貝原益軒『養生訓』に学ぶ

平成 26 年4月19日
貝原益軒『養生訓』に学ぶ
吉田
明
1.はじめに
養生訓は3世紀前に書かれた養生の啓蒙書である。江戸時代の人々が、健康、医療や人間の生き方等についてど
のように考えていたかを知ることにより、皆さんに少しでも参考になれば幸いである。
本稿は養生訓8巻476項中、興味深い項目41項を抜粋したものである。
2.養生訓とは
養生とは無病、長生のための思想と方法であり、さらに進んで精神修養や人間形成のあり方を示すものである。
養生訓とはこの養生についての教えを一般庶民向けに纏めたものである。中国の医書「千金方」をはじめ古今の
医学書に書かれていることを引用するとともに、自らが実践し検証したことも交えて書かれている。養生訓は八
巻構成で「巻一、二、総論」
「巻三、四、飲食」
「巻五、五官」
「巻六、慎病、択医」
「巻七、用薬」
「巻八、養老」
になっている。
3.貝原益軒(1630~1714)の略歴
・寛永 7 年 筑前福岡城内生まれ、名は篤信、号は損軒。父寛斎は黒田侯の医官。
(3 代将軍家光の時代)
・25 歳頃薙髪して柔斎を名乗る。
・39 歳で蓄髪して久兵衛を名乗る。
・71 歳まで藩士として仕える。
・正徳 3 年
84 歳で養生訓を著す。
・正徳 4 年 85 歳で没す。(7 代将軍家継の時代)
益軒は儒教思想、道教思想、神仙思想に精通し、職を辞してから執筆活動を続け、養生訓をはじめ君子訓、和俗
童士、大疑録等三十余篇の書を著した.性格はユーモラスな面が有り、夫婦仲がよく、人生を大いに楽しんだよ
うだ。
4.養生訓の概要(8巻、476項)
(1)総論(巻一,巻二)
養生の目的、意義を述べ、道理にかなって身体を保ち長生きすることが幸せであると説いている。
『人の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生まれ、又養はれたるわが身なれば、わ
が私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養いて、そこないやぶらず、
天年を長くたもつべし。是天地父母につかえ奉る孝の本なり。―中略― 人となりて此の世に生きてはひと
へに父母天地に孝を尽くし、人倫の道を行なひ、義理にしたがひて、なるべき程は寿福をうけ、久しく世に
ながらへて、喜び楽みをなさん事、誠に人の願ふ処ならずや。此如ならむ事をねがはば、先古の道かうがへ、
養生の道をまなんで、よくわが身をたもつべし。是人生の第一の大事なり。』
(巻一の一)
自分を生み、育ててくれた親と自然への感謝の心を持ち、日頃から養生を心がけて身体を大切にし、天寿を全
うすることが人間として正しい生き方であると説いている。これが儒教思想に基づいた『養生訓』の根本的な
1
思想である。
『養生の術は,先ずわが身をそこなふ物を去るべし。身をそこなふ物は、内欲と外邪なり。内欲とは飲食の欲、
好色の欲、睡の欲、言葉をほしいままにする欲と喜怒憂思悲恐驚の七情の欲を云。外邪とは天の四気なり。
風寒暑湿を云。内欲をこらへて、すくなくし、外邪をおそれてふせぐ,是を以て元気をそこなはず、病なく
して天年を永くたもつべし。
』(巻一の四)
内欲は心の中から湧き上がってきて、自分自身を破滅させる欲望である。また外邪は、風邪に代表されるよう
な寒暖等の自然の変化による体への影響を指している。
『人の元気は、もと是天地の万物を生ずる気なり。是人身の根本なり。人,此気にあらざれば生ぜず。生じて
後は、飲食、衣服、居処の外物の助によりて、元気養はれて命を保つ。飲食、衣服、居処の類も、亦、天地
の生ずる所なり。生るゝも養はるゝも、皆天地父母の恩なり。
』(巻一の八)
「
(巻一の一)の天地に孝を尽くす」という言葉の根拠を述べている。
『養生の術は先心気を養ふべし。心を和にし、気を平らかにし、いかりと欲とをおさへ、うれひ、思ひをすく
なくし、心を苦しめず、気をそこなはず、是心気を養ふ要道なり。―中略― 養生の道は、病なき時つゝし
