ナポレオン三世の外交政策 横浜市立大学名誉教授 松井道昭 第4章 第1節 クリミア戦争 「帝政は平和なり」 ナポレオン三世の外交政策は、ウィーン体制に始まる対仏封鎖網の打破を目標とする。ウィー ン体制は、1848 年にヨーロッパを席巻した革命の嵐によりひとまず終止符を打ったが、5大国 協調(牽制)路線は依然としてつづいており、どの国も外交上のフリーハンドをもっていたわけ ではない。ヨーロッパにおける革命騒動の恒常的発火点としてのフランスに対する他列強の猜疑 心は、強まることはあっても弱まることはなかった。 フランス国民の与望を担ってルイ=ナポレオンが政権に就いたとき、フランスがヨーロッパの 諸事件に対し積極的役割を演じるとともにウィーン体制を打破することが期待された。皇子=大 統領は自分にその期待がかけられていることをよく承知していた。しかし、伯父がかつてヨーロ ッパ全体を相手としておこなったような冒険はたいへん危険でもあることも十分理解していた。 ウィーン体制はフランスをがんじがらめに縛ったかもしれないが、こうした拘束は他の列強を も縛ったわけであり、それゆえ、フランスの国際的地位と安全が保障されたことも事実である。 したがって、フランスが事を起こさないかぎり安泰であった。1852 年 10 月の大統領ルイ=ナポ レオンがボルドーでおこなった「帝政は平和なり」の演説は、彼がこのことを十分理解していた ことを示す。 「国に安寧をもたらすのに新たな制度をもちこむ必要はない。現在の信頼と未来の安全を 推進することで十分である。フランスが帝政に回帰するよう望まれているように思われるの は、以上のような理由による。しかし、私が答えねばならない危惧がある。ある人々は懸念 をもって『帝政は戦争を意味する』と言う。だが、私の言いたいことは『帝政は平和なり』 である。フランスの望むのは平和であり、フランスが満足しているとき、世界は静穏である。 ゆえに、帝政は平和を意味するのだ。」 ヨーロッパ人のなかでかつての忌まわしい戦争を思い起こさない者はいない。だから、この声 明は予防線となる。帝政復活はあくまで国内秩序の維持のためであって、第一帝政のような侵略 はおこなわないというのだ。 外交には戦略が必須である。フランスはヨーロッパでの国際政治の遂行において永続的なパー トナーを必要とする。ルイ=ナポレオンにとって英国こそがそのパートナーとしてもっともふさ わしい国である。イギリスはヨーロッパ国際政治を左右する鍵を握っていることを確信する彼は 1 また、イギリスの外交的利害がフランスのそれと一致しているとも考えた。この考え方は、イギ リスをフランスの仇敵と見なしてきた伝統的な戦略観念とはちょうど反対の極にある。 紛争が起ったばあい、どうするのか? ―ルイ=ナポレオンは調停を列強国際会議に求めた。す なわち、紛争解決のために当事国がともに同じテーブルについて、調停国の裁定を待つというこ とにすればよいという。この態度はけっして新しいものではなく、ウィーン体制下でいくたびも 試された処置法である。それでもなお紛争当事国が調停に応じないときは、英仏が協同して武力 出動をおこない、双方に圧力をかけるというのだ。英仏の協調というところが新しい。 この外交戦略は現実的とも、あるいは楽観的とも受けとれるし、さらにまた軟弱とも受けとれ る。現実的である理由はふれるまでもない。後で考察するクリミア戦争が好個の例となる。楽観 的とする所以は、イギリスが常時フランスのパートナー役をつとめるかどうか不確実であるから だ。じっさい、ナポレオン三世治下でイギリスがフランスに最後まで協調姿勢を貫いたのはクリ ミア戦争に限られた。「楽観的」とするわけは、この戦略がパートナーの言いなりになる可能性 を秘めており ― クリミア戦争とメキシコ干渉がその好例 ―、また、フランス単独では何事も 解決できないことを告白しているようなものだからである。