小説で口に糊しているという意味で

私は作家だ
畠山 拓
私は毎日小説を書いて暮らしている。小説で口に糊しているという意味では
ない。私の小説原稿は一円の金にもならない。
麻子は会社で事務員をしている。働いて金を得ている。私の小説を「マスタ
ーベーション」だと言う。麻子は小説に興味が無い人間だ。読書をしない。
特に麻子へ、と言うのでもなかったが、私は随筆をひとつ書いた。改めて小
説を書いている理由を考えたのだ。
< 読者よ、そして作者よ、書かれなかった小説はあるものか>
この文章は架空のインタビューである。
「貴方は何故小説を書くのですか」
「難しい質問だね。書きたいから書くとしか言えないな」
「では、なぜ書きたいのですか」
「腹が空いたから食事をし、眠りたいから、眠る」
「貴方の小説を書く作業は、生理現象ですか。普通の人間は本能として行って
いる。貴方の創作活動を本能とは言えないでしょう。人間誰でも小説を書くわ
けではない。本能と言えば人間に共通のものだ」
「本能ではないかもしれないが、人間は何かを作り上げることに、喜びを感じ
る存在だよ。子供の遊びから、独裁者まで、人間は何かを作り上げる事に情熱
を燃やす存在だ」
「それは解ります。では、沢山の中から貴方は何故小説を書くという事を選ん
だのでしょうか」
「選んだと言う意識よりも、偶然に選ばされたと言った気持ちが強いね。若い
ときに小説を読むのが好きだった。こんなものを自分でも書いてみたいと感じ
た。書いてみた。中学の時代に作文は得意で褒められた。国語の女教師は若く
て魅力的だった」
「好きなものはそれだけだったのですか」
「絵も好きだったね。絵も描きたかった」
「それではどうして小説なのですか。絵画ではなく」
「環境かな。高校は美術部があったかどうか、覚えていない。文藝部に入って
詩を書いたけれど、進学雑誌の詩の投稿欄で褒められたりして、詩や小説など
文学が自分には向いていると感じた」
「それからは、今日までずるずると書き続けてきたというわけですか」
「そうだね。若いころ作家としてデビュー出来なかった。出来ないと悟ったと
き、やめると言うことも出来たと思う。しかし、止めなかった。好きだったか
らだろうね、書くことや、読むことが。好きということは、寄り添っていて快
感だと言うことだよ。心地よいものは誰でも離れがたい」
「しかし、心地よいばかりでしたでしょうか。貴方は職業作家に成れなかった。
小説を書くことで、人生のもっと別の快楽を犠牲にしてきたのではないですか」
「そうかもしれないけれど、それは成り行きと言うものだよ」
「その成り行きを、後悔していませんか」
「まったく後悔はしていない。後悔しても無意味だと感じている。人生はそう
沢山のものは選べない。誰にでも限界はある」
「ところで貴方は小説を今までに三百ほど書いて同人雑誌に発表してきたと言
うけれど、何故、出版をしないのですか」
「プロの作家でないから出版社もつかないし、自費出版はお金がかかる。羞恥
心もある。特別な関係の人でない限り、たとえば同じ仲間とかの書籍でない限
り、寄贈されてもあまり嬉しくない。他人にそんな思いをさせたくない」
「自信がないのですね」
「自信がないと言うか。面倒くさいのだね。その労力を現在の創作活動に、新
しい原稿を書くことに注ぎたいから」
「しかし、後世に残りませんよ。虚しくありませんか」
「生きると言うことは虚しいことだとも思う。書籍として残しても後世に残る
ことはめったにないだろうし。確率の問題だけれど、興味はないな」
「自分の作品に価値を認めていないのですね」
「価値は認めている。しかし、私が現在新しい作品に取り掛かり、書き続ける
ことにこそ、価値を認めている。もし、纏めるとしてもそれは私の仕事ではな
いな。カフカが原稿の消滅を遺言したと言うが、私も同じ気持ちだ」
「それは、あまりに寂しくありませんか。貴方の本心とは思えない」
「死んだ後のことはわからないということだ。作品を焼き捨ててと言うのは、
作品を残してと言うのと同じことかもしれない。私は多分何も言わないな。何
時死ぬかわからないけれど」
「貴方にとって貴方の小説は子供のようなものではない。言ってみれば生きて
いる間の暇つぶしと言うわけですか」
「自分の小説は好きだ。愛情も愛着もある。しかし、それは生きている間のこ
