m2001-05 Vol.15元.pmd

ることができます。遊女デリラの
最もみじめな状態のサムソンを見
きました。私たちはこの章の中に
の要求を神の要求より優先させて
段を降りていきます。彼は常に肉
サムソンはゆっくりと堕落の階
べにも起きます。そのしもべの私
のです。時々、同じ事が神のしも
ます。地下の水脈に変化があった
突然水を出さなくなることがあり
をこんこんと湧き出していた泉が
まうことがあります。それまで水
時々地震で井戸の水がかれてし
かったのです。
んでした。彼はそのことを知らな
とき、彼には力がすでにありませ
ペリシテ人が彼を捕まえに来た
す。
ら去ってしまっておられたので
なってしまったのです。主は彼か
ることをやめ、女への献身者に
愛してしまい、神への献身者であ
彼は彼を全く愛していない女を
た。
た。彼は堕落の底に達していまし
そり落とされてしまっていまし
ます。彼の髪の毛七ふさはすでに
てしまいました。しかも彼はそれ
しかし突然、その力が消えうせ
べてが認めることができました。
とは、彼のメッセージを聞く者す
リスト御自身が語っておられるこ
暴露しました。彼の口を通してキ
く肉の思いを刺し通し、その根を
り裂きました。また槍のように鋭
のように罪になじんだ者の心を切
とばは生きていて、カミソリの刃
力がありました。また彼の語るこ
あり、疲れた者の心を奮い立たす
いがあり、魂の渇きをいやす力が
彼の口から語られることばには潤
る水が涌き出ていました。そして
それまで彼の口から、御霊によ
なってしまったのです。
はやいのちの水が流れてこなく
交わりを切ってしまったので、 も
それが水の源であるキリストとの
生活の中に何かが起きたのです。
士
( 師記第十六章
)
山岸登師
(1)
May
サムソン ④④④④④ ︱サムソンとデリラ
ひざの上で、サムソンは眠ってい
Maranatha!
うか。彼のことばから潤いは消え
ほど惨めなことが他にあるでしょ
に気がついていないのです。 これ
したことです。違ったことばで表
は、責任が伴っていることを無視
それは彼が、与えられた特権に
信者には、この地上での全く無価
遠の火の池の中での苦しみです。
未信者には、永遠の死であり、永
ンの策略です。なんと多くの信者
スチャンを堕落させるためのサタ
即効を求める実利主義は、 クリ
れてはならないのです。
値な歩みであり、霊的全き無力で
す。私たちはこのことを決して忘
たからです。彼は肉に自制の縄を
ました。聞く者の心の弦を共鳴さ 現すると、彼は神の召命に忠実で
せる聖なる響きは消え、ただ重く、 あるよりも、肉の要求を優先させ
暗く、うつろになってしまいまし
す。
た。
かけていなかったのです。彼は自
とうとうサムソンは捕まえられ、 分 の 肉 を 野 放 し に し て い た の で
目はえぐり出され、青銅の足かせ
がこのわなにはまったことでしょ
ソンが︱︱考えられないほど大き わなければならなかったのです。
な特権に与っていたサムソンが、 罪が支払う報酬は死です。罪は
らわすことが約束されていたサム
うべき戦士とされ、神の栄光をあ
ル人として選ばれ、神の戦いを戦
私たちは、生まれる前からナジ
罪に奉仕する者に死以外の報酬を
そのために彼は、大きな代価を払
由奔放に生きる人でした。しかし
注意を払いませんでした。彼は自
いたのです。彼は神の律法に全く
優先させ神のしもべとして歩むべ
のナジル人は、常に神への奉仕を
人にも同様のことが言えます。 霊
じられていたのです。霊のナジル
感謝して口に入れたぶどうから造
一般人が神からの賜物として喜び
はならないのです。イスラエルの
霊のナジル人は、自らを汚して
うか。
どうしてここまで堕落してしまっ
支払うことができないのです。そ
