日時 : 2003 年 5 月 4 日 主日 2 部説教 題目 : 主から賜った基業 説教

日時 : 2003 年 5 月 4 日 主日 2 部説教
題目 : 主から賜った基業
説教 : チョー・ヨンギ牧師
聖句 : 詩篇 127 篇 3 節~5 節のみことば
「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある
矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、
恥を見ることがない。」
今日私は皆様と共に「主から賜った基業」という題目をもってみことばを分かち合おうと思
います。私たちは基業というと大小の事業をする会社だと考えます。事業家が基業を通して富
と成功と幸福を創出します。それで、一般人たちは基業とは関係が遠いものと考えています。
しかし、神様はそうではないと言われます。私たちが結婚をして子どもを産むとその子どもが
神様から賜った基業であると聖書には書いてあります。全ての基業は人間が作ったものあり、
その人間を育てる基業、すなわち、子ども養育が神様が下さった最高の企業であるということ
です。この基業活動を立派に行うとそれが神様の報酬になります。子どもを立派に育てておく
と私たちの一生において最も大きな報酬となります。しかし、私たちは人生最高の基業である
子ども養育を疎かにして、この世の基業にだけ没頭することがよくあります。その結果、子ど
もの基業に失敗して、晩年、子どもが災難となって降りかかることがよくあります。今日、私
たちは子ども主日を迎えて神様が与えられた子どもの基業をどのように経営しているのかを深
く考えてみる時間を持たなければなりません。
第一、子ども基業は農夫の心を持ってしなければならない。
ヨハネの福音書 15 章 1 節に「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」
と書いてありますが、私たちが子どもを育てる時、私たちは農夫が農業をする心を持って子ど
もを育てなければなりません。農夫は田畑を耕し、種をまきます。そして水を与え、肥料を与
え、草取りをし、病虫害を防止する極上の真心と関心、愛、面倒見により収穫を得ることがで
きます。ですから、農夫は春が来ると、秋の収穫する時まで目が回るほど忙しいです。ただ種
をまいて、そのままに放っておくと穀物になりません。どれだけ真心を込めて草取りをし、病
虫害防止をし、肥料を与え、時に従って水を与えるか、このような努力により実を結ぶことが
できるのであります。
私が幼い頃、近所にとても貧しい農夫が一人いました。他の近所の人々は豊かな生活をして
いましたが、その方は本当に貧しい生活をしていました。なぜなら、この人はお酒と賭博には
まっていたからです。農業をする時もまったくやる気なしに田畑を耕して種をまいては放って
おきました。田に行くと稗草がたくさん生えています。農作物は曲がっており、畑にも草が生
い茂っています。牛は一日中網につけたままで骨だけが残っています。餌をもやりません。そ
れだけ無精に農業をするので秋になっても収穫がありません。田に行っても、畑に行っても収
穫するものがありません。いつも貧しく、苦しい生活をするのを私が見ました。
皆さん!子ども基業も同じであります。子どもを産み、野の草のようにそのまま放っておい
ても何とか育つだろうと考えるのはとても危険な考えであります。極上の真心と関心、愛、面
倒見があってこそ子ども基業も立派になるのであります。
ヤコブの手紙 5 章 7 節に「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍び
なさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待
っています。」と書いてあるように、子どもを育てる親は本当に長い歳月の間、深い忍耐を持
って全ての真心を込めてこそ、正しい子どもに育て上げることができます。ですから、農夫の
心なしでは子どもの農業をすることはできません。今日多くの人々が子どもを育てる時、農夫
の心を持たずに、ただ子どもを産んで、お金だけあげてそのまま放っておくて自然に野の草の
ように育つだろうと思っていますが、そうではないのでその子どもたちが大きくなって社会で
大きな問題を起こしているのです。
第二、私たちの子どもは家庭教育からスタートすることを知らなくてはなりません。
家庭が子ども農業の苗代であり、基業の土台であることを私たちははっきりと知らなくてはな
りません。子どもを教育し、育てる時、学校が面倒を見てくれるから、と学校に放っておいて
はいけません。愛と和睦と平安が満ち溢れる家庭雰囲気をつくってあげてこそ、子どもはその
雰囲気の中で育つことができるのであります。親子間に理解と同情、愛、和睦、平安がる家庭
で子どもはその雰囲気の中で育つのです。ですから皆さん、家庭に分裂があり、紛争があり、
