違憲主張適格論

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違憲主張適格論
渡辺 翼
(駒村研究会 4 年)
Ⅰ はじめに
Ⅱ 本論点の意義について
1 本論点の沿革
2 本論点の位置づけ
3 従来の議論
Ⅲ 「第三者の権利侵害の主張はできない」という原則は正当か
1 問題提起
2 付随的審査制・権力分立制下における自制の要請を根拠とし得るか
3 裁判所の適切な判断確保の要請を根拠とし得るか
4 個人主義の原則を根拠とし得るか
5 結 論
Ⅳ 違憲審査の構造論と違憲主張適格
1 客観的憲法の観念
2 付随的審査制のもとにおける「違憲の主張」の意味
3 違憲主張適格論
Ⅴ 結びに
Ⅰ はじめに
旧司法試験制度から現行制度へ移行して以来、本稿執筆時(2012年師走)まで
の間に 7 回の司法試験が行われた。当然、憲法分野の問題も 7 問出題されたこと
になる。そのうち平成18、19、20、21、23年度の 5 回もの試験で、いわゆる「違
憲の争点を提起する適格性」が論点となり得る出題がされた。とりわけ、平成19、
462 法律学研究50号(2013)
20年度の試験では、その「採点実感等に関する意見」において、「違憲を主張す
る適格性」の問題への言及がなされており、かかる論点を正しく理解することは、
司法試験受験生にとって避けることのできないものになっているといえる。
しかし、「違憲の争点を提起する適格性」に関しては、有名な第三者所有物没
収違憲判決(最大判昭37・11・28刑集16巻11号1593頁) 以外に、この点についての
明確な見解を示した最高裁判例は存在しないように思われる。そうであるにもか
かわらず、本論点には学説上、数多くの議論が存在し、いわゆる「通説」も、そ
の内容は曖昧極まりないものであるといわざるを得ないのが現状である。そのた
め、この論点は受験生にとって“難所”の 1 つとなっているように思う。そもそ
も、本論点の呼称ひとつとってみても、上記のほかに、「憲法訴訟における当事
者適格」、「第三者の権利の主張適格」など論者によって呼び方が異なり、一見し
てそれが同一の問題を論じたものなのかどうかさえ判別しかねる状況にある。か
かる状況は膨大な知識との格闘を余儀なくされる受験生にとって、由々しき事態
であるというほかない。
そこで、近頃“司法試験受験海”の荒波から脱した元受験生が、複雑怪奇な違
憲主張適格論に、ひとつ単純明快な回答を提唱してしまおうではないかと分不相
応にも筆を執った次第である。本稿はそういった浅はかな野望に基づく文章では
あるが、本論点の解明に僅かでも寄与することができれば幸いである。
Ⅱ 本論点の意義について
1 本論点の沿革
憲法上の争点を提起する適格についての議論は、アメリカ合衆国の連邦最高裁
判所が形成してきた判例理論として日本に紹介された。
米国連邦最高裁の違憲審査制は、司法裁判所が具体的事件を解決するために司
法権を行使するのに付随して違憲審査権が行使される、付随的審査制であるとさ
れてきた。かかる付随的審査制の下では、裁判所は当該事件に司法判断適合性が
ある場合においてのみ違憲審査を行い得る。そこで連邦最高裁は、司法判断適合
性の 1 つの要素として当事者に当事者適格(standing)があることを要求してき
た1)。ここでいう standing の概念は、我が国における「当事者適格」の概念より
も広く、訴訟そのものを提起する適格(standing to sue)と、訴訟内において自己
の主張を基礎づけるための攻撃防御方法として何らかの主張をするための適格
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(issue standing)とを包含するものであるが、このうち、後者の意味での standing
が「憲法訴訟」(その意義については後述する)において問題となったとき、これ
を憲法上の争点を提起する適格(standing to raise constitutional issues)と呼ぶので
ある2)。そして、訴訟当事者がある国家行為により自己の憲法上の権利を侵害さ
れたと主張することは、当然に認められるべきものであるから、適格性の問題が
生じるのは、主として第三者の権利3)が侵害されるとの主張を行う場合である。
芦部信喜が1962年に発表した論文、「憲法訴訟における当事者適格」はこのよ
うな憲法上の争点を提起する適格に関する米国判例理論を我が国に紹介し、判
例・学説に多大な影響を与えた。
この芦部論文は、「憲法上の争点を提起する当事者適格とは、一般的にいえば、
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まず当事者が違憲を主張する国家行為によって個人の法律上の利益を侵害されね
ばならぬことを要件とする。しかし、単なる法律上の利益の侵害だけでは十分で
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はない。それは、当事者に対する現実的・実質的な侵害―いいかえれば、憲法
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訴訟においては、憲法上保障された権利・自由に対する直接かつ特別……の侵害
―
4)
でなければならない」
と述べて、憲法訴訟の当事者が国家行為の違憲性を
基礎づけるために第三者の憲法上の権利を援用することは、原則的には許されな
いものであることを当然の前提としている。その上で、第三者の権利の主張が問
題となる場面を 2 つに分類し、それぞれの場合について例外的に第三者の権利の
援用が許されるのはどのような場合であるかについて論じている5)。
2 本論点の位置づけ
( 1 ) 「憲法訴訟」とは
では、「憲法訴訟における当事者適格」論とはどのような意義を有する論点で
あるのかについて、より立ち入って検討しよう。
前述のとおり、本論点はその沿革からすると、「憲法訴訟」において、
「当事者
が自己の主張を基礎づけるための攻撃防御方法として何らかの主張をするための
適格」(issue standing)が問題となったものをいうはずである。では、ここでいう
「憲法訴訟」とは、どのような概念か。
この点について、一般に「憲法訴訟」とは、「憲法にかかわる争点を伴って提
起される訴訟」であるといわれている6)。いうまでもなく、我が国においては、
民事・刑事・行政事件訴訟と、特別に法定された客観訴訟のみが固有の訴訟類型
として用意され、それぞれの訴訟手続法が定められており、「憲法訴訟」なる訴
464 法律学研究50号(2013)
訟類型は、少なくとも実定法律上は存在しない。したがって、憲法上の争点は、
常にこれらの訴訟の中で提起され、それぞれの訴訟法のもとで裁判所の審理と判
断を受けることになる。そこで多くの憲法学者は、これら訴訟の中で「憲法にか
かわる争点」が現れる場合を全て含めて「憲法訴訟」と呼ぶのである。
ところで、固有の訴訟手続が存在しないのにもかかわらず、あえて「憲法訴訟」
を観念し定義する意味はどこにあるのか。いかなる憲法上の争点も、民事訴訟な
り、刑事訴訟なりを通じてのみ裁判所の審理と判断を受け得るのであれば、その
訴訟手続については、当然、民事訴訟手続論なり刑事訴訟手続論なりに従わねば
ならぬはずであり、
「憲法訴訟」固有の訴訟手続論を検討する実益は乏しいよう
にも思われる。そうであるにもかかわらず、固有の訴訟類型として用意されてい
ない「憲法訴訟」をあえて定義し、これについての検討を加えることに意味があ
るとすれば、それはやはり、「憲法訴訟」が通常の民事訴訟や刑事訴訟と異なる
原理を内包することに起因するのだろう。よもや憲法判例百選に搭載する判例を
選別するための基準として「憲法訴訟」の定義があるわけではあるまい。
そして、
「憲法訴訟」となった全ての訴訟類型において共通して、しかも「憲
法訴訟」ではない訴訟とは異なる原理が妥当し得るとすれば、両者を峻別する分
水嶺は 1 つしかあり得ないだろう。すなわち、憲法81条に規定される違憲審査権
の行使を伴うか否かという点である。裁判所による違憲審査権の行使は、時に議
会の立法を無効化し、時に行政府による法の執行を排斥し得る点で、実質的には
消極的な立法行為とそれに基づく消極的法執行行為に近しいものであるといえ、
既存の法の解釈適用という純粋な司法の役割とは、明らかに一線を画する。そし
てそこには、通常の司法権の行使としての訴訟とは異なる固有の問題、例えば違
憲審査の方法論や違憲判決の効力論等が、確かに存在するのである。
以上を前提とすれば、前述した「憲法にかかわる争点を伴って提起される訴訟」
という「憲法訴訟」の定義は、やや広すぎるものであるといわざるを得ないだろ
う。なぜなら、かかる定義では、違憲審査権の行使に関わる判断を伴わない訴訟
例えば私人が私人のプライバシー権を侵害する形で表現行為を行った場合の
―
不法行為の成否等―までも、「憲法訴訟」に包含されることになってしまうが、
そのような訴訟においては、通常の訴訟と同様に、(憲法を含む)既存の法の解釈
と適用がされるだけであって、憲法訴訟固有の問題点を生じないからである。確
かに、例に挙げたような不法行為訴訟でも憲法の条文に関する裁判所の解釈が示
され、それが生きた法となって憲法価値の実現に資することはあるだろう7)。し
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かしながら、当該訴訟がそのような「憲法価値の実現」に関わるがゆえにこれを
8)
「憲法訴訟」と呼称し、これに関する議論を「憲法訴訟論」
と呼ぶことにどれほ
どの意味があるのか、甚だ疑問である。そもそも、そういった「憲法価値」の探
求は実体的な憲法論において既に行われていることではないか。確かに「憲法価
値」は、裁判を通じて生まれる生きた法によって具体化される性質が強いもので
あるが、それは(従来の、実体的な) 憲法学も先刻承知であろう。ゆえに、あえ
て「憲法訴訟論」という名称を名乗らずとも、生きた法を通じた「憲法価値」の
探求という目論みは従来の憲法学で既に行われていることである。むしろ、あえ
て「憲法訴訟論」という用語を用いる以上は、そこに実体的な憲法論とは異なる
意味があるものと読むのが通常であろう。そうだとすれば、やはり憲法訴訟論の
対象となるべき「憲法訴訟」は、その訴訟に固有の問題を内包する訴訟に限定す
べきである。
したがって、本稿ではこのような問題意識のもと、憲法訴訟とは「違憲審査権
の行使を求めるような憲法上の争点が提起された訴訟」であると考えることにし
たい9)。
( 2 ) issue standing とは
次に、上記の意味での憲法訴訟において、「当事者が自己の主張を基礎づける
ための攻撃防御方法10) として何らかの主張をするための適格」(issue standing)
