稲葉黙斎と孤松全稿 山口 巌 はじめに 敗戦により、新しい時代の到来と共に、生活や考え方に大きな変動があり、過去の思想は捨て去られよう としているが、儒教、就中朱子学に在っては、再検討して残すべきものがあると思う。佐藤直方派の碩学稲 葉迂斎・黙斎親子の学問思想が、現代社会まで脈々と受け継がれて来た根底には何があったかの解明書は数 少ない様である。その理由の一つとしては門外不出の関係古文書が多かったことに依るものと思う。 本稿は黙斎忌の講演原稿に若干筆を加え、黙斎の学問思想の一端にふれてみたつもりである。 平成十五年十一月 先生眞像藏在東京西大久保無窮會神習文庫。今年當先生終焉百五十歳。仍而模之以納元倡寺云 昭和二十三年十一月二十七日 總南後學 梅沢思齋 山崎闇斎派と李退渓 これから稲葉黙斎と孤松全稿について述べるが、まず最初に山崎闇斎と朝鮮(韓国)の李退溪の関係につ いてふれてみたい。 李退溪(1501∼1570)は韓国に於いては、偉大な学者として、韓国民から大変尊敬されており、千円札 には彼の肖像が印刷され、また退溪研究院も設けられているほどである。日本にも李退溪研究会があり、一 九七三年の黙斎忌法要の折には、李退溪十六世の孫に当る李東俊が、研究会の役員と一緒に展墓に元倡寺を 訪れている。 また一九九八年秋には、韓国 KBS 放送が、李退溪顕彰記念番組用の資料撮影に成東町にも来ている。 (ビ デオテープあり) 日本では江戸時代初期に、藤原惺窩や林羅山が、最初に李退溪の学問を紹介したのである。江戸時代の学 者の中で、特に山崎闇斎派に李退溪を尊信する者が多いのは、孔子や朱子及び李退溪が、従来の知識偏重の 学問を排して、心の修養と自己の人格の完成に努め、日常生活の起居動作や、心の持ち方を正すことを目標 にかかげている為である。なかでも佐藤直方学派に於て顕著である。 山崎闇斎(1618∼1682)は、李退溪の「自省録」を読んで、その思想・学問や人格に大変感動し、学問 や思想が人間形成の原動力になるべきだと主唱し、積極的に彼の考え方を取り入れて「闢易(へきい)」を 著し、仏教を排し、更に「白鹿洞学規集註」を著して、 学問ハ五倫ノ道ヲ修メ、コレヲ実践シテ大賢ニナルコトヲ目的ニシナケレバナラナイ。 と述べている。 佐藤直方(1650∼1719)は藤門の宝典と称される「冬至文」の中で、次のように述べている。 朝鮮ノ李退溪ノ後、コノ道ヲ負荷セント欲スル者、吾未ダソノ人ヲ聞カズ。 二百余文字の中で、ただ一人李退溪の名前をあげているのは、李退溪の道を重んじ、実践する態度に深く 感動した為である。 江戸時代の中期から後期にかけて、崎門学を集大成した稲葉黙斎(1732∼1799)は、晩年に 心術ノユガミアレバ、学業ノユガミナリ。ユガミヲ成就スレバ…道学ヲユガマズ、成就シタルハ、朱子 孔子以来ノ一人也。朱子ノ学ヲユガマズ、信従シタルハ、退溪朱子以来ノ一人ナルニヨッテ、直方モ退 溪ヲ道任ニアテラレタルハ、微意アルコト也。吾友如何如何 寛政七年十一月十一日 (一七九〇、五九才) (黙斎草全書拾遺、乙卯冬至漫書)の中で「朱子以来の一人と」、また 朝鮮ノ李退渓ハ朱子ノ道統ナリ。朱子ノ訓(おしえ)ニ只管(ひたすら)ニ従テ、分寸朱子ノ規模範囲 ヲ越へズ。小成ノ朱子也。 (孤松全稿巻一) 「朱子の道統」「小成の朱子」と述べる程李退溪を尊敬し、そして「孔子のことばを学ぼうとするならば、 朱子学を手本とし案内書とせよ」といい、父の稲葉迂斎(1684∼1760)が開いた「朱書節要課会」を受け 継いで、弟子と共に「朱子書節要」(李退溪著)を毎日読んで、朱子の心と行動を学んで、自己反省と修養 に努めたのである。 諸先生朱書節要課会之規 一、会日、毎月両度(二回)相極ル事。 一、先輩一人、会正タルベキ事。 一、集会ノ面々、四ツ時(午前十時)相集リ七ツ時(午後四時)マカリ帰ルベキ事。 一、少々ノ用事ハ随分相延バシマカリイズベシ。若シヨンドコロナキ用事アラバ、会主ヘソノコトワリ申 シ達スベキ事。 但シ病気ヨンドコロナイ用事ノホカニ、不参三度ニ及ビ候へバ、会主ヘ申シタテ連レ衆ヲ除クべキ事。 一、食事ハ各々持参スべキ候。ナラビニ酒ヲ致スべカラザル事。 一、会二入ル人ハ節要ヲ毎日熟読致シ、或イハ一条或イハ一枚会ノ節、右熟読ノ時ツツシミコレ有り候ト コロ、モシ審ナラズシテコレ有リ候トコロ、講習討論シ、ソレ以後ハ他所ノ審ナラザルトコロヲ申シ読 ミ候トモ、或イハ書ヲ読ミ候トモ、学談致シ候トモ、静座致シ候トモ、勝手次第ニ致スべク候。