きであるのです。それは一口に
をかけられ、牢の中で臼を引かさ 彼は、即効性さえあれば、何で
れるようになってしまったのです。 も汚れていてもそれをかまわず用
たのかを考えてみましょう。 何が
の奉仕者が未信者であっても、信
られたものでも、ナジル人には禁
原因だったのでしょうか。
者であっても区別はありません。
(2)
言って自己否定ということです。
人生の最後になって、サムソン
は、自己否定を実行しました。彼
礼拝
山岸登師
しかしもし彼が、もっと神の召
よって造られたのか、それとも下
とは現実に事実です。人間は神に
て主の御前を如何に聖く、恐れお
を反面教師とし、主のしもべとし
私たちひとりひとりが、サムソン
対して彼らは、弱肉強食の生存競
ように進化したのかという疑問に
化したと考えています。ではどの
無神論者は人間は単細胞から進
り、勝ち残るためには強くなけれ
ばならないと信じています。 それ
で彼らは強い人間を崇めます。 頭
についての考えを避けながら目先
たがらないのです。彼らは日々死
多くの人々はこの事実を直視し
定されているのです。
とならなければならないことが決
すなわち彼らは最も惨めな敗残者
で行かなければならないのです。
に全く無力になり、弱々しく死ん
けないのです。人間は死の力の前
ても彼らは死以外のところには行
そして彼らがどのようにもがい
は彼自身の誤りのためにすべてを
の強さ、力の強さ、それに権力の
失いました。しかしなお彼は神の
強さ、金の強さ、ありとあらゆる
ナジル人であったのです。彼は自 礼拝という問題を考えるとき、 強さを崇めています。そして強く
分のいのちを犠牲にして、三千人 その前に人間がなぜ地球の上に存 なるために必死にもがいているの
以上のペリシテ人を殺しました。 在しているのか、という根本的問 です。彼らにとって弱さは恐怖で
確かにそれは彼が生きている間に 題から考えなければなりません。 あり、絶望であり、不幸であり、惨
殺した人数よりも多かったのです。 人間が地球の上に存在しているこ めさであるのです。
命に注意深く、忠実に歩んでいた
ののきをもって歩むべきかを深く
争と適者生存の自然淘汰によって
ならば、どれほど素晴らしい神の 等動物から進化したのか、のどち
栄光が表わされたことでしょうか。 らかであるのです。
学ぶことができますように。
と答えます。ですから彼らにとっ
て、人間がこの社会の中で生き残
(3)
May
Maranatha!
自身がどのような方であられるか
だけでなく、 イエス キ
・ リストに
よって、またキリストを通して御
に、御自分の御存在を信じる信仰
ではないでしょうか。神は私たち
それに対して私たちは何と幸い
欺きながら生きているのです。
だけの快楽を追い求めて、自分を
かによって決定されるのです。
の人がどれほど神の栄光を表わす
のです。そして人間の価値は、そ
ることが人間の最高の行為である
ることです。すなわち神を礼拝す
表わすことであり、神を褒め称え
間が生きている目的は神の栄光を
を表わすためでした。ですから人
聞かされていたのですが、親の勧
あったツェンゲンドルフは福音を
宗教改革の当時、貴族の息子で
者であったのです。
ちを神に捧げて神を礼拝した礼拝
えました。その人々は自分のいの
は他の人々にすばらしい影響を与
出した人物がいました。その人々
をはっきりと知ることを許してく この地上で、人間を褒め称え、人 めでパリに遊びに来ていました。
間の力を賛美している不信者は、 そして彼は、ルーブルの美術館で
ださいました。
先祖アダムが罪を犯したために、 結局サタンの虜となり、短い人生 キリストの十字架上の御死の絵を
の後に地獄の中で一滴の水を求め 見たのです。その絵の下に、作者
える者としてくださいました。
