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化学反応はなぜ起こるのか?

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オープンキャンパス講義
化学反応はなぜ
化学反応はなぜ起
はなぜ起こるのか?
こるのか?
2016 年 7 月 16 日
於 琉球大学
琉球大学 理学部
海洋自然科学科
堀内 敬三
エネルギーという言葉は日常会話でもよく使う。エネルギーの高い状態はダイナミック
な(動き回っている)イメージがあり、反対に、エネルギーの低い状態は活力のない(じ
っとしている)イメージがある。これは見方を変えると、エネルギーの高い状態は不安定
で、低い状態は安定であるといえる。この見方にたつと、自然界で起こる様々な変化(こ
れを自発変化と呼ぶことにする)はよりエネルギーの低い状態に、より安定な状態に向か
うのではないかと予想される。例えば、化学反応で発熱が観測されるということは、エネ
ルギーを放出してよりエネルギーの低い状態に移行していることを意味している。室温付
近で起こる反応の多くはこのような発熱反応であるが、吸熱反応も観測される。吸熱反応
はエネルギーを吸収してよりエネルギーの高い状態へ移っている。この例からも分かるよ
うに、‘自発変化がなぜ起こるのか’、をエネルギーでは説明できない。実は、自発変化は
エントロピーが増大する方向に起こるのである。これをエントロピー増大則
エントロピー増大則という。エン
トロピーとは何だろう?なぜエントロピーは増大するのだろう?
1. エントロピーとは
エントロピーとは何
とは何だろう?
だろう?
この講義で使う用語のいくつかを予め説明しておこう。我々が直接見ることができる大
きさをマクロな(巨視的な)大きさ、原子や分子のように直接見ることが出来ない大きさ
をミクロな(微視的な)大きさと呼ぶことにする。温度、体積、圧力のような直接測定で
きるマクロな量を状態量という。エントロピーも状態量である。
エントロピーはミクロなレベルの乱雑さ
乱雑さ、無秩序さ
無秩序さを表す状態量である。ミクロなレベ
ルで無秩序さが高い状態は、エントロピーの高い状態である。
‘ミクロなレベルの乱雑さ’、という意味を説明しよう。例えば、結晶状態と液体状態
における原子・分子の様子を比較してみよう。結晶を構成する粒子は規則正しく配列して
いるので、結晶はミクロなレベルで秩序が高い状態である、ということができる。これに
対して、液体状態では、原子・分子は気体状態ほどではないが、でたらめに配列しており、
ミクロなレベルで秩序の低い状態である、といえる。つまり、ミクロなレベルの乱雑さと
は、原子や分子の配置・配列の無秩序度のことである。
(注意)ミクロなレベルの乱雑さとは、この他にもエネルギー分布
エネルギー分布の広がりという意味も
ある。原子や分子は熱運動をしているが、これら粒子のエネルギーの値はどの粒子も同じ
というわけではなく、ある程度のばらつき、広がりがある。このような原子や分子のエネ
ルギー分布の広がりも、ミクロなレベルの乱雑さに含まれるが、この講義ではこの様な乱
-1-
雑さについては考えないことにする。
固体の融解現象を考えてみよう。固体を融かすためには、加熱する必要があるので、例
えば、0 ℃の氷より 0 ℃の水の方がエネルギーの高い状態である。つまり、融解は吸熱現
象、エネルギーの高い状態へ変化する現象である。しかし、融解という現象は‘自発過程
’である。ここで、融解に伴ってエントロピーがどの様に変化するかを考えてみよう。上
述したように、固体はミクロなレベルで秩序の高い状態=エントロピーの低い状態であり、
液体はミクロなレベルで秩序の低い状態=エントロピーの高い状態である。従って、融解
に伴ってエントロピーが増大することが分かる。
もう一つの例として、ある液体に別の液体を加える、混合を考えてみよう。混合によっ
てできる溶液と、混合する前の液体を比較すると、溶液状態のエントロピーが高いことが
分かる。なぜなら、液体には 1 種類の成分しか存在しないが、溶液には 2 種類の成分が存
在するので、溶液の方がミクロなレベルでより無秩序である、ことが分かる。従って、混
合に伴ってエントロピーは増大する。これを混合エントロピー
混合エントロピーという。液体の混合だけで
はなく、気体の混合など純物質を混合するとエントロピーは必ず増大する。自然界では純
粋な状態で物質が存在することはない。混合エントロピーのため、不純物が混ざってしま
うのである。純度の高い物質を作ったり、混合物から純粋な物質を取り出すことは、エン
トロピー増大則という自然法則に反する作業であり、非常に難しい作業である。
ここでは、上記の 2 例を考察しただけであるが、一般に自発過程ではミクロなレベルで
乱雑さが増大する=エントロピーが増大することが経験的に知られており、これをエント
ロピーの
ロピーの増大則という。
2. なぜエントロピー
なぜエントロピーは
エントロピーは増大するのか
増大するのか?
