十字架につけよ(1988-2-28) 先週も申し上げましたが、使徒信条の中に

相馬牧師宣教集
ヨハネ 19:01-16a 十字架につけよ
十字架につけよ(1988-2-28)
そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。兵卒たちは、いばらで冠をあんで、
イエスの頭にかぶせ、紫の上着を着せ、それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、
ばんざい」と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。するとピラトは、また出て行
ってユダヤ人たちに言った、「見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、そ
れはこの人になんの罪をも見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうためである」
。
イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外に出られると、ピラトは彼らに言
った、
「見よ、この人だ」
。祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、叫んで「十字架につ
けよ、十字架につけよ」と言った。ピラトは彼らに言った、「あなたがたが、この人を引
き取って十字架につけるがよい。わたしは、彼にはなんの罪も見いだせない」。ユダヤ人
たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分を神
の子としたのだから、死罪に当たる者です」。ピラトがこの言葉を聞いたとき、ますます
おそれ、もう一度官邸にはいってイエスに言った、「あなたは、もともと、どこからきた
のか」
。しかし、イエスはなんの答えもなさらなかった。そこでピラトは言った、
「何も答
えないのか。わたしには、あなたを許す権利があり、また十字架につける権利があること
を、知らないのか」
。イエスは答えられた、
「あなたは、上から賜わるのでなければ、わた
しに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大
きい」。これを聞いて、ピラトはイエスを許そうと努めた。しかしユダヤ人たちが叫んで
言った、「もしこの人を許したのなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を
王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」。ピラトはこれらの言葉を聞いて、イ
エスを外へ引き出して行き、敷石(ヘブル語ではガバタ)という場所で裁判の席についた。
その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに
言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十
字架につけよ」
。ピラトは彼らに言った、
「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるの
か」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。そこで
ピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。
(ヨハネ福音書 19:1-16a)
先週も申し上げましたが、使徒信条の中に、
“主イエスはポンテオ・ピラトの
もとに苦しみを受け、十字架につけられ”と告白されています。今日お読みい
ただいたテキストは、まさにその箇所に触れているのであります。
このように、ポンテオ・ピラトという名前が弟子たちの名前に先んじて、し
かも一人だけこのように書かれているということは、いろんな意味があろうか
と思いますが、当時ユダヤは、ローマ皇帝直轄支配の土地でありました。ロー
マは色んな国を支配しておりましたが、なかなか一筋縄では行かないというの
で、皇帝直轄の総督による支配であったわけです。たまたま紀元 26 年から 36
年の 10 年間は、ポンテオ・ピラトという役人が総督の地位にあった時代であり、
紛れもなくこのピラトの時代にイエスは処刑されたという歴史的な証言の意味
もあって、
“ポンテオ・ピラトのもとに”ということが記されていると思います。
ちなみに十字架の刑はローマの処刑方法でありまして、ずいぶんこの刑が行
われていたわけです。当時、エルサレムの周囲に十字架が沢山あちこちに立て
られたという記録もあります。この刑が非常に残酷であるということで、廃止
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ヨハネ 19:01-16a 十字架につけよ