どもとして、神の恵みをほめたた
いました。そして私たちを神の子
すべての罪を赦し、救ってくださ
子の十字架の上での犠牲によって
地獄へ向かっていた私たちを、 御
た私たちの人生の、目的中の目的
キリストを信じるように選ばれ
せん。
美する者の価値は全く計り知れま
ように病気で貧しくとも、神を賛
になるのに対し、たといラザロの
ても与えられないほどの悲惨な者
ジョージ ミ
・ ューラーもハドソ
ン・テーラーも、その他の多くの
れています。
のために生きる決心をしたと言わ
生涯をキリストに捧げて福音伝道
節を読んだのです。その時彼は全
しの為に何をしますか。
﹂という一
のためにしました。あなたはわた
が書いた﹁わたしはこれをあなた
神から遠く離れ、望みなく永遠の
神は何のために人間を創造され
は、神を礼拝することです。キリ
スト教会の歴史の中で、多くの傑
たのでしょうか。それは神の誉れ
(4)
信仰の偉人たちは全て、この神の
御子イエス キ
・ リストの十字架の
御業のゆえに、神に全てを捧げて
神に仕える決心をしたのです。 す
なわち彼らは真実な礼拝者であっ
たのです。
私たちに与えられている賜物は
ひとりひとり異なります。召しも
異なります。ですから働きも異な
ります。しかし全ての者は礼拝者
になるように召されているのです。
キリストが私たちを愛し、御自身
を私たちのために捨ててくださっ
たのは、私たちを神の礼拝者にす
るためであったのです。すなわち
私たちクリスチャンは神を礼拝す
るために生かされているのです。
さて神を礼拝するとは日曜日だ
けのことではない、毎日の生活の
ことであるから特に日曜日に教会
の日でした。
まっていました。それも週の初め
は五旬節の日にみな一つ所に集
使徒の働きを見ますと弟子たち
るように語られました。
入れ、わきの槍跡に手を差し入れ
に御自分の手の釘の跡に指を差し
は再び弟子たちに現われ、トマス
くださいました。その八日後に、主
に現われ、御自身を彼らに示して
ハネ二〇 一:︶その同じ日の夕方主
は弟子たちが集まっているところ
日、すなわち日曜日の朝です。
︵ヨ
主が復活されたのは週の初めの
書であり、主御自身です。
誤っているのかを判定するのは聖
しょうか。この考えが正しいのか
があります。その考えは正しいで
きるという意見を持っている人々
の礼拝に出席しなくても礼拝はで
時にみことばの学びによって励
い、主を礼拝するために集まり、同
に、主イエスの勝利ある復活を祝
ですから私たちも週の初めの日
の週を始めたのです。
に感謝をささげ、礼拝をもってそ
めの日に主の復活を祝い、喜び、神
初代のクリスチャンたちは週の初
初めの日に復活されたからです。
れていたのです。それは主が週の
たとき以来礼拝の日として定めら
わち今の日曜日は、教会が始まっ
りました。
初めの日にパンを裂くために集ま
使徒パウロ一行はトロアスで週の
使徒第二〇章七節によりますと
たからです。
の日に礼拝のためにみなで集まっ
に命じました。明らかに週の初め
週の初めの日に献金を集めるよう
このように週の初めの日、 すな
使徒パウロはコリントの信者に
(5)
May
Maranatha!
ましと勧めを受け、 そのみこと
ばの力をもってその週を始めよ
うではないですか。
私たちが天に行ったとき先ず
始めることは礼拝です。 御使い
たちも神を礼拝しています。 千
年王国が終わり、 新しい天と地
が創造され、 私たちは新しいエ
ルサレムに移されます。その時、
私たちは神を礼拝し、 神の御顔
を仰ぎ見るのです。 私たちは永
遠に神を礼拝し続けます。 です
から私たちはこの地上にいると
きから神を礼拝するのです。
どうか私たちの全てが、 真心
から﹁御座にすわる方と、小羊と
に、賛美と誉れと栄光と力が永