且朋友 講習ノ間、徳性薫陶スル意専一ニ候。無益ノ雑談堅ク禁止スベシ。帰リノ時会主指図次第、残ラズ座ニ 連ナリ会主ヘ一礼申シ帰ルベキ事。 一、毎日早朝ニ起キ、手水(ちょうず)・髪・月代(さかやき)ヲユイ、几案(きあん、机)ヲ掃除シ危坐 シテ節要ニ対スベキ事。 一、序文ナラビニ巻末ノ書翰ヲ以テ(李仲久に答える手紙)、之ヲ読ミ規矩(手本)ニ立テ、己ノ為ニスル ノ意忘ルベカラズ。新奇ノ異説ヲ以テ解シ、耳目ヲヨロコバスノ意、厳シク断絶スべキ事。 一、朔望(さくぼう、一日と十五日)ニハ袴ヲ着用シ節要ヲ読ムベキ事。 付ケ足り。此ノ両日ハ序文ナラビニ李仲久ニ答へル書ヲ一扁々々読スべシ。 一、会ノ連レ衆ハ相互ニ腹蔵ナク規諌(きかん、正しいいさめる)スベシ。小事ハ書キ付ケヲ以テイサム ベシ、大事ハ面責スベキ事。 但シ三度ニ及ビ改メザル人ハ会主へ申シ立テ、連レ衆ヨリ除クべキ事。 右此ノ会ニ連り候人、実ニ聖学ヲ勤メ虚偽利名ヲ断絶シ、孔孟程朱ノ為ニ何トゾ此ノ道ヲ明ラカニセント 思フベシ。若シ不行跡ノ事コレ有ラバ、タトイ不承知卜云ヘドモ、此ノ会ニ連ナリ何ンノ面目有リテ連衆ノ 諸賢ニ対センヤ。若シ人ソノ不行跡ヲ知ラバ、孔孟ヲ学ブ人、如何ナレバ程朱ノ学モ無益ノ事ナリト申シ立 候。人ハ甚ダ道ノ害ニシテ実ニ天地孔孟程朱ノ罪人、此ノ会ニ連ル諸賢ノ為ニモ亦罪人ニシテ、諸賢モ亦甚 ダ面目ナキ事ナリ。此ノ言ヨクヨク相守ルベシ。此ノ会ニ連ル人此ノ道ヲヨクヨク合点アリ、心ニ如才ナキ トテモ嫌疑ノ間此ノ連衆ノ為ニモ相慎シムベキ也。 享保庚子(一七二〇)(五年) 七月十七日 鈴木十左衛門(迂斎 三七才) 野田七右衛門(剛斎 三一才) 永井玄厚(隠求 三二才) (大神)沢一(三七才) 酒井作右衛門(修敬) 天木善六(二六才) 竹内三郎左衛門 甲辰七月入会 佐藤彦八(直方の子 一六才) 丙午十一月入会 長谷川源右衛門(観水) 以上此後入会ノ諸老左ノ如シ 小野崎舎人 長野宇右衛門 多田儀八郎 野沢十九郎 (朱書節要開巻大意)(山崎道夫解説) 規約には、理由もなく三度欠席したり、三度注意しても改めない時は課会から除名する。 毎日身辺を整えてから朱子書節要を読み、一日と十五日には袴を着用して読書すべきこと等、課会参加者 にとっては、大変厳しいきまりと真摯な態度が要求されている。 黙斎の学問 わが国に於ては、神や仏本位の世相が長く続き、現世よりも未来社会に希望を託す仏教的な世界観が、一 般の人びとの間に浸透し、人間探求の考えや学問が衰えてしまったのである。 そこで未来希求の世界観を改め、現世の秩序を主とする考えを持った人間になることを、学問と教育の最 高目標にする道学を唱えたのが、朝鮮にあっては李退溪であり、日本では山崎闇斎派の人びとである。 一般的に学問では、物事を客観的に研究することを目的としており、人格の陶冶・人間性の育成を主とす る立場はとっていない。ところが孔子や朱子及び李退溪にあっては、後者の立場に立った学問観であり、稲 葉黙斎は李退溪が一生涯聖人を目あてに修養する態度に感動したからこそ、手本になると云っているのであ る。 稲葉黙斎は「論語学而篇」の最初のことば、即ち「学而時習之」(学んで時に之を習う)をその講義の中 で次のように述べている。(論語講義 熱田家蔵) コノ学ンデノ学ノ字が学問ノ元祖ニナルコトナリ。時ニコノ学ノ字ニ何トモ苗字ガナイ。タトヘバ弓 馬ヲ学ブデモ、弓馬ヲ学ブト云フ名字ガアル。スレバ此ノ学ノ字ハ何デアロウト思索スべシ。学トカ カゲタハ人ノ道ヲ学ブコト。人間卜一度生レテカラハ、人間タル処ヲ学バネバナラヌコトナリ。ソレ ヲ学ブト云フモ知行ノ二ツヨリナイ。 知行を揃って学ぶもので、古人の覚った知と行を手本として、習って行くことである。 「道学二字説」には 道学卜云フ二字ヲ、手短ニ云へバ、近思録道体ノ道ノ字卜為学ノ学ノ字ヲ合セテ道学卜云フ。 道学とは.単に道を学ぶと云うようなことではなく、道理をわが心へ得ることである。 黙斎は「道学標的講義」の中で次のようにも述べている。 道学ノ二字ハ衰世ナリト迂斎云へり。と 道学とは衰世の意である。世が衰えたから、道学の二字が必要になって来た。孔子は「十有五而志学」 (十 有五にして学に志す)と学のみ言って道学とは言っていない。道学という名がついたのは、世に異端が生ま れて来たからである。いろんな異端が生まれ、似而非(にてひ)なる者、すなわち「えせもの」と一つにな るから道学という名前をつけたのである。