ナポレオン三世が直面した国際紛争 のほとんどすべてがこのように推移していく。実際の紛争でフランスの思惑どおりに事が運んだ のはまれであり、いつも最後は孤立し、不用意に身を引いてしまうパターンを繰り返す。 、、、 ナポレオン三世が窮地に陥るのはむりもない。彼の外交指針には不介入という選択肢がなく、 どこかで紛争が起ったときは必ず介入し、“調停料”をせしめようとしたからだ。フランスに直 接的な利害関係をもたない事柄にも手を出して火傷を負い、紛争のもつれに恐れをなし途中で投 げ出してしまうことによって、いずれの国からも反感をもたれてしまう。じっさい、帝政の 18 年間を通してルイ=ナポレオンは種々の国際紛争に介入したが、調停はことごとく失敗に帰し、 紛争当事国の双方から恨みを買うはめに陥った。それどころか、紛争の“調停役”のフランスは いつの間にか“当事国”に成り下がっていることさえあった。そして、1870 年、自国が本物の 戦争を迎えたとき、完全な孤立状態に陥っていた。 第2節 新たな「東方問題」 ルイ・ナポレオンが皇帝になって最初にぶつかった問題はクリミア戦争(1853~56 年)であ る。周知のように、この戦争は、地中海方面への進出を狙うロシアと、それを阻止しようとする 英・仏・墺・土・伊(サルデーニャ=ピエモンテ)連合軍の間で展開されたものである。戦場が 黒海とくにクリミア半島にあったためにこの名がある。 この戦争はまず露・土間の紛争として始まる。トルコ領土への進出はウィーン会議以降におけ るロシア外交の基本的指針であった。衰えつつあるトルコを指して「瀕死の病人」と呼んだが、 ときのロシア皇帝ニコライ一世(在位 1825~55 年)は「病人」の衰弱につけこみ領土の蚕食を 計画していた。たまたま 1850 年にトルコ領内にある聖地エルサレムの管理問題が生じた。この 管理権は 16 世紀以来、ローマ=カトリック教会の保護者としてフランス王の手にあった。フラン スがフランス革命の内憂外患に見舞われ、管理に手がまわらなくなった隙に乗じて、ギリシア正 2 教徒がロシアの支持のもとに管理権を手にしていた。ルイ=ナポレオンはカトリック教徒の歓心 を買うため、この管理権の復帰をトルコに要求した。トルコはこの要求を受け入れる姿勢を見せ たが、ロシアはそれを口実に一挙にトルコを圧倒しようとする挙に出た。まずイギリスにトルコ の分割を提議したが、イギリスはこれを拒絶する。 ロシアは怯むことなく単独でもトルコを圧迫しようとして 1853 年2月、メンシコフ提督を全 権大使としてイスタンブールに派遣。艦隊を率いてイスタンブール沖に姿を現わした提督はトル コに譲歩を迫る。 (1)ときの外務大臣を罷免せよ (2)1774 年のクチュク=カイナルジ条約以来、ロシアがモルダヴィアとワラキア地方(現ルー マニア)で得ていたギリシア正教徒の保護の権利をトルコ全体に及ぼせ、と。 公然と自国主権を侵す態度に接したトルコは強硬姿勢に転じ、露土間の緊張は一挙に高まる。 ここで英仏が積極的にトルコ支持の態度に出たため、メンシコフは退去した。 やがて露土間の国交断絶、5月末の露からの最後通牒、トルコの拒絶と続き、6月上旬に英仏 連合艦隊がダーダネルス海峡に進出した。7月、ロシア軍はモルダヴィアとワラキアに侵入し、 ここを占領。9月下旬、英仏連合艦隊は 1841 年の海峡条約に違反してダーダネルス海峡を通過 した。しかし、事ここに及んでも、英仏は本格的な戦争に突入するつもりはなく宣戦布告を発し なかった。オーストリアとプロイセンが斡旋に乗りだし調停案をまとめようとしたが、これも成 功しない。 もしこのときトルコが動かず、かつ列強間の外交折衝が継続されていたなら、紛争は平和的に 処理された可能性がある。ぶち壊しにしたのはスルタンの強腰であった。モルダヴィアとワラキ アの占領に怒ったトルコは 1853 年 10 月4日、ロシアに宣戦し、ここに正式に露土戦争が始まっ た。