掲載誌: 『化学史研究』第29巻、第3号、2002年9月、154171頁 題名:18 世紀パリ王立科学アカデミー終身書記による「科学の有用性」をめぐる言説の変遷とその背 景(“The Utility of Science” in the Discourses of Secrétaries Perpétuel in the Académie Royale des Sceinces of Paris in 18th Century and Its Historical Context) 著者名:隠岐さや香 OKI, Sayaka 所属:東京大学大学院 University of Tokyo Graduate School(2002 年当時) 校正等送付先: Abstract in English We have difficulty in linking two distinctive images of science before and after the 18th century: one, as patronaged by royalties mostly for recreational pleasure and curiosity, typical in early 17th century courts, and the other, as an object of investments by State for political and industrial values, which emerged around the late 18th century and has lasted till our time. How can we interpret this transition of the raison d'etre of science? This paper examines how science was represented in the discourses of secrétaire perpétuel in the Académie Royale des Sciences of Paris in the 18th century. The 1st secretary, Fontenelle insisted the applicability of science as the proof of utility of scientific research pursued in the Academy, while he never denied the moral value of science. By contrast, the last secretary, Condorcet regarded science not only as of value in applicability, but also as the thing that would provide governmental policy with reason and foundation. Therefore, according to him, science is one of the essential components for the State function. This implies that we should not consider this transition of discourses separately from its historical contexts, especially around the middle of that century. 1 18 世紀パリ王立科学アカデミー終身書記による「科学の有用性」をめぐる言説の変遷 とその背景 隠岐さや香 今日の我々にとって科学はある種の知的権威 世紀の近代「科学革命」期についての研究事例の であり,同時に技術への応用を通じて非常に有用 豊富さに対し,その後の 18 世紀から「フランス なものと捉えられている.しかし,その認識の起 革命期」より前にかけての時期が手薄であること 源は決してそう古いものではない.本稿では,17 は否めない 2).それゆえ,17 世紀に文芸保護の 世紀後半から 18 世紀末にかけて近代西欧科学の 伝統との関係でようやく知としての地位を社会 いわば中心地のひとつであったパリ王立科学ア 的に築き上げた科学と,革命後のエコールポリテ カデミーを例にとり,特に革命期以前の 18 世紀 クニーク創設に象徴されるような有用性を自明 において,自然科学の存在意義についての主要な 視された国家の投資対象としての科学という,一 言説がどのように変遷したかを探ってみたいと 世紀を隔てたこの二つの科学像に対し,片方から 思う. 他方への推移を説明する試みもさほどなされて 18世紀フランスにおける自然科学の存在意 こなかった.本稿の狙いは,前述した「科学の有 義—「科学の有用性」(utilité des sciences)—につ 用性」についての言説分析を導きの糸に,制度・ いての言説そのものを主な分析対象にした研究 社会史的分析をも交えつつ,この変化を考察する は殆どないが,本稿に直接的な示唆を与えたのは ために有効な視点の一つを提供することにある 次の二種類の先行研究である.まず,ルネッサン 3). ス期以後の数学,化学,農学,医学や技術など, 1.王立科学アカデミーの概観 それぞれの分野での有用性に対する言説の推移 を論じた諸研究がある.これら先行研究を参考に しつつ,本稿では更に当時の諸科学全般を視野に パリの王立科学アカデミーが設立されたのは 入れるような研究アプローチを目指す.そのため 1666 年のことである.17 世紀当時のフランスは, にパリ王立科学アカデミーという制度的枠組み 技芸の保護・統制,官僚組織化,重商主義貿易を を重視することにする.何故なら科学アカデミー モットーに絶対主義国家としての体裁を整えて は当時,自然科学全般について,当時の「正統」 いきつつあった.まずルイ 13 世の治世(1610-43) に属する組織的な言説を産出するべく定められ に実権を握った宰相リシュリュー時代(1624-42) た数少ない場であったからである.特に今回は, にアカデミー・フランセーズ(1635)など詩文学・ これまでまともに扱われることの少なかった,科 言語学(lettres)の領域が,続いてルイ 14 世の治世 学アカデミーのスポークスマンともいうべき終 (1643-1715)初期にあたるイタリア出身の宰相マ 身書記達の言説を重視することになろう 1).もう ザラン時代(1643-61)には,絵画彫刻アカデミー 一つ,本稿にとって重要な視点を与えたのが,王 (1648)の成立や,イタリアからの歌手招聘により 権や貴族によるルネッサンス期以後の文芸保護 フランス歌劇の基礎が作られるなど,芸術と劇場 史研究である.特に近年は科学史においても,文 関連が主なパトロネージの対象となった.続いて 芸保護という枠組みの中で科学が知としての地 政権の中枢を担 った財務総監 コルベール 時代 位をどのように築き上げていったかを社会史・文 (1665-83)における科学アカデミーの創設はいわ 化史的に論じた研究が充実した.しかしフランス ばこの次のステップにあたる 4). 科学史についていえば,ルネッサンス期及び 17 だがしかし,こうして 1666 年に発足した科学 2 アカデミーは,当初,国家主導の功利主義的な要 後の最初の集会を原則的には誰でも参加できる 請の強い機関が構想されたものの方針が一定せ 公開集会としていたが ,その時に読まれる亡く ず,組織の地位も曖昧なままであった 5) .17 世 なった会員についてのエロージュ(追悼演説)を 紀中の科学アカデミーについて近年の先行研究 執筆・朗読することは終身書記の重要な役割であ が語るところによれば,プロフェッショナルな科 った 11).公開集会には,例えばアカデミー・フ 学の研究機関というよりもアマチュア的でサロ ランセーズの会員などを含む多くの知識人や,貴 ンのような雰囲気であったといわれる.例えば当 族の男女が参加しており,時折外国政府の要人な 初は成文化された会則を持たず,決まった機関誌 ども訪れた.それゆえ,アカデミーの科学をアピ も無く,会合の日程も定まってはいなかった 6) . ールするまたとない外交機会だったのである.そ しかし,1699 年の会則制定により 7) ,科学ア の様子は毎回当時の主要な知識人向け雑誌,『メ カデミーは選挙による定員制のエリート研究機 ルキュール・ド・フランス』12) などに報告され, 関として編成され,自然科学研究に携わる唯一の 更に科学アカデミーから出版される年報のうち 王立アカデミーとしての責任と地位を与えられ 一般向けに書かれた部分である『年誌』に掲載さ ていく.それまで明確な肩書きの無かった所属会 れた.その同じ『年誌』に掲載されたアカデミー 員達は,会則に従い科学的リテラシーを必要とし における研究動向や発表論文に関する一般向け ない名誉会員(honoraire)と,いわゆる学者(savant) 解説・評なども書記の手によるものであった.こ である年金会員(pensionnaire),総会での発言権に のように,終身書記はアカデミーの内政および外 制限のある準会員(associé),助会員(adjoints)とい 交に関する情報を一手に掌握・管理する役割を果 ったいくつかの階級に分けられた.このうち,王 たしており,アカデミーおよびそこで行われてい 室と結びつきの深い名誉会員は直接政治的発言 る諸科学の営みについてのスポークスマン的存 権を行使出来る存在であると同時に,いわばパト 在であった. ロン的な役割をも果たしていた 8).例えば,科学 科学の存在が自明視されている現代とは異 アカデミーを監督することが会則で制定された なり,少なくとも 18 世紀後半に至るまでは,科 国務卿はいずれも自動的に名誉会員になってい 学に携わっていない人々にも科学の営みを認知 る 9) . させ,その意義を理解させることが学者達にとっ 学者の側の頂点を為したのは,年金会員から選 て重要な課題であった.