M1 CONTACT Striving to develop and spread contemporary dance

国際交流基金 The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Presenter Interview
2016.2.8
プレゼンター・インタビュー
M1 CONTACT
Striving to develop and spread contemporary dance in Singapore
シンガポールのコンテンポラリーダンス普及と発展を目指す
M1 CONTACT
クイック・スィ・ブン
Kuik Swee Boon
シンガポールにおけるコンテポラリーダンスの普及をリードしてきたのが、クイック・
スィ・ブンだ。ナチョ・デュアトが芸術監督をしていた頃のスペイン国立ダンスカンパ
ニーでダンサーとして活躍した後、2007年に帰国。翌年、T.H.E.ダンスカンパニー
*1 M1 CONTACT コンテンポラリーダン
ス・フェスティバル2015 プログラム
・コンティニュウム・ダンス・エクスチェンジ
・ダイバーシティ DIVERCITY
・T.H.E.ダンスカンパニー「トリプルビル:フ
ロム・イースト・トゥ・ウエスト」
・アジアン・フェスティバル・エクスチェンジ
・東 南 ア ジ ア 振 付 家 シ ョ ー ケ ース Sea
Choreographers’Showcase
を結成するとともに、2010年には自らが芸術監督を務めるM1 CONTACT コン
テンポラリーダンス・フェスティバルを立ち上げ。ヨーロッパでの経験と人脈を活か
し、シンガポールだけでなく、東南アジアのコンテンポラリーダンスの交流と育成を
図ってきた。セッションハウス、横浜ダンスコレクション、福岡ダンス・フリンジ・フェ
スティバルとも連携するなど、日本とも活発に交流する彼にダンス交流に懸ける思い
をインタビューした。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]
・インターナショナル・アーティスト・ハイラ
イツ・M1オープン・ステージ
■
シンガポールのコンテンポラリーダンス・シーンを育てる
M1 CONTACT
─スィ・ブンさんが芸術監督を務めている M1 CONTACT コンテンポラリーダンス・
フェスティバルは 2010年にスタートし、2015年は11/26 ~12/12 にかけて行われま
した。7 つの特徴あるプログラム(*1)が組まれているのがユニークですね。全体の
プログラムの説明をしていただけますか。
「コンティニュウム・ダンス・エクスチェンジ」は教育プログラムで、アジア各国のダ
ンス教育を行っている学校に通う、将来プロのダンサーを目指す若い生徒達のための
プログラムです。シンガポールの SOTA(School of the Arts)とナンヤン芸術アカデ
ミー、ラサール芸術大学、オーストラリアからはヴィクトリア芸術大学、韓国の国立
芸術大学、ニュージーランド・ダンス学校の生徒たちによる公演を行い、一緒にクラス
を受けたりしました。アジア全体で問題意識を持ち、各国のダンス教育のシステム改
善について意見を交わし研究する場です。
「ダイバーシティ」は多様性(DIVERSITY)と都市(CITY)をかけた言葉で、シンガ
ポール各地から若手のカンパニーのショーケースを毎日5作品、2日間上演しました。
また、
「T.H.E. ダンスカンパニー トリプルビル・フロム・イースト・トゥ・ウエスト」は
アジアとヨーロッパの振付家がカンパニーに振り付けるもので、私、スペインのイラト
クセ・アンサ、インドネシアのジェコ・シオンポの 3人が振り付けました。
─私は今回のフェスにうかがい、
「アジアン・フェスティバル・エクスチェンジ」から
拝見しました。日本からは川村美紀子や香取直人が参加していました。タイトルに「エ
クスチェンジ(交流)」とあるとおり、
「横浜ダンスコレクション」や「福岡ダンス・フリン
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ジ・フェスティバル」
「ソウル・パフォーミング・アーツ・フェスティバル」
「d'MOTION
インターナショナル・ダンス・フェスティバル(マレーシア)」など、アジアのフェスティ
バルと連携したものでした。
はい。香取はマレーシアのアミー・レンとのデュオでした。川村は私たちのセカンド・
