WORKING PAPER SERIES 濱田 信夫 日本の新聞産業を牽引した企業家活動 ― 村山龍平と本山彦一 ― (日本の企業家活動シリーズ No.52) 2012/07/30 No.129 The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY WORKING PAPER SERIES Nobuo Hamada Entrepreneurship in Japanese Newspaper Industry: Ryohei Murayama and Hikoichi Motoyama (Series of Entrepreneurship in Japan No.52) July 30, 2012 No.129 The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY 日本の新聞産業を牽引した企業家活動 ― 村山龍平と本山彦一 ― はじめに 村山龍平と本山彦一は、朝日新聞と毎日新聞という日本の主導的メディアの創業期と その後の企業成長期をリードした代表的な新聞企業家であった。村山、本山を取り上げ る理由は以下の通りである。 村山は 1850(嘉永 3)年、伊勢国田丸(現・三重県度会郡)で生まれ、明治維新後、 大阪へ出て雑貨商を営んでいたが、1879(明治 12)年 1 月、 『大阪朝日新聞』の創刊に 協力したことが契機となって、経営危機に襲われた大阪朝日新聞社を譲り受けた。1881 年 1 月、社長に就任し、上野理一との共同経営を通して、昭和初期までに同社を日本の 代表的な新聞企業に育て上げた。 約 45 年に及ぶ相次ぐ経営改革やさまざまな事業アイデアの実践によって、村山に率 いられた朝日新聞社は日本を代表する新聞企業へと成長を遂げた。 一方、本山は 1853(嘉永 6)年、熊本藩の士族の家に生まれ、明治維新期の中で大蔵 省、兵庫県庁の官吏を経て、福沢諭吉が主宰する時事新報社に入社した後、1886 年に は藤田組支配人に招かれ、山陽鉄道の経営や児島湾干拓などの事業に携わった。本山が 新聞事業に携わる契機となったのは、藤田組が出資していた大阪毎日新聞社が経営不振 に陥り、1890 年、相談役として招聘されたことであった。1903 年 11 月、同社社長に就 任し、以後 40 年の長きにわたって新聞経営に専念した本山は『大阪毎日新聞』を率い て、村山の『大阪朝日新聞』と激しい競争を展開した。その過程で、全国紙としての体 制を整え、毎日新聞を朝日新聞と並ぶ新聞社に育てた。 村山と本山は明治初期から昭和前期にかけて日本の新聞がマスメディアへと発展し ていく時代を切り開いた新聞企業家であった。本稿では、日本のマスメディア産業とし ての新聞事業の革新と成長、さらには彼らが掲げた新聞経営の理念とはどのようなもの であったのか、さらには『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』を成長させた村山と本山 の企業家活動について比較・検討する。 1 村山龍平 ― 『朝日新聞』の経営と全国紙への成長 村山龍平 略年譜 年 年齢 1850(嘉永 3) 0歳 摘 要 伊勢国(現・三重県)で、父村山守雄、母鈴緒の長男として出生 1871(明治 4) 17 歳 一家を上げて大阪に移住。西洋雑貨商「田丸屋」を営む 1876(明治 9) 22 歳 木村平八と「玉泉舎」を設立、共同経営へ 1878(明治 11) 27 歳 五代友厚の提唱により、大阪商法会議所設立。最初の議員となる 1879(明治 12) 28 歳 木村平八長男、騰が大阪江戸堀に朝日新聞社を創立し、新聞を創刊 1881(明治 14) 31 歳 木村平八が朝日新聞の所有権を村山龍平に譲渡。資本金 3 万円 1888(明治 21) 38 歳 東京朝日新聞を創刊(大阪で発行する新聞を大阪朝日新聞に) 1895(明治 28) 45 歳 朝日新聞社の経営を大阪朝日新聞会社、東京朝日新聞会社に分離 1901(明治 34) 51 歳 大阪商工協会会頭に就任 1908(明治 41) 58 歳 大阪朝日、東京朝日合併、朝日新聞合資会社発足、社長村山龍平、監 査役上野理一、以後両名で社長、監査役を1年交代で務める 1915(大正 4) 65 歳 本山彦一(大阪毎日新聞) ・徳富蘇峰(国民新聞) ・黒岩周六(萬朝報) とともに、言論人として初の勲三等叙勲 1918(大正 7) 68 歳 右翼団体「黒竜会」の暴漢に襲われる(白虹事件) 1919(大正 8) 69 歳 株式会社朝日新聞社に改組(社長村山龍平、専務上野理一) 1930(昭和 5) 80 歳 貴族院議員に勅撰 1933(昭和 8) 84 歳 死去 (年齢=満年齢) 2 1.新聞企業家・村山龍平の誕生 (1)新聞企業家への道程 村山龍平は、1850(嘉永 3)年、紀州徳川家の支藩であった伊勢田丸(現・三重県度会郡 玉城町田丸)の藩士の家(父村山守雄、母鈴緒)の長男として生まれた。幼名は直輔、そ の後真木太、22 歳で家督を相続し、龍平と名乗った。父守雄は 1871(明治 4)年、明治維 新で生活の転換を余儀なくされ、士族の将来に見切りをつけて一家をあげて大阪に移住し た。1872 年、大阪で当時唐物屋と言われた西洋雑貨商の「田丸屋」を開店し、その後 76 年、 木村平八と西洋雑貨商「玉泉舎」を設立して共同経営にあたった。 村山が新聞経営に関係を持つ端緒となったのが、1979 年 1 月の大阪での朝日新聞社の発 おお しんぶん 、市 足であった。明治前期の新聞は、政治記事、論説を中心にした知識人対象の「大新聞」 こ しんぶん 井の出来事を漢字に振り仮名をつけて絵入りでわかりやすく伝える庶民対象の「小新聞」 があったが、朝日新聞は「小新聞」として出発した。実際の経営には友人の木村騰(木村 平八長男)があたり、編集主幹に津田聿水が就任した。村山はこの時点では名義のみでも っぱら朝鮮半島との貿易に関心を向け、新聞経営にはそれほど興味を抱いていなかった。 早矢仕有的(丸善の創業者)の指導を受け、大阪実業界の有力者らとの共同出資によって 「大阪共立商店」を設立し、朝鮮貿易に着手し、朝鮮を行き来していたからである。 創業当初の朝日新聞社は、資本主の木村平八と編集主幹の津田聿水が経営方針を巡って 対立した。津田が木村に対して、木村父子の個人経営から分離独立し姉妹紙として「大新 聞」を発行することを要求したからである。しかし、この要求は拒絶されたため、津田は 独断で『常磐新聞』を発行するという行動に出た。木村が休刊処分を通告したことによっ て、津田は退社を余儀なくされ、新たに『魁新聞』を創刊し、『朝日新聞』への競争を挑ん だ。その結果、『朝日新聞』の発行部数は1万部を割り込んだ。資金難に追い込まれた木村 は新聞経営への情熱を失い、村山に経営権を譲った。村山が新聞経営に携わるようになっ た時期を同じくして、1880 年 10 月、上野理一が入社した。上野は 1848(嘉永 1)年、丹波 篠山(現・兵庫県丹波市)の豪商の家に生まれたが、家運が衰退して大阪に出て、兵庫県 官吏などを務めた後、朝日新聞社に入社した人物であった。 (2)村山・上野の共同経営 村山龍平の新聞企業家としての実質的なスタートは、1881 年 1 月の上野理一を共同経営 者とした出資金3万円(村山2万円、上野1万円)の匿名組合の設立であった。 村山と上野による朝日新聞社の共同所有・共同経営体制はどのように維持されたのか。 両者は時に対立しあうこともあったといわれる。当時の朝日社内には、上野の系統の人物 として、西村天囚、土屋元作、弓削田精一など、村山の系統の人物として、池辺三山、鳥 居素川、長谷川如是閑などがいたと指摘されている。しかし、両者は朝日新聞社の共同経 営において基本的には利害を共有し、互いに協力者の関係を維持した。 