このことは,この時期に 挙で選ばれる終身書記(secrétaire perpétuel)であっ 書き表された科学関係の書物がしばしば,一般読 た.1699 年以後その地位を勤めたのはフォント 者用の解説編を伴っていることからも伺える.ア ネル(Bernard Le Bovier de Fontenelle, 1657-1757, カデミーの年報に付随していた『年誌』自体がま 在職 1697-1740) ,メラン(Jean-Jacques Dortous de さにその例である 13). Mairan, 1678-1771, 在 職 1740-43 ), フ シ ー この重要な「科学の営みを人々に知らしめる」 (Jean-Paul Grandjean de Fouchy, 1707-1788, 在職 役割が終身書記の主要な仕事であることは,18 1743-76 ) , そ し て コ ン ド ル セ 世紀初頭ではアカデミシアン達ばかりか政府中 (Marie-Jean-Antoine-Nicolas Caritat de Condorcet, 枢においても共有された認識であった 14).例え 1743-94, 在職 1776-93)の 4 人である. ば3代目の終身書記フシーは初代書記フォント 終身書記は公式な議事録の作成や各種報告書, ネルに対するエロージュにおいて,17 世紀には 証明書類の保管,論文集『王立科学アカデミー年 科学がいかに人々に知られていなかったかを強 誌及び論文集』10)編集などに携わった.また, 調し,フォントネルが終身書記に選出されたのは, アカデミーは年に毎年二回ずつ,聖マルタンの日 科学のスポークスマンになるに足る文才と科学 である 11 月 11 日の後の最初の集会と,復活祭の の素養が時の実力者であった大臣ポンシャルト 3 ランに認められたためであったと説明している. 自然学(physique)への興味が何の役に立つという そして,彼の書く『年誌』が広く読まれ人気を博 のだろうか?〔科学〕アカデミーの仕事はいかな していた証として,遙かスペイン領植民地ペルー る有用性に由来するものであろうか?これはよ から寄せられた賞賛の声を紹介している 15). くある疑問である…」17).科学の「有用性」を 以上のことから,科学アカデミー終身書記によ 真正面から取り上げるこの種の問いは当時の文 る科学の表象が,強い使命感をもって行われてい 脈ではありふれた問題設定であった.この有用 たことが伺えるであろう.そして公開集会でのエ (utile)という概念それ自体様々な意味に拡張可能 ロージュや, 『年誌』における記事は,18 世紀の であり,実利や機能的な方面のみならず,芸術を 主要な「科学」啓蒙リソースであり,一般の人々 普及させるなど,抽象的・精神文化的な「進歩」 に科学を普及させる上で一定の役割を果たし続 に貢献するという類の意味合いも含まれていた けたのである.次節では,歴代の終身書記が展開 のである 18).では,問いの解答の具体的な内容 した科学観を考察してみたい.その際に,それぞ としては何が選ばれているのだろうか. れの社会的文脈で「科学」というものの存在意義 まず,先程少し触れたように,諸科学,特に数 が如何にして根拠づけられたか,それに対し実際 学と自然学などには「精神的,哲学的なと表現さ のアカデミーの研究活動や歴史的背景はどうで れる有用性」19)が備わっているという解答があ あったかにも注目してみたい. る.彼によれば,もともと精神はそうしたものを 必要としているのである.フォントネルは,「幾 2.終身書記による「科学」の表象---「有用性」と 何学的精神」(esprit géométrique)という言葉でも 「公共の福祉」 って科学,とりわけ数学の方法論それ自体に備わ る文化的な価値を称揚する 20).これは,正確さ フォントネルにおける「有用な科学」:保護の正 や秩序,明晰さをもたらす「幾何学的精神」をも 統な対象たる実用の科学 ってすれば,道徳,政治,批評などその他の分野 の書物にもいい影響が与えられるという考え方 初代終身書記フォントネルは劇作家コルネイ である.また,中世のマクロコスモスとミクロコ ユの甥であり,文学,詩の分野で認められていた スモスよろしく,解剖学と天文学を対比させ,と のみならず,科学啓蒙書,『世界の複数性につい もにその精巧さと壮大さでもって造物主の偉業 ての対話』(1686)を著し,ベストセラーを博し を知らしめる知の分野であり,ただの好奇心がな ていた 16).この書以後フォントネルは,科学の し得るものではないので意義があるとも主張し 理論を一般向けにわかりやすくかみ砕き,かつ哲 ている 21). 学的・文学的な読み物に仕上げることのできる名 だが,注目すべきは,フォントネルがこうした 文筆家として名を馳せることになったのである. 類の「有用性」では主張として弱いと考えている 終身書記にフォントネルが任命されたのは 1697 こと,そして科学の有用性の根拠として,とりわ 年のことであった.科学アカデミーが,前述した け,応用された科学の実利的,機能的な成果が強 会則制定により,より高度に制度化された機関へ 調されていることであろう.例えば,木星に四つ と脱皮を図ろうとしていた時である. 衛星がある事を知ったり,それらの運行を長期に では,フォントネルによる『年誌』1699 年度 わたる天体観測で調べたりする労をとることに 版(1702)に掲載された序文から,科学を探求す 何の意味があるのかという問いに対し,彼は,天 る意義についての彼の議論をまとめてみよう.こ 体観測が航海術と地図作製術の発展に果たした の序文で彼はアカデミーが携わる自然諸科学の 重要な役割を提示する.現に 17 世紀には,王国 存在意義について正面から問いかける.「数学と の地図作成を請け負うべくイタリアから招聘さ 4 れたカッシーニ家の者が王国の各地やイタリア, フォントネルは何故,航海術に軍事技術,水路 オランダ,英国に天文観測に行っている.また, の建設などという物質的な次元の有用性に訴え イエズス会との連携によりシャム,インド,中国 る必要があったのであろうか.ここでは,別の人 などにも天文観測も含めた学術調査の遠征隊を 物の文章を参照しつつ,「公の記録」である書記 送り込んでいたのである 22) . の文章からは伺えないその背景を分析してみた フォントネルは,諸科学が少人数でなされてい い. る営みのため,その有用性がなかなか周囲には見 えないのだと述べ,更にアカデミシアンが有能さ 諸科学や技芸,文芸を栄えさせている を発揮する分野として,優れた測量による水門や ことから王国が得られるこのような一 運河の設計,砲弾の軌跡の計算などをあげる.そ 般的な有用性の他に,より直接的に王 して,例えばホイヘンスによる振り子時計に対す 国固有の利益を目的とする諸科学や技 るサイクロイド曲線の応用が示すように,「正し 芸がある.そのようなものこそが, 〔パ く考える」ならば,例えば曲線や図形についての リ王立科学〕アカデミーの対象となる 数学的探求のような直接有用ではない研究であ 諸科学である. 〔…〕天文学についてい っても,常に潜在的に有用性につながりうる,ゆ えば,商業においてそれがどれだけ有 えに数学や自然学の探究は奨励されるべきだと 用なものかということが知られている. するのである 23). その天体観測が無ければ,信頼に足る 地図は存在しなかったであろう 25). 興味深いのは,1699 年時点までに科学アカデ ミーで行われた実際の研究業績を考慮すると,明 らかに各分野の強調され方に強弱があるという これはフォントネルがまだ終身書記であった 事実である.17 世紀の科学アカデミーでの研究 1720 年代前後に,レオミュルという機械学者が 報告は解説つきで全十一巻 14 冊の書物にまとめ 科学アカデミーで行われている研究の有用性を られたのだが,そのうち丸々二巻 4 冊分を占める 主張した嘆願書の一節である 26).時代が少し下 図版入りの博物学,動物分類学研究などは,それ るにも関わらず,先の節で紹介したフォントネル らが天文観測の論文集(一巻2冊)や地図作製術 の言説とほぼ同種の議論が繰り返されているの 関連論文集(一巻 1 冊)などを分量的には凌いで が見て取れよう.レオミュルは,科学アカデミー いるにも関わらず,フォントネルのこの論文では のために投下される予算が少なすぎることを嘆 ほとんど言及されていない 24).まず航海術,軍 いていた.彼によると,そのために会員の過半数 事技術,インフラストラクチャーの整備などに貢 が数学教師や外科医,薬剤師などと兼職状態にあ 献する直接的な知識,次にそれらに転換しうる可 り,十分な時間を研究にさけない.他の残りの会 能性を持つ間接的な数学・自然学理論の成果が強 員でも生活のために数学を教えている者が多く, 調されるのである.従って,彼がアカデミーの科 結局アカデミシアンとしての仕事のみで食べて 学探究を擁護する際のロジックは,いわば直接有 いけるのはほんの僅かである.それどころか,赤 用ではない精神的な価値を持つものへの信用が, 貧の中で死ぬ者もいるくらいなので,働きが報い 実体化されたテクノロジーへの貢献により保証 られることのない科学を志す者は減る一方であ されるという構造を取っているのである. る,という 27).そして,「もしも,〔アカデミー の〕望みに沿った変革により,支援がなされるの 背景:18 世紀初頭における科学アカデミーの現 でなければ,外国人達の間でこのように高い評価 状 を得ているこのアカデミーは没落の危機に瀕す るだろう」28)とまで訴えている. 5 レオミュルは,アカデミーの探求する科学の部 算緊縮を図った.そして 1691 年にその後を継い 門である「幾何学,天文学,機械学,化学,解剖 だ海軍卿ポンシャルトランはアカデミーの会則 学,植物学」について,それぞれがどれだけ「王 制定など活性化を図ったが,会員数は増やしても 国の栄光と富を増大させることに貢献」29)する 年金は増やさなかったのである 32). かについて述べる.そして,もしも援助が得られ 従って,フォントネルが国家に貢献する科学像 るのであれば,既に得られている成果に加え, を力説した 18 世紀初頭もレオミュルの嘆願書の 色々なプロジェクトをこなすことが出来るとい 1720 年代においても,アカデミーの年金は金銭 う.