太平洋戦争 と 横浜 の 外国人

﹃神奈川の歴史を読む﹄
太 平 洋 戦 争と 横 浜 の外 国 人
はじめに
︱敵産管理と敵国人抑留︱
小宮まゆみ
国際貿易港横浜を抱える 神奈川県には、幕末開港期に来日し た生糸やお茶の貿易商には
じ ま り 、宣 教 師 や 教 育 者 、機 械 エ ン ジ ニ ア 、そ し て 石 油 や 自 動 車 な ど 欧 米 系 企 業 の 社 員 と 、
戦前から多くの外国人が住みついていた。特に 明治から大正期、横浜市中区の 山下町から
山手町付近の旧外国人居留地一帯は、古くに来 日した貿易商を中心にした独特 の外国人社
会が形成されていた。コックや子守を雇い、外国人クラブでの社交や音楽会を 楽しみ、テ
ニ ス や ク ル ー ジ ン グ に 汗 を 流 し 、洋 酒 と 炭 酸 水 を た し な む 。そ こ に は 欧 米 の 文 化 が 根 付 き 、
まるで小さな外国のような様相を呈していた。 横浜生まれの二世や三世もセントジョセフ
な ど の イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル ス ク ー ル で 欧 米 文 化 を 身 に つ け 、一 方 で 横 浜 の 街 に と け 込 ん で 、
青い目のハマっ子として活躍していた。しかし 大正末の関東大震災で横浜の外国人社会は
大きな打撃を受け、昭和に入ると満州事変から 日中戦争、太平洋戦争へと続い た戦争が、
外国人社会を完全に崩壊させた。
ア メ リ カ 人 、イ ギ リ ス 人 な ど 連 合 国 側 の 外 国 人 は 、太 平 洋 戦 争 勃 発 前 に 財 産 を 封 鎖 さ れ 、
開戦と共に﹁敵国人﹂の烙印を押された。男子 はことごとく敵国人抑留所へ収 容され、抑
留を免れた家族も特高警察による厳重な監視下 に置かれた。そして戦争の進行 と共に女性
や高齢者も抑留され、あるいは強制疎開をさせられた。従来知られることの少 なかった横
浜在住外国人の戦時下の歴史を、史料と聞き取 りに基づいて記してみたい。
一.外国人への監視強化と資産凍結
一九三七年日中戦争の勃発によって国際関係 の緊張が高まると、内務省は防 諜を名目に
各県警察部を通じた外国人に対する監視取締り を強化し始めた。一九三九年三 月一日内務
省令﹁外国人ノ入国、滞在及退去ニ関スル件﹂ を制定し、外国人の入国に際しては警察官
の査問を受ける、三〇日以上滞邦する場合は地方長官の滞邦許可が必要、六〇 日以上滞在
す る 場 合 は 所 轄 警 察 署 長 に 居 住 届 出 を し な け れ ば な ら な い な ど 、厳 し い 規 定 が 設 け ら れ た 。
同年九月ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発すると、日本と対 米英の関係
は ま す ま す 緊 張 し 、 一 九 四 〇 年 七 月 以 降 ア メ リ カは 石 油 屑 鉄 な ど の 輸 出 を 許 可 制に し 、 航
空機用ガソリンの輸出を禁止した。四〇年九月 日本が北部仏印に進駐し、日独伊三国同盟
条約を締結すると、一〇月アメリカ、イギリス 両国は自国民の極東引揚を勧告 した。この
勧告に応じて、翌一九四一年七月までに、神奈川県内在住のイギリス人のうち 一三二人、
ア メ リ カ 人 の う ち 一 一 八 人 計 二 五 〇 人 が 引 揚 げ て 行 っ た ︵ 1 ︶。
一九四一年四月からの日米交渉も成果をあげることなく、七月二五日ついにアメリカ合
衆国は在米日本資産を凍結し、七月二六日イギリス、二七日オランダもこれに 倣った。こ
れ に 対 抗 し て 日 本 で は 七 月 二 八 日﹁ 外 国 人 関 係 取 引 取 締 規 則 ﹂を 公 布 し て 貿 易 を 停 止 し た 。
さらにアメリカは八月一日対日石油輸出を全面禁止した。その結果米英蘭との 貿易が停止
し、英連邦のカナダ、オーストラリア、インド 、南アフリカ、英領のマレー、 蘭領のイン
ドネシアとの貿易も停止した。これらの諸国と の貿易は日本の全輸入額の七五 パーセント
を占めており、石油に至ってはほぼ一〇〇パーセント依存していた。これらが 完全に断た
れ る こ と は 、ま さ に 日 本 経 済 に と っ て 致 命 的 で あ っ た 。し か し ア メ リ カ 合 衆 国 に と っ て は 、
一九四一年度上半期の日本との貿易は全輸出額 のわずか3.3パーセント、輸入額の4.
3パーセントを占めるに過ぎず、いまさら日本 との貿易が出来なくなっても痛 くも痒くも
な い ︵ 2 ︶。 む し ろ 資 産 凍 結 、 貿 易 停 止 は 横 浜 の 貿 易 ・ 金 融 ・ 保 険 ・ 製 造 な ど に 携 わ る 外 国
企業や個人を直撃した。
すでに在外日本人資産の凍結を牽制する措置 として、四一年四月に﹁改正外国為替管理
法 ﹂ が 公 布 さ れ 、 日 本 か ら 外 国 へ の 送 金 は お ろ か外 国 人 の 預 金 引 き 出 し す ら 制 限 を 受 け て
いた。そこへ七月二八日﹁外国人関係取引取締規則﹂が公布されたわけだが、 この法令は
﹁資産凍結令﹂とも通称されるものである。指定外国人の財産取得または処分 、事業の収
益取得、動産不動産の取得または処分、通貨の 受託、貸付金の回収、預け金の 引き出し等
はすべて禁止され、大蔵大臣の許可を得た場合 のみ出来るとされた。外国人の 経済活動を
徹底的に抑える、まさに資産凍結である。た だ し一ヶ月五〇〇円を限度とした 通貨の自由
使用と、生活費として一ヶ月一〇〇〇円までの 預金引き出しは認められた。これは米国に
よる日本資産凍結令において認められた、一ヶ 月五〇〇ドルまでの支出の許可 とほぼ見合
う も の と な っ て い る ︵ 3 ︶。
その結果長年外国金融機関として実績を誇ってきたチャータード銀行横浜支店 は九月末
を も っ て 閉 鎖 し た ︵ 4 ︶。 セ ー ル 商 会 、 フ レ ザ ー 商 会 、 ウ ィ ト コ ス キ ー 商 会 な ど 、 当 時 約 六
〇社あるといわれた横浜所在外国商社も間も な く全面撤退するしかなかった。 八月から一
〇月にかけて、日本郵船の龍田丸や氷川丸が、 引揚げ外国人を乗せて横浜港を 出航して行
った。こうして一九四一年九月末に五〇〇人程度残っていた神奈川県在住の英米蘭など所
謂 ﹁ 敵 性 外 国 人 ﹂ は 、 日 米 開 戦 直 前 の 一 一 月 末 に は 三 〇 〇 人 程 度 に 減 少 し て い っ た ︵ 5 ︶。
しかし資産凍結、企業の閉鎖という情況にあっても、帰国を選ばない外国人もいた。横
浜 で 長 い 間 茶 の 輸 出 業 を 経 営 し て き た チ ャ ー ル ズ・ バ ー ナ ド 氏 は 帰 国 し な い 理 由 を 次 の よ
う に 述 べ て い る 。﹁ そ の 理 由 と し て 第 一 に は 私 の 所 持 し て い る わ ず か な 財 産 を 処 分 す る こ と
ができないし、たとえそれができたとしても、 収入の唯一の源泉を収得することは許され
ないからです。また、第二の理由として私は現 在八八歳になり、多少耳が遠くなり、当地
で六〇年も生活してきた後で他国へ移民することは、当地に残留することによって経験す
る こ と に な ろ う こ と 以 上 に 、 恐 ら く 面 倒 な こ と に な る だ ろ う か ら で す 。﹂︵ 6 ︶
すでに﹁外国人関係取引取締規則﹂のため、資 産を処分することも、持ち帰ることも出
来なくなっていた。長年横浜に住み着き財産を 築きあげた外国人にとって、事 業や財産の
すべてを残したまま帰国しなければならない、 と言うのは過酷なことである。 ましてバー
ナード氏のように日本人と結婚し子どもをもうけている場合などはなお更であ った。しか
しこのバーナード氏も日本残留を選んだことで 、最終的に敵国人として抑留されることに
なろうとは、当時予想していなかっただろう。
二.開戦と敵国人抑留の開始
内務省警保局外事課では各県警察部を通じて、 開戦前から外国人の所在を確認 し、抑留
のための準備を進めていた。一九四一年一二月 八日太平洋戦争が開戦されると 、全国一斉
に﹁ 敵 性 外 国 人 ﹂は 身 柄 を 拘 束 さ れ 、
﹁ 敵 国 人 抑 留 所 ﹂へ の 収 容 が お こ な わ れ た 。抑 留 対 象
者は、開戦直前の四一年一一月二八日内務省警保局より発せられた通牒﹁外事関係非常措
置 に 関 す る 件 ﹂に よ れ ば ︵ イ ︶敵 国 の 軍 籍 に あ る 者 、
