忘 れ ま じ た / 昼 休 み 2012 / 理 由 工 場 アルペジオ

■ 連載ショートショート小説 『僕が詩人になれない 108
の理由あるいは僕が
東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』
第 回 ■
忘れまじた/昼休み
アルペジオ
忘れまじた
/理由工場
2012
小松剛生
komatsu gouki
(小説現代ショートショートコンテスト 優秀賞作品)
今になって思 え ば 、 だ け ど 。
ふすま
子どもの頃の僕はたぶん、何かを探していたのかもしれない。
いや、きっと そ う だ 。
それの気配を僕は冷蔵庫の中であったり、襖の奥に度々感じていた。
母にはその度 に 怒 ら れ た 。
「またこの子はいたずらばかりして」
「冷蔵庫をそんな何度も開けたりしては駄目」
何かしらを開けてはその向こう側を覗こうとする僕に、母は決まって同じ質問
をする。
「どうしてそんなことをするの」
どうしてそんなことをするの。
その問いが最も僕を困らせることを母は知っていた。
歳にも
むっつりと黙りこんでそっぽを向くことで小さな抵抗を示すも、まだ
いかだ
満たない僕にとって彼女は世界の秩序であり、それに反抗することは筏ひとつで
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1
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大海を彷徨うような、果てしない絶望と同じことだった。
秩序は僕が言い返せないことを知っていながら繰り返し、同じ質問を浴びせて
きた。
どうしてそんなことをするの。
僕は言葉に詰まり、ただ黙ってその重たいどんよりとした時間経過の流れに身
を任せるのみだ っ た 。
ときどき、絶望を選択してみようかと思い悩んだことはある。
けれど僕の用意できる筏など、所詮はたかが知れていた。
せいぜいが毎月お情け程度に貰っているお小遣い貯金と、朝食用にと台所に置
いてある6枚切りの食パン一袋、首から提げられる携帯ラジオくらいのものだろ
う。
現代の漂流者としては、その装備はあまりに心細すぎた。
「どうせ大した理由なんかないんでしょう」
違う。
僕は叫びたか っ た 。
母さん、僕は探しているんです。
何かを。
「何かって、何 を ? 」
それは。
学校の授業で「習字」という時間があった。
小
すずり ぼくじゅう
硯や墨汁の準備がめんどくさくて、お世辞にも生徒たちから歓迎される授業内
容というわけにはいかなかったけど、僕自身は嫌いではなかった。
やたら古めかしいそれらのアイテム、教室に漂う墨汁の何とも言えない匂いは
退屈で長すぎる一日を幾分か短いものにしてくれた。
「今日はみんなの好きな字を書いてみましょう」
先生は言って、僕は胸の中で小躍りした。
いつもは「空」であったり「希望」であったり、言われたままの言葉しか書く
ことを許されなかった僕らはほんとうにわずかばかりの自由を得たのだ。
秩序から解放された瞬間だった。
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筆をとり、半紙に向かってエイヤと気合を入れ、僕は書いた。
「忘れまじた」
それが僕の言 葉 で あ っ た 。
ついに僕は冷蔵庫の中や襖の奥にあった何かを探し当てた、確かにその感触を
得たのだ。
ばを通りかかり、注意してきた。
先生が僕の机 の そ
てんてん
「あら、そこに点々はいらないでしょ。あなたは「忘れました」と書きたかっ
たんでしょう。ならそれは間違いね」
そう言うと、さっさと新しい半紙を用意してくれ、僕の書いたはずの言葉は取
り上げられてし ま っ た 。
――ああ。
言われたとおり「忘れました」と書いて、そこには無事赤い花丸が付け加えら
れることになっ た 。
「何かって、何 を ? 」
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母の問いに僕 は 答 え た 。
「忘れました」
まったく仕方ないわね、とため息を漏らして彼女は疲れた顔で夕食の準備にと
りかかることに な っ た 。
忘れました。
だく
あいい
それが母や先生が納得するであろう回答であることを僕は知っていた。
けど真実じゃ な い 。
本当はそこにあったはずの濁点的何か。
それこそ僕が探し求めていたものであり、世界の秩序とは相容れぬ何かでもあ
