フェチファック

平成23年度 第1回 廃屋・空き家対策検討会 資料
空き施設の活用事例
2011・06・10
㈱シー・アイ・エス計画研究所 濱田暁生
空き施設活用の視点:
○先ず、「空き施設」の存在をどう考えるか?
「廃屋・空き家対策」と「空き施設活用」の違いは?
一軒の、あるいは数軒の群として、使われていない
建物がある。そのことに対する態度・立場としては、
実は様々な視点・価値観があるのではないだろう
か?
例えば・・・
1970年代より、いわゆる鉄道の“廃線マニア”
の存在が知られ、近年の“廃鉄”につながっている。
また、80年代頃からのアーティストの活動の影響
もあって“廃墟ブーム”へ!
今やNet上には
・詩的廃屋
・街頭写真館「廃屋二十二景」
・美しい廃屋
・廃屋ウォッチング
・廃フェチ
等々、廃屋に関する情報が大量に!
これらの人々にとって、“廃屋”は、不要なもので
はない!?
同じものを見ても
○見苦しくて不快だから無くしてしまいたい!
○地域としてイメージダウン:恥ずかしい!
○倒壊や破片の落下等で危険!
○ゴミの不法投棄や放火の対象になる!
○子ども達の非行・犯罪の温床になる!
○大事にして来たけれど古くて使い難いから壊してしま
うしかない・・・
○風雪に晒されて、うらぶれた姿が風情がある・・・
○相応しい用途を考えて行けばまだまだ使える。
○個性的な佇まいや懐かしい雰囲気を活かして活用出
来る!
等々、否定的∼容認∼肯定的まで、幅広い立場があり
得る!
つまり、
・景観∼環境阻害要素・要因への対策の視点
だけではなく、
・暮しの安全性等社会生活関連条件改善の視点
・地域資産:社会的ストック活用策としての視点
もそこにあるべき!
したがって、地域の課題として取組むにあたっては、
これらの多様な視点と価値観に基づく丁寧な評価と周
到な検討が不可欠で、排除的な対策として短絡的に
議論すべきではない!
幾つかの事例で、そのプロセスを考えて見ましょう・・・
「蘇った廃校」:アルテピアッツァ美唄
ーアートを核にした地域再生ー
∼アルテピアッツァ美唄:これまで、そして、これから∼
㈱シー・アイ・エス計画研究所
濱田暁生
(NPO法人アルテピアッツァびばい 理事/運営委員)
甦った廃校: 「アルテピアッツァ美唄」
◇炭鉱の閉山に伴なって生徒が減り、廃校となった小学校:
ある意味では産業遺産とも言えるが、素材∼環境としては
決して、特別ではない施設=「典型的な小学校」
◇「芸術文化交流施設」としての意義づけを明確にしつつ、
さまざまな事業財源による「公共事業」として柔軟に対応
◇現役の彫刻家=安田侃の主体的表現の場として、高い志
に基づいたコンセプトと妥協のない空間構成・環境整備
◇地形的領域感と周辺の自然環境を活かし、過度に手を加
えない押さえの利いたデザインで、懐かしい雰囲気を保つ
◇あるべき姿の実現へ向けての強い意志と常に進化させる
心がけに基づく継続的な取組み(1991∼現在∼将来)
◇共感者が地域を越えて広がり、支援組織をNPO法人化
⇒*指定管理者制度によってNPO法人が運営管理
アートを核にした廃校再生:
廃校の校舎・体育館・グランドと裏山が
美唄市の継続的な整備事業と、
安田侃氏の献身的な努力によって、
他のどこにもない魅力的な彫刻公園に姿
を変えて来た。
このかけがえのない空間への共感を未
来に引き継いで行くために、美唄市の指
定管理者制度と連動しながら、NPO法人
が運営・維持・管理を担っている。
廃校からアルテピアッツァへ:再生の経緯
年 次
施設・建物の利・活用・整備の状況
1985(昭和60年)
∼1990年(平成2年)
備考
・安田侃氏の作品収蔵庫として体育館を使用
*1980年炭山の碑建立、
既存の建物のままシャッターがつき、他は未整備
1991年(平成
3年)
・体育館をアートスペースに改修
*全体構想∼改修設計∼工事
「ふるさとC&Cモデル事業」(旧国土庁)導入
1992年(平成
4年)
・浄化槽・排水整備
*オープニングセレモニー、コンサート等自主支援
組織「アルテピアッツァ友の会」の活動が始まる
1993年(平成
5年)
・レクチャー棟・野外アプローチ・照明・サイン等の整備
*コンサート等(5回)、南空知広域市町村圏「若者
定住促進緊急プロジェクト」事業(旧自治省)導入
1994年(平成
6年)
・駐車場(旧)整備・トリフォリオの広場整備、作品1点購入
*コンサート(3回)
1995年(平成
7年)
・作品1点購入
*コンサート(4回)
1996年(平成
