硬X線光電子分光法による 状態分析への 新たなアプローチ −「より内部

●硬X線光電子分光法による状態分析への新たなアプローチ
硬X線光電子分光法による
状態分析への
新たなアプローチ
−「より内部」や「埋もれた界面」の
非破壊分析を目指して−
HAXPESスペクトルを、図1、図2にそれぞれ示す。Al
Kα1,2線励起(1486.6 eV)の場合は酸化物成分のみが観
測 さ れ た が、 硬X線励起 で は 基板由来 のSi0成分 も 検出
された。このように、HAXPESでは、実験室レベルの
XPSよりも検出深さが深いことがわかる。これを応用す
ると、例えば多層膜では、スタック構造を維持したまま
埋もれた界面を評価できる6),7)。
表面解析研究部 藤田 学
安居 麻美
小川 慎吾
山元 隆志
SiO2
h =1486.6eV
1.はじめに
硬 X 線 光 電 子 分 光 法(Hard X-ray Photoelectron
Spectroscopy:HAXPES)は、6~8keV程度のX線源を
用いた光電子分光法であり、通常のAl Kα1,2線(1486.6
eV)を用いた実験室レベルのXPS(X-ray Photoelectron
Spectroscopy:XPS)が数nmの検出深さであるのに対し
て、30nm程度までの深い部分の情報も含まれることを特
図1 Si 基板上に25nm のSiO2膜を形成したモデルサンプ
ルのAl Kα1,2線励起によるSi2p XPS スペクトル
徴とする。
弊社では2008年度よりHAXPES実験を開始し、受託
SiO2
h =7942.4eV
分析への可能性を探求している。本稿では、その取り組
みについて紹介する。
Si 0
2.硬X線光電子分光法の歴史1)
1950年代、Siegbahnら に よ っ て 実験室 に お け るXPS
ス ペ ク ト ル の 取得 が 始 ま っ た が、1967年 に は 最初 の
HAXPES実験が、同じくSiegbahnらによって報告され、
Cu KαおよびCu Kβ線励起によるMg1s、Mg2p、O1sの
図2 Si 板上に25nm のSiO2膜を形成したモデルサンプル
のSi1s HAXPES スペクトル
内殻スペクトルの取得に成功している。しかしながらX
線源の強度が不十分であったため、実用分析として広く
用いられることはなかった。
4.粉末材料への適用例
近年、SPring-8などの第三世代と呼ばれる放射光施設
の利用が一般的となり、従来と比較して極めて高輝度の
実験室におけるXPSで得られる情報深さは数nm程度
放射光を利用できるようになった。2003年には、第三世
であるため、大気中で取り扱われている粉末試料の分析
代の光源を用いた高エネルギー分解能HAXPES実験が
結果には、表面酸化や有機系コンタミなどの影響が含ま
初めて報告された。その後、2004年からHAXPESの産
れる。したがって、大気中で取り扱われている粉末を実
業利用が始まると、半導体分野などで学会発表にデータ
験室におけるXPSで評価した場合、バルクの化学状態を
が使用されるなど、実用レベルに到達したことが伺える。
反映しない懸念がある。しかしながら、化学状態を調べ
また、近年では、触媒2)や透明酸化物半導体3)、強相関物
ることができるXPSは魅力的であるため、適用されるこ
質 、電池材料 などの分野でも広く利用されている。
とも多い。
4)
5)
この課題を解決する方法として、アルゴンイオンエッ
チングにより、表面層を除去する方法が考えられるが、
3.絶縁膜への適用例
イオンエッチングにより化学状態が変化してしまう懸念
がある。また、光電子の取り出し角を試料表面に対して
Si基板上に25 nmのSiO2膜を形成したモデルサンプル
90度にすることで、やや深い部分の情報を得る方法もあ
のAl Kα1,2線励起によるSi2p XPSスペクトルおよびSi1s
るが、一般に粉末試料は直径数μm程度もしくはそれ以
・23
東レリサーチセンター The TRC News No.112(Jan.2011)
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下の球体の集合であるとみなすと、その有効性は低いこ
h =1486.6eV
とが予想される。その他、還元雰囲気にて試料を焼成す
CoO
る、もしくは不活性雰囲気にて乳鉢などで試料を粉砕し
内部を露出させるなどの前処理を行い、大気との反応に
よる変化を極力抑制してXPS装置に搬送して測定する方
法が考えられる。これらは、既知の標準物質などに対し
ては有効であるが、未知試料に対しては前処理の影響な
どを事前に知りえないため、最も適切な方法であるとは
言い難い。また、前処理条件の最適化を行う必要がある
ため、実用分析の観点からは困難であると言える。
一方、HAXPESでは複雑な前処理を必要とせず、よ
り内部の化学状態を反映したスペクトルを測定すること
ができる。ここでは、XPSとHAXPESにより、大気中
に長期保管された市販の酸化コバルト粉末(CoOおよび
Co3O4)の評価を行い、粉末表面のコアーシェル構造に
h =1486.6eV
ついて考察した。
図3に 実 験 室 で 取 得 し たCoOお よ びCo3O4 粉 末 のAl
Co3O4
Kα1,2線励起によるCo2p XPSスペクトルを示す。両試料
ともにCo2p3/2ピーク位置およびCo2pスペクトル形状は、
既報8)のCo3O4と良い一致を示した。これより、長期保管