露土間の戦局は意外にも発展せずドナウ河畔で停頓した。アジアのカフカス戦線では、劣勢 とみられたトルコ軍が逆にロシア領に侵入する按配だった。ところが、海の戦いは逆の形勢とな る。11 月 30 日、ロシア艦隊は黒海南岸のシノペ基地を急襲しトルコ艦隊を全滅させた。トルコ 政府は英仏艦隊の出動を要請することによって戦局は一挙に拡大の様相を呈してきた。 ナポレオン三世にとって、クリミアは人気取りのお誂え向きの舞台であった。とはいえ、この 皇帝に調停の意思こそあったにせよ、戦争に突入する覚悟があったとは思えない。英仏両国の外 交攻勢を受けたロシアは折れてくるものとみていた。ところが、パートナーの英国のほうが動揺 していた。アバディーン内閣は対露強硬策をとるかどうか迷ったまま最後の決断を渋っていた。 大のロシア嫌いのパーマストン[注 [注 1]が主舞台に登場するのはまだ先のことである。「シノペ の惨劇」が英国全土に恐露病を振りまくいっぽうで、ヒステリックな新聞キャンペーンが対ロシ ア宣戦を煽りたてる。スルタンが自ら破綻の種を撒いた事実は忘れ去られた。やがてアバディー ン内閣も状況の力に圧され攻勢に出た。1854 年1月、英仏連合艦隊は黒海に進出し、ロシア艦 隊にセバストポリ港からの出港を見合わせるよう要求。ロシアと英仏の衝突が不可避となって、 調停国オーストリアは苦境に立たされたが、それでもなおしばらく和平の努力をつづけた。プロ イセンは中立の態度をとりつづけた。英仏は普墺に対して四国連合の結成を提案したが、これも 3 不調に終わる。3 月 28 日、英仏両国はついにロシアに対して宣戦布告をおこなった。1815 年以 来初めてペンタルキー[注:ウィーン体制後の 5 大国]に穴が開いたのである。 [注 1] パーマストンはもともとトーリー党員であったが、1831 年の選挙法改正に賛成して以 来、ウィッグ党に傾いた。1831 年にウィッグ党内閣の外相をつとめてから 65 年に死去するまで のあいだ、途中の十年間を除いて外相または首相としてイギリス外交の重要な舵取り役を演じた。 彼はヨーロッパの自由主義とナショナリズムに同情的である(ヴィクトリア女王の不興を買う) 一方で、イギリスの海外市場獲得に熱心であり、自由帝国主義の象徴的存在でもあった。 ナポレオン三世の待望した国際紛争が、それでいて、おっかなびっくりの戦争が始まった。だ が、救われるのは英仏両国が大義のため同盟して兵を進めているという事実であった。この点で まず伯父ナポレオン一世とは事情が違う。歴史を振り返ってみれば、英仏が同盟して戦ったのは 史上初のことだろう。ナポレオン三世にこうした認識と自負があったとみてまちがいない。開戦 当初、フランスは3万、イギリスは2万、トルコは6千の兵を送った。この程度の戦力でもって ロシアを威圧できるという安易な読みであったが、連合軍が実際にその後の3年間に投入した戦 力はこの 10 倍となった。戦闘規模からいって、クリミア戦争は 1815 年以来の大戦争となった。 この戦争では、英仏はつねに優勢な立場で戦局を進めながらも、黒海の要衝セバストポリの攻 略にてこずり1年半を費やし、辛くもここを陥落させたのちも、相手の戦意を挫くだけの決定打 を与えることができず、いたずらに消耗を増やした。ロシア軍はかつてのナポレオン戦争のモス クワ遠征時と同じように、このときも防衛戦には強い体質を実証した。この間、イタリア統一を めざすサルデーニャ=ピエモンテが1万5千の兵を率いて連合国側についた(1855 年1月末)。 首相カヴールはイタリア半島の国家として国際的に認知されたい、とくに統一運動でフランスの 後押しを得たいと願って参戦してきたのだ。しかし、この程度の増援では、戦局を左右するほど の力とはならなかった。 大方のみるところ、戦争は鎧袖一触、すぐにケリがつくはずであった。