8年)
・水の広場整備
*コンサート(4回)
1997年(平成
9年)
・作品3点購入
*ライブ・コンサート(5回)、講演会(1回)
1998年(平成10年)
・幼稚園舎改修・市民ギャラリー整備・修景工事
*コンサート(7回)
1999年(平成11年)
・作品4点購入
*コンサート&朗読等(8回)、展覧会(8回)
2000年(平成12年)
・今後へ向けての検討
*コンサート&朗読等(6回)、展覧会(8回)
2001年(平成13年)
・土地購入、全体整備基本計画・設計委託
*コンサート(8回)、舞踊(1回)、
講演会(1回)、展覧会(13回)
2002年(平成14年)
・彫刻の丘・身障者用駐車場整備
*コンサート(6回)、舞踊(1回)、
講演会(1回)、展覧会(11回)
2003年(平成15年)
・彫刻の丘整備、修景工事
・道立近代美術館との共催展の開催
*コンサート(6回)、舞踊(1回)、
講演会(3回)、展覧会(13回)
2004年(平成16年)
・外構工事
*コンサート(16回)、講演会(1回)、
展覧会(17回)
2005年(平成17年)
・NPO法人設立
*NPO法人を組織し、会員の支援がスタート
2006年(平成18年)
・工房・喫茶整備
*指定管理者としてNPO法人がアルテピアッツァ
の運営・維持管理を受託
2007年(平成19年)
・Cafe
Arte &
Studio Arte オープン
*事務局体制強化・増員
アルテピアッツァらしい手法を貫いて・・・
スタートしてからこれまで、
○理想:夢を共に描き、それを語り続け
○高い志を共有して、安易に妥協せず
○できることから少しずつ、時間をかけて
○多様な財源をうまく使い分けて
○動かしつつ、必要な修正や改善を加えながら
○段階的かつ継続的に
整備・維持・管理・運営し続けて来た。
そして、これからも・・・
最盛期の学校:生徒数1250人、建ち並ぶ「炭住」も壮観!
昭和末期、アルテピアッツァの事業着手前の状況、「トリフォリオの広場」には車が入り、「水の
広場」の辺りはヤチヤナギと雑草、山手は笹薮で、火葬場、家具製造工場等が残っている。
平成9∼10年頃の状況:「水の広場」は整備されているが、現在の「天翔の丘」の位置には未だ
公営住宅が在り、火葬場も移転前、今の「意心帰」のあたりに旧町内会館
Cafe Arte
&
Studio Arte
NPO法人が運営・維持・管理しているアルテピアッツァ美唄の全体(平成17年頃):
管理エリアが広く、多様な施設が分散していることから、負担が大きい
最近の施設整備
2007年春、待望の喫茶・工房がオープン! 工房での“心を彫る”の講座も始まり、多
くの方が参加され、一心に取組む姿が見られ、石を刻み・磨く音が響く。
Cafeの安らぎの空間に、スタッフが心を込めて入れるコーヒーの香りが漂う・・・
そして、現在があるーまるで、以前からこのよう
にあったかの様に・・・
しかし、注意深く見ていくと、様々なきめ細かな
配慮が見てとれる。
段階的な建物の増・改築における配慮
体育館の主要構造部に、玄関、管理事務室、トイレ、
収蔵庫、楽屋等の必要機能を、段階的に増築して
整えられて来た「アートホール」
元のまま(オリジナル)と後から付加したものを明確
にしながらも、違和感のないように・・・
彫刻と建物と樹木の微妙な調和
懐かしい木造校舎の雰囲気をそのままに・・・
異論もあったが、汚れたところも、敢えて白々
しく塗り直すことなく押し通した。
外壁の板も、一度剥がして断熱材を入れ、傷
んだ部材を取り替えて、古色に再塗装。
当初は、多少違和感があったが、風雪に晒さ
れて、経年変化で次第に馴染んで来た。
不思議な魅力の放物線の格子天井:この存
在感が美術館への改修の動機付けとなった
増築部の2階展示∼イベント時の音響・照明
操作空間。付加された螺旋階段はスペースを
とらずにオブジェ的に見える鉄骨螺旋階段に
天井に隠されていた架構を露出させ、間仕切
壁を取り払って展示空間に広がりを出す・・・
幼稚園の子供達の日常的な生活空間の中に、
さり気なく抽象彫刻が・・・
現役の幼稚園が併設されていて、園児たちは
安田侃氏の彫刻の中で学び、遊び、育つ
行動を制限する塀や柵は無く、出入り自由で無料!
池や水路にも柵などは一切つけない・・・
*上の池、流路、下の池の水量の微妙なバラ
ンスを緻密に計算してポンプをコントロール
*石のステージは、97個の不整形のピースの
微妙な組み合わせで構成されている
“こうしないと石が一体のものにならない!”