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石切り最後の一人 - 聞き書き甲子園 foxfire in japan

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森の名人
石切り、石問屋
石切り最後の一人
す ず き
し ろ う
た か つ
のぶひろ
鈴木 士朗(千葉県富津市) × 高津 喜広(千葉県立茂原樟陽高等学校 1 年)
1 名人の紹介
3 石切りの歴史
鈴木士朗。生まれは大正 15 年2月 17 日。家族は私達夫婦、
何年ごろから石を切り出したっていうことは、はっきり分か
それから長男夫婦、次男夫婦、三男夫婦、四男夫婦と。次男は、
りません。ただ、古文書によりますと延享3年 1746 年。今から
私の跡をとって、長男は千葉県柏市のほうで会社経営やってる。
267 年前だね。金谷のこの古文書に五大力船という五十石船でね、
日本海を北海道まで行ったり来たりした北前船と同じ 80t から
2 職場鋸山
90t ぐらいの船なんですが、それが4隻ここにあるということで、
私のところの家が昔から名主といってね、村の村長みたいな役を
やっていた。それでその船を持っていてね。それで、その船が2
艘あった。書き方も2つあって、トは渡る、カイは回る船、回り
歩く船で渡回船っていう。それからもう一方は、トは渡る、カイ
は海で渡海船という書き方。どっちが本当かは知らないけど、地
元では、渡海船って船の名前を使ってた。それでこの石自体の採
掘方法は伊豆半島から伝わったの。
名主である私の家の土台石は、
今でもちらほら見えるんですが伊豆石を使っていた。ということ
は、この五大力船で伊豆から石を持ってきて作ったと思われる。
そういうことでもって、天保9年 1838 年、今から 175 年前。こ
イシヤゴザソウロウ
れは金谷の古文書に『石屋御座候』とあるのでもう、これから石
の産業ができたと分かる。それでこのころから、日本の近海にソ
連の船とか、イギリスの船とか、そういうのが捕鯨船として来て
鋸山。石を切った跡が見える
日本の近海をいろいろうかがっていた。そういう時代の中で安政
2年 1855 年、今から 158 年前。金谷の産物として石灯籠、それ
太陽が東のほうから来てるとモヤがかかって見えないんです
から七輪、それから古文書には「炭、薪等江戸に積み送り申候」
が、西日がさすと山全体が立体感で、石を切った跡が歴然として
とある。これは金谷の明細帳にそういう古文書が載っていて、こ
分かるんです。
れで正式に石の生産をしていたということが分かる。それで尚、
そもそも鋸山ができたのが、一千万年前でね。火山の爆発や、
石が盛んになったのは安政6年 1859 年、今から 154 年前、日本
地殻の変動で火山灰が海に堆積して、それがだんだん地殻の変動
横浜の港が開港になって、それでこの港を作るのにこの石の材料
でもって陸になって、山になったのがこの鋸山です。
が増えてそれと同時に、さっきも言ったように外国船が回ってる
から、昔も今もそうだけど日本の中心である江戸の防衛のために
2
ないとできなくなった。そうこうしてる内に、
今までは手掘りで、
ツルハシという道具で石を切ってたんだけど、宇都宮の大谷石の
石切りが機械化されて、昭和 40 年に宇都宮から機械を入れて石
を生産した。昭和 60 年に、
今から 28 年前。もう石を切るだけ切っ
ちゃったから、新しい所を開発しようと言っても莫大な資金が要
るんで、それでもって昭和 60 年の 3 月にこの房州石の切り出し
を辞めた。そういう歴史があった。
この石が房州石と言ったのは大正頃からで、その前は地名で呼
モトナ
んでたの。金谷石とか、この隣にある元名っていう地域から出た
ウルヅ
石は元名石っていうし、この金谷の上の方の売津っていう地域か
ら出た石は売津石とか、そういう地名で呼ばれてたの。ところが
これらは組合で房州石と言う統一名にした。それが今までの房州
石の歴史なんです。
4 石切りの工程
房州石で造られたかまど
この石がお台場の砲台を作るのに使われていた。江戸湾の近辺を
外国船に近づかれないように幕府がやってた訳。それで横浜が開
港になってから、今度明治 17 年、1884 年。今から 129 年前に、
皇居の造営があってそこにも石が使われたことが記録に残って
る。それから明治 22 年、1889 年、今から 124 年前。この富津
カイホウ
の東京湾に第二海堡第三海堡っていう海の要塞を作ったの、こ
の江戸城を守るためにね。それからその当時は西洋に負けないっ
ていうようなことで、
いわゆる富国強兵。そういうような風潮で、
方々要塞が築かれたわけです。それで大正の初めには石材業の問
屋。これは山主っていうか、山元が 30 軒もあって、五大力船が
様々な種類のツルハシを使う
60 隻もあって、石の年間の生産量が 56 万本も生産したと。とこ
ろが大正 12 年、1923 年、今からちょうど 90 年前だね、関東大
ではどういう方法で石を切ったかということなんですが、説明
震災があって、それで壊滅的な打撃を受けた。だからその前はこ
しますと、
この刃ヅルっていう刀の刃みたいな切り口で溝を作る。
の金谷の石は靖国神社にも使われてるし、早稲田大学にも。石塀
それで両ヅルでさっきの溝を掘っていく。それから玄翁で、矢っ
にも、横浜の汐入小学校にも残ってる。だけど関東大震災で、壊
ていう尖った金を打ち込んでコンコン叩くと石がパカッと持ち上