されたCoOの、少なくとも表面数nmはCo3O4に変化して
いると考えられる。次に、実験室でアルゴンイオンエッ
チングを用いたXPSによる深さ方向分析(SiO2 換算値
で50nm程度)を行い、試料間比較を試みた。図4にCoO
およびCo3O4 粉末のCo2pピークモンタージュを示す。
CoO、Co3O4粉末ともに、初回のアルゴンイオンエッチン
グによりCo2pスペクトルにはCo2+成分に特有なサテライ
ト8)が観測された。二回目以降のエッチングによるスペ
クトル変化は観測されず、試料間で顕著な差は認められ
図4 CoO、Co3O4粉末のCo2p ピークモンタージュ(※は
Co2+成分に特有なサテライトを示す)
なかった。Co3O4では、アルゴンイオンエッチングにより
Co3+が還元され、Co2+の割合が増加したと考えられる。
ペクトルより、長期保管されたCoO粉末表面には、大気
中で酸化されることにより安定な表面層としてCo3O4が
h =1486.6eV
CoO
Co 3O 4
存在し、アイランド状でないと仮定するとその厚みは数
nm(実験室におけるXPSの情報深さ)程度であることが
推定される。
h =5950.3eV
CoO
図3 CoO およびCo3O4 のXPS スペクトル
Co 3O 4
図5にCoOおよびCo3O4粉末のHAXPESスペクトルを
示す。CoO粉末 で は、Co2+成分に特有なサテライトが
Co3O4よりも顕著に観測された。このように、実験室装
置でCoO、Co3O4粉末を見分けることは困難であったが、
HAXPESではスペクトルの明確な違いが認められた。
以上 の 結果 か ら、CoO粉末 のXPSお よ びHAXPESス
24・東レリサーチセンター The TRC News No.112(Jan.2011)
図5 CoO お よ びCo3O4 のHAXPES ス ペ ク ト ル(※は
Co2+成分に特有なサテライトを示す)
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7)小川慎吾,安居麻美,藤田学,山元隆志,喜多浩之,
5.おわりに
第15回ゲートスタック研究会要旨集,157-160(2010).
8)M. Oku and K. Hirokawa, Journal of Electron
このように、HAXPESは、多層膜の「埋もれた界面」
Spectroscopy and Related Phenomena, 8 475‒
の化学状態分析や、粉末材料の「より内部」の分析によ
481(1976).
るコア-シェル構造の解明など、従来の電子分光では知
りえない領域を切り開いていく強力なツールであること
が分かった。今後も多様な材料への適用を探求し、これ
まで不可能であったお客様の要求を実現していきたいと
考えている。
■藤田 学(ふじた まなぶ)
表面解析研究部 表面解析第1研究室
2002年:大阪電気通信大学工学研究科
修士課程修了
専門:表面分析
趣味:音楽、球技。
6.参考文献
1)K. Kobayashi, Nuclear Instruments and Methods in
physics Research, A 601 32-47(2009).
2)V. Matolın, I. Matolınová, M. Václavů, I. Khalakhan, M.
Vorokhta, R. Fiala, I. Piš, Z. Sofer, J. PoltierováVejpravová, T. Mori, V. Potin, H. Yoshikawa, S.
Ueda, and K. Kobayashi, Langmuir, 26(15), 12824‒
12831(2010).
3)K. Nomura, T. Kamiya, H. Yanagi, E. Ikenaga, K.
Yang, K. Kobayashi, M. Hirano, and H. Hosono,
Applied Physics Letters, 92, 202117(2008).
4)高田恭孝,表面科学,26, No.12, 734-740
(2005).
5)M. Shikano, H. Kobayashi, S. Koike, H. Sakaebe, E.
Ikenaga, K. Kobayashi and K. Tatsumi, Journal of
Power Sources, 174, Issue 2, 6, 795-799
(2007).
6)吉木昌彦,鈴木正道,土屋義規,市原玲華,齋藤真司,
(2009).
竹野史郎,放射光, 22, No.1, 20-29
■安居 麻美(やすい あさみ)
表面解析研究部 表面解析第1研究室
2009年:奈良先端科学技術大学院大学
物質創成科学研究科修士課程修了
専門:表面分析
趣味:食べること、球技。
■小川 慎吾(おがわ しんご)
表面解析研究部 表面解析第1研究室
2005年:筑波大学大学院理工学研究科
修士課程修了
専門:表面分析
趣味:音楽、球技。
■山元 隆志(やまもと たかし)
表面解析研究部 表面解析第1研究室 研究員
1992年:佐世保工業高等専門学校卒業
1992年:㈱東レ入社
2000年:豊橋技術科学大学物質工学課程卒業
専門:XPS,XAFS
趣味:バスケットボール、ボート、バイク。
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