海外研修を通して

海外派遣を通して
思い起こせば、海外派遣団の入団面接で先
生達は私達に「今までに自分が変わったこと、
変わらなかったことをそれぞれ言いなさい。」という
課題を出した。そのとき私がどんなことをしゃべった
か、緊張の余り覚えていないし、またこの文を書く
にあたってそれは特に関係ない。しかし、私がその
ときに感じたこの質問に対する違和感は、私を5人
の同席した応募者の中でも最後に答えさせるよう
に仕向けた。ずっと考え続けてみてもそのときに的
を射た結論は生まれなかったのだ。後に残った
のは「この質問は何かおかしいのではない
か。」という根拠のない違和感だけであった。
私は人生における転機だとか運命の出会い
だとかいうマスコミが多用する言葉にはずっと違
和感があった。この場で「海外派遣を通して変
われたこと」について語ることにも違和感があ
る。なぜか。
一体人生における転機とは何なのか。一般
的に考えてみると、例えば海外派遣を経験し、
それが転機になったとする。しかしそれは海外
派遣を経験しなかった自分を前提にした考え方
で、未来においてはそれが存在せず、前提が
おかしい。極端な話(されどもっともな話)、海外
派遣を経験しようがしまいが、未来においては
それが転機と言えてしまえなくもない。それなら
ば、その様な曖昧な仮定により成立する転機な
ど存在しないと見たほうがいいのではないだろう
か。転機という言葉はその様に、人生におけるパラ
レルワールドを前提とした言葉のようである。しかし
少なくとも私はシュレディンガーの猫ではないし、人
生におけるパラレルワールドには否定的な見解を
持っている。その様な私にしてみれば、海外派遣は
私の人生の中で起こるべくして起こったといえ、だ
から現在の私が成立しているといえる。これは海外
派遣に限った話ではない。現在の私は全て連続し
た過去の自分であり、それら全てが現在において
は起こるべくして起こったことと処理される。ここで
未来の自分から考えてみると、それまでに連
続した自分も全て起こるべくして起こったことで
ある。これは未来の自分が起こるべくして起こ
ったと考える道筋を、現在の自分が通過してい
るということと同値なのではなかろうか。そうす
ると、未来の自分が存在していると仮定すれ
ば、未来の自分は私が今何を考えているか、
どう行動しているか、全て知っている。未来の
自分からしてみれば現在の私が悩んでいるこ
となどくだらないことと感じられるに違いない。
私が直面していた「海外派遣に行くか行かない
か」という分岐点においても同様である。当時
の自分としては悩めることであったにしても、
現在の自分から見れば、当時の自分が海外派
遣に行くことを選んだことは当然のことで、そう
した過去の自分なしの現在の自分は考えられ
ない。海外派遣は我が身に起こるべくして起こ
ったのである。ではなぜ、我が身に海外派遣
が起こったのか。勿論、過去の自分であろう
と、現在の自分であろうと、その行動が彼らの
「意思」によって決まることは明らかなのだか
ら、その問 いを換言 するならば、「 過去 の自分
の意思を固めたもの は何か。」となるのだろう
が、この問いは過去においては現在・未来、現
在 に お い て は 未 来 と 、全 体 を 俯 瞰 して 結果 論
を語ることができる立場になって初めて考察可
能な対象として捉えられる。そこで、現在の立
場から海外派遣に行くことにした過去の自分
の意思決定の大本を解き明かしてみようと思う
のである。
現在の自分が意思決定を行うとする。決定
さ れた 意 思 に 何 が 反 映 され て いるかを 考え る
と、これに過去の自分が関っていないわけが
ないのであって、過去の自分とはここでは俗に
言う「経験」のことである。但しここでは「経験し
ないこと」も経験の内に数える。
意思決定に過去の自分が反映されていると
いうことは、過去の自分によって意思が制限さ
れ る と い う こ と を 意 味 す る。 こ れ は 消 極 的 より
は積極的なほうがよいという一般的な考えと混
同されることが多いように思われる。例えば、
「この手の本は前に懲りたからこれも読むま
い。」という意思決定の取り扱われ方は「この手
の本は 前に懲りたが 、これは 読んでみ よう。」
という意思決定の一般的な取り扱われ方とは
大分異なる。しかし後者の「これを読んでみよ
う。」と思うにいたる動機はやはり過去の自分
である。「この手の本は前に懲りた。」という過
去の自分を打ち消す過去の自分が存在してい
たという過去を持つ現在の自分が下す当然の
意思決定である。従ってそれが消極的であろう
と積極的であろうと、またそれが一般からどう
見 られ ようと、現 在の 自分の 意思決 定に過去
の自分は必ず反映される。一般はこれを広く
尊重しなければならないと私は思っている。過
去の自分は「経験」であり「性格」そのものなの
だ。
私も、過去の自分が連続して現在の自分に
つながっていると考えてきたのだから、与えら
れた機会を経験するか否かについては、過去
の自分を唯一無二の指標として考えてきた。