絶えず喧嘩ばかりするとその雰囲気が子どもに深い傷を与え、その子どもたちは正しい人格者
として育つことができません。家族とは何でしょうか。互いに理解し、同情し、愛し、和睦し、
平安を持って、喜びを共に分かち合い、希望を持って生きるのが家族じゃありませんか。
家族間 で は 私 が 損 を し て も 和解 し 、和睦 で あ る の が 素晴 ら し い こ と で す 。特 に 夫婦間 の
関係、親子間の関係、兄弟間の関係において利害を計算するといつも損をします。利害を計算
せず、和解しなければなりません。
イエス様が聖書で語られたことはてとても素晴らしい知恵であります。
マタイの福音書 5 章 39 節から 42 節に「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手
向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを
告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるよ
うな者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わ
らないようにしなさい。」これは敗北主義的な哲学ではなく、まことに私たちが和睦で生きる
ことのできる素晴らしい知恵であります。夫婦間の関係や親子間の関係は利害を計算する関係
ではありません。互いに喧嘩をすると、喧嘩をしてもしなくても損であります。喧嘩に勝って
も何の利益もなく、負けても何の利益もありません。ですから、自分が損をしても和解し、和
睦であるのが最も素晴らしいことであるので主がこの素晴らしい知恵を与えて下さったのです。
夫や妻、親と子どもは、右の頬を打たれると左の頬も向けて平和を保つほうが良いのです。下
着を取ろうとすると上着をもやって平和であるほうが良いのです。一ミリオン行けと強いられ
ると、いっしょに二ミリオン行けども平和であるほうが良いのです。平和がダイヤモンドなら
ば、私たちが損をすることは木やわら、草に過ぎないのです。木やわら、草を犠牲にしてでも
ダイヤモンドのような平和を維持することが最も知恵あることであります。ですから、私たち
は主が言われたこのような知恵を持って夫婦間の平和、親子間の平和、家庭において平和な雰
囲気をつくらなくてはなりません。そうする時に愛と和睦と平安が満ち溢れる雰囲気の中で子
どもたちが立派に育つことができます。子どもたちは親をルール・モデル、つまり模範として
見て育ちます。
皆さん、結婚をする時に新郎や新婦を知りたければその親を見れば知ることができます。子
どもたちはその家庭で育ったので、息子は父を模範にし、娘は母を模範にします。そうでない
場合もありますが、そういう場合は多いのです。幼い頃からいつも見習うのが父と母であるか
らです。子どもの人格は一歳から六歳の間でその土台が完成されるそうです。アメリカの児童
教育専門家であるポールディ・マイナーは、人間の人格の 85%が一歳から六歳の間で完成され
ると言いました。では、幼い子どもが一歳から六歳の間どこにいますか。親と共にいます。い
つも父を見上げ、母を見上げます。父がどのように話し、母がどのように行動するのか、父と
母がどのように形で一緒に住むのか、それを彼らは見て模範とします。そしてそれが一生続き
ます。ですから、親の言語、品性、行動がどれだけ重要であるのか知ることができます。「三
つ子の魂百まで」ということわざもあります。三歳の時に見習ったことが百歳の時まで続くと
いう意味です。ある死刑囚が死刑の行われる前に自分のお母さんに会いたいと言いました。そ
れでそのお母さんが来ました。息子はお母さんに鉄格子の窓越しに手を入れて欲しいと言いま
した。お母さんは自分の手を触りたいのだなと思って手を入れると、息子がそのお母さんの手
を自分のところへ引っ張ってはお母さんの指を力いっぱい噛み砕きました。お母さんが吃驚し
て血が流れる手を引き抜くと、息子は「私が今死刑を受けるのはお母さんのせいです。私が幼
い頃近所に行って物を盗んで来るとお母さんは何と言いましたか。ばれないで盗んできたこと
を誇りに思い私を褒めました。少しずつ盗みをしたのが習慣となって、針泥棒が牛泥棒になり
(うそつきは泥棒の始まり)殺人までもして…。今日私が死刑を受けるのは幼い頃お母さんの
褒め言葉のせいです。盗んできたのをも見て褒めたから今日私がこんな悲惨な目に遭うのです
よ。」
箴言 22 章 6 節に「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それ
から離れない。」と書いてあります。
私は私の父が私にとって本当に素晴らしい模範となって下さったことを今も大変感謝してい
ます。私は朝鮮戦争の最中育ちました。朝鮮戦争時の社会混乱は言葉では言い表すことができ
ないほど大変なものでした。私が学校に行くとそこは学校ではなく修羅場でした。戦争でまと