遠にあるように。﹂と叫びつつ、
常に神を礼拝し続ける者であり
ますように。
下に献身的な子供たちによって構
立った父親に、霊的な母親、その
す。︵その逆は非常に大きなマイナ
クリスチャン両親の子どもへ
の責任
ましを受けないと単独では霊的
な夫婦との良き交わりによって励
事実です。また夫婦も、他の霊的
敬する信仰者にはなり難いことは
たとき、神を恐れ敬い、両親を尊
中で育てられないと、青年に達し
親の神を恐れ敬う信仰の雰囲気の
ません。子供は小さいうちから、両
は一朝一夕でできるものではあり
このようなクリスチャンホーム
会に見ることができます。
きな働きをしているのを各地の教
きを行ない、福音伝道のために大
全な発展のために非常に大きな働
実際にこのような家族が教会の健
大きな力を与えることでしょうか。
成された家族は、教会にどんなに
ス要因です。
︶しっかりした信仰に
山岸登師
人を男女に造り、結婚というこ
とを定められたのは神です。神は
家族というものを私たちに与えて
下さったのです。神は御自身を﹁天
上と地上で家族と呼ばれるすべて
のものの名の元である父﹂︵エペソ
三:一五︶であると語っておられ
ます。ですから神を父とする天上
の大家族が、私たちの地上での小
家族のモデルであるのです。すな
わち父親は家族にとって神の代理
であるのです。
さて教会の中に信仰に立ったク
リスチャンホームがあることは教
会にとって非常に強力なる助けで
(6)
です。
で支えられることが必要であるの
ホームにとっても霊的な教会の中
るのです。それゆえクリスチャン
な家庭を築くことが大変困難であ
子どもの前で、夫と口論しないこ 者は、御霊から永遠のいのちを刈
﹂︵ガラテヤ六 七:、
と。すなわち夫婦の中がよいこと。 り取るのです。
服従していること。そして決して
と。二、母親が夫を尊敬し、夫に
うか。一、父親が献身的であるこ
では何がこの成功の原因でしょ
びを刈り取り、御霊のために蒔く
の肉のために蒔く者は、肉から滅
取りもすることになります。 自分
せん。人は種を蒔けば、その刈り
を迎えている現在、彼らがますま
ちが青年期︵一六、一七、一八才︶ 家庭を持たしていただくと心を定
常な戦いであるのです。男の子た
信仰に立った家族を築くことは非
とです。種々の困難の中にあって
仰の歩みを続けることは困難なこ
常に乱れたロシアの社会の中で信
は末の子の一人です。道徳的に非
う。彼の子供は男が六人、女の子
師の家庭がその実例の一つでしょ
う。イルクーツクのバレンチン牧
ンホームの実例を挙げてみましょ
め、主に祈ることです。是非次の
たちも主の恵みによって成功した
夫婦にとって大切なことは、自分
ると思います。今子育て中の若い
夫婦にとっては大きな励ましであ
もかなりあるということは、若い
すが、このように成功している例
失敗の実例はかなり多くありま
こと、などです。
いるが、かなり厳しく躾けている
三、両親が子どもを非常に愛して
せん。﹁神を恐れることが知識のは
家庭の基礎を築かなければなりま
ばの学び、信徒の交わり、などで
す。夫婦の間の愛、祈り、みこと
前から子育ての準備が必要なので
うに若い夫婦は、子供が産まれる
をやって育てます。それと同じよ
には水をやり、雑草を抜き、肥料
たとき土を耕し、種を蒔きます。夏
冬の間から準備します。春になっ
農夫は秋の収穫を得るために、
八︶
(7)
このような成功したクリスチャ
す霊的に成長しつつあることを見
じまりである。
﹂ということを常に
聖句を覚えてください。
﹁思い違いをしてはいけません。 覚えているべきです。
両親が子どもに教えなければな
賛美せざるを得ません。
神は侮られるような方ではありま
May
ることができるとき、心から主を
Maranatha!