とで、死んでしまえば私とは無関係だ。私がなくなるのだからね」
「もう一度聞きます。貴方は何故、今も小説を書いているのですか」
「自分が満足し、納得できる小説を書きたいから。新しいアイディアが生まれ
るとむずむずして書かずにいられなくなるから。もっとも、満足できるものは
永久に生まれないと思うな。自分の中の読者の目が益々厳しくなるから」
「次の作品、これからの作品はどのようなものになるでしょうか」
「それが分からないのだな。ぼんやりとした気分のようなものがあって、ある
時ひとつのイメージがその中に投げ込まれる。雨雲の中の塵のように。そうす
ると雨粒となる。そんな感じかな」
「何もしないでじっとしているのですか。自然現象のように」
「短編が多いのでストーリーは考えない。最後を考えずに書くようにしている。
考えていても、なるべく途中で変えるようにする。設計図どおりに作るべきで
ないと考えている。工業製品ではないからね。小説は」
「もしもそれが家だったら、崩壊してしまうかもしれない」
「小説は家ではない。小説はストーリーでは崩壊すると言うことはない」
「失敗作というのはそれではどんな作品ですか」
「退屈な作品だ。驚きのない、魂のない作品は失敗作だな」
「魂?貴方は唯心論者ではないでしょう」
「なにものか、貴重なものがありありと提示されているか。読者に向かって差
し出されているか、という事かな」
「貴重なものとは何ですか」
「人生の秘密をとくもの。自分が何者かを気付かせてくれるもの。或いは、ヒ
ントをあたえてくれるもの」
「それではもう一つ質問です」
「いや。もういいだろう。充分だ。掲載のスペースは増やしたくない。なるべ
く短く削ってくれ」>
他愛無い文章になっている。私の深層心理を吐露したものとは言えそうもな
い。麻子に言ったら、小説を書いていても誹謗しなくなった。効果はあったの
だ。
小説に関する話題は、友人の作家、佐竹と毎日メールしている。最近のメー
ルでは同人雑誌に関するものだ。
「某さんは『同人雑誌に明日はあるか』のテーマで原稿をくれと云ってきた。
書くけれどもバカバカしいテーマだ。文学に明日があるか解らないのに同人誌
の明日なんか解るものか。おまけに「日本文芸振興会」の悪口を書いていた。
むろん石井計記時代の話だが
『会に歴史あり。その歴史の一部をとらえて批判するなかれ』と返信した。」
現在の同人雑誌は文学的な旗印を掲げているはものない。主宰者も指導者の
立場を放棄している。雑誌の編集発行者、会の代表者としての役目しかない。
佐竹と私の意見は良く合う。違いは出版に関する事だ。佐竹は出版する事に
情熱を抱いている。三十冊以上の著書をもっている。
私は私家版が二冊ほどあるだけだ。佐竹は著書があれば後世に残る可能性が
あると考えている。
<小説の楽しみ方を考える。これは私にとっての小説の書き方である。以前、
小説の難しさと言う文章を書いた。小説は職人的な技術を超えることが必要だ。
職人的な技術とは創作の過程が過去に工夫完成された技術のそれぞれの工程で
の間違い無い積み重ねによって完成に向かう技術の事である。小説をいくつも
の要素に分析し、精密機械を組み立てるように作り上げて行く。
経験的に言えば、小説のように変幻自在なものを作り上げるには、あらかじ
め定められた技術、既に開発された技術では追いつかないと思う。
優れた小説は偶然に生れる。チンパンジーが何万年キーボードを叩こうと優
れた小説が生れることなどありえない事は、だれにでも理解できる。この場合
の偶然とはあらゆる小説創作技術を駆使した上にさらに偶然に幸福の天子が微
笑むようなものではないかという意味である。
無意識の技術と言ってもいいかもしれない。人間の行う事は何事もそうなの
ではあるまいか。定義するとは過去に向かって視線を向けることである。小説
の定義なり技術は過去の作品に当てはまりはするが、これからの作品にかなら
ずしも全て当てはまるものではない。
たとえて言えば新しい生物が生れるようなものではないか。生物は親から生
れる。親の要素を大部分は受け継ぐが、突然変異と呼ばれる子供が生れること
がある。突然変異で生れた生物が子孫を残す能力が有るものもあれば、そうで
ないものもある。
人間の頭脳は類似を探す能力に優れている。その能力が逆に危険な場合もあ