道学とは本金(ほんきん)だということで、贋金(にせがね)が 生まれてきたものだから、わざわざ本金といわなければならなくなって、名付けたものだというのである。 (山崎道夫講演記録) 有史以来四千年の歴史を持った中国ではあるが、その間に王朝の変転はしばしばくりかえされ、上代人は 人も土地にも安住の場所を持つことも出来なくなり、ただ「天」のみを頼りにするようになったのである。 そしていつとはなしに、人の運命は勿論、あらゆるものが皆天から与えられたものと考え、天は万物の本源 であり、天のみが宇宙の根本原理であると考えたのである。「天帝」と云う言葉に表現されているように、 天と人間とが結びつき、別物でないと云う考えが起って来た。(天人合一の思想) 万物の本源を天と考えた儒教は、後に天に代って「太極」と云う言葉を使うようになった。万物の根源を 天と考え、それが絶対普遍と信じて、これを「太極」と称し「理」と称した。 天が万物を化生すると同時に、それぞれこれに天理を賦与する。これを天の命と云い、その理が性である と解し、理と性が一つのものであり、天理と人性は同源のものであり、人性の研究が同時に天理の研究とな り、宇宙の研究が同時に人間の研究になると云うのである。物を知るのは己を知る為であり、天理を知るの は、人性を知る為である。 道とは、天地自然の道理で、常に在るものであり、道理を研究しそれを体得して、実践するのが人間の使 命である。 稲葉黙斎も、天との関係の中で、自己をとらえ位置づけて「天の子」と云っている。 「姫島講義」の余論に 英知卜云フハ、ホンニ知ルコトナリ。ホンニ知ルト云フモ、色々アレドモ、一ツ大事ノコトヲホンニ知 ルト、学問ハ上ルナリ。サテ一ツ大事ノコトハ何ゾ。人ハ天ノ子ナリト云フコトナリ。人ハ天ノ子ナリ ト云フコトヲホンニ知ルト、先ヅソレデ済ムコトナリ。 また 天トハ何ゾ…天ハ即チ理ナリ。理ハ即チ太極。無声無臭ノ真、乃チ自然ノ謂(いい)ニシテ、其ノ実ハ 則チ亦天ニ出ヅ。己ニ備ハル心ノ徳トモ云フ。性ノ徳トモ云フ。 黙斎は更に「道学二字説」の中で 五常五倫ハ道体ナレドモ、為学ナケレバ、五常ノ道明カナラズ。聖人ノ道ハ、五倫五常ニ本ヅク事ニテ、 其ノ五常五倫ハ天ニ出ヅ。 と述べ、五倫五常を道体とし、共に天より出るものとしている。 道とは五倫の道であると同時に、天地宇宙の道であり、人間の本質につながる道である。学問の目標は君 臣・父子・夫婦・長幼・朋友の五つの人間関係の道理を明らかにして、実践することであると朱子は「白鹿 洞掲示(かつし)」の中で述べている。 父子有親 君臣有義 夫婦有別 長幼有序 朋友有信 博学之 審問之 慎思之 明辨之 篤行之 言忠信 行篤敬 懲忿窒慾 遷善改過 正其義 不謀其利 明其道 不計其功 己所不欲勿施於人 行有不得反求諸己 父子親有り 君臣義有り 夫婦別有り 長幼序有り 朋友信有り 博く之を学び 審(つまびらか)に之を問い 慎んで之を思い 明に之を辨(わきま)え 篤く之を行 う 言(ことば)忠信 行篤敬 忿(いかり)を懲(ちょう)し慾を窒(ふさ)ぐ 善に遷(うつ)り過を 改む 其の義を正しうし 其の利を謀らず 其の道を明にし 其の功を計らず 己の欲せざる所人に施すなかれ 行うて得ざる有らば諸(これ)己に反り求む 黙斎が清名幸谷の鵜沢七蔵に与えた「五旬引(いん)」には次のように書いてある。 人之一身五倫備(そなわる) 右山崎先生敬斎箴序文 人々 我此身ヲ以テ親ニ事(つかふ)レバ 父子 我此身ヲ以テ君ニ仕レバ 君臣 我此身ヲ以テ妻ヲ娶(めと)レバ 夫婦 我此身ヲ以テ尊長ニ接レバ 長幼 我此身ヲ以テ友人僚朋ニ接レバ 朋友 是皆我此一身ヲ以テ出合コトナレバ我ヨリシテ五倫アルコト也サレバ我ガコノ心ヲ以テ五倫ニ交ルコト ヲ三代ノ学ハ人倫ヲ明ニスルト云フ 天地中ノ人此五倫ニ泄(もる)ルコトナケレバ此五倫ノ道ヲ明ニスルコトヲ学問卜云フ 父子君臣夫婦長幼朋友ハ何レモ持合セテヲレドモ 父子之親君臣之義 夫婦之別 長幼之序 朋友之信 卜云フ親義別序信卜云フ五ツノ者無レバ樽バカリアリテ酒の無キ様ナモノト迂斎云フ 樽ハ本酒ヲ入レル筈ノ者也 父子ハ本親ナ筈ナモノ也 君臣ハ本卜義ナ筈ナモノ也 夫婦ハ本卜別ナ筈 ナモノ也 長幼ハ本卜序ナル筈ノモノ也 朋友ハ本卜信ナ筈ナモノナルニ親ナク義ナク別ナク序ナク信ナシソコデ親アルヤウニ別アルヤウニ序ア ルヤウニ信アルヤウニト学問シテ白樽ニ酒ヲツメル也 父子君臣夫婦長幼朋友ノ白樽ニナリタルホド気ノ毒ナルコトはナシ 親義別序信卜云フ酒ヲツメルホド結構ナルコトハナシ 此レ道学之源也 更に読書次第については「小学内篇外篇」をあげている。 