いていくことのできない知性をお持ちです。
ローマ8章27節に「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておら
れます。」
聖霊は考えをもっておられます。聖霊が私たちに語られる時、皆さん、考えを通し
て語られるのです。私たちが祈る時、聖霊が私たちの考えと良心を通して私たちに語
られるのです。したがって祈る時、自分の心の中に聖霊が考えを通して語られること
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を無視してはなりません。聖霊は人格の中に知性を持っておられるのです。
Ⅰコリント2章10節に「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊
はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」
神様の深い秘密までも聖霊は全てご存知であられる。したがって全知なる知性を持
っておられるのです。聖霊は感情をもっておられるのです。
ローマ5章5節に「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに
与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
心の中に愛が注がれているのも、聖霊が心の中に満ちれば、全ての憎しみを克服し
て、愛が溢れ出るようになるのです。人の力で愛することができないのも、聖霊の愛
が心の中に注がれれば愛することができるのです。愛と喜びと平安と寛容と親切と善
意と誠実と柔和と自制のような実も、聖霊が来て実らせてくださるのです。
ローマ8章26節に「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのた
めにとりなしてくださいます。」
聖霊が胸を打ちながら私たちのために祈られます。私たちが祈らなければならない
ことを知らず、違う所でさまよいます。聖霊がこのために祈りなさいとおっしゃるの
に、これが何なのか分からずに、あのことのために祈るのです。聖霊が深いうめきを
もって「ああ、静かにしていなさい。私が祈ろう。」私たちの唇と舌をもって異言で
祈ることがたくさんあります。私たちが祈ろうとする時、祈りが出てこずにもどかし
く思う時、異言で祈れば祈りがスルスルと出て来る時、聖霊が言いようもない深いう
めきによって祈ってくださる時なのです。私いたちが突然祈りたくなるのですが、何
のために祈ればよいのか分からない時は、異言で祈るのが一番良いのです。
ある勧士さんが、地域長として区域礼拝を導くために鍾路(チョンノ)の交差点を
歩いていると、心の中に祈りが湧き上がってくるのですが、何のために祈るべきなの
か分かりません。人々は行ったり来たりしていて、祈る場所もないので、街路樹の傍
にうずくまって異言で祈ったのですが、どれほど大きな声で祈ったのか、後で気が付
いてみると、自分の周りは人だかりとなり、自分のことを見物しています。狂った女
性がいると… しかし胸の中はすがすがしい思いでいっぱいです。そして区域礼拝を導
いて家に帰ると、泥棒が入って庭に服が散らかっていて、引き出しが全部引き出され
て散らかっています。そして現金を引き出しの中に入れてあったのに、その現金が盗
まれていたなら、その日は夫から殴り飛ばされて最悪の状況になります。その夫は警
察官です。それで「ああ、神様、私はもう死にました。」心の中は凍りつき、走って
入って引き出しを見てみると、他の引き出しは全部散らかしてあったのですが、お金
の入っている引き出しは、服もそのままで手を付けてありませんでした。神様が泥棒
の目を塞いでしまわれたのです。「おい! これは見るな! これはおまえが見るもの
ではない。」それで助かりました。万が一、祈らなかったなら泥棒がそのお金を持っ
て行っていたなら助かりましたか。夫からどのぐらいひどい虐待に遭ったことでしょ
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うか。ゆえに聖霊が言いようもない深いうめきによって私たちのために切に願い求め
てくださる感情をお持ちです。
エペソ4章30節に「神の聖霊を悲しませてはいけません。」
聖霊は悲しみ、心配する感情を持っておられる神様なのです。聖霊は決意した意思
をもっています。聖霊が決めれば、私たちが聖霊の心を変えることができないのです。
使徒の働き16章6節から7節に「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖
霊によって禁じられたので、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれ
をお許しにならなかった。」
パウロがアジアで福音を証ししようとすると、聖霊がそれを許されず、ビテニヤに
は行けないようにされたのです。聖霊は意思を持っておられるのです。御自身の御旨
を持っておられるのです。
Ⅰコリント12章11節に「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであ
って、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるので
す。」
聖霊が賜物をくださる時も、私たちの願い通りにくださるのではありません。聖霊
が見て適格だと考える人々に合った賜物をくださるのです。したがって聖霊様は断固
たる意思を持っておられます。聖霊様は知、情、意を持っておられる聖霊として、私
たちに助け主として送られたのです。助け主、英語ではコンフォーター。
ヨハネの福音書14章16節に「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひ
とりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがた
と、ともにおられるためにです。」
助け主とは何でしょうか。助け主とは苦しくて困難に陥っている人を助けるために
呼ばれて傍で助ける者です。苦しくて困難な中にある人を助ける弁護士で、傍に来て
助けを施す方が助け主なのです。またその人のために弁護して、勧告して、慰めるの
で、その人を力強くするのです。「頑張れ。勇気を出せ。慰められよ。」力をくれる
のが助け主なのです。また敵を退け、勝利をもたらす協力者が助け主なのです。私た
ちが悪魔と戦う時、私たちに力を与えて共に戦ってくださり、勝たせてくれるのが助
け主です。助け主の役割は、助ける者であり、教師であり、慰め主であり、預言者で
あり、相談者なのです。人格を持っておられる聖霊が遊びに来ておられるのではあり
ません。皆さんと私に助け主として来ておられるのです。それゆえ助け主なる聖霊な
のです。特別に聖書には、もうひとりの助け主と語られているのです。なぜなら最初
に、助け主はイエスさまなのです。イエス様は初めの助けぬとして私たちを助け、私
たちを教え、慰め、預言され、相談してくださり、贖ってくださいましたが、イエス
様が行かれた後に来られたお方は、同じ助け主なのですが、違う助け主なのです。違
うというギリシャ語はアルロス。全く同じであっても違うということを意味するので
す。イエス様と全く同じですが、イエス様は体をもって来られ、助け主は霊で来られ
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ました。もうひとりの助け主なのです。したがって助け主聖霊を迎え入れれば、よみ
がえられたイエス様を迎え入れるのです。聖霊はイエス様の御旨にしたがって御業を
されるのであって、イエス様を離れては、どんなことがあっても御業をなさらないの
です。聖霊は三位一体の神様の中で第三位として御業をなさっておられるのです。
2. 聖霊様の働き
全てのことは三位一体なる神様が一体になって御業をなさいますが、その特性があ
ります。どんな御業をなさっても、御父、御子、御霊、三位一体が御業をなさいます
が、しかしその特性があります。父なる神様は万物を計画され、イエス様はその御旨
に従ってその万物をお造りになられ贖われ、聖霊様は万物を維持して、御父と御子イ
エス様を悟るようにさせてくださるのです。同じ三位一体なる神様ですが、受け持つ
働きは違い、また共におられて共におられながら違います。御父の中にイエス様と聖
霊様がおられ、イエス様の中に御父と聖霊がおられ、聖霊様の中に御父とイエス様が
おられます。したがって旧約時代は父なる神様の時代であり、イエス様と聖霊様は御
父の中におられました。新約初期のイエス様の時代には、御父と聖霊様がイエス様の
中におられました。今は聖霊の時代なので、御父とイエス様が聖霊の中におられるの
です。したがって三位一体なる神様は、絶対に互いに分離しようと思っても分離する
ことはできません。聖霊様は私たちといつも共におられる働きをなさいます。
ヨハネの福音書14章16節から17節に「わたしは父にお願いします。そうすれば、父
はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあ
なたがたと、ともにおられるためにです。」
この御言葉をよく見てください。一ヶ月の間、共に、一緒にいるだろうとか、一年
の間あなたがたと共にいるだろうとはおっしゃいませんでした。いつまでも、限りな
くあなたと共にいる。「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることが
できません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたは
その方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおら
れるからです。」
皆さんと共に神の御霊がおられ、皆さんの内に今入って来ておられるのです。した
がって私たちはその聖霊を通して、主を信じ頼るのです。なぜならこの聖霊が私たち
の心のドアを開き、真理を悟るようにするのです。信じない人の前に聖書を広げてお
いてみてください。全く分かりません。
私が仏光洞(プルクァンドン)にいた時、ある大学の教授の夫人は一生懸命イエス
を信じているのに、その教授は信じません。信じないのではなく、聖書を見ると字が
ひとつも見えません。ですからその夫人が私に家に直接来てくださいと言うので、付
いて行くと、一度実際に見てみてくださいと… 自分の夫に新聞を読むように言うとス
