ストレッチングにおける神経系学的効果の検証 磯貝 紗織 Ⅰ.はじめに

ストレッチングにおける神経系学的効果の検証
磯貝
紗織
<要約>
ストレッチングにおける関節可動域改善や筋肉痛の改善への効果は報告されているが,これらが何に
起因するのかについてはまだ明確な見解が得られていない.本研究は,ヒラメ筋に対するスタティック
ストレッチング(SS)およびバリスティックストレッチング(BS)が,神経系へ及ぼす影響を調べた.
対象は健常成人 15 名とし,SS,BS それぞれのプロトコールを実施させた.ストレッチング前後に,
足関節背屈可動域,圧痛覚閾値,誘発筋電図を測定した.結果,足関節背屈可動域は SS 後有意に増加
した(p<0.05).圧痛覚閾値に関しては,SS,BS 前後で有意に増加がみられた(p<0.05).誘発筋電図
に関しては,H 波,M 波の振幅において SS,BS ともに前後で変化は見られなかった.本研究結果よ
り,ストレッチングにより圧痛覚閾値の上昇に影響を及ぼすことが示された.また,ストレッチングの
違いによる神経学的影響の差はないことが示唆された.
Ⅰ.はじめに
ストレッチングは運動前のウォーミングアップや
運動後のクールダウンとしてスポーツ現場等でよく
行われ,筋や腱を伸張位で保持するスタティックス
トレッチング(static stretching;以下 SS と略す)
と,四肢を可動域全体にわたってリズミカルに動か
す動的ストレッチングに大きく分けられる 1).動的
ストレッチングはさらに,反動は使わずに随意運動
を行うダイナミックストレッチングと,反動を用い
て行う「バリスティックストレッチング(ballistic
stretching;以下 BS と略す)」に大別されている 1).
BS は神経・筋系の興奮性を亢進させるといわれ 2),
反動を用いることで過度に筋が伸張され,伸張反射
を引き起こしやすいことがいわれている 2).
ストレッチングによる効果として,柔軟性の改善
3)や運動パフォーマンス向上 4),筋肉痛の緩和 5)など
があげられているが,これらの変化は何に起因して
いるかについては,まだ明確な見解が得られていな
い.これらの変化の一要因として神経系の影響が考
えられた.ストレッチングによる神経系への効果の
指標としては,誘発筋電図 6)や痛覚閾値 7) 8)などがあ
げられる.誘発筋電図は H 波,M 波の最大振幅に
より神経活動の変化を明らかにできるといわれてい
る.H 波は,刺激電位が筋紡錘からⅠa 線維を上行
し,脊髄に至りα運動ニューロンを興奮させ,運動
神経を経て錐外筋の収縮を誘発する反射である.一
方で M 波は,運動神経を介して興奮が順行性に筋
までたどり着き生じる反射である.H 波や M 波の
最大振幅が大きくなる程,
神経系活動の促進を示し,
反対に最大振幅が小さくなれば,神経系の活動が抑
制されていることを示す.
また,痛覚閾値の測定では,圧痛計による圧痛閾
値の測定 7)や,VAS による伸張時痛 8)などがこれ
まで用いられている.これまでストレッチングを行
うことで痛覚閾値の低下を防ぐ 9)という報告はある
が,ストレッチングの違いによる痛覚閾値への具体
的な変化については,
まだあまり調べられていない.
そこで本研究では,SS と BS が神経系に及ぼす
影響について調べた.
Ⅱ.対象と方法
1.対象
対象は,健常成人 15 名(男性 5 名女性 10 名;年
齢 22.1 ± 1.0 歳;身長 164.8 ± 9.9 cm; 体
重 57.5 ± 10.5 kg であった.現在神経学的・整形
外科的疾患を有する者,下腿三頭筋に既往のある者
は除外した.本研究は,本学倫理委員会で承認され
た文書を用いて被験者に対し説明を行い,同意を得
てから実施した.
2.方法
(1) 実験デザイン
各被験者には,SS,BS のプロトコールを,それ
ぞれ左右の下肢に対してランダムに実施した.スト
レッチング前のウォームアップとして各被験者には,
10 分間のエルゴメーターを行わせた後,一側下肢に
対し SS あるいは BS を実施した.各ストレッチン
グ前後に足関節背屈可動域,圧痛覚閾値,誘発筋電
図を測定した.