人間一生此書ニ備レリ此一書ヲ熟復スべシ所謂親義別序信ヲ吾身ニ得ルコト此一書ニ全備ス…中略…… 日本ハ文字ヨメザルユヘ大抵ノ精力ニテハ切ナシ随分精ヲ出スべシ 其学ビ方ノ曲折ハ時々ニ口授スベシ 右大概スマシタル上ハ 家礼ナリ ソレヨリ近思録大学論語孟子中庸卜 小学講習ノ仕方 日々ニ小児ノ如ク声ヲアゲテ素読ヲ復スベシ講釈ヲ聞キタル処ソノ処々熟復スベシカヘリミヲスベシ 文字ノ不会処ヲ辞書ヲ以テ一々引キ出シ吟味スべシ 人ノ口ヨリ我耳へ聞キ入タル講釈ヲ我目ヲ以テ文字ヲ吟味シ目ヨリ心ニタタミコムコト也 汝老父ノ命ヲ受ケ予ニ従ヒ学ビ教ヲ求ム…中略… 二月二十九日 来リ四月二十日帰村ヲ命ズ因テ此筆記ヲ五旬引卜名付ク 黙斎 与上総農民 鵜沢七蔵 黙斎の人柄・日常生活・思想 林潜斎(1749∼1817)の「稲葉黙斎先生伝」によると、黙斎は資質明敏・神気清爽とあり、人格高潔で 礼儀正しい人物であるが、若い時は手に負えない我がまま者であった。しかし父迂斎は温かく見守っていた。 野田剛斎に師事して、厳しい指導を受けてからは、人柄ががらりと変り、学問も急速に進展した。 「師匠は石になってもおそろしい」と云う言葉からも判るように、師弟間の指導教育は厳格であった。 潔癖な性格で沐浴束髪は一日も欠かさず、衣服のほころびは見たこともなく、書物や調度品類はいつも整 然と列べておいた。金銭にもこだわりがなく、家計は弟子にまかせ、また物事のかかわり合いが嫌いで、そ の日のうちに片づける主義で、買物の代金もすぐに支払っている。 兄廓斎の子十二を大変可愛がり、黙斎が隣室で講義中にさわいでいても気にとめず講義を続けているので、 ある時林潜斎(花沢文二郎)が注意してはと申し上げると、黙斎は 「彼はさわいでいる時はよいが、静かな時が却って不憫だ」と答えた。また黙斎は、死の間際門人に「松 慶がおれの病気を直せるなら、なぜ十二(中田重次)を殺したか」と云って、重次の死を悼んで薬を飲まな かった。 孤松庵の軒先にはいつも草鞋を一足下げて置き、「若し村人と意見が合わなかったなら、すぐにここを出 るつもりだ」と潜斎に話している。 黙斎は晩年に館林の松平侯にご進講申し上げる為に、大木丹二と林潜斎を連れて江戸へ行った。その時の 記録が「再旬紀行」である。その中に「小鳥の子飼い」の話が載っている。松平侯はまだ十二才の若さだっ たので分り易く、 縁側に来た雀は、障子を開けると逃げまするが、子飼いの雀は膝へ上り逃げませぬ。雀に二つはござりま せぬが、野鳥と子飼いとはさように違います。小学(朱子の小学書)は人を子飼いにすることでござる。 今の人は教のないところから、野鳥のようで、ついには親の許までも嫌うようになりましょうぞ。と申し 上げた。更に、小学の書を鏡になさるがよろしうござる。鏡を持たぬ女は一人もござりませぬ。また鏡を 持ちながら鏡を見ぬ女もござりませぬ。そして鏡を見て鬢(びん)の毛が一本そそけたのまでも直します る。わが君も小学を鏡と遊ばされて、御身に過があらば直さるるがよろしうござる、といった。 御前の御体の御養生のことは、普段侍医の尽すことでござりますが、御心のことは侍医の手には及びます まい。それは御学問でなければなりませぬ。御学問をなされて、御心をすらすらと滞りのないように遊ば されませ。 と申し上げた。後日更に釈迦の話をされた。 釈迦は古今のうその名人でござる。然るに釈迦のうそは深いものだから、容易に知れることでない。サギ を烏と云うては人が合点せぬ。山王の桜に猿が三千と云うと人が何をと云う。私が亀井戸の藤が真盛りと 申しても、誰かが藤はまだ咲かぬと申せば、じきにうそがばれます。然るに釈迦のうそは、死んだ後に極 楽あり地獄ありと申す。誰も死んだ者がないからうそがばれぬ。さてさてうその名人でござる。そのうそ も知者は合点いたしませぬ。学問をすればごまかされませぬ。 (初雁 森銑三著) 幼小時の躾や学問に対する心構や作法については、「童蒙則」の中で、次のように述べている。(抄録) 衣服 人トナリテハ、先ヅ身体端正ヲ要ス。衣服ハ須ラク収拾スベシ。潔浄整斉ナラシムべシ。衣帯ハ緊束シテ、 寛慢ニシ人ノ為メニ軽賎セラルべカラズ。飲食スルニハ、照管シテ、汚壊(おかい)スルコト勿レ。行路 ニ泥漬(でいし)スルコと勿レ。 語歩 凡ソ子弟ハ、常ニ声ヲ低ウシ、気ヲ下シ、語言詳緩ナルヲ要ス。 高言喧閧(けんこう)シ、浮言戯笑(ふげんぎしょう)スベカラズ、父兄長上教督スル所アラバ、当(ま さ)ニ首ヲ低ウシテ聴受シ、妄リニ自ラ議論スベカラズ。 