3 経営者としては、村山が積極的拡大を推進したのに対し、上野はどちらかと言えば、堅 実策をとり、裏方的役割を果たしたといわれる。ここには、二人の個性の違いからくる暗 黙の役割分担があったと見なされる。 朝日新聞社が遭遇した数次の経営危機は、この両者が順次改革することによって回避さ れた。後述するように、朝日新聞社は村山・上野の共同経営のもとで、①販売競争と最新 機械の導入、②誌面刷新と部数増、③全国一の新聞発行部数への成長、④『東京朝日新聞』 の創刊と日清戦争報道による部数躍進などを達成し、企業成長を遂げたからである。 (3)初期の改革 村山龍平が経営に乗り出した直後の 1881(明治 14)年 1 月、朝日新聞社に最初の危機が 訪れた。小室信介記者による「平仮名国会論」が新聞紙条例違反に問われ、『朝日新聞』が 3 週間の発行停止処分を受けたためである。発行停止処分は明らかに政府による自由民権運 動の言論活動弾圧の一環であり、収入の道を絶つことによって新聞社の経営を圧迫しよう とするものであった。発行停止は同社にとって初めて体験する試練であり、この処分が長 引けば経営的に苦境に陥ることは必至であった。 この危機を辛うじて切り抜けた村山は、1881 年 3 月から「近日商況欄」という経済欄を 開設した。経済記事というこれまでの「小新聞」にはなかった新しいジャンルを手がけ、 創刊時の 2,586 部が数倍の 1 万 1,378 部へと部数増が図られたのである。さらに同年 9 月、 東京、函館、長崎、上海、釜山などに嘱託の通信員を置き、通信網を拡大した。当時、新 聞社の報道はその所在地中心の狭い範囲のニュースにとどまり、他地方のニュースはその 地方紙から記事を転載することによって補完し合うにとどまっていた。この通信網の拡充 が報道に威力を発揮する事態は間もなく訪れた。1982 年 7 月、京城(ソウル)で軍隊が反 乱して日本公使館を襲撃した事件(壬午事変)をめぐる報道で、『朝日新聞』は号外速報や 釜山駐在の通信員を京城特派員とすることなどによって、終始他紙を圧倒し、部数増につ なげた。 2.朝日新聞社の企業成長 (1) 『東京朝日新聞』の創刊と全国展開 「小新聞」としてスタートした『大阪朝日新聞』は、1882(明治 15)年 7 月、 「吾朝日新 聞の目的」と題する一文を掲載し、読者の注目を集めた。掲載の契機となったのは、1890 年の帝国議会開設を目指して政党結成が相次ぎ、多くの新聞が政党機関紙化するという風 潮のなかで、村山龍平は、『朝日新聞』が「政略を論じる」こと以上に、「江湖の新話」「社 会の奇事」「勧善懲悪の小補」とすべきものであることを訴えた。 言論中心の「大新聞」(政論新聞)に対して、娯楽活動中心の「小新聞」であった『朝日 新聞』は政治に加担することなく報道主義に徹するという考え方を述べたものであるが、 4 1880 年代半ば以降は、従来の「小新聞」の枠から報道・言論活動にも紙面を割くようにな り、その編集姿勢は幅広い読者層を開拓していった。 村山の新聞経営の一大転機となったのは、1886 年 5 月の朝日新聞社東京支局の開設であ る。『大阪朝日新聞』の発行部数が3万部を超えて安定したことをとらえての東京進出であ った。ここには、政治・経済の中心の東京からの情報発信が比重を高めていくことへの対 応とともに、読者拡張という狙いがあったことは言うまでもない。そして進出2年後の 1888 年 6 月、旧自由党幹部だった星亨が経営する『めざまし新聞』を買収し、『東京朝日新聞』 を創刊した。これに伴い、大阪の『朝日新聞』は翌年から『大阪朝日新聞』と改題された。 『東京朝日新聞』の創刊は全国展開の契機となり、そこにかける村山の情熱は尋常では なかったといわれる。『村山龍平伝』[1953]によれば、創刊後「毎日自ら編集室に詰めき り、発砲から集まる原稿に目を通しながら記事の出所からその内容の是非、書き方の巧拙 に至るまでを注意し、常に朱筆を手から話すことはなかった」。その後、1908 年、村山は東 京朝日新聞社を合併・統合し、東西一体の経営体制を確立した。 (2)大量発行体制の整備と販売競争 村山龍平は大衆社会の形成に伴い拡大していく読者層を獲得するため、輪転印刷機に代 表される最新機械の導入による生産力の増大を図った新聞企業家でもあった。1890(明治 13)年、フランスから世界最新鋭のマリノニ輪転印刷機(価格 1 台 6,300 円)を日本の新 聞業界で『東京朝日新聞』に初めて導入し、2 年後の 1892 年には『大阪朝日新聞』にも設 置した。従来の平版の足踏み式印刷機が 1 時間に 4 頁の新聞 1,500 部の印刷能力が限界で あったのに対し、8 ページの新聞が 3 万部も印刷可能となった。 輪転印刷機を設置した村山は、 「議会開設についてまず第一に世人の嘱望して措かざるも のは、その精確なる議事筆記なるべし」 「直ちに精細確実の大傍聴筆記を付録として刊行し、 即時にこれを各愛読者に配布する」と紙上で社告することによって、新鋭印刷機の導入と その性能を読者にアピールした(朝日新聞社[1990])。そして、社告通り、1890 年 11 月の 第一回帝国議会開設とともに傍聴筆記の印刷にその高性能ぶりを発揮し、議会報道で他紙 を圧倒した。この傍聴筆記は全線開通(同年 7 月)した東海道線を利用して大阪にも輸送 され、本紙 2 ページ大の『大阪朝日新聞付録』として本紙とセットで配達された。翌年に はさらに一機が増設されて威力を発揮した。『大阪朝日新聞』は 93 年初頭から紙面を 6 ペ ージ建てに改め、それまでの物価付録を本紙に吸収し、創刊以来初の増ページとなった。 このように、印刷能力を一挙に数十倍に拡大した新鋭輪転機の導入は、新聞の迅速な大 量生産を可能にする“新聞革命”となった。発行部数全国一の新聞社となった朝日新聞社 に対し、一歩立ち後れた『大阪毎日新聞』も 1894 年にマリノニ輪転印刷機を導入し、印刷 能力の面で朝・毎対等の時代を迎えることになった。このような新鋭輪転機による増ペー ジ戦略を中心に、両紙の競争は取材、紙面企画、販売において本格化した。 販売力の強化策として行われたのが紙面刷新である。非政治的な「小新聞」であった『朝 5 日新聞』は厳しい言論取り締まりを受けていた「大新聞」に比して、弾圧を受ける危険性 は小さかったが、自由民権運動の高揚のなかで政治論を取り上げ、社説を掲載していく過 程では、政府の言論取り締まりは朝日新聞社に反政府的言論活動に慎重な態度をとらせる ことになった。こうしたなかで訪れた危機が、1891 年の発行停止命令であった。 「小新聞」 としてニュース本位・娯楽本位の新聞を発行していた同社が国会論を展開するに転じ、そ の批判的な国会報道に対して政府が讒謗律に基づく新聞弾圧という挙に出たためであった。 以後の『朝日新聞』は非政治的な「小新聞」にとどまらなかったが、村山ら経営陣は穏 健中立的言論によって周到に弾圧を回避し、経営の安定化をはかった。当時の『朝日新聞』 が政府に対して穏健中立的論調を展開したことと並行して、政府から極秘の援助を受け、 経営の安定化をはかっていた点について、 「1882(明治 15)年以降、内閣機密費によって密 かに資金援助を受けていた。(中略)資金援助を受け入れていた村山や上野は『朝日新聞』 の『中正な主義』が政府への援護射撃になっていることを十分自覚していた。むしろ、自 らの新聞が『国家並に社会のために』有用性をもっているという密やかな自負をもってい 。 