クラブ活動プロジェクト(N村)

クラブ活動アワード
プロジェクト報告書
~レギュラーへの道~
豊 中 第 5 団 ベ ン チ ャ ー 隊
野村一樹
1
目次
P、3
アワード概要
P、4
筋力トレーニングについて
P、6
ストレッチ
P、8
記録用紙
P、9
記録、シューティングチャート
P、11 バスケットボールの歴史
P、14
主なルール
P、18
反省、自己評価
P、19
参考資料
2
・実施期間
2007年9月~2008年4月
・プロジェクト形態
個人プロジェクト
・アワード
体力づくり・スポーツ
・目的
バスケットボール技術の向上
4 月のインターハイ予選大会でのレギュラー入り
・目標
1
バスケットボールの歴史について知る。
2
練習の後によかったプレーや悪かったプレーなど反省点、
その日の練習などで思ったことを記録としてノートに書く。
3
筋力トレーニングについて学び、効果的な筋力トレーニングについて知る。
4
継続して筋力トレーニングを行い、身体を鍛え技術の向上を目指す。
5
体のケア(ストレッチやアイシング)を学び、毎日することで疲労を軽減する。
6
シューティング練習を行い、記録をつけることで弱点を見つけ出す。
・予算
0円(プロテイン代等は含まない)
・アワードの動機
初めてのアワードで何をしたらいいかまったくわかっていなかったが、毎日のクラブ活動(バ
スケットボール)で「体力づくり・スポーツ」の分野のアワードが取れないかと考え、四月に
行われるインターハイ大阪府予選でチームのレギュラー入りを目的にアワードを実施すること
にした。
3
~筋力トレーニングについて~
アワードを始めた当初、毎日欠かさず筋力トレーニングに取り組んでいたが、筋力トレーニングについて調べ
ていくうちに、筋肉には超回復という機能があり、毎日同じようなトレーニングをしたからといって筋力がつく
わけではなく、かえって逆効果になるということがわかった。その結果、途中から計画を変更せざるを得なかっ
た(超回復について詳しくは下記参照)。筋力トレーニングについては同じ部位を毎日やるのではなく、2~3
日周期でサイクルをつくり、筋力トレーニングをすることが一番効率のいい方法ということが分かった。
筋力トレーニングをしても筋肉がすぐに太くなったりするような効果が出やすい体質ではないことがわかり、
見た目の数値的な結果としてはほとんど変化をしていない。しかし、持ち上げられる重量や回数が増えたので、
筋力は確実にアップしていた。継続的に筋力トレーニングをすることでの筋力の向上を成果としてしっかりと出
すことができたのでやった甲斐があったと感じている。記録欄に筋力トレーニングの結果記録あり。
・筋力トレーニングメニュー
腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット、リストカール、ランニング、
チューブトレーニング(毎回トレーニング後は必ずプロテインを摂取する)
回数は経過とともに徐々に増やしていった。詳しくは記録ノート参照。
※超回復とは?
超回復とは、筋力トレーニング後に 24~48 時間くらいの休息をとることによって起こる現象で、休息の間に筋肉の総量
がトレーニング前よりも増加することをいう。筋肉を増加させるには、筋肉の破壊と修復を繰り返さなければならない。ト
レーニング後は筋肉が破壊されてしまうので、トレーニング前よりも筋肉の総量 は減少するが、適切な時間休息を与え
ることで修復され、さらには超回復が起きて、一度減少してしまったはずの筋肉がトレーニング前よりも大きな筋肉になる。
つまり、超回復が起こるのを待ってから次のトレーニングを行う方法が、筋肉を増加させるには理想的である。
4
筋肉に対して刺激が足りなければ大した筋力アップは起こらない、逆に必要以上に筋肉にダメージを与えてしまったら、
「苦労したのに筋肉は弱くなった」というオーバートレーニング(筋肉を構成している組織(筋組織)を形作っている繊維状
の細胞組織の損傷や疲労の蓄積に回復が追いつかない状態) の状態に陥る事になる。