もな教室もなく、山に天幕を張って勉強をしましたが、学生たちは授業が終わると隅っこに座
り込んではタバコを吸いました。そしてお酒を持って学校へ来る子もいました。また、授業が
終わると団体で売春婦のところへ行ったりする子もいました。そんな無秩序な社会の中で育ち
ましたが私は全然それらに影響されませんでした。タバコはもちろんのこと、お酒も全く口に
しませんでした。また放蕩したところへ行ったこともありません。その時はまだイエス様を信
じる前でした。しかし育つ間、私の父は私たちの見る前で絶対タバコを吸いませんでした。父
が酒に酔っ払って酒乱を起こしたのを私は見たことがありません。また、放蕩して問題を起こ
したこともありません。私はいつもそれを見て育ったので、誘惑が来る度に「お父さんもそん
なことをしていないのにどうして私がそんなことをできるだろうか。」と思いました。青少年
の頃は友達に影響されやすいです。一緒に行動しないと馬鹿にされました。馬鹿にされながら
も私の心の中でいつも叫ぶ声がありました。それは「お父さんもそのように生きなかったのに
どうして私がそんなことをして生きることができるだろうか。こんなことはしてはならな
い。」という言葉でした。そんな父のおかげで私は朝鮮戦争の最中、あの混乱した社会で育ち
ながらも正しく生活できたのを憶えています。今日、社会的物議を起こす青少年たちは大抵が
欠損家庭や不和な家庭の産物であります。家庭が和睦で、情があり、愛が満ち溢れる所で育っ
た子どもたちは社会的な物議を起こしません。
アメリカのハーバード大学で青少年犯罪者の家庭背景を調査を研究した発表を見てみたら、
10 名中 6 名の父親はアルコール中毒者でした。そんな環境で育った子どもたちはどのように育
つでしょうか。社会物議を起こすようになります。10 名中 6 名の両親はよく夫婦喧嘩をしまし
た。夫婦がいつも喧嘩するのを見て子どもたちは心に傷を受け、社会物議を起こす人となりま
した。青少年 4 名中 3 名は何の制約もなしにやりたい放題で育てられ世に出て問題を起こしま
した。両親が懲戒なしに育てたからです。世に出ても彼らはやりたい放題で問題を起こしまし
た。 また、10 家庭中 7 家庭に健全な娯楽がありませんでした。それで子どもたちは外を出歩
き遊んで問題を起こしました。10 名中 8 名の両親は子どもの友達について無関心でした。両親
なら少なくても自分の息子、娘たちの友達何人かの名前や、どんな子なのか知らなくてはなら
ないのに全然無関心であったので悪い友達と付き合い、誤った道に進んだのです。10 名中 8 名
の両親は子どもに対して全然無関心でありました。ご飯を食べたのか食べていないのか、勉強
をしたのかしていないのか気にもせずにそのまま放っておきました。それでこの子どもたちが
社会的問題児となったのです。少年犯罪者の大部分は欠損家庭で育ちました。両親が離婚した
家庭で育った子どもたちは大部分が少年犯罪者となり、青少年犯罪者の 80%が信仰教育を受け
ていませんでした。彼らが信仰教育を受けていれば神様を畏れる心があって犯罪を犯さなかっ
ただろうに、その 80%が全然信仰教育を受けていなかったのです。このような青少年たちが犯
罪を犯すようになったのです。
皆さん、子ども教育の善悪の線を両親がはっきりと引いてあげなければなりません。子ども
たちが良いことをした時は褒め言葉を惜しまず、悪いことをした時は警告と罰を下さなければ
なりません。
箴言 22 章 15 節に「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切
る。」と書いてあります。
子どもたちは学んでいないので、愚かであるのです。聖書は懲らしめの杖がこの愚かさを心の
中から断ち切ると語られました。
箴言 23 章 13 節から 16 節には「子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っ
ても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことが
できる。わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、あなたのくちびるが正
しいことを語るなら、私の心はおどる」と書いてあります。むちで打つといのちをよみから救
うことができます。今日の教育はむちで幼い子どもを打ってはならないといいます。学校教育
も幼い子どもに全然体罰を下しません。それで幼い子どもたちはわがままに育ちます。雑草は
取ってあげなければならないのに、そのままにしておくから良い実を結ぶ草が死んでしまうの
です。多くの幼い子どもたちが誤った道に進むのは懲戒がないからであります。
箴言 29 章 15 節に「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させ
る。」と書いてあります。