たということもできる」という指摘がなされている(有山輝雄[1987]) 表1 朝日新聞の発行部数推移と経営の動向(1879~1933 年) 年 発行部数(部) 経 営 の 動 向 1879(明治 12) 2,586 大阪江戸堀に朝日新聞社を設立 1880(明治 13) 9,678 京都に西京分局を設置 1885(明治 18) 31,930 紙面を拡張、電報欄を新設 1890(明治 23) 81,200 わが国新聞業界初のマリノニ輪転印刷機を導入 1895(明治 28) 169,056 経営形態を東西の合名会社に改組、両社の経営を分離 1900(明治 33) 186,924 大阪朝日、京都附録、神戸附録を発行(地方版の最初) 1905(明治 38) 241,141 日露講和条約に不満を表明して、政府を連続攻撃 1910(明治 43) 277,392 白瀬中尉の南極探検の後援と義金募集を社告 1915(大正 4) 398,909 「第1回全国中等学校優勝野球大会」を開催 1920(大正 9) 626,088 村山長拳が入社し、計画委員長(取締役)に就任 1925(大正 14) 1,176,927 欧州各国親善の「訪欧飛行」計画を社告 1930(昭和 5) 1,681,744 大阪朝日管内で地方版の1県1版制を実現 1933(昭和 8) 1,885,908 村山龍平死去、社長に上野精一、取締役会長に村山長拳を選任 出所:朝日新聞社[1995]より作成。 注:1839~1885 年の発行部数は大阪朝日、それ以降は東西朝日の合計部数 3.経営危機の克服と全国紙への飛躍 (1)朝日新聞社をめぐる経営課題 明治前半期は朝日新聞社などが創業されたが、当時の新聞企業家にとって多くの制約要 6 因があった。具体的には、新聞業界の外部環境として、政府の激しい言論取り締まり政策、 国民の読み書き能力の低水準があり、新聞業界の内部環境としては、大量かつ効率的な新 聞印刷という生産機構の未整備や流通手段の未発達などによる市場の狭隘化があった。 こうした社会的・経済的条件のなかで、明治維新前後からその後も何千、何百という新 聞ができては潰れるという興亡盛衰が繰り返されたが、こうした制約要因は社会的・経済 的条件の変化や新聞企業家の努力によって、長期的には改善され、市場は拡大した。 村山龍平のように長期的市場の拡大を見通した新聞企業家は、事業の発展や組織拡大の 過程で、対外的にはライバル各社との競争、対内的には事業運営をめぐる社内の葛藤・対 立を順次改革を進めることによって回避していったからである。村山が直面した課題や経 営危機として、①創業以来の赤字体質の解消、②明治後半期の朝日の編集をリードした池 辺三山の退社、③日露戦争後の新聞競争の激化と新聞紙面の急速な多面化、④株式会社化 と全国紙への飛躍、⑤組織巨大化に伴う社内の危機への対応などを挙げることができる。 村山はこれらの課題に適応的行動を取った結果、日露戦争前には約 13 万部であった『大 阪朝日新聞』 『東京朝日新聞』の部数を第一次世界大戦時には飛躍的に伸ばし、1917(大正 6)年には 50 万部を超えた。また、朝日新聞社の業績が創業以来の赤字経営から好転した のは、日清戦争開戦後の 1895(明治 32)年から 1901 年にかけてであった。 赤字経営から脱却した要因として、地道な経営努力とともに、戦争、スポーツ、航空シ ョーといった大ニュースやイベントを重視する販売拡張戦略、そして日清戦争報道の成功 が挙げられる。日清戦争では各社は戦況速報にしのぎを削り、激しい号外合戦を繰り広げ たが、『大阪朝日新聞』は宣戦布告から講和条約調印までの 8 ヵ月余りの間に 146 回の号外 を発行した。このように、戦争をはじめとするニュースや各種イベントによって発行部数 を大きく伸ばした。これには、同紙が従来の言論重視から報道重視の時代へ完全に移行し たことを物語っている。この時期の朝日新聞社は半期ごとに 2 万~4 万円の純利益を計上す る程度までに業績が向上し、内部留保も増大した。 しかし、経営危機は続いた。1907 年の編集部門の主軸であった池辺三山が退社し、村山 ら経営陣にとって打撃を与えた事件である。池辺は『大阪朝日新聞』 『東京朝日新聞』の主 筆兼務であり、紙面の刷新に努力して成果を高めるとともに、二葉亭四迷、夏目漱石らに 多くの名作を残させた編集者であった。この事件の背景には、池辺や鳥居素川、長谷川如 是閑ら編集部門と上野理一ら総務局系の複雑な社内対立、言い換えれば、村山、上野両家 による両頭政治が生み出した対立にその源があったといわれている。 事件の発端は、当時国民的関心事であった白瀬中尉の南極探検事業計画に、池辺ら編集 局系が社として後援する意向であったのに対し、総務局系が後援中止を打ち出したことで あった。加えて朝日文芸欄における森田草平の小説『煤煙』が反道徳的と攻撃され、編集 部門の夏目漱石が森田を解雇するということがあった。池辺はこうした編集をめぐる社内 抗争の責任を取って退社した。池辺の退社を受けて、村山と上野は編集体制の刷新と新た な人材登用を迫られた。 7 村山・上野は 1910 年、東京・大阪両社にそれぞれ 10 名からなる評議会と協議会を設置 した。この評議会・協議会の組織化は両者への権限集中を是正し、あわせて両者を支える 経営人材の登用による権限委譲と人材育成、さらには業務運営の円滑化・効率化を目指し たものであった。さらに、当時の朝日大阪本社では編集面における保守派と進歩派の対立 が顕著であったため、これを憂慮した東京朝日の主筆格であった松山忠二郎はその対立解 消を進言した。村山・上野は社論の統一を図るために 1914(大正 3)年、論説委員の合議 制と 1 年任期の互選による論説主任制を導入し、村山自ら論説主任に就任した。 (2)白紅事件と朝日新聞社の「全面降伏」 朝日新聞社の発展過程で、その存続を揺るがした大事件として、1918(大正 7)年の「白 紅事件」を挙げなければならない。事件の発端は、編集局長鳥居素川が寺内正毅内閣の成 立を「痛烈憲政の賊」「妖怪の出現」と評して外交・内政を痛烈に批判したことであった。 特に、同年 8 月のシベリア出兵について「出兵の理由及び目的・国家を暴くなかれ」と 反対の論陣を張り、米騒動についても政府の責任を追及した。これに対し、米騒動の拡大 を恐れた寺内内閣は治安維持の名のもとに米騒動に関する一切の報道を禁止したが、新聞 各社はいっせいに反発した。8 月、大阪では本山彦一(大阪毎日新聞社社長)、上野精一(朝 日新聞副社長)ら 88 社が結集し、言論擁護と内閣弾劾を求める決議を行った。東京の寺内 内閣弾劾全国記者大会に続いて、大阪関西記者会が開催された。ここには近畿、東海、北 陸、山陰、山陽、九州の各地区を代表する 86 の新聞社が集まり、座長に村山龍平が選ばれ、 内閣退陣要求を決議した。 当日の『朝日新聞』夕刊はこれを大々的に報道したが、検察当局は記事中の“白虹日を 貫けり”という字句を問題にし、権力の転覆あるいは「皇室の尊厳」を冒す疑いがあると し、新聞紙法違反として記者、編集人ら関係者を告訴した。検察当局は初公判で朝日新聞 社に発行禁止を予告したが、発行禁止(廃刊)は一時的な発行停止と異なり、新聞社の死 命を制する最悪の処分であった。“白虹日を貫けり”とは中国の天文伝説で白い虹が太陽を 貫くように見えるのは争乱が起きる前兆という意味であったが、当局は批判的な論調を展 開してきた『朝日新聞』を弾圧する手段としてこれを利用したのである。事件はその 3 日 後の 28 日白昼、村山が右翼団体黒竜会に襲われ、暴行を受けたあげく、「代天誅国賊」の 布切れをつけられて豊国神社の石灯籠にくくりつけられるという形で起こった。 村山は権力者の怒りを知り、その「行き過ぎ」を是正して、『朝日新聞』を「不偏中立」 に戻すために、「村山社長更迭、上野理一社長就任」「編集局長退社」を発表した。これは 言論の立場の固守よりも、企業としての存続の道を選択したものであった。言い換えれば、 村山の「全面降伏」であった。