するのか?
これまでの考察で、自発過程ではエントロピーが増大することが分かった。では、なぜ
エントロピーは増大するのだろう?それは原子や分子が熱運動をしているから、なのであ
る。
2・1 原子・
原子・分子の
分子の熱運動
我々は温度の単位として摂氏温度を使っているが、科学の分野では絶対温度を使うこと
が一般的である。絶対温度 T の単位は K(ケルビン)で、摂氏温度θとの関係は
T/K =θ/℃+ 273.15
(1)
である。ところで、摂氏温度目盛りは負の値をとる、つまり 0 ℃以下の値をとるが、- 1,000
℃とか- 10,000 ℃といった低温は存在しない。- 273.15 ℃より温度は低くならないので
ある。
- 273.15 ℃という温度は絶対温度目盛りでは T = 0 K であり、この温度を絶対零度と
いう。絶対零度では物質を構成する粒子の熱運動は完全に停止する。有限温度(T > 0)
では粒子は熱運動を行い、温度が高くなるほどその運動は激しくなる。つまり、熱運動と
は物質を構成している粒子が有限温度において行う運動であり、温度とはこの粒子の熱運
動の運動エネルギー
運動エネルギーの平均値を表している。だから、絶対温度では絶対零度より低い温度、
-2-
つまり負の温度は存在しないのである。
ところで、熱運動は不規則な
不規則な運動であると教科書に書いてある。この‘不規則’という
意味を考えてみよう。気体分子を想像しよう。有限温度において、気体を構成する分子は
絶えず熱運動しており、衝突を繰り返している。原子や分子のように小さな粒子でも、そ
の運動はニュートンの
ニュートンの運動方程式で記述できる。つまり、ある瞬間の全ての分子の座標と
速度が分かっていれば、原理的にはその後の分子の運動を予測することができる;しかし、
そのためには莫大な数の方程式を解かなければならないので、(なぜなら物質を構成する
粒子はアボガドロ数個ほどもあるから、)実際には不可能である。ところで、このような
莫大な数の粒子の中から 100 ~ 1000 個ほどの分子を取り出して、その運動の様子をシミ
ュレートする事はできる。このとき、これらの分子の運動の様子は我々にはどのように見
えるだろうか。分子は衝突を繰り返し、絶えず運動方向を変え、あちらに行ったり、こち
らに行ったりして、分子は‘でたらめに’動き回っているように見えるだろう。太陽のま
わりを地球や火星などの惑星は楕円軌道を描き規則的に運動している。分子の熱運動にこ
のような規則性は見いだせない。しかし、上述したように、分子の運動はニュートンの運
動方程式で記述できるので、分子は決してでたらめに運動しているわけではない。絶えず
運動方向を変えるのは、他の気体分子とあるいは容器の壁と衝突するからで、分子の運動
の一つ一つは、惑星の運動と同じようにはっきりとした因果関係に基づいているのである。
しかし、分子の数が莫大なため頻繁に衝突を繰り返し、その結果運動の軌跡がとてつもな
く複雑になり、分子がでたらめに動き回っているように見えるのである。これが熱運動が
不規則であるという意味である。ここではこのような意味で不規則あるいはでたらめとい
う言葉を使うので、それを強調するために‘不規則’あるいは‘でたらめ’のように表記する
ことにする。
原子や分子が熱運動をしているから、物質のエントロピーは増大する=原子や分子はよ
り無秩序に配置するようになる。これを、「気体の拡散」と「固体の融解」を例に考えて
みよう。
2・2 気体の
気体の拡散
中央に仕切りのある箱の左に気体が閉じ込められていて、右側は真空になっているとす
る。この仕切りをとると気体は右側に移動して箱いっぱいに広がる。これを拡散という(図
3-3 参照)。気体が左側に閉じ込められていた状態と、右側にも広がった状態では、後者
の状態の方がエントロピーが高い(=ミクロなレベルの無秩序さが高い)。気体分子が左
側にしか存在できない状態よりも、左側にも右側にも存在できる状態の方がより無秩序で
あることが分かる。これを言い換えると、(ある分子に注目したとき、その分子は左側に
いるかもしれないし、右側にもいるかもしれないというわけで、)分子の配置がよりでた
らめになっているということである。
では、なぜ気体は拡散するのだろう?どうして左側にじっとしていないで、右側に広が
るのだろう?気体が広がるとエネルギーが低下して安定化するのだろうか?答えは、気体
分子は‘でたらめ’な熱運動をしているからである。ここでは簡単のために分子は右と左