が問題となる場合とは、具体的にどのような場合を指すのかについて検討したい。
(a) 法令違憲の主張
前述のとおり、憲法訴訟とは、「違憲審査権の行使を求めるような憲法上の争
点が提起された訴訟」を意味するとした場合、このような意味での憲法上の争点
のうち最も典型的なものは、法令違憲の主張だろう11)。まさに裁判所が違憲審査
権を行使し得るか否かが直接に問題となる場合である。
ここでは説明の便宜のため、次のような事例を想定したい。原告 X は Y を被
告として、民法258条に基づき共有山林(X の持ち分 2 分の 1 )の共有物分割請求
訴訟を提起した。しかし、旧森林法186条は、共有森林の持ち分価格 2 分の 1 以
下の者について分割請求権を否定していたことから、X は、旧森林法186条は憲
法29条 1 項に反し無効であるとして争った。森林法共有林事件(最大判昭62・ 4 ・
22民集41巻 3 号408頁) を元にした事例である。これは、民法258条に基づく共有
物分割請求訴訟において、違憲審査権の行使を求めるような憲法上の争点が提起
466 法律学研究50号(2013)
された事例であり、憲法訴訟の一例であるといえる。この事例において、原告 X
の目的は共有森林の分割請求をすることであって、その訴訟物は―従来の旧訴
訟物理論に従えば ―X の共有森林分割請求権ということになる。そこで X は、
民法258条の適用を基礎づけるための攻撃方法として一定の請求原因事実(「請求
の原因」民事訴訟法133条 1 項、「請求を理由づける事実」同規則53条 1 項) を主張す
ることになるが、共有森林については旧森林法186条が共有森林の持ち分価格 2
分の 1 以下の者からの分割請求を制限しているため、Y が X の共有森林持ち分が
2 分の 1 である旨の事実を抗弁(防御方法)として主張した場合、X の共有物分
割請求権は否定されてしまう。そこで X は、かかる Y の抗弁の根拠となる旧森
林法186条が憲法29条 1 項に反し無効である旨を攻撃方法として主張するのであ
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るが、これは民事訴訟法的には訴訟当事者による事実上の主張ではなく、法律上
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の主張(法適用に関する意見の陳述)としての意味をもつものである。
このように、民事訴訟において法令違憲という憲法上の争点が提起される場合
には、当該違憲の主張は訴訟当事者による攻撃方法ないし防御方法としての“法
律上の主張”としてなされるのである。法令違憲の主張が行政事件訴訟や刑事訴
訟において法令違憲の主張がされる場合も、前者ならば攻撃方法、後者ならば防
御方法としての法律上の主張12)としてなされることになる13)。
以上を前提とすれば、法令違憲が問題となる憲法訴訟において issue standing
が問題となる場合とは、当該法令違憲の主張という法律上の主張を、当該訴訟当
事者がなし得るか否かという点が問題となる場合であると理解できるだろう。
(b) 適用違憲・処分違憲の主張
これに対して、いわゆる適用違憲・処分違憲の主張が訴訟当事者から提起され
た場合には、裁判所は当該主張の適否を判断するにあたって当該事件の具体的事
実関係(司法事実)をも考慮することになる。そのため、訴訟当事者は裁判所に
よる違憲の判断を基礎づけるために、当該司法事実を事実上の主張として陳述す
ることになるものと考えられる。
もっとも、適用違憲・処分違憲という主張そのものは、法令違憲の主張そのも
のと同様に“法律上の主張”であるから、これらの場合においても、法令違憲の
場合同様に issue standing の問題が生じ得る。そして、仮に、当該訴訟当事者は
当該“法律上の主張”をする適格がないとされれば、その適格のない主張を基礎
づける司法事実の主張も訴訟上無意味な主張となってしまう。そうだとすれば、
事実上の主張としての司法事実の主張が許されるかという問題は、法律上の主張
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の可否という問題に吸収されることになるだろう。
( 3 ) 小 活
以上より、憲法訴訟において「当事者が自己の主張を基礎づけるための攻撃防
御方法として何らかの主張をするための適格」(issue standing)が問題となる場合
とは、訴訟当事者が自己の請求を基礎づけるために法律上の主張として行う憲法
上の争点提起を、当該訴訟当事者がなし得るか否かという適格性が問題となる場
合であると理解できる。そして、このことは本論点が訴訟要件段階の問題ではな
く、本案段階における問題であることを示している。なぜなら、当事者が訴訟要
件を満たさない場合、裁判所はその攻撃防御方法の適否という問題について審査
することなく訴えを却下することになる以上、攻撃防御方法の適否が審理上問題
となるのは、訴訟要件段階ではなく本案段階だからである。
前述の芦部論文以来、従来の学説は、「あらゆる違憲の主張が当然に許される
わけではないという前提に立って、その主張が当事者と合理的な主観的関連性が
14)
なければならないことを示す」
ために、
「憲法訴訟における当事者適格」や「第
三者の権利を主張する適格」といった概念を用いてきた。名称は様々であるが、
いずれも法律上の主張を行う当事者側に焦点を当て、米国由来の standing =適
格という字句を用いている。しかし、我が国の実定訴訟法で「当事者適格」といっ
た場合、それは訴訟を提起する適格としての訴訟要件を意味するから、前述して
きたように訴訟要件段階の問題ではなく本案段階における問題である本論点にお
いて「憲法訴訟の当事者適格」という呼び方は不適切だろう。
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これに対し、この問題は当事者側の問題ではなく、
「当事者はどのような違憲
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の主張 をすれば裁判所の憲法判断を引き出すことができるか」(傍点は筆者によ
る) という、いわば主張内容側の問題であるとして、
「違憲主張の利益」 と呼
15)
16)
ばれることもある。一見すると、こちらの名称の方が本論点を適切に捉えている
ようにも感じるが、結局、かかる名称の問題は、同一の問題点を、主張の主体の
側から検討するか、客体の側から検討するかの違いに起因するものであるから、
どちらが正しいということもないように思われる。
そこで本稿では、その趣旨に則り、司法試験委員会による呼び方17)を踏襲して、
以下、本論点を「違憲主張適格」と呼ぶことにしたい。
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3 従来の議論
( 1 ) 学 説
(a) 従来の通説
本節では、違憲主張適格に関する従来の議論を概観する。本論点についての学
説の対立状況を確認し、本稿における議論を展開する足がかりとしたい。
前述のとおり、芦部信喜は、違憲主張適格に関する米国判例を分析し、ある者
が第三者の憲法上の権利の侵害を主張する場合を、⑴訴訟の結果、第三者の憲法
上の権利に不利益な影響が及ぶことを主張する場合、⑵自己に対しては合憲的に
適用される法律が、第三者に対しては違憲的に適用される旨を主張する場合の 2
つに分類した18)。
その上で、いずれの場合においても第三者の権利侵害を主張することは原則と
して許されないことを前提としつつ、⑴の場合においては、①第三者の権利侵害
の主張についての援用者(他人の憲法上の権利を援用して国家行為を攻撃する者)の
利益の大きさ(当該主張が認められないことによる不利益の大きさ)、②援用される
憲法上の権利の重要性、③援用者と第三者との関係(密接性)、④第三者が独立
の訴訟で自己の権利侵害を主張すること実際上の可能性、の 4 つの要素を考慮し
た上で、例外的に第三者の権利侵害を主張することが許される場合があるとす
る19)。
また、⑵の場合においては、当該法律のうち、自己に対して適用される部分と
第三者に対して適用される部分とが不可分の関係にあり、かつ適用上も不可分で
ある場合には、当該法律を適用される当事者は「法律の適用範囲にある第三者の
権利侵害を理由として、その法律を攻撃することができる」とする。また、当事
者に適用される法律自体が言論の自由等の優越的権利に対する抑圧的効果を生む
場合、換言すれば、当該法律がいわゆる文面上無効とされる場合にも、第三者に
対する違憲的適用の可能性を主張する適格が認められるとしている20)。
時國康夫も、1987年の論文「憲法上の争点を提起する適格」で、上記芦部説と
ほぼ同様の議論を展開しているが、彼は、「第三者の権利侵害を主張することは
原則として許されない」ことの根拠につき、付随的審査制のもとでは具体的事件
の解決にとり不必要な憲法判断を回避する必要があるが、その手法として「違憲
の争点を提起する適格が、その具体的当事者にはないという判断がなされるのが
原則であり、この原則的態度を具現化したものが、自己に適用されない法条の違
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憲の主張や、他人の憲法上の権利を援用してする違憲の主張は許されないという
準則である」との説明を行っている21)。
この説明を素直に読めば、第三者の権利侵害を主張できないという原則は、付
随的審査制度に内在する制約であるようにも捉えられる。しかし、米国判例理論
の沿革からすれば、かかる原則は、司法の消極性や憲法判断の重大性等を考慮し
た上で裁判所が実務上墨守してきた慣行の準則(裁量上のルール)であって、憲
法上の禁止、あるいは司法権内在的な制約ではないと考えられているようであ
る22)。そうであるとすれば、付随的審査制に内在する制約として第三者の権利侵
害の主張禁止をアプリオリに前提とすることはできず、より立ち入った実質的論
拠が示されなければならないだろう。そして、かかる準則の根拠は概ね次の点に
あるとされている23)。
① 権力分立体制のなかで裁判所は自らの位置を配慮して、不必要な憲法判
断を回避すべきであること(権力分立と自制の原理)。
② 権利主体たる第三者が、その権利への侵害について最も鋭利かつ効果的
な主張をするだろうから、このような者が法廷に存在しないのにもかかわ
らず、裁判所がこの点に関する判断を下すべきではないこと(適切な判断
確保の要請)。
③ 権利を有する第三者の自律的決定を尊重すべきであること。つまりその
権利をどのように行使するかは当該権利主体たる第三者に判断させるべき
であって、もしかしたらその第三者はその権利への侵害を甘受するかもし