︵ ロ ︶敵 国 人 た る 船 員 及 び 航 空 機 の 乗
員又は其の資格ある者、
︵ ハ ︶敵 国 人 中 一 八 歳 以 上 四 五 歳 ま で の 男 子 、
︵ ニ ︶特 殊 技 能 者︵ 無
電 技 師 、 軍 需 工 場 の 技 師 等 ︶、︵ ホ ︶ 検 挙 す べ き 者 以 外 の 外 諜 容 疑 者 、 と さ れ た 。 こ の 時 点
で全国に設けられた抑留所は三四箇所、抑留された外国人は計三四二名にのぼった。神奈
川県では﹁神奈川第一抑留所﹂とされた横浜市中区根岸の競馬場付属建物︵競馬騎手の控
え 室 ︶に 五 九 名 、﹁ 神 奈 川 第 2 抑 留 所 ﹂と さ れ た 中 区 新 山 下 町 の 横 浜 ヨ ッ ト ク ラ ブ に 三 四 名 、
計九三名︵英四七、米二四、ギリシャ一三、オランダ三、ノルウェー三、旧ロシア二、カ
ナ ダ 一 ︶ が 抑 留 さ れ た ︵ 7 ︶。 九 三 名 と い う 抑 留 者 数 は 全 国 最 大 で 、 抑 留 さ れ た 外 国 人 全 体
の四分の一以上が神奈川県で抑留されたことになる。
戸塚区に住み、工業用ダ イ ヤ モ ン ド の輸 入 業を経営していた 東京生まれの英 国 人ウィリ
アム・デュア氏︵当時五〇歳︶は、一二月八日 の朝出勤した東京銀座の事務所 で、その息
子 の シ デ ン ハ ム ・ デ ュ ア 氏 ︵ 当 時 二 三 歳 ︶ は 登 校 し た 大 学 で 、 そ れ ぞ れ 特 高 警 察に よ り 連
行 さ れ た 。デ ュ ア 父 子 は 二 日 間 ほ ど 戸 塚 警 察 署 に 拘 留 さ れ た 後 、
﹁ 神 奈 川 第 二 抑 留 所 ﹂と さ
れた横浜ヨットクラブに抑留された。自宅には 私服の警察官が来て、家中を家宅捜索して
い っ た と い う ︵ 8 ︶。 お な じ 抑 留 所 に は 、 横 浜 育 ち の 外 国 人 で 貿 易 関 係 の 仕 事 に つ く ジ ョ ア
キ ン 、 ジ ェ ラ ル ド 、 ジ ョ ン の ゴ メ ス 三 兄 弟 、 英 字 新 聞 ジ ャ パ ン ・ ア ド バ タ イ ザ ー記 者 J ・
B・ハリス、フォード自動車部長ウィリアム・ フェーゲン、洋酒輸入商のチャールズ・モ
ス の 各 氏 も 連 行 さ れ て き た 。シ デ ン ハ ム・ デ ュ ア 、ジ ョ ン・ ゴ メ ス︵ 当 時 二 二 歳 ︶、J・ B ・
ハ リ ス︵ 当 時 二 六 歳 ︶の 各 氏 は 、横 浜 山 手 の セ ン ト ジ ョ セ フ イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル ス ク ー ル 、
で 共 に 学 ん だ 同 窓 生 だ っ た ︵ 9 ︶。﹁ 神 奈 川 第 一 抑 留 所 ﹂ の ほ う に は 、 貿 易 商 ジ ョ ー ジ ・ モ
ス 氏︵ チ ャ ー ル ズ ・ モ ス の 弟 ︶、フ ォ ー ド 自 動 車 部 長 ウ ィ リ ア ム ・ ラ フ ィ ン 氏 、 セ ン ト ジ ョ
セフインターナショナルスクールの米人教師5 名、そしてA・ヒトポウラス氏 など横浜港
で 拿 捕 さ れ た 外 国 船 の ギ リ シ ャ 人 船 員 一 一 名 が 含 ま れ て い た ︵ 1 0 ︶。︵ 表 1 内 山 の 抑 留 者
名簿参照︶
またこれら抑留者とは別 に、開戦と同時に スパイ容疑があるとされた外国人が 警察と憲
兵 隊 に よ っ て 検 挙 さ れ た 。横 浜 生 ま れ で 長 く 横 浜 の 食 料 商・両 替 商 と し て 活 躍 し て き た T ・
M・ラフィン氏︵ウィリアム・ラフィンの兄︶ は、横浜港に停泊する船舶へ出 入りしての
食糧供給をスパイと疑われ、憲兵隊に検挙され てひどい虐待を受けた。五月末 までに検挙
者 は 合 計 で 四 〇 名 と な り 、 敵 国 と な っ た 外 国 の 領 事 や 公 館 員 計 五 五 名 も 領 事 館 内や 箱 根 富
士屋ホテルなどに抑留された。一方抑留を解除 される高齢者などもおり、一九四二年五月
末 時 点 で 神 奈 川 県 で 抑 留 ま た は 検 挙 さ れ た 外 国 人 の 合 計 は 一 七 六 名 と な っ た ︵ 1 1 ︶。 県 内
在住の敵性外国人の半数以上が身柄を拘束されたわけである。逆に抑留を免れ て自宅で暮
らす敵性外国人はわずか一〇九名︵米二三、英 六〇、オランダ七、ベルギー五 、ギリシャ
一、ノルウェー五、ベネズェラ六、ブラジル一 、ペルー一︶となってしまった 。この中に
は 先 の チ ャ ー ル ズ ・ バ ー ナ ー ド 氏 や 、 ウ ィ リ ア ム・ デ ュ ア 氏 の 次 男 エ ド ワ ー ド ・ デ ュ ア 氏
︵当時一三歳︶も含まれている。男子三六名に 対し、女子が七三名と圧倒的に 多く、壮年
男子が根こそぎ抑留された中、老人や子どもをかかえた女性たちが、警察の監 視の下で不
安 な 生 活 を し て い た こ と が 分 か る ︵ 1 2 ︶。
神奈川県警では四二年七月から八月にかけて、 各警察署管区ごとにこうした外国人世帯
に対する﹁在留敵国人実情調査﹂を実施し、そ の報告書を作成した。調査項目 は、生活維
持 の 方 法 、 一 ヶ 月 の 生 活 費 、 財 産 の 有 無 、 外 出 の 実 情 、 通 信 の 実 情 ︵ 検 閲 を 実 施 ︶、 来 訪 者
の国籍氏名、など詳細に及び、スパイ容疑者として生活全般が監視されている 様子が伺え
る 。前 記 エ ド ワ ー ド デ
・ ュ ア 氏 に よ る と 、自 宅 は し ば し ば 特 高 警 察 の 訪 問 を 受 け 、母 親 は 日
記 と 家 計 簿 を つ け る こ と を 要 求 さ れ 、定 期 的 に そ れ を 特 高 に 提 出 さ せ ら れ て い た と い う︵ 1
。
3︶
三.敵産管理法
さて、太平洋戦争開戦時に敵国人とされた在日外国人は、どの程度の財産を保 有してい
たのだろうか。これについては一九四一年五月以降大蔵省為替局総務課検査係 が中心とな
り、各府県警察部及び管下の警察署を動員して 、極秘裏に全国規模の財産調査 が行われて
いた。その調査記録は四一年九月に﹁外国人ノ 財産ニ関スル調査﹂全一七巻にまとめられ
た。調査要綱によれば、調査対象は﹁個人では 教師、学生、外交官等並びに年 収五〇〇〇
円以下の者を除く﹂ということになっていた。 しかしこれは建前であり、実際 には外交官
以 外 は 可 能 な 限 り 調 査 し て 記 載 す る 方 針 が 取 ら れ た ︵ 1 4 ︶。 従 っ て 米 国 人 の 場 合 は 調 査 さ
れた三六四名中七四パーセントに当たる二七〇 名は年収五〇〇〇円以下に属していた。こ
の調査の結果わかった敵性外国人の個人・法人 の財産総額は三億二六八七万円 余りである
。この調査結果を基礎資料に、在日外国人に対する所 謂﹁敵産管理﹂が行われるこ
︵15︶
とになる。
太平洋戦争開戦に伴い、一二月二二日いよいよ ﹁敵産管理法﹂が制定施行さ れ た。この
敵産管理の対象になった財産は、先の調査によって判明した財産額に加え、開 戦によって
接収された貿易滞貨や船舶、調査対象からはずされていた外交官関係の財産もすべて含ん
で お り 、 約 四 億 五 〇 〇 〇 万 円 で あ っ た 。 敵 産 管 理と は 、 敵 国 財 産 を 没 収 で は な い が 終 戦 ま
で強制管理する制度である。政府が敵産管理人 を選定し、売却等により管理しやすい現金
や預金に変えた資産を管理させ、管理にかかる 費用や敵産管理人に対する報酬 は管理財産
から支出させた。目的は日本の在外資産︵英米 に約九億円存在︶に対する担保 と、総力戦
のための敵産の積極的利用であるとされた。敵産管理人には開戦時は友人知人 などを指定
することが出来たが、途中から横浜正金銀行、 三菱信託銀行など限られた銀行 に集約され
た。この敵産管理法にもとづいて、外国人の動 産、不動産などの財産は売却さ れ、最終的
に 横 浜 正 金 銀 行 の ﹁ 特 殊 財 産 管 理 勘 定 ﹂ と い う 特 別 な 口 座 に 入 れ ら れ た ︵ 1 6 ︶。 こ の 口 座
に集約された資金の﹁積極的利用﹂については 、一九四二年三月制定、六月 改 正の﹁特殊
財産管理勘定処理要綱﹂に基づいて、国債・地 方 債 の買入、大蔵省預金部ま た は銀行への
預け金などとして運用することとされた。また ごく一部は政府の指示に基づき 、敵国人の
生 活 困 窮 者 に 対 す る 救 済 資 金 と し て 日 本 赤 十 字 社 俘 虜 救 恤 部 に 貸 し 出 さ れ た ︵ 1 7 ︶。
