本田宗一郎 補足 1956年(昭和31年)に宗一郎が制定した「社是」 わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能 の優れた、廉価な製品を生産する。わが社の発展を期す ることは、ひとり従業員と株主の幸福に寄與するに止ま らない。良い商品を供給することによって顧客に喜ばれ、 関係諸会社興隆に資し、さらに日本工業の技術水準を高 め、もって社会に貢献することこそ、わが社存立の目的 である。 略歴 1906 静岡県に生まれる。 1928 アート商会からのれん分け、 「アート商会浜松支店」開業。本田宗一郎21歳。 1935 本田宗一郎、磯部さちと結婚。 1937 本田宗一郎、アート商会浜松支部を発展させ、 「東海精機工業(株) 」の取締役社長に就任。 学問的な壁を撃ち破るべく、30歳ながら浜松高等工業機械科(現静岡大学工学科)の聴 講生となる。 1939 盛況だったアート商会浜松支部を弟子に譲渡、「東海精機重工業」を興し、自動車部品製 造業に乗り出す。 1942 長男・博俊(現「無限」代表取締役)誕生。 1945 東海精機重工業の持ち株を売却。 1946 「本田技術研究所」を浜松市山下町に設立し、39歳の本田宗一郎は所長に就任。 1948 「本田技研工業株式会社」創設。本田宗一郎、同社取締役社長に就任。 1950 東京進出。東京駅近くの京橋に営業所開設。同時に北区上十条の東京工場が稼働開始。 1951 本社を浜松から東京に移転。 1952 本田宗一郎、視察と工業機械購入のために初渡米・欧。4億5000万円相当の108台 の工業機械を購入。 1954 本田宗一郎、渡欧して業界視察。英国マン島TTレースへ出場宣言。 「荒川テストコース」 完成。事業拡張により深刻な経営危機を迎える。 1955 本田技研工業、2輪者生産台数日本一達成。 1956 専務と視察のためドイツへ。 1958 スーパーカブC100発売。以後、現在まで世界的なロングセラーを記録。 1959 マン島TTレースに初出場。優秀な成績を残す。 1962 三重県鈴鹿市に「鈴鹿サーキット」完成。 1964 本田宗一郎、F1GP出場宣言。 1965 ホンダF1マシン二年目にして初優勝。 1972 本田宗一郎、アメリカ金属学会名誉終身会員に選ばれる。 1973 本田宗一郎、本田技研社長退任。 1975 本田宗一郎、CVCCエンジン実用化で日本機会学会賞受賞。 1978 本田宗一郎、イタリア政府よりクランデ・ウフィチァーレ章受章。 1980 本田宗一郎、スウェーデンより北極星勲章・ナイトコマンダー章、フランスより芸術文化 勲章・オフェシェ章を受章。さらにアメリカ機械学会より、長年の小型高速エンジン開発 を評価されホーリーメダル受賞。 1982 本田宗一郎日本商工会議所副会頭、行革推進フォーラム代表世話人に。 1983 本田技研工業、創立35周年。 本田宗一郎、取締役を退き、終身最高顧問になる。 1989 本田宗一郎、東洋人として初めてアメリカの自動車殿堂入り。 1991 本田宗一郎、東京・順天堂病院で肝不全のため84歳8ヶ月で死去。 1974 年5月、アメリカのミシガン工科大学の卒業式における特別記念講演 ・私はこの 26 年の間に、わずか 3,000 ドルの資本で創立した会社を現在の姿にまで発 展させることができました。それは次のような哲学を片時も忘れず、努力してきた結果 であると信じております。 その第一は、「技術は人間に奉仕する手段である」ということであります。社会の発 展、進歩の主役は人間であります。人間によってつくり出された技術、およびその産物 は人間の生活を豊かにするための手段、道具にしか過ぎません。 世の中には往々にして、この手段を本質と間違え、科学技術の進歩が目的であるかの ごとく、錯覚している人のいることはまことに残念なことでもあります。 ・第二は「パイオニア精神」ということであります。過去の積み重ねられた多くのもの をもとにして、その上に自らつくり出した新しい世界を開いてゆくところに進歩があり、 これがパイオニア精神だと思います。 多くの人々は皆、成功を夢み、望んでおりますが、私は、「成功は 99 パーセントの失 敗に支えられた1パーセントだ」と思っています。開拓精神によって、自ら新しい世界 に挑み、失敗、反省、勇気という3つの道具を繰り返して使うことによってのみ、最後 の成功という結果に達することができると私は信じております ・次に「人の和」について述べたいと思います。科学技術がすべての分野で、急速に進 んでいる今日の近代文明の世の中で、とかく機械が人間性に優先する、あるいは科学が 万能であるという風潮を見受けます。しかし、私はこのような風潮はきわめて危険であ り、基本的に間違った考えだと思います。 科学技術や社会機構がどんなに進歩し、発展しても、それらを動かしていくのは人間 であることを忘れてはなりません。しかし、このようなことは1人の人間ではできない ことです。多くの人の心と心の連帯感があってこそ、人間は機械や社会機構を有効に使 いこなすことができるものです。 私が常々、会社の若い従業員に、「機械に使われるな、機械を使う人間になれ」と言 っているのもこうした考えによるものです。
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