れないのに、他人がこの侵害を勝手に持ち出して、当該第三者の関与しな
い裁判でその権利侵害の憲法適合性について決定されることは第三者の自
律的決定を害すること(個人主義の原則)。
第三者の権利侵害を主張できないという原則の根拠を付随的審査制に求める見
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解は、これを、付随的審査制のもとで当該事件の処理に必要でない憲法判断をす
ることは、立法府や行政府に対する不当な干渉となるから自制すべきであるとす
る見解と読めば、上記①の理由と親和的である。また、③の理由に関連して、先
例拘束性の法理の下で、権利保持者が、自己が当事者ではない訴訟における裁判
所の判断に拘束されることは不合理であるという理由も挙げられている24)。
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本論点に関する多くの見解は、訴訟当事者は原則として第三者の権利侵害を主
470 法律学研究50号(2013)
張できないとしつつ、ここに挙げた 3 つの根拠から演繹して、訴訟の具体的事情
4 4 4 4
がこれらの原理に背反しない場合には、例外的に第三者の権利侵害を主張するこ
とが認められる、と説いてきた25)。その意味で、芦部信喜が展開した“原則例外
型図式の議論”はその発表から半世紀が経過した現在でも、一応、本論点に関す
る通説の地位を占めているといえるだろう。
(b) 有力説
他方で、違憲を主張する当事者がその理由として第三者の権利侵害を主張する
ことは広く認められるべきであるとする見解も存在する。
浦部法穂は、「当事者は、自分に対して直接適用される法律の規定などの違憲
を主張するかぎりは、どんな理由であろうとも、違憲主張の利益を有するので
あって、そこには、なんらの制限もない」、したがって、
「それが第三者の権利を
侵害するという理由であっても、いっこうに差し支えないはずである」として、
第三者の権利侵害を主張することはできないという原則を否定する26)。
市川正人も、右の原則を否定する見解を説いている。曰く、「訴訟当事者は、
自己に対する法令の適用を、それ自体の違法(憲)性を主張することによって、
排除しようとしているわけであ」り、「訴訟当事者が当該法令適用の排除につき
利害関係を有している限り、第三者の憲法上の権利の侵害の有無につき裁判所が
判断を下すことが……訴訟の解決にとって……必要であるといえる。この意味で
の『第三者の憲法上の権利の主張』を認めることは……付随的違憲審査制の枠組
みを超えるものではな」い。そもそも、米国判例理論由来のこのルールは「司法
権(違憲審査権)の行使に関するかなり消極的な発想にたつルールであ」り、米
国でもこのルールに関する原則と例外が逆転しているといわれるほどであるのだ
から、「違憲審査制の憲法保障機能が相当重視されてきて」いる「わが国におい
て……司法権(違憲審査権)の行使に関するかなり消極的な発想にたつ自制のルー
ル……を採用する必要性に乏しい」27)。
また、戸波江二は、「憲法裁判において自己の権利・利益の救済を求める者は、
まず第一段階として、特定の国家行為によって自己の権利・利益が侵害されたこ
とを主張しなければならない」とした上で、かかる者は第二段階として、当該国
家行為が違憲・違法のものであることを主張しなければならず、違憲主張適格の
問題はまさにこの段階の問題であると整理する。そして、「第一段階における国
家行為と自己の権利・利益の侵害との関連性が立証されている場合には、第二段
階における当該国家行為の違憲・違法の主張の理由は自己の権利・利益に関係す
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る必要はなく、第三者の権利侵害の論点であろうと客観的違憲事由であろうと、
あらゆる方面から違憲の理由をもち出すことができると解すべきである。……結
局、およそ不利益処遇の除去を求めて出訴した者は、その処遇に関連する違憲の
争点はすべて提起することができると解すべき」であると論じている28)。
土井真一も、
「一個の法律の適用が訴訟当事者自身を害するとともに第三者の
憲法上の権利を侵害すると訴訟当事者が主張する場合」29)においては、かかる権
利主張を「認めることを原則とするのが適切」であるとする。かかる土井の見解
は、このような場合には「第三者の憲法上の権利を侵害し違憲であるとして、当
該適用行為が排除されるのであれば、当事者の権利利益も当然に保障される」と
いう関係にあるため、事件解決のためにはこれについて裁判所が判断する必要が
あること、かかる場合には、当事者は第三者の権利の主張につき上記のような利
害関係を有する以上、これを適切に代弁し得るはずであること、また、本人が関
与しない訴訟において裁判所が行った、本人の憲法上の権利にとって不利な判断
の先例拘束性の問題については、むしろ判例変更を柔軟に認める方向で検討すべ
きであること、等を論拠とするものである30)。
これらの見解は、その射程や論拠は様々であるものの、いずれも「第三者の権
利侵害の主張はできない」という原則に異を唱えるものであり、従来の学説とは
一線を画すものである31)。
( 2 ) 判 例
では、判例はこの問題についてどのように考えているのだろうか。ここでは前
述した芦部信喜の分類に従って本論点に関する代表的な判例を 2 つ紹介するにと
どめるが、結論からいうと、我が国の判例はいずれも本論点について明確な回答
を与えてくれるものではないように思われる。
(a)
訴訟の結果、第三者の憲法上の権利に不利益な影響が及ぶことを主張す
る場合についての判例―第三者所有物没収違憲判決
この場合の判例としては、第三者所有物没収違憲判決がある。この事件は、被
告人らが貨物の密輸出を企て、所轄税関の輸出免許を受けないまま貨物を積載し
た機帆船で出航したために、旧関税法違反で起訴され有罪判決を受けたものであ
るが、本件の上告審では、①被告人の懲役刑に対する附加刑として、所有者に対
する告知・聴聞等の手続を経ずにその所有物を没収することの可否、及び、②上
記①の点が憲法29条、同31条に反することを、没収対象物の所有者ではない被告
472 法律学研究50号(2013)
人が上告理由として主張できるか否か、という 2 点が問題となった。そして、違
憲主張適格に関する②の点について最高裁は以下のような判断を下した。
没収の言渡を受けた被告人は、たとえ第三者の所有物に関する場合であっ
ても、被告人に対する附加刑である以上、没収の裁判の違憲を理由として上
告をなしうることは、当然である。のみならず、被告人としても没収に係る
物の占有権を剝奪され、またはこれが使用、収益をなしえない状態におかれ、
更には所有権を剝奪された第三者から損害賠償請求権等を行使される危険に
曝される等、利害関係を有することが明らかであるから、上告によりこれが
救済を求めることができるものと解すべきである
本判決は、最大判昭35・10・19(刑集14巻12号1574頁) を変更した判決として
も知られる。旧判決は、本判決同様に第三者所有物の没収判決について第三者の
権利侵害が主張された事案において、「訴訟において、他人の権利に容喙干渉し、
これが救済を求めるが如きは、本来許されない筋合のものと解するを相当とする
が故に、本件没収の如き事項についても、他人の所有権を対象として基本的人権
の侵害がありとし、憲法上無効である旨論議抗争することは許されないものと解
すべきである」と述べて、被告人の上告を退けたものであった。
本判決において、最高裁が被告人に上訴の利益を認めた最大の理由は、没収が
被告人に対する付加刑であることにある32)。これに対して、
「没収の裁判の違憲
を理由として」上告をなし得るとした点、つまり、第三者の権利侵害の主張を
もって、刑事訴訟法405条 1 号の適法な上告理由(憲法違反)に当たるとした点に
ついては、以下で述べる通り、学説によって評価が分かれるところである。
前述した通説の考え方からすれば、第三者の権利侵害の主張は原則としてでき
ないはずであるから、本判決は、第三者が独立の訴訟で自己の権利侵害を争うこ
とが著しく困難である等の理由から、例外的にその主張を認めたものであると評
価される33)。対して、有力説の考え方からは、本件において没収の裁判が―第
三者の権利侵害を理由としてであれ―違憲として破棄されれば、被告人自身も、
少なくともその没収の刑についてはこれを免れることができるのであるから、被
告人がこれを主張する利益を有することは当然であるということになる34)。この
ように、いずれの学説によったとしても、本判決の結論はそれなりに合理的に説
明できてしまうのである。他方、最高裁は何故被告人が「没収の裁判の違憲を理
473
由」とした違憲の主張をすることができることが「当然である」のかについて、
明確な説明をしていない。
(b)
自己に対しては合憲的に適用される法律が、第三者に対しては違憲的に
適用される旨を主張する場合についての判例―徳島市公安条例事件判決
この場合の判例としては、徳島市公安条例事件判決(最大判昭50・ 9 ・10刑集29
巻 8 号489頁)がある。この事件では、集団示威行進に参加して蛇行進をし、及び
これを煽動したとして徳島市公安条例違反で起訴された被告人が、同条例 3 条 3
号に規定される「交通秩序を維持すること」という集団行動の遵守事項(これに
違反する行為を主催・指導・煽動した者は同 5 条により処罰される)は刑罰法規とし
て曖昧不明確であって憲法31条に反する旨主張した。これに対し最高裁は、結論
として被告人がした本条例 3 条 3 号の不明確性の主張は理由がないものとしてい
るが、この点について取り上げて裁判所としての判断を示していることから、被
告人に対してかかる違憲の主張をする適格を認める判断を前提としているといえ
る。本判決には高辻裁判官による以下のような反対意見が付されていることから
も、潜在的であれ、違憲主張適格が問題となったことは明白であろう。
本件におけるだ行進が、交通秩序侵害行為の典型的のものとして、本条例
3 条 3 号の文言上、通常の判断能力を有する者の常識において、その避止す
べきことを命じている行為に当たると理解しえられるものであることは、疑
問の余地がない。それ故、本件事実に本条例 3 条 3 号、 5 条を適用しても、
これによって被告人が、格別、憲法31条によって保障される権利を侵害され
ることにはならないのである。元来、裁判所による法令の合憲違憲の判断は、
司法権の行使に附随してされるものであって、裁判における具体的事実に対
する当該法令の適用に関して必要とされる範囲においてすれば足りるととも
に、また、その限度にとどめるのが相当であると考えられ、本件において、