にしか動くことが出来ないと仮定して、そのときどの様なことが起こるか考えてみよう。
分子は‘でたらめ’に運動するので、右に動く分子も左に動く分子もあるが、左に動く
分子はすぐ他の分子と衝突してしまい左方向にはなかなか進むことができない。それに対
-3-
して、右に動く分子は他の分子が無いので、右方向にどんどん進むことができる。結果と
して、分子全体は徐々に右側に分布するようになり、最終的には箱の中全体に分子が均一
に分布するようになる。一度このような分布になると、分子は‘でたらめ’に運動するの
で、均一分布の状態を維持し続けることになる。これが熱平衡状態である。この様に考え
れば、気体が自発的に収縮する=エントロピーが減少するような変化が自然に起こること
はない、ことも分かる。
(まとめ)
気体はなぜ拡散するのか?気体分子が‘不規則’な熱運動をするから。しきり(束縛)
を取り除くと、分子はより広い空間を自由に運動できるようになるので、気体は広く分布
するようになる(=拡散する)。
2・3. 固体の
固体の融解
温度を上げて固体を液体にするためには、熱エネルギーを供給しなければいけないので、
液体状態の方が固体状態よりエネルギーが高いはずである。それなのになぜ融解が起こる
のだろう?液体になるということは、エネルギー的により不安定な状態をわざと選ぶこと
になるが、なぜ固体の状態に踏みとどまることはできないのかという疑問がわいてくる。
温度が上昇しても融けず、非常に熱い固体(例えば 100 ℃の氷)になってもいいのではな
いかと思われる。エネルギー的に考えれば、任意の温度において結晶状態が一番エネルギ
ーが低いはずである。なぜなら、結晶状態がポテンシャルエネルギー*1 の一番低い状態で
あり、結晶を構成する全粒子の合計エネルギー U =全粒子の運動エネルギー+全粒子の
ポテンシャルエネルギーなので、任意の温度において U の一番低い状態は結晶状態であ
る。それにも係わらず、ポテンシャルエネルギーより運動エネルギーが大きくなったら、
結晶構造がバラバラになるのは、粒子が‘でたらめ’な熱運動をするからである。規則的な
運動をしていたら、バラバラにはならない(かもしれない)。
(まとめ)
固体はなぜ融解するのか?粒子が‘不規則’な熱運動をするから。粒子間の束縛にうち
勝って、粒子が‘不規則’な熱運動をするので、固体は融解する。
(注意)固体を構成する粒子も格子振動という熱運動をしている。上記の熱運動とは、こ
の様な振動運動ではなく、粒子の重心が移動する運動(これを並進運動という)のことで
ある。
3. エントロピーのまとめ
エントロピーのまとめ
気体の拡散と固体の融解という現象をミクロの視点から以下のようにまとめることがで
きる。
「物質は莫大な数の原子や分子から構成されている。その原子や分子は熱運動をしてい
*1 固体を構成している粒子は相互作用により堅く結びついている。この粒子を固体から引き離すため
にはエネルギーが必要である。つまり、固体中の粒子はバラバラの状態の粒子よりエネルギーの低い
状態にある。粒子間の相互作用に基づくこの安定化エネルギーをポテンシャルエネルギーという。
-4-
る。束縛条件が緩やかになると 、原子や分子はより自由に動き回ることが出来るので、
原子や分子はより無秩序に分布するようになる。」
これはこの二つの現象に限ったことではなく、全く一般的な過程である。ミクロなレベ
ルでより無秩序な状態に変化する過程=エントロピーが増大する過程は、自然な
自然な過程、自
発的な
発的な過程なのである。ミクロなレベルでの無秩序化によって引き起こされる様々な巨視
的現象を、エントロピー(これは状態量であり、従って巨視的な量である)という概念を
使って我々は説明する。このようにエントロピーはその原因をミクロなレベルに求められ
るものであるが、それ自体は巨視的な量である。分子 1 個のエントロピーというものは存
在しない。
*1
4. 宇宙の
宇宙のエントロピー
固体が融解すると、エントロピーが増大する=ミクロなレベルでより乱雑になる、だか
ら融解は自発的に起こる。では、液体の凝固はどうなのか?凝固という現象は自然な過程、
自発的な過程である。しかし、液体は固体よりミクロなレベルでより乱雑な状態なので、
液体が凝固するとエントロピーが減少するはずである。なのに、凝固は自発的に起こる。
これはエントロピー増大則に反しているのではないのか?
