フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』

フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』
におけるイタリック体の使用について
前 田 洋 文*
1.はじめに
この作品の題名、Absalom, Absalom ! はフォークナー(William Faulkner(1897-1962)
)自身も言っ
ているように(1)、旧約聖書、サムエル記下からとったものである。すなわち、ダビデの息子アブサロ
ムが兄のアムノンを、異母妹タマルに対して近親相関の関係を無理やり結んだことから殺害してしま
い(この辺はフォークナーのこの作品の中で、サトペンの息子ヘンリーが、自分の異母兄ボンを自分
の妹ジューディスに結婚しようとしていることで殺してしまうということに似ている)、さらに父の
ダビデに反逆し、ダビデの家を破壊に導くのであるが、アブサロムは父ダビデとの戦闘の中で死んで
しまう。ダビデは自分が過去に犯した罪悪の報いとして自分の家の崩壊を迎えるわけであるが、自分
の息子アブサロムがこのような結果に陥ったこと嘆き悲しみ、「アブサロムよ、アブサロムよ!」と
絶望の叫びを発する。その叫び声をフォークナーは作品の題名に選んだということである。しかし、
この作品の主人公サトペンは、殺人の罪を犯したわが子ヘンリーを嘆き悲しむことはしない。したが
ってその意味では、フォークナーは作品の中の主人公サトペンのたどる運命そのものをダビデのそれ
になぞらえて単純に題名をつけたのではないことが言える。筆者の考えでは、「アブサロムよ、アブ
サロムよ!」と言って嘆き悲しむのは、ヘンリーの父親であるトーマス・サトペンではなく、この作
品の生みの親である作者自身であるという気がするのである。というのは、読者の問いに対してフォ
ークナーは、
Well, my attitude is that he was a pretty poor man. I don’t know what the reader’s attitude might be,
but I still felt compassion and pity for him, but he was a poor man in my opinion.
(Faulkner in the University (1955), p.71)
と答えている。つまり作者フォークナーにとってサトペンは、ダビデに対する息子のアブサロムのよ
うなもので、悲劇的な人生を過ごす宿命にあったサトペンや彼を取り巻く人々に対する、つまりこれ
らの人々によって代表させている南部に対する嘆き悲しみの気持ちでこの題名をつけたものと考えた
*
Hirofumi MAEDA 英語・英米文化学科(Department of English Language and English and American Culture)
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
い。それは、この作品を締めくくる最後の個所で、クエンティンがハーバード大学の寒い学寮の一室
で友人シュリーブと、サトペン一家の悲劇を語り終えた後、シュリーブの「なぜ君は南部を憎むの
だ?」という問いに対して
“I dont hate it,”Quentin said, quickly, at once, immediately;“I dont hate it,”he said. I dont hate it
he thought, panting in the cold air, the iron New England dark; I dont. I dont ! I dont hate it ! I dont hate
it ! (William Faulkner; Abslom, Absalom ! Random House New York p.378)
のように急いで答えている。この言葉はクエンティンの言葉であると同時に、作者の言葉でもあるこ
とは容易に察しがつくことからも言えることである。
フォークナーはこの作品を1936年に出版している。そしてこの作品の中で重要な役割を果たす、ま
た、見方によっては主人公のようにも見えるクエンティン・コンプソンは、作者自身も認めるよう
(The Sound and the Fury)に登場するクエンティンと同じ人
に(2)、1929年に出版した「響きと怒り」
物である。作者自身は何故ここにクエンティンが登場するかについて何も説明をしておらず、この作
品が世に問われて以来様々に論議されてきたところである。大橋健三郎は、「フォークナーのクエン
ティンは、その「深淵」に巻く歴史の渦巻きと、その意味を見極めようとする「語り」の渦巻きに乗
って次第に浮上し、俯瞰しながら、しかもその渦巻きの縁に立って、深く激しい両面感情というまこ
とに微妙な一点でこの作品の世界を成立させているということができるであろう。ミス・ローザは、
クエンティンは作家になるだろうと語ったが、確かにこの場合の彼は、フォークナー自身の想像力の
働き方の秘密そのものを象っていると言っていい。彼は、コンプソン氏が推量しているミス・ローザ
の思わく通りに「遺伝」を通じてサトペン物語に「責任」を持っていると同時に、アクチュアルにミ
ス・ローザの伴をしてヘンリー・サトペンに会うのであり、かくして彼は主題による作品構築上のか
けがえのない役割を果たしている上に、シュリーブとの「語り」と「傾聴」を通じてあの「語り」の
渦巻きあるいはポリフォニーの集約点に立ち、たとえ両面感情的であれこの多元的、多層的な物語の
(3)
と言って、むしろ必然的にフォークナーはクエンティンを登場さ
結節点となっているのである。」
せたとしている。筆者もこの観点に立ちたいと思うと同時に、作者フォークナーが、読者への挑戦と
も取れるような難解な技法を駆使するため、あえてクエンティンを選んだと考えたい。というのは、
この作品の中でも触れている(4)ギリシャ悲劇にも似たサトペンの物語を完成させるためには、通り一
遍の筋立て、すなわち過去にサトペンという貧乏白人の子がいて、山中から都会文化の中に出てきて、
金持ちの白人の家の黒人の召使から、用があるのなら裏に回れといわれ、心に傷を受け、自分もあの
ような金持ちになり、黒人の召使を抱えた家を設けたいと言う計画を着々と実行する中で、黒人の血
の混じった女とそれと知らずに結婚し男子を設け、そのことを知って、mistake であるとし、離婚し
再婚して、一男一女を設けたが、その娘が、自分の最初の女の息子(ボン)と結婚しそうになる。そ
の息子の大学の友人である、二番目の女から生まれた息子(ヘンリー)が、近親相関(あるいは黒白
雑婚)を避けるためボンを殺す。それに南北戦争が絡み、サトペン家が滅亡するというただ筋立てだ
けを物語として展開するだけでは飽き足らなかったということであろう。原罪とも言うべきアメリカ
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フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』におけるイタリック体の使用について
深南部の悲劇をサトペン一家で代表させて(5)物語るためには、作家としての全精力を傾けての取り組