殊更、その具体的事実に対する適用関係を超えて、他の事案についての適用
関係一般にわたり、前記規定の罰則としての明確性の有無を論じて、その判
断に及ぶべき理由はない。
本判決多数意見の判断は、通説の立場からすれば、本条例 3 条 3 号の明確性に
関する被告人の主張は法令の文面上の違憲性が問題となる場面であるから、自己
の行為が合憲的な規制の対象内であることは明白であっても、例外的に第三者に
474 法律学研究50号(2013)
対する仮定的な適用の違憲性を主張することを認めたものであると評価されるだ
ろう35)。他方、有力説の立場からは、自己に適用される法令が違憲無効となれば
被告人は刑罰を免れることになるから、その違憲を基礎づけるために仮定的状況
における第三者の権利侵害を主張することは当然に認められるということになろ
う。この判決の場合も、通説・有力説のいずれの立場からもそれなりの説明がで
きてしまうため、いずれの見解が正しいかを本判決から判断することは難しい。
反対意見において違憲主張適格についての争点が挙げられていることを考慮すれ
ば、多数意見はあえて違憲主張適格について、明確な判断を示すことを避けてい
るようにも思われる。あるいは、この点に言及するまでもなく、当然に違憲主張
適格は認められるということだろうか。
( 3 ) 小 活
以上において概観したとおり、本論点に関する学説は大きく 2 種類に分けるこ
とができるだろう。
そして、いうまでもなく両者の決定的な違いは、「第三者の権利侵害を主張す
ることはできない」という“原則”を肯定するか否かという点にある。つまり、
本論点の理解としていずれの見解が―相対的に―妥当であるかは、この原則
が正当なものであるか否かという点に依存するといえよう。
そこで、以下本稿ではかかる原則がはたして正当か否かという点について、章
を改めて検討を加えることとしたい。
Ⅲ 「第三者の権利侵害の主張はできない」という原則は正当か
1 問題提起
前述したとおり、第三者の権利侵害を主張できないという原則の根拠は、大き
く分けて以下の 3 つの点に求められる。
第 1 に、付随的審査制のもとでは、裁判所は事件の解決に必要な場合以外は憲
法判断を行わないという「必要性の原則」が妥当し、これを逸脱することは国会
や内閣に対する過度な干渉となるため自制すべきこと(付随的審査制と権力分立制
下における自制の要請)。第 2 に、権利主体たる第三者が、その権利の侵害につい
て最も鋭利かつ効果的な主張をするはずだから、この者が存在しない法廷におい
て、かかる権利侵害の是非を判断すべきでないこと(裁判所の適切な判断確保の要
475
請)
。第 3 に、権利主体の自律的決定を尊重すべきこと。つまり、権利主体が当
該権利への制約を甘受するかもしれないのに、他者がこの侵害を勝手に持ち出し
て、当該権利主体の関与しない裁判でその是非を決定すべきでないこと、また、
このような場合に当該権利主体に不利となるような先例が形成された場合、後の
裁判で当該権利主体がかかる不利な先例に拘束されることは不当であること(個
人主義の原則)。
そこで、これら 3 つの点を根拠として、憲法訴訟においては「第三者の権利侵
害を主張できない」という原則を定立することが正当であるかについて以下それ
ぞれ検討する。
2 付随的審査制・権力分立制下における自制の要請を根拠とし得るか
付随的審査制・権力分立制下における自制の要請を根拠に、憲法訴訟における
違憲の主張として第三者の権利侵害を主張することはできないという原則を認め
ることはできるか。
この点については、前述した市川正人の批判が的を射ているように思われる。
すなわち、「訴訟当事者は、自己に対する法令の適用を、それ自体の違法(憲)
性を主張することによって、排除しようとしているわけであ」り、「訴訟当事者
が当該法令適用の排除につき利害関係を有している限り、第三者の憲法上の権利
の侵害の有無につき裁判所が判断を下すことが……訴訟の解決にとって……必要
であるといえる。この意味での『第三者の憲法上の権利の主張』を認めることは
……付随的違憲審査制の枠組みを超えるものではない」はずであるという批判で
ある36)。
そもそも、付随的審査制とは、「通常の裁判所が、具体的な訴訟事件を前提と
して、その手続の中で……その訴訟の解決に必要な限りにおいて違憲審査権を行
37)
使する制度」
である。そして、かかる具体的な訴訟事件とは、裁判所法 3 条 1
項の「法律上の争訟」、すなわち、「当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係
の存否に関する紛争であって、かつ、それが法令の適用により終局的に解決する
ことができるもの」をいうものと理解されてきた38)。他方で、前述したとおり、
違憲主張適格の問題は、具体的な訴訟が提起された後、その本案審理の中で違憲
審査権の行使を求めるような憲法上の争点(=違憲の主張)が提起される場合に、
当該違憲の主張を当該訴訟の当事者がなし得るかという問題であるから、当該訴
訟が既に事件性の要件を満たしていることを前提とする論点であるといえる。そ
476 法律学研究50号(2013)
のため、違憲の主張として第三者の権利侵害を主張することは、当事者が自己に
適用される法令や、自己に対する国家行為の違憲性を主張する限り、あえて論ず
るまでもなく、付随的審査制に反するものではないはずである。
では何故、付随的審査制における「必要性の原則」を根拠に、「第三者の権利
侵害の主張」は不必要なものであるから、これについて裁判所が判断を下すこと
は、国会、内閣に対する過度の干渉となるため自制すべきであるという解釈が説
かれてきたのか。その背景には、憲法上の権利主張と、法律上の権利主張の峻別
が意識的になされてこなかった戦後憲法学の伝統があるように思われる。すなわ
ち、事件性の要件における「当事者間の具体的な権利義務……に関する」こと、
4
4
4
4
とは当事者の憲法上の権利義務に関係することを意味するものではなく、当事者
4
4
4
4
の法律上の権利義務に関係することを意味するはずであるにもかかわらず、この
点が混同されてきたのではないかということである。民事訴訟を前提とすれば、
当事者が、訴訟物として法律上の具体的権利義務関係を掲げ、管轄ある裁判所に、
請求の趣旨と原因を示して訴えを提起する場合、訴訟要件に欠けるところがない
限り事件性の要件は満たされているのである。そこで自己に適用される法律の規
定が違憲であるとして、違憲の主張を行う場合は、その主張が自己の憲法上の権
利義務に関係する必要は―少なくとも付随的審査制や事件性要件の趣旨からす
れば―全くないはずなのである。
もっとも、「必要性の原則」が妥当する付随的審査制の下では、当事者が違憲
を主張する法令の規定の違憲性を審査することが、事件解決に必要なものである
か否かの精査は必要である。しかし、かかる問題は、違憲主張適格の問題ではな
く、当事者に適用される法令の範囲の問題である。
したがって、付随的審査制・権力分立制下における自制の要請を根拠とする限
り、第三者の権利侵害を主張することはできないという原則を認めることはでき
ない。
3 裁判所の適切な判断確保の要請を根拠とし得るか
今度は裁判所の適切な判断確保の要請を根拠とした場合に、憲法訴訟における
違憲の主張として第三者の権利侵害を主張することはできないという原則を認め
ることができるかについて検討しよう。
そもそも、かかる要請は、ある権利を侵害する国家行為に対しては、その権利
主体こそ最良の抵抗者であり得るということを根拠としたものである。ある権利
477
を侵害する国家行為の違憲性なり、違法性なり、手続的瑕疵なりを逐一見つけ出
し、必要な資料を集め、訴訟において時宜に応じた適切な主張をすることには大
変な労力を要するため、これが適切にされるためには、それに見合うだけのイン
センティブがなければならない。しかるに、かかるインセンティブが最も高いの
は、実際に権利を侵害されている権利主体であるという考え方が、その背景には
ある。かかる発想自体はまさにそのとおりであって否定すべくもない。
しかし、そのような適切な主張をすることについてのインセンティブは、権利
を害されている権利主体にしか認められないのかというと、それは違うだろう。
なぜなら、訴訟当事者は自らの訴訟目的―例えば訴訟物の存否を確定させるこ
と、無罪判決を得ること、処分の違法性を基礎づけること等―のためには可能
な限りあらゆる手段を尽くすべき立場にあり、そのような訴訟当事者にとっては、
仮に国家行為による他人の権利への侵害を主張することが自己の訴訟目的にと
いってプラスに働くのであれば、かかる主張を熱心に行うことについて十分なイ
ンセンティブがあるはずだからである。その意味で、かかる状況における訴訟当
事者は、第三者の権利侵害を理由に「当該国家行為の違法性を主張することにつ
いて熱心な(対立的な)唱道者でありうる」39)のである。
そうだとすれば、訴訟当事者が自己に対する法令の適用や処分を排斥するため
に、第三者の権利侵害を理由としてその違憲性を主張する場合には、当該当事者
はかかる主張について自己の訴訟目的のために鋭利かつ効果的な主張をするはず
であるから、これに関する裁判所の適切な判断も、十分確保され得るといえる。
したがって、かかる場面を前提とする限り、裁判所の適切な判断確保の要請を
理由として、
「第三者の権利侵害の主張はできない」という原則を認めることは
できない。
4 個人主義の原則を根拠とし得るか
それでは、個人主義の原則はどうか。
個人主義とは多義的な概念であるが、ここで問題とすべきは全体主義に対置さ
れる政治体制的概念としての個人主義ではなく、個人の人格の独自性と自律性を
重視する概念としての個人主義である。そして、このような意味での個人主義と
違憲主張適格との関係で問題となるのは、①ある国家行為による権利侵害を当該
権利主体たる第三者は甘受するかもしれないのに、他者が自己の利益のためにか
かる侵害の違憲性を主張することは、個人の自律性の否定とならないか、という
478 法律学研究50号(2013)
点、及び、②権利主体以外の者に、第三者の権利侵害を理由に国家行為の違憲を
主張することを認めれば、その点についての主張が奏功せず当該権利主体に不利
となるような先例が形成されてしまった場合、後の裁判で当該権利主体はかかる
不利な先例に拘束されることになってしまうが、これは個人の自律性に反するの
ではないか、という点である。
このうち、②の点については、「そもそも、先例拘束性が問題となる場合には、
本人が必ず訴訟に参加しなければならないわけではなく、本人と同一の事実類型
に該当する者が行った訴訟において示された憲法判例には拘束されざるを得な
い」との指摘がある40)。例えば、被拘禁者の喫煙を禁止する法令の違憲性を主張
して当該被拘禁者が提起した国家賠償請求訴訟において、その法令は合憲である