実は、エントロピー増大則
エントロピー増大則は正確には、
「宇宙の
宇宙のエントロピーが増大する過程が自発的に起こる」
と表現されるのである。融解も凝固もともに宇宙のエントロピーが増大しているのである。
今まで考えていたエントロピーは、実は系のエントロピーだったのである。宇宙とは何か?
系とは何か?
例えば融解や凝固、あるいは化学反応等、我々が注目して
宇宙
いる対象を系と呼ぶ。それをとりまく空間を外界とか環境と
外界
呼ぶ。そして、系と外界を合わせたものを宇宙と呼ぶ。
系
例えば、実験室を宇宙と考えることも可能だし、地球の大気
圏全体を宇宙と考えてもよい。
凝固は発熱過程なので、熱が系から外界に移動する。このエネルギーの移動に伴って、
外界を構成する原子や分子の運動が激しくなる=エントロピーの増大が起こる。このとき、
系のエントロピーが減少(Δ S < 0)しても、それ以上に外界のエントロピーが増大(Δ S
外界> 0)すれば、差し引き宇宙のエントロピーが増大(Δ S 宇宙> 0)することになり、凝
固は自発的に起こる。
Δ S 宇宙=Δ S +Δ S 外界 > 0
(2)
融解について考えると、熱が外界から系に移動するので、実は外界のエントロピーは減
少しているのである。しかし、系のエントロピーの増加が外界のエントロピーの減少を補
ってなお余るほどであれば、宇宙のエントロピーが増大し、融解が自発的に起こる。
*1 拡散する前はしきりによって束縛されており、分子運動が制限されている。結晶状態では粒子間の
相互作用により束縛されており、分子運動が制限されている。しきりがとれる、あるいは粒子間相互
作用より運動エネルギーが大きくなると、束縛が解けて自由に運動することができるようになる。た
だし、気体は箱の中に閉じこめられているし、液体は容器の中にあるので、以前より緩やかではある
が束縛されていることにかわりはない。これが、束縛条件が緩やかになる、という意味である。
-5-
5. 化学反応はなぜ
化学反応はなぜ起
はなぜ起こるのか?
こるのか?