退社は社会部長、通信部長、調査部長、論説委員まで及び、 東西あわせて 50 余名が退社した『朝日新聞』は豊かな人材を失い、存亡の危機に直面した。 このような事態を招いた要因として、かつて「中立」を標榜した『朝日新聞』が政府の 思惑以上に「大新聞」となって広く知識層に受け入れられるまでに成長し、政府に対抗す 8 る存在になった点が挙げられる。昭和戦前期において朝日新聞主筆を務め、戦後は大臣、 副首相、自由党総裁を歴任した緒方竹虎は『朝日新聞』が政府にとって「一大敵国」にな ったと評している。その後の朝日新聞社はこの事件を克服して企業として再生していくが、 そのために事件後、株式会社化など一連の経営改革を進めていった。その意味で、白虹事 件は朝日新聞社に自己の存立基盤である企業性をより自覚させる契機となった。 (3)経営改革と全国紙への飛躍 白虹事件という創業以来の危機に襲われながら、発行部数は 1917(大正 6)年の 50 万部 (大阪 31 万部、東京 19 万部)突破から、24 年には 110 万部(大阪 69 万部、東京 41 万部) に達するなど急速な成長を遂げた。村山龍平は事件の責任をとり、長年にわたる協力者で ある上野理一に社長の後事を託したが、社長職を退いた後も最大の株主であることは不変 であった。経営権を上野に引き渡したものの、それは形式的な引責に過ぎず、いずれ社長 復帰する意向を持っていたと考えられる。事件の翌年の 1919 年 7 月、朝日新聞社は会社形 態を「朝日新聞合資会社」(資本金 60 万円)から「株式会社朝日新聞社」 (同 150 万円)へ 変更した。株式会社への改組を機に、村山は 10 ヵ月ぶりに社長に復帰した。病気療養中の 上野は専務に就任したが、同年 12 月に急死した。 株式会社化を機に、村山は創業以来続いてきた前近代的な経理制度や社員採用・人材登 用制度の刷新に着手した。まず、台湾総督府民政長官だった下村宏(海南)や石井光次郎 など有能な内務官僚をスカウトし、経営管理体制の改善に努めた。経理面では従来の大福 帳的な経理を廃止して簿記を導入し、人事管理においては創業以来の縁故採用を定期試験 による採用へと切り換えた。朝日東京本社が関東大震災による打撃からいち早く復旧し、 新聞発行を再開できた要因として、その経営管理体制が確立していた点が指摘されている。 その結果、『朝日新聞』は関東でも部数トップとなり、全国紙への体制を整えていった。 このような全国紙への成長を促した背景には、日露戦争の勝利による工業生産力の発展 がもたらした雇用の都市集中現象があった。この都市集中化による日本の大衆社会の形成 は新聞の購読者層の拡大を促し、各新聞社は大量印刷体制を構築し、紙面の充実を図ると ともに新しい文化の担い手としてさまざまな事業を展開し、読者を増やし、市場を寡占化 していった。今日、欧米の新聞社と日本の新聞社が著しく異なる特色として、各種事業の プロデュースが挙げられるが、その原点をこの時期の新聞経営にみることができる。 加えて、全国紙としての経営基盤を支えたものとして、収入の二本柱である新聞販売と 広告収入の伸張があった。新聞の発行部数の寡占化は広告収入にも大きな波及効果を有し、 双方が相まって新聞社間の格差を拡大していった。新聞の発行部数増が売上高増に直結す ることは言うまでもないが、発行部数はさらに広告媒体としての評価に直結した。部数が 多い新聞社は広告料金を高く設定でき、広告主との取引においても有利な地位を確保でき るし、その広告収入を販売促進(部数拡張)のための資金に投入すれば、販売競争におい ても威力を発揮することができたからである。1927(昭和 2)年の「広告料金単価」は、 『大 9 阪毎日新聞』1550 厘、『大阪朝日新聞』1490 厘であり、有力地方紙の 2 倍であった(里見 脩[2011]『新聞統合―戦時期におけるメディアと国家―』勁草書房) 。 4.村山龍平の企業家活動の特徴 村山龍平の新聞企業家としての特徴は何か。 第一に、明治維新期に士族の将来に見切りをつけて大阪という商業都市で商人としての スタートを切った人物であった点である。村山が朝日新聞社の経営を引き受けた経緯につ いては述べたが、当初は損失続きの新聞社の経営には難色を示したといわれる。しかし、 木村父子の窮状を傍観できず、朝鮮貿易や手がけていた雑貨商も整理し、経営を引き受け た。内心は困惑したと思われるが、ここには村山ら当時の企業家にみられる利害を超越し た義侠心的なものがあったと推察される。 その後の村山は新聞社間の競争激化や数次の経営危機を克服し、大阪・東京の東西両本 社での発行体制を確立し、全国紙として販路を伸ばしていった。大阪朝日新聞社が危機を 克服できた要因として、村山のオーナーとしての強いリーダーシップやその包容力豊かな 人柄ととともに、投資とその効果に対する合理的計算、組織の管理等の経営的観点を持っ た経営手腕を無視できない。 第二に、村山は本山彦一とともに、新聞を営利事業として確立した最初の人物であると 見なされる点である。明治前半期の新聞産業にあって、村山は創刊当初から営利企業性を 追求し、紙面製作と営業の独立を経営方針として堅持した。当時、新聞は基本的に言論活 動であり、営利性に対する配慮そのものが軽視されていた。村山は基本的には自ら言論活 動に赴くことはなく、純然たる経営者として活動したが、社内における編集と営業の対立 は往々にして村山に持ち込まれることになり、こうした対立の処理を特定の新聞像の提示 ではなく、担当者交替の人事として対応していった。このような経営手法が可能であった 要因として、所有者兼経営者としてゆるぎない権限を保持していた点が挙げられる。 第三に、村山は政治的中立を堅持した大衆紙を経営理念として掲げた新聞企業家であっ た。その意味で、村山は言論においては「中正な主義」からの逸脱は認めなかったし、政 論本位の「大新聞」ではなく、また娯楽本位の「小新聞」でもない「中新聞」を自称した。 このような「中新聞」化の大勢の中で、村山は報道体制の充実を図り、鳥居素川、長谷川 如是閑等の著名な論客を招き、 『朝日新聞』の名望を高めていった。そのなかで、村山は「大 新聞」を一段高く見る新聞序列を受容しつつ、朝日新聞社の発展を「小新聞」である『朝 日新聞』が下から序列を上っていく過程として捉えた新聞企業家であった。こうした村山 の上昇志向の表れのひとつがいわゆる「名士包容主義」であり、このような上昇志向は朝 日新聞社の企業成長の原動力にもなった。そして 1883(明治 16)年には早くも全国第一位 発行部数を達成した。1933(昭和 8)年、村山は死去した。享年 84 歳。前年には覇を競っ た大阪毎日新聞社の本山彦一が亡くなっていた。 10 本山彦一 ― “新聞商品主義”で「大阪毎日新聞」を発展させた新聞企業家 本山彦一 年 年齢 1853(嘉永 6) 0歳 略年譜 摘 要 熊本城下(現・熊本市)で、父本山四郎作、母かのの長男として出生 1874(明治 7) 21 歳 租税寮に出仕。台風で故郷の家屋が崩壊、祖母・母を東京に迎える 1878(明治 11) 25 歳 租税寮に辞表提出。全国漫遊の旅へ 1879(明治 12) 26 歳 兵庫県勧業課に勤務。のち勧業課長、神戸師範学校等の校長を歴任 1882(明治 15) 29 歳 兵庫県属を辞任。大阪新報社社長に就任 1883(明治 16) 30 歳 中上川彦次郎の紹介で、時事新報社(東京)に勤務する 1886(明治 19) 33 歳 吉川泰次郎の紹介で、藤田組支配人に就任。