との先例が形成された場合41)、当該被拘禁者以外の被拘禁者、あるいは将来にお
ける被拘禁者は、この訴訟には何ら関与していなくとも等しくかかる先例に拘束
されざるを得ないのである。では、何故、これらの者はそのような先例に拘束さ
れるのか。あるいは何故、拘束されるとしても不合理でないのか。それはそのよ
うな先例が、その先例が形成された訴訟において、当該権利侵害の主張について
現実的な利害関係を有する者が真剣に訴訟追行し、鋭利かつ効果的な主張を行っ
た結果として裁判所が下した判断だからである。そのような訴訟活動の結果、裁
判所が下した判断であれば、他の被拘禁者や将来における被拘禁者を先例に拘束
させても許される程度に、合理性の担保があるということである。そうだとする
と、②の問題は、結局はその先例が、当該先例にかかる争点について現実的な利
害関係を有し、鋭利かつ効果的な主張をなし得る者が訴訟追行した結果として裁
判所が下した判断であるといえるか、という前節で検討した問題に収斂すること
になるだろう。
これに対して、①の点についてはより本質的な検討を要するように思われる。
仮に、ここでいう「権利」が私法上の権利、例えば不法行為に基づく損害賠償債
権(民法709条)であったならば、①のような問題が生じ得るだろう。例えば、B
が A の所有する時価10万円相当の花瓶を不注意で破壊したとすると、A は B に
対して10万円相当の損害賠償債権を有することになる。しかし、A は日頃から B
に多大な恩を感じており、B も故意に花瓶を破壊したのではないのだから、あえ
て弁償してもらおうとは思っていなかったという事情があったとする(かといっ
て、A は格別債務放棄の意思表示等はしていない)。ここで、A に対して1000万円の
貸金債権を有する C が登場して、A が B によって所有権を害された結果として
479
生ずる損害賠償債権を勝手に行使して B から A に10万円を支払わせることは、
原則としてできない。たとえ A の資力が10万円分回復し、C に対する1000万円
4
4
の貸金債務を完済できる可能性が上昇する(= C の利益になる)としても、他人
4
4
4
4
4
4
4
4 4 4 4 4 4
の権利を勝手に行使することは、そもそも不可能なことである。そこで、民法上
はこのような場合に特別の制度として債権者代位権(民法423条 1 項)の規定が用
意され、一定の要件のもとに、債権者が債務者の有する権利を行使し、債務者の
財産を保全することを認めているのである。これは、原則として第三者の権利を
行使することが認められないがゆえに、例外的に定められた制度であるといえる。
では、違憲主張適格の問題の場合、本当にこのような意味での個人主義違背の
問題は生じるのだろうか。例えば、被告人がある法令によって刑罰を受けるおそ
れがある場合に、刑事訴訟において、当該法令は第三者の権利を侵害し違憲無効
であるから、自分への適用も無効であって、ゆえに自分は無罪であると主張する
場合、このような被告人の主張は、第三者の権利を行使したことになるのだろうか。
この問いは、違憲審査の判断構造をどう捉えるかという、極めて本質的な問題
に迫るものであるように思う。すなわち、付随的審査制のもとで、ある国家行為
が自己に保障された基本的人権を侵害し違憲であると主張することは、当該基本
的人権を行使するものであるのか、それとも何か別の主張であるのかという問い
である。この点については章を改めて検討するが、結論からいうと、違憲の主張
としてする権利侵害の主張は、当該権利の行使ではない、というのが筆者の見解
である。したがって、違憲主張適格が問題となる場面において①のような問題は
4
4
発生しない。なぜなら、第三者の権利侵害を主張することは、当該第三者の権利
4
4
4
4
4
4
4
を行使することではないため、当該第三者の自律的な領域へ訴訟当事者が踏み込
むことを意味しないからである。
以上より、個人主義の原則を、憲法訴訟においては「第三者の権利侵害は主張
できない」という原則の根拠とすることはできない。
5 結 論
これまで検討してきたことからすれば、憲法訴訟においては「第三者の権利侵
害は主張できない」という原則は、そもそも存在しないという結論が正当である。
つまり、本論点に関する学説としては、有力説として紹介してきた立場が―相
対的に―妥当であるということになる。
しかし、憲法訴訟において「第三者の権利侵害は主張できない」という原則が
480 法律学研究50号(2013)
存在しないという結論から、直ちに「国家行為の違憲・違法の主張の理由は自己
の権利・利益に関係する必要はなく、第三者の権利侵害の論点であろうと客観的
42)
違憲事由であろうと、あらゆる方面から違憲の理由をもち出すことができる」
という結論は導かれない。第三者の権利侵害の主張はできないという原則が存在
しないのであれば、違憲の主張の限界はどこにあるのか、あるいは限界はないの
か、ということに関する論証をしなければならないはずである。
そこで次章では、違憲主張の限界点についての検討を行いたい。そして前節で
その結論を保留しておいた「付随的違憲審査制の下で、ある国家行為が自己に保
障された基本的人権を侵害し違憲であると主張することは、当該基本的人権を行
使するものであるのか、それとも何か別の主張であるのか」という問題意識こそ、
違憲審査にかかる判断構造の核心に迫る問いであり、同時に違憲主張の限界点を
照らす松明となるものだろう。
Ⅳ 違憲審査の構造論と違憲主張適格
1 客観的憲法の観念
( 1 ) 「憲法上の権利」とは
本節と次節のテーマは、裁判所による「一切の法律、命令、規則又は処分が憲
法に適合するかしないか」の審査(憲法81条)において、違憲の理由としてそれ
らが「憲法上の権利」を侵害するものであることが主張された場合、かかる主張
は「憲法上の権利」を行使したものであると評価すべきか、それとも何か別の主
張をしたものと評価すべきか、という問題である。
この問題を考えるにあたって、まず、「憲法上の権利」とはいかなるものであ
るか検討したい。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障
する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民
に与へられる」(憲法11条)との規定が表すように、「憲法上の権利」とは「この
憲法が国民に保障する基本的人権」を意味する。ところで、一般に「基本的人権」
といった場合、それは人がただ人間であるがゆえに当然に有する権利であると説
明される43)。それは、固有性・不可侵性・普遍性をもった、個人の尊厳を根拠と
した権利であって、近代市民革命以降に確立された政治思想としての「人権」で
ある。これに対して、「憲法上の権利」、つまり「この憲法が国民に保障する基本
481
的人権」とは「基本的人権」に一定の留保が付された概念である。憲法は人が人
であるがゆえに有する権利の全てを保障するものではなく、その中で、憲法上保
護に値すると考えられる「基本的な」権利を類型化して、これに対して憲法上の
保障を与えているのである。いわゆる「新しい人権」が憲法13条等を根拠として
憲法上の保障を受け得るかという議論は、憲法が全ての「人権」に対して憲法上
の保護を与えていないことを背面から見たものにほかならない。しかし、我が国
の「戦後の啓蒙憲法学は、旧憲法における『臣民の権利』と対比しようと意欲す
るあまり、日本国憲法第三章の規定する諸権利が、『基本的人権』つまり『人間
の権利』であることを喧伝し過ぎたきらいがある。つまり、戦後憲法学における
人権論は、政治思想としての『人権』論と、『憲法上の権利』論とを、啓蒙の観
点から、おそらくは戦略的に混同した」のである44)。それゆえ、これまで「人権」
と「憲法上の権利」とが明確に区別されないままに憲法解釈がなされ、違憲審査
制が運用されてきた。しかし、繰り返すが、「憲法は、
『人間の権利』として政治
理論上正当化された各種の自己主張のなかで、『基本的』と考えられるものを、
『憲法上の権利』として『保障』しているに過ぎない」のである45)。
このように、政治思想としての「人権」と「憲法上の権利」を区別して考えた
とき、
「憲法上の権利」は、
「人権」とは違った意味をもつことになる。
「人権」は、
我々が生まれながらに、その個人としての尊厳ゆえに有する権利であって、仮に
国家が存在せずとも、憲法が存在せずとも、個々人がそれぞれ保有するものであ
る。いわゆる前国家的権利の代表例と呼ばれる所有権は、自然状態においても存
在し、ある物を所有する者は他者の介入なしにその物を自由に使用・収益・処分
し得るのである。これに対して、「憲法上の権利」は、その定義からして憲法が
存在しなければやはり存在し得ない。加えて、憲法というのは「法の支配」の概
念に基づいて国家権力を統制するための法であるから、「憲法上の権利」は国家
が存在しなければ、存在し得ない。かくて国家と憲法が存在する状態になると、
はじめて「憲法上の権利」条項は、個人にとって固有の権利を基礎づけると同時
に、国家に対してかかる権利の保障を義務づける規範として機能するようになる
のである。そして、このような「憲法上の権利」の二面性についてより詳細な検
討を加えるためには、客観法と主観法という概念を用いることが有効であろう。
( 2 ) 客観法と主観法
ヨーロッパ大陸の法学においては、法の観念として客観法と主観法という区別
482 法律学研究50号(2013)
が用いられる。耳慣れない表現ではあるが、このような観念を我が国の用語に翻
訳すれば、客観法とは「予め人々によって広く共有された『法』(たとえば、法律、
慣習法、判例など)を意味し」
、主観法とは「具体的に個人が行使する『権利』を
意味する」ことになる。そして「客観法の構成単位は、……『要件→効果』の法
規則……としての『法命題』であり、主観法の構成単位は我々が権利義務関係と
呼び慣わしている『法関係』である」とされる46)。
このような分類を拝借したとき、「憲法上の権利」とは、個人の側からみたと
きは権利という「主観法」であるが、同時に国家の側からみたときは、そのよう
な権利を侵害してはならないという法命題としての「客観法」であると表現でき
る。
「客観法」であるということは、かかる法命題への違反は、道徳的・政治思
想的な意味ではなく、法的な意味で糾弾され得る状態に置かれるということであ
る。これは、政治思想としての「人権」にはない性質であって、ある人権が「憲
法上の権利」として承認された場合に限って有する特性である。例えば、「学問
の自由は、これを保障する」(憲法23条)とは、国民は学問を自由にできる「権利」
を有するという側面からみる限り「主観法」であるが、“国家は国民の学問の自
由を侵害してはならない。仮に学問の自由を侵害する国家行為をすれば、それは