よって筋力トレーニングの効果を最大限に引き出したいのであれば、まずは筋力トレーニングによって筋肉に与える刺激、
つまり負荷の大きさと、しっかり筋肉を補修して超回復疲労やダメージから回復して次に筋力トレーニングを行うべきであ
る。
5
~体のケア・ストレッチ~
いままであまり考えたことがなかった体調管理。腰痛があったこともあり、部活の先生や整骨院の先生などさ
まざまな人にストレッチやトレーニングなどを教わった。それを実践していくと腰痛が和らいだり、体の疲れが
取れたりとあらたな知識を得ることができ、また自分の体を知るいい機会にすることができた。教えてもらった
中には体に疲労がたまっている時に30分間の半身浴というものがあった。実際に半身浴をしてみると、次の日
の体や筋肉の疲労、筋肉痛がだいぶ軽減され、よくなったのでこれからも疲れがたまったときなどに使っていき
たいと思う。また運動後に疲れた部分を氷で冷やし熱をとること疲労の蓄積を抑えるアイシングは冷やすとつら
いものの、行ったときとそうでないときの差がはっきりあったので驚いた。捻挫したときや筋肉をサポートする
ときに使うテーピングの知識もかなり増え、体のケアにたいして意欲的に学び、習得することができたのでずい
ぶんな成果がでた。期間中はプレー中の接触で歯をけがした以外は大きなけがもなく、体調管理がしっかりでき
ていた成果だと考えている。このおかげで思いっきりバスケットボールに打ち込むことができた。次のページに
腰痛のためのストレッチを掲載する。実際におこなっていたがこれをサボってやらなかった次の日のつらさはか
なりのものでストレッチの重要さを実感した。
部活の先生や整骨院の先生から教えてもらった腰痛のストレッチは主に以下のもの。
オープンスクワット
①両足を開いてひざを曲げて立ち、手をひざに置きます。
②左右交互に肩を前に押し出すようにします。
腰を伸ばすことができる。
クロスオーバーツイスト
①座った状態から左足を伸ばし右足を左ひざの外側に置
きます。
②左ひじを右ひざの外側に付け、上体をゆっくりと右へねじ
ります。
腰や殿筋を伸ばすことができる。
クロスオーバーレッグス
①仰向けの状態になり、片脚をひざを曲げて反対側へクロ
スさせます。
②クロスさせた脚と反対の手でひざの外側を押さえ、体を
ねじります。
腰や殿筋を伸ばすことができる。
6
ニートゥチェスト
①仰向けになります。
②ヒップが少し浮くくらいに両ひざを抱え込みます。
腰や内転筋をストレッチできる。
ヒップフレクサー・ストレッチ
①仰向けになります。
②片脚をひざを曲げて両手で抱え込みます。
腰やヒップを伸ばすことができる。
ピリフォーミス・ストレッチ
①仰向けになります。
②右足の外側を左ひざに乗せ、左脚のももを両手で胸の
ほうへ引き寄せます。30秒ほどキープし、反対も行いま
す。
腰やヒップを伸ばすことができる。
7
~記録用紙~
月
日(
)
:
~ :
健康状態
体調
睡眠
練習
集中度
ストレッチ
筋トレ
練習(内容・注意点)
メモ(筋トレ・反省など)
体調→○、△、×の三段階評価
睡眠→○、△、×の三段階評価
練習→中(体育館)、外(屋外でランニングなどの練習)
集中度→○、△、×の三段階評価
ストレッチ→○、△、×の三段階評価
筋トレ→○、△、×の三段階評価(達成度)
練習内容、注意点→練習の反省や明日への課題など次に生かせるように
メモ
→筋トレのメニューや回数など
8
~記録について~
結果を定期的に測定したものをグラフで表した。
単位は cm
胸囲
二の腕(右)
二の腕(左)
ウエスト
体重
10 月
85
21.8
21.5
72
54.2
11 月
85.4
22
21.7
72.2
55
12 月
85.7
22.2
21.9
72.7
55.7
1月
86.2
22.5
22
73
56.3
2月
86.7
22.6
22.2
73.1
56.8
3月
87.4
22.8
22.4
73.6
58.2
4月
88
23
22.5
74
59
9
シューティング練習によってシュート力は向上したのか?