むちと叱責が知恵を与えると書いてあります。逆にむちと叱責がなければ馬鹿になるというこ
とであります。誤った行動をするということです。ですから皆さん、今日私たち両親は子ども
たちを放任してはなりません。過保護してはなりません。良いことをすると惜しまずに褒め、
悪いことをするとむちで打ってこそ知恵を得て心から愚かさが追い出されていくのです。
第三、皆さん子どもの信仰教育はとても重要であります。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょうか。
子どもが将来大人になって大統領になり、お金持ちになるとしてもそのいのちを損じるとその
人生は終わってしまうのです。人が生きると七十年、健やかであっても八十年であります。生
きるとしても土に戻り、地獄に落ちてしまうのなら何の得がありますでしょうか。子ども教育
において最も重要なことはそのたましいを救うことであります。幼い頃に信仰を植えつけてく
ださい。
箴言 22 章 6 節に「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それ
から離れない。」と書いてあります。
幼い子どもの時、信仰を教え込むとそれから離れません。カトリック教会では、皆さんの子ど
もを 6 歳の頃まで私たちに任せてください。そうすれば皆さんの子どもたちは一生カトリック
信者であることでしょう、と言います。幼い子どもの時、その心の中に植えた信仰は一生続き
ます。
テモテへの手紙 第Ⅱ 3 章 15 節に「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知って
いるからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受け
させることができるのです。」と書いてあります。
幼いころから聖書に親しんで来たので、その聖書が救いに至る知恵を与えると聖書は教えてい
ます。
私はある欠損家庭を訪問したことがあります。私たちの教会に一生懸命出席する家庭で、夫
は早死して女手一人で子どもたちを育てている家庭でした。昼間は仕事をして子どもたちの面
倒を見れませんでしたが、その子どもたちは本当に立派に成長しました。問題を起こさず、問
題児にもならずに立派に成長しました。お母さんが仕事で子どもたちの面倒もまともに見れな
いのにどうしてこんなに子どもたちが礼儀正しく、素直で立派な子どもに育つことができたの
かが疑問でした。それで私がその子どもたちの部屋に入ってみると、子どもたちのベッドの上
にはお母さんが書いた十戒貼ってありました。「寝る前、必ず十戒を声を出して大きな声で読
んで寝るようにしてます。また朝起きるとまず十戒を声を出して大きな声で読んでそれから祈
りをし、身支度をして、朝ごはんを食べて学校へ行くようにしてます。」とその婦人は私に言
いました。幼い頃から続けてベッドに貼ってある十戒を読んで眠りに入り、起きても十戒を読
むことにより、その戒めが子どもたちを知恵ある者とし、危ない道に行かずに正しく育ててく
れたのを見ました。
皆さん、モーセの信仰はその母の懐で植え付けられました。エジプトでユダヤ民族が息子を
産むとすべて殺されました。エジプトのパロ王がユダヤ人たちを滅ぼすために息子はすべて殺
し、娘だけ生かせておくよう命令しました。そんな時モーセが産まれました。モーセの両親は
をモーセを隠しきれなくなって、パピルス製のかごにモーセを入れてはナイルの岸へ置きまし
た。しかしそこへパロの娘が水浴びに来て、子どもの泣き声を聞いては、かごに入っているモ
ーセを見つけました。そのとき、モーセの姉が遠く離れてこれを見ては走って来て、「うばを
呼んできましょうか。」と言い、パロの娘は「そうしておくれ。」と答えました。それでモー
セの姉はうばとして実の母を呼んできました。実の母がうばとなって、モーセをその懐で育て
ました。モーセは大きくなると宮へ入りました。それから四十歳になる時までパロの宮であら
ゆるパロの学問をすべて学び、王女の息子として育て上げられましたが、幼い頃、乳のみの頃
母の懐で信仰を学んだので、それが一生モーセの心から離れませんでした。四十歳の彼はヘブ
ル民族を救うために革命を起こしたが、失敗して、ミデヤン荒野に逃げ、後八十歳の時、神様
の召しを受けて偉大な指導者となりました。モーセの心の信仰は幼い頃、一歳から十歳まで母
の懐で乳を飲み育つときに植えつけられたものです。その信仰のおかげで彼が四十歳になるま
でパロの宮で豪華な生活を送り、エジプトのすべての学問を学んでもその信仰から離れること
ができなかったのです。
テモテへの手紙第Ⅱ1章 5 節でパウロはテモテの信仰をこう語っています。「私はあなたの
純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの
母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信し