らないことの第一は、神を恐れ敬
うべきことです。神を恐れ敬わな
刻みなさい。これをあなたの子ど での礼拝を行なってください。そ
も た ち に よ く 教 え 込 み な さ い 。﹂ のためには父親が御霊によって歩
むことを学ばなければなりませ
す。両親が子どもたちと共に神を
りません。それは家庭での礼拝で
れ敬っている姿を見せなければな
ですから子どもに、両親が神を恐
のこのことばを心とたましいに刻
いように。⋮⋮⋮あなたがたは、私
神々に仕え、それを拝むことのな
心が迷い、横道にそれて、ほかの
ださることを信じ続けることで
主を第一にし、神が必ず報いてく
す。夫婦が心を合わせて主を愛し、
決して主人と口論しないことで
主人を尊敬し、子どもたちの前で
若いお母さん方にも勧めます。
ん。
礼拝し、祈る姿ほど美しいものは
みつけ、それをしるしとして手に
い両親が子どもに神を恐れ敬うべ ︵申命記六 六、七︶
:
きことを教えることはできません。 ﹁気をつけなさい。あなたがたの
ありません。
の戒めを守るように教えることが
昔のイスラエルでは親が子に神
ではありません。
ない家庭は、クリスチャンホーム
ことであるからです。神を礼拝し
それは人間の本分は神を礼拝する
ないように、今から子どもたちの
どもたちが大きくなってから嘆か
命記一一 一:六∼一九︶
若いお父さん方に勧めます。子
きも、それを唱えるように。
﹂︵申
くときも、寝るときも、起きると
家にすわっているときも、道を歩
章︶
イサクの進歩 ︵創世記第二六
す。
結びつけ、記章として額の上に置
義務でした。
ために祈り、子どもたちを﹁主の
家庭での、礼拝は親としての義 きなさい。それをあなたがたの子
務と思って差し支えありません。 どもたちに教えなさい。あなたが
﹁私がきょう、あなたに命じるこ
教育と訓戒によって育て﹂
、家庭
分かります。現在の私たちが経験
同様進歩の過程をたどったことが
イサクの信仰も私たちの信仰と
山岸登師
れらのことばを、あなたの心に
(8)
かし神は彼に次のように仰せにな
いだろうと思ったのでしょう。 し
トに行ったのだから自分もまあ良
父親もかつてききんの時、エジプ
も仕方がないことだろう、自分の
合には一時的にエジプトに行くの
べきであるのだが、このような場
彼は、自分がカナンの地に留まる
ことばを思い出してください。
ような時にこそイサクへの主のみ
る人もあるでしょう。しかしその
それに就くのも仕方がないと考え
ら、一時凌ぎにでも礼拝の妨げに
かりません。このような状況だか
不況の時代には容易に仕事が見つ
している兄弟方もあります。この
争いで彼は直ぐに他の地へ立ち退
井戸を見つけてもペリシテ人との
を求めたのです。しかしせっかく
必需品です。ですから彼は先ず水
が分かります。水は生きるための
なるような仕事でも見つかれば、 求めてあちらこちらと歩いたこと
﹂二(、三 )
クもききんを経験させられました。 を果たすのだ。
彼はその時、ききんを避けるため 会社が倒産した、あるいはリス
にエジプトに行こうとしたのです。 トラに合った、などの理由で失業
している経済的不況と同様、 イサ
﹁エジプトへは下るな。⋮⋮わた
かなければならなくなりました。
と、その地を出たイサクは井戸を
第一七節から第二二節を読む
ければならなくなりました。
ました。それで彼はその地を出な
も彼はペリシテ人のねたみを買い
に種を蒔き、その年に百倍の収穫
を祝福しよう。⋮⋮あなたの父ア
ペリシテ人から遠く離れたレホボ
さったのである。
﹂︵一二︶けれど
あなたに示す地に住みなさい。 あ
なたの父アブラハムに誓った誓い
りました。
しはあなたとともにいて、あなた
なたはこの地に、滞在しなさい。わ
彼はそこに永くとどまりませんで
きすぎました。﹁イサクはその地
ました。しかし少し異邦人に近づ
﹁彼はそこからベエル・シェバ
した。
ない井戸を見つけました。しかし
テでやっと彼はペリシテ人と争わ
たしはあなたとともにいて、 あな ブラハムに誓った誓いを果たすの
﹂
たを祝福しよう。それはわたしが、 だ。
イサクはその地に踏みとどまり
あなたの子孫に与えるからだ。 こ
これらの国々をすべて、あなたと
うしてわたしは、あ
(9)
を見た。主が彼を祝福してくだ
﹁エジプトへは下るな。わたしが
May
Maranatha!