その例として具体的な諸アイデアがあげられ 的な独立を保証せず,殆どの会員にとってアカデ る.例えば水資源基盤整備のための人材として政 ミーが唯一の収入源となることは非常に希であ 府が水力学を修めた学者を雇用することや,鉱物 った.しかもコルベール以後の王権の側では年金 資源の見本標本とその展示室を作り資源開発の を収入の補助程度に考える傾向が強まっていた ための学習と研究に役立てること,懐中時計にお という.そして結論から先に言えば,アカデミシ ける英国,刃物におけるドイツなどと比較し,遅 アンとしての充分な固定収入を保証する措置は れをとっている諸技術の分野において,各職業の ずっと後の 1775 年になるまで取られることはな 職人達の発明に賞金を設けることなどである 30). かった 33). レオミュルの嘆願書に現れているのは,端的に この様な現状に対する理想の過去として言及 いえば科学アカデミー及び科学という知の立場 されたのは,必然的にコルベール時代であり,彼 の弱さである 31).実際に,コルベールの監督時 は実際に 18 世紀半ばまで科学アカデミーにとっ 代以後は特に一定した指針もなく,国家の経済 ての聖者に等しい賞賛を受けていた.例えばフォ 的・政治的状況如何でたやすくアカデミーへの予 ントネルは,コルベールが数学など直接の有用性 算は減少した.17 世紀からレオミュルの嘆願書 に結びつかない学問の探究と,国益につながる科 までの時期をみると,最も惜しみなく資金を投入 学の探究とのバランスを心得ており,並はずれた したのは結局最初のコルベールであった.ホイヘ 人物であったとたびたび賞賛している 34).そこ ンスや J.-D. カッシーニといった格別の好待遇を には,アカデミーが国家から保護を受けることの 受けた著名アカデミシアンのみならず,他の年金 正統性を積極的に主張する意図もこめられてい 会員達にも平均して 1400 リーブル近い年金を与 たのである. えていたのである.1680 年代半ばまでならば, さて,これらの前提をふまえてフォントネルの 1500 から 2000 リーブルの年金があれば独身の研 「有用性」の議論における特徴をあげることが出 究者は研究に邁 進できたとい われる.し かし 来るだろう.まず一つ目は,科学の応用に対する 1683 年にコルベールが没した後アカデミーを管 関心である.すなわち,諸科学の成果で重要なも 理した陸軍卿ルーヴォワの時代に入ると,カッシ のは,地図や振り子時計,方位磁針,機械などと ーニを除いて年金の平均は 1000 リーブルに減少 いう各種技術への貢献や,もしくは外科的な解剖 した.丁度この時期,税収の減少や増大する軍事 の知識や食料となる植物の知識など自然界につ 支出による経済状況の不調,フランスの通貨リー いての実利的知識の増大をもたらすものとされ ヴルの価値下落などという事態が重なったので る.そして二つ目は,これらの成果が皆,国家の あった.ルーヴォワは他にも,物故した会員や追 対外貿易や軍事に物的側面で直接貢献するとい 放処分になった会員(会議を何度か休んだりする う点に重きが置かれていることである.これらは, だけで追放処分になりえた)の代わりとなる新規 アカデミーが国家から保護を受ける価値のある 参入会員数を減らしたり,年金を減らしたり,場 科学を探究していることへの主張につながって 合によっては支払いを滞らせたりすることで予 おり,1720 年代までにおいて主にその活路は王 6 権による直接の雇用などパトロネージの強化や いなどの美徳が語られる.だが,ベリドールによ アカデミーへの資金増加という手段に求められ るフェールの砲兵学校での講義や技師教育用教 た.このことに留意しつつ,次にフォントネル以 科書の成功,官僚でもあった名誉会員 D.-C.トリ 降の時代について見ていこう. ューデーヌにおける政治科学の才能とその業績 など,フシーは時代背景を盛り込むことも忘れて 18 世紀中盤の国家・科学・技術とメラン,フシ はいない 36).ではこの時代,何があったのだろ ーの描く「科学」像 うか. 1740 年代から 60 年代は,財務総監フィルベル ト・オリーや D.-C.トリューデーヌ及びその子ト フォントネルの次の書記はメランであったが, 彼は在任期間が非常に短いため,本稿では簡単な リューデーヌ・ド・モンティニを中心に王政府の 分析に留めることにする.長命で,地方アカデミ 技術,そして科学への関与が新たなる展開を遂げ ーでの活動に色々な功績を残したいかにも 18 世 た時代でもあった.1741 年に海兵学校(Ecole de 紀的なこの文人科学者は,当時アカデミーを二分 Marine), 1747 年には土木学校(Ecole des Ponts et していた地球の形状をめぐるデカルト派・ニュー Chaussees)が,1748 年にはメジエールに王立工 トン派間の有名な論争に巻き込まれ,敗北したデ 兵学校(Ecole royale du Génie)が相次いで創設を見 カルト派側についていたことから地位に留まり た.また,1744 年以後における石炭産業の躍進 づらくなったといわれている.彼が書記職にあっ は,後の鉱山学校(Ecole des Mines)創設につなが た 1740 年代はアカデミーの数学者モーペルテュ る一連の,外国に依拠しない鉱山技師育成の試み イらラップランド探検隊及び赤道方面(ペルー) へとつながった 37).続く 1760 年代はこれらの学 のラ・コンダミーヌ探検隊によりニュートン派の 校における制度ならびにカリキュラム改革と,新 勝利が明らかとなっていった時代であった 35 たな学校の創設への波が訪れた.1762 年と 66 年 にリヨンとダルフォに創設された二つの獣医学 ).このことから,終身書記が生産せねばならな 校が財務総監 H.- L.- J.- B.ベルタンの指揮下に実 いのは当時の文脈から正統であるとみなされる 現している.また,完全な実現には至らなかった 言説であることが改めて確認されよう. ものの,彼の下で鉱山技師育成事業に対する予算 メランの後を受けた三代目のフシーは 1740 年 投下が始まっている 38).そして,教員として多 代から 70 年代にかけて終身書記を勤めた.だが, くのアカデミシアン達が動員されたのである. フォントネルの華々しさとは打って代わって,フ 1720 年代以前にも既に シーはその著述の全体において,哲学や世界観を 試験官や上記の学校の前身となる施設における 見せるよりは科学のテクニカルな内容の忠実な 数学教育にアカデミシアンを登用するなどとい 説明に努めているように思われる.例えば記述も った流れはあったが,1740 年代に諸学校が制度 主に以下の三点,すなわち(一)生い立ちや家系, として本格化し,続く 60 年代にとりわけカリキ 幼少期の逸話など伝記的事実,(二)著作の内容 ュラムの理論化,科学化への試みがなされる中で 紹介など科学的業績と才能への賞賛,(三)故人 中心的な役割を果たすべく期待されたのは科学 の道徳的美徳,という枠を外れることはない.最 アカデミーの学者達であった.海兵学校の改革を 後の点について少し説明を加えると,まず通常の 任されたデュアメル・デュ・モンソーや工兵学校 会員については主に信仰の篤さや慎ましやかさ, の自然学講師をしたノレ,同校数学講師のボシュ, 科学への愛,「国民の父」である王への忠誠など モンジュなどが著名なところである.また,砲兵 が,国務卿 J.-J.アムロ・ド・シャイウなど高位行 学校でも多くのアカデミシアンの名が見られる 政官であった名誉会員に対しては,人民に情け深 39). 7 技師登用試験のための ここで,フォントネルの呈示した「有用な科学 ルベール時代に胚胎し,フォントネル,レオミュ 像」に立ち戻ってみよう.すると,航海術や軍事 ルなどを通じ,実現されるべき夢として思い描か 技術は海兵学校,砲兵学校,土木技術は土木学校, れてきた産業・軍事的応用性という意味での「有 そして商業は黎明期の鉱山学校(まだ未実現)な 用な科学」像が一定の結実を見た時期であったと ど産業的戦略から配置されたもの等々,フォント いえる.従って,その前の世代と異なり,大がか ネルの呈示した,アカデミーが行うべき科学の各 りな青写真でもって夢を歌い上げ,人々を説得す 種役割に対応するエージェントが具体的な制度 る必要性をさほど感じずにいられたという事情 の形に結実していることが見て取れる.もちろん, もあるのではないだろうか. 現実的には,直接アカデミシアン達の理論的な知 だが,フシーより更に新しい世代は当然ながら が実践的な技師の育成に直結する効果を果たす その次を求めた.フシー在任中の 1760 年代は同 かは疑わしいものであった.教育カリキュラムを 時にヴォルテール,ダランベールらなど「百科全 めぐっても,例えば,数学など理論的知を重視す 書派」の思想家達,いわゆる「啓蒙のフィロゾー るか,従来の徒弟制で培われてきた実践知を重ん フ」達が活躍を始めた時代である.そして,ヴォ じるかという点について様々な議論があったこ ルテールの指揮の下ダランベールはフィロゾー とが近年の研究により明らかになっている 40). フの党派を組織し,どんどん後継者をアカデミ しかしいずれにせよ,アカデミー的な応用科学と ー・フランセーズや科学アカデミーに送り込んで その人材がこれらの学校に呼応しうるものとし いた.フシーの次の書記コンドルセは,その彼ら て捉えられたことは疑いないことであろう. の後継者の 1 人である 42). このように,17 世紀が各種アカデミー設立の 相次いだ「各種アカデミーの時代」であったとす コンドルセにおける「有用な科学」:統治に合理 ると,18 世紀はいわば「各種技師養成学校の時 性を与えようとする科学 代」であった.そして現実はどうであれ,何人か の為政者達や学者達の構想の中でこれら諸制度 コンドルセは革命期の政治活動及び公教育論 はフォントネル的な意味での有用な科学が展開 で有名であるが,近年の科学史では,確率論によ する場としても構想されたのであった.この一連 り道徳・政治諸科学(今でいう社会科学)を基礎 の動きの中で中心的役割を担った人々,例えば大 づける試みである「社会数学」を構想したことで 臣オリー,ベルタン,土木学校に尽力を尽くした も見直されつつある 43).