ラスラ読みます。聖書を広げて読むように言うと、一字も読むことができません。な
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ぜそうなのかというと、見えないと言うのです。悪魔が目を塞いで見えません。その
後、悔い改めてイエスを信じてからは、新聞はよく読めなくても、聖書はそれほどま
でによく読みました。
ヨハネの福音書14章25節から26節に「このことをわたしは、あなたがたといっしょ
にいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名
によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしが
あなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
聖霊がおられてこそ私たちに悟るようにしてくださるのです。聖書だけを悟るよう
にしてくださるのではなく、全ての世の中の真理も全て悟るようにしてくださるので
す。聖霊は教えてくださる霊なのです。そして思い出させてくださいます。皆さん、
年を取れば認知症になるかもしれないということが一番心配です。年を取れば物忘れ
をよくするのです。一番よく忘れるのが名前です。今聞いたばかりなのに、すぐ忘れ
てしまうのです。あぁ、このようにして認知症になってしまわないのだろうか。と心
配するのです。しかし聖霊がおられるなら認知症になりません。聖霊が皆さんを捉え
て思い出すようにしてくださるので、皆さんの脳細胞に頼らず、聖霊が思い出すよう
にしてくださる力に頼るので、奇蹟が伴うのです。そして聖霊が皆さんと共におられ
れば、皆さん、世の中が私たちの中に入ってくるのを許しません。世の中の悪魔を退
けます。
ヨハネの福音書16章7節から8節に「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去
って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行か
なければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わ
たしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義
について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」
聖霊が来られれば、叱りに来られるのです。罪に対してはイエスを信じないことが
罪です。この世の中で他の全ての罪もたくさんありますが、イエスを信じれば、その
血で全て洗われ清算されます。私たちが地獄に行くのは私たちの罪によって行くので
はなく、信じないから地獄に行くのです。イエス様が罪を全て贖われたのに、信じな
いので不信仰によって地獄に行くのです。したがって、罪についてというのは、彼ら
がわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あ
なたがたがもはやわたしを見なくなるからです。わたしが父のところに行くので、な
ぜなら仏のお墓にも行って見ることができます。孔子や孟子のお墓にも行って見るこ
とができます。マホメットのお墓にも行って見ることができます。しかしイエス様の
お墓に行って見ても何もありません。そこにはおられないのです。よみがえって昇天
してしまわれました。お墓というのは何でしょうか。罪の牢です。罪を犯した人々は
死んで墓に入ります。その罪を返さない限り牢生活をするのです。普通の人は、終身
刑、無期懲役が確定されて牢に入って永遠に出て来れません。しかしイエス様は3日目
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に人類の全ての罪を全て贖ったので、牢にいる必要がなく牢から出てきました。その
証拠に、死からよみがえって御父のところに行かれたので、あなたがたがわたしを探
しても、お墓に来てもわたしを見ることができないとおっしゃったのです。その聖霊
が私たちを悟るようにしてくださるのです。また、義についてとは、わたしが父のも
とに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、
この世を支配する者がさばかれたからです。アダムとエバをそそのかした敵なる悪魔
は、十字架でさばかれました。イエス様が悪魔の働きと権力を奪ってしまったのです。
悪魔の全ての主権を解除させてしまったのです。したがってキリストの中で、私たち
は圧倒的な勝利者となるのです。このようにして聖霊は世の中を叱責されるのです。
それだけではなく、聖霊は私たちの生活の全てを導いてくださいます。これがどれほ
ど感謝なことかわかりません。視覚障害者には案内する人や盲導犬が必ずいなければ
ならないように、私たちは世の中で生きながらも明日起きることを知らない視覚障害
者です。聖霊が私たちの目を開けてくださり、私たちを導いてくださるのです。
ヨハネの福音書16章12節から14節に「わたしには、あなたがたに話すことがまだた
くさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、
すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自
分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあ
なたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、
あなたがたに知らせるからです。」
聖霊が来られれば、私たちをすべての真理に導き入れてくださる。聖霊の真理も教
えてくださり、世の中の真理も教えてくださるのです。イエスを信じて聖霊で満たさ
れれば、世の中の勉強も良くできるようになります。神様が頭も良くしてくださいま
す。それで世の中でもかしらとならせ、尾とはならせないのです。聖霊が来られて、
将来のことを教えてくださりながら、神様の栄光を現すようにしてくださるのです。
アメリカの宣教を始めながら、私はアメリカにたくさんの教会を立てなければなら
ないと考えました。しかし韓国から主のしもべを皆連れて来ようとするなら、その時
には非常に大変なことでした。それでアメリカに神学校を立てて学生たちを養成すれ
ばよいという考えが、祈る度に心の中に浮かびます。それでアメリカにいたパク・ヨ
シュア牧師先生とその牧師夫人、勧士さんと一緒に、ロサンゼルスから尐し離れた島
に行って、一日中断食して祈りを捧げました。聖霊様、私の心の中に起きるこの考え
は、神様のお考えですか。私の考えですか。私はお金がないので、アメリカに学校を
建てることもできないのに、心の中にひっきりなしに神学校を建てて、神学生を養成
する考えが浮かび上がるのですが、これは本物ですか。偽物ですか。一日中祈ったの
ですが、考えは変わらず、お腹だけが空きました。とうていお腹が空いて、午後にな
るとそれに耐えることができません。それで島から出て来て、その日の夕方に教会に
行って説教をする時、私はその証しをしました。お金は一銭もないのに、神の御霊が
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学校を建てるようにおっしゃるのですが、もうどうしてよいのか分かりません。土地
を耕すほどの力が必要です。その説教をし終えると、ある若い事業化が来て、自分が
使わずに空き家になっている一戸建ての家があるのですが、学校が建て終わる時まで
わが家を使ってください。と言うのです。それは本当かと言うと、本当だと… 一間だ
けの小さな家ではないから… 大きな家だと言うのです。行って見ると大きな家です。
部屋がいくつもある大きな家です。これは一体どうしたことか。そのまま借りてそこ
に神学校を始めたのですが、それがベテスダ大学の始まりなのです。神様は私たちの
考えを超越して、聖霊の考えを私たちの心の中に入れてくださるのです。皆さん、私
たちが祈る時、心の中に思ってもいなかった熱い願いが起こり、考えがひっきりなし
にそのことを通して生まれれば、良心にひっかからず考えが浮かべば、聖霊が皆さん
に語っておられるのです。聖霊が私たちの心に願いと考えをくださるのです。神様が
どのように導いてくださるのでしょうか。だいたい心の中に熱い願いと考えを通して
導いてくださるのです。熱い願いと考えが、私の良心を通して出て来る時、良心の呵
責を覚えなければ、神様がおっしゃったことであるので、私たちは決意することがで
きるのです。もちろん特別に幻を見て、啓示を見ることができれば本当に良いです。
また耳に御声が聞こえてくればもっと良いですし… しかし私たちのような平凡な人に
は、そのような高級な形では来ず、ただ考えがひっきりなしに続けて頭の中に浮かび、
心の中に願いが絶えず生まれれば、神様が語られたと思って、聖書を詳しく調べて見
なければならないのです。その次に私たちと共におられる聖霊様は、私たちを聖くし
てくださるのです。私たちは皆、アダムとエバの子孫として、腐敗した子どもたちな
のです。生まれる時から私たちは腐敗した心身を持って生まれてきたのです。私たち
に聖さと義はありません。しかし悔い改めてイエスを信じれば、聖霊が聖いお方とし
て私たちの中に入って来られるのです。
ローマ8章1節から2節に「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に
定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの
御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
いのちの御霊の原理が入って来て、私たちの中にある罪と死の原理から私たちを解
放してくださるのです。それで私たちは聖霊の助けがあってこそ、私たちも聖く清く
考え、語り、行うことができるのであって、聖霊の助けなしに私たちの力ではそのよ
うにすることができません。そのような力がないのは、私たちは腐敗した人間だから
です。それゆえ常に聖霊様に頼って、聖霊に満たされることを切に見上げなければな
らないのです。聖霊によって、また、私たちの弱さを助けてくださるのです。私たち
は祈る時もうまく上手に祈ることができません。伝道もよくできません。御言葉を証
しする時は更に大変です。多くの人々がいつも私に聞いてきます。一つの説教を準備