これまでの話で分かるように、気体の拡散や固体の融解については、酸素とか窒素とか
水とか物質を特定することなく、普遍的にミクロなレベルから、なぜこれらの現象が自発
的に起こるのかを説明することが出来た、エントロピーが増大することを示すことが出来
た。閉じ込められた気体は仕切りがなくなれば必ず拡散するし、固体の温度を上げれば、
(分解する場合は別として、)必ず融解する。しかし、化学反応は必ず起こるとは限らな
い。反応が少ししか進行しない場合も、ほとんど進行する場合もある。しかし、一部しか
拡散しないとか、一部しか融解しないとかということはない、必ず全部拡散するし、必ず
全部融解する。反応が起こる場合も起こらない場合もある、少ししか反応しない場合もか
なり進行する場合もあるということは、「化学反応はなぜ起こるのか?」という単純な問
いは意味をなさない、一概には問えないということである。我々に言えることは、気体の
拡散や固体の融解などの考察から、化学反応においても
ある化学反応が自発的に進行するとき、宇宙のエントロピー S 宇宙は増大している
ということだけである。つまり、ある化学反応が起こるときには S 宇宙は増大し、S 宇宙が増
大しないときその化学反応は起こらない。我々は経験則として、ある変化が自発的に起こ
るなら、S 宇宙が増大している、と考えるのである。
一般的に化学反応を考察することはできないので、具体的にある化学反応を考察して、
確かに反応の進行に伴って宇宙のエントロピーが増大するか、見てみよう。とはいっても、
反応の進行に伴ってエントロピーが増大するかどうかを考察するのは、実際にはかなり難
しいことで、特に溶液中で起こる反応は、反応する物質以外に溶媒も存在するので、議論
は複雑になる。ここでは、比較的考察が容易な気相反応、化学の教科書でもとりあげられ
ているアンモニアの合成反応を例に考えてみよう。
(1/2)N2(気体)+(3/2)H2(気体)
NH3(気体)
(3)
この反応では、反応が進行すると 2 mol の気体が 1 mol に減少してしまうので、系のエン
トロピーは減少すると予想される。実験(298 K、1 bar = 105 Pa)によると、反応による
エントロピー変化はΔ S =- 99.38 J K-1 mol-1 で、確かに系のエントロピーは減少してい
る。この反応は発熱反応で、同じ実験条件の下で、46.11 kJ mol-1 のエネルギーを放出す
ることが知られている。この熱を外界が吸収しそのエントロピーを増大させる。この外界
のエントロピー増大はΔ S 外界= 154.7 J K-1 mol-1 なので、Δ S 宇宙= 55.4 J K-1 mol-1 となり、
宇宙のエントロピーが増大していることが分かる。
-6-
(参考)
20 世紀を代表するアメリカの物理学者 R.P.ファインマン
ファインマン(1965 年、朝永振一郎らとと
もにノーベル物理学賞を受賞)は、彼の有名な教科書「ファインマン物理学(1965)」の
冒頭で「現在の科学知識をたった一つだけしか次世代に伝えることができないとしたとき、
その伝えるべき知識とは、物質は動き回る小さな粒子からできている、ということであろ
う。」と(いうような意味合いのことを)言っている。エントロピー増大則という自然法則
は、「物質が莫大な数のミクロな粒子からできていて、それらは熱運動という‘不規則’
な運動をしている」という事実に基づいているのであり、ファインマンの言葉はその事実
の重要性を物語っている。
C.P.スノー
スノーというイギリスの小説家は「二つの文化と科学革命」という著書を 1959 年
に発表し、大きな論争を引き起こした。タイトルにある「二つの文化」とは、"自然科学"
と"人文科学"を指す。彼は次のように書いている。
「私はよく(伝統文化のレベルからいって)教育の高い人たちの会合に出席したが、彼ら
は科学者の無学について不信を表明することにたいへん趣味をもっていた。どうにもこら
えきれなくなった私は、彼らのうち何人が、熱力学の第二法則について説明できるかを訊
ねた。答えは冷ややかなものであり、否定的でもあった。私は「あなたはシェイクスピア
のものを何か読んだことがあるか」というのと同等な科学上の質問をしたわけである。も
っと簡単な質問「質量、あるいは加速度とは何か」(これは、「君は読むことができるか」
というのと同等な科学上の質問である)をしたら、私が彼らと同じことばを語っていると
感じた人は、その教養の高い人びとの十人中の一人ほどもいなかっただろうと、現在思っ