のち総支配人(1895 年) 1890(明治 23) 37 歳 藤田組支配人のまま、大阪毎日新聞社相談役に就任 1893(明治 25) 40 歳 大阪毎日新聞社が株式会社に改組、監査役に就任 1898(明治 30) 45 歳 藤田組総支配人のまま、大阪毎日新聞社業務担当社員に就任 1903(明治 35) 50 歳 大阪毎日新聞社社長に就任 1906(明治 38) 53 歳 電報新聞(東京)を買収、毎日電報と改称 1911(大正 1) 58 歳 東京日日新聞を傘下に収め、毎日電報を統合(廃刊) 1918(大正 7) 65 歳 村山龍平(大阪朝日)・徳富蘇峰(国民)・黒岩周六(萬朝報)ととも に、言論人として初の勲三等叙勲 1922(大正 11) 69 歳 新社屋落成を機に、社長退任を発表するも慰留され、辞表撤回 1930(昭和 5) 77 歳 貴族院議員に勅撰 1932(昭和 7) 80 歳 死去 (年齢=満年齢) 11 1.新聞企業家・本山彦一の誕生 (1) 新聞企業家への道程 本山彦一は 1853(嘉永 6)年、熊本城下(現・熊本市中央区東子飼町)で細川藩士の下 級武士の父四郎作の長男として生まれた。1864 年の父四郎作の死後、家督を継ぎ、非役で はあったが歩御小姓として召し出され、15 歳で藩校の時習館で四書、五経、史記を学んだ。 同窓生にのちに医学者となった北里柴三郎や福沢諭吉の弟子で新聞記者、郵便報知新聞社 社長、政治家となった箕浦勝人らがいた。しかし、明治維新と廃藩置県によって、本山は 小姓を罷免され、時習館の廃校によって、勉学の日々も打ち切られた。 生活の転換と学問を目指した本山は祖母と母を郷里に残して単身上京し、1871(明治 4) 年暮から蘭学者箕作秋坪が主宰する三叉学舎で学ぶ日々を送った。しかし、熊本を襲った 大風害で本山家の家屋が倒壊したことによって、祖母と母を東京に呼び寄せ、大蔵省租税 寮に出仕することになり、4 年間の大蔵省勤務を経て、帰郷した。 のちに本山はこの時すでに将来は新聞への道を歩むことを決意していたと述べている。本 山が新聞事業に関心を抱いた要因として、慶應義塾の福沢諭吉の存在が指摘されている。三 叉学舎で福沢の済世利民思想に興味を持った本山は官吏としての勤務が始まった頃、福沢の 知遇を得た。福沢は本山の熱心な態度を無視することができず、塾生と同様に慶應義塾に自 由に出入りすることを許すとともに、義塾内の出版社に止宿することを許したからである。 その後の本山は兵庫県行政官への転進、大阪新報社への入社、東京の時事新報社への入 社、そして藤田組支配人への就任と、めまぐるしい転身を重ねた。1879 年、兵庫県勧業課 勤務となって再び役人生活に入ったが、勧業課長の牛場卓三(慶応義塾出身)が福沢の紹 介を得て兵庫県令の推薦を得たことがきっかけであった。その後、勧業学務課長、神戸師 範学校長、模範中学校長兼務を歴任するが、1882 年、辞職して大阪新報社(改進党系の政 治新聞)に入社した。大阪新報社は熊本藩校時代の同級生であった箕浦勝人が退社したた め、その代役として入社を推薦されたものであった。しかし、翌 1883 年には大阪新報社を 去り、福沢の招きで前年創刊された時事新報社へ入社した。時事新報社における総編集と いう要職は、本山の本格的な新聞活動への第一歩となった。翌 1884 年には会計局長に就任 し、新聞経営の重要責任を担う地位についた。時事新報社で体得した福沢の「独立自尊」 の精神と実学的思想は、その後の本山の新聞経営のバックボーンになったといわれる。 新聞経営者としての道を歩み始めた本山にとって本格的な転機となったのは、1986 年の 藤田組入社であった。吉川泰次郎(慶應義塾出身、当時、日本有線会社支配人、のち同社 社長)の推薦で本山は藤田組支配人に就任したが、藤田組社長藤田傳三郎の兄・久原庄三 郎の長女キク子と結婚していたことがその間接的な契機になったとも考えられる。 (2)藤田組支配人から新聞経営へ 藤田組において、本山彦一は支配人として山陽鉄道の創設、児島湾干拓事業で非凡な成 12 果をあげたが、『大阪毎日新聞』に関係を持つようになった要因として、彼が支配人を務め ていた藤田組が同紙の発刊に参加した点が挙げられる。 『大阪毎日新聞』のルーツは、1876(明治 9)年に創刊された大阪最初の「大新聞」であ る『大阪日報』であった。『大阪日報』はその後『日本立憲政党新聞』に改題され、関西経 済界のリーダーであった兼松房次郎、藤田傳三郎、松本重太郎らによる“実業界の機関紙” としての発展を図ることになり、1888 年 11 月、 『大阪毎日新聞』に改題された。 大阪の実業家たちが起草した同紙の発行趣意書には「不偏中立の主義による実業新聞」 が謳われていた。この“実業界の機関紙”という構想については、すでに本山は兵庫県勧 業課勤務時代に提出した「新聞経営ニ就テノ卑見」と題された意見書において「実益」「勧 業」を基礎とする新聞発刊の必要性を主張していることは注目される(有山輝雄[1987])。 『大阪毎日新聞』の経営には大阪経済界から兼松房次郎が主幹に就任して直接経営にあ たり、主筆の柴四朗とともに編集・発行を行う体制を取ったが、設立間もないこともあり、 先発の『大阪朝日新聞』等に比しても、経営の実態は弱体であった。その要因として、経 営トップの兼松は本業の兼松商店の経営に注力し、新聞経営に関してはまったくの門外漢 であり、実質的な経営を任された柴は実業新聞を標榜する『大阪毎日新聞』にあって大阪 の経済問題には無関心であり、経営面の手腕にも乏しかった点が挙げられる。 このような状況下で、兼松ら出資者と柴との間に問題が発生していた。中立不偏を発行 方針として掲げたにもかかわらず、柴が後藤象二郎の提唱する薩長閥政府に反対する反政 府勢力の大同団結運動に共鳴し、積極的な参加を行っていたからである。そのために、柴 はしばしば大阪を留守にしただけでなく、その筆になる社説は自然と政論に傾き、実業新 聞を標榜しながら、大阪の経済問題には無関心であった。兼松ら出資者側はこうした現状 を憂慮した結果、柴を更迭するとともに、兼松自らも経営を退き、本山を招聘することに よって経営再建を託したのである。前述のように、本山は青年時代、時事新報社等におい て新聞経営の労苦をつぶさに体験し、新聞経営の要職にあった人物であった。 2.大阪毎日新聞社の再建と企業成長 (1)大阪毎日新聞社相談役への就任と初期改革 1889(明治 22)年 4 月、本山彦一は藤田組支配人在職のまま、株式会社に改組された大 阪毎日新聞社で正式に社務を総括する相談役に就任した。36 歳であった。その後 15 年にわ たる相談役・監査役・業務担当社員という役職での新聞経営への関わり、さらに第5代社 長としての約 30 年間にわたる在任のスタートであった。 本山はその「新聞商品」論に象徴されるように、営利事業としての新聞を強く意識し、 かつ実践した新聞企業家であり、株主から委託を受けた職務として、経営努力によって営 利性の追求を自らの責任と見なしていた人物であった。 大阪毎日新聞社相談役に就任間もなく、①人材招聘による編集・発行体制の強化、②過 13 小資本金の是正、③新聞価格の値下げ、④印刷能力向上のための新鋭輪転印刷機の設置、 ⑤新聞業界初の予算制度の導入等を柱とする一連の改革に着手した。 編集・発行体制の強化については、1989 年 5 月、主筆として時事新報社から渡辺台水、 営業主任として同社大阪、神戸両支局の事務を統括していた高木喜一郎を招聘した。のち に渡辺、高木はともに大阪毎日新聞社社長に就任する。時事新報社からの人材の招聘が円 滑に進んだ背景には、本山に対する福沢諭吉の支援があったことが推測される。次いで 6 月、大阪毎日新聞社の資本金、すなわち従来の出資額 3 万円を 5 万円に増額することを大 阪経済界の出資者に要請して実現した。また部数拡大を目指して、紙面を従来の 6 ページ 建てから 4 頁に減ページし、従来価格の1ヵ月 30 銭を 25 銭に引き下げた。 これらの改革について、本山は社告で「政治上の不偏不党たるを期し、大阪実業界の機 関紙たること」を強調するとともに、読者への周知を図った。