彼は終身書記としても 行政官トリュデーヌ父子とそれを補佐した技師 『年誌』関連記事や,膨大な量のエロージュを執 ジャン・ルドルフ・ド・ペロネ,等々,多くの学 筆したが,ともすれば亡くなった会員の伝記から 者や技師達が科学アカデミーの名誉会員か年金 逸脱し,政治,社会,経済,教育など広い領域で 会員であり,このうち 1776 年以前に物故した 科学の果たす役割を意識した議論を展開してし 人々についてはフシーが彼らのエロージュを読 まう傾向があった.これはコンドルセ自身が政 んでいる.だが,本説の冒頭で述べたように,フ 治・経済思想に造詣が深く,更には政治・経済思 シーはいかなる場合においてもほぼ一貫して自 想の師ともいえる行政官テュルゴの下で政治に らの思想的立場を見せることに対して慎重,禁欲 関与した経験まで持っていたことにもよるであ 的ともとれる著述スタイルを貫いていた.これを ろう.彼が正式に終身書記の地位についたのは, 彼の性格的な要素にのみ還元するべきであろう テュルゴが財務総監に就任して自由主義的な改 か 41). 革を試み,挫折した直後であった 44). 先に見てきたように,フシー在任期間は新しい では,コンドルセの科学観を概観してみたいが, 諸制度が起動を始めた時代にあたる.いわば,コ その前に以下の点を社会背景として押さえてお 8 く.まず,1775 年におけるアカデミシアンの収 な真実の発見が困難になる一方で,既 入・地位保証措置を享受した世代である彼にとっ に打ち立てられた真実の好ましい応用 て,科学アカデミーやそこで行われている科学の をより容易に行えるようになったとき, 地位はある程度盤石なものとなっており,その点 我々は科学を実践(pratique)に呼び戻す がそれ以前の時代とは異なっている.だが,科学 ことに努めなければならなかった.デ がある程度の地位を獲得したがゆえに,逆にディ ュアメル氏はその様な時代に生き, ドロやルソーのように,アカデミーで行われてい 〔…〕公共の有用性(utilité publique)に専 た数学中心主義的な科学に反感を持つ立場から 心することにいささかのためらいも覚 の批判は強まり,または身分制度社会への反発か えなかった 46) . らエリート主義的なアカデミーの組織自体を批 判するマラーやブリッソンのような知識人,ジャ デュアメルは先の節で紹介したように海兵学 ーナリスト達が現れるなど,別種の緊張感が周囲 校の設立に尽力した人物であるが,実践的な農学 にはただよっていた 45) .その様な中でコンドル においても功績を残した人物であった.土壌の質 セは,どのようにアカデミーにおける科学研究の の研究や種の巻き方,小麦の保存法,生育法など 存在意義を論じていたのだろうか. いくつもの業績がコンドルセによりあげられて まず,前代の終身書記達と同じくコンドルセも, いる 47).また彼はデュアメルが,通商の自由が 科学の存在意義 を論ずる際に その「有用 性」 農業・農学の発展と生活の資の確保に結びつくと (utilité)に着目する.そして,有用性を根拠づける の信念から,「穀物における通商の自由の根拠に ものとして,強く強調されるのは「公共の福祉」 ついて,敢えて主張しさえした」ということを賞 (bien public), 「公共の有用性」(utilité publique)と 賛する 48).1760 年-70 年代にかけて起こった穀 いった概念である.この言葉自体もアンシアン・ 物取引の規制撤廃論争が示すように,アンシア レジーム期の政治的言説においては珍しいもの ン・レジーム期の社会は売買に際し公正価格や特 ではないが,コンドルセが具体的にいかなる意味 権的な指定業者の存在など,様々な規制が存在し で用いているのかを考察することに意義はある. ており,テュルゴの弟子であったコンドルセはそ 例えば,1782 年に物故したデュアメル・デュ・ れに反対していた.そしてコンドルセは,経済活 モンソーのエロージュでコンドルセは次の様に 動への意見も含めた先のデュアメルの行い全て 述べる. を,「公共の有用性に専心」した振る舞いと表現 しているのである.従って,ここでの「有用性」 文芸の復興以来,医学者を別として, は先の議論でお馴染みな科学の応用性への評価 多くの学者達は科学が無用でないこと を含むものであるが,他方で「公共」にはいわゆ を証明する必要があるときの他は,公 る自由主義的な市場の概念がこれまでになく濃 共の使用(usage commun)のための科学 厚に反映されていることがわかる 49). の応用に従事してこなかった.それに, 更に興味深いのは,引用冒頭部分にあるように, 人々は全ての学者達を,国家の本当の 「国家の本当の利益」は「国家の栄光」によって 利益の為というよりも栄光の為に役立 は導かれないということ,すなわち,国家は「公 っているものとして認識していた.こ 共」(public)のために何かをしなければ利益を得 の偏見は,科学がより公共のものとな ることが出来ないとの前提がなされていること り,よりよく知られることで解消して である.そして,科学も,国家が「公共」に貢献 いった.そして,科学が引き続き幾世 するのを「実践」的な側面で助けるものでなけれ 代もの業績で豊かになり,日毎に新た ば「有用」とはいえないことになる.そうした意 9 識から科学の「有用性」は定義されているのであ しかし,このような科学の定義は従来科学アカ る. デミーに与えられた枠を更にはみ出すものであ では,科学の「実践」的な側面での貢献とは何 った.1699 年の会則制定時に科学アカデミーに であろうか.例えばフォントネルにおいては,軍 伝統的に設けられた部門は,主に「幾何学」 , 「天 事もしくは重商主義的な意味での商業,すなわち 文学」,「機械学」,「化学」,「解剖学」,「植物学」 戦争と貨幣蓄積のための国際貿易競争の文脈に であり,1785 年に行われた会則改正においても おいて物理的に役立ということが強調されてい 「幾何学」, 「天文学」, 「機械学」, 「一般自然学」 , た.しかし,これから見ていくように,コンドル 「解剖学」, 「化学及び冶金学」, 「植物学及び農学」, セの言説ではそうした物質的有用性に加え,科学 「自然誌及び鉱物学」の八部門である 51).科学 の「理性」そのものが行政府の政策に根拠を与え アカデミー18 世紀後半の研究動向の特色として るものとして非常に積極的な役割を帯びるので 「化学,冶金学,鉱物学的な知識とスキル」など ある.いうなれば,フォントネルにおいてはやや 産業技術に対する関心の増大があることは指摘 背景に退いていたような,象徴的,抽象的な価値 されてきたが 52),ド・モンティニへのエロージ が科学の有用性を根拠づけるものとして強く強 ュでコンドルセが語っているのは,更に税金や法 調されるのである.そのことが現れているのが, の統御などをも包含する別の新しい知の分野に 1782 年に死去した技師であり数学者でもあった, 対する構想であろう.例えば,科学アカデミー外 E.M.ド・モンティニィ へのエロージュである. での発言ではあるが,1782 年に彼が文芸エリー コンドルセは,政府と科学の関係について以下の トの集うアカデミー・フランセーズの会員となっ ように語っている. た時の演説を見てみよう 53). 「不滅の 40 人」(les Quarante)といわれた会員達の前で行われたこの 政府が,文化や工業,手工業,商業, 演説は,後半こそ物故した会員の文学的な資質を 公共事業,交通路を設置する手段,税 賛嘆する内容になっているが,前半は異質なまで 金の形態や配分が生み出しうる効果, に諸科学についてのコンドルセの思想を表明す 法〔…〕などにたずさわる度に,これ る場となっているのである 54). ら操作のための基盤を見いだし得るの 演説では,まず冒頭から自然諸科学の人類への は,自然諸科学においてである他ない. 貢献が強調される.そして誰もが理性を行使でき だが,これらの科学の原理しか知らな るような教育方法の創造や,奴隷解放,公論の力 い者や,同様に応用しか知らない者は の重要性などを訴えると共に,「人類の幸福を直 政府に不完全な理性の光しか授けるこ 接の目的にする」知である道徳諸科学(sciences とが出来ない 50). morales)も自然諸科学に劣らぬ発展を遂げており, これは非常に今日的なことであると力説するの すなわち,「文化や工業,手工業,商業,公共 である.その部分を引用する 事業,交通路を設置する手段,税金の形態や配分 が生み出しうる効果,法」などが「公共」を意識 道徳諸科学の性質をよく考えてみると, しつつ政府がなすべきことであり,そのためには, たしかに,自然諸科学のように事実の 科学の助けがなければいけないというのである. 観察に基づいているので,道徳諸科学 そしてこれらが適切になされることが「公共の福 も〔自然諸科学と〕同じ方法に従い, 祉」につながるのである.コンドルセは,国家統 同様に正確で厳密な言語を獲得し,同 治それ自体に寄り添うべきものとして科学的知 程度の確実性に達するに違いないと認 を措定しているわけである. 識しないわけにはいかないのです 55). 10 加しているという特徴があげられる.例えば,不 強調されているのは,自然科学と同じ方法論と 衛生な大病院の移転問題,小麦の公定価格決定問 「正確で厳密な言語」,具体的には解析により整 題,人口調査,屠畜場の移転に際する衛生と経済 備された確率論を応用することにより,道徳諸科 効果の問題,そして革命直前の度量衡制定問題な 学も自然科学と同等な一人前の科学に成長する どがあげられる.関わった学者やその取り組み方 だろうということであった.そして,両者の確実 も,問題の規模により多種多様であった.病院移 性の違いは本質的に観察者の位置のみに由来す 転や屠畜場移転問題など公衆衛生関係の大規模 ると考えられたのである. プロジェクトでは,化学者が空気の汚染など衛生 更に,演説の際の批判に答えるため用意された 問題を,数学者が施設の移転に伴う経済的な効果 演説の改訂版未刊草稿において,コンドルセは, などを計算するといった風に共同研究体制が取 道徳諸科学が力を発揮する具体例について次の られたりした.小規模なものでは更に直接に社会 ように言う.