ている。」
ここで興味深いのは、文学におけるシェイクスピアに対比して、熱力学第二法則を上げて
いることである。熱力学第二法則とはここで紹介したエントロピー増大則のことである。
-7-
付録:
付録:
6 熱運動の
熱運動の確率モデル
確率モデル
コップの中のお湯の温度が室温より高いと、お湯の温度は下がり、やがて室温と同じ温
度になる。こうなると、水の温度がそれ以上下がることはない。水の蒸発を無視すれば、
この状態では、水の温度も体積も圧力も変化しない。この様な状態を熱平衡状態という。
ここで、容器に閉じこめられた熱平衡状態の気体を考えよう。このとき、一つの分子に
注目してその運動の軌跡を追跡したとする。この分子は長い時間の間には*1、この容器を
隅から隅までまんべんなく動き回るであろう*2。熱平衡状態にある気体分子の運動を考察
するとき、我々は次のような考え方を導入する。「分子は本当は衝突によって運動方向を
10
変えるのだが、衝突を直接考慮しないで、分子はある時間間隔(例えば 10- 秒)毎に運
動方向を確率的に変える。」ある瞬間にある場所にいる分子が、次の瞬間そこからある方
向にある確率に従って移動すると考える。これを確率モデル
確率モデルと呼ぶことにする。分子が‘
でたらめ’に動き回るということなので、ある瞬間にある位置にいた分子が次の瞬間にど
の方向に向かって進むか予想がつかない=どの方向に向かう確率も等しい、と考えてよい
だろう*3。原理的には分子の運動状態を運動方程式を解くことによって記述できるが、粒
子の数が非常に多いとき実際上これは不可能なので、この運動を確率過程と見なして状態
を記述するのである。
原子や分子が熱運動をしているから、物質のエントロピーは増大する=原子や分子はよ
り無秩序に配置するようになる。これを、「気体の拡散」を例に、確率モデルを使って考
えてみよう。簡単のために分子は右と左にしか動くことが出来ず、その確率は等しいとす
る。
粒子はどちらの方向に進む確率も等しいので、右に動く分子も左に動く分子もあるが、
左に動く分子はすぐ他の分子と衝突してしまい左方向にはなかなか進むことができない。
それに対して、右に動く分子は他の分子が無いので、右方向にどんどん進むことができる。
結果として、分子全体は徐々に右側に分布するようになり、最終的には箱の中全体に分子
が均一に分布するようになる。一度このような分布になると、右に進む分子も左に進む分
子も等しく存在するので、均一分布の状態を維持し続けることになる。これが熱平衡状態
である。
エントロピーが減少するような変化が自然に起こることはない。たとえば、箱いっぱい
に広がっていた気体分子がいっせいに全部どんどん左側に移動し、右側から気体が無くな
ってしまう、などということは自然には起こらない。これを確率モデルで説明してみよう。
しきりをとる前に気体が存在した領域を A とし、箱全体の 1/2 の大きさであるとする。分
子が存在できる場所の数を Z とすると、Z は体積 V に比例する。1 個の分子が領域 A で見
いだされる確率は、ZA/Z = VA/V = 1/2 である。従って、N 個の粒子の場合、始めの状態
(=全粒子が領域 A にのみ存在する)の出現する確率は(1/2)N である。例えば、N = 20
*1
9
1 気圧、25 ℃の気体窒素において、1 個の分子は毎秒 7 × 10 回も衝突する。つまりある運動が継
-10
続する時間は 10
秒程度である。ミクロのレベルではこの程度の時間間隔を考えるので、1 秒でもか
なり長時間であると見なせる。
*2 容器のある領域に偏って分子が存在すると考える方が不自然であろう。
*3 ある方向に動く確率がそれ以外の方向と異なる、と考える方が不自然であろう。
-7-
でも、(1/2) = 10- となり、粒子数がアボガドロ数個程度であれば、この確率は実質上
ゼロである=自発的には起こらない。確率的に取り扱うが、粒子の数が莫大なので、そこ
から得られる結論はほとんど確定的である、ことに注意する。
20
6
7. 自由エネルギー
自由エネルギー
式(2)は全ての化学反応にもあてはまる一般的な式である。我々は温度一定、圧力一定
の条件の下で実験をすることが多い。なぜなら、この条件は最も容易な(緩やかな)実験
条件だからである。この条件下で式(2)は次式のように書き換えることが出来る。
Δ G =Δ H - T Δ S
(定温、定圧)
(3)
ここで、式(2)との関係は、
Δ G =- T Δ S 宇宙