このように、本山は渡辺社 長(前主筆)の編集改革と相まって経営刷新を進めた。1893 年、渡辺の死去を受けて後任 には福沢門下で『時事新報』以来、苦労をともにしてきた営業主任の高木が就任した。 さらに、本山は 1894 年、印刷能力強化を目的に当時最新鋭のマリノ二輪転印刷機を導入 した。朝日新聞社に4年遅れての導入であったが、本山は後発という不利な条件を印刷能 力増強や日清戦争への多数の特派員の投入などによって、キャッチアップを図った。 1902 年、本山は一般企業と同様な予算制度を初めて新聞社に導入した。この予算制度は 「毎月はじめに販売、広告の収入予算を見積もり、それを確保することに全力を尽くすと 同時に、通信費その他の支出は必ず収入の範囲内でまかなう大方針をたて、毎月末予算と 決算を対照し、不足があれば翌月これを取り戻すことに努め、余剰があればこれを『活動 の資本』(非常準備積立金)として積み立て」るものであった(毎日新聞社[1972])。この ように、株式会社組織や複式簿記の重要性を知る新聞経営者は、本山、村山等を除けば、 明治の新聞界にはほとんど見当たらなかった。このような一連の経営改革を経て、『大阪毎 日新聞』は『大阪朝日新聞』にとって無視できない存在へと成長を遂げていくことになる。 (2) 原敬との協力による新聞経営 1894(明治 27)年に始まった日清戦争は新聞界にも大きな影響を与えた。相次ぐ戦況報 道に読者の人気が非常に高まったことによって、戦争後は戦況報道に代わって、読者の目 を引きつける報道、言い換えれば、読ませる紙面づくりに新聞社の経営努力が傾注される ようになったからである。この面で、『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』両紙は特に積極 的であったといわれる。 当該時期の『大阪毎日新聞』の課題は、紙面を拡大してニュースの掲載を増やすための 増ページと海外通信網の充実であった。先行する『大阪朝日新聞』は 1896 年 1 月から 8 ペ ージ、99 年 1 月から 10 ページへの増ページを実施し、かつ 1898 年の時点で、ロシア、ド イツ、イギリス、清国、韓国などで 12 の拠点を有し、イギリス・ロイター通信と特約して いたからである。 『大阪毎日新聞』は増ページについては、1897 年 3 月から 8 ページ、1900 14 年 1 月から 10 ページとして追随した。海外通信網の充実は大きな課題として残されたが、 これを解決したのが、1898 年 9 月、高木喜一郎に変わって社長に就任した原敬であった。 のちに首相となる原は当時外交官として著名で種々の経験と実力を有し、新聞記者の経験 もある人物であり、藤田傳三郎の発案によって大阪毎日新聞社に迎えられた。 原は新聞経営者としても非凡な才能を示し、本山彦一も藤田組支配人の傍ら、相談役と して原に協力した。原がまず手がけたことは海外通信網の充実であった。原はその人脈を 生かして、外国常駐通信員としてロンドン在住のジョセフ・モリス、ワシントン駐在のカ ール・オラフリンと特別契約を結んだ。ジョセフ・モリスは 1971 年に工部省の“お雇い外 国人”として来日し、10 年間にわたって日本の電信線架設を指導した技術者であり、カー ル・オラフリンはジャーナリスト出身で、国務次官を務めた人物であった。1900 年当時、 大阪毎日新聞社この両者に加えて、ヨーロッパではパリ万国博覧会に 3 人を特派し、また 清国の北京、天津、上海など 6 ヵ所、韓国の京城など 7 ヵ所、東南アジアの香港、廈門、 トンキン、シンガポールなどに特派員や特約通信員を配置した。また、著名な学者を招聘 し、その論説を一面トップに掲載するなどの新しい試みも行った。 原のような人材を招聘した背景には、大阪の新聞界において先行する『大阪朝日新聞』 の存在に対してキャッチアップを図ろうとする藤田傳三郎や本山ら新興新聞社『大阪毎日 新聞』の気概が読みとれる。しかし、原は 1890 年、伊藤博文が政友会を組織したのを機に 幹事長に就任し、社長を辞任した。後任社長に小松原英太郎が就任するが、3 年後の 93 年 に退陣した結果、本山が衆望を担って社長に就任することになった。51 歳であった。そし て 3 年後の 1896 年には藤田組支配人を解かれ、大阪毎日新聞社の経営に専任することにな った。本山が相談役を務めた高木、原、小松原各社長の時期において、『大阪毎日新聞』の 販売部数は着実に伸び、1892 年には 3 万部に達した。 3.全国紙への成長と経営課題 (1) 戦争報道と新聞経営 日清、日露戦争において、新聞界の企業間競争は激しい戦況報道合戦という形で展開さ れた。日露戦争開戦前夜の 1903(明治 36)年 9 月、本山彦一は社説で政府に開戦の決断を 呼びかける行動に出た。そして翌年 1 月から「夕刊号外」を発行し、緊迫を告げる日露関 係のニュースを中心に編集し、連日にわたって速報に努めた。これを可能にしたのは、日 清戦争の体験を生かして大阪毎日新聞社が国内外に築いた通信網の存在であった。 しかし、戦争報道体制の強化は新聞経営に大きな負担をもたらした。各紙は競って従軍 記者に精鋭を送り戦況の速報にしのぎを削り、この速報競争は激しい号外発行につながっ たからである。号外発行に経営努力を傾注した『大阪毎日新聞』の場合、発行回数は 1904 年 2 月から 1905 年 9 月で 498 回、月平均 22 回であり、全国の新聞の中で最高記録であっ た。因みに、村山龍平の『大阪朝日新聞』も次いで 385 回であった。 15 激しい戦争報道が招いた経営負担に対処するために、 『大阪毎日新聞』は『大阪朝日新聞』 と同様、戦時定価の形で値上げ発表を余儀なくされた。1904 年 2 月 10 日、ロシアへの宣戦 布告の 3 日後、両紙は「今回の大戦争に関し通信その他多大の費用を要し、止むを得ず両 者協議の上、本月 16 日より戦争機関に限り、新聞定価一箇月金 48 銭に改正致し候」と共 同社告を行い、戦時定価として購読料を月 40 銭から 48 銭に値上げした。 この日露戦争報道で『大阪毎日新聞』は報道で他紙を引き離したという指摘がなされて いる。それは 1905 年 6 月 2 日の、米国のセオドール・ルーズベルト大統領が日本とロシア の調停に乗り出す意思があることを報じたことに始まる。本山が原敬の人脈で獲得したワ シントン通信員でルーズベルトと親しかったカール・オラフリンのスクープであった。そ の後のポーツマス講和会議をめぐる報道でも他紙に先駆けた報道を行った。 表1 毎日新聞の発行部数推移と経営の動向(1890~1932 年) 年 発行部数(部) 経 営 の 動 向 1890(明治 23) 不明 本山、大阪毎日新聞社の相談役に就任 1895(明治 28) 不明 ドイツから木内伊之助帰国、再び編集を主宰 1900(明治 33) 不明 ジョセフ・モリスをロンドン常設特派員に 1905(明治 38) 201,561 米国大統領の日露講話斡旋の意思表示をスクープ 1910(明治 43) 262,845 日刊併合条約をスクープ、資本金を50万円に増資 1915(大正 4) 626,137 地方版を増設 1920(大正 9) 971,044 布施勝治、革命後のロシアへ最初の日本人記者として入る 1925(大正 14) 1,941,004 大阪毎日、1万5千号 1930(昭和 5) 2,504,993 東京日日、発行部数百万部突破 1932(昭和 7) 2,560,199 本山彦一死去 出所:毎日新聞社[1952]より作成。 