みが必要であったであろうし、南部人自身にいろいろな切り口から語らせなければならない。そのよ
うに考えれば、小説の技法上での問題として、「現在」と「過去」との行き来が何回もなければなら
ない。またそれだけではなく、場面を彷彿させるには、擬音効果としての人声、場面そのものという
ようなものも盛り込まなければならない。そのようなことをフォークナー一流の語りの手口を使うと
なれば、その「語り」を行う人物に何通りもの役割を果たさせなければならない。そう考えると、
「響きと怒り」の中で、妹のキャディの処女喪失に悩みと、そのことがなかったならばという「時」
に対するオブセッションから、次第に意識が錯乱してきて(精神分裂状態になる)、終には自殺して
しまうというクエンティンを登場させることが、まさに当を得たことであったと思われる。
この「アブサロム、アブサロム!」の中で、クエンティンはまさにその役割を果たしているのであ
る。すなわち、クエンティンは「語り」を行う中で、しばしばその場面から自分を消し去り、その場
面とは必ずしも共通しないことを「語る」
、
(あるいは意識の流れとして、時には意識とも言えないよ
うな状態で、
「語る」
)のである。フォークナーはそれをイタリック体を用いて表している。そしてそ
の技法は、クエンティンばかりではなく、他の登場人物が「語る」際にも用いている。そこで筆者は、
すでに「響きと怒り」の中のクエンティンの部のイタリック体について分析を行ったようにこの「ア
ブサロム、アブサロム!」という作品全体についてのイタリック体の分析を行ってみたいと思う。
2.イタリック体の使用とその分析(主としてクエンティンに関連して)
この作品の中でイタリック体の使用されている部分は、間違いがなければ、筆者の数えたところに
よると138個所である。これらの中には、何ページにも渡る部分がイタリック体になっているところ
がある。これらのところは、同じ趣旨で使用されていると見られるものについてはどんなに長くても
1に数えた。
2.1 二つの亡霊としてのクエンティン(意識と意識下の意識)
ミシシッピー州のヨクナパトーファというフォークナーが作り出した架空の郡のジェファーソンの
町にあるミス・ローザの家でクエンティンがローザの話しを聞いているというところから始まる第1
章は、この小説の中であまり顔を出すことのない作者の語りで行われる。
From a little after two oclock until almost sundown of the long still hot weary dead September
afternoon they sat in what Miss Coldfield still called the office because her father had called it that−a dim
hot airless room with the blinds all closed and fastened for forty-three summers because when she was a
girl someone had believed that light and which (as the sun shone fuller and fuller on that side of the house)
became latticed with yellow slashes full of dust motes which Quentin thought of as being flecks of the
dead old dried paint itself blown inward from the scaling blends as wind might have blown them. (p.7)
と始まる晦渋な文章は、まるで亡霊でも出てくるような陰鬱な部屋の空気が漂ってくるような感じが
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するが、果たして、ローザの声を聞くクエンティンの意識は現実を離れ、まるで映画のシーンである
かのように、稲妻が光る中に、これから話しの始まる、亡霊であるべきサトペンが馬にまたがり、厳
然とした様子で現れ、黒人たちと建築家を使って、トランプをテーブルの上にたたきつけるように家
屋とサトペンズ・ハンドレッドと呼ばれる広大な荘園を作り出していくさま(p.8)をクエンティンは
夢見るように見るのである。そして作者は、この場面で二つの亡霊としてのクエンティンを読者に紹
介する。
Then hearing would reconcile and he would seem to listen to two separate Quentins now−the
Quentin Compson preparing for Harvard in the South, the deep South dead since 1865 and peopled with
garrulous outraged baffled ghosts, listening, having to listen, to one of the ghosts which had refuse to lie
still even longer than most had, telling him about old ghost-times; and the Quentin Compson who was still
too young to deserve yet to be a ghost, but nevertheless having to be one for all that, since he was born
and bred in the deep South the same as she was−the two separate Quentins now talking to one another in
the long silence of notpeople, in notlanguage, like this: It seems that this demon−his name was Sutpen−
(Colonel Sutpen)−Colonel Sutpen. Who came out of nowhere and without warning upon the land with a
band of strange niggers and built a plantation−(Tore violently a plantation, Miss Rosa Coldfield says)−
tore violently. And married her sister Ellen and begot a son and a daughter which−(Without gentleness
begot, Miss Rosa Coldfield says)−without gentleness. Which should have been the jewels of his pride
and the shield and comfort of his old age, destroyed him or something or he destroyed them or something.