それが存外長引いたの は、戦場がヨーロッパの東の外れにあって連合軍が増援体制を組みにくかったこと、頑強に補強 工事を施された要塞の攻防戦であったためである[注 [注 2]。海軍と陸軍の激突では、双方ともに 決め手を欠き戦争にならないのは当然である。いくら優秀な艦砲を並べてみても、それだけでは 陸上要塞は爆砕できない[注 [注 3]。接近戦を挑めば、数多い要塞砲の餌食になるだけである。半 島といってもクリミアはわが国の九州ほどの広さがある。狭い根幹部の補給線を断ち切るのが有 効であろうが、その攻略だけでも数十万規模の軍隊を必須とする。反対に、守備側にしても、強 力な海軍の援護を受けないかぎり、世界一優秀な英仏連合艦隊は撃退できない。太刀打ちむりと みたロシア艦隊はセバストポリ港に繋いだままである。 [注 2] クリミア半島南端のセバストポリ要塞がなぜ攻略戦の中心となったかというと、ここ にロシア艦隊と造船所の機能が集中していたためである。連合艦隊は、ここを奪取すれば戦争は 終わるとふんでいた。しかし、英仏連合艦隊が黒海に進入したとき、帆船中心のロシア艦隊は戦 闘を避けてこの要塞都市の母港たる安全地帯に退避したあとであった。同じくセバストポリ防衛 4 が戦局を左右するとみたロシア軍は港の入口付近に船を沈めて敵艦接近を防ぐとともに、自国艦 隊から大砲を陸地に移して防備を固めた。連合軍はセバストポリの南方 12 マイルに位置するバ ラクラヴァ湾に根拠地をおいて包囲を開始した。だが、この湾は砂浜で防備に適さず、いくたび も敵襲に遭い消耗した。連合軍の苦戦の根因は強固な要塞をわずか数万で攻略するのは無理であ った。 [注 3]日露戦争における旅順攻防戦に似た状況が半世紀前のセバストポリに生まれていた。日 本帝国軍参謀本部がクリミア戦争に関する研究を入念におこなっていれば、二〇三高地の悲劇は 避けることができたはずである。旅順で戦闘の均衡を打ち破るきっかけとなったのは、日本本土 から運び入れた要塞砲であったが、セバストポリで同じ役割を演じたのは、巨大な平底船に据え られた、「デヴァスタシオン」といわれる新式艦砲であった。キンブルン要塞は海からの攻撃で 陥落した。 両軍ともに必死の攻防戦をつづけるうちに、いつしか戦いは消耗戦の様相を呈してきた。戦闘 死よりも栄養不良と病気による死が多い。攻撃側も苦しかった。一撃のもとにロシアに打ち勝つ はずなのに、その抵抗力はいっこうに弱まらず、攻撃側の被害は大きくなるいっぽうであった。 前景気の華々しさがかえって落胆を倍加させた。「ナポレオン」の連戦連勝の朗報を今か今かと 待ち受けていた銃後のフランスが目撃したのは、次々と戦線から送り返されてくる傷病兵の哀れ な姿であった。フランス人の脳裏を、ナポレオン三世についてえらい見込み違いをしたのではな いかの疑念がよぎるようになる。こうして、勝ったとしても益の少ない戦争はしだいに不人気に なっていく。英国はどうかといえば、ここは戦意真っ盛りであった。1855 年2月から、大のロ シア嫌いで自由主義者のパーマストンが首相の座に返り咲いており、いささかも譲歩の姿勢を見 せなかった。イギリスという国家は戦端を開くまでは腰が思いが、一旦戦争が始まると不退転の 覚悟で突き進むところがある。 第3節 パリ講和会議 ナポレオン三世に幸いにしたのは、ちょうどそのころニコライ一世が急逝したことだ(1855 年 3 月 2 日)。自ら毒をあおったという説もある。帝位を継いだ息子アレクサンドル二世は和平 を願っていたものの、父の名誉のためにも直ちに講和を結ぶわけにいかなかった。だが、戦争終 結を願っていたのは確実であり、これをみたオーストリアは3月末、ウィーンでトルコをも含め た参戦国会議をもつことを提唱した。和平のための4項目の提案がなされた。ロシア外相ゴルチ ャコフは和平案の大筋には賛成したが、黒海におけるロシア海軍を制限する条項には同意しなか ったため、この会議は決裂する。 1855 年 8・9 月攻勢でついにマラコフ要塞が陥落し、連合軍はセバストポリに入城。