例えば法廷の構成や証拠の形式と性 科学的な分野が扱われている場合があり,例えば 質,行方不明者に関する法,公債・保険・対不正 国家の販売する国債や年金,生命保険の企画案審 所得課税の為の金融操作,等々に関わる諸問題は 査を,コンドルセ,ラグランジュなどアカデミー 確率論による「計算」が無ければ上手く扱うこと の数学者が行うという例も見られた 57).これら が出来ない.また,様々な諸原因が引き起こす人 の事例を直接的に持ち込む主な窓口となってい 口や富の増減を適正に評価するための知識など, たのは主に,科学アカデミーを後見,監督する役 国家統治に不可欠な知識を得るためには,あらゆ 目を担っていた国務卿であった.特に,経済に明 る種類の「物理的知識」が必要とされるというの るく社会公共事業への積極的な姿勢で知られる である 56).内容的には,モンティニのエロージ 宮内卿ブルトゥイユがその地位に就いて以後,パ ュにおける言説とほぼ重なるものであることが リ市内の病院の移転問題を初めとして公衆衛生, わかるだろう.ここから導かれるのは,今日でい 都市計画,財政・金融に関する諮問は飛躍的に増 う社会科学的な分野をも包含するような,国家統 加した 58). 治に直接食い込もうとする類の科学的知である. このような事態は,政治的な討論の排除という, アカデミー・フランセーズの創設から 1789 年の 3.背景と比較:統治と科学それぞれの変化 フランス革命まで各種アカデミーにおいて共有 された伝統とは基本的に相容れない現象であっ コンドルセの言説の背景を理解するためには, た.だが,社会・経済の諸問題において科学と政 歴史的事象だけでなく背後にある思想的文脈の 治が遭遇することを可能にする基盤は,啓蒙の思 整理も必要である.そこで,まず当時の具体的な 潮を背景にアカデミーの学者を大量に政策顧問 状況を扱った後で,これまでの書記達が用いてき 的な人材として登用したテュルゴ改革時代に作 た科学の有用性を訴える際の常套句,「公共の福 られていたと思われる.そしてブルトゥイユの失 祉」という概念を導きの糸に,フォントネルとコ 脚後も,1793 年に科学アカデミーが廃止される ンドルセの言説を隔てる距離について比較考察 までその流れは変わることがなかった 59). を行うこととする. コンドルセ時代のアカデミーが上述のような まず,当時科学アカデミーが実際に遭遇してい 政治経済的なな諸問題に接近するに際し,関わっ た事象であるが ,コンドルセ 終身書記時 代の た大臣達や終身書記も含めた学者に繰り返し用 1780 年代前後から,アカデミーの部門分類には いられたのが「公共の福祉のため」という表現で そぐわないような,国家の公共事業に関わる社 あった 60).だが,この表現自体は先に見てきた 会・政治経済的な問題群へのコミットが実際に増 ように,以前から終身書記が「科学の有用性」を 11 主張する際に繰り返し用いられてきた表現でも に変質しており,「公共の福祉」という概念も以 あった.そもそも「公共の福祉」という概念自体, 前よりも明らかに積極的な役割を果たし始めて 17 世紀以降の政治的文脈において,権力者が配 いる.このフォントネルとコンドルセの間を隔て 慮すべき事柄として絶対王政のもとで常に強調 る思想的背景には何があるのであろうか. 近年 されていたのである.16 世紀以前までの「公共 の政治史研究によると,18 世紀中葉にかけて政 の福祉」は,各種職能団体や有力な領主支配権, 治的行為の概念自体が変質を遂げたといわれて 都市など,王国を構成する諸社会集団のうちに多 いる.例えば現代フランス語の「政府」にあたる 様なレヴェルで担われるものであったが,長きに gouvernement という語は,17 世紀頃においては わたる宗教的混乱に終止符を打つべく中央集権 為政者の権威が及ぼされうる領域,または何かを を推奨する国家論を背景に, 「公共の福祉」の国 管理・統治する行為やそのための技術という具体 王への集中が図られたのである.ただ,このよう 的な概念であった.それが 18 世紀後半に入ると な理念も,行政機能の集中それ自体も,王国行政 閣僚などを備えた統治機構の一揃い全体という の実態において実現されていたわけではない.む 意味,いわば抽象的な統治という行為を行う主体 しろ,現実ではない理想であるがゆえに強烈に理 として想定されるようになったのである 65).そ 念が掲げられていたのであった 61).ただし,17 れと並行する時期に統治の対象も概念的変質を 世紀以前の文脈においては「民の福祉はたしかに 被ったといわれる.すなわち,法により国家の四 国家が実現すべき目標であるが,その内容を確定 肢として規律づけられる民,生きるままにしてお し,実現するのは絶対的な国家指導者の専権事 くか殺すかをのみ裁量すればよい存在から,「人 項」であり,それゆえ「公共の福祉」は「国家利 口」という科学的・数量的に把握可能な概念で把 益すなわち個々の国家に即応した政策と密接に 握される種としての人間になり,それらの人間が 結びついて」62)いるものであった.従って,フ 成す社会や市場が自律性を保ちつつ適度な秩序 ォントネルがアカデミーの科学を「公共の有用性 だった状態に保たれるための調整,介入を行うこ と彼〔王〕の治世のため」63)と表現しつつ,そ とが統治の目的にもなったというのである.また, の「有用性」を根拠づける事例として,海の経緯 その統治は,成長した市民社会の「公衆」(public) 度を測定することや,フランスの国土地図を作成 にとって理性でもってその道徳性,合理性が明証 したり,軍事に役立つ力学的問題を解決出来るこ されうるものでなければならないともされた.だ となど,国民の暮らしよりは国家の対外貿易や軍 がそのためには,特殊な知による計算や推論の積 事に関わりの深い事例をあげているのも,当時と み重ねが必要である 66).そして,先の引用から しては自然なことだったのである 64) .ルイ 14 導かれるように,コンドルセによれば,その「特 世の宮廷に代表されるような絶対主義体制,及び 殊な知」とは体系を為す自然諸科学,そして道徳 コルベール的な重商主義政策の理念が政治的言 政治諸科学そのものであり,国家はもはやその双 説を形作っていた時代には,科学が「有用である」 方の科学なくしては「公共の福祉」を実現できず とは国家の栄光に寄与し,かつ国家に富=貨幣を 利益を得ることも出来ないと想定される.だがそ 蓄積させるための対外貿易に役立つことと強く れは科学が,相対的な自律を保ちつつも,国家の 関わっていたのである.科学の「有用性」の主張 営為により深く埋め込まれることへの是認でも とはすなわち,国家により保護されるに足る存在 ある.そして実際に 1780 年代のアカデミシアン であることの主張でもあった. 達の間では,それまでのアカデミーになかった政 しかし,18 世紀後半のコンドルセにおいては, 治・経済・社会的問題への積極的な関心が言説に 科学の「有用性」を説くレトリックが,「国家の おいても実践においても顕在化していったので 意思決定を保証する知としての科学」という形式 ある. 12 学と,19 世紀以後の近代国家に投資される科学 4.結論 という二つの像の間を結ぶ重要な架け橋の一つ であるには違いないだろう. 以上,駆け足でフォントネルからコンドルセま で,それぞれに時代における「科学の有用性」言 説を概観してきた.それぞれの比較から導かれる のは,18 世紀科学アカデミーにおける科学の「有 注 用性」についての言説が,「科学には商業と軍事 1) 例えば,ルネッサンス期における数学の有用性議論 に有用な分野が存在するがゆえに国家に保護さ については,G. Cifoletti, “L’utile de l’entendement et れるに相応しい」という形態から,「科学は国家 l’utile 経営,経済・社会管理に有用でありかつ国家の行 mathématiques au XVIe siècle”, Revue de Synthèse, T.122, 為に保証を与えうる有用なものである」という形 4eS. Nos 2-3-4, avril-décembre 2001; Katherine Neal, “The 態へと変化していることである.前者の言説は rhetoric of utility: Avoiding occult associations for 1740 年代から 60 年代にかけてある程度実現の機 mathematics through profitability and pleasure”, History of 会を見ることとなり,次にコンドルセの下で後者 Science, 1999, 37: pp.151-178 ; N.M. Swerdlow, “Science の言説が明確な形を取り出すのと並行して,科学 and humanism in the Renaissance: Regiomontanus's oration アカデミーも絶対王政期の文芸保護体制からは on the dignity and utility of the mathematical sciences”, in 逸脱する権力を備えた組織へと変身を遂げよう Paul Horwich ed., World changes: Thomas Kuhn and the とする.国家の意思決定にすら保証を与えうるも nature of scienceCambridge, Mass. : MIT Press, 1993, のとしての新しい科学の表象がそれを支持する pp.131-168. 17世紀以後については,化学,農学,技 のである.だがそれは逆説的にも,より緊密に科 術など応用性の高い分野の発展と経済的な意味での有 学が国家の営為に寄り添い始める契機でもあっ 用性=効用(utilité)への関心との相互影響についての興 た. 味深い議論がなされている.例えば,Robin Briggs, “The de l’action. Discussion sur l’utilité des もちろん,書記達の言説はそのまま現実と対応 Académie Royale des Sciences and the Pursuit of Utility”, していたわけではない.