And died)−and died. Without regret, Miss Rosa Coldfield says−(Save by her) Yes, save by her. (And by
Quentin Compson) Yes. And By Quentin compson. (p.9)
この引用部分の最初のところで、前出の部分で夢うつつであったクエンティンが現実に戻ってまたロ
ーザの声に耳を傾けるという設定が行われるが、そこで、「クエンティンには、自分がいまや二人の
クエンティンに耳を傾けているように思われた」と二人のクエンティンの説明に入り、すぐに問題の
イタリック体の部分が始まる。このように考えると、この最初の章が作者の語りで始まった意味も了
解できる。そしてイタリック体の部分の導入は、「二人のクエンティンは現実にはもう存在していな
い人々の長い沈黙の中にあって、言葉でない言葉を使いながら、次のように、おたがいに語り合って
いるのであった」というように後のイタリック体の使用に比べて読者に親切な形で行わている。そし
てこの二人のクエンティンということが、最後の第9章のシュリーブと語る場面になって、どちらが
語っているのかクエンティンには意識できなくなり、さらにヘンリーとボンがそれに重なり、二人が
同時に四人になるという部分の伏線にもなっていると思われる。つまりは、クエンティンはフォーク
ナーの前作「怒りと響き」の中で、前述したとおり分裂症状を起こしているのであるが、そういう状
態のクエンティンだからこそこの小説の中にあって、南部の異常さを描き出すための絶好の人物であ
ったといえるのではないだろうか。
したがって、この最初の部分のイタリックは、まずクエンティンの意識の流れ(一人のクエンティ
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フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』におけるイタリック体の使用について
ン)から始まり、括弧内の部分はもう一人のクエンティン、(つまりは筆者が「響きと怒り」のクエ
ンティンの部でのイタリック体の分析を行った中の「意識下の意識」とも言えるものであると考え
る(6))と語るという形式である。
この形式を行っているということが、作者自身の手によって,イタリック体ではないところで示され
るところを見る:
Shreve ceased. That is, for all the two of them, Schreve and Quentin, knew he had stopped, since for all
the two of them knew he had never begun, since it did not matter (and possibly neither of them conscious
of the distinction) which one had been doing the talking. So that now it was not two but four of them
riding the two horses through the dark over the frozen December ruts of that Christmas Eve: four of them
and then just two−Charles-Shreve and Quentin-Henry, the two of them both believing that Henry was
thinking He (meaning his father) has destroyed us all, not for one moment thinking He (meaning Bon)
must have known or at least suspected this all the time; that’s why he has acted as he has, why he did not
answer my letters last summer nor write to Judith, why he has never asked her to marry him; believing
that that must have occurred to Henry, certainly during that moment after Henry emerged from the house
and he and Bon looked at one another... (pp. 333-334)(下線筆者)
この場面は、ボンが二度目のクリスマスのときにサトペン家に遊びに来て、サトペンは自分のこと
をサトペン自身の息子であると思っているかどうかと、疑心暗鬼のままヘンリーと大学の寮に帰って
いく状況であるが、始めの部分の Sreve ceased. というところは、それまでシュリーブがボンのこと
について話しをしていたのを、ヘンリーが夢うつつの状態に陥ってしまい自分の話しを聞いていない
様子なので、止めたということである。そしてそのあと、どちらが話していてもいいというようなこ
と、クエンティンとシュリーブが、ヘンリーとボンになり、(下線部参照)四人が二人に重なり、ヘ
ンリーとボンは12月の凍てついた大地を馬に乗ってサトペン家を去ることになるが、その馬上でヘン
リーは、父サトペンのこと、ボンのことを考えるという具合である。したがってここのイタリック体
はもう一人のクエンティンの意識つまり意識下の意識ということになる。しかもそのすぐ前の個所で、
作者は少し手の込んだやり方をしてこの段落にいたるまでの導入にしている:
Sutpen not there when they rode up and Bon knew he had not expected him to be there, saying Now.