ゆえに彼女に井戸を与えて下さっ
ほどです。その時神はあわれみの
で自分の子が渇きで死ぬと思った
いなかったのです。ハガルはそこ
です。ですから人がそこに住んで
た、井戸などありそうにない荒野
そこはかつてハガルがさまよっ
に上った。
﹂
︵二三︶
それまで彼は生活に必要な水を
拝するために来たのです。
た目的が分かります。彼は神を礼
このみことばから彼がそこに来
五︶
らは、そこに井戸を掘った。
﹂︵二
こに天幕を張り、イサクのしもべ
主の御名によって祈った。彼はそ
たしがあなたとともにいる。
﹂︵二
の神である。恐れてはならない。わ
﹁わたしはあなたの父アブラハム
神は彼に語りかけられました。
せになりました。そのみことばは
の前を歩み、全き者であれ。
﹂と仰
全能の神である。あなたはわたし
た。神はアブラハムに﹁わたしは
と彼のしもべたちは報告しまし
に一層、私たちは神を礼拝するこ
とを第一にしなければならないの
です。神はその信仰に必ず報いて
くださいます。
山岸登師
教会とは? そ(の一 )
正しく学ばなければなりません。
まるべきであるのかを、聖書から
のか、また私たちはどのように集
は言えません。教会とは何である
由があるでしょうが全て正しいと
答には、それぞれのもっともな理
たのです。神はその荒野に人の目 先ず求め、転々と土地をさまよい
に隠れた水脈を備えておられたの ました。しかしこの時は、先ず祭
これは非常に大切な問題です。
です。ですからアブラハムもその 壇を築きました。そして祈りまし
クリスチャンだから集まっている
後そこに住んでいました。イサク た。次に天幕を張りました。最後
のだ。集まることがクリスチャン
に井戸を掘ったのです。
はそれを思い出しました。
の習慣だから。便利だから。みん
彼がベエル・シェバに来たとき、 ﹁私どもは水を見つけました。﹂
なが集まっているから。これらの
四︶
今日の私たちにも極めて有効で
す。このような時代であるがゆえ
﹁イサクはそこに祭壇を築き、
(10)
エルの民と教会とは身分も、 召し
に隠しておられた理由は、イスラ
神が教会ということを旧約の民
と語っています。
初めて明らかにされた真理である
隠されていたが、パウロを通して
とは神の奥義であって、神の内に
May
ることばです。使徒パウロは教会
れは新約聖書の中に初めて出てく
うことばは一つもありません。 そ
ます。しかしキリストの教会とい
民についてのみことばが満ちてい
旧約聖書の中にはイスラエルの
ません。
ものの本質から学ばなければなり
それで私たちは、先ず教会という
らは聖霊に満たされ、外国のこと 邦人の中からも私たちを選び出し
ばで福音を宣べ伝え始めました。 て一人の人として、キリストの花
嫁としてくださったのです。
者の上に聖霊が下ってこられ、彼
まっていた約一二〇名ばかりの信
の五旬節の日に、エルサレムに集
ん。キリストの復活の後の、最初
ト信者の集まりを意味していませ
この意味での教会とは、キリス
ある点から学ぶ必要があります。
き、先ず教会がキリストの花嫁で
ですから教会について学ぶと
召されているのです。
トと共に栄光を分かち合うように
ス・キリストの花嫁としてキリス
しかし教会は神の御子、主イエ
を負っているのです。
と共にこの地上を支配すべき使命
民の中からある者を選び出し、 異
なる恵みのゆえに、イスラエルの
てられていたのですが、神は偉大
本来、偶像礼拝のゆえに神から捨
出してくださいました。異邦人は
に私たちをも異邦人の中から選び
ペソ五 二:五︶
神はこの花嫁を造り上げるため
めにご自身をささげられた。
﹂︵エ
﹁キリストが教会を愛し、教会のた
のちを捨ててくださったのです。
れ、人となられて十字架の上でい
に、天からこの地上に下ってこら
を分かち合うべき花嫁を得るため
神の御子は、御自分と永遠に愛
トが王となられたとき、キリスト
に実現される千年王国で、キリス
はやがてキリストの地上再臨の後
るからなのです。イスラエルの民
るのです。
を、神は一人の花嫁と見てくださ
の日までに救われた全ての信者
この時から、キリストの空中再臨
き、キリストは地上にいる信者を
ばれていた最後の者が救われたと
この花嫁を造り上げるために選
も、立場も、そして使命もが異な
Maranatha!