ロシアは それでもなお降伏しなかった。イギリスはロシア黒海艦隊の全滅作戦、カフカス攻略、バルト海 の制海権樹立の遠大な計画を立て、スウェーデンをも同盟国に加えようとしたが、最終的に不首 5 尾な結果に終わった。その間、被害は敵味方ともにひろがるのみで、戦闘をこれ以上継続するの は困難になっていった。 12 月の初め、双方ともにもはや継戦不可とみたオーストリアは前年3月のウィーン会議覚書 4項目をもちだし、それに英国の要求を書き加えた最後通牒をモスクワに送った。中途半端な態 度に終始したオーストリアが初めて公式に同盟国側に立ったのである。ロシアもついにこれを受 諾。かくて 1856 年 2 月 26 日からパリ講和会議がもたれ、3 月 30 日に講和条約(パリ条約)が 調印された。これはウィーン会議覚書の線に沿うものであった。主な中身は以下のとおり。 ① ロシアのベッサラビアの放棄 ② トルコの保全 ③ モルダヴィア、ワラキア、セルビアの自治とロシアの独占的特権の廃止 ④ ドナウ河航行の自由 ⑤ 黒海の中立化 ⑥ ロシア艦隊の海峡通過の禁止 演出効果を狙ってわざわざパリで開かれた講和会議は、その上辺だけを見ればナポレオン三世 の勝利を印象づける。たしかに、ロシアの野望は潰えた。フランスはヨーロッパの出来事を左右 する力を取り戻したことを示した。しかし、勝ちはそれだけである。見返りは何もない。この戦 争を全体的に見直すと、事件解決の鍵はやはりイギリスが握っており、この国の同意がないかぎ り、フランスは何ごともなしえないことが明らかとなった。そもそもフランスが中東のつまらな い問題に首を突っ込むにいたったのは、ヨーロッパ政治地図の改変のためであったはず。ナポレ オン三世はこの講和会議で英露にこれを提案したが、ツァーは用心深く、英国政府はこの種の事 柄を進める気をまったくもたなかった。講和条約の諸条項(とくに⑤と⑥)がロシアにとってあ まりに厳しいものであった[注 [注 1]ため、ツァーは立腹したままいっさい耳を貸さなくなった。 今後の露仏関係の修復すら難しい事態になった。英国はどうかというと、同国にとってクリミア 戦争は本質的にロシアの南下を妨害するためのものであり、その目的が達成されれば十分の態度 をもっていた。ロシアの野望が挫かれれば、ロシアから怨嗟を受けることはすでに織りこみ済み であり、英国はそうした反露感情をフランスと共有するつもりであった。 [注 1] 黒海でのロシアの軍備を禁じた屈辱的な講和条項に気を病んだロシア皇帝の政策は、 以後 15 年もあいだ他のものにはいっさい眼もくれず、この条項の廃棄という一点に絞られた。 クリミア戦争においてイギリスの強硬姿勢に引き摺られたため、フランスはロシアから恨まれ るはめになる。高い代償を払ったのにもかかわらず、ナポレオン三世は戦前よりも困難な状況に おかれることになった。国内的にはむろんだが、国際的にもそうであった。黒海条項はフランス とロシアの疎隔を確定的なものにした。1856 年から 63 年まで、ナポレオン三世はアレクサンド ル二世に何度か公式の同盟を結ぶようもちかけたが、なんとしても成功しない。それでも、フラ ンスの執拗な誘いは最小限の成果を引き出した。すなわち、ロシアは自国の利害に直接の関係の ない事柄に関しては中立政策をとると回答。それはフランスにとって損ではなかった。なぜなら、 6 西ヨーロッパでの出来事についてロシアからの干渉はないことを意味するからだ。フランスが触 手を伸ばそうとしていたイタリアについて、ロシアの干渉を懸念する必要はなくなる。 総括に移ろう。クリミア戦争の真の勝利者はイギリスである。ロシアの地中海進出に歯止めが かかり、イギリスは暫時ヨーロッパの紛争に煩わされることなく、独自の世界政策を展開できる ゆとりをもった。じっさい、同国は第一次世界大戦までヨーロッパでの紛争において軍事介入は いっさいしていない。