Now. Now. It will come this time, and I am young, young, because I still dont know what I am going to
do. So maybe what he was doing that twilight (because he knew that Sutpen had returned, was now in the
house; it would be like a wind, something, dark and chill, breathing upon him and he stopping, grave,
alert, thinking What? What is it? Then he would know; he could feel the other entering the house, and he
would let is held breath go quiet and easy, a profound exhalation, his heart quiet too) in the garden while
he walked with Judith and talked to her, gallant and elegant and automatic (and Judith thinking about that
like she thought about that first kiss back in the summer: So that’s it. That’s what I love is, bludgeoned
once more by disappointment but still unbowed)−maybe what he was doing there now was waiting,
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telling himself Maybe even yet he will send for me. At least say it to me even though he knew better: He is
in the library now, he has sent the nigger for Henry, now Henry is entering the room: so that maybe he
stopped and faced her, with something in his face that was smiling now, ... (pp. 332-333)
ここはシュリーブが語っているところである。この引用したところの3行目の what he was doing that
twilight はその次の括弧内の部分を飛ばして in the garden... に続き、その次の括弧内の部分を飛ばし
てさらに4行下の maybe what he was doing there now was waiting,... と続くのは明瞭なことであるが、
二つの括弧内の部分は、このように続く文に明らかに割り込んだ形になり、しかも、二番目の括弧内
の部分にはさらにイタリック体の文が入っている。これをどのように解釈したらよいのかということ
であるが、筆者の考えでは、シュリーブが語っているところへクエンティンが割り込むように口を出
し、しかもシュリーブが喋っていることを聞くでもなく聞かないでもない様子でシュリーブの言うこ
とを補っているのではないかということである。このやり取りめいた形はこの部分の少し前から始ま
っていて、ここで最も大きな形となり、直前に引用した部分 Shreve ceased.... と段落が改まるのであ
る。
ところで、この部分の最初のイタリック体は、...saying の後に続いてはいるものの、明らかにボン
が口に出して(発声して)言っているのではなく、いわば意識の流れであるといいたいところである
が、ボン自身が語っているところでもないので、ボンの意識の流れを描写した文体であるとは言えな
い。さりとてシュリーブの意識の流れとするのはあまりにもおかしい。また先述したように括弧内の
部分はクエンティンの語りであるとすれば、少々無理な設定ではあるが、もう一人のクエンティンを
登場させないわけには行かない。つまりもう一人のクエンティンがボンの気持ちを語っていると解釈
せざるを得ない。同様に、括弧内のクエンティンの語りの中にあるイタリックももう一人のクエンテ
ィンであるとすれば、話しの辻褄があってくるのである。同様に、括弧内のクエンティンの語りと思
われる部分のイタリック体も、あとのシュリーブの語りのところのイタリック体も、もう一人のクエ
ンティンと解釈すべきであろうか。
実はこのように考えないと良く分からないところが、この更に少し前のところにある:
“All right,”Shreve said.“Just listen.−They rode the forty miles and into the gates and up to the
house. And this time Sutpen wasn’t even there. And Ellen didn’t even know where he had gone, to
Memphis or maybe even to Saint Louis on business, and Henry and Judith not even caring that much, and
only he, Bon, to know where Sutpen had gone, saying to himself Of course; he wasn’t sure; he had to go
there to make sure, telling himself that loud now, loud and fast too so he would not, could not, hear the
thinking, the But if he suspected, why not have told me? I would have done that, gone to him first, who
have the blood after it was tainted and corrupt by whatever it was in mother; loud and fast now, telling
himself That’s what it is; maybe he has gone on ahead to wait for me; he left no message for me here
because the others are not to suspect yet and he knows that I will now at once where he is when I find him
gone, thinking of the two of them, the somber vengeful woman who was his mother and grim rocklike
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フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』におけるイタリック体の使用について
man who had looked at him every day for ten days with absolutely no alteration of expression at all,...
(p. 329)
(下線筆者)
この部分は、ボンが最初のクリスマスのときから二度目にサトペン家を馬に乗ってヘンリーと一緒に
訪れたときであり、季節は6月である。見たとおりシュリーブが語っている。サトペンは家にいなか
ったが、誰もそのことを気にしていない。だがサトペンは、ボンが自分の息子ではないかと確かめに
行ったのではないかと、ボンが疑いを持っているという場面である。Of course;... と始まる最初の部
分のイタリック体は、一見、ボンの意識の流かのように見えるが、シュリーブが語っている部分でボ
ンの意識の流れがあるはずはない。一つの考えとしては、シュリーブがボンの口調を真似して直接話
法の形をとるということであるが、
(...saying to himself に続いていることを考えれば、実際にその場
面でボンは独り言を言ったかもしれないが)その場合は、引用符がついて普通の活字体になるはずで
ある。とすればここはクエンティンが朦朧としかけている意識の中でボンの言葉を発していると考え
なければならない。そして下線部の文章が続く。その中で声が大きく、速すぎて、聞きとろうともし
ないし、聞くことができないというところである。...thinking, the まで普通の活字体であるが、その
あと突然のように、
(もちろんこのtheはイタリック体のあとの thinking に続くのであろうが、その間
に割り込むように)イタリック体の文が入ってボンの心のうちを語る。つまり ...the thinking... という
言葉を発するごく短い時間に、the と thinking の間に割り込む形で、しかもボンが自分の母親とサト
ペンのことを考えることもできないくらい、速く、大きな声で聞こえたということになる。そうなる
とこのイタリック体の文章を語る、というよりは、瞬間的に感じる(つまり情緒のようなもの)、と
言ったほうが適切かもしれないが、その役割を果たすのはもう一人のクエンティン(意識下の意識)
しかいないということになる。このように考えてはじめて、何故作者が、「響きと怒り」の中のクエ
ンティンを登場させたかが理解できるのかもしれない。またこのように考えないとなぜイタリック体
にしてあるのか分からないところがほかにたくさんある。
2.2 正常なときのクエンティンの意識の流れ
作者がクエンティンを登場させるのは、始めから分裂症状を起こしている状態だけとは限らない。
次の場面では正常なクエンティンの意識の流れと考えられる:
“Yessum,”Quentin said. Only she dont mean that, he thought. It’s because she wants it told. It was
still early then.... (p.10)
このようなところが最初の部分でほかに2ヶ所ほどあるが、第3章までは、イタリック体の他の使用法
によるものと見られるものがあるが、このようにクエンティンの意識の流れと見られるイタリック体
は出てこない。これを見てもクエンティンの意識は、この小説の中で語り始めたところでは正常なも
のと見る見方がなされるかもしれない。
2.3 クエンティンに千里眼を持たせるための工夫としてのイタリック体
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
まず筆者は、この節のタイトルになっている「千里眼」ということを説明しなければならない。フ
ォークナーはこの「アブサロム、アブサロム!」(1936)を書く前の1935年に「われ死の床に横たわ
りて」という作品を出しているが、その中で彼は、ダールという狂人を登場させ、ダール自身が見て
いないことについて、見たように語らせている場面がある。そのことを質問した読者に対して、フォ
ークナーは:
Who can say how much of the good poetry in the world has come out of madness, and who can say just
how much of super-perceptivity a mad person might not have? It may not be so, but it’s nice to think that
there is some compensation for madness. That maybe the madman does see more than the sane man.
