バレエの起源 ルネッサンス期のイタリアが起源。16世紀、世俗合唱曲が流行すると、その歌 に踊りを加えたバレットが生まれ、やがてバレッティと呼ばれるようになった。 バレエの誕生 1533年、イタリア、フィレンツェのメディチ家からフランス王室に嫁いだ、 カトリーヌ・ド・メディシズにより、バレッティがフランスにもたらされ、バレ と呼ばれた。 1581年の、 「王妃のバレエ・コミック」は、完全な記録の残っている最初の バレエ作品。 これを皮切りに16世紀末から17世紀初頭の20年間で約800のバレエが 上演されたといわれる。 ロマンティック・バレエ 17~18世紀の女性の舞踏家たちは、普通のヒールのある靴を履いて踊って いた。 ところが、マリ・タラオーニ「1804~1884」という女性は、彼女が18 32年に初演した、スコットランドの妖精物語、 「ラ・シルフィード」で、彼女 はトウ「つま先」で立って踊る技法「ポワン」により、妖精の軽やかさを表現し た。これが元となり、ほかの舞踏家達もこのつま先立つ踊り方をするようになっ た。これ以降、19世紀前半に確立したバレエの様式を、 「ロマンティック・バ レエ」と呼んでおり、このころに標準的となったバレリーナの衣装は裾が長く円 錐側に広がる「チョチョ」という。 そして、この時代の代表作が、この「ラ・シルフィード」と「ジゼル」だろう。 クラシック・バレエ 19世紀後半の帝政ロシア末期、政治的ないきづまり感に反して、宮廷文化は華 麗な繁栄を続けていた。 そのころ、ペテルブルク「レニングラード」のマリインスキー劇場「現キーロフ 劇場」を中心に活躍し、新しいバレエのスタイルを確立したのがマリウス・プテ ィバ「1818~1910」だった。 プティバは、チャイコフスキー原曲で「眠りの森の美女」 「白鳥の湖」などの作 品を成功させ、これらの作品のなかで、現在のバレエの基本的な動き「ダンス・ クラシック」が確立された。この時代のバレエの様式を「クラシック・バレエ」 という。 そして、この時代に確立したバレリーナの衣装は、裾が短く、傘のように広がっ た、 「クラシック・チュチュ」だ。このような衣装が生まれたのは、ロマンティ ック・チュチュではよく見えない、バレリーナの美しい足の動きを見せたいため だ。 プティバはもうひとつチャイコフスキー原作で、 「くるみ割り人形」を書いたが、 残念ながら病気のため舞台を指導することができず、これは、弟子のイワノフが 担当した。この、 「眠りの森の美女」 「白鳥の湖」 「くるみ割り人形〕を一般的に 「3大バレエ〕と呼んでいるが、最後の「くるみ割り人形」は興行的に失敗だっ たようだ。 なお、ロシアでこのマリインスキー劇場と現代に至るまでライバル関係にある のが、モスクワのポリショ劇場だ。 「白鳥の湖」は、実はポリショ劇場で初演さ れている。 しかし散々な成績で、そのためチャイコフスキーはバレエ音楽に自身を失って しまったのである。 しかしその13年後、プティバに依頼され久しぶりに書いた「眠りの森の美女」 が成功したことで勇気づけられ、再度マリインスキー劇場でプティバ演出にて 再演。大成功を収めた。 宮廷から劇場へ 1670年、ルイ14世が舞台から引退すると、バレエは宮廷から劇場に移り、 職業がダンサーのダンスに変化していった。翌1671年、オペラ座が設立。 〔当時のバレエはオペラと一体であった。〕 1681年、 「愛の勝利」で最初の女性ダンサー、ラ・フォンテーヌが劇場に登 場し、18世紀になると女性職業ダンサーが続々とオペラ座からデビューした。 モダン・バレエ マリウス・プティバにより確立されたクラシック・バレエだが、その古典的な世 界に不満を持つ者もいた。そのうちの一人が、クラシック・バレエにない新しい ステップや民族舞踊を取り入れた、革新的な振り付けをした。 そのモダン・ダンスの要素を取り込んだバレエをモダン・バレエという。 20世紀以降 フィギュアスケートの動きはバレエの影響を強く受けており、フィギュアスケ ートの選手はバレエの訓練も受けることが多い。 さらに、新体操やシンクロもバレエの影響を受けており、バレエの訓練をうける ことがある。 また、宝塚音楽学校をはじめとして、舞台俳優などを養成する組織では、バレエ の基礎は必修に近い扱いをうけている。 トップページはこちら http://ballet-nituite.jp
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