されるに至ったのはかなり後でありまして、紀元 4 世紀、有名なコンスタンチ
ヌス大帝の時代、つまり、キリスト教を許可したその大帝の現われる時を待た
ねばならないのであります。
どの福音書にも主イエスの十字架、つまり逮捕から判決、そして十字架への
経過は詳しく記されています。私どもがいま学んでおりますヨハネ福音書は、
他の三つの福音書では主イエスがユダヤ教の大祭司や 70 人近いサンヘドリン
での振る舞い、あるいは状況、つまりユダヤ教の指導者や群衆たちとの関わり
を多く描写しているのに比べますと、この総督ピラトとの関わりに詳しいので
す。これはご覧になるとすぐにお分かりの点であります。
この点は、イエスとピラト、キリスト教とローマ帝国、あるいは福音と国家
権力といったような意味を探ることが出来るということは、この前も尐し申し
上げたところでございます。
しかし、ヨハネ福音書で見る限り、判決を下すローマ総督ピラトと死刑の囚
人であるイエスとの対決といったような形では記されていないのであります。
徹底抗戦、イエスは自分の無罪をとことんまで主張するというようなことに
対して、ピラトは毅然として死刑の判決を下すという形ではないわけです。
実はピラトは、このイエスの言動をつぶさに見たり聞いたりしているところ
によると、彼は日頃、カイザリアにおりますので、直接イエスに会うというこ
とは無かったと思いますが、こういう過越の祭りにはエルサレムにやってくる
わけです。その家臣たちから色々聞きますと、彼は決して反ローマ的な政治運
動家ではない、そのように報告を受け、実際会って信じ、見ているわけです。
むしろ、彼が警戒したのは、こういう問題に関わることによって、ユダヤ人
の宗教問題に巻き込まれて、そして、自分が利用されはしまいか…。事柄が起
こって、それが何かの形で公になって行くことは、それは、ピラトの政治が悪
い…。こういうことになるわけですから、そのように言われることを彼は好ま
なかったのです。むしろ、彼はそれを恐れていたと思われるのであります。
このヨハネ福音書の 18 章の 38 節に、
「わたしには、この人に何の罪も見いだ
せない」、こう言っているわけです。このことが 19 章に入りましても度々繰り
返されるのです。
先ず 4 節を見ますと、
「見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、
それはこの人に何の罪も見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうため
である」…。もの凄い、好意的な弁明ですね。
さらに 6 節に参りますと、
「祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、叫んで
「十字架につけよ、十字架につけよ」と言った。ピラトは彼らに言った、
「あな
たがたが、この人を引き取って十字架につけるがよい」」。その後ですね、
「わた
しは、彼には何の罪も見いだせない」…。“あなた方がいろいろ言うけれども、
わたしは彼が政治犯であることは、ぜんぜん納得が行かない”。
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そして更に、その後の 12 節を見ましても、「これを聞いて、ピラトはイエス
を許そうと努めた。しかしユダヤ人たちが叫んで言った、
「もしこの人を許した
なら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、
カイザルにそむく者です」」とこう言っていることを見ますと、この裁判で、ピ
ラトは一貫してイエスの無罪であることを、ユダヤ人の指導者、そこに集まっ
て参りました群衆、そういう人たちに語っているのであります。
ただ口先だけでそういうことを言っているだけではなくて、そのためにはや
はり政治ですから、政治力を発揮しまして、
“じゃ、バラバと引き換えではどう
か”…。一人の囚人が逮捕され繋がれていたわけですが、
“バラバと引き換えで
イエスを許したらどうか”…。どうもそれが不調になりますと、今度は鞭打ち
の刑で…。イエスを鞭打ったとありますが、鞭打ちの刑とは相当重い刑であり
ますから、その鞭打ちの刑で済まそうとしているわけです。
しかし、これを見ている人々は、こういうピラトの善意の努力というものを
認めようとはせずに、
“十字架につけろ”と言ったのです。最初は祭司長たちが
言ったことを、今度は群衆が叫ぶようになった…。実はここでピラトが毅然と
して、イエスの無罪、釈放を宣告すれば、簡単に事は収まるんです。しかしな
がら彼はそうしなかった、と言うより、できなかったと言った方が良いかもし
れません。大変中半端な発言をしているわけです。
そういう中途半端な発言がかえって、主イエスの敵である宗教指導者、パリ
サイ人たちから、