無効である”という法命題として捉えれば、国家を統制する「客観法」としてこ
れを理解することができる。その意味で、「憲法上の権利」条項は、
「立法府を含
むあらゆる国家機関を名宛人とする、拘束力ある法命題として理解されるように
47)
なる」
のである。
蓋を開けてみれば何のことはない。要するに全ての「憲法上の権利」条項は、
個人の主観的な権利としてだけでなく、―例えば、政教分離原則と同じように
国家にとっての客観的な法命題としても機能するというだけのことである。
―
( 3 ) 客観的憲法への違反
しかし、このような客観的な法命題としての「憲法上の権利」を観念するよう
になると、次のような解釈が可能となる。すなわち、
「これまでいわゆる人権論は、
憲法典の解釈において、統治機構論とは隔絶した問題領域として扱われてきたが、
純粋に客観憲法の水準に即して考えれば、権利条項は、その他の統治機構の権限
配分に関する規定と共通の隊列を組んで、直接には国家機関を―正確にいえば
国家を ―拘束している」ものと捉えられるのである48)。換言すれば、
「憲法第
三章にならべられた法命題は、まず何よりも統治機構の権限配分に関する規定な
483
のであって、ただ、第三章以外の諸条項の多くは、積極的に権限を各国家機関に
振り分ける法命題であるのに対して、第三章のそれは、国家の刑罰権・警察権な
どに限界を画する、消極的な権限規範……である点に、特色があるに過ぎない」
のである49)。
かかる解釈に従えば、そのような消極的な権限規範に違反した国家行為は、そ
もそも国家に許されていない行為であるとしてその効力を否定され、あるいは違
憲・違法の評価を受けるべきことになるはずである。もちろん、そうした客観法
としての「憲法上の権利」条項については、「その名宛人に対する拘束力の強度
による分類」として「強行的法命題(いわゆる強行法規)、任意的法命題(いわゆ
る任意法規) の区別」 等が存在するはずだから、全ての法命題が、それに違反
50)
した国家行為の効力を失わせるほどの効力を有するものとはいえないだろう。ま
た、生存権などの請求権については、国家行為の作為あるいは不作為がどの程度
に達すれば憲法が定める客観的法命題違反となるのか明確ではない。その意味で、
客観法としての「憲法上の権利」条項の性質如何は、主観法としての「憲法上の
権利」論の解釈と表裏の関係にある。ゆえに、いかなる場合に、ある国家行為が
客観法としての「憲法上の権利」条項に違反するか、という問題は、これまで展
開されてきた人権の実体的な解釈論と整合することになるだろう。
そして、以上のような「憲法上の権利」に対応した客観的憲法を観念したとき、
国家が、ある者の「憲法上の権利」を侵害するような国家行為をした場合には、
その権利が強行的法命題を形成している限り―その侵害を誰が憲法訴訟におい
4
4
4
4
4
4
て主張できるかは別の問題として―当該国家行為は客観的に違憲であるといえ
るのである。
2 付随的審査制のもとにおける「違憲の主張」の意味
( 1 ) 違憲の主張=客観法的法命題違反の指摘
このように「憲法上の権利」に客観法的側面があることを前提としたとき、付
随的審査制のもとで、ある国家行為が違憲である理由として憲法上の権利侵害が
4 4 4
4
4
4
4
4
主張された場合における当該違憲の主張は憲法訴訟論的には以下のような主張で
あると考えることはできないだろうか。すなわち、ある国家行為が違憲であるこ
との主張は、主観的な「憲法上の権利」を行使したものではなく「憲法上の権利」
条項から導かれる客観法的な法命題への違反を指摘したものである、と。
憲法81条の解釈としてそのような理解が可能であるか否かを判断するためには、
484 法律学研究50号(2013)
付随的審査制の下で違憲の主張がどのような訴訟上の主張として捉えられ、かか
る主張についてどのようにして裁判所の違憲判断がなされるかについて考察しな
ければならない。
前述したとおり、付随的審査制とは「法令の違憲審査をその法令の適用が問題
となる通常の事件の裁判に付随してのみ行う制度で……違憲審査を行う前提とし
て事件性の要件が要求される」ものである。もっとも、違憲審査の対象は法令に
限定されず、国家機関の処分もその対象となるのであるから、より実質的には、
事件性を備えた具体的事件が裁判所に係属した場合において、国家行為の違憲性
審査が当該事件の解決にとって必要である場合にのみ裁判所がその審査を行う制
度といえよう。この制度の特色は 2 つある。第 1 に、裁判所が法令や処分の違憲
審査を行うためには、具体的な事件が裁判所に適法に係属していることを要求す
る点である。したがって、違憲が疑われる法令や処分が存在していても、それら
に関係した具体的事件が発生し、それが裁判所に係属していなければ、裁判所の
違憲審査権は発動しない。第 2 に、裁判所による法令や処分の違憲審査は、当該
事件の解決に必要な限度でしか行われない点である。これらの特徴が表すように、
付随的審査制のもとにおいては、たとえ当事者が自己に適用される法令の違憲性
を主張し、実際に裁判所による違憲判断が下されてその適用が排斥されることが
あっても、訴訟の主たる目的はあくまで具体的事件の解決にあるのである。
また、かかる付随的審査制のもとにおいて、当事者がある国家行為の違憲を主
張する場合、当該主張は訴訟上、「法律上の主張」として扱われることは前述し
たとおりである。これは、(民事)訴訟上は、本案の申立てを理由づけるための
攻撃防御方法として提出されるものである。したがって、やや誇張した表現かも
しれないが、訴訟の主題はあくまで本案の申立ての当否にあって、法律上の主張
としてなされる違憲の主張は、かかる判断の基礎として取調べられる訴訟資料に
すぎないともいえるのである。
付随的審査制は、具体的事件の解決に必要な限りでの憲法判断を行い、もって
当該事件の当事者の権利を確保することを目的とした違憲審査制度であるという
意味で、私権保障型の違憲審査制であるといわれる。そして、かかる私権保障型
の違憲審査制は、「憲法によって保障された……権利の保護」を目的としたもの
であるとされてきた51)。しかし、上記のような付随的審査制の性質に着目したと
き、付随的審査制下における憲法訴訟で確保されているのは、あくまで「当事者
の訴訟目的としての権利」52)そのものなのではないか、という疑問がわいてくる。
485
裁判所が違憲審査を行うのは、当該国家行為が違憲無効であるという判断が、当
事者の訴訟物たる実体的権利・国家の刑罰権(あるいは訴因)・処分の違法性と
いった訴訟目的物の存否を確定させるために必要であるからにほかならない。そ
うであるとすれば、付随的審査制のもとで第一次的に確保される当事者の「私権」
というのは、当該憲法訴訟の訴訟目的として掲げられる訴訟物その他の具体的権
利以外の何物でもないはずである。もちろん、ほとんどの憲法訴訟において国家
行為の違憲の理由として挙げられるのは、当該訴訟を提起した当事者の憲法上の
権利侵害であるから、国家行為が違憲であると判断されれば、当該訴訟の目的た
る権利と同時に当事者の憲法上の権利も確保されることになる。そのため、通常、
付随的審査制下における違憲判決は当事者の憲法上の権利を救済する。従来から
我が国の違憲審査制度が私権保障型であると考えられてきたのも、そのためであ
ろう。しかし、そのような現象は、裁判所が訴訟目的物の存否について判断する
過程で違憲の主張についても判断を下した結果、いわば反射的に当事者の憲法上
の権利が保護されたものにすぎないのではないか。
そもそも、憲法81条に規定される我が国の違憲審査制が付随的審査制であると
されるのは、憲法81条が司法権の章(憲法第 6 章)に存在し、その「司法権」が、
当事者間の具体的な権利義務又は法律関係の存否に対する争いに法を適用してこ
れを終局的に裁定する国家作用を意味するから、という理由による。つまり、憲
法81条による違憲審査権の発動は、憲法76条 1 項の範囲内でのみ可能であるとい
う理解が、付随的審査制の根拠なのである。そうであるとすれば、憲法76条 1 項
の要件をクリアした事件においては、憲法81条に基づく違憲審査権が行使される
際、その違憲の理由についてまで当事者との主観的関連という「事件性要件」的
な限定をかける必然性は乏しい53)。なぜなら、裁判所は当該訴訟が憲法76条 1 項
にいう「司法権」の範囲内の事件なのであれば、問題となる国家行為の憲法上の
疑義が当事者の権利への侵害に限らない場合であっても―それが訴訟の解決に
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とって必要である限り―その点について判断しなければならないはずだからで
ある。ゆえに、違憲の主張を、当事者に保障された主観法的な「憲法上の権利」
の範囲内に限定することは、むしろ司法権の本質的要請に背馳するおそれすら存
するのである。
以上のように考えたとき、当該訴訟で「行使されている権利」は訴訟の目的と
なっている具体的な権利であり、他方、当事者の憲法上の権利は当事者に適用さ
れる国家行為の違憲性の判断において考慮されている一要素にすぎないことにな
486 法律学研究50号(2013)
る。そうだとすれば、違憲の主張とその審査は、訴訟の当事者が国家に対して憲
法上の権利を行使したものではなく、ある国家行為が憲法という規範に違反して
いるか否かが客観的観点から審査されているものであると捉えた方が、上述した
付随的審査制と司法権の理解に整合的であるといえるだろう。したがって、付随
的違憲審査制のもとで、ある国家行為に対する違憲の主張として「憲法上の権利」
侵害が主張された場合、当該違憲の主張は「憲法上の権利」条項から導かれる客
観的な法命題への違反を指摘したものである、と考えることは十分可能であり、
むしろそのように考えることの方が妥当であろう。
( 2 ) 主観法としての「憲法上の権利」の意味
違憲の主張を、憲法上の権利の行使ではなく、憲法上の客観法的法命題違反の
指摘であると考える場合、主観法としての「憲法上の権利」が国家に対して行使
される場面はないのか、という疑問が生じよう。この点について本稿で詳細に検
討する余裕はないが、次のような場面において、主観法としての「憲法上の権利」
は意味を持つのではないか。
例えば、X という者が、国家機関による処分αにより自己の憲法上の権利を侵
害されたとして、国家賠償請求(国家賠償法 1 条 1 項) 訴訟を提起する場面を想
定しよう。このとき、処分αが「憲法上の権利」条項―ここでは仮にβ条とし
よう ―から導かれる客観法的法命題に違反しているのであれば、それは X の
権利を侵害するか否かに関わらず、客観的に違憲な行為であるといえる。しかし、
仮に処分αがβ条に違反した客観的に違憲な行為であったとしても、原告たる X