(2) ストレッチングプロトコール
先行研究 10)プロトコールに準じて行なった.
スタティックストレッチング(SS):立位膝伸展
位で痛みを感じない最大伸張位にて 30 秒保持させ
た.それを計 4 セット実施し,各セット間は 20 秒
とした.
バリスティックストレッチング(BS)
:立位膝伸
展位で,メトロノーム音(60 拍 / 分)に合わせて
2 秒 1 回のペースで,関節可動最終域で反動を使い
ながら下腿三頭筋を伸張させた.SS と同様,30 秒
1 セットとして計 4 セット実施し,各セット間は 20
秒とした.
(3)測定方法
足関節背屈可動域:測定肢位は腹臥位で,膝関節
伸展位にし,腓骨頭,外果,第 5 中足骨頭,第 5 中
足骨底にマーキングした.測定は,自動足関節背屈
角度をデジタルカメラ(OLYMPUS 社製 SZ-11)
で撮影し,得られた画像より,Image J ソフトウェ
ア(NIH 製)で角度を算出した.
痛覚閾値:痛覚閾値の測定には,圧痛計(伊藤超短
波社製)を使用した.測定肢位は腹臥位,膝関節伸展
位で,ヒラメ筋に貼った筋電図電極より一横指頭側
部で 3 回計測し,平均値を算出した.測定時には,
被験者に脱力を促し,圧迫刺激をゆっくりとかけ,
痛みを感じた所でスイッチを押してもらい,その時
の圧負荷(N)を測定値とした(図 1)
.
痛覚閾値測定の信頼性は,級内相関係数(以下,
ICC と略す)を用いて検証し,検者内信頼性(ICC=0.
99 ; p<0.001),検者間信頼性(ICC=0.91; p<0.001)
と,ともに非常に高い信頼性を示した.
誘発筋電図:測定には,誘発電位検査装置(日本
光電製 Neuro pack 2)を使用した.肢位は腹臥位,
下腿の下にクッションを置き,膝関節を軽度屈曲位
保持しながら実施した(図 2)
.刺激位置は,膝窩や
や外側で脛骨神経を刺激し,その波形を記録した.
Ⅲ.統計処理
統計処理には,Statview 5.0 ソフトウェア(SAS
製)
を使用した.
関節可動域や痛覚閾値の比較には,
対応のある t 検定を行った.ストレッチング前後お
よびストレッチング方法の違いによる変化の比較は,
変化率(ストレッチング後/ストレッチング前)を算
出し,二元配置の分散分析(ANOVA)を行った.
図 1:圧痛計を用いた痛覚閾値計側
先端のアタッチメントを,筋に対してなるべく垂直に当て,遅い速
度で圧力を加えた.
図 2:誘発筋電図測定肢位
ストレッチング後に同一箇所で刺激をいれて計側を行った.
有意水準はいずれも p<0.05 とした.信頼性分析に
は SPSS ソフトウェアを使用した.
Ⅳ.結果
1.ストレッチングによる足関節背屈可動域変化
(表 1)
足関節背屈可動域は SS で 0.97 ± 8.63°から 4.
49 ± 8.19°に変化し,BS で 1.79 ± 3.25°から 6.59 ±
5.84°に変化した.SS 後でのみ有意な増加がみられ
た(p <0.005;図 3)
.
2.ストレッチングによる痛覚閾値変化(表 2)
痛覚閾値は SS,BS 共に有意に上昇した(p<0.
05;図 4).ストレッチング方法の違いによる差はみ
られなかった.
表 1:ストレッチングによる背屈可動域変化(deg)
ストレッチング前
ストレッチング後
SS
0.97±8.63
4.49±8.19
BS
1.79±3.25
6.59±5.84
表 2:ストレッチングによる痛覚閾値変化(N)
ストレッチング前
ストレッチング後
SS
46.40±23.17
53.24±28.09
BS
47.89±20.40
53.02±24.66
表 3:ストレッチングによる誘発筋電図の変化(mV)
H波
ストレッチング前
ストレッチング後
SS
5.50±4.28
5.19±4.20
BS
5.35±3.57
5.54±3.60
M波
ストレッチング前
ストレッチング後
SS
9.16±3.76
10.08±2.41
BS
11.81±2.30
11.14±3.18
図 5.誘発筋電図(H 波)の変化
縦軸は刺激電圧(mV)を示す.