“もしも、このイエスをあなたが許そうとするならば、あなた
は皇帝の味方ではありません”…。尐なくともイエスは自分を王としたのであ
るから、王と言うものが地上に二人存在するはずがないとすれば、あなたは皇
帝の味方ではない。
“自分を王と自称する者を、もし許すならば、あなたは皇帝
の忠実な部下とは言えない。それだけではなく皇帝に背いているのです。反逆
罪に問われるのですよ”と脅かしを受けているのです。
このピラトとユダヤ人たちと比べてみますと、ユダヤ人たちの方が一枚上手
のような気が致しますね。これは罠のようですね。
ローマの官吏として、政治的な責任を持つ者が、尐なくともユダヤ人の王と
自称する者を、たとえそれは反逆罪を企てたものでなくても、そう訴えられた
ものをそのままにしておくということは、これはピラトの立場上できないわけ
です。やはり何とか措置をしなければならない。しかもその殺し文句は、
“私た
ちにはカイザル、皇帝以外に王はありません。もしもこの人を許すならば、あ
なたはカイザルの忠実な部下とは言えない。我々はあなたを告訴するだろう”、
そういうことが言外に含まれているわけです。
このあたりは、ユダヤ人とピラトのやり取りが厳しく記されているのであり
ますが、例えばマタイ福音書の方を見て参りますと、47 頁ですが、27 章の 22
節以下、「ピラトは言った、「それではキリストと言われるイエスは、どうした
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らよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。しかし、ピラトは
言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそ
う激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った」…。
とにかくここでは、理屈が通らないですね。大きい声を出した方が勝ち、と
いうことです。何か教団の中を想像させられますね。現在の教団は、大きい声
を出した方が勝ちという嫌いがあるわけですけれども、要するに大きい声で、
十字架につけよと、そうしますとピラトは、手のつけようがなく、かえって暴
動になりそうなのを見て、暴動になるとこれは総督の責任であるわけです。
それで水をとり、群衆の前で手を洗って言ったのです。
“この人の血について、
わたしには責任がない。お前たちが自分で始末するがよい”…。もうこれは暴
動になったのでは大変だと、じゃ勝手にしろと、但し、私には責任はないよと
こう言っているわけですね。これはローマ人ピラトの最後の言葉です。
“私には
責任はない、お前たちが勝手にやれ”と…。
それからもう一か所、ルカ福音書を見てみましょう。ルカ 23 章 23 節、131
頁です。
「ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるよ
うに要求した。そして、その声が勝った」…。ピラトはついに彼らの願い通り
にすることに決定したのです。文語訳には、「遂にその聲勝てり」とあります。
その聲勝てり…。この文語訳も非常に印象的ですね。
ユダヤの最高権力者でありながら、何という煮え切らない態度であろう。な
ぜ正しいことを正しいと言えないのか…。これは今日、私たちがこれを読んだ
時に、非常に内心イライラさせられるほどに激高を覚えるところのものですね。
彼とてもローマのエリートでありますから、政治家としての良識、そこまで行
かなくても人間としての良心に基づいて、なぜ最低限、イエスの無罪を宣言す
ることができなかったのか…。何故か…。
ユダヤ人は、
「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分
を神の子としたのだから、死罪に当たる者です」(19:7)…。しかしそれは宗教
的な理由ですから、全然、ローマの法律では死刑にあたるものではないわけで
す。ただ、彼はこの言葉を聞いたときに、どういう心境になったのかと申しま
すと、ヨハネ 19 章の 8 節に「ピラトがこの言葉を聞いたとき、ますますおそれ」
とあります。彼にあった心の状態とは、おそれがあったのですね。畏れなんで
す。この“おそれ”とここに書いてあるものの本質はいったい何だろうか…。
彼の良識も良心もそこでちっとも動き出さない理由は、彼の畏れである…。
つまり一言で言うなら、
“彼の弱さであった”ということなんじゃないでしょう
か。言えなかった、分っていても言えなかった…。
この経過を見ますと、彼は一応のことは言っているのです。良心的な判断も
間違っていません。けれども中途半端なんですね。それで相手の気にいるよう
な無責任な判決を、結局は下しているわけです。それは彼の良心に反して、そ
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ヨハネ 19:01-16a 十字架につけよ