クリミア戦争の最中、遠征軍が出払っている隙をついて起きたセポイの乱 は当初こそ災難であったが、この反乱の鎮圧後はインドをイギリスの直轄領に編入することによ って、世界帝国への道をまっしぐらに歩みはじめる。 ナポレオン三世がもっとも懸念する英仏関係はどうか。まずは幸先よいスタートをきった。皇 帝がこのような対英追従外交をつづけるかぎり、波風は立たないだろう。だが、皇帝がイギリス に弓を引く意図をもたなくても、その積極的な大陸政策は疑惑を招くに十分だった。とくにイギ リスが警戒したのは、クリミア戦争で見せたフランスの軍事的実力についてである。“陸軍のフ ランス”という定評を打ち破り、フランスは海軍力でもイギリスを上まわる実力をつけているこ とを印象づけた[注 [注 2]。 [注 2] フランスが実戦に投入した新型蒸気艦「ナポレオン号」は巡航速度、操船能力、攻撃 力(同時に複数の敵艦と交戦可能)が格段に優れている点で英軍の度肝を抜いた。フランスは戦 争が終結してすぐに、クリミア戦争の経験をもとに 1859 年、史上初の装甲艦「グロワール号」 を進水させた。この新型艦は旋条砲を備え、これ1隻だけで旧式艦隊を全滅させるほどの威力を もっていた。このことは、これまで自国艦隊の優越性についてゆるぎない自信をもっていた英軍 に抜本的な改革を強いることになった。1870 年の普仏戦争開戦時にフランスは 23 隻の装甲艦を 揃え、他に5隻が建造中であった。この戦争に直面したイギリスが中立を維持した理由の一つに これがあるといわれる。Cf. アラン・ギエルム著、大山正史訳『ヨーロッパの城と艦隊』大学教 育出版、pp.193-194. パリ講和会議で失望した国はロシアとフランスだけではなく、オーストリアもそうであった。 オーストリアは初め中立の態度をとり、次いで調停国として行動し、勝敗の帰趨がおおかた決し た時点で連合国側についてロシアを威嚇した。この日和見の態度は交戦国双方から不審の眼で見 られた。バルカン半島への進出を狙っていたオーストリアにとって、パリ講和条約によりトルコ の保全が約束されたことはこの野心にブレーキがかかったことを意味した。 トルコは戦勝国としてパリ講和会議に臨んだ。19 世紀にオスマン=トルコが勝者として調印し た唯一の条約がこのパリ条約である。そして、トルコは初めてヨーロッパの一員として認知され た。たしかに、バルカン半島に対するロシアの野望が挫かれたことはトルコにとって大きい意味 をもつ。これまで後退・守勢一方のトルコにとって歯止めがかかったという意味でプラスであろ う。しかし、紙きれ一枚の平和が心もとないのも事実であり、ロシアはかたちを変えて、すなわ ち半島におけるスラブ民族主義の運動を通じてトルコに干渉してくるであろう。さらに、勝者ト 7 ルコが、黒海の中立化という名目で艦隊と造船所をもてなくなったロシアと同じ扱いを受けたこ とは不当といえば不当であった。 クリミア半島に何ら利害関係をもたないサルデーニャ=ピエモンテが連合国側について戦った 理由は最初から明白だった。つまり、イタリア統一を成し遂げようとする過程で列強の歓心を買 うためである。クリミア=バルカンがひとまず片づいたとなると、次はイタリア半島の番である。 サルデーニャ=ピエモンテをはじめとするイタリア諸邦、教皇領など、半島に利害関係をもつオ ーストリアとフランスを含め、ここで新たに複雑なかたちの紛争の発生することが予想された。 最後に、戦史の観点からクリミア戦争を総括しておこう。1815 年以来の大戦争でありながら、 クリミア戦争は露土戦争の番外篇程度の扱いしか受けてこなかった。19 世紀中葉のこの戦争に は早くも 20 世紀の戦いの予兆がいくつも見られる。 まず、戦死・傷病者の数の多さである。連合軍は 597,000 の兵士を戦地に送った。うち、イギ リス 98,000、フランス 309,000、トルコ 165,000、イタリア(サルデーニャ=ピエモンテ)25,000 である。