シューティングチャート
本数(10回中)\月
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
10月
3
2
3
6
2
4
5
0
1
2
2
2
11月
3
4
3
7
4
4
5
1
1
2
2
2
12月
4
3
3
7
3
3
4
1
2
3
2
3
1月
6
6
3
6
3
4
4
2
4
2
3
3
10
2月
7
6
4
8
5
5
6
2
3
5
4
2
3月
7
8
5
9
4
5
5
1
3
4
2
3
4月
8
7
5
9
6
6
6
2
4
4
3
3
少しではあるが確実にシューティングの成果が出ていることがわかる。④はフリースローの場所であるので成功
率はずいぶん高いが、③・⑤は苦手だということがあきらかになった。また3P シュートである⑧~⑫において
は距離が長いく成功率は低いが、もともと難しいシュートなので成功率が上がっているので成果が確実に出てよ
かった。
11
~バスケットボールの起源~
バスケットボールは一人の人物によって考案された数少ない協議のひとつである。
1891 年にアメリカのマサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールの体育
教師J.ネイスミスが、冬季に室内で行えるスポーツを考案したのが始まり。また公式試合は 1892 年 1 月 20
日にその大学で行われたとされている。
ネイスミスは、ニューイングランド地方の長い冬に外でスポーツ(アメリカンフットボール)ができない間、
室内でアメリカンフットボールと同じくらい激しく行えるスポーツをしたいと考えていた。そこで体育館のギャ
ラリーに桃を入れる籠を下げて、そこにサッカーボールを入れあうという今のバスケットボールの原型がうまれ
た。その当初はゴールが決まるたびに籠からボールを取り出してからジャンプボールで再開していた。その後、
数度にわたるゴールの形状の変化にあわせてルールも変化し、最終的に現在のような形に定まった)。考案当初
には逸話が多く存在しており、人数を設定していなかったために 100 人近くでプレーする高校が出たり、籠を取
り付けた 2 階の観客がゴールを妨害することがあったなどのものがある。リングの後部に設置されるバックボー
ドは観客による妨害を防止する目的で設置されることになったという説もある。
アメリカ国内では、1946 年に男子プロバスケットボールリーグ BAA が創設され、3 年後 NBL と合併し NBA
が誕生。1967 年には対抗するリーグ ABA が設立され地位を脅かしたが、1976 年に ABA は消滅し、NBA は現
在も世界最高峰のリーグとして君臨し続けている。1996 年には女子プロバスケットボールリーグ WNBA が設立
された。現在、世界でも 200 カ国以上が国際バスケットボール連盟(FIBA、1935 年設立)に加盟するほど盛ん
に行われており、特にアメリカのプロバスケットボール(NBA)の試合は、世界的な人気を博している。
~日本におけるバスケットボールの歴史~
世界で初めてバスケットボールが国際 YMCA のトレーニング・スクールで行われた 1891 年、その時プレイした
18 名の学生の中に石川源三郎という日本人がいた。しかし、日本にバスケットボールを伝えたのは石川源三郎
氏ではなく、その後、同じく国際 YMCA トレーニング・スクールへ留学していた大森兵蔵 氏が 1909 年に日本
に帰国して教えたといわれている。
YMCA を卒業して帰国した大森兵蔵が、東京YMCAで初めて紹介し、1903(大正 2)年に来日した YMCA
体育主事F.H.ブラウンらが各地のYMCAで指導し始め、普及した。その後、1930(昭和 5)年、大日本バ
スケットボール協会が設立され、数多くの国際ゲームが行われるようになった。
1924 年には、早稲田大学、立教大学、東京商科大学が全日本学生籠球連合を結成。全国各地で対抗戦が行わ
れていった。そして、1930 年に日本バスケットボール協会(JABBA)が設立され、普及と発展及び競技レベルの
向上に努めている。
1936(昭和 11)年のベルリンオリンピック大会で男子が正式種目に加えられ、日本の代表もこれに初参加し
た。女子は、1976(昭和 51)年のモントリオール大会から正式種目となり、世界的に一段とレベルアップした。
2005 年には日本初のプロリーグ bj リーグが発足したが、他国と比べて遅く、アジアの各大会で苦戦を強いられ
