宮崎サキ(兄弟の母) (1829~1909) 宮崎ツチ(滔天の妻) (1871~1942) 前 ら を 追 い 出 し て 割 腹 し、 ご 先 祖 父 や、 出 来 る だ け の 努 力 を 払 っ て、 あ 4 2010.11.15 広 報 あ ら お サキは現長洲町近郊の素封家、永屋 目 的 で あ る こ と を 告 げ る と、 サ キ は 上 に 申 し 訳 す る。 出 て い け!」 と、 ま た、 民 蔵・ 彌 蔵・ 滔 天 が、 革 命 「それで安心した。例えそのことで国 家の長女として生まれ、長蔵との間に を成し遂げるために日清戦争の徴兵 賊の母と嘲り罵られても我慢する」 怒りに打ち震えて激しく泣き崩れた を逃れる方法について話しあってい と 言 い 切 っ た と い う。 郷 士 と し て、 八 男 三 女 を も う け た。 武 芸 者 で あ っ た たのを聴きつけ、「百姓の子までお国 宮崎家の人間としての誇りを子ども と い う。 兄 弟 が、 戦 争 に 行 く の で は の た め に と 喜 ん で 征 く の に、 己 の 子 たちに身を持って諭した人物である。 夫・ 長 蔵 の 気 風 を 受 け、 「畳の上で死 で は な い。 こ の 家 の 子 で は な い。 お ことに明け暮れた。滔天に家計の相談 な く、 そ れ ぞ れ の 目 標 を 達 し 人 の た ツ チ は 現 玉 名 市 天 水 町 の 豪 農、 前 をしても「革命のための金は出来るけ す るは 男子 な によ り の恥 辱な り 」と 子 田 案 山 子 の 三 女 と し て 生 ま れ た。 姉 れども、妻子を養ふ金は出来ない」と めに働くことでお国の役に立つのが で 二 女 の ツ ナ は 夏 目 漱 石 の「 草 枕 」 顧みなかったため、ツチは下宿屋や石 どもたちに語って育てたという。 の ヒ ロ イ ン・ 那 美 の モ デ ル で あ る こ 炭販売、石灰販売などを営んだがいず ) 年、 孫 文 が 宮 崎 家 に 滞 在 し た 際 は、 ミ イ と と も に 1 8 9 7( 明 治 れも上手くいかなかった。 とが知られている。 前田家は民権運動のメッカであり、 その家風を受け育ったツチは岸田俊 子( 女 権 拡 張 運 動 家・ 作 家 ) が 前 田 歳で「学問ヲ勧ム」 「刺身や味噌汁や煮肴や、お寿司や鰻 の 題 で 演 説 を し た と い う。 梅 花 女 学 りつたけのご馳走をしました」と回 えるのではないだろうか。 さ ま は、 同 士 の 一 人 で あ っ た と も 言 に 尽 く し 続 け た ツ チ で あ る が、 そ の 志 を 遂 げ よ う と 奔 走 す る 夫・ 滔 天 校(現大阪市の梅花学園)などで学び、 活 に追 われ な がら 革 命資 金を 調 達す る 滔天と恋愛結婚で結ばれた後は、生 う女性でもあった。 て駆けることを日課にしていたとい 顧している。 家を訪れた際、 30 早 朝 の 有 明 海 の 砂 浜 を、 裸 馬 に 乗 っ 11 special close up 宮崎家の女性たち 日本や世界を変えようと奔走した宮崎家の男たち。彼らが革命にまい進することができた裏側に は、力強い女性たちの存在があった。革命成功を陰で支えた彼女たちは、どのように生きたのか。 2011 年 10 月 10 日 辛亥革命 100 周年プレイベント記念 集中特集④ (最終回) 宮崎ミイ(民蔵の妻) き こ (1873~1972) あ 宮崎燁子 や な ぎ わ ら び ゃ く れ ん (柳原白蓮/滔天の長男・龍介の妻) (1885~1967) )年、 大逆事件の容疑が民蔵に掛かったと した。また、1910(明治 立 花 家 の 次 女 と し て 生 ま れ た。 立 花 き、 民 蔵 は 京 城( 現 ソ ウ ル ) に い て ミ イ は、 三 池 村( 現 大 牟 田 市 ) に 家 は 柳 川 藩 家 老 で、 ミ イ の 兄・ 小 一 不 在 に し て い た た め、 ミ イ が 代 わ り 革命と生活に必要な資金を得るた 郎 は、 民 蔵 が 学 ん だ 銀 水 義 塾 の 塾 長 天 が 先 に 結 婚 し、 急 か さ れ て い た 民 め、醤油屋や牛乳屋を開業するも失敗。 に取り調べを受けている。 蔵 は「 あ て が あ る 」 と 自 ら 立 花 家 に 革命資金のために借金を重ね、田畑が 囲まれることも多々あったという。当 出 向 き、 ミ イ と の 結 婚 を 決 め て 来 た 宮 崎 家 に 孫 文 が 滞 在 し た 際、 民 蔵 主・民蔵が留守がちにする中、ミイが 何重にも抵当に入り、ミイが債権者に は 欧 米 見 学 旅 行 中 で 留 守 で あ り、 滔 宮崎家を支えたといえる。 し ま ん げ ど う に 発 表 し た 戯 曲「 指 鬘 外 道 」 を 通 じ 日の朝 て 知 り 合 っ た の が 宮 崎 龍 介、 滔 天 の 月 伯 爵・ 柳 原 前 光 の 妾 腹 の 子 と し て 生 )年 歳で北小路資武と結婚させられ 公開された。燁子は龍介とともに駆け 歳のとき 1918(大正7)年に雑誌「解放」 に な っ て い た。 伝 衛 門 と の 結 婚 後 の に 師 事 し、 歌 人 と し て 知 ら れ る よ う の ち、 歌 人 で 国 文 学 者 の 佐 々 木 信 綱 れ た。 燁 子 は 北 小 路 家 か ら 離 婚 し た う が 同 時 に「 筑 紫 の 女 王 」 と も 呼 ば 送ったという。 介護のもと穏やかで幸福な生活を た。 晩 年 は 視 力 を 失 っ た が、 龍 介 の 結核に倒れた時は燁子が家計を支え 戯 曲、 小 説、 自 叙 伝 が あ り、 龍 介 が 燁子の白蓮としての著書には歌集、 時、命がけであった。その後離婚が成 歳 で 離 婚。 落ちしたのである。姦通罪があった当 日 新聞 に燁 子 から 伝 衛門 への 絶 縁状 が 1921(大正 長男である。 同士にあたる。 に あ た り、 大 正 天 皇 と 燁 子 は い と こ ま れ た。 前 光 の 妹 は 大 正 天 皇 の 生 母 さ き み つ 「筑紫の女王」と讃えられた燁子は、 天 の 妻・ ツ チ と と も に 孫 文 を も て な エピソードが残っている。 で あ り、 民 蔵 と 親 し か っ た。 弟 の 滔 43 23 歳年 きたこうじすけたけ 10 上 の 炭 鉱 王・ 伊 藤 伝 衛 門 と 再 婚。 金 るも 10 立し、燁子は龍介と結婚した。 25 で買われるような結婚であったとい 27 このページの写真 :「夢翔ける 宮崎兄弟の世界へ」 (宮崎兄弟資料館 発行)から抜粋 広 報 あ ら お 2011.11.15 5 16 21
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