むにあり。病発りて後、薬を用い、針灸を以病をせむるは養生の末なり、本をつとむべし。
』(巻一の九)
前段では養生の対象は体だけではなく心と気も養生と対象になっていると説いている。
後段は現代の予防医学の考え方と一致している。病気予防は一人ひとりの健康に対する心がけや日々の良好な
生活習慣によって実現されるものであると説いている。
『身体は日々少しずつ労働すべし。久しく安座すべからず。毎日飯後に、必ず庭圃の内数百足しづかに歩行す
べし。雨中には室屋の内を幾度も徐行すべし。如是日々朝晩運動すれば、鍼灸を用ひずして、飲食気血の滞
ることなくして病なし。』
(巻一の十七)
健康保持のために歩くことの必要性を説いている。江戸時代の人々は、今と異なり日常生活上かなり多く歩い
ていたという記録があるが、その上にさらに健康保持のために運動することを勧めており、現代にも通ずるも
のがある。
『およそ人の楽しむべき事三あり。一には道を行ひ、ひが事なくして善を楽しむにあり。二には身に病なくし
て快く楽しむにあり。三には命ながくして、久しく楽しむにあり.富貴にしても、此三の楽なければ、真の
楽なし。―中略―
人となりて此三楽を得る計なくんばあるべからず。此三楽なくんば、いかなる大富貴を
はむとも、益なかるべし。
』(巻一の二十二)
養生訓は、儒教・道教的思想に基づき、欲を抑え、道を行うと言う堅苦ぐるしい面が強調されているが、反面
生きることを楽しむと言う面も説かれている。
『つねに道を以て欲を制して、楽を失なふべからず。楽を
失なはざるは養生の本也。
(巻二の三十八)
』として、著者自身も趣味等をもち人生を大いに楽しんだと伝えら
れている。
『睡少なくすれば、無病になるは、元気めぐりやすきが故なり。睡多ければ、元気めぐらずして病となる。夜
ふけて臥しねぶるはよし。昼いぬるは尤も害あり。宵にはやくいぬれば食気とゞこほりて害あり。―中略―
睡つよくこらえざれば、ふせぎがたし。つとめてねぶりすくなくし、ならひてなれぬれば、おのづからねぶ
りすくなし。ならひて睡をすくなくすべし。』
(巻一の二十八)
この項の内容は、現代の医学の常識とは異なる部分が多い。睡眠を少なくすることを勧めており、昼寝は有害
だと言っている。現代では、適切な時間睡眠をとることを勧めており、昼寝も短時間ならば身体に良いとされ
ている。
『聖人は未病を治すとは、病いまだおこらざる時、かねてつゝしめば病なく、もし飲食色欲などの内欲をこら
へず、風寒暑湿の外邪をふせがざれば、其おかす事はすこしなれども、後に病なす事は大にして久し。内欲
2
と外邪をつゝしまざるによりて、大病になりて、思いのほかにふかきうれいにしづみ、久しく苦しむは、病
のならいなり。
』(巻一の三十六)
中医には未病という概念があるが、これは人の体に備わっている恒常性(Homeostasis)が崩れかけている
状態を云う。中国には「上工未病を治す」という古い言葉もあり、良い医者は発病してからではなく、未病の
段階で異常を察し、速やかに対処するという意味である。現代の主流である西洋医学には、未病という概念は
ない。
『何事もあまりよくせんとしていそげば、必ずあしくなる。病をなおすのも亦しかり、病あれば、医をゑらば
ず、みだりに医をもとめ、薬を服し、又、鍼灸をみだりに用ひ、たゝりをなす事多し。導引、按摩も亦しか
り。わが病に当否をしらで、妄りに治を求むべからず。―中略―
其当否をしらで、みだりに用ゆれば、あ
やまりて禍をなすこと多し。是よくせんとして、かへってあしくする也。』(巻二の二十九)
病気になり医師や薬を選ぶ時は、慎重を期さねばならないと説いている。これは現代でも十分に通用する言葉
である。
『凡よき事あしき事、皆ならひよりおこる。養生のつゝしみ、つとめも亦しかり。つとめ行いておこたらざる
も、欲をつゝしみこらゆる事も、つとめて習へば、後にはよき事になれて、つねとなり、くるしからず。又
つゝしまずしてあしき事になれ、習ひくせとなりては、つゝしみつとめんとすれども、くるしみてこらへが