ている。日本代表は、女子が 2004 年のアテネオリンピックに 3 度目の出場を果たしたが、男子は 1976 年のモ
ントリオールオリンピックを最後に出場は途切れている。
1990 年から週刊少年ジャンプでバスケットボールを扱った漫画『スラムダンク』が連載を開始。1996 年の連
載終了後も売れ続けて 1 億部を超える大ヒットとなり、バスケットボールの競技人口を押し上げるなど、日本バ
スケットボール界に大きな影響を残している。またその功績から原作者の井上雄彦は、日本バスケットボール協
会から特別表彰されている。現在は車椅子バスケを題材にした『リアル』を連載中である。
12
~車椅子バスケットボール~
車椅子バスケットボールは 1891 年にアメリカで誕生。多くの障害者を生んだ第二次世界大戦後、米英両国で車椅子
スポーツが生まれた。
バスケットボール発祥の地アメリカでは車椅子バスケットボールが障害者自らの手で情熱を傾ける対象として急速に普
及発展し、1949 年には全米車椅子バスケットボール協会が設立された。
一方、英国ではストークマンデビル病院のグットマン博士により脊髄損傷者の治療法のひとつとして車椅子ポロやネッ
トボール(バスケットボールの元となったスポーツ)が導入された。
この 2 つの流れは 1950 年代後半にひとつとなり、車椅子バスケットボールは競技スポーツとして世界中で盛んになっ
ていった。車椅子も当初は日常使用のものが用いられていたが、だんだんに競技用のものが工夫され、それにより現在
はハイレベルな競技が行われている。
~世界最高峰のバスケットボールリーグNBAの歴史~
1940~1970 年代
NBA が前身の NBL として誕生したのは、1946 年のことで、初代王者はフィラデルフィア・ウォリアーズ(現
ゴールデンステイト)であった。そして、最初に黄金時代を築いたのが、当時絶対的な高さを誇った 208cm の
センター、ジョージ・マイカンが核となったミネアポリス・レイカーズ(現ロサンジェルス)。49 年と 50 年に 2 連覇、
52 年から 3 連覇を果たす。 50 年代後半から 60 年代は、セルティックスが NBA を支配。最強のディフェンダ
ーと言われたセンター、ビル・ラッセルを軸に、レベルの高いプレイヤーを数多くそろえたことで、59 年から 66
年まで 8 連覇を達成。ラッセルはキャリア 13 年で、11 度も頂点に立ったのである。セルティックスの黄金時代
を経て迎えた 70 年代は、7 チームが頂点に立った群雄割拠の時代。バックス、ブレイザーズ、ブレッツ(現ウィ
ザーズ)、ソニックスは、このときにチーム史上唯一のタイトルを獲得している。
1980 年代
マジックとバードというスーパースターが誕生し、2 人が所属するレイカーズとセルティックスが、ファイナルで何度も名
勝負を演じた。そのことによって、 NBA はプロスポーツとして大きな飛躍を遂げる。84 年にブルズにドラフトされたマイケ
ル・ジョーダンは、80 年代後半にスーパースターへの階段を一気に駆け上がっていった。
80 年代はレイカーズとセルティックスが支配。しかし、激しいプレイを連発することからバッドボーイズと呼ばれたピストン
ズが、88 年にセルティックスを破ってファイナル進出。翌年にはレイカーズを撃破し、初の NBA タイトルを獲得すると、90
年にもブレイザーズを倒して 2 連覇を達成した。
1990 年代
ジョーダン率いるブルズは、88 年から 3 年連続でピストンズに敗れていたが、91 年についに宿敵をプレイオフで撃破。
レイカーズを 4 勝 1 敗で倒し、初の NBA タイトルを獲得。93 年にサンズを倒して 3 連覇を達成した後、ジョーダンは一度
引退を決意する。
95 年 3 月に復帰するも、その間はロケッツが 2 連覇を果たす。95-96 シーズン、ブルズが 72 勝という大記録を作ると、
ファイナルではロケッツの 3 連覇を阻止したソニックスを破って 4 度目の優勝。次の 2 シーズン、ファイナルでジャズをい
ずれも 4 勝 2 敗で撃破したブルズは、2 度目の 3 連覇するとともに、ジョーダンは出場したファイナルすべてで MVP とな
った。90 年代は、まさにブルズとジョーダンの時代であった。
13
~豊中高校バスケットボール部の歴史~
豊中中学は1921年に第13番目の府立中学校として設立されたが、バスケットボール部の創部はその 3 年
後の1924年。創部に当たっては大阪YMCAの指導を得る。また武田先生を中心とした部員の真摯な努力が