するためにどれぐらいの時間がかかりますか。私は一生かかります。ひざまずいて、
鉛筆を持って紙の上に書けば説教が出てくると思っているようですが、そうではあり
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ません。生涯生きてきた過去を御言葉の中に現在照らしてみて、主の御霊に導いてく
ださいと切に願うのです。御言葉を証しするということは、渾身を尽くして御言葉を
準備することであって、骨々の油を搾り出すことです。それほどまでにせず、思いの
ままにとりとめもない話しをして、神様のたましいをどのように導くことができるの
ですか。
ローマ8章26節を見れば聖霊は私たちの弱さを助けてくださるとおっしゃったのです。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように
祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによ
って、私たちのためにとりなしてくださいます。」
つづけておっしゃってください。聖霊は私の弱さを助けてくださる。私たち自らが
できないことはどうすることもできません。しかし助けてくださるお方が傍に来てお
られるにもかかわらず、その助けてくださるお方を無視してしまい、助けてください
と言わずに、自分ひとりで地団駄を踏んで失敗するならどうすることもできません。
それは自分の運命です。しかし助けるために待っておられた聖霊様がおられるので、
聖霊様、私を助けてください。私を立たせてください。私に力をください。このよう
にお願いする時、聖霊が私たちを助けてくださるのです。
3. 聖霊様の臨在
皆さん、聖霊が共になされば、どれほど私たちの心の中で大きな慰めになるのか分
かりません。
ヨハネの福音書14章16節に「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひ
とりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがた
と、ともにおられるためにです。」
人生は一人で生きるには本当に孤独です。神様がアダムを造られた後、その美しい
エデンの園に一人でいるのに、楽しいことが何かありますか。エデンの園は、小さい
ヨイドのような園ではありませんでした。大きな園で、言葉には表すことのできない
ほど美しい園だったのですが、自動車があれば行き来できるほどで、自転車もなかっ
たですから… 歩いて全部を見て回ることができないので、アダムが見たのは一部分で
した。一人ぼっちなので孤独に耐えることができません。宮廷でも王が一人で生活す
るなら監獄です。粗末な家でも一緒にいれば、宮廷より良いのです。したがって私た
ちが一人ぼっちで孤独で満ちている時、心の中に慰める聖霊が共におられると語られ
たのです。あなたがたと共におられるお方がおられる。あなたは完全に一人ではない。
聖霊が共におられる。聖霊様を認めて、歓迎し、迎え入れて頼れ。聖霊が来て助けて
くださる。多くの人が苦しいと自殺するではありませんか。生きていてもしょうがな
い。生きていてもどうすることもできない。これ以上生きたとしても、楽しいことが
あるだろうか。もう死んでしまおう。悪魔は来て、死んでしまえと言います。しかし
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聖霊は、いいえ、楽しいよ、楽しいよ… わたしがどうすれば、わたしがあなたと共に
いるのに… わたしに求めなさい。わたしがいのちの御業を与える。とおっしゃるので
す。
Ⅱコリント13章13節に「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あ
なたがたすべてとともにありますように。」
聖霊は絶えず私たちと交わることを願っておられるのです。そして共にいてもただ
共にいるのではなく、私たちの内に絶えず共に来ておられるのです。私たちが何か食
べた物が体に合わないと、異が痛みます。体に合うものを食べると胃も楽です。悪魔
が入ってくれば内側がよじれますが、聖霊が入ってくれば内に義と平安と喜びがあり
ます。
ヨハネの福音書14章17節に「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れる
ことができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなた
がたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうち
におられるからです。」
今も皆さんの内に聖霊がおられます。一度つづけておっしゃってください。今、私
の内に聖霊がおられます。皆さんは聖霊の宮となっておられるのです。それだけでは
なく、皆さんが祈れば内におられる聖霊が、皆さんのために臨まれもするのです。聖
霊は傍におられ、内におられ、上に臨まれるのです。信じない人の傍にいて、信じる
人には内に新生の霊として来ておられ、聖霊のバプテスマを受ければ聖霊が臨まれま
す。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そし