迎え撃つロシアは 600,000 である[注 [注 3]。フランスとトルコの死傷者がそれぞれ 10 万、イギリスが 25,000 であったのに対し、ロシアは約 44 万人にもなる。実に仏軍の3分の1、 土軍の6割、英軍の4分の1が戦闘不能に陥ったのに対し、露軍はその3分の2が戦闘不能に陥 った計算になる。これらのうち8割までが病気と寒気によるものである。連合軍の供給・医療面 での欠陥が夥しい数の犠牲者を出した。この報に接したナイチンゲールは医療班を派遣してスク タリに野戦病院を開く。戦闘には食糧・弾薬の供給だけでなく、医療・看護・衛生面での備えを もたねばならないことを各国の軍関係者に教訓として残した。 [注 3] クリミア半島に通じる鉄道線がないため軍事動員はこれで精一杯であった。もし鉄道 線が通じていたなら、さらに多くを投入でき、したがって戦局が異なった展開を見せたことは十 分に考えられる。 命中精度の高いライフル銃(ミニエ銃)が初めて実戦に投入され、これを所持しないロシア兵 に対してもの凄い威力を発揮した。ロシア軍側はすぐに防御陣地間を援護する射撃壕を構築した。 以後の戦いは塹壕戦が主となる[注 [注 4]。 [注 4] クリミア戦争につづく大規模な戦争はアメリカ南北戦争であるが、ここでも盛土や塹 壕に隠れて戦う防御法がきわめて有効であることが実証された。正面攻撃一辺倒は味方の被害を 増やすのみということだが、この教訓はその後も軍関係者になかなか浸透しない 陣形、正面攻撃重視、用兵術など戦闘タイプからみたクリミア戦争は本質的に旧式のものであ る。だから、消耗が激しかった。旧式とはいえナポレオン戦争のような遭遇戦ではなく、丘地要 塞に対する塹壕の戦い、要するに、敵味方ともに大地にへばりついての膠着戦である。連合軍側 がマラコフ要塞の攻略に1年半もかかったように、このような膠着戦では守備側に備蓄と補給が つづくかぎり、戦況について基本的に攻撃側に対して守備側が有利に展開していく。こうした教 訓は以後、半世紀以上ものあいだ活かされなかった。もし、クリミア戦争の反省が真剣に行われ 8 ていれば、日露戦争時の旅順攻防戦はもとより、「死の工場」といわれた第一次大戦時のヴェル ダン攻防戦のような消耗戦は回避できたであろう。 クリミア戦争において初めて前線と銃後が結ばれた。それまで国外で戦われる戦闘の状況は軍 事通信のかたちで本国に伝えられ、そこで一定の選択と脚色を施されて一般国民に伝達されるの が通例であった。戦勝は誇大して発表され、反対に、銃後を士気粗相に導くような敗報は黙殺す るか、できるだけ小さく扱われるかのいずれかであった。ところが、クリミア戦争に際して初め てイギリスの新聞『タイムズ』は戦場に特派員を送った。記者ウィリアム・ハワード・ラッセル が送る電報は、地中海に敷設された海底電線を通じてロンドンに届いた。こうして国民は独善的 な官報記事と並び、従軍記者の書く迫真の戦闘記事を手にすることができた。電信という情報革 命が進行中であった。読者がどちらに信憑性をおいたかはいうまでもない。ナイチンゲールを救 援活動に駆りたてたのもこの記事である。『タイムズ』紙の報道が政府発表に先んじるケースが ほとんどで、政府はコントロールしたくても、その手だてをもたなかった。前線と銃後の結合は 戦争そのものの展開にも影響を及ぼし、政府を苛立たせることになる。戦時報道をめぐる官民の 軋轢はその後の戦争を通じて常態化し、第一次世界大戦でピークに達する。 (次章 http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/napoleon3_5.pdf) (c)Michiaki Matsui 2014 9
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