注:1890~1900 年の発行部数は大阪毎日、それ以降は大阪朝日、東京日日の合計部数 (2) 東京日日新聞合併による東京進出 本山彦一は『大阪毎日新聞』を『大阪朝日新聞』と同様、地方紙から全国紙として成長 させる構想を抱いていたが、『大阪朝日新聞』が東京に『東京朝日新聞』という姉妹紙を有 していたのに対し、『大阪毎日新聞』は大阪地区での新聞発行にとどまっていた。 『大阪朝日新聞』への対抗策として、本山は東京の『電報新聞』の買収を検討し、1906 年 6 月、『電報新聞』を買収(『毎日電報』に改称)することによって、東京の新聞市場に 進出した。朝日新聞社に 20 年ほど遅れての東京進出であった。 しかし、『毎日電報』は販売不振で、赤字経営が続き、本山の『電報新聞』買収は失敗と みなされた。本山は『電報新聞』の経営不振の責任を取って、その廃刊と自らの辞表を提 出したが、受理されなかった。この本山の窮地を救ったのが、日本最古の大新聞(1872 年 16 創刊)である『東京日日新聞』が所有主の三菱から売りに出たことであった。本山は『東 京日日新聞』を手中に収め、1911 年 3 月、『毎日電報』を合併させ、『東京日日新聞』を存 続紙とし、 『毎日電報』を廃刊した。当時、 『東京日日新聞』の発行部数は 2 万 5,000 部、 『毎 日電報』は 3 万 3,000 部であり、両紙合わせて 6 万部の新聞が誕生したことになる。東京 日日新聞社は大阪毎日新聞東京支店東京日日新聞販売所となり、本山は東京での拠点を確 保することによって、全国紙への飛躍の足がかりをつかんだ。 『大阪毎日新聞』が全国紙を目指す第一ステップとして東京進出を計画し、東京日日新 聞社の合併に成功したことは、同社の企業成長において大きな意義を有していた。さらに その後、 『東京日日』は関東地区を中心に飛躍的な部数増を達成し、1942(昭和 17)年、政 府の新聞統合政策の下で『毎日新聞』に改題された。 (3)新聞商品主義の提唱 前述のように、本山彦一は新聞経営の基本的課題として、 「新聞商品主義」を掲げ、実践 したことで知られる。新聞商品主義の特徴は、「新聞紙は事実報道の機関」にして、「決し て指導機関即ち所謂社会の木鐸にあらずと信ず」とし、「新聞は商品なり、新聞企業は限り なき実業の一種」と述べ、新聞事業を公益事業であるとともに営利事業であると位置づけ た点である(大阪毎日新聞社[1929])。 売れる新聞をつくることが商品として重要であり、売上増によって経営体質を確立し、 新聞社としての独立性を維持しその権威を発揮したいという考えであった。今日と違い、 木鐸意識が根強く新聞界を支配し、商品ということを卑しむ傾向があったなかで、新聞を 商品、新聞社を営利事業と言い切ったのは、当時の新聞経営者として勇気ある発言であり、 建前抜きのホンネを示した言葉であった。 1924(大正 13)年は大阪朝日新聞社と大阪毎日新聞社がともに初めて大学卒業生を正式 に採用した年であるが、本山は新入社員に宛てた「個人としての余の新聞政策」において、 新聞社は事実報道の機関であり、指導機関すなわち社会の木鐸ではない、新聞紙は商品で あり、新聞事業の設備充実、独立性維持のために必要であると述べている。報道機関とし ての事業遂行には、健全な財務体質を築くことが不可欠であり、そのためには、 「迅速報道 主義」 「事件網羅主義」で読者の支持を得て、部数増によって販売収入と広告収入を伸ばす 必要があるというのが、本山の主張であった。 新聞商品主義の遂行のために、本山は編集営業両輪主義を掲げ、従来いわゆる無冠の帝 王的な地位にあった編集局員を営業局員と同列に置いて、それまで編集局に従属的な存在 と見なされがちであった営業局の地位を押し上げた。ここには、新聞を商品として売り、 輪転機を高速度に回転させるためには、社内における編集・営業両部門の密接な協力・連 絡、他方では販売店主と地方通信委員の相互協力が不可欠であるという考えがあった。 このように、本山の眼は言論機関としての新聞社に不可欠な人的資源である編集記者の あり方についても向けられた。1922 年に発表した「個人としての余の新聞政策」において、 17 「新聞の権威は記者その人の人格に正比例す。而して新聞社は記者その人を得て、ここに 初めて真に言論機関たるの資格をそなえ、したがって社会の木鐸ともなるべし。故にその 記者たるものは真の経世家にあらずんば不可なり」と述べていることは注目される。本山 は毎日新聞社が一般の事業会社と同様、予算制度を実施し発展している点を挙げて、記者 は単なる「木鐸では困る。営利会社と同じく社員として、本社の繁栄のために努力しても らわなければならない」と記者のあり方を述べている(大阪毎日新聞社[1929])。 ここには、報道機関としての事業遂行には財務体質強化が課題であり、そのためには新 聞は商品でなければないという一貫した考え方があった。現代では極めて常識的な考え方 であろうが、木鐸を意識した当時の特に東京の新聞経営者からは聞くことのできぬ意見で あった。この点で、村山龍平には本山ほど率直に新聞商品論を示す言葉は見当たらないが、 1908 年に合資会社に改組した際に発表した「新聞編集要項」の第 3 項で「社運の隆盛を冀 図する」と述べていることは、本山の「本社の繁栄のために努力する」と符合する。大阪 の両紙の経営者がともにいち早く企業経営の立場を重視していたことが明らかである。 本山の新聞商品主義について、有山輝雄は「本山に限らず多くの新聞経営者が暗黙裡に 保有する思想の公然たる言明と受け取られたが、多くの経営者が敢えて言明しないことを 露悪的なまでに主張し」「『新聞商品』論を体現する人物とみなされることになった」と指 摘している(有山輝雄[1987])。 このような本山の新聞事業に対する見方は、新聞の指導的地位を確信していた当時の旧 式新聞人を驚かせる一方で、批判を受け、世間の議論を呼び起こした。しかし、本山には その新聞観を実行する手腕と事業家として叩き込まれた経験と自信があった。新聞商品主 義に基づく編集営業両輪主義を掲げた本山にとって、人材確保の必要性が強い持論であっ た。彼は大阪毎日新聞社の経営に携わった際にも、時事新報社から人材を招聘したが、特 に東京進出以来、優れた人材を擁しているといわれた『朝日新聞』と東西で対抗していく ために、その必要性を痛感していた。そのために採った方策が新聞社における初の海外留 学生の公募であり、大学卒業生の正式採用であった。 1911(明治 44)年 1 月、社告で海外留学生を大々的に公募するという画期的な試みを行 い、初年度採用された 3 名はイギリス、ドイツ、オーストリアに 3 年間派遣され、1918(大 正 7)年に第 2 回、20 年に第 3 回、22 年に第 4 回の留学生募集を行い、合計 12 名の留学生 が派遣された。その中から黒田乙吉、上原虎重、楠山義太郎、長岡克暁など、同社を担う 人材を輩出した。さらに 1924 年、大阪朝日新聞社と同時であったが、大学卒業生を正式に 社員として採用した。 4.本山彦一の企業家活動の特徴 本山彦一の新聞企業家としての特徴は何か。 第一に、本山が新聞商品主義を掲げた企業家であった点である。その事業理念と実践、 18 そしてさまざまな経営革新が功を奏し、毎日新聞社は本山が死去した 1932(昭和 7)年に は、『大阪毎日新聞』150 万部、『東京日日新聞』100 万部、あわせて 250 万部の発行部数を 獲得し、朝日新聞社とともに当時のマスメディアの先頭に立ち、他紙を寄せ付けぬ勢いで 成長を遂げた。 第二に、毎日新聞社が新聞企業としての存続・成長していくために、本山が藤田組の経 営などを通して得た経営手法やスキルを生かして、さまざまな改革を主導した点である。 例えば、1922(大正 11)年 5 月、本社新社屋の落成を機に社長辞任を表明しつつ、人事刷 新、業務の革新、財政再建等の経営合理化を社内に呼びかけた。