カンパニーに振り付けました。このプログラムでは、アジアの若いアーティストが出会
い、互いの考えを知ることが重要だと考えたからです。クリエイションを通して、身体
T.H.E.ダンスカンパニー
『オーガナイズド・カオス 』
Organized Chaos
(2014 年)
振付:クイック・スィ・ブン、キム・ジェドク
不 条 理で混 沌とした世界における普 遍 的な
人間の有り様、社会情勢への呼応がコンセプ
ト。人間の行動を決定づける現在のルールに、
批評的な眼差しを向け、理屈と合理性を破り
捨てて新たな解釈をダンスとして表現する。
のとらえ方、動きの作り方、その背景にある文化、物の見方といった「ダンス以上の何
か」を理解し合えたと信じています。連携するフェスティバルは、どんどん増やしてい
くつもりです。
─東南アジア振付家ショーケースでは、東南アジアのアーティストが紹介されていま
した。
シンガポールのダニエル・コック(Daniel K)、インドネシアのアンダラ・モエイス
とモ・ハリヤントらの作品を上演しました。自分が変わるには、周りを変えていかなく
てはなりません。シンガポールが属している東南アジアでは特にそうです。だからフェ
スティバルによって、東南アジアのより多くのアーティストと知り合う機会を提供する
ことが大切だと考えました。
─アンダラ・モエイスが上演した作品は、ローザスが運営しているベルギーのダン
ス学校P.A.R.T.S.で出会った日本人ダンサーとつくったものですよね。
そうです。インドネシア・日本・ベルギー・シンガポール─世界はとても小さいで
すね(笑)。
それから、
「インターナショナル・アーティスト・ハイライツ」では世界中から招聘し
Photo: Kuang Jingkai
た最高レベルの作品を上演するというものです。今回はオーストラリアのチャンキー・
ムーブと韓国の「R.se ダンスカンパニー」、スペインのイラトクセ・アンサの作品でし
た。また、
「M1 オープン・ステージ」では公募によって選ばれた人たちが、2回に分け
て10作品
(公募7作品とゲスト3作品)を上演しました。このなかから各国のフェスティ
バルに招聘されるのですが、今回はスペインのマスダンサ MASDANZA、マレーシア
の国際ダンスフェスティバル d’Motion、ソウルの New Dance for Asia に招聘が決
まりました。
─ フェスティバルの概要について聞かせてください。後で改めて伺いますが、あな
たは 2007年にスペインからシンガポールに帰国し、翌年カンパニーを設立。その 2年
Photo: Joseph Nair
後にこのフェスティバルを立ち上げています。ずいぶん急な展開ですね。
そうする必要があったからです。私が帰国した当時、シンガポールではまだ「コンテ
ンポラリーダンスは難しくて、理解できなくて、楽しめない」という反応が大半でした。
その印象を変えるには、カンパニーの活動だけでは十分ではなかった。こうした状況
はシンガポールだけのことではなく、近隣の東南アジア全体でもっと国際的な視野か
らコンテンポラリーダンスについて考え、教育する機会をつくることが必要だと思いま
した。ですから、初めから“国際フェスティバル” をイメージして M1 CONTACT を立
ち上げました。素晴らしいアーティストに出会うと、人は情熱的になり、他人にも伝え
たくなりますから。と同時に、私は常に「ここから何を学ぶことができるか」を自問自
答しています。
─どうプログラムすれば良いフェスティバルになるかは難しい問題です。今日では有
名なカンパニーを招聘するだけでは十分ではありません。ダンスについて考え、学び、
交流するといったサブプログラムが充実していることが重要になっています。
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そのとおりです。前回までは有名カンパニーをプログラムすることは避けていました
が、今年はオーストラリアのチャンキー・ムーブを招聘しました。それは彼らの仕事が
良いと思うからで、決して有名だからということで決めたわけではありません。フェス
ティバルに招聘することで一緒に仕事をする可能性のあるアーティストとの繋がりを広
げていきたい。それがアジアの国々にとって、とても重要なことだと思っています。
─ 現在のチャンキー・ムーブの芸術監督アヌーク・ファン・ディジクはオランダ人で、