たし。
』(巻二の三十)
「継続は力なり」という言葉があるが、養生も同じで継続していくにはそれなりの努力をしなければならない。
しかし続けていけばやがてそれが習慣化し、自然に行っていけるようになると説いている。
『養生の道は、中を守るべし。中を守るとは過不及なきを云。食物はうゑを助けるまでにてやむべし。過てほ
しいままなるべからず。是中を守るなり。物ごとにかくの如くなるべし。
』(巻二の四十二)
食事をはじめ人づきあい(2の25)
、運動、仕事等大体のことは中程度がいいと説いている。過不足のない
「良い加減」は人によって少し異なると思われるが、結局自分自身にとっての「良い加減」を見つけることが
大切だと考える。
『人の身は、気を以生の源、命の主とす。故養生をよくする人は、常に元気を惜みてへらさず、静にして元気
をたもち、動いては元気をめぐらす。たもつとめぐらすと、二つの者そなはらざれば、気を養いがたし。動
静其時を失わず、是気を養ふ道なり。
』(巻二の四十四)
病気とは気を病むことである。従って養生の道は気を調整することが重要であり、気を調整するとは気を和ら
げ、へらさず、循環させることである。
『千金方に、常に鼻より清気を入れ、口より濁気を吐出す。入る事多く出す事すくなくす。出す時は口をほそ
くひらきて少吐くべし。』
(巻二の六十二)
現代ではこの説と真逆で、吸うことより吐く方の時間に重点を置き、吐く方にできるだけ時間をかけ多くすべ
きであるとの説が有力である。
(2)飲食(巻三、巻四)
養生のうち飲食の注意点等について述べている。
『人生日々に飲食せざる事なし。常につつしみて欲をこらへざれば、過ぎやすくして病を生ず。古人、禍は口
よりいで、病は口より入といへり。口の出しいれ常に慎むべし。
』(巻三の二)
現代でも「口は禍の元」と言う諺があり、これは「不用意な発言は自分自身に禍を招く」という意味であるが
口に入るものも病気の原因にものがあるので注意せよと説いている。
『飲食ものにむかえば、むさぼりの心すゝみて、多きにすぐる事をおぼえざるは、つねの人のならいひ也。酒
食茶湯、ともによきほどゝ思ふよりも、ひかえて七八分にて猶も不足と思うふ時、早くやむべし。飲食して
3
後には必十分にみつるもの也。食する時十分と思へば、必あきみちて分に過て病となる。』(巻三の十六)
世間では飲食の時食べたいと言う気持ちが強くなってつい食べ過ぎてしまう人が多いと言っている。欲が多い
のは人間の本性であるから、食事は制限し過ぎるぐらいが丁度良いと説いている。
『夕食は朝食より、滞やすく消化しがたし。晩食は少なきがよし。かろき淡き物をくらふべし。晩食にさいの
数多きは宜しからず。さい多く食ふべからず。―後略―』
(巻三の十九)
夕食が多いと消化しにくく、肥満の原因にもなるので注意すべきであるとの説は、現代でも通ずる説である。
『諸獣の肉は、日本の人、腸胃薄弱なる故に宜しからず。多く食ふべからず。
(後略)
』(巻三の四十)
江戸時代は、肉は現代より多くは食べなったと言われているが、それでも多く食べることを制限している。
『塩と酢と辛き物と、此三味を多く食らふべからず。此三味を多くくらひ、渇きて湯を多くのめば、湿を生じ
脾をやぶる。湯、茶、羹多くのむべからず。(後略)
』(巻三の四十九)
塩、酢、唐辛子などを多く取る過ぎると水分を多くとりたくなるので、体に水滞り水毒の原因になりよくない
と警告している。
『怒の後、早く食すべからず。食後怒るべからず。憂ひて食すべからず。食して憂ふべからず。
』
(巻四の二十
八)
平常心で感謝して食事をすれば、美味しく食べることができ、口の中に自然に唾液が出て消化を助けてくれる。
唾液には制ガン作用もある。怒りや憂いがあっては、唾液も充分に出てこず、消化不良になると警告している。
『朝夕の食、塩味をくらふ事少なければ、のんどかはかず、湯茶多くのまず、脾に湿を生ぜずして胃気発生し
やすし』(巻四の三十一)