( 4)
Δ S 外界 =-Δ H/T
(5 )
である。Δ G は系のギブズ(
ギブズ(自由)
自由)エネルギー変化、Δ H は系のエンタルピー変化である。
圧力一定の条件下では、-Δ H は系から外界へ流れた熱量である(化学反応の場合Δ H
は反応熱である)。式(3)が意味することは、定温、定圧のもとで起こる変化に関しては、
宇宙のエントロピーが増大(Δ S 宇宙> 0)する過程では、系のギブズエネルギーが減少す
る(Δ G < 0)、ということである。式(3)のよい点は、全て系の状態量で書かれていると
いうことである。式(2)では、Δ S 外界をミクロなレベルから考察するためには、外界のミ
クロな構造を知らなければならない。しかし、式(3)なら、その必要はない。系に注目す
るだけで、宇宙のエントロピー変化が分かる。すなわち、Δ G < 0 ならΔ S 宇宙> 0 であ
り、Δ G > 0 ならΔ S 宇宙< 0 である。
定温、定圧という一般的な条件下の化学反応に関しては、我々は式(3)を使って考察す
る。Δ H とΔ S は実験で測定することが出来るので、実験で得られたこれらの値がなぜ
そうなるのか、ミクロなレベルから考察するのである。
8. 気体の
気体の圧力
気体が圧力を示すのは、体積を増大させてそのエントロピーを増大させたいためである。
分子は広い領域に存在するほど、その配置はよりでたらめになるので、系のエントロピー
は増大する。ある容器に入れておくと気体は圧力を示すが、それはこの容器がなければ広
がって系のエントロピーを増大させようという傾向があるからである。これをミクロのレ
ベルで考えると、気体粒子の運動は全く‘でたらめ’なので、この領域の内側に向かう運
動もあるが、外に向かう運動が存在するので、圧力を示す(、容器がなかったら拡散する
=エントロピーを増大させる)のである。
高圧のガスボンベから気体が大気中に吹き出すと、気体はすごい勢いで吹き出てくるの
で、何か強い力が気体に働いているように感じるかもしれない*1。しかし、気体分子とは
無関係に存在する力が気体に働いて気体が吹き出ているのではない。気体分子が‘不規則’
*1 圧力差によって気体が押し出される、というイメージがあるかもしれない。しかし、圧力とは気体
分子の運動そのものである。圧力が働いて気体分子が動かされるのではない。気体分子が運動するか
ら、圧力が発生するのである。
-8-
な熱運動をしているから気体は吹き出してくるのである。すごい勢いで吹き出てくるのは、
我々が想像する以上に気体分子がすごいスピードで運動しているからである。例えば、25
℃の空気中の窒素分子 N2 は 475 m s-1 ほどの速さで運動している。これは時速に換算する
と、1700 km h-1 である。我々がこの分子の速さを実感できない理由は、気体分子が衝突
を繰り返して、絶えず運動方向を変えているからである。この速さで運動している気体分
子が集団で飛び出してくるのだから、その勢いは相当であろう。ガスボンベの中で気体は
‘不規則’な熱運動をしている。そのとき、ボンベに少し隙間ができれば、たまたまそこに
飛んできた気体分子がボンベの外に飛び出す。ただ、それだけなのである。何か特別な力
が働いているわけではない。
拡散現象は気体以外でも、濃度が不均一な溶液でも溶質の拡散現象が観測される。濃度
が不均一な溶液が均一になっていくとき、濃度勾配があると濃度の高い部分から低い部分
に何か力が働いて、溶質分子が移動する(拡散する)ように感じるかもしれない。しかし、
溶質分子に何か力が働いて、そのために拡散が起こったのではない。分子が‘不規則’な熱
運動をするから、拡散が起こったのである。分子が‘不規則’な運動するから、濃度の高い
領域から低い領域へ移動する分子の数が濃度の低い領域から高い領域へ移動する分子の数
より多いので、差し引き正味の移動(つまり拡散)が起こったのである。
9. ゴム弾性
ゴム弾性
外力を加えれば変形するが、外力を取り去ると元に戻る物体は、弾性を持つといわれ、
その物体を弾性体と呼ぶ。これに対して、力を取り去っても変形が元に戻らない性質を塑
性という。物質は一般に外力が小さい間は弾性を示すが、力がある限界を超えると、塑性
を示すようになる。通常の固体の弾性の原因は、その物体を構成している原子、分子の間
の相互作用である。すなわち、弾性変形すると、原子間の距離が変わって、原子間のポテ
ンシャルエネルギーを増大させる。元に戻ろうとする傾向(弾性)は、このエネルギーを