That the world is more moving to him. That he is more perceptive. He has something of clairvoyance,
maybe, a capacity for telepathy. Anyway, nobody can dispute it and that was a very good way, I thought,
a very effective way to tell what was happening back there at home−well, call it a change of pace. A
trick, but since the whole book was a tour de force, I think that is a permissible trick.
(Faulkner in the University, p.113)
(下線筆者)
と答えている。すなわち、気が狂っていることの代償に「千里眼」があってもいいじゃないかと言っ
ているのである。筆者がここで言いたいことは、クエンティンにも「千里眼」があってもいいじゃな
いかということである。ただ「われ死の床に横たわりて」のダールのように始めから狂人であれば別
であるが、少なくともクエンティンは、この小説の始めは正常者として登場している。そこで作者は、
「ローザの語り」という、「冷厳なやつれ果てた驚きの声で語りつづけていくのだったが、ついには、
聞いていることが次第に聞いていることでなくなり、聴覚がなくなっていき、混乱した状態になる」
......
ような声で、クエンティンの意識の状態を夢遊状態、分裂状態にし、「千里眼」という力を与えるの
.
だと考えたいのである。
作者がどのように考えたかは別にして、第5章は、p.134からp.172にわたるかなり長い章であるが、
ローザの語りからなり、最後の一ページを除いて全部イタリック体である。ヘンリーがボンを殺した
というウォッシュの知らせでローザがサトペン家へ行くということからローザの語りは始まり、ジュ
ーディス,クライティとのやり取り、ボンの埋葬、サトペンとの間の思い出したくもない回想、サト
ペンの死を語るわけである。この章の最後の部分でイタリック体から普通の活字体に変わり、さらに
イタリックとなった後、普通の活字となる個所を引用してみる:
I was told, informed of that too, though not by Jones this time but by someone else kind enough to turn
aside and tell me he was dead.‘Dead?’I cried.‘Dead? You? You lie; you’ll not dead; heaven cannot,
and hell dare not, have you!’But Quentin was not listening, because there was also something which he
couldn’t pass−that door, the running feet on the stairs beyond it almost a continuation of the faint shot,
the two women, the negress and the white girl in her underthings (made of flour sacking when there had
been flour, of window curtains when not) pausing, looking at the door, the yellowed creamy mass of old
intricate satin and lace spread carefully on the bed and then caught swiftly up by the white girl and held
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フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』におけるイタリック体の使用について
before her as the door crashed in and the brother stood there, hatless, with his shaggy bayonet-trimmed
hair,...
...speaking to one another in short brief staccaato sentences like slaps, as if they stood breast to breast
striking one another in turn neither making any attempt to guard against the blow.
Now you cant marry him.
Why cant I marry him?
Because he’s dead.
Dead?
Yes. I killed him.
He (Quentin) couldn’t pass that. He was not even listening to her; he said,“Ma’am? What’s that? What
did you say?”
“There’s something in that house.”
“No. Something living in it. Hidden in it. It has been out there for four years, living hidden in that
house.”(p. 172)
引用した始めの部分の普通の活字体になった But Quentin was not listening, というところを見ると、
この部分の語りはローザでもなく、クエンティンでもない。つまりは作者が語っていることになる。
クエンティンはローザの話しを聞いていない。そしてヘンリーがボンを殺し、家の中に駆け込んで、
ジュディースと会い、兄妹の間で短い会話を交わす様子を見るという場面である。ヘンリーがボンを
殺したのは、この現在(1909年)からはるか昔の1865年のことである。したがって普通の意味での千
里眼ということではなく、時を隔てた昔の状景を見ているということになる。ただ、この場面から離
れるが、「響きと怒り」の中で、妹キャディの処女喪失ということを認めたくないクエンティンは、
時に対してオブセッションを持っているわけで、時間的空間などは無に等しいということを考えれば、
作者がここで千里眼的にクエンティンがこの場面を見るという資格を与えているとすることができる
であろう。したがってこの部分の終わりにあるイタリック体はクエンティンの意識下の意識と見るこ
とができる。
このあと第6章に入り、クエンティンはシュリーブに語る場面となり、ローザに頼まれ、サトペン
屋敷に彼女と一緒に馬車に乗って出かけていく。その馬車が進行する場面で、このクエンティンの千
里眼が、早速その力を発揮することになる:
...instantaneous and eternal, cubic foot for cubic foot of dust to cubic foot for cubic foot of horse and
