震災の影響がある程度収まるまで、2週間位はバタバタしていた気がします。 完全に無くなるまでは1年かからなかったのでは‥細かいところは残ってはいると思うんですよ。 1月に1件2件とかそんな感じになるまで半年ぐらいかかったのではないかなと。 震災後、仕事の面で「ガソリンを確保しなさい」という指示が出ました。 それまではメーターの針が空にを刺した辺りでガソリンを入れていましたが、 もう半分になったら詰めてくださいという形になったので、寄る頻度が上がりましたね。 お客様からの「機械流されちゃった」とか「濡れて使えなくなっちゃった」というのに対して、 引き上げてきた捨てる機械というのをメンテナンスして貸し出しました。 貸し出すというのも、普段であれば運送業者を使って搬入するまでやるのですが、 今回は運送業者も使えなかったので、 何人かで[軽バス]で車に入れてお客様先で下ろしてというのもあったんですけど、 普段なれない重い機械の上げ下げというので、腰を痛めましたね。 奥さんやお友達など その当時うちの妻はまだ仕事に出ておらず、ほぼずっと家にいる状態でした。 うちではチワワ・ピンシャーのミックス(3歳)と、ヨークシャー・テリア(1歳)の2匹を飼っていま す。 震災直後から、壁がピシっと鳴る状況が続いて、その音に怖がって吠えるというのがしばらく続きまし た。 緊急速報がなる前や、家鳴りする前から吠え出すというのもありました。やはり何かを感じているんで しょうね。 希望が持てる テレビに写されたボランティアの人たちを見て、まだ日本も捨てたものじゃないなと思った時もありま した。 あとは仕事柄震災を受けたところに行くこともあったんですけど、 HC-T-5113(震災後)_msk.txt[2014/03/31 8:36:14] お客様自身がそこまで悲観的になってないというか、まだ笑顔で接してくれることもあって、 まだ大丈夫なのかな、と思いました。 直接被害を受けている人達を見ても、 仕事している人たちはまだ少し余裕があるのかもしれないですけど、 そういうところにいる人達でもまだ、こういう顔が出来るんだなって。 津波の高さ、あるお客さんだと天井まで来たという人も居ましたし、 まだ余裕がある人は70cmくらい、腰までという人もいました。 ゲームや映画で見るような風景が広がって、背筋がゾワッとしましたね。 その当時被害を受けた方々は三年くらい経って立ち直ってる? 立ち直ってると思いますね、お付き合いした何社かは回復できないのでそのままやめますという所もあ りましたけど、 ほとんどのお客様はそのままお仕事を続けられている形になりますので、頑張ってるなという印象は受 けますね。 その事業を継続したお客様の所に対しては、通常時ではないような対応というのは。 先ほどお話したように中古の機械を半年間レンタルしたり、本来ならリース料金とかって頂いているも のを、 まずちょっとすぐに機械を新しくはできないでしょうからっていうので、長い期間おつかい頂くという 形はとっていました。 後々にお客様から感謝の言葉を頂きました。 特に被害を受けた地域とかってインターネットが殆ど普及していないので、 ほとんどのお客様がコピーやFAXがあるから仕事が始められる、との事で。 被災者に対して心がけたことはその時は直接はなかったですけど、 仕事を通してという部分では何かを出来たのかなと思うんですけど、個人として思うところは出来てな かったかなと。 HC-T-5113(震災後)_msk.txt[2014/03/31 8:36:14] 東日本大震災を体験した者として、南海トラフ巨大地震に備えてアドバイスです。 水と食料の確保を最優先した方がいいですね、命をつなぐためという所で。 あとその時によっては暖を、寒さを凌ぐというのが普通になってくると思います。 あとは国や地域のネットワーク。 自分たちが生きるために大量に買い込んで保管して[まいあたらない?]というのがありましたので そういう所を無事な地域からの支援という風に、マニュアルを作っておけばいいのかなと思いますね。 実際震災起きた時とか、しようと思っても道路が塞がれているとかいけないとか届かないとかありまし たので、 現地の組織での備蓄というのが必要になってくるのかなと。 私自身は避難所に行くというのはありませんでした。 お客様は職場を復帰させるために仕事場に来てらっしゃる方が多く、その時は忙しかったです。 震災前と震災後で、 行動という部分では、水・灯油・ガソリンは確保するようにして。 あとは冷凍食品とか食料の部分を、備蓄といえる部分ではないですけど 1日2日生き延びるレベルでの保存食をやるようにしています。 まだその当時うちにはインターネット環境を引いてなかったんですけど、携帯だけだったんですけど、 今は震災の時でも「つながっていた」というのが強みだったので、その回線を引いて電話がつながるよ うにはしましたね。 、妻と地震が起こった時の話し合いをして、避難所は決めてあります。 連絡がとれなくなってもそこに行けば会える、というので。 あと、人のつながりを大事にしようと思いましたね、一人で行きていけないんだなと思いました。 震災前までは、妻と二人でいれば他人の力を借りることはそうそうないだろうなと考えていましたが、 やっぱりそういう事があって、人とのつながりというのを‥ご近所だったり、 心の壁を作っていたような人達にも接するようにしたいと思いますね。 ボランティアとか自衛隊とか、そういう人が頑張ってつながっているのを見て、本当人のつながりは温 HC-T-5113(震災後)_msk.txt[2014/03/31 8:36:14] かいなと。 HC-T-5113(震災後)_msk.txt[2014/03/31 8:36:14]
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