る。物事を安易に関連付けるのは良くないことだ。生物の進化と小説の進化と
を安易に関連付けて説明する事の危険はあるが、魅力もある。
突然変異の児は、さながら「私小説」であり「アンチロマン」であり「メタ
フィクション」ではなかったか。それまでの小説概念から言えば、とんでもな
い問題児であり、否定されるべき存在と映るかもしれない。新生児は強くたく
ましく生き抜き、やがて時代の兆児となり、そして次の時代には滅び去ること
もある>
小説は書いた方がいいのか、無用なものなのか、私には解らない。
私が所属している文学団体の機関雑誌に短い文章を投稿した。
<小説が書けない=仲間の中にも、小説がかけないと、悩む人が居る。書けな
いと言っている、だけだろう、と私は考える。発表しないのは、密かに書き溜
めているからに違いない。書くことは自分のためだけの楽しみなのだ。学生時
代、勉強している素振りを見せない、級友がいた。成績はトップ。級友は密か
に勉強していた。
職業作家ではないので我々の仲間は、生活のために書いているわけではない。
中にはプロを目指している人も居るだろう。芸術表現の欲求は人によって違う。
現代では小説は商品として成り立つ。現代詩や俳句などは商品としては成り立
たない。それぞれの分野で創作の動機は様様であって良い。
私は永い間、小説を書いてきたけれど、スランプは経験していない。作家は
ひとつの卵さえ抱いていれば良いと考える。ひとつの卵から鳥が生まれ、鳥か
らたくさんの卵が生まれる。小説はひとつの卵さえあれば良い。書き続けられ
る。書かない人が書けないのは、その卵を腐らせてしまうからなのだ。産み続
けていれば、幾らでも書ける。
「書く命」
(「全作家短編小説集10巻」の帯文に
陽羅義光さんが書いている)とはうまくいったものだ。宮沢賢治は東京から田
舎に帰ったとき「わらすっこ、造る代わりに小説を書いていた」とトランク一
杯の原稿を村人に見せたそうだ。学生時代の級友とは私の事ではない。>
仲間の一人若い女性の作家から長いメールが来た。
<構想」51号の「神話入門」読みました。
カミュは「異邦人」しか読んでいません、恥ずかしいです。
今度の週末、深夜バスを使って大阪一人旅を決行するので、文庫で
持っていきたいと思います。
「私はただ書き続ける」という最後の宣言を読んで、
麻子とは、文筆への情熱そのものの化身なのかとドラマティックに
考えたりしてしまいました。
麻子の日常に視線が注がれることは(小銭しか入っていない
ブランドの財布は元旦那からのプレゼントであるという件とか、
中年女麻子の忙しないお金の勘定が伝わってきました)、
「私」が執筆に波間に「私」の日常(=ただむなしいだけだったと評価
している自分の人生)を感じずにはいられないことの
裏返しかもしれない、などと深読みしたりしました。
麻子の妊娠から神話へ、神話から労働をやめた「私」へという
流れははっきり読み取れるのですが、私の思い込み優先の読み方
でいくと、上のようになりました。
言語や貨幣によるコミュニケーションの手段を手に入れるずっと
前から、ホモサピエンスは労働に勤しんでいたとのことです。
(NHK スペシャルの「腰痛」の会で仕入れた知識です)
マルクスによって労働に金銭的な価値が認められるようになり、
搾取とは資本家による賃金の窃盗だと労働者は考えるようになり、
賃金労働から帰宅した後の時間で、労働者は学習する時間を
手に入れることができるようになりましたが、
苦役や労働を神話的な読み方で見ることもできるのだと、
なにかと先入観に支配されている私は新鮮な発見をした思いでした。
あんなにマルクスやエンゲルスが一生懸命計算したのに、
もう今の社会では労働基準法なんて、あってないような世界ですよね。
収入と労働の不公平さを説明してくれる人なんて、誰もいないように
思いますよね、グローバリゼーションなんて言われても、
車を手放さざるを得なくなった三十代は、肩を落とし、希望を
削ぎ落として行くだけですよね。
そりゃあ、自動車の国内販売車数が減っていくわ! と。
なぜ自分(あるいは麻子)は労働するのかの説明は、19世紀や
20世紀の理屈ではもう手に負えないのだろうと思いました。
はっきりとはわからないように書かれているとは思うのですが、
麻子は「私」との子を産んだのでしょうか。>
何処かで赤坊のなく声がした。