滅的で。やっぱり一番売れたのは江戸時代の安政 2 年の七輪。昔
がる。それでもって、叩きっていう仕上げをする道具で、この石
のかまどはみんな土釜って言って、土をこねた釜でご飯を炊いて
の側面を削って化粧し直す。それで製品。これは長さが 85㎝ぐ
いた。土の釜だから壊れやすかったりしたけど、この金谷の石で
らいか、厚さが 25㎝。それから幅が 28㎝ぐらい。この規格の石
作ると崩れないし、火に強くて保温力があるから、燃料が少なく
を尺三っていう。この一つの重さが 80㎏ぐらい。
て済む。この七輪が江戸の庶民に爆破的に売れたの。だから江戸
それで山には石切りの職人がいて、その職人を統括するのが番
の生活の必需品でね。
江戸庶民はこれで生活がずいぶん楽になる。
頭。その番頭さんが石に印を付ける。今日あなたから何本受け取
ところが時代が変わって。昭和 20 年 8 月 15 日に第二次世界
りましたと。これが商標という商売の標。
大戦が終戦となって、
このときは既に若い人が皆兵隊に取られて、
大体、普通の人は一日で尺三を 10 本切っちゃう。技術の長け
年寄りばっかりで生産してたけど、あんまり生産能率が上がらな
た人は 12 本。そして切った本数によって賃金がその山の元締め
かった。それで、終戦してから私が 21 年の4月に、すぐ学校を
によって払われる。うちの印はこの1本。これが商標になってる。
下りて家業を継ぐことになって。それでこの石屋を始めた。親
だから今でも、古い所の石塀なんか剥がすと、こういう印が出て
から受け継いでやった。それで昭和 33 年に、いまから 55 年前。
くると。これはどこそこの石屋さんだって分かるの。これが石屋
ここが房総の国定公園になって石を切るのはやめなさいと、それ
によってね、1本だったり、2本だったり、丁の字だったり、そ
で今まで誰にでもできたんだけど、これから知事の認知をもらわ
ういう石屋によって違って、トが関口っていう石屋さん。コがタ
ゲンノウ
3
バコヤ。こういうヤが弥治郎っていう。ミがミカド。一本線は芳
家、うちのことね。これがうちの商標。この2本がタワラヤって
いう。これらが石問屋の名前。だからこれを見るとどこの石屋か
判る。靖国神社はうちの石を使っていて、一本線の印がある。丁
寧に加工しちゃうとこれが消えたのがあるけど、これが消えない
で残ってる石もある。
5 石の運搬
それでは、あの鋸山からどうやって石を出したか。まず石切り
場の説明をしますと、山のてっぺんを最初に崩して、崩したのを
どんどん下へ落として、石を切る広場だけ作って、それから石を
切っていって、盤下げっていうか、どんどん下がっていく訳。ち
なみにてっぺんからは二枚貝とか、ウニの化石が出てくるから昔
は海だったってのが分かる。
では石の運搬ですが、2本の丸太で滑り台を作って、そこに石
の角を乗せて落とす。さらに下まで下ろすのには石の滑り台を
使った。そこから落として、車力車っていう猫車で、尺三を3本
乗せて、一番上に乗せた石でバランスをとるの。それで山が急だ
から、車力後部に金具があって、それをずらしながら山から下り
石の中央のくぼみが芳家の商標
4
てくる。これがブレーキ代わりになる。だから鋸山に行くと車力
7 石の質
道ってあるけど、そこに溝があるのはこのブレーキの跡なの。未
だに残ってます。重さは3×8= 24 で 240kg だね。この車力を
引くのは女の人の仕事。どうしてかっていうと、漁師の女将さん
石の質はね、鋸山を大雑把にいって、上の方の上石、割り方良
が、朝船を出っしゃうと、日中は暇なもんだから、それでこの車
い石。それと、中腹ぐらいの中石。製品になるのは上石か中石。
力の仕事をやった。それで船へと積み込む。車力でもって港へ
それから、海岸の岩場とかね、下に来るほど石質が悪いんだけど、
引っ張ってきて、軽子と呼ばれる人が石を1本1本背中にしょっ
これを下石といって製品価値がずっと落ちるの。それで、なんて
て船へ積んだの。でも時代の変化と共に、
今度トロッコができて、
いうか火にも弱いし、水にも風にも脆い。霜にあたるとすぐに溶
それで今でいうフェリーの港、あそこまで船の置く場所があった
けちゃったりなんかして。それで石の目には一番いい石が桜目っ
から、そこまで山から運んだ。それで鉄道が発明されて、鉄道か
て、桜のような模様した石があるね。他に比べてちっとも溶けな
らも輸送したの。途中までトロッコだけどね。鉄道で輸送したの
いし、水をかけると色が鮮明に出てくる。次に井桁目っていうか
はそうだね、昭和 25 年ごろまで鉄道で輸送したね。それからあ
梨目っていうか、梨の肌みたいな石とか。それで一番悪いのはガ
とはトラックになっちゃったけどね。船で運搬したのはね、昭和
リ目っていって、
小さな硬い石が固まったようなざらざらした石。
10 年ごろまで。私が昭和元年生まれだから、10 歳ごろはね、お
8 石切りの終わり
正月になるとその船に乗って遊んだことなんか記憶にありますか
ら。それから次はトロッコじゃなくて、ケーブルカーが発明され
て、
それで山から下ろしたのをトラックで輸送するようになった。
今はもうみんな町の工場まで出稼ぎにいっちゃって、わざわざ
鋸山に登って石切るより稼ぎがいいから、職人がいなくなって、
6 石切りの今と昔
鋸山も石を切るだけ切っちゃったから辞めざるを得なかった。長
く続いた石切りが私の代で終わると思うと随分寂しい思いはしま
関東大震災以降は、そんなに石塀なんかの需要がなくなってき
した。
たの。どうしてかっていうとね、熱に強くて保温力があるからパ
9 鋸山はどんな存在?