実り、創部直後から大阪府下はもちろん、近畿一円に“強豪豊中”の名を轟かせていた。1926年には近畿大
会を制し、引き続いて 11 月 7 日、8 日両日に早稲田コートにて行われた第 3 回全日本中等学校選手権大会(全
日本学生連盟・中学校連盟主催)においても、横浜一中、埼玉師範、成城中を大差で撃破し、決勝戦では接戦の
末、新潟師範に敗れて、全国準優勝に輝いたという記録が残っている。
1943年にアメリカを起源とするバスケットボールは敵性競技であるとの理由で各校の部活動をすべて停
止すべしとの通達が出て廃部になった。一方で枢軸国ドイツを起源とするハンドボールはむしろ推奨されたこと
もあり、部員のうちの何名かもそれに従って、ハンドボールに転向した。この数名のバスケットボール部員を迎
えたことによりハンドボール部は非常に強いチームになり、1943年の明治神宮大会にて全国制覇を果たした。
戦時中の部活動停止の反動か、終戦後の部活動再開は素早く、1945年冬の大会への参加の記録が残っている。
翌1946年には国体が始まった。同年の北摂中等学校冬季リーグジュニアの部で優勝、翌1947年の同春季
大会では第二師予科に次いで 2 位と北摂地区において健闘した。
1948年には新制豊中高校は大阪ベスト4に進出した。
14
~豊中高校の練習場所の変遷~
1923年に豊中中学にて最初にバスケットボールの練習が行われた当時、バスケットボールのコートの広さ
はなかったので、屋外にその場所を求めざるを得ず、学校の敶地の北西隅にあった工作室の南側のオープンスペ
ースがそれにあてられた。この屋外コートは1954年にほぼ同じ場所に木造の体育館が建設されるまで続いた。
但し、1949年以降の一時期、学校の敶地の北東隅の武道場の下の部分にバックボードとリングを設置して練
習していた。屋内とはいえ体育館とは言えない代物でフリースローのループもとれないほど低い天井の高さだっ
た。それでもドリブル、パス、レイアップシュートなどはできた。屋外コートおよび天井の低い体育館を使用し
ていた時代は、卒業後に大学や実業団で活躍された方が多く、夏季休暇、春期休暇には学校を訪れて現役の部員
たちを絞りあげたようだ。
1954年に建設された木造の体育館は1972年までの約20年弱使用された。この体育館は天井の高さは
それなりにあったが、照明施設が完備されておらず、コートの広さも十分ではなかった。雤漏りがひどく、雤が
降った日には床が滑って困ったという。ここで練習した頃の部員たちは、三線速攻やエンドライン際の練習が十
分にできなくて大会に臨んで戸惑ったようだ。
1972年から現在の体育館が使用されている。この体育館は一階が武道場、二階が多目的場でバスケットコ
ートは二階にある。ハンドボール部が強かったこともあり二階の設計は明らかにハンドボール仕様。フロアの東
側と西側の壁にゴールを据え付け、周りに衝突予防用のマットが 2 枚ずつ。40m×20mのハンドボールのコ
ートがきっちりおさまるサイズである。そのためにバスケットボールコートはメインが2面、真ん中に中途半端
なサブコートが 1 面。リングの数は合計6個。ルールの28m×15mには遠く及ばず、せいぜい24m×13
mとかなり狭い。エンドラインは壁から1mしか離れていないので、他校を招いての練習試合ではエンドライン
を踏んでもバイオレーションとしないローカルルールを苦し紛れに採用。また1985年に導入された3ポイン
トシュートはサイドラインぎりぎりのため、0度からの3ポイントシュートではラインを踏まずに打つのは極め
て難易度が高い。本校の練習に慣れて公式戦に出かけると、ランニングシュートでパスをもらってもリングは遥
かむこう。タイミングがあわずトラベリングしてしまう者、慌ててドリブルをついてしまい予期せぬバックシュ
ートに持ち込むものが続出することは今も昔も変わらないようだ。
~主なルール~

試合5人対5人で行う。

相手方のゴールにボールを投げ入れること(シュート、ショット)により得点になる。通常時のショッ
トは 2 点であり、通常時でも 3 ポイントラインという線より外側(3 ポイントエリア)でのショットに
成功すると 3 点が得られる。また、ファウルによって行われるフリースローによる得点は 1 点である。

審判(オフィシャルズ)は 2 人もしくは 3 人で行う。

ゲームはセンターサークルで両チームのプレイヤーによりジャンプボールで始められる。前半 2 つのピ
リオドでは相手チームのベンチ側にある相手チームのバスケットを攻め、3 ピリオドからは攻めるバスケ