水分を多く取るらないよう塩分の摂取を控えるべしと言っているが、塩分を少なくすることが身体に良いこと
を体験的に知っていたのではないかと思われる。
『酒は天の美禄なり。少のめば陽気を助け,血気をやわらげ、食気をめぐらし、愁いを去り、興を発して、甚
人に益あり。多く飲めば、又よく人を害する事、酒に過ぎたる物はなし。水火の人をたすけて、又よく人に
災あるが如し。
』(巻四の四十四)
現代にもそのまま通用する言葉である。
『たばこは、近年天正、慶長の比、異国よりわたる。―中略― たばこは性毒あり。煙をふくみて眩ひ倒るゝ
事あり。習へば大なる害なく、少は益ありといへ共、損多し。病をなす事あり。又火災のうれいあり。習へ
ばくせになり、むさぼりて後には止めがたし。事多くなり、いたつがはしく家僕を労す.初めより含まざる
にしかず。貧民は費多し。
』(巻四の六十)
煙草が伝来してから未だ日の浅いこの時期に、現代と同じ煙草の害を説いており卓見に驚かされる。
『男女交接の期は、孫思邈が千金方に曰く、人、年二十の者は四日に一たび泄す。三十の者は八日に一たび泄
す。四十の者は十六日に一たび泄す。五十の者は二十日に一たび泄す。六十の者精をとぢてもらさず。もし
体力さかんならば、一月に一たび泄す。―後略―』(巻四の六十二)
セックスの回数についてであるが、この後に有名な『四十以降、血気やうやく衰ふる故,精気をもらさずして、
只しばしば交接すべし。』
(巻四の六十五)がある。
(3)五官(巻五)
住まいや日常の衛生、入浴等について説いている。
『入門に曰く,導引の法、保養中の一事也。人の心は、つねに静なるべし。身はつねに動かすべし。終日安坐
すれば、病生じやすし。久しく立ち、久しく行くより、久しく臥し、久しく坐するは、尤も人害あり。』
(巻
五の十)
心を常に冷静に保ち、体を常に動かすことは保養(養生すること)の一つであり、体を動かさないと病気にな
4
ると説いている。
『二便は早く通じて去るべし。こらゆるは害あり。もしは不意に、いそがしき事出来ては,二便を去るべきい
とまなし。小便を久しく忍べば、たちまち小便ふさがりて、通ぜざる病となることあり。是を転浮と云。又
淋となる。大便をしばしば忍べば、気痔となる。又大便をつとめて努力すべからず。気上がり、目悪しく、
心さわぐ。害多し。自然に任すべし。―中略―
大便秘するは、大いなる害なし。小便久しく秘するは危し。
』
(巻五の三十六)
現代では過活動膀胱症等の場合には、小便を多少堪えた方が良いと言われている。また便秘気味の人は、毎日
便所に行って少しでもよいから便通をつけることが大切である(3の27)と説いている。
『温泉は、諸州に多し。入浴して宜しき症あり。あしき症あり。よくもなく、あしくもなき症有。凡此三症有。
よくゑらんで浴すべし。―後略―』(巻五の四十九)
著者はこの後続けて、入浴してよいのは外傷、打ち身,疥癬や手足のしびれ、刀傷、腫れもの等であり、内臓
の病気には温泉はよくないが、鬱病、食欲不振、体の冷えることで生ずる病気等にはよい。また害のあるのは
発汗症、心身の衰弱、熱病等であると書いている。
(4)慎病(巻六)
病気でない時でも養生し、病気予防につとめる必要性を説いている。
『古語に「常に病想を作す」。云意は、無病の時、病ある日のくるしみを常に思ひやりて、風寒暑湿の外邪を
防ぎ、酒食好色の内欲を節にし、身体の起臥動静をつゝしめば病なし。又古詩に曰く「安閑の時、常に病苦
の時を思へ」と。病なくして安閑なる時に、初病に苦しめる時を、常に思ひ出してわするるべからず也。無
病の時、慎ありて、恣ならざれば、病生ぜず。是病おこりて、良薬を服し,鍼灸をすることにまされり。-
後略―』(巻六の一)
正しく病気予防の原点であり、この時代に予防医学にまで言及した養生訓の最も優れている点である。
『病ある人、養生の道をば、かたくなに慎しみて、病をば、うれひ苦しむべからず。憂い苦しめば、気ふさが
りて病くはゝる。病おもくても、よく養いて久しければ、おもひしより、病いえやすし。病をうれひて益な