かつて日本のフェスティバルにも招聘された人です。彼女はチャンキー・ムーブが公募
して決めた芸術監督で、オランダの自分のカンパニーを解散してオーストラリアに移住
しているそうです。驚きましたが、ヨーロッパとアジアの立ち位置が変化していること
を実感しました。
まさにアジアは激変しています。シンガポールが位置する東南アジアには多くの国
が近接していますが、日本から7時間、北京から 6時間も離れています。台湾からも
遠く、これらの国とはあまり積極的に関わってきませんでした。しかし変化することが
必要なんです。だからこそ今は、日本・中国・韓国、さらにはオーストラリアやニュージー
ランドとも繋がりを持っています。
─フェスティバルのプログラムを拝見して、いまの話を伺うと、あなたのイメージす
るアジア像が同心円状に広がっていっているのがわかります。まずはシンガポールと隣
りのマレーシア、そして様々な国が近接する東南アジア、さらに日本・韓国・中国の北
東アジアや環太平洋のオーストラリアと展開する。極めて戦略的だと思います。ちな
みに、フェスティバルの予算について伺えますか。
カンパニーとフェスティバルは、同じスタッフ(フルタイムが 5人、パートが 2人)が
共通の年間予算で運営しています。メインは NAC(ナショナル・アーツ・カウンシル)
から 52万SGD(約4,300万円)、M1から 8万SGD(約660万円)です。M1は電 話
会社で様々な文化事業を助成しています。あとはチケットセールスと国際交流基金な
ど他国からの資金です。エスプラネードや国立美術館の劇場、ラサール芸術大学など
も会場のサポートをしてくれています。
1990年代のシンガポールのダンスシーン
─あなた自身について聞かせてください。ダンスを始められたのはいつ頃ですか。
私は1973年にマレーシアのジョホール州バトゥパハに生まれました。とても小さな
街で、あまり芸術とは縁がなく、私の学校生活も普通に勉強が中心でした。15歳で
バトゥパハ舞踊団に入団しましたが、これは中国人コミュニティのためのもので、プロ
フェッショナルではありません。マレーシアはマレー人・中国人・インド人などからなる
多民族国家なので、それぞれのコミュニティで伝統的なダンスを学ぶのです。
─バトゥパハ舞踊団で学んだのはどんなタイプのダンスですか。
中国の伝統舞踊の要素が入ったコンテンポラリーダンス、といってもマース・カニン
ガムなどのようなものです。ただ単に伝統を引き継ぐだけではなく、文化が何か新しい
ものへと発展していく未来が見えて、ワクワクしました。バトゥパハ舞踊団のタン・リ
アン・ホー先生からは多大な影響を受けました。15歳は人生の意味などを模索する多
感な時期ですが、私には彼らがダンスによって世界に反応していく様がたまらなく魅力
的に映り、ダンスにのめり込んでいきました。
しかし、当時のマレーシアではプロのダンサーになるのは難しかったので、1991年、
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18歳になる直前にシンガポールに移り、
「シンガポール・ピープルズ・アソシエーショ
ン」に入りました。ここで伝統舞踊、ジャズ、ヒップホップ、バレエ、インド舞踊やマレー
舞踊など様々なジャンルのダンスを学びました。私にとっては初のプロフェッショナル
なダンスのトレーニングで、バックグラウンドをつくることができました。ただこれは
「新しい文化を生み出す」というよりも、
「一般の人々が喜ぶダンスを踊る」という感じで
した。人々を繋げる政治的な意味合いもあったのだろうと思います。しかし、私はもっ
と芸術的なダンスを踊りたかったので、結局1年もたたずに辞めることにしました。ちょ
うどシンガポール・ダンス・シアター(SDT)の芸術監督アントニー・タンが私のことを
ワークショップで見てカンパニーへの参加を打診してくれたので、参加することにしま
した。
─ SDT はシンガポールを代表するカンパニーです。現在はバレエをベースにした作
品が多いようですが。
そうです。私にはバレエの基礎もなかったので、ここで覚えました。SDT ではバレ
エ作品とコンテンポラリー作品を 2 シーズンずつ公演します。イリ・キリアンやオハッ
ド・ナハリン等の作品を踊り、とても楽しかったですね。私は SDT に11年間在籍しま
した。
─当時のシンガポールでは、どんなダンスに人気があったのでしょう。
シンガポールのダンスカンパニーとしては、SDT、そしてダンス・ディメンション・