て、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人と
なります。」(使徒1:8)
聖霊が臨まれる体験をするのは、聖霊の満たしを体験し、その結果として異言を語
るようになるのです。皆さん、異言を語れずに天国に行くことができるでしょうか。
と聞く人がいるのですが、もちろん天国に行きます。天国は、イエスを救い主として
信じれば、聖霊が私たちの内に入ってこられ、新しく生まれるようにされ、いのちの
水の根源となり、天国に行きます。しかし権力と力を得ようとするなら、聖霊のバプ
テスマを受けなければならないのです。聖霊が私たちに臨めば、私たちに権力と力が
与えられます。聖霊が臨まれる証拠として、私たちが異言を語り始めるのです。
使徒の働き1章8節に「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがた
は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てに
まで、わたしの証人となります。」
私は本当に聖霊の満たしの体験をすることができずに、大変苦労しました。神学校
に通っていた時、友だちは皆聖霊を受けて異言を語るのに、私は異言を真似てみても
真似ることができません。それで友だちは英語ができないので、友だちが入って来れ
- 10 -
ば、私は異言を語るふりをしようと早口で英語を語りました。それで「わぁ、君も異
言を語るんだね。」しかし友だちを騙しているので良心の呵責を覚え、本当に祈りが
出てきません。嘘をついたので… それで悔い改めるばかりです。ですからどうにもな
りません。どうにかして聖霊を受けようと、友だちと三角山(サムガクサン)に登っ
て、一番頂上に上がりました。そして夜になったので降りることができません。真っ
暗で… そして昔、三角山に虎が出るという話しを聞きました。だから怖くなり、目を
閉じて祈ることができません。石ころをいっぱい集めてきて、石を手に持って四方を
見回しながら聖霊の炎をください。と祈ろうとすると、集中できません。目的は聖霊
を受けることについて集中的に祈らなければならないのに、集中することができませ
ん。それで夜中になってはならない。死んでも聖霊を受けて死ななければならない。
石を全て下において、木を抱きしめて全力を尽くして聖霊の満たしを求めて祈ると、
私も知らないうちに異言で祈っていました。その時、聖霊で満たされることを体験し
たのです。そして私は、それからはいつも聖霊が私の上に臨んでおられることを思っ
て、心に喜びがいつもありました。
ビリー・グラハム(Billy Graham)牧師先生は、著書の中でキリストを受け入れる幼
い尐年と、その父親についての話しを書いています。幼い息子がイエス様を信じて父
親に聞きました。「パパ、僕が一度も見ることのできなかった聖霊様をどのように信
じなさいと言うの?」すると、電気工だった父親は「パパがその方法を教えてあげよ
う。」と息子を連れ出して発電所に行きました。そこで電気が作られる動力機を見せ
てこのように言いました。「ここが私たちに光をもたらし、私たちの家を暖かくする
力が出てくる機械だよ。私たちは電気を直接見ることができないけれども、その力が
機械の中から出てくるんだ。」発電所と動力機を珍しそうに眺めていた息子が「あ~、
電気があるということをようやく信じれるようになったよ。」と言いました。父親は
「もちろん信じることができるだろう。君が電気があるということを信じるのは、電
気を見たからではなく、電気の力でどんなことをすることができるのかを見たから、
電気があることを知ったのじゃないかな。」同じように、人々が聖霊で満たされる時、
自分たちの人生の中に聖霊がどのように働かれるのかを体験するので、聖霊が臨まれ
ているということが分かるのです。聖霊が聖徒さんの中におられれば、私たちに喜び
と平安と楽しみが超自然的に臨むようになるのです。悪魔が来れば、私たちの心の中
に非正常的に不安、苦痛、挫折、怒りなどが生まれるのですが、聖霊様が臨まれれば、
私たちの心の中に喜び、平安、信仰、希望、愛などが生じるのです。悪魔と聖霊の違
いは、悪魔が来れば心の中に非正常的に不安、恐怖、挫折、怒りなど、否定的な思い
が生まれます。心の中に平安がなくなるのです。ひどいストレスで、血圧が上がり、
心臓がドキドキして、精神的、肉体的な苦しみが臨むのです。
ヤコブ3章14節から16節に「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対
心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのよ
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うな知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからで
す。」
そして悪霊、悪魔が私たちの所に来て、このようなことをもたらすのです。しかし
聖霊が来られれば、正反対の現象が起きるのです。超自然的な喜びと、平安と信仰、
希望、愛が生じるのです。
ローマ15章13節に「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと
平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」
ヨハネの福音書14章27節に「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、
あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与え
るのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりませ
ん。」
悪魔は地獄の苦しみをもたらし、聖霊様は天国の喜びを私たちにもたらすというこ
とです。
Ⅰペテロ5章8節から9節に「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵であ
る悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回
っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」と語られました。
ローマ8章14節には「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」と語ら
れているのです。
皆さんがイエスを信じて神様の子どもになったなら、皆さんは神様の人なのです。
神様の人は、聖霊の導きを受ける資格があり、当然導かれるのです。聖霊様は、私た
ちと共におられて、私たちの考えを通してお考えになられるので、自分で考えている
のか誤解する時がたくさんあります。私の考えの中に聖霊が聖殿として来られている
ので、私がこのように考えているのだな。と考えるのですが、時間が経ってみると、
自分の考えではなく、神様の考えであったということが分かるのです。したがって私
たちは常に祈る時、自分の心の中に神様がどのような考えを起こしてくださるのかを
注意深く見なければならないのです。神様のお考えを私たちが知らなければならない
のです。
<結論>
私の経験では、聖霊の奇蹟は、尐しでも私の心の中に注がれれば起きるのです。聖
霊の油注ぎが尐し臨んでも、祈りが変わり、説教が変わり、雰囲気が恵みで満ちるよ
うになるのです。本当に聖霊が来ておられるのか、来ておられないのか、主よ、主の
働をしてみたことのある人は骨身に沁みるほど感じるのです。いくら大声を出して、
あちらに、こちらに走っても、聖霊が御業をなさらないなら騒々しいだけです。そう
です、騒々しくても聖徒たちはうとうとします。しかし聖霊の油注ぎが臨めば、気を
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しっかりするのです。気を引くようになります。そして説教をする人もびっくりする
ほど説教がスラスラと口から出て来て、真理が心の中に浮かび、神様の力が現れるよ
うになるのです。私たちは説教だけではありません。家事をしても、事業をしても、
何をしても神の御霊が来られれば、私たちに力を与えてくださるのです。有能にして
くださるのです。聖霊が共にいる個人は、いない人より有能で、聖霊が共にいる国は、
聖霊のない国より上に行くようになるのです。将来、21世紀は、どこの国がイエスを
最もよく信じて、聖霊で満ちているかが、その国が先進国になるかどうかを決めるの
です。私たちは早く伝道して、私たちの民族の過半数がイエス様を信じて聖霊を受け
るなら、私たちの国は瞬くほど成長し発展するのです。全世界に福音を証しする偉大
な国家になるでしょう。皆さん、聖霊で満たされてください。聖霊様を毎日のように
認めて、歓迎し、迎え入れ、頼ってください。そして聖霊に頼って歩んでください。
皆さんより超人的な力を駆使してください。皆さんは、皆さんより超人的に生きるよ
うに、神様が共におられる人々なのです。神様が皆さんを通して今日も天の御国の御
業を現してくださるように主の御名でお祈りします。
私たち、頭を垂れてお祈りを捧げます。
<祈り>
生きておられて聖なる私たちの父なる神様、主の愛される民を主が今日、教会に集
めてくださり、主の恵みを受けることができるようにしてくださったことを感謝しま
す。いくら能力がなく、取るに足りないように見えても、聖霊が臨めばモーセの乾い
た杖が力の杖に変わったように変わります。父なる神様、私たちが皆変えられるよう
に助けてください。私たちは人間的には教育をあまり受けることができず、知恵と思
慮深さと、はかりごとと、才能と、知識も足りない人々がたくさんいますが、聖霊が
臨まれれば神様の杖になることができます。神様の杖になることができるように聖霊
に満たされた御業を与えてください。聖霊を通して神様の奇蹟が起こるように助けて
ください。悪魔の働きは退き、神様の御業は起きるように助けてください。もうひと
りの助け主なる聖霊様、初めの助け主イエス様の御業が私たちの内に現れるように助
けてください。聖霊様、御国が私たちの各自の心の中に臨むように助けてください。
イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン
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