し。只、慎むに益あり。もし必死の症は、天命の定れる所、うれいても益なし。人を苦しむるは、おろかな
り。
』(巻六の七)
病は気からと云う。自然治癒力を期待して悩まないことだと諭している。
(5)択医(巻六)
医者の選び方について説いている。
『保養の道は、みづから病をつつしむのみならず、又、医をよくゑらぶべし。―中略―
医をゑらぶには、わ
が身医療に達せずとも、医術の大意をしれらば、医の好否をしるべし。たとえば、書画を能せざる人も、筆
法をならひしれば、書画の巧拙をしるが如し。
』(巻六の二十九)
医者や病院を選ぶことの大切さを説いており、現代にも通ずることである。
『医とならば、君子医となるべし。小人医となるべからず。君子医は人のためになす。人を救うに,志専一な
る也。小人医はわが為になす。わが身の利養のみ志し、人をすくふに志専ならず。医は仁也。人の救ふを以
って志とすべし。是人のためにする君子医也。人を救ふ志なくして、只、身の利養を以って志とするは,是
わがためにする小人医なり。―後略―』(巻六の三十四)
君子医と小人医との区別は難しいが、医者と病院の選択には慎重を期すべきであろう。
『諸芸には、日用のために無益なる事多し。只、医術は有用の事也。医生にあらずとも少学ぶべし。凡儒者は
天下の事皆しるべし。故に、古人、医をも儒者の一事といへり。ことに医術がわが身をやしなひ、父母につ
かへ、人を救ふに益あれば、もろもろの雑芸よりも最益多し。しらずんばあるべからず。然ども医生に非ず、
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療術に習はずして、妄に薬を用ゆべからず。』
(巻六の四十九)
医学や健康に関する知識は、ある程度必要であると説いている。
(6)用薬(巻七)
薬の選び方、飲み方について説いている。
『脾胃を養ふには、只穀肉を食するに相宜し。薬は皆気の偏なり。朝鮮人参は上薬にて害なしといえども、病
に応ぜざれば胃の気を滞らしめ、かへって病を生じ、食を妨げて毒となる。いはんや攻撃のあらくつよき薬
は、病に応ぜざれば、大いに元気をへらす。此故に病なき時は、只穀肉を以ってやしなうべし。穀肉の脾胃
をやしなふによろしき事、朝鮮人参の補にまされり。故に、古人の言に薬補は食補にしかずといへり。老人
は殊に食補すべし。薬補はやむ事を得ざる時用ゆべし。
』(巻七の五)
著者は体の健康は食物で保てるといい、薬の使用に非常に慎重である。現代の高齢者のトクホやサブルメント
の服用はどうか。
『薬のまずして、おのずからいゆる病多し。是をしらずして、みだりに薬を用て,薬にあてられて病をまし、
食をさまたげ、久しくいゑずして、死にいたるも亦多し。薬を用る事つつしむべし。』
(巻七の六)
人間には自然治癒力がある。やたらに薬を使用するとその薬害や副作用によりかえって病気がより悪くなる事
があると警告をしている。
『丘処機が、衛生の道ありて、長生の薬なし、といへるは、養生の道はあれど、むまれ付かざるいのちを、長
くする薬なし。養生は、只むまれ付たる天年をたもつ道なり。古の人も術者にたぶらかされて、長生の薬と
て用ひし人、多かりしかど、其しるしなく、かへって薬毒にそこなはれし人あり。是長生の薬なき也。久し
く苦労して、長生の薬とて用ゆれども益なし。信ずべからず。―後略―』
(巻七の八)
不老長寿の薬はないと説いている。
(7)養老(巻八)
高齢者になってからの養生法と生活の楽しみ方を説明している。
『人の子となりては、其おやを養ふ道しらずんばあるべからず。其心を楽しましめ、其心にそむかず、いから
しめず、うれへしめず、其時の寒暑にしたがひ、其居室と其寝所をやすくし、其飲食を味よくして、まこと
を以て養ふべし』(巻八の一)
子の立場で、親に対する接し方の基本を述べたものである。また著者は、子たるものと時々は親と昔話などし
て慰めるようにしなければいけないとも言っている。