(11)
いたことでしょうか。
婿もこの日をどれ程待ちこがれて
て、それは待ちに待った日です。花
じです。花婿を愛する花嫁にとっ
ために花嫁を迎えに来ることと同
これは婚約中の花婿が、結婚の
してこられたのです。
よ。わたしはすぐに来る。
﹂と約束
び続けてきました。キリストも﹁見
﹁主よ。早く来てください。
﹂と叫
ある教会はキリストに向かって
びの日です。その日まで、花嫁で
この日は教会にとって最高の喜
ます。
つまでも主と共にいることになり
の花嫁と見なされます。そしてい
徒たちが一つの群れにされ、 一人
ちと、地上から引き上げられた聖
の時までにすでに天にいる聖徒た
ら下って来られます。その時、そ
全て天に引き上げるために、 天か
ます。その後に、天でキリストと
に陥没して消滅させられてしまい
はその繁栄のさなかに突然海の中
身によって滅ぼされ、ローマの町
ます。にせ教会はにせキリスト自
まだかつてなかったほど大繁栄し
ローマは貿易の中心地として、い
す。そのにせ教会の本拠地である
したにせ教会は非常に繁栄しま
にせキリストになるべき男と結託
の後、ローマ帝国が復活し、後に
に行われるはずです。教会の携挙
するさばきは患難時代が始まる前
章に記されている大バビロンに対
的順序を語っていません。第一八
いるのであって事件が起きる時間
の後﹂とは、啓示の順序を語って
ます。黙示録第一九章の冒頭の﹁こ
にせ教会である大淫婦がさばかれ
臨の後に行なわれます。その前に
キリストと教会の婚姻は空中再
よって生かされました。
贖われ、キリストのいのちに
ました。教会はその血によって
き腹に槍が刺され、 血が流され
ちキリストは死なれました。 わ
で深く眠らされました。 すなわ
ました。キリストも十字架の上
を取られ、 それでエバを造られ
眠らされ、 彼のあばら骨の一つ
仰せられた神は、 アダムを深く
ふさわしい助け手を造ろう。
﹂と
ない。わたしは彼のために、彼に
﹁人が、ひとりでいるのは良く
い型です。
はキリストと教会とのすばらし
創世記第二章のアダムとエバ
型として明瞭に示されています。
としては語られていませんが、
約聖書の中には明らかなことば
キリストと教会との関係は旧
教会の婚姻が行なわれます。
(12)
創世記第二四章のイサクとリベ
カは実に美しいキリストと教会の
型です。第二二章でイサクが全焼
のいけにえとしてささげられまし
た。これは十字架の型です。第二
三章ではアブラハムの妻サラが死
んでいます。これはイスラエルの
民が退けられることの型です。 そ
してその後に、イサクの結婚のこ
とが主題になります。アブラハム
のしもべがイサクの妻となるべき
女性を捜しに遣わされます。 これ
は聖霊がこの世に遣わされること
の型です。そしてリベカが見つけ
出されました。リベカは一度も
会ったことのないイサクのことを
アブラハムのしもべから聞いて、
それを信じ、それを頼りに遠い地
にいるイサクに会いに故郷を離れ
ます。これは今地上を旅している
信者の型です。
会に適用することは誤りです。し
エルの民の型であり、直接的に教
雅歌のソロモンの妻は、イスラ
す。
たモーセの妻なども教会の型で
ジプトで結婚したヨセフの妻、ま
次に兄弟たちに排斥された後エ
リストウ メッヒリ サナトウ エンギ
﹁ホティ ディア ト エルゴン ク
ぬところまで行ったからです。
﹂
の働きのためにいのちを賭け、 死
もって満たそうとして、キリスト
働きの足りない分を私への働きを
﹁なぜならば、彼は、あなた方の
す。
セン パラボレウサーメノス テ・ィ かし神とイスラエルとの愛の交わ
りから、比喩的にキリストと教会
ス﹂
テース プロス メ レイトウロギーア
プシュケ・ィ ヒナ アナプレロー
セ・ィ ト ヘモーン フステーレマ ことです。
ホティ=なぜならば
との関係を汲み取ることは正しい
次回は、キリストのからだであ
ト ヘモーン フステーレマ=あなた
たすために
ヒナ アナプレローセ・ィ=︵彼は︶満
パラボレウサーメノス テ・ィ プシュ
ケ・ィ=いのちを賭けて
エンギセン=︵彼は︶近づいた
メッヒリ サナトウ=死にまでも
ディア ト エルゴン クリストウ=キ
リストの働きのために
る教会について学びます。
ギリシヤ語豆知識
山岸登師
まずピリピ二 三
: 〇を取り上げ
てみましょう。原文から直訳しま
(13)
May
Maranatha!