ットを入れ替える(コートチェンジ)。

10 分を 1 ピリオドとし、第 1 ピリオドから第 4 ピリオドまでの 4 つのピリオド、計 40 分間で行なう。
15
・バイオレーション
・アウト・オブ・バウンズ
ボールを保持しているプレイヤー又はボールが境界線(サイドライン、エンドライン)および境界線の
外にある物に触れた場合。
・ダブル・ドリブル
ひとつづきのドリブルを 終えた後に再び新たなドリブルを行うことはできない。ドリブルの終了とはド
リブラーの両手がボールに触れたときまたは片手もしくは両手でボールを支え持ったとき。これに違反
したときはダブル・ドリブルとしてバイオレーションとなる。また、ドリブル中に完全に手で支え持つ
状態になっていると判断された場合も同じ。
・トラベリング
プログレッシング・ウィズ・ザ・ボールについての違反をトラベリングと呼ぶ。ボールを保持したまま 3
歩以上歩く、また止まった際にピボットフットを動かしてはならない。ドリブルを始める際には両足が
フロアから離れた状態ではドリブルを始めることはできない(ピボットフットが床から離れる前にボー
ルを手から離さなければならない)
。
※ピボットフット
ボールを保持した状態で身体を動かす際に支点となる足のことである。
・ボールを故意に足または脚で扱った場合
故意に足または腿でボールを蹴ったり、止めてはならない。偶然に当たった場合はバイオレーションで
はない。また拳で叩くことも禁止である。
・3 秒ルール
フロントコート内でボールをコントロールしているチームのプレイヤーが相手チームのバスケットに近
い制限区域内に 3 秒をこえてとどまってはならない。そのプレイヤーは制限区域外に両足をつけなけれ
ば制限区域外に出たことにはならない。
・5 秒ルール
近接して防御されているプレイヤーは 5 秒以内にパス、ショット、あるいはドリブルをしなければなら
ない。また、スローインやフリースローはボールを渡されてから 5 秒以内に行わなければならない。
・8 秒ルール
バック・コートでボールをコントロールしたチームは 8 秒以内にボールをフロント・コートに進めなけ
ればならない。8 秒はボールをコントロールしている限り数え続けられる。
・24 秒ルール
ボールをコントロールしたチームは 24 秒以内にボールがバスケットのリングに触れるようにショットし
なければならない。ショットしたボールが空中にあるときに 24 秒が経過してもショットしたボールがゴ
ールに入ったり、リングに触れればバイオレーションにはならない。
・バックパス
チーム・コントロールされたボールがフロントコートにあるときは、そのチームのプレイヤーはボール
をバック・コートに返してはならない。
・ゴール・テンディング
ショットされたボールが放物線の一番高いところから落ち始めた後、全体がリングより高いところにあ
16
る間に、プレイヤーがそのボールに触れた場合、ゴール・テンディングとなる。
・ファウル
規則に反する違反のうち、からだの触れあいおよびスポーツマンらしくない行為など、重い反則をファウルと
呼ぶ(ファールともいう)。パーソナル(個人)ファウルは 1 試合 5 つ(NBA では 6 つ)犯すと強制交代(退場)
しなければならず、以後そのゲームには出場できない。ただしサッカーのように欠員の補充ができないというわ
けではない。ファウルとは主にディフェンス側がすることが多いが、ディフェンスがいたにも関わらず、無理に
突っ込んでいった場合、オフェンスファウルとなり、相手ボールへと切り替わる。
シュート時にオフェンス側がファウルされたとき、そのショットが成功の場合、得点が認められ、さらに 1 投
のフリースローが与えられる。(バスケットカウント)そのショットが不成功の場合、ツー・ポイント・エリア
からのショットであれば、2 投、スリー・ポイント・エリアからのショットであれば、3 投のフリースローが与
えられる。
主なファウル
・ブロッキング
からだを使って相手チームのプレイヤーの進行を不当に妨げること。
・チャージング
ボールの所持の如何に関わらず、無理に進行して相手チームのプレイヤーの胴体に突き当たったり押し
のけたりすること。
・後方からの不当なガード
防御側プレイヤーが相手チームのプレイヤーのうしろから触れあいを起こすこと。
・ホールディング
相手チームのプレイヤーを押さえて行動の自由を妨げること。
・プッシング
相手チームのプレイヤーを手やからだで無理に押しのけたり、押して動かそうとすること。