敵 産 管 理 に つ い て 、あ る 日 本 人 市 民 は こ の よ う に 感 想 を 述 べ て い る 。
﹁戦争のはじまる一
年も前から、外国人の財産がねらわれて、敵産 ということばが生まれ、預金の 封鎖という
おどし文句がはやったものです。
︵ 中 略 ︶残 し て い っ た 敵 産 に な る べ き も の も 、日 本 人 の あ
る人にあずけたりして、再会を約して帰った人 達も多かったのだが、戦後帰ってみれば、
あの絨毯も焼けた、あの宝物もといわれれば、 友情がたちきれるような思いがしたと語っ
て い た 老 宣 教 師 も い た 。﹂︵ 1 8 ︶ 敵 産 と し て 財 産 が 凍 結 さ れ 、 そ れ を 資 金 と し て 国 債 が 買
わ れ 、結 局 戦 争 資 金 に 当 て ら れ た わ け で あ る か ら 、
﹁ 外 国 人 の 財 産 が ね ら わ れ て ﹂と い う 市
井の感想は、真実を言い当てている。
財産が封鎖されたと言っても、一ヶ月五〇〇 円を限度とした通貨の自由使用 と、生活費
として一ヶ月一〇〇〇円までの預金引き出しは 認められているので、ある程度 の資産を持
っていればすぐに困窮することは無かったと思 われる。しかし資産の無い者は 、勤務して
い た 貿 易 商 社 や 外 国 企 業 の 撤 退 と と も に 職 を 失 う と 、た だ ち に 生 活 に 困 窮 し て し ま う 。
﹃外
事月報﹄一九四二年一〇月分には、在日外国人 のうち生活困窮者四九名に帝国政府の自発
的 道 義 に 基 づ く 救 済 措 置 と し て 、七 一 五 九 円 六 〇 銭 の 救 済 金 を 支 給 し た と い う 記 事 が あ る 。
その中には神奈川第1抑留所へ抑留された、ヒュー・ウォーカー氏の家族タマ ・ウォーカ
ー氏など五名へ五〇〇円を支給したという記述 もある。しかしこの救済金の資 金も、元は
と 言 え ば 敵 産 管 理 法 に 基 づ い て 横 浜 正 金 銀 行 へ 集 約 さ れ た 外 国 人 の 資 産 で あ っ たの だ ろ う 。
敵 産 管 理 の 対 象 と な っ て 封 鎖 さ れ 預 金 や 、売 却 さ れ た 不 動 産 代 金 は﹁ 特 殊 財 産 管 理 勘 定 ﹂
という口座に入れられたが、その中から戦争中 に生活費として引き出されたり 、管理者の
報酬として差し引かれたりした残金が﹁特殊財産管理勘定残高﹂である。こ れ は横浜正金
銀 行 が 戦 後 閉 鎖 機 関 に 指 定 さ れ た 後 は 、 日 本 銀 行に 引 き 継 が れ た 。 終 戦 後 の 一 九 四 五 年 九
月二六日現在の特殊財産管理勘定残高表には、 計一六九六件の個人や法人が記 載され、そ
の 合 計 金 額 は 三 億 八 五 六 七 万 円 余 り に な っ て い る ︵ 1 9 ︶。 例 え ば 後 述 の 七 沢 抑 留 所 に 抑 留
された英国人ジョージ・ラッセル氏の場合は、 開戦前の四一年九月にまとめられた﹁外国
人 ノ 財 産 ニ 関 ス ル 調 査 ﹂ で は 一 三 万 三 八 六 〇 円 の 資 産 が 記 載 さ れ て い る が ︵ 2 0 ︶、 終 戦 後
の 特 殊 財 産 管 理 勘 定 残 高 は わ ず か 九 二 九 四 円 に な っ て い る ︵ 2 1 ︶。 敵 国 財 産 の ﹁ 積 極 的 利
抑留の拡大と厚木市七沢の抑留所設置
用﹂という名目で、没収同然の処理がおこなわれたことも可能性として考えられる。
四
戦争によって敵国となった国に取り残された形 になった民間人の、相互の交換 による帰
国 は 、戦 争 中 三 回 に わ た っ て 出 航 し た﹁ 交 換 船 ﹂に よ っ て 実 現 し た 。﹁ 敵 国 人 抑 留 所 ﹂に 収
容されていた外国人にも帰国の機会は与えられ 、一九四二年六月の第一次日米交換船で神
奈 川 内 の 抑 留 所 か ら 一 三 名 、 七 月 の 日 英 交 換 船 で は 一 五 名 、 計 二 八 名 が 帰 国 し た ︵ 2 2 ︶。
セントジョセフの教師は五名全員が帰国、フォード・スタンダード・ライジングサン社の
社員は一四名中八名が帰国している。しかし貿易商関係と思われる一五名中で は三名しか
帰国していない。日本生れで日本人と結婚しているフェーゲン氏や、家族で抑 留されたゴ
メス三兄弟、デュア親子、モス兄弟はいずれも 残留を選んでいるのである。神奈川第一と
第 二 抑 留 所 で 残 留 し た 外 国 人 の 一 部 は 東 京 へ 移 さ れ 、 そ の 他 は 神 奈 川 第 一 抑 留 所︵ 根 岸 競
馬 場 ︶ へ 統 合 さ れ た ︵ 2 3 ︶。
一方一九四二年九月、防諜の徹底を名目に敵国人抑留の対象が拡大され、それまで抑留
対 象 に な っ て い な か っ た 女 性 と 高 齢 者 の う ち 、﹁ 教 師 ・ 宣 教 師 ・ 修 道 女 ・ 保 母 ﹂ が 抑 留 さ れ
ることになった。そのため全国で女性一二六名 を含む一五二名が新たに抑留さ れ、神奈川
県でも横浜英和、横浜雙葉などミッションスクールの女性宣教師や修道女が新 たに抑留さ
すみれ
れ た 。彼 女 た ち は 一 時 神 奈 川 第 二 抑 留 所 に 収 容 さ れ た 後 、東 京 の 警 視 庁 抑 留 所︵ 菫 家 政 女
学 院 : 現 田 園 調 布 雙 葉 学 園 ︶ に 移 さ れ た 。 ま た 同 年 九 月 、 カ ナ ダ 人 の カ ト リ ッ ク修 道 士 ら
が満州や長崎から交換船乗船のために横浜に集 められた。ところが交換船派遣 が中止にな
っ た た め に 、 彼 ら は 神 奈 川 第 一 抑 留 所 に 抑 留 さ れ た ︵ 2 4 ︶。 こ の 時 点 で 神 奈 川 第 一 抑 留 所
の 抑 留 者 は 計 五 三 名 と な っ た 。そ し て 一 九 四 三 年 六 月 二 五 日 、防 諜 と 空 襲 へ の 備 え と し て 、
神奈川第一抑留所は北足柄村内山に移転した。 デュア氏親子やモス兄弟は、家 族との面会
頁の表1のと
にも便利だった根岸競馬場から、御殿場線山北駅近くの北足柄村内山の暁星学園夏季施設
︵ マ リ ア 会 山 荘 ︶ に 移 転 し た ︵ 2 5 ︶。 こ の 時 点 で の 抑 留 外 国 人 の 名 簿 は 、
おりである。そして一九四三年九月、懸案になっていた第二次日米交換船が出 航し、全国
から計七三名が帰国した。内山の神奈川第一抑留所からは熊本五高英語教師だったロバー
ト ・ ク ラ ウ ダ ー 氏 な ど 三 名 の 米 国 人 が 帰 国 し た ︵ 2 6 ︶。
ところが、更に一九四三年一二月、横浜の外 国 人に対しまたしても新たな抑 留 拡 大 が行
われた。そのきっかけとなったのは、同年九月二九日に公布施行された、内務省令﹁外国
人の旅行等に関する臨時措置令の一部改正﹂であった。もともと開戦直後の一九四一年一
二月九日に定められた﹁外国人の旅行等に関す る臨時措置令﹂によって、外 国 人の指定地
域への立入り、居住と、都道府県外への旅行は 禁止されていた。四三年九月の 改正で、指
定地域は開戦時より大幅に拡大され、三浦半島 、横浜市の高地・臨海地帯、横須賀軍港、
横浜全港域、木更津方面、軍関係工場地帯の展望可能な地域とされた。またそれまでは指
定 地 域 内 で も 、 す で に 居 住 中 の 外 国 人 に つ い て は、 許 可 出 願 を す れ ば 居 住 が 許 さ れ て い た
ものが、改正によって現に居住中の外国人も全員地域外に退去させることになったのであ
る。この地域に居住している外国人は、ドイツ ・イタリアなどの同盟国人、スイス・スウ
ェ ー デ ン な ど の 中 立 国 人 、 そ し て ア メ リ カ ・ イ ギ リ ス な ど の 敵 国 人 と 、 合 計 二 六カ 国 の 五
〇八世帯、一二二七人にも及んだ。移転の際の 費用は日本側が負担し、外国人 たちの移転
先には箱根や軽井沢が選ばれることが多かっ た が、基本的には各世帯自由だ っ た。
しかし敵国人に対してだけは、監視のために集 団 居 住 をさせるものとし、移 転 先を指定
し 、 生 活 費 も 日 本 側 で 負 担 し た の で あ る ︵ 2 7 ︶。 す で に 敵 国 民 間 人 の う ち 、 壮 年 男 性 と 、
高齢者や女性を含む教師・宣教師・修道女・保 母は抑留の対象となっており、 残っている