ン窯とか、お豆腐屋の釜だとか、お風呂屋の釜だとかに使ってた
けど、
そういう物の需要が減ってきてね。
それで今、
鋸山に行くと、
窓みたいな四角い穴が掘ってある。これはね、鋸山の層っての
鋸山自体、昔から見慣れているけど、夏目漱石などの文人にも
は、この金谷から向こうの元名っていう地名があるんだけど、そ
随分愛された山だからね。今の鋸山を形作ったのは、石切り商売
の元名側にそって掘り下がるの。それで石質が良いとこれを掘っ
が繁盛した結果だと思ってね。だから鋸山ってのは地元の人は皆
ていって、向こうにどんどん下がってくるの。石質が良いってこ
誇りに思ってますよ。鋸山に登山する人は多いしね。金谷もかつ
とは、手間賃がいいと。また、東京に持っていっても高く売れる。
て人口の 80%はみんな石に関する仕事をやってたんだけど、そ
そういうことでもって、
石質が良い所を奥へ掘った跡が残ってる。
ういう人がみんな鋸山を地域の活性化に繋げようと思って観光協
先ほども言ったように、七輪とか、かまど。それから石灯籠、こ
会なんかで運動してるんだけどね。東京近郊でちょっとしたハイ
ういうものが売れたからね。それから、今はフェリーの港になっ
キングコースとして、今随分栄えてますね。みんな一度鋸山を見
ちゃったけど、そこの地名が平田っていてね、平田港って呼ばれ
直そうということで、登山道を新しく作ったりね、そういうこと
てたね。
でもって金谷を挙げて取り組んでるわけです。
[取材日:2013 年 11 月 25 日]
[出典情報:図の提供・鈴木士朗さん]
桜目。斑点のような模様がある
5
【取材を終えての感想】
僕は文章を書くのが苦手です。少しでも文章を構成する能力を
身につけられたら、と思い聞き書き甲子園に参加することに決め
ました。鈴木さんに初めて電話したときは緊張しましたが、ゆっ
くりとした優しい声で電話に応じてもらい、最後に「お待ちして
います」と言っていただきました。そしてお宅へ伺うと門の前で
出迎えて下さいました。また、2 回目の取材では鈴木さんの職場
であった鋸山まで実際に連れていって下さり、鈴木さんと歩いた
鋸山は今でも鮮烈に覚えています。車力道や石切りの現場、手掘
りと機械掘りの境界などを見学し、分かりやすく石切りと鋸山に
ついて教えてくれました。さらに、使われなくなって置き去りに
された機械やケーブルカーの跡を見て、石切りを辞めてしまった
のだと実感しました。
僕はこの聞き書きを通じて、普段では得ることのできない、と
ても大切なことを得ることができたと思います。聞き書き甲子園
のことを教えてくれた先生には感謝しています。
さて、夏休みに行われた研修初日でのこと。
「相手を理解する
のは相手に恋すること」という言葉を教えていただきました。な
ので僕は自分の恋した鋸山を、そしてこの千葉県金谷の地が、聞
き書き甲子園を通じてもっと有名になって、活気溢れる町になっ
てほしいと思っています。
Profile
鈴木 士朗・すずき しろう
生年月日:大正 15 年 2 月 17 日 年齢:87 歳
職 業:富津観光開発株式会社相談役
略 歴:江戸時代より続く家業の石屋を大学卒業と共に継ぎ、ツ
ルハシを使っての石切りに初めて機械を導入。手掘り、機械切り、
石の元締めとして流通まで含めた経験のある最後の一人。房州石の
歴史が終わる昭和 60 年、最後の一軒の石屋として残された組合の
帳簿等を保存。その歴史と文化の伝承をはじめ、現在も続けている。
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