buggy, peripatetic beneath the branch-shredded vistas of flat black fiercely and heavily starred sky, the
dust cloud moving on, enclosing them with not threat exactly but maybe warning, bland, almost friendly,
warning, as if to say, Come on if you like. But I will get there first; accumulating ahead of you I will
arrive first, lifting, sloping gently upward under hooves and wheels so that you will find no destination but
will merely abrupt onto a plateau and a panorama of harmless and inscrutable night and there will be
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nothing for you to do but return and so I would advise you not to go, to turn back now and let what is be;
he (Quentin) agreeing to this, sitting in the buggy beside the implacable doll-sized old woman clutching
her cotton umbrella, ...since the buggy disturbed not enough air to cool him with motion, created not
enough motion within him to make his skin sweat, thinking Good Lord yes, let’s dont find him or it, try to
find him or it, risk disturbing him or it: (pp. 175-176)(下線筆者)
この部分はまた作者が語るところである。下線を施したところは馬車の車輪がきしむ音を表現するも
のとして、実に見事な工夫であり、さすがにフォークナーは言葉を大事にする作家であることをあら
ためて感じさせるが、その聴覚的な状景の描き方に、視覚的なもの、すなわちクエンティンの千里眼
をもって、馬車から土煙の立ちあがるさまを、イタリック体で語らせている。この部分の状景描写を
美術的に行おうとして、クエンティンに「千里眼」を与えるために、第5章の大部分をイタリック体
にし、ローザに言葉とはいえないような、つぶやくような声を発声させたと考えることもできよう。
ついでながら、この引用した部分の最後のイタリック体はクエンティンの意識下の意識であると考え
られる。
「千里眼」といえば、そうとでも考えなければ理解できない場所がある:
...and your grandfather trying to reach him, stop him, trying to push through the crowd, saying‘Jim. Jim.
Jim!’and it already too late, as if Hamblett’s own voice had waked him at last or as if someone had
snapped his fingers under his nose and waked him, he looking at the prisoner now but saying ‘white’
again even while his voice died away as if the order to stop the voice had been shocked into short circuit,
and every face in the room turned toward the prisoner as Hamblett cried,‘What are you? Who and
where did you come from?’(p. 203)
この部分はクエンティンの父がクエンティンに語るという形式になっているが、、ボンの息子のチャ
ールズが酒場かばくち場かなにかで黒人たちと喧嘩をし、裁判にかけられる場面で、Hamblett という
のは判事の名前である。your grandfather はクエンティンの祖父であり、この判事の友人ということ
になっている。ここに2ヶ所にイタリック体が用いられているが、そのうち特に理解の困難なものと
して、クエンティンのお祖父さんが判事に呼びかける Jim という声の三番目がイタリック体になって
いることである。ここで考えられることの一つに、演説に夢中になっている判事の話しを止めさせよ
うとして、声をかけたが、なかなか止めないので三度目にそれより大きな声を出したということを表
現する手段として、イタリック体を選んだのではないかと考えるということがあるが、そうであると
すると、この部分の最後で判事の言葉が、イタリック体になっているところが分からなくなる。もっ
とも、cried という語が使われているから、大声であることを示すためという考え方もないことはな
いが、どうもそれではこの作品の中に使われている他のイタリック体の部分と比べて、いわゆる、曲
がない。フォークナー自身はこのことについて特に何も言っていないので、勝手に判断するというこ
とになるのだが、筆者の考えでは、クエンティンの「千里眼」をここに入り込ませ、同時にクエンテ
ィンの意識下の意識に言葉を語らせているとしたいのである。
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フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』におけるイタリック体の使用について
2.4 二人のサトぺン
第7章ではクエンティンがサトペンのことについて語るところがあるが、その中でサトペン自身の心
のうちを語るところが出てくる。一般に人間は、ある重要なことに対決しなければならなくなったと
き、心の中に進んでやろうとしている自分と躊躇する自分、あるいは、何か悪いことをやろうとする
自分とやらせまいとする自分とが向き合うというようなことがあるものであるが、クエンティンがサ
トペンのことを語っていくうちにどうしてもサトペンの心の中まで描写しなければならないようにな
るのは、ある意味では当然である。そうした中で心の中で起こった葛藤を描写するとなると「語りの
中」であるだけに、容易ではない。次に引用する部分はまさにそれである:
He had nothing to compare and gauge it by but the rifle analogy, and it would not make sense by that.