ています。」
テモテはパウロの霊的な息子でありました。しかしテモテがそのような素晴らしい信仰を持つ
ことができたのは、その信仰がまず祖母の心の中にあり、その次に母の心の中にあって、母が
信仰を持っているのでテモテがその偉大な信仰を持っているのだと語りました。ですから大概
素晴らしい信仰を持つ母の懐で育った子どもたちは最後まで素晴らしい信仰を持つようになり
ます。
皆さん、信仰的な生活を教える親になりましょう。
申命記6章5節から7節に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を
愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これ
をあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くと
きも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」と書いてあります。
信仰は幼い頃から子どもたちに教えなくてはなりません。まず、家庭礼拝を始めましょう。私
がある素晴らしい信仰を持っている若い主婦に聞きました。どこでそのような信仰を得たので
すか、と。そしたら「私の家では父が家庭礼拝を厳しく守りました。いつも夜九時になると家
庭礼拝を捧げます。九時の家庭礼拝を捧げないとひどく叱られました。それで私たちは毎日夜
九時になると家庭礼拝を捧げ、それが結局は信仰の土台となりました。」という姉妹の告白を
聞きました。親が子どもを連れて教会に来ることを教えなくてはなりません。主日遵守するこ
とは、子どもの手を繋ぎ、教会に来て教会学校へ行かせ、親が礼拝を捧げ、終わると皆で一緒
に家に戻ること、これが彼らの習慣になれば、ずっとその心の中でその信仰の模範が離れない
のです。私は私たち教会の素晴らしい両親たちが十一献金を捧げるとき必ず子どもを連れて来
ては子どもの見る前で私に十一献金を捧げ、按手祈祷を受けるのを見ました。彼らは「このよ
うにするのは子どもたちが、十一献金をきちんと捧げ、祝福を受けることを見習わせるためで
す。」 と言いました。これは本当に素晴らしい教訓です。十一献金を捧げる時に私のところへ
来て按手祈祷を受け、子どもたちが見る前で十一献金を主に捧げる、いかに素晴らしいことで
しょうか。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあると言われましたが、神様に宝を捧げ、神様のと
ころに心があることを子どもたちに見せてあげることがとても重要なことであります。
ウィリアム・コルゲートという方をご存知ですか。コルゲート歯磨き粉、コルゲート大学で
有名ですね。彼が十八歳になる年、成年式を終えて町で最も年老いた老人に諮問をお願いした。
老人は「あなたにとって最も自信あることが何ですか。」と聞きました。コルゲートは「石鹸
とろうそくを作ることです。」と答えました。そうすると老人はコルゲートの手をとっては
「その仕事をしなさい。しかし一つ条件があります。それはイエス様をあなたの仕事パートナ
ーとし、収入の十一献金を必ずイエス様に捧げなさい。そうすればあなたは大きく成功し、豊
かな暮らしをすることができるだろう。」と言いました。コルゲートはその老人の言葉通りに
しました。彼は石鹸とろうそくを作る工場を設立して働き、十一献金は必ず捧げました。その
結果、大事業家として成功して世界的な歯磨き粉と石鹸会社を運営し、コルゲート大学を設立
してその利益を社会に還元する素晴らしいことを行ったのです。
皆さん、私たちが子どもに与える最も大きな遺産は何でしょうか。
申命記28章1節から6節がその遺産であります。
「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主
のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く
あげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに
臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あ
なたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうち
の雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福さ
れ、出て行くときにも祝福される。」
これが子どもに与えることのできる最も大きな遺産じゃないでしょうか。一流大学の卒業賞状
よりも、子どもたちが神様のみことばに聞き従い、主の命令の守り行うことが、最も素晴らし
い遺産を子どもの残してあげることであります。
ソクラテスは「人々よ、財産を集めることにだけ没頭せずに、それを受け継ぐ子どもに、よ