アンスポーツマンライク・ファウル
アンスポーツマンライク・ファウルとは、規則の精神と目的を逸脱しボールに正当にプレイしていないと審判が判断した
ファウルのこと。ファウルをしたプレイヤーに 1 個のアンスポーツマンライク・ファウルが記録され、以下の様にフリースロ
ーが与えられる。フリースロー後、フリースロー・シューター側のスロー・インでゲーム再開。アンスポーツマンライク・ファ
ウルが 2 回記録されるとディスクオリファイング・ファウルとなり、そのプレイヤーは失格・退場となる。以前は「インテンシ
ョナル・ファウル」と呼ばれていたものである。
17
・バスケットボールにおける選手のポジション、役割
ガード(G)
①ポイントガード(PG)
ボールを運び、パスをしたり指示を出したりする、チームの指令塔、ゲームメーカーとしての役割。
②シューティングガード(SG)
長距離からのシュートやカットインで得点を稼ぐ。また、ポイントガードの補助をしたり、
スモールフォワードのように攻めたりする。現代の花形ポジションともいえる。
フォワード(F)
③スモールフォワード(SF)
柔軟なプレイを求められる、万能的ポジション。シュータータイプからインサイド型まで様々なプレー
スタイルが存在する。
④パワーフォワード(PF)
リバウンド、ゴール付近からのシュートを担当する。
センター(C)
⑤センター(C)
高い身長とパワーが必要とされる。リバウンド、ゴール下での得点とディフェンスでチームを引っ張る。
上から順に、1 番(PG)、2 番(SG)、3 番(SF)、4 番(PF)、5 番(C)という呼ばれ方もする。
18
~反省、自己評価~
目的であったベンチ入りは達成することができなかったが、結果的にアワードとしては何とかやりきることが
でき、目標も達成することができたと感じている。
初めてのアワードでわからないことが多く、手探り状態であったが、アワードをやりきることができて少し自
信がついた。明確な目標を持ってそれに対して日々課題を持って実践すること、やりきることができ、継続して
何かをやる力、また計画性をもって実行する力がついたのではないかと思う。また自己体調管理や目標に向かっ
て努力すること、その過程などの点で自分自身がまたひとまわり成長することができた。約半年間、毎日記録を
つけることは大変で記録を数日ためこんでしまったり、内容が薄くなったり、適当にしてしまい雑になってしま
ったことが何度かあり、とても難しいものだった。しかし、毎日記録を書くことで自分に今は何が足りないのか、
何をすべきなのかを把握でき、自分で課題を見つけ修正していく、反省を次の練習に生かすという習慣をつける
ことができ、それが日々のプレーの向上、上達につながっていった。しかしその中でずっと同じような内容が書
かれている時期があり、その期間は課題が見えていたのに改善できていなかったので反省すべき点である。また、
定期的に読み返すことで、忘れかけていたことを思い出す、初心にかえるということにもなり自分の成長に対し
て記録ノートをつくることは大変良かった。
また筋力トレーニングはなかなか成果が出ずなんどもやめそうになったが、なんとか継続し、体調に合わせて
内容を調整したりもすることでより効果的な筋力トレーニングができたように思う。そして筋力トレーニングは
継続してこそ意味があるものだと実感した。
体のケアとしてストレッチやアイシングなどを欠かさずしたり、また食事の栄養バランスなども自分で考えて
とるようになり、睡眠もしっかりとることで万全の体制で練習、試合に臨むことができるように調整する意識が
芽生え、自分の体のケアについて真剣に取り組み、心がけができるようになり、成長できた。おかげでその期間
病気をすることはなくもちろん風邪さえをひくことはなかった。
インターハイ大阪府予選結果
一回戦○豊中 78 - 59 阿倍野
二回戦×豊中 53 ― 70 大手前
参考資料
http://www.z-muscle.net/theory/basic01/020_supercom.html
http://homepage3.nifty.com/o-key/stretch/stretch6.html
http://www.jsports.co.jp/tv/basketball/nba/history/index.html
Wikipedia バスケットボール
『MY SPORTS 大修館書店』
豊高籠球会 創部八十五周年記念誌
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