He was quite calm about it, he said, sitting there with his arms around his knees in his little den beside the
game trail where more than once when the wind was right he had seen deer pass..., arguing with himself
quietly and calmly while both debaters agreed that if there were only someone else, some older and
smarter person to ask. But there was not, there was only himself, the two of them inside that one body,
arguing quiet and calm: But I can shoot him. (Not the monkey nigger. It was not the nigger anymore than
it had been the nigger that his father had helped to whip that night. ...some unremembered and nameless
progenitor who had knocked at a door when he was a little boy and had been told by a nigger to go around
to the back): But I can shoot him: he argued with himself and the other: No. That wouldn’t do no good:
and the first: But I can shoot him. I could slip right up there through them bushes and lay there until he
come out to lay in the hammock and shoot him: and the other: No. That wouldn’t do no good: and the first:
Then what shall we do? and the other: I dont know. (pp. 234-235)(下線筆者)
ここは、クエンティンがシュリーブにサトペンの少年時代のことについて語る部分である。少年のこ
ろサトペンはプアホワイトであったためつぎはぎだらけの作業着を着て、父親の言いつけで近くの金
持ちの白人の家に使いに行き、出てきた黒人の召使に裏口に回れと言われ、そのまま逃げ出し、いつ
も隠れ遊ぶ洞穴の中で考えていると言う場面である。フォークナーはこの作品の中でイタリック体を
これまで見てきたように、場面によっていろいろな使い方をしている。言うまでもないが、イタリッ
ク体は文章の中の異質な部分を表現するための手段として普通は使用されるものである。しかしただ
異質であるからと言っても、その異質であることの内容が違う場合、それを表現する手段はイタリッ
ク体ただ一つであれば、内容がほかのイタリックの部分と違うことを表現し分けるということは難し
くなる(他の部分とは異質であることが明瞭である場合は、後述するようにフォークナーも普通のイ
タリックとしての使い方をしている)
。
ここで下線部のところに注目すると、作者は、サトペンには相談すべき相手がおらず自分自身しか
いないということを繰り返し述べて、読者にそのことを印象付けてから、the first, the other という導
入の語を用いながら、イタリック体を利用し、サトペンが心の中で自問自答しながら、まだ出口が見
出せない様子を描写するわけであるが、ここでも作者は簡単にそれを導入しているわけではない。下
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
線部の次のイタリック体 But I can shoot him. は、サトペンの意識の中の一人であることはすぐに見当
がつくが、それに続き次の But I can shoot him. ともう一度繰り返すまでの、約一ページにわたる括弧
内の(引用では途中を省略してある)普通の活字体の部分は、この小説を読み取る側としてどのよう
に考えるべきであろうか。筆者の考えでは、But I can shoot him. という表現そのものは、サトペンの
心の中の一人には違いないが、いかにせんまだ少年の言葉である。him と言っても誰であるかさえ分
からない。したがって、その説明が必要となってくる。そこで登場してくるのは語り役のクエンティ
ンである。しかしただクエンティンに him が誰で少年サトペンはどのように考えているかを語らせる
のでは、それまでの語りの調子が崩れてしまうし、But I can shoot him. という言葉でさえ誰が言った
のか分かりにくくなる。そこで作者は括弧を使い、その中でサトペン少年の心のうちを解説し、次に
もう一度 But I can shoot him. とサトペン少年に言わせたという工夫がなされたと見たいのである。こ
の部分のあと3ページにわたって4ヶ所ほど二人の少年サトペンが語り合う場面が出てくる。
3.その他のイタリック体の用法
イタリック体を使用するということは、先述したように文章の中で他の部分と異質の部分があるか
らこそであって、その文章を書く側のそこに示したい意思が伝わってくるものである。本論の2.の
なかで述べたことは、主としてクエンティンの意識状態に関連してイタリック体が用いられていると
いうことであった。そしてそのことが作者フォークナーのこの作品に用いている晦渋な文体とともに、
この作品自体をますます南部の原罪を抉り出すのにふさわしい陰鬱な感じが読む者にとって感じられ
る気がするわけであるが、作者はもちろんこのほかにイタリック体をいろいろな形で用いている。
3.1 ローザの心の中の特異な存在としてのサトペン
ローザの語りではじめられる第1章の最後に次のような個所がある:
the spectators falling back to permit her to see Henry plunge out from among the negroes who had been
holding him, screaming and vomiting−not pausing, not even looking at the faces which shrank back
away from her as she knelt in the stable filth to raise Henry and not looking at Henry either but up at him
as he stood there with even his teeth showing beneath his beard now and another negro wiping the blood
from his body with a towsack.‘I know you will excuse us, gentlemen,’Ellen said. But they were
already departing, nigger and white, slinking out again as they had slunk in, and Ellen not watching them
now either but kneeling in the dirt while Henry clung to her, crying, and he standing there yet while ...
(pp. 29-30)
(下線筆者)
下線を施した代名詞の部分であるが、2個所で作者はイタリック体を使用している。この2ヶ所と
も普通の活字体を使用すると、直前の Henry と紛らわしくなるということは事実であるが、作者はこ
の作品の他の部分で、代名詞を使用して紛らわしくなる場合は、次に挙げる例のように括弧で説明し
ている:
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フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』におけるイタリック体の使用について
Bon must have learned of Sutpen’s visit to New Orleans as soon as he (Bon) reached home that first
summer. (p. 92)(下線筆者)
しかし第1章のこの終わりの部分では、ことさらに括弧の使用を避け、イタリック体を用いている。
ということは明らかに、作者としてここを異質なものとして表したかったということが考えられる。
つまり、ローザ自身をも侮辱した、冷酷非情なサトペンのことを語るうちに、彼女の心の中にサトペ
ンに対する感情が高まる。そのことを象徴的にあらわす形がイタリック体という形を作者に採らせた
ものと考えられる。それはまた同時にその代名詞を特定する効果も得られるものでもある。この使用
方法はこの部分1箇所だけである。
3.2 語りにおける話者の同定
第3章はほかの章と異なり、作者は顔を出しておらず、いきなりクエンティンが父親に話しかけ、
父親がクエンティンにサトペン家について語るという形式をとっている。また語りであることを示す
引用符もない。ただこの章がクエンティンの父親が語っていると分かるのは、この章の始めに出てく
るイタリック体によるのみである:
If he threw Miss Rosa over, I wouldn’t think she would want to tell any body about it Quentin said.