り多くの愛と真心をそそぎなさい。このことが私が一生を生きるときに得た最も貴い教訓であ
る。」と言いました。
未来学者であるアルビン・トフラーは「21世紀は道徳性を持った民族だけが繁栄でき
る。」と言いました。
皆さん、道徳性のない民族はいくら頭が良くとも繁栄することができないということです。今
日私たちはこのことを私たちの社会を通して知ることができます。道徳性を失った大企業が不
誠実な経営で倒産しています。結局道徳性を持った企業が長い目で見るとき成功するのです。
私たちが人性教育の重要性を強調するのはとても大切なことであります。韓国は入試教育に
押され、人性教育をとっくの昔に忘れてしまいました。ただ入試のための勉強や一流大学に入
るための競争で子どもたちが疲れきっています。そのような競争で一流大学に入ると子どもた
ちは勉強することに疲れきって勉強しなくなり、遊ぶことだけを考えます。皆さん、知識があ
っても知恵がなく、呪うことはできても感謝できなく、妬むことはできても褒めることのでき
ない、また競争はできても協同できない、快楽は知ってても愛を知らない子どもたちです。今
日人性教育を受けていないこのような若者たちが社会で和合と団結できずに、問題を引き起こ
しているのです。
1889 年、この世に二人の子どもが産まれました。一人はヒトラーで、一人はアイゼンハワー
であります。同じ年に産まれました。一人はオーストリア人夫婦の間で産まれ、彼の父はとて
も性急な人でした。彼の母は家庭より社交生活を大事にする人でありました。彼がまだ幼い頃
父は死に、その後母は彼をアルコール中毒者である叔母に任せては逃げ去りました。十六歳に
なった少年は学校を中退し、家出をしました。彼は手当たりしだい仕事をし、結局はドイツ軍
隊に入り、世界第一次大戦でドイツが敗北してからは政治界に入門して過激分子になりました。
彼は家庭教育も、信仰教育も受けることができませんでした。そして 1934 年、ついにドイツ国
民の絶対指導者である総統になりました。彼が第二次世界大戦を引き起こし、全ヨーロッパを
灰にしたアドルフ・ヒトラーであります。
しかし同じ年である 1889 年、ある子どもがアメリカのテキサス州で産まれました。この少
年は両親の愛をいっぱい受けて成長しました。父は少年に神様を畏れなさい、という家訓を与
え、家族全員が教会で最も積極的な奉仕者として有名でした。少年は大人になっても幼い頃、
母の両手に抱かれて一生懸命祈った毎晩の日課を憶えていました。少年は軍隊に興味を持ち、
ウェストポイント士官学校に入学、それから卒業しました。彼が第二次世界大戦当時の連合軍
司令官であり、アメリカの大統領になったドワイト・D・アイゼンハワーであります。1944 年
6月6日、同年の二人が戦闘で対面しました。11 ヶ月間に及びヒトラーと連合軍司令官アイゼ
ンハワーは戦いました。ヒトラーは 1945 年、戦争に敗北し 4 月 30 日、総統地下壕で自殺しま
した。この知らせを聞いた全世界は喜びました。しかしアイゼンハワーは 1969 年、八十歳にて
安らかな死を迎えました。全世界は彼の死を惜しみました。皆さん、この二人の話は子どもの
対する親の態度が子どもたちの未来を決定するということを教えてくれます。親の愛を全く受
けることができずに浮気者であった母のもとで少しの間育ったヒトラーは、社会と人類に対し
て恐ろしい反抗心を持って、ドイツの総統になり、数えることができぬほど多くの人々を殺し、
人類文明が灰の山と化しましたが、愛と信仰教育を受けたアイゼンハワー大統領はヒトラーと
同年輩であるけれども、彼は戦争から人類を救い出し、アメリカの大統領となって多くの人々
からあがめられる偉大で素晴らしい人となりました。この二人を通してどれだけ家庭教育が重
要であるのかを知ることができます。
第四、私たちが知らなくてはならないことは、児童は個人の所有物ではないということです。
子どもは神様から賜った基業であるので、子どもを個人の所有物のように取り扱ってはなりま
せん。
4 月 4 日付けの国民日報を見ると、済州島で父がリ・ミンジュという名の自分の幼い娘を殴り
殺す事件があります。両親の離婚で父と一緒に住むようになったリ・ミンジュちゃんは母に会
いたくて父に内緒で母と電話をしたりしましたが、そのことで怒った実の父が娘にご飯をあげ
ず、ひどく殴って、結局は殴り殺しました。何て非常識で無分別な人ですか。お母さんに娘が
電話をするのは当然なことなのに、お母さんに電話したからといって自分の肉と血である子ど
もにごはんをあげず、殴って殺すなんて…。このようなことが今日の親の姿だとはあまりにも
恥ずかしいことであります。
皆さん、児童虐待は神様の御前でとても大きな犯罪であります。
マタイの福音書 19 章 14 節に「しかし、イエスは言われた。『子どもたちを許してやりなさい。
邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なので