プロジェクト(2001年に ECNADと改名)、アーツ・フィッション・カンパニーなどで
すね。国際的にはゴー・チョーサン
(1948 ~ 87 )が有名でした。彼は生前、ワシントン・
バレエ団の准芸術監督と専属振付家として活躍しました。
90年代のシンガポールでは、今とは違いアメリカのカンパニーが多く紹介されてい
た印象です。私のお気に入りは台湾のフィジカル・シアター・カンパニー
「優劇場
(1993
年に優人神鼓と改名)」でした。特にポーランドの演出家イェジー・グロトウスキの作品
からインスパイアされた作品が好きでしたね。
─ スィ・ブンさんが過ごした1990年代のシンガポールは、87年にアルビン・タンの
ネセサリー・ステージ、88年オン・ケンセンのシアター・ワークスなど舞台芸術の新し
い波がありました。77年からはシンガポール・アーツ・フェスティバル(2007年から
ロー・キーホンが芸術監督)も開催されているなど、アートシーンが大いに盛り上がり
ましたが、こうした流れと接触はありましたか。
私は1991年にシンガポールに来たので、それが当たり前だと思っていましたね。ケ
ンセンやキーホンと本格的に交流が始まったのは、私がスペインから帰国し、2008
年にカンパニーを立ち上げてからです。ケンセンの仕事には当時から注目していて、大
いに刺激を受けていました。キーホンは、今では私のカンパニーを最もよく招聘してく
れるディレクターのひとりです。
ダンスで言えば、90年代はやはりバレエやネオクラシカルなものに人気がありまし
た。ダンス・ディメンション・プロジェクトなどは、この頃ジャンル横断的な表現に注
力していました。また SDT も創設は1988年で、私が参加した当時はまだ若いカンパ
ニーでした。SDT は民間でダンサーをフルタイムで雇用したシンガポール初のカンパ
ニーで、7人のダンサーがいました
(現在は 30名以上)。
私の最初の振付作品は92年。
『シンプル・トラブル』という、6人の振付家が短いシー
ンをつくっていくオムニバス作品でした。振付の経験は、パフォーマーとしての自分を
成長させてくれます。考えていることをダンサーや観客に伝える方法を発想しますし、
照明や音楽のことにも気を使いますから。
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ナチョ・デュアトとの出会い
─ SDT で活躍していたあなたが、スペインに渡るきっかけは何だったのですか。
そろそろ次のステップを考えていた 2002年に、ナチョ・デュアトのスペイン国立ダ
ンスカンパニーがシンガポールで公演をしたんです。衝撃でした。動きのボキャブラ
リー、音楽の使い方、全てが素晴らしく、精密で、かつ情熱的でした。私はナチョの
カンパニーのマネジャーに「このカンパニーで踊りたい!」と訴えました。
「来年スペイン
でオーディションがあるから受けたらいい」と言われましたが、自分でも押さえきれな
い衝動がこみ上げて、気がついたら翌日ナチョの楽屋のドアを叩いていました。
「あな
たの所で踊りたい。私の踊りを見てくれ 」と直談判し、翌日、ひとりだけオーディショ
ンをしてもらったのです。他のカンパニーメンバーと一緒に舞台の上に立たされ、ナチョ
が私に振りを教えてくれている後ろでクリエイションが同時進行して一緒に踊る、とい
う特別な体験でした。
─ そしてスペイン国立ダンスカンパニーに入団し、後にプリンシパルになりました。
はい。私より先に女性ダンサーには日本人の秋山珠子がいましたが、アジア人は私
たち二人だけでした。外見など、周囲からある種の期待があったことは事実です。ダ
ンサーとしてしっかりとした実力をつけないと、カンパニーの中に自分の居場所をつく
れません。当時ナチョは大人気で、ひっきりなしにオーディション志望者が来ました。
ナチョもダンサーに多くのことを要求しましたし、できなければ別の誰かが自分のポジ
ションにつく……シンガポールにはこういう切磋琢磨が足りません。ただ競争がいきす
ぎると、まるで機械の一部のような気分になってくるので、私は他のカンパニーとも仕
事をするようになりました。人生を楽しみ、パフォーマンスを楽しみながら、挑戦と競
争を続けていくためです。きついですが、毎日100%出し切ることができ、充実してい
ました。
─ そして 2007年にシンガポールに帰国します。有名カンパニーのプリンシパルだっ
たわけですから、ヨーロッパに残る選択肢もあったのでは?