のは無職の老人か、家庭婦人か、子どもである 。そこにまで新たに抑留の手が 伸ばされた
の で あ る 。 彼 ら を 抑 留 す る た め に 厚 木 市 七 沢 温 泉の 旅 館 に 、 民 間 人 抑 留 所 が 設 置 さ れ た 。
これについて﹃外事月報﹄では﹁敵国人抑留所 ﹂とは記していないが、実態として抑留所
に他ならない。
一九四三年一二月七日横浜市の中心部から抑 留 所へ移転させられた人々は、英 一 三 、米
旅館
敵国婦女子ノ 収容所トナ
福 元 館 と 玉 川 館 で あ る ︵ 二 八 ︶。 玉 川 館 に 残 さ れ た 記 録 ﹁ 営 業 統 計 簿 ﹂
四、蘭一、ノルウェー一、蘭英一の二〇世帯で 、移転先は愛甲郡玉川村︵現・ 厚木市︶七
沢二〇七六
にも、先代のご主人山本鈞二氏の手により﹁S 18・12・7
ル ﹂ と い う 記 載 が あ る ︵ 2 9 ︶。
収容された外国人の氏名については﹃外事月報 ﹄一九四三年一二月分と一九四四年八月
分に記載された外国人の移転先一覧表により、 英八、米三、ギリシャ人一の計一二世帯に
つ い て は 明 ら か に な る 。 ま た 終 戦 時 の も の と し て、 厚 木 の 抑 留 所 が 移 転 し た 先 の 秋 田 県 平
鹿 郡 館 合 の 外 国 人 抑 留 所 の 名 簿 が G H Q 資 料 の 中 に 存 在 す る ︵ 3 0 ︶。 こ の 名 簿 で 外 事 月 報
の 記 載 を 補 う と 、一 八 世 帯 二 八 名 が 明 ら か に な る︵ 表 2 参 照 ︶。女 子 と 高 齢 者 そ し て 幼 児 ば
かりで、玉川館の営業統計簿に見られる﹁敵国婦女子の収容所﹂という名称はその特徴を
よく表している。それまで抑留を免れていた茶 商のチャールズ・バーナード氏 は、ついに
こ こ に 至 っ て 九 一 歳 の 老 体 を 抑 留 さ れ る こ と に な っ た 。 父 親 ヒ ュ ー ・ ウ ォ ー カ ー氏 が 神 奈
川 第 一 抑 留 所 抑 留 さ れ 、 困 窮 し て い た ウ ォ ー カ ー家 の 夫 人 や 子 ど も た ち 、 開 戦 時 憲 兵 隊 に
検挙されて虐待された実業家T・M・ラフィン 氏の妹エレノア・ラフィン氏、 拿捕船のギ
リシャ人船員として第一抑留所に抑留されたヒトポウラス氏の夫人と子ども、 資産家のラ
ッセル夫妻もここに抑留された。
︵ 表 2 参 照 ︶そ の 他 に も 名 簿 か ら 分 か る 七 沢 抑 留 所 の 抑 留
者 に は 、開 戦 時 に 抑 留 ま た は 検 挙 さ れ た 壮 年 男 性 た ち の 家 族 と 思 わ れ る 人 が 多 い 。
︵表の備
考欄に○印を付した︶例えば英国人女性リナー ・サルター氏は開戦時神奈川第一抑留所に
抑 留 さ れ た ジ ョ ー ジ ・ サ ル タ ー 氏 と 、 第 二 抑 留 所に 抑 留 さ れ た W ・ サ ル タ ー 氏 ︵ い ず れ も
日英交換船で帰国︶の妹であると思われる。アリスとルーシーのウッドラフ姉 妹は、第一
抑留所に抑留されたジョージ・ウッドラフ氏︵ 表1参照︶の妹であろう。ラッセル夫妻は
第一抑留所に抑留されていたM・D・ラッセル 氏︵日英交換船で帰国︶の両親 ではないだ
ろうか。オランダ人ドンカーカーチス姉妹は第一抑留所に抑留されたヘルマン ・ドンカー
カ ー チ ス 氏 ︵ 表 1 参 照 ︶ の 姉 で あ ろ う 。 ア メ リ カ人 の マ イ ア ー ス 姉 妹 は 、 開 戦 時ア メ リ カ
領 事 私 邸︵ 横 浜 市 中 区 山 手 二 三 四 番 ︶内 に 軟 禁 さ れ た 京 城 領 事 館 書 記 ウ ィ リ ア ム R
・ ・マ イ
ア ー ス 氏︵ 第 一 次 日 米 交 換 船 で 帰 国 ︶の 妹 で は な い だ ろ う か 。ア リ ス キ
・ ル ド イ ル 氏 は 、開
戦時警察に検挙された東洋バブコック社員デ ニ ス・キリドイル氏︵第一次 日 米 交 換 船 で帰
国 ︶の 妻 で あ ろ う︵ 3 1 ︶。七 沢 に 抑 留 さ れ た こ と が わ か る 外 国 人 二 八 人 中 の 一 九 人 ま で が 、
開戦時に敵国人として抑留、またはスパイ容疑 で検挙された男性の、妻や妹、 年老いた両
親と思われる人たちなのである。
ただしこの時期にすべての敵性外国人が全員抑留所に入れられたというわけではない。
箱 根 や 軽 井 沢 に 戦 争 を 避 け て 、 終 戦 ま で を 過 ご し た 外 国 人 の 例 も あ る ︵ 3 2 ︶。 前 述 の エ ド
ワード・デュア氏母子は大船に近い戸塚区のはずれに住んでいたために、移転抑留を免れ
ている。七沢の抑留者が、交換船で帰国もせず 日本にとどまったのは、高齢や 幼児を抱え
長旅に耐えられない、自身が混血で日本人の親 を残して行けないなど、それぞれに理由が
あったのだろう。しかし抑留や収監された者の 家族であり、しかも戦争中横浜市中心部の
自宅にとどまり続けたというのは、警察当局か ら見れば、スパイ防止上最も厳 しく監視す
る必要がある対象だったのだろう。
五.七沢での抑留生活
こ ね む ら
彼らの七沢温泉での生活はどのようなものだったのだろうか。福元館の女将 古根村喜
あ び こ
代 子 さ ん 、義 妹 の 鮑 子 和 歌 子 さ ん か ら の 聞 き 取 り に よ る と 、﹁ イ ギ リ ス 人 の ラ ッ セ ル 夫 妻 は 、
すでに仕事は引退していた人で、離れに日本人 の奥さんと二人で住んだ。近所 の杉山さん
という人が女中さんとしてお世話をしていた。 バーナードさんはかなりの歳で 、ほとんど
ベッドに寝ている状態だった。外国人は捕虜として預かったもので、警察官︵ 村の駐在︶
が時々見に来た。しかし外国人たちの行動は割合自由で、近くを散歩したり商 店に買い物
に出かけることもあった。食事は廊下にコンロ を置いて、外国人が自分たちで 煮炊きをし
ていた。宿の料金は毎月玉川館の主人と福元館 の主人が一緒に横浜の県庁ま で に取りに行
っ た ﹂ と い う こ と だ っ た ︵ 3 3 ︶。 ま た 玉 川 館 の 主 人 山 本 淳 一 さ ん に よ る と 、﹁ ア メ リ カ 人
女 性 の キ リ ド ー ル さ ん と 子 ど も 、 他 に 一 組 外 国 人が い た 。 近 所 の 佐 藤 忠 治 さ ん が、 外 国 人
を気の毒に思い、裏山の道を通って目立たないように何度も野菜を持ってきてくれた、佐
海超えた愛情の交換
かつての抑留者米婦人から感謝文
藤 さ ん の こ と は 戦 後 新 聞 に も 出 た ﹂ と い う こ と だ っ た ︵ 3 4 ︶。 そ の 新 聞 記 事 に は 次 の よ う
に記されている。
﹁忘れられぬあの握り飯
話は戦争中にさかのぼる、愛甲郡の山中の温 泉 宿に厳重な監視をうけて幽閉さ れ て い た 第
三国人婦女子組二十名中の一人の米婦人に対し 牛乳や握り飯など人目にふれぬよう一年に
わ た っ て 給 与 を 続 け 、栄 養 を 保 た せ た 一 農 夫 一 家 が あ っ た 。
︵ 中 略 ︶佐 藤 さ ん は 外 国 婦 女 子
が抑留中近所の人々の敵視する目を忍んであらゆる迫害をしりぞけ、毎日のようにわが家
にアリスキルロイド夫人と英国人ベラ夫人とを 招いて牛乳や時には握り飯を贈 り、また寒
昭和二六年五月二 〇日
さ に 泣 く 両 夫 人 に 、 暗 夜 そ っ と 木 炭 を 抑 留 所 ︵ 休 業 中 の 温 泉 宿 ︶ に 持 参 す る な ど、 敵 国 人
和田隆三
の 観 念 を 捨 て て 黙 々 と つ づ け て い た ︵ 後 略 ︶﹂ 神 奈 川 新 聞
﹁愛情
戦 争 中 外 国 の 婦 女 子 二 十 人 ほ ど が 私 た ち の 村 内 に あ る 七 澤 温 泉 旅 館 に 隔 離 収 容さ れ て い
た。なにしろ“総力戦”の叫ばれている最中のことではあり、敵国人に同情を 寄せるよう
す で も あ れ ば 、 た ち ま ち ス パ イ 扱 い に さ れ る の で、 大 人 は も ち ろ ん 、 小 さ な 子 供 で さ え こ
れらの外国人を白い目でみていたものである。 戦前はいずれも相当な生活をしていた人た
ちらしかったので古ぼけた日本座敷にナシ箱を 椅子代りとし、大豆入り七分 搗 米の配給で
飢 を し の ぎ な が ら 、 毎 日 を 山 と 川 ば か り の 地 域 内 で 暮す の は 相 当 苦 痛 だ っ た に 違 い な
い 。 ・・・
︵ 後 略 ︶﹂﹃ 読 売 新 聞 ﹄ 昭 和 二 六 年 五 月 二 九 日 の 記 事