す。』」と言われました。
我が保健福祉部の発表によると、我が国の潜在被害児童は 45 万名であるそうです。ソウルで
9 万 7 千名、釜山で 3 万 5 千名、済州で 5 千名、京畿で 8 万三千名、大邱と仁川で 2 万 3 百名
が虐待を受けています。被害児童の 75%が 11 歳以下児童で、どのような虐待を受けているのか
調査したところ、ごはんをもらえなかったり、服をちゃんと着せてもらわないので凍傷にかか
り、殴られ、情緒的にいじめられ、捨てられています。さらに子どもが親から性暴力を受けて
います。このような悲劇的なことが私たちに起きているのです。
マタイの福音書 18 章 5 節から 6 節に「また、だれでも、このような子どものひとりを、わた
しの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。しかし、わたしを信じるこの小
さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の
深みでおぼれ死んだほうがましです。」と主は言われています。
子ども虐待について我が主は無限なる関心をお持ちになって、それを追求されることでしょう。
児童は次世代国家を導いていく者たちで愛され、守られ、養育されなくてはなりません。
ヨハネの手紙 第Ⅰ 3 章 1 節に「私たちが神の子どもと呼ばれるために、-事実、いま私
たちは神の子どもです。-御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世
が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」
父なる神様は私たちを神様の子どもとされた時にどのような愛を与えてくださったのか私たち
は思い出さなければなりません。神様はイエス様を送ってくださり、十字架で御体を裂き、血
潮を流されるまで私たちを愛し、見守り、養育して天国の民として下さいました。子どもたち
は親の暖かい愛と関心を受けて育つのです。ある日、学校で先生が小学校 1 年生の授業の時に
こう質問しました。「みんなが家で必要な物になれるのなら何になりたいですか。またその理
由は何ですか。」そしたら一人の子が手をあげては「先生!私は冷蔵庫になりたいです。」
「なぜ冷蔵庫になりたいの。」「それは冷蔵庫の中にある美味しいものをいっぱい食べられる
からです。またお母さんがいつも開いたり閉じたりしながら見てくれるから冷蔵庫になりたい
です。」また違う子が手をあげました。「あなたは何になりたい。」「僕はテレビになりたい
です。」「何で。」「それは僕がテレビになるとお父さんとお母さんがもっと僕のことを見て
くれるだろうし、僕の声にも耳を傾けてくれて外に行って遊んできなさいとも言わないだろう
し、テレビが終わる前は寝ないからです。いつもお父さんとお母さんはテレビの前に座ってい
るから、僕がテレビになるといつも僕を見て、僕の言葉も聞いてくれて、テレビのプログラム
が終わる前には眠らずに僕のことを見てくれると思ったからです。」どれだけ子どもたちが親
の愛に飢えているのか知ることができます。いつもお母さんが開いたり閉じたりする冷蔵庫や
いつも見ているテレビになりたいと言う子どもたち。これだけ今日私たちの社会で親が子ども
に無関心であり、放任しているということです。
児童は国家の将来であり、教会と天国の将来であります。ですから今日、子ども主日を毎年
ただ通り過ぎる行事として過ぎ去らせるのではなく、神様の御前で私たち親が果たして神様か
ら賜った基業である子どもを正しく育てているのか深く考え、反省しなくてはなりません。
聖書は言われます。「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らは
まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、
門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」
父なる我が神様!
私たちも皆、幼い子どもでした。両親の暖かい愛と真心で育てられ大人となり、また子どもの
両親となりました。また我が神様は私たちに主イエス様を送ってくださり、御体を裂き、血潮
を流して下さって私たちのために死なれ、聖霊を送って下さり、みことばで私たちを見守って
下さって私たちが主の子どもとして生まれ、成長し、天国にまで行けるようになりました。
ですから父よ、今日この子ども主日を迎え私たちが深く反省し、子どもを正しく養育できなか
ったことを悔い改め、現在子どもを育てる親たちは子どもに対してより深い真心と関心、熱い
愛をもって農夫が農業をするような心構えで子どもを育てていくことができるように助けてく
ださい。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。