フォントネルはいわばコ Past and Present, 131, 1991, pp.40-56; J.V. Golinski, ルベール期に植え付けられた青写真を拡大して “Utility and audience in 18th-century chemistry: Case 見せたのであり,フシーなど比較的謙虚な世代が studies of William Cullen and Joseph Priestley”, British それに続いた.次に,学者に期待される社会的役 Journal for the History of Science, 1988, 21: 1-31.少し本 割の変化を察知したであろうコンドルセは,ある 稿のテーマとは異なるが,実験という方法の有用性に 程度の現状分析を踏まえつつも,やはり理想の未 ついての言説に触れているものに Christian Licoppe, 来図について語ったのであった.彼の言説と並行 La formation de la pratique scientifique: le discours de し呼応するような形で従来にない政治と科学と l’expérience en France et en Angleterre (1630-1820), Paris: の遭遇が生じていたとしても,それは来るべき未 La découverte, 1996 など. 来の前兆にすぎず成就ではなかった.実際にフラ 王立科学アカデミーの懸賞論文と 18 世紀科学の関係』 ンスを含む近代西欧国家がコンドルセの言った 科学研究費(1998∼2000 年度)成果報告書, 2001 では, ような形で社会科学,自然科学を完全に統治機構 制度的側面や研究の関心動向を含めた 18 世紀科学の の論理に完全に組み込んでいくのには 19 世紀後 あり方を総覧出来る.なお,本稿で何の修飾語もなく 半から 20 世紀にかけてのことなのである.だが, 「アカデミー」という場合は常にパリ王立科学アカデ 理想と現状分析の間を揺れ動いた終身書記達の ミーを指し,それ以外の各種アカデミーは必ず正式名 言説は,王政期におけるパトロネージの下での科 称を用いることとする. 13 また,川島慶子『フランス 2) 研究動向紹介としては Bruce T. Moran, Patronage 5) Briggs, op.cit.; Stroup, A Company of Scientist. and Institutions: Science, Technology and Medicine at the 6)Sutton, op.cit., pp.123-141; Briggs, op.cit., pp.48-49. European Court, 1500-1750, Rochester, NY :Boydell Press, 7) “Règlement ordonné par le Roi pour l’Académie royale 1991, pp.1-4. 本稿に関連の深い同系列の研究事例とし des sciences, versailles, 26 janvier 1699”, in Brian et al. dir., ては Geoffrey V. Sutton, Science for a Polite society: Histoire Gender, Culture, & the Demonstration of Enlightenment, Sciencesmoire....Guide de recherche Oxford, Colorado: Westview Press, 1995,及び注 8)の諸 8) 17 世紀のアカデミー組織における高位貴族のパト 文献などがある.また,18世紀が「狭間の時代」と ロン的役割については科学の文化史などにおいて研究 して認識されるが故の研究蓄積の乏しさについては, が進んでいる.社交作法に疎く論争好きな学者達 例えば,Björn Wittrock et al., "The Rise of the Social (savants)を集めた科学アカデミーが組織として社交界 Sciences and the Formation of Modernity", in Johan の中で成立するためには,高位貴族がアカデミーの庇 Heilbron et al. ed., The Rise of The Social Sciences and The 護者及び社交界と学者とのインターフェイスとして果 Formation in たした役割は見過ごせないという.Cf. Mario Biagioli, Context,1750-1850, Boston, London: Kluwer Academic “Le prince et les savants: la civilité scientifique au 17e Publishers, 1996 など. siècle”, 3)もちろん,現代的な意味での「国家による科学の総 pp.1417-1453; Alice 動員態勢」は第二次世界大戦期のものであり,それと conscience aux débuts de l'Académie Royale des Sciences”, 18世紀末フランスにおける国家と科学の関係とを混 Revue de synthèse, IVe S.Nos 3-4, juil.-dec.1993, 同してはならない. 「文芸保護」の一貫としての科学ア pp.423-453.また,当時は当然ながら科学者(scientist)と カデミー創設と,エコールポリテクニーク創設を可能 いう語は存在せず,フランスでは学者(savant)という語 にしたテクノクラティックな指向性との間に存在する がよく用いられた.現在のフランス語では scientifique 距離を問題にしているのである. が科学者の意で用いられる. 4)Charles Coulston Gillispie, Science and Polity in 9) Article premier, Brian et al. dir., Histoire et France at The End of the Old Regime, Prinston: Prinston mémoire....Guide de recherche, p.409. 国務卿(secrétaire Univ.Press, 1980, pp.76-79.なお,近年のパリ王立科学ア d’Etat)のもともとは語義通り秘書であり,王の意向を カデミー史について代表的な文献も以下にあげておく. 専ら中継する役であったが,16 世紀頃から行政権の執 Roger Hahn, The Anatomy of Scientific Institution: The 行代理人として重要な役目を果たすようになる.18 世 Paris Berkeley: 紀には4名の国務卿(secrétaire d'Etat)(宮内卿,外務 University of California Press, 1971; Alice Stroup, A 卿,陸軍卿,海軍卿である)が大法官(Chancelier),お Company of Scientists: Botany, Patronage, and Community よび財務総監(Condrôleur général desfinances)らと共に, at the Seventeenth-Century Parisian Royal Academy of 国王の執行機関を構成する 6 名の国務大臣(ministre Sciences, Berkeley, Los Angeles, Oxford: University of d'Etat)として行政機構の中枢を担っていた. California Press, 1990(対象は17世紀のみ); D.J. Sturdy, 10)『王立科学アカデミー年誌及び論文集』(Histoire et Science and Social Status: The Members of the Académie Mémoires de l'Académie Royale des Sciences,1699-1790, des Sciences, 1666-1750, Rochester, NY : Boydell Press, Paris, 1702-1797).このアカデミーの年報においては 1995(18世紀後半は含まず); Eric Brian et al. dir., 『王立科学アカデミー年誌』(Histoire de l’Académie Histoire et mémoire de l'Académie des sciences: Guide de Royale des Sciences,以後 HARS と略称)と『王立科学 recherches, Paris, Londre, NY: Lavoisier Tec &Doc,1996 アカデミー論文集』 (Mémoires de l’Acadéimie Royale des (パリ科学アカデミー史研究の手引き及び研究論文紹 Sciences,以後 MARS と略称)という二つの部分が一冊 介). にまとめられて出版された.前者はエロージュやアカ of Academy Modernity: of Conceptual Sciences,1666-1803, Change 14 et mémoire de l'Académie des , pp.409-413. Annales HSS, novembre-décembre 1995, no 6, Stroup, “Science, politique et デミーでの研究動向紹介など一般読者も視野に入れた 21) Ibid., p.36. 記事,後者は会員の学術論文から成る.本稿ではこの 22) HARS, 1699, 1702, t.vii; Guillispie, op.cit., p.97. それ 双方を併せて呼ぶ必要がある場合,HMARS と表記す ら諸観測の成果報告書については注 24)にある文献(t.7, ることにする.