同業他社との競争激化や 事業規模の拡大に伴う業務の複雑化のなかで、懲罰、解雇(退社)、転籍等を柱とする大阪 毎日新聞社の人的生産性の向上を企図したものであった。また、1923 年 10 月には関東大震 災後、通信交通手段の復旧に多額の費用を要しつつ、営業不振と広告収入激減に見舞われ た同社の危機的状況下で、東西社員の意思疎通、業務連絡の緊密化など、社内各部門の「協 同一致」を訴えている。さらに、1924 年には企業成長を遂げた社内の人心弛緩を憂慮し、 「本社の業務革新・財政整理に際し、人員淘汰のやむをえざるに至り」とし、人員合理化 による経営改善計画を打ち出している。 1924 年当時、250 万円の資本金全額払込みが必要とされ、当期末では約 150 万円の借入 金を必要とする状況にあったので、大阪毎日新聞社の経営の前途は楽観を許されなかった といわれる。このような経営環境下で、社内の「行政組織を変え、いわゆる行政ならびに 財政の整理や人事の異動更迭の必要を痛感せり」とし、社員の解雇・退社による人員削減 を実行に移した。いずれも他社に先行した経営刷新であった(大阪毎日新聞社[1929])。 前述のように、本山は他の新聞企業に先行して予算制度を実施したが、こうした財務体 質改善を指向した健全財政主義という考え方は、藤田組支配人として山陽鉄道創設などの 事業を推進してきた経験から生まれたと推測される。『大阪毎日新聞』の成長はこのような 藤田組の経営等で培われた本山の事業感覚とリーダーシップと同時に、大阪毎日新聞社の 資本的背景、その新聞観などが大阪という土地において支持を獲得することができたこと が主因であろう。『大阪毎日』の支持基盤は大阪の実業界と商売一筋の大阪の民衆であり、 本山は新聞商品主義に基づく事業の営利性と大阪という地の利を得て、『大阪毎日』を『大 阪朝日』と並び称される地位へと高めたのである。 さらに、本山は新聞発行にとどまらない事業展開を探った企業家でもあった。1920 年 2 月、新聞改造調査会を社内に設置し、大阪毎日新聞社を①世界調査、②内外通信、③新聞 発行、④通信講座、⑤社会事業の 5 部門に分け、それぞれの部門が独立して予算を定めて、 自立的に事業を展開するという改造案を提起した。第一次大戦後の変転する国際情勢のな かで、新聞企業のあるべき姿を模索したものであろうが、その多くは現代の新聞社では形 態の相違はあれ、実現されている。このように時代の動きを察知して独特の発想を展開す るところにも、本山の企業家としての特徴の一端があった。1932(昭和 7)年、本山は死去 した。享年 80 歳。 19 おわりに 村山龍平と本山彦一は、明治初期から大正・昭和戦前期において、ほぼ同一の方向を目 指して朝日新聞社と毎日新聞社を拡大・成長させた新聞企業家であった。 メディア史研究においては、日本の新聞は明治末期から大正期にかけて「企業化の本格 的発展」「新聞の寡占化」「商業化」が進行したという指摘がなされている。量的拡大を目 指す新聞企業は競って「不偏不党」を自称することによって党派を超えた読者の広がりを 求めていった。こうした観点からは、村山の『大阪朝日新聞』、本山の『大阪毎日新聞』は 「新聞の寡占化」の先頭に立っていた典型的な商業新聞であった。 村山と本山の企業家活動には多くの共通点がある。 第一に、当時の新聞業界にあって、営利性を追求した点である。営利を追求した背景に は、職務としての経営者という意識があった。村山は新聞社の所有者であり、本山は所有 者ではなく株主から委託を受けた経営者という相違点はあったが、両者とも経営者として の職務に忠実であり、経営努力によって利益を上げることを自らの責任と見なしていた。 このように、新聞社が営利企業だという考えを彼らが堅持した背景には、一つには商工業 都市・大阪という環境によるものであろうが、より重要なのは、両者とも新聞経営に乗り 出す前に実業界を経験していたことである。村山には明治維新期の創業や多彩なビジネス 経験で培った進取の気性が、本山には若き日に学んだ福沢諭吉の「独立自尊」の精神、そ して藤田組で体得した経営の発想があった。 第二に、明治前半期の新聞界において、「中新聞」化を目指したのは『大阪朝日新聞』に 限らず、新聞界全体の大勢であった。実業界の新聞として当時、『報知新聞』のような「大 新聞」も「小新聞」の要素を取り入れ、このように常に時代のニーズと読者大衆の要求に 適合的な行動を取ることによって全国紙へ飛躍した点で、朝日新聞・村山龍平、毎日新聞・ 本山彦一の共通性がある。その結果、村山、本山ともさまざま経営危機を克服しつつ、関 西地域で『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』を二大新聞に成長させ、その後に東京進出 を図った。東京進出は両紙が全国紙として飛躍する重要な契機となった。 村山の『大阪朝日新聞』『東京朝日新聞』、本山の『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』とい う、いわゆる大阪系4紙は、その後も経営、報道両面で他紙を引き離し、飛躍的に発展を 遂げた。村山・本山は互いにタイプの異なる新聞企業家といわれてきたが、両者は先行す る『朝日』を『毎日』が追いかける形で、新聞経営の近代化に向かって激しい競争を展開 した。競争を支えたのは、新聞経営者としてのいずれ劣らぬ企業家精神であり、両者は新 聞界において一頭地を抜いた存在であった。 20 参考文献 ○テーマについて 岩井肇[1974]『新聞と新聞人』現代ジャーナリズム出版会。 岡満男[1987]『大阪のジャーナリズム』大阪書籍会社。 有山輝雄[1987] 「村山龍平と本山彦一」田中浩編『近代日本のジャーナリスト』お茶ノ水 書房。 ○村山龍平について 朝日新聞社編・刊[1990]『朝日新聞社史 明治編』 。 朝日新聞社編・刊[1991]『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』。 朝日新聞社編・刊[1995]『朝日新聞社史 資料編』 。 朝日新聞社編・刊[1953]『村山龍平伝』。 今西光男[2007] 『新聞資本と経営の昭和史―朝日新聞社筆政・緒方竹虎の苦悩』朝日新聞 社。 土屋礼子[2009] 「村山龍平―『朝日新聞』を全国紙に育てた経営者」土屋礼子編著『近代 日本メディア人物誌―創始者・経営者編―』ミネルヴァ書房。 ○本山彦一について 毎日新聞社編・刊[1952]『毎日新聞七十年』 。 毎日新聞社編・刊[1972]『毎日新聞百年史』 。 毎日新聞社編・刊[2002]『「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流 130 年―』 。 大阪毎日新聞社編・刊[1929]『稿本本山彦一翁伝』 。 佐藤英達[2008]『藤田組の経営者群像』中部日本教育文化会。 奥 武則[2009] 「本山彦一新聞紙も一種の商品なり」土屋礼子編著『近代日本メディア人 物誌―創始者・経営者編―』ミネルヴァ書房。 21 The Research Institute for Innovation Management, HOSEI UNIVERSITY 〒 102-8160 東 京 都 千 代 田 区 富 士 見 2-17-1 TEL: 03( 326 4) 9 420 F AX: 0 3( 32 64) 4 690 URL: http:// www.hosei.ac.jp/ f u ji m i / r i i m / E -m a i l : c b i r @ a d m . h o s e i . a c . j p 禁無断転載
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