の主張する被侵害利益が認められなければ、国家賠償請求権は発生しない。この
とき、当該被侵害利益が認められるか否かという点は、まさに原告 X がβ条か
ら導かれる主観法としての権利を享有しているといえるか否かという点に依存す
るものと考えられる。これと同様に、私人間において原告 X が被告 Y により、
自己の憲法上の権利を侵害されたとして不法行為に基づく損害賠償請求(民法
709条)訴訟を提起する場合にも、被侵害利益を認定するためには、原告に主観
法としての「憲法上の権利」が認められる必要があるだろう(無論、ここでいう
被侵害利益とは、「憲法上の権利」そのものではなく、そこから導かれる私法上の利益
である)。
このように、主観法としての「憲法上の権利」の意味は、 1 つには、損害賠償
請求訴訟における被侵害利益の有無の認定において決定的に重要な役割を演ずる
487
ことにあるのではないか。総理大臣の靖国神社参拝が政教分離原則違反か否かが
争われた国家賠償請求訴訟(大阪高判平17・ 9 ・30) における、
「本件各参拝は、
内閣総理大臣としての『職務を行うについて』なされたものであり、憲法20条 3
項に違反する行為であるが、これにより控訴人らの権利ないし法的利益が侵害さ
れたものということができないから、被控訴人国の責任を認めることはできな
い」との判示は、以上のような理解に整合的であろう。すなわち、参拝行為は客
観法的法命題としての政教分離規定に反し客観的には違憲であるが、原告らの主
観法的な権利を害するものではないがゆえに、被侵害利益も認められないため、
国家賠償請求権は認められないのであろう。
いずれにせよ、違憲の主張を本稿のように捉えた場合、主観法的な「憲法上の
権利」と客観法的法命題としての「憲法上の権利」の関係性をどう考えるかとい
う問題は、今後の課題であろう。
3 違憲主張適格論
違憲の主張を、「憲法上の権利」条項から導かれる客観的な法命題違反の指摘
であると考えた場合、違憲主張適格の問題はどのような結論をとるのだろうか。
まずこのように考えた場合、個人主義の原則を根拠として、憲法訴訟において
は「第三者の権利侵害を主張できない」という原則を認めることはできない。し
たがって、従来の通説の前提となる「第三者の権利侵害を主張できない」という
原則は成立しないことになる。ここまでは、前述した。
では、違憲主張適格の限界はどこにあるのだろう。違憲の主張が「憲法上の権
利」条項から導かれる客観的な法命題違反の指摘であると考えた場合、訴訟当事
者はあらゆる違憲事由を持ち出して、国家行為の違憲性を基礎づけることができ
るのだろうか。
この点に関しては、以下の 2 つの点が問題となり得る。まず第 1 には、当該違
憲の主張が、具体的事件の審理にとって必要であるか否かという点である。つま
り、「必要性の原則」を理由に、違憲主張適格は制限され得るのである。これは、
付随的審査制が、具体的事件の解決を至上命題としているという理解から当然の
制約である。本稿では繰り返し述べた点でもあるため、詳しい説明は不要であろ
う。したがって、ある国家行為についての違憲性の判断が、訴訟目的物の存否に
ついて判断するのに必要な場合に限り、裁判所は当該違憲の主張について判断す
ることになる。具体的には、法令違憲の場合、当事者は自己に適用されない法令
488 法律学研究50号(2013)
の違憲性を主張することはできない。そして、違憲性を主張されている法令が訴
訟当事者に適用されるか否かは、適用上の不可分性の問題として処理される。被
告人が、自己に対する処罰の基礎となっている刑罰法規の違憲性を主張すること
は、当然認められるが、そうでない場合でも、例えば、許可制が定められている
業種について許可を受けずに営業した者が、無許可営業を処罰する条項によって
処罰されそうになっている場合、当該被告人は、処罰規定の違憲性のみならず、
許可制を定める条項自体の違憲性を争うことができる。なぜなら、当該処罰条項
は、許可制を受けて規定されたものであるから、当該被告人に対する処罰条項と
許可制条項の適用は不可分の関係にあるからである54)。この点に関する具体的な
問題点は適用上の可分性・不可分性の議論を参照されたい。他方、適用違憲・処
分違憲が問題となる場合には、より個別的な検討が必要となるが、結局は当該国
家行為が違憲無効となることで、訴訟当事者の訴訟目的が保全される関係にある
か否かという点により、その違憲の主張をすることが認められるか否か判断され
るだろう。
第 2 に、違憲の主張の根拠となる「憲法上の権利」条項が、国家に対して強行
的法命題を形成しているか否かという点である。そもそも、存在しない客観法的
法命題への違反を理由として違憲の主張を基礎づけることは認められないのでは
ないか、という問題意識がその背景にはある。そして、これも前述したところで
あるが、当該条項が強行的法命題を形成しているか否かの解釈は、これまで展開
されてきた主観的な「憲法上の権利」の解釈と整合するはずである。例えば、問
題となっている「憲法上の権利」が自由権であれば、かかる「憲法上の権利」条
項は「国家は当該自由権を侵害してはならない、これに反した国家行為は無効で
ある」という強法的法命題を形成していると考えてよいだろう。一方、これが請
求権であれば、当該「憲法上の権利」条項が、どれほどの作為をなすことまでを
強行的法命題として形成しているかについて、慎重な検討が必要であろう。国民
の請求権的権利が十分に満足されない状態にあることが、直ちに国家に課せられ
た客観法的法命題への違反となるものと考えることはできない。いわゆる「新し
い人権」に関する議論も、この点に位置づけられよう。もっとも、実はこの問題
は、当該違憲の争点を提起する段階で考慮されるべき問題ではなく、違憲の争点
として提起された後、国家行為が違憲であるか裁判所が審査する段階において考
慮されるべき問題である。ある違憲の主張が、客観法的法命題を形成していない
「憲法上の権利」条項への違反を主張するものである場合には、その主張自体を
489
提起することが認められないとする議論は、当該違憲の主張が客観法的法命題を
形成していない「憲法上の権利」条項への違反を主張するものであるという実質
的な判断が先行してしまうのである。あるいは、この問題は主張適格の問題では
なく、主張内容の問題であるという表現も可能だろう。ゆえに、違憲の主張の根
拠となる「憲法上の権利」条項が、国家に対して強行的法命題を形成しているか
否かという点は、違憲主張適格を左右する要素にはなり得ない。
したがって、結局、違憲主張適格の問題に限界を画するのは、
「必要性の原則」
のみであるということになるだろう。
Ⅴ 結びに
本稿で述べたところによれば、憲法訴訟において当事者がする違憲の主張は、
自分の憲法上の権利に関係しなくとも、その訴訟の目的との関連性が認められる
限り、かなり広範に認められることになる55)。
そもそも戦後憲法学が主観訴訟・客観訴訟といった区別を用いて説明してきた
問題は、司法権の範囲内たる「法律上の争訟」(裁判所法 3 条 1 項)についての訴
訟か、それ以外の「法律において特に定める権限」の行使として裁定される訴訟
であるかという問題であって、そこでは当事者の具体的権利義務に関する争いで
あるか、つまり当事者が裁判所の判断に供する具体的な訴訟物が存在するか否か
という点が 1 つの分水嶺とされてきたのであった。そうであるにもかかわらず、
そうした主観訴訟のテーゼが違憲主張適格の問題で語られるとき、憲法判断を受
けようとする当事者は、法律上の利益のみならず憲法上の利益までも必要とし、
自己の憲法上の権利の侵害についてしか違憲主張の理由としてはならないという
ドグマが、いつのまにか当然の前提として承認されてきたのである。しかし、本
稿で検討したように、少なくとも司法権(事件性要件)や付随的審査制の概念を
もってして、違憲主張適格に制限をかけることはできない。
むしろ、成文の憲法典において違憲審査制度(憲法81条)と憲法の最高法規性
(憲法98条 1 項) が規定されるに至った我が国においては、
「何よりも『違憲な』
法律が適用されることによって具体的事件の解決がはかられるということ自体が
問題視されるべき」56)であって、可能な限りそのような違憲性を帯びた国家行為
を広く除去し、憲法秩序を維持することに資する解釈をすることこそ、現代憲法
学のあるべき姿勢ではないだろうか57)。
490 法律学研究50号(2013)
最後に、「複雑怪奇な違憲主張適格論に、ひとつ単純明快な回答を提唱してし
まおう」という本稿の趣旨を貫徹すべく、本論点の簡潔な結論を示すとすれば、
“訴訟当事者は、訴訟の解決に必要である限り、あらゆる違憲事由を持ち出して、
国家行為の違憲性を主張することができる58)”ということになるだろう。
1 ) 芦部信喜「憲法訴訟における当事者適格―第三者の権利侵害を理由とする違憲
訴訟」『憲法訴訟の理論』(有斐閣、1973年)55頁以下(同ジュリスト261号49頁、
262号36頁、263号78頁所収)参照。
2 ) 安念潤司「憲法訴訟の当事者適格について」『芦辺信喜先生還暦記念 憲法訴訟
と人権の理論』356頁以下(有斐閣、1985年)362-363頁参照。
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3 ) 本稿で「第三者の権利」とは、原則として第三者の憲法上の権利を意味する。
4 ) 芦部・前掲注 1 ︶「憲法訴訟における当事者適格」61頁。
5 ) 芦部・前掲注 1 ︶「憲法訴訟における当事者適格」68頁以下参照。
6 ) 戸松秀典『憲法訴訟[第 2 版]』(有斐閣、2008年) 1 頁。
7 ) 違憲審査権の行使に関わらずとも、憲法解釈はそれが誤りであれば上告理由と
なる(民事訴訟法312条 1 項、刑事訴訟法405条 1 号)点で、通常の法解釈とは異
なる価値を有するが、これも、民事訴訟法なり刑事訴訟法なりに規定される訴訟
手続の範囲内での差異に過ぎない。
8 ) この点について、戸松秀典は「憲法訴訟論は……単なる訴訟手続論だけでなく、
憲法上の価値そのものにかかわる論議すなわち実体論も含まれている」(戸松・
前掲注 6 ︶『憲法訴訟[第 2 版]』 4 頁)とする。しかし、同業の憲法学者からも
「憲法訴訟論は『訴訟論』『手続論』を標榜するものだろう。そしてそうだとすれ
ば、その致命的な弱点は、実定訴訟法(理論)をほとんどまったく顧慮していな
い点にある」(安念潤司「憲法訴訟論とは何であったか、これから何であり得る
か」論究ジュリスト 1 号(有斐閣、2012年)132頁以下)といった“誤解”をも
たれる始末である。
9 ) 本稿同様の問題意識から、「憲法訴訟」の意義について再考する文献として、林
屋礼二『憲法訴訟の手続理論』(信山社、1999年)120-122頁がある。
10) 攻撃防御方法とは、民事訴訟において当事者が本案の申立てを理由づけるため