以上の新聞記事から、七沢抑留所での外国人たちの厳しい生活ぶりと、それを 支援した一
農夫佐藤忠治さんとの交流が浮かび上がる。
厚木市七沢に抑留された女性や子ども高齢者たちは、先に述べたように開戦後 も帰国せ
ず横浜山手の旧外国人居留地一帯に住居を構えていた人たちである。開港以来横浜の外国
人社会で中心的な役割を果たしてきた人物や、 その二世であった場合もある。 彼らに取っ
て、財産を封鎖され、住み慣れた横浜中心部か ら辺鄙な田舎で監視されての生 活は耐えが
たかったのではないだろうか。その結果悲劇的 な事件も起こった。
七沢の抑留者エレノア・ラフィン氏は、現在横浜山手の洋館群として一般公開 され、人
気 の 高 い 山 手 111
番館の建て主である商社・食品会社社長T・M・ラフィン氏 の娘であっ
た。トーマス・メルビル・ラフィン氏は一八 八 五︵明治一八︶年頃来日してT ・M・ラフ
ィン商 会を 起こ し、 横 浜 港に 入港 する 船舶 に食 料や 物資 を供 給す るシ ッ プ チ ャ ン ド ラ ー
︵ Shipping chandler
︶、 両 替 商 な ど と し て 活 躍 し た 。 ラ フ ィ ン 炭 酸 と 名 づ け た 清 涼 飲 料 水
の製造販売会社も成功した。草創期から横浜ヨットクラブの会員になり、大型 ヨット︿マ
リー﹀を建造して商売の発展とともに横浜のヨ ッ ト 界の中心となった人物で あ る。ラフィ
ン家の長男ジョン・ラフィン氏もヨット界では 著名で、彼の設計したヨットは ラフィンの
LをとってLク ラ スと呼ばれる ようになり、 横浜ヨ ッ ト ク ラ ブの制 式 艇に採用さ れ た ︵3
。次 男 の ト ー マ ス・ M・ ラ フ ィ ン︵ 二 世 ︶氏 は 関 東 大 震 災 時 に は 横 浜 港 内 で 被 災 し た フ
5︶
ラ ン ス 船 ﹁ ア ン ド レ ・ ル ポ ン ﹂ 号 を 小 型 ラ ン チ で 牽 引 し 火 災 か ら 救 い 、 フ ラ ン ス政 府 か ら
レ ジ オ ン ・ ド ・ ヌ ー ル 勲 章 を 授 け ら れ た 。︵ 3 6 ︶し か し 開 戦 時 に は 前 述 の よ う に ス パ イ 容
疑で憲兵隊に拘留され虐待を受けている。三男 のウィリアム・A・ラフィン氏 はフォード
自動車サービス部の部長だったが、開戦時抑留 され、兄トーマス・ラフィン氏 と共に第一
次 日 米 交 換 船 で ア メ リ カ へ 帰 っ た ︵ 3 7 ︶。 ラ フ ィ ン 家 の 長 女 の メ ア リ ー ・ ラ フ ィ ン 氏 は ア
。そして 娘の一
︶
38
メ リ カ 人 モ テ ィ マ ー・ク ッ ク 氏 と 結 婚 し て 横 浜 山 手 一 二 七 番 の 洋 館 エ リ ス マ ン 邸 に 住 ん だ 。
戦 争 中 は 母 親 ミ ヨ 、 妹 ミ ル ド レ ッ ド と 共 に 、 箱 根 の 別 荘 に 暮 ら し た 。︵
人エレノアだけが山手一二〇番のラフィン家の 地所に居住を続けて、四三年一 二月七沢に
抑 留 さ れ た の で あ る 。 彼 女 に つ い て は 、 中 西 道 子 ﹁ エ リ ス マ ン 邸 に 住 ん で い た 人 々 ﹂︵﹃ わ
た し の 横 浜 ﹄︶ に 次 の よ う に 記 さ れ て い る ︵ 3 9 ︶。
﹁一九四四年五人の姉妹中最もしとやかで優しいとの評判のエレノアは、七沢 の抑留所か
ら歯科医者に行くと許可をもらって出たまま帰 らなかった。通常でない車線を 選び駅から
飛 び 込 み 自 殺 を し た の で あ る 。﹂エ レ ノ ア・ラ フ ィ ン の 名 前 は 一 九 四 四 年 八 月 の 七 沢 抑 留 所
の 名 簿 に は 掲 載 さ れ て い る の で 、 自 殺 は 一 九 四 四年 八 月 以 降 と 思 わ れ る が 、 詳 し い こ と は
調 査 出 来 て い な い ︵ 4 0 ︶。 し か し 戦 前 山 手 の 外 国 人 社 会 の 中 で も 著 名 な ラ フ ィ ン 家 の 裕 福
な 暮 ら し か ら 、 一 転 し て 神 経 の 休 ま る こ と の な い耐 乏 生 活 の な か で 、 自 ら 命 を 断 っ た エ レ
ノアは、まさに抑留の犠牲者と言えるだろう。
七沢の抑留所に収容されていた外国人には、ラフィン家と同じように開港期か ら横浜の
外国人社会で重要な働きをしてきた人物が多い 。最高齢者バーナード氏は開 港 期から横浜
で茶商として活躍してきた。一八七五︵明治八 ︶年来日し、居留地二一〇番に バーナード
商 会 を 設 立 。静 岡 に 専 属 の 茶 園 も 経 営 し た 。画 家 チ ャ ー ル ズ・ワ ー グ マ ン と も 親 交 が 深 く 、
株 主 で あ っ た ジ ャ パ ン ブ ル ワ リ ー 社 の ビ ー ル 瓶 の ラ ベ ル に 、 現 在 も キ リ ン ビ ー ルの ラ ベ ル
になっているキリンのマークをデザインした。 ウッドラフ姉妹の父は明治初年 から居留地
の外国人の生活に欠かせない食肉業を営んだ英国人F・G・ウッドラフである 。山手二六
4︶
2。キ リ
番 に 店 を 開 き 、居 留 地 の 多 く の 住 民 と 顔 な じ み で あ っ た︵ 4 1 ︶。ド ン カ ー カ ー チ ス 姉 妹 は 、
幕末に長崎出島に赴任してきた最後の商館長ドンケルクルチウスの子孫である ︵
ド ー ル 夫 人 の 夫 デ ニ ス・キ リ ド ー ル 氏 は 、一 八 八 一 年 堀 川 通 り に 鉄 工 所 ク リ ー ク・サ イ ド ・
エ ン ジ ン・ ワ ー ク ス を 設 立 し 、横 浜 の 鉄 工 業 発 展 に 貢 献 し た エ ド ワ ー ド・ キ リ ド ー ル 氏 ︵ 4
3 ︶の 息 子 で あ る 。 い ず れ も 戦 争 さ え な か っ た ら 、 外 国 人 社 会 の 名 士 と し て 穏 や か に 暮 ら
せた人たちである。
六.戦争末期の状況
開戦時から横浜の外国人男性を抑留してきた神奈川第一抑留所では、一九四四 年一〇月
から四五年の終戦までの期間に、食料不足が深 刻になり、高齢者を中心に抑 留 者四九名中
五 名 の 死 亡 者 が 出 て い る ︵ 4 4 ︶。 一 方 高 齢 者 や 女 性 が 抑 留 さ れ た 七 沢 の 抑 留 所 は 、 一 九 四
五年五月三〇日、秋田県雄物川町へと移転させられた。玉川館の﹁営業統計簿 ﹂には一九
四 五 年 五 月 三 〇 日 付 で﹁ 外 人 秋 田 へ 転 出 ス ﹂の 記 載 が あ る 。三 月 一 〇 日 の 東 京 大 空 襲 以 後 、
疎開の必要性はますます大きくなっていたが、 外国人たちの移転は単純な疎開 ではなかっ
た 。 彼 ら が 七 沢 温 泉 を 出 発 す る の と 入 れ 替 わ り に、 本 土 決 戦 部 隊 が 七 沢 に や っ て来 た の で
あ る 。﹁ 営 業 統 計 簿 ﹂ 六 月 一 〇 日 に は 、﹁ 断 部 隊 ノ 将 校 宿 舎 ト ナ ル ﹂ と い う 記 載 も あ る 。 断
部隊とは、予想されていた米軍の﹁相模湾上陸作戦﹂に対抗して配備された、 本土決戦部
隊である陸軍第五三軍のことである。近隣の玉川国民学校には五月三一日から 断部隊の軍
司令部が設置され、福元館の隣りの中屋旅館は 、断部隊司令官赤柴八重蔵中将 の宿舎とな
っ た ︵ 4 5 ︶。 七 沢 の 外 国 人 抑 留 所 の 秋 田 へ の 移 転 は 、 本 土 決 戦 が 実 際 に 行 わ れ る こ と を 想
定して、出来るだけ外国人を予定戦場から遠ざける意味があったのであろう。 しかし横浜
の外国人にとって、七沢は丹沢のふもとの静か な田舎とはいえ、神奈川県内である。そこ
から遠い秋田への移動は不安を掻き立てるものだったに違いない。七沢の抑 留 者の秋田へ
の移転は、五月二〇日頃には内山の抑留所に情 報として伝えられていたらしく 、内山に抑
留 さ れ て い た シ デ ン ハ ム ・ デ ュ ア 氏 の ﹁ 抑 留 日 記﹂ に よ る と 、 内 山 の 抑 留 者 も 佐 渡 に や ら
れるという風説が流れたとある。また秋田への 出発を前に五月二三日、七沢の 抑留所のタ
ヅ コ ・ ウ ォ ー カ ー 氏 と エ カ テ リ ナ ・ ヒ ト ポ ウ ラ ス氏 が 夫 ヒ ュ ー ・ ウ ォ ー カ ー 氏 、 ア リ ス ト
メンス・ヒトポウラス氏に会いに、内山の神奈川第一抑留所に最期の面会に訪 れたことが
記 さ れ て い る ︵ 4 6 ︶。