減少させようとする傾向に他ならない。
ゴムは固体のくせにブヨブヨして非常に軟らかい。指で押せばブヨブヨと凹む。伸びや
すい。そしてねじりやすい。ゴムひもを引っ張ったときに元に戻ろうとする=縮もうとす
る力を張力という。ゴムはもとの長さの数倍にも伸ばすことが出来る。従って、ゴム弾性
ゴム弾性
の原因が分子間力であるはずがない。実はゴムの場合はエントロピー効果によって弾性が
生じるのである。これを分子論的に考察してみよう。
ゴムはイソプレンの重合体が基本になっている。この重合体は鎖のようにイソプレン分
子が並んでいるので、 高分子鎖 と表現することがある(図参照)。この高分子鎖では、 C
と CH2 との間の結合の周りで回転することができ、そのためいろいろな構造をとること
ができる。実際のゴムは、このような高分子鎖が架橋点で固定された三次元の網目構造を
している(図 2-21 参照)。架橋点で固定されているが、高分子鎖の間の相互作用は非常に
弱いので、架橋点間で分子鎖はやはりいろいろな配置をとることができる。有限温度では、
熱運動によって鎖の各部分の C-CH2 結合軸まわりの回転が‘でたらめ’に起こるため*1、
*1 気体分子の‘不規則’な熱運動は分子全体の並進運動であり、ゴムの場合の‘でたらめ’な熱運動
は高分子鎖内の回転運動である。
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鎖が伸びた状態ではなく、縮んだ状態をとる 。従って、ゴムを引っ張っても元の状態に
戻ろうとするのである。これをエントロピーで表現すると、エントロピーを増大させよう
としてゴムは縮む(=張力を示す)のである。鎖の伸びた状態は秩序のある状態であり、
縮んだ状態はいろいろな配置が考えられるのでより無秩序な状態である。このようにゴム
弾性が熱運動による(=エントロピー効果による)もので、分子間引力によるものではな
いから、容易にこの折れ曲がった鎖を引き延ばし、変形させることができるのである。ち
ょうど気体が固体や液体に比べてはるかに圧縮しやすいように。
ゴム弾性の温度変化もこれがエントロピー効果によるものであることを示している:金
属や塩類の結晶の弾性率は温度上昇とともに低下するが、ゴム弾性は温度が高いほど強く
なる。これは加熱されるとゴムの張力が増すからである。ゴムの張力は絶対温度に比例す
ることが知られている。温度が高いほど鎖の各部分の運動は激しく、したがって引き伸ば
したときの抵抗力(弾力、張力)も大きいはずである。
*1
10. 気体の
気体の圧力と
圧力とゴムの
ゴムの張力-
張力-エントロピー的力
エントロピー的力-
的力-
温度を上げると増すという点で、ゴムの張力は気体の圧力に似ている。考えてみれば圧
力というのも一種の弾性である(体積弾性という)。圧縮しようとすれば抵抗力を示し、
手を離せば元に戻る。
気体では膨張するとエントロピーが増大するので、膨張しようとする傾向が圧力となっ
て現れることを見たが、鎖状高分子からなるゴムでは、縮むとエントロピーが増大するの
で、縮もうとする傾向が張力となって現れるのである。気体を圧縮するとエントロピーが
減少するので、エントロピーを増大させようとして気体はその圧力を高くする。ゴムを引
っ張るとエントロピーが減少するので、エントロピーを増大させようとしてゴムの張力は
高くなる。
気体を熱すると膨張する。これは、気体を熱するとそのエントロピーが増大する(熱に
伴ってエントロピーが変化するから)ので、体積を大きくする事によってそのエントロピ
ー増大を行うためである。これに対して、ゴムは熱すると収縮する。これも、熱すること
によってゴムのエントロピーが増えるので、分子鎖が縮むことによってこのエントロピー
増大を行うためである。
気体の圧力やゴムの張力は、分子がでたらめに熱運動するために発生する巨視的な力な
ので、エントロピー的力
エントロピー的力と呼ばれることがある。
*1(簡単な計算)回転運動の自由度が 2 であるとする。鎖状分子 1 分子当たり回転のできる箇所が 100
あるとすると、鎖状分子が直線状になる確率は(1/2)
100
= 7.9 × 10
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である。鎖の各部分で回転運動が
起こるので、縮んだ状態といっても色々な形態をとることが出来る。
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