だから与えられた機会について、それを経験し
ない経験をするという選択肢も大事にしてき
た。
重要なのは、経験するか否かが私の中で直
感的に判断されるということである。そして私
は こ の 直感 を裏 切る こ とを潔 しと しない。 なぜ
なら、この直感が連続してきた過去の自分によ
る直観だと感じられるからである。(ある強烈な
経 験 ( 過 去 の 自 分 ) が 存 在 す る た め に 他の 経
験が無視された直観もあるかもしれないので、
あくまで「潔しとしない」という表現にとどめた
のである。)この「過去の自分の絶対化」は、現
在の自分 にある負担を強いる。それは機会を
与えてくれた人に対して、私がそれを経験する
か否かの決定を下した理由の説明責任であ
る。
そ し て 今 、 「 海外 派遣 に な ぜ 行 こ う と 思 っ た
のか。」という問いがこの文章に課せられてい
る。実に重い問題だ。「過去の自分に従いまし
た。」とこの文 章を書 いた後 に結論付けること
ができるだろうか。しかしそれは「なんとなくで
す。」と言っているのとなんら変わりはない。現
在の自分に課せられた説明責任を果たすべ
く、以下の文章を書くものである。
エンパイアーステートビルから眺めた月は、
眼下に広がるカオスとは全く無関係な存在に思
えた。漸う暗くなりゆくニューヨークの雲1つない
夏空にポッカリと浮かぶ月が示す自然界の絶
対性を前にして私は虚無感すら覚えた。「この
雑踏、喧騒、摩天楼、…。何のためにあるのか。
いや、何のためでもない。これらが生み出す巨大な
エネルギーは自然界の中では無に等しい、取るに
足らないものだ。」そう思うと月はますます際立って
見えた。私は月に吸い込まれてしまいそうな不思議
な感覚に襲われ、周囲が何も見えなくなった。何も
聞こえなくなった。ただ月と自分の間に、息苦しい
ほどの沈黙が感じられた。このときが、私が初め
てアメリカに来たことを実感した瞬間である。
絶対的な月に対して、カオスは文字通りそ
の足元にも及ばない。「これが文明なのか?
私達人類が築き上げてきた文明はこんなにも
無秩序なのか?人類は地球という秩序から無
秩序を構成してきたのか?」思わずそう思って
しまうのである。ニューヨークという大都市だか
らこそ存在するこの巨大なカオスを眼下にし
て、月はいつも見るものよりも遥かに格調高い
もののように感じられた。
アメリカにいるという実感が、過去の自分が
この研修で求めた目標への第1ステップである
ことは間違いない。アメリカにいるという実感さ
えできなければ海外派遣に行った意味も薄れ
てしまう。寧ろ私は過去の自分が1番求めてい
たのはアメリカにいるという実感だったのかも
しれないと思うのである。自然界と人類との秩
序という点でのギャップは、それほど私にはカ
ルチャーショックだった。
ではなぜ過去の自分がそれを求めたのかと
いうことだ が 、1つ思 い当 たる節 があるの は、
科学に興味を持っている自分である。「自然界
には正確な法則がある。」というケプラーの言
葉に感銘を受けたのはかなり前のことだが、そ
の自然界の正確な法則を解き明かす科学とい
うものは実際無秩序を創り出すために使われ
ている。「秩序を解き明かす科学」と「無秩序を
創り出す科学」という全く性格を異にする2つ
の科学が存在するのだ。「無秩序を創り出す
科 学 」 を 担 当 す るの は所 謂 「 発 明 家 」 と いう 人
々であり、「秩序を解 き明かす科学」を担当す
るの は 所謂 「科学 者」 という 人々 である。 発明
家であり、科学者である人も当然いる。
しかしアインシュタインはどうだろうか。彼は
完 全に 科 学 者 で ある 。 と こ ろ が彼 の晩 年は言
ってしまえば「発明家達の尻拭い」に費やされ
た。彼が原子爆弾の製造においていかほどの
責任があるのか、それは客観的にはいえない
ことではあるが、彼にのしかかった相当な責任
感、苦悩について、私は前々から興味があっ
た。一体なぜ秩序を解き明かすことを使命とす
る科学者が 、創 り出 された無 秩序に責任 を感
じなければならないのかということである。そ
れがずっと気になっていた過去の連続した自
分が、そのときの自分を「文明の象徴としての
アメリカへ」という気持ちにさせたのかもしれな
い。
今回の研修でアインシュタインの苦悩が理
解できたなどというおこがましい発言はできな
いが、エンパイアーステートビルから月、カオ
スを見て1つわかったことは、秩序から無秩序
へというこの一連のエントロピーの増大は人類
の活動・文明そのものであり、自然界がもつ秩
序を解き明かす科学者には、その増大過程の
適切さについて根源的な責任があるのかもし
れないということである。
現在の自分から見てみると、当時の自分はア
メリカという巨大なカオスを見るべくして見、ア
メリカにいるという実感を得、それ以前の自分
を満足させたと言える。同時に、当時の自分に
実感をもたらした驚き、不思議、理解などの感
情は心 中に記憶として残り 、現在の自分の意
思決定に重要な働きをする連続した過去の自
分の一部となっているのだと思う。