ういう決断をしているわけですね。彼の政治的な権力、正義を行うべき立場か
ら見ても、それは、はなはだ誤った判断を下しているわけです。ところが彼は、
“私の責任じゃない。お前たちに責任がある”と責任転嫁しているのです。
前の時に私は“弱さと罪”という題を掲げて、十分にお話をすることができ
なかったわけですけれども、この“弱さ”というものですね。
そこで語られているものは何か…。これは聖書的に言うならば、神の被造物
だということです。我々は神から創られたもので、完全なものじゃないという
ことです。これが弱さというものであり、不完全さというものであり、無力さ
というものです。
ですから、良いものでも悪いものでも決してないわけです。極めて中立的な
問題だということです。神学的に言うならば中性的な問題だということですね。
私たちは神様からつくられたものであって、神様そのものではない。不完全な
ところがあるということの証であります。
使徒パウロも、この弱さということについて触れている箇所があるわけです。
290 頁、そこを見ますと、これも大変有名な箇所であります。コリント第 2 の
手紙 12 章 7 節ですが、「わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高
慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのである」とあります。そ
して、そういうとげが取り去られるよう三度も祈った…。三度というのは、一、
二、三じゃないですね、しょっちゅうということです。
9 節、「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分であ
る。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」…。弱さというのは、これ
は神様の力の現れるところだと、神様が仰っているのです。そしてパウロは、
「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱
さを誇ろう」と言っているわけです。
弱さというのは、
“そこにおいて、キリストの力が私に宿るためのもの”なん
です。これが聖書の言うところの弱さということです。だから彼は、
“自分の弱
さを誇ろう”とこう言っているのです。何故なら、その弱さの中にこそ、キリ
ストの力が溢れている。むしろ我々にとって、喜びとなるからである…。
しかし、ピラトにとっては、この弱さというのは何だったのか…。
“わたしに
は責任がない、勝手にしろ”と最後はそう言っているのです。責任を他人に転
嫁しようとしている。これは政治家のよくやる手ですね。これは政治家ばかり
じゃなく、私たちも弱さという名目の下に責任を他人に転嫁する…。
“わたしは、
イエスは無罪だと思う。けれども民衆がそうは思わないから、あるいはユダヤ
教徒の祭司長たちもそう望んでいるとすれば、止むを得ない”と、逃げ腰にな
って取った手が彼のやり方だったのです。
この言わば“弱さ”というものの本質は何かというならば、これはエゴイズ
ムということです。自己中心的な言葉ですね。この弱さが、本当に神様の恵み
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の働く場所になるのか、あるいは自己中心のエゴイズムになるのかということ
なんです。
エゴイズムというのは傲慢に結びつくのです。
“しかたがないじゃないか、み
んながそう言うんだから。俺のせいじゃないよ”…。開き直りの自己主張がこ
こにあるわけです。弱さどころじゃないですね。無力どころじゃありません。
つまり、イエス・キリストはそのような形において、ピラトの手からユダヤ人
の手に渡されたわけです。
私たちは普段は、この弱さと言うものの本質がエゴイズムであるということ
に、なかなか気がつきません。
創世記の 3 章に有名なアダムとエバの物語があります。
“エデンの園の中央の
木の実を食べてはいけませんよ”という神様のお言葉に対して、禁を犯しまし
て、それを食べた。アダムはエバにそそのかされたと、エバは蛇にそそのかさ
れたと言うのです。
神様がアダムに申しました、
“いったい何故、いけないと言うことをしたのか”。
そうしましたらアダムが言うには、“わたしと一緒にしてくださったあの女が、
木から取ってくれたので、わたしは食べたのです”…。何と言う冷たい言葉で
しょうか、これは…。
“私と一緒にして下さったあの女が”と言ってます。自分の奥さんですよ。
“あの女が”と、喧嘩するとそうなるんじゃないでしょうかね、どうですか…。
夫婦喧嘩すると、あの女とかあの男ということになってしまいますね。
“お前がそうやったから俺がこうやったんだ”…。そうすると女は、“いや、
私じゃなくて友達から”と言うわけですね。友達と言うのは蛇ですね。