洒掃(さいそう) 凡ソ人の子弟卜為リテハ、当に居処ヲ洒掃シ、几案(きあん)ヲ払拭シテ、常ニ潔浄ナラシムべシ。文字 筆硯、凡首ノ器用、皆当ニ厳粛整斉ニシテ、常処ニ有(たも)チテ取用シ、既ニ畢(おわ)ラバ、復元ノ 所ニ置ケ。 誦写(しょうしゃ) 凡ソ書ヲ読ムニハ、…略…暗記スルコト、只是レ多誦遍数ヲ要ス。口ニ上スルコト久シケレバ、自然ニ忘 レズ。古人云フ、読書千遍其ノ義自カラ見(あらわ)ルト。読ミ得テ熟スレバ、則チ解説ヲ待タズシテ、 自ラ暁(さと)ルナリ。読書ニ三到(とう)有り、謂(いわゆる)心到ナリ。眼到ナリ。口到ナリ。心在 ラザレバ、却ッテ只漫浪ニ誦読シテ、決シテ記スル能ハズ。 凡ソ書冊ハ須ラク愛護スベシ。…略… 凡ソ文字ヲ写スニハ、一筆一画厳正ニシテ分明ナルヲ要ス。老草ナルベカラズ。 雑事 凡ソ子弟ハ、須ラク早ク起キ晏眠スルヲ要スベシ。 凡ソ火ニ向ヒ、火傍ニ迫り近ヅクコト勿レ。 凡ソ衆坐ニハ必ズ身ヲ歛(おさ)メ、広ク座席ヲ占ムルコト勿レ。 凡ソ夜行ニハ必ズ灯燭ヲ以テス。 凡ソ危険ニハ、近ヅクべカラズ。 上総の農民に対しては、駿河今川氏の家範を参考にして、「農家今川状」を作り農民達の心得を説いてい る。 一、鋤鍬(すきくわ)ヲ執ラズシテ、農家ハ終ニ繁昌スルヲ得ザル事。 一、雑談寄合ヒヲ好ムハ、無益ニ夜ヲ深ウシ、朝寝ヲ楽シム事。 一、水呑百姓ヲ軽シメ、小作人ヲ貧リ、栄華ヲ極ムベカラザル事。茶湯風流無用ノ遊芸。 一、先祖ノ遠忌日、精進専一ニシ、乱舞宴停止ノ事。 一、地頭先祖父母ノ重恩、毎日存ジ出シ、忘却スベカラザル事。 一、公用ヲ厭ヒ、私用ヲ専ラトシ、世間ヲ憚ラザル働キノ事。 一、他人ノ不調法ヲ取扱ヒ、之レニ依ツテ、我意ヲ募ル事。 一、百姓ノ分限ヲ知ラズ、武家ノ風ヲ効(なら)ヒテ分ニ過ギ。或ヒハ、水呑百姓ニ対シテハ、却ツテ万 事不足ノ事。 一、非道ノ人ノ富羨ムべカラズ。正路(しょうろ)ノ人ノ衰微軽ンズベカラザル事。 一、酒宴遊興諸勝負物見狂言浄瑠璃小歌三味線ニ長ジ、家職ヲ忘レ、家法ヲ壊(やぶ)ル事。 一、己レノ利根ニ迷ヒ、学問芸術ニ傲(おご)リ、万端ニ就キ他人ヲ嘲(あざけ)ル事。 一、人来ル時、虚病(きょびょう)ヲ構へ対面セズ、或ヒハ、久シク待サセ置キ、并(ならび)ニ来使ノ 返書遅滞シ、使ノ退屈ヲ思ハザル事。 一、独楽ヲ好ミ、人ニ施サズ、米穀倉ニ積メドモ、親類郷党ノ求メニ貸サズ、仁心無キ事。 一、貴賎仁義ノ道理ヲ弁へズ、勝手ニ任セ、安楽ニ耽(ふけ)ル事。 一、村内二於テ会約ヲ立テ、吉事凶事ニ親切ヲ致シ、病死人三日ヨリ前へ地ニ埋メ、万一地下ニオイテ蘇 生シテ、其ノ苦痛、骨肉親人ヲ煩ハサザル事。 (孤松全稿 拾遺ノ上) 生活様式についても、従来のしきたりを改め、正しい生活の在り方について、黙斎は「家礼」に則した教 育により農民の生活を改善することに努めたのである。当時江戸では人々は武家の行儀を見習って礼を正し ていたが、上総の農民は職業柄男女共同作業が多く、また様々な遊興や酒宴等が盛んに行なわれ、生活は乱 れていたのである。当時の農民は経済的に貧困だった事情もあるが、死者の取り扱いや埋葬は大変粗末で、 遺体を出来るだけ早く埋葬しようとする風潮があった。「家礼」では死後三日目に納棺することを定めてい る。三日目と云うのは蘇生の限界を示すものであり、三日が過ぎれば息を吹き返すことがないと云う理由に よるものである。 父子兄弟の死を悲しむ心は、外から与えられたものではなく、天から与えられた性のあらわれであり、人 倫の道であると黙斎はとらえている。遺体との別れを惜しんで、死後三日を待って納棺することこそ「天の 子」にふさわしい情に基づいた礼制であると考えたからである。 (稲葉黙斎の「家礼」による啓蒙の試み、大久保紀子著) 黙斎は喪礼については、「埋葬筆記」を著して、次の様に農民達を指導している。(抄録) 擇地 唯土地ノ高キヲヨシトス江戸ニテ云へバ山ノ手麻布四谷駒込ノ類ナリ本所深川浅草ノ如キハ誠ノ水葬ナリ 礼式ナド整テ水地ニ葬ルハ封ヲ付ケテ溝ニ捨ル如シ笑フべキナリ 深壙 一丈五六尺ヨリ二丈マデニ掘ルべシ 一丈四五尺ニテ水ノシミ出ル処ハヨキ葬地トハ云ガタシ 一丈五尺以上ニ掘リ其上ハ様子次第ニスべシ 棺槨(かんかく)ノ落付ク処ハ槨ト土トノ間六七寸アク程ニ掘ル是ナリ 棺槨 棺槨大抵瓶(かめ)ヲ用テ好シ 瓶ハ裏表薬ノヨクカカリタルヲ用ユ(上ヲ洒瓶卜云次ハ水瓶ノ極上ヲ用 ユ) 瓶ノ大小ハ固ヨリ死者ノ躰ニ由ルべシ 然レドモ大キ目ナルヲ買べシ 納ムルトキ入リ難キハ甚ダ 恐ベキナリ 瓶蓋(ふた)ニ栗或ハ桧三寸板ヲ用ユ 針金三丈ヲ調へ…略…堅キ紙ヲニツ折リニシ切テ生糊(きのり) ニテ張リ付ケ其ノ上ヨリ松脂(まつやに)ヲ流シカケルナリ 松脂ソノ紙ニテ止ル為メニ紙ヲ張ルナリ 更に松脂で箱を造り瓶を納めて、堅炭で周りをかため、小田原石三枚敷いて埋めるのである。