にする陳述であって、その内容として「主要事実……、間接事実、重要な証拠の
所在、および法律上の主張など、争点を明確にするために必要なあらゆる事項を
含」むものである(伊藤眞『民事訴訟法[第 4 版]』(有斐閣、2011年)269頁)。
11) 高橋和之は、日本の法令違憲は文面上判断の結果として導かれる文面上違憲で
あると整理する(高橋和之『憲法判断の方法』(有斐閣、1995年)48頁)。同書に
よれば、従来の用語法でいう「法令違憲」は文面上違憲に対応し、「適用違憲」・
「処分違憲」は適用上違憲に対応すると解される。いくつかの点で両者は異なる
が、本稿との関係で重要な点は、適用上判断により導かれる適用上違憲は、司法
491
事実を参酌するが、文面上判断により導かれる文面上違憲は司法事実を参酌しな
いという点であろう。
12) 攻撃防御方法や法律上の主張という用語法は、主として民事訴訟において使用
されるものであり、訴訟形態として民事訴訟と大部分が共通する行政事件訴訟に
ついてはともかく、刑事訴訟についてまでかかる用語法を用いることが適切かと
いう点については疑問が残るところであるが、ほかに適当な用語法も存在しない
ため、本稿では刑事訴訟についてもかかる表現を使用することにしたい。
13) 時國康夫「憲法上の争点を提起する適格」芦部信喜編『講座 憲法訴訟 第 1
巻』(有斐閣、1987年)253頁以下、253頁、戸松・前掲注 6 ︶『憲法訴訟[第 2 版]』
92頁。
14) 安念・前掲注 2 ︶「憲法訴訟の当事者適格」363頁。
15) 浦部法穂『憲法学教室[全訂第 2 版]』(日本評論社、2006年)388頁。
16) 芦部・前掲注 1 ︶「憲法訴訟における当事者適格」64頁、浦部・前掲注15︶『憲
法学教室[全訂第 2 版]』388-389頁等参照。
17) 平成19年度司法試験「採点実感等に関する意見」(http://www.moj.go.jp)参照。
司法試験委員会は本論点を「違憲を主張する適格性」と呼称する。
18) 芦部・前掲注 1 ︶「憲法訴訟における当事者適格」64頁。
19) 芦部・前掲注 1 ︶「憲法訴訟における当事者適格」66頁以下参照。
20) 芦部・前掲注 1 ︶「憲法訴訟における当事者適格」86頁以下。
21) 時國・前掲注13︶「憲法上の争点を提起する適格」254頁。
22) Barrows v. Jackson 346 U.S. 249, 257 (1953)、第三者所有物没収違憲判決下飯坂
判事反対意見(最大判昭和37・11・28刑集16巻11号1593頁)、新正幸『憲法訴訟
論[第 2 版]』(信山社、2010年)391頁ほか。
23) 新・前掲注22)憲法訴訟論[第 2 版]』391頁。
24) 市川正人「憲法訴訟の当事者適格・再論」米沢広一・松井茂記・土井真一刊行
代表『佐藤幸治先生還暦記念 現代立憲主義と司法権』(青林書院、1998年)625
頁以下、631-632頁。
25) 時國・前掲注13︶「憲法上の争点を提起する適格」255頁、渋谷秀樹『憲法』(有
斐閣、2007年)645頁、松井茂記『日本国憲法[第 3 版]
』(有斐閣、2007年)106
頁、佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂、2011年)632頁ほか。なお、佐藤幸治の
見解は、第三者の権利侵害の主張はできないという原則が「どこまで厳密に妥当
しなければならないかは多分に疑問の余地がある」とした上で、議論を展開して
おり、実質的には第三者の権利侵害の主張をある程度認め得る見解であることに
注意が必要である。これに近い見解として、野中俊彦他『憲法Ⅱ[第 5 版]』(有
斐閣、2012年)299-301頁。
26) 浦部・前掲注15︶『憲法学教室[全訂第 2 版]
』387-393頁。もっとも、浦部はそ
の理由を明確には示していない。
27) 市川・前掲注24︶「憲法訴訟の当事者適格・再論」651頁。
492 法律学研究50号(2013)
28) 戸波江二「第三者所有物の没収と適法手続」法学教室増刊号『憲法の基本判例 第二版』(有斐閣、1996年)156頁。
29) これは佐藤幸治『憲法訴訟と司法権』(日本評論社、1984年)141頁による類型
である。
30) 土井真一「憲法訴訟の当事者適格論の検討」法学教室384号(有斐閣、2012年)
72頁以下、78-82頁。
31) これらとは違った角度から本論点を検討したものに、安念・前掲注 2 )「憲法訴
訟の当事者適格」359頁以下がある。右論文は、本論点について「standing の名
で呼ばれている問題は、実は実体法の解釈に解消される」とする。憲法訴訟にお
いて「第三者の権利侵害の主張はできない」という原則を踏まえつつ、実体法上
の解釈によって違憲主張の適否を決する見解であり、本稿の分類では通説的立場
の亜種といえるだろう。
32) 野坂泰司「適性手続の保障と第三者の権利の主張―第三者所有物没収違憲判決」
法学教室297号(有斐閣、2005年)65頁以下、71頁。
33) 芦部・前掲注 1 ︶「憲法訴訟における当事者適格」66-84頁、時國・前掲注13)
「憲
法上の争点を提起する適格」213-239頁。
34) 野坂・前掲注32︶「適性手続の保障と第三者の権利の主張」70-72頁、市川・前
掲注24)
「憲法訴訟の当事者適格・再論」654頁、浦部・前掲注15)
『憲法学教室[全
訂第 2 版]』391-392頁。
35) 新・前掲注22︶『憲法訴訟論[第 2 版]』397-401、佐藤・前掲注29)『憲法訴訟
と司法権』146頁、時國・前掲注13)「憲法上の争点を提起する適格」271頁。
36) 市川・前掲注24︶「憲法訴訟の当事者適格・再論」651頁。
37) 野中他・前掲注25︶『憲法Ⅱ[第 5 版]』270頁。
38) 板曼荼羅事件判決(最判昭56・ 4 ・ 7 民集35巻 3 号443頁)参照。
39) 市川・前掲注24︶「憲法訴訟の当事者適格・再論」651頁。
40) 土井・前掲注30︶「憲法訴訟の当事者適格論の検討」80-81頁。
41) 最大判昭45・ 9 ・16民集24巻10号1410頁参照。
42) 戸波・前掲注28︶「第三者所有物の没収と適法手続」156頁。
43) かかる意味での「人権」に関する近時の研究として駒村圭吾「人権は何でない
か―人権の境界画定と領土保全」井上達夫編『講座 人権論の再定位 5 人権論
の再構築』(法律文化社、2010年) 3 頁以下参照。
44) 石川健治「『基本的人権』の主観性と客観性―主観憲法と客観憲法の間」『岩波
講座 憲法 2 人権論の新展開』(岩波書店、2007年) 3 頁以下、 5 頁。
45) 石川・前掲注44︶「『基本的人権』の主観性と客観性」 5 頁。
46) 石川・前掲注44︶「『基本的人権』の主観性と客観性」 6 頁。
47) 石川・前掲注44︶「『基本的人権』の主観性と客観性」10頁。
48) 石川・前掲注44︶「『基本的人権』の主観性と客観性」10頁。
49) 石川・前掲注44︶「『基本的人権』の主観性と客観性」10-11頁。
493
50) 石川・前掲注44︶「『基本的人権』の主観性と客観性」11頁。
51) 戸松・前掲注 6 ︶『憲法訴訟[第 2 版]』96頁。
52) ここで対象としている憲法訴訟は民事・刑事・行政事件訴訟及び特別の客観訴
訟の全てを含むため、それらの訴訟対象を適切に表せる単語がほかになく、やむ
を得ずこのような歯切れの悪い用語を用いている。「訴訟目的物」という表現も、
決して適切な用語でないことは承知しつつ、同様の趣旨で用いている。
53) 駒村圭吾は、「違憲審査権の行使は76条・司法権の条件(事件争訟性の要請)に
縛られるだけではなく、まさに最高法規条項の要請に応じて、その条件を緩和す
ることも憲法上許容されていると思われる」との指摘をしている。芹沢斉ほか編
『新基本法コンメンタール 憲法』別冊法学セミナー210号(日本評論社、2011年)
429頁(駒村圭吾執筆部分)参照。
54) 時國・前掲注13︶「憲法上の争点を提起する適格」260-263頁。
55) 本稿では違憲主張適格の問題と行政事件訴訟法10条 1 項が規定する違法主張適
格との関係について詳しく論ずる余裕がなかったが、本稿で述べたところに従え
ば、同規定は違憲主張適格を制限する根拠とはなり得ないだろう。端的に「違憲」
の主張は「違法」の主張とは質的に異なるものであると考えることもできるが、
より踏み込んだ検討としては市川・前掲注24)「憲法訴訟の当事者適格・再論」
660-664頁参照。
56) 藤井俊夫「憲法上の争点の主張」法学セミナー増刊号『憲法訴訟』
(日本評論社、
1983年)184頁。
57) 本論点について、筆者の師、駒村圭吾は「おそらく、この論点を真剣に考えた
ことのある人は、第三者の権利の援用を争点化すること自体に疑問を持つのでは
ないか。もっと言えば、この論点を争点化させている憲法訴訟論の諸前提そのも
のが、何か根本的な誤りを抱えているのではないかという疑念が頭をよぎるので
はないか」という問題意識を提示する(
「第三者の権利の援用」法学セミナー694
号(日本評論社、2012年)38頁以下、38頁)が本稿は、まさにこの点を意識して
書かれたものである。あえて「憲法訴訟論の諸前提」を問い直すような論を展開
したのも上記の理由による。拙い論考ではあるが、先生のご学恩に少しでも報い
ることができれば幸甚である。
58) このような結論は、実は名だたる最高裁判事がかねてから指摘してきたことで
あった。入江俊郎裁判官は、判例変更前の第三者所有物没収事件判決の反対意見
として、「上訴権を行使するのは裁判が上訴権者の権利、利益を侵害しているか
らこれが救済を求めるものであることはいうまでもないが、その裁判を違憲、違
法なりとするところの理由は、その裁判がなされるにつき準拠すべきすべての憲
法、法律、命令の規定の解釈、運用の適否に及びうべく、その理由とするところ
が被告人自身に直接には関係のない点に関するものであったからといって、その
点にこれを違憲、違法とする理由があり、その結果その裁判が違憲、違法となる
ものであれば、被告人は、その点のみを理由として上訴をなしうべきことは当然
494 法律学研究50号(2013)
といわなければならない」と述べている。また、藤田宙靖裁判官も広島市暴走族
追放条例事件判決(最判平19・ 9 ・18刑集61巻 6 号601頁)の反対意見として、
「被
告人の本件行為は、本状例が公共の平穏を維持するために規制しようとしていた
典型的な行為であって、多数意見のような合憲限定解釈を採ると否とにかかわら
ず本件行為が本条例の規定自体に違反することは明らかである。しかしいうまで
もなく、被告人が処罰根拠規定の違憲無効を訴訟上主張するに当たって、主張し
得る違憲事由の範囲に制約があるわけではな」いと述べている。