また,HMARS の正式名称は Histoire de 8)を参照. l'Académie Royale des sciences , Année..., Avec les 23) Fontenelle, OEuvres complètes., pp. 31, 33. Mémoires de Mathématques& de Physique,pour la même 24)L’Académie Royale des Sciences depuis 1666 jusqu’à année, Tirés des Registres de cette Académie というが,冒 1699, Paris, 1729-1733, t. 1-9. 頭に挙げた略称が一般的に使われている(Histoire et 25) R.A.F.de Réaumur, “Réflexions sur l'utilité dont mémoire de l'Académie des sciences.., p.113) . l'Académie des sciences pourroit être au Royaume,si le 11) エロージュ(éloge).一般的に賞賛のための演説と Royaume luy donnoit les Secours dont elle a besoin”, いう意味の語であるが,ここでは特に,アカデミーで 1716-27 ?, in Ernest Maindron, L’Académie des Sciences: 終身書記が担っていた物故会員に対する追悼演説を指 Histoire de l’Académie - Fondation de l’Institut National す.賞辞という日本語訳もあるが,やや語感が一般的 Bonaparte membre de l’Institut National, Paris: Alcan, すぎるので本稿では用いない.このエロージュは 1699 1888, p.103. 年の会則には規定されておらず慣習によるものと思わ 26)この文書が書かれた時期については未だ特定でき れる.エロージュという伝統の詳細については Charles ていない.1716 年から 1727 の間であるのは確実であ B.Paul, Science and Immortality: The Eloges of the Paris る.何故ならこの文書は 1716 年の会則改正について言 Academy of Sciences (1699-1791), Berkeley, Los Angeles, 及しており,かつ 1727 年におけるニュートンの死には London: University of California Press, 1980, ch.1 を参照. 言及していないからである. 12) Mercure de France, Paris, 1672-1803. 革 命 期 は 27) Ibid., pp.105-106, 109. Mercure française というタイトルであった. 28) Ibid., p.105. 13)ライプニッツ流の微積分法を本格的にフランスに 29) Ibid., p.110. 紹介したロピタルの『曲線の理解のための無限小解析』 30) Ibid., pp.107-108. (Analyse des infiniment petits pour l’intelligence des lignes 31) 制度的な面においていえば,社団としての科学ア courbes, 1696, 2e éd., 1715) がフォントネルによる解説 カデミーの地位は文芸を司るアカデミー・フランセー 編を伴っているのもその良い例である. ズより下であった.詳細は Maindron, op.cit., pp.43-45; 14)Sutton, op.cit., p.155. Hahn, Anatomy, pp.72-74 を参照. 15)HARS,1757, 1762, p.191-192; HARS,1757, 1762, 32)アカデ ミー の財 政状 況に つい ては ,次 を参 照. pp.191-192. Joseph 16)Fontenelle, Entretiens sur la Pluralité des Mondes. Académiciens de 1666 à1793, Paris, J.Hetzel, 1869, Digression sur les Anciens et les Modernes, Paris, 1686. pp.85-108; Maindron, op.cit., pp.95-122; Stroup, A 17)HARS,1699, 1702, p.iv. Company of Scientists, pp.35-38. 18) Roger Hahn, Anatomy, p.139. 33) 年金会員の 1775 年以後の給与については次を参 19)Fontenelle, “Préface”, HARS, 1699, 1702; OEuvres 照.Lettre de C.-G. de Lamoignon de Malesherbes, le 18 complètes, novembre, 1775 in Maindron, op.cit., pp.101-102. texte revus par Alain Niderst, Paris, Bertrand, L'Académie des sciences et les Fayard,1989, t.1, p.35. “Préface” HARS 版にはページ数 34) Réaumur, op.cit., p.106; Fontenelle, HARS, 1707, 1708, の表記が一切無いため,基本的に後者の文献に収録さ p.178; Fontenelle, HARS, 1730, 1732, p. 26. れている同文章を用いた.以下の注におけるページ数 35) Daniel Roche, Les Républiques des lettres: Gens de は OEuvres complètes による. culture et Lumières au XVIIIe siècle, Paris: Fayard, 1988, 20) Fontenelle, OEuvres complètes, p.34. ch. 2; Pierre Costabel, “L'Académie et ses Secrétaires 15 perpétuels: un aspect méconnu de l'histoire”, La Vie des de Condorcet, Paris : P.U.F.,1956, 1988; Roshdi Rashed, Sciences, Comptes rendus, série générale, t.5, no.2, p.162. Condorcet, Mathématique et société, Paris: Hermann,1974; 36)フシーのエロージュ一覧は Paul, op.cit., Annexe II 参 Keith Michael Baker, Condorcet.From Natural Philosophy 照. 文中で言及したものについては,Fouchy, “Eloge to Social Mathematics, Chicago-London: University of d’Amlot”, HARS, 1749, 1753, p. 188-192, 190-91; “Eloge Chicago Press,1975; P. Crépel et C. Gilain dir., Condorcet, de Belidor”, HARS, 1761, 1763, p. 167-181; “Eloge de mathématicien, économiste, philosophe, homme politique, Trudaine”, HARS, 1769, 1772, p. 135-150; cf. Paul, op.cit., Actes du Colloque de Paris, juin 1988, Pari: Minerve, 1989; ch.1. Eric Brian, La mesure de l'Etat: Administrateurs et 37)Arthur Birembaut, “L’enseignement de la minéralogie géomètres au XVIIIe siècle, Paris: Albin Michel,1994. et des techniques minières”, in Enseignement et diffusion 44)佐々木力『科学革命の歴史構造』上,講談社学術文 des sciences en France au XVIIIème siècle, René Taton 庫,1995 年,pp.344- 353,及び p.355 の註 34 )の文 dir. , Paris: Hermann, 1964, pp.367-385. 献参照のこと.ロバート・ダーントン『パリのメスマ 38)Ibid., p.386. 正確には,1769 年に将来の学校創設の ー : 大革命と動物磁気催眠術 』稲生永訳,東京,平 財源として,鉱山の認可証書に対して年賦金を課すも 凡社,1987( Robert Darnton, Mesmerism and the End of のとした.200-800 リーブルまで規模により段階分け theEenlightenment in France, Cambridge, Mass.: Harvard されていた.この金は将来の鉱山学校資金に充てるも University Press, 1968).マラーの科学的著作の検討及び のとして構想された. 関連研究のガイドとしては,例えば Jean Bernard dir. , Marat homme de science?, Paris: coll. les empêcheurs de 39)中村征樹「フランス革命と技師の《近代》:書き換 penser en rond, 1993 など. えられる技術的実践の『正統性』」 『年報 科学・技術・ 45) テュルゴの財務総監就任も「フィロゾーフによる 社 会 』 第 10 巻 , 2001 , pp.6-8 . Roger Hahn, 征服」の一環とみなされている.