また臥棺 についても詳しく述べている。 沐浴 棺ニ納ムル前ニ沐浴ノ具ヲ備へ(小盤手拭)死者ヲ其ママニテ床ノ上ニ寝サセ置キ湯ヲ手拭ニシメシソロ ソロト拭ヒトルベシ 墓石 墓ノ正面ハ何ノ何左衛門之墓ト書キ…略…イヅレノ産年号支干(しかん、えと)何月何日没行年幾歳法名 何々ト記ス是ナリ 兎ニ角其ノ寺ノ法名ヲ記セバ寺ノ過去帳ト符節ノ合事ナリ また「葬の心得」には 死シテ三日ノ内ハ千ニ一ツ蘇ルタメシアレバ此三日ノ内ハ棺ニ納ルトモ蓋ヲセズ折節死者ノ面ヲカヘリミ テ万一気ヲ吹キ復ンヤトタメシ三日過ギテハ又蘇ルコトナキ日数ナル故三日過ギテ棺ノ蓋ヲナシ三日ノ内 ハ堅クフタヲスべカラズ。 三日トハ死ヨリ三十六刻タツコトヲ云フ とあり、黙斎は両親を亡した時の実体験を記した「内艱(ないかん、母の喪)剳記」「外艱(がいかん、 父の喪)剳記」を例に、古礼に則した葬の在り方を具対的に示して、従来の悪弊を改めるよう指導している。 また火事に出合った時の死者の取扱いや、人として死者にはどのように対処すべきか等についても詳しく 述べている。館林藩や田辺藩に於ては、「葬の心得」を印刻して、趣旨の普及に努めたようである。 黙斎が晩年上総清名幸谷に移住した事情について、子孫の鵜沢照夫氏は次の様に述べている。 幸七郎は女房運が悪く、数人の妻を娶りました。皆二十才の後半から三十才の前半に死亡しています…略 ……その後妻に日本橋公儀油座大和屋野口清左衛門妹の野間女を、そして倅倉之助の妻に清左衛門の娘由 野女(野間女の姪)を娶っています。現在の清名幸谷はまあまあとして、二百年前の昔は恐らく遍狭の地 であったことでしょう。そこに娘や妹を嫁がせる親の心情は計り知れないものがあったと思われます。 迂斎、黙斎両先生が幸七郎の人格を認めて下さったから出来た結婚だったと思われます。そしてこの縁 が取り持って、先生も清名幸谷に来られたのです。二人のか弱い女性の住むのが縁だったのです。 更に付け加えるならば、当時の鵜沢家は、大地主で経済的にも豊かで、黙斎を迎えても十分な余裕があっ たことも一因と考えてよいだろう。 鵜沢氏は黙斎の遺徳について次のように記している。 先生の思いが今猶残っていることがあります。先ず一つは講銭です(現在百円)。天明寛政の頃、死体を 埋葬するのに非常に粗末な埋め方をしていたようです。そこで先生はかくかくの寸法の箱を作り、納棺し て埋葬しなさいと指導されました。しかし箱代を出せる者は何人もいなかった。そこで、講銭という名の 講を作り、村人全員で箱代を出すことにしたのです。二つ目は「メッタマシ」で祝いの翌日お目出度うを 申し上げる。三つ目は「クヤミ」で葬式の翌日線香をあげに行く。喜びも悲しみも村全員で分ち合うとい う指導をされたのです。 (稲葉黙斎先生と清名幸谷 鵜沢照夫著) 清名幸谷鵜澤家系図(桜井計敏作) 「清名幸谷鵜澤家系図(桜井計敏作)PDF ファイル」を参 照して下さい。 結 び 崎門学特に黙斎を中心とする学風が、生きた学問として、昭和末期の現代まで道統として続いて来たのは、 孔子や朱子の学問即ち人倫の道を日本の社会に活かし、打算も欲も得もなく、ひたすら修己治人を目標に努 力したことに起因するものと思う。 道義がすたれ、物中心の現在社会にあって、黙斎の学問や行動に学ぶべき点が多々あると思う者の一人で ある。 孤松全稿 稲葉黙斎の人物や学問については、学者や郷土の人びとの調査研究により、その大要を知ることが出来る ようになったが、黙斎自身の手になる著作物は殆ど公刊されておらず、孤松庵に隠棲してから、崎門学を集 大成する過程の講義類は、弟子達によって筆録されて、残ってはいるが、まとまったものはなく、特志家の 手元に散在しており、黙斎の学問の真髄を知るには大変困難が伴うものであるが、今後の調査研究に期待す るものである。 孤松全稿 五十巻(大木忠篤編集)は、前篇二十五巻後篇二十五巻に分かれており、前篇は黙斎が江戸在 住当時、後篇は上総清名幸谷に移ってからの、語録・日記・手紙・紀行・伝記等、黙斎の手になる文を集め たもので、その人柄や学問・思想を知る上で重要な書物である。 