『老後は、わかき時より月日の早き事、十ばいなれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年とし、
喜楽して、あだに,日をくらすべからず。つねに時日をおしむべし。心しづかに、従容として余日を楽み、
いかりなく,欲すくなくして、残躯をやしなふべし。老後一日も楽まずして、空しく過すはおしむべし。老
後の一日、千金にあたるべし。人の子たる者,是を心にかけて思はざるべけんや。』
(巻八の四)
著者が云うように、高齢になると時の過ぎるのを極めて早く感ずる。日々を大切に過ごすよう心掛けたいと思
う。
『今の世,老て子に養はるゝ人、わかき時より、かへっていかり多く、欲ふかくなりて、子をせめ、人をとが
めて、晩節をたもたず、心をみだす人多し。つつしみていかりと欲とをこらえ、晩節をたもち,物ごとに堪
忍深く、子の不幸をせめず、つねに楽みて、残年をおくるべし。是老後の境界に相応じてよし。―後略―』
(巻八の五)
親の立場で、子や周りの人等に対する接し方の基本を述べたものである。
『老人の保養は、常に元気をおしみて、へらすべからず。気息を静にして、あらくすべからず。言語をゆるや
かにして、早くせず、言すくなくし、起居行歩をも、しずかにすべし。言語あらゝかに、口ばやく声高く、
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声をはりあげるべからず、怒なく、うれいなく、過ぎ去たる人の過を、とがむべからず。我が過を、しきり
に悔ゆべからず。人の無礼なる横逆をいかりうらむべからず。是皆、老人の養生の道なり。又。老人の徳行
のつゝしみなり。』
(巻八の六)
高齢者の養生の基本を説いている。
『老ては、脾胃の気衰へよはくなる。食すくなきに宜し。多食するは危し。老人の頓死するは、十に九は皆食
傷なり。わかくして脾胃つよき時にならひて、食過れば,消化しがたく、元気ふさがり、病おこりて死す。
つゝしみて、食を過すべからず。ねばき飯、こは飯、もち、だんご、麺類、糯の飯、獣の肉、凡消化しがた
き物を、多くくらふべからず。
』(巻八の十九)
著者の云うように高齢者は基本的に小食べあるべきだが、小食過ぎるのも最近問題になっている。
5.養生訓の現代的意義
1)養生訓は現代医学の知識としては得られる所は少ないが、人間形成のあり方や人間の生き方等を教え、諭し
ている部分は多く、これらは現代でも十分に通ずるものである。
2)養生訓は、日本で最初の病気を予防する「予防医学」の書として評価されている。養生の術を身につけて健
康を保ち、病気予防につとめることは、人生で最も大事なことであると捉えている。
3)現代医学の主流である西洋医学は、臓器を個別に見て治療をする傾向がつよく、身体全体を流れる「気」等
は無視しているに等しい。この気を自然治癒力を高める「生きる意欲(Spiritual)」と捉え、人間の健康維
持に必要な一要素として配慮する医療が必要であろう。WHOでも 1999 年に健康の一要素として Spiritual
を加えることを検討したことがある。養生訓はこれを現代医学に啓発している書であると言える。
6.おわりに
著者は「養生訓」の後記に以下のように述べている。
『右にしるせし所は、古人の言をやはらげ、古人の意をうけて、おしひろめし也。又、先輩にきける所多し。み
づから試み、しるしある事は、憶説といへどもしるし侍りぬ。是養生の大意なり。其条目の詳なる事は、説つく
しがたし。保養の道に志あらん人は多く古人の書をよんでしるすべし。』
参考文献
・養生訓―全現代語訳―
貝原益軒、伊藤友信訳
講談社学術文庫
・養生訓に学ぶ!病気にならない生き方」
下方浩史
素朴社
・養生訓のことば
宮沢正順
明徳出版社
・養生の実技
五木寛之
角川書店
・気の発見
五木寛之
幻冬舎文庫
・気と血の流れをよくするとなぜ
石原結實
青春出版社
五木寛之
中経出版
岡本
中経出版
病気が治るのか
・医者に頼らず生きるために私が
実践している100の習慣
・9割の病気は自分で治せる
7
裕