ダランベールと親し “L’enseignement scientifique aux écoles militaires et くもあったテュルゴは,当時成長しつつあったブルジ d’Artillerie”, in René Taton dir., op.cit., Annexe. ョワ市民層に近い立場から一切の特権と身分的な特殊 40)邦文で読めるものとしては中村,前掲書;堀内達夫 決定機関の廃止を構想し,商業の規制緩和,ギルドの 『フランス技術教育成立史の研究:エコール・ポリテ 廃止など,現在でいう自由主義的な経済政策を繰り出 クニクと技術者養成』東京,多賀出版,1997 などがあ した.だが周囲の猛烈な反対にあって失敗したのであ る.他に近年の主な研究書としては例えば Hélène Vérin, った.ちなみに,コンドルセ終身書記選出の経緯は複 La gloire des ingénieurs: L’intelligence technique du XVIe 雑である.まず 1773 年にコンドルセは,老齢のフシー au XVIIIe siècle, Paris: Albin Michel, 1993; Ken Alder, 終身書記に替わる後継者を送り込もうとしたダランベ Engineering the Revolution : Arms and Enlightenment in ールの「陰謀」で,アカデミーの規定にはない終身書 France, 1763-1815, Princeton: Princeton University Press, 記補佐になっていた.この措置は周囲の反感を買いコ 1997 など参照. ンドルセは,テュルゴの財務総監在任時代(1774-76) 41)フシーについてはそのような見方をしているもの に,アカデミーで疎外感を感じていたが ,テュルゴが としては Paul, op.cit., p.18. 失脚した後の 1776 年に,一転してほぼ満場一致で正式 42) ダランベールらの手法は当然,周囲の反発をも招 な 終 身 書 記 に 選 ば れ る に 至 っ た (Baker, Condorcet., いていた.彼らによるアカデミーの「征服」について ch.1). は,Lucien Brunel, Les philosophes et l’Académie française 46) au dix-huitième siècle, Paris, 1884 が詳しい). A.Condorcet 43) 主なものとしては,以下の文献参照.Gilles-Gaston Didot,1847-79, (以下 O.C.と略), t.II, p.612. デュアメ Granger, La Matématique sociale du marquis du marquis ル・デュ・モンソー(Duhamel du Monceau), 1700-1782. 16 Condorcet, OEuvres O'Connor et complètes, M.F. publiés Arago, Paris: par F. 47)Ibid., p.616. 112, Tables 1782-anIX. 48)Ibid., p.618. 59)Cf. 隠岐,前掲書,p.105. 49) コンドルセが18世紀英仏経済思想の最前線にあ 60)Roche, op.cit., p.159. 科学アカデミーでの反応につ ったことについては次を参照.Jean-Claude Perrot, Une いては隠岐,前掲書,pp.101-104.テュルゴの改革に histoire ついては Guillispie, op.cit., ch.1. intellectuelle de l’économie politique (XVIIe-XVIIIe siècle), Paris: Ed. de l’École des Hautes 61)二宮宏之「補論1 Études en Sciences Sociales, 1992, p.359. 『全体を 見る目 と歴史 家たち 』平凡 社,1995 年, 50) O.C., t.II, p. 585. エチエンヌ・ミニョ・ド・モンテ pp.222-227. ィニ(Etienne Mignot de Montigny), 1714-1782. ちなみ 62)フリードリヒ・メルツバッハー「ドイツ絶対主義に に,ヴォルテールの甥でもある. おける国家とユス・プブリクム」 『伝統社会と近代国家』 51)Règlement de 1699, Article V, Brian et al., Histoire et 成瀬治訳,岩波書店,1982 年,pp.51-54. mémoire....Guide de recherche, p. 409; Règlement de1785, 63)Fontnelle, OEuvres complètes, p.9. Article premier, Ibid., p. 416. 64)Hahn, Anatomy, pp.28-29. 52)Hahn, Anatomy, p.119. 65)Michel Antoine, Louis XV, Paris, 1er ed., Paris: Fayard, 53)ちなみに,当時アカデミー・フランセーズの終身書 1989, Paris: Hachette Littérature, 1997, p.180; id., “La 記はダランベールであった.演説は Condorcet, Sur les monarchie absolue”, in The French Revolution and the élections et autres textes , textes choisis et revus par Olivier Creation of Modern Political Culture, vol. I, The Political de Bernon, Paris: Fayard, 1986 などに収録. Culture of the Old Regime, Oxford, 1987, pp. 3-24; cf. Jay 54)演説は「不滅の 40 人」達の間では相当に不評を買 M. Smith, The Culture of Merit: Nobility, Royal Service, い,コンドルセは演説の改訂版を用意しようと試みた and the Making of Absolute Monarchy in France, ほどであった.改訂版草稿については,Bibliothèque de 1600-1789, Michigan: The University of Michigan Press, l'Institut de France, MS855 ff 2-21( K. Baker, "Condorcet's 1996. notes for a revised edition of his reception speech to the 66) M.Foucault, “La politique de la santé au XVIIIe siècle”, Academie française", Studies on in Foucault et al,ed., Les machines à guérir, Bruxelle, Voltaire and the 社団的編成と『公共善』の理念」 Eighteenth Century, 1977,169, pp.7-68 に全文掲載されて Pierre Mardaga,1976, p.9; Histoire de la sexualité I : la いる)参照. volonté du savoir, Paris: Gaillimard, 1976, pp.177-191. 55) Condorcet, Sur les elections, p.183. 公衆の概念についてはユルゲン・ハーバーマス『公共 56) 要するに,例えば人口の増減などはある土地の気 性の構造転換』細谷貞雄・山田正行訳,未来社,初版, 候・風土,その地の死亡率とその原因といった地理学 1973,改訂版,1994 (Jürgen Habermas, Strukturwandel der 的,自然誌的,医学的知識を必要とするなど,多岐に Offentlichkeit: Untersuchungen zu einer Kategorie der 渡った自然科学的な知識が必要とされるのではないか bürgerlichen Gesellschaft,1962, rev.ed. 1990); K.M. Baker, と考えている.Baker,"Condorcet's notes", NOTE H, p.48. Inventing the French Revolution: Ideas in Context, 57)Condorcet, Condorcet: Arithmétique politique Textes Cambridge: Cambridge Univ. Press, 1990, pp.167-202. rares ou inédits(1769-1789), Edition critique commenté par Bernard BRU et Pierre Crépel, Paris: INED, PUF,1994, 謝辞 pp.642, 644-645. 院博士課程,技術史)よりいくつかの有益な指摘を頂 隠岐さや香「1780 年代のパリ王立科学アカデミーと いた.ここに改めて感謝申し上げたい. 本稿の執筆にあたり中村征樹氏(東京大学大学 『政治経済学』 」『哲学・科学史論叢』第 3 号,2001, pp.95-118. 本論文は二〇〇一年度文部科学省科学研究費補助金 58)Archive de l’Académie des Sciences, Procès verbaux (特別研究員奨励費)による研究成果の一部である. 17
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