池上幸二郎著「稲葉黙斎先生」(昭和十一年刊)には孤松全稿は東京に於ては、無窮会本、白石正邦本・ 吉田英厚本及び予の蔵本等数本あるが、何れも不完本である。上総成東町の小学校に二部及び田原氏一部 蔵している。是は完本である。自筆稿本は先生の門人小川省義之を購い、半数を館林藩に納め、余は子孫 之を蔵していると聞けど、其の存否如何。予等同人の間に於いては、自筆稿本を蔵せるもの僅かに七、八 冊に過ぎぬ、とある。 田中蛇湖(名は謙蔵)の「上総に於ける稲葉黙斎の遺跡」と題した文が、昭和十五年版の雑誌「千葉文 化」に載っている。 現在この書の残存するもの僅かに九部、その二部は彼が墳墓の地たる成東 小学校にあるが、これも完本 ではない。完本は東京の池上文庫所蔵のものと、無窮会所蔵の二本があるのみ。と孤松全稿についての消 息が記してある。 黙斎の人物・学問・思想の詳細を知り得る文献資料が極めて乏しい中にあって、唯一貴重な存在は孤松全 稿である。 黙斎自筆の孤松全稿の原本は、晩年門人である東士川(とつか、現在の東金市宿)の酒屋小川省義に売却 し、舘林侯と接半したが、幕末の兵火に遭い、館林藩に納めた全稿は焼失してしまった。 転写本の孤松全稿中全巻が残っているのは、無窮会神習文庫と東京神田池上家所蔵本の二部に限られてい るようである。 私は叔父梅沢芳男の依頼で、成東小学校勤務当時に、校内の古文書を調べたが、漢籍類は一冊も発見する ことが出来なかった。思うにアメリカ軍の占領当時か、高度経済成長期に実施された校舎管理棟建替の折に 廃棄処分をされたのではないだろうか。湯坂の田原家及び津辺の安井家に現存する孤松全稿転写本は、僅か 数冊に限られている。 千葉県文書館(千葉市)に寄託の「蕪木文庫」の中には二種類の転写本がある。一は旧三田藩(兵庫県) 主九鬼謙斎侯(別号峯松軒)所蔵本であり、他は黙斎が清名幸谷に移ってからの記録、即ち後篇の孤松全稿 である。蕪木文庫の孤松全稿について、梅沢芳男は「総浜所聞」の中で次のように述べている。 終戦後程なく伊賀(三重県)の沖森書店より、孤松全稿・論孟講義等を入手した。然し全稿は欠本だった ので、当時無窮会の神習文庫の司書だった林正章氏(平沼騏一郎氏の秘書であった人)に依嘱して、全稿 の欠本を補写してもらった。その製本全部が漸く完了したが丁度三十冊になった。これで全稿は殆ど完全 した。勿論別本もあるが、この分は皆大版故見事に書架を飾ると共に、大いに玩索吟味することである。 一貫堂翁は十三年見たと云っている。予もその位にはなるだろう。然し未だ会得出来ない。褌を締め直し てかからねばならぬ。冬至文附託の精神を忘れてはならない。 元倡寺本 孤松全稿 三十冊 各簿冊の表紙には 「稲葉黙斎先生遺稿 出品人 山武郡成東町 鈴木順蔵」 と墨書した短冊が貼ってあり、開巻すると右下に「鈴木常蔵本記」の朱印が押してある。 更に後篇の「甲寅雑記」の最後には、黙斎真蹟の模写(敷写)による文が記載されている。 右予原稿。起于姫島講義。時甫(はじめて)二十一歳。迨(およんで)今茲甲寅。齢実六十三。此冬有 故売之。小川氏聞之。輒(たやすく)出小判五金買之。予大喜書其後 孤松庵 黙叟 花押 そして脇には鈴木常右衛門の筆蹟で添書がしてある。 右依小川氏蔵本直写之 黙斎が自筆稿本を小川省義に譲渡した事情が判明すると共に元倡寺本の孤松全稿は鈴木常右衛門が、黙斎 に師事している間に、黙斎から原本を借りて転写したものと考えられる。 ところで鈴木常右衛門の人物・学問等については、「崎門学脈系譜」にも他の文献にもその名が見当らな いのである。 蕪木文庫の中には前記「鈴木常蔵本記」と同じ朱印のある写本が何冊か保存されている。 平成十二年四月私は湯坂の田原哲三氏(田原担庵の孫)の案内で、鈴木家の祖母を同道して、湯坂の法宣 寺を訪い、鈴木家の墓所を詳かに調査して、其の家系を知ることが出来た。 鈴木常右衛門(天保八・三・四、七六才没) →栄順(明治一七・九・一六、八〇才没) →信順(明治三九・五・一二、七四才没) →順蔵(昭和一三・八・二四没、七七没) 鈴木栄順・信順・順蔵の墓石は法宣寺境内に並んで建立されている。 鈴木常右衛門の墓は、法宣寺の西南五百メートル近く離れた「家の子」寄りの山腹に壱基だけ建立されて おり、 墓碑正面には 左側面には 右側面には 天保 九年戊戌三月 四日 鈴木常右衛 門栄順 謹識 先考姓鈴木名常右衛門諱栄誠幼名徳 蔵宝暦十二壬午九月十三日生天資剛 毅質而能勤産業以為冨新治邸舎於里 中大割矣天保八丁酉三月四日病没于 家享 年七十六謚日 常住院 栄信日要 妣 遠 山 氏 佐 喜 墓 考鈴 木常左衛門栄 誠 と陰刻されている。 