ったというわけ だ 。
やがて僕も年をとり、あの頃の母や先生たちと同じくらいの年齢になってしま
った。
冷蔵庫はものを入れるか取り出す時にしか開けないようになってしまった。
年7月号(講談社)に掲載されたものに
2014
おわり
秩序を手に入れ、筏を作る気力を失くした今の僕に、あの頃の僕が本当はいっ
たい何を探していたのかなんて。
もうすっかり 。
忘れました。
こ
* の作品は小説現代
なります。
なお、出版社様に許可をいただいた上での掲載となります。
昼休み2012
僕がこの世で一番嫌いなのは予定帳を持ち歩いているタイプの人間だ。
そんな人たちのことが心の底から憎らしく感じるし、予定帳をはじめにつくっ
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た奴を殺してやりたいとさえ思う。
僕がそう言うと中村先生は「ふむ」と両手を自分の膝の上に乗せて僕の顔をじ
ぃっとのぞきこ ん で き た 。
「殺したい?」
僕はうなずい た 。
「どんなふうに 殺 し た い ? 」
「まず大きなガラスを二枚用意します」
「うん」
「 そ れ で そ の 人 を は さ み ま す。 機 械 的 な 何 か で も っ て ゆ っ く り と 左 右 か ら そ の
人を押しつぶす ん で す 」
「ガラスが先に 割 れ る か も 」
「割れないくらい強いガラスを用意します」
先生はもう一度、「ふむ」。
「なぜガラスな ん だ い 」
「見せしめです 」
そのはじめの人の内臓がつぶれていく様がよく見えるように、ガラスを使うん
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です。
「誰への?」
「予定帳をもっているすべての人たちへ、です。そうすることで人は予定帳を
もつことがどんなにいけないことかわかるだろうし、今後予定帳を持ち歩こうと
思う人も出てこ な い で し ょ う 」
先生は僕にただの一度も「なぜ予定帳なのか」とは聞いてこなかった。
それは僕にとって少し嬉しかった。
世界には「なぜ」が多すぎる。
なぜ。
どうして。
はて。
もううんざり だ っ た 。
その代わり、なのかどうかはわからないが先生は僕にこう言った。
「毎日コーヒーを3杯飲みなさい」
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指を3本、僕の前に立ててみせた。
人差し指と中指の隙間から校庭のグラウンドに立つサッカーゴールが見えた。
ちょうどそこに誰かの蹴ったらしいボールが飛び込んでいく。
歓声が聞こえ る 。
僕の昼休みはもうすぐ終わろうとしている。
「でも先生、僕はコーヒーが飲めません」
「なら小説を書 き な さ い 」
「なぜ」
世界には「なぜ」が多すぎる。
先生は怒らずに答えてくれた。
年が経った。
「予定帳にスケジュールを書き込むのと、小説を書くという行為はまったく正
反対の位相にあるからだよ。なぜなら小説に書かれているおよそすべての行動は
「やらなくていいこと」だからね」
そして僕は小説を書き始めた。
僕はたくさんの「やらなくていいこと」をメモ帳に書き続け、
予定帳を持ち歩く人間は僕のまわりにどんどん増えていき、中には電子端末に
自分の予定をデータとして入力する人まで現れた。
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コーヒーショップが増え、自然と僕もコーヒーを飲めるようにもなった。
電話ボックスの行列は消えて、2次元の女の子が流行の舵をとることに対する
違和感も消えた 。
時代は確かに変わっていった。
、僕はこの世に多
た く さ ん の 本 を 読 ん で( 小 説 で は な い 種 類 の も の も あ っ た )
くの文章が存在することを知った。
中でもいっとう気に入ったやつを今ここに述べることにする。
――もちろん彼女は彼に罵声を浴びせ、2人の間を隔てているドアを開けない
でおくこともできた。そして。彼女はそうしなかった。
もちろん僕も小説を書くことをやめて予定帳を持ち歩くことだってできた。
おわり
彼らをつぶすことのできるガラスなんて、この世には存在しないのだ。
そして、僕はそうしなかった。
参考及び引用文献
・
・
きちんとした身なりをしているように、
・
『倒錯の森 サリンジャー作品集2』
(東京白川書院 1981
年)
サリンジャー 訳・鈴木武樹
著・ J.D.