GHQ資料によれば、七沢の抑留者が秋田県平鹿郡館合村薄井五二に到着し、 抑留所が
開 設 さ れ た の は 六 月 一 日 で あ る 。︵ 平 鹿 郡 館 合 村 は 現 在 は 横 手 市 雄 物 川 町 と な っ て い る 。︶
その後終戦後の九月八日まで約三ヶ月の期間ここが外国人女子抑留所となった 。なぜ秋田
県が移転先に選ばれたのか現在のところ判然としないが、本土決戦を想定していた軍の意
向で、より空襲の危険が少なく本土決戦の戦場 から遠いところが選ばれたのではないだろ
うか。
秋田での生活についてはGHQ資料に、イギリス人のアリス・ウッドラフとその妹ルー
シー ウ
・ ッ ド ラ フ に 、抑 留 所 の 待 遇 な ど の 聞 き 取 り を 行 な っ た 答 え が 記 載 さ れ て い る 。お お
むね次のような内容である。
1.秋田県館合の民間人抑留所にいた間、待遇 は良く、幸福だった。
2.行動の自由もかなり認められていた。
3 . 食 事 は 十 分 と い う わ け で は な い が 、 飢 餓 状 態と い う こ と は な か っ た 。
4 . 虐 待 は な か っ た 。︵ 4 7 ︶
七沢抑留所と比べての待遇がどうだったのかはよく分からないが、首都圏か ら遠いだけ
にのんびりしていたのかもしれない。しかし食糧事情は秋田でもそれほど好転 はしていな
いようである。
抑 留 所 と な っ た 建 物 は 、館 合 産 業 組 合︵ 現 在 の 館 合 農 業 組 合 の 前 身 ︶の 建 物 で あ っ た が 、
現 在 は 残 っ て い な い 。︵ 4 8 ︶地 元 で 敵 国 人 抑 留 所 の こ と を 研 究 し て い る 横 手 市 史 近 ・ 現 代
部 会 専 門 委 員 塩 田 康 之 氏 の 聞 き 取 り 調 査 に よ る と、 産 業 組 合 の 建 物 は 一 九 二 四 年 に 建 て ら
れたもので、その後館合の駅ができてその近く に産業組合が移転したため、当 時は使って
いなかった。一階は事務所だったが、二階部分 を大工を入れて一〇部屋ほどの 小部屋に区
切って外国人を収容した。抑留所開設前には、 近所の世帯主を集めて説明会を 行った。建
物の周りには高い塀をめぐらして、中にはカーテンをめぐらし、内部が見えないようにし
た。また建物の外に、厨房にする小屋を作り、 食事作りには横手市から洋食の コックが通
った。住民の中に外国人に対する悪感情はなく 、きゅうりや野菜を届ける人もいた。高齢
の男性と女の子がここで亡くなったらしい。終戦後は外国人は外を散歩したり 、近所の農
家のお宅に上がってお茶を飲んだりした。野菜 や卵を上げると、お返しに缶詰 やチョコレ
ー ト を く れ た 。帰 る 時 に は 警 防 団 が 荷 造 り を 手 伝 い 、駅 ま で 荷 物 を 運 ん で あ げ た 人 も い た 。
彼らがアメリカ占領軍によって秋田を出発し横 浜に帰ったのは、GHQ資料によると九月
八日のことである。
内山の抑留所でも終戦とともに抑留外国人はそれぞれ荷 物をまとめ、自宅のあるものは
家へ帰っていった。デュア氏父子が松田警察署 差し回しのトラックに荷物を載 せて戸塚区
の 自 宅 に 戻 っ た の は 九 月 九 日 の こ と だ っ た︵ 4 9 ︶。し か し 空 襲 で 家 を 焼 か れ た 人 、敵 産 と
して売却されてしまった人もいた。彼らの戦後 は財産の返還と補償請求から始 まった。
おわりに
戦 後 の 連 合 国 側 外 国 人 に 対 す る 財 産 の 補 償 に つ い て は 、 戦 後 大 蔵 省 が ま と め た﹃ 第 二 次
大 戦 に お け る 連 合 国 軍 財 産 処 理 ︵ 戦 後 篇 ︶﹄︵ 5 0 ︶ に 記 載 が あ る 。 ラ フ ィ ン 家 で は 一 九 五
一年一一月二六日公布・施行の﹁連合国財産補 償法﹂にもとづきジョン、メアリー、ミル
ドレッドの各氏が財産補償要求をしている。三 氏の請求の合計額は九七七〇万 三九四三円
にのぼるが、それに対して補償額は一四三三万 四八六円であった。資産のうち 補償された
のは請求の一五 程
% 度で ある。ジョージ ・ラッセル氏 の場合は三九四二万四七〇五 円の請
求 に 対 し 、 補 償 額 は 四 一 八 万 八 〇 七 二 円 と 、 請 求 額 の わ ず か 一 割 強 に 過 ぎ な い ︵ 5 1 ︶。 戦
後メアリー・ラフィン氏と妹のミルドレッド・ ラフィン氏はエリスマン邸が老朽化して取
り壊されるまで暮らし、晩年はホテル暮らしだったという。T・M・ラフィン 商会やラフ
ィン炭酸が復活することもなかった。ラフィン 家ほどの財産がない外国人には 、特殊財産
管理勘定に繰り入れられた財産の補償を受けることが出来なかった者もいるのではないだ
ろ う か 。戦 後 再 来 日 し た 外 国 人 に 関 し て 次 の よ う な 証 言 も あ る 。﹁ 一 番 み じ め で あ っ た の は 、
長年日本の為に尽した外人たちが、自己の貯金 、一万、二万という金をあかるみに出され
て、封鎖され、戦後帰って来て、さて封鎖さ れ た銀行に行けば、名称もかわっているし、
それをさがす丈の暇もないというわけで、さ っ ぱ り 心が通ぜず、おまけにポ ン ドは百倍の
価値になっているし、全く浮浪者のように、夜半町をブラブラするものまで出 たような始
末 だ 。﹂︵ 5 2 ︶
連合国は戦勝国であることから日本国内で敵産管理に付された財産に関しては 十分かど
う か は 疑 問 だ が 、 当 時 の 日 本 の 国 力 に 見 合 う 程 度 に は 補 償 が 行 わ れ た 。︵ 5 3 ︶し か し 抑 留
に つ い て の 補 償 は 行 わ れ て い な い 。 ま た 海 外 の 領 土 や 占 領 地 で 行 わ れ た 敵 産 管 理に つ い て
の補償は全く行われていない。
神奈川県で抑留された外国人の多くは国際都市横浜に長年根 を張って横浜の発 展を支え
てきた人たちであった。産業経済や文化の面で 貢献した、恩人と言ってもよいかもしれな
い。そうした身近な隣人の戦時下の苦難を、私 たちは忘れてはならないと思う 。また現在
横 浜 に は 六 万 数 千 人 の 外 国 人 が 住 ん で 働 い て い る。 更 に 国 際 化 の 進 ん だ 現 在 、 戦 争 に 伴 っ
て行われた敵産管理や敵国人抑留を解明することは、単に過去の歴史であるだけでなく、
多文化共生の現代社会を考える上でも重要な問題提起ではないだろうか。
注
九七三頁
連 合 国 財 産 処 理 ︵ 戦 時 篇 ︶﹄ 大 蔵 省 一 九 六 六
五 七頁
なお
︵ 1 ︶ 東 海 林 静 男 ﹁ 太 平 洋 戦 争 下 に お け る 外 国 人 の 動 向 ﹂﹃ 横 浜 市 史 Ⅱ 第 一 巻 ︵ 下 ︶﹄ 一 九
九六
︵ 2 ︶﹃ 第 二 次 大 戦 に お け る
資産凍結に関する記述の多くはこの文献によ っ た。
︵3︶注︵2︶文献八九頁
︵4︶松信太助編﹃横浜近代史総合年表﹄有 隣 堂一九八九
昭和十六年十一月末現
五五八頁
︵5︶神奈川県外事部﹁在留外国人国籍別人口並移動出国許可表
在﹂国立公文書館所蔵史料
注︵1︶東
な お 内 務 省 警 保 局 外 事 課 よ り 発 行 さ れ た﹃ 外 事 月
︵6︶イギリス政府に提出された、引揚げ船安徽号を利用しない者の回答書
海林論文の九七九頁より引用
︵7︶
﹃ 外 事 月 報 ﹄一 九 四 一 年 一 二 月 分
報﹄は敵国人抑留について体系的に記述した記 録である。一九九四年不二出版 より復刻
出版されている。
︵8︶二〇〇六年一月一五日、抑留されたウィリアム・デュア氏の子息で、シデンハム・
七一頁、また注︵8 ︶の聞き取
デュア氏の弟に当たるエドワード・デュア氏︵ 一九二八年生まれ︶からお話し を聞く機
会を得た。その時の聞き取りによる。
︵9︶J・B・ハリス﹃ぼくは日本兵だった﹄ 一九八六
りによる。
早 稲 田 大 学マ イ ク ロ資 料 室 所 蔵 史 料
︵10︶神奈川第一と第二抑留所の抑留者名簿 については、神奈川県外事部﹁ 大東亜戦争
勃発 ニ伴 フ外 事 非 常 措 置 情 況﹂ 一 九 四 二 年五 月
による。
︵ 1 1 ︶﹃ 外 事 月 報 ﹄ 一 九 四 二 年 五 月 分 と 、 注 ︵ 1 0 ︶﹁ 大 東 亜 戦 争 勃 発 ニ 伴 フ 外 事 非 常 措
置情況﹂による。
︵ 1 2 ︶ 注 ︵ 1 0 ︶﹁ 大 東 亜 戦 争 勃 発 ニ 伴 フ 外 事 非 常 措 置 情 況 ﹂ に よ る 。