孤松全稿に関連のある黙斎門下の人々は 稲葉黙斎 一七三二→一七九九 六八才 鈴木栄誠 一七六二→一八三七 七六才 鈴木栄順 一八〇五→一八八四 八〇才 小川省義 一七三四→一八一四 八一才 山崎闇斎と其門流(伝記学会編)や稲葉黙斎先生と南総の道学(ペリカン社)に載っている栄順の筆写本 と元倡寺本は異なるものと思う。元倡寺の孤松全稿は甲寅雑記の添書きや関係者の忌辰等から検証し、鈴木 常右衛門栄誠の写本と断定することが出来る。誤記の原因は鈴木栄誠の墓地が別の場所に在り、確認されな かったことにあると思う。 元倡寺本 孤松全稿目録 黙斎草一 姫島講義 壎箎録(けんちろく) 三郎稿 韞蔵(うんぞうろく)録序 内艱剳記(ないかんさつき) 黙斎草二 五巻 話録 三 六巻 外艱剳記 七巻 先君子迂斎先生行実 八巻 若松草、寒山詩選序及跋外十七項 四 九巻 越復伝、先生自叙伝 十巻 若松夜話 十一巻 牛島随筆(上)(中)(下) 十二巻 先達遺事(天明刊行本は欠本) 五 十三巻 墨水一滴八十五項目 十四巻 西遊轎(きょう)録 十五巻 新泉草十九項目 六 十六巻 排釈録 十七巻 寸虎録十二項目 七 十八巻 新屋筆記十三項目 十九巻 再遊瑣録十三項目(安永五年) 八 二十巻 丁酉雑記二百六十条 二十一巻 燕閑(えんかん)録三十六条 九 二十一巻 燕閑録 二十二巻 西南録 二十三巻 靉靆(あいたい)録 十 二十四巻 五旬引 康子 小学内外篇 鵜沢七蔵江 二十五巻 奇峯録 康子六月以下示二三子談 以上前篇 辛丑(しんちゅう)雑記 上 (天明元年 一七八一) 辛丑雑記 下 ( 〃 ) 壬寅(じんいん)雑記 上 (天明二年 一七八二) 壬寅雑記 下 ( 〃 ) 癸卯(きぼう)一ノ九雑記 (天明三年 一七八三) 癸卯十之十四雑記 ( 〃 ) 甲辰雑記 (天明四年 一七八四) 乙巳(いつみ)雑記 (天明五年 一七八五) (丙午雑記) (天明六年 一七八六) 丁未上下雑記 (天明七年 一七八七) 戊申雑記 (天命八年 一七八八) 己酉(きゆう)雑記 (寛政元年 一七八九) 庚戌(こうじゅつ)雑記 (寛政二年 一七九〇) 辛亥雑記 上 (寛政三年 一七九一) 辛亥雑記 下 ( 〃 ) 壬子(じんし)上雑記 (寛政四年 一七九二) 癸丑(きちゅう)雑記 (寛政五年 一七九三) 甲寅(こういん)雑記 (寛政六年 一七九四) 見花稿 (寛政七年 一七九五) 雪梅草 (寛政八年 一七九六) 重雪草 (寛政九年 一七九七) お茶の水女子大学の高島元洋教授は、稲葉黙斎の「孤松全稿」の翻刻に従事され、研究室員と共にしばし ば元倡寺を訪れています。やがてその研究成果が、公表されるものと思います。 (本稿は平成十五年度黙斎忌法要時の講演用に作成したものである) 参考資料 孤松全稿 道学協会 蕪木文庫 冬至文 〃 〃 孤松全稿 写本 元倡寺蔵 黙斎草全書拾遺 写本 蕪木文庫 稲葉黙斎論語講義 写本 熱田家蔵 五旬引 写本 蕪木文庫 白鹿洞学規集註 〃 道学読書要覧 〃 小学 内篇 外篇 〃 農家今川状写本 田原家蔵 埋葬筆記 写本 〃 葬の心得 写本 〃 上総に於ける稲葉黙斎の遺蹟 田中兼蔵 稲葉黙斎先生と南総の道学 梅沢芳男 伝記文学 初雁 森 銑三 稲葉黙斎先生伝 林 潜斎 稲葉黙斎先生 池上幸二郎 日本朱子学と朝鮮 阿部吉雄 李 退渓 〃 東洋文化 五十九号 無窮会 山崎闇斎と其門流 蕪木文庫 崎門学脈系譜 〃 山崎闇斎学派 日本思想大系 明徳出版 経史論考 諸橋轍次 日本史年表 岩波書店 東金市史 東金市役所 東洋思想辞典 春秋社 稲葉黙斎先生と清名幸谷 鵜沢照夫 稲葉黙斎の「家礼」による啓蒙の試み 大久保紀子 崎門学脈系譜(明治三十六年刊) 蕪木文庫 本資 料 は 、 山口先 生 の了 解 を 得 て 、 ワ ー プ ロ 原 稿に 直 し 掲 載 し た も の で あ る 。縦 書 き と 横 書 き 、 ワ ー プ ロ 漢字 の 制 限 、 一 部 オ ブ ジ ェ ク トの 割 愛 な ど が あ り 、 必 ず し も原 本 と は 一 致 し な い が 、 記 述自 体 に 変更を加えたところはない。 快 く 掲 載 を 承 知 し て く だ さ っ た 山 口 先 生 に 対 し 、感 謝 の 意を表する次第である。 (文責 今関弘道)
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