方の足りない分を
分の命を愛さなかった︵惜しまな
訳すと﹁彼らは死に至るまで自
かった︶
。
﹂です。
テース プロス メ レイトウロギーア
ス=私への働きをもって
第二九節ではパウロはこのよう
なエパフロデトを尊重するように
﹁ホス ガル イアン セレ・ィ︵叙
最後にマルコ八 三:五です。
想法︶
テーン プシュケーン アウト
と命じています。現在でもキリス
トのために生涯を賭けている信者
ウ ソ ー サ イ 、 ア ポ レ ー セ イ ア ウ
アポレーセイ=失う︵無にする︶
︵直説
法未来︶
テーン プシュケーン アウトウ=自
分のいのちを
ヘネケン エモウ=わたしのために
カイ トウ エウアンゲィオウ=そし
て、福音の︵ために︶
スーセイ=救う、 保持する ︵直説法未
来︶
アウテーン=それを
これを訳すと次のようになりま
す。
きに死ぬ覚悟でいる者は。常に自
て、︵殉教しなければならないと
に自分のいのちを失う者はすべ
し、私のために、また福音のため
す。
︵無にしてしまいます。
︶しか
持っている者は︶それを失いま
ごとに、それを大事にする習慣を
も、︵自分のいのちが危険になる
することを求め続ける者は誰で
﹁それで、自分のいのちを保持
ホス ガル イアン=それで、 誰でも
︵もし︶
トウ エウアンゲィオウ、
スーセイ
﹁カイ オウク アガペーサン テー
セレ・ィ=求める、欲する︵叙想法現在︶
アウテーン。
﹂
ン アウトウ ヘネケン エモウ カイ
テーン。 ホス デ アン アポレーセ
イ︵直説法未来︶
テーン プシュケー
は貴重な存在です。
黙示録第一二章一一節には患難
時代の迫害の中でサタンに打ち勝
つ聖徒たちのことが預言されてい
ン プシュケーン アウトーン アッヒ
テーン プシュケーン アウトウ=自分
ます。
リ サナトウ﹂
のいのちを ソーサイ=救うことを、保持することを
=また誰でもすべて
︵無にする︶でしょう
ホス デ アン︵ホス イアンと同じ︶
アポレーセイ アウテーン=それを失う
︵アオリスト不定詞︶
カイ=そして
オウク アガペーサン=︵彼は︶愛さな
かった
テーン プシュケーン アウトーン=自
分のいのちを
アッヒリ サナトウ=死に至るまで
(14)
分のいのちを惜しまない者は。
︶か
えってそれを保つのです。
︵その価
値を保つのです。
︶
﹂
ホス イアンの後の動詞が叙想
法であるときは、﹁もし︰︰の場合
は﹂と不確実さを表現しています
が、ホス イアンの後の動詞が直
説法である場合は、﹁︰︰する人は
全て﹂となり、強い確実性を表現
します。
そして﹁セレ・ィ﹂が叙想法現
在であることはそれが習慣的であ
ることを表現し、
﹁セレ・ィ﹂がア
オリスト不定詞であることはそれ
が単発的であることを表現してい
ます。
アポレーセイが直説法未来であ
ることは、いのちを失うことが未
来のことであり、 現在それに向
かっていることを表現しています。
すなわちその覚悟で生きてい
ることを意味しています。
(15)
May
Maranatha!
・
℡(〇 七 二二 ) 七 三 ‐ 八 六一 五
マラナ タ 値段 一部三〇円
発行所 津久野キリスト恵み教会
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構成・印刷 門上矢
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