そうですね。スペインは人も文化も素晴らしく、第二の故郷のように思っていますが、
5年目にはもう十分に学んだ、何か大きな変化が必要だと感じ、振付家になる決意を
しました。確かにヨーロッパに残る道もありましたが、私はアジア人としての身体を前
面に出せる振り付けをしたかったのです。もちろんスペインでも不可能ではないです
が、やはり根底に持っている精神、文化が違いますからね。
─ ナチョのスタイルは、今のあなたの作品に影響していますか。
影響はあるでしょうが、私の方向性は彼のものとは違います。私はパフォーマンスの
なかで「人としての身体」に誠実でいられるもの、よりアジア的なものを探しています。
カンパニー名の「T.H.E」は「人間の表現
(The Human Expression)」という意味です。
人間の身体、人間の存在、人間が生きる条件を表現するためのダンスを目指していま
す。
─ 帰ってきたあなたを、シンガポールのダンス界はすんなり受け入れましたか。 シンガポールは多民族・多文化国家なので、新しい文化に抵抗はありません。ただ
これには良い面と悪い面の両方があります。社会がとてもオープンで常に新しい動き
をダイナミックに取り入れる反面、外からの影響を簡単に受け入れすぎて伝統が疎か
になるところもあります。
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The Human Expression ~人間の表現のためのカンパニーを設立
─2008年に T.H.E. ダンスカンパニーを立ち上げました。
少しですがナショナル・アーツカウンシルも支援してくれました。しかしダンサー
には、 毎日6時 間、 月曜日から金 曜日まで 働いてもらっても最 初の 2年 間は月に
400SGDほどしか払えませんでした。7人のダンサーはフリーで生活もありましたが「2
年間はついて来てほしい」と頼み、彼らは私を信じてついてきてくれました。
とはいえ当時はスタジオも借りなければならず、私個人のお金も持ち出しました。幸
いスペインでは 2年以上働いた実績があれば失業手当が支給されるので、それを受け
取るために 3 カ月おきにスペインに帰るような日々でした。しかし何かを成し遂げるに
は全てを投入しなければなりませんから。私は創作からパブリシティまで、全てやりま
した。
─カンパニーは順調でしたか。
シンガポールの観客は、私のことは知っていてもカンパニーのことは知りません。設
立当時は数カ月に一度のハイペースで公演を続けました。本当にクレイジーでした。し
かも一度でも作品のクオリティが低いと、観客は二度と戻ってきませんから必死でし
た。やがて T.H.E.ダンスカンパニーはプロフェッショナルで質が高いものをやるという
評判が定着してきて、3年目にはダンサーにプロフェッショナルなギャランティを払う
ことができるようになりました。
現在はダンサー 8名。半分はシンガポール人で、後はマレーシア人、中国人、日本人
もいます。オーディションはオープンで、国籍は関係ありません。また、セカンド・カ
ンパニーもあります。3年前から NAC のグッドマン・アーツ・センターにレジデンスし
ています。専用のスタジオが使えてとても良い環境ですが、3年契約なのでまた申請す
る必要があります。
─セカンド・カンパニーがあるのは素晴らしいですね。ヨーロッパでは大きなカンパ
ニーを維持するのが困難になっていて、若いダンサーを育てる環境も縮小しています。
シンガポールではセカンド・カンパニーのダンサーがクラスを受けるのにお金を払う
場合もありますが、我々は無料です。今は16歳から29歳まで、約20人が在籍してい
ます。年齢ではなく経験に基づいたクラス分けです。
─シンガポールは多文化国家で、伝統舞踊などダンサーのバックグラウンドが違う
のではありませんか。普段はどんなトレーニングを?
私たち全員の基盤はバレエだと考えています。普段のトレーニングはバレエを2日間、
コンテンポラリーを1日か 2日、即興を1日、ときどき創作などの時間をとっています。
コンテンポラリーは私のメソッドが中心ですが、即興も重視しています。そこに様々な
伝統舞踊、太極拳、GAGA、コンタクト・インプロビゼーションなどを採り入れてい
ます。並行して、呼吸や動きといった基本を何度も問い直していきます。
シンガポールのコンテンポラリーダンスの浸透は目覚ましく、コマーシャルな分野に
も及んでいます。変化に敏感なのはシンガポールの美徳ですし、裾野が広がったのは
良いことですが、大衆化した結果、
「楽しいものを見たい」という観客の要求が強くな
りすぎている気もします。私たちはクオリティの高い芸術的な作品をつくり続けるべき
だと思っています。
─ 最後に、今後の展望を聞かせてください。
実は、2017年からフェスティバルのフォーマットを大きく変え、上演数を減らして
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クリエイションに注力していく予定です。コンテンポラリーダンスが浸透した今、これ
からは普及ではなく、より質を高める時期にきていると思います。新作に挑戦しなが
らクオリティを保つことは簡単ではありませんが、アーティストには様々なことに挑戦
しする実験の場が必要ですし、フェスティバルがそういう場になればと願っています。
─ そうですね。アーティストには間違いや失敗ができる場が必要です。
想像もつかない新しいチャレンジの受け皿になるようなフェスティバルの形を考えて
います。そのために現在一体化しているカンパニーとフェスティバルを分離するつもり
です。フェスティバルはフェスティバルチームに任せ、私はキュレーションはせずにひ
とりの振付家、アーティストとしてクリエイションします。今、カンパニーは安定し、成
熟しています。私とカンパニーにとっては固有のボキャブラリー、審美性をさらに深め、
獲得していくいいタイミングがきていると思っています。
─シンガポールのコンテンポラリーダンスは、普及の時期を越え、質の向上を追求
するべき時に来ているのですね。ご活躍を期待しています。
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