“友達に
私は騙されたんです。私の責任じゃない”ということになるわけです。これは
責任転嫁ということです。順繰り、順繰りに移り変わって行くわけです。最終
的に責任をとる主体が見えなくなってくる。ぼやけてくるということです。
多分アダムはとっさの場合に、神様に言われたときに、ハッと思って、その
ように弁解したんでしょう。そしてイブに責任を転嫁した。
アダムは自分に対する神からの問いかけに対して、イブとの関係にすり替え
て答えているわけですね。神様が“いけないよ”と言ったのは、アダムにもい
けないし、イブにもいけないものであるわけです。
“私はあなたのいけないということをやりました”…。それはそれでいいわ
けです。でもそういう方法を取らなかった…。
“妻に誘惑されました。とんでもない女です”と問題をすり替えているので
す。“この女を罰して下さい”…。そうするとこのイブもさるもの、“いや、私
のせいじゃありません。私は蛇という得体の知れない悪魔的なものに誘惑され
たのです”ということで、問題が漠然としてしまっています。アダムはピラト
のまさしく先祖です。そして、これはまさしく我々の先祖でもあるのです。他
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人事じゃないのです。
今日の我々は自分の弱さを認めても、それを傲慢という罪としてなかなか認
めたがらない。教会の中でもそうですね。弱さということを言われる、我々人
間は弱い者ですと言う。その通りです。けれども、我々は罪人ですとか、あな
たは罪ある人間ですとは言わない。段々言わなくなってきた…。何故なら、我々
はそういうものを認めたくないところがあるわけです。弱さというのは、人間
関係の中で解消してしまうわけです。そして、責任が転嫁されてしまう…。
罪と言うのは、神様との関わりにおいて、我々が責任を持って答えなければ
ならないものなのです。
私たちは、このピラトの発言を聞いていますと、決して他人事とは思えない
し、ピラトも何とかしてイエス様の味方をしようと思っているわけです。何と
かして助けようとして、色々と知恵を絞っているのですけれども、結局そこで、
自分が本来、正しさを本当に正しいとすべきところの責任を忘れて、それをユ
ダヤ人のせいにしてしまって、万事を解決したかの如くに思いこんでしまった
…。だから、ピラトは使徒信条に名前が出て来るのです。
そして主イエスは、このような者たちの罪を負って、十字架につかざるを得
なかったということじゃないでしょうか…。
さて、私たちはイエス様について、ほとんど触れていないのですけれど、こ
の間、主イエスはどうしていらっしゃったでしょうか…。これは全福音書を見
ましても、イエスさまが語られたことはごく僅かですね。尐ないです。終始、
沈黙を守っていらっしゃるように思います。しかし胸中は、どんなだったでし
ょうか。
この 11 節を見ますと、
「イエスは答えられた、
「あなたは、上から賜るのでな
ければ、わたしに対して何の権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡し
た者の罪は、もっと大きい」」…。主は自分に対するピラトの不正、不利な判決
すらも、神のみこころが成就されるために用いられることを確信しておられま
した。
“何の権威もない”ということは、上から賜らなければ、十字架というもの
も、わたしはあなたの被害者だという意味じゃない。
“わたしが十字架を選んだのだ”
そこをヨハネ福音書は強調しているのです。私たちは十字架という場合には
被害者意識が大なり小なりありますね。
私は私の人生で、こういう十字架を負った。十字架を負わざるを得ない生活
をしていますと言うときには、だいたいその人は被害者意識でものを言ってい
るわけです。加害者の場合は、決して十字架と言わない。被害者意識です。
けれども聖書は決して、この十字架というものを被害者的な意識でイエス様
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は受け止める、とは書いていない。イエス様はそこにおいて、一人ひとりの罪
を赦すという、赦しが成就するという事柄として受け止めている。イエス様の
沈黙もそのためでありました。イエス様が自己弁明をなさらなかったこともそ
のためでありました。
そして、あなたが不正な、あるいは不徹底な判決を下すということも、上か
ら、神様から賜らなければ、それは行えないようなものだろう。わたしに対し
てそれは何らの力もないものだ…。要するに、
“わたしがこの十字架を自ら選び
取るんだ”ということです。
だからと言って、
“わたしをあなたに引き渡した者の罪は無くなる”というこ
とじゃないんです。
“わたしを十字架に引き渡した者の功績は大きい”と言って
いるわけじゃないですね…。
ある本を読んでおりましたら、