︵13︶注︵8︶聞き取りによる。なおこのデュア氏の家族の報告書は、注︵ 1︶東海林
た だ し 調 査 対 象に な っ た 敵 性 外 国 人 は 日 本 に 資 産 を 持 つ
論文一〇〇六頁に引用されている。
︵14︶注︵2︶文献一一三頁
外国人に限定され、インドを含む英・米・蘭の 三カ国だけだった。敵産管理もその目的
から、この三カ国に限定して行われ、その点で 宣戦布告をして敵国となった国 すべてを
対象として行われた敵国人抑留とは異なる。
︵15︶注︵2︶文献一三七頁
︵16︶注︵2︶文献一八〇∼一八八頁
︵17︶注︵2︶文献四三三∼四四八頁
︵ 1 8 ︶八 代 斌 助﹁ 敵 産 と い う 悪 鬼 ﹂
﹃ 神 戸 聖 ミ カ エ ル 教 会 百 年 史 物 語 ﹄一 九 八 一 聖 ミ カ エ
ル教会発行
︵19︶注︵2︶文献四四九∼五一六頁
︵20︶注︵2︶文献三一八頁
︵21︶注︵2︶文献四九九頁
︵ 2 2 ︶交 換 船 で 帰 国 し た 外 国 人 の 名 簿 は 、
﹃ 外 事 月 報 ﹄一 九 四 二 年 六 月 分 、七 月 分 、一 九
四三年九月分に記載されている。
︵ 2 3 ︶﹃ 外 事 月 報 ﹄ 一 九 四 二 年 六 月 分
︵ 2 4 ︶﹃ 外 事 月 報 ﹄ 一 九 四 二 年 一 〇 月 分
︵ 2 5 ︶﹃ 外 事 月 報 ﹄ 一 九 四 三 年 六 月 分
︵ 2 6 ︶﹃ 外 事 月 報 ﹄ 一 九 四 三 年 九 月 分
︵ 2 7 ︶﹃ 外 事 月 報 ﹄ 一 九 四 三 年 一 二 月 分
︵ 2 8 ︶﹃ 外 事 月 報 ﹄ 一 九 四 三 年 一 二 月 分
︵ 2 9 ︶こ の﹁ 営 業 統 計 簿 ﹂は 玉 川 館 第 三 代 目 主 人 山 本 鈞 二 氏︵ 一 九 一 八 年 生 ま れ
が戦前から付けていた宿の収支などの記録で あ る。
行先地
神奈川県
神 奈 川 県 ﹂ に よ る と 、 箱 根 仙 石 原 在 住の 米 国
・
故人︶
﹂と 記 載 さ れ て お り 、七
昭和二〇年六月一日︵ 神奈川県
秋田
︵ 3 0 ︶ 国 会 図 書 館 憲 政 資 料 室 に 所 蔵 さ れ て い る一 九 四 六 年 作 成 の ﹁ 法 務 局 調 査 報 告 書 ﹂
同年九月八日、
館合産業組合内、抑留月日
四 一 五 号 資 料 で あ る 。﹁ 外 国 人 集 団 生 活 者 名 簿 ﹂ と い う 表 題 が つ い て お り 、﹁ 場 所
退去月日
県平鹿郡館合村薄井五二
よ り 転 入 ︶、
沢温泉から秋田に移転した抑留者の終戦時の名 簿と思われる。
︵ 3 1 ︶ マ イ ア ー ス 、 キ リ ド イ ル 各 氏 に つ い て は注 ⑩ ﹁ 大 東 亜 戦 争 勃 発 ニ 伴 フ 外 事 警 察 非
常措置情況﹂による。
︵ 3 2 ︶ 日 英 混 血 で イ ギ リ ス国 籍 だ っ た オ ウ エ ン ・ ガ ン ト レ ッ ト は 母 親 の ガ ン ト レ ッ ト
恒 子 が 保 護 す る と い う こ と で 軽 井 沢 で 生 活 す る こ と を 許 さ れ た 。︵ オ ウ エ ン の 孫 ガ ン ト レ
ット・彩子氏の御教示による︶またラフィン家 の長女メアリー・クック︵抑留 されたエ
レノアの姉︶も、後述するように箱根の別荘で 母ミヨとともに暮らしていた。
︵33︶二〇〇三年三月二八日、福元館女将古根村喜代子さん︵一九二七年生 まれ︶のお
話を聞いた。古根村さんは昭和二三年福元館に 嫁いできたということだが、当時福元館
にいた義妹の鮑子和歌子さん︵一九二九年生ま れ︶に電話で尋ねながら、色々 話してく
れ た 。 ま た 二 〇 〇 五 年 一 一 月 一 五 日 古 根 村 喜 代 子さ ん と 鮑 子 和 歌 子 さ ん に 再 度 お 話 し を
聞いた。
︵34︶二〇〇四年一〇月三日、玉川館主人山本淳一さん︵一九四三年生まれ ︶のお話を
聞いた。山本さんは当時まだ幼かったが、宿に 外国人が居たことはうっすらと 記憶にあ
﹃日 本 ヨ ッ ト 史 ﹄ 一 九 八 八
一六五頁
るということだった。また宿の営業統計簿に記 された外国人収容所の記録を抜 き書きし
ておいてくれた。
︵35︶白崎謙太郎
︵36︶O・M・プール﹃古き横浜の壊滅﹄一九七六有隣堂
︵37︶
﹃ The Marauders
﹄ Charlton Ogburn二 〇 〇 二 に よ る と 、そ の 後 ウ ィ リ ア ム ・
ラフィンはアメリカ軍に志願して日系人部隊の 情報将校として大尉となった。 しかし一
九四四年五月一八日、インパール作戦中激戦地 となったビルマのミートキーナ 上空を偵
察機で調査中、日本軍ゼロ戦の襲撃を受けて撃 墜され戦死した。
在留外国人名簿
︵ 3 8 ︶ 三 菱 信 託 銀 行 の 志 立 託 爾 氏 の 御 教 示 に よ る 。 ま た 国 立 公 文 書 館 所 蔵 資 料﹁ 昭 和 二
十年八月二十五日現在
人としてエム・ラフィン三九歳女と同住所にエムエム・クック五四歳女という 記載があ
る。メアリー ク
・ ックと妹ミルドレッド・ラフィンであろう。
︵ 3 9 ︶ 中 西 道 子 ﹁ エ リ ス マ ン 邸 に 住 ん で い た 人 々 ﹂﹃ わ た し の 横 浜 ﹄ 横 浜 学 連 絡 会 議 編
2001
︵40︶二〇〇五年三月一一日三菱信託銀行の 志立託爾氏︵一九二七年生まれ ︶にラフィ
ン家についてお話を聞く機会を得たが、志立氏 は戦後の入社で、ラフィン家の 財産管理
を行ったのは先輩の友石進氏であり、詳しいことは知らないという事だった。 ただ戦後
七 沢 温 泉 に 外 国 人 の 遺 品 の 調 査 に 行 っ た こ と が あ り 、﹁ 行 李 に 本 と 衣 類 が 少 し 入 っ て い た
が、あれはエレノオラ・ラフィンの物だったのではないだろうか﹂と話してくれた。な
お、エレオノラ・ラフィンの自殺については当 時 福 元 館 にいた鮑子和歌子さ ん も、戦後
暁印書館 バーナード氏については一〇
玉 川 館 主 人 と な っ た 山 本 淳 一 さ ん も 、 そ の よ う な話 は 聞 い た こ と が 無 い と い う こ と だ っ
た。
︵ 4 1 ︶生 出 恵 哉﹃ 横 浜 山 手 外 人 墓 地 ﹄一 九 八 四
八頁、ウッドラフ氏については一三二頁。
︵42︶注︵8︶エドワード・デュア氏の御 教 示による。
︵43︶横浜山手外国人墓地資料館展示による 。
二〇〇三年八月一五日
︵ 4 4 ︶ 小 宮 ま ゆ み ﹁ 神 奈 川 第 一 ﹃ 敵 国 人 ﹄ 抑 留 所 ﹂﹃ 小 田 原 地 方 史 研 究 二 〇 号 ﹄ 1997
戦時下の小田原地方 を記録する
︵45︶
﹃ 戦 争 と 民 衆 ﹄第 五 一 号
会
︵46︶内山に抑留されていたシデンハム・デュア氏は、一九四四年一〇月二 二日から終
戦まで毎日英語と日本語一日交替で日記をつけていた。その日記の一部をエドワード・
デュア氏から見せていただいた。
連 合 国 財 産 処 理 ︵ 戦 後 篇 ︶﹄ 大 蔵 省 一 九 六 六
三四七∼三
二〇〇五年三月二七日から二九日秋田県を訪れ、敵国人抑留所の調 査をおこな
︵47︶注︵30︶と同じGHQ資料による。
︵48︶
った。塩田康之氏や地元の方々から聞き取りを 行った。
︵ 5 0 ︶﹃ 第 二 次 大 戦 に お け る
連 合 国 財 産 処 理 ︵ 資 料 篇 ︶﹄ 大 蔵 省 一 九 六 六
︵49︶注︵46︶の﹁抑留日記﹂による。
︵ 5 1 ︶﹃ 第 二 次 大 戦 に お け る
九二頁
︵ 5 2 ︶ 注 ︵ 1 8 ︶﹁ 敵 産 と い う 悪 鬼 ﹂
︵ 5 3 ︶﹃ 第 二 次 大 戦 に お け る 連 合 国 財 産 処 理 ︵ 戦 時 篇 ︶﹄ 11
頁 に よ る と 、日 本 政 府 が こ
のために支払った金額は二一九億三〇〇〇万円 にのぼり、これは終戦処理費として支出
された。
【表1】 内山の神奈川第 1 抑留所抑留者名簿(1943 年 6 月∼45 年 8 月)
国籍
氏名
職業
年
前抑留所
その後の経過
1 米
ジョセフ・クィニ
前フォード社員
50
神奈川第 1
終戦まで抑留
2 米
ゼームス・D・ミラー
アイザック商会
55
神奈川第 1
終戦まで抑留
3 米
エドワード・パーク
ヘルム商会員
73
神奈川第 1
45 年 8 月死亡
4 米
ハリー・ブライデン
フォード社員
62
神奈川第 1
終戦まで抑留
5 米
フレッド・ゴールデン
フォード守衛
71
神奈川第 1
第2次交換船で帰国
6 米
ジョン・ミットワール
無職
41
神奈川第 1
終戦まで抑留
7 米
フランク・ジョナー・ケーキ