理由工場アルペジオ
彼らは。
い や、 正 し く は 彼 ら と 彼 女 ら は と て も
僕には思えた。
ブレザーとネクタイのような正装をしているわけではないが、清潔そうな服を
たけ
・ ・ ・ ・
それぞれがきっちりと着こなしていて、しわだらけのポロシャツに丈の長すぎる
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ジーンズを履いた僕とは大違いだった。
きちんと。
きっちり。
嫌な言葉だ。
見たところ年齢は僕とそんなに変わらないだろう。
30歳には届いていないように見えるけど、わからない。
荷物はやたら と 多 い 。
ギターケースが三本、それとは別に手提げかばんやらリュックサックを席の傍
らにひとり一つずつ置いている。
男が二人に女 が 三 人 。
楽しそうに何やらおしゃべりしている。
奴らもまさか今、この渋谷のコーヒーショップでたまたま隣に座った人間が自
殺について考えているなんて思いもよらないだろう。
アルベール・カミュは言った。
――ようするに哲学の最終的な問題は自殺なんだ。
僕はカミュが 好 き だ 。
『転落』や『追放と王国』『シーシュポスの神話』どれも読んだ。
すうこう
でも『異邦人』よりも『ペスト』のほうが素晴らしいというのが僕の意見だ。
あれこそカミュの代表作と呼ぶべきだ。
そして僕は自殺について考えている。
それは人類の長い歴史における最終的な、そしてとても崇高な問題のように思
えてくる。
奴らのうち、男のひとりが言った。
「アルペジオで 」
あるぺじお。
それは僕の知らない単語だった。
どこかの星の 名 前 だ ろ う か 。
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アルペジオ星的な何かが最近新たに発見されて、それを今夜見に行こうとして
いるのか。
いや。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
彼らはとても天文学を専攻している大学院生の集団には見えない。
きちんとときっちりを両立している大学院生なんて見たことない。
「あれ」
雨が降ってき た 。
表にいる人たちはカバンやらを頭に乗せて小走りに建物の中へと駆け込んでゆ
く。
ふん、マヌケ な 奴 ら だ 。
隣の五人もどうやら表の様子に気づいたようで、さほど驚いた様子でもなく外
を眺めた。
うん、天文学を専攻しているような連中ではないだろう。
――ああ洗濯 物 が 。
――出るとき 窓 閉 め た か な 。
――そういえばこの前買ったばかりのポール・スミスの傘を失くしちゃって。
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――高かった の に 。
僕は少し安心 し た 。
彼らとて所詮 は 人 間 だ 。
うんぬん
仮に彼らが洗濯物や傘やポール・スミス云々の哲学を百万個もって攻めてきた
としても、自殺にはかなわないだろう。
なんてったって最終的な問題なのだから。
つまり洗濯物や傘やポール・スミスの延長線に自殺があるといっていい。
それにしても ア ル ペ ジ オ 。
ちくしょういったいなんて奴らなんだアルペジオ。
こんな死の寸前にまで追い込まれた僕にさらなる疑問を抱え込ませるなんて、
悪魔みたいじゃ な い か 。
悪魔はテレビアニメに出てくるような角とシッポなんて生えちゃいない。
それはニセモ ノ だ 。
ほんとうの悪魔は僕たちそっくりの格好をして、渋谷でコーヒーなんかを飲ん
でいるのだ。
そうだ、きっと奴らは悪魔なんだ。
でなけりゃあんな楽しそうに笑うはずがない。
それが奴らにとって「人間らしく」振る舞うための偽装なんだ。
けれど失敗したな、僕にはばれているぞ。
デパート最上階にあるような洋風レストランの、ショーウィンドウに並べられ
たあれみたいな も ん だ 。
それらしく見せようとして逆に失敗している良い例だ。
それにしても ア ル ペ ジ オ 。
なんだって奴らはそんなものを僕に押しつけていくのだろうかアルペジオ。
――きっとなにか理由があるはずだ。
理由。
僕はうんざり だ っ た 。
どこへ行って も 理 由 、 理 由 。
街を歩けばすぐに理由とぶつかってしまう。
トイレットペーパーのほうがよほど役に立つ。
あればお尻も拭けるし、水に溶けやすいから排水溝に詰まる心配もない。
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もしかしたら 。
アルペジオとは、奴ら悪魔が管理している工場のひとつなのかもしれない。
ことそこではいろんな種類の理由を製造し、僕らに無理やり背負いこませることで
事を面倒なものに変えてしまうのだ。
理由工場アル ペ ジ オ 。
ひょっとしたら僕が死ぬ理由もそこで作られているのかもしれない。
いやきっとそ う だ 。
「なんてことだ 」
僕は小さくつ ぶ や い た 。
カミュは自動車事故で死んだという。
おわり
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彼が死んだ理由もアルペジオで作られていたとしたら。
「ああ」
それにしても ア ル ペ ジ オ 。
(第 回 了)
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