“ユダの功績は大きい”というようなことが書
いてありました。もしもユダがいなかったら、イエス・キリストは十字架に架
からなくて済んだだろう。もしもピラトがいなかったならば、イエスは十字架
につけられるチャンスを失しただろう、とこういうことを書いている人がいま
すけれど、これは、天地を創造する前に神様が何をしておられたかというのと
同じ議論であって、極めて思弁的な考え方じゃないでしょうか。それに対して、
“山に柴刈りにでも行ったのじゃないか”という返事をしているわけです。そ
ういうような論理の対象になって、真面目な話ではないわけですね。
主イエスは、ご自分に対する不正、不利な判決を、
“良し”とは決して言いま
せん…。“罪は大きい”。しかし、その罪は大きいけれども、そのことを通して
多くの人の罪が赦される。そういう“みこころが成就するためのものである”
ということを、確信しておられた。そのために天から送られて地上に到達した
方だと、ヨハネは証しているのです。イエスさまは、決してユダヤ人の罪や、
ましてやピラトの罪を是認したり、見逃したりしておられるのではないのです。
主イエスを裁判するこの裁判所の周りに、多くのローマ人、ユダヤ人、群衆
がおりました。自分たちのやっていることが筋違いであることを百も承知の、
そういう大祭司たち、またその大祭司に扇動されて、イエスは自分たちの思う
ようなそういうメシヤでなかったことに腹立ちまぎれに、十字架につけよと叫
んだ、そういう無知な群衆。罪を弱さにすり替えて、それで責任転嫁して事が
済んだとするピラト…。
我々は、いったい何処に立っているんだろうか。いま我々が、このピラトの
法廷の前に立って、私たちはどこに立っているんだろうか…。今日、皆さん方
に考えていただきたいのは、それなんです。
十字架につけよとこう叫んだ群衆、しかし、群衆だけが叫んだんじゃなくて、
やっぱりその叫ばせた大祭司がおり、あるいはそれを容認したピラトがいた。
最終的には、そこにいたすべての人たち。あるいは大祭司的、ユダヤ教的な考
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え方を持っていた人たち、群衆のような考えを持った人たち、あるいはピラト
のような考え方を持つ小ピラトのような者たち、いずれによっても、主は十字
架につけられたということを、他人事ではなくて、我々の問題、あなたの問題
として、これは考えなきゃならない点なんじゃないでしょうか。
このことをハッキリしなければ、主は何度もそのために、十字架に架かり直
さなければならないのです。今後も我々のために、何度も十字架に架かり直さ
なければならないことになるんじゃないでしょうか…。我々に求められるもの
は、この主の前における深い悔改めの思いです。
“神様から与えられた、この主
を打った者は、この私です”という、そういう謙虚な思いじゃないでしょうか。
それがなければ、本当に私たちの罪というものは回復されない。ピラトのよ
うに言葉だけでもって、善意であるとか、一生懸命とかいうのは全然役に立た
ないのです。彼らが何をしたかということ、アダムからピラトまでの歴史は、
また我々自身の歴史でもあるわけです。
この受難節に当たりまして、その点を深く我々自身の一人ひとりの問題とし
て受け止めることを通して、また新しいよみがえりの日を迎えることが出来る
のではないでしょうか。お祈りします。
父なる神様、大変寒い一日の朝の礼拝でありますけれども、導かれて、
共に礼拝を捧げますことを、感謝いたします。とくに私どもは、受難節の
時に当たりまして、主の十字架に目を止めております。また、主を十字架
に追いやったものが何であるかについて、思いを巡らしております。私た
ちはそういうことに、つい大事であると思いつつも、日頃起こってくる身
近な問題に目をとられまして、いちばん深い大事な問題から目を逸らして、
自己を義として生活をしている者でございます。どうかそのような者を憐
れみ、またそのような者の罪を、お赦し下さい。我々がこの主の深い思い
を尐しでも悟ることができるように、この週も我らを謙遜な者として下さ
い。我らの教会には多くの肢々を預かっております。どうかあなたの肢が、
この日も御言葉によって励まされるように祈ります。また今は、若い人も、
また色んな試練のうちにございます。どうぞ彼らが、その願いが、また祈
りが、その努力によって報いられますように、あなたの力添えをお願いい
たします。またどの様な場合にありましても、そこにあなたの御こころを
悟ることが出来ますように、福音の知恵をお与えください。洞察を与えら
れますように祈ります。この一週の我々の歩みを祝福して下さいますよう
に。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げ致しま
す。
アーメン。
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