音楽師
41
神奈川第 1
45 年 7 月死亡
8 英
ジョージ・ウィル・モス
貿易商
49
神奈川第 1
終戦まで抑留
9 英
アルフレッド・シモイス
スタンダード社員
54
神奈川第 1
終戦まで抑留
10 英
スタンレー・グリッグス
慶応大予科講師
41
神奈川第 1
終戦まで抑留
11 英
ウィリアム・H・ブレミー
ワーナー映画社員
24
神奈川第 1
終戦まで抑留
12 英
H・C・レッパー
技師
49
神奈川第 1
終戦まで抑留
13 英
ギルハム・ダコスタ
東洋バブコック社員
55
神奈川第 1
終戦まで抑留
14 英
A・M・カーデュウ
ライジングサン社員
62
神奈川第 1
45 年 1 月死亡
15 英
アーネスト・ストラッド
セール商会主
42
神奈川第 1
終戦まで抑留
16 英
ハリー・リチャードソン
無職
63
神奈川第 1
終戦まで抑留
17 英
フレデリック・ダシルバー
アンドレスジョージ会社
40
神奈川第 1
終戦まで抑留
18 英
エドワード・ダウン
弁天通橋本商店
38
神奈川第 1
終戦まで抑留
19 英
D・L・アベー
ユナイテッドクラブ書記
58
神奈川第 1
終戦まで抑留
20 英
ジョージ・ウッドラフ
ダウン商会
59
神奈川第 1
終戦まで抑留
21 英
ヒュー・ウォーカー
無職
34
神奈川第 1
終戦まで抑留
22 英
ジョージ・ビーテ
東京高等学校講師
25
神奈川第 1
終戦まで抑留
23 ギリ
A・ヒトポウラス
ヴァレンタイン号船員
32
神奈川第 1
終戦まで抑留
24 蘭
H・ドンカカーチス
プロダクション会主
54
神奈川第 1
43年8月解除
25 英
チャールズ・H・モス
洋酒商
54
神奈川第 2
終戦まで抑留
26 英
ジョアキン・ゴメス
東神貿易商会員
33
神奈川第 2
終戦まで抑留
27 英
ゼラルド・ゴメス
ウィトコスキー商会員
31
神奈川第 2
終戦まで抑留
28 英
ジョン・ゴメス
学生
22
神奈川第 2
終戦まで抑留
29 英
ウィリアム・Y・デュア
宝石商
50
神奈川第 2
終戦まで抑留
30 英
シイデハム・Y・デュア
学生
23
神奈川第 2
終戦まで抑留
31 英
ウィリアム・フェーゲン
元フォード社員
46
神奈川第 2
終戦まで抑留
32 英
アラン・タイゼリッチ
商大講師
54
神奈川第 2
終戦まで抑留
33 英
H・G・ブルール
商大予科講師
58
神奈川第 2
44 年 7 月死亡
34 ギリ
コンスタンチン・リスアニデー
輸入商
52
神奈川第 2
終戦まで抑留
35 米
フランク・ステル・ブース
会社員
65
東京憲兵隊
終戦まで抑留
36 英
エリック・ステワート
・ベル
教師
55
神奈川県警
終戦まで抑留
37 加
アーマレド・モリソン
宣教師
36
満州→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
38 加
フェルナン・フィリオン
宣教師
36
長崎→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
39 加
クロビス・ボイスバート
宣教師
36
満州→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
40 加
ジョージ・ヴァランカート
宣教師
36
満州→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
41 加
サルトー・ベランジェ
宣教師
32
満州→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
42 加
ジョセフ・イウシーン・クリンチ
宣教師
50
満州→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
43 加
アデロード・デスビアンス
宣教師
36
長崎→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
44 加
エミリアン・ドーヴィル
宣教師
44
満州→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
45 加
オスカー・フォーチン
宣教師
37
満州→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
46 加
フェルナンド・ギルバルト
宣教師
30
満州→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
47 加
エミリアン・ホード
宣教師
31
満州→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
48 加
ポール・レマイヤ
宣教師
29
満州→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
49 加
シャール・プレボー
宣教師
47
長崎→神奈Ⅰ
終戦まで抑留
50 ギリ
ジョージ・アデス・ステーブロス
会社員
44
42 年 10 月神Ⅰ
終戦まで抑留
51 米
ロバート・H・クラウダー
教師
33
42 年 10 月神Ⅰ
第 2 次交換船で帰国
52 米
ダニエル・プルーク・マッキノン
教師
52
42 年 10 月神Ⅰ
第 2 次交換船で帰国
53 無
ゼームス・B・エミリ
荷役係
54
42 年 10 月神1
44 年 10 月死亡
*抑留者の国籍・氏名・職業・年齢は外交史料館所蔵の終戦時の抑留者名簿によった。
*前抑留所とその後の経過は「大東亜戦争勃発ニ伴フ外事非常措置情況」の抑留者名簿によって記載した。ただ
し 37∼49 のカナダ人宣教師については『大正昭和カトリック教会史 3』によった。
*交換船帰国については、『外事月報』1943 年年 9 月分によった。24 ドンカーカーチスについては『外事月報』
1943 年 8 月分によった。
*3、7、14、33、53 については外交史料館所蔵の「帝国権下敵国人収容所視察報告」とGHQ資料によった。
【表2】
厚木市七沢の敵国人抑留所抑留者名簿(1943 年 12 月∼45 年 5 月)
国籍
氏名
1
英
リナー・サルター
2
英
3
前住所
性別
年齢
備考
横浜市中区山手町 120
女
23
○
タマ・ウォーカー
横浜市中区豆口台 57
女
60
○2∼6同一家族
英
タツコ・ウォーカー
同上
女
29
○
4
英
ローター・ウォーカー
同上
女
5
○
5
英
ロメイ・ウォーカー
同上
女
5
○
6
英
ジェームス・ウォーカー
同上
男
6
○
7
英
イザベラ・スプリンゲット
横浜市中区豆口台 69
女
44
8
英
ゼン・ウォーカー
横浜市中区瀧ノ上 61
女
57
○2∼6と同姓
9
英
チャールズ・バーナード
横浜市中区大里町 76
男
93
9、10 夫婦
10
英
チヨ・バーナード
同上
女
53
11
英
アリス・ウッドラフ
横浜市中区山手町 26
女
56
○11、12 姉妹
12
英
ルシー・ウッドラフ
同上
女
45
○
13
英
ジョージ・ラッセル
横浜市中区本牧町 3-731
男
64
○13、14 夫婦
14
英
ミヨ・ラッセル
同上
女
54
○
15
英
トーマス・(デヴィト)・ライト
横浜市中区山手町 124
男
73
16
英
アンニーズ・ヤーメン
不明
女
62
17
英
イザベラ・ホールデン
不明
女
60
18
米
アリス・キルドイル
横浜市中区本牧荒井 23
女
44
○
19
米
エル・ニートマン
横浜市中区三ノ谷 78
男
71
家族1あり
20
米
エレオノラ・ラフィン
横浜市中区山手町 120
女
不明
○
21
米
ジェニファー・マイヤス
不明
女
25
○21、22 姉妹
22
米
アンナ・マイヤス
不明
女
23
○
23
蘭
エリザベス・ドンカーカーチス
不明
女
67
○23、24 姉妹
24
蘭
トミコリ・ドンカーカーチス
不明
女
63
○
25
蘭
ヨハネ・カースト
不明
男
71
26
ギリ
エカテリナ・ヒトポリス
横浜市中区山手町 184
女
28
○26、27 母子
27
ギリ
グレゴリー・ヒトポーロス
同上
男
3
○
28
ノル
フレドリック・オールセン
不明
男
77
*『外事月報』とGHQ資料により作成。
*備考欄○印は『外事月報』等により開戦時に家族が敵国人として抑留または検挙されたことが推定される人物
を示す。
*住所欄の不明者は、GHQ資料のみに記載があり『外事月報』に掲載されていない人物。
*年齢は 1945 年 9 月の時点のもの。年齢欄の不明者は、外事月報のみに記載がありGHQ資料に記載されてい
ない人物。