SS,BS ともに有意差はみられなかった.
*
図3.足関節背屈可動域の変化
縦軸は関節可動域(°)を示す
SS でのみ,有意に増加した(p<0.05)
.
*
図 6.誘発筋電図(M 波)の変化
*
縦軸は刺激電圧(mV)を示す.
SS,BS ともに有意差はみられなかった.
3.ストレッチングによる誘発筋電図の変化(表 3)
SS,BS 前後において,H 波,M 波波形の最大振
幅に変化はみられなかった(図 5,6)
.
Ⅴ.考察
図 4. 圧痛閾値の変化
縦軸は加えた負荷(N)を示す.
SS,BS ともに有意に増加した(p<0.05)
.
1.足関節背屈可動域の変化
本研究結果では,SS 後でのみ足関節背屈可動域
の有意な増加が認められ(p<0.005)
,SS によって
柔軟性が向上するという先行研究 3)を支持する結果
であった.一方,BS では有意差を認められなかっ
た.これらの結果から,可動域改善には SS がより
効果的であることが示唆された. BS は反動を用い
ることで急激に筋が伸張されて伸張反射が起こり,
効果が得られなかったのではと考えられた.
2.痛覚閾値の変化
本研究結果では,痛覚閾値は SS,BS ともに有意
に上昇したことから,ストレッチングの違いによる
痛覚閾値上昇への差はみられなかった.これまでの
研究では,ストレッチングを行うことで,VAS が低
下し,QOL 向上に繋がった 8)という報告や,ヨガに
よる痛覚閾値増加 11),関節固定したラットへのスト
レッチング実施により,痛覚閾値が上昇した 9),等
の報告があり,本研究の結果もこれらの研究結果を
支持する結果であった.ストレッチングをすること
で筋紡錘からの求心性情報を伝達する Aα神経線維
が興奮し,その信号が,皮膚,筋膜,靭帯,腱など
全身に広く分布する無髄神経線維であるポリモーダ
ル受容器からの信号抑制効果を有すると考えられて
いる 2).この抑制により痛覚閾値が上昇し,痛みが
軽減されたのではないかと思われた.
以上のことから,本実験結果ではストレッチング
方法の違いによる差はみられなかったが,SS, BS
ともに疼痛抑制効果を示しており,ストレッチング
を行うことで神経系へ影響を及ぼすことが示唆され
た.
3.誘発筋電図の変化
本研究結果では,誘発筋電図において,SS,BS
ともに,H波とM波にはストレッチング前後で変化
は見られなかった.先行研究では,10 分間の SS を
週 5 回,6 週間実施することで,H 波・M 波は介入
前に比べ有意に減少したという報告 12)や,H 波振幅
はストレッチング中大きく減少したが,直後には
96%まで回復が見られ,再び経時的な減少傾向を認
めた 13)等の報告がある.これらの先行研究結果に反
し,本研究プロトコールでは,誘発筋電図の変化は
見られなかったが,その原因としてストレッチング
の実施時間が短かった可能性などが挙げられ,経時
的変化をも見ることでより詳細な神経系への影響を
調べることができるものと考えられた.
4.本研究の限界と今後の展望
本研究では,被験者に対し,実験前の活動を制限
していなかったため,実験時のコンディション等に
違いが生じ,結果へ影響を及ぼしたかもしれない.
また,実験中の室温をコントロールしていなかった
ため,筋温の違いによって結果に影響を及ぼした可
能性もあげられる.その他,本研究ではストレッチ
ング中の誘発筋電図を計測していなかったが,先行
研究 13)では,ストレッチング中の誘発筋電図を測
定していたことから,ストレッチング後の経時的変
化を検討するのも有効であったと考えられる.
本研究では,既に柔軟性への改善効果が示されてい
るストレッチングプロトコールを用いて実験を行っ
たが,ストレッチング時間を長くするなど,プロト
コールを変えていくことによって結果に違いがみら
れる可能性もあると考えられた.
謝辞
本研究を終えるにあたり,ご指導を賜りました本
学諸先生,先輩方,ならびに快く実験被検者を引き
受けてくださった本学学生の皆様に心より感謝申し
上げます.
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(指導教員:寒川美奈)