Ah Mr Compson said again Rosa moved out to Sutpen’s Hundred to live with Judith. She was twenty
then, four years younger than her niece whom,... (p. 59)
この章の中に出てくるイタリック体は、この部分と、61ページの父親の問いかけに対するクエンテ
ィンの答え:
...Miss Rosa didn’t tell you that two of the niggers in the wagon that day were women? No, sir, Quentin
said.
というものと、別の用法による1箇所だけである(後述)。つまりイタリック体を使うことによって
語り手が誰であるかということの手がかりを読者に与えるという手法を試みていることになる。そう
考えるとこの章自体が異質であるということになるのであるが、内容そのものは、主としてローザに
関係することであり、彼女がどのように生を受け、サトペン家とどのように関わるかが語られるもの
で、前後の章とそれほど取り立てて異質であるわけではない。とすると、前述した第5章のローザの
語りがイタリック体になっていることと関係がありそうである。
ローザはこのサトペンの物語の中にあって常に影のような存在である。この小説全編から受ける印
象として、ひっそりとした、生きた人間としての暖か味のない、部屋の暗い隅に置けば闇の中に解け
て消えてしまいそうな感じを受ける。そのローザを中心にして語られるのがこの第3章なのである。
そのように考えると、この章全体を影のようなものにするのがふさわしいということになる。その作
者の気持ちがこの章の語りという形式を持っている部分を引用符ではじめることなく、ただ語り手を
同定したいためにイタリック体を用いたものと思われる。
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
3.3 効果音としてのイタリック体(映画的手法)
フォークナーが自分の作品に関して映画に関わったことがあるのは事実であるが(7)、そのことを考
えると、彼が自分の作品の中に映画的手法を取り入れるということが、凝り性のフォークナーとして
はむしろ当然なことではないかと推理されてくる。次の例の場合のようなものは、それ以外に説明が
できがたい:
...the stranger’s name went back and forth among the places of business and of idleness and among the
residences in steady strophe and antistrophe: Sutpen. Sutpen. Sutpen. Sutpen. (p. 32)
この部分は第2章において作者自身が、ミシシピー州のヨクナパトーファ郡ジェファーソンという
町(8)へのサトペンのはじめての登場を語る場面である。まるでどこかから湧いたように突然大きな疲
れきった馬にまたがった、それまで見たこともない男が日曜日の教会の鐘が鳴る中に現れた。それか
ら4週間ジェファーソン中にそのことが言いふらされたということである。これはまさに効果音とい
えるのではないか。この Sutpen が4回繰り返されているところもフォークナーらしいところである。
このようなところがほかに数カ所出てくるが、第8章のボンの声、ジューディスの声、サトペンの声、
ウォッシュの声、弁護士の声などもこの解釈での説明がなされ得るし、またその場合は直接話法の代
用とも取れることになる。
3.4 普通用法(強調、異質等)
繰り返し述べることになるが、イタリック体の用法はその部分が他の部分に比べて異質であること
を示す標識となる。フォークナー自身もこの作品においてそのような使い方をしているところが数カ
所において見られるが、次の例のようなものがその代表例であろう:
...though the lettering was quite legible: Ellen Cold field Sutpen. Born October 9, 1817. Died January, 23,
1863 and the other Thomas Sutpen, Colonel, 23rd Mississipi Infantry, C.S,A. Died August 12, 1869: this
last, the date, added later, crudely with a chisel,... (p. 188)
これはクエンティンが父親と崩れたサトペン屋敷に訪れ、墓石を見たということを回想する場面であ
り、普通用法に数えても差し支えのないところであろうと思われる。
4.おわりに
以上フォークナーの「アブサロム、アブサロム!」における様々なイタリック体の使用を見たわけ
であるが、これらに対する筆者の考え方が正しいと言える保証は、もちろんあるわけではないし、筆
者自身もこれが正しいという自信があるわけでもない。ただ作者フォークナーがこの作品の晦渋な文
体とともにそこに展開している手法があまりにも華麗であり、その華麗さに映し出された南部の悲劇
の対照的な暗さというところに惹かれ、作者が、この物語を語るのにはどのような文体を用いればそ
の効果が上がるかと、苦心したであろう跡をたどってみたかったのである。フォークナーはこの作品
以外にもいろいろな文体上の工夫を凝らしている。そうしたものについても以後研究を深めたいと思
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フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』におけるイタリック体の使用について
う。
〈注〉
盧
盪
Faulkner in the University, edited by F. L. Gwinn and J. L. Blotner, University Press of Virginia, 1995, p. 76
ibid. p. 274
蘯
大橋健三郎、「フォークナー研究2」
、南雲堂 1979
盻
William Faulkner: Absalom, Absalom !, The Modern Library,1936 pp. 13,61, 62, 177, 258,
眈
大橋健三郎、「フォークナー研究2」
、南雲堂 1979 pp. 157-176
眇
p.238
前田洋文、 W. Faulkner: The Sound and the Fury June Second, 1910( Qientin の章)の Italics と
Punctuation について「荒牧」第4号 1975
眄
西川正身編、「20世紀英米文学案内16